縮刷版2016年11月上旬号


【11月10日】 アメリカの大統領選挙に勝利したドナルド・トランプ候補が、前にプロレスのWWEでオーナーのビンス・マクマホンを相手に戦って勝利し、バリカンで頭を刈り上げ話題作りに貢献した話を参議院議員のアントニオ猪木さんが持ちだして、プロレスファンのプロレスに対してポジティブな人たちへの義理堅さを勝利の要因として挙げていた。それを言うならアントニオ猪木さん自身が国会議員に当選し続けられるのも、燃える闘魂を見せてお茶の間の人気者となった時代を僕たちの世代が知っているから。そうでなくなった時、やっぱり静かに消えていくことになるんだろう。

 ともあれプロレスファンが義理堅いということは、新日本プロレスがどん底にあえいでいた頃に経営権を握り、トレーディングカードとも組み合わせて話題作りを行って、大きな会場で興業を行えるくらいに回復させたブシロードの木谷高明さんももしかしたら、政治家になれば衆議院議員にだって当選して、そしてプロレスラーたちとプロレスファンたちの応援を背に総理大臣にだってなれるんじゃなかろーか。そしてWWEと新日が合同で興業を行い、ビンス・マクマホンをレフリーにトランプ大統領と木谷総理が試合をして、勝った方が負けた方の頭を刈るという、そんな世界が来たらもっと楽しく平和になるんだけれどなあ。まずは木谷さんの立候補に期待。

 しかしさすがというかレディー・ガガ、トランプ候補が大統領に当選した夜にニューヨークにあるトランプタワーの前に行き、たったひとりで「LOVE TRUMPS HATE」ってプラカードを掲げて何も言わずに立つパフォーマンスを見せてくれた。それは直訳すれば「愛は憎しみに勝つ」ってことだけれおd、憎しみの言葉を多く掲げて誰かを憎むことで自分をいやしたい人たちの支持を集めて当選したトランプ候補のこれまでの態度に対する批判のニュアンスも持っている。ただし「トランプが嫌い」ってことはなさそうなのは、アーティストとして誰かを直裁的に批判するような言動をしないだろうと想像できるから。

 掛詞に含めたニュアンスをくみ取って欲しいというそのスタンスを、外していたりする日本のメディアもあるけれど、多くはそうした言葉を糧にしつつ、決まってしまった“トランプ大統領”が新たな憎しみを喚起して、誰かを下げつつ自分たちを慰撫するような施策に走らないことを牽制したいレディー・ガガの意を汲んでいる。そして観た人たちも。って思いたいけれども憎しみの連鎖は広がって、罵倒合戦も始まっている。いずれデモが哀しい事件を呼ばなくちゃ良いけれど。それだけ残した傷は深いってことで、そこを埋めることがまずは“トランプ大統領”に課せられた最大の使命なんじゃなかろうか。自らの命にだって関わってきそうな事柄だけに。

 しかしアメリカはトランプ候補の大統領就任を望んでいないといった見通しが、まるっとひっくり返って大統領当選が決まってしまったというこの状況、実際には得票はだいたいい半々でアメリカの半分はトランプ候補を支持したって形になるけれど、そうした状況にありアメリカで大ヒットして「全米が泣いた」と言われる映画は、それはトランプ候補を支持したいわゆるローカルに生きてグローバルとかあんまり気にしない人たちをも含んだ話なんだろうか、それとも映画をよく観る西海岸でありニューイングランドでありそれぞれの州都にあたるような都会に暮らしているエスタブリッシュメントやインテリだけの間にヒットしていたってことなんだろうか。

 前者ならなるほどアメリカの映画が単純なヒーロー者になる理由も分かるし、後者ならアメリカにおいて映画そのものが文芸とは違ったエンターテインメントになっていることが窺える。果たしてどっち? 振り返れば1990年代の半ば過ぎにこれはトランプ候補が勝ったサウスダコタ州に行ったとき、暮らしていた人は夕方になる前から家に帰っては家族で近隣に出かけてロデオみたいなイベントを楽しんでいたっけ。週末はもしかしたら車を走らせスポーツの大会を見に行ったかも。そうした娯楽が一般的な状況で、映画という娯楽がハリウッドとかニューヨークとかいった地域でどう受け入れられているのか。気になるなあ。なにしろあの「ズートピア」がヒットした国なんだから。全米の誰もが好んだならアメリカはまんざらでもないわけで。果たして。

 ベルサールで六本木といったら六本木交差点からちょっと裏に入った場所に立つ灰色のビルだろうと思っていたら、新しく六本木一丁目にもベルサールの六本木が出来ていたようで、事前に資料を見ていて間違わずに済んだけれども気付かなかったらそっちに行って慌てて戻っていたかもしれない。これから行く人は気をつけよう。そんなベルサール六本木のビルにはテレビ東京も引っ越してきていたみたいだけれど、新しいからかあんまり人が歩いておらずテレビ局前って感じの賑やかさがない。いずれ出来るにしてもビルにテナントで間借りだと雰囲気も出しづらいんじゃないのかなあ。ちょっと視聴率が登り気味だからって浮かれていると足下をすくわれるぞ、って下はもうないし上は見上げればすぐそこにフジテレビ。そりゃあ浮かれても仕方がないか。

 そんなベルサール六本木dSpotifyって音楽ストリーミングサービスの発表会。すでに9月に日本でのローンチは発表されていたけれど、招待制ではない一般向けのサービスも始まったとかでそれを話したり、ネットワークに繋がるオーディオ機器でも楽しめるようになったと言ったりいろいろと新しい取り組みが増えていた。社長が坊主頭だったBOSEとでは新型のオーディオ機器にボタンがついていて、Spotifyとかいろいろなストリーミングサービスの音楽をプリセットしておいてぽんと押せば好きな楽曲をすぐに出せるようになっていた。録音しておいてハードから引っ張り出す、なんてことなら可能だったろうけれど、今はネット上にある音楽を自在に引っ張り出して聴く時代。それに対応したオーディオ機器も求められているんだろう。家のネット環境が貧弱で、ネットサービスから離れているうちに世の中も進化したものだ。いずれテレビもなくなるなあ。すでになくなりかかっているけれど。

 田中あすか先輩に何やら不穏な足音が。それは次回のお楽しみとして指揮者の滝先生にかつて奥さんがたことが黄前久美子には話されていたけれど、その人のことをずっと忘れていないとたぶん命日か誕生日か何かで滝先生が台風の中を寄った花屋で花束を作ってもらっていたことで判明。花言葉は貴方を忘れないだったっけ。そのことを聞いたらきっと高坂麗奈はショックで全国大会なんて吹っ飛んでしまうからそこは黄前ちゃん、黙っていよう。とはいえ一方で田中あすか先輩の方でいろいろあるからやっぱり全国大会は大変そう。滝先生の奥さんがOBとしていつか自分たちが全国でとれなかった金をと望んだ、その遺志を受け継いだ滝が内心本気で畳みかけてきたところで、メンバーにいろいろあっては大変だ。さてもどうなる。というかあれが田中あすかのお母さんだとしたら美人だなあ、やっぱり。娘に似て。ってそれ逆だから。


【11月9日】 あれはいったい何の妖怪なのかさっぱり分からなかったけれど、羽根みたいな手をぱたぱたさえていたんで雀のお宿の妖怪なのかもしれなかった「夏目友人帳・伍」。毛玉みたいなのに狙われた夏目が声を奪われていた間に近寄ってきて、暮らしていた谷へと引き寄せいっしょに遊ぼうとするけれど、けれども夏目は昔一緒に遊んでくれたレイコではなかったという。だったらもう出て行くといった妖怪の寂しそうな雰囲気。谷には妖怪もいて花が咲いて人だって遊びに来ていた時代があったんだなあ。でもそれもなくなった。いずれ過ぎ去った場所もそうなって妖怪に居場所はなくなってしまうのだろう。それはニャンコ先生でも同じなのか。人と妖怪。その関係をちょっと考えてみたくなった。

 気持ちを表現するなら徳川秀忠の軍勢を引き返させた上田城で一族郎党とともに関ヶ原の合戦での西軍の勝利を信じていたところに飛び込んできた東軍勝利の報に愕然とした真田昌幸といったところだろうなあ。すっかりそのつもりでいたらひっくり返った政治情勢は、昌幸を政治軍事の一切から遠ざけ九度山で朽ちさせてしまったけれども今回の、アメリカ合衆国大統領選挙におけるドナルド・トランプ候補の勝利は日本の政治外交的なポジションにおいていったいどのような場所へと向かわせるのだろう。あるいはトランプ優勢の核心を得つつそれを元に秘密の外交を繰り広げ、ロシアのプーチン大統領との会談もそうしたポジション取りで大事なイベントと認識して設定したのだとしたら安倍政権、ちょっと凄いかも。

 とはいえそれが出来るくらいなら、他のメディアにだってトランプ優勢の方が出ていただろうから少なくとも政権は観測としてもそういった可能性を考慮していなかっんじゃなかろーか。ってことは当然、外交面でもトランプよりはヒラリー・クリントンの大統領就任を見越した政策をとっていた訳で、その延長としてプーチン大統領との蜜月ぶりを喧伝することにしていたんだとしたら、トランプは一体どんな態度を見せるのか。実はプーチン大好きで日米露で環太平洋を牛耳ろうぜと思うのか、それとも逆に共産主義は大嫌いでそれにすり寄る日本なんて知ったことかとぶん投げるのか。いやいや共産主義が嫌いなら日本は中国とロシアに対する橋頭堡。だから米軍に関する施策も大きく変わることはないのかな。

 しかしやっぱり気になる、日本のみならず世界のメディアがどうして見誤ったのか、って部分。あれだけ乱暴で反知性的で政治的には素人で外交なんてやったこともなさそうな人物、軍事についてもまるで分かっていなさそうな人間を、大統領にしてしまって国民として平気なのっていった部分を考えるなら、さすがにそれはないだろうと思うのが人間としての常だろうけど、そうした当たり前のことにすら思いを及ばせることが出来ないくらいに、アメリカで暮らしている人にとってこのままではダメだといった感覚が根付いていたんだろう。

 産業は衰退し仕事はなくなって明日のことすら見えない。なおかつやっぱり女性が大統領になるといった状況に、好ましさを覚えなかった男性がいてそして共感しづらいと思った女性もいてそれが、威勢の良いことを言ってくれるトランプ候補に向かったといった感じか。まあ日本だって外交はへたれで経済も悲惨なのに威勢の良いことを言う総理大臣が勝ってしまう訳だから、それが円熟から衰退に向かう文明社会に暮らす人々の心理ってことなのかもしれない。そして若さと情熱と野心に満ちた国々に追い抜かれていくんだ。中国とか。ベトナムとかタイとかフィリピンなんかにも。あるいは独裁が実質的に動いているロシアみたいな。どうなっていくんだろうなあ、世界。どこかに逃げた方が良いのかなあ。

 取材はしたもののその後の舞台挨拶の取材案内とか来ないところをみるとやっぱり関心の埒外に置かれているようで、寂しいなあと思いつつもマイナーな媒体だし書くこともないから仕方がないと諦めつつ、残り3日となった「この世界の片隅に」は本当に届いて欲しい層に届くんだろうかといろいろ黙考。20代から40代から50代も含めた女性層にこそ観て欲しい内容なんだけれど、そーした方面に情報を届ける上で最も効果的なテレビがまるで動いていない感じがあってちょっと心配。ブランチだとかなんとかモーニングとか取り上げガンガンとやるのが今自分。なのにそうした気配はまるでなし。やっぱりいろいろ響いているものがあるんだろう。

 ただ雑誌では「婦人公論」が声を演じたのんさんを表紙にしてインタビューも乗せているから、出すべき人を出したといった印象。それがもうちょっと増えれば良いんだけれど、いわゆる女性週刊誌の方はやっぱり沈黙しているからなあ。芸能界と芸能マスコミの関係ってやっぱり凄いなあ。そうした方には届けられないにしてもより間口を広げるためにはこの映画が持ついろいろな面を取り上げそれぞれに関係のあるものと思わせるおとが必要。以前に任天堂の岩田聡さんと話した時に、Wiiでもってやることは家庭用ゲーム機を家族に関係のあるものにするってことだった。リビングに置いてもらって家族の誰もが触って楽しむものにする。そうすることによってWiiは実際に世界を席巻する家庭用ゲーム機になっていった。

 映画「この世界の片隅に」だったらゲームの「エースコンバット」をプレイした人ならそのムービーパートに関わった人の作品で、そして「BLACK LAGOON」のファンならハードなアクションだったアニメと共通する部分がある。そんな関係性を知らせることでそれならと興味を持ってもらうことに腐心してインタビューを構成したけど果たして効果はあったかな。どっちにしたってもう3日後。そこを一杯で埋めてそしてロングランから大ヒットへと、繋げていって欲しいもの。応援していこう。

 しかし結局「この世界の片隅に」に関して宣伝の側から何かリリースが来たり試写の案内が届いたりすることがなかったなあ。「マイマイ新子と千年の魔法」の時はそれこそ1人とか数人でもってイベントに行って様子を眺めていたけれど、今回は媒体とか持たない身では向こうも宣伝の案内のしようがなかったか、それとも認識の埒外だったか。放っておいても案内が来る大新聞の文化部学芸部じゃない泡沫メディアのその隅っこで日陰になって暮らしている人間では仕方が無い。コンテンツ見本市のスクーリングで観て無理矢理押しかけ記事にして、個人的にはそれで十分だけれどそれだけやってもまだ埒外っていうのも寂しいもの。それがメディアの序列って奴だとしても。とはいえもはや偉くなりようも大文化記者になりようもないんで、泡沫として遠巻きに可能な範囲で好きなものは好きだと行っていこう。見返りを期待しないのがジャーナリズムだから。うん。


【11月8日】 電撃大賞のイラスト部門の贈賞式で選考委員として登壇してトロフィーや副賞を渡していたのが「宇宙戦艦ヤマト2199」の出渕裕さん。講評も行って曰く「女性が強くなった。女性の時代が来たようなイメージを持ちます」と話してた。実際にイラスト部門コミック部門で11人受賞者がいて男性はたったの2人。小説部門を入れた19人でも6人で3分の1に満たない。「自分も専門学校で教えていたりするが、元気なのは女性。自分の方でやりたいというのを発信していく力は女性の方が強いと感じています」と出渕さん。「男性も頑張って欲しい」とも言っていたけど、こういう傾向はしばらく続くんだろうなあ。というかむしろ強化されていきそう。

 ただ「小説の挿絵とかプロとしてやっていく時にデザイン力もちょっと磨いて欲しい」とも。「女性の方は服飾系のデザインは良いが、未来的なものとかガジェット的なものになると弱点が感じられる。電撃だと先先に映像化も視野に入れている。そうなるとデザイナーを別に立てなくちゃいけない状況も出てくるので、その辺のデザインスキルを上げておこう」と話してた。アニメーション化された時とか、キャラクター原案に名を連ねることもあるけれど、ガジェット的なものをイラストの段階で別の誰かに手伝ってもらていたらそれがメディアミックス展開でもついてくる。適材適所とはいえやっぱり寂しい話だし、取り分を考えるならもったいない話でもある。何より仕事の幅を広げるって意味もあるから皆さん頑張っていきまっしょい。それにしても出渕さんとか逆にファッションとか勉強したんだろうか。そこがちょっと気になった。

 電撃大賞ではコミック部門で選考委員を務めプレゼンターにもなっていた芝村裕吏さんの新刊「エレメンタル・ローズ」(アスキー・メディアワークス、1200円)が面白いというか。ゲーム会社でスマートフォン向けのゲームを家にも帰らず作っていた父親が、ようやく帰ってきて息子にゲームを自慢した夜に過労死して残された息子がまずひとり。そして日本に並々ならぬ感心を持った金髪でハーフの少女がひとりいて、やがて来日して始まったストーリーは、「エレメンタル・ローズ」という位置情報を利用したARバトルゲームが、戦術を駆使して陣取りを重ねる遊びから人海戦術的に大量動員して拠点を一挙に奪取する大戦略的なものとなって起こった、水の精霊と火の精霊との渋谷を会場とした一大バトルが冒頭で描かれる。

 水の精霊軍団を率いるのは金髪ハーフのミカ・ハミルトンで、彼女には日本に転入してきた時に先輩だった大学生の柳智雄という青年が参謀めいた立場で付き従って、いろいろと戦略を練っている。一方で火の精霊軍団を率いているのは花見酒匂という中学生の少女だけれど、実生活ではアイドルをしていてそして巫女もやっている。何という属性多彩なキャラクター。とはえいそうした強烈なキャラクターだからこそ付き従うメンバーも少なくないところが今の「エレメンタル・ローズ」というゲーム。代表代行が実質面を取り仕切る軍団で半ば飾りながらも花見酒匂は火の精霊のトップに立ち、その下に宮林忠義という父親が「エレメンタル・ローズ」の開発者だった少年が参加しているという、そんな構図。

 そして水と火とがぶち当たった渋谷の戦いは、攻めたと見せかけ敗れたと思わせ伏兵を投入して巻き返すかと思わせ、敗れても構わないと思わせといった心理戦が主に柳と宮林との間で繰り広げられる。そして渋谷という舞台での勝負に決着はついたものの、見えて来たのは東京全体というもっと大きな範囲でのバトルの勝敗。それがきかっけとなって火の精霊軍団は追い詰められ、リーダーの花見酒匂の周辺に不穏な空気が漂い始めた時、行き会わせた柳が水の精霊の幹部であるにも関わらず助けるようなことをして、花見酒匂から妙に慕われそれに内心怒り嘆くミカ・ハミルトンといった構図でのバトルが繰り広げられる。

 アイドルで巫女で中学生の花見酒匂から「柳さんがいいです」と言われグッと顔を寄せられて柳は靡かないでいられるか。そこにドロップキックを食らわせながら、花見酒匂に柳から嫌われると図星を指されて泣き出すミカ・ハミルトンにやっぱりほだされてしまうのか。いずれにしても罪作りな柳智雄。一方の宮林はまだ表だってはいないけれども火の精霊の代表代行めいた男が慌てふためいて亡命騒ぎを起こす中で実力を見せ始め、図らずも亡命する形となった柳智雄と共闘しながら「エレメンタル・ローズ」の戦いに新風を吹き込む。それこそが父親が臨んだゲームの形への回帰だったという、そんなドラマもありつつツンデレ少女とアイドル巫女と優柔不断な青年との三角関係も楽しめる。何より「エレメンタル・ローズ」というリアルとバーチャルが重なったAR国盗り合戦ゲームが面白そう。自分だったらどんな闘い方をするかなあ。群雄割拠に戻った本来のゲームはどんな感じかなあ。そんな想像を埋めてくれる続きを希望。

 いろいろともにょりつつも映画評論家のでっかい声があって、はじめてマイナーなアニメーション映画が一般にも届くんだ的なとあるアニメーション監督によるアジテーションは、文芸評論家がひょいと手を出し語ったライトノベルがぶわっと売れつつ、ライトノベルを専門に読んでる泡沫がこれすっげえと言い続けても、毛ほども動かない状況を身に染みているだけにいといろと思うところも大。あとライトノベルのすっげえSFをすっげえと訴えてもSFに届かず、SFの有名な人がライトノベルにもこんなのあるんだと言うと途端に広まるようなこととかもしれないと思ったり。我が身の不甲斐なさがあるとはいえ、世間の権威に縋る態度は容易に変わりそうもない。アニメ評論家が王様のブランチに登場する日は来るか。そこが分水嶺。

 その写真自体を虐殺の証拠として提示することはせず、ただあの時代、中国の南京で何か起こっていたといったことを想起させつつ本論として、当時の南京に進駐した日本軍の軍人たちによる陣中日記を解読し、なおかつ現地に飛んで記述にあったことなどを検証していった結果として、どうやら虐殺に近いことがあったのだということを浮かび上がらせたのがNNNドキュメント「南京事件 兵士たちの遺言」だった訳で、そこで語られていた南京事件の“実在”を、もしも否定したいならそうした証言のひとつひとつを洗い直し、現地に飛んで証言の真否を問い直す必要がある。それが調査報道に対してできる唯一の反論方法だ。

 ところが、とある自称するところの全国紙では、番組の冒頭にイメージとして挿入された写真こそが虐殺を声高に叫ぶものだといった、まったく事実に反する難癖をつけつつその写真は虐殺を示したものではないといった見解を掲げることによって、事件そのものをなかったことにしようと企んだ、一人相撲とも言えそうな記事を書いて、誰もそんなことは言ってないだろうといった反論を食らって、世間からも何言ってんだとポン酢扱いされた。これで収まるかと思ったら、今度は番組に虐殺の写真が出ていたねえってことを書いて番組を評価した賞があったと引っ張り出して、虐殺と言っているのは自分たちだけじゃないのにどうしてそっちには抗議しないとかいった、まるでアサッテの方向に向けた反論を繰り出してきた。

 おいおいだから写真はあくまでイメージであって、主となっているのは陣中日記に対する検証で、それに対して反論を繰り出さなければ何の意味はないっていうのにそれはしない。賞の選考委員たちがたとえそれを虐殺の写真だと捉えたのだとしても、それは番組全体を通して文脈として南京事件があったと認識し、蓋然性として虐殺の場面とも受け取り得るといった認識があったことを示唆したもの。そこで写真は違いますよといくら言ったところで、内容そのものに対する反証がなければ賞の選考委員だって何言ってるんだお前らは、ってことになるだろう。それを分かっていれば普通は枝葉末節を論ってそれを否定することで、すべてを否定してみせようなんてアクロバティックもいいところの無理筋の反論なんて行わない。

 でもやってしまうのは、頭がポン酢でいっぱいになっているというよりは、そういった主張を欲しがる内部がいて、そういった主張だけを喜ぶ一部の読者がいて、そうした人たちに向けて何か主張しておくことで自分たちは闘っているんだといった印象を醸し出そうとしているから。あるいは実感を得ようとしているから。内向きにはそうした態度は認められ、讃えられても傍目にはただの難癖ととられるか、それ以前の語るにあたらない空論として退けられる。そこでやっぱりと無理な反論を行わないのが理性だし知性だけれど、そうしたものがもはや吹っ飛んだ内向きの王国に生きている人たちだけに、何かを言ってやったという行為を拠り所に群れ集って、慰撫し合いながらこれからも同じような難癖を付け続けるんだろう。結果起こることが何かは言うまでもない。まったくもってやれやれだ。


【11月7日】 「万流院礼央子さまの四天王、間絶美よ!」「うん知ってた」って言うほど核心を持って当初は観ていなかったけれど、その肢体やら口ぶりから何と話しにそうかと思うようになていたらやっぱりそうだった。一希薫子が寝台に寝かされ首を狩られそうになっていた場面で現れたギーの秘書が振り回したブブキは、薫子の拘束具だけを壊して救い出す。そして変身。おいおいどこにそんな衣装を隠していたんだ、って前も東たちのチームで正体を現した時も変身していたから、きっとリンズが何かで作り出しているのかも、肩のぬいぐるみも含めて。

 そんな「ブブキ・ブランキ」第2期は礼央子がどうにか目覚めてロリババアでありながらも育っていない体で東お魅了、はしていないけれどもとりえず理解を得て敵対ではない関係を築きそう。そして始まる決戦だけれどギーにはいったいどれだけの戦力が残っているのか。欧州とアメリカの2体だけでは王武にはかないそうもないしなあ。まあきっと何か用意しているんだろう。東が親切そうなおじさんに車に誘い込まれていたけれど、ギーとも知らずに乗り込んだそこで薫子以上に酷いことをされてしまったりして。間抜けだからなあ。行き当たりばったりというか。そんな雰囲気が全体にも満ちている作品だけに予想とかせずあるがままの展開を受け入れていこう。しかし絶美っていったい幾つだ。

 学校の名誉を傷つけた教員に対して生徒たちが意を決してその存在を否定したいと立ち上がり、検討した結果が“お葬式”という形態だったとしたらその発端としての意志は尊重したいもののやっぱり、人の生死に関わる決定を他人が勝手に下すことの悪趣味さは否定されるべきで、そうした反論も承知で答える言葉も持って行ったのならまだしも、それが格好いいとかいった態度で臨んだのだとしたらやっぱり悪趣味だし、相手によっては問題を提起されることも了解しておく必要があるだろう。

 そういったところまで考えが及んでいなかったのだとしたら浅いし、もしかしたらそれまでの学生生活で、いじめのひとつの形態として“お葬式”といった言動を繰り返してきて、それが平常になっていたのだとしたら、改めて警鐘を鳴らしておく必要はあるだろう。そうした心理があったのならそれは罪なのだから。そうでない覚悟があったのなら、罪は免れないとしても覚悟を買って言論で戦うといったこともあって良いかもしれない。多摩美術大学における一件はそうした意味で、アートと常識の踏み越えていいか悪いかを見極める一線とったものが何となく見えている。

 一方で東京デザインウィークの会場で起こった、学生による展示物が燃えて子供がひとり、亡くなったという事故については作った者たちが安全管理を怠ったという事実がひとつ、厳然とあってその結果として人命が損なわれたことに、当事者たちはアートだったとかいった言い訳の一切無しに謝罪し鎮魂に向かわなくてはならない。それが大前提。ただ、どうしてそうした事故を未然に防げなかったといった部分で今後、議論はされるべきだろう、越えてはいけない一線といったものを改めてくっきりと浮かび上がらせるために。

 まずは安全確保について。木製のジャングルジムに木くずをいっぱい巻き付けた作品が着火すればすぐに燃え上がることは想像に難くない。そしてそこに電気などを灯せばその熱で引火する可能性も考えれば分かるから、学生の方では灯りを熱のあまり出ないLEDにしていたという。人によっては配線の途中で熱が出るからそれでも危ないといった声もあるけれど、会期中のこれまでにそうした事態が発生しなかったことを鑑みるなら、LEDを採用した配慮はとりあえず効果を上げていたと言えるだろう。

 学生はちゃんと考えていた。そこまでは。ただ最終日を前にしてなぜか白熱電球を入れてしまった。どうやらそれが引火の原因とされているならどうして、そんなエラーが発生したのかを探求する必要だあるだろう当事者が分かっていなかったのか。言いつけを護らなかったのか。忘れてしまっていたのか。当人にとっては残酷だけれど、人の命が奪われた件だからそうも言ってられない。そこは確実にやっておかないといけないし、警察だって過失致死で立件するならそこは調べる。逃れられない。その先としてどうして当事者は気づけなかったか、ってことで白熱電球が熱くなることを今の若い世代は体感することがないまま、大人になっている可能性も浮かんでしまった。

 卓上ランプでも白熱電球だった時代は触れば熱さが分かった。漫画には白熱電球で暖まる人たちだって出てくる。そういう描写なり経験を経ていない若い世代が増えている。だから灯りならどれも同じとぶちこんでしまった。そうだとしたらどこかで教育する機会はあったのか。それとも不可能なのか。不可能なら誰かがどこかで面倒を見る必要があったのか。そんな可能性をいろいろ検討する必要が再発防止のためにはあるだろう。

 そしてやっぱり主催者の監督。いくら規約でどうと言いつくろったって、その管理が小用範囲内で起こった事故にまるっと責任を免れられると思う方が不思議で、何かあったら責任は押しつけられてもイベントそのものが次年度、開催不可能になる可能性を考えるなら徹底した調査と把握を行っておくべきであった。それが支援してくれている企業なり団体に対する責任でもあったのだから。そうした監督の目が行き届かずに起こった事故に対して、謝罪はしても当初の対応で事態を重大と思っていない節があったことも尾を引きそう。

 混乱が起きるとか来場者がいたからといったところで、ここでひとつの事故があったのなら別のところで同じ事故が起こるかもしれない可能性を鑑みて、そくざに来場者を帰すべきだった。そうした想像力へと向かわないところに何か、事態を軽く観ている雰囲気が感じられる。学生もそうだけれどそれは無知から来るものなら、こちらは分かっていてやらない確信犯。大人であることも含めてやっぱり何か、対応を取らされることになるだろー。

 そうした一線をギッと見極めた上で今後も、アートはやっぱり続いていくことになるだろう。中には権威を挑発するような不謹慎なものだってあるだろうし、人の醜さを暴くような観て不愉快と感じる作品だって出てくるだろう。それらを不愉快であり不謹慎だからと排除してはいけないし、すべきではない。ただ安全性が確保されていないといった場合、そして誰かを傷つけている可能性があってそれが覚悟のもおではなくて知らずやってしまっているような場合などをそれぞれに見極めながら、アートとしてできることをやっているならそれれをアートと認め感じていく必要があるだろー。何もかもがダメではなくてダメなのは何かをちゃんと分類して可視化する。それが果たして出来るのか。そこが気になる。

 これで何回目かになる電撃大賞の贈賞式を見物に。小説部門では大賞が2本出て1本は無人兵器が人道的に使われている戦争でそれでも人間が消耗品にされている状況をえぐったSFっぽいミリタリー系な1本と、それから難病に冒された薄幸の少女とのラブストーリーが1本、あっていろいろ楽しめそう。でも注目は幼女先輩がいておじさんがいてカードをパキッとやるゲームが登場する「キラプリおじさんと幼女先輩」って銀賞の作品か。モデルとなっているのはもちろんアレだけれどアレは小学館と組んでいたりするから果たして小説としてアスキー・メディアワークスから刊行されるのか。そこが目下の関心事。しかし小説部門、イラスト部門、マンガ部門あわせて19人くらい受賞者がいて男子は小説4人にイラスト1人マンガ1人の系6人。女子の創作におけるシェアはどんどんと高まっていきそう。これも時代か。アニメーション監督だって女性監督で女性原画で女性脚本で女性演出の作品が遠からず、出てくるだろうなあ。すでに半ばそうなっていたりするし。


【11月6日】 そして夜の10時半から始まった「天地無用! 魎皇鬼」の第4期スタートを記念してのオールナイトは11月末に発売予定の第4期の半分が流れたけれどもまるで知らない人がいっぱい。やっぱり第3期とそれから「天地無用! GXP」を見ておかないとついていけないのかもしないけれど、天地とか魎呼とか阿重霞といった面々を軸とした登場人物にどう絡んでいるかを類推し、確かめる意味で遡っていけるという意味では入り口になっているとも言えそう。そうやって天地無用沼へとハマっていく人がまた出そう。自分とか。第3期やっぱり見ておくかなあ。

 そしてOVA版の「天地無用! 魎皇鬼」が第1話から第6話まで上映されて2話以降とか実はほとんど初めて動くのを見たって感じ。フィルムブックは買いそろえて見ていたけれど、なかなか映像の方には手を伸ばす機会がなくボックスが出ても見送っていたら知らず積み重なって眺めるだけになってしまったというか。番外編でギャラクシーポリスの美星が大活躍する回だけはLDを買って見たから知ってる。あとはテレビシリーズでこれは毎週しっかり見たというか、実を言うなら「天地無用!」はそこから入ってフィルムブックや音楽CDへと向かったというか。

 聞くとテレビシリーズは梶島正樹さんによる世界観があってそれを本にOVAシリーズが作られた一方で、折角出た人気を活かそうとテレビシリーズが企画されつつキャラクターはほぼ同一ながらもストーリーに変更を加えたねぎしひろしさん監督で月村了衛さんシリーズ構成のテレビシリーズが作られたといった感じ。ポップで愉快でドタバタなテイストだったそれを毎週日曜日の午後6時半という、勤め人でビデオを持っていなかった人間には見やすい時間帯に放送してくれたことが、「うる星やつら」テイストを感じさせ就職してから5年くらい濃いアニメーションから遠ざかっていた人間に、今のアニメってそうなっているんだと気付かせOVAというものが凄いと思わせそっちへと向かわせたというか、オタクに戻させた。

 以後、「新世紀エヴァンゲリオン」やら「少女革命ウテナ」やら「機動戦艦ナデシコ」といった夕方のテレビ東京系アニメを見て深夜アニメも見てOVAにも目を向けさせパイオニアLDCといった会社への感心を強めさせた中で「Serial experiments lain」という作品に出会わせこりゃすげえと唸らせた。一方で富士見ファンタジア文庫から出ていた長谷川菜穂子さんによるノベライズを経由してライトノベルなんてものへの興味も誘わせ読ませていった果てにライトノベルばかり読んでいる人になってしまった。それがちょっとだけ仕事になっているとするなら「天地無用!」のテレビシリーズが原点で、それの大本にある「天地無用! 魎皇鬼」は自分の今ある立場の恩人とも言えそう。感謝するしかないんだけれど、その割には映像見てないなあ。なのでちょっと気分を改めDVDで良いから2期3期と追いつつ4期はリアルタイムで追っていこうかどうしようか。考え中。やっぱり自分はドタバタハーレムだったTVシリーズの地球編が好きなんだなあ。

 異世界に来たらチートでした系のお話が大量にあふれかえっていてもう食傷気味だなあ、なんて思っていたけどそういう設定でも突きつめれば面白くなるんだってことは槻影さんの「堕落の王」でも分かっていたんで避けずに面白そうなら読んでみるのが良いとは思いつつ、それでもあふれかえってどうにかならないかと悩んでいたところに現れたあまうい白一さん「俺の家が魔力スポットだった件〜住んでいるだけで世界最強〜」(ダッシュエックス文庫)は1巻がもう近寄るだけで威圧されて女の子たちがお漏らしドバドバの描写にちょい、引き気味になっていたけど2巻当たりで慣れたか新しい竜王の登場で話しが広がったりダンジョンが出来てしまうという事件も起こってチートが良い方向に発揮されてちょっと楽しくなって来た。

 第3巻でも今度は謎の落下物があってそれに絡んでいろいろと対策が行われたりする展開があってウサギさんたちのために家を作って上げる話しもあってと盛りだくさん。そんな中で主人公にあんまり欲がなく淡淡と日常を送りながらも良い場面では力を貸して慕われていく展開が読んでいて気持ちいい。世界がもう本当にダメかもってところに現れどうにか解決してしまうところも格好いい。「堕落の王」の怠惰の魔王とは違う意味で憧れる存在、ってところかな。でもだんだんと事件もデカくなって発揮される力も凄くなってとエスカレーション気味。そういった派手さとは逆の日常系の良さが損なわれないまま淡淡としつつちょっとだけ大変な日々が続くのか。第4巻をとりあえず待とう。

 もはや季が違っているといった「獄門島」の和尚の言葉を空耳したような状況すら生やさしくなっているのかもしれない、とある言論機関の真ん中当たり。早稲田で人物研究会ってところが砂金東京都知事選でメインどころとしては取り上げられなかった、いわゆる“泡沫候補”を呼んでいったい何を言いたかったのかを語ってもらおうとした企画に、差別的発言と行動が散々っぱら問題視されて裁判的にも負けている人物を混ぜようとしたらそれはヤバいといった意見が相次ぎ、外した流れで結局そうした企画そのものがなくなってしまった。何か物を言う機会が認められれないのは言論の自由といった観点からは好ましくないけれど、そうした自由を超えて危険な言動をする可能性があるのならそれは企画として抑えるべきだっていった意見にも理解が及ぶ。

 イベントの出演を断られたとしても、言いたいことがあるなら言える場所で言えば良いだけであって言論の自由そのものが奪われた訳ではないといったことも言える。そこに文句を言ってくるならその時こそ真っ向から立ちあがって戦えば良いだけで、騒動を嫌って企画を引っ込めた側に弱腰といった批判は向けられても、だからといって言論弾圧といった用件に当たるかは悩ましいところ。問題は、そんな一連の騒動に対して差別的は言動があったことを背景に出演を断られた人間の意見をのみ取り上げて、その観測だけを並べて時にネットスラングも交えつつ報じる自称であるところの全国紙のウエブサイトがあったってこと。そこには一部勢力による抗議が集中したってあるけれど、それは出演を断られた側が書いていることであって、そうした勢力が具体的に誰で、何を言ったかについての言及がない。

 どうしてそういうことをしたのか、っていった説明も載っていない。あるのはただただ断れた側の反論というか文句といったものばかり。それをネットスラングも変えずにそのまままるっと掲載している。まるでスポークスマン。問題化している案件に対して両論を併記してどっちが正しいのかを問おうとするジャーナリスティックな姿勢は欠片もない。まあそれも仕方が無いというか、先の都知事選でそうした候補者に張り付いてはスピーチを紹介しインタビューまでしている人間が書いている記事だから、一方的になるのも当然というか。いやいや当然であっていいはずもなく、それが新聞という公器を旨とする媒体の看板を背負ったサイトに掲載されるなんてもってのほか。なんだけれどそうしたスポークスマン的行為を止める節はなくむしろ煽り気味ってあたりにアクセスを稼げれば良いといった商売的な判断を超えて、そっち方面の言動がすっかり中枢に染みついて何の違和感も抱かなくなっているのかもしれなさそう。参ったなあ。

 あれれオープニングがないぞと思ったら真田信繁変じて雪村が「真田丸!」と言ったとたんにドーンとオープニングが始まりタイトルの「真田丸」が出るあたりにちょっとだけ、北村龍平監督のラストシーン後にタイトルを持って来る演出を思い出し、そしてオープニングをラストに持って来るアニメーションの盛り上げ回なんかを思い出したらネットのアニメクラスタはやっぱりアニメを思い出していたけれど、そうでない普通の人には意外だったみたいでスポーツ新聞が驚きの演出だったと取り上げている。そういう意味ではやっぱりアニメって演出の実験室なのかも。こうなると次はクライマックスシーンで主要キャラクターが歌うイメージソングあたりが来るかなあ、とか思っていたらそれはとっくの昔に大河ドラマが「獅子の時代」でやっていたのだった。菅原文太さんが走るバックにダウンタウンファイティングブギウギバンド。格好良かったなあ。そういう意味でやっぱり大河は凄い。いらぬお節介がなければ。誰かの顔色うかがってご当地やるとか。来年はどうなるかなあ


【11月5日】 38歳でJ1の試合にチームで唯一フル出場を果たした選手はなるほどトップ中のトップ選手として遇せられるべきなのかもしれないけれど、それで勝って優勝を果たせたかというとそうではなく、だったら負けずに降格を免れたのかといったところでの判断を加味して、価値ってものを算出した場合にこれくらいが妥当ってことになったのかなあ。少なくとも体力がこれからどんどんと落ちていく中で年俸が上がるとは思えず、そして下がっても5000万円なら良い方なんじゃないとみるのが水準としては妥当、そして経験を加味して貢献も乗せて換算するとちょっと情がないって言いたくもなるところ。そんな理と情の間で揺れ動くんだろうなあ、横浜F・マリノスの中澤佑二選手の去就は。

 その卓越した守備のセンスとそしてチームを鼓舞する闘争心、時に得点も奪える力なんかをまだまだ欲しいチームはある訳で、それがトップクラブではなかった時にやっぱり年俸もそれなりに抑えられることになりそう。それでも出場できるなら、って出て行く選手もいるだろうけど今だって出過ぎなぐらいに出ている訳で、それで働いた分をもらえないのはやっぱり腑に落ちないって思えるかも。でも出て行って同じだけもらえないなら理不尽でもいた方がいいような気もしないでもない。どうなるか。ジェフユナイテッド市原・千葉には来てくれないか。くれないわなあ。中村俊輔選手だったらどうだろう。あのパスセンスとフリーキックは欲しいなあ。どうなるか。

 ようやく見た「装神少女まとい」は神社の娘ながらも別に力を発揮せず、それでいて神様が見えてしまう不思議なところを見せていた草薙ゆまが過去に力を封印されていたことが分かって、それが破壊されて現れたのが震える狸に済ました狐。でもって変身して人型になってはとっとこ逃げだし明治神宮へと入っていく。そこは霊験あらたかな場所なのに案外平気なのはたかだが明治に入って出来た100年ちょっとの神社でたいした力がないからなのかどうなのか。それとも八百万の神様は懐が広くて誰でもオッケーなのか。分からないけれどもそんな狐と狸を仲間に入れてゆまはいったいどんな纏創を見せるのか。見えないのか。そんな興味もあって見続けよう。

 迫力の戦闘シーンで引っ張っていく「DRIFTERS」は島津豊久が刀を振るえば首が飛び那須与一が弓を放てば相手が穿たれ血が飛び散る。残酷描写もいっぱいながらもたいした規制もなしに放送されるのはそれがTOKYO MXだからなのか最近はちょっとゆるくなったのか。分からないけれどもテレビ東京だったら深夜でもちょっとダメかもしれないなあ。ともあれエルフは村を捨てて代官の根城へと侵入し、そこで女子供が非道な扱いを受けていると分かって吹き飛ぶ豊久の理性、っていうかそんなものあったかと思われるけど刀を持っていない相手には斬りかからないくらいの理性はあった。でも婦女子を非道な目に遭わせていればこれは関係ない。全滅必死。それもまた凄惨な描写になりそうで、やっぱりTOKYO MXだったからこその放送可能。感謝しよう虎ノ門。

 立てよアニメ評論家、ってアニメーション監督がブログで書いてはあれやこれや言われていて、なるほど「この世界の片隅に」についてちゃんとアニメの人たちも褒めているけどそれが映画の評論で有名な人に及ばないっていうのも半分くらいはメディアの事情で仕方が無いなあという気もしないでもない。アニメの方面がほかの全てを置いてこれを推す、って言ったらそれならうちのは触れてもらわず結構と情報を出さなくなって仕事が滞るのを心配するのをだらしがないって言いたいんだろう。なるほどそういう不安もあるにはある。映画の方と違って勝手に何かを喋ってそれで食える世界でもないから。

 でもアニメーション監督の人は、それでも命をかけて欲しいんだろうなあ。そういうことを許容する業界に、だったらしていってよと言い返しもしたくなるけれど。一方で映画の世界でメジャーな評論家に発進力で及んでないじゃん、というのもこれも使う側のメディアに言ってやりたいことで、そもそもがアニメ評論の人がワイドショーだのブランチだのに出てコメンテーターとして何かを推しているかっていうとそんなことはない。そういう人たちではバリューがないと思ってテレビは呼ばない。そういうものだ。だから発進力がないのをアニメ評論家の側にされても困るなあっていうか。

 これは書評にも言えることで一般の書評の人がライトノベルとたまたま褒めればそうかすごいと評判いなるけど、普段からライトノベルを読んでいる専門の書評家がこのライトノベルがすごいと言ったところで世間は知らぬ顔。そしてこれだけライトノベルが売れているにも関わらず、ライトノベルの書評家がテレビとかブランチに出て喋っている姿なんて見たことがない。どうしてか。一般文芸には権威めいたものがあってライトノベルにはそれがない、ってことなんだろうなあ、今のところ。そこでなんでライトノベル評論家はこのライトノベルを大声で喧伝しないんだと言われたって、喧伝してるよ、でもそれをメディアが大声にしてくれないんだよって言うしかない。哀しいけれど、これが現実。すいう権威主義のメディアがぶっ壊れる方が先なんだよなあ。どうしたものか。

 森口博子さんが真正面いなってお辞儀をしてくれて見える谷間に感動したというよりは、やっぱり目の前で「機動戦士ガンダムF91」の主題歌「ETERNAL WIND〜ほほえみは光風の中〜」を歌ってくれたことに感動をした「機動戦士ガンダム THE ORIGIN4 運命の前夜」のプレミア上映会。取材で入って見ていたら御年ちょめちょめだけれど美しく歌声も澄んだ森口さんが登場して、この作品の主題歌を含む3曲を聴かせてくれた。やっぱる巧いなあ。こういう巧い人がちゃんと生き残って歌い続けていられるのも、ガンダムがあったからと思うとやっぱり映像の力は大きいし、それがロングセラーとなった映像に付随した音楽は強いってことが窺える。世界に出て行くときに音楽だけより映像なんかとくっついていった方がいいとちょっと前、丸山茂雄さんも言っていたけどそういうことなんだろう。森口博子さん、まだまだ10年は戦えるし、その際には「ETERNAL WIND」を聞かせてくれるだろう。機会がある限り見に行こう。

 野々宮ちささんの「華族探偵と書生助手」のシリーズ第4作となる「神戸パルティータ」が登場。書生が使えている実業家の孫娘がおきゃんで引っ張られて神戸に行ってはロシア人作家の失踪とそしてロシア人ヴァイオリニストの愛器紛失という事件い巻き込まれた庄野隼人だったけれども、ヴァイオリニストの知人だった小須賀光もいたから何とか事件は解決。そこにはロシアという革命によってなくなりソ連に変わった知に生まれ育った者たちが故郷に抱く切望と憎悪といった複雑な感情が見えて面白かった。これが故国を失うということか。未だ日本には経験がないけれど、いつかそうなる時が来るのかな。経済は沈滞して技術も衰退へと向かう先、巨大な市場が武力ではなく経済力で飲み込みにかかったその果て、統治も変わっていくかもしれない。それを嫌がったところでどうしようもない。だから何とか経済と技術を立て直さなくちゃいけないんだけれど、阿呆な政権は武力だけで何とかなると思っているからなあ。あと憲法改正で。そんな国力かっていうの。やれやれだ。


【11月4日】 そして気がつくと名古屋グランパスエイトがJ2に落ちていた。Jリーグが始まったときにいたオリジナル10と呼ばれるメンバーでこれで1度も落ちたことがないのは鹿島アントラーズと横浜F・マリノスってことになるのかな。草創期に名古屋を最下位争いをよく演じていた我らがジェフユナイテッド市原・千葉は落ちてもうずいぶんと経ってそしてなかなか上に上がれずにいるし、東京ヴェルディも落ちて1度は上がったものの、また落ちてからは昇格プレーオフ圏内に届かないころすらよくあってJ2が定位置になっている。逆にサンフレッチェ広島とか浦和レッドダイヤモンズ、そしてガンバ大阪は落ちても割とさっさと上がってJ1で上位争いをしたりする。どこがいったい違うのか。そして名古屋はどっちになるのか、ってあたりが目下の興味の向かいどころか。

 選手層はそれなりに分厚くても采配が滞ってうまく回せずずるずると負けてしまう試合が続いてそのまま落ちてしまったところは、立て直してすぐに上がっていけるし世代交代がちょうど来ていたところも、新しい戦力をうまく使いさえ出来れば割とさっさと上がっていく。対して選手層はそれなりで実力もまあまあ。それでいて新しい戦力は育たずどこかから取ってくるだけの解消も無いチームほど、落ちてからなかなか勝てずにJ2暮らしを続けるって傾向があるような。あとは監督選び。戦術を教え込んで守備をしっかりしつつ攻撃にも良い選手を持ってこれれば勝てるけど、なんとなくやって来て強いかもと思われている監督だと、意外な選手のいなさに戸惑いそれでも形にはめようとしてはまらず負け続ける。そんな感じか。

 じゃあ名古屋は。闘莉王選手とかを間際に引っ張ってくるくらいだから選手層は足りてないし、小倉隆文さんが監督だった時代に戦術らしいものはなにも作れず今も再構築が出来ていない感じ。新しい戦力は見えずトップ選手はこれできっと出て行きそう。親会社がいくら大金持ちでもそれだけじゃないってことはこの何年かの状況が現しているだけに、敢えてJ2から脱出するために大枚を払ってスーパースターを連れてくるとか、スーパー監督を招聘するなんてことはしなさそう。それこそ中堅までは維持できていたストイコビッチ監督をどうして辞めさせたんだ、って話が蒸し返されそうな点は、帰国してジェレズニチャルを何度も優勝させたアマル・オシム監督を辞めさせた千葉とも重なりそう。ってことはやっぱり当面はJ2暮らしか。それも結構だけれどとりあえず、フクダ電子アリーナで名古屋との対戦を見られるのは嬉しいかな。それがJ1だったらなあ。来年こそは。そう言って次で8シーズン目。大丈夫かなあ。

 文化庁メディア芸術祭20周年企画展の上映で岩井俊二監督の「花とアリス殺人事件」をやっと観たら傑作だった。本上映の時もアニメスタイルでの上映時も見逃していたのを悔やまれるくらいにストーリーとして面白くアニメーションとして楽しくゾクゾクしつつクスクスしながら見ていけた。ロトスコープという技法が使われているアニメーションとして言うなら人の動きの生々しさを取り入れつつも、女子中学生という表面を貼り付けて生身の役者の体温とは違った可愛らしさを出している。アクションにしても日常の動きにしても、生身ではやっぱり漂うキレといったものが、ロトスコープのアニメーションではぬもっとした動きに一旦変換されて、どこか絵空事のような世界の中で繰り広げられる青春、といった雰囲気を醸し出す。

 動きを読み取ってそれをもとに3DCG化するモーションピクチャーズって技法もあるけれど、それだとどっか泥人形的な雰囲気になって表情から精気がちょっととんでしまいがち。動きを読み取りいったん絵にするロトスコープはそんなところでアニメーションとしての表情のぬくもりめいたものが残るし、動きにも人間の手が介在した文字通りの人間味って奴が乗ってくる。そんな絵はだから、イジメもイジケもちょっとしたイベント的な空気をまとって見る人に押し付けがましいメッセージを放つ手前のある種の他者的な観察の意識をもたらす。のめり込んで一喜一憂するというより、やれやれといった感覚で眺めていける。それがアニメーションになっている効能なのかもしれない。あるいは技法としてアニメーションを選んだ理由というか。

 そんなスキンを被せられた映像だからこそ演じる声のニュアンスにもどこか笑いが漂う。どこか大袈裟だけれど生身ならアクションや表情に引っ張られて嘘くさくなる。かといって普通の作画ではキャラの派手さに演技の質的に及ばないのがリアルとバーチャルの中間、ロトスコープのアニメーションという手法だと不思議とかみ合い、キャラの仕草や表情の変化と、声のトーンがかみ合って感じられる。これはまあ、演じた役者がうまかったのかもしれないけれど。鈴木杏さんと蒼井優さん。あとは鈴木蘭々さん。みんな本当に女子中学生みたいだった。ざっくばらんになったところとか最高だった。

 ストーリーはもう最高で中学女子ならではの思い込みやら先走りやらがふんだん。会話とかも楽しくて、ちょっとありえないくらいに毎日がコミカルに過ぎていく。イジメとか差別とか、あって不思議ではない世界でそうしたニュアンスもありながら、それぞれが工夫して自分で突破していくのも良い。それはファンタジーかもしれないけれど、そうあってほしいというキャラクターたちの変動に触れられる。もう完全に完璧に面白いこの映画をまた劇場で見たいもの。企画とかあれば絶対に行こう。

アカデミー賞の長編アニメーション部門へのノミネート前ノミネートらしい。ここから選ばれたたぶん5作品くらいだっけかが本ノミネートされてそこからオスカーが出るという感じ。ここまでの段階だと過去に「東京ゴッドファーザーズ」「パプリカ」でノミネート前ノミネートまで行ったけど本選には進めず。でも今となっては世界に知る人の多い監督になっている訳でここにリストアップされるだけでも凄いってことだろうなあ。つまりは原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」と新海誠監督「君の名は。」は。っていうか1月に「Miss HOKUSAI」は北米で公開されているから資格はあるけど「君の名は。」ってどうなんだろう。確か北米で公開されてる必要があったんじゃなかったっけ。いずれそうなるという予測も含めてのことなのかな。こっそり公開されていたのかな。ちょっと興味。

 そして並ぶ作品の凄いこと。「ファインディング・ドリー」に「ズートピア」あたりが強者として出てきそうだけれども他にも「アングリーバード」があるし「アイス・エイジ」シリーズ最新作があるしとメジャーなものがずらり。加えてライカが作った「kubo」がありフランスが出してきた「Long Way North」があるしスタジオジブリ作品ってことで日本のメディア的にはウワウワ言いそうでそれと「君の名は。」が並んで個人的にはど本命の「Miss HOKUSAI」が脇に追いやられそうな「レッドタートル」がいたりする。もう強烈きわまりないラインアップの中でいったいどれが本選へ行くか。そして何がオスカーに輝くか。って個人で気にはだから「Miss HOKUSAI」なんだけれどそれだと来年、またしても日本からってことで「この世界の片隅に」が取れなくなっちゃうかなあ。良い物は良いんだと認めてくれるかなあ。

 テレビのワイドショーがお隣の国の大統領がお友達をいっぱい政権内に引き入れていることを取り上げていろいろ論評していたりするけれど、それが日本にとって、日本国民にとってどれだけの重大事かって考えると他にもっと取り上げるべきニュースがあるんじゃないかと思ってしうのもの。TPPなんて将来どころかすぐ未来の日本にとって大変なことが論議されている国会の方が重要だし、あっちに負けずお友達をいっぱい引き入れている天皇陛下の退位に関する有識者会議の方も問題。背後に見え隠れする団体なんてのも大きなお友達とも言え、そんなお友達に引っ張られ引き摺られてこの国がとんでもない方向に行きつつあることを、隣の国のどうでも良い話をやるより大きく取り上げるべきなんじゃないのかなあ。などと言って聞くメディアでもなし。そうやって滅びていくのだった。やれやれ。


【11月3日】 日本雑誌協会が調べている雑誌の印刷部数で2016年7月〜9月の数字が出ていて「週刊少年マガジン」がついに100万部を割ってしまった。創刊から間もない1967年ごろに「巨人の星」やら「あしたのジョー」やら「天才バカボン」やら「ゲゲゲの鬼太郎」やらを擁して100万部超えを果たしてから50年弱。一時は400万部にまで達してあの「週刊少年ジャンプ」を抜いた時代もあった少年漫画誌だったのに、ここまで凋落してしまったのが単純に若者の雑誌離れだけというよりもやっぱり漫画そのものに世界を動かし引っ張るだけのパワーを出せなくなっているから、なんだろーかそれともやっぱり漫画を読む人口が減っているのか。その当たりの議論のたたき台になりそうな印象。

 電子書籍の方に移っているって意見もあるにはあるけれど、少年漫画誌の性格から考えるなら13歳の中学生から18歳の高校生の間でやっぱり相当数の読者層を確保しておいて欲しいわけで、そしてそうした世代がスマートフォンを持ってこうした雑誌を電子書籍で毎週毎週購入しているのかっていうと悩むところ。それとものはやそうした世代は漫画を読んでいなくって、主要読者は大学生以上でそして電子書籍に移行しているから減っているのだと言うのなら、もはやそれは少年漫画誌というカテゴリー時代が存在の意義を失っているとも言えるんじゃなかろーか。つまりは未来がないってこと。今まで読んでいたから続けて読むってのはあっても、大学生になっていきなり少年漫画誌を読むようにはならない訳で。

 青年誌だって「ビッグコミックスピリッツ」が15万部くらいで10年前の多分半分以下になっていて、「イブニング」とか「モーニング」だってたいした数字を残せていない状況でいったい漫画に未来はあるのか。あるとは思うけれども雑誌に掲載されてそれを読んでる誰もが知ってる国民的漫画ってのは「ONEPIECE」あたりを最後になくなっていってしまうんだろうなあ。そして一部に知る人だけが知っている漫画がそれなりに話題になって語られる。まるで音楽業界みたいだ。せめてそういう状況に一石を投じて誰もが読んで欲しい漫画をピックアップして伝える役割を「マンガ大賞」が果たせれば良いんだけれど。そろそろ投票する漫画を決めていかないと。何にしようかな。

 国会議員が国会の中で明治こそが最高明治は神武天皇と繋がっているとか言っては11月3日を「明治の日」にしようと大声を上げているみたいだけれど明治維新なんて江戸幕府に対する地方の潘のクーデーターみたいなもので、天皇は勝ちそうなところに乗っただけのこととであそこで担ぎ上げに失敗してたらどうなっていたか。南朝北朝みたいに分裂したかもしれずその後に欧米列強に攻められ日本は雲散霧消となっていた可能性だって高い。薄氷を踏むようなシチュエーションで徳川家が降りてとりあえず日本は保たれたのを何かとてつもない凄いことをやったと騒いで尊ぼうとするその頭の単純さがどうにも鬱陶しい。だったら今、政権に逆らい維新だ何だとやったら政府与党は何をする? 潰すだろうなあ。自分たちを中心に正義を振りかざす輩にはなりたくないけど、そんな輩の思惑が入れられやすい状況になっているのがこれまたどうにも面倒くさい。嫌だなあ。

 そんな鬱陶しい風潮を裏で煽っていたりする日本会議とやらが何か押しているのが「サザエさん」だそうで、3世帯が一緒に暮らしてこそ家族の間の慈しみとか生まれるとかいって、それを破壊した憲法24条を改正しようとか言い出している。なんてポン酢ぶり。家庭で一家団欒だとか三世帯同居だとかが不可能になったのは、そんな大勢が住める家なんて土地が上がって物価も上がって相続税だって増えていって固定資産税はあまり下がらない中で普通には持てなくなっているから。「サザエさん」なんて世田谷に一軒家な訳で、それを手本にされたらはっきりいってたまらない。世田谷でなければ大丈夫かというと今度は仕事が地方にはなくって、街へ都会へと行かなくちゃいけない状況にあって地方が寂れていってしまっている。経済政策の失敗で景気の低迷も続いていて、改善される未来は見えない。それは憲法24条のせいじゃない。安倍総理のせい。それだけのことだ。

 そんな状況を解消するのに憲法24条の改正なんて必要ない。安倍総理が辞めるか悔い改める課して景気を良くして地価を下げ、固定資産税だって低くして誰もが大きな家を持てて、そして地方移転を進めてそこで大勢が仕事に就けるようにして車で10分も走れば職場で午後5時半には家に戻って家族と団らんして遊びにだって行けるようにすればすぐに解消するだろう。それをやれ、って言ったところで通じる相手でもない。なぜなら憲法改正が目的であって国民の幸せなんて二の次だから。そんな人たちが推す政権がどうしてこんなに続くのか。そこが分からない。貧乏にさせられ身動きを取れなくさせられ考える機会を奪われ言うなりになってしまっているのかな。

 学生CGコンテストのエンターテイメント部門の審査会が開かれるってんでアーツ千代田3331まで行って時間があったんで漫画を読める部屋に入ったらいっぱい人がいた。最初の頃は誰も居なくて本当に読んで良いかびくびくものだったけれど、今はちょっぴりブックオフ感も出ていたんでとりあえず成功ってことで。でもってまだ時間があったんで、上映の部屋でデジタルアート(ノンインタラクティブ)の受賞作を鑑賞。森本晃司監督の「ハッスルとき玉くん」と「鉄コン筋クリート」なんていったい何年ぶりにみたんだろう。それこそ15年とか20年近くとか経っていたりする作品だけれど3DCGでありながらアクションとか表情とかは今も通じるハイクオリティ。作れる人が作ると技術は今より劣ってても今以上のものを作れてしまうんだなあ。そんな才能がメインストリームに来ないこの国って、やっぱりちょっと不思議かも。何やっているんだろう森本さん。

 あとは今はいろいろ活躍している坂本サクさんの「フィッシャーマン」が砂漠に巨大なトビウオが現れニジマスが現れ秋刀魚も出てきて食べられちゃったりした中でタイタニックが突き刺さり戦艦大和が倒れたりして楽しかった。滅びかけた地球の物語。これってどこでどういう形で上映されたものなんだろう。「ウサビッチ」の富岡聡さんによる「Justice Runner」は全部が線路の不思議な舞台で小さい列車が走り繋がり部屋に飛び込み住人を大矢の所へと連れて行った。楽しい展開とハイクオリティのCGが結びついた1編。これも個人制作ものだったのかなあ。今はもうないノンインタラクティブなCGアニメーションを評価していたこの部門。アニメーションと重なりつつちょい違うけど面白い作品を出していたなあ。

 それは学生CGコンテストに逆の意味で言えることか。CGコンテストとは言いながらも受賞するのは3DCGがバリバリのムービーとは限らないし、部門もエンターテインメント部門とアート部門があってそれのどこがどう違うのか、分からないけれども何と花詩に分かれていて、けれども同じ作品がノミネートされていたりする。もはやCGがツールに過ぎずアニメーションも映像とさほど意味が違わなくなっている中で、学生という資格から放たれる新しくて斬新なアイデアであり表現でありストーリーに期待がかかるっtけおとなのかも。そんなエンターテイメント部門の最優秀賞に輝いたのは岡崎恵理さんの「FEED」。これでいったい何冠だ? 分からないけど審査ではサイバーコネクトツーの松山洋さんがエンタメかなあといった部分で逡巡しつつ、5本が上がった中で2つ手を挙げる場面でちゃんと手を挙げ塩田周三さん、水崎淳平も入れて満票だった。アートだけれどエンタメ的にもピンと来るものがあるってこと。でもアート部門でも賞を獲りそう。どうなるか。そっちの審査も見に行こうかな。


【11月2日】 良識と常識を尊ぶならば共和党の候補になる前に脱落していて不思議がなかったドナルド・トランプが誰よりも支持を集めて候補となって大統領選挙に登場してきたこと自体が吃驚な事態だけれど、政策としては真っ当で人気もあるニヒラリー・クリントンが民主党の候補として立って来ただんかいでさすがに誰もがヤバいと感じたか、3度の公開討論を見てこれは無理だと気付いたか、トランプ候補が支持を落としてどうにか収まるところに収まるだろうと思われたのもつかの間、FBIがしゃしゃり出てきてはヒラリー・クリントン候補のメール問題を蒸し返しつつ夫のビル・クリントン元大統領の話も載せて調査に乗り出したところ、カクンとヒラリー・クリントン候補の支持が落っこちトランプ候補の支持が上がってメディアによってはトランプ候補の方が上って結果が出てしまった。

 傍目には私用メール問題なんてそれで何か国益が損なわれた訳でもないのなら、マナーの範疇で留めておいてあとは注意しますで済ませる話のような気もしないでもないけれど、どうもそれだけでは収まらないところに不思議さを覚えつつ、それでもって10ポイントくらい離れていた差が埋まり逆転までしてしまうあの国の不思議さにも呆然としてしまう。まだ投票まで時間はあるけど、差を一気に詰めてひっくり返した勢いってのは結構重要で、ここから旋風が吹き荒れそれに飲まれるように投票行動が煽られた果て、地滑りのようにトランプ候補が買って大統領に就任、なんてことも起こりかねなくなってきた。結果、世界はいったいどうなってしまうのか。日本は。フィリピンのドゥテルテ大統領が口は悪いけれど政策は真っ当なようにトランプ大統領も政策は良識と常識を貫くのか、それとも。すべては来週に決まる。地球の運命すらもあるいは。

 そして気がついたら配信が始まっていた「RWBY」の第4シーズン第1話。圧巻の強さを見せ血得たはずのシンダー・フォールが弱体化しつつ一味の中で嘲られていたりして、そこに現れたボスにとりあえず仲裁されながらも残った面々が灰色の眼を持った少女、すなわちルビー・ローズの探索に乗り出すことになる。そしてルビーはチームRWBYだったはずのワイス・シュニーともブレイク・ベラドンナとも別れ姉のヤン・シャオロンは腕を失い療養中のこところ1人、抜けだしこちらはピュラ・ニコスが抜けざるを得なかったチームJNRRからジョーン・アークとノーラ・ヴァルキリーとライ・レンの3人といっしょに旅をしている最中、現れた巨大なグリムを相手に戦っている。

 そして倒しつつジョーンが新しい剣と盾を手に入れピュラ・ニコスの面影を引き摺りながらも向かう新たな地。けれども敵のじゃまが入ってきそうな中でいったいどな戦いが繰り広げられるのか、ってあたりが序盤の展開になるのかな。あれでワイスを交えてコメディみたいなことをしていただけに、重苦しい展開が続いて初っぱなから息が詰まりそう。傷と負ったりいなくなったりと悲劇の陰もちらつく中、どうやってカタルシスも得られるストーリーへと復帰させていくのかが脚本チームの腕の見せ所になるんだろう。造形については前よりCGが高度化してディテールが尽きすぎチープさが消えて見やすくはなったけど味はややマイルドになってしまったかな。まあそれも慣れだ。戦闘シーンは集団戦が戻ってきているからそれを練り上げ、モンティ・オウムばりの連続性があって驚きもたっぷりのバトルを作り上げてくれることを願おう。

 2029年12月31日の23時57分から3分間。それはまだ訪れない未来だたけれどもその時間に自分が何をしているかを、強制的に見せられてしまう病気が発生した。菜を夢現譜症候群(ディー・スコア・シンドローム)と呼ばれる病気は2021年に発見されては時に個人を、そして時には街全体に暮らす集団をまとめて未来の3分間だけに送り込む。その間、肉体は意識を抜かれて弛緩してしまうため、乗り物を運転していれば事故が起こり空を飛んでいたらあるいは落下したかもしれず、そうでなくても転んだりぶつかったり燃えたり溺れたりして命を失う人たちが何万何十万といった単位で現れた。

 パンデミックと呼ばれるそういう現象だけでも厄介なのに、この病気にはもうひとつ、副作用めいたものがあった。それは見せられた未来に絶望するということ。数年先のその未来が見えなかった場合、それは命を失っていることを現す。いつ、どうやって死んでその時にたどり着けないのか分からない中で生き続ける恐怖が、自ら命を絶つような好意に走らせることもあった。そしてそれが未来を引き摺る形によってどこかで関わっていた人たちをも死なせる影響をもたらした。あるいは未来に大犯罪者となっていたり、身近な人を失っていたりといったことも分かってしまった。そんな運命から逃れようとして命を絶てば起こるのは同じ周辺をも巻き込んでのキャストアウト。だから動くに動けない。

 そんな設定を持った永菜葉一さんの「インスタント・ビジョン 三分間の未来視宣言」(スニーカー文庫)で主人公となっているレオは、ある街に暮らしていて起こったパンデミックで自分の未来を見せられた。それはロンドンの時計塔前で数百人を殺戮する殺人鬼としての自分だった。ヒーローに憧れている真面目な自分がどうして。分からないけれども運命はそうきまっている。その場に居合わせた者たち、そして殺された人々が同じ未来を見ていたからにはやってくるのは必然。それが誰にでも分かってしまった世界で、レオは将来を危険視されながらも、目覚めた異能をふるって事件を収拾させるしごとに就いていた。世界をそんな風に変えてしまった「スクルド」なる人物を探して運命を変えるために。

 すでに定められている未来に向かって、いかんともしがたい状況に喘ぎながら、それでもどうにかできるかを模索しながら戦う主人公という設定がユニークで、なおかつその主人公が未来に大犯罪者として糾弾されることが確実視されながらも、今はまだ世界で普通に生きていられる状況も面白い。針のむしろに座らされながら、逃げるに逃げられない境遇に普通だったら神経も参るだろう。けれども世界を巻き込む可能性を嫌がり、ヒーローとして頑張る姿に惚れる。自殺といった逃げ道を用意させない設定も巧みと言えそう。そんな雁字搦めの世界に現れた隙間のようなものからのぞく、世界を大きく変える可能性。それを成し遂げることができるのか。「バットマン」のジョーカーのように立ちふさがる敵は次ぎにどんな手を使ってくるか。宇宙そのものの運命すら描きそうなスケール感を持ったSFライトノベル。続きが今から待ち遠しい。

 映画を見たばかりってこともあって「聖の青春」を書いた大崎善生さんと、そこで描かれた村山聖九段の師匠でもある森信雄さんが登壇するイベントを神楽坂で。聞くと村山九段はどこかお茶目でそして相手のことを見抜いてて、逃げようとすると信用せず真剣に向き合ってくれれば答えるといった感じだった人っぽい。そしてやっぱり本が好き。アーヴィングとかヴォネガットとかディックを読みくらもちふさこさん萩尾望都さんを読みボストンにピンクフロイドを聞いていた。あの時代のあの世代では割ととがったサブカル人。その一方で鬼気迫る将棋を指すプロ棋士。どんな人間だって今だって誰からだって興味を持たれそう。こんな人間だった、って答えは映画にある。だから見に行ってと言おう。


【11月1日】 映画「聖の青春」でハッとさせられたのが冒頭、関西将棋会館まで引き摺ってこられた松山ケンイチさん演じる村山聖が駒を取り出し将棋盤に玉をバシッと置いた場面で、響く駒音がとてつもなくプロの駒音に近かったから。別にそんなに詳しく知っている訳じゃないけれど、将棋の中継なんかで聞こえてくる音に遜色のない響きで、これを出すためにいったい松山ケンイチさん、どれだけ駒を盤に叩きつけてきたんだろうかと考えた。他のシーンでも駒を扱う手つきが実にスムーズ。馴らしたんだろうなあ。体型をまるっと村山さんみたいにしてしまったんだから、それだけなりきって駒音が違っては意味がない。そんな信念が見えるからこそ浮かぶ鬼気迫る心情にも嘘がない。迫真の演技。というより演技を超えた憑依。必見の映画だ。

 現実の将棋界では渡辺明竜王が自分は三浦弘行九段の不正を追及しろ、それがなければ竜王戦を降りるとまでいって主催者側に迫ったといったことはないと釈明めいたものをしていて、それならそれで良いんだけれどそんらどうして日本将棋連盟が三浦弘行九段の不正の真否を徹底的に調査しないまま辞退を進めて謹慎へと追い込んだかが分からない。対局したくないとでも言わなかったらあそこまで急いで相手を変えようなんてしなかっただろうし。でもって大騒ぎになって自分の態度に矛先が向き掛かったんで火消しに務めた、なんて見方も逆に出てくるだけにちょっとやぶ蛇。そういうところまでは読み切れないんだろうなあ、羽生さんみたいに泰然として棋士への信頼を口にし続けるのがやっぱり最良なんだろうなあ。さてもどうなる。

 「脱兎リベンジ」(ガガガ文庫)の秀章さんが書くんだから「サークルクラッシャーのあの娘、ぼくが既読するー決めたらどんな顔するだろう」(スニーカー文庫)も絶対に高校当たりの文化系の部活を舞台に男どもと一部に女も交えたチームに新しい女が加わって始まる大惨事を描いたドタバタ青春ストーリーだろうと思ったら、まるで違って舞台は異世界でジャンルはファンタジー。男が4人に女が1人の冒険者たちのチームがあって周囲からも最強と見なされていて、その日もかつて存在した七氏族が残した軍資に迫る情報を得ようと攻略したダンジョンの奥深くで、ひとりの眠っていた少女を発見する。記憶をまるで失っていた少女をクリスティーナと呼ぶようになって、旅団に迎え入れたら旅団が崩壊しかかった。

 つまりはサークルクラッシャー。当人にいったいどれだけの自覚があるかは分からないけれども、好かれれば好こうという態度を誰にだって見せるため誰からも好意を向けられそして自分だけがといったメンバーの間に不協和音が響き始める。1人だけいた戦士の女性は実は旅団の1人が好きだったけれど、普段は恥ずかしさもあってそっけない態度を見せていたら相手はクリスティーナに靡いてしまってそれが苦しくて旅団を抜けると言い始める。もうどうしようもないクラッシャーぶり。一応の主人公で白魔道士のユーリも言い寄られ好意を向けるも純潔が求められる立場故にやや引いた場所にいて、そして崩壊へと突き進む旅団をどうにかいしょうと一計を案じる。

 誰もが最強のメンバーの中で本当の最強は誰かといった興味もあるけど、まさかそういう手を使うとは。でもそれでしっかり生きているとは。やっぱりハンパない面々。そうやってどうにか嵐をやり過ごした先、平穏無事が続くかというとそうはいかないらしいと分かって果たしてどんな混乱が起こるのか。というか過去にあれだけのことをしでかした災厄が大手を振って歩き始めた世界に起こる大混乱の方が心配だ。果たしてそこまでの続きを描く用意があるのか、まったく違ったシリーズをスニーカー文庫で立ちあげるのか、いずれにしても秀章さんの自作に注目。「脱兎リベンジ」は本当に誰か実写映画化して欲しいよ。それだけの面白さを持った作品なんだよ。

 韓国の朴槿恵大統領が演説の原稿をそういった文章に聡い知人に見せて推敲をしてもらっていたという話がとんでもない大騒ぎとなっていて、日本でも韓国嫌いの新聞なんかが資質を叩きに向かっているけどそんな新聞が崇める政府与党のかつての総理大臣たちが、そろってひとりの陽明学者の弟子を自認し演説の原稿を見せては推敲してもらっていたという話はもはや過去のものなんだろうか。安岡正篤さん。玉音放送にも手を入れ「平成」という言葉も残したと言われる思想家にして学者だけれど、別に身分として内閣参与といったものではなく普通に一般の人だった。それに演説という国家機密を見せていたとか、ニュアンスとしては韓国とほぼほぼ一緒だろう。

 なのにそれを言うと大統領の知人と安岡先生は違うといった声もありそうで面倒くさい。安岡先生なら他言無用を分かっていたというなら韓国の大統領の知人はぺらぺら喋っていたのか。それを自分の利益に用いていたのか。そんなあたりを議論しないで韓国嫌いから叩くのは、やっぱりどこか矛盾しているよなあ。まあそこん家は言いたいことのためには必要な材料だけを集めて不必要な材料は見なかったこと存在しなかったことにするのが常態なんで、安岡先生に矛先を向けるようなことは絶対にやらないだろうなあ。そういえば今の安倍総理にはスピーチライターがいるけど一応は内閣参与で守秘義務が課せられているから大丈夫と言えば大丈夫か。そこのけじめをしっかりやったか気にしなかったかってだけの話をどうしてこうも。鬱憤が溜まっているんだろうなあ、韓国の人たちも。

 ミリタリーっぽい衣装だけだったらうん、それはたいした問題にはならなかったし言い訳だって出来たかもしれないけれども帽子を用意してそこにナチスドイツ下のドイツ軍と同じ帽章を付けてしまったところがやっぱり問題で、パロディというには形がいっしょ過ぎるし、そうしたデザインを採用した背景にスタイリッシュさを狙ったところがあって、パロディとは言い逃れられない。だから突っ込まれて謝ったのも流れとしては当然で、あとあ相手がどういった反応を向けてくるかといった感じか。あそこで帽章が日本の自衛隊とかアメリカの軍隊みたいなものだったらここまで騒ぎが大きくはならなかったかもしれないけれど、あのミリタリーっぽい衣装にはちょっと似合わないところにやっぱり意匠としてのナチスドイツのセンスが漂っていたことは否めないか。帽子はだからやっぱりなしでいくしかなかったなあ。そこだけ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る