縮刷版2016年3月下旬号


【3月31日】 ヤマトだヤマトだ。「宇宙戦艦ヤマト」が帰ってくるっていうニュースが発表になって見た人騒然。「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」というタイトルと一部スタッフが明らかにされたけれども、そこには前の「宇宙戦艦ヤマト2199」のシリーズで総監督を務めた出渕裕さんの名前は見えずシリーズ構成も出渕さんではなく福井晴敏さんになっている。「機動戦士ガンダムUC」で小説を書きアニメの脚本も書いた福井さんが、今度はヤマトに挑むっていう意味での興味はわくけれど、最初のシリーズへの深い愛と理解をベースに、あちらこちらをふくらませ、そして削り直して磨き上げた珠玉の「2199」を送り出した出渕さんの腕が、続く「2202」で過去の「宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」なり「宇宙戦艦ヤマト2」をどう料理するのか、見て見たかった気もするだけにちょっと残念といった気分も浮かぶ。

 監督は羽原信義さんで過去、「宇宙戦艦ヤマト2199」にも一部関わり「宇宙戦艦ヤマト 復活編」にも関わってと縁が遠い人ではないけれど、でもどうして出渕さんの名前が見えないのか、まだ出していないだけなのかといったあたりは気になるところ。何かあったのかなあ。そして製作者側が福井晴敏さんにどんなものを期待しているのかといったところも。いわゆるヤマトのおたくが根掘り葉掘り見聞した挙げ句に見たかったヤマトを作った「2199」ではない、万人受けするドラマツルギーを持った「2202」にしたかったのか。そういう製作者側の思惑に出渕さんは乗りたくないから乗らなかった、なんてことはあるのかな。まあ「2199」でやり遂げたってこともあるんだろうけれど。

 ただかつての「宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」がラスト、玉砕とも特攻ともいえる捨て身の戦いを見せてある種の感動と、そして辟易感を醸し出しただけにそこを福井さんがどうさばくのかがやっぱり重要になる。命をかけて地球を救い人類を救うといった分かりやすい感動に走らず、かといって人が死んでいく様をシニカルに描くようなこともない展開。加えて「2199」という作品がいろいろと撒いた種をどう刈り取りどう除去するかといったことも、続きなのだとしたら必要になってくる。デスラー総統は生きているのかとか、イスカンダルのスターシャのお腹には何かいるのかとか、波動砲はもう使えないのかとかいったこと。それらをどう差配してどうドラマを描くのか。とても難しい仕事だけれどきっとやり遂げてくれるだろう。「機動戦士ガンダムUC」でも福井さんは立派にやり遂げたと僕は思っているから。「キャプテンハーロック −SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK−」のことは聞かない。

 いやあ。週刊文春も日刊スポーツと似たり寄ったりというか。例の監禁事件についての記事。容疑者となった人間に関連して「アニメおたく」って中吊りの見出しに付けてあったけれど、本文では美少女アニメについて仲間内で話してたって知り合いの証言だけが数行、書かれているだけで、具体的な作品名もなければそれが事件とどういう因果関係があるのかについての論証もない。「文化祭に自作ゲーム」というのもパソコン部だったからドラクエみたいなゲームを作ったよという話。それが事件とどういう関係があるのか、やはり論証は行われていない。

 でも、そんな中味がない記事でも世間はそうなんだからそうなのかもしれないなあと見る。元よりのちょっとしたネガティブな感情を事件と絡めて誘い増幅させて定着させていく。そして事あるたびに繰り返されるからレッテルはなかなかぬぐえない。どうして免許までとってのめり込んでいたパイロットだからといった部分に原因を求めて突っ込もうとしないのか。千葉大生だからといった属性はどうなのか。そりゃ違うだろうからやらないよっていうのなら、アニメやゲームだって同様。なのに関連づけられ仄めかされては悪印象ばかりが広まっていく。やれやれとしか言いようがない。

 こう書くと、逆にアニメ好きゲーム好きマンガ好きと書くこと、それ事態を牽制しているといった声もあがるけれども本当に、アニメが好きで美少女アニメにどっぷりと浸って家にはポスターが並び18禁ゲームもいっぱいあったりといった人間なら、その影響について考えてみることを否定はしない。でも具体的な作品名を挙げず、当人がそういっていたとう証言もなく、友人らしき人間のそうだったかもしれないといった噂話を属性として持ち出すのはどうなのか。免許まで取っているパイロットの方がよほど属性に染みこんでいるじゃないか。

 けれども取り上げないで、伝聞に過ぎない属性を事件と絡める描き方は、やはり拙いと思うから誰もが反発している。でも改まる気配はない。ネタはなくてもそれっぽい話を引っかけそうなんだといった空気を作り出す。これが世間のマインドを濃くしてやがて固定化する。アニメや漫画に対する印象とか。あるいは政治家の厄介な言動の希薄化も引き起こす。権力がメディアを結託し、印象を操作していった果てにどこに連れて行かれるか。そうならないために、印象操作には断固として反発する。あれは仕方が無いけどこれはダメといった切り分けではなく、それはダメだといった決然とした意識を持って臨め、情報に。

 坂村健さんといえば「電脳都市」を1985年に発表して、すべてがネットワークに?がった都市の未来像って奴を提唱してそれが、たとえば映画の「MATRIX」みたいな表現になったり、士郎正宗さんの「攻殻機動隊」みたいなビジョンを生みつつ今、もっとも注目されているすべての機器が使う人も含めてネットワークを介して?がった「IoT」の概念へと結実した、その先駆者であり生みの親ともいえる人。一時はいわゆるパソコンのOS戦争の狭間にあって、TORON OSといったものを提唱しながら日米のハイテク摩擦の狭間でMS−DOSに押され潰され、時代から去った人めいた雰囲気も醸し出されていたけれど、その時もしっかりとユビキタスコンピューティングという分野で確固とした信念を持ってネットワーク化に挑み、TRONも組み込み型OSとしてネットワーク機器を動かすための土台として活かす道を探って活動を続けていた。

 それが2000年代に入って一気に結実したというか、パソコンのようなすべてをその中で演算して処理する重たい機器が疎んじられ、スマートフォンのように手軽なサイズに処理を行うことすら面倒がられるようになりつつある中で、あらゆる機器がそれぞれに計算を行う機能を持ちながらも、難しいことはネットワークの上にあるクラウドの中で行う分散型のシステムが主流となりつつあるなかで、TRONでありユビキタスでありIoTといった技術なり概念なりが、必須のものとして用いられ持てはやされるようになっている。

 そして坂村健さんの存在も大きくクローズアップされている。国際電気通信連合会が結成150周年を記念して行った表彰では、あのビル・ゲイツと並んでアジアから唯一表彰されたことからも、その存在の大きさって奴がうかがえる。それこそノーベル賞級の働きをしたんだけれど、日本はその功績をあんまりたたえている感じがしないんだよなあ。これだけIoTとか騒いでいるにもかかわらず。いやIoTといっているのも案外に最先端で仕事をしている若い人たちであって日本を仕切る老人たちはモノのインターネット化だとかメイカーズムーブメントといったものにはとんと無関心で、存在すら知らないのかもしれない。儲かりそうな分野なのにとある新聞とかはそういう情報を密に拾ってたニュースサイトをまさにこれからって時期に閉鎖してしまうんだから、見る目の無さってやつもうかがえる。だからひたすら右肩下がりなんだけれどそれで上が良いってんだから仕方が無い。

 おかげでそんな坂村健さんが出てきて喋り、大きく意義を訴えたリコーによるTHETAって360度の全天球動画像を撮影できるカメラを使って、オープンにさまざまなアイデアを募るコンテストの発表会もどこにも載せられないというか、載せる気もないというか。それはつまらないので、ここん家で紹介するならTHETAを使ってセンサーとかウエブ上のデータなんかと組みあわせた新しいIoTアプリケーションだとか、THETAと連動するガジェットやアプリケーションなんかのアイデアを募ろうっていうコンテストになっている。

 とはいえ固有の企業の固有の商品を、ネットワークと繋げようとするとその接続の部分でいろいろと規格が合わないとかいった問題が起こる。そこをリコーではAPIをオープンにすることによってプログラミングの技術があれば、そしてアイデアがあればTHETAにいろいろとくっつけられるようにした。オープン。それは坂村健さんもユビキタスコンピューティングでありIoTでは重要なことだと訴えていて、1社が様々な機器を接続できるようにしても別の会社は繋げられないような状況では、ユーザーは混乱するばかりでそれは拙いから、オープンであるべきだといったスタンスを示していた。

 逆に企業でいうなら、自社の製品でコンポーネントを組んでもらった方が囲い込みができて良いってことになるんだけれど、それをやって規格が乱立してすべてが共倒れになっていは意味が無い。というかもうそういう時代でもないと理解して、APIをオープンにしてそこに多彩なアイデアを繋げられるようにしたってことになるのかな。結果、どんなものがくっついて何が起こるかまるで見えないけれどもそれだけワクワクする状況がやって来た。

 並のアイデアだったらリコー本体だってすでに実験済みだろうし、先だってのドローンの展示会でも橋梁の下を転がすようにして確認するドローンにTHETAを搭載してみせていた。でもそんな“ありきたり”ではないアイデアが、オープンにすることで多く集まりそう。総額で500万円という賞金もインセンティブとなってクリエイターやメイカーたちを突き動かす。いったい何が出てくるか。それは坂村健さんをも驚かせるものになるのか。結果を待ちたい。

 そんな会見で坂村健さんが言っていた話で、興味深かったのはIoTは現実をプログラミングできるようにする技術、といった指摘でどういうことかというと例えば遠隔地からカメラをリモート操作してとらえ観察するようなことも可能になるし、カメラに限らずあらゆる機器を通して世界を把握できる。そういうデバイスとそれからプログラムがあれば。だからIoTの時代はプログラミングの力が拡大し、プログラミングができることがとても重要になるという。誰でも思ったことが実現可能な時代だけれど、それを成し遂げるには魔法が必要。プログラミングという。それを学ぶことがたぶん、これからの世界を生き抜いていく上で重要なんだろう。N高等学校がプログラミング教育をアピールするのも分かるなあ。40年若かったら、そっちへのめり込んだんだけどなあ。


【3月30日】 もう7年も前になるのか。茅場町だか日本橋だかに里中満智子さんや浜野保樹さん、土佐正道さんといった人たちが集まって並んで、政府が進めていたメディア芸術総合センター構想の必要性について会見したことがあったっけ。当時は民主党の台頭もあって追い詰められた麻生政権に対して、やることなすことすべて批判する空気が蔓延していて、そんな麻生さんが持ち出したマンガやアニメーションやゲームと言ったメディア芸術を収集して保管し展示するメディア芸術総合センターについても、国費で漫画を買い集めて読ませるマンガ喫茶じゃないかといった揶揄が飛び、それをメディアが増幅して書き立て麻生政権批判の材料にしていたっけか。

 これが今なら自民党万歳とでも言えそうな空気の中で、すばらしいお考えですと擁護する提灯持ちも大勢出て来そうだけれど、それはそれで中味よりも誰が言ったかを気にする幇間的な言説に過ぎず、気持ち悪さでは批判と変わりがない。ただそれでもあの当時、すばらしいお考えですといった声がもうちょっとあったら、麻生政権は潰れず民主党政権を経て安倍政権となって右へと急旋回しつつ独裁色を強めつつ、無茶な経済運営を行って日本をしっちゃかめっちゃかにするような事態も起こらなかったかもしれない。

 そう思うと、麻生政権が出したものだから反対するといわんばかりにメディア芸術総合センター構想を叩きに回ったメディアの罪はとても重い。今になって安倍政権を独裁だ何だと批判したって遅いんだとも。とはいえあの計画がそのまま遂行されても、仏作って魂が入らないまま京都にあった「わたしのしごと館」みたいな展開になったかもしれないから判断は難しいところ。もちろんそうはならずにちゃんと中味もついた可能性もあるけれど、批判を浴びて引っ込められてそして今一度、登場してきた「国立MANGA図書館」構想は、批判されそうな要素をあらかじめ排除している。

 費用については民間からの協力を仰ぎ所在も先行する明治大学の東京国際マンガ図書館なんかと連携したものになって、より充実して効率的なものになりそうで、その意味では7年を回り道した意味はあったのかもしれない。当時、会見をのぞいてた明治大学の森川嘉一郎さんも、協力できるならするけれどって話していたし。ただ7年の間に浜野さんが亡くなってしまったことはひとつの損失かも。政治に顔が利いて業界にもくわしい人がいれば誰もが納得する施設になっただろうけれど。そこはやっぱり7年は重たいかもしれないなあ。

 あと懸念があるとしたら、不健全とされそうなものも含めて収蔵していくのかといった部分か。海外の観念では不健全とされても日本ではオッケーな表現もある中で、その基準をどこに置くのかってところは議論されそう。ここで不健全なものは除外するとなれば、日本のポップカルチャーの大きな部分が失われてしまう。それこそ浮世絵から春画が排除されてしまうように。外圧もあるだろうし突き上げもあるだろうし思惑もあるだろう中で、公正であり後世に残すに足る施設にするためにどんな注意が払われるのか。そこは関心を抱いていく必要がありそう。ともあれ動き始めた構想が、潰されず誰かを利することもなく、粛々と完成して運営されていくことを願いたい。

 巨像、立つ。とでも言うんだろうか、あのソフトバンクがスタートアップの支援に本格的に乗り出したようで、秋葉原でそれに関する発表会があったんでのぞいたら、有名無名を問わずいろいろなスタートアップ案件が並んでいて、それをソフトバンクのネットワークで部品から電子機器から工房から様々な企業が支援する体制ががっちりできあがっていて、ソフトバンクのこの分野にかける本気ってのを見た思い。「+Style」ってゆー、同じ名前のセレクトバッグショップなんかもあったりするネーミングでもって立ち上げられたこのプロジェクト。特徴的なのはまずプランニングとして企画を受け付けお披露目し、それにクラウドファンディングとしてファイナンスの機能を与え、さらにできあがった製品を販売する流通の機能も持っているという部分。

 今までだったら、クラウドファンディングとしてこういう製品があります、こういう企画がありますと投げてみてそれに通ればお金が得られて開発へ、あるいは販売へと向かうことが行われていたけれど、そこに事前のプランニングなんかを置くことでそれのどこが求められているのか、それのどこが拙いのかといった部分について広く意見を集めることができる。製品に対しても広くユーザーとか専門家からのアドバイスを受けて具体的な製品となった暁には、ソフトバンクのネットワークを使ってオンラインショッピングといった展開に持って行ける。

 まさにゆりかごから墓場まで。いや墓場は違うか、胎動から拡散までを一気に引き受けられるプラットフォームは、今までのクラウドファンディングに足りなかった部分を補える。その分野もREADYFORとかMAKUAKEとか、いろいろ立ち上がって競争も激しいけれど付加機能を持たせることで多くがそこに集ってくれて、販売されれば手数料が手に入る。そんなビジネス構造になっている。なおかつそうした製品化にあたって、こんな部品が足りないとかあんな工具が欲しいといった要望も、パートナー企業がかなえてくれそう。秋葉原にあって個人の開発ニーズを引き受けているDMM.make AKIBAなんかも名を連ねているし、部品とか半導体の企業の名前も見える。今までだったら自分で部品をかき集め、工房も探していたのがこうしたパートナーの力を借りてより効率的にアイデアを形にできるようになる。

 そうした利点を買ってかクラウドファンディングからプロダクト開発を頻繁に行っていたCerevoなんかが、早速ひとつのプロダクトをクラウドファンディングにかけて製品のローンチに挑んでいる。それは「RIDE−1」っていう自転車にとりつける機器で、9軸センサーを内蔵していて自転車の傾きだとかギアのステータスだとかケイデンスってペダルの回転数なんかを測定しては、リアルタイムでWi−Fiを使って伴奏者のPCなんかへと送り込める。見てどういう走りをしているかを理解しながら、もっと踏み込めとか支持もできればそこはセーブしろといったアドバイスもできそう。走りと記録を付き合わせ、ここをこうすればもっと効率よく走れるといった確認も行える。

 そんな利用者にとってのメリットとは別に、自転車レースを見ている人にデータを可視化して提供することで、競技者の今の状態なんかを走っている場所ともども確認して、すげえぜこの選手といった楽しみ方をできる。ただ映像で自転車が走っている場面を見せられるのと比べ、どういうステータスなのかを理解できるからレースへの理解も深まる。これに心拍数とか体温といったバイオメトリクス情報を載せることで、人間味のある競技者たちが超人的なプレーをしている姿を数字として、あるいはそれにスキンを被せることで可視化されたものとして確認できる。観戦という行為そのものを変革する可能性を持っている。

 生でとれるデータが実際の競技者にとってどれだけ意味のあるものなのかを計る必要があるけれど、ビッグデータとして蓄積した果てに、理想の走りを実現するためのパラメータといったものを提供し、その通りに走らせるようなアクションも可能になりそう。箱根のインターハイで小野田坂道が走った通りの走りをトレースしてみませんかとか。いやそれをやったら流石に足がちぎれるか。そういったタイアップなんかも含みつつ、機器の有効性を確認していきならが製品化して販売して普及して、それを活用するプラットフォームもできていった果てに、自転車レースはいったいどんな姿を見せるのか。自転車に限らず同様にIoT機器の導入がスポーツ競技を変える可能性も見える中、Cerevoの取り組みは大きな市場を得ていきそう。それを掴んだソフトバンクはやっぱり流石だなあ。

 そうしたスタートアップとクラウドファンディング、MakeresスピリットにIoTといったこれから大きく盛り上がる分野に関して記事を載せていた媒体を、あっさり潰すどこかの会社のポン酢さって奴も相対的に見えて来る。やれやれ。発表会でほかに見かけた製品では、GLMっていう会社が出していた「ガッチャマンクラウズ」で爾乃美家累が乗り回していた「GALAX ZZ」があって、なぜか元ソニーの出井伸之さんが登壇したり車のそばで写真を撮られて人していた。すでに発売することは決まっていたけれど、それを「+Style」に取り込んで一種、看板的に使おうというアイデアは良いかも。出井伸之さんが関わっている会社が利用しているクラウドファンディング、あるいは流通チャネルといった看板も他の多くを巻き込む上で有効に働きそう。

 あと気になったものでいうなら、スマートフォンから高さを支持すると自在に天板の高さが変わる机とか、車のレストアを行う板金工場が外側を手掛けて丸みを帯びたシェルを持った中は革製のアタッシェケースとか、コーヒー豆を選ぶと水の量やらが支持されその通りに淹れれば美味しいコーヒーになるという機器やらアプリといったもの。ありそうでなかった製品でありサービスを形にして広め使ってもらい評判を聞いて直しまた出していくといった、小回りの利く製品開発なり販売ができるこの仕組みから、本当に求められる製品ってのが生まれてくるのかも知れない。巨大化してしまったソニーでなく、町工場の面影と精神を残していたころのソニーがいっぱい生まれる仕組みなのかもしれないなあ。

 佐藤オオキさんが率いるデザインスタジオのnendoも参加していて、「DoT」っていうモノのインターネット化ではなくモノのデザイン化といったものを提案しつつ、そこにIoTなんかを組み込む道を模索しようとしていた。製品としては人が近寄るとコロンと傾いて点灯するランプだとか、人の感情なんかを読み取ってそれをヘッドライトの形にして表現することが可能な車とか、3Dプリンタで構築したBONSAIってのがあって、BONSAIについては意外と早く世に出て来そう。細かくグリッド状になった樹脂を刈り込み自分なりの盆栽フォルムを形作るという一種の模型ホビー。失敗したら戻れない緊張感とかありそうだけれど、形として残るのは嬉しいかな。水やりも必要ないし。


【3月29日】 大学を卒業したばかりの23歳の青年ならばその生涯において夢中になったアイドルの1人や2人はいるだろうし、大好きだったテレビのバラエティ番組だってあってお気に入りのお笑い芸人だっていて不思議はない。戦争映画にハマっていた時期もあったかもしれないしミステリを読んでいたこともあったかもしれないし浦安にあるテーマパークにだって行って大喜びしていたかもしれない。そんな嗜好についてはまるで触れず探そうともしないで好きだったテレビアニメーションがあったということを、ことさらにクローズアップしてのける。

 なおかつその作品がただのSFチックで難解さもあるアニメーションであるにも関わらず、女子高生が主人公だといった事実と反する文言でもって記事にして女子中学生の誘拐・監禁容疑者はアニメ好きでそれも女子高生のアニメを見ていた人間だといった属性に染めようとする日刊スポーツの卑怯ぶりは、未来永劫に語られそして罵倒され続けるべきだろう。記者が個人名まで出している以上はその記者に対する罵声が飛ぶのも覚悟の上だろうし。それとも上に命じられたから仕方が無く書いた? でもその影響の大きさを鑑みるなら、サンゴにKYと刻んだカメラマンに負けない汚名を生涯、背負い続けることになっても仕方が無い。それくらいのことなのだ。

 あれだけ流行っていた作品だから同年代の少なくない人間が見ていただろうしグッズの1つや2つを買ってもっていたかもしれない。けれどもそれ以上にハマっていた何かがある可能性にはまるで触れず探そうともせず、そしてアニメがいったいどういうった内容なのかについても言及しないまま、あたかもアニメを見ていたからあんな反攻に及んだんだと言わんばかりの記事に版元は、あるいはアニメの製作委員会は厳重に抗議すべきだし、それが入れられなければアニメへの理解が足りないと言って、どこかの野球機構みたいに記者の出入りを拒否したって仕方がない。

 いやそれは流石に拙いけれどもそういった気持ちになっても不思議ではないだろう。というかどうして何かやらかした人間が、好きなものとしてアニメを無理矢理に探そうとするのか。そこにまずもって最大の偏見があるなら、そうした偏見を捨てない限りは取材を遠慮して欲しいというのがアニメ好きなら共通に抱く気分。たとえ1人の記者が頑張って偏見を振り払いアニメの記事を書いても、ひとつの偏見がすべてをひっくり返して染めて汚す。どうしてこうなってしまうのか。偏見しかもたない爺さんがデスクをやっているからなのか。でもなあ、日本のテレビアニメが生まれて半世紀が過ぎ、世界でアニメーションが発明されて100年が経つ現在に、どうして今なお偏見が残るのか。そこがどうしても分からない。

 まあでも50代になってライトノベルを読んでいたり新作アニメをチェックしていたり漫画を年に100冊とか買っていたりする人間なんて実は稀で、現実に職場を見渡してもそういう人間なんていなかったりするんで、40代とか50代のデスクがアニメは害悪だといった感覚でとらえ、それを非難する記事を載せることで何かを言った気になっているのも不思議ではない。折しも羽海野チカさんが「三月のライオン」について年輩の編集者から、将棋指しは命賭けているのに漫画なんてライトノベルだから命賭けてないだろうと、漫画家も将棋指しもライトノベル作家も愚弄する言葉を吐いたってことをツイートして話題になっていた。そういう大人が実は活字メディアの上にはわんさかいて、そんな思考がであり嗜好が引っ張っているから活字メディアは時代を外して滅びようとしているのかもしれない。やれやれだけれど、もう2世代くらい下がるのを待とう。その頃には漫画もアニメもライトノベルもプラットフォームごと消滅しているかもしれないけれど。やれやれ。

 そんな状況を打破するきっかけになるのかどうか。今年もまた開かれたマンガ大賞2016が発表されて野田サトルさんの「ゴールデンカムイ」に決まったけれども、その授賞式に去年の受賞者として登壇した東村アキコさんが気になることを話していた。それは「かくかくしかじか」で東村さんが受賞したことで、周囲にまた漫画を読んでみようかといった人が増えたこと。子供の頃は読んでいても大人になると忙しさもあり他に興味も生まれて漫画から離れてしまう人がいる。そうした人をこうしたマンガ大賞での受賞なりマンガ大賞へのノミネートといった現象が引き戻しているといった指摘から、どうであっても世間に必要なものだと理解してもらえる機会が必要なんだってことを思わされる。ヒット作も少なからず生まれて注目の賞にもなっていることもあるし、漫画への認知が変わることで生まれる理解があれば良いんだけれど、それにはやっぱり上の世代の変革がやっぱり必要かなあ。

 さて「ゴールデンカムイ」。いわずとしれた日露戦争の後くらいの北海道を舞台にした漫画で、203高地で戦って生き残った男が北海道に戻って暮らしていたところで聞いた黄金の話。アイヌが溜めていたのを奪った男がいて網走刑務所に収容されたけれども囚人達の背中に地図を刺青して脱獄させた。それを集めれば黄金の在処が分かるということで、203高地から帰った不死身の男が探索に乗り出すというスペクタクルなんだけれども話しはだんだんと、というか割と最初からハンティングの話になって北海道の原野で熊を狩り、そしてアイヌの少女と知り合いになって様々な動物を狩って食らいながらも黄金の在処に迫っていくといったグルメ&アクション漫画になっている。

 グルメの比率が代替7割でアクションが3割? でもって全体を覆うアイヌに関する文化の紹介もあってと読みどころが抱負。それなのにくどさはなくスッと入ってくるのはキャラクターに愉快な個性があるからなんだろう。どの動物をとらえるか、そしてどういう動物なら食べるのか、こういう動物は食べないしこういう行動もとらないといたアイヌの文化に関する考証には的確なものがあって勉強になるし、調理して食べる方法は実地の機会はまずないだろうけれど、いざという時にもしかしたら役立つかも知れない。戦闘はとにかく強すぎる奴らばかりなんで参考にならないけれど、最初は陰惨で変態で残酷に見える奴らがだんだんと可愛らしくておもしろい奴らに見えてくるのも筆の運びの賜か。

 刺青をした元囚人は全員虐殺だなんて酷い展開にのならず、生き伸びては戦いに身を投じたり見方になったり敵に回ったりする姿にだんだんとファンになっていく。でも最後まで生きていられるかは不明。そんなスリルも感じさせられながら、まだ道は途上どころか端緒といった物語がどこに向かいどこにたどり着くかを追っていきたい。僕は推薦はしていなかったけれど、面白さにかけては一級品。でもさすがにアニメ化も実写化も無理かなあ。アイヌがセンシティブだし人は殺すし動物は食うし。それが自然でもそれを自然とさせない風潮が今は根強くあるだけに。

 そして近所で「マジカル・ガール」を見て會川昇さんと小原篤さんのトークを聞く。セーラームーンと書かれたワインか酒のボトルについては気付いていたけれど、會川さんが指摘していたようなもしかしたらアリシアは衣装をまといバトンを手にした段階でひとつ、願いをかなえて魔法少女へと昇華して何か不思議な力を使ったのかもしれないといった可能性を考えるなら、悲惨さを感じてしまうこともあるあの結末に何か救いのようなものを見いだせそうな気もする。そもそもがあのシーン、踊りもせずに衣装を着て突っ立っていただけのアリシアには、何か覚悟めいたものすらあった。自分の命がそれほど長くないことも知ってその前に、大きな願いもかなったのならあとはただ、その絶頂の中で終わりを迎えるというのもありだと思ったのか、それとも父親に自慢の姿を見せて喜ばせようとしたら見知らぬ爺さんだったので怯えていただけなのか。いろいろ取れるけれどもそこは悲劇より楽観を選んでアリシアの幸せを願い、バルバラの回復を願っておこう。次にどんな作品を撮るんだろう。監督の未来にも期待。


【3月28日】 続編が出ていた方波見咲さんによる「ギルド<白き盾>の夜明譚2」(MF文庫J)。マリールイズという名のお人好しのギルドマスターに乱射が目立つ砲兵と、刀の手入れに熱を入れすぎるサムライと、エーテル飲みのエルフの火術士といった、それなりに実力がありながらも使うにはお金がかかり過ぎるメンバーで、ずっと赤字続きで存亡が危ぶまれていたギルド<白き盾>を、都会から傭兵になる夢を抱いて流れてきながら、運営食として雇われたレイという青年が、策謀を巡らしアイデアも出してどうにかこうにか建て直し、収支とんとんまで持って行った第1巻の流れを引き継いで、まあそれなりに堅実に運営はされていたものの、ちょっと気を抜くとすぐに赤字になってしまう。根本的にどうにかしないといけないってことで、スポンサーを募ることになったものの弱小ギルドにそんな価値を見いだすスポンサーはいなかった。

 そこに朗報。銃や剣といった武器を作る工房を率いるヴァネッサという少女がスポンサーになって兵器も供給したいと申し出る。これは渡りに船と乗りかかったものの、ヴァネッサが出してくる武器を見てさすがのレイもマリールイズもちょっと戸惑う。まずは砲。先込め式で効率が悪い上に先端に剣が生えていた。銃剣ならぬ砲剣。誰がそんなものを振り回すんだ。そして刀。前へと伸びる刀身とは別に束から手前へと生える剣があった。振り回せば腹にあたってサヤがなければ腹が切れてしまいそう。そして杖。やっぱり剣が仕込んであって降ると先端が飛んで言ってしまう。どうにも使えないポンコツ兵器ばかりで、これにはポンコツぶりを発揮してきたギルドの面々も呆れてしまう。

 とはいえそれを拒否できるほどギルド<白き盾>は裕福ではなかったし、ヴァネッサという工房長がめざすとあるモンスターの退治にもひとつの大義があった。ならば受けるかと向かった一行だったけれど、そこに邪魔が入って目的のモンスターにたどり着けそうもない。どうやって妨害をかわすか。そしてモンスターを退治してお金を手に入れるのか。そこに工夫があり推察があって探索もありのドラマが繰り広げられる。たとえ欠陥兵器であっても、それを作り出したヴァネッサの腕前は本物。そんな腕を買いつつ欠陥兵器でも使い方によっては便利でもある特徴を活かして砲兵のアメリアを始めメンバーは戦いにのぞむ。分業が進みギルドに居場所がなくなっている砲兵という仕事が、それでも意味のある物だと見せるアメリアの頑張りも読みどころ。ポンコツ武器職人のヴァネッサも半ば加わって、次にどんな冒険をこなしてギルド<白き盾>はかつての名声を取り戻すのか。レイは調達に調整にどんな活躍を見せるのか。続きが楽しみ。

 いよいよ白鳥沢学園との宮城大会決勝ってところでパタンと閉じては、第3期への期待をつなげたテレビアニメーションの「ハイキュー!! セカンドシーズン」。スーパーでスペシャルな競技中の作画は、前回の青葉城西を相手にラスト、影山からのトスを陽向が打つあたりでぐわっと足を踏みしめボールの下に入る影山とか、サッとひらいてジャンプしてトスを待つ陽向の動きなんかに詰め込まれていて、今回はそれが再び流れた程度でインターミッション的な感じではあったけれど、前回まるで喋らなかった潔子さんが喋ってくれて嬉しかったし、前に影山と陽向が補習を受けていた女性教師も再登場して大声を出して応援していて、姐御っぽい声が聞けて嬉しかった。あとは田中の姉ちゃんが胸を揺らしながら走ってくれた場面とか。そんな見どころ聞きどころを味わいつつ、ひとまずのシーズンを終え、再会後の白鳥沢戦でのうしわか相手の試合を勝ち抜き春バレーへと駒を進めるのか、それとも違うのか。原作読んでないから知らないけれど、そんな楽しみを抱きながら待とう、第3期の放送開始を。

 たとえ天下の暴論で特定個人をセクハラ気味に誹謗するようなコラムであっても、表現の自由であり報道の自由の御旗の元に書かれたものだから訂正はせず、引っ込めもしないで逮捕されても裁判で戦い本当に酷いコラムではあっても、さすがに刑事事件にはできないといった司法の真っ当な判断で無罪となったことを勝利と叫び、表現の自由を守ったと拳を振り上げるなら、スポーツジャーナリストの玉木正之さんが紙面上にコメントを寄せてNPBこと日本野球機構の不興を買って、載せた新聞社の出入りを禁止すると言い出したのなら表現の自由であり報道の自由であって妥協せず、最後まで戦い抜くのは態度として当然。でないと整合性がとれなくなってしまうから。たとえオールスターゲームと日本シリーズの取材ができなくっても、プロ野球全体から閉め出されるような事態になっても、取材拒否を受け続けてはNPBの横暴を問い続けていって欲しいねえ。できるのなら。日和らずに。さてはて。

 前に「大江戸スタートアップ」って形でIoT関連のスタートアップ企業のピッチなんかを行い評価をしていたアスキー・メディアワークスが、その名を「アスキー・スタートアップ」と変えてより本格的にスタートアップ企業を支えるようなイベントを始めたんで見物に。題して「IoT&H/W BIZ DAY by ASCII STARTUP」では、画期的なプロダクツとかアイデアとかを持った企業がそれらを持ち寄りお披露目しつつ、支援とか協業を呼びかけるといったもので規模では遠く及ばないけどS×SWみたいなものって言えるかも。中味の方でもそのS×SWで認められた手に乗るDJシステム「GODJ」を作ったJD SOUNDが、新たに開発したちょっと大きめのDJシステム「GODJ Plus」を並べていたり、踊る初音ミクを手掛けたユカイ工学が「BOCCO」を並べたりしていて、これからのIoTとスタートアップとMakerな動きを感じられるイベントになっていた。

 とりわけ「GODJ Plus」はサイズこそ弁当箱みたいに大きくなって最初のバージョンの持ち味だった横長の手に乗るサイズから外れてしまっているけれど、それでもパソコンなんかよりは小さくそこにモニターが付きつまみやスイッチなんかもついて本格的なDJを実演できる。なおかつ音楽を再生して楽しむラジカセみたいな使い方も可能。家のどこかに置いて音楽を鳴らしたり、ちょっと手元に持ってきてDJプレーを楽しんだりとかいった使い方もできる上に、持ち出して外で内蔵のスピーカーから音を出してちょっとした実演も行える。PCに音源を入れつつそれを機材を通してDJに使うような方式もあるけど、これならオールインワンですべて可能。ハイレゾにも対応しているとかでハイレゾ音源のプレーヤーとしても使えるんならこんなに安いものはない。

 だってクラウドファンディングで1台あたり4万円を切っている。早割はすでに埋まり2000万円の目標金額も64日を残して残り300万ちょいと好成績。欲しい人がいたんだろうなあ。そこにぶち込んだこの製品。売れているしずっと売れていきそうだし海外にだって躍進しそう。東北から生まれて世界のDJシーンを変えそうなシステム。買ってみるかなDJなんてやったことないけど。これなら僕にも使えるかな。イベントにはほかにもいろいろ画期的なアイデアとか並んでいたけれど、そうしたアイデアを実際に製品として世に送り出すとなるとどこに作ってもらうかっていった悩みが生まれる。

 そこに手を挙げていたのがVAIOって会社。言わずとしれたソニーから出てパソコンのブランド「VAIO」を社名に掲げてスタイリッシュなノートパソコンを送り出している会社だけれど、一方で起業家たちが手掛けた画期的なプロダクトを工場のラインに載せて製造し、世に送り出すような事業も柱にしていこうといているらしい。会場には「Moff BAND」ってセンサーを搭載した腕輪を腕にはめ、振ったりするとそれが反応してスマートフォンやタブレットから音が出るデジタル玩具や、富士ソフトが開発した「PALRO」ってロボットを並べて、こういったものを作っているんだと見せていた。

 VAIOが拠点にしている安曇野の工場は、かつてあの「AIBO」なんかを作っていたこともあるそうで、ロボット作りのノウハウはあるけれどソニーという巨大な組織で今やそうした製品を手掛けるところはなく、ノウハウが宝の持ち腐れになっていた。それを独立したのを機に復活させて生産ラインとして稼動しはじめるという。何を決めるにも鈍重な巨大企業では不可能な小回りを見せて仕事を取りつつ、スタートアップ企業を支えるモノ作りの拠点になる。日本にあって品質も保証できて技術力もあって小回りが利く、こうした工場があって画期的なアイデアに資金を出すところがあって、そして何より画期的なアイデアを形にしようと挑むメーカーたちがいる。そこから未来のソニーもアップル生まれてくる? いやいやもはやソニーとかアップルなんて鈍重な企業では生き残れない。生まれてくるのは真新しく、そして誰も見たことない集団になるだろう。その活躍を見守ろう。日本政府も見守れば良いのに。


【3月27日】 あれは1997年の10月28日、赤坂プリンスホテルで開かれた「デジタルエンジン構想」とやらの発表会見に出席してそこで押井守監督が次に挑む実写とアニメーションとを組みあわせた今までにないタイプの作品「G.R.M/ガルム戦記」のパイロットフィルムを見せられた。その時に抱いた観測は「アニメはパイロットだけあってCGの動きにぎこちなく、実写はなんだかビデオ作品を見ているようなチープさがあって、大友さんのよーな『ものすげー』といった感じは受けなかった」といったものだった。

 。ここに挙がった大友さんとは大友克洋さんで作品は「スチームボーイ」。感想はといえば「動きも演出もスピード感にあふれていて、おまけに質感も量感もたっぷりで、見ているとそのまま呑み込まれ祖そーな気分になってくる」といった感じで公開への期待に満ちていた。でも、その後に紆余曲折があって作品はなかなかできあがらないまま先に「メトロポリス」が公開されて後、7年も後の2004年7月。その間に「デジタルエンジン研究所」は名前が変わってスチームボーイスタジオとなって後にサンライズの荻窪スタジオへと変わり、さらに変化しながら関係者が先の文化庁若手アニメーター等育成事業として作られた「あにめたまご2016」で、「風の又三郎」っていう不思議な味わいの作品を作った武右ェ門へと血脈が続いていくといった感じ。アニメに歴史有り。

 それでも完成したから「スチームボーイ」の場合は幸せだったけれど、「G.R.M/ガルム戦記」はパイロット版とか模型とかは作られたものの作品の形にはならず計画として瓦解。後に同じように実写を取り込みコンピューター処理して不思議な映像として見せる「AVALON」が作られ落とし前はついたかと思っていたら、いつの間にやら作られていたのが同じ名前を引き継いだような「GARM WARS The Last Druid」とゆー映画。カナダでロケして実写でもってアニメーション的な映像を見せるといった辺りは過去のコンセプトそのままだけど、樋口真治さんとか伊藤和典さんとかは関わっていない。

 つまりは濃度100%の押井守る監督映画って感じで、それだけにスペクタクルとかアクションとかいった題材よりも、どこか哲学と思索が表面に出た難しい映画になっている。ってなぜ知っているかというと2014年の東京国際映画祭で上映されて前後して開かれたフィルムマーケットでの上映と、映画祭での押井守監督も登場しての上映とで2度、見ているからで、まあそれでもいつもの押井映画、公開されていろいろ言われるんだろうと思っていたら、すぐ公開とはならず全米での公開もあったのかなかったのか分からないまま、先に「東京無国籍少女」なんかが公開されてやっぱりお蔵入りかなあと諦めていたら、何とスタジオジブリを半ば退き暇になったか鈴木敏夫プロデューサー日本語版の監修を買って出て、そのネームバリューと勢いでもって5月に公開されることになったらしい。

 あの虚淵玄さんも名前が出て来て日本語版の脚本でも書くのかと思ったら、コピー担当だそうで名前を使われているだけっぽさが漂うけれど、そんなホラを吹いてでも注目させる手腕はさすが鈴木さん。加えて前売りにかつての「G.R.M/ガルム戦記」のパイロット版映像が収録されたDVDを付けるとあって、AnimeJapan 2016からの帰り道にTOHOシネマズららぽーと船橋に買いに言ったら売り切れにはなっておらずちゃんと買えてまずは善哉。まあ今の押井守監督の人気で即完売とかあり得ないから急ぐ必要もなかったのかもしれないけれど、そこに必死になってこそのオシイスト。たとえ実写版に対する愛は薄くても、それでも残っている慈しみをもって前売りを買い話題を盛り上げ初日にかけつけお言葉を傾聴するのが筋ってものだ。うん。

 1997年の発表会見で押井さんは「アニメ的な企画を強引に実写でやる、デジタルがそれを可能にする」って話してて、聞いて「だったら、わざわざ実写で撮らんでも、アニメでやればいーのに」と思ったのは今もあんまり変わりがなくて、僕としてはあの静謐だけれど地の底からわき上がってくるよーな衝動も感じられる押井守監督的なアニメーションの映像を、また見たい気がするんだけれどそっち方面の活動は「スカイ・クロラ」を境にぱったりと途絶えている。西久保瑞穂監督による「宮本武蔵 −双剣に馳せる夢−」には関わっているけど、原案と脚本だから押井作品とは言えないし。

 その代わりに出てきた実写版パトレイバーも楽しかったけど楽しいだけだし「GARM WARS」も深遠さが勝って驚きにはちょっと遠いというか、いつもの押井監督の実写といった語られ方で過ぎてしまう気がする。でもだからといって見捨てると次にアニメーションを作ってくれる可能性が遠のくとなると、やっぱり通うしかないんだろうなあ、この映画に。せめて日本語版で楽しめるものいなっていれば。語りが広島弁になっているとか。それはないか。どうなるかなあ。

 そして今日も今日とてAnimeJapan 2016へと出向いて人混みを散策。ブースの中で何をやろうともそれは出展者の自由だけれど、それを見る人たちのスペースを通路にまで設定しているというのやっぱり違うような気がするし、物販も長蛇の列を見込んでいるなら、そのために外部に行列を作らせ中には極力人をはべらせないようにする必要があるんじゃないのかなあ。逆にたいして並んでもいないのにずっとチェーンを置いて通路を塞いでいたりして、それが人の流れを邪魔して混雑の原因になっていたりする。そんな有様を見るにつけ、もうちょっとレギュレーションをしっかりしないと今年は無事でも来年は無事では済まないかもなんて思えてくる。

 まあ物販はどうにかできてもモニターとかステージにできる人垣を通路にまであふれさせるのは厳禁にしないと。でもそれだと見られる人が限られるっていうならスペースを大きくとるか、主催者も含めて通路をさらに広くするしかない。一方でファミリーアニメフェスタは狭くて演し物も少なく午前中で締め切られてしまって、午後から来た子供はやることがなかったりする残念さ。そういう辺りを改善して欲しいんだけれど、公益というより宣伝が主体のイベントだと、出展者の声を整理するだけで精一杯で、来場者のアメニティは先になってしまうのかも。見る物もなく閑散としているのは寂しいけれど、見せたい物ばかりで大混雑だと逆に見られず意味も無い。その案配をどうするか。気になるけれどもそうした諸事は気にせず、ただ作品だけを観て面白いかどうかを喜び、良ければパッケージを買うくらいに皆がなれば、混雑も緩和されていくんじゃないのかな。あまり情報の洪水ばかり引き起こしていると、受け手もいつか溺れてしまうよ。

 そういうことは3話目くらいでやっておけ、って突っ込みたくなった「ブブキ・ブランキ」の第1期最終話。万流礼央子と一希汀が過去にどーゆー関係で、そして今はどーしてあんなにけんか腰なのかがよーやく語られそして礼央子が何を求めていて手足の4人はどーして従っているのかが見えて、さあいよいよ決戦かと思ったら汀は消えて宝島は落ち礼央子の手足は全員が脱落気味。そして世界には心臓を手に入れたブランキがあふれて戦いは激しさを増すなかで、どこで何をしていたのか分からないけど性格がキッチュになった一希薫子がはしゃいで主役になるとか言い始める。何も決着がついてないし何も始まってないともいえる展開を1クール使ってやって構成として酷く歪なんだけれど、それでも散りばめられた謎とかこれからの展開が気になるあたり、しっかりと絡め取られているのかも。同じ事は「パンチライン」にも言えたかなあ。堅実な秀作より破天荒な愚作。そこに漂う革新性に期待をかけて続きもしっかり見届けよう。最後にちゃぶ台ひっくり返す可能性も抱きつつ。


【3月26日】 何を呟かれるのかと、関心を集めていたとり・みきさんが小山田いくさんの訃報が流れてから発した1言は、ザ・ビーチ・ボーイズによる「Their Hearts Were Full Of Spring」という楽曲の紹介で、心が春で満たされるとか、いったいどういう意味があるんだろうかと調べてみて、この曲がかつてザ・ビーチ・ボーイズによって「A Young Man Is Gone」という楽曲として、歌詞も変えて歌われていたことが何となく分かって来て、ああそうか、そういうことなのかもしれないといった理解をひとまず抱く。

 「Now a young man’s gone/But his legend lingers on/For so much had he to give」。若い男が逝ってしまったけれど、彼の伝説はいずまでも残って、与え続けるのだ。英語苦手だからよく分からないけど多分そんな意味。つまり…。いやもう勝手な憶測だから本当に真意は分からないけれど、ほぼ同世代で同時期にデビューし同時代を駆け抜けた漫画家として、なおかつ共に未だ現役として活動している“盟友”の早すぎる死を悼む言葉を探しつつ、けれども直接語るほどの純粋さを小山田いくさんに任せるなら、自分は韜晦と衒いの中に言葉を選んで贈りたいといった気持ちが、ちょっとひねくれた楽曲を持って来させたのかもしれない。

 古いザ・ビーチ・ボーイズのファンならそんな風に楽曲が流れてきた経緯に気付いて、ああそうかとすぐにピンと来るだろうけれど、それとなく知ってる僕ら程度の人間には調べないととてもじゃないと分からない。そこまで踏んでのセレクトだったのか、あるいはYouTubeから「A Young Man Is GONE」の動画が削除されていたんで、元歌の方を選んで紹介しただけなのか、はっきりしたことは分からないけれど、いずれにしても浮かぶ気持ちは読者だった僕ら以上に深いはず。その思いが経験とともに語られるような場所があれば、行って伺いたいものだ。改めて小山田いくさんを悼みつつ、合掌。

 そういやあヨハン・クライフが亡くなったって方が話としては早かったんだけれども1974年のワールドカップ西ドイツ大会での活躍なんて9歳だから見ていなかったしテレビで何となく状況を見知っていた1978年のアルゼンチン大会ですら試合そのものを見たって記憶がないんで、バルセロナでの現役生活も含めてその凄さってのが今ひとつ分からずず心底から悼めないといったところ。監督としてバルセロナを率いていた時も海外サッカーなんてACミランの方が全盛といった感じでバルセロナはトヨタカップで優勝もしておらず、どれだけアリゴ・サッキに比べてどれだけ凄いのか、なんて思っていたりもしたからなあ。

 でも聞くほどに強い印象は残していたみたい。偉大な選手であることには変わりなく、その死がもたらす哀しみも広がりそう。実際に見たわけではないからどういうサッカーなのかは知らないけれども「トータル・フットボール」という言葉から醸し出される、誰もがポジションに縛られることなく、かといってその場にいるなら最大限にそこでの役割を果たしつつ、次への展開も考え動く流動的でスピーディーなサッカーというものが、完成したならサッカーに革命が起こりそう。バスケットボールですらポジションが決まっていったんパスの流れが止まる状況にあって、常に誰もが動き出してもらいどこからでも打つサッカーなんてできたら、きっと凄いことになるだろうなあ。そんな夢を感じさせてくれた偉大な人間の死に、合掌。

 朝からAnimeJapan2016へ。場内に入った当初はそんなに混んではいないなあと思ったものの、お昼過ぎ辺りから各所でステージイベントが始まるわ、物販の行列ができるわでブースを取り囲むように人垣ができて、それがあちらこちらで発声するからふくらみがぶつかり合って通路が狭くなって通り抜けるのも難しい場所が出てきた感じ。中央の通路にも人があふれてあちらこちらで座り込み。休む場もなく立ったままで過ごした子供は帰ってすぐにバタンキューとなったかもしれない。キッズだけのエリアもあるにはあったけれど、そんなに広くないし座れる場所だって限られていたからなあ。そういう意味では優しくなかったかも。

 そりゃあコミックマーケットだって優しくはないけれど、あれは覚悟を決めてくる人の戦場だし、座り込みの場所とか制限があるし待機列だって外に作って中を混雑させることはないから。主催者と参加者との間にある信頼関係と共犯関係が運営をスムーズにしているところもあるけれど、AnimeJapan2016の方は参加者は基本的にお客さん。その人たちをほらほら新作の映像を見せてやるぞ声優たちの姿を拝ませてやるぞグッズを売ってやるぞといった感じで扱っていては、いずれどこかで限界が来てそれならいいよ作品は家で観るのがベストであり作品こそがオンリーで、グッズなんて買わないパッケージですらもういらないイベントだって行く必要が無いってなっちゃうかも。ならないかな。でももうちょっと人に優しい運営をお願いしたい感じ。

 っていうか昔はあんなに物販をブースでやっていたっけ。こぢんまりとはやっていたけど大々的に並べてここぞをばかりに売る商売って、何か違うような気がするなあ。それなら普通にショップで売れば良いし通販だってやればいいのに、イベントだからとかき集めては限定だとか先行だとかいって煽ってそれに付いてこられるうちは良いけれど、ハタと気付いて虚しさに溺れたりするともう、あとは離れていくだけだから。そのあたりの手綱をしっかり差配しないと未来を先食いしているだけだよって、ちょっと思った。昔はこんなに殺伐とはしていなかったんだよなあ。作り手も書い手も作品への愛が満ちていたから楽しさの中に競争があったよなあ。なんて思ったりもする年寄り。そうはいいつつコミックス・ウェーブで「言の葉の庭」の大判ブロマイドは買ったけど、四阿に立つパンツスーツの女性の絵。ポスターはもっているけど広げられないからこっちを眺めてそのいい女ぶりにひたろう。

 コミックス・ウェーブではあと沼田友監督による商業デビュー作品となる「旅街レイトショー」のDVDなんかを購入。昨今のレコード店とかの状況を見るとアニメのDVDなんてジブリかディズニーかガンダムはヒットした映画くらいしか置かないし、アニメ専門ショップだとテレビアニメとかが中心でそれも新譜ばかり。こうやってハートウォーミングだけれどマイナー感が滲む作品なんて置いても数枚がやっとで探すのだって難儀しそう。なんで見つけた時に即ゲット。それが1番。会場には沼田監督もいたみたいだけれどブースにいたかは不明なんでサインとか頂戴することはできず。まあいつかどこかですれ違うだろうから、その時に持っていたら頂こう。売れるといいな。売れてそしてもっとその良い話をいっぱい映像にしてくれたら嬉しいな。


【3月25日】 たとえ薄くっても女の子、やっぱりそれなりに出っ張っているし触れれば柔らかいサヤちゃんのあそこに肘で触れたココノツに、いったいどんな感触だったのかを聞いてみたいし問い詰めたい気分だけれども一方で、眼前にぐっと迫ったほたるの巨大なあそこに鼻先すら届きそうな状況で、どんな気分になったかも聞いてみたいし問い詰めた上で折檻したい気分。どんな匂いだったんだろうか。顔を埋めたくなっただろうか。揺れたんだろうか。跳ね回っていたんだろうか。

 サヤちゃんから伝わる肘のリアルな感触が上だったのか、それとも隙間は置きながらも間近に見られる喜びが上だったか。どっちにしたって羨ましいけどそれ以前にヨウさんどうして気付かない? まあそういうものだよ人間って。コーラガムの辺りをでっちあげて男の子に花を持たせるあの采配は人間味にあふれていたなあ。そんな采配なんて無視してひたすら当たりを引き続けるサヤの駄菓子運の強さにも感動。そんな「だがしかし」は来週で最終回。待つのは別れかそれとも腐れ縁に浸り続ける永遠の夏休みか。

 NHKにも報じられた、東京アニメアワードフェスティバル2016におけるディレクター解任に伴って審査されなかった作品が出たという件。状況として東京アニメアワードフェスティバル2016は開催されて、長編と短編のコンペティションも行われてそれぞれに受賞作も決まって幕を閉じたけれども、後からそうやって集めた以前に、応募用のプラットフォームを通じて寄せられていただろう作品に対する審査は行われなかったというか、行えなかったということらしい。まあそうだろうなあ、だって何が来ているか分からなかったんだから。

 分かっていたのは解任されたフェスティバルディレクターの人だけなんだけれど、その人が地位の継続を求めてアクセス権を手放してなかったため、解任後に引き継いだ人は中が見られずそっちからの審査はできず改めて作品を募ったというのがとりあえずの大まかな流れ。そうやって集められた作品とプラットフォームを通して応募された作品が、ほぼほぼ重なっていれば最終的には良いんじゃね? って言われそうだけれどもやっぱり世界に開かれた映画祭なんだから、応募の段取りとかが途中で変わってしまうのは誰にとっても不都合だし、何よりクリエイターにとっては迷惑だっただろう。そこはまず謝るべきなんじゃないかなあ、主催者が。

 それにしてもどうしてこんな事態になってしまったのか、って部分で根本となったフェスティバルディレクターの解任の経緯が、どれだけどちらに正義があったのかって辺りがひとつポイントになりそうで、そこで白黒がはっきりすればとりあえず元のサヤに納めてから再度協議するってのが段取りとしての筋。続いてそこで不正義があったとして解任に動いたのだとして、その手続きが正しく行われたのかってところが気になるところで、無茶を通して解任したんだったらやっぱり筋は通らないか、ら元の地点に戻して再度、徹痔期を行うべきってのが大人の社会の道理って奴だろう。

 ただ一方で、解任がされてしまって実質、現場から外され運営にタッチできなくなった段階で、応募のためのプラットフォームの鍵を握って作品を“人質”にするようなスタンスを世の中に感じさせてしまったという部分で、果たして道義的に受け入れられるものかどうかってのが気になるところでもある。映画祭を愛しアニメーションを愛しクリエイターたちに敬意を示すのならば、そこで作品を握って話さず審査不能な状況を作り出してしまったこと、それ事態に忸怩たる思いを抱いてそれはそれでこれはこれといった態度を見せることもできない訳ではなかったかもしれない。

 ただそれをやってしまうと、なし崩し的にひとりがワルモノ扱いされる可能性があるなら、たとえ毀誉褒貶を集めても頑張るしかなかったとも言えそう。相手は名だたるアニメーション会社が集まった団体で、かたやフェスティバルディクターの人を解かれれば一個人に過ぎない関係で、突っ張り続けるのって難しい訳だから。っていうかそもそもどうしてこの人が、フェスティバルディレクターになったのかが分からないといえば分からないんだよなあ。アニメーションの世界にいたという感じでもないのだけれど。そこだけはずっと不思議。そこも含めて業界から疎んじられてしまったのかな。いずれにしても映画祭は終わってこれから本格的な法律を掲げての戦いに入る。勝つのはどっちだ。そして来年もちゃんと開かれるのか。アニメドールはどうなった。先はまだ長いなあ。

 衝撃ではあるけれども、それ以上に驚いたのはほぼ同じ世代、そして上下に5歳から10歳くらいの幅でもって影響を受けたという人、ファンだったという人が多くて、ずっと作品を読んでバイブルでもあってそれだけに訃報に接して落胆も大きいってことを表明していること。もちろん最近までずっと漫画を描き続けて現役ではあったものの、初期の勢いが続いていたのは1980年に連載が始まった「すくらっぷ・ブック」から1986年の「きみはノルン」あたりまで。もうちょっと伸ばして「きまぐれ乗車券」とか「ラストシーン」「むじな注意報」あたりまでを含めても15年くらいの活躍でも、そこから生み出された数々の作品から醸し出された空気によって、少なくない人が染められ惹かれ憧れ溺れた。だからその訃報に驚き哀しみ、そして自分との思い出を語って偲んでいる。小山田いくさんを。

 その影響の広さは同時代のどんな漫画家たちよりも多いような気すらする。「キン肉マン」や「Dr.スランプ」や「キャプテン翼」といった作品が続々と立ち上がり「ストップ! ひばりくん」も始まったりと「週刊少年ジャンプ」は後の黄金時代につながる胎動を見せ始めていたし、「少年サンデー」では「うる星やつら」があって「さすがの猿飛」も始まり「さよなら三角」が来て「タッチ」というお化けのような影響力を持つ作品も誕生した。いわゆるラブコメといったカテゴリーでは頂点に君臨してたかもしれないそうした漫画とは違った場所にいながらも、「すくらっぷ・ブック」は根強い人気を誇って関心を集め、そしてその訃報に誰もが何かを言いたくなるくらいの存在感を残した。

 僕についていうならほぼ直撃世代で、1966年度に生まれた生徒たちが主人公となって中学生の3年間をほぼほぼ時間軸どおりに過ごしていくという設定の「すくらっぷ・ブック」は、1965年度に生まれた僕にとって1歳下で繰り広げられている青春劇。ただ読み始めたのが作品では後半に入っていた1981年で、こちらは高校へと持ち上がってそこでの生活がどこか期待外れで青春をかけるのに値しない場所だと感じ、SFやら漫画といった方面へと突き進んでいった中で出会った漫画に描かれた、部活だの恋だの友情だのといったものに前向きで純粋で情熱的な生徒達に姿に、もうちょっと早く触れていれば高校に希望を抱けたかもなあと、やや引いた位置から醒めた視線を送りつつ、それでも純粋であることの素晴らしさを感じて、爛れず臆さないで生きる力といったものをもらえた。

 もし「すくらっぷ・ブック」に出会っていなかったら、膿んだ青春を暗い気分で過ごしたかもしれない。「うる星やつら」や「タッチ」や「ストップ! ひばりくん」といったSFでありラブコメでありギャグといった先鋭に惹かれてもまれながらも、「すくらっぷ・ブック」が与えてくれた生真面目さが、刹那的にならずスラップスティックに陥らないで真っ直ぐに歩いていける道を、足を与えてくれた。そう思うと有り難かったし、その後出てきた「星のローカス」や「ぶるうピーター」や「ウッド・ノート」といった作品の、青春を誇張もせず安易さにも逃げずスイーツな中に溺れさせないで楽しいことは楽しく、けれども辛いことは辛く描いて生きる厳しさってものを描いていた物語を噛みしめることで、高校時代の3年間を外れることなく歩いて行くことができた。

 その挙げ句にずるいこともできず、要領も悪いままで底辺を這いずり回っているんだけれど、それを寂しいとか辛いとか羨ましいとか思うことなくいられるのも、自分というものを持って歩む強さをこうした作品か得られたから、なのかもしれない。同じ頃、古本屋でふと見かけた2巻までが束にされて売られていた「軽井沢シンドローム」という漫画の多分表紙絵あたりに、どこか小山田いくさんとの似た部分を感じて買って読んでハマったの地に作者のたがみよしひささんが小山田いくさんお弟だと知って、ああやっぱりそうなんだと思い驚きつつこの似つつもまるで作風の違う2人が、やがて漫画の世界を席巻するに違いないと思ってからかれこれ30年。見渡せば小山田いくさんは現役ではあっても第一線からは遠のき、たがみよしひささんはクールでスタイリッシュな作品を描く漫画家という伝説を残してやっぱり一線から引いている。

 どういうことなんだろうなあ。それはやぱり時代がバブルを経て沈滞へと入る中で、2人のように愚直で純粋で真っ直ぐな愛と青春、暴力と解法を描く作品は退けられていったから、なのかもしれない。それはそれで残念だけれどでも、「すくらっぷ・ブック」であり「軽井沢シンドローム」といった作品は世に問われてそれを読み、小諸へと詣でて軽井沢へと走りに行った大勢のファンを生んだ。小諸を訪れるファンのために案内までできたといった伝説は、今でいうところの聖地巡礼の走りだとも言える。

 だけれどもそれが言葉として、あるいは行為として固定化しなかったのは当時まだネットといったものがなく、そうした体験を言葉に束ねて世に示し、大勢で共有しながら行為として盛り上げていく風習がなかったからだろう。「天地無用!」あたりからどうにかネットも生まれて意識の共有化が図られ「耳をすませば」という首都圏が舞台の作品で行為としても作品の舞台を詣でやすくなった。そして行為として視覚化されたけれどもやっぱり聖地巡礼の走りは、「すくらっぷ・ブック」の小諸であり「軽井沢シンドローム」の軽井沢じゃないかなあ、と改めて思うのだった。

 リアルな場所、でも東京から遠い場所で起こるエピソードに引き付け当地に人を向かわせる。そのシステム、その情動の立ち上がりを考え直すことで改めて、ただ特定の地域を出せばそこに人は向かうだろうという打算的な聖地化ではない、その作品が紡がれざるを得ない場所として登場し、そこに向かわざるを得ない共感を物語が、キャラクターが、風景が与えてくれて、そして生まれる衝動としての聖地巡礼の真価というものを、理解できそうな気がするけれども、果たして。59歳という若さ、そして死後、発見されたという悲運に哀しみは覚えるけれどもここまで、これだけの作品を残し思いを残してくれた小山田いくさんに、まずは感謝の言葉を贈りたい。ありがとう。そして悼む。安らかに。


【3月24日】 遊んでいたのは初代なんで今の「人生ゲーム」の盤面もそこに書かれてある様々な指示もピンとは来ないんだけれど、それでも50年近くを生き残っているってことは、時代にマッチしたゲームとして大勢の支持を集めているってことなんだろうなあ。そんな「人生ゲーム」の7代目が発表されたんで見に行ったら、プレーヤーの職業を決めるといったマス目があってそこに「声優になれる」職業選択があることに気が付いた。給料は2万7000ドル。これが月給だったらすごいけれど年収だったらちょっと安い。どっちなんだろう。でもって「マンガ家になれる」というのもあってこちらの給料は1万ドル。月給ならまずまず。年収なら悲惨。そしてマンガ家は声優よりも稼げないってこと。そうなのか。ならばと声優に転職する漫画家さん、現れるかな。

 来月にも国際ドローン展が日本能率協会の主催で開かれるのにその前月に同じような展示会が開かれるのはどうしてなんだ、とか思いながらもとりあえずのぞいた「ドローンジャパン2016」はプレデターが目立ってた。っていうか良いのかプレデター。無人偵察機としての役割もあるけれどもそれだって軍事行動の一環だし、ヘルファイアミサイルを積んで飛んでいっては人が入り込めない山間部にあるゲリラのアジトなんかを攻撃するという、兵器そのものでもある機体がモックアップとはいえ置いてある。ニコニコ超会議の会場に戦車の10式やらパトリオットやらが並んでいたような感じ。

 こうやって展示会を開いて、ドローンの商業利用やら平和利用なんかをこれから浸透させたい日本において、兵器としてのすさまじさを感じさせるドローンを展示するのって逆効果なんじゃないかって気分も浮かんだけれど、ドローンにはそういう負の部分もあるんだと見せつけることで、危険を鑑みつつ噛みしめながらも日本ではドローンを平和に安全に便利に楽しく使っていこうという意志を、ここで固めて広く喧伝するといった効果もあるのかな。いやきっとそうではなくて珍しくて格好良くて凄いから見せただけなんだ。ニコニコ超会議での戦車とかパトリオットとかもそうだったし。兵器って危険だからこそ人を引き付けるってことで。いやしか意外にでかかった。

 そんな「ドローンジャパン2016」では最新のドローンを見るというよりは、ドローンを使ってどんなことをするのかといった方面へと目を向けて見てみた感じ。だって機体なんてDIJとかYUNEECといった中国の会社が先行してPARROTがスマートフォンを使った操作性でもって評判になっているといった感じで、そこに日本製が割って入るといったことはない。業務用についても大型のはだいたい海外製。そこを競いあってスペック競争をするのを見て凄い凄いとかき立てるのは自動車までで、ドローンについてはもはやそれをどう制御するとかどう使うとかいった部分で様々な競争が始まっている。

 たとえば警備の部分で業界大手のSECOMなんかは自前のドローンといったものを用意して、何か事件が起こればドローンを発信させて犯人を追ったり、日頃から周辺の状況を抑えて置いて違いがあれば、例えば見知らぬ車が止まっていたりすれば警告するような運用とシステムの部分でいろいろと提案を行っていた。すでに空飛ぶ気球を持ち出しては東京マラソン2016のゴール地点の監視なんかを行っていた。空中からの警備需要ってのはこれからますます高まるだろう。同じようなことはソリトンが提案していたWi−Fiを中継してセンターへと送信する装置を使い、ドローンを飛ばしてそこからの映像を中継し、警視庁のセンターへと送信する仕組みがやっぱり東京マラソン2016で使われていたとか。浸透するドローンでの警備。きっとこれからの商売になっていくんだろう。

 その警備ではセコムが飛んでくるドローンを警戒するシステムなんてのも提案。レーダーがあってそれが探知しマイクがあってドローンが発する音を聞きつけそしてカメラがぐるぐると回ってドローンを映像でとらえて追いかけ続ける。飛んだ履歴はしっかり残してどこか来てどれだけいたかを把握。あとはミサイルを発射して打ち落とすだけ……ってそれは器物損壊とかにもあたるから無理だけれど、そうした警戒態勢をとっておくことで不心得者による侵入なんかを防げるし、そうした体制があるって告知しておくだけでも抑止効果がある。ALSOKも同様にドローンの警戒システムなんてものを出展していて。沖電気だかのマイクやカメラをセットした装置を見せていた。セコムほどの高度警戒システム感はなかったけれど、それがあるだけでやっぱり抑止はできそう。ライブ会場だってそうした接近を警戒したいところだし、これからいろいろなソリューションが増えていきそう。

 もうひとつ、面白かったのがドローンを橋梁の下なんかを点検するのに使おうっていうソリューションで、たとえばリコーなんかはジャイロセンサーでもって常にドローンを水平に保ちつつも周辺をぐるりと球形の網で覆ってドローンが橋梁に当たったりしないように工夫している。富士通は囲わないでドローンの両端に車輪みたいなものをつけてカメラ自体は水平に保ちながらも橋桁の下をごろごろと移動させていく方式を提案。こっちはカメラにガードが写らないっていう利点を挙げていた。見えない場所とか狭い場所でドローンを飛ばすのはなかなか至難の技で、センサーとか着けても目視しながらでもやっぱり気になる。ちょっと誤ればすぐにごっつんして墜落。これでは仕事にならないところを、ガードを付けることで解消しようとしている。面白いなあ。

 リコーはといえばさらにユニークな提案も。180度かに迫る広角のカメラを装備してそれで相手との距離なんかを測りながらドローンがGPSに頼らず障害物にも当たらないように進めるシステムを提案していた。室内とかGPSが使えない場所でもドローンを使いたいという要望はある。倉庫内になにがあるかとか、被災地みたいな場所で障害物に覆われているとか。そういう用途でドローンを使おうとしたときに、これまでだとセンサーで障害物を検知し止まりつつ避けて進むか、目視でいくしかなかったけれどこのシステムがあればスルスルと飛ばしていける。果たしてどこまでの視認性があるかが課題だけれど、でも使ってみたいところは多そう。どういう発展を遂げるのか。どういう場所で使われるのか。関心を向けていこう。

 そうかいよいよ世界に向かってお披露目か。NTTにイマーシブテレプレゼンス技術「kirai」っていうのがあって遠隔地で行われているスポーツのプレイとか講演なんかを遠く離れたステージ上に投影して、あたかもそこで競技とか講演が行われているように感じさせる技術があって去年とかにまずは武蔵野にある研究所でお披露目があって、卓球をしている映像が中継されるといった演出でその臨場感を味わわせていた。1年経って今年は会場から少しだけ離れた場所で行われた公演とか、体育館で繰り広げられた空手の演武をリアルタイムで中継し、ステージ上に薄く張られた透明に近いスクリーンに投影しつつ音響にも工夫を凝らして、すぐそこで行われているように感じさせる実証実験を見せてくれた。

 演武者とか講演者の背景を外して当人だけをリアルタイムに切り抜く技術も加わって、臨場感をさらに高める事に成功してこれが発展すれば2020年のオリンピックでも、幾つかの競技が離れた場所にいながら臨場感たっぷりにライブビューイングできるのではって期待させてくれた。とはいえ実験の成果発表として行われたもので、どれほどの人も見ていなかったこの技術が満天下にお披露目される時がやって来た。あの「ニコニコ超会議2016」の会場で、「超歌舞伎」として繰り広げられる演目で、この「kirari!」が使われそこにはいない出演者が演じたものが舞台上で行われているように見えたり、そこにはないものが現れたりするような演出が行われるという。

 「ニコニコ超会議2016」の発表会には歌舞伎役者の中村獅童さんも登場。そして明かされた演目は「今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)といって、歌舞伎にある「義経千本桜」とそして初音ミクの「千本桜」を織り交ぜその間を結ぶようなものになるらしい。いかにもニコニコ超会議っぽい内容であり、そしてニコニコ超会議らしい技術的な外連味。その上で中村獅童さんがどんな演技を見せるのか。初音ミクはどう絡むのか。今から楽しみで仕方が無い。「大正百年の帝都桜京で、神憑特殊桜正体の隊員として活躍する初音未來と桜小隊長の青音海斗。未來は美玖姫として、海斗は佐藤忠信として生きた時代があり、千本桜を守り抜くために、桜の花を奪っていった邪悪な青龍に立ち向かい…」。そんな話。これは見たいなあ。行くぞ超会議。まあ行くんだけれど。

 そういえばドワンゴのエンジニアがニコニコ超会議で焼きそば焼かされているっていう告発があったのっていつ頃だったっけ。そんな話を逆手にとってドワンゴが「ニコニコ超会議2016に送り込む必殺のフード。それがオープンソース焼きそばだ! 有志のエンジニアがソースを手作りした上でレシピを公開。会場で食べられそして家に帰ってからも同じものを再現できるのだ! だ! まあなんちゅうか。ドワンゴらしいノリ。こういう大人のノリはまあ許されないこともないけれど、真似をするのかネットの民の特質か、ニコニコ超会議の発表会の場に来ている観客の性質が面白ければそれでいい的でステージ上でのプレゼンに叫ぶわ突っ込むわ。それで場が盛り上がることもあるんだけれど瞬発力というか反射的に叫ぶものだから中味が時々下振れする。

 ニコニコの自由研究としてAIに関するセッションを行うことになってプレゼンに登壇した人が和装なんだけれど声を聞くとたぶん男性。それがただ異性装が好きなのだけなのか心理的にも越境者なのか判然としない中で、会場から「男性? 女性?」って大声で聞く奴がいた。そこは夏野剛さん「そういうことは聞かない」とたしなめたけれど言われた方はどうしてたしなめられたのか、ちゃんと理解したかが気になった。とてもセンシティブな問題を、そうと気付かず気付く間もなく口にしてしまえる無神経さは発表会という目立ってナンボの場が生み出した空気感によるものか、それとも当人のメンタリティか。いずれにしてもどういう状況で何が許され何が許されないかを体感として抱く能力を、もうちょっと養った方が良いんじゃないななあ。そう思った。


【3月23日】 ふと思い立って日本語版の劇場公開前後にスタートしていて途中まで見た「rwby」の第3期の、見ていなかった残りのエピソードを最後まで一気に見たら凄かった。どこまでもスペクタクル。そしてダークネス。自分の強さに自身があって性格はとってもお気楽な少女が、そうした強い子供たちが集う学校に入って仲間を得て、そこで喧嘩もしたし挫折もしたけど戦って強くなって成長していく、文字通りのビルドゥングスロマンが繰り広げられていたんだけれどそれが一転、第3期では敵勢力の謀略があり侵攻があり、一方で味方の側の非道と苦渋も見えた間で振り回される戦士がいて、そして決意の戦いが実を結べない中でかろうじて、ヒロインが踏ん張るというシリアスなドラマが繰り広げられる。

 絶望とも悲壮ともとれそうな戦いの果てに世界は一旦フリーズ。まるで「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」のようにシリアスで未来に夢とか希望を抱きづらいビジョンの中、困難へと向かいどうにか最初の1歩を踏み出していく。浮かぶのはどうなるんだこの先といった思い。ルビー・ローズにとっては目の前で大切な友達が消えてしまい、チームを組んでいた子たちもいなくなり引き戻され歩みを止めてと離れていってしまう。そんなルビーを引き入れ4人、集った新たなチームはどこに向かって何をめざすのか。それがシーズン4の中心になるんだろう。

 アクションはとてつもなく強い相手との戦いがどこかあっさり片付くようなところもあるけれど、それぞれに強くなっているんだと思えばまあ納得。もちろんモンティ・オウム亡き今、あのこれでもかっていった練り込みと畳み掛けが減じられてしまったという側面もあるけれど、その分、設定が濃くなりドラマは厚く重たくなった。ここからどうドラマを回収していくかが脚本チームには問われんだけれど果たして。そこにモンティ・オウムばりのアクション性が加わればなお嬉しいかな。誰かいないかなあ、そこまで詰め込めるアクション監督は。可能ならそんな新しい才能を得て挑んで欲しいシーズン4。そしてシーズン2の日本語版の公開も。期して待とう、復活の日を。

 朝のワイドショーをぶらっと見ていたけれども、ベルギーのブリュッセルで起こったテロ事件をトップで現地からのリポートも交えて報じていたのはテレビ朝日くらいで、あとは国内で起こった諸々を紹介。いやまあ確かに日本人の多勢にとってブリュッセルでの事件よりも今近所で何が流行っているかを知るほうが大切なのかもしれないけれど、遠いブリュッセルでの事件がめぐりめぐって、日本にだって何らかの影響を与えないとも限らないし、虚勢を張るのが大好きな総理がまたぞろテロとの戦いとか言い出して、そこで中傷混じりの言葉を発して日本に矛先を向けさせかねないだけに、何が問題でどう対処すべきかくらいは報じるべきなんじゃなかろーか。

 でもやらない。安倍ちゃんに対する批判になりそうなことは避けて通るのが今のテレビの習い性って奴だからなのか。こんなんで午前4時から午後7時まで生放送にしたところで、話題のスポットと芸能スキャンダルとグルメとあとはネットで人気の動画の紹介ばかりがループされるだけになってしまいそう。そしてちょっぴりの過激さが数字をとれると感じてヘイト混じりの言説を垂れ流すようになるんだ。ネットがアクセス競争の果てに陥った境遇へと生放送に回帰したテレビが陥っていく。それを見る人は限られ見ない人が増えてそしてますますお台場の目ん玉放送局は凋落していくといった具合。ありそうだけれど対処はできないだろうなあ。できたらあんな奇妙な編成にはしないだろうから。どうなるかなあ。

 テレビと言えば民放連の会長様が、高画質の4Kは録画禁止にしたらどーだとか言い出しているとかでちょっとした騒動に。そりゃあ録画されたらその時間帯にテレビを見なくなる人が出て、そしてCMだってスキップされて見てもらえない状況となってそれならスポンサーはお金を出す意味がないとテレビから引き上げ、ネットでのプロモーションとかにお金を振り向けつつ、連動として視聴率の良い局でスポットを流して入り口にするよーな施策を選びそう。それでは民放が干上がってしまうと、リアルタイムで見てもらうために録画禁止を言い出したんだろうけれど、それならさらに見なくなるだけって考えなかったんだろーか。

 そんなにも自分のところの番組はリアルタイムでも見てもらえると言った自信があるんだとしたら良いけれど、そんな時代でもないのは誰もが承知していること。だからこそオンデマンドなりペイパービューといった新しいプラットフォームへと展開を模索している訳なんだけれど、だからといってすべてのコンテンツに対して、対価をその場で得るような、キャッシュオンデリバリー的な事業へと移ってしまったら、電波という公共財を使って広く一般の人のために役立つ番組を、そして情報を提供するといった使命から逸脱してしまう。それならコンテンツ制作会社に特化して、電波なりネットなり映画館といったプラットフォームを選び提供していく事業に様変わりすれば良いだけの話だから。

 放送局という免許を得て放送事業を行っている企業なら、地上波で誰もが見られる放送を行うことは義務。そしてそれが見られなくなっているといっても、やり続けるのが免許を背負っている責任ってことだろう。嫌なら免許を返して電波も返上するのが仁義って奴。だから考えるべきは無料で放送をしながらも、しっかりと収益を得るための方法だけれど、ファーストウィンドウとしてドラマとかを流しつつ、パッケージを買ってもらうってビジネスももはや崩壊気味だからなあ。むしろネットでオンデマンドで見る方へとシフトしている。4Kで録画禁止にしたところで、録画を見るよりネットで見る人の方が実は多いかも知れない。

 そんな状況でテレビ局が免許業種としての義務を果たしつつ、公共性を堅持しつつちゃんと収益も得られる方策って何があるだろう。考えてみたいけれども個人的にはもうテレビってアニメくらいしか見てないんで、録画禁止はちょっと困るかなあ。そうなると本当に見なくなってしまうからなあ。TOKYO MXが見られなかった時期、本当に見なかったものなあ。それでパッケージを買うかとうとなかなか。「ヨルムンガンド」とか買いそろえたけれど、それ以降となると「ラブライブ!」も「進撃の巨人」も見なかったしパッケージも買ってない。買うお金もないってこともあるし。ネットで見られるならそっちに行きそうだし。どうなるのかなあテレビ局。どうなってしまうのかなあテレビ番組。

 豊洲のユナイテッドシネマで「ガールズ&パンツァー 劇場版」の4DX上映が取れたんで見に行ったらこれがまた凄かったというか。これは今まで見ていた「ガールズ&パンツァー 劇場版」とは違うものだし、これを見てからだとこれが本当の「ガールズ&パンツァー 劇場版」だと言えるかも知れないとすら思わされるものだといった感じ。4DX自体は平和島に首都圏で初のができた時に取材していてどういった感じに動いたりするかは理解していたけれど、それが「ガールズ&パンツァー 劇場版」という作品に乗ったというか、「ガールズ&パンツァー 劇場版」を乗せた時にどうなるか、っていうのは理解から得ていた予想を上回る臨場感。戦車が進めばゴロゴロとした振動が背中越しに伝わってくるし砲弾が当たれば、あるいは撃てばその衝撃が全身を震わせる。

 速く走ってターンをすればその旋回のGまでもが感じられるようなシートの動き。そこに加わる雨のシーンでの降りしきる雨やら穏やかなシーンで放たれるシャボン玉やらが見ている感情を動かしてある時は寂しく、ある時は穏やかで晴れやかにしてくれる。映画そのものが見せることによってそうした心理を抱かせることはわかっているけど、それに加わる物理的な動きなり現象が、人の感情を余計にかさ上げするといった感じ。これがスタンダードになった心情が果たして映像だけに戻った時にどうなるか、ってのはちょっと興味がある。まあそれはそれでのめり込むんだろうけれど。

 最初は動きすぎだぜって思っていても、だんだんとその動きが画面に現れる戦車とかの動きとシンクロしているように感じてくるのは体がそういう風に調教されてしまうからなのか。元より映画を何度となく見てどこで何が起こるかは知っている。砲弾がどう飛ぶか、当たるか、戦車がどう走るか、破壊されるか等々、そんな理解に4DXの動きがどう乗るかを手ぐすね引きつつ待っている感じも最初はあったけれど、後半になると画面での戦車の動きと4DXでのシートの動きが普通にシンクロしてそれがあたりまえといった感じになって、待ち受ける感じもなければ、これはズレているといった違和感もなくなった。人間の適応力、順応力ってちょっと凄い。

 個人的にシンクロ率が高かったのは継続高校のミカがなにか思わせぶりなことを言うたびに、背中から生暖かい息のようなものを吹きかけられてぞわっと鳥肌が立った場面か。ってそれは嘘。本当は立体迷路でのシーンかなあ、あのぐるぐると戦車が走る搭乗者からの視点がそのまま4DXのシートの動きで再現されていて本当に自分が戦車に乗っているかのよう。そしてクライマックスでの戦いは迫力とスピード感が音響とシートの動きと重なってもう迫力の一言。終わったあとは本当に戦車戦をこなしたかのような脱力感に襲われた。首すら痛くなって来たけどそれで映画への没入が損なわれることはない。もちろんそれは何度も見て見知った作品だからってこともあるけれど、初見でもきっと途中からちゃんとしたシンクロの中で映画を見られたんじゃないのかな。その辺りの感想はちょっと知りたいところ。

 24日でいったん、ユナイテッドシネマ豊洲での4DXは終わったみたいだけれどもなぜか26日からアンコール上映っておいおいやっぱりこれが稼ぎ手と理解したか。映画も避ければ4DXも良いというこの絶妙のコンビネーションがさらなる興行収入の積み上げに貢献しそう。平和島で行われた何とかっていう超音響でも見たいけれどあれは深夜だからなあ。あとはだから立川の爆音上映を見に行くか。でもあと1度くらいは4DXで見たいかな。できればセンター辺りで見ればもっともっと戦車乗り的なシンクロ率の高さで見られるかも知れないし。


【3月22日】 トト子ちゃんがいちばんクズだったという落ち。でもすべてにポジティブで落ち込まず、ふり向かずに欲望のまま突っ走り続けるそのクズっぷりに比べて、後ろ向きでうじうじとして何を始めることもせず、それでいて止めることもしないおそ松の方にどうしてもクズといってやりたくなった「おそ松さん」の第24話。これがAパートとつながっているなら、あそこでトト子ちゃんの希望に応えるべく、油を探して全員骨になったはずなんだけれど、Bパートでしっかりと登場しては石油王に振られてシンガポールに行き、自分探しを終えたトト子ちゃんとしっかりしっかり喋っているところがやっぱり毎回全力な感じがして面白い。きっと第25話も続きとか無視してあっけらかんと何かをやり抜いてみせてくれるだろう。ちゃぶ台返しも何のその。期して待とう。

 どこをどうすれば平穏が取り戻せるのだろう。といった思考すらもはや通用しないくらい、事態は深みにはまって戻れずただひたすら進むしかなくなっているけれど、それで進んだところで向かう先にあるのはひたすらに拡大していく憎しみの連鎖、そして戦火。パリからブリュッセルへと移り報復のテロが行われてそれを摘発してもまた、どこかで同じようなことが繰り返される。それはいけないことだという教育、あるいは認識が世界にできれば良いんだけれどそんな理性すら吹き飛んで、そうするのが是というかそうする以外の道を見つけられない人たちが、あふれ満ちてお互いにぶつかり合っている。止まることのない戦争に、あとは消極的に関わらないようにすることが身を守る術。でもそれは正義なのかどうなのか。ただ迷う。ずっと迷い続ける。

 えっと、笑う所なんだろうか、それとも真剣だと讃えるべきなんだろうか。カドカワが設立するネットの高校ことN高等学校は、これまでもビリギャルの坪田塾とか代々木ゼミナールなんかと組んで、東大やら難関校へと進学するコースを設置し高校に通いながらもそっちに重点的に浸って学んで進学率という成果を出そうと躍起になっていた。それはネームバリューこそが評価となっているこの国の悪しき習慣を写したものでもあるんだけれど、現実がそうなっているなら仕方がない。

 東大生ならすぐに生み出せそうだし、プログラミングの授業を経てIT企業への就職なら来年にだって実行できそうだけれど、ライトノベルのコンテンストで合格するとかゲームクリエイターになって大ヒット作を作るといった成果は一朝一夕では無理だから。なんでしばらくは受験勉強に力を入れるみたいで、今日とかもまた発表があった課外授業は代ゼミとかそれなりに知られた学習塾で人気だった講師たちが9人とか集まって、N高生に向けた受験勉強を指導してくれるっていうもの。聞けばなるほど親も安心して任せられそうだって思うだろう。それはそれで立派なことで別に笑いどころではない。

 笑ったのはいわゆる部活動の部分。ドワンゴが主催している叡王戦とか取り組んで来た電王戦でもって将棋界とは繋がりもあって、将棋部というのができてプロ棋士が特別講師を務めてくれる一方で、囲碁部とうのもできてこちらもプロ棋士が指導してくれる。それは良い。問題はサッカー部。何と特別講師にあの元日本代表にして炎のディフェンダー、秋田豊さんを迎えるんだけれどそうやって取り組むのは生のサッカーではない。「ウイニングイレブン」。つまりはゲームだ。

 ネットの高校だから集まってコントローラーを握り合って同じ画面を見ながら対戦する訳じゃない。たぶんネットでの対戦だろうけれどそれはどちらかといえばeスポーツの分野であって、旧来からあるスポーツのサッカーをしているとは言えなさそう。でもサッカー部というからにはそれがネット時代におけるサッカーの、新しい形だっていった主張があるのかそれとも単純に、サッカー部とかいいながらも実はゲームをやるんだぜ、どうだい面白いだろうとその場の笑いを誘いたかったのか。

 どっちもどっちといった感じだけれどただ、こうやってユニークでどこかバカバカしさも漂う思索から、新しい発想は生まれ新しい文化も生まれてくるかもしれない。だからここは向こうの言うことに乗って、ネットでゲームを楽しむのもサッカーなんだと理解して、どういう展開を辿るか見ていこう。流れでいくなら野球部は「パワフルプロ野球」でもやるのかな。陸上はもちろん「ハイパーオリンピック」で」バスケットボールはEAのNBAあたり。でもバレーボールは「プリズムコート」にして欲しいなあ。女子サッカーは「高円寺女子サッカー部」。好きなんだよこれら。キャラクターとか可愛くて。

 ここん家が何か書くときには絶対的に作為があるから注意しないといけないという典型とでも言おうか。「『保育園落ちた日本死ね』共産支持層87%共感、自民支持層34%」といった見出しを付けたとある新聞の記事。世論調査の結果を元にしたもので、読めばそうか保育園おちた日本死ねと言っている人たちは共産党支持者かと重いそうだけれどもちょっと待て。この数字は支持政党別で保育園落ちた日本死ねに共感を示している人の割合に過ぎずそうした支持政党別で共産党支持者は絶対と数として自民党より圧倒的に少ないはずだろう。

 1000人に調査したとして、自民党の支持者が400人なら共産党支持者は40人くらいになるだろう。そんな差のある母数を並べてこちらは200人が共感したから50%であちらは30人が共感したから75%とかってやって果たして意味があるのか。人数じゃあ圧倒的に自民党支持者に共感者が多いじゃないか。でもそういう緻密な精査はしないでただ印象だけを浮かべて、そうか「日本死ね」=「共産党」といったイメージへと誘導し、政治的なものだったんだおいった印象を世間に漂わせる。まともな学術機関ならやらないだろうことを平気でやる。だってそれがプロパガンダだから。やれやれだぜ。

 プロパガンダならまだ言葉に誘おうとする企みがあるけれど、こっちはそんなものもかなぐり捨てた罵倒のみ。「韓国憲法に『新たな章』が挿入され、<<大韓帝国(1897〜1910年)が大日本帝国を併合した>>などと、歴史をまた捏造するのでは…」』って妄想から始めて主権国家を罵倒する記事を書く人間がいて、それをトップに掲げるニュースサイトが存在することにクラクラと目眩がする。批判とか論評ってレベルを超えた言葉を紡げる頭のイカレぶり。諧謔でも皮肉でも韜晦でも惻隠でもなんでもいいから知的なレトリックを駆使して相手を批判しつつ諫め導くような言葉だったら読んでいる方だって賢くなれそうだし相手だってふむとは思うけど妄想全開の罵倒がいったい何を生む?でもお構いなしに罵詈雑言の全開でその場限りのアクセス稼ぎ。まったくやれやれだぜ。


【3月21日】 それは断末魔の悲鳴とも例えられる言葉で、その先に待つのは実質的な死だとすら思い追い詰められた中で発せられた言葉だからこそ、匿名ブログの「保育園落ちた日本死ね」という言葉は極めて乱暴であったにも関わらず、非難ではなく大勢の共感を呼んで盛り上がっては国会で取り上げられるに至った。なおかつそれを受けた政府と自民党が、どこの誰とも知らない言葉が信じられるかとかいった傲慢な態度を見せて、実態がどうなっているかを把握せず近くしないまま嘲ったものだから、怒りは極限を超えて爆発し、政府と自民党に向かって罵声が浴びせられるに至った。

 そこで政府や自民党なりが、なるほど言葉こそ悪いけれども実態の深刻さに理解を示しては、他人に「死ね」というのは良くはないと窘めつつ、その本意を汲む姿勢を見せればここまで問題は大きくならなかったんだろう。けれども政府と自民党のとりわけ安倍ちゃんが行うことに間違いがあるはずないといったライト方面の親衛隊が、待機児童問題という実相ではなく「死ね」という表層の言葉使いをのみ論って反論を繰り出すものだから、世間の反発の度合いはさらに高まり、収集がつかなくなっているといった感じ。もはやそういう段階を越えているといった体感の無さが、杉並区の区議のそうした発言を招き、御用新聞による同じようなコメントの紹介へと向かわせる。

 でもそれでは何の反論にもならず応援にもならないということを、彼らは分かっていないんだろう。そいて政府なり自民党なり安倍ちゃんは、そうした味方をまわりにはべらせ、自分たちを正当化しようとしているとすら世間に思わせまとめて沈没へと向かわせる。かといって少し黙っていろとは言えない。だって味方だから。無能な味方ほど厄介なものはないけれど、もはや味方には無能しかいないというこのジレンマ。最近もまた関西のテレビ番組で安倍ちゃんに覚えめでたい俳優が、ブログの主に向かってあろうことか「死ね」と言い放ったとか。国体を損なわれたのがそれほど気に入らなかったのか。でも実相としてそれが是とされた空気の中で、匿名とはいえ個人に向かい同じ言葉を吐くのはもはや人としての限度を超えている。当人はそれが分かっていなくて、安倍ちゃんの味方をしているつもりだからさらに厄介。そんな人たちが集い群れて向かわせるこの国の先に何が待つ? やれやれ。本当にやれやれ。

 誰とも知らない人間からの差し入れなんて普通は怖くて食えない訳で、それでも食った人間がいるってことは、差し入れた人物が誰かマスコミも知っていて、けれども真正面からは書かないんだろうなあ。“関係者”とかって書いたりして誤魔化しているけど、たぶん差し入れたのは入院している清原和博被告本人で、キャンプなんかでついて回る番記者を相手にお世話をするような、そんな感覚だったのかもしれないけれども今はそれとは助教が違う。マスコミは猟犬のように清原和博被告を付け狙う敵で、マスコミにとっても清原和博被告はエサといった関係の中で、一線を画す必要があると多くは遠慮して食べなかった。そんな中でスポーツニッポンは堂々と食べてはリポートまで掲載してしまう。これは拙いんだけれど、どう拙いのかを体感できないくらいにスポーツとか芸能のマスコミの中に馴れ合いが蔓延っているんだろう。でもまあ他は食べなかったみたいで矜持はまだありそう。スポニチどうするかな。良い訳とか出してくるかなあ。

 なんでも東京アニメアワードフェスティバル2016のアニメオブザイヤーって賞で、長編アニメーション部門をあの「ラブライブ!The School Idol Movie」が受賞したらしく、このイベントで見てこれこそが受賞に相応しいと思った身としてはこんなに嬉しいことはなく、そして素晴らしいことはないといった思い。「バケモノの子」とか日本アカデミー賞をはじめの映画祭で受賞しやすい作品が並んでいる中で、いわゆるテレビシリーズの続編めいたもので、その世界観を知らなくては入り込めないといったハンディを負っていることに加え、アイドルたちが歌い踊るといった場面こそが第一で、ストーリーへの目があまり向けられないといった側面もあって、映画祭にはノミネートされながらここまで苦戦はしていた。

 そんな中でも日本アカデミー賞が優秀賞にこの作品を選んだことは、こういう映画もあるんだといった思いを選考の人がちが感じてくれていた現れで、振り返れば映画化にはアイドル映画ってのがあって、そういうカテゴリーで大勢のお客さんを呼んでは盛り上がっていた時代があった。それを思い起こさせる映画ってことで、もしかしたら選んでくれたのかもしれない。ただやっぱり最優秀賞は「バケモノの子」が獲得して、やっぱりそういう選び方になるのかなあと感じていたら、最後の最後で東京アニメアワードフェスティバルのアニメオブザイヤー受賞。毎日映画コンクールでは「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」が受賞していて、それぞれに冠を得ている状況は、ジブリの不在って背景があったとしてもアニメーションの持つ豊穣さを、現しているようで未来に希望が持てる。それぞれが頑張りそれぞれに突っ走る。そしてちゃんと評価も得られる。何も知らないおっさんたちがブランドだけで選ぶんじゃない時代が、これで来てくれたら面白いんだけれど。

 ってな東京アニメアワードフェスティバルの表彰式に高坂穂乃果役の新田恵海さんが登壇したと聞いてどうして行かなかったんだと地団駄を踏んだけれども仕方が無い。今日は行き先が決まっていた。東京国際フォーラム。梶浦由記さんのライブがあったんだけれどぜか東京ではこの日だけ、あとは大阪のNHKホールで2日だけという特別なライブで、あのテレビアニメーション「ソードアート・オンライン」に使われた楽曲だけで構成されるというからちょっと珍しい。割と最近の梶浦さんのライブを抑えてはいたものの、作品単独でやるのは「空の境界」でも「魔法少女まどか☆マギカ」でもなかったし、NHKの連続テレビ小説「花子とアン」でもやらなかった。それだけにイベントとしても珍しく、いったいどういうものか、どれだけの人が来るのかと興味津々で会場に入ったらあの広い東京国際フォーラムのホールAが満杯だった。

 なるほど文庫としてとてつもない数が売れていて、アニメーションの方も世界で大人気となっている「ソードアート・オンライン」だけれど、広く国民一般が知っているかというとなかなかに微妙。というか絶対に「花子とアン」の方が国民的という意味では国民的なんだけれど、それで1本のライブは成り立たなくても「ソードアート・オンライン」なら挙行できるところに、アニメーションであり原作のライトノベルでありといったコンテンツを軸にして、音楽からゲームからファッションからコミックからといった具合にコアを使いつつカテゴリーを広げていける強みってやつを見た思い。原作が好きでアニメも見て音楽を聴いてライブに来る。キャラクターを好きになってグッズを買いファッションにも向かう。そういう連鎖が日本のこの強い吸引力を持ったコンテンツでは可能なのだ。

 とはいえ原作のパワーなりアニメの吸引力におんぶにだっこでは客は来ない。梶浦由記さんという稀代のクリエイターが紡ぎ出す、あの世界観にマッチした音楽だから可能なことで、来場者も繰り広げられる音楽の世界に浸りながらきっとアニメに描かれたあのビジョン、そして原作に紡がれたあのテーマを思い出していたに違いない。僕はといえば『アクセルワールド』派であんまり「ソードアート・オンライン」には浸っておらずアニメの方も流し見したくらい。だからむしろ梶浦由記さんの音楽世界がどういう感じに広げられているのかといった興味で見に行ったけれど、ファンタスティックで冒険もあって葛藤とか恐怖もあってその果てに再会やら恋情やらが渦巻く物語の世界を、独特の旋律と得意とするボーカルによって描き出していた。そんな気がする。

 いつものFiction JunctionからKeikoさんではなくRemiさんが入って、KaoriさんとWakanaさんとYuriko Kaidaさんによる歌姫。というか「ソードアート・オンライン」ではだいたいの曲をRemiさんが歌っているそうで、その高音で鳴り響く声を仰ぎ見ながら他の3人が声を合わせて荘厳で遠大なあの世界を表現していたといった感じ。あとフロントバンドメンバーにストリングスがカルテットとなりホルンが2本入ってサウンドに厚みと広がりも生まれたことで、ファンタジー世界が舞台となった物語の雰囲気をテレビの中以上に再現できていたんじゃなかろうか。

 これが東京では1回限りというのはもったいないけどこればっかりでどれだけ人が呼べるかとうとそこもまた難しいというのが現状。なので貴重な機会として「ソードアート・オンライン」のファンは映像の世界を音楽でも味わい耳から響いた音楽の中にあの世界のビジョンを見、そして梶浦由記さんのファンは「空の境界」とか「NOIR」とか「魔法少女まどか☆マギカ」とは違った世界、そしてダークさとかアクションといったものとはまた違ったネットの中にひとつの世界そのものを作り上げてしまう「ソードアート・オンライン」が持つ広大にして無辺のフィールドを表現した音楽の凄みといったものを、味わえたというそんな時間になったと言おう。その一期一会を得られたのなら、新田恵海さんに会えなかったことなど……ちょっと後ろ髪。まあ良いか。うん。


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