縮刷版2016年1月中旬号


【1月20日】 テレビアニメの「彼氏彼女の事情」は熱心には見ていなかったんで、声よりは先に「フリクリ」でもってエンディングに出て来たベスパに乗りながらコマ撮りで動く美少女といった形で認識した本谷有希子さん。その後に劇作家と知って小説も書いていると気がついて、あれやこれや読んだ記憶もあるけれど、そうした作品が三島由紀夫賞とか芥川龍之介賞の候補に幾度となく挙がりながらも届かないまま、常連として消えていくのかなあと思っていたら、ちょっと前に三島賞を取り、そして芥川賞までとって2つを取るとか笙野頼子さんと鹿島田真希さんに続いてのことらしく、文壇における重鎮の座に一気に上り詰めたって印象。文壇ってものがまだあるならって話だけれど。

 でも庄野さんはあんまりそうした集団とツルんで何かするって雰囲気じゃないし、鹿島田さんも当人が表に出てくるような感じがあまりしない。同じ芥川賞受賞作家でも綿矢りささんや川上未映子さんに比べてビジュアルとしての印象は薄いけれど、ともに作家としてはバリバリに長いキャリアでもって良い作品を送り出している。本谷さんがどっちに転ぶかは分からないけれど、長い劇作家としてのキャリアもあり小説かとしての活動もある上に、メディア出演もこなしつつ、それでも長く候補になり続けるくらいに書き続けてきたことを思えば、これまでどおりにバリバリといろいろやってくれる人になるんだろう。「フリクリ」のころから美少女だったけど今も美人は変わらないけど、でも36歳になっていたんだなあ。時は流れる。

 「デューン/砂の惑星」といえば小説では石森章太郎さんの表紙絵だし、映画ではハルコネン男爵の甥を演じたポリスのボーカル、スティングのスタイリッシュなビジュアルとあと砂の走るワームがすぐに印象に浮かぶかな。映画の主演はスティングではなくカイル・マクラクランで、当時はまだ無名だったのが、後に「ツイン・ピークス」で人気者となって今に至っているというから、今見ればいろいろと面白がれる映画なのかもしれないけれど、劇場で見た時はデヴィッド・リンチ監督の悪趣味が炸裂して爽快なスペースオペラといった印象もなく、生態系に踏み込んだSFといった雰囲気も消えていたなあって印象が残っている。太った奴がガス吹きながら飛び回っていたとか。ワームでロデオやりながら手からビーム放ってたとか。そんな印象。

 そんな映画の記憶も強い「デューン/砂の惑星」が最初の矢野徹さんから酒井昭伸さんに変わって新訳版として登場するとか。表紙絵もスタイリッシュになって映画っぽいイラストが添えられるけれど、そうなると思い出すスティングを始めとした映画版の奇抜なセンス。それが埋もれてしまうのも惜しんで木曜昼間にテレビ東京あたりで放送して、これぞ「デューン」だってところを改めてみせてやって欲しいもの。声はスティング、誰がやるんだろう。大塚芳忠さんが演じたバージョンがあるみたいだけれど。あと「デューン」シリーズはこの後も続いていくんだけれどそれも新訳版で出るのかな。「砂丘の子供たち」くらいまでで止まるのかな。そんなところも見て行きこう。そういえば石森版、家にあったはずだけれどどこにしまったかなあ。あの辺とは分かっても出てこない。そこが悔しい。引っ越したい。お金さえあれば。

 「花神」のころですでに47歳。今だったら大河ドラマの主演になって抜擢しない高齢者だし、知名度だって歌舞伎俳優とかテレビの「遠山の金さん」で知られてはいても、大勢を引き付けるアイドル的な人気はなかった中村梅之助さんをそれでも村田蔵六に起用して、1年間の長いドラマを描き通したのは後の大村益次郎という人物像を描く上で、若い人では荷が重いし雰囲気も出ないといった配役への真っ当な判断が、NHKとかにあったんだろうなあと想像する。世に名前が知られるようになった戊辰戦争の頃で43歳。長州藩の中ですらその存在が知られ始めたのは40歳を過ぎてからの人間を20代のイケメン俳優が演じたところで雰囲気が出るはずもない。そういったのは代わりに若干26歳とかそれくらいの中村雅俊さんや志垣太郎さんたちが高杉晋作を演じ、久坂玄瑞を演じてファンを引き付けた。実際に若かった彼らを若い俳優がエネルギッシュに演じる配置。だからこそ物語に見ていてパワーがあった。そんな「花神」をメインで引っ張った中村梅之助さん死去。同じ幕末の長州が舞台になった「花燃ゆ」の惨敗をどう見ていたのかなあ。ちょっと聞いてみたかった。合掌。

 気持ち悪いというか。これこそがおべっかの典型というか。スポーツニッポンが出してきた記事がのっけから「次期社長の藤島ジュリー景子副社長」で腰が砕ける。それって決まっているのか。既定路線ではあるとしてもメリー副社長が公言していたとしても、決定したものではない情報を事実のように報じて恥じない新聞が新聞を名乗って良いのかというと、良いのかもしれないスポーツ新聞だから。それにしても書いてて指がかゆくならないんだろうか。そうでなくても傍目からおべっかと分かる記事を書いて、それで相手には褒められても読者からは呆れられるだけだて分からないんだろうか。分かっているけど止められないんだろうなあ、それが芸能マスコミの世界にいるというメリットとなって帰ってくる以上は。

 これでメリーさんジャニーさんが退場して経営が一気にグラついたとして、それでも持ち上げ続けるんだろうか。ころりと寝返る可能性に100円。あと「苦楽を共にしてきた女性マネジャーが仕事を放り投げていなくなってしまった」とも書いているけど、どこかの報じゃ自宅待機を命じられているとかって話もあるし、そもそもが出て行けと言われた人間が現場に行ける訳がない。そういう事情を勘案しないで「次期社長」様が陣頭視察したことを大歓迎しつつ、その公平な態度を挙げて讃える。偉大なる首領様のご子息が現場をご視察なさいました的というか、水爆大好きなあの国の報道みたい。やれやれだ。

 「エスケヱプ・スピヰド」が綺麗に完結したけど映像化の話がまるでないのが不思議過ぎる九岡望さんが、これならと流行と一般性を加味しつつ評判を狙ったっぽい新作「サムライ・オーヴァードライブ−桜花の殺陣−」(電撃文庫)は、とあるゲームなんかで人気になっている刀剣をテーマにしながら、それを操る者たちがいて闘っている一方で、刀剣の力を引き出せない少年がそれでも刀剣オタクの趣味を炸裂させて危険な刀剣を狩る仕事に関わるという設定。歴代の刀剣に異様な力が秘められていて、それは日本に限らず世界にもあってといった広がりの中、海外から日本の刀剣を狙って侵入してきた男を相手に、少年とそれから刀剣の力を引き出す能力を持った一族の当代らしい少女が挑む。

 さすがに当代の少女は普段はおっちょこちょいのところもあるけど、真剣を手にすれば抜刀は素早く敵を蹂躙して切り伏せる。けどそんな刀を操る力をまるで持たない少年が、時折見せる不思議な力がひとつ展開の上でポイントになっていくのかも。でなければただの運動神経がいいだけの少年が、主人公なんて務められるはずもないから。いったんの離別を経ながらもそんな少年と当代の少女がペアみたいな感じになって始まる、刀剣をめぐって起こる事件い挑むといったストーリー。出てくる刀剣の種類や蘊蓄が学べて、そして剣劇によるバトルも楽しめるところに今時っぷりを感じるなら、きっと映像化なんてのも進むかも。でもやっぱり見たいのは「エスケヱプ・スピヰド」なんだよなあ。鬼虫とか甲虫とかの闘いではやっぱり絵にならないのか。基本は1対1のボーイ・ミーツ・ガールでハーレム的な状況を作るための美少女キャラが少なすぎるのが問題か。そこかなあ、やっぱり。

 仕方が無いかなあ、だって映画に出てくるのはガードレールを突き破って転落する大型バスで、それで死んでしまった高校生が地獄に行ってしまってそこで好きだった女の子とキスをしたいと生き返るための猛特訓を始めるというストーリーだから、やっぱり昨今のバス事故と重なってしまって、いたたまれない気持ちを与えかねないって判断が働いてしまったんだろう。今年公開の日本映画ではコメディとして楽しそうだし出演者たちも粒ぞろいだっただけにちょっと寂しいし、公開する側も時期を間近にいろいろと仕込んでいただろうから、それが全部飛んでしまってちょっと大変かも。いつなら公開できるか、ってところも事が事だけに不穏だけれど49日が過ぎてから、亡くなった人たちが天国に行くにしてもそうでにくって猛特訓に励んでいるにしても、どうにか落ち着いた頃を見計らっての公開になるのかなあ。「TOO YOUNG TOO DIE! 若くして死ぬ」。神木隆之介さんが見たかったよう。


【1月19日】 そうか「VS!!」のシリーズからこっち、作品を発表していなかったのか和泉弐式さん。でも復活とばかりに投入してきた「セブンサーガ 〜七つの大罪 赤き竜は憤怒に燃えて〜」(電撃文庫)が面白くって、悪の組織にありながらも散ることを潔しとせず、それでも正義の味方に対抗する己の立場を貫こうとあがいた少年が主役の物語を仕立て上げた腕前は、衰えていないって実感をしっかり得られた。過去に統一を成し遂げながらも7つの国々に分裂してしまった世界で、ひとつの王国の辺境が隣国に攻められ騎士の父親も母親も死んでしまった息子がひとり、うち捨てられた赤ん坊共々生き延びては苦節6年とか7年とか、復讐に燃えて父親を裏切った騎士を追い詰めどうにか倒して大団円。

 かと思ったらどうもそうではなかったらしい。国々に封印された七つの大罪なるものを、復活させる鍵となる紋章を主人公の少年が持っていたこととも相まって、彼をめぐっていろいろと騒動が巻き起こる。最初は金が目当てでそうした大罪のありかを記した地図を探していただけだったのが、騎士団に露見しそのまま捕まる一方で、大罪の在処を探すために協力するよう約束させられた主人公。けれどもそこに襲ってきた敵がいて、強大な力で父親とも知人だった騎士団長を倒したりした果てに現れた姿は、ちょっと前に倒したはずの親の敵だった。どうして生きているのか。そして誰が何の目的で操っているのか、ってあたりから大陸に散らばった七つの大罪を見つけ蘇らせようとする勢力があり、その力を背負った主人公がどう使うかで葛藤する展開がありそう。割と大きな設定だけれどどう描き、どうまとめるか。結末まで続いてくれることを期待しよう。

 昨今の一件のなにが凄いって、テレビ番組も芸能系のマスコミも、傍目にはバレバレな言説ってやつを真正面から本気で繰り出しては、それが世間にも通るって思い込んでいる節があることで、例えば今朝あたりのスポーツ新聞が、京都でロケをしていたメンバーの面倒を見るべきマネージャーが姿を現さないから、事務所の偉いさんがやって来て面倒を見たことが関係の強化に?がり、それが脱退を表明していながら行き場を失っていた他のメンバーも含めた復帰に結びついたなんてベタベタな美談ストーリーを繰り出している。けれどでも、元はといえばマネージャーを表に立てなくした人がいた訳で、それで行き場を探していた間にひとり、最初から残る気満々なひとりが事務所の偉いさんと結託して、自分たちこそ主流なんだと改めて確認させただけって見て取れるし、多くもそういったストーリーを想起する。

 でもスポーツ新聞はそうした事情はまるで触れずに、激しい拒絶にあって居場所を失って行き場を探していたマネージャーの人に対する配慮もなく、そういう状況を生んでしまったパワハラ的とも独裁的ともいえる体制の側をこそ正しいと認めて、そこに逆らう者は悪だといったニュアンスでもって記事を作って掲載する。読んで嬉しがるのは正義だと褒められた体制の側であり、そこに君臨する権力者たちだけ。書いた記者はそれこそ権力者たちが存命なうちは、重用されておこぼれにだって預かれるだろう。でもグループのファンは、そんな体制に屈服し、そして屈辱的な謝罪を公共の電波で生放送でもってやらされた状況に対して憤り、やらせた事務所であったり、それを何の批判もなく流したテレビ局であったり、そうした状況をこれまた美談仕立てで報じるスポーツ新聞であったりをどこかおかしいものと強く認識したことだろう。

 ファンの人が残って欲しかったのは、事務所の顔色なんてうかがわず、やりたいことをやり抜いては、独自の地位を築き高みへと上り詰めたグループであって、そんなグループの顔として活動してきたリーダーが脇にやられ、裏切ったと言われる人間が中央に立って、事務所に屈服し服従した姿をさらけ出しているグループなんかじゃない。早く元に戻って欲しいと誰もが思うだろうけれど、でももう無理だ。ああいった会見をやってしまって、そこに至る状況なんかがテレビ局とかスポーツ新聞とは違ったメディアからじわじわとしみ出すように語られて、それに強い納得性を覚える人があふれ出して、そして思い出してあの生放送による会見の異常な雰囲気の裏側にあった状況を理解した先で、今までと同じような気持ちでグループを応援することなんて出来ないだろう。グループ内にだって葛藤があり亀裂があって、それは前と同じ状況に戻ることを許さないだろう。

 なんてことを、今は誰だって想像できる時代だし、情報からそれが本当に近いことなんだろうなあとも了解できる時代になっているにも関わらず、テレビ局はあらゆる批判的な言説をオミットして流さず、スポーツ新聞はひたすら事務所の態度を褒めそやし、事務所の側に立った人間をこそ正義と捉え逆らった人間を非道と貶して放逐する。そうした構図に対してパワハラであり独裁国家的だって意見も蔓延しているにもかかわらず、聞こえないふりをしているのか、本当に聞こえていないのか、分からないけれども旧態依然としたスタンスをとり続けるテレビ局でありスポーツ新聞に未来はあるのか、って疑問が浮かび上がったことに、今回の一件にも意味を見いだせるのかもいしれない。誰もが分かっていたことだけれど、それがあからさまになり過ぎて、なお知らんぷりをしようたって無理なんだけれど、それでもしようとする人たちって、何を恐れているのかなあ。ただ逃げ切りたいだけなのかなあ。やれやれ。

 元イーグルスのグレン・フライが死去とかで、だったらイーグルスで知っているかというと多分、すでに解散していて元メンバーという位置づけだった彼が、ベストヒットUSAなんかに流れるミュージックビデオなんかを作って歌っていた歌を聞いた覚えがある。どこかメロウな印象だったけれど、「ビバリーヒルズコップ」での「ヒート・イズ・オン」でポップなロックも歌えるんだと思ったというのが、グレン・フライというシンガーへのおおよその記憶。同時期にやっぱりイーグルスだったドン・ヘンリーもソロで活躍し始めていて、「ボーイズ・オブ・サマー」とかって割とビート感のある歌を歌っていたっけか。イーグルスといえば聞こえてくる「ホテル・カリフォルニア」のボーカルはドン・ヘンリーだけれど、そうでないグレン・フライが歌った楽曲もあるらしく、それがどういうサウンドで、時代にどれだけの影響を残したのかを調べてみたくなった。いずれにしても生で聞いてみたいバンドだったかなあ。ドン・ヘンリー存命なうちはまだ、雰囲気は味わえるのかな。今度来たら是非行こう。

 届いた博報堂の「広告」という雑誌の2016年2月号をぺらぺら。神木隆之介さんが登場していて、新海誠監督の「言の葉の庭」が大好きで、新宿御苑の年間パスポートを買って中を歩いていたこともあったって話してた。あの四阿とかに行ってひとりぼーっと池を眺めていたりしたのかな。僕も何度か通ったけれども出会えなかったなあ。誰か話した人もいたそうで、でも気付かれなかったとか。そういうものだよなあ、まさかあの神木さんがいるなんて普通は思わないものなあ。実写版が出来たら主演とかやってくれないかなあ。まだ出来るって高校生。ってかやってるし。あとは水木しげるさんの特集なんかも。まだ無くなって間もない中でちゃんと資料を集め文章を載せてくる。それだけの偉大な人であると同時に、広告会社の雑誌ならではの時流を見る確かさか。いやでも電通報だとそうはいかないか。フットワークの博報堂らしいか。

 そんな「広告」の2016年2月号では、冒頭でシリアとかの難民問題についていろいろと書いていた。センシティブでホットな話題をしっかりを取り上げるところがジャーナリスティック。でも本来はマーケティングな会社の雑誌。それでも取り上げざるを得ないくらい、自由に乗った話題に難民問題がなっているってことなんだろう。大きくはドイツにある移民だけで構成されたウェルカム・ユナイテッド03ってサッカーチームについての紹介。上にリーグ4部のバーベルスベルク03というチームがあってそのサテライトって扱いなんだけれど、お客さんじゃなくチームの下部組織の一員でありちゃんと自分たちで道具も揃えてトレーニングもこなして試合に向かう。足りない分は寄付でまかなうという。

 お客さんではなくチームの一員でありサッカー選手と認め肩を並べるその待遇は、ドイツが難民問題を厄介者として隔離しつつ眺めるんじゃなく、過去に自分たちが難民となった記憶を踏まえつつ、その苦難を連鎖させないために出来ることをやろうっていう意識を持っていることの表れか。第1次世界大戦から第2次世界大戦の間にドイツが被った圧迫で、領地を削られ難民になった人もいただろう。東西ドイツの統一も結果として東側のドイツ人たちを一種の難民的な存在にして、西側社会にとけ込ませるまで大変な苦労を味わわせた。そうした過去を踏まえ苦難を歩む人間たちにとって、出来ることをやろうとするのが当然という人たちがいるから、ウェルカム・ユナイテッド03なんてチームも出来るし、首相が率先して難民の受け入れを表明する。問題があってもそれを宥めつつ多くを救いたいという意思。過去に学んでいる国らしい。対して日本は。嫌だという意識からネガティブな話ばかり集めて予防線を張って排除する。過去に苦労した経験がない国だからか。敗戦の苦難ですら忘れはしゃぐ国だから、あっても無駄だったかもしれないなあ。いろいろと考えさせられる記事。気になった人は大きな書店になら置いてあるから手にして読もう「広告」2016年2月号。


【1月18日】 20・1%とはまた結構な数字が出たらしい「真田丸」の第2回。大河ドラマで視聴率が20%を超えるのが「八重の桜」の初回以来、3年ぶりというからその間、ほよど酷い境遇に陥っていたってことになるけど、誰が主役なんだと初回から訝らせた「花燃ゆ」はともかく戦国時代が舞台になった「軍師官兵衛」ですら20%を超えなかったのは、設定というよりも役者であったり見せ方にどこか、外している部分があったって言えるのかも。これが「真田丸」の場合は文字通りに役者が違うっていうか、いわゆるビジュアルに優れて演技は二の次の役者をひとりたりとも混ぜず、誰を見ていてもしっかりと演技できていて楽しいところがあって、こりゃあダメだとチャンネルを変えさせることがない。

 第1回で涙ながらに主君を追い返した小山田茂誠を演じた高木渉さんも、親の七光りにすがらず自分を建てようとして果たせないまま、潔く散っていった武田勝頼を演じた平岳大さんにしても、その役にハマってその人物を現代に蘇らせてみせてくれた。忠義に厚いところを見せながらも真田一族が第一と、裏ではいろいろと画策している真田昌幸を演じている草刈正雄さんなんて、もう格好良い親父の代表格。見ているだけで憧れる。「風と雲と虹と」の鹿島玄明から40年。超絶イケメンは渋いイケメンになったけれどもそれだけ重ねた演技の年輪が見事に発揮されている。このまま上田城での立てこもりを成し遂げ、九度山での死没まで物語の中心に座って引っ張っていって欲しいもの。真田信繁の活躍はその後だ。

 しかし老いてなお格好良さを失わない草刈正雄さんを見ていると、同い年の沖雅也さんが存命だったらいったいどんな役者になっただろうかと思えて仕方が無い。早くから「太陽にほえろ!」のスコッチ刑事とか、「俺たちは天使だ」のキャップとかでダンディでクールな中に剽軽さも持った役柄を見せて幅の広さを感じさせていた役者。そこに年齢が載った時に果たして悪役も厭わない草刈正雄さんのような立ち位置にいられたか、それとも二枚目を捨てられずに役を失っていたか、気になるけれども早くに命を自ら絶った沖雅也さんにそれは望むことはできない。願うのは今の二枚目だけで売ってるアイドル系の役者でも、そこに演技を乗せればちゃんと草刈正雄さんのようになれるということ。そこを目指して修行していって欲しいと、これも視聴率が結構良かった「怪盗 山猫」の亀梨和也さんとか見つつ思ったり。阿部寛さんはいったん、地獄をくぐり抜けているから大丈夫かな。

 まだまだ見逃している2016年1月期にスタートのテレビアニメーションから「少女たちは荒野を目指す」をやっと見る。そうか、田中ロミオさんがシナリオを手掛けているゲームが原作のアニメーションなのか。そして中身はといえば、ゲームを作ろうとしている高校生たちの物語。兄がどうやらゲームクリエイターらしい女子高生がプロデューサーとなって、シナリオの男子を呼びグラフィッカーにプログラマーに声優なんかも調達しては作品作りに勤しむといった展開。でもそこにオタク臭はなく、むしろ排除する感じ。勝負に勝つことが絶対と言い切る少女を筆頭に、リアルでコミュニケーション能力に優れた少年がシナリオを手掛け、演劇部で活躍する少女が声優にといった具合に、ドロドロとした情念を込めた、独りよがりのものを作ろうとしていないところが面白い。

 ある意味で、そういう情念の固まりばかりが集った「げんしけん」とは逆の構図。そういう奴らに作れるの? って思わないでもないけれど、絵を描くのに情念はいらないし、顔が良くって女性にもててもそれが長続きしない青少年に、リア充に何が分かるといった言葉は通じない。ひとりメイド喫茶でアルバイトをしている眼鏡っ娘がいるけれど、ヤンキー気質でオタクとはなかなか縁遠そう。あと自己顕示欲が憂すぎ美少女絵師とか。そうした人たちが集まって作り出すのはどんなゲームなのか。そいういう人たちにゲームが作り出せるのか。なんてことも含めて語っていってくれそうな作品。見ていて清々しいし、テンポも良いから何度見ても楽しめそう。グッとくるビジュアルがあと幾つかあればだけれど、そこは眼鏡のヤンキーがひとり背負ってくれるかな。そこにも期待。

 今回もまるでノミネートした作品が残らなかった「マンガ大賞2016」の最終ノミネート作品には、これが2回目となる三部けいさん「僕だけがいない街」があってテレビアニメーション化とか、3月の実写版公開といった話題性も含めて結構な人気を獲得しそう。同じアニメーション化だと大地丙太郎さんが手掛ける「とんかつDJアゲ太カ」もあるけど、ヘタウマな魅力といった点はあってもそれに近い「猿ロック」と同じようにマニアな人気に留まってしまうかなあ。それはSFっぽいたかみちさんの「百万畳ラビリンス」にも言えるか。気がつくと畳敷きの和室が並んだ建物にいて回ってもたどり着かず周囲は樹海でここはいったいどこなんだ、って場所からの脱出を目指す内容。その不条理さで言うなら粟岳高広さんの「いないときに来る列車」なんかと似ているけれど、一般性が残っているって部分で「百万畳ラビリンス」がノミネートに挙げられたのかも。粟岳ファンとしては落選は残念。

 去年に引き続いてだと石塚真一さんの「BLUE GIANT」もあって、ジャズにまっしぐらなテナーサックス吹きの少年が、都会に出てピアノとドラムも見つけて一緒にライブハウスから始めているっていった感じ。そのパワーは世間を圧倒し始めているけれど、理論派のピアノがひとりどこか浮き足立っているというか、天才に見えて案外に秀才は本当の天才にかなわない、って壁にぶち当たっているって雰囲気。第7巻のラストで強烈なだめ出しをされているけど、そこから這い上がっていければ勝利できるかな。そんな第7巻の途中に出てくる、10年くらいジャズやっても目が出ないまま誰もいないライブハウスで吹き続けるバンドが、すべてに一期一会に一所懸命な主人公達に触れて少し、立ち直るエピソードとかは嫌いじゃないけど、でも才能がないのにそれで良いのか。ちょっと突きつけられるものがある。

 才能なんてカケラもないけど、楽しくトランペットを吹いている中年との出会いも含めて、音楽と人との関わりについて考えさせる物語。このままどこまで突き進むかなあ。そしてマンガ大賞、取れるかなあ。やっぱり九井諒子さんの「ダンジョン飯」が評判通りに受賞かなあ。去年の「かくかくしかじか」に続いて「東京タラレバ娘」を送り込んできた東村アキコさんも侮れないというか、これまでいったいどれだけの作品をノミネートさせて来たんだと。そのマンガ大賞との親和性にヒットするマンガ家さんの特質ってものを見て取ることができるかな。紗村広明さんの「波よ聞いてくれ」も絵柄とコミカルな関係がちょっと好き。とんかつDJ少年とは違うカレー屋ディスクジョッキー娘の物語。流石な設定。他にも「ゴールデンカムイ」とか「町田くんの世界」とか「岡崎に捧ぐ」とか「恋は雨上がりのように」なんかあ並んだノミネートから、何に入れるかこれから考えようっと。でもやっぱり大賞は「ダンジョン飯」か。ファン多そうだし。

 首都圏に凄い雪が降ったらしいけれども千葉方面は朝から普通に土砂降りで雪のカケラも見えず。東京都心部に来て残っている雪とか見てああ降ったんだと覆ったけれど、さらに西では大雪でもって電車が動かず、大勢が駅に詰めかけパニック状態になったとか。そんなに降るなら電車なんて動かないと感じ取って、家を出るのを遅らせれば駅が人でいっぱいになるなんてことも避けられるのに、自分だけは動いている電車に乗れるといった正常性バイアスが果たして働いているんだろうか、それとも決まった時間に家を出ないと死んでしまう病気なんだろうか。いずれにしても重篤。行けなければ行かないくらいの気分を養い、そしてそれを認める空気を育むのが1億人が長く活躍できる社会を目指す安倍総理の役割なんじゃないのかなあ。まあ創業者がそのわがままで功労者を追い出すのが是とされメディアもこぞって持てはやす国だから、会社をサボり家に留まることなんて、認められるはずもないか。何て面倒な国なんだ。やれやれ。


【1月17日】 「怪盗 山猫」はううん、亀梨和也さんのハイテンションでコロコロと表情が変わってぶっとんだり凄んだりする演技が割と好きで、泥棒ものだとか思って見なければそれなりにキャラクタードラマとして楽しめるんじゃなかろーか。広瀬すずさんもクールで笑わない顔とかとっても良くて、「ちはやふる」の劇場版で見せることになっていそうな一所懸命過ぎる表情よりも実は好き。「海街diary」なんかでも見せていた無表情で仏頂面の中に感情をほの見せつつ氷解していくような感じこそが、向いているって思うと「ちはやふる」は違うかなあ。でも演じればきっとしれなりにハマっているんだろう。もとい「怪盗 山猫」はドランクドラゴンの塚地さんが1話目で退場。どういう経緯だ。そして北村有起哉さん佐々木蔵之介さんと怪しげな細面の中年が2人。その雰囲気にも惹かれるところがあるんでこれからも追いかけていこう。

 サンジゲンが制作ってことはつまり3DCGで描かれているってことになる「ブブキ・ブランキ」だけれど、そうとは感じさせない造形なのは「009 RE:CYBORG」を経て「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」なんかで培った、3DCGで造形しながらも2Dルックで見せ続ける腕前がさらに進化したって現れなのかも。複雑極まりない髪型とかもどれだけ回したってちゃんとそう見える。作画の人の苦労もない上に、見てくれもちゃんとしているアニメが増えれば、果たして2Dでの作画で3D空間を想像しながら2Dならではのデフォルメを描いていたスーパーアニメーターも失職しそう。

 一方でそれらを感覚で描いていたアニメーターが、そのロジックを3Dに持ち込んで、さらに凄いことをやってのけるようになる可能性にも期待したい。それともやっぱり2Dの上でしか才能を発揮できないのか。新しい時代は人にも新しい試練を迫る、ってことで。そんな「ブブキ・ブランキ」では、鬼龍院皐月……ではなかった万流礼央子の存在が世界にどういう意味を持っているのかが気になるところ。お尋ね者的な張り紙が残りながらも政府の偉いさんすら頭を垂れさせるその権力が、単純に炎帝というブブキを扱える能力から来ているならば、新しく王舞を復活させた主人公たちのチームにだってひとつのアドバンテージを与えそう。

 とはいえ、戦ってもそれほど戦えないあたりに万流礼央子とその一味の存在意義があるのかな。もう10数年も姿を変えていないと言う万流礼央子の正体とか、そもそも世界がどうして荒廃していて、それに一条東の母親が魔女として責任を負わされているのか、地上に降りた一条東は10年もいったい何をやっていて、連れて行った妹はどこで何をしているのか、説明していないところも多いんで、そういう辺りを明らかにしながら進んでいく物語を楽しんでいくべきなんだろう。ここは。王舞の手足のブブキを持ってた4人だって、誰でどういう関係なのか、語られてないものなあ。その中では扇木乃亜ってキャラが声も含めてわりと好き。眼鏡で谷間で。だから活躍に期待。

 有名な金髪のジャーナリストな人が、ライター志望の人たちに向かって「まずは新聞社就職しな。一通り取材の仕方から原稿の書き方まで2〜3年でみっちり鍛えてくれるから。新聞社は他のマスコミとそこが違う」と話しているって書いていたけどでも、本多勝一さんや本田靖春さんの時代ならともかく、今の新聞業界にこういう物言いが当てはまるかどうかっていうと、いろいろ悩みどころも浮かびそう。最低限でも朝日読売毎日と有力地方紙なら、20代から30代、40代にかけて、記者としてのキャリアの形成が順当に行われる仕組みが残っているんで、こういう物言いも当てはまるかもしれないけれど、それでも新人として配属された支局で、3年4年とサツ回りから始めて、夜討ち朝駆けでガンクビ集めだ何だと言われ、消耗しながら自分が何をすべきか、何をしたいのかを考えることを止めてしまわないとも限らない。

 そして上がった本社でも、上から命じられるままにメモ出しばかりに明け暮れて、その中で上の思い込みに染められ、これを書いて世の中を変えるんだという意欲も失って、上を見ながら淡々とルーティンをこなすだけの平目記者になったりする可能性もあったりする。昔はそれでも10年とか修行をこなせば、時間に余裕があってテーマも持てる遊軍記者とかになれたかもしれないし、テーマを挙げれば特集チームが組まれてそこで筆を振るいつつ、経験のあるデスクが取材先とか取材方法を指導してくれたかもしれないけれど、経営が逼迫して抱えられる記者も限られる中で、埋めなきゃいけない話に手一杯になってしまい、自由に何かを書ける記者とか置く余裕がなくなって来ている。

 その一方で、紙面も減って何かを書かせてもらえる場所すらなくなっている。じゃあその分はネットってなるけれど、ネットでアクセス稼げる記事ってつまりはヘイトだとかエロだとかいった類のものになって来る。あるいはスキャンダル。東京で夕刊なくし朝刊もページが減りまくってる某準全国紙なんか見ていれば分かるけど、ネットに記事をガシガシあげろってなっても、そういう記事しか集まらないしそういう記事しか載せてもらえない。編集担当がアクセスばっかり気にするから。あるいはネットで情報を集めてまとめるどこかのまとめサイトとかバイラルメディアと変わらない記事ばかり。取材に行く手間なんてかけてられないし、そんなお金だってないから。

 そんな状況の新聞に入って、本当に記者として、ジャーナリストとして鍛えられるかどうなのか。そこで身につけたスキルなんて生かせる内容のものなのか。むしろライターとしてちゃんとした編集さんと仕事した方が良いんじゃないのか。なんてことを思うのだった。ちゃんとした編集さんがどれくらいいるかがまた謎だけれど。つまるところ、書きたいもののために自腹を切り、お金も稼いで頑張る心意気が大事なんじゃないのかなあ。そしてそうやって書かれた物を尊び、対価を支払って受け止めるリテラシーが読者の側に状勢されていることも。いくら素晴らしいノンフィクションが載っている雑誌があったって、それを読んだり買ったりする人がいなくなっているんだもん。そこでねっとりと対象に迫って真実を暴く取材方法を鍛えられないと、優れたジャーナリストもノンフィクションも生まれてこないんじゃないのかなあ。

 INAC神戸レオネッサでゴールキーパーを務めて日本代表のなでしこジャパンでも2011年のFIFA女子ワールドカップを始めとした重要な試合のゴールを巻かされていた海堀あゆみ選手が引退をそういえば発表してて、これで間もなく始まるリオデジャネイロ五輪の出場権をかけた試合での正ゴールキーパーやジェフユナイテッド市原・千葉の山根恵里奈選手になるのか、こちらはまだ引退しないで合宿にも呼ばれている岡山湯郷BELLEの福元美穂選手になるのか、20歳と若い日テレ・ベレーザの山下杏也加選手になるのかが興味深いところ。圧倒的な攻撃力があれば安心を選びそうだけれど、厳しくなれば経験を選ぶあたりで福本選手と山根選手で揺れ動いているのかな。それとも勝負で山下選手か。これからの4年間を占う意味でもちょっと注目。そして丸山桂里奈選手は引退するとかしないとか。いろいろと揺れているけど頑張れるなら頑張ろう。それが今は無きTEPCOマリーゼの魂を残す上でも必要だと思うから。山根選手も含めて。面白いチームだったなあ。


【1月16日】 TOHOシネマズ日本橋のTCXって巨大なスクリーンに「傷物語 1 鉄血篇」が戻ってきたとあって、これはやっぱり観ておかなくてはいけないと朝1番のを予約して最前列から見上げるように羽川翼を鑑賞。あれがデネブアルタイルベガ、僕が見つめる白の大三角といった具合に、眼前に広がるその白くて三角形でいろいろと模様がついている様は、『スター・ウォーズ』で宇宙空間を行くスターデストロイヤーなんて目じゃないくらいの破壊力を攻撃力をもって僕の目を撃ち心を貫く。スターデストロイヤーは中にいっぱい色々な人が乗っていて、それぞれに人生もあるんだろうなあと思うくらいだけれど羽川翼の白の中にあるのは宇宙、そのものだからなあ。見れば吸い込まれて出てこられなくなるブラックホール。でも見てみたい気も浮かぶその神秘的な中を想像しつつ、スクリーンいっぱいに広がった白に心からの喝采を贈るのだった。また見に行こう。TCXに来れば。今度は目線が水平になる3列目くらいから見てみるかなあ。

 物語自体は3回目なんで特に難しいところはなかったけれども、地下鉄のホームで血まみれになって転がるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの表紙絵に惹かれて特装版の「傷物語」を買って読んでいったこともあって随分と、シチュエーションにおいて違うところがあったことに今さらながらに気がついた。っていうか「化物語」の今やってる完全版でもって「ひたぎクラブ」の始まる前にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと阿良々木暦が出逢った場面がふわっと描かれていたんだけれど、そこでは道端に立ってる街灯の下にもたれかかるように妖艶なキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがいて阿良々木暦を誘っている。羽川翼の白い大三角もぶわっと見られるけれどそれは描写密度の差はあれ同じ白で違いはない。好みはどっちかと聞かれれば、どっちも好みと言っておこう。前屈みで揺れる巨大な胸が付く分、劇場版の方が良いかなあとも加えられるけれど。

 キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとの出会いについては場所を変え、どこかにある地下鉄のホームにすることで、そこに至るまでのドキドキとするような雰囲気を醸し出し、それからいったん離れていった阿良々木暦にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが叫び無き、絶望感を覚えて涙する姿に心底からの同情というか、憐憫といったものを感じさせてそれをいったん、ホームから離れてエスカレーターを駆け上がり、地下道の入り口付近まで後退した阿良々木暦の懊悩とも重ね合わせて自分のことのように捉えさせては、戻り自分を諦めながらもキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを救おうとするその意気に、自分を移入してああ良いことをしたかもしれないなあと思わせるようになっている。かもしれない。

 それは単純にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの悲痛な叫びのたまものなのかもしれないけれど、どっちにしてもあの空間の移動が心に感情を溜め込みこね混ぜる時間のゆとりを与えている、って言えば言えるかも。そういう原作にはない加工が他の場面でどれだけあるか、っていうとあとはやっぱり舞台となった山梨文化会館、ではなく学習塾の跡地で、人間といったものから離れ、荒涼として寂寞とした中でひとりぼっちになってしまった感じが、テレビシリーズの雑居ビル的な舞台よりもよく出ていたような感じがした。あそこに例えば羽川翼が紛れ込んでも、同じような雰囲気が出るか、っていうとそこは映画を作る人の腕前か。吸血鬼でも怪異の専門家でもない彼女にはあそこがどう見えているのか。それが知れるのは次の「熱血篇」かそれとも最後の「冷血篇」か。付き合っていこう、最後まで。ところでお土産の冊子、今回何種類出るんだっけ。それによってはまた行かないと。もちろんTCXに。

 早起きして街まで出たんだからと遠征を決めて電車を乗り継ぎ武蔵小杉からバスで川崎市民ミュージアムへと向かい江口寿史さんの展覧会「KING OF POP」を見物する。3回目。だけど前の2回は同じ展示だったんで今年に入ってからの展示替えを見るのはこれが初めて。「プチアップル・パイ 美少女まんがベスト集成3」の表紙絵とかあって、そういえばこれ江口さんが表紙絵を何回か描いていたんだなあといったことを今さらながらに思い出した。この叢書からいろいろ始まっているんだなあ、美少女ロリン漫画とか、美少女SF漫画とか。あびゅうきょさんという人もここで知って、美少女と戦争という今でこそ普通に使われているネタをもうちょっとシビアな形で描いてたっけ。他にもいろいろな作家が生まれたけれども、個人的にはやっぱりかがみあきらさんに心奪われたなあ。1984年に亡くなられて今年の夏で32年。随分と経ったけれどもその間、生まれた人もいなくなった人もいる中で、江口寿史さんは未だ現役でもってトップクラスに位置し続けている。凄い人は凄い。そして漫画で生きるのって大変。これからもずっと頑張って欲しいけれど、漫画描いてたっけ、最近。

 漫画は描いていないけれども、5分間スケッチは続けているようで、会場の外でもって3回に分けて各回5人、抽選で当たった人の顔を描いていくれるっていうんで応募したけど外れたんでせっかくだからと様子を観察。なるほど普通に頭から描いて輪郭描いて舞う下を描いて目を描き鼻を描いて口を描いてといった段取りで整えていた。漫画家ってやっぱり目が命だから目から描くって分けじゃないんだ。あるいは決まったフォーマットの中に収めるならサイズ感を出すために頭で位置を取るとか。分からないけれども手際はそれなり。そしてやっぱり巧いなあ。館内にも展示してあったけれども女性にとりわけ美人が多いのはそう描いてしまうからなのか。どんな鏡よりも女性を美しく映し出す魔法の筆、って売れば売れるか江口さん。どこかの王族とかセレブとかが雇って毎朝5分間スケッチさせてああ今日も自分は美しいと感じさせるんだ。そしてその度にチップ200万円。江口さんならそんな生活、できるかな。したいかは別だけれど。

 つらつらと籐真千歳さんの「スワロウテイル」シリーズをつらつら。記憶だともうちょっと男性と女性との断絶とその間を埋める人工妖精との恋愛だとか三角関係的な物に話が集まっているかと思っていたけど、普通に自治区でもって起こった殺人事件に壊れた人工妖精が関わっているらしいおとが浮かび、そんな人工妖精を追っている揚羽という5等級の人工妖精とそれから曽田陽平という自警団員との物語が絡みながら、だんだんとその世界がどうなっているかが見えてきて、人類が、というより太陽系における生命がさまざまな過程を経て進化というか衰退を遂げたこと、それが地球にも起こっていること、だから人工知能はいろいろと画策していることが見えたりして人類という種の可能性、人工知能という存在の簡単そうで複雑で難しい様といったものが指摘される。人工の妖精を愛せるか、といった話はもはや二の次。それが当然となった世界なだけに違和感はないけれど、ただやっぱり感情を添えすぎてしまう人間もいたり、逆に人間に感情を向けすぎてしまうからこそ起きる人工妖精の悲劇もあって埋まらない溝をどう埋めようか、なんて課題持つ着付けられる。ミステリとしてもなかなかの深さ。読み込もう。というか読まないといけないんだけれど。

 自分たちがやっていることが、権力の側の思惑にそって弱者を断罪して抑圧し、粛清にまで追い込んでいるどこかの国の御用メディアとまるで一緒で、日頃からそういった国々の報道に自由がないとか叫んでいたりする割に、同じことを平気でやってしまっていると気付いているとしたら相当なワルだし、気付いていないとしたら心底からのポン酢。どちらかっていうとどっちもなんだろうけれど、それにしても傍目には見苦しさしか浮かばないだけにこの一件が落着しても、失った信頼は取り戻せないだろうなあ。もとより信頼なんてなかったか。例の一件、現場のマネージャーが出るに出られず困っているのを逆手にとって担当しているタレントを放置していると書く。そしてパワハラ食らった恩人への義侠心からのタレントの反抗って筋書きが、恩知らずのマネージャーに騙されただけって筋書きに変わってきてる。ドル箱グループの存続にはそれが筋書きとして良いんだろうけどワルモノにされた女性マネージャーに浮かぶ瀬は無し。あるいは…って不安すら浮かぶけれど、そこまで追い込んでもメディアは逆によくやったと褒められて、与えられるご褒美に尻尾を振り続けるのか。続けそうだなあ。やれやれだ。


【1月15日】 なんで今さらソニー・コンピュータエンタテインメントがVRヘッドマウントディスプレイなんか出すんだろうって思いつつ、Oculus Riftとかサムソンとかが先行する中で追いつけるのかって心配も浮かんでいたりしたけれど、ウェアラブルEXPOで「プレイステーションVR」の開発を担当いた吉田修平さんによる講演とか聞くと、やっぱりそこはゲームの世界で一大勢力を築いた会社からマスプロダクツとして出る品物だけあって、相当な工夫と使いやすさと、何より相当の性能が仕込んであるってことが見えてきた。例えば追随性なんかで、頭を振って映像が衝いていくるまでの時間が20ミリ秒未満だとほとんど遅れが感じられないと言う中で、18ミリ秒を実現しているとか。あと普通のゲーム機の映像が60ヘルツなところで120ヘルツを出して観て心地よい映像を出すようにしているとか。

 「プレゼンス」という言葉を使って没入感より以上の知らない世界に入り込んでいる気分を表現し、けれどもそんな「プレゼンス」は壊れやすいものだと言った吉田さん。「プレゼンス」を構成する要素を6つくらい挙げながら、それらを確かなものにするためにいろいろと工夫していることを話してた。顔にバンドを回して前後で固定するようなものが多いVRヘッドマウントディスプレイの世界だけれど、「プレイステーションVR」は頭で支えるような形状になっていて、軽さがあって着けている感じがしないってことを訴えていた。さすがにそこまで軽いとは思わないけれど、他が着けたり外したりが結構大変な中で、ゲーム機の周辺機器ならではの使いやすさって奴を実現しているのは確かだろう。あと、ジュースとか手に取る解きにスッとモニター部分をスライドさせて前に出し、外を見られるようになっているとか。

 これって結構重要で、着け外しが面倒だと着けるのが面倒になってしまうことって割とある。そうした忌避感を提言する意味でもこうした使いやすさへの配慮ってのは大きそう。ほかにもやっぱりゲームの周辺機器ってことで、普及する台数が多くてそれらが同一の規格で作られるため、コンテンツの側もいろいろと作業がしやすいってことがあるみたい。開発ツールの面倒さで遅れを取った「プレイステーション3」の反省から、ゲームの作りやすさで上位に復活した「プレイステーション4」の流れを汲みつつ、大量にそして安価に高性能のVRゲームを作って提供できる環境があれば、それだけコンテンツも得られて存在感を高められる。いつ頃、そしてどんなコンテンツとともに幾らで出てくるかは分からないけれど、今年が元年とも言えそうなVRの世界で、確実にひとつの勢力を築きそう。どんなバーチャルな世界を見せてくれるか。ちょっと楽しみ。でも僕、「プレイステーション4」持ってないんだよなあ。買おうかなあ。どうしようかなあ。

 池袋の西武で「PSYCO−PASS サイコパス」の原画展が始まったってんでのぞいたら、平日なのに長蛇の列でこれはどういう人気なんだと近寄ったら、早くも中を見終えて物販のために並ぶ人たちの列だった。主に女子。すごいなあ。テレビシリーズが終わり映画も公開されてしばらく経つのに、これだけの人気ならまだまだテレビシリーズだって映画の続編だって小説の続きだって行けそうなのに。それともどこか水面下でいろいろと動いていることはあるんだろうか。気になりつつもとりあえず原画をちらほら。常守朱ってテレビシリーズと映画じゃあ、雰囲気違っているなあとか思ったり、映画で上から爆撃されるところを見上げて微笑んでいた女傭兵の、あの笑顔はこれで死ねる安堵感だったんだろうかとか思ったり。それらも含めて原画集を眺めて確認したいけれど、行列に並ぶのも大変なんでいずれまた来た時にと諦める。版画で20枚以上も売れていたのがあったなあ。やっぱりまだまだ行けるぞ「PSYCO−PASS サイコパス」。吉上亮さんも何かまた書けば良いのに。

 被害者なんだけれどもなぜか報道だと見出しにとられて、早とちりのポン酢共から何て悪いことをしているんだと誹られて大変な「CoCo壱番屋」。別にここが廃棄する予定の牛カツをスーパーに横流ししたわけじゃなく、間に入った産廃業者が廃棄するところをそうせず、横流しして設けていた訳で、途中の温度管理とかどうなっているんだという不安もこれありで、そんなものをよくもまあスーパーとかが仕入れたものだと思わないでもない。どういう説明があったんだろう。品質管理で弾かれたけれども味には問題がないB級品とかいった説明だろうか。それとも知ってて売ったんだろうか。どっちにしても「CoCo壱番屋」には関係のない話。それでもこうやって、世に訴え出たところをちゃんと評価して、通う人が増えれば世界一のカレーチェーンっていう評判も、さらに高まり経営も盤石なものとなるだろうか。ハウス食品だっけかの傘下に入っても、そんな公正さが変わらないと良いな。

 って訳で新宿の歌舞伎町まで出る用事があったんで、通りにある「CoCO壱番屋」でもって牛カツに野菜も添えたトッピングでもってカレーを頂く。味はまあいつもどおりだけれど、それがちゃんと守られているとことが有り難いというか。見ると各所で突発的に牛カツ食べて応援だってな運動が盛り上がっていたみたい。今日1日の売上げを精査してみて、牛カツの多さに本部も驚いたりするのかな。ただ気になったのは値段がちょっと上がってきていることで、昔だったらそれで1000円を超えることなんてなかったのに、今は大盛りでも大辛でもないのに1000円を超えてきた。牛カツをトンカツに変えれば切るくらいだからまだ高すぎるといった感じではないけれど、こういうところでの物価高でフトコロにダメージを食らいつつ、さらなる増税なんて事態を受けたら人はいったいどこで何を買うようになるんだろう。そういう庶民感情を、どうもパートで25万円な総理は感じていなさそうなところが目下の不安。株安も続いているようだし、どうなってしまうんだろう、この国は。嗚呼。

 歌舞伎町ではドン・キホーテの上にある「なぞともCafe新宿店」で、今日から新しくオープンした謎の「残穢【ざんえ】−開けてはいけない匣【はこ】−」を見物。東京国際映画祭の会見で、主演女優の竹内結子さんがロケ先から一刻も早く家に帰りたいと話し、脚本を人のいないところで読めないと話したくらいに内容的に怖そうな映画「残穢【ざんえ】−住んではいけない部屋−」とタイアップしたアトラクションで、原作とか映画とかに描かれている世界観を取り出して、部屋の中でいろいろと起こっていた怪異の真相に迫るような体験をできるらしい。そこにお化けが出るとか貞子が井戸から現れるといった恐怖を誘う展開はないけれど、パズルとかを解いてヒントを見つけてそれを解き、さらに現れた謎に挑んでこれを解きながら進んでいく中に、じわっとした怖さが浮かび上がるといった感じか。評判もあって試写とか観なかったし原作も読んでなかったけれど、これをきっかけにしてちょっと観たり読んだりしてみるか。それで家に居られなくなったらどうしよう。やっぱり止めておこうかな。

 わはははははは。 何が「蓮池さんの見解は見解として、国会で取り上げるからには、独自の裏付け調査が必要だろう。我々新聞記者も“裏取り”の重要さを徹底してたたき込まれた」だよ某紙のウェブ向けコラム。だったらその新聞が抱える安倍総理の太鼓持ち記者とかに向かって、蓮池透さんのところに行って嘘かどうかを確認したのかって聞いてみないと。そうでなく、ただ伝聞と記憶だけで一方的に安倍総理が真実だというなら、改めて“裏取り”とやらの重要さを徹底してたたき込めって話になる。というか、その太鼓持ち記者って確か、阪神・淡路大震災に絡んだ辻元議員のデマを書いて裁判になった時に、すごいことを言ってたんじゃなかったか「同社は記事の根拠について『当時広く知られていた』『本を引用した』と主張。『論評記事だから辻元氏への取材は必要ない』と訴えた」。でもってそうした主張を「判決は退けた」。当たり前の話。そんな戦果を過去に得ながら、まるで無かったことのように他人に向かって裏を取れって説教できる剛胆さがないと、やっぱり偉くはなれないのかなあ。やれやれ。


【1月14日】 面白いなあ。原作についてはすっかり忘れているから同じなのか違っているのか判断のしようがないけれど、テレビアニメーションとしての「無彩限のファントム・ワールド」は、大口を開けてファントムを吸い込んでしまう和泉玲奈のその大口へと変化する表情がユニークで、極めて可愛い造作が崩れてムーミンみたいなのっぺりした顔になり、そして大きな口が丸く開いて何でもかんでも吸い込んでしまう。終わったらもとに戻って小さな口へ。人間でそれをやったらきっと不気味極まりないだろうけれど、アニメーションなら可愛らしさを面白さの狭間で表現できる。描いている人の腕前も良いんだろう。まずはそこがひとつの見どころ。

 あとはいろいろと動きが良いし、エロっちいところをちょっとずつでも覗かせようとしている工夫もある。どうしてあの部室みたいなところで玲奈と先輩の川神舞はストレッチみたいなことをしていたのか。体育室でもないのに。無意味そうだけれどでもそこに動きがあると説明セリフが多くても目が行ってしまう。UFOが出るといった部屋でやっぱり脱ぐ時も、一条晴彦を追い出しながらもまた招き入れては着替えたところをしっかり見せる。UFOが出てドタバタしている場面もちょっとくらい見えそうな感じ。そういうサービスを加えつつ、ルルちゃんの小さいけれども豊満なボディを見せつつ、ギャグ混じりで進めていく展開が見ていて目を離させない。

 水無瀬小糸が能力を発揮する際に毎回、長いセリフを略さず唱えるところはそれが必要だから。やや鬱陶しいけど、手抜きの無さが世界への信頼感を高めているとも言えるかな。そういった配慮が絵についても隅々にまで行き届いている感じを得られている以上、あとは話の面白さで引っ張っていく。さすがは京都アニメーション、抜かりがない。ストーリーがこの後、どうなってしまうかまるで覚えてないけれど、それだけに予想を超えた展開ってのを楽しめそう。まずは小糸がどういう風に仲間に加わり、ぬいぐるみのアルブレヒトを連れた熊枕久瑠美がどういう風に関わっていくか。そんな人間関係の発展ともどもこれからを楽しんでいこう。OPとかEDでぐるぐると回るデフォルメのルルとかも可愛いなあ。しかし彼女、晴彦といっしょに暮らしている訳じゃないんだ。どこから来てるんだろう? ちょっと知りたい。分かるかな?

 何が何だか。隈研吾さんの案で決まって動き始めた東京五輪に向けた新国立競技場の建設なんだけれど、前の案を出して結果的に拒絶されたザハ・ハディドさんに対して、JSCがスタジアムのデザインに関する著作権を渡さなければ、残りのデザイン料は払わないとか言っているらしい。おいおい、デザイン料はデザイン料として行った仕事に対して支払われるものであって、著作権とは全然関係ないだろう? それなのに著作権を寄越せってことは、その著作権で何をしたいのか、ってあたりで前から出ていた隈研吾さんのデザイン案におけるスタンド部分のデザインが、前にザハ・ハディドさんが出したデザインに酷似しているって話が浮上してくる。

 もしもそのまま作れば訴えるとも言っているっらしい。でもJSC側は無関係を主張している。だったら別に著作権とか買い取る必要はないんだけれど、それを寄越せと、まるで無関係なデザイン料を“人質”にして言い募る以上は、やっぱり自分たちの新しいデザインが、実は著作権的にヤバい物だと認めてしまった証ってことになってしまう。これは拙い。それならそうで著作権を買うんじゃなく、その部分のデザイン料を払って“共作”にするのが普通のあり方。そもそも著作権というのは著作として世に出た瞬間から、属人的に人に備わって回るものであって、買い取るとか譲渡するとかいった類のものではない。使いたければ対価を支払う。それが流儀だろう。

 多分世界もそういう流儀で動いている中で、日本がパクリを認めないけど実質認めているような二枚腰を見せたらどうなるか。世界から異質で異常な国だと思われるだろう。実際にそういった見方が海外メディアから上がり始めている。日本は不実で不公正な国だと思われて、それが国を挙げて取り組むべき五輪に関わる場で行われてしまっている。恥ずかしいことこの上ない。そんな事態に荷担しているように見なされ、隈研吾さんは本意なのか。次から世界で仕事が出来なくなる可能性だってある中で、自分は無実だと突っ張るか否か、それとも。近く会見もあるそうだし、そこでの対応にまずは注目。しかしやっぱりこうなる前に、真っ当な選考と真っ当な手続きでもってJSCには事を進めて欲しかった。それが出来ないからこそのJSCとも言えるんだけれど。やれやれ。

 これが情報戦って奴だろうけど、スポーツニッポンあたりが書き始めてきた、例のSMAPの独立騒動で渦中にある女性マネージャが、ジャニーズ事務所の御大メリー喜多川さんへの反抗を行ったとして排除されそうになって、一発逆転を狙って裏でいろいろと画策したものの果たせず、主導権争いに敗北する形で追い出されるといったニュアンスの記事に、悪いのは独立を画策したマネージャの方であって、事務所はそうした人間をもてあまし、裏切り者として断罪しといった雰囲気が漂って、なるほどそういう方向で世論を導き、ジャニーズ事務所の方には矛先が向かないようにしているのかって印象を感じ取る。でも。

 世間では、というか情報に聡いネットあたりの人たちは、自分の娘可愛さにSMAPというグループを導き育て大きくして、そしてジャニーズ事務所にとっての次代を開き、収益も上げさせた貢献者を、権力でもって叩き追い出そうとしているってことを何とはなしに感じている。なるほど創業者であり権力者であっても、だからといって何をしても良いって訳じゃなく、そして相手が無能ならまだしも、経営面における功労者であることを鑑みず、気分でもって断罪しようとしているといったニュアンスを感じ取って、ちょっとやり過ぎなんじゃないのといった印象を抱き始めている。だからもし、このままひとりの功労者を一切のねぎらいもせずに叩き出すようなことになったら、世間はジャニーズ事務所といったところへの関心をグッと下げ、パワハラを認めずに評判を落としたワタミに類する扱いをすることになるだろう。とはいえ。

 そうしたネットの風向きとはまるで正反対を行くように、ジャニーズ事務所側に理を認めて、権力者に逆らい反攻しようとして失敗した女性マネージャといったニュアンスでとらえ、断罪して追い出されてもやむなしと言った報じ方を止めようとしない。これでジャニーズ事務所側は安心でも、ギャップから来る世間との乖離がいったい何を招くのか、音楽業界なりアイドル業界への不信とともに、メディアへの不信も一気に加速っせることになりかねない。やっぱり広告をもらっているから、アイドルの出演が拒絶されると拙いからといった功利でもって動いていると思われて、芸能であってもジャーナリズムを名乗っていけるのか。そんな分水嶺にある事態ってことになるんだろう。テレビとスポーツ紙と女性誌くらいしか情報源がなかった昔の独立騒動と違い、ネットでの世論形成が行われやすい今は、何が“正義”かを誰もが敏感に感じ取る。鈍感な旧体制はそこから弾かれ衰えていく、ってなると面白いんだけれど果たして。小林幸子さんが芸能界の掟によって排除されても、ネットの力で飛翔した例も近いし、旧体制に何かしらの鉄槌が下るかなあ。やっぱり変わらないかなあ。

 さっそく某紙の安倍総理大好き記者が、国会で民主党議員が安倍総理に対して拉致問題を利用してのし上がったって蓮池透さんが書いているけれど、それ本当? って聞いて安倍総理が「嘘だ。嘘じゃなかったら議員バッジを外す」とイライラ混じりに喋った話を取り上げて、「拉致問題を民主党に語る資格があるのか 自分を棚に上げ、またもレッテル貼り?」なんて見だして長々とコラムを書いている。中身はつまりは安倍総理の擁護で、そして民主党議員への非難。でも、そういう味方の礼賛も含めて、安倍総理は拉致を利用してのし上がったって蓮池透さんは書いているわけで、にも関わらず批判の矛先を蓮池透さんではなく民主党に向けているところが解せないというか。嘘だと言った蓮池透さんをつかめ真相を糾すのがジャーナリズムって奴なのに。そこは流石に本人に聞いていろいろ書いているリテラ。やっぱり嘘っぽいけどそれを嘘を認めて議員バッジを外すなんてことはしないだろうなあ。やれやれ。


【1月13日】 そして目覚めるとSMAPが解散していた。いやまだ解散はしていないけれど、スポーツニッポンと日刊スポーツが既定路線のように報じているからには、公開においてどこかの誰かによるゴーサインが出て、そして木村拓哉さんをひとりジャニーズ事務所に残して残る4人が退任するマネージャについてジャニーズ事務所を辞めるのも、ほぼほぼ既定路線ってことになっているんだろう。そこに至った解説なんかもすでに出回っているから敢えて触れないけれど、ひとつ気になるのはこれで「元SMAP」と言って通じるのが、前はオートレーサーの森且行選手だけだったのが、一気に増えて簡単には言い表せそうにもないってこと。

 いやまだ「SMAP」の名前が無くなると決まった訳じゃないけれど、ひとりジャニーズ事務所に残った木村拓哉さんがひとりでもSMAPを名乗るとは思えないし、かといってSMAPの名前もいっしょに引き連れ4人が独立するとも思えない。それを認めるくらいならそもそも独立なんて事態に追い込まれないだろうから。事務所を分家してジャニーズ事務所傘下のオフィスSMAP扱いして、そこで独自にマネジメントしつつ収益は上納するような仕組みだって取れただろうけれど、そういう緩やかさを認めないくらいにジャニーズ事務所の偉いさんによるSMAPのマネージャへの嫌悪が強かった、ってことなんだろうなあ。だからやっぱり独立後は独自の名前で行くんだろう。メンバーの頭文字を並べてNIKKとか。どう読むんだ。

 いやいやここで脱退していた森且行選手が現役オートレーサーでありながらもアイドルとして復帰し、独立した元SMAPたちに加わって新しいアイドルユニットを結成するとかしたら話題性も膨らむし、人気だって前にも劣らないくらいに爆発するかもしれない。オートレースボーイズとか。バイクキッズとか。いや別に他のメンバーはオートレースをしていないからそっち系の名前は違うか。でも4人が5人に増えることで集まる注目もあるなら、そういう仕掛けを敏腕マネージャ、組んでくるかなあ。でもやっぱり潰されるか。相手は天下のジャニーズ事務所だものなあ。とはいえ高齢な上にここまでの騒動を経てなお権勢を誇れるのか。社会がそれを認めるのか。ファンのパワーがあれば、そしてメディアの良識があればきっと独立後もうまく行くと思うんだけれど、良識がないのがメディアだからなあ。ともあれ様子見。明日はどっちだ。

 去年も行ったウェアラブルEXPOをのぞいたら第2回目にして結構な数の企業が出てくる盛況ぶり。シャープだとか東芝といった大きな会社がブースを並べては、スカウターよろしく目に小さいモニターを見せるようなウェアラブルのアイウェアを出展していた。用途はエンターテインメントってよりは工場だとか倉庫だとかでどこに何があるかを伝えて、それを見てそっちの方向に行けば見つかりピックアップも手ぶらでできるといったようなもの。東芝なんて美女が着飾っては倉庫に入って手ぶらでそうした実演をする映像を流していて、場違い感が半端じゃなかったけれどもそうした美女でも手ぶらで軽々と作業ができるってのを示せてはいたんで、それはそで良いのかも。シャープの方は片耳にヘッドホンを付けつつ目でモニターを見るタイプ。音声の指示もいっしょに送って歩きまわったり出来そう。

 シャープだと面白かったのが胸に小さなプロジェクターを仕込んで置いて、映像を手のひらだとか目の前の壁とかに映せるようにした装置。手に持ったタブレットとかスマートフォンから映像だとか画像だとか文字だとかを読めば良いんだけれどそれもしたくない緊急時、手ぶらで歩きながら目の前の壁に画像なり映像を映してそれに従い進んだり行動できるようになるのは場合によっては有り難いのかも。アイウェア型のウェアラブル端末でも可能だけれど、暗い場所では見えないし緊急時とかそういうのを頭に着けているのも億劫、って場合にこういう装置が威力を発揮するのかもしれない。他にも多々出ていたアイウェア型のウェアラブル端末。似たり寄ったりではあるだけに、あとはだからどういう場所でどう使うか、っていったソリューションをどう載せていくか、そんなソリューションに対応可能なシステム設計になっているかが勝負の分かれ目になるんだろうなあ。メガネスーパーの装置とかどうだろう。簡単で安価ってところが普及の鍵になるのかな。

 10年経つのかSCANDAL。もう4年も前になる最初の日本武道館を控えていた時期に、話を聞く機会があってその時にドラムのRINAが「私はこのバンドでこのメンバーで10年は最低い続けたい。SCANDALって本当に弾いているの? って言う人に本物だったんだって言わせたい。それは続けることでしか証明できない」って話してたっけ。たった4年前でもまだ、どこかアイドル系のバンドユニットといった雰囲気を引きずって、人によってはイロモノ扱いもしていたかもしれない時期に、けれどもそうした波風をぶっ飛ばして自分たちの音楽を、ロックを貫いていくって決めていた。そして4年後、今再びの日本武道館のステージに立って、SCANDALは本物のロック、本物の音楽、本物のバンドサウンド、そして正真正銘に本物のSCANDALってものを見せてくれた。

 前の時はまだ、ダンススクールから出て来てそうした方面でも何か見せなくちゃ、といった雰囲気もあってダンスパフォーマンスを披露したりしていたし、可愛らしさを見せるような演出なんかも取り入れていたけれど、今回はもうひたすらにロック、ロック、ロックの連続でもってギターを奏でベースを弾きドラムを叩いてボーカルが唸る、そんな分厚いサウンドって奴を全編を通して聞かせてくれた。演出めいたものといえばドラムのRINAが前に出て、ギターをかき鳴らしながら「さよなら」って楽曲を歌ったりしたくらいで、それもま可愛らしくてた巧いから嫌になるというか、ビジュアル的にもフロントが務まる人材がそういう場面でしか出て来ず、あとはとてつもなく巧みなドラミングを見せ続けるというスタイルからして、どっぷりとロックなバンドになり切っている。見てくれとか後回し。音楽を。本物の音楽を見せて聴かせるバンドとして成立し、見る方もそれを求めるようになった。

 ここに至る苦労とか、ポジション的にどうなんだろう、評価的にどんなものなんだろうといった懊悩とかもあっただろうし、途中で路線をどうしようか迷った時期もあったんじゃなかろーか。制服姿でロックをやる美少女ロックユニット、なんてアイドル路線で売ろうとしていたかもしれない。ただ10年前だと、今ほどそうしたアイドルユニットが音楽業界のメインじゃないから、イロモノ扱いは免れなかっただろうなあ。あとアイドルに限らずガールズロックにつきものの、まずはビジュアルで演奏二の次といった受け手側の、あるいはメディア側の妙な期待に添いつつもそれでもやっぱり自分たちで選んだバンドというスタイル、ロックという音楽を追究していくんだという姿勢が、だんだんと認められそれでこそSCANDALだと思われるようになっていった。

 その結果が、今のこのロックだけで、音楽だけで観客を沸かせ、引き付け、日本武道館を2日間、満員にするだけのバンドへの成長につながった。10年を通してやり遂げた。そしてこれからどうなるか。どこまでもロックを突き詰めていくのか。それとも個性をもうちょっと出したスタイルに変わっていくのか。分からないけれどもひとつ、節目を越えて確立したその存在感なら、何をやってももはやイロモノだとか思われることはなく、それがSCANDALだと認めてもらえるだろう。あとはだから自分たち次第。その飛躍をを僕達はただ待ち、そして受け止めるだけだ。期待しよう、2016年爆発を。これからの10年をSCANDALとしてさらに成長していくことを。

 もともとポン酢な者どもだと思ってはいたけれど、ここまで心底からどっぷりとポン酢や野郎どもだとは思わなかったというか。うすうすとは感じていたけれども満天下に向かって自分たちはポン酢ですだなんて大声で怒鳴り散らすような真似をするとはさすがに思っていなかったというか。昨日の国会であったという民主党の国会議員による安倍総理への質問で、拉致被害者だった蓮池薫さんのお兄さんで、家族会の事務局長も務めたことがある蓮池透さんが、安倍総理はいったい拉致被害者のために何をしてくれたんだろうといった疑問を投げかけた著書を引いて、ここに書かれていることはどうなんだと聞いたのに対して、安倍総理が自分は嘘なんたついてない、もし嘘だというなら議員バッジを外すと言った話が新聞の1面トップになっていた。

 何というポン酢ぶり。国会で自分は嘘つきなんかじゃないと正当化するために、相手なりその引き合いに出された蓮池透さんを嘘つき呼ばわりしたとも同然の答弁を、1面トップに掲げて、そこまでして安倍総理の正当性を訴えその偉大さを崇め奉り讃えたいのか。もし嘘だと安倍総理が言うのなら、どこかの講演で話したことを引っ張るんじゃなく、すぐさま蓮池透さんのとろこに行って、その真意を確かめ矛盾点を暴き、決定的な証拠を掲げて蓮池透さんを断罪し、その上で総理の絶対性無謬性を喧伝すべきであって、それが公正さを持って立つジャーナリズムってものなのに、総理の答弁を大々的に掲げつつ、蓮池透さんはツイッターで私は嘘をついていないと言ったという話とか、講演で話したこと引っ張って載せるだけ。そこには脚で稼いで情報を集め、真実に近づこうとするジャーナリズム的な意識のカケラも見て取れない。

 そんな新聞が、いちおうは全国紙を標榜しているからなお吃驚というか。国民の知りたいという欲求に答えるべく、官公庁に席をおいて情報に真っ先にアクセスする権利を付託され、真実を曲げるような報道をしなくて良いよう経営を安定させるために税制を優遇され、再販価格に守られ今度は軽減税率まで認められようとしている公器がやることなのか。これじゃあただの機関紙で翼賛紙で宣伝ビラじゃないか。いやずっと前からそうだったかもしれないけれど、さすがに1面トップで堂々と、自分たちは安倍総理の味方以外の何者でもないんですと高らかに宣言してしまったに等しい振る舞いを、いったい誰が主導して、誰が許しているんだろう。それをやって良いと思っているんだろうか。むしろそれをやるべきだと思っているんだろうか。

 だとしたら相当にポン酢だけれど、1人のポン酢がすべてを決めている訳でもないから上から下まで、右も左もポン酢揃いなんだろう。さすがに読者は違うと思いたいけれど、真っ当な人はすでに離れて今はもうポン酢しか読んでいないのかもしれないなあ。紙の新聞も新聞なら、ネットはネットで「安倍首相マジ切れ! 民主議員『拉致を政治利用したのか』との質問に『私が言っていることが真実だとバッジをかけて言う』」とかって見出を着けてたりしてどこか下品というか、マジ切れって国語の教科書とかに出て来て誰もが使う言葉なのか。子供に使って欲しい言葉なのか。新聞を教育にとか言ってそれも軽減税率の認定要件になっているような媒体が、率先して醜くて汚い言葉を使って煽るこの矛盾に、気付いていないとしたらもう末期を通り越しているんだけれど。それでも一応は存在しているこの不思議。これが総理を讃える意味って奴なのかなあ。やれやれだ。


【1月12日】 小説としては結構好きで、ずっと読んでる明月千里さんの「最弱無双の神装機竜」がいよいよテレビアニメーション化されたみたいで、観ればいきなりのラッキースケベで、主人公のルクスがヒロインでお姫様の素っ裸を見てしまっては決闘を申し込まれ、それを弱いと思われた武装でもって退け、一気に名を高めるあたりに最近も幾つかあった作品と、同様のテンプレート感を抱かせるかもしれないけれど、アニメとしてはそこが掴みでも、小説としては滅ぼされた王室の廃嫡された王子さまが、新しい王国でも処刑されることなく、下働きをさせられているといったところに持ち上がった新王国への様々な謀略。そこで自分の正体を隠しつつそれでいて周囲の自分を嫌う者たちも納得させながら、だんだんと地歩を固めていくといった展開が、読んでいて結構ワクワクとさせられるのだ。

 今は留守にしている学園祭強の女性神装騎士が戻ってきては、男嫌いを炸裂させて雑用王子のルクスと戦いつつ認め合いつつ惚れたりしたりといった展開も経て、だんだんと浮かび上がってくる周辺の敵の謀略やら、帝国がクーデーターによってあっさりと滅んでしまった裏事情やらが見えてくる展開の果て、ルクスが今はまだ隠している「黒き英雄」としての正体を明かし、使用を控えている神装機竜<バハムート>を動かしては強敵を相手にすごいところを見せたりしてくれるんで、なんだいわゆる最弱の振りをした強い少年のハレム物かといった見方でもって投げ捨てることなく、原作がどこまでしっかりと描かれるのかを追っていきたい。まだ目立っていないルクスの幼なじみの少女、フィルフィの結構シビアな境遇とか、描いていったら話は1クールで終わらないかもしれないなあ。どこまで描くんだろう。それにしても第1話でクレジットに名前があったもりやまゆうじさん、どこを描いてたんだろうか。リーズシャルテの裸だろうか。そういえばエロかった。

 言葉への配慮が足りない人、というか、その言葉がすべて自分を正当化するものであって、上に見せようとするものであるから周囲に対して攻撃的になってしまい、軋轢を生んで後がやりにくなってもそれで後退することなく、余計に無理筋の言葉を重ねるものだから収拾が付かなくなるという、そんな事例が頻発している国会での安倍総理。育児休暇を申請した男性の自民党議員がいることを民主党の議員に聞かれて、「一議員として、あなたのように軽々しく答えるわけにはいかない」と返事して、何が「軽々しく」なのかと早速突っ込みを浴びている。難しい問題だけに簡単には答えられないのだとしても、総理大臣という立場から重々しく答えれば良いのにそうは言わず、答えられないし答えたくないことに、何か理由をつけなくちゃってことで自分は貴方とは違う、そして貴方は軽いと見下して、自分は答えなくても正しいんだってことを周囲に示そうとうとして墓穴を掘った。

 いや、当人には墓穴を掘ったという意識も無くて、自分は偉いんだから答えなくて当然といった意識がありそうだし、そんな安倍総理を応援する新聞にも、下々の些末な質問などに大総理が答える必要なく、そう切り返した総理はクレバーだってなニュアンスが蔓延していそう。でも、自分が総裁を務める政党の議員に絡んだことであり、自分が国の最高権力者でもあるならそんな国の政治を代表する政治家に絡んだことなら、やっぱり何かしかの答えをしてしかるべき。はっきりしたことは言えず、検討を要するでも構わないのに自分は偉い、お前は軽いといった返事ではただ器の小ささを示しただけになってしまう。でも、そういうことすら自分では意識してなさそうだし、応援メディアも相手の卑近さばかりを追求して、総理を大所高所に起き続けるんだろう。気持ち悪い共生関係。

 そんな総理だけに、ひとりの人間がすべてをさらけ出す覚悟で書いた諫言の書ですら、嘘だと国会という国の最高機関であり、公中の公とも言える場所で言ってしまえるんだろう。それもこれも自分は間違っていない、自分のやることはすべて正しいということを、真っ先でそして最上段から言い募りたいがための直情的な言葉。でも、相手の言い分がまったく虚偽だなんてことはなく、それは書いた当人も知っているし、書かれた方だって何とはなしに感じていることだろう。ここで嘘だと否定したら、あとで響いてくるのは自分の方なんだけれど、そういうところに気なんて回す余裕がなく、目の前で嘘だと言われたらそれが嘘だと反論して自分を慰撫し、安心しようとしてしまう。やっぱり小さいというか。後先への配慮が足りないというか。怖いのは、そういう人間が最高権力者にいることで、自分が嘘だと言ったことを本当に嘘だとしてしまうため、メディアを動かし権力を使って相手を嘘つきにしてしまいかねないこと。身の安全は守って欲しいけれども、果たして。

 カドカワが代々木なんとかといっしょに会見するってんで、これは例のネットの高校ことN高等学校が、代々木アニメーション学院と組んでアニメーション作りやらライトノベルの創作やら声優の養成やら漫画家のデビュー支援やらをはじめる気かなと思ったかというと、最初から相手が代々木ゼミナールだったから、進学に関する話かなあと分かっていったけど、それにしても目標が大学受験で、そのために代ゼミに専用のコースを作って朝から晩までみっちりと受験勉強させちゃいます、って内容だったのには、それで良いのかなあと思ったのだった。もう高校の卒業は単なる退学受験の資格と割り切り、ネットで夜に必要最小限の授業だけ受けていればよし。あとは大学受験のために3年間、朝から晩まで勉強漬けの3年間を過ごせってことでしょ? これ。

 最初にN高等学校の話が持ち上がった時、それは割と安価に高校卒業の資格を得られる一方で、他に自分がやってみたいこと、やってみたくなるようなことが見つかり、それに仲間も出来ていっしょに取り組んでいけるって、そんな“場”を与えてくれるところが出来たって喜んだ人がいた。KADOKAWAの方からライトノベルや小説の書き方を教えてくれる講座が提供されたり、バンタンからファッションに関する講座が提供されたりして、学びながら自分を表現できる道を探れる学校、それがN高等学校だっていったドリームが浮かんだ。でも、そういうカリキュラムを脇において、全寮制の塾に通わせて東大に合格させますとか、企業がすぐにでも雇いたくなるプログラミングの技術を教えますよ、もちろんお金はしっかりもらってって感じが今は強く出ている。代ゼミとの提携もその延長線上にある。

 いわゆる通学して学んで部活もやって交流し、そして受験にも備える普通一般の高校という制度を真っ向から否定し、高校なんて資格に過ぎず、それさえ取れればあとはお受験に特化した勉強をさせることが高校生にあたる3年間に最適だといわんばかりの押し出し方で、ドロップアウトして引きこもっていた人が、ネットで学べて友達も出来るかも知れないとN高等学校に抱いていいたドリームが、木っ端みじんに粉砕されかけている。本当にそれが川上量生さんはやりたかったのか。生徒を集める上で親を納得させるためには大学進学であり、東大進学をまずは打ち出して経営を起動に載せるべきなんで、まずは進学を打ち出しているだけなのか。分からないけれどもそうでないと信じつつ、いずれN高生の電撃小説大賞受賞とか出たり、アイドル声優が生まれたりとかいった話が出て来て、やっぱりN高校、楽しくて夢があって学べて未来もつかみ取れる、理想の高校なんだってことを見せて欲しいもの。どうなるか。今後の発表を見守ろう。


【1月11日】 赤福氷を食べようと、名古屋に帰省した時に名古屋駅前にある高島屋の地下に入っている赤福の店に寄ったら満席で、行列まで出来ていたので諦めたことが何度かあったなあという記憶。それがつまり竹田圭吾さんが赤福氷について騒ぎはじめてからの年月って奴で、それくらいの期間にわたって見るともなしに眺めてきたツイートは、教条的ではなく狂信的でもなしに状況を冷静に眺め、時に辛辣さも交えつつかといって嫌みにはならず、世の中で起こっていることへの疑問を顕在化させ、そしてどうしたものかといった問いを投げかけてくれていた。そこから新しい議論が生まれ発展していけば、この国ももうちょっと真っ当な方向に行ったかもしれない。

 けれども残念ながら、乱暴にも情動を誘う言葉が跋扈しては、安易な方向へとこの国を引っ張っていった挙げ句の体たらく。だからこそもうちょっと、生き延びて辛辣で冷熱な言葉を発し続けて欲しかったけれども、膵臓がんにて死去。残念だけれど取り返しが付かないのなら、せめてその心情を取り入れ明日に繋げる動きがあれば良いのだけれど、あちらこちらで真っ当さを持ったテレビキャスターが次々に外され、それについて権力への批判があったからだという噂がまことしやかに語られつつ、だったらしょうがないねといった空気が漂っている状況で、いったい誰がどうやってその信条を語り継いでいくのだろう。未来はただ暗くて切ない。やはり行くところまで行かないと、改まらないのかなあ。70年前がまたやって来るところまで。やれやれ。

 あれだけ指摘もあったのだから、さすがに改めるかと思ったら今日も今日でニュースサイトの見出に平気でアルファベット3文字からなる侮蔑語を使っていて、呆然を通り越して気分が悪くなって来た。裁判でも認定された侮蔑語を掲げて取り上げた以上、そこに紹介された面々から侮辱したなと訴えられても文句は言えず、負けても当然なシチュエーションをどうして平気で行えるのか。他に代替のない言葉でもあるまいし、それを使って恥じない頭の構造が見て見たいけれど、見てもきっと何も入ってないだろうから意味ないか。マジで気付いていないならただのポン酢だし、気付いてそれでもアクセスが稼げるからとそのままにしているならそれは犯罪。だって裁判でペケって出ているんだから。そうやって稼いだアクセスだって、呆れと怒りと侮蔑が含まれたもので、明日の収益になんら?がらない。でも今日のアクセスを自慢しないと生きる場所がない、って人たちがやっているかやらせているんだろうなあ。そうやって先取りされた未来に待ち受ける大穴に、すべてが吸い込まれる日は近い。やれやれ。

 いよいよスタートした2016年1月期のライトノベルが原作となったアニメーションの中でも、相当な評判を呼びそうなのがやっぱり十文字青さんの「灰と幻想の繰りムガル」か。映画「ねらわれた学園」でふわっとした情景の中にいろいろと交錯する人間関係を描いてみせた中村亮介監督が、「あいうら」以来になるテレビシリーズを担当したもので、これまたどこか水彩画のように淡いタッチの画面の中で、突然にファンタジー世界に送り込まれた現代っ子らしい少年少女が稼がなければ食べられず、食べられなければ死ぬし稼ぐには戦わなくてはならず、戦って負ければやっぱり死んでしまうシリアスな世界に放り込まれて、少しずつ世界を知り、自分を知ってそして進んでいこうとするストーリーが繰り広げられる。

 目覚めるとそこは暗い部屋で、そして起きて外に出ると行く人かの少年少女が立っていて、そして自分については名前以外の記憶はないけれど、なぜか携帯とかゲームといった言葉が頭に浮かんで、けれどもそれが何を差すのかは考えても分からないという、そんなシチュエーション。その中でハルヒロという少年を含む面々は、義勇兵団事務所というところに案内されて、そこでどこかから現れた新米は、まずは義勇兵団の見習いからはじめてそこで銀貨10枚を溜めて正式の団員になり、そこからさらにゴブリンやオークやモンスターたちと戦って金を稼いで暮らしを立て、武器を買いスキルを上達させていきながら、より金の稼げる戦いへと向かうことになるという。さっそくレンジという名の強そうな少年は、いっしょに現れた中から才能のありそうな者だけを連れて事務所を出ていき、残されたハルヒロたちはとりあえずパーティーを組んで見習いとしてそこでの生活をスタートさせる。

 その前にそれぞれがギルドメンバーとなってスキルを得るために、銀貨8枚を払って各ギルドに弟子入りするのがひとつのルール。ハルヒロは盗賊のギルドへと入ってそこでバルバラという名の美女の師匠を得てとりあえずのスキルを得る。そうして戻った面々はまず5人。治癒魔法が使える神官となったマナトがリーダー役となって、それぞれに役目を振り分けたはずが戦士になるべきと言われたランタという少年が、自分勝手なのか目立ちたがり屋なのか、まるで悪びれずに暗黒騎士のギルドに入ってしまい戦士がいないパーティーになりそうだったところを、大男だけれどどこか鈍重なモグゾーが最初に連れて行かれたパーティーから金だけ奪われ追い出されていて、それが戦士だったこともあって仲間にして、6人のパーティーができあがる。

 そして始まった生活では、ランタの自分勝手でわがままで気分屋で目立ちたがりの性格がひんしゅくを買いながら、それでもマナトというリーダーの下でそれぞれがスキルを活かしながら、まずは感嘆に倒せるゴブリンを仕留めて小銭を稼ごうとしたけれど、ゴブリンだって倒されれば死んでしまうという状況に反撃し、どこか安易さもあったパーティーにひとつの転機が訪れる。それは、この世界がリセット可能なRPGのような場所ではないということ。慎重な上に慎重さを重ねて挑まなければ取り返しの付かないことになってしまう世界のリアルを知り、パーティーは改めて恐怖にとらわれ、けれども生きていくためには戦わなくてはならないと覚悟を決める。

 そうやってひとつ、乗り越えていった先にいったい何があるのか。ゲームではない世界に、少年少女が記憶を奪われ連れてこられた理由は。そもそもどういう世界なのか。それらも含めて関心を誘いながら、そうした事情は置いても殺されれば死ぬし、戦わなければ生きていけない世界で誰もが自分の能力を高め、自分の必要さを考え訴えていく姿に、惰性で生きている身を引き締めさせる物語。7巻まで出ているけれどもいったい物語はどこに向かい、何が明らかになっているのか。アニメーションでどこまで紡がれるか分からないけれど、それでも伝わってくる世界の辛辣さに感じいり、それはこの世界でも一緒なんだと覚悟を決めて今日を生きていくための糧を得る手段を考えよう。仕事行こうっと。

 つつっと流れてきた情報がやがて、本流となり濁流のように世界を包み込んだといった感じだったデヴィッド・ボウイの訃報。噂だろといった感じだったのが公式のツイートととして家族のツイートでもって裏打ちされ、英国からフランスからやがてゴールデングローブ賞で湧くアメリカのメディアへも情報が広がって世界中がその死を悼みはじめた。とはいえ個人としてその偉績を知っているかというと、MV全盛となってからの「レッツ・ダンス」やその頃に出演した映画「戦場のメリー・クリスマス」で一気に高まった存在感から、遡ってちょっとづず認識していたその足跡を再確認していくといった感じだったりする。

 よく名前が挙げられる「ジギー・スターダスト」も「地球になった男」もそうやって聴いたり観たりした感じで、猥雑さも蔓延していたグラムロックの頃よりは、ユーロな雰囲気の中でダンディーな雰囲気でポップな曲を奏でるロックスターのひとり、といった受け止め方をしていた感じ。むしろクイーンとボーカルのフレディ・マーキュリー、そしてポリスとスティングの方が活動していた時期もあってよく聴いていたから、死という意味ではボウイとほぼ同じ年のフレディ・マーキュリーの方が衝撃だったかもしれない。生きていればフレディも今年70歳になるんだなあと、改めて思いつつそんな年まで生きてそして新曲も出して存在感を保ち続けたデヴィッド・ボウイに改めて敬礼、そして黙祷。聴いているかなあ、その新譜。


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