縮刷版2016年5月上旬号


【5月10日】 何年ぶり何度目になるんだろうか「時をかける少女」の映像化。最近だと仲里依紗さんが主演した芳山和子の子供の世代を描いた谷口正晃監督による実写版「時をかける少女」があって、変えられない時間という残酷な運命にどう臨みどう受け入れるのかといったピリピリとした雰囲気を漂わせていたっけ。その前だと細田守監督の今につながる出世作となった劇場アニメーション映画「時をかける少女」になるけれど、それも芳山和子っぽい人が魔女おばさんとなって脇に退き、新に登場した少女が時間を繰り返しながらも変えられない運命にどう挑むかっていったテーマで見る人を引きつけた。

 とはいえ、いずれも筒井康隆さんによる原作小説「時を書ける少女」を原案にしたようなオリジナル作品。そのものずばりの映像化となると1997年に角川春樹監督が撮ったモノクロ映画「時をかける少女」になるのかそれとも、モーニング娘。の安倍なつみさんが主演した単発ドラマ「時をかける少女」になるのか。どっちも見ていないから分からないけど今度、新しく日本テレビでドラマとして放送される黒島結菜さんが出演する「時をかける少女」は展開的には原作に近い一方で、視点が芳山和子というか名前が変えられ芳山未羽という少女の側だけでなく、未来から来る深町一夫ならぬ深町翔平ことケン・ソゴルの側からも描かれることになるらしい。

 2時間ほどで終わる映画とは違って長丁場の連続ドラマだけに、隙間をいっぱい作って埋めていかなくてはいけないとなるならこういう改変はあり。ここで主役を深町くんにして、演じるジャニーズ事務所のイケメンをフィーチャーしたドラマにすればファンも食いつくかっていうと、今度は男性のファンが背を向けるだろうし細田監督の映画で作品を知っている若い女性も、やっぱり女の子が頑張る物語って認識しているからそこを曲げては反感を買うといった判断が作り手にあったのか。いずれにしてもどういうアレンジが加えられるかに注目。「安堂ロイド」みたいな未来から来た刺客との戦いなんてアクションはあるのかな。それはないか。それにしても「時をかける少女」、筒井康隆さんにとってこうまで稼いでくれる孝行娘だったとは。傑作は書いておくものだなあ。

 「デッドスクリーム」。そう囁くように発しただけでセーラームーンもセーラーちびムーンもあっさりと退けた敵を粉砕してしまったセーラープルートが凄かった「美少女戦士セーラームーンCrystal」。冥王せつなの登場でいずれはプルートにもなるだろうとは思っていたけどあんな感じに自身に被害が及んで瀕死の中を目覚めるとは、ちょっと想像していなかった。原作でもそうだったっけ。前のシリーズではもうちょっと違う登場の仕方をしていたような。いずれにしてもスタイリッシュでクールなセーラープルートが加わって、外惑星の戦士たちがそろい踏み。セーラーウラヌスとセーラーネプチューンがセーラープルートとも面識があるかは分からないけれど、3人そろって何かを成す展開は見えていて、そこに今は弱々しいだけのセーラー戦士たちがどう絡むのか、ってあたりがこれからの展開になるのかな。

 いやいやまだセーラーサターンが登場していない。土萌ほたる。その儚げで寂しげな表情の奥からときおりのぞく貪欲な悪の影。ちびうさの持つ銀水晶を狙って蠢くその欲望が表に出て暴れ出した時、いったいどれだけの強さを誇ってセーラー戦士たちを追い詰めるのか。3戦士たちを手玉にとるのか。そんなあたりも見ていきたいけどそれにしても天王はるか、学校だと男子の制服で歩いているのに町中ではミニスカートで胸元もあらわなドレス姿で散歩中。そこを偶然うさぎに見られて追いかけっこ。制服ではぺったんこの胸がしっかり盛り上がって谷間もあるのを見ると、本当はどっちなんだと言うのも無理になってくる。それとも下についていながら上は膨らんでいるのか。そんな妄想も抱きつつちょっと出番が減ったはるかにみちるの爆発にも期待。面白いなあ第3期。

 実は「ストロベリーナイト」をはじめとした姫川玲子のシリーズも、SATの女性隊員たちが活躍をして東弘樹警部も登場する<ジウ>サーガもよくは読んでいなくって、テレビドラマも映画も見てないから誰が演じてどういう雰囲気なのかも知らない。そんなまっさらな状態から読んだ誉田哲也さんによる<ジウ>サーガと姫川礼子シリーズのコラボレーション「硝子の太陽」のNとR。まずはN(ノワール)と名付けられた「硝子の太陽N」(中央公論社)が届いたんで読み始めて、新宿署に勤務する東警部を軸にして沖縄の反基地活動に絡んでパトロン的な振る舞いをしている男が逮捕された事件を発端にしつつ、フリーライターが殺害され、「歌舞伎町セブン」という歌舞伎町の闇に暗躍して彼らなりの正義を成す存在が見えて、そして行き過ぎた思いが招く狂気のような事態が浮かび上がって東警部を引きずり回す。

 軸にあったのは、米軍基地が今なお多く存在し、日米安保条約に頼っている日本を変えてやろうという思いだけれど、そうした日本の本当の意味での独立といった発想は、どちらかといえば保守的な考えで、占領下に作られた日本国憲法を変えて日本を本当に独立した国にしようっていった右翼的とも言える思想から出た行動なのかと思える。もっとも、事件の軸にあるのはサヨクに分類される反米軍基地闘争とも関わる事態。そこからネットなんかでいろいろ叫んでいる保守的と言われる層が、片方でGHQによる統制下で骨抜きにされた日本を取り戻すんだと言いながら、米軍基地は日本にあって当然といった矛盾した考え方をどうして平気で振りかざせるんだろうといった不思議が滲んでくる。

 この「N」と同様に姫川玲子の方をメインで描いた「硝子の太陽R」(光文社)の方でも、共にGHQによる洗脳プログラムとか言われるものを掲げて、戦後に骨抜きにされた日本を憤っているような思想を混ぜてみせる誉田哲也さん。「武士道ジェネレーション」では登場人物をネットで真実めいた人間にして韓国への反発を語らせ、もしかしたらそっち方面へと傾注しかかっているのかと思わされたけれど、一方では安保条約なり地位協定といったもので基地を守ろうとする雰囲気には憤りを感じているのかもしれない。そして、反基地運動を左翼的と貶す右翼層なり保守層にも疑問を抱き始めているのかも。どうなんだろう。まあ純粋にエンターテインメントとして楽しみたい警察小説に、そうした政治思想社会主義主張が混じってくるのはちょっぴり厄介ではあるのだけれど。

 さて姫川玲子の活躍が見られる「硝子の太陽R」は、祖師谷で起こった一家惨殺事件の捜査に乗り出していた姫川玲子が、東警部の知り合いだったフリーライターが殺害されたという「N」の方でメーンに描かれる事件にかり出されながらも、一家惨殺の方に気持ちを遺して、犯人に迫っていくといった展開。手がかりを求めて東警部を訪ねていくシーンは、「N」と「R」の両方で描かれ双方が相手をどう見ていたかをそれぞれの視点で描いてあって、自分を客体として見る必要性を感じられるという意味で勉強になりそう。あるいはガンテツと呼ばれる、姫川玲子シリーズで蛇蝎のように嫌われている刑事が東警部を訪れた場面では、互いに腹を探り合いながら明かされず、表面を取り繕って会話する裏がそれぞれに描かれていて、駆け引きってものの大変さを教えられる。

 「硝子の太陽R」では姫川玲子のチームにとってまたしても大きな進展があった様子で、コラボレーションというお祭り作品という意味合いもありつつ、シリーズの今後を見ていく上で外せない作品と言えそう。あとは見立てがピタリとはまったはずのものが、意外な展開が待っていて思い込みといったものの危険さを教えられるという意味でも。でもあれだけの証拠が目の前にあって、条件がそろっていれば誰だってそう思うよなあ。事件はだから一筋縄ではいかないといったところで。こうして現在地をつかんだ<ジウ>シリーズと姫川玲子シリーズを、遡って理解してくとしたらどれから読むべきだろう。「歌舞伎町セブン」はやっぱり必須か。あとは「ストロベリーナイト」かな。映画も見てみるか、竹内結子さんの姫川玲子ぶりがどんな感じか知りたいし。可愛いのか怖いのか。


【5月9日】 何でいったい名前を意識したのかというと、思い当たるのはNHKの「新日本紀行」で番組を見ていて流れるテーマ曲の印象深さとも相まって、クレジットにあるその名前を心に刻んだんじゃないかといったところだけれど、今となっては本当のところは分からない。あるいは「惑星」とか「月の光」といったクラシック曲をシンセサイザーで演奏していたのを何か雑誌で見て名前を知ったのかもしれないけれど、そうやって刻まれた名前が再放送されるテレビアニメーション「ジャングル大帝」「リボンの騎士」なんかにもクレジットされているのを見て、何て広い活動をしている人なんだといった思いに駆られつつ、そうした凄い人がアニメーションの音楽をやってくれていることを誇らしく思ったりもした。

 冨田勲さん。シンセサイザーによる作曲の第一人者。そして世界的な作曲家。愛知県の岡崎市出身というのも後付けで知ったようなものだけれど、そうした同郷意識とは関係なしに日本が世界に誇れるアーティストの一人だった。なおかつ決して過去の人ではなく、今も現役としてあの初音ミクをフィーチャーした音楽を作っては「イーハトーヴ交響曲」として世に問うてくれていた。Bunkamuraオーチャードでのライブに行けそうな機会もあったけれど、台風で電車が動かず迎えず断念したのが今は残念でならない。ただ11月に再演が決まっていたそうで、それに向けて打ち合わせもしていた中で倒れられたというから生涯、現役であり前を向き続けた人だったんだろう。享年84歳は若くはないけれど、でもまだまだ活動して欲しい方だった。キース・エマーソンも去ってひとつ、時代が過ぎていく。合掌。

 いよいよ真田信繁以外にも「真田丸」への登場が決まった大坂城5人衆から、強さでは信繁も上回って実は筆頭と噂の毛利勝永役に岡本健一さんが決定。かつてアイドルにしてロックバンドでもあった男闘呼組に所属して人気を博したイケメンだけれど、グループが実質的に解散してからもジャニーズ事務所に残って俳優として活動してきた唯一の人。その武将的な面構えはまこと、毛利勝永にふさわしいんだけれど気になるのは「真田丸」がこれまでのキャスティングで、とことんジャニーズ事務所の所属タレントを除外していたこと。

 主要な役はもちろん若手のちょい役でも名前が見えず、かつて「新撰組!」で香取慎吾さんを主役に起用し、映画「ギャラクシー街道」た三谷幸喜さんにしては、どこか不思議な意図がそこかしこに感じられていた。あるいは関係にひびが入ったとか、ネット媒体を使ってのPRに支障が出やすいことをNHK側が嫌ったとか浮かぶ想像は諸々だったけれども、こうやって1人とはいえ出演が決まったことで関係においては真っ当だと理解。PRについてもNHKのサイトに毛利勝永に扮した岡本健一さんが出ているところを見ると、限定的ながらもネットを通じての露出をジャニーズ事務所も認めているのかもしれない。

 あるいは高い視聴率を背景に、そこでの露出を認めざなくては1枚かめないといった判断が下されるほど、「真田丸」という作品の人気にが空前のものになっているのか。いずれにしても配役としてはベストなんであとは歴史の上で真田信繁を上回る戦闘力を誇った毛利勝永が、作品でもそのとおりの勇猛さを見せ信繁のお株を奪うくらいの存在感を、世間に見せつけてやって欲しいもの。すすれば仁木英之さんの毛利勝永をテーマにした「大坂将星伝」もグッと売れては、いつか大河ドラマとなってくれるか、映画になってくれるかもしれないから。

 エンドレスエイト的な繰り返しではないからいったい、次にどうやって乗り越えていくのかといった興味を誘われる「Re:ゼロから始める異世界生活」のアニメーションはロズワール家までやって来たものの、そこで暮らし始めては殺され死に戻る展開が2度。そうやって目覚めたスバルは前と同じように執事となって働くことを止め、食客として世話になってからロズワール家の屋敷を出て街に行くと見せかけて、裏山から観察しようとしたらそこにガンダムハンマーがズドン。

 いやガンダムハンマーではなく、モーニングスターみたいに鉄球にトゲトゲが付いたハンマーが鎖を引きずりながら飛んできて、スバルの身を切り裂こうとするけれど、準備万端逃げ出しては鎖をつかんで引き寄せたら、そこに意外な顔がいたという展開。それがレムなのかラムなのかすぐに判断できないくらいに番組に耽溺はしてないけれど、どうして双子の1人が、あるいは2人ともがスバルを狙うのか。その裏でエミリアたちはどうなっているのか。興味をそそられるけれども続きは次週。小説を読めば分かる展開だけれど、今はまだ開かずに何度繰り返されるのか、そしてどこに進むのかを見守っていこう。

 劇場版の「亜人 −衝動−」をまずは東京国際映画祭で見て、それからテレビシリーズとして始まった「亜人」を見て、永井圭が亜人と分かって追われるようになって逃亡し、捕まって実験されそして佐藤による襲撃のどさくさで逃げ出した後、改めて佐藤が亜人の仲間を集めて組織し、グラント製薬を襲撃してあまりにも凄まじいやり口を見知っていたので、映画となって公開された第2作「亜似ん−衝突−」はどことなく総集編的なニュアンスが漂ってしまったけれど、大きなスクリーンで見る佐藤とSATとの戦いはまた凄まじく、よくもまああれだけ体が動くものだとその身体能力のプロフェッショナルぶりに感嘆する。

 というか、別に亜人でなくても普通に戦ってSAT相手に相当な立ち回りを演じられるくらいのスキルを持っているんじゃないのか佐藤。その彼に鍛えられれば仲間になった亜人がスナイパーとスポッターになって佐藤を襲撃しているSATの隊員を狙撃できるようになれるってことなのかも。それとも足の悪い奥山真澄が自前で持ってた銃器の知識を教え込んだか。そんな幾人もの亜人が見つからずに過ごせていたことも驚き。それを言うなら下村泉だって亜人と知られず逃亡を重ねていた訳で、案外に世界には大勢の亜人たちが潜伏しているのかもしれない。数千人とか。数万人とか。気づいていないだけなのも含めて。さてどうだろう。

 テレビでも第1期の終わりにかけて下村泉が自分でクロちゃんと名付けたIBMを出してバトルを見せてくれたけれど、この先の劇場第3作「亜人 −衝戟−」ではさらに活躍の場面が広がることになりそうだって、「亜人 −衝突−」のエンディングに予告っぽく流れていて期待も高まる。だって下村泉、可愛いから。胸も大きいし。でも服は引き裂かれないままクロちゃんだけが大活躍。そこだけが寂しい。国防総省の方から男女のペアが乗り込んできたけれど、普通の人間なのかそれとも下村泉みたいに権力側に与する亜人なのか。そんな興味も誘われながら待ちたい9月の「亜人 −衝戟−」公開。技術もどんどんと上がっているし、迫力の映像が見られそう。

 テレビシリーズとしての「亜人」の第2期がスタートするのは、確かその後の10月からってことになっているから、まずはアニメーション版「亜人」のクライマックスが映画館で初お披露目となってから、映画第2作「亜人 −衝突−」の終わりにかけて描かれた、永井圭とお馬鹿な中野攻が戸崎優の懐に飛び込むまでがテレビシリーズで描かれ、そして映画の展開がテレビでもつづられるといった感じになるのかな。それとも違うところまで? いずれにしてもすべてが明らかになるのは映画館での公開が先なんで、続きが知りたければいち早く映画館に行くしかなさそう。失敗続きで案外にポンコツかもしれない戸崎の行く末とか、どこまでも可愛い下村泉のその後とか。気になる気になる。


【5月8日】 得体の知れない生物が現れ、そして冷静だった人間が人が突然に凶暴になって銃を発射したりしたことに関連性を感じるのが、SFなワールドに生きている者の務めな訳だけれど、それは世界の外側にいて「志村後ろ」と言える者の特権でもあって、内側に生きている人には得体の知れない生物が、頭にでもかじりついて脳をいじくっている姿を見せでもしなければ、関連性はすぐには感じられないものなのかもしれないと思った「ハイスクール・フリート」。

 晴風にとっつかまった謎の生物はケージに入れられ医務室に囲われていてそこで、マッドっぽいサイエンティストのような鏑木に世話をされつつ何か電波でも出していると感じさせたみたい。あとはそこから何が起こっているかという解明が徐々に始まって目下、武蔵で起こっていることにも考えが及んで、謎生物をどうにかしなきゃといった展開に向かっていくのか、それとも関係性が当人たちにはいつまでも分からないまま「志村そこ」の隔靴掻痒で引っ張るのか。そこが興味の向かいどころか。

 とりあえず武蔵の艦橋にいる知名もえかは操られてはいないようなんで、晴風から周囲の止めるのも聞かずに飛び出していった岬明乃との再会から合流を経て、人類を脅かす謎生物との戦いへと、向かっていくのかどうなのか。そもそも謎生物は何なのかってあたりも、ドラマになっていくんだろうなあ。地球の生命体なのか生物兵器なのか。後者だとしたら誰が作って送り出したのか。案外に深くて広い設定。確かめながら見ていこう。エンディングの春奈るなさんの楽曲はやっぱり良いなあ。

 散歩するネコの後ろを追いかけていく話を2度、重ねて描かれる淡々とした弘前の日常。それでエピソードを1回保たせてしまうところに詰め込んで高速で動かす昨今のテレビアニメーションにはない方法論って奴も見えてくる。いや過去にもたとえば「らき☆すた」の第1話のようにチョココロネだけで保たせたエピソードもあったし、さらに前だと「あずまんが大王」のテレビアニメーション版で、確か夜中に誰かがラジオを聞きながら勉強をしているのを淡々と描いた回があって、まったりと過ぎていく時間って奴を味わえた。

 そういう展開を揺らぎがある実写映像ではない、カチッと決まって描かれたものしか映っていないアニメで描くのは大変なんだけど、そこを不条理漫才的な会話劇でもって「らき☆すた」は時間を引っ張り通した。そして「ふらいんぐうぃっち」は、風景の緻密さと先を見せずに引っ張る力、続いて2度繰り返させてそうなるよねえと思わせる納得力で描ききった。アクションでもなく美少女の媚態でもないもので引きつけ見せるアニメーションの可能性。今一度感じられたんじゃなかろーか。でもって久々になおさん登場。2人が行った先で出会った老女がおまじないを教えてもらった魔女って真琴の祖母とか誰かかな。

 始まっていながら観に行くチャンスがなかった「ちはやふる 下の句」をようやく鑑賞。とりあえず役柄上であってもとりあえずは女子高生な人たちが、ジャージ姿にTシャツでもっていっぱい出てきて立ったり座ったりして動き回ってくれるのを、大スクリーンで存分に味わえる映画って部分の素晴らしさを堪能できた。美貌の松岡茉優さんまでもがジャージ姿になって丸いおしりをちょんと突き出し、かるたを取る構えを見せてくれる。そんな彼女を筆頭にしていっぱいの女の子たちのジャージ姿が捉えられている映像は、パッケージが発売されれば買って永久保存にしたいもの。とはいえまだ「上の句」すら発売されていないから、出るのは年末か来年あたりになるのかなあ。

 そんなビジュアル面での素晴らしさを一方において、ストーリー面でもいろいろと工夫があった「ちはやふる 下の句」は、すでに「上の句」において原作の順番を入れ替えて、すでに真島太一とは再会を果たしている高校生の綿谷新が、かるたの大会に出向いた先で永世名人だった祖父の死を知り自分が看取れなかった公開も含みつつかるたを辞めると言い出して、それを綾瀬千早が知って驚くといった部分でいったんの幕として、そして千早にとっては久々の再会からスタートさせて、そこではまだ新に再起の決意はさせないまま千早に自分が頑張らないと思わせ、加えてクイーンの若宮詩暢の存在も認識させてそっちへと千早の一直線な脳を向かわせかるた部の中に波風を起こして誰のためにかるたをするのか、といった問いかけを綿谷新とともに考えさせる。

 原作でもアニメーション版でも高校選手権ではチームだ個人戦だといった葛藤は抱かせず、すんなりと大会に臨ませては夏の暑さと緊張にやられて千早が倒れて須藤から罵倒され、そして立ち直って初めて若宮詩暢と出会いすごいかるた取りがいると千早にようやく気づかせるんだけれど、それだと映画ではクライマックスになる2人の対決にあんまり重さを保たせられない。それ以前に千早にはクイーン戦にのめりこむことの意味と無意味を感じさせ、その場に真島や肉まんくんたちと臨んでチームとして勝っていこうとする雰囲気を出させて見る側の気持ちを千早に向かわせる。

 一方で若宮詩暢にもライバルだった綿谷新との再会をそれ以前に行わせ、彼が気にしている誰かがいるってことを若宮詩暢に感じさせつつそれが高校選手権で当たった目の前の千早だと理解させ、だったら真剣マジに勝負しないといけないなって思わせる。だからこそ2人は真剣に戦いぶつかりあってそれなりな、といっても17枚差で千早が負けたんだけれど原作でもアニメーションでも4枚しかとれず惨敗に終わった関係を、もうちょっとだけ近づけて今後の展開に期待を持たせる。そして「上の句」での冒頭でも描かれた、名人戦とクイーン戦での綿谷新と真島太一、綾瀬千早と若宮詩暢の激突というシーンを最後に保ってきて、いずれそうなる可能性って奴をのぞかせる。

 チームと個人といった問題、そして千早の周囲が見えてない中でだんだんと自分を知り、仲間を感じていく展開は漫画にもアニメーションにもあるけれど、そうした要素を切り取りつつ折り込み新しい展開も混ぜて見ていて納得のストーリーに仕立て上げる腕前がさすが。漫画原作の実写映画が原作の良さを台無しにした上で映画としても面白くない状況が続出している中で、原作のファンが見て面白く映画から入った人でもしっかり楽しめる作品になっている、っていうのがすばらしい。これなら続編を任せても安心していられそうだけれど、あのエンディングが高校時代に実現するとなったら新が現名人を先に倒して君臨し、そこに2年生が3年生になった太一が挑むって端折りもあるのかな。原作では3年の冬に太一でも新でも周防名人を倒してようやく、大学1年で対戦が実現する感じだから。果たして周防名人の出番は。そこに関心。

 川内原発での揺れが基準の70分の1だったこと、けれども反対の署名にネットで12万人集まったこと、その食い違いを科学の力でもって説明し、安心してよと説得するならまだしも、以前に安保法案に反対したデモの人数が、主催者と警察とで食い違っていたことを並べてみせたコラムが某紙のサイトに載っていてちょっと辟易。それらを並べる意味っていったい何だ。たとえ不安に誘われたものだとして、その不安を煽るような誘導があったとしても、結果として12万人もの署名が集まったことはカウンターが回っているから歴然。なのに主催者発表が警察発表と食い違う別のケースを持ってきて、詐欺してんじゃないかといったありもしないニュアンスを漂わせて運動を誹謗する。目的のためならロジック無茶苦茶でもかまわないのはお家芸だけれど、それがあらゆる階層に染みついている感じが強まっている感じ。損なわれる信頼性がもたらすものは、って結果はすでに出ているか。先はあとどれだけ。


【5月7日】 午前5時だなんて深夜なのか明け方なのか分からない時間に起きて京成から都営地下鉄を経て京急に入って羽田空港国際線ターミナルへ。別にアニメーションのイベントが開かれている訳ではないけれど、外国人にとってはアニソンやらコスプレに負けず関心があるだろう歌舞伎が遠くアメリカはラスベガスの地において、市川染五郎さんのカンパニーによって公演されていて、それを遠く日本へと中継して上映するイベントがあるってんで見物に行く。

 演劇とかライブとかの中継上映はそれ自体、ライブビューイングが一般化して来て別に珍しいことではなくなっていて、映画館で人気アーティストのチケットが取れず行けなかったライブを劇場で観るとかいった楽しみ方が普通になっている。ただ今回は、現地の雰囲気を遠隔地に再現するといったことがひとつと、そのために特別な中継技術を使うといったことがひとつあって、わざわざ見物に行く必要があったという次第。それは9台の4Kカメラを使って舞台上からオーケストラピットを挟んで手前に横に伸びる花道までを一気にとらえて撮影し、それぞれのパートを伝送しつつ映像も音声もズレずに同期させるといったもの。なんだそれのどこが凄いのと言われそうだけれど、実はとっても凄いらしい。

 らしいって分かっているのかと聞かれれば、あんまり分かってないけれども1台のカメラがとらえた映像をスイッチングで切り替え1枚のスクリーンに映していくライブビューイングの方式とは違って、ひとつづきになっているステージを左右前後に上下を9つのカメラで分割してとらえつつ、それらが遠隔地に置かれた9枚のスクリーンに同時に上映いていくから、映っているものに時間的なズレがあってはまずい。左から右へと歩いて行く役者が左のスクリーンから中央のスクリーンに映る段階でズレたらそれはやっぱり変。そこを感じさせないよう同期させ、羽田に作られた空間がラスベガスで人間の目によって捉えられた空間と同じように、すべてが地続きとなっているように見せる。そこには相当な技術があるらしい。

 またらしいって。詳細は技術系の人に任せるとして、そうした技術によってラスベガスで9台のカメラによって捉えられた歌舞伎の公演が、遠く離れた羽田の地でも前に3枚、横に1枚、後ろに3枚であと天井に2枚のスクリーンが置かれてぐるりと映像に囲まれた部屋の中に再現されていた。観れば現れた役者が歩いて花道を行くと自分より後ろに回ってそこから観客席を向いている役者の背中が見える。宙に上がれば天井に設置された2枚のモニターに宙づりされている役者がしたから煽るように見えたりする。観客はだから前を観て後ろを観て上も観ながら役者たちの演技を追いかけることになる。自分が劇場にいるような感覚で。

 決して役者の顔とかピンポイントでとらえた訳でなく、顔とか見切れる場面もあるし、スクリーンの間に本当は繋がった空間でありながら隙間が出来てしまって役者が切れてしまうようなことも起こるけれど、いずれシームレスな全天周のスクリーンにマルチカメラでとられた映像が、同期された上にシームレスに投影されるようになれば空間そのものが、遠隔地にそっくり再現できるようなる。これに「超歌舞伎」なんかで使ったイマーシブテレプレゼンス技術「kirari!」なんかも加われば、さらに臨場感を持ったリアルタイム中継も可能になる。

 東京オリンピックとパラリンピックが開催される2020年に間に合わせるのが、技術を主導しているNTTの目標だろうけれど、遠く遠隔地で行われるライブや公演を、居ながらにして観られるようになれば取りざたされている2016年問題も少しは解消され、地方で公演をしつつ首都圏の膨大な映画館とかで投影をして大勢に観てもらって稼ぐとか、さらに海外といった行きたくてもメンバースタッフ引き連れては行けないマーケットに日本のライブエンタテインメントを届け普及させるきっかけにもなるだけに、頑張って技術の熟成を進めていってもらいたいところ。まずは1ステップ。次に1ステップ。

 そんな技術的なバックグラウンドは別にして、上演された歌舞伎の演目「KABUKI LION SHI−SHI−O」がまたユニークというか、冒頭から口上が英語で行われて観客に対してどんな内容なのかの説明があって、そして登場してきた役者も時々英語を交えてしゃべって何をしているかってことを感じさせようとしていた。演目自体もオリジナルで見せ場を多く作ってあって、荒事がいっぱいだった中村獅童さんの「超歌舞伎」にも似て歌舞伎のダイジェストをやりつつストーリーもしっかり見せるといった感じ。出演者も「超歌舞伎」に比べて格段に多くて市川染五郎さんをはじめ大勢が花魁いんも動物にも扮して次から次へと登場する。

 唄に三味線の人も大活躍で、大薩摩として登壇した唄の杵屋三nさんは途中でシュビドゥバシュビドゥバといったスキャットを独特の豪快さでもって歌い笑いを誘っていた。いやそれは日本の普段を知る日本で観ていた観客か。現地ではどうだったんだろう。市川染五郎さんが下駄でタップを踏んだり面をかえつつ踊る場面でマイケル・ジャクソンとかあれはマドンナか誰かを混ぜたのも、アメリカの観客には受けたのかそれとも自分たちに媚びていると思わせたのか。

 「超歌舞伎」でも歌舞伎が初音ミクにすり寄った? なんて印象を持たれかねない雰囲気があったけれど、歌舞伎が初音ミクを立てて役者として生かしきった演出が、ボカロのファンも納得の舞台へと繋がった。媚びてはいけないけど見下してもいけないバランスを取りつつ相手が喜ぶことをする。それが異文化交流において大切なことなんだろうなあ。そんな舞台を支えたネイキッドのプロジェクションマッピング。花を散らし獅子を踊らせ龍を走らせ鵺を騒がせ。ほかにも様々な映像を会場に合わせてぴたりと投影してみせる技術はさすが。それを進行に合わせてしっかりとやる。今までにない舞台になる。そんな発展がこれからの5年10年で進んでいくんだろう。VRやARも加わってライブエンタテインメントはどうなるか。そのヒントを見つけられる公演だった。次もいつかどこかで観られるかな。

 アクセス稼いでなんぼのバイラルメディアがポータル的にキュレーションして載せたってんならまだ話は分かるけれど、曲がりなりにも全国紙を標榜する新聞社の題字が掲げられたニュースサイトのトップに掲げて良い記事じゃあないだろう、遺伝子治療でもって20歳も若返ったと言い張る女性経営者の話なんて。特約しているIT系の情報をゴシップも含めて載せてるサイトからの転載という形であったとしても、それが新聞社の題字の下に掲げられるってことは、新聞社によって信頼性が担保されたってことであって、新聞を信じて欲しいという主張を日頃からしているのなら、その記事だけがゴシップで冗談交じりのものだといった言い訳は出来ない。して良いはずがない。

 いや、これが紙媒体だったら隅っこの方、囲みのコラムでもって世界の話題としてそういうゴシップ的なネタがあったといった具合に、引用の形で紹介することはありだろう。紙面というもののどこに掲載されているか、その大きさはどれくらいかによって信頼性にも差異がもうけられているんだって読むようも気づくから。でもネットは違う。掲げられた瞬間にそれは題字の元に等価になる。その上でトップページのトップ記事として掲げることは、題字の下に1面トップでもって絶対の信頼を置いて掲載したって意味にとられかねない。でもそれがインチキっぽい記事。あり得ない。あって良いはずがない。

 そうするんだったら記事を元に取材をして、信頼に足るかどうかを判断して論評も交えて掲載すべきなのに、配信元に投げっぱなしでそういう検証をした形跡はない。これで嘘だと分かって損害を被ったと訴えられたらどうするんだろう。どうもしないか、転載しただけだって言い訳して。それで確実に失われた信頼があるってことを、もうちょっと考えないといけないんだけれど、それ以上にゴシップだとかプロパガンダを平気の平左で掲載しているからなあ。確かに反原発活動の行き過ぎだとかうっとうしさはあるものの、生活に不安を抱えた人たちが12万人もいて署名したという事実を、左翼的な活動と同意に捉えて新聞の1面トップで批判する新聞だから、今更ネットに掲載する記事が本当か嘘かなんて気にしないのか。アクセス稼いでなんぼ。炎上してなんぼ。そして現政権を称えられてなんぼ。やれやれだ。

 やっとこさ「真田丸」の前週分を再放送で。いきなり出てきた出雲阿国の美丈夫っぷりに誰かと調べたら高嶋政宏さんの奥さんだった。シンガーか。なるほどシャッとしている訳だけれど、きりを見て才能があると勘違いしてくるりと回らせ勘違いだったと言わせたあれは後に何か効いてくるんだろうか。そして徳川家康を夜討ちした豊臣秀吉との対話のシーン。真田信繁が口上を述べている脇ではよせいとばかりに催促し、待ってられないと立ち上がって迫っていくシーンとか最高。そりゃあ家康だって驚くさ。そんな2人が打ち合わせて行った芝居をそのまま使わずナレーションを被せてしまう演出のイケズっぷり。見て面白いかという配役であり展開がこの作品の評判を生んでいるのかも。久々にDVDなりでそろえたい大河ドラマかもしれない。それにしても茶々の竹内結子さん。悪魔だなあ。


【5月6日】 森田季節さんの新刊「てらめぐりぶ?」が出ていたので読んだらお寺を巡る話だった。タイトルまんま。ただ風華チルヲさんによるイラストと漫画もあって可愛いキャラクターたちの表情とかもつかみつつ不動明王様のありがたいご尊顔も排しながら読んでいけるんで、お寺巡りという聞くだけに地味そうなテーマでも楽しく明るく読んでいけるのだった。巡る場所は所沢とか栃木とか、京都といったあたりでそれぞれに地図めいたものはついているけど詳細ではなく、当地の画像とかイラストもない。だからどんな場所かは行って確かめるしかないってのも、ガイドとしては物足りないけど逆に小説として想像力をかき立ててくれる。行ってみたいな所沢。

 関西弁だけれどちゃきちゃきって感じじゃない副部長とか、ほんわかとしている部長とか呪文を唱えてないか呼び出せる同級生とかに混じって、本当は帰宅部に入りたかった1年生がいて彼女を主人公に進んでいくといった展開。でも個人的には顧問で27歳なのか34歳なのか判然とせず、というかそれをやったらいじめられるので誰も突っ込めない女性の新谷京子さんがお気に入り。イラストでも見目麗しいのにどうしてそんなに行き遅れるんだ。ちょっともったいないけどきっと何かがあるんだろう。とりあえず終わっているけど、奈良とか大阪、あるいは鎌倉とか出羽三山といった神社仏閣を巡る続きを描いて欲しいもの。千葉だとどこかあるかなあ。虎が逃げ出したお寺とか。

   武蔵野市立吉祥寺美術館でやってる「萩尾望都SF原画展 宇宙にあそび、異世界にはばたく」が展示替えになったってんで見物に。記憶だと前は版画だけが売られていた、「百億の昼と千億の夜」の秋田書店から出た単行本に使われていた表紙絵が飾られていて、阿修羅王の薄いけれどもちゃんと存在する胸の谷間とかが間近に見られて嬉しかったというか。それはイメージアルバムのジャケットでも見られはするけど、どうせだったらたくさん見たいものだし。イメージアルバムの方は高い版画を買ったんで家で見られるけれど、単行本の表紙の方は家に単行本があったかどうかがちょっと不明。いっそ版画も買うかと思いつつ前よりグッと安い値段であるにも関わらず、おいそれと手が出ない貧乏っぷりがどうにも痛い。何か稼ぐ手立てはないものか。

 「スター・レッド」のレッド星も前より増えていたような。うすらぼんやりとした記憶だけれど部屋から出た場所の壁に飾ってあった、半身にひねったレッド星って前は確かなかったような。他にも「AWAY」とか割と新しい作品が増えていたようで、そんなあたりの原画を見て未だ衰えることのない萩尾望都さんの筆致に感嘆するところしきり。昔のような繊細さとはまた違った、グッと太い部分もあって目つきもキッと鋭い感じとか好き嫌いはありそうだけれど、でもやっぱり萩尾望都さんの手から生み出されるものに他ならない。その凄まじいばかりの画力を存分に堪能あれ。「王妃マルゴ」とかの絵もみたいけれど、SFでもファンタジーでもないからなあ。可能ならまたいずれの日にか、原画展を開催して欲しいところ。それこそ森美術館とか東京都現代美術館で。それだけのアーティストなんだから。

 μ’sの東京ドームでのファイナルを見せてもらった御礼かたがか作った原稿がITmediaとかに転載されて賑わっているようで、ビジネス系の原稿に見せかけようと添えた2016年問題に関する言及に結構なリアクションがある感じ。これで本格的に降りかかってきた2106年問題への関心もグッと高まってくれると未来に希望も抱けるかどうなのか。いくら言ったところで現実に中野サンプラザは改装に入り渋谷公会堂は跡形もなく代々木第一体育館も22カ月の休業に入る。デカい箱か消え中間も消えていく中でアーティストはいろいろな会場をやりくりしているけれど、その結果格上の人がちょいキャパを下げていくことになって、そうした箱をステップアップに使いたかったアーティストが会場を使えず、上に行けないって現象が起こりそう。

 アイアン・メイデンが両国国技館2daysって聞けばそれなりの会場を使っているじゃんって思えるけれど、これだって本当は日本武道館を使いたかったのに取れない状況からキャパを数千人下げて行ったという。幸いにもアイアン・メイデンは来てくれたけれど、そんな状況なら日本は飛ばしてもっと観客が集まる地域を攻めようってことになっていかないとも限らない。一方でアイアン・メイデンが両国を使えばその煽りを食らって誰かがちょっと小さい箱へと言ってそしてといった連鎖があるいは、今秋の春奈るなさんのホールではなくてラフォーレミュージアム原宿でのワンマンライブといった状況を生んでいたりするのかどうなのか。今の実力って意見もありそうだけれど、未来の可能性をキャパで表したいといった人にとって、現状維持を続けるのはやっぱりつらい。だから早急に解決の道を、ちったところで具体策なんてまるでないこの国。オリンピックが来る前に文化が滅びそう。

 1人について1エピソードで流していくのか「ジョーカー・ゲーム」。今回はロンドンに派遣されてスパイとバレて捕まったD機関の一人が自白させられダブルスパイに仕立て上げられそうになる、っていった危機一髪からの大逆転を描いてた。そこまで先を見通して仕込んであるのか結城中佐。ロビンソン・クルーソーのエピソードなんかも添えつつヒントとしてほのめかしつつ進んでいく展開だったけれど、知識がないからちょっと分からなかった。しかしひどいな外務省。スパイの正体をぺらぺらと。それで相手に対して優位に立って良い外交でもすれば結城中佐も何も言わなかったかもしれないけれど、単なるうかつかそれども自己満足が日本のピンチをまねているなら糺なくちゃいけないってことで。ともあれ落着。次は誰が、どんな事件に挑んで結城中佐に絞られるのか。楽しみ。

 やばいなあ。誰とも言わない市議会議員からの噂話を取り上げて、ピースボートへの誹謗をしている前衆議院議員のコラムを堂々、サイトのトップに掲げていたりする新聞社系ニュースサイトがあったりする。でも、ここん家って前にピースボート絡みで創設者の辻元清美議員を誹謗中傷して、デマだって訴えられて裁判でこてんぱんにされたことがあったっけ。それなのに反省もせず証拠も固まっていない話を大っぴらにすることで、印象としてネガティブな方向へと誘導しようとしている。こうなるともはやメディアといよりプロパガンダ機関。間違っていようと繰り返し言うことで世間にそうした印象を広められれば勝ちっていった考えなのかも。これでまた訴えられなければ良いけれど。寄稿だからって掲載したメディアに責任がないってことにはならないんだから。


【5月5日】 「SFセミナー」でサインを頂いた吉上亮さんの「生存賭博」(新潮文庫NEX)を最後まで。なるほどこれはユニークな視点であり展開を持った作品。世界を脅かし、人が触れると塩の柱に帰られてしまう怪物“月硝子”が発生するドイツ中部の都市に隔離された人間は、そんな“月硝子”を相手に戦っていたけれども、いつの頃からそんな戦いにゲームの要素が入って最初、一攫千金を狙った一般の人がちが“月硝子”の発生区域に入って相手をし、最後の1人となった者だけが大金を得てそれによって賭博は終了し、戦闘員たちがかけつけ“月硝子”を退治するというイベントが繰り広げられるようになっていた。

 賭けだからもちろん賭ける側もいて合法賭博的なものになっていて都市を仕切るマフィアのボスが君臨していた。一方で非合法のノミ行為も行われていて瑠璃=A・ミュウハウゼンという少女はいつの頃からか身に着けた絶対記憶という能力も生かしながら非合法の賭博を運営していたけれど、そんな「生存賭博」が揺らぐ事態が起こる。どこからともなく現れた人物が、“月硝子”の現れる場所に入って戦闘に参加していた人間たちが“月硝子”に襲われる前に“月硝子”を倒してしまって、最後の1人が誰になるのかに賭ける賭博をむちゃくちゃにしてしまった。非合法のノミ行為をやっていた瑠璃にはこれはハイダメージ。金を返せず全財産を失った上に隠していた金も奪われ命すら狙われてかけていた彼女に、生存賭博への参加という誘いが持ちかけられる。

 逃げても殺されるけれど生存賭博に参加しても死んでしまう。ならばというお持ちをあと、すべてを台無しにした騎士への接触が打開につながると考えた瑠璃。そして臨んだ戦いの場で騎士との出会いを経て瑠璃は、巨大種という“月硝子”でも飛び抜けて強力な怪物を相手にした戦いへと引きずり込まれていく。それは人類の生存を賭けた戦いであると同時に、街の権力者の地位を賭けての戦いでもあったという「生存賭博」のストーリー。そこから浮かぶのは、生存賭博という手法がどこか非人道的に見えつつも最小限の犠牲でもって人類を救っているという状況で、参加する者もそれで人生を大きく変えられるという認識があるため、誰かが損をするということがない。つまりは完成されたシステム。正義という意味でも。

 ただ、それで犠牲の方へと回らされる少数者にとっては非道も非道なシステムであって、そこからの脱出を願ってあがく。普通はかなわないけれどもそこに、ゲームのルールを変えてしまうような力が加わったことが事態を動かした。絶対の正義を振りかざして調和を求める勢力と、這い上がってでも自分が権力となって生き延びようとする勢力のどちらを是と見るか。結局のところは自分がどちらの立場になるかってところで応えも違ってくるんだろうなあ。そんな正義というものの意味、権力というものの価値について考えさせられる作品だけれどもうひとつ、巨大種との戦いのシーンで大仕掛けがあるから注目。何とばかばかしい。人類の危機ならそんなことやっている場合じゃないだろう。とか思ってもそうした行為がモチベーションとなって人の力を発揮させるなら、あるいはありなのかもしれない。本能ではなく意思で、あるいは欲望で動くだけの知性を得てしまった動物なのだから。人間は。

 とりあえずコミティアへ。「昼夜伝」というオリジナルのアニメーション企画をキックスターターで募って1000万円まで集めながらも200万円届かず今は中断中の金子祥之さんのブースを眺めて冊子を買う。これだけ集められるのなら認知度が高まればもっと行けそうな気がするけれど、「リトルウィッチアカデミア」が成功したりして話題になったアニメーションのクラウドファンディングも、最近はいろいろと立ち上がっては頓挫するのが結構あって、勢いって奴が前ほど感じられなくなって来ている。たとえば笹原和也監督の「風雲維新ダイショーグン」とか、20万ドルを目標にしながら4万5000ドルしか集まらなかった、って日本円だと500万円近いか。でも足りなかった。

 ほとんど企画ができあがっていた感もあるちばてつやさんの「風のように」はクラウドファンディングは支援といった形で目標金額が少なく、それで達成という形は整えられたけれども、まったくのゼロからスタートさせた感じがあった「とある魔術の禁書目録」とか手がけた錦織博監督の「CHIKA CHIKA DOLL」は、3000万円と目標金額も大きかったことから日米併せても大きく未達となって、今は企画はペンディングとなっている。とはいえ第2期の意欲はあるみたいだから、広報体制を整え挑みつつ募れる金額を勘案しつつ進んでいくことになるんだろう。「昼夜伝」もだからクラウドファンディングで必要とされる部分を確実に集めることにまずは挑み、それを達成した上でエクスパンションを行っていくような形で盛り上げていくのが良いのかも。再開は期しているそうなので、立ち上がったら応援したい。どれもこれも。

 せっかくだからとアナログゲームのイベント「ゲームマーケット2016」の方ものぞく。マジック:ザ・ギャザリングのようなトレーディングカードゲーム一色って訳でもなくて、カードを使ったTRPGのようなものもあればボードゲームもありオリジナルのカードゲームあってと様々なアイデアとルールを紙の上なりフィギュアなりに乗せてゲームに仕立て上げていた。遊べばきっと面白いんだろうけれど、ここでアナログゲームにとって絶対条件となるリアルな対戦相手がいないことが自分の場合はネックとなって、どれも手を出せなかったのがちょっと寂しい。いやいやだからゲームで友だち増やせば良いじゃんってことなんだろーけれど、それが出来れば世話ないよってことで。

 そんな「ゲームマーケット2016」に並んでいたのが「おっとっトランプ」。名前にあるようにお菓子の「おっとっと」をモチーフとしたカードゲームで「おっとっと」のお菓子になっている海洋生物が一種図鑑のように描かれたカードを使って遊ぶらしい。ゲームにはいろいろあるようで、中にはお菓子の「おっとっと」を使うものもあるんだけれどどういう風に遊ぶかは要研究。というよりやっぱり誰か相手がいないと遊べないでので交友関係が没交渉な僕には無理ゲーなのだった。テレビゲームもスマホのゲームも独り身には嬉しいゲームだったなあ。あと起業物では丸善でずっと売られている「マイアース」も登場。DNPが慶応といっしょに作ったというカードゲームで開発されてそろそろ10年。これだけ続くともはや定番ってことになるんだろう。「おっとっトランプ」もそこまで行くか。先が楽しみ。

 さすがに沸いても途中で理性が働いて、言っていることが無茶苦茶なドナルド・トランプ候補も失速するだろうと持っていたらむしろ逆に勢いを増している感じすら出てきたアメリカ大統領選の共和党候補予備選挙。割と強そうなイメージがあったマルコ・ルビオ候補が早くに脱落して残るテッド・クルーズ候補とあと、ジョン・ケーシック候補あたりに票をまとめてひっくり返すかなんて予想もあったけれどもトランプ候補の代わりにはならないくらいタマとして最悪だったらしいテッド・クルーズ候補が撤退してさらにジョン・ケーシック候補も撤退を表明してこれで誰もいなくなったという。トランプ候補以外。ってことは共和党はもう決定でおそらくはヒラリー・クリントン候補と戦うんだろうけれど、やっぱり分からないのはトランプ候補だなんて口は悪く政策も無茶苦茶な人間にこうして支持が集まるという状況。それは日本の政治を見ていれば何となく窺えることで、キャッチフレーズと勢いがネットを駆け巡り報道を煽って流れを作り、そこに人を巻き込んでしまう時代がやって来ているってことなんだろう。政治に限らず戦争も。加速度的に人類は衰退から破滅へと向かっているのかも。やれやれ。


【5月4日】 2010年9月の第4回全日本アニソングランプリ決勝大会で見かけてからだいたい5年と半年ちょっと。そして名を「春奈るな」として「Fate/Zero 2ndシーズン」のED曲「空は高く風は歌う」で2012年5月にデビューしてから満4年を迎えて5年目に入った春奈るなさんの活動を、まずはおめでとうございますとお祝いしつつ4年という短いようで結構長い歳月を、絶えることなく歌い続けて来たその活動を称えたい。アニソンの世界、同じようにデビューをしても続かず消えていく人も少なくはないし、新しい人だって続々と出てくる中で途切れず第1線に立って作品の主題歌エンディング曲を担当し続けていられるのは、やっぱりその存在に価値を見いだしている人がいるからだし、応援しているファンが大勢いるからだし、何より本人に存分の才能があるから。それを今後も守り高めていけば、5年6年10年といった具合に活動して行けるんじゃなかろうか。

 そんな春奈るなさんのライブが赤坂BRITZであったんで見物に。前に見たのはワンマンでは去年のメルパルクホール東京以来ってことになるのかな。ハコのサイズはホールからライブハウスへと変わったものの一方で、バックにバンドが入って演出めいたものをなくしてシンプルに、それでいて分厚いバンドサウンドをもって響かせる、ショーではなくてライブという名称にふさわしいパフォーマンスを見せてくれた。そのバンドがやたらと巧くでいったい誰だと名を調べたら、かつて2000年代に九州を拠点に活躍していた3ピースバンド「SUPER EGG MACHINE」でドラムを叩いていた今村舞さんと、ギターでボーカルの藤井万利子さんがそのまま参加していると判明。どうりで巧い訳だ。ベースの岩崎なおみさんも鈴木慶一さんたちと演奏するくらいの腕前だし、キーボードに西平正子さんもピアノやキーボードで多くのバンドに参加しレコーディングも務めている。

 つまりは超凄腕のミュージシャンたちによるロックなサウンドを浴びながらも春奈るなさん、負けていないところがまた凄い。決してロックな声じゃなく、張り上げ響かせる声でもない。でもその可愛らしい声が分厚いサウンドに負けることなくしっかり響いて会場を柔らかくて暖かい雰囲気でいっぱいにする。ロック調の曲でもバンドのビートに負けずグルーブに流されないでしっかりと歌声を紡いでいく。だから聞いていてちゃんと春奈るなさんのライブになっていた。そこが良かった。そんなライブではタイアップにもなった楽曲を交えつつオリジナルの曲も入れて聴かせてくれた約2時間。メルパルクより前の渋谷公会堂でも見ていたりするからずいぶんを耳に馴染んだ曲もあってどこを切っても聞き飽きない。

 初期の頃は読者モデル初でゴシックロリータな雰囲気を壊すまいとややシックに傾けたところもあったけれど、今はもう明るく楽しげで軽やかに弾むような歌声でもってダンスも入れつつステージを走りつつ聞かせてくれる。可愛い路線全開。それも媚びてるんじゃなくて24歳という年齢のまま、自分のやりたいことをやっているという感じ。だから無理がなく、見ていて安心できる。癒やされる。そこが特徴になっている。新曲も披露。「はいふり」として始まりタイトルが変わった「ハイスクール・フリート」からED曲の「Ripple Effect」を聞かせてくれたけれどもあの弾むように始まって伸びていく感じがバンドサウンドでも実によく出ていた。

 ZAQさんが作ったという楽曲は、耳にすぐに馴染んで忘れられない。ヒットしそうな予感。そしてカップリングとなっている「Dynamic Dreamers」も初披露。こちらはビートがきいたロック調だったっけ。好対照の楽曲が並んでこれは嬉しいCDになりそう。5月25日発売だっけ。アニメーションの方も謎が明らかになりそうで厄介なことも起こりそうな中、わくわくとさせてくれているだけに楽曲と合わせ話題になるだろう。なって欲しいかな。そんなライブも「Startear」でもって終幕となって最後まで観客席に向かい深々と頭を下げてくれた春奈るなさん。人前で歌い続けられることの喜びってものが強く感じられた場面だった。

 アニソンというシーンはこれで盛り上がっているように見えて、売れている人は売れていながらそうでない人はなかなか割り込めず、声優さんのユニットが番組がらみで作られては、イベントでうたうことはあっても独立して活躍するようなことはなかなか起こらなくなっている。東京ドームだなんて凄い場所で演じられるのもμ’sがファイナルという特別ごとがあって成し遂げられたくらいで、あとは水樹奈々さんが出来るくらいかな。田村ゆかりさんだってまだ成し遂げられずレコード会社の移籍もあってますます厳しくなっていきそう。藍井エイルさんが武道館まで来たし声優として人気の花澤香菜さんなんかも出来るしスフィアやI☆RISだってやれるだろうけれ。あとMay’nさん。でもその次となると……。

 そんな一方でMELLさんはシンガーを辞めてしまい、同じIVEの川田まみさんも活動を休止してしまった。KOTOKOさんは頑張っているけどでも、うなぎ登りといった勢いを見せてくれるシンガーがどれだけいるかというと迷うところで、そうした中にあってどんどんとハコを大きくしているKalafinaは凄いし、中野サンプラザの2日間を埋めてなお勢いが上り調子の上坂すみれさんも良い感じに来ている。そんな2組と同じスペースクラフトにあって春奈るなさんはたぶん、分岐点に来ている感じで今回の赤坂BRITZから、秋はラフォーレミュージアム原宿と、またちょっと場所が変化して来ている。

 ライブハウスというハコも悪くはないし、渋谷O−EASTくらいなら満杯にできる勢いはあるだろうけれど、それでもやっぱり目指すところが上にあるなら、5年目となるこれからの1年をより充実した活動をして名を広め、歌声を届かせ存在感を高めていって欲しいもの。そのためにはアニソン歌手として良い作品に巡り会う必要もあるけれど、ライブとして見て楽しいステージが作れるようになることも大きい。その意味で今回の4人のバンドメンバーを得たことはとても大切。恒久的に務めてくれるか今回だけかは分からないけれど、大勢の反応を浴びて人前で演奏する喜びは、ミュージシャンだって同様な訳でそうした機会を今回、春奈るなさんを通じて与えられたとしたら、次もきっとステージに立ってくれるだろう。そう信じたい。もう4年だけれどまだ4年。先はまだまだ長く可能性は無限に広がっている。そこに踏み出した春奈るなさんがたどり着く地平はどこだろう。想像しながら今日は感慨に浸りつつ眠るとしよう。

 靖国神社だからやっていたんだと思っていた「美しい日本の憲法をつくる国民の会」による憲法改正を願う人への署名が実は、全国の神社で初詣の時期に限らず散発的に行われていて、その背後に神社本庁なんかがいたりすることが見えてきていったい何を目論んでいるのか、その背後にいったいどんな思惑が蠢いているのかが見えるようで見えず、ヒンヤリとした恐怖を覚えている。もとより「美しい日本の憲法をつくる国民の会」という団体を構成する面々の、どこか極端方面にライトがかった雰囲気に自分とは相容れないと思い、靖国神社での署名も見て見ぬ振りをして通り過ぎていた。事務局長にいるのがあの噂の「日本会議」事務総長だってことも、団体の妙な立ち位置を感じさせていて、余計にペンを取る気が起こらなかった。

 けれど、知らない人だと共同代表を務める櫻井よしこさんのどこか理知的で、かつジャーナリストと標榜して公正な場に立っているかの如き印象に、この人がいうならと署名してしまった人もいるだろう。それがまったくそうではないことは、昨今の言うこと書くことを聞いて読んでいれば分かることで、それもあって自分の場合は通り過ぎていたものの、そういう機会のない大半の人にとって櫻井よしこさんは日本テレビのニュースに出ていたニュースキャスターであって、その言だったら詳しく読まずとも正しいといった認識に誰もが至って不思議はない。だからその後も全国で、神社を舞台にして行われている署名に大勢が応じている。やれやれとしが言い様がない。

 でも、そこで主張されていることがどういったものかを、真剣マジに検討してみた人がいるんだろうか。権力にさらに横暴なまでの力を与えかねず、そしてこの国を戦禍へと導きかねないような主張をしている人たちが、ずらりと居並ぶ組織から出てくる新しい憲法とやらが、果たして真っ当と言えるかどうかを調べてそれで署名した人がいるんだろうか。神社という、初詣とか参拝とかで訪れ、何がそこで行われていることには聖性があると思わせるような場所だけに、きっと正しいことなんだろうと主張も見ないで署名してしまった人もいるだろう。ハレの場で行われる活動に異論を挟むのも失礼と、応じた人だっているかもしれない。なんという卑怯なやり口だ。

 なおかつそれはそれぞれの神社が憲法改正が必要だと判断し、自主的に行っていることではない。上部組織の神社本庁あたりから指令が飛んで軒先を貸し、あるいは氏子を動かして行っていることで、そこには何かしらの意図がある。だったらどうして神社本庁は憲法改正を必要とするのか、そこがちょっと分からない。日本会議という組織があって、宗教的な基盤を持った人たちが多くトップにいることは知られた話だけれど、それはどちらかといえば新興宗教系の人たちであって、日本に古くからアニミズム的に定着してきた神道とは相容れないもの。でも神社本庁はそうした組織の意向をくみ入れ、下部組織を動かし署名をさせる。

 つまりはもはや日本の神社は、そうした新興宗教の色に染まっているということなのか。それは神社を動かし、政治も動かしているということなのか。だったらその中心にいるのは誰なのか。考えるととても恐ろしくなってくる。オウム真理教だ幸福の科学だといった新・新興宗教が話題となっては問題視されて来た。古くは創価学会だっていろいろ言われながらも公明党を立ち上げ政治にコミットしてどうにか生きながらえてきた。でも、日本を支配し憲法を改正するような勢力にはなっていない一方で、知らず神社を動かし数百万もの署名を集め政治家を煽り憲法を改正させようとしている勢力がある。誰が。何のために。戦争で御霊が増えようともそれで稼げる世界でもないのに。だから怖い。中心が見えず目的が見えないまま、戦前的な空気へと持って行かれるこの、誰も経験したことがない行く末が怖い。そろそろ本気になってその狙いを解明しないと、とんでもない場所に立たされるのだけれど。困ったなあ。

 久々にSFセミナーへと行って吉上亮さんと大樹連司さんと三島浩司さんが出て来てノベライズについてしゃべる回とか、「コンクリート・レボルティオ 超人幻想」を企画して脚本も手がけている會川昇さんが日下三蔵さんとしゃべる回なんかを見物。「PSYCHO−PASS サイコパス」でノベライズを手がけている吉上さんは、割とある設定を見極めつつ自分でも想像をして書いているとか。他にも何人か手がけているシリーズだけれど、狡噛慎也の格好良さだったら深見真さんが秀でているし、女の子のかわいらしさだったら桜井光さんが書ける中で自分に出来ること、自分に求められていることは何かを考え書いて社会といった部分に筆が向かったらしい。あの世界観、あの社会に至るまでに何が起こったか。その段取りを想像して緻密に描いていった吉上さんお「PSYCHO−PASS サイコパス」はだから、読んでSFらしさがにじみ出るんだろうなあ。そんな吉上さんには最新刊「生存賭博」にサインをいただく。これ、面白いわ。


【5月3日】 エディ・レッドメインが助走をした作品だという外観で誰もが関心を抱きそうな映画「リリーのすべて」。共演したアリシア・ヴィキャンデルが第88回アカデミー賞で助演女優賞を獲得したりと、完成度でも注目を集めていたけれど、日比谷のTOHOシネマズシャンテでようやく観た印象はといえば、エディ・レッドメインはさすがに演技はの役者だけあって、ただあの顔立ちに化粧をして女性の衣装を身にまとうってだけじゃなく、本当に幼少期から心のどこかに自分は女の子かもしれないという思いを抱きつつ育みなががらも、当時の風潮から親にこっぴどく矯正され自身もそうあらねばと思い男の子ととして育ち、男性として結婚もしたもののやっぱり心のどこかに引っかかるものがあったという、そんなニュアンスをじわじわと滲ませるような演技を見せていた。

 つまりはリリー・エルベという人物になりきっていた。いや、もはやリリー・エルベ当人だったとすら言えそうなその雰囲気に、もしかしたらエディ・レッドメイン自身にそういう性向があるんだろうかとすら思わせる。つまりはそれだけ凄い役者なんだってことで、演技だけとってアカデミー賞主演男優賞を獲得しても不思議はなかったけれども、そこは長年ノミネートされ続けながらも取れずにいたレオナルド・ディカプリオが、ようやくつかんだまっとうな役でまっとう過ぎる演技を見せた映画への出演で、たどり着きそうだったその地位を2年連続でエディ・レッドメインがかっさらっては可愛そう。一方でその技巧派っぷりがいかにも主演男優賞に相応しいって雰囲気が、逆にやり過ぎだろうっていう印象を漂わせたのかもしれない。巧すぎるのも罪ってことで。

 そんなエディ・レッドメインが演じる最初はエイナーと名乗っていた風景画家。結婚相手でやっぱり画家のゲルダにモデルとなってと言われて踊り子のようにストッキングをはいてドレスを前身に当てたところで長年、心に奥底に秘めていた感情がうごめきだした。いや、もうちょっと前から踊り子たちがいる場所に出かけては、衣装に触れてその造形に心を揺らしてはいたけれど、そこで踏み出せなかった1歩を妻のゲルダが作ってしまった格好。あとはじわじわと、そして一気にエイナーをリリーへと変えてそしてもう戻れなくしてしまう。自分がそうしてしまったことに、ゲルダはどんな感情を抱いていたのかが注目で、最愛の人がなりたいものになろうとしていることへの支援もあったかもしれないけれど、自分が頼りたい相手がいなくなってしまう苦しさも大きかった感じ。

 そんな狭間で揺れ動きながら最後までそばに居続けてあげたゲルダの感情を、友情とみるか愛情とみるか同性愛的なものか異性愛の変形なのか。考えるといろいろと複雑。リリーとなったエイナーが男性を相手に逢い引きをする場面、相手はゲイだそうだけれどもその彼にとってリリーは女装はしているけれども男性に映っていたのかってあたりも心理面で気になる。手術をして男根を切除したリリーは心は女性で肉体もそれに近づいていく。一方でゲイの彼氏は同性愛の対象として女装をしたエイナーを観ていた。それが変わってしまった。それでも愛し続けられるのか。といったあたりからあるいは、彼氏にも男性として男性を好むストレートなゲイとしての性向とはまた違った、彼固有の何か思いがあったのかもしれない。LGBTというイニシャルで分類されがちだけれどその中身は多様でパターンは無数。型にはめずに人それぞれに思いはあると考えるのが、ここは良いのかもしれない。自分はどうなのかも含めて。

 それにしても印象として、女装し手術まで行ってそれ以後も、街に出て百貨店の店員までしている映画の中のリリー・エルベに対する周囲の視線の実に優しいというか、普通に接しているというか。むしろ現在の方がこれだけ技術が発達し、自由が認められているにもかかわらず妙な固定観念と偏見を呼んでいたりする。そういう部分がクローズアップされてメディアで伝えられることによって、そうあらねばらならない的なニュアンスが一人歩きしてどうでも良いじゃん人それぞれなんだからという緩い心理が失われ、既成概念の中に人を押し込め分類をしながら味方にするにしても、敵にするにしても決めてかかって本人の思いは蚊帳の外。そんな現代とはまるで違った鷹揚さに観ていてちょっとうらやましくなった。一方で手術は大変でそれこそ命がけ。そいういう危険に対する勇気ってものを称揚しての優しさになったのか。偏見のドラマにすることで現代に偏見を呼び込むことを厭ったのか。ともあれ観ていて優しさを感じ勇気を感じた作品。リリー・エルベの勇気を今、僕たちは本当に受け継いで育み広めているだろうか。そんなことも考えるのだった。

 会って話したということはなく、コミケットで行われた表現規制に関するトークイベントに登壇していたのを見たくらいで直接的な接触はまるでなかったけれども、ライトノベル作家として登場して以来、その爆発的な執筆活動を見ながら馬力のある人だなあと思っていた松智洋さんが突然に亡くなられたとのことで、まだ42歳という若さでの訃報に昨日の吉野朔実さんの訃報と同様、驚きながら残念がって悔しさに唇を噛む。「迷い猫オーバーラン」とか「パパの言うことを聞きなさい」といった作品群への評価を僕としてはあんまりストレートにはもっておらず、ハーレム展開の中で家族とか愛情といったものを描ける人なんだなあとは思いながらも、そうした枠組みのテンプレ的な雰囲気に、手を伸ばしづらいところがあった。

 けれども最新シリーズとして立ち上がった「異世界家族漂流記 不思議の島のエルザ」(ダッシュエックス文庫)は、異世界転生に近いものの家族がそろって無人島へとたどり着き、そこでサバイバル生活を始めながら流刑にされて10年近くを過ごした姫と出会い、コミュニケーションが難しい中をどうにか関係を保ちつつ、生き延びていく展開がとてもとても面白くってこれから先、どうなってしまうんだろうといった興味で続きを待っていた。本国での政変によって流刑にされた姫たちがだんだんと増えていく一方で、本国ではいったい何が起こっているのかといった想像。そこに異世界から来た一家がどんな変化をもたらすのかといった想像。いろいろと浮かぶ想像に松智洋さんがどう答えてくれるか、楽しみにしていたのに……。果たして続きが書かれているかは分からないけれど、1月くらいから体調を悪くされていたようなのでおそらくは……。残念だけれど願っても詮無いこと。せめてだからその面白さを改めて称えつつ、ライトノベル作家として走りまくったこの数年を偲びつつ悼みたい。合掌。

 探して何軒かの店で「月刊フラワーズ」2016年6月号を購入。吉野朔実さんの読み切り短編「いつか緑の花束に」というのが載っていて日常に混じるちょっとした不思議と、ちょっとした狂気めいたものが「いたいけな瞳」とか「ECCENTRICS」なんかを感じさせて懐かしくなった。カフェの店員をしている女性が客としてきた男性に見た連れの女性。でもそれは……といったところから始まる2人の出会いに混じる影。正体は、ってあたりでちょっぴりの不思議と平然とつきあえる人間の心理のどこか欠けたか、あるいは微動だにしない完璧さってものが見える一方で、執着が生む暴威といったものも現れ出てきて人間って複雑なんだなあと思わせる。2人は出会うべくして出会ったのか、それとも出会わされたのか。気にはなるけど背後の2人は一緒になれたんであとはおふたりでごゆっくり。その後に馴染むも分かれるも人それぞれってことで。良い短編を最後までありがとうございました。


【5月2日】 初日に続いて5月1日の2日目も満席だったプリンス追悼の映画「プリンス/サイン・オブ・ザ・タイムズ」の渋谷HUMAXでの上映を、観に行ってまず思ったのは、これが「KING OF PRISM by PrettyRhythm」のように上映までの準備にも上映期間にも余裕があったら、何日かを応援上映ありにして観客たちが映画として上映されるライブに合わせて歓声を上げ、喝采を浴びせてコールにレスポンスをして、可能なら映画の中のようにライターを灯すことは無理でも、手にキンブレか何かを持って振るように出来れば、楽しみも増えただろうなあってことマイケル・ジャクソンが亡くなった後に公開された「THIS IS IT」では追悼も兼ねたダンスOKな上映会が催されて、舞浜にあるイクスピアリの中の劇場で全員が経ってダンスもしながら叫び喝采して観たこともあったし、それが全編ほぼライブの「サイン・オブ・ザ・タイムズ」で出来たら来場者も最高潮の歓喜の中に映画をライブとして楽しめたんじゃないかなあ。

 そういう気持ちの人もやっぱりいて、観客への呼びかけがある場面とかではレスポンスをし、また喝采を求める場面でも拍手をしていた人は割といた。それこそ立ち上がって両手を振り上げ大声で叫びたいって人もいたかもしれないけれど、ここは「キンプリ」の応援上映ではない普通の劇場。あらかじめそういうリアクションをオッケーとはしていない場所だけに、やりたい人がそれをやっても自分はじっくり席に座って映画として楽しみたいんだという人もいたりして、騒ぐことはちょっと出来なかった。せいぜいが拍手をして声を出し手を振るくらい。それだけでも遠慮気味。せっかくスクリーンの向こうからプリンスが呼びかけてきてくれるのに、答えられないのはちょっとつらかった。もう永遠に生ではそんな機会は訪れないのだから、せめてバーチャルでも、って思った人は多いはず。だから今回の追悼上映では無理でも、1周年の機会にそうしたオールスタンディングで拍手OKコールも大丈夫な上映を、行って欲しいとお願いしよう。

 そんな「サイン・オブ・ザ・タイムズ」で繰り広げられたライブは1987年というから世界的に大ヒットして、プリンスという存在をそのルックスや雰囲気ともども全世界に伝えた1984年の映画「パープル・レイン」から3年後。どこか爬虫類っぽい雰囲気とダークで退廃的でブラックというよりユーロな雰囲気も漂っていた「パープル・レイン」の楽曲群を聴くに着け、「ビリー・ジン」から「ビート・イット」あたりを経て「スリラー」へと流れていったマイケル・ジャクソンの、圧倒的にダンサブルでポップでロックでリズミカルな楽曲とは大曲にあるミュージシャンって印象を強く残した。その後に「KISS」とか「ラズベリー・ベレー」って楽曲も出したけれど、これだってブラックとかファンクとは違ったテクニカルだったりキッチュだったりする楽曲。プリンスってそういうアーティストかなって思わせられて、以後ちょっと敬遠気味になっていたんだけれど1987年に繰り広げられた「サイン・オブ・ザ・タイムズ」のライブと、同名のアルバムはまるで違っていた。

 圧倒的にファンク。そしてグルービー。時にアース・ウインド・アンド・ファイターのようなブラスセクションとリズムセクションが重なりギターとベースが奏でられる曲もあり、そしてリリカルにメロディアスに紡がれる曲もある。なぜか思い浮かんだのが「米米クラブ」だったりするあたりは米米もファンクをベースにした楽曲を連ねつつ、ミュージシャンにキャラクター性を持たせライブにストーリー性を持たせていたからで、そして米米の場合はパロディとコメディな雰囲気がそこに漂うのとは反対に、プリンスの「サイン・オブ・ザ・タイムズ」では正当を行くストレートなファンクロックが繰り出され、アーティストたちの真剣でまっすぐなパフォーマンスが繰り広げられ、何よりプリンス自身の実直で心からわき出る叫びのようなものがそこに表されていた。音楽として引き込まれパフォーマンスとして魅了され。そんなステージが眼前のスクリーンで繰り広げられる訳だから、これで体を動かせないのは相当につらい。だからこそ求める応援上映。かなうかなあ。

 ミュージシャンではその後、ソロで活躍をしてシンバルを脚で蹴り上げるパフォーマンスなんかが話題になったシーラ・Eがドラマーとして入っては高いドラミングの能力って奴を見せてくれた。ボディにフィットした衣装で脚なんかむき出しにしながら叩くところを上からとらえた映像なんかもいっぱいあって、もうエロいことこの上にない。日本でもSCANDALのRINAとかシシド・カフカとか、最近話題の女性ドラマーっていっぱいいるけどここまで露出を激しく衣装もタイトに胸とか乳首とかを見せてくれるドラマーって、そうはいないからちょっと目が眩んだ。日本でもやってくれてもいいけど、あれだけ叩けてなおかつ歌えておまけに踊れるドラマーなんてそうはいないし、比べられると大変なんでやらない方が良いのかな。けどそんなシーラ・Eが前に出ている間にドラムセットに収まったプリンスが、叩くドラムがまたかっこいいからいやになる。ギターも弾けてダンスも踊れてドラムも叩けて歌えて曲も作れるというマルチな才能。その神髄が観られるって意味でも凄い映画なのかもしれない。満席が続くようだけれど機会を選んでもう1回くらい、観ておくかなあ。

 内田善美さんの繊細さに惹かれ単行本を集めていく中でふっと目にも入ってきた吉野朔実さんを「少年は荒野をめざす」から「ジュリエットの卵」あたりをきっかけにして読み始め、遡って「HAPPY AGE」や「月下の一群」「月下の一群 PAERT2」も読んでいったりしつつ、短編集の「いたいけな瞳」や「僕だけが知っている」「ECCENTRICS」「瞳子」といったところを追いかけ読んでいったあたりが僕の、吉野朔実さんへの強い愛着があった時期なのかもしれない。その後、「本の雑誌」に寄せられた本にまつわるエッセイも読んだりしたけれど、最近の作品はちょっと手が伸びていなかった。細かった線がやや太くなって話も深遠さが増していた、っていうのは外から見た印象だけれど、それでも前とは何か違っているのが嫌で避けていた。とはいえいつか、また再会したいとは思っていたし、作品群でもかつてにょうな、青春がはじけたり狂おしく渦巻いているような作品を、手に取らせてくれると思っていたけど、それも永遠にかなわなくなった。

 訃報。まだ57歳という若さでのお別れに見えるとは今でも信じられないけれど、事実なんだから、悲しいけれどもそれは受け止めるしかない。過去にも幾人かの大好きだった漫画家さんを送り、今年にはいってからも「すくらっぷ・ブック」の小山だいくさんを見送った。自分が年をとればそれだけ、大好きだったクリエーターも年をとっていく訳で、そうやって順繰りに逝ってしまうことも仕方がないことではあるけれど、それでもやっぱり浮かぶまだ早いという思い。言っても詮無いけれどもあと20年は世にとどまっていろいろと読ませて欲しかった。でもそれがかわないなら「少年は荒野をめざす」「ジュリエットの卵」といった作品群を今一度、引っ張り出すなり集め直して読み込んで、そこに描かれたきらきらとした青春を、ただれるような情愛を、背筋が凍るような不条理を味わっていきたい。合掌。

 最高権力者である総理大臣への市民からの批判の声をヘイトスピーチと言ってのける新聞は、自分たちへのからかい混じりの落書きをプロパガンダなどと大げさに騒ぎ立てる。言葉の意味がわかってねえだろ感が満々だけれど、そうやっていかにもな言葉を持ち出しレッテル貼りをしていくことで何か素晴らしいことをやっているんだろいう快楽に、もはや脳内が浸ってしまって離れられないのかもしれない。でもってそういう快楽に賛同する人たちだけが集まってくるようになってしまったから、今さらまっとうな判断でもって記事を作り公器として恥ずかしくないことをやれない。やってアクセス下がったらどうしようって不安にもさいなまれている。臆病な内弁慶。でもそれでいつまでも保つ訳はないのだった。来年ちゃんと来るかなあ。


【5月1日】 汗ばむ陽気になって来た今日このごろの季節を思うとさらに先、天空から陽が差し全身に突き刺さるような真夏の昼間をいったい犬飼さんはどんな思いで過ごしているんだろうかとちょっと思った「ふらいんぐうぃっち」。全身を覆って顔まで隠し手足も手袋やら靴やらで覆った完全武装のその格好を、夏に普通の人がやったら確実に脱水症状で体を壊す。ましてやその下にあるのが全身毛むくじゃらの体だったら暑さはいったい何倍になるのやら。真夏にダウンジャケットを着て毛布をかぶりこたつに入ったままサウナに行くような暑さになるんじゃなかろーか。

 それを一夏、通してきたからこその春があったというわけで、負った苦労も並大抵のものではなかっただろう、その恨みその怒りがついつい真琴の登場に向けられ爆発してしまったみたい。でも結局は自業自得だったという訳で犬飼さん、酔っ払ったところを無理矢理真琴の姉の茜に動物になるチョコを食べさせられたんじゃなく、酔っ払って無理に動物になるチョコを食べたと判明。そして目覚めると全身が半端な犬になっていたけど半分くらいは人間というのは魔法が中途半端だったからなのか。全部が犬になってしまった真琴の金平糖の方が凄かったのか。でもすぐ戻ったから半分でも昼間だけでも1年以上、犬になっている茜の魔法の方が凄いのかな。いやどっちもどっちということで。

 これでオープニングに出てくるキャラでは喫茶店で働く金髪の彼女と背後にふっと浮かぶ幽霊めいた女の子がまだ出ていないくらい。そろったところで賑やかな日常が繰り広げられていくのか、それとも淡々と弘前での田舎暮らしな日常に起こるちょっとの不思議が描かれていくのか。どっちにしても間合いが楽しく描写が整っていて見ていて安心のアニメーション。縁側での魔法実験のシーンとか、背後の階段をチトさんが下りてきたり戻ってきた茜の使い魔のケニーさんと犬飼さんの使い魔のアルが体面してアルがヒッと身を引いたりと、細かいところまで描画されてて紙芝居にならないところも行き届いている。隅々まで見逃せない作品。犬飼さんは犬女なのにずっと可愛かったし。これは高画質でずっととっておきたいなあ。ブルーレイディスク買おうかなあ。地震速報とか今期のアニメ、入りまくりだものなあ。

 せっかくだからと起き出して文学フリマへ。今回は流通センターでも会場が違って1階2階に分かれていない大きなフロアをぶち抜きで仕様。隅から隅までずずいっと見通せて一体感がある上に、いつも以上に来場者が多く歩いているようでどこの通路にも人がいて賑わっている感じがあった。裏ではというか表ではCOMIC1もあったりして漫画系はそっちに流れただろうけれど、文学に評論に俳句に短歌と文学系のカテゴリーで何かを出すならやっぱりこっちだし、買いに来るのもこっちといった人がそれなりに定着してきた現れか。壁サークル的に超有名なブースが出て有名人がいて行列が出来るってこともない割に、しっかりとした固定ファンも出来ているし、何か面白いものがないかのぞきにくるファンもいる。まったりしてゆったり。面白いイベントになって来た。

 そんな中でまず、ほしおさなえさんのブースに立ち寄り先年暮れに亡くなられた翻訳家にしてミステリ作家でもある小鷹信光さんを偲ぶ会で配布された、ミステリマガジンに掲載された小鷹さん関連のコーナーなんかを合本化したような「小鷹信光ミステリマガジン」を拝領。年表もあって対談もあってインタビューもあったりと小鷹さんの業績を、さくっと振り返るにはベストの1冊になっているけど、これが無償であっていいのかといった思いも。かといって僕に何が出来る訳でもないので小鷹さんが最後まで仕事をしていたミステリマガジンの誌上にてその題字を汚さない仕事を可能な限りしていこうと心に誓うのであった。それにしては次の号の掲載作品、何にするって打診がない。大丈夫か。まあ決めてはあるけれど。

 続いてふらりと歩いて雑破業さんのナポレオン文庫あたりでの仕事をまとめた「ぼkたちの雑破業クロニクル」を買ったり、東海学園大学人文学部の創作文芸コースで書かれた作品を集めた冊子をもらったりし。あと見本誌置き場で手にとって気になった「魔女の倫理と君の理由」っていうゲームブックらしい文庫本を買いに行ったら10冊限定とかだった。誤植とかリンクミスなんかもあって直しているらしいけれど、正誤表がついているので遊ぶ分には大丈夫。それより表紙絵に露出もちょっと激しい魔女みたいな眼鏡のお姉さんが描かれていて、それが中にもカラーで登場するのが個人的にはつぼ。造本の懲りようとゲームブックという仕組みにこれは読むよりまずは遊んでみたいと思った。サイコロはとくにいらないんだな。来る3連休に挑んでみるか。

 あとははるこんのブースでアン・レッキーの短編集「彼の歌の示す処」を買いつつ次回のはるこんはゲストに「紙の動物園」のケン・リュウさんがくるかもしれない可能性を見てこれは行くかと考える。沼津じゃなさそうだし。それから講談社BOXで本とか出していた人たちが作った「ミント」て同人誌の01号が出ていたので購入。ササクラさんとか岩城裕明さんとか円山まどかさんとか百壁ネロさんとかいった名前が並ぶ。造本もきれいなんでこれも連休に読み込みたい。起きていられれば。ほか、聖地会議の最新号とかを拾って退散。いかいも柴田勝家さんといった風情の人が歩いていたけどそういう風情の人ってこういう世界にいっぱい居るから本人かどうかは不明。あるいは戦国武将の柴田勝家さんが見物に来ていた可能性も。どっちだったんだろう。

 浜松町までモノレールで戻ってからJRで「絵師100人展06」を見物。4月の29日には始まっていたけどニコニコ超会議2016とかあって来られず、やっと来た今日はCOMIC1とかの開催もぶつかってどれだけ来るか、心配だったけれども場内を満たすくらいには来場者がいてまずは善哉。絵師さんもだいぶ入れ替わっているうようで耳にあんまりしない名前も多かったけれど、それでも知っているところではOKAMAさんが相変わらずの毒々しさを残した色で花を描き、バーニア600さんが列車のいる風景を描いてほのぼのとさせてくれていた。広江礼威さんは拳銃を持ったワイルドな女の子……ではなく服を着ながら一部がはがせる写真集みたく透けて水着になった女の子で参加。血も硝煙の香りもしないなんていったい何があったんだ。

 個別ではもりのほんさんによる「そこに在るセカイ」が絵本のようでイラストレーションとして素晴らしくって気になった。大きく少女の顔が描かれ彼女の視線が向かう方向に様々な動物たちが向かっていく。彼女は自然の女神か何かか。そして動物たちはどこへ向かう。物語が浮かぶ。夏彦さんは「色」というテーマ性を組んで鱗模様の中を色で埋め色番号も振った背景にセーラー服で眼鏡の委員長みたいな少女が立つ「私はまだ、何でもない色」で参加。だったら染めてあげます僕の色に、ってところかな。眼鏡では晩杯あきらさんの「色めがね」の少女が猫耳パーカーの下に縞の水着めいたブラをしている、その胸のサイズが小ぶりで良い感じ。デカいのも良いけどウスいのも良いのだ。

 ぎん太さん「花の色は うちりにけりな」は上半身の花魁がうつむき加減でくれる流し目が実に妖艶。ウエダハジメさんはもうウエダハジメさんだなあとしか。うたたねひろゆきさんはたぶん手書きの今年はモノクロの絵で参加。細かい細かい。岡崎武士さんは幽霊絵ではなく白無垢の女性が和柄のモチーフを背に立つ絵。洋に流れず和に収まらないイラストレーションとしての立ち位置が絶妙。切符さん「移植の女神」はセーラー服姿の女子2人の上着とスカートの隙間からのぞくお腹の感じが実に良かった。少しの丸みがあってなまめかしくて。触れると柔らかそうで。絵でそこまで表現できるんだ。美樹本晴彦さん。今はこういう絵柄か。そして蒼樹うめさん。顔立ちはうめてんてー的で、そして体はしっかり立体感。平面ではない味がちゃんと出ている作品だった。ほかにも多々、あってもうちょっとしっかり眺めたいので期間中、時間を見てまた行こう。

 なんというか。ベトナム戦争時から使われているヘリコプターのCH−47を新型とか書いてたりして、退役したCH−46の後に続く番号だから新型だろうといった思い込みがあるんじゃないかと思わせるところをさらけ出している某紙の某記事だけれど、案の定、そんなCH−47を引き合いに出してオスプレイの優位性をひたすらに訴えようとしただけの内容で、速いとか航続距離が長いといった性能上の利点を説明はしていても、あの熊本県の地震で敢えてどうして使われたのかといった説明にはまるでなっていない。いやいやそんなおはどっちだって良いんだよ、緊急事態なんだから使えるものは何でも使えば良いんだよと言っておいた方がまだ、筋は通った感じはあるけど、オスプレイは凄いんだ素晴らしいんだと言いたいだけの記事だから、その称揚に躍起になって運用上の利点を言えていないのがどうにも気分的に重苦しい。

 おまけに某記事、「オスプレイの被災地支援にバッシングを浴びせる左派系メディアの『的外れ』をぶった斬る!」だなんて、社会の木鐸にして教育にだって持ち込まれて欲しい、ゆえに軽減税率だってばっちりオッケーな公器にちょっと似つかわしくない雑な言葉遣いでもって見出しを付け、本文にもそんなようなことを書いている。でもなあ、ここん家って自分たちが落書きで「権力べったり」と書かれたことに、伝統のある朝刊のコラムで頭から血でがピューッと吹き出していそうな筆遣いでレッテル貼りだ何だと叫び立てていた。

 他のメディアには左派系だのサヨクだのと平気でレッテル貼りをするくせに、自分たちの悪口は許されないっていったダブルスタンダードぶり。あるいは愛国無罪にしてオスプレイ万歳な紅衛兵的態度。もはや中立公正の公器って状況じゃないれけど、そういうバランスに欠けたことを自分たちがやっているっていう自覚がまるで認識されていないように見えることが、傍目にはちょっと心配になってくる。いくら内にはそれで称揚されても、外からは角度がついたプロパガンダ的媒体だっていう認識が強まって、そういう主張にべったりな人にしか受け入れられなくなっていきそう。でもそうならざるを得ないのは、そんな愛国無罪なスタンスにならないと中で生きていけないからなのか、それともそういう風なスタンスの人間しかもはや残っていないのか。どっちにしてもやれやれな話。


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