縮刷版2016年1月下旬号


【1月31日】 ポリゴンピクチュアズの「亜人」と、それからサンジゲンの「ブブキ・ブランキ」というともに3DCGでもって作画をするアニメーションが放送されている2016年1月からのシーズンで、見比べて同じ3DCGでもスタジオによって雰囲気に差があるなあって気付く人とか出て来そう。「亜人」が何かぬるぬるっとしているというか、動きに特徴はあるんだけれどそれがいわゆる2Dでの作画によるアニメーションのものとは違った、どちらかといえばモーションピクチャーに近いゲームのムービー的な雰囲気を漂わせる動きとしているのに対して、サンジゲンの「フブキ・ブランキ」は2Dでの作画アニメの動きとそれから仕草や表情を、なるたけ再現しようとしている感じ。

 それでも生まれるちょっとしがギャップが違和感を覚えさせることもあったけれど、「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」を経て「ブブキ・ブランキ」ではグッと2Dぶりが進化している。対してポリゴンピクチュアズの方もぬるぬるっとした動き、あるいはかくかくっとした動きが「シドニアの騎士」の頃から進化して、レイアウト的にも2D作画の雰囲気を見せつつ背景とかにはリアルさを残して、実写のムービーをトゥーンみたいなアニメで表現してみせることにどんどんと成功している。漫画の実写化というより実写の漫画といったアプローチ? 行き着く先はポリゴンピクチュアズとサンジゲンで同じかもしれないけれど、プロセスというかアプローチの仕方の違いで表現に差異めいたものが生まれているとでも言うんだろうか。

 そのどちらが好みか、っていうとううん、2Dアニメっぽさで「ブブキ・ブランキ」が好きだしキャラクターも可愛いけれど、「亜人」で見せてくれたアクションとかは凄いし表情もこなれてきている。ストーリー展開にはこれが合っているとも言えそう。つまりはだから原作なり物語に合わせていくのが良いってことなのかも。サンジゲンとポリゴンピクチュアズ。2つの筋から生まれてくる作品が、さらにフォロワーを生んで日本のピクサー的なものとは違った3DCGアニメーションを、豊穣なものにしていってくれると願おう。グラフィニカも期待できそうだし。サンライズの荻窪スタジオはどこに行ってしまったんだろうなあ。「いばらの王 −King of Thorn−」とかでいっぱい試していたのに。

 武士だの潔いだのっておいおい、問題になったのは献金を受けたのが適切に処理されていなかったからって類のものではなく、お金をもらって政治家の立場ってのを背後に抱きながら口利きをして、誰かに利便を図ったからであってそれは贈賄だの斡旋利得だのっていった要件に関わることで、献金の多寡って要件を大きく超えて犯罪の影すらちらついている。今は国会が開いている最中なんで流石に逮捕とかにはいかないだろし、それを見越して議員辞職はしないのかもしれないけれど、そうでなかったら捜査が入って親玉の関与ってのを疑われても不思議はない。そんな事態であるにも関わらず、部下が悪いことをしたので親玉として、直接事件には絡んでないけれども責任を取った潔い人だとかいった讃え方をして持ち上げる勢力がいたりする。いったいどういうことなんだ。

 同じ事を野党の議員がやったらきっとフルボッコにしてそれこそ党首の責任にまで言及しては罵倒するだろうけれど、与党のそれも総理大臣に近い議員がしでかしたことには、責任を問わずむしろその身の処し方を讃えるような言葉を紡ぐ。どうしてそういう身の処し方をしなくちゃならなかったのかはまるで無視。そんな支持者たちが少数派ならまだしも、国を左右しかねないメディアにもそんな雰囲気を作り出そうとする動きが見えるから厄介極まりない。野党ではなく与党の、それも権力があり勢力もある議員であり大臣がしでかした“悪事”を叩かないのか、叩けないのか、叩きたくないのか、そのいずれもなのか分からないけどともかくこの国の雰囲気は、相当にトンデモないところに来ていそう。カウンターも起こらない。だって潰されるから。外されるから。でもそれが当然といった空気が蔓延した果てに、この国がたどり着く場所は。気が重い。

 たぶんそういう空気を見越してのことなんだろうなあ。防衛省が進めているという、民間の船員さんを予備自衛官補にしておいて、南西海域で有事があったら予備自衛官として徴用してはフェリーの運航に当たらせるという計画が浮上したんだけれど、過去に日本とそれから海軍によって船員と船舶を徴用された挙げ句に6万人近くの戦死者を出し、船も1万5000隻異常が沈められて戻って来なかった上に、戦後補償にも100%だなんてとんでもない税率をかけられ、ほぼほぼ根こそぎもっていかれた日本の海運会社と船員さんたちが、今になって何を言っているんだと反発し、海員組合でもって異論を唱えたんだけれどそういう真っ当過ぎる反対にたいして、早速「お国のために働かないなんて」って“非国民”呼ばわりする声が上がっている。

 そのお国のために働いが挙げ句にぼろぼろにされた過去を未だ精算されず、憤りを抱えたままで来ている人たちだって分かっているのかどうなのか。そうした施策を打ち出す方だって、過去の経緯を考えれば反発が出ることくらい分かっているはずなのに、そうした過去を振り返らず認めようともしないまま、政府なり総理大臣が願っていそうな施策を出しては、それに従うのが当然といった振る舞いを見せる。なんでそんな真似が出来るんだろう。そういう過去なんて見向きもせず、あるいは知ってもお国のため、安倍総理のために働き死ぬのは栄誉だっていった空気が漂い始めているタイミングを見て、今なら言えば讃辞を送ってくれる勢力がいて、そしてメディアも翼賛に傾くだろうと踏んでいたりするのかも。実際に海員組合の反発を取り上げたのは毎日新聞とNHKくらい。翼賛気味なスタンスの新聞はまるで無視を決め込んでいる。総理の願いは僕らの願い、総理の友は僕らの友、褒めて讃えて持ち上げようって空気がじわじわと広がる状況を、ここでどうにかしないといけないのに……。やっぱり気が重い。

 8年前に僕はKalafinaを知らなかった。知っていたのは奈須きのこさんが原作を書いた「空の境界」という小説がアニメーション映画化されて、その第1章となる「俯瞰風景」が2007年12月に公開されたという話くらい。テアトル新宿が結構な人数の観客でいっぱいになって、短い上映期間をほぼほぼ満席で過ごしたというから凄い人気だなあと思ったけれど、小説版に今ひとつ乗り切れていなかったこともあって、観に行くことはせず続けざまに公開された第2章「殺人考察(前)」も第3章「痛覚残留」も、上映の評判だけは耳にしながら、どういう内容なのかを気にもとめなかった。もちろん音楽を誰がやっていて主題歌を誰が歌っているかということも。けれども2008年5月21日、DVDとして発売された「俯瞰風景」を観て気が変わった。これはとんでもない作品が出て来たと思った。そして引きずり込まれた。映像とそして音楽に。響く歌声に。

 暗闇の中、静けさの奥から響いてくる音楽に乗せた歌声に耳を持って行かれ、その深淵で超然とした声たちにとりつかれてしまった。さらにエンディングに流れた「oblivious」という歌から感じた、天上と地獄とが重なり合って生まれる虚無のよう空気にすっかり心を奪われて、すぐさまCDを探してそして、買ったのがなぜかリミックス版の「Re/oblivious」。それもまた冒頭から空気を割って響く叫びとも慟哭ともとれそうな声が凄まじく、そして始まるビートに乗った旋律に耳を奪われ、これが「空の境界」の音楽世界かと感じ入り、そして知った。Kalafinaという音楽を。劇場でその声を響かせ、そして2008年1月23日にCDデビューを飾ってから4カ月遅れはアンテナの感度として決して高いとは言えないけれど、8年という重ねた歳月の中では割と早いうちから存在を感知し、歌声に感じ入って後を追い、見守り続けて来たと言っても外れてはいないそう思いたい。

 そんなKalafinaが2015年10月から、東京国際フォーラムのホールAを振り出しに各地で始めたツアーのファイナルが、再びの東京国際フォーラムのホールAで1月30日と31日に開かれ、幸いにして2日間ともに観覧することができた。2階席の中段より聞いた30日は、遠くステージを見下ろすような状態ながらもホールいっぱいに声が響き渡って、その1音1音、歌う一言一句を耳に聴き止めることができた。アンコール前、本番の最後で聞かせてくれた「ひかりふる」の静かだけれど豊かな歌声に、3つの声をしっかりと重ねて音楽の場を作り上げるKalafinaの真骨頂を見た気がした。そのアンコール前の曲が31日は「sevens heaven」になっていた。「空の境界」の第7章、「殺人考察(後)」の主題歌であると同時に、映画「空の境界」で紡がれてきた旋律が取り入れられた集大成のような曲。それをデビューから8年という“節目”を意識して歌ってくれた。

 懐かしさを誘われた。そして同時に、これからの1年であり2年であり5年であり10年といった月日を、Kalafinaが、Kalafinaとしてどのような歌声を聞かせていってくれるのかを期待させられた。原点に経ち戻るという意味合いもあってのセレクトだっただろうけれど、それは決して回顧ではなく、また回帰でもない。歌い始めた頃を振り返り、歌うことへの意味を改めて感じとっておして歌い続ける意志を紡ぐ。そのためのセレクトだった。そしてKalafinaの3人は今という時期、8周年を過ぎた今だからこその声でありハーモニーを聞かせてくれた。keikoの土台を作るように安定した声、hikaruの華やかで軽やかな声、そしてwakanaの澄んで空間を清らかにする声がそれぞれに奏でられつつ、重なり合って豊かで厚く大きい声の空間をそこに現出させた。今のKalafinaだからできること。8年をかけてたどり着いた地平がそこにはあった。

 もっとも、ここが完成形ではなく、到達点でもない。もちろん未完成ではないし、ひとつのたどり着いた地平ではあっても、まだ先に新しい姿が描けるし、たどり着ける場所がある。そこに向かってさらに声域を広げ、声圧を高め声色を豊かにしていくことで、どんどんと新しく、そして素晴らしいKalafinaが現れてくる。そんな予感がしてならないし、そんな確信も抱ける。メキシコでのライブが決まり、中国の上海で音楽祭に出演することも決定し、さらに秋からはアリーナツアーも始まって日本武道館にも帰ってくる。たった1年にも満たない間に繰り広げられる新しい試み。そこで重ねた結果がどんな形となって現れてくるのか。さらにその先に繰り広げられるだろう挑戦がどんな色を与えるのか。楽しみにして待ちたい。そして感じたい。Kalafinaという音楽がまたひとつ、あるいはとてつもなく新しく、そして大きく、何より素晴らしくなっていく姿を。


【1月30日】 オブジェクトを操縦するエリートは、ただ演算能力が高いだけじゃなくって、巨大なオブジェクトが高速で移動しストップ&ゴーを繰り返しては旋回し、逆にも回る激しい動作の中で起こる強烈なGにも耐える肉体を持って生まれて来ているから、誰か普通の人間がオブジェクトを奪おうとしても奪えず、そこら辺にいる誰かに操縦を代わらせようとしても代えられないため尊ばれ、重用される。もしもエリートではない生身の人間が、オブジェクトを奪って操縦しようものなら激しいGによって即死とまではいかなくても、全身の骨は折れ筋肉はひしゃげ内臓は破裂し血管もすり切れてしまっただろう。鎌池和馬さんの小説ではそういった場面も実際に描かれていたいする。

 そんな「ヘヴィーオブジェクト」という世界にあって、テレビアニメの第16話でどうしておほほの操縦するオブジェクトに乗り込んだクウェンサーが、お姫様との戦闘に望んだおほほのオブジェクトの中で振り回されても死なず肉体を破壊されもしなかったかというと、想像するならお気に入りのクウェンサーがオブジェクトの中でミンチになってしまわないよう、操縦を優しく手加減しながら振り回したりしたのかなあ、なんてことも思ってしまった。本当のところは知らない。単純に話の都合で主人公は頑丈なだけかもしれない。操縦中のおほほにしがみついてあちらこちらにぶつかるのを避けた……ってことはなよなあ、歌っているおほほに合わせてクウェンサー、叫び声で愛の手を入れていたし。

 どっちにしてもこれがリアルなおほほの肢体を間近に見て、果たしてクウェンサーはがっかりしたのか、それともこれはこれでと思ったのか。アニメを見ている世間一般にはこれはこれでと思う人が多いんだけれど、アニメを見ない世間一般では尊ばれるのがGカップだとしたら、やっぱりこれはがっかりだと思ったのか。でもあんなに可愛い娘にまたがられ、ボコボコとたこ殴りにされて、それでときめかない男なんていないよなあ。いるはずがないよなあ。まあ良い、とあれこれで出来たおほほとクウェンサーの因縁が、また絡み合う時は来るのか。小説版では繰り返されていたりするけれど、残り話数を考えるとアニメはあと1回くらいかなあ。ともあれ再登場に期待、映像でも生身でも。どっちも最高なんだから、おほほは。おほほ。

 テレビの地上波を放送時間に見ているのが時間をもてあましている高齢者だとか、あるいは主婦層だといったことになるなら、残すべきはそうした層にヒットする人たちであって、若返りだとかを計って新しい人を呼んできては、誰それ知らない騒がしいし鬱陶しいと思われ、番組を見なくさせるような真似をするのが、果たしてテレビ局にとって得策か、って考えると、テレビ東京の「開運! なんでも鑑定団」が4月に予定しているリニューアルは、時代に逆行していいるし視聴者を愚弄もしている感じ。その知性その良識でもって番組に大きな重みを与えてくれていた石坂浩二さんを2年くらい干し上げた挙げ句に追い出して、BSで放送しているもうちょっと踏み込んだ骨董番組のメイン司会にもって行ってしまうなんて。

 そして続く地上波の方は、島田紳助さんの後を継いだ今田耕司さんに加えてジャストミートとうるさい福澤朗さんを持ってくるとか。若くて賑やかで喧しい2人が並んで何をする? そこに骨董だとか珍しものが現れた時に2人がとるだろうリアクションを思うと、ちょっと溜息が出てくる。驚いて慌てて騒ぎはしても、それが凄いと感嘆し、見ている人にその凄さを悟らせるような蘊蓄が繰り出されるとはとても思えない。だから番組を見ていても学べないし悟れない。前に戦艦長門の軍艦旗と少将旗と先任旗が出たときに、それらを後に石坂浩二さんが1000万円で購入し、日本の大和ミュージアムに寄贈したような、出展品に対する敬意とそして価値を見極めどう扱うのが最適なのかを問う知性も感じられない。

 そんな番組を誰が見たい? ただ珍しいからと驚くだけじゃなかったからこそ、ここまで続いた番組の意義を分かっていないのか、それとも石坂さんを追い出したいがために意義を捨てたか。どっちにしてもテレビ東京、上が見えたからと調子に乗ってしまったかなあ。まあ結果はすぐに出るだろう。でもそこで改めても遅いってことは、すぐ上に迫ってきているテレビ局がやって分かっている。出来れば今すぐの改心を望みたいところだけれど、無理だろうなあ。そしてテレビ全体が死んでいく。哀しいけれど、これが現実って奴なんだろうなあ。やれやれ。

 雪が降る、って話に聞いていたからもしかしたら、京葉線は動かず総武線は動いても幕張本郷からのバスが届かず1時間くらい歩いて幕張メッセまで乗り込む羽目になるのかなんて心配もしていたけれど、そこは温かい千葉だけあって雪は降らず雨もそんなに降らないまま、迎えた「闘会議2016」は会場に入ると並ぶゲームゲームゲームの列に日本でもまだまだゲームって元気なんだって思い知らされる。そりゃあコンソールでのビデオゲームには昔ほどの勢いはないし、アーケードだって話題になるものは少ないけれどそれでも楽しんでいる人はいて、ネットで実況とかしたり自分で遊んだりして楽しんでいる。そんな人たちが格闘ゲームだとかスマートフォン向けのアプリだとか関係無しに集まっては騒ぎ、遊び見物できるイベントって他にない。だから来る。そして好き勝手に自分の見たい場所にいってそこで実況を聞き、プレーし音楽に親しむ。自由だなあ。そう思った。

 そんあ「闘会議2016」ではとりあずラジコン戦車をVRで操縦してバトルするコーナーを見物。ニコファーレでのデモンストレーションは小さなスペースでそれこそ対面するような形でやっていたけれど、そこは幕張メッセだけあって巨大なジオラマが作られそこに並べられた戦車をステージ側からめいめいが、VRヘッドマウントディスプレイをつけて操縦しては対戦する相手を探し、見つけて撃つといった感じ。遠目で居場所とか把握できないだけに、戦車の上に取り付けられたカメラから見える光景だけがたよりの戦闘を、果たしてこなせるかって心配もあったけれどもそこは皆さん、挑むだけあってどうにかこうにかこなしていたい印象。実際の戦闘も戦車から見える光景だけがすべてだったんだろうなあ。レーダーなんてなかっただろうし。「ガールズ&パンツァー 劇場版」の気分、味わえたかな。そういう人も多くいたのか人気で午前中に200分待ちとななっていた。遊びたいなら急ごう。

 自作ゲームエリアではあの堀井雄二さんと中村光一さんがエニックスのゲームプログラムコンテンストに応募して入賞した「ラブマッチテニス」とそれから「ドア・ドア」ってのを初めて見た。当時をマイコンで遊んでいたキッズにはおなじみだろうけれど、そうでない気付いたらファミコンがあった人間だとパソコンでの自作ゲームってお目にかかる機会はないから。でもってそこで組まれたゲームの面白さが、分かる人たちを呼び寄せ大きくなって今の「ドラゴンクエスト」へと至る。そんな歴史の源流に触れられるコーナー。寄らない手はない。「平安京エイリアン」も並んでたし。これがそうかあ、東大生が作ったゲームかあ。小学生くらいのキッズが挑んで楽しそうにしているのを見て、ゲームは派手なグラフィックでもキャラクターでもなく、ゲーム性そのものなんだとも気付かされる。あと面白かったのはレトロゲームエリアの巨大コントローラーか。やっぱり大きい。1人でやるより2人でやった方が良いかも。明日もまた行ってゲーム実況とか、何が流行っているかをちょっと見て来よう。

 午後に入るかどうかで抜け出して見たことをさっとまとめてから、東京国際フォーラムホールAでの「kalafina」のツアー最終日前を見る。10月の初日にも見ているけれどもその時とは違って2階席の中段あたり、ステージから結構距離があるにも関わらず、wakanaもkeikoもhikaruもしっかりと声が日々って届いては、重なり合って絶妙のアンサンブルを聴かせてくれるしそれぞれのソロもwakanaは住んで高らかに、keikoは響いて心に刺さりhikaruは軽やかに楽しげに弾んで空間を踊る。そんな3人の完璧なステージを今年も見られて幸せだけれど、これに続けるように年末、Bunkamuraのオーチャードホールで開かれたピアノのストリングスのカルテットだけを率いたツアーも始まるとかで、あの時の感動がまた味わえる、そして年末とは違った空気の中で味わえるとあって今から楽しみ、ってチケットとれるか分からないけれど。頑張ろう。そして今年もついていこう、kalafinaに。


【1月29日】 「新入生のぼくは客員教授の青年、佐杏冴奈と出逢う。彼は本物の魔術師だという変わり者」という、メディアワークス文庫版の久住四季さんによる「トリックスターズ」のあらすじ紹介を読んでありゃっと首をひねった人の数。あるいはうおっと足を滑らせた人の数。だって「トリックスターズ」の冴杏冴奈といえば奇人変人で鳴る女性魔術師で、新入生の天乃原周にちょっかいかけては引っ張り回して困らせるんだけれど、でも女性ってことで男性につきものの暴力性とはちょっと違った、茶目っ気って奴が醸し出されて、読んでいて面白がれたし男性が多いライトノベルの読者としては、現実には出会えなさそうな変態的な女性魔術師に、ふわっとした憧れも抱けただろう。

 けれども、それが男性になってしまったことで、電撃文庫版「トリックスターズ」を読んでいた人の幾人かは、変態女性魔術師のドSぶりに虐げられる快感が得られないと、復刊に悲嘆をのぞかせたかもしれない。その一方で、天才的だけれど傍若無人なドSのイケメンが見せる鮮やかな謎解きやら活躍に、惹かれこれは読んでみたいと思った女性の読者もいっぱい現れたかもしれない。そして、魔術師が変態的な美女であろうとサディスティックな美男子であろうと関係なく、繰り広げられる事件とその謎解きに興味がある人は、変わらず存在する奇妙な事件、そして圧巻の謎解きに引かれ既読者は復刊を喜び、これが初対面なら出逢いを尊んだに違いない。それだけの面白さを持った作品だから、「トリックスターズ」のシリーズは。

 もうひとつ、このシリーズには天乃原周っていう語り手自身の存在に引き付けられるものがあって、それは前の電撃文庫版とも変わっていないんで、そういう方面からの楽しみ方もできる。初動の部分で佐杏冴奈が満員電車に乗っていた見ず知らずの他人でしかなかった天乃原周に声をかけた理由ってあたりで、世間的には狭い範囲の嗜好に陥りがちな感情があったと後に理解することが出来なくなり、やっぱり世間一般にある俗情に類する関心があったのかと思ってしまう可能性もあるけれど、その時にはすでに天乃原周の、同じゼミの同級生たちとは違った語り手たる資格めいたものも判明しているんで、それに感づいたって理由も付けられるから構わないか。ともあれまず2冊。意外な展開と驚きの結末を経て残り2冊。何が語れるのか。その後の展開はあるのか。復刊を祝いつつ期待も向けよう。久住四季の帰還と、その先の歩への。

 言葉への鈍感さってのが世間に広く行き渡っているなあというのは、最近いろいろ思うことで、それは言葉使いそのものにも言えることだけれど、別にその言葉がどういうリアクションを生むのかといった気配り目配りの足り無さってのもあって、例えば少年サンデー編集部の、とあるゲームキャラクターに漫画のキャラクターが似ていると指摘されたことに対するあのツイートとかもそうだけれど、東京新聞に掲載された義家弘介文部科学副大臣の言葉選びも、結構面倒で厄介で読んでいてボワッと溜息がでる。それは組み体操に関する言葉で、危険性が指摘され怪我をする人も大勢出ていて、止めるべきじゃないかって話が出ていることに対して副大臣はこう答えている。

 「自分も小中学校で行ったし、小六の息子も去年やった。五〜六段の組み体操で、息子は負荷がかかる位置にいて背中の筋を壊したが、誇らしげだった。全校生徒が羨望(せんぼう)のまなざしで見る中で、『ここまで大きくなった、見事だ』と私自身がうるうるきた。組み体操はかけがえのない教育活動で、悪いことではない。それを文科省が規制するのは違う」。おいおい。自分の子供が怪我をして、けれども誇らしげだたったってどういうことだ。そういう心理が例えば、自分の子供は戦争に行って、国のために戦って戦死したけれど、誇らしげだったということにつながらないのかを言われて、違うと言えない感じがあるだけに、不用意に使って良い言葉じゃない気がする。

 それ以前に、自分の子供の怪我より、そんな子供が得ただろうプライド、あるいは子供がプライドを得ただろうと感じることで親が得るだろう満足感を大事にするような人間が、教育行政のトップ近くにいることへの不安なんてものが、子供を抱えて学校に通わせている親たち全体に現れ、漂いかねない。義家副大臣はこうも話す。「事故が起きているのは組み体操だけでない。柔道、剣道などあらゆるところに規制を出さなければいけなくなり不健全だ」。いやいや、そんな武道を必須にしたのは国であって、現場で規制したくても国が認めてくれないから規制できないんだよ。そういうことへの配慮もなく、自問もなく素晴らしいことでやるべきで、危険なら国じゃなく各自治体でどうにかしろでは、文部科学省がある意味も文部科学大臣や副大臣がいる意味も無い。けど平気で言い抜けてしまうあたりに、崩れる言葉ってものが見えるのだった。やれやれ。

 安定感で言ったらこ、の2016年1月スタートのアニメーションで1番かもしれない「だがしかし」。原作の漫画があるからストーリー展開の面白さはある程度確約はされていただろうけれど、真夏の田舎の駄菓子屋だとか、喫茶店だとかの雰囲気をしっかりと表現しつつ、駄菓子屋に集う少年と少女のどうでもいいけれど真剣極まりない駄菓子バトルって奴を描いてみせて、駄菓子ってこんなに奥深いものだったんだと思わせてくれる。駄菓子を食べに行きたくなって、立ち寄ったセブンイレブンに駄菓子コーナーが出来ているのを見つけてあれやこれや買いたくなる。「きなこ棒」とか初めて食べたよ。絵も良いし声もピッタリ。そして音響もきっとリアルに近づけているんだろう。それほどまでに手の込んだ作品でも、現代が舞台で駄菓子がテーマで裸は少なくアクションもなくて果たして人気は得られるか。なんて思うとちょっと買い支えてあげたくなって来たなあ、パッケージ。

 サンリオが知らない間に立ち上げていた「サンリオ男子」の全貌って奴に触れる。といってもまだキャラクターの設定が立ち上がったくらいで、あとは漫画の連載が決まったってことだけれども、ハローキティだとかポムポムプリンだとかマイメロディだとかリトルツインスターズだとかシナモロールだとかいった、可愛い系で女の子が大好きなキャラクターを好きな男子っていうギャップに萌えて、関心を抱く女子層を取り込む新キャラクターっていった立ち位置は、それとなく理解できたんであとはそうしたギャップ萌えが、どういうシチュエーションから醸し出されるのかを観察してみたいところ。ポムポムプリンをギュッと抱きかかえた少年の満足げな表情に下半身がジンと来るのか。リトルツインスターズのリボンを頭に乗せてキャハッとやる美少年の仕草に鼻血がブハッとなるのか。作中のキャラ自身はグッズとして愛でているだけでも、その関係性に腐ったものを見いだすことに長けた女子が、どういった受容をしていくのかが今は興味津々。ポムポムプリンと何かしちゃうとか。何をするかは言えない。

 ゼロ金利ですら異常ともいえる状況なのに、実質ではなく実態としても有史以来のマイナス金利が導入されるとは、この国もいよいよ瀬戸際に来ているのかもしれない。それが欧州なんかも含めた現代のトレンドだって話もあるけれど、過去にどれだけ経済がいかれても、世界が混乱してもこの日本では行われなかったことが初めて実施されるのは、やっぱり世界なり日本が過去にないトンデモない状況に来ていることに他ならない。そんな概略からの感想を一方に置いて、実態としても銀行が日銀に預け入れたら手間賃をとられるなら市中に流してそれで利回りを得る方が得策と、融資に前向きになるかというと現実問題、借りて何かを作ったところで売れないと見た製造業は金を借りず、設備投資も行わず、企業は儲からず賃金は上がらず、物は売れないからやっぱり企業は設備投資をしないためお金を借りないというスパイラル。そこから脱却する節はまるで見えない。

 だったらと株式市場だとか不動産市場に金を流して株価は上がり地価も上がるけど実態が伴わないバブルがまた、起こらないとも限らないしいそれすらも冷え切って流動性が止まる自体も考えられる。金融政策よりもすべきは投資の促進と消費の拡大、そのための規制緩和であり財政の出動なんだけれど、財務省やら既得権益を持った企業に顔向けできないとそっちには無関心。そして小手先の日銀による操作ばかりが進むといったところか。何かやっていると思わせたい安倍総理の体面だけがこれで守られ、日本は経済が足下から疲弊し人心は荒んですべてが崩壊へと向かっていく。それで浮かぶ不満を他国への侮蔑で吸収しては発散させた先、起こるのはやっぱり体面を守り不満をそらすための戦争ってことになるのかなあ。いつか来た道。あるいはそれ以上の可能性。考えると夜、寝られなくなっちゃう。すごい時代に生きているのかもしれないなあ、自分たちは。


【1月28日】 温もりの向こう側に引き込まれて、いったいどこに連れて行かれるのかを思うと、とっても怖くあるけれどもそうした温もりを与え続けることだけが使命と考えている妖怪なら、怪異なら、ファントムならあるいは引っ張り込んだ先でも、永劫に近い幸せを与え続けてくれるのかなあ。でも日常に辛いことがあってこそ感じる暖かさというもので、そのぬるま湯のような温もりに浸り続けていたら、いつしか溶けて自分がなくなってしまうかもしれないなあ。だからこその妖怪であり怪異でありファントムなのかなあ。なんてことを思いながら見た「無彩限のファントム・ワールド」。迷い込んだなら吸い込んでしまえば良いんだけれど、それができないくらいに和泉玲奈は日常が辛かったんだろう。でもどうにか超えられた。この先にどんな自分を作っていくか。見守ろう。

 気がついたら押井守監督による「GARM WARS The Last Druid」の5月の日本公開が決まっていた。2014年10月に東京国際映画祭に関連したTIIFCOMのスクーリングと、それから舞台挨拶もついた上映会で見たけれども、そこから1年半以上が経っての公開に、押井守監督のファンとしてはひとつ、狂喜乱舞といったところだろうけれど、でもこれでほんとうに押井作品と言っていいのかといった迷いも浮かぶ。どうやら公開されるのは日本語版で、それにはスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーが関わっていて、「台詞の内容を一切変えずに、作品の印象を一変させてみたいと考えました」とコメントを出している。つまりは作品の印象は変わるってことだ。

 これが公開されて、「この日本語版を押井守が見てどう思うのか。押井さんが悔しがるのが楽しみです。笑」とまで、鈴木敏夫プロデューサーが言うからには、それは押井守監督の意図が隅々まで生き渡った押井守監督による実写映画とは違ったものだってことになる。それで良いのか押井守監督のファンは。海外で海外の役者を使って海外の言葉で撮って完成させたひとつの作品が、ガラリと印象を変えられてしまう。それはほんとうに押井守監督の作品と言えるのか。退屈でも意味が分からなくても眠くなりそうでも、それをまじまじと見て我慢をして見て最後まで見通して、ああよく分からなかったけれども押井守監督だったなと思うのがオシイストだとしたら、その機会をあらかじめ奪われてしまっているこの作品を、諸手を挙げて歓迎していいのかどうなのか。なんてことを考える。

 ってことはつまり退屈で、何をやっているか分からなくて意味不明で、見終わってもぽかーんな作品なのかってことになるけれど、そういうことはないけれどあるかもしれないけれど、とりあえず犬は可愛いし戦車は格好いいとだけは言っておこう。そんな映画をオリジナルではない形で公開されて、オシイストたちは見て喜べるのか。声優さんたちはいずれもベテランだし、虚淵玄さんが何か絡むと言ったトピックでも引っ張れそう。そこに喜ぶ人もいるけれど、やっぱりオリジナルとして、英語版として、押井守監督がそこに描こうとした得体の知れない世界観、そして雰囲気って奴を味わいたいので公開中、幾度かで良いから英語によるオリジナル版の上映もお願いしたいところ。そして改めて見て日本語版がどう違うのか、比べてみたいところだけれど、そういう機会は得られるかなあ。待とう情報。

 上野御徒町当たりで取材があったんで、ついでにガード下にあるとんかつ屋さんでいつものメンチカツと唐揚げのセットを食べて、胃袋はまだ大丈夫だと確かめてから歩いて東京都美術館へと寄って「ボッティチェリ展」を見る。ルネッサンスでレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエロあたりと比べられることはある画家だけれど、どこか知名度的に弱い感じもあったりするボッティチェリ。有名な作品としては「うる星やつら」の中でもパロディされていた「ヴィーナスの誕生」があるけれど、さすがにそれは来ていなくて女神達が群舞している「プリマヴェーラ」も来てはなかったものの、「聖母子(書物の聖母)」ってのは来ていて、これをメインにボッティチェリ自身かあるいは工房の皆を描いた作品が割と結構な数展示してあった。

 江戸東京博物館の方で開かれているレオナルド・ダ・ビンチの展覧会では、ダ・ヴィンチ自身の手による作品は少ししかなくて、それこそ油絵的なのは「糸巻きの聖母」くらいしかなかったんだけれど、それ1品でも眼に鮮やかに肉付きもあって、豊かな表情を持った聖母と御子が描かれ、入館料くらいの楽しさを味わわせてくれるし、素描なんかもあってそこにかけられた手間なんかを見るにつけ、うまい絵ってのは一朝一夕では描けず秀作にスケッチを積み重ねて得られるものなんだなあと思わせてくれる。東京都美術館のボッティチェリも同様に、秀作がありスケッチもあって、そうした積み重ねによって1枚の絵が作られているんだと分からせてくれる。鍛錬大事。工房となると1人ではなく大勢のタッチも入るのかちょっと雰囲気が変わるかな。そこはもうちょっと、じっくり見ないと分からないけれども時間もないんで適当に退散。いずれにしてもダ・ヴィンチが見られてボッティチェリも見られる今冬の東京はルネッサンス的に最高かも。ティツィアーノもどこかで見られないのかな。「うさぎの聖母」はもうルーブルに帰っちゃってるだろうけれど。

 上野御徒町では「パスタパラディーゾ 御徒町吉池店」でセガのゲーム「龍が如く」とのコラボレーションが始まるってんで見物に。冬だけれどしっかり黒い総監督の名越稔洋さんがプロデューサーの横山昌義さんと並んで登壇しては、来るメニューをいろいろと試してた。アラビアータでピリリと辛い桐生一馬のパスタとかはまだしも、錦山彰のチキンプレートとかは、チキン呼ばわりされている錦山をモチーフにしたとあって食べればチキン野郎かというと、これがなかなかのボリュームで平らげるのは大変そう。それ以上に頼んで大丈夫かと思わせるのが、あの真島吾朗がモチーフになったチーズケーキ。狂犬と呼ばれるくらいの存在がどうしてスイーツなんだ? って思わされるけど、ゲームの中で「甘々やあ」と叫んでいるらしいことからのスイーツ化。食べて耳元で「甘々やあ」と叫ばれたらもう、桐生一馬だってブルってしまうかも。

 スイーツでは遥って女の子をモチーフにしたパフェもあって、白いクリームやアイスと苺がミックスされててなかなかの可愛らしさ。それを桐生一馬やほかの面子に負けないビジュアルを持った名越さんが食べるというユニークな光景も見られたけれど、どうも甘い物があんまり大丈夫そうではなそうで、その後の真島のチーズケーキには手を付けなかった。それとも真島が苦手なのか。ちょっと不明。しかし多分50歳になってもまるで変わらない雰囲気の名越さん。10年前とすら変わってない。歌舞伎町のキャバレーで行われた会見で、当時としてはあり得ないヤクザの抗争で歌舞伎町が舞台のゲームを発表した時、誰が10年も続くゲームになると思っただろう。でもヒット。それはやっぱり大人が求める物語があり、自由があり無法があってそこに刺さる内容を持っていたからだろう。あとは絶やさずに出し続けたこと。それをやり抜いたからこその今がある。開発中の「6」もまた、すごいビジュアルと深い物語を持ったゲームになっていてくれることを期待して、発売を待とう。とはいいつつ実はやったこと、ないんだよなあ「龍が如く」。10年前の再来という「龍が如く 極」、プレーしてみるかなあ。

 結局は大臣辞任。国会議員は辞めないみたいだけれど大臣の職を辞するくらいの“悪事”なら、その地位もやっぱり擲って再起を期すのが人間として正しいんじゃないのって声もこれから出てくるだろう。閣内にいられずかといって党でも何か役を与えるわけにはいかない人間が、数合わせの陣笠みたいな立場にいたってもったいない。だったら誰かに譲ってその人に活躍を任せるとかすれば良いんじゃないかなあ。ああでも禊ぎとして選挙をやって、それで当選すれば有権者に支えられ復活しましたって言えるのか。そのために衆参同時選挙にうって出るお友達総理大臣。ありそうな話。それにしても今日まで散々っぱら、謀略だの相手を怪しいだのと言って来た周辺と、それを真に受けて書いてきたメディアのポン酢ぶりはどうしたものか。それともやっぱり悪いのは秘書であり相手であって知らなかったと言い抜けるのか。それで通じる政界になってしまっている感じもあるし、案外にするりと抜けてすぐ復活、なんてことになるのかも。反対したり騒ぐメディアはもういないし。やれやれ。


【1月27日】 個の力、というなら間違いなく個の力で負けなかったリオデジャネイロ五輪出場を狙うサッカーU−23日本代表だけれど、それはゴールキーパーの櫛引政敏選手個人の力であってフォワードとかを含めた攻撃陣や中盤で司令塔呼ばわりされている選手達ではない。どれだけゴールを脅かされても、どんなに素早いボールが飛んできてもしっかりキャッチし、あるいははじき返してイラクにゴールを割らせないその安定感。さすがに3度の波状攻撃をしかけられた失点場面は止められなかったけれど、意識はしっかりボールに向いていた。あれはだから競り合った選手なり、サイドから入れられた時にはじけなかった選手なりの問題であってゴールキーパーひとりを攻めるのは無理だろう。0点に抑えて普通の評価、1点でも奪われれば戦犯扱いが常のゴールキーパーの、ある意味宿命だけれどあの場面に関して言うなら、ゴールキーパーを責める言葉は紡げない。

 対して攻撃陣に向ける言葉はどれだけだって湧いてくる。前にボールを運べない。ボールを受けに走れない。もらっては周囲を見ている間にすぐ側までイラクの選手に寄せられて、あわてて出しても味方に通らずカットされてそこから相手の攻撃へと繋げられる。もっと速く周囲に寄ってボールをもらえば良いんだけれど、それは無く前にも走っていなくては出そうにも出せないまま囲まれ奪われるか、慌てて出してカットされる繰り返し。中盤からほとんど前に進めない。大してイラクはしっかり足に吸い付かせては寄せられてもかわし、走ってきた選手に出して日本のゴール前まで簡単につないでいく。どうしてあれができないのかが不思議で仕方が無いけれど、きっと意識にそうしたパス&ゴーの連続というものがないんだろうなあ。もらって出すまでが一仕事。そんな感じ。たとえ奪われても自分の責任ではないというか。

 オイナウ阿道選手が足下で頑張ってキープしたって、それで走り込む選手はいないしサイドバックが上がって開いてそこからサイドをえぐるような攻撃もない。センターに戻してスルーパス? 前に誰もいなければそれは無理。外目からクロス? 大きく付加してしまっては誰も飛び込めないしシュートは打てない。その間に詰められ出して奪われ跳ね返されては反撃をくらう場面をずっと見てきたけれど、それでも勝ててしまったのは守備でセンターバックとか、ゴールキーパーとかが頑張って抑えてゴールを割らせなかったからに他ならない。褒めるべきはそうした選手達であり、マン・オブ・ザ・マッチを決めるならばゴールキーパーの櫛引選手以外にはあり得ない。それなのに注目を集めるのは久保裕也選手であり南野拓実選手といった世間に名を知られ、海外で活動をする選手たちばかりだったりする。

 かつてはそれなりに仕事をしていたのかもしれないけれど、格上が相手の試合ではまるで消えてしまって、ほとんど仕事らしい仕事できていないにもかかわらず、昔とった杵柄のように名前で目立って持てはやされるこの国のメディア状況が、ちゃんとした組み立てから試合を作って勝つという、当たり前の行為をどこか蔑ろにしている雰囲気がある。それでもリオ五輪への出場権を確保できたんだから、まずは善哉といったところであとは決勝で当たる韓国代表相手にどれだけの試合を見せられるかが、この世代のチームに取って最大の正念場となるだろう。あるいはこてんぱんに負けて、ラッキーだけで抜けてきた自分たちを見直す機会になれば良いんだけれど、不思議と勝ってしまうんだろうなあ。そして本番でこてんぱん。いつかのW杯ブラジル大会で見た光景。そうしてだんだんだんと弱くなる。困ったなあ。

 困ったと言えば総理大臣も困った状態が続いている感じ。なるほど最高裁で判断が下るまでは推定無罪の原則は通るとしても、状況を鑑みればとってもクロい雰囲気が漂う甘利大臣の金銭授受というか贈収賄的行為に対して、現職の総理がこう言ってしまうんだから世界は謎に満ちている。「速やかに必要な調査を行い、自ら説明責任を果たしたうえで、経済再生、TPPをはじめとする重要な職務に引き続き邁進してもらいたい」。調査して説明すればシロになるといった案件には見えず、それこそ摘発されたって不思議はない状況を一方において、これは説明すれば済む話なんだ、説明すれば潔白が証明されて以後、大臣を続けることも大丈夫なんだといった認識を、国の最高権力者であるところの総理大臣が示している。これは総理大臣が問わず語りに説明すればシロになる案件だからと司法にプレッシャーをかけているのか。メディアに察しろと促しているんだろうか。だとしたらこの国はどこかの隣国以上に危険な水域に来ているけれど、それに気付かないまま縛られていく現在地。明日はどっちだ。

 走ることの困難さ、ってのがちょっと引っ込んできたかなという気もしないでもない「プリンス・オブ・スクライド・オルタナティブ」。パルクールというか障害物競走をリレーでやるっていう展開なんだけれど、そうした障害物を越えていった方がタイム的には有利な代わりに体力的にも大変といった競技として描くなら、そうした違いを映像でも見せて欲しいんだけれど普通に走っているランナーと、障害物を越えているランナーの間に決定的な違いが見えずスタート地点とリレー地点だけを見せて大変でしたと感じさせるだけ。スクライドっていう競技そのものの困難さもあまり窺えないんでこれでは普通の陸上競技物と変わらない。まあ今回はあくまでもひとつの通過点であって、より上位のチームと当たるときには駆使するトリックの差異で引き離すようなビジュアルを、見せてくれると思うんだけれどそれってコンテ段階から相当な構想力が必要となりそうだからなあ。さてどうなるか。残る話数を見ていこう。

 比べてみればどうしてこんなにデザインが一致するんだろうというところが多々あるものの、そこにおいては先方が引っ込めるとうことで状況をチャラにし、それならと先にデザインを示した側が拳を下げようとしていたた矢先に、先方がぶつけて来た言葉が余りにむごいというか、どうしてそんな言葉を紡いで状況を混乱させるのかが分からないというか。なるほど仮にそうしたデザインは見たことがなく、存在も知らなかったのかもしれないけれど、そうした状況を言い表す言葉として「先生がタイトルすら聞いたことがない海外ゲームのキャラに似ているとの指摘を受けました」では、ちょっと相手を見下していると取られても仕方が無い。

 「先生はタイトルも内容も知らないと話しているゲームですが」と言えばまだ穏当なんだけれど、これでは俺様たちが知る訳ないだろう、そんな無名のゲームなんてといったニュアンスが漂ってしまう。そうしたリスクを考えるなら、使わない方が良い言葉を公式が使って炎上を招いてしまうところ、そして、この言葉の何が変なんだろうと思ってしまう人がいたりするところに、崩壊する言葉の問題なんかが絡んでいそう。限られたスペースに言葉をぶち込もうとして、つい乱暴になってしまうツイートという場の問題もあるんだろうけれど、だからこそ慎重につぶやいて欲しかった。開発元の人は侮辱にも聞こえたと話しているそうで、そうした声を受けて今度は何をどう呟くか。そこで変わったと言われる少年サンデー編集部の胆力めいたものが試されそう。というかそもそもが似すぎなんだけれど。そこを追求しない方がやっぱり不思議だよなあ。

 「飛び上がるほどうれしかった。鳥肌が立つというのを久しぶりに体感した」と皆川純子さん。「忘れもしない9月29日、海王みちる役で合格しましたよとメールを頂き飛び上がるほどうれしかった」と大原さやかさん。いずれ劣らぬベテラン声優で主役準主役といった作品でもメインとなる役どころを何本も何役もこなしている人たちが、それでも喜ぶっていうんだから「美少女戦士セーラームーン」という作品が持つ影響力ってのはとてつもなく大きいんだと今さらながらに思った「美少女戦士セーラームーンCrystal」第3期「デスバスターズ編」の新キャスト発表会。皆川さんは「思い出したら涙が上がるくらいテンション上がる」とも話していたし、大原さんは「嬉しさと同時に恐れというか、プレッシャーもあった。こんな風に感じる役はないだろうなと責任感を感じました」と話してその役に決まった嬉しさと、それを演じる重圧っってものを訴えていた。

 たぶん世代的に20歳になるかならないかあたりで見ていたんじゃないかと想像する前の「美少女戦士セーラームーン」シリーズだけれど、その時の爆発的な人気ぶり、そこに出演していたことの凄さっていうのは声優の道に進んでアニメの世界に浸るほど、聞こえて来るし感じるものなんだろう。憧れと同時に人気の凄さと演じる重み。アフレコ現場でもベテランなのに緊張していたというからそれはひしひしとかにているんだろう。でもそれを引き受けることになったからにはきっと、2人とも自分ならではのセーラーウラヌスでありセーラーネプチューンを演じていくことになるだろう。三石琴乃さんも言っていた。「大ヒットした作品であるのは事実だけれど、別のストーリーで別の次元の話だから、遠慮しないでどんと来て」。そんな言葉に励まされ、それぞれのウラヌスであり天王はるかでありネプチューンであり海王みちるを演じていってくれると信じて放送を待とう。いやまずは配信か。


【1月26日】 近隣の書店にはたぶん入っていないだろうとkindle版で買った「ガルパンFebri」が、ふらりと立ち寄った秋葉原のアニメイトにわんさかあったんで、電子書籍は常に携帯できる1冊として持ちつつ、やっぱり眼でじっくりと文字を追いたいと、そちらも購入するというのもまあ、ひとつのガルパン愛だし、情報を所有し携行する現代ならではの形でもあるんだろう。見たい時にすぐ取り出して、iPad miniで開いて読める電子書籍は便利でも、布団に入ってぺらぺらとページをめくり、あちらこちらに飛びながら読むのは紙の本の方が便利な訳で、その両方を味わうには両方買うのが1番ってことで。願うなら紙を買ったら電子書籍もついてくるような売り方が、あるにはあるけどもっと一般化すれば、読者もさらに便利になるんだけれど。

 そんな「ガルパンFebri」を読んでいて、ぽんと手を打ったエンサイクロペディアの「ミホーシャにできることは、カチューシャにだってできるんだから!」の項。これを言うのはエキシビションマッチでカチューシャとノンナが西住みほたちが乗る4号戦車をおいかけ神社に入って、そこでみほたちが急な階段を戦車で降りていったシーンだけれど、そこではいはいといった返事をしながらノンナがくるりと後ろを向いて顔を下に向けるのが、どうしてなんだろうとずっと気になっていた。ブラでも下がったんで付け直しているのか、それとも車内の誰かと話しているのかと思っていたら、どうやら神社に頭を下げていたらしい。なるほど礼儀正しく目配りも利くノンナらしい振る舞い。そういう仕込みが随所にあるから、何度でも観たくなるんだろうなあ、「ガールズ&パンツァー 劇場版」を。

 こっとはこっちで、やっぱり巨大な画面に映る白い大三角を眼の奥に焼き付けたいからと観た「傷物語 1 鉄血篇」。半分くらいは3週連続で配られる冊子をもらいにいくのが目的だったけれど、どうせ行くならと今回は2列目のほぼ正面で、前が車いすの人のスペースになっている場所で何の遮るものもない状態で、TCXではないとはいえそれなりに大きなスクリーンいっぱいにひろがる羽川翼の白の大三角を観て、ああこれはやっぱり良いものだと歓喜しつつ、だからとって手に触れられるものではないんだなあといった虚しさも浮かんで悄然とする。でもしばらくすればまた観たくなって、劇場に足を運ぶことになるんだろう。続く展開だと興味があるのはやっぱり羽川翼が今度は見せろと言われて見せる場面かな。毛糸じゃないけどフェルト系のグレーだっけ。どんな質感なんだろう。それがスクリーンいっぱいに広がる時を今は待とう。出るのは熱血篇かな。それとも冷血篇かな。

 しばらく前から話題になっていた、フジテレビがテレビ番組で使った地図で日本列島にある四国がなぜかオーストラリアになっていて、タスマニア島までしっかりくっついていて大笑いされたという話で、フジテレビ側が釈明していて、どうやら仮の地図を作った時にネットかどこかにあった地図を引っ張ってきて、それをそのまま改めないで使ってしまったらしい。何というお粗末さ。引っ張る時に奇妙だと感じなかったのかって不思議があるし、使う段階になって見てこれは何だと誰も思わなかったのかって奇妙さがある。仮に似ていたとしてもあの位置は、紀伊半島の先端付近まで“四国”が迫っていて妙だって思うだろう。

 よく見ると淡路島もない。九州には錦江湾が存在しない。それに気付けばこれはダメだと分かることが、平気で通ってしまうあたりにあのテレビ局における制作フロー上のネックみたいなものが窺える。真っ当な美術スタッフがいなくなってしまったのかもしれないなあ、なんて想像も浮かんで来る。そうしたミスの間抜けっぷりはそれとして、世間のフジテレビに対する反応からもこの局が置かれている立場のヤバさってものが見えてくる。四国がオーストラリアに置き換えられ、これはそのまままではなかったけれども九州がアフリカに置き換えられるという説は、敷衍すれば本州はユーラシア大陸で北海道は北米大陸に置き換えられて日本には実は世界中が詰まっているんだというオカルティックな説となってそれって日本すごいじゃんという、ナショナリズム的な翔陽へとつながっていく。

 けれども今回のミスを受けた世間の反応は、日本を他国に置き換えるなんてナニゴトだといった非難であって、根っこにある説とは逆の受け止められ方。つまりはフジテレビは日本を貶めることなら平気でやるテレビ局だっていうイメージが、広がり定着しているってことを現している。これはとっても厄介な話。そうした意識で番組を眺め、テレビ局を眺めては、何か起これば罵倒を浴びせる人々が主流になってしまっている状況をひっくり返すのは容易じゃないけれど、それをやらなくては視聴者は戻ってこない。どうするんだろう。すべてが裏目に出るときに、必要なのは世間をあっと驚かせる画期的な番組なんだろうけれど、それが今のフジテレビからそれが生まれてくるようには見えないからなあ。どうしたものか。

 これも時代か。ゲーム機の「プレイステーション」を出しているソニー・コンピュータエンタテインメントが名前をソニー・インタラクティブエンターテインメントに帰るそうで、SCEがSIEに変わったりするのはそれとして、ソニコンと略していた呼び方はソニインとかになるんだろうかと思ったりもしたけど、それならいっそ社名もプレイステーションにすれば分かりやすいんじゃないのといったところで、そんなプレイステーションですらいつまで存在するか分からない時代だからこそ、コンピュータをインタラクティブに変えてプラットフォームやハードに依拠せず、表現としてのインタラクティブエンターテインメントを提供していくチームという意味合いも含めて、名前をソニー・インタラクティブエンターテインメントに変えようと判断したんだろう。

 1993年に立ち上がって以降、ほぼ20年は耳にしてきた名前が消えるのは寂しいけれど、その間に消えた企業、サービスを変えた企業も多々あるた中で、ソニー・コンピュータエンタテインメントが今まで残れたのは、事業としてプレイステーションという希有なプラットフォームを提供し、面白いゲームを出しつつコンピュータエンタテインメントのカテゴリーを確立させ、それを世界へと展開できたから。そこに至った努力に敬服しつつもこれからの時代にいったい何を見せるのか、インタラクティブエンターテインメントという名称に相応しく、その代名詞となるようなサービスなりハードなりコンテンツなりを見せることが出来るのかが、次の20年を生き延びさせる名前にできるかの分かれ目になるんだろう。あるいはピクチャーズとかとも融合して、ソニー・エンターテインメントとして屹立するとか。未来は分からないけれど、その行く末を気にしていこう。

 選手村を作るとかで会場の確保がむずかしくなるからと、27年間に渡って続けられてきた東京湾大華火大会がしばらくの間休止になるとか。1988年とバブルまっただ中で始まったイベントで、東京だとか日本だとかの伝統を追わせるにはちょっと商業的すぎる気もするけれど、それでも定着して70万人とかを集めるだけの存在になった夏の風物詩を、他に大事業があるからと中止してしまう当たりに、たとえ長い伝統があっても他に決まったことがあるからと、蔑ろにしがちなこの国の悪癖めいたものが見える。このままだと日程的に重なる隅田川花火大会も開催が微妙。警備が大変だからと中止させかねないけれど、東京五輪に来る人たちに、日本には素晴らし伝統があると言ってそれを見に日本に来てくださいと呼びかけながら、肝心の伝統行事が五輪のために潰されてたりしたら、本末転倒も甚だしい。五輪のために大勢が来る絶好の機会に、五輪のためだからとコンベンション施設を潰して展示会も出来ないようにするちぐはぐさも含め、誰か改めないと五輪もその後のインバウンドも、成功がおぼつかないなよなあ。やれやれ。


【1月25日】 「新世紀エヴァンゲリオン」が放送された1995年頃に生まれて、今年の1月に成人式を迎えたあたりの世代にとって、テレビでそれとして大相撲を意識するようになり、個々の力士の違いも何となく分かるようになって来た10歳くらい段階から、優勝力士はずっとモンゴル出身なりブルガリア出身なりエストニア出身だったことになる。つまりは大相撲とは日本出身の日本人力士には優勝なんてとうてい不可能な異次元のスポーツで、そこで初めてに近い日本出身の日本人力士の優勝を目の当たりにできるといった驚きの意識が、浮かんで気分的に盛り上がっても仕方が無いことだとは思う。

 ただ、それなりな分別を得た大人が、外国人の参加を認めた大相撲にあって、優勝者がずっと外国人なり帰化したものの外国出身者だったことを残念に思い、日本出身の日本人力士が優勝できないことを口に出して憤るのは、イーブンな条件で参加して稽古もこなし、優勝を果たしてきた外国出身力士に対して、とても失礼なことだという意識を持つのは至極当然な話。それがマナーでもあって、だから琴奨菊関の初優勝を語るに当たって、日本出身の日本人力士の10年ぶりの優勝ということに、触れてもそこに外国出身力士の優勝を貶めるようなニュアンスを薄れさせ、残さないような言葉の工夫が盛り込まれる。それが知性ある者の言論って奴だ。

 にも関わらず、堂々の社説にあたるコーナーでもって「日本勢の雌伏は、白鵬らモンゴルの3横綱を筆頭とする、外国勢の層の厚さの裏返しといえる。この優勝を10年に1度の出来事で終わらせては、『国技』の看板が泣く」と書いて、大相撲は日本の国技なんだからそこで日本出身の日本人力士が勝たないことはイケナイことのように訴える媒体があって驚いたというか。はるばる遠国から日本にやって来て、慣れない環境の中で切磋琢磨して勝利を重ねてきた外国出身力士にとって、この言葉はどう響くだろう。お前達はいくら優勝したって「国技」の看板を輝かせることはできない。そう取られかねない心配がある。というかそう言ってるも同然の言葉だろう。

 なるほど、八百長問題などもあって落ちた相撲の人気、「それが持ち直したのも、日本勢ではなく、優勝回数の記録を更新し続ける白鵬ら、外国勢の活躍に負うところが大きい」と添えてあっても、だからありがとう、そしてこれからも頑張って日本出身の日本人力士を相手に戦い、堂々の勝利を重ねていってくれれば、さらに大相撲も盛り上がるといったフォローはなし。日本出身の日本人力士でなければ国技の看板を背負う力士にあらずといったニュアンスを隠さない。同じ媒体は別のコラムの電子版でも「日本人力士、10年ぶりの優勝 かくも長き不在…」なんて見出しを掲げ、「本当に良かった」と琴奨菊関の優勝を讃えてみせる。

 直前の文章が「ちなみに、日本人力士ではなく、日本出身力士と書くのには理由がある。24年の夏場所で初優勝した旭天鵬は、モンゴル出身ではあるが、日本国籍を持つれっきとした日本人力士だったからだ。今後は、表現に気を使う必要もなくなるだろう」。どこか帰化した人との差異を顕在化させる言葉使い。これから増えるだろう移民は帰化しても同等の日本人とは認めたくない意識の表れだと見て取れる。もしもこれで日本で生まれ育った在日の力士が優勝したら何て書くんだろうか。そんな思いも浮かぶ。だいたいが「日本出身力士と書くのには理由がある」としながら、見出しは「日本人力士」。そこにある大いなる矛盾にも気付かない。言葉の劣化。知性の鈍化。それらが滲んだこの一件への対応ぶりに衰退ってものが濃く漂う。どうしたものかなあ。どうしようもないんだろうなあ。やれやれ。

 そうしたモヤモヤを一方に起きつつ、琴奨菊関の初優勝は喜ばしいというか、ここに来て急に強くなったことに裏で何かあったのなんて、ちょっと前なら浮かんだだろうけど今のすべてがガチな状況下で、優勝を目指して本気で鍛錬に励んだ結果だってことが伝わっているだけに嬉しいというか。今朝方のワイドショーでは琴奨菊関が、新しいトレーナーの指導のもとで薬缶のような形をした重量物を両手で何十回も持ち上げる姿を映し、地面に置いたタイヤを押して走る姿も映して、持久力とパワーを付けたことを紹介してた。あの大関が本当に辛そうな表情で黙々とこなす姿に、相当に厳しい運動だったんだと想像できる。

 そんな運動をこなして体幹も鍛えてバランスを良くした結果が、安定した取口に?がったといった感じ。あとは1番1番の取り組みにも、相手を研究してぶつかる工夫や、土俵への設置を増やして浮かないようにする工夫なんかをしていたことも、昨晩のNHKでのインタビューで琴奨菊関は話してた。稽古稽古稽古といった根性論に加え、どういう稽古をすればどこが強くなるかといった科学も入った相撲の世界。そこに日本出身の日本人だなんて土着の論理はもういらないし、あっても邪魔になるだけだろう。これからは誰もがそんな工夫を尊びつつ、最上を目指して努力奮闘した結果が、土俵でぶつかり合った結果としての優勝を、見せてくれればそれで良いって空気を作り上げることが大切なんだろう。頑張れみんな。来場所は誰が優勝するかなあ。

 面白いなあ。岬鷺宮さんおシリーズだい2巻となる「魔導書作家になろう!2 >ならば魔王の誘いに乗っちゃいますか?(はい/いいえ)」(電撃文庫)は新人魔導書作家が実践派の編集者に従いダンジョンに入って戦いながら新しい魔法を思いつき、それを本にしていくといったプロセスが面白かった第1巻に続いて、やっぱり次の魔法をどうしようかと考えていたときに陥ったスランプ。どうすれば打開できるか考えあぐねていた時に、ライバル出版社で人気の魔導書を送り出している、それこど魔導書作家の元祖ともいえる作家の家に原稿を取りに行くといった仕事を依頼され、ライバル出版社であっても自分たちの為になると考え作家と編集者が取りに行く。

 ダンジョンの奥にあるその家で待っていたのは、何と編集者で元勇者の少女がかつて戦い倒したとい女魔王。その後に魔導書作家になっていたみたいだけれど、新人として現れた作家が気になったのか、別の理由からかこれまで避けていた表舞台にも現れるようになっては作家に次々を試練めいた者を与えていく。そしてうまくこなした果てに眷属になれ、そうすればあらゆる魔法に近づけるぞと誘いをかけるのだが……ってな展開の向こうに見える魔王の考え。それはそれとして、どんな試練も工夫で乗り切る魔導書作家のアイデアに、一種推理めいたものの楽しさも感じられる。そうかそういう手があったんだといった具合。ライトノベル作家になろう系小説はあるけれど、それとは違った楽しさがある作家×編集者物。次はどんな試練が待っているのかな。続いて欲しいなあ。

 コアミックスって「週刊少年ジャンプ」の編集長だった堀江信彦さんが飛び出して作った会社の新年会があったんで吉祥寺まで行って見物。「よろしくメカドック」の次原隆二さんの「シティ・ハンター」の北条司さんに「北斗の拳」の原哲夫さんといった漫画界のレジェンドたちによる鏡開きを見物しつつ今もって第一線で垣続ける面々の、持てるポテンシャルの高さにやっぱりあの時代のジャンプて凄かったんだなあという思いをひとしきり。挨拶に立ったコアミックスの本を取り扱っている徳間書店の社長の人が、漫画は雑誌は厳しいけれど単行本はそこそこで、そして電子書籍が急激に伸びているんで2018年頃には前のピークを上回って史上最高の金額になるんじゃないかと話していたのが印象的だった。形は変わっても漫画は残る。そして強いタイトルは残り続けるといった状況下で強いタイトルを持ち、面白い漫画を電子出版も見越して取り込み送り出しているコアミックスの未来は明るいってことなのかなあ。どうなのかなあ。ともあれ「ひとり暮らしのOLを描きました」はもっと売れて良いかも。マンガ大賞2016には落ちたけれど、別の何かを是非に。


【1月24日】 ようやくやっと周防ツカサさんの「俺氏、異世界学園で『女子トイレの神』になる。」(電撃文庫)を読み終える。異世界に召喚されたもののそこは女子トイレで、地縛霊ならぬ地縛神としていろいろ相談事にのる少年の話かと思ったら、半分くらいは当たっていたけどそこへと至らせる導入部が違ってた。というか異世界転生でも転移でもなく舞台はどうやら日本。異世界と?がってしまってそこから来た様々な種族の人たちを集めた学校があって、そこに総理大臣の出来の悪い3男坊という主人公が送り込まれることになる。厄介払いかあるいは別の狙いがあってか。ともかく通い始めた少年は、オークだとか鳥人間だとか半魚人といった異世界の少年少女となかなか仲良くなれず、ひとりぼっちでトイレに逃げ込んでいたその時。

 隣から聞こえてきた少女によるマーテル様っていう神様への祈りが妙なところで発動して、クラスメートで背中に羽根を負った少女の入っていた個室に召喚されてしまう。いったい何が起こったかは不明。その場はどうにか収まったものの、以来、そのトイレで誰かがお願いすると少年がどこにいても召喚されては相談事を持ちかけられるようになる。これは困った。女子の悩みなて分からない。それでもどうにかアドバイスをしているうちに、「女子トイレの神様」の評判は広がりいろいろと相談事が持ち込まれるようになる。一方で最初に少年を呼び出した少女とも口をきくようになり、毅然としている風の彼女が実は粗忽でダメっ子だったことも知りつつ、仲良く学園生活を始めるという。

 そんな展開の中、どうやらその羽根を持った少女を狙う陰謀が繰り広げ羅得ていた様子。いったい誰が。何の目的で。日常では学校に持ち上がるさまざま種族のそれぞれの悩みを解決していく学園ストーリー。その一方で暗躍する敵を暴いて追い詰め逆襲するというスリリングな展開もあって楽しめる。オークという巨大な体格で強面の種族がもっと親しまれたいと悩んでいたことに見せた解決法は、見かけの怖さを逆手にとってユニークさに変えてしまうという工夫があっていろいろ応用できそう。元より愉快な存在だったからこそ通じたのかも知れないけれど。いくらオークだからって姫騎士相手に迫って「くっ、殺せ」を言わせる役回りばかり演じている訳にはいかないからなあ。そもそも姫騎士なんてそうは歩いていないから。うん。

 ジョン・レノンを横取りしてポール・マッカートニーを憤らせ、ビートルズの関係をぶちこわした女性だとか、ウーマンリブ的なスタンスでもってハプニングと呼ばれる活動を繰り広げてアートシーンを騒がせたとかいった印象ばかりが漂って、なかなかその本体というか全体像が見えてこないオノ・ヨーコさんというアーティストだけれど、東京都現代美術館で2016年2月14日まで開催の展覧会「オノ・ヨーコ|私の窓から」を見ると、案外に静かに淡々と言葉だけで世界の矛盾に挑み、自分自身の中に内在する様々な意識を刺激する活動を続けてきた人なんだなあ、といった印象に変わってくる。中には「Cut Piece」っていう女性というか自分自身がステージに座ってその服を観客達に切り取らせていく作品もあって、女性を陵辱したい意識を顕在化させつつ、女性の性的なビジュアルを売り物にする世間を撃とうとしているなあって感じが浮かぶ。

 でも多くの作品がインタラクションといって、何々しなさいとか、単純な言葉だけをそこに置いてそれを読んだ人が何かを考え、何かを思い動くなり次につながる言葉を紡ぐような静かな連鎖を目標としている感じ。そこには声高に世間に対して何かを命令したり、権力だの凝り固まった既成概念だのをぶちこわそうとするパワフルさはない。でもだからといって弱い訳ではない言葉の群れ。その活動において強い意思を見せてきた人だからこそ含まれる言葉の強度が、受け取った人を刺激し、動かし考えさせて次代を拓くことになるんだろう。ただ日付だけを記録し続けた河原温さんの方がトータルな作品として無意味な意味を感じさせないこともないけれど、綴られたインタラクションの言葉の重なりもまた、日々を生きている人間たちが、漠然とした空気の中にひとつの指針を与えられ、いずれかへと足を踏み出すきかっけになる意義を持っているのだ。

 ユニークだったのは「We Are All Walter」って作品で、細長い台の上にお椀がおかれてそこに水が溜められているという、見た目はとっても静謐でミニマルな感じだけれど、それに合わせてヘッドフォンを耳に付け、流れてくるロックを聴くと途端に場が陽気でリズミカルな雰囲気になる。とてもミスマッチなそれらがどういう意味を持つのか、そのミスマッチ感こそが作品の意図なのかは分からないけれど、当たり前と思って何かを眺める固定観念をぶちこわしてくれることは確か。ならばいっそイヤフォンを耳にレコーダーからロックを流しつつ、静謐な美術館を歩いたらどんな印象が浮かぶのか。やってみたいけど怒られるかな、警備の人とか作者とかに。

 どこかのメディアでインタビューに答えるオノ・ヨーコさんの映像もあって、たぶん近々なら80歳近い年齢だと思うけれども、のぞく胸元の白い双房が目にも鮮やかでクラクラくる。いったいどうやって維持しているんだろうなあ。そこは未だに攻撃的。あとは「Fly」って映像作品が見た目にもやっぱり官能を刺激されるかなあ、素っ裸で寝ている女性に蠅がまとわりつくという内容で、時々は股間にも行ってそれがどアップでスクリーンに映し出される。モジャっとした中に縦の筋。首を突っ込みたくなるけれどそれはさすがにやったら拙いんで、網膜に刻むに留める。実物を見る機会なんかまずないし。そんな映像で長い時間を微動だにせず蠅をまとわりつかせた女性は何を思っていたんだろう。自分は死体か。視線を蠅になぞらえまとわりつく助平な意識を超然と受け流す意思の強さの大切さか。答え合わせをするんじゃなく、自分の頭で考えよう。それがインタラクション。

 東京都現代美術館では「東京アートミーティング6」ってのもやっていて、そこでYMO回りのアートディレクションが並べられていて、レコードのジャケットアートや広告や雑誌なんかが登場。あと映像の部屋で1981年に行われた新宿コマ劇場でのライブ映像なんかが見られてしばらく立ち止まる。展示の方では「増殖」のジャケットに使われていた細野晴臣さん坂本龍一さん高橋幸宏さんの人形も並んでいたけれど、あれはそうかもともとは富士フイルムか何かの広告向けに作られたものだったのか。そんあYMO、今にして思うと、どこか未来的な雰囲気とサイケデリックなカラーリング、そして人民服のようなノスタルジックなモチーフの組み合わせから浮かび上がるズレというかギャップ感が、1980年代におけるメインストリームの流行とはちょっと違った格好良さってやつを醸し出して、人目を惹いたのかもしれない。真面目に莫迦やってるってシニカルさもスパイスになってたというか。

 それが時代の寵児と持てはやされ、当時の最先端になってしまってYMO自体がメインストリームとなってしまうと、真面目に莫迦やってるのがわざとらしく見えてしまって鬱陶しさが漂い始め、ちょっと避けようと思うようになってYMOから興味が薄れていった、ってことなのかなあ、自分に関しては。ただ音楽だけを取り出して聞けば、「BGM」とか「テクノデリック」とかいろいろと凄いことをやっていたはずで、ファッションとしてYMOを捉えていて、そしてCMだとか広告でそう捉えさせていた世間に見事に流されていただけなのかもしれないけれど、そういう道を選んだのもまたYMOなだけに、表層に引っ張られ右往左往した挙げ句に離れていくファンを見て、ほくそ笑んでいたのかもしれない。まあ仕方が無い、それが若さって奴だから。

 新宿コマ劇場でのライブでは「TAISO」と「COSMIC SURFIN’」と「STAIRS」が見られるんだけれど、ブルマの女の子たちが体操するビジュアルの置くにある音楽は耳に残って躍動感もあって刺激的。名曲「COSMIC SURFIN’」は語るまでもなくポップでスピーディーで、それを高橋幸宏さんが懸命なドラミングで支えている姿にバンドとしても凄かったってことを改めて再認識させられる。「STAIRS」は印象にあまり残っていない曲だけれど、ノイジーな上にメロディもあって今聞いても新しいというか。そういう音楽をやっていたのがファッションとアドバタイジングの華やかさに覆われて見えづらくなっている。改めてYMOって存在を音楽から聞き直してみたい気がしてきた。でも聞くとやっぱりファッションとモードが目には浮かんでしまうんだろうなあ。それだけ強烈に結びついて色と形を刻んだグループ。凄いなあと改めて。

 他の作品では、空間に木の橋をかけてその上を歩かせ今までの東京都現代美術館とは違った場所かもと感じさせてくれた「目【め】ってグループらしい人たちによる「ワームホールとしての東京」が面白かった。あれはバックヤードから入ったのかな。自分がとても高いところにいるような気がして、足を踏み外したらどうなるんだろうと怖かった。蜷川実花さんの部屋ではアイドルやらギャルやらマイノリティやらドーリーやらと、さまざまなクラスタに別れて撮られたポートレートが並んで、この国のファッションであり趣味嗜好といったものの多様性を感じさせた。当たり前の自分が当たり前じゃなく、自分がいる場所だけが絶対ではないという、自明なんだけれど気づけない部分に触れられる作品、といった感じか。奥深くて面白いのでオノ・ヨーコを観に来た人も、是非に寄ってみてはいかが。


【1月23日】 たぶん5回目くらいの「ガールズ&パンツァー 劇場版」を見て戦車の上から偵察をする大学選抜の選手の立てた膝がやっぱり可愛いなあといったところにフェティッシュな見どころを感じているこの頃。同じように知波単の西隊長が砲塔に座って足を揃えて偵察していたり、サンダース大学附属高校のケイ隊長がこっちはニーソックスの足を片方だらりとやりながら双眼鏡をのぞいてたいるする格好を、何度でも確かめに通いたくなるくらいに「ガールズ&パンツァー 劇場版」は僕のツボに入った感じ。ただそろそろ良いかなあと思い始めた矢先、4DXでの上映が決定して動く座席で戦車の振動なんかを楽しみながら見れそうなんでまた行くことは確実。ほかに漂う硝煙とか散るオイルとかもあるのかな。そしてピットロード謹製のビニール製砲弾が飛び交い顔にガンガン当たると。それならちょっと行きたいかも。要ゴーグル。

 ビルドアップが出来ないっていうか、中盤でボールを持とうとするとすぐに詰め寄られ、危ないからと出したらそこに相手がいてカットされて反撃される繰り返し。あるいはパスなり相手からのフィードなりを受けても、トラップが大きすぎて跳ね返ったところを相手に奪われるといった具合に、ボールのキープがあんまり出来ていないのが見ていて苛立たしく、そして試合においてもイランの攻撃に?がっていたような気がしたリオデジャネイロ五輪に向けたサッカーのアジア地区代表選出トーナメント。これに勝ってもまだ安心できない上に、負ければその場で出場が断たれる重要な試合において、どこか頼りないところを漂わせているU−23日本代表に、若年層の力の低下って奴もここにきわまってきたなあといった印象を受ける。

 幸いにして相手も攻めあぐねたのか後半からチェックをキツくしなくなり、そして延長戦に入ってファジアーノ岡山から選出された豊川雄太選手が飛び込みサイドからの低いクロスをどんぴしゃのタイミングでゴールにたたき込むと、相手も攻めざるを得なくなったところを今度はFC東京の中島翔哉選手が攻め込んでは強烈なシュートを同じような角度から2本、たたき込んで試合を決定づけた。もしも延長ではない後半のイランのヘディングが、バーに当たって跳ね返らずに決まっていたら後は守備を固められ、攻めあぐねた果てに敗退していた気が強くするだけに、運が良かったし流も引き寄せたといった感じ。これが次の準決勝でも使えるかどうかは分からないけれど、サイドからの素早い攻めが機能してくればあっさりと勝利し決勝に駒を進めると同時に、オリンピックへの出場権も獲得といくんじゃなかろうか。ちょっと楽観的かなあ。

 我らがジェフユナイテッド市原・千葉から出場のオイナウ阿道選手はゴールにこそ絡まなくても前線からのタフなチェックがあったし、ひとりボールをキープしてイランの攻撃のテンポを止める役割を果たしていただけに、その働きはそれなりに評価されていいのかも。ただやっぱりフォワードなら得点が欲しいところなだけに、ジェフ千葉でどういう役目を果たすのか、かつての巻誠一郎選手のようにフォワードでのチェックからキープしたところを中盤から誰か飛び込みゴールするような展開を構想しているのか、ちょっと気になる。この世代でナンバーワンの呼び声も高い南野拓実選手が出ていなかったのはどうしてだろう、イランとの相性の問題か、それとも戦術面での対応か。いずれにしてもここから次代の、ロシアW杯での中心選手が生まれてくる気配がしないのがどうにもなあ。中島選手のクラブでの活躍ぶりがひとつ、試金石になるかな。

 原作を読んでいた時に十分に驚いていたから「ヘヴィーオブジェクト」のテレビアニメーションの第15話を見て「情報同盟」のおほほの“正体”が分かってもああやっぱりと思った程度だけれど、でも実際にそれを映像でどう見せるのか、ってあたりでモニター越しでは全身を見せつつオブジェクトのコックピットでは手足くらいしか映さなかった演出しかり、それでいてコックピットでの声とモニター越しの声にも変化を付ける演技しかりといろいろと、仕込みや仕掛けはあった感じ。それで分かった人が果たしてどれだけいたかが気になるところではあるけれど、改めて明らかになったその肢体がGカップと言われていた頃に比べてさらに人気となる可能性の高さに、この国における女性に対する趣味の多様さを思うのだった。僕はどっちも好みかなあ。ビリヤードをするフローレイティア少佐も凄かったし。クウェンサーは果たしてあの尻を蹴飛ばしたんだろうか。蹴飛ばした旬かにどんな感触が足の甲に伝わったんだろうか。語って欲しい、じっくりと。

 今日も今日とて「次世代ワールドホビーフェア’16 Winter」の会場へ。一時会場を席巻したアプリの配布は影を潜めてすっかりゲーム機を使ったゲームと玩具のお祭りになっているのはある意味で、健全化が図られて良かったんじゃなかろうか。子供の世界にまでガチャとか持ち込んで煽るのは、やっぱり小学館としても良くないって考えがあったんだろう。そういう辺りの健全さはまだまだ出版界にあるってことなのかな。週刊誌の方は知らないけれど。そんな「次世代ワールドホビーフェア’16 Winter」の会場でひときわ賑やかだったのが「マインクラフト」を展示してあるソニー・コンピュータエンタテインメントのブース。前回の夏の時もそうだったけれども小学生くらいの子供たちが列を成してブースを囲んで「マインクラフト」のプレーに目を向ける。

 そんなに簡単なゲームじゃないし圧倒的に面白いって内容でもない。自分で何かしないと何もできないゲームだけれど、そこで何かをするってことを楽しむ心理が、マイクラキッズと呼ばれる若年層のプレーヤーに育まれつつあるってことなんだろう。決してキャラクターに頼ることなく、ゲーム性だけで引っ張る究極のゲームが人気になってきたことで、将来そんなマイクラキッズからすっごいプログラマーとかが生まれてきたりするのかな、しないかな。「妖怪ウォッチ」関連はデカいブースが広がっていたけれど、その後をうかがわせる展示がないのが気に掛かるところ。レベルファイブもいろいろと布石は打っているはずだけれど、それはまだ大々的に見える段階にないのかな。

 バンダイがミニ四駆みたいなレーシングトイを出していたけど果たしてどれだけの人気が得られるか。コースを設定して改造キットを提供して漫画も連載してアニメ化もして人気となったミニ四駆と同じだけの労力を注ぎ込み、ミニ四駆の二番煎じといった評判も塗りかえて浸透していくのって割と大変な気がする。当のタミヤだって「ダンガンレーサー」とか出してもそれをミニ四駆ほど広められなかった訳だし。玩具だとベイブレードに仕込まれたNFCのチップを使って筐体で遊ぶベイターミナルってのがタカラトミーから出ていた様子。それを成り立たせるほどベイブレードの市場が膨らんでいるってことなのか。それを起爆剤にしたいくらいにまだまだこれからの余地があるってことなのか。純粋玩具の世界を伺う意味でも気になる2つ。けん玉はそろそろ終わりなのかなあ。ヨーヨーはどこいった。あっ、シカダ駄菓子だ。

 テレビシリーズの「ルパン三世」がスペシャル「イタリアン・ゲーム」でとらいえずレベッカ編に決着をつけたのか、イタリアから離れてあちらこちらをめぐりながらもルパンと次元と五右衛門が珍道中を繰り広げる愉快な展開で、見ていて楽しい上に時々ルパンも格好良く次元もビシッと決めてくれてて見ていて安心できるというか。クールとかスタイリッシュとは違うけれども人情なんかも交えつつそれでいて芯は通っているというか。あと絵が良いのが嬉しいなあ。峰不二子も可愛いし。でも残る話数をずっとこんな毎回単発エピソードで埋めていく気なのか、それとも後半にシリーズ的な何かを持ってくるのか。分からないけれどもギャグに走らずかといって残忍でもないルパンって奴を見せてくれればそれで本望。伝説になるようなクライマックスを迎えて欲しいけれども、照樹努さんはいないからなあ。まあ良いか。ともあれ最後まで見ていこう。


【1月22日】 つまりはやっぱり理不尽にして暴力的な性格だった川神舞だったけれど、それをすっかり忘れて子供の頃に遊んだというか、いろいろな意味で可愛がってやった花の妖精っぽいファントムが、いつかのリベンジを果たそうと待ち受けていたのをまるで気付かず、橋の通行を邪魔するファントムだと立ち向かっていった辺りに、虐めた者はすぐに忘れるけれど、虐められた者は永遠に覚えているといった記憶に関する真理めいたものを思い出したという、そんな「無彩限のファントム・ワールド」。和泉玲奈の大口開けてファントムを吸い込む技も見られず、ビジュアル的には足りないところもあったけれど、格闘シーンは迫力だったし決め技も格好良かったんで良しとしよう。水無瀬小糸が出てこなかったけれど、次はちゃんと絡むのかな。というか原作のような展開にするのかそれとも、日常系妖怪退治物語で進めるのか。気になる今後。

 まるで見ていないから、連続テレビ小説の「朝が来た」で五代が死んだと言われても、「めぞん一刻」の五代くんの頼りない顔ばかりが浮かんで、死んだからといって悲しむなんて不思議と思ってしまうけれど、毎朝楽しみにして連ドラを見ている人にとっては、ディーン・フジオカっていう名前の、ケイン・コスギみたいな格闘はしなさそうな好人物が演じた五代友厚が、ヒロインのあさに慕われながらも逝ってしまった哀しみに、しばらくは囚われうちひしがれる状態になるみたい。フィクションに擬してはあってもモデルがいる作品の上で、歴史上の人物を死なずに過ごさせるってことは無理で、五代友厚をここで退場にしてしまうのは仕方がない。あとはスピンオフでの活躍に期待か。

 それはとは別に、仮に五代友厚が早世せず、東京において同じように経済を担った渋沢栄一くらい生きていたら、果たして大阪はどれくらいの発展を遂げたのか、ってとこには興味がある。少なくとも重要な企業のひとつやふたつは立ち上がったかもしれないけれど、考えてみれば住友財閥だって鴻池財閥だって拠点は大阪だし大阪証券取引所は東京証券取引所よりも威勢が良かったし、日本生命は大阪が拠点だし野村證券だって大阪発だしといった具合に大阪にも財閥があり産業はあって、資本はそれなりに集まっていた。それは明治大正を過ぎても終わらず、昭和に入っても戦後になっても大阪ってそれなりに存在感があったような印象がある。それこそ1970年、昭和45年の大阪万博の頃だって大阪には未来があって活気もあって文化だって息づいている場所といった感じだったように思うのは、僕が大阪に近い名古屋に住んでいたからなのかもしれないけれど、東京なんて気にしなくたって生きていけた。それが1980年代に入って何か急速にしぼんでしまったような気がする。

 どうしてなのか、って考えるとやっぱり情報が東京に集中してしまっていく過程に沿っているのかもしれないって思いが浮かぶ。誰もがメディアを通して世界を体感するようになると、そのメディアの多くが集中していて、人口も多くて情報の集積地となっている東京発の情報が多くなってしまって、やっぱり東京が日本のメインなんだという感覚が全体に色濃くなってしってしまった。それに伴い企業なんかも、東京こそがといった雰囲気になってどんどんと大阪を出ていった。バブルでもって首都圏の地価があがると、そこで商売して一儲けって気分も強くなっていった果て、大阪にいる意味ってのが薄れてしまったその一方で、円高から海外に製造拠点も移っていく中で、大阪からも地場産業が消えてしまって存在感が薄れていった、ってことになるんだろうか。

 もちろん今だって、道頓堀に行けば賑わいがあるし梅田あたりから見渡した風景は東京のそれと変わらない。名古屋なんて栄も伏見も名古屋駅前もすかすかな中で大阪の方がよほど活気があるように見えるのに、経済として盛り上がっているのは名古屋であって大阪は地盤沈下が言われるのは、やっぱり産業としてここだっていうものが見えていないからなのかもしれないなあ。名古屋というか中部なら、トヨタ自動車を頂点とした自動車産業があり機械産業があり、三菱グループが誇る航空宇宙産業もあってそれの裾野が広がっている。日本ガイシを始めとした森村グループも名古屋が本拠か。その上で大阪みたいに東京に対する敵愾心もライバル意識も憧れもないから、人が出ていかず地元に留まってそれなりの経済圏を維持しているといった具合。

 こんな状況で仮に五代友厚が復活したからといって、大阪が再び賑わいを取りもどすとは思えないし、それは都構想でも道州制でも変わらない。器を作っても中身がないから。だったらどうするかっていうと妙案が浮かばない。ユニバーサルスタジオジャパンでもないし、リニアだって東京都近くなるだけで逆効果。京都大学とかの先端医療と大阪大学とかの人工知能と海洋堂とかの造形なんかを打ち出し日本人が行きたがり、世界からも人が来たがる地域にする、ってことしかないのかなあ、大阪。阪神タイガースが日本シリーZうで10連覇を果たし、ガンバ大阪がACLで優勝してクラブワールドカップで世界一に輝いたらあるいは……。あり得ないかどっちも。あの貧相な給食を止めて、毎日お好み焼き3枚にたこ焼き10個をペロリと平らげるくらいのゴージャスさを見せたら盛り上がるかな。今のままだと大阪=貧相のイメージがひたすら焼き付いていくだけだから。

 右手で殴りながら左手で撫でるが如くというか。例の話題について日刊サイゾーが「剛腕すぎて、テレビ界でも不評はあった」といった感じでマネージャーさんの強気のスタンスを取り上げて批判しつつ、事務所の方は「よほど敵対しない限り、食い違いがあっても物腰柔らかい役員が関係改善に努めてくれるし、メリーさんも普段は笑顔で許容してくれる」といった具合にマネージャーとは敵対する側の人を持ち上げて、実は正しいのはそっちなんじゃないかといった記事を流す。ところが、同じグループから出ているリテラの方では。「今からでも遅くない。中居たちはもう一度、飯島マネージャーと組んで、ジャニーズ事務所からの独立をめざすべきではないのか。実際、今回の一件で、ジャニーズの専横と御用マスコミの腐敗は完全に大衆にバレてしまっ」といった具合に事務所を批判しつつ、それでも事務所に偏った情報を流すマスコミを腰抜け呼ばわりする。なんというか巧みというか。どっちに転んでも抜けられるあたりに今年が「真田丸」の放送年だなあってことを思った次第。どっちが信繁でどっちが信之かは分からないけれど。

 1月22日付けの朝刊各紙にいっせいに出た「東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と東京2020オフィシャルパートナー(新聞)契約を締結」といった社告記事。朝日新聞と毎日新聞と読売新聞東京本社と日本経済新聞といった、全国紙を標榜する新聞が並んでいるけれどもそこに同じように全国紙を声高に訴える新聞がない。どうして? ってつまりはきっとパートナーになるだけのお金を今は支払えないってことなんだけれど、それでもやっぱり苦しい毎日なんかは頑張って名前を連ねて、新聞としての“格”を保とうとしている。その意気は働く人たちの心にも働くし、ひとつのブランドにもなる。逆に参加しなかったところは、一時の支出は抑えられてもパートナーにもなれないのかといった不安を呼んで離反を招き、内にも大丈夫なんだろうかといった気持ちを蔓延させる。あそこはヤバいよこれが証拠って言われ、切り崩されないとも限らないのに、それでも乗れない理由とは? って考えるとやっぱり厳しいんだろうなあ、色々と。やれやれ。


【1月21日】 あれだけベストセラーになっていたにも関わらず、売りたい本だからってことでリリー・フランキーさんの「東京タワー」が本屋大賞に輝いた過去があるから今度、本屋大賞に又吉直樹さんの「火花」がノミネートされて、それを大勢の本屋さんが売りたいからといって投票して、今さらだけれど本屋大賞に輝くって可能性がないとも言えないというか、何か高そうというか。だって見たいじゃん、又吉さん。そういう意識もこれありで選ばれがちな賞なだけに、結果を見てやっぱりと思うこともありそうだけれど、そうでないとしたらここで米澤穂信さんの「王とサーカス」が来るとか、東山彰良さんの「流」が来るとかして、本好き店員のエンターテインメントパワーって奴を見せて欲しい気もしないでもない。

 あるいは中村文則さんの「教団X」が来て、この無茶苦茶な現代を討つような雰囲気を作るとか。それはちょっと難しいとしても、直木賞では頭の過多そうな人たちに受け入れられなかった深緑野分さんの「戦場のコックたち」か、宮下奈都さん「羊と鋼の森」が入って日本の文芸ここにありってことを見せ、ここから大ベストセラーが生まれて次の直木賞作家を生み出すようなお祭りを、本屋大賞から起こして欲しいんだけれど、最初はあったそういう気分が、だんだんと薄れていくのがこういう賞って奴だから。「マンガ大賞2016」もノミネートに「このマンガがすごい!」とかに並んだものが重複するようになって、知られてないけど凄い漫画を探して推して、世の中に知ってもらおうっていう熱が、冷めて来ているような気がしないでもない。マイナーに過ぎてもいけないけれど、メジャーをいっしょいに騒いでも面白くないなら、その間で「おお!」と思わせる何かを選びたい、ってのが僕の心情。だからマンガ大賞もそういうのを選んだけれど、やっぱり外れてしまった。せめて本番ではあの本を。そして本屋大賞に「教団X」を。

 「ラブライブ!」に留まらず「進撃の巨人」や「けいおん!」や「美少女戦士セーラームーンR」まで放送するといった話が出ているNHK。前も「日常」を放送したりち民放で話題になった作品を引っ張ってきては放送するケースが増えて来ているけれども一方で、NHKが独自に手掛けて放送するアニメーション作品が何か減っているという、「メジャー」だったり「バクマン。」だったり「カードキャプターさくら」だったりといった民放的だけれど民放がやらなさそうな手堅さを持った作品が減っているような気がしないでもない。今って見渡すと「ベイビーステップ」と「ログ・ホライズン」くらい? 「境界のRINNE」は4月から第2シーズンが予定されているけれど、それが精一杯といったところか。

 「未来少年コナン」で大騒ぎしていた時代からすれば、1本があって他にも「おじゃる丸」やら「はなかっぱ」やらがある今が最高って言えば言えるけれど、それでも新しい作品に挑んでくれる姿勢って奴が、民放からどんどんとアニメを持ってくることで削がれていかないかっていった不安はある。それで良いなら自分たちで企画する必要もないっていうか。るいは原作がある作品だったらNHKが間に入ることでキャラクター展開とかマーチャンダイジングが面倒になっても困るから、無理にNHKで作ってもらわなくても良いっていった雰囲気にあったりするんだろうか。とはいえ公共放送ならではの制作費をもらって作れるメリットは少なからずあるだろう。波だけ貸すような真似はNHKならしないだろうから。

 それとも今はテレビ局ってものがお金を出して制作しなくても、パッケージメーカーなり制作会社なりレコード会社なりキャラクターグッズ会社なりゲーム会社なりパチンコメーカーなりがお金を出し合って、1つの作品を作り上げ、展開を分配しつつ作品としてはとりあえず、流してくれるテレビなりネットなりを選んで展開していくようなビジネスモデルにアニメが変わってて、そうしたウインドウの1つとしてNHKがついて来ているってことなのか。テレビ側のスタンスも変わり、アニメーションを作る側のスタンスも変わっていったところに浮かび上がったこうした形。ネット配信専門のプラットフォームがガンガンと立ち上がっていることもこれありの状況下で、アニメの作り方が変わっているのかもしれないなあ。しかしNHKで「進撃の巨人」。見るかなあ。むしろ昔のを放送して欲しいなあ「キャプテンフューチャー」とか。

 1990年代の半ばにはもう、吉田証言の信憑性に疑問が出始めていて最初に拾ったという朝日新聞ですら論拠として挙げなくなっていたし、批判的な言説も流布され始めていて知ろうとすればいつだって知れたし、そうでなくてもジャーナリストとして活動していれば、どこからともなく耳に入ったり目に止まっただろう。にも関わらず、朝日新聞に務めて定年まで勤め上げただけに留まらず、定年後も20年近くにわたって週刊誌で仕事をしてきた元記者が、2014年になって始めて朝日新聞が吉田証言だなんてものを掲載してそれが虚偽の証言だったらしいと分かったと報じたことについて驚き、どうして隠していたんだどうして今まで謝らなかったんだと本を書いて憤るって、何かおかしくないか?

 その問題に怒るんだったら、近い場所にいてどうして気づけなかったんだって自分を責めるべきだろうし、それが虚構に近いものだといった情報が流布していることを、見逃していた自分のジャーナリストとしてのアンテナの低さを恥じて布団に頭を突っ込むべきだおる。そしてそんな会社で定年まで勤め上げて退職金ももらいつつ、週刊誌から仕事をもらって原稿料をもらいつつ、おそらくは結構な額の年金だってもらって来た自分を悪いと思ってそうしたお金を全部まとめて突っ返すべきなのに、そうした殊勝な態度って奴を見せることなくよくも騙していたなと今さらのように憤って本に書く。なんかとってもみっともない。

 けれどもさらにみっともないのは、そういう人物の言葉をさも有り難く取り上げて本にする版元だったり、そうした本が出たことを記事にして朝日叩きに利用するオレンジ色のタブロイド。お前ちょっと変だと諫めずその看板を利用し煽って正義の味方の如くに持ち上げる態度こそが、かつて吉田証言を御旗として掲げ、目的のためには虚報でも利用した新聞とまるで一緒なのに、相手は批判して自分たちは正義の味方の如く振る舞う態度にもう世間はあきれ果てているってことに気付かないと、泥船が沈むのといっしょに落ちていくだけだろう。というか真っ先に沈む泥船になっている感じすらあるけれど。今という時期に金になるからといってプライドを売り渡すメディアに明日はあるのかなあ。やれやれだ。

 ネタでも落ちていればと「国際宝飾展」に出かけていって2億円とかする400カラットのダイヤモンドが散りばめられたギターをみたり、外国から来たお尻の大きな美人が接客をしている姿を眺めたりしていたら、大理石が使われたスマホケースがあったんで持ったら手にずっしり……とはこなかった。0・8ミリの薄さで削られているから、ケース自体は樹脂製のものとそんなに変わらない。でもまがう事なき大理石だから、マーブル調といったあの模様が見えてなかなかにゴージャス。ひとつとして同じ物がないっていうのも面白い。値段は1万円くらいだけれども他にない素材なだけに使えばちょっと受けるかな。薄くても大理石なんで胸に入れておけば鉄砲の弾くらい跳ね返してくれるかな。試してみたいけれども問題はiPhoneを持っていないことか。おかげで無駄にiPhoneケースをくるくると買えることをしなくて住んでいるんだけれど、iPad miniってそういうの、あんまりないからね。


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