縮刷版2016年11月中旬号


【11月20日】 年齢が近いとはいえ皇位継承順位で1位の皇太子さまの弟ということで、次の次の天皇即位もありえる人と、その次の皇位継承順位を持っている悠人さまが同乗しては普通に高速道路を車で走って事故を起こすという自体は、皇室の維持という意味においてとてつもなく不安な出来事であって、これでもしものことがあったらそれこそ皇位継承権について本格的な議論をしなくてはいけなくなったかもしれない。幸いにして誰もおけがはなく無事だった様子だけれど、こうした自体にさてもいったどんな影響が現れるか。外出は禁止か遠慮でそして同乗は厳禁、なんてことになるのかなあ、それはひとつの家族としてとても辛い事。だからやっぱり皇位継承権についてもっと広くゆとりをもたせられる状況を、作る必要があるって議論になれば良いんだけれど……。いろいろと難しい。

 高町ヴィヴィオには大逆転から勝利して、絶対のパワーが持つ圧倒的な強さって奴を見せつけながらも、勝ち進んだフーカ・レヴェントンには敗れてそこでかつての友情を取り戻す、って有り体のストーリーが浮かんでいた「Vivid Strike!」だったけれども、リンネ・ベルリネッタは高町ヴィヴィオを追い詰めながらも正確無比な攻撃と、そしてスイッチしたスタイルに追いつけないというミスを犯して連打を浴びて意識を狩られて敗北。前に同じ高町ヴィヴィオに敗れことを埋めようと、専属コーチのジル・ストーラがナカジマジムに申し込んだ対戦だったけれどもこれで思惑は敗れて個人としての面目は地に落ちたっていったところか。

 それ以上に気になるリンネ・ベルリネッタの心理状態。絶対の強さでもって上へと駆け上がってはチャンピオンのアインハルト・ストラトスを倒すことが目標だったのにそれも果たせず同じ選手に連敗。どっな打撃にも耐える肉体と、どんなガードもぶっとばす攻撃があっても届かない相手の実在に、もうこれ以上戦う意味はないって思っても不思議はない。ただそこはまだ中盤のストーリー、勝ち進んで試合に臨むフーカ・レヴェントンが自分の存在を改めて知らしめ、半ば挑発気味にリンネ・ベルリネッタをリングへと引き戻すことによって戦いは第2幕へと進んでいく、ってことになるのかな。予定調和には行かず挫折も交えて描く女の子2人の成長ストーリー。見ていて楽しい今季でもトップクラスの作品かも。

 こっちは先の読めないところがあって楽しい「Occultic;Nine −オカルティック・ナイン−」は主役級が軒並み死んでいることに気付いていったい何が起こっているのか感。街を歩いていろいろ触って人によっては話しかけられもするのに、気にされずぶつかっても気付かないといった存在にされてしまった。それは肉体から魂が分離して歩いているからなのか。だとしたら肉体っていったい何なのか。幽体みたいな存在になっていても食べるし飲むしなあ。あるいは死体もフェイクで誰もが存在に気付かないようにさせられているだけなのかもしれない。そんな想像。とりあえずムムーの眼鏡っ娘編集者もまだ出てくれるみたいだし、キャラを追いつつ展開を眺めていこう。吉祥寺がこれで霊地巡礼の場所になることはないよなあ、256人が浮かんだ池です、なんて紹介はしづらいものなあ。

 のんちゃんだのんちゃんだ、のんちゃんが間近に見られる会見があるってんで朝から原宿へと出向いてキディランド原宿店の前を眺めるとすでに長蛇の列。今日から取り扱いが始まるのんちゃんデザインによるキャラクター「黄色いワンピースのワルイちゃん」のグッズを求めつつのんちゃんとハイタッチが出来るイベントに出たいファンがいたもので、未だ衰えないその人気ぶりを改めて確認させられた感じ。ちょうどこの日は読売新聞が「編集手帳」、日本経済新聞が「春秋」とともに1面の下にある看板コラムでのんさんが主演声優を務めた「この世界の片隅に」を取り上げては褒め称えていた。舞台挨拶は黙殺だったたテレビもこうやって大ヒットしているアニメーション映画の主演声優を務めている人を無視は出来ない状況に、だんだんと来ている感じで発表会にもほとんど全部くらいのテレビ局がカメラを担いでやって来ていた。

 そんな場に現れたのんさんは「ワルイちゃん」というキャラクターそのままに黄色いワンピースとそして頭に「ジェニファ」って意思のあるアフロを乗せて登場。もう可愛いったらありゃしないしお茶目なことこの上ない。ぐいっと腕を張り足をふんばって見せつけるようなポーズもとったりして、世界に向けて自分とキャラクターをアピールしたい気がじんじんと感じられた。時にシャイであんまり喋らなさそうなイメージもあるけれど、そういう場においてそれが求められる役だと感じると体がそう動いてしまう性質なのかも。この格好をしたならこう振る舞えばよく見られる。ある種コスプレイヤー的な心理とも言えそう。その意味でやっぱり女優なんだろうなあ、のんさんは。

 そんなキャラクターたちをそれこそ付箋に落書きしながら思いついたというところはある種の才能。なおかつグッズ化に当たって全部が同じ版権絵って訳でなく、アイテムごとに会わせた絵にしていあるところが面白かった。Tシャツだとどこかにピクニックに出かけるキャラクターたちを描いて背中にリュックを背負わせ、そしてマグカップだと全員がカップを持って乾杯をしている絵になっていた。スマートフォンのケースでは「ワルイちゃん」がちゃんと「スマホ」を持っている絵。そういうところにいろいろ描きたいっていうクリエイター魂を感じる。ノートもノートっぽい利口そうなキャラクター替えがかれていたし。それをちゃんとデザインして発色も鮮やかなグッズにしてあるところが作った会社の腕か。ってドリームズ・カム・トゥルーなら当然か、タカラやタカラトミーアーツで社長やってた佐藤慶太さんの会社だから。

 能年玲奈、という名前からのん、となってどうかと聞かれてどうでもないとは言いつつそこに創作クリエイターという言葉を加えて“画数を多くする”ことにしたってあたりにお茶目さと同時に立ち位置へのこだわりってものも感じられる。逆境を順境に替えてしまおうというタクラミも。それが嫌味にならないのはこの間の苦労を誰もが感じているからで、尋ねるメディアもイジワルに走らず活動を讃える方向に働いていたのはいろいろと受けていたプレッシャーめいたものへの反発が、あるいはあったからなのか、それとも映画のヒットで増したバリューに相乗りしたいだけなのか、分からないけれどもいずれにしてもいっぱい来ていたテレビが今度こそは、ワイドショーでいっぱい流してくれると信じたい。ついでに「この世界の片隅に」の宣伝もされれば最高。いずれ「ワルイちゃん」もアニメ化されて主役を自身で声まで演じるなんてことがあったら良いな。監督は……それも楽しみ。

 気がついた時にはもう昼の部は売り切れていたけれど、午前に仕事もあったんで夜の部でかえって良かったし、席も購入しようとしたときに出てきたのが、3階の8列目だからそんなに後ろってこともない。神奈川県県民ホールの高い天井に跳ね返って降りてくる音が空間を渡って響いてくる音と混じり当てt聞こえる音響も悪くない位置で、あの名曲「三日月の舞」を生で聞けるなんてと思いチケットを確保。そしてのぞいて来た「北宇治高校吹奏楽部第1回定期演奏会」が楽しかった。まず「三日月の舞」。テレビアニメーション「響け!ユーフォニアム」の中で北宇治高校が県の予選で演奏し、そして第2期でも関西大会でまるっと演奏してのけたあの楽曲は、冒頭のファンファーレにも似た旋律が響いた瞬間にゾクッとする。

 それがくり返し出てくる中でだんと進んでいってそして、高坂麗奈による身にまとわりつくような情愛もこもったトランペットソロがあって、鎧塚先輩のオーボエによるソロもあってといった具合に奏でられる旋律が、目の前で洗足大学の学生さんたちによるフレッシュマン・ウィンド・アンサンブル2014の面々によって奏でられる。「劇場版 響け!ユーフォニアム 〜北宇治吹奏楽部へようこそ〜」のCMでジャンと鳴るあの最後の一音までもが耳に懐かしさを感じさせる楽曲。アニメーションから生まれた楽曲が早くも吹奏楽の“定番”みたいな感じになっているのは、それだけドラマとしてのアニメーションの中で北宇治高校の吹奏楽部が熱心に取り組み、厳しい練習をくぐり抜けて晴れ舞台で演奏し、見事にダメじゃない金を取ってのけた物語を、その楽曲に乗せて感じてしまっているからなんだろう。

 現実の高校の吹奏楽部でこの楽曲が、どんな受け止め方をされているか分からないし、もしかしたら学校はそうでも権威に面倒な団体なりの方でアニソン扱いされているかもしれないけれど、僕の中ではもうど定番、これが鳴るなら高校の定期演奏会でも聴きに行きたいって思えてくる。もちろん「北宇治高校吹奏楽部第1回定期演奏会」はその「三日月の舞」だけじゃなくってテレビアニメーションの第1期のオープニングに使われていた「DREAM SOLISTER」のブラスバージョンがあり瀧先生が来る前の北宇治高校が演奏していた「暴れん坊将軍のテーマ」や「海兵隊」のへたくそバージョンがあって、それが瀧先生ならぬ大和田雅洋さんの指揮のものでちゃんとした演奏になる“変化”も聞かせてくれて、なるほどこれは瀧先生が「何ですかこれは」というのも分かると思ったというか。下手に演奏する大変さも感じられたというか。それを番組として使うために要求したランティスも偉いなあというか。いろいろな人の苦労があって出来ている音楽であり番組なんだと改めて感じた次第。

 ほかにもTRUEだんが登場してブラスバンドをバックに「DREAM SOLISTER」を歌ったり第2期のオープニング「サウンドスケープ」をやっぱりブラスバンドをバックで歌ってくれたりと歌物的にも楽しめたコンサート。ブラスバンドとしては「美中の美」があり「フニクリ・フニクラ」があり「RYDEEN」もあってとどブラスにナポリ民謡にテクノのブラスアレンジが聞けて高校のブラスバンド部っぽさを感じた。やっているのは大学生のブラスバンドチームだけれど。ユーフォニアムとトランペットのアンサンブルとかもあってそこは黄前ちゃんと麗奈とのカップリングを思ったけれども眼をあけると演奏しているのは……それはバンド全体にも言えることでユーフォニアムのリーダーは田中あすか先輩ではないけれど、実際に作中で演奏しているのはこの洗足大学のフレッシュマン・ウィンド・アンサンブル2014の方々な訳で、目をつぶればそこにあすか先輩がいて黄前ちゃんがいて麗奈もいてとキャラクターたちが浮かんでくる。浮かばせる。

 そんなアニメファン的な楽しみ方も出来るけれど、普通にブラスバンドの定期演奏会として聴きに行っても楽しめたコンサート。プロじゃないからとてつもなく巧いって訳ではたぶんなく、ソロとかでもちょいミスったような感じもあったけれど、それも含めて初々しさも感じられるし、聞き込んでいけばアニメーションと同様の成長も感じられる。次ももしあるならやっぱり行って全国を経験、といってもアニメの中での話しだけれど、それがどんな成長をもたらしているかを聴きに行こう。あるかなあ、北宇治高校吹奏楽部第2回定期演奏会。白鳥センチュリーホールであったら楽しいなあ。


【11月19日】 やっとオルミーヌが役に立った「DRIFTERS」は、攻めてきた黒王配下の廃棄物、ジャンヌ・ダルクに挑みかかった島津豊久が、焼かれそうになったところをオルミーヌの術によって土壁で守られとりあえず無事。そしてその技を守りではなく攻めに使う策でもってジャンヌ・ダルクに吶喊しては抱きしめ水にたたき落とす。触って分かったその感触。っていやいや触って感じられるくらいの大きさがあるんだろうか。そこが気になるけれども豊久にはきっと分かったんだろう、ついてなかったこととか或いは。そこで捨て置いたのが後に響いて恨みを買われてつきまとわれるけど、それで破れる豊久でもなし。いずれ因縁が何かに転じることもあるのかな。

 多分そうなるだろうと予想して、キャラメル配布があると知った瞬間に予約した席のチケットを前の日のうちに発券して、そして朝から出かけて会場前に並んだテアトル新宿で、だいたい4番目くらいに入ってそしてシアターの入り口には発券スルーでたどり着いてキャラメルを確保。すずさんが窓辺で空を見上げつつキャラメルを掴んでいる姿が裏に大きく描かれ、まだ幸せだった昭和10年頃の風景って奴を感じさせてくれる。あの頃はまだサンタクロースがサンドイッチマンをやってショーウィンドーにも飾り付けが成されていたんだなあ。それがだんだんと……。それが分かるから「この世界の片隅に」って映画は凄くて怖い。

 空襲すら飽きさせるくらいに非日常が日常にとけ込んでしまっているけれど、ふっと振り返ればそこには死屍累々。すずさんは晴美ちゃんを連れて遭遇した空襲の日、出かけた呉の駅前を歌いながら行進していった女子挺身隊の子たちはいったい、その後の空襲でどうなってしまんだろうという想像が浮かんで、目の前で失われてしまった命以上にもっと多くの失われた命があったことも感じられてグッとくる。それはアニメーションとして絵に描かれたものでも、実際にいただろう調査の元に描かれたそれらの人々は、運命もだからそのまま、そんな地続き感が悔しさと悲しさを誘う。

 運命の昭和20年8月6日が過ぎてやがて、冬も近づいた頃に尋ねた草津のお婆ちゃんの家で寝ているすずさんの妹の手に浮かんでいるのは紫斑で、それは8月6日のあとに広島に入った人たちに現れているものでもある。そしてその後どうなったかは歴史の多くに刻まれている。もちろん長い人生を真っ当した人もいるだろうけれど、そうでない人もいたことはすずさんの父親が示してる。よしんば生き延びたとしても酷い苦労をしたことが、こちらはもっとくっきりと広島での被爆を描いた「夕凪の街 桜の国」に描かれている。それと同じ運命をすずさんんの妹も辿ったと思うとこれも心にグッと来る。

 そんな各所に散りばめられている諸々が、決して声高に何かを叫んでいるのではないし、悲壮な音楽で煽っている訳でもないのに、グッと心を動かして仕方が無い「この世界の片隅に」。分からない人ももちろんいるかもしれないけれど、今という時代にネットで、SNSで流れ来る声が過去にいったい何があったかを感じさせ、そこから自分で感じ取るアクションを始めることで、あの時代のあの大変さがより身近なものとして感じられるようになる。体に染みこんで来る。フィクションやエンターテインメントやワイドショーの泣かせ振るわせ煽り誘うような演出の嘘くささに気付いてしまった現代にこそ、考えさせ分からせることが必要。そのための良い訓練になる映画なのかもしれないなあ。

 書いている人の季が違っているのはいつものとことだから仕方が無いけれど、昨日あった日本の安倍晋三総理大臣が未だ民間人に過ぎないドナルド・トランプを自宅まで尋ねていったことに、自称するところの全国紙の1面コラムで触れ、鳥越俊太郎さんの発言を取り上げつつ「『駆け付けて会うのは、植民地の代表が【よく当選しましたね】って行くようなもの』と意味不明の批判を展開していた」って書いてしまうのは、自分に想像力の欠片もないってことを暴露しているようだからちょっと止めて欲しいもの。同じくらいにポン酢だと思われてしまう。普通は誰だってまずそう思う。でも将来を見越して敢えて会いに行くのが柔軟性だとかいって擁護するならまだしも「意味不明」って言うんだから、語彙に乏しく思慮に足りない。でもそんな乱暴な口調が受けてしまえる場所にいるんだろう。狭いけれども熱い。そしてそのまま浮き上がって行くという。参ったなあ。

 ああ、面白かったよ「宣弘社テレビコンサート2016」。特撮ショーみたいなチープなものかもって思いもあったけれどもステージに現れたのはブラスにギターにキーボードにパーカッションがそろったバンドでそして、繰り出される楽曲は懐かしの「月光仮面」に始まって「豹の眼」「隠密剣士」「遊星王子」と一部は耳にし、一部は名を知る作品の主題歌や挿入歌。それらが歌唱も含めて抜群の再現度で繰り出される上に、ピタリと字幕にマッチして映像も繰り出されてああこんなオープニングだった、そしてこんなシーンがあったこんな役者が出ていたといった記憶を刺激される。もちろん本放送なんて観ていないけれど、僕が子供の頃には一部はまだ再放送があった。そんな記憶がやがてだんだんと濃いものになっていく。

 「光速エスパー」。あったなあ。飛んだなあ。イーエスパーと言えば僕にだって飛べると思っていた時代があった。今も飛べると信じてる。そして『レッドバロン』。熱心に観ていた訳じゃないけどあの形はよく覚えている。上映された映像を見るとそうか結構格闘してたんだ。そして主題歌格好良かった。「シルバー仮面」と「アイアンキング」はリアルタムもリアルタムな作品。とはえいテレビあんまり見せてくれなかったから毎週熱中していたってことはなく断片的に覚えていて、そして「ミラーマン」の記憶なんかも雑じりつつあの時代の特撮ヒーロー番組の多様さって奴を今さらながらに思い知る。「快傑ライオン丸」やら「変身忍者嵐」といった時代物もあった。もちろん王道「仮面ライダー」も。

 そんな等身大ヒーローの一方で「ウルトラマン」のシリーズがあり「サンダーマスク」なんてものもあったあの時代の豊穣が、僕たちのSF魂特撮魂って奴を育んだとするならば、今のライダーとスーパー戦隊と一部ウルトラしかない時代って将来にどんな影響を残すんだろう。そんな気がちょっとする。同じ者の再生産ばかりになりかねないっていうか、すでになっているというか。それを思うとあたらしいものに果敢に挑んで時代を作りつつ他の番組も広告代理店として育てた小林利雄さんは本当に名プロデューサーだったんだなあ。何しろ「ウルトラマン」も「サザエさん」も「柔道一直線」も宣弘社が広告代理店として番組に関わっていたんだ。そういった仕事への目配りもあって改めて、宣弘社と小林利雄さんについて感謝が浮かんだコンサートだった。

 ゲストも豪華だった。まずは我らが月光仮面、は「?」なので祝十郎を演じた大瀬康一さん。友だちに誘われオーディションに行って残ったて得た役だけれど、いきなり霊園の塀から飛び降りて足の裏を骨折したとか。苛酷な撮影。でもそれで続いてしまうところが昭和のテレビのおおらかさって奴か。そして高倉英二さん。宣弘社の作品で殺陣というか擬斗という役割を担っていたんだけれど、最初は学生としてアルバイトに行ったらそのまま忍者やれあれやれと言われて入っていったとか。古武道をやっていたから対応できたけれど、そこで引き込まれなかったら宣弘社のあのアクションは違ったものになったかもしれない。

 そして高倉さんの弟子の加藤寿さん、今は加藤大樹さんが「シルバー仮面」に入ることもなく「レッドバロン」に出ることもなかった。高倉さんがアクションを総指揮した「西部警察」だってあれほどの大人気にならなかったかも。その意味で宣弘社と小林利雄さんはテレビという場所、テレビドラマというカテゴリーの源流を作りもり立てた人ってことになるのかもしれない。そんな高倉さんが振りをつけて加藤さんがその場でアクションをみせてくれて、ショッカーO野さんも絡んだ場面とかさすがにその道で食べていた人だけのことはある。1度2度の当て振りを覚えてスピーディーに演じて見せた。ショッカーO野さんも大きくアクション。やっぱり求められればやっちゃうよね。喜んで。そんな気にさせられる空気が漂っていた。

 それはつまり宣弘社ってところが生み出してきた作品への愛情であり敬意があってのもの。その意味でも素晴らしい仕事をしたって言えるんだろう。今、これほどまでにバラエティに富んだ企画を立ててはテレビという場で形にしてしまえるプロダクションがるだろうか。あるいはそういう企画を流せる雰囲気にテレビがあるだろうか。視聴習慣が変わったと言えばそれまでだけれど、でもアニメーションはあの時代よりますます隆盛になっているならテレビドラマ、特撮アクションだってもっと残っていて良いのにそうはならない。ああ「GARO」ががんばっているか、でもそれくらい。何でだろう。そこをちょっと考えて観たくなった。

 「コードナンバー108 7人のリブ」とかお色気もあってアクションもある女性ばかりのドラマとか、実は見たのは初めてだけれどこれはなかなか面白そう。DVD買っちゃおうかなあ。そういった発見があり、懐かしさをくすぐられもしたコンサートは3時間近くあっても飽きずに楽しめた。音楽は最高で歌声もなかなか。あの時代のテレビドラマの雰囲気って奴を感じさせてくれた。本当に面白かった。またあったら行きたいし、またあったなら行った方が良い。そう断言する。ところでおぼん師匠、なんで雑じってトロンボーン吹いてたん? いやそうか巧い人だったのか。それも発見だった。


【11月18日】 これから中国の国家主席になるという人が、日本の天皇陛下に会いたいと言って日本にやって来るのは、スケジュール調整とか面倒だけれどそれだけ立場を重んじられているようで日本の立場としてはそんなに悪いものではない。でもこれから大統領になるという人に、日本の総理大臣がわざわざアメリカまで行って会うのはやっぱり世界的に、あるいはアメリカ国民的に日本が下に見られるようでちょっと釈然としない。なるほど数カ月後には世界を率いる立場になることは分かっている。それを見越して関係を繋いでおきたいというのも分かるけれど、一国の総理が未だ立場の定まっていない人間を、その自宅まで尋ねるのって外交儀礼的にありなのか。ないだろう。だから外交にせず単なる通りすがりの立ち寄りにした。

 それで外交としての対面は保てたかもしれないけれど、でも国として、その代表が現時点ではただの民間人の自宅を訪ねたという事実、その民間人が世間的には差別を助長し世界平和に挑むような雰囲気を纏っているとう状況を世界はやっぱり私的な歓談とは見なさないだろう。それもまた外交。そういうことを分かっていれば、今はまだメッセージを贈るに留めて水面下での接触を図るのが筋なんだけれど、自分が何かすればそれは称賛されるものと信じ切っている総理大臣と、そう信じさせている取り巻きのメディアが日本という価値を平気でぶっ壊すようなことをやり、それを批判しない。これこそ反日だろうに。でも言わない。何て不思議な世の中。やれやれだ。

 VOLUME3の日本語吹き替え版上映も近い「RWBY」のVOLUME4が配信され始めていたんでYouTubeからChapter3までを見る。とりあえずオープニングが格好いい。これまでのハードロックとはちょっと違ってメロディアスなロックといった感じだけれど、それがかえってドラマティックな雰囲気を醸し出して悲劇からの再生を描くストーリーを盛り上げる。そんな気がする。個人的には今年のアニメソングでも屈指の出来。同じくらいに屈指なのが「この世界の片隅に」のエンディングになっている「たんぽぽ」か。「君の名は。」のRADWIMPSも嫌いじゃないけど「なんでもないや」は上白石萌音さんのが絶対に良いからなあ、あれはカバーであってアニソンじゃないからちょっと脇へ。

 「君の名は。」と言えばサウンドトラックアルバムが何かと話題の日本レコード大賞の特別賞に入っていたようで、共にこの夏の映画シーンを盛り上げた「シン・ゴジラ」のサウンドトラックと並んでの受賞となった感じ。サウンドトラックの出来でいうなら「映画 聲の形」の方がよっぽど凄くて張り詰めたような響きやら透明感のある響きといったさまざまな意図がそこに込められたサウンドを聴かせてくれて、今後100年残るサウンドトラックだと思っているけれど、映画のヒット具合ではやっぱり「君の名は。」と「シン・ゴジラ」にはかなわなかった感じ。あるいはまるで気に留められていない可能性も。それは「この世界の片隅に」のコトリンゴさんによるサウンドトラックも一緒かなあ。発売時期的に来年回しってこともあるのかなあ。

 もとい「RWBY VOLUME4」はワイス・シュニーもブレイク・ベラドンナもヤン・シャオロンも置いて次に狙われる学園都市へと向かったルビーとジョーン・アークにノーラ・ヴァルキリーにライ・レンが旅する途中で盗賊に襲われた街に来て、世界が混乱にあることを見せつけられる。そんな最中でもピュラ・ニコスが残したアドバイスを再生しながら鍛錬を欠かさないショーン・アーク。なるほどだんだんと強くなっている。オーラもいずれ爆発する時が来るのかも。一方でワイス・シュニーは父親に囲われながらもいずれ逃げ出す算段をするのかな。弟が出てきて執事も出てきて味方っぽい。敵は父親ひとりか。

 ブレイク・ベラドンナは船に乗っているけどそこに襲いかかってきた海棲型のグリム。戦うけれども大変そうなところに現れたサン・ウーコンの助けも借りつつ船のカノン報がグリムを撃退。そんな中からだんだんと再生を遂げていくんだろう。でも敵はなかなか強大そう。井上喜久子17歳ですおいおいさんが声を担当しているセイラムが、ルビーのフラッシュを浴びたかして声を出せなくなったシンダー・フォールを問い詰めつつもやっぱりまだオズピン学長の行方に執心な様子。というかそもそも何者なんだおるセイラム。本編の語り手であることも「VOLUME3」で明らかになって彼女を中心に回る世界は決して平穏ではない。そんな悪を覆してルビーたち然が勝利を掴む道筋が、未だ見えないだけにそれが先への興味をそそる。どんな戦いが待っているのか。ニオポリタンはまた出るのか。期待しながらアップされていくのを見守ろう。

 「ワイルド7」じゃないけれど、悪党を持って悪党を狩らせるという設定で重要なのは、狩りに回る悪党がより過激な悪党となって牙をむいてこないようにすることで、「ワイルド7」なら刑務所に逆戻りさせるとかいった設定で縛ってはいるし、もともとが義侠心を持った奴らだから堅気には手を出さず、本当に非道な悪党相手にその権力と武力を振るっていた。そういう設定以外だったら例えば首に爆弾が仕込まれた輪っかがかけられていて、逆らえば爆発するとかいったものもあるかもしれないけれど、そういう場合は犬となって働かさられるおんを嫌気して、抜け道を探って権力にやっぱり牙をむくような展開になる。

 吉村夜さんによる「デモンズパーティー」(ノベルゼロ、750円)もやっぱり悪党たちが悪党たちを狩るという展開だけれど、ひとつ巧妙な仕掛けがあって異能を持った悪党たちが暴走をして悪党だけでなく堅気を殺戮するようなことにはならない。ナノマシンの発達によって人が異能の力を持てるようになった時代、そして警察官たちが汚職にまみれて悪党たちと結託をして悪党に成り下がっている時代、ヤクザや金で罪を免れた犯罪者や悪徳警官たちを狩る奴らが現れた。それがグレーターデーモン。異常なまでに運動新家が良く、また特殊な技能も持った奴らが街に現れは、競うように悪党たちを惨殺し、さらって拷問して命を奪う。

 悪党でも人間なら法の裁きを受けさせるのが人倫といったものだけれど、グレーターデーモンたちは殺戮をそれこそ楽しむようにして上げた首の数を競い合っている。それでお金ももらえるというからいったい誰が背後にいるのか。そこもひとつの謎だけれど、向かう対象が徹底して悪党というところがひとつのポイント。理由については呼んでのお楽しみとして、事情をまだ知らないこれは汚職にまみれた警察を逆に取り締まる意味も込めて作られたあたらしい警察組織に所属する女性警官が、グレーターデーモンたちの集会に紛れ込み、その活動を目の当たりにしていくとうのが主なストーリー。そこではニンジャにピエロにパンプキンといった不思議な風体の奴らが異能を発揮し悪党たちを惨殺してく。

 女警官は驚くけれども、一方で魅力も感じてしまう。かつて姉が強姦されて殺害されて、犯人も捕まったものの証言に立つはずだった証人が暗殺され、証言を得られないまま無罪放免となった経験を持っていた。だから逃げる悪党を恨んでいた。自分の手で……とは言いつつ官憲としてそれは出来ないジレンマの中で出会った,悪党だけれど悪党だけを狩るグレーターデーモンたち。そしてたどり着いた場所で彼女は自分自身の道を選ぶことになる。そうやって生まれた集団が、誰かの思惑を越えて日本をどう替えていくのか。悪党たちを刈り尽くした果てにはけ口を求める、なんて可能性も浮かんだけれどそう簡単に消えてなくならないのが悪党たち。挑み続ける戦いは続くだろう。次も期待。


【11月17日】 何が何やら。あの楽天がスペインのリーガエスパニョーラに属するサッカーチーム、というよりは世界のサッカーファンが憧れるFCバルセロナの胸スポンサーになったとか。しばらく前までスポンサーをつけず入れてもユニセフといった公的機関に止まっていたのが、嵩んだ借金を返すためかスポンサー名を入れ始めてカタール航空なんかが名を胸にスポンサー名を出していた。なるほどオイルマネーならどんな名前だって入れられそうだし、中華マネーやらタイマネーなんかも入って不思議はなかった。それが楽天。日本でそれなりに名は知られていても、超絶ビッグとは言えないネット通販の会社がスポンサーになってしまった。どういうことだ。

 IT企業だけあってお金はあるんだろうけれど、それでも4年で257億円は半端ない。本当に払い続けられるんだろうかといった思いがまず浮かぶし、それだったら手持ちのヴィッセル神戸に1年分の64億円でも注ぎ込んで、J1でも屈指の強豪チームに育て上げる方が先なんじゃないか、って気すらする。なるほどバルサにスポンサードすればそれで世界的な知名度が高まって商売も広がり、お金も稼げてヴィッセルに向かう金にも余裕ができるといった味方もある。あるけれども楽天の名前が海外で広がったところでどれだけの商売に結びつく? 世界に出たものの相次ぐ撤退に事業の見直しなんかが言われていたんじゃなかったっけ。

 それは知名度のあるなしってよりもやっぱりサービス面の問題で、それがバルサのスポンサーになったからといってどれだけ改善するかは分からない。知名度さえあればといった考え方で世界で勝てるならバンダイだってとっくに世界一の玩具メーカーになっているだろう。同じリーガのアトレチコ・マドリードをスポンサードしていたんだよ、1990年代半ばにバンダイは。でも撤退した。日本での事業がヤバくなってお金が途切れれば撤退せざるを得ないのは楽天だって同じ事。そんな厳しい状況で4年も先のことを決めてお金をつぎ込んで大丈夫か? って思わないでもない。撤退すれば悪評になって跳ね返ってくるからなあ。ともあれ決まってしまったなら仕方が無い。どんな戦略があるのか。そして結果は。見守っていこう。応援はしないけど。苦手なんだよバルサ。

 3時間と聞いてちょっと臆したけれど、見始めたらもう面白くって止まらなくって知らず3時間が経っていた。速すぎるってことはなく、むしろ中身はギッシリでな、おかつ重たいところもあって見ている間はもうドップリと作品世界に入り込んでいる。そして見終わった時にグッと心に押し寄せるものがある。その意味では十分すぎる長さがある。それでいて長すぎるとは思えないところに3時間という長さに込められたアクションとドラマと設定と展開の最良にして不可欠のバランスがあるんだろう。「RWBY VOLUME3<日本語吹替版>」。面白い。最高に面白い。

 いよいよ始まったヴァイタル・フェスティバルのトーナメントでビーコン・アカデミーからもチームが出場して、くじ引きによって海だとか山だとか森だとかにフィールドが変化する競技場で他からも集まったチームとバトルを繰り広げる。トーナメントの最初は4人が全員出そろう試合でチームRWBYもそれぞれがそれぞれの特長を生かした戦いを繰り広げるし、チームJNPRも強いと広く知られたピュラ・ニコスに限らずノーラ・ヴァルキリーもラン・レインも力と技を生かして敵を相手にしてそれをジョン・アークがまとめると行った具合。「RWBY VOLUME1」では不正入学したへたれだったのがちゃんと自分の居場所を見つけて能力を発揮している。そんな成長が感じられる。

 他のチームも例えばチームCFVYとかサングラスにベレー帽のココ・アデルが手にしたガトリング砲をぶっぱなし、ヤツハシ・ダイチもパワーを見せてくれるけれどもそこに不思議な現象が。それが後に大きな意味を持って今度はチームRWBYに絡んでくるんだけれどそれはちょっとだけ先の話。ともあれさまざまなチームが出てきて繰り広げるバトルの面白さに、例えば「ドラゴンボール」の天下一武闘会とか「幽遊白書」の魔界統一トーナメントのように誰が出てきてどんな技を見せてくれるかってなゾクゾクを、その場で立て続けに味わえる。これで飽きろって方が難しい。

 「RWBY VOLUME1」で空飛ぶグリムを相手にした圧巻の集団戦を描き、「VOLUME2」でも食堂が舞台となってスイカやカジキを繰り出すバトルのチーム戦からさらに列車での敵を相手にした戦い、そして現れるグリムが相手の戦いでは個性を生かした個人戦を描いてバトルシーンの魅力を存分に見せつけたモンティ・オウムはもうおらず、心配されたアクションだけれど、トーナメントでの個々の戦いはそれぞれに迫力があり個性もあって見ていて楽しく、驚きもあった。それは後半以降の強敵を相手にしたバトルでも、不安定な飛行船の上でのバトルでも同様に戦う者たちの個性を生かしつつ技の連続をしっかり持たせつつ手に汗を握って見続けられるように作られていた。

 もちろんモンティ・オウムが存命だったらといった思いも浮かばないでもないけれど、もういない彼の才能に幻影を見るより、受けついだ者たちが考えに考え抜いたバトルの演出をここはじっくりと見てあげるのが、逝ったモンティ・オウムへの手向けにもなるだろう。何よりそうした不在を惜しみつつも縋らずにすむバトルシーンがちゃんと登場する。だから心配しないで良い。そんなバトルで瞠目するとしたら、髪が半分顔にかかった謎めく女、シンダーが繰り出す幾つものバトルだろうか。例えば「RWBY VOLUME3」から登場するアンバーと呼ばれる女性との戦いだろうでは、エメラルドという名のボブカットの少女が繰り出す力を背後に得つつある事情から最強であるはずのアンバーを相手に戦い抜く。

 そしてアンバーという女性の役割に絡んだエピソードが繰り広げられた先、より強さを増してあのオズピン学長を相手に見せる戦い、さらにはピュラ・ニコスを相手にした塔屋上での戦いのどれもが圧倒的。その場においてはラスボスとも言える存在感を見せてくれる。もっとも、そうではなかったことが分かるクライマックスを経て、現在配信が始まっている「RWBY VOLUME4」では謎めく一団が登場して世界は大混乱に陥っている。いったいどれほどの強さなんだろう。そんな相手に「RWBY VOLUME3」で自信を失ったヤン・シャオロン、悔恨に沈んだブレイク・ベラドンナ、半ば身を引いたワイス・シュニーではかないそうもない。どうしてそんな常態に陥ったのかはだから「RWBY VOLUME3」を見れば分かるけれど、達成感をもたらすフィナーレではく絶望へとたたき落とすカオスがそこにあることだけは言っておこう。

 圧倒的なバトルもあるけれど、それ以上に絶望があって悔恨があって慚愧があって逡巡がある「RWBY VOLUME3」。安定していたはずの世界をひっくり返すような謀略が繰り広げられ、オズピンやアイアンウッド将軍やルビーの叔父にあたるクロウらが苦闘している一方で、学生に過ぎない年若いルビー・ローズやワイス・シュニーやブレイク・ベラドンナやヤン・シャオロンや同じ学校や他の学校の学生たちも世界を2分するような戦いの渦中に叩き込まれる。とりわけピュラ・ニコスは世界を救う戦いが課せられ、そしてルビー・ローズには世界を救う運命が課せられる。それはとてつもなく苛酷な運命で、なおかつ苛烈な人生をピュラ・ニコスにもたらす。慟哭の。悲嘆の。

 物語は終わらない。もしかしたら始まってさえいないかもしれない。そしてルビーたちが立っている場所もクライマックスからほど遠い、それこそ谷間の底へとたたき落とされたに等しい。「スター・ウォーズ」で言うなら「帝国の逆襲」で、ここからいったいどんな未来が掴めるのか、そう思わされるけれども、少しだけ見えた可能性を掴むためにルビー・ローズは自分をしっかりと取り戻し、足を踏み出した。それはまだ小さくて、そしてささやかな一歩だけれど、そこからきっと、いや絶対に奪還と開放のドラマが生まれるはずだ。もしかしたら再会も? それは分からないけれどもともかく、動き始めた「RWBY VOLUME4」へと続く道を今一度、見つめ直すためにも「RWBY VOLUME3<日本語吹替版>」は必見。盛りだくさんの3時間に浸って後、来たる本当の戦いへと向かう覚悟を固めよう。

 もはや人として存在して良いのかってレベルになって来ている感がある、自称するところの全国紙に属する総理大臣の覚えめでたい編集委員兼論説委員氏。例の沖縄県で起こった警察官が地元の人を「土人」呼ばわりした問題を、ネットだけでなく紙面の上でも記事として取り上げて、辞書を引いたら差別的な意味なんてないからそれは差別じゃないってうそぶいている。何というポン酢っぷり。紙の上にただ書かれた文字ではなく、人が何かの思いをそこに乗せ、そして状況にあわせて発せられた言葉を捉えて辞書の意味と照らし合わせることに一体どんな意味がある?

 シチュエーションとして侮蔑を乗せようとしていた場面、そこで発せられた言葉を差別と認められないんだとしたら、それは感性の方に大きな問題がある。あるいは欠陥がある。いやいや、やっぱりそういう意味はないんだからと言いつのることもありそうだけれど、ずっと後の方で警察官に対して地元の人からの挑発めいたものがあったといった話を又聞きのそのまた又聞きみたいな形で添えている。おいおい、そうやって挑発されて怒り心頭で発した言葉なら確実に侮蔑なり罵倒の感情があるじゃないか、それを辞書にあるように古来から暮らす人間を現す言葉だって言ったら大いに矛盾。でもそんな矛盾なんて気にしないで記事を書けてしまう。

 そこには物書きとしての致命的ともいえる問題があるんだけれど、真っ当な会社ならそれで退場願えるところを、言いたいことを言ってくれるなら矛盾があろうと虚偽にまみれていようと書かせ載せてしまうのがその媒体。結果として裁判を起こされ負けても排除されずに今なおこうして無茶な記事を書いている。何しろ最後に「真偽は確かめられないので『断定できない』が、ありそうな話ではある」だなんて書いて、ジャーナリズムで最も大切な真実の追究、ファクトチェックすらすっ飛ばして結論を誘導しようとして平気なんだから、問題があるどころの話じゃない。そりゃあ裁判にだって負ける訳だけれど、そんな傍目には大問題なことを平気で書いてしまえるんだから、もはやどこかが大きくズレている。そして載せてしまえる媒体も何かがハズれている。いよいよもってヤバいなあ。やれやれだなあ。


【11月16日】 1日よりはちょっとだけ長いけれども2時間半だけでは誤差の範囲。つまりはまる1日でサービス開始からサービス終了までを駆け抜けたゲームがあっていったい何があったんだと世間を騒がせている模様。「カオスサーガ」という名のそのゲームだけれど、噂では何でも超巨大メーカーの超ビッグタイトルにキャラクターが酷似していたらしい。そんなことくらい開発中に分からないのかとも思うけれど、誰もが全てのゲームをプレーしているゲーマーでもない時代、家庭用ゲーム機はもちろんPCですらオンラインゲームを遊ばずスマホのアプリだけで育ってきた人が増えてくると、過去の遺産とか知らず雰囲気だけで通してしまうこともありのかも。しかしどーするんだろう、開発に携わった会社とかあるんだろうけど、大変だろうなあ後始末。

 服を着ている時に胸元からはみ出んばかりにのぞく谷間にはグッと来るのに水着になって見せつけられる谷間にはあんまりピンと来ないのは、秘されているからこその輝きってものがあるって証明なんだろうなあと、「装神少女まとい」に登場するルシエラさんの立派な谷間を拝みながら考える。そして主人公、皇まといの母親がかつて修行していたという神社のそばにある海水浴場でひとしきり楽しんだあと、立ち寄った神社で出会った巫女さんがどうやらまといの母親と知り合いで、父親のことも昔から知っていた様子。なおかつ纏創も可能な退魔師だった。母親とはどういう関係が。そして今の母親の行き先は、ってあたりがいよいよ明らかにされるのか。本格的な敵の侵攻もない中盤のそんな過去探しを経て、いよいよバトルへと突入していくのかな。見続けよう。

 人見絹枝さんと古橋廣之進さんとバロン西とサッカーのベルリンの奇跡とそれから前畑がんばれは語られるんだろうなあ、NHKによる大河ドラマでのオリンピックの歴史物語。そんなものNHKスペシャルが土曜ドラマの枠でもって作って流せば良いじゃん、大河ドラマはもっとパーソナルな偉人の生涯を見たいんだよって思わないでもないけれど、戦国と幕末のくり返しめいて目新しさも乏しくなっているだけに、新機軸としてそうした人ではなく事にスポットを当てて歴史を紡ぐってのもひとつの方法なのかもしれない。とりあえず1964年の東京オリンピックまでなんで1968年のメキシコ五輪におけるサッカー日本代表による銅メダルは入らないか。へーシンクに負けた神永昭夫さんは出るだろうなあ、あと円谷幸吉さん。東京オリンピックからしばらく後の事ってやるのかな。

 時速108キロだって。そんな特急燕号よりも速く飛ぶドローンが登場したとあっては世の中の逃げる泥棒も監視の目からは逃れられないと思った方が良いかもしれない。INTER BEEって映像関連の展示会が始まっていたのと関連して、幕張メッセで開かれたDJIの発表会をのぞいたら「INSPIRE2」っていうどちらかといえば業務用のドローンの新型が発表されて、その飛ぶ速さが凄まじかった。プロのカメラマンとしてドローンを飛ばしている人も、そこまでの速度は必要としてないって話していたくらい、どう扱うか考えさせられるくらいの画期的進歩。ドローンなんだからこんな感じに飛ばして撮ればいいんじゃないか的発想すら覆していきそう。

 それはどうやらカメラにも言えるみたいで、マクロフォーサーズのサイズでF2.8のカメラが搭載できるとか。周辺までくっきりと写せて被写界深度も浅くできるカメラをドローンに積んで、今までのようにい場所から全体を俯瞰するパンフォーカスの映像を撮っても意味がないしカメラがもったいない。それなら限定された範囲を飛ばして間近にある何かをクローズアップでとらえつつ、周辺をボカしてのけるような映像を撮ってみせることも可能なのかも。それをどういう具合に操作するのか、ドローンを扱ってないから分からないけれど、設定しておいた線に沿って飛ばせる機能もあるなら、計算しつくされた動きを計算し尽くしたドローンでとらえつつ据え置きのカメラでも、ハンディのカメラでも撮れない映像ってのを撮ってのけることも可能かも。それはどんな映像で、いったい何の映像か。誰が撮るのか。ちょっと楽しみ。

 幕張メッセから新宿へと回ってサイボウズがおそらくは立ちあげたベストチーム・オブ・ザ・イヤー2016の授賞式へ。去年は日本橋で開かれたけれど今年はバスタ新宿の横に立つビルの中程にあるルミネ・ゼロってスペースで、結構な広さのホールになっていたけど普段は何に使われているんだろう。ベルサールみたいにカンファレンスとかに貸し出しているんだろうか、場所は至便なだけに使い勝手はあるんだろうなあ。さても今年のベストチーム・オブ・ザ・イヤー2016の最優秀賞は「ポケモンGO」のチームに。ナイアンティックの開発チームに限らずポケモンもゲームフリークも含めた全体が、力を合わせてひとつのことに向かって邁進した結果のあの大ヒット。優秀賞にはこれも大ヒットの「君の名は。」チームもいたけれど、相手が世界的規模ではちょっと太刀打ちできないか。しゃあなしだ。

 面白かったのはそんな「ポケモンGO」と作った野村達雄さんって人がまだ30歳で、おまけにゲームを今まで作ったことがないって話だったこと。そんな人によく任せたなあと思ったけれど、そこは石原恒和さんが野村さんなら良いと推したとか。チームの上に立つトップの炯眼ってのもチームワークに負けず大切ってことで。ただそんな野村さんは子供の頃から「ポケットモンスター」があった世代で、ずっと遊んでいて大好きだったという気持ち、それを仲間たちとも共有しながら作っていたからこそ、誰もが喜ぶポケモンのゲームになったのかもしれない。石原さんたち作ってきた世代より、遊んできた世代の方が楽しさも億倍、知ってるだろうし。ただアニメ好きでアニメだけ見て来た世代が作るアニメがどうかって問題もあるだけに、その当たりの塩梅がどうだったかは知りたい。遊んではいても作っては居なかった感性が、ありきたりに堕さず面白さを詰め込んだものにしたのかも。

 優秀賞で興味をそそられたのが「COGY」っていう車イスのプロジェクトチーム。なぜか前にペダルがついていて、回すと車イスが進むんだけれどそもそも車イスを使う人って足が使えないから車イスな訳で、いったいペダルは何のためについているのかと思ったら、それを回すことによってリハビリにつながるんだとか。下半身が麻痺してしまっている人が、ペダルに足をかけて腰と使って回し始めると、反対側の足も動き初めてそれが脳に足が動くってことを伝え、そしてだんだんと足が歩くことを思い出していく、あるいは知っていくらしい。そうやって歩けるようになった人もいるんだとか。不思議な人間の肉体。そういえば夕べ、テレビで紹介されてた下半身にはめるロボットも、筋電で義足めいたものを動かして歩いているうちに、脳が足を動かすことを思い出し、義足めいたものを外しても歩けるようになるんだとか。諦めないで済む時代。あとはそれが存在することを知ってもらうのが大事ってこと。優秀賞でも受賞したことは励みになるだろうなあ。ちょっと追っていこう、その動き。


【11月15日】 たとえ国民的な人気女優でも声優で主演したからテレビとかが取り上げなかったんだとヌかしているネットメディアがあって辟易。そんなテレビはプログラムピクチャー的なアニメーションにタレントなりスポーツ選手なりがゲスト声優を務めたら、総掛かりで取材に行ってアフレコ現場を押さえつつ囲み取材をして感想を聞いて大々的に取り上げる。でも「この世界の片隅に」でそんな場面がNHKを除く民放であったか。1度くらいは存在が紹介されても肝心の公開前後に舞台挨拶まであったにも関わらず、そして映画のランキングで10位に入ったにも関わらず取り上げた民放は目分量でゼロ。それでもバリューがないからとか声優だからとヌかすネットメディアのスカしっぷりがどうにも億劫。普段は反権力めいたことをやっていても所詮は裏狙いのアクセス稼ぎでしかないんだろうなあ。やれやれだ。

 そんな「この世界の片隅に」は昭和の暮らしをとくに説明とか入れずにそのまんま、描いてあるんで観ても分からない人もいるんじゃないかって話がちらりほらり。例えば一升瓶に米を入れて棒で突いているのは、僕たちだったらああ玄米をついて込めぬかを落として精米しているんだなあって分かるけれど、そうでない人にはそもそも米をついているのかすら分からないのかもしれない。それを言うならお釜にお米を入れて水をかけてジャギジャギと研いでいる場面も、今の無洗米でさっと洗い流せばそのまま炊ける米になれている人だと、いったい何をそこまで一生懸命なんだと思ったりするのかも。研げば研ぐほど巧くなる。だから昔は頑張ったんだよ。でも産地直送の美味しいお米だと無洗米にせずそのまま袋詰めしてあるのかな、そういうのを食べている人だと分かるかな、アンケート取ってみたい項目。

 とはいえ実際に米なんかついたことはないのが大半の現代、その体験ができる場所が九段下にある。「昭和館」。昭和の暮らしを展示した国立の博物館で場所が旧軍人会館こと九段会館で、何せ前に行ったのが10年以上も前で、展示とか覚えおらず近隣に靖国神社もある関係で、太平洋戦争をどこか賛美するような展示ばかりだったのかなあと思って入ったら、割とフラットに当時の生活とかポスターとかを並べてた。もちろん戦時下の生活に関わりのある国民服だとか婦人会のたすきだとか千人針といったものも飾ってあったけど、それをことさらに堪え忍んで苦労をした人たちがいたんだとか、お国のために戦ったんだと讃え持ち上げるような風ではなかった。もちろん貶めるようなこともない。そうした時代、そういう暮らしがあった、そこから自分たちで考えようといったスタンスは、映画「この世界の片隅に」ともちょっと重なるかも。

 そんな展示の中に鉄兜があり防空ずきんもあって一升瓶に入った米をつく体験コーナーも。見ると白米になるまでには4時間ぐらいついている必要があって、そんなに大変だったんだと驚くことしきり。なおかつ子供がそうした作業に慣れたら慣れたで、お米の配給がなくなってしまってつくこともできなくなったと書いてあった。戦争って厳しかったんだなあ。もちろん戦後もしばらくは自分でついていただろうから、そうした昭和20年代30年代に暮らした人にとっては見覚えもあれば体にも覚えたあることなのかも。「マイマイ新子と千年の魔法」ではどうだったんだろう。ついてはいなかったなあ。お米屋さんが精米して持ってきてくれたのかな。スーパーに米が並ぶようになったのっていつからだっけ。1984年から88年までアルバイトしていたディスカウントストアでは売っていたけど。

 「昭和館」はマルチメディア化も進んでいて、大きなディスプレイに触れると都道府県別に空襲の被害者数が出るようになっていて、その都道府県名に触れるとより細かい案内が出るようになっていた。広島県もあって広島市と呉市と福山市の空襲マップが出てきたんで呉を見たらほんとうに焼け野原になっていた。海辺はもうまるっきり。そこに花街もあったのかなあ。そう思うとちょっと泣けてきた。大丈夫だったと思いたいんだけれど、リンさん…。そして1階では昭和20年の日本各地をとらえた写真を集めた展覧会が去年あって、その図録を100部限定ながらも売っていたんで1冊購入、900円。開くと広島市があって焼け野原になった街とそして、焼ける前の中央通りの商店街の風景が載っていた。映画「この世界の片隅に」の中ですずさんが歩いた通りだなあ。モノクロだったけれど、映画を見た僕の目にはカラーに見えた。よくもまあ再現したものだ。改めて片渕須直監督たちの偉業に喝采を。

 靖国神社に立ち寄ってから歩いてアスキー・メディアワークスが入っているKADOKAWAのビルへ。途中、機動隊のバスとかいっぱい止まっていたりして何かあるのかと見たら法政大学があってさすがは21世紀に残った学生運動の拠点と思ったら違ってた。そうか朝鮮総連ってここにあったのか。やっと分かった。そしてアスキー・メディアワークスではスタートアップ企業が持ち寄ったすっげえアイテムをいろいろと見る。たとえばザーズっていう匂いのコンサルをやっている会社が出していた「ZaaZ VR」は何とVRに匂いを加えるというアイテムで、VRのコンテンツにタイミングを合わせて無線で小さい箱形のデバイスに指令がとんで、VRヘッドマウントディスプレイに取り付けられたそのデバイスからシーンにマッチした匂いが漂うというから凄いというか。

 中には匂いを染みこませたシートか何かが入っているみたいで、指令に応じてファンが回って匂いを外に出すみたい。いろいろ入れておけばいろいろな匂いを流せるみたいで出もではフライドチキンと銃砲の硝煙と部屋にいる美少女の香りを流してた。なんだ美少女の香りって。よくは分からなかったけれどこれがイケメンならムスクのような艶っぽい香りを入れておいて、VRのコンテンツに登場したタイミングで漂わせれば着けている女子とか一発でイってしまうかもしれない。ガンシューティングだと血の臭いとか入れておけるのかな。どれくらい匂いが保つとかどこまで種類を増やせるのかとかいろいろ気にはなるけれど、こと匂いにかけては専門家だけにブレンドには間違いないだろう。ちょっと注目。

 あとはバイクのヘルメットの後ろ側にカメラをつけて、それで後方をとらえて前を見ているライダーの視線のちょい上に表示するようにしたものとか。後ろだったらミラーで確認できるけれどもやっぱり走っていると揺れるし視線だって左右に流れる。かといって後ろを振り向くのも大変。そんな時にちょっとだけ視線をずらせば前方といっしょに後方も見えるといったところ。そういう装置を見ながら運転していいのかどうか、道交法上どうなっているかは分からないけれど、自動車のルームミラーも鏡でなくって表示式に出来っるようになったし便利さに応じていろいろ変わっていくなろう。音声をカットして必要な情報だけを聞かせるようなことも可能とか。代表がインダストリアルデザイナーだけあってデザインもクール。問題は数十万円はしそうなヘルメットに乗れる大人が乗るバイクがクールかってことかなあ、アメリカンタイプには合いそうもないものなあ。

 あの「破裏拳ポリマー」が実写映画になるって報、監督が「009ノ1」や「赤×ピンク」の坂本浩一さんなだけにアクションは激しくお色気もあるけどストーリー的にはB級といった雰囲気のものになって楽しめることは楽しめそう。ハリウッド調のゴージャスなヒーロー物を期待するとちょっと肩すかしを食らうかも。それをめざして資金が及ばず抜けが出てしまった「ガッチャマン」の実写版よりは割り切った映像になるんじゃなかろうか。それとも「キカイダー」のようになる、って実は見ていないんだ実写映画「キカイダー」。とりあえず主題歌がどうなるか、そして雄叫びはあるのか、そこに注目。


【11月14日】 目が覚めたんで朝の情報番組とかボーッと見ていたけれども映画「ミュージアム」の封切りとか「溺れるナイフ」の顔ペロシーンとかが紹介されても片渕須直監督による長編アニメーション映画「この世界の片隅に」に関する話はいっさいなし。あれだけ世間を騒がせ年末の紅白でも寸劇にされた国民的ドラマ「あまちゃん」のヒロインが初めて主演の声を担当したアニメーション映画が公開され、テアトル新宿は土曜日だけでなく日曜日も全席完売になって立ち見すら売り切れる事態になっているというのに、どうしてテレビがトピックとして取り上げようとしないのか。理由は薄々分かっているけど事ここに及んでやっぱり異常としか言いようがない。

 これが誰も知らない単館上映のアート作品で、新聞各紙でも隅っこにベタで紹介している程度の映画だったらテレビが食いつかないのも仕方が無いけれど、公開前日の11月11日の新聞は朝日読売毎日東京日経が夕刊で画像入りで評論家によるレビューとして大きく取り上げ、東京では夕刊のない産経も朝刊で片渕須直監督のインタビューを載せて大いにプッシュしていた。その週末に公開される映画として全国紙が揃ってナンバーワンとしての推しっぷり。これはとてつもないことなんだけれど、テレビというメディアに舞台を写すと欠片も扱われないで半ば存在しないことにされてしまっている。新聞が紹介している以上はバリューがない訳じゃない。芸能的にも推せる要素はいっぱいあるにも関わらず、スルーするテレビメディアを異常と言わずして何と言う? 普通だったらあり得ないだろう。

 そんなあり得ないことが起こってしまうメディアにテレビってところは成り下がってしまった。もしかしたら女性誌なんかも成り下がってしまっているかもしれない。あれだけふんだんに存在する女性向けの雑誌でまともに「この世界の片隅に」なり主演ののんさんを取り上げていたのって「婦人公論」くらいだったし。あるいはテレビの中でも昔ながらの反骨精神で、権力が何と言おうとも凄いものは凄いと言う真っ直ぐさを持っている人がいたり、そうではなくって他がやろうとしないなら自分ところは抜け駆けしてでも大きく取り上げ、将来の超メジャー化に備えて青田買いしておこうと企む人がいたりしたって良いかもと思っていたけど、そんな人は終ぞ現れなかった。もう本当にダメになっているのかもしれないなあ、テレビってところは。それに世間は気付かないと思っているのなら、ますますダメになっていくんだろうなあ。

 そんな「この世界の片隅に」の週末の興行成績が出て10位はとりあえずランキングには入っているものの、後がない感じてやっぱりもうちょっと上にいて欲しかったかなあという印象。そりゃあ60館ちょっとで数百館が公開するメジャー映画に挑んで10位なら万々歳だけれど、世間の人はそうした事情なんて斟酌せずに10位は10位なんだとしか認識しない。そして来週にもラインキングからいなくなったらもう過去の物として忘れ去っていってしまう。そうさせないためにももうちょっと、地方の劇場でいっぱいの動員が欲しかったけれど女性層へと届く回路がごっそりと抜けていると、新聞くらいしか読まない高齢者を除いてミドルの女性層が存在すら知らないでいたりする。そうした層を惹起していけばランキングもアップして世間も存在を話題にするようになるんだけれど。だから来週末こそが大事。また行こうどこかの劇場へ。

 何か高次元的な意思のようなものが目覚めては、かつての戦艦の形を持って海を支配し人類を陸地に封じ込めていたところに生まれた戦艦たちの中の異端分子が、人類側について反抗を始めるストーリーがArk Perfomanceによる「蒼き鋼のアルペジオ」だけれど、そんな関係性を空に写して敵を人工衛星にしたものと言えば言えるのかもしれない、ツカサさんにおyる「天球駆けるスプートニク 未到の空往く運送屋、ネジの外れた銀髪衛精」(ノベルゼロ)という小説。ここで見慣れない「衛精」という言葉が出ているけれどもこれこそが人工衛星に芽生えたある種の意識。かつて地球をグルグルと回っていた人工衛星の形を模して名前も借りて空に現れた人工衛星ならう「衛精」たちは、一定以上を飛ぶ存在のことごとくを撃ち落として人類を地球の氷面へと封じ込めた。

 その高さはギリギリで200フィート。メートルに換算するなら60メートルそこそこで、20階建てのビルに届くかどうかといった高さというよりもはや低さ。それすら安全ではなく空に散らばる「衛精」によってはもっと低いところを飛んでいるものでも見つけて撃ち落とす。安全圏は30フィートだから10メートルあるかないか。もはや水面ギリギリといって良いところを普通の飛行機だったらまず飛べなかったところを、人類がどうにか作り上げた超低空でも飛べる飛行機「ULF」はどうにか飛べて、船よりも速い輸送手段をどうにかこうにか維持しつつ、文明もかろうじて保っていた。主人公のイバ・タクロウはそんなULF乗りの1人だけれど、なぜかいつも少女をひとり、連れていた。

 犬耳を持った少女、チェルシーの正体は実は犬。それもとんでもない所からやって来た。彼女のある種の助けを得てイバ・タクロウはたったひとりでもどういかこうにか、運送屋の仕事を続けていた。衛精の目を逃れて飛ぶことができるようになるかもしれない技術を持った女性を運ぶとか、友人の娘で体が弱い少女の臓器移植を行うために臓器がある病院まで運ぶとか、他なら敬遠しそうな仕事も引き受けつつ、圧倒的な速度でイバ・タクロウが飛び続けられたのは理由があった。他の誰にも連れいないパートナーにして犬耳の少女チェルシー。その正体が分かった時になるほどこれは「蒼き鋼のアルペジオ」の空版、あるいは宇宙版と思えるだろう。絆が繋がった理由にもっと大きな誰かの大枠はなさそうだけれど。

 高く上がれば「衛精」に睨まれている一方で、運び屋たちの間にも諍いがあって空戦なんかがよく起こる。でも高く飛びすぎれば「衛精」の餌食になる狭い空では海面すれすれを飛ぶULFに対して海の水を巻き上げ水柱なり水の壁を着くってそれに飛び込ませ、エンストさせたり落としたりといった技が有効になる。そういった通常とは違った空戦描写があり、また高みに陣取る「衛精」をどうやってしのぐかといった計算なりもあってと条件の厳しい中で主人公たちが生き抜いていく姿を楽しめる。なおかつイバ・タクロウがいつまで飛び続けられるのかといった興味も浮かぶ。チェルシーがイバ・タクロウに執心する理由が途切れてなおペアは続くのか。その時にイバ・タクロウはどんな状況になっているのか。「衛精」の謎めいた存在も含めて続きで明かされてほしいもの。でも続くかな。そこは売れ行きか。頑張れ。

 YSTKと書いてヤスタカと読ませるらしい中田ヤスタカさんがKPPと書いてきゃりーぱみゅぱみゅと読ませるアーティストと2人でステージに立ってアクトするライブがあったんでZeppダイバーシティへ。きゃりーぱみゅぱみゅだったら広いアリーナでも中規模のホールでもZeppのようなライブハウスでも見てはいるけれど、どこでもポップでキッチュなファッションと楽曲で見せていた。それがきゃりーぱみゅぱみゅだった。それもひとつのスタイルとして日本のみならず世界共通で展開していくのかと思いきや、少しだけ新しい要素を混ぜて違った方向へと進もうと考えたのか、普段から楽曲は作ってもらっていて、夜のクラブイベントではジョイントもあっただろう中田ヤスタカさんを本格的にフィーチャーして、2人で作り上げるステージってのを見せようと考えたみたい。

 つまりはCupsuelのひとりでもある中田ヤスタカさんがパートナーをきゃりーぱみゅぱみゅに置き換えつつDJとしてアレンジャーとしてコンポーザーとしてステージに立ってクラブミックスあるいはダンスミックスにしたきゃりーの楽曲をガンガンと鳴らし、それにきゃりーぱみゅぱみゅも乗ってダンスチューンとして「PONPONPON」でも「Candy Candy」でも聞かせるようなライブになっていて、会場は始まった時からスタンディングなので総立ちは当然として、体を揺らしジャンプもし指を立て手を振り拍手も浴びせるのをほとんど休み無しで続けていく。それが使えるかというとどれも耳に馴染みがある楽曲で自然と歌詞も口を突いて出てくるから飽きることはなく、そしてノリの良いビートでもってアレンジされているんで体が動き始めたら止まることなくずっと引っ張られていく。

 途中で中田ヤスタカさんもDJのブースから手を振り手拍子を求めて観客を煽り、きゃりーぱみゅぱみゅも呼びかけて引き寄せていっしょに盛り上がってく。だから疲れなかった。51歳が待ち時間も含めて2時間半立ちっぱなしでも。きゃりーぱみゅぱみゅが引っ込んだ場面では中田ヤスタカさんが提供したPerfumeの「FLASH」だとか映画「何者」の主題歌になっている米津玄師さんをfeaterした「NANIMONO」も聞かせてくれて中田ヤスタカさんのファンとして来ている人たちを喜ばせていた。そうした人もきゃりーぱみゅぱみゅのアクトを見て以外に大人っぽくてスタイリッシュなパフォーマンスも見せられるんだと気付いたかもしれないし、もとよりのきゃりーぱみゅぱみゅのファンも中田ヤスタカさんがただの楽曲提供者ではないことを改めて見知ったかも。

 もちろん何よりきゃりーぱみゅぱみゅというアーティストに引き出しが増えたことが最大の収穫かも。子供を喜ばせるお姉ちゃん的な雰囲気を出す必要もなく妹的な媚態も漂わせることなくストレートにクラブシーンに殴り込むようなビートの利いた歌を歌えるアーティストとして存在感を出せることがこれで分かった。今はまだこれまでのきゃりーぱみゅぱみゅが通用しているけれど、いずれ遠からず年齢も上がってきた時に、アイドル然とした雰囲気から抜けてクリエーティブさを漂わせるシンガーとして移り変わっていける、そんな可能性を見せてくれた。3公演が終わってこれで今は打ち止めだけれど、これで終わりたくなさそうなことも話していたんで遠からず、クラブミックス的な2人のパフォーマンスを見られる日が来るだろう。楽しかったんでまた行こう。


【11月13日】 新走宗也の登場で出そろった万流礼央子の四天王だけれどブブキはなく、そして礼央子がすっかり弱体化して目立ってないのがちょっと残念。どこまでも強気で居丈高、弱みを見せずに蹂躙して焼き尽くす炎帝と礼央子に惚れ込んだ目には今の常態はどうにも不甲斐なく見えてしまう。あれで炎帝がそばにいれば復活の目もあるんだろうか。もとより不死身の体なんだからきっと炎帝さえ戻って来れば復活して高笑いしながら王武相手にガチバトルを繰り広げてくれると思いたい。ただそれだと薫子の居場所がなあ。お兄ちゃんにデレてしまったんでもう退場? いやいやしっかり一人でブランキ動かしているからやっぱり絡んでくるのかな。

 辻堂に行く用事があったんでどうせならと早起きをして東海道線に乗り藤澤で降りて小田急に乗り換え片瀬江ノ島へ。午前9時過ぎだと人もぎっしりって感じではなく、橋を渡って参道を登って神社に参ってそれからエスカーすなわちエスカレーターでもって上に上がって展望台へ。上野樹里さんはいなかった。そりゃあこっちも松本潤さんじゃないから仕方が無いとはいえ、せめて雰囲気だけでも味わいたかったよ、「陽だまりの彼女」のぬくぬくとした。寝転んでいれば猫に包まれてぬくぬくとした気分になれるかな。でもって気がついたら凍えて固まって天国へ。それはまだちょっと早いか、割と温かかったし。

 灯台から降りてきて下の参道にある店で「生しらす丼」。前に2回来たときは時間的に人が一杯で食べるに食べられず見送っていたけど今回は朝も早いし人も少なく大丈夫かと思ったら開いてる店が少なかった。それでも午前10時に店を開けてたところで1杯。ちらし寿司みたいな半分に生のしらすがどばっと載っててそれに好みで醤油とか三杯酢とかをかけて食べるんだとか。最初は何もかけずに頂くと魚みたいな味がした、って魚だから当然か。醤油をかけると寿司っぽく三杯酢だと酢の物っぽいのも半ば当然。どっちもありかなあ。他にいろいろな具材を混ぜたものもあるみたいなんでいつかまた来たらそっちも試すか。今日も行列だったタコせんべいは横目で通り過ぎる。美味しいんかなあ。

 そんな太平洋沿岸を北上した茨城県は大洗で開かれている「あんこう祭り」の中で何やら「ガールズ&パンツァー」の最終章に関する発表があったみたいで、何でも全6話を順繰りにイベント上映していく「機動戦士ガンダムUC」方式、あるいは「コードギアス 亡国のアキト」方式になるみたい。2017年の12月に第1話ってことはほとんど1年後からスタートで、それから半年おきに1本だとすると第6話が上映される時にはもしかしたら東京オリンピックもパラリンピックも終わっているんじゃなかろうか。さすがにこっちも還暦は迎えていないけれど、それでもずいぶんと年を取りそう。でも逆に考えるならそれまで生きる楽しみが増えたってことで、毎日を希望を持って暮らしていこう。観るまでは死ねない。そう気構えて。

 そして辻堂へと行って109シネマズ湘南で片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」の舞台挨拶付き上映。観るのはこれで3度目だけれどそこでやっと憲兵さんの声が幸洋子さんの東京藝大院修了制作「ズドラーストヴィチェ!」でおじさんの声を演じていた栩野幸知さんだと気付く。俳優だけれどガンエフェクターでもあって「BLACK LAGOON」に出てくる発破屋トーチーのモデルになった人。「この世界の片隅に」では方言指導も担当しているけれど、ついでにいろいろな役も演じていたみたい。ちなみに幸洋子さんに栩野さんを紹介したのが片渕須直監督ってことで付き合いは結構古いみたい。耳に特徴的な声だものなあ。でもやっと気付いたのはそれだけのんさんの声に集中していたからかも。

 集中といえば声の吹き込みを集中しすぎてアフレコ中にご飯を食べさせてもらえなかったというのは有名な話として広まっているけれど、109シネマズ湘南の舞台挨拶では何とのんさんが収録でずっと食べられなかった向こうで片渕監督はおにぎりを食べていたらしいことが判明。聞いてのんさんが食べられないのと同様に片渕監督も食べられなかったんだからあいこと思っていた新谷真弓さんがキリキリとしていた。次にあったら責められるかも。そんな新谷真弓さんは栩野さんとは別に方言について声優としてアドバイスもしていたみたいだけれど、演技指導に熱の入った片渕監督がちょっと違った広島弁で訴えるのを聞いてそうじゃないんですー、とキリキリして突っ込んだとか。そんな成果があの違和感のあい広島と呉の風景だとしたら新谷さん、良い仕事をしていたってことで。もちろん栩野さんも。ズドラーストヴィチェ! って言わなかったし。憲兵が言ったら吃驚だ。

 帰って録ってあったアニメをザッと見る。「Occultic;Nine −オカルティック・ナイン−」はオカルトがホラーで猟奇になっててちょっと心にしんどそう。血塗れの筺が開いてそして主要メンバーが家族とか周囲の認識では死んだことになったみたいで当人たちは意識はあっても誰からも見えず反応もない。まるで幽霊だけれど幽霊は相手に見られてこその存在。現世に一切の干渉もできなくなったら話進まないじゃん。どーすんだろう。そこはまあ一時の揺れとして元に戻していくのかな。でないとせっかくの眼鏡っ娘編集が活躍しなくなっちゃうから。あと巨大な胸を振り回している女史とか、ってりょーたすはまだ死んだことにされた描写がないか、あとみゅうちゃんも。ラジオの声は訳知りっぽかったし喫茶店のマスターも。そして正体不明のぜーレっぽいおっさんたち。話はどこへ? 原作そろそろ読んでおくか。

 なんだやっぱり長編作る気か? お金集めを支持して3年後には完成させたいって話をしていた宮崎駿さん。でも手放してしまったスタッフを果たして集められるのか。目先取り組んでいるCGアニメーションの「毛虫のボロ」だってなかなか完成させられないし。ああやって手先が動いていることだけでも見せられれば、それでもお金は集まるんだろうなあ。いくら企画を持って回ってもそれではスポンサーが集まらず、しょうがないからとクラウドファンディングでファンがいることを示した「この世界の片隅に」とは大きな違い。それだけ宮崎駿ブランドへの信頼はデカいってことで。でもやっぱり企画がぽしゃれば無意味なんでそこは鈴木敏夫プロデューサーが手綱をしめてかかるかな。あれだけかわいがってた川上量生さんが人工知能による生命の進化を無視したAIの異形の進化を見せて宮さんが激怒した時に、味方せず何がしたいん? って突っ込んでたし。お前さんが面白がって呼んだんじゃないのか。でもやっぱり宮崎駿監督が1番ってことで。でもしっかりお金はかっぱぐと。カドカワも大変だねえ。


【11月12日】 烏野高校と聖蹟高校と神奈川高校のどこが最初に甲子園に行くかなあと考えたけれども烏野は行けても代々木だし聖跡は国立競技場、は今はないから埼玉スタジアム2002でそして神奈川高校は花園ラグビー場。そう考えると甲子園に行く可能性があるのはもしも野球部があって強かった場合、北宇治高校なのかもしれないと思った2016年の秋のアニメーション番組スポーツ編。目下県大会の決勝を戦っている「ハイキュー!!」の烏野は白鳥沢を相手にセットカウントを2対2にして最終セットへと足を進め、「DAYS」の聖蹟はインターハイに負けたものの夏合宿で好成績を出して全国へと向けて良いスタートを切れたみたい。

 残る「ALL OUT」の神奈川だけがまだまだ弱小校の域を抜けないまま練習に明け暮れる日々。でも名コーチをえてきっとこれから強くなっていくだろう。少なくとも選手たちの目は死んでいないから。そんな「ALL OUT」をどうして日本ラグビー協会は全面的にスポンサードしてゴールデンタイムで放送するように仕向けなかったなろう。観れば誰だってラグビーに興味が持てるようになるし、若い人だとラグビーをやってみたくなるだろう。そんなところからラグビーへの関心を育んでおかないと。3年後にやって来るワールドカップに誰も見に行かないなんて恥さらしな事態が起きるんじゃなかろうか。

 ラグビー界のある意味で顔だった平尾選手が亡くなってしまって、そして現役選手では知名度ナンバーワンだった五郎丸選手だって日本からいなくなってしまって観られるのはCMくらい。選手としてだと海外でようやく試合に出られるかどうかで、その活躍を目にしないままだんだんと忘れ去られようとしている。先のワールドカップの貯金はもはやゼロからマイナスへ。そんな日本のラグビー界がやれることがあるなら、人気のアニメに縋るのもひとつの手だと思うけど。アメリカにたい焼きを流行らせるくらいに浸透力があるメディアなんだから。かつてアメリカンフットボールを日本で広めようとNFLジャパンが協力して「アイシールド21」をバックアップしたように、ラグビーアニメを全国区でゴールデンで。それに気付かないようじゃあやっぱりダメだろうなあ、日本のラグビー界。とっくにダメなんだけれど。やれやれ。

 Japan Contents Showcaseのスクーリング上映に続いて2度目となる片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」をテアトル新宿で12時55分の舞台挨拶付き上映で。立ち見。だから入場待ちしている間も含めて終演まで、かれこれ3時間くらいあったにも関わらずダレつことなく集中して最後まで観ていられた。それくらい惹きつけられる。声にも。そして表情にも。もちろん1度目に観てどんな声が出ているか、どんな風に表情とかが描かれているかも分かっている。にも関わらずそれがとても気になってしまう。新しい発見があったというよりは、より濃く、より大きく、より強く感じられるようになるというか。あるいはじわっと身に染みてくるというか。そんな感じ。

 だから揺さぶられる感情も1度目より強くなる。泣けてくる。といってもあの場面、あの重たい空気の中で憤りと嘆きに涙が湧いてくるというよりも、それらがいったん過ぎ去って戻ってきた日常の中で、ふっと思い出されて泣けてくるといった感じ。悔しさというか。残念さというか。起こってしまったことは取り返しがつかないのだけれど、それでもどうしたら良かったんだろうかといった気持ちに引っ張られて心が歪み、ジワッと涙が染みてくる。そんな涙がラストシーンで救われて、ちょっとした明るい気持ちになれるのがこの映画の良いところ。憤りと憎しみと哀しみと悔しさばかりを引き摺って映画館を出ずに済むから。

 だからこそ戦争で哀しい気持ちにさせられるのならと敬遠している人たちに、そうじゃないんだと分かって欲しい。戦争を描いた映画が過去にいっぱいそうだったからといって、『この世界の片隅に』がそうだとは限らないんだと、いっぱいの人に知ってもらって映画館に足を運んでもらいたい。そのために出来ることがあるならやりたいけれど、観て欲しい層に語る言葉も届くメディアもないからなあ。そこが辛い。でも頑張る。ネットという場に言葉をボトルに詰めて流していく。届くかな、誰かに。

 もうひとつのエンディング、クラウドファンディングのメンバーに自分の名前があるかに目が行ってしまってスクーリングではよく観られなかったけれど、改めてみてそういう風にしてあったんだと気付く。原作ではあのお婆ちゃんの家の出来事と、そしてすずさんの出会いとを確か直接結びつけてはいなかったけれど、映画ではそおあたりを仄めかしてあった。そしてエンディングではちゃんと描いて、繋がっているだってことを感じさせた。幸せを分けてあげて、それがめぐり巡って帰ってきて浮かび上がったふわっとした甘い空気。それが後、どうなってしまったのかを思うとちょっと苦い。

 大丈夫だったのかな。大丈夫だったさ。だって手を振っていた。ひらひらと。あれは誰の手だったんだろう。確か右手だったなあ。だとするともしかしたらすずさんの右手? それはちょっと。あるいは……。指先まですっと細かったからきっと、それは出会った人の手なんだと思いたい。それが向けられて振られているならきっと大丈夫。また会えて寄り添って埋め合ってそして70年が経った今、この世界のどこかで今も2人で絵の中のスイカとハッカとアイスクリームを味わっていると思いたい。

 まだ伊藤彩さんだった時代にANIMAXがやってた「全日本アニソングランプリ」の決勝大会で観たのが2010年9月のことだからもう6年も前の話。そこでは優勝こそ河野マリナさんに持って行かれたけれども、凜とした歌声とあと読者モデル出身というキャリアも買われてスカウトされたか、しばらくして名を春奈るなとしてデビューしたのが2012年5月のこと。そこからでも4年半が経ってなお、ピュアな感じを保ち続けている春奈るなさんのライブを観にラフォーレミュージアム原宿へと観に行く。「春奈るなLIVE2016 ”Windia”」と銘打たれているように、ゲームソフト「ソードアート・オンライン−ホロウ・リアリゼーション−」の主題歌となっている「Windia」が出たタイミングで福岡と東京、そして大阪を回るツアーになっていて、会場こそホールでもライブハウスでもなくスペースといったところだけれど800人近くは入る会場に満員のファンが詰めかけ初っぱなから色を揃えたサイリウムを振って春奈るなさんの登場を歓迎する。

 聴けばどこかで聴き覚えがあるのはそれこそ芝のメルパルクホールから渋谷公会堂から赤坂BRITZといった会場で行われるライブに招かれ顔を出しているからってことと、あとは放送しているアニメーションを観たり挟まれるCMなんかを観て曲を聴いているからなんだけれど、決してCDを聞き込んでいる分ではないのに不思議と頭に残っているのはそれだけ楽曲が良いのと、あとは歌声がいつもピュアで可愛くて伸びやかで雑味がなくって癖もすくなく心にスッと入ってピタっとはまるから、なのかもしれない。川原礫さんの作品では「アクセル・ワールド」派なんでテレビアニメーションの「ソードアート・オンライン』」は録画はしてもよく見てなくってOPもEDも実はどれがどれとか覚えてないんだけれど、それに絡んで歌われていた春奈るなさんの楽曲はライブでかかればちゃんと耳に覚えがある。

 最初のTVシリーズのEDに使われた「Overfly」とかライブの定番だし「夜の虹を越えて」も「Startear」も聴けばスッと思い出す。そして「Windia」。ゲームなんてもちろんやってないけどCMで聞こえてきたあのサビの強さが頭に残って、これから始まった「ソードアート・オンライン」関連の4連発ではもうスッと立って応援してしまったくらい。このラインを持っているからこそ声優シンガーでもない専業のアニソンシンガーでありながら、春奈るなさんが4年半も歌い続けていられる理由なのかもしれない。個人的にはこれはしっかりアニメーションも観ていた『ハイスクール・フリート』のエンディング曲「Ripple Effect」が大好きで、舞台上での衣装チェンジなんかも挟んで出てきて歌い始めた春奈るなさんにこれもやっぱり経って声援を送ってしまった。

 タオルを振る「恋の戦士」とか「君色シグナル」とかライブで耳に馴染む曲も続いてエンディング。そしてアンコールとして出てきて2曲を歌って2時間ちょうど。短いよう長いようで、そしてしっかりとたっぷりと20曲を聴かせてくれたライブはコンパクトながらも実に充実してたって言えるかも。キャパが少ないのは人気の面というよりも、半ばキャンペーン的なライブだから、ってことなのか。分からないけれども次がO−EASTならこれはもっと大きなライブスペースだからまだまだ底力はあるんだろう。タイアップなんかも乗ってくればもっといっぱいライブも聴けるかも。行けば絶対に好きになる歌声で楽曲の持ち主。声優として出ていない分、知られる機会も少ないしファンだって付きづらいかもしれないけれど、可愛くって楽しくて明るくて嬉しくなれるライブを聴かせてくれるアニソンシンガーとして、あるいはポップシンガーとしてこれからも活躍を期待したい。次は12月21日。クリスマスライブ。赤い格好して行くのかな。やっぱりピンクのサンタかな。


【11月11日】 任天堂が「ミニファミコン」で来るならセガは歴代の対応ソフトを全部ぶっこみつつよりコンパクトにした「マイクロドリームキャスト」ってのを発売すればそれが2万円とか3万円とかしたって僕は買うかもしれないなあ。適度にグラフィックが美麗でそれでいてゴリゴリでヌメヌメといった感じでもなく、操作性はスティックにマルコンが優れていて扱いやすく、何より面白そうなゲームソフトがいっぱいあった、って言われてすぐに思い出せるのは「サクラ大戦2」とか「スペースチャンネル5」くらいだけれど、「プレイステーション2」に向けられたものとは少し違ってセガのとんがった部分も入れつつポップに寄り始めた不思議な魅力を持ったタイトルが並んでいたような気がする。遊び始めればそれこそ何十時間だって浸っていられるマシンになりそうだけれど、それが売れたら今のゲームがまるで売れなくなってしまうから無理だろうなあ。やり込みたいなあ「サクラ大戦2」。

 そんな「ミニファミコン」発売の一方で「Wii U」の方は国内向けの生産中止が決まったそうで、岩田聡さんが最後に手がけた形のハードがヒットしないまま終焉を迎えるのは寂しいけれどもやっぱりどこかで何かを見誤っていたってことになるんだろう。それがどこかはちょっと分からないけれど、ひとつにはスマートフォンへと移行する中で家庭用ゲームを遊ぶ層がいなくなってしまったことに気づけなかったか、まさかそこまで急に進むとは予測できなかったか、そんな感じがちょっとしている。ただそこでの失敗を糧にして、家で楽しめて外にも持ち出せる要素をグッと広げて大人が遊べるゲーム機として「Nintendo Switch」でもって一新させる感じ。クールでスタイリッシュなゲームライフをスマートフォン以上のパフォーマンスで実現させられれば、ちょっとイケるかもしれない。携帯型ゲーム機は未だ一人がちな分だし、そこで立ち直っていって欲しいけれども、果たして。

 海道左近さんの「インフィニット・デンドログラム 1.可能性の始まり」(HJ文庫)を読む。なるほどこれは面白い。VRヘッドマウントディスプレイを飛び越したヘルメット型の装置を頭に着けるとそこは「インフィニット・デンドログラム」という名のMMORPGの世界。アバターを選び属性を選び<エンブリオ>というキャラクターのひとりひとりに違った要素を与える仕組みを通過して、そして向かったファンタジー調の世界で主人公の椋鳥玲二という少年は武器でありながらも少女の形になれるメネシスという<エンブリオ>を得て、一足先にゲームを始めた兄とも出会ってゲーム世界の様子を聞いてから冒険へと向かって歩き始める。

 ありがちといえばありがちな設定だけれど、クマの着ぐるみに入って素顔を見せようとしない玲二の兄のどこか謎めいた存在感が気になるし、メネシスがだんだんと成長していった先にどんな姿になり強さになるかも気に掛かる。知り合うルークという少年が圧倒的な美少年である上に、連れているこれも人型の<エンブリオ>が淫魔であったりしてお色気の要素も感じられる。あとは玲二が正義感の持ち主なのか、クエストとして依頼を受けた、NPCで騎士の少女の妹を助けようとして頑張って、そして持っていた力を発動させる展開もその性格も含めて気持ちいい。

 なるほどそんな玲二だからこそ最強の闘士として知られるフィガロも頼みに答えて動いたんだろう。分からないのは3巨頭の残り2人がどうして動いたかだけれど、そうした背後でいろりおな思惑が交錯している当たりも含めて読み込んでは、世界を知っていく楽しさがありそう。玲二たちが主戦場にしている国を攻めようとする勢力の思惑も気になるし。ただ、この「インフィニット・デンドログラム」で1番気になるのは、命を持たないただのプログラムに過ぎないはずのNPCに妙に感情移入してしまうところ。少女だからとかいたいけだからといったビジュアルに惹かれたところで、所詮はプログラムなんだからリセットされればまた一緒、そう思いたいところがこの「インフィニット・デンドログラム」というゲームでは、死んだNPCは蘇らない。永遠に。

 村人Aのようにそこに現れては必要な情報を語って終わりのNPCではなく、ゲームの世界にそれぞれが生きて暮らしているといった雰囲気で、家族もあれば社会もあってそれはまるで人間の世界がそのまま越してきたかのよう。そこに入る玲二たちプレーヤーはさながら不死の英雄といったところで、死にはしても強くなってまた現れてゲームなの世界を変えていく。これを普通の世界に置き換えるならば今僕たちが生きているこの世界に、不死身で何度でも蘇ってくる英雄たちが現れ、あるいは正義感から冒険をし、あるいは悪意を持って暴れ回るといったところ。迷惑なことこの上ないけれど、神がそう定めたのならそういう風になっても不思議はない。ただ巻き添えを食らって死んでしまってはかなわない。怒りや悲しみをぶつけたくなる。でも相手は強い。神のような存在。どうしもない。

 そう「インフィニット・デンドログラム」の世界に生きているNPCのキャラクターたちも考えているのだろうか。そこがひとつ分からないところだし、どうしてそんな厳しい境遇にNPCたちが置かれているかもちょっと見えない。プレーヤーが24時間経てば、ゲーム世界では3日が経っているもののあっさり復帰できるのに、どうしてNPCたちは死んでしまってそれっきりなのか。それはプレーヤーたちにどんな心理をもたらしているのか。玲二は死なせてしまっては申し訳ないし気が思いと言ってNPCたちのために闘うようになる。それがゲームを管理している者の狙いなのか。だったらそれは何故なのか。そもそも「インフィニット・デンドログラム」はゲームの世界、プログラミングの結果に過ぎないのか。そんな想像も浮かぶ作品。続く展開で玲二がどれだけ強くなり、そして兄が何者で、世界はどんな真相を見せるのかに興味を抱いて読んでいこう。

 冨田勲追悼特別講演となる冨田勲×初音ミク「ドクター・コッペリウス」をBunkamuraのオーチャードホールで観てまず思ったのは、冨田勲さんが存命だったら果たしてどんな舞台になったのだろうかということで、たとえ周囲がその遺志をくんで残された構想なども汲んで舞台を作り上げたとしても、どこかで冨田勲さんが狙っていたものとはズレがあるんだろうなあと感じられて仕方がない。というか冨田さんが存命なら、前半にそもそも「イーハトーヴ交響曲」が上演されて、初音ミクが歌い踊り少年少女のコーラスと絡み、そしてコーラス隊を引き上げさせた後に舞台上でセッティングが行われて、エイドリアン・シャーウッドが出てきて「惑星」のダヴミックスを上演するような構成になったのだろうか。

 そうではなく、作り上げられなかった「ドクター・コッペリウス」の第1楽章と第2楽章をたっぷり演じつつダンスも初音ミクとのコラボレーションも、もっと密度の高いものになったのではないのか。言い出せばいろいろと浮かぶ。ただ、実際に冨田勲さんはおらずそれでいて「ドクター・コッペリウス」が上演されるとなった場合に、単純に追悼だけで未完成の者を部外者がつぎはぎして完成させ、見せるといったことはやらないだろう。完璧主義者とまでは言わないまでも、独自の作品にこだわっていた冨田勲さんの遺志を蔑ろにするようなパッチワークと想像で水増しすることは、冨田さんの追悼という場では絶対に行えない。となればやはりそれなりに、完成形に近い形だったとみるべきなのだろう。第1楽章と第2楽章が上演されなかったことも、誠意の表れなのだろうし。

 そんな「ドクター・コッペリウス」は舞踏のようなものがあって、そしてオーケストラによる演奏から透過式スクリーンを使っての初音ミクの登場があり、男性のバレエダンサーと出会いシンクロして踊るような場面を見せてくれる。それはあらかじめ決められた動きをしていて、それにダンサーが合わせ演奏も合わせているのか、それとも人が演じるだけあってピッチもズレる演奏にしっかり初音ミクのダンスも合わせ、それを人間のバレエダンサーが追随しているのか、いろいろな想像が浮かぶ。「イーハトーヴ交響曲」ではオーケストラのピッチに合わせる工夫がいろいろ取り入れられていたから、単純にリニアな映像にダンスもオーケストラも合わせるだけではないと思いたい。

 そんなダンスがあって、別の女性ダンサーによるモダンな踊りがあって、そして少女たち6人のこれはクラシカルなラインをとってのアンサンブルもあってと「イーハトーヴ交響曲」とはまた違った賑やかで華やかな舞台が繰り広げられる。そんな中でかぐや姫伝説に題材をとって初音ミクが槻に現れ、それに糸川英夫さんの分身ともいえるコッペリウスが探査衛星はやぶさとなり惑星イトカワからプラネット9、すなわち地球へと向かうといったストーリーが繰り広げられているようだけれど、言われなければ分からないのでそこはダンスがあり演奏があってプロジェクションもありミクも出てくる総合的なビジョンとみておくのが良いかも。ただもしも2度目に観る機会があったのなら、あとでストーリーを頭にいれつつもう1度、ダンスを観て展開をながめてそこでストーリーがどう表現されているのかを確かめるってこともできるかも。

 もらったチラシによると、Bunkamuraの公演は来年にかつしトリフォニーホールでも開催となるみたいなので、練り直しも含めて舞台だどう進化するのかを確かめつつ、ストーリーがどう表現されているかを改めて感じに行ってみようか。その時にもやっぱりエイドリアン・シャーウッドのパフォーマンスはあるのかな。彼の演奏パートでは、クラシックとは違う雰囲気になるんでスタンディングもダンスも自由と言われたけれど、4つ打ちからのビートに乗せて盛り上げるって感じではなく、いきなりグランジっぽく変拍子で始まったんで、身をのたくらせるしかできなかったのがちょっと辛いというか。ホルストの「惑星」が冨田勲さんによってアレンジされ、それをエイドリアン・シャーウッドがミックスする分で格好いいことは良いんだけれど、やっぱりクラブのような場所で順序だてて演じて乗せて欲しかったなあ。


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