縮刷版2016年10月中旬号


【10月20日】 玩具のタカラトミアーツがこの冬から来春にかけて展開する商品の商談会があったんで東日本橋の会場へ。プリパラだとかディズニーだとかポケモンといったキッズ向けの商品だけでなく、テレビアニメーションや映画で人気のキャラクターがグッズとなって並んでいた、そんな中で目立ったのが「夏目友人帳」。緑川ゆきさんの漫画が原作で、2008年からテレビアニメーションにもなっていて、今は「夏目友人帳 伍」の放送が始まっている。見たらいきなり夏目が大ピンチ。身に迫る払い屋たちの追い込みから逃れることが出来るのか? って展開になっている。
BR>  そんな「夏目友人帳」のシリーズを、タカラトミーアーツではもうずっと前から取り上げていて、作品に登場する猫の姿をしたキャラクターの「ニャンコ先生」をぬいぐるみやポーチなどにして提供している。今回は寝そべった姿の50センチ近い幅がある大型のぬいぐるみがあってなかなか。すやすやと眠っている表情につい見入ってしまう。でもあの三日月型の目が開いた姿も愛らしいからなあ。あとは、これもテレビアニメーションが始まった古舘春一さんの漫画を原作にした「ハイキュー!!」の第3期となる「ハイキュー!! 烏野高校 vs白鳥沢学園高校」から、メインキャラクターの日向翔陽と影山飛雄だけじゃなく、対戦相手の牛島若利や天童覚といったキャラクターの大きめのぬいぐるみが出ていた。大王様だけじゃなく牛若とか人気、あるんだねえ。

 12月に新作映画「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」が公開となる「スター・ウォーズ」シリーズからもダースベイダーやストームトルーパー、C−3POにR2−DSWといった登場キャラクターをミニチュアのフィギュアにした上で、電気仕掛けで動くようにした「スペースオペラ」のシリーズが、映画公開に合わせてどんどんと盛り上がりそう。ここでは11月に、1つの台の上でC3−POとR2−DS、そしてそして「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」に出てきたBB−8が踊る「3ドロイド」のバージョンが出てくる予定。いずれも単体で出ているキャラクターだけど、1体だと2700円はするのが3体だと合わせるより安く買えるから、並べたいファンだと喜ぶかも。

 ダースベイダーと4人のストートルーパーのセットってのもあって、これは5体で1万円切っている。電池も全部いれなくて良いから使いやすいかもあとは通販サイトの「e組」専用商品として「艦隊これくしょん−艦これ−」のアクリルグラフィックトロフィーも出てたっけ。前に同じ限定商品として作られたキャンバス絵と同じしずまよしのりさんが担当した「風の駆逐艦娘」のイラストを、今度はトロフィー風のアクリルプレートに描いたもの。机の上などに飾ってながめていたくなる。価格は税別6500円とかするけどファンなら買うかな。どうかな。

 ほかにも「おそ松さん」「ディズニーツムツム」「ハリー・ポッター」といった作品のキャラクターをキーチェーンやぬいぐるみしたものを出展していた商談会。デジタル系では海が映った液晶画面を見ながらリールを回して魚を釣り上げる玩具「バーチャルマスターズ スピリッツ」ってのがあって、れが途中でリールが重くなったりして結構リアル。逃げようとする魚に電撃食らわし弱らせるようなアクションもある。本当にどんなリールあるのかな。11月発売のこの「バーチャルマスターズ スピリッツ」は、描いた絵がiPhoneのディスプレイに映し出された水中に転送される「おえかきすいそうピクチャリウム」に、「バーチャルマスターズ スピリッツ」で釣った魚を転送して泳がせることも出来る。釣る楽しみと鑑賞できる喜びがあって大人でもハマりそう。

 ロボットだロボットだ、ロボットが集まるってんで東京ビッグサイトで開かれてる「ジャパンロボットウィーク2016」へ。2年に1度とか開かれているロボットだけの展示会と違っていろいろな工業関係の展示に混ざってののブース展開だったけれど、大学なんかでロボット絡みの研究をしているところが成果を発表していていろいろ面白かった。例えば大阪工業大学は去年は病院の手すりの上を走るロボットを見せていたけど今年は「だるまさんがころんだ」をするロボットを展示。向かい合って向こうが発する間に近寄り止まる瞬間に動きをピタリと止めないと、動いたね、脇にどいてって言われる。割とシビア。止まったようでも動きが残っているんだろう。だから言い終わる前に止まらないといけない。そんな感じ。

 そして近寄りきってマウスをクリックして戻ると、ロボットがずずずっと追いかけてくる。追随性もあり。子供だったら大喜びで遊ぶだろうなあ。そうした中でロボットの癖も見極めていくと。あとは静岡大学が出していた3本脚の杖なかは、脚をささえるショックアブソーバーみたいな筒の中に粘性磁性体が仕込んであって、圧力がかかるとそこに電気が回って磁石が作用し異性体が堅くなって支えるとか、そんな感じだったっけ。ガタゴト道でも砂利道でも、ガタつかずに真っ直ぐ支えてくれるという、そんな杖。実用化はどうだろう。それから神奈川工科大学。ロボットを空気ビニールでくるんでぶつかってもいたくないようにしてある。逆にぶつかられた方は関節をゆるめたりして衝撃を吸収。暮らしの中に堅いロボットが入り込んで起こる摩擦を和らげようとしている。そういうアプローチが必要なんだろうなあ、本当にロボットが暮らしの中で活躍していくためには。

 慶應大学も出ていてCEATECと同様にリアルハプティック関連の技術なんかを見せていた。堅いボールを掴むときと柔らかい風船を掴むときではアームの指を操作する足下の円盤の回転する感じが少し変わって堅い感じ、柔らかい感じが回す脚に伝わるといったものは、腕を失ってしまったものの筋電とかの義手ではなかなか操作しづらい、紙パックは握りつぶしてしまい卵も潰してしまうような場合でも、脚での操作で掴んで離せるようにできる。聞くと腕が最初からなかった人でも、脚からの感覚で堅いもの、柔らかいものを掴む感覚を体に入れていけるとか。そういう人間の触感を、リアルからリアルへと伝えるのがリアルハプティクスってことらしい。

 よく熱さとか材質とかを再現して手に伝えるようなハプティクスが取り沙汰されるけれど、それはVRの一種であって感触の代替的な再現であってリアルな場面での動作に結びついている訳ではない。たとえ手に熱さが伝わったとしても、それは実際の何かを持って熱さを認識した何かがある訳ではない。遠隔地でロボットが湯飲み茶碗を握ったとか。慶應のハプティクス研究センターが言うのはリアルな世界での感覚を、離れた場所なり感覚を受け止める器官を失ってしまった人に与えるようなもの。遠く離れた場所でアームが風船を握った感覚が、手前にあるアームを動かす指に感じられたりするように。

 どっちのハプティクスが上とか下でなく、VR的な感覚の再現もゲームのコントローラーなんかに投入すれば臨場感を与えるものとして喜ばれるけど、今いる場所から遠隔地でのリアルな動作を行うことはできない。それが可能になってハプティクスはテレイグジスタンスとも結びついて世界を結びつける。「ソードアート・オンライン」みたいに人の意識がバーチャル世界に没入できるようになる技術が出来上がるまでにはまだかかるなら、リアルな感覚が遠隔地でも感じられるようにしてロボットが隔離されたフィールドで戦い、それを部屋の中で操作しながら体感するような遊びなんかをまず作る方が、面白いかもしれないなあ。

 頑張って早めにチケットを抑えれば、そんなの広大でもないライブハウスのそれも前目で演奏している足元までしっかり見られるのは嬉しいけれど、見知ってからかれこれ2年が経ってすぐさま東京ドーム、は大げさでも日本武道館位やっててくれて普通じゃんとも思っていただけに、ようやく恵比寿のリキッドルームのワンマンというのは出世のスピードとしてゆっくりって印象も浮かぶ。とはいえだから前目でしっかり演奏するシミズコウヘイの指使いから、くるりと回って翻ったスモックみたいなワンピースの下に履いたヤギヌマカナちゃんのフリルいっぱいのドロワーズまで見られるんでそれも良いのかな。当人たち次第かやっぱり。

 そんなカラスは真っ白のワンマンはいつかの渋谷のクラブクワトロ以来でスリーマンだと代官山UNIT以来。その間もツーマンとかやっていたみたいだけど、今回はアルバム「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」が出て始まったツアーの一本。大阪とかあちこち回って残すは札幌というラス前のライブにハイテンションで臨んだシミズコウヘイのギターは唸りタイヘイのドラムはジャージーでグルービー、オチ・ザ・ファンクのベースもチョッパーベキバキと鳴り響く中心で、ウィスパーからキューティーまで演じるようにヤギヌマカナちゃんのボーカルがライブハウスの空間を染める。いつものカラスは真っ白。そしていつも以上のカラスは真っ白。キーボードにトランペットのサポートも加わって厚みが増して響きも高まる。

 「ハイスピード無鉄砲」から始まったライブは以前からの楽曲に新譜も混ぜて聞かせてくれて、アルバム単体ではなんかポップになったなあと思わせた新曲たちが、それ以上にメロディアスでジャージーでグルービーにファンキーなんだと分からせる。高度化しているというか。そんな楽曲をスタジオではないライブハウスのステージの上であっさり演奏しきってしまう腕前もまたすごい。徹底してコンセプチュアルにやれば大きな会場のホールツアーでもきっちり構成できると思うんだけれど、空間の熱量を感じながら高め盛り上げていくシミズコウヘイのギターワークはライブハウスの中でこそ光るとも言えるし、ヤギヌマカナのサブカル未満なアングラ感もステージでは可愛らしさに飲まれてしまう。今はだからまだ、こうした空間で聞いていたいカラスは真っ白。でもいつかはホールで。あるいは万民を前にしたフェスで見たいかも。次はどこで、いつ。以降そこにも絶対に。


【10月19日】 ご遺族の方の了解を得ていた以上は、それがたとえ新聞などで匿名で報じられていても、誰ということはなく顔写真が公表されることについては問題はなかったという見方はできるし、それを関係者が見ればすぐに誰だと分かる訳で、そういった展開も含めて遺族は納得していたと見るのが筋で、メディアが匿名扱いしていて顔写真も出していない少女が写った写真を、コンテストの1等賞にして展示するのは拙いと考えたといった黒石市長や関係者の説明には、ちょっと不思議な部分もあるけれど、大きく変わった状況の中で非を認め、いろいろな影響も鑑みながら賞を贈ると決めたことをまずは喜ぼう。

 さてこうして実名も公表されて具体的にどんないじめがあったかがいろいろと取り沙汰されるようになって来て、虐めていた人に向けられる矛先も鋭さを増していくような感じ。学校の方ではおそらく今もいろいろ調べが進んでいるんだろうけれど、公然となってしまた中でいじめの濃淡によって誰かがやり玉に挙げられるような事態も想像できてちょっと胸苦しい。もちろん1人の少女を死へと追いやってしまったこと、そのこと自体への反省があるなら関わりの大小に寄らず誰もが自省して欲しいけれど、そうした呵責を少なくしようとより弱く、あるいは発言力の小さい誰かに今度は攻撃が向かいかねない。そして繰り返される悲劇。それが今は心配でならない。

 赦せとは言わないし当事者だって言えないけれど、同じ事が繰り返されて良いとはいわない。呵責に対して今また心を迷わせているならその迷いを自省へと持っていって、悔い改めつつ未来のために何をできるのかを、考えていって欲しいもの。それがたぶんお父さんの思い出もあるだろう。「映画 聲の形」のように呵責からの自死を願ってはいけない。求めてもいけない。改める手助けがいるならそこにまた、誰もが手をさしのべてあげて欲しい。それで改まらないその時も、改めるような言葉を向けていって欲しい。連鎖はいやだ。悲しいことはもう沢山だ。明日のために踏み出す1歩が曲がらないよう、そして誰もが幸せになれるよう、見守っていくのが大人なのだから。

 真田大介が生きていて、千姫が生きていたら大坂夏の陣から10年後にそれぞれいったい幾つくらいになっているんだろう、って考えたら実はまだ、どっちも30歳前だってことに気付いたけれど、江戸時代に30歳はやっぱり年増ってことになてしまうのかなあ、いやでも千姫だったらあんまり関係ないのかなあ、などと思ったりもした友野詳さんによる「ジャバウォック〜真田邪忍帖〜」(ノベルゼロ)。)歴史にあるような徳川と豊臣の決戦ではなく織田信長が招き寄せた邪悪な神々が跋扈し、魔界となっていた日本をとりあえず治めた大坂での戦いから10年が経った。

 そして現れたのが真田大介。父親の幸村とともに死んだと思われていたものの生きていて、こちらも存命だった豊臣秀頼と共に魔物を退治しながら旅していたものの、数年前に秀頼は身罷り今は大介だけが復活した真田十幽鬼を相手にした戦いに臨もうとしていた。それぞれが強大な魔物となりはてた十幽鬼は猿飛佐助や筧十蔵や海野六郎や三好青海といった面々が奇妙な姿となりはて、異能の力を振るって世の中を脅かす。秀吉が残した豊臣の莫大な金を得て、徳川の世をひっくり返そうと画策する。それに対して大介は平穏こそが大事と考え鍵となっている千姫を守って向かってくる真田十幽鬼たちと対峙する。

 そこに参画するのはまだおぼこながらも土蜘蛛の力を受け継いだ女忍者に、未来から来たらしいサイボーグ忍者。濃すぎるキャラクターたちに囲まれ向かってくる敵も大介の妹にして妖艶さと淫靡さを持って十幽鬼を支配する女といった具合に超濃く、割と普通の人間に過ぎない大介で大丈夫なのかと思うけれどもそこは主人公、力を示して十幽鬼たちを退ける。ただ背後に蠢く存在は強大そう。豊臣の遺産を狙う動きもある中で千姫と大介は目的を果たすことができるのか。異形の十幽鬼たちもまだすべてを見せてくれていない。胸もあって竿もある海野六郎とかいったいどんな妖術を使うんだろう。いろいろ気になるけれども果たして続きは出るのかな。ノベルゼロって打ち切りあんまりないから大丈夫かな。

 ハフィントンポストに透析をしている女性との対談が出ていたフリーアナウンサーの長谷川某氏だけれど、言い分の基本線はまるで変わっていなくて自業自得な患者は死んで良しといったスタンスで、それをいろいろ傍証を並べて正当化しようとするんだけれど根本がズレているものが直るはずもなく、世間との乖離は広がるばかり。立ち直りは難しいだろうなあ、これでは。自業自得に関しては「私たちジャーナリストの世界でも、今イラクやシリアに行ってISに捕まって人質に取られても言うまでもなく切り捨てられます。自己責任だからです」って言っているけどそれ違うから。ジャーナリストならばまずは報じることによって世界を変えるべきだと願い、そして報じられなくなることを懸念して危険な場所でも僕は行くからみんな支えてくれと呼びかけ、みなもこれを支えることで世界の改善に貢献しようとする。そういうものだ。

 でも自己責任だから切り捨てられるのが当然と言わんばかりの論調。ここでそうじゃないって言えばまだジャーナリストとして立つ瀬もあったんだけれど、自己責任論を繰り広げるための傍証として持ち出した前提を変えるわけにもいかないから、やっぱりジャーナリストは危険な場所に行ったらそれは自己責任で、命が奪われても誰も助けないのが当然といった考えに帰結してしまうんだろう。やれやれ。ブログの方では例の引用というよりコピー&ペーストについて、告示や訓令や通達をまとめたものでそれに著作権はないと前振りし、でもまとまっていたんで使おうとし、連絡を取ろうとしたけど取れなかったと言い訳し、だから無断で引用したが悪かったねと言っているけど、だったらタイプミスまでまるっと引き写されていたのは何なんだ。自分の中ではこれが正しくて世間に通じる説明だと思い込んでいるんだろうなあ。ぐはあ。

 学生運動のデモ隊と日々、対峙している訳でもなく暴動に際して出動する機会なんてのもなるでない中で、機動隊員が混乱の最中に「土人」と相手を罵倒するシーンがしっかりと撮影されて世に広まり、菅官房長官もこれはダメだといった会見をして非難を始めたから当該の警察官はおそらく、居場所を失ってしまうことになるんだろう。分からないのは20代で警察にも合格しようという人が、デモ隊鎮圧のような修羅場をくぐって口が悪くなっている訳でもないのにそんな言葉を使ったか、ってこと。

 もともとが個人的に言葉遣いの荒い気性だったのかもしれないけれど、今時の警察官はヤンキー上がりがなれるようなものでもない。試験はあるし面接もあって任官してからもいろいろと訓練で鍛えられる。だから高卒の不良がそのまま大人になったとは思いにくい。それとも大阪府警では普段からそういう言葉で取り締まりなんかをしているのか、それとも沖縄に滞在している間にそういう言葉遣いが是とされるような空気に触れてしまったのか。分からないけれども乱暴な言葉が軽く出てしまう雰囲気が、警察の間に広がっているのだとしたらこれは結構ヤバいかも。今回は厳罰が出てもやがて乱暴な言葉は日常となって注意ぐらいで澄み、そして普段使いの言葉になってそれに乗って荒んだ心理が市民に向かう。厄介だなあ。


【10月18日】 秋田県の黒石市で行われた写真コンテストである踊り手の少女を撮影して、最高賞の黒石市長賞に輝いていた写真がそこに、自殺した少女が写っていたからという理由で受賞を取り消されたという。これが遺族への連絡もなくそこに写っていたのが露見して、嫌がられたから辞退したというのなら分かる。でも違った。撮影した人がそのことを知らなかったのは仕方が無い。そして受賞が決まってから実行委員会の方が踊り手の所属していた団体に連絡をとって、自殺していた少女だと分かってどうしたものかと考え、遺族に伝えたら了解をもらい撮影者も含めて納得がいって、最高賞のまま行くことになっていた。ところが。

 誰かが面倒なことになるのを嫌がった。トップがさまざまな憶測が出るかもしれないと怖じ気づき、市長も「被写体がそういう方でいうのか」といった懸念を伝えた。どっちが先なのか分からない。聞いて市長が嫌がったのかもしれないけれどもどちらにしても、誰もが了解していたことを上がひっくり返して受賞がとんだ。誰がどういう経緯で選び出したかなんて関係なく、トップの一声でひっくり返る賞っていう瑕疵がついていったい、誰が応募なんてするだろう。賞の健全性から見ても厄介なことこの上ない。

 それ以上に、これは言葉としてどういう風だったかは本当のところは分からないけれども、報道に寄れば市長は自殺した少女を「そういう方」と言って、忌避する気構えを見せた。なんだよ「そういう方」って。どういう方だよ「そういう方」って。禁忌に触れるような言い回しは外部に不信を招く。とりわけ遺族には衝撃だったようで、内定を取り消されたという話を聞いて最後の晴れ舞台に臨んで笑顔をみせいてた娘を、孫を否定されてしまったような気になった様子。憤って哀しんでいる。そんな遺族に市長はどんな言葉をかけるのか。かけないだろうなあ、「そういう方」の家族なんだから。

 いったいどんな写真だったのか、ってことは遺族が公表した写真が新聞各紙に掲載されたようで、見ると満面の笑顔で綺麗な衣装に身を包んだ少女が写っていた。この笑顔がわずか10日後に失わてしまったことへの悲しみと憤りも浮かぶ。それを世に示してせめてもの喜びにしたと考えた遺族の憤りも分かる。そんな遺族の気持ちは尊びたい。でも一方で、「映画 聲の形」を見終わった僕たちは、虐めた側がその後で振り返って、抱く拭えない後悔の重さと辛さも察せられるようになっている。写真が世に好評され、謂われを取りざたされ突きつけられるその笑顔に、抱えたたままの罪の意識はいったいどこへ向かうのか、なんてことも考えてしまう。

 それを自業自得と言うのは易いし、もう絶対に赦せない場所に生かせてしまった罪は償いようがないのかもしれないけれど、それでも自覚への赦しの道を閉ざすわけにはいかない。そう思うと何が適切だったのか。迷ってしまう。ただ、今は遺族の気持ちも慮り笑顔の写真を突きつけられることを受け止めつつ、喰いつつこれからをどう生きるかを考えて欲しい。侵した罪は消えないけれどもその上に喜びを重ねていくことはできるのだから。いずれにしても市長とかはそういうところまでは考えず、ただ騒がれると厄介ごとだからと取り下げただけなんだろうなあ。そんな市側の判断をこそ糾弾され、見てみないふりこそがいじめの温床になっていることを指弾されるべきだろう。メディアの矛先が向かうべきはそこだ。

 そろそろ噂になり始めた年末のNHK紅白歌合戦への出場歌手。筆頭は「君の名は。」の音楽を担当して映画ともども大ヒットとなっているRADWIMPSだけれどどうせ出るならNHKは、「あまちゃん」から続いているっぽい朝ドラの寸劇なんかを止めて、声を担当した神木きゅんこと神木隆之介さんと、そして上白石萌音ちゃんの生出演による実写版「君の名は。」の寸劇を繰り広げて、そこにRADWIMPSが生でサウンドトラックを演奏してサビからいっきに音楽へと持っていくような展開にすれば士佇立90%は堅いと思うのだけれど、どうよ。上白石萌音ちゃんによる「なんでもないよ」をさらに繋げて紅組にバトンを渡すという手もあるし。なあおい。

 エシカル、っていう言葉が何かいろいろなところで使われているそうで、たとえばエシカルファッションとかエシカルフードとかエシカルタウン、そんな感じに使われる。意味としては倫理的、道徳的ってものでそうした規範に沿って営まれるファッションとか料理とか街全体の雰囲気なんかを尊ぼう、めざしていこうというのが、そうした言葉が使われる理由になっている。スローライフとかエコとかロハスって言葉に似たニュアンスも感じられるけれど、それらがどちらかといえば個人のライフスタイルを規定するものになりがちなのに対してエシカルは、それに関わる企業なり事業者なり集団が、めざしていくことで成り立つといったところがある。社会的で経済的で時に政治的なものも巻き込みながら作り上げる倫理的で道徳的な社会であり経済であり政治であり人生。そんな感じか。

 ってことでエシカルタウン原宿なんてものが渋谷の原宿あたりを起点に発足したそうなんで発表会を見物に。渋谷区長の長谷部健さんとか特許庁の総務部長の間宮淑夫さんとか来場をして地元からはハイパーハイパーという会社の早川千秋さんと、あとリバースプロジェクトの亀石太夏匡さんなんかが並んで理念を語り、そして具体的に始まった「ギブライフ」ってお店の説明なんかを行った。理念としてはエシカルという言葉にそぐう、オーガニックコットンをはじめとした環境に優しい素材を使ったファッションを取り扱う店であり、フェアトレードによって取り扱われた商材を扱う店であり、健康に優しい食材を出す店といったものを連携させ、原宿をエシカルな街としていき来たる2020年の東京オリンピック/パラリンピックの際に世界にそういう街なんだとアピールしていくという。

 そもそもエシカルってといった段階なんで、どこまで広がるかは分からないけれども例えばパタゴニアというショップがあって、昔っからエコを意識した製品を送り出している、そんなブランドの理念なんかを広めつつずっと原宿で「ギブライフ」というオーガニックな素材の店を運営していたところも巻き込み、これがエシカルだといった雰囲気を見せるショップをひとつ立ちあげた。それが新生「ギブライフ」で、伊勢谷友介さんが絡んで立ちあげた、再生を意味する言葉を含んだリバースプロジェクトが参画して人類と地球に優しい素材を使った商品を集めて販売していく店として新たに立ちあげた。

 内装なんかも前の店のものを壊しつつ再利用したというから徹底してる。そんな雰囲気の店にはペットボトルから作られたコートだとかバッグだとか、エアバッグを再生したポーチだとかディパックなんかが並んでいていて行けばいろいろと楽しめそう。端切れを捨てずに再生した服なんかもあるけど、どれもさすがに格好いい。値段はリーズナブルって訳ではないけどブランド物と考えるならむしろ易いかも。そんな品々をプロデュースしてオンラインで販売してきたリバースプロジェクトにとっても、初めての実店舗ってことだけに来店者が何を見て、どう反応するかを見て新しいアイデアなんかを形にしていくことになるのかな。伊勢谷友介さんが時々いたらびっくりだけれど。いずれまたのぞきに行こう。


【10月17日】 やれやれ。AKB48ほかのアイドルユニットをいろいろと手がけている秋元康さんが次は2次元と3次元を行き来するよーなアイドルユニットをプロデュースするってことでスポーツ新聞なんかが盛り上げているけれど、アニメーションをずっと見て来ている人間にとっては μ’sやWake Up, Girlsの焼き直し。あるいはIDOLM@STERとか。でも秋元さんのプロデュースこそが唯一絶対と捉えたがるスポーツ新聞は「大ヒットアニメ映画『君の名は。』のキャラクターデザインを手がけた田中将賀氏や、人気アニメ『けいおん!』で知られる堀口悠紀子氏ら、有名クリエーター8人がそれぞれ1人ずつのデザインを担当した」って感じに取り上げ持ち上げ成功を確信したかのように書く。

 でもねえ、統一された世界観の中で同じデザイナーによるキャラクターだからこそ安心感もあるもので、てんでバラバラな出自のキャラクターをゆるキャラ的ではなくひとつの世界観の中で無理に見せようとすると、どうしても不統一感が感じられて気持ちがシュリンクする可能性を否めない。そりゃあ「大江戸ロケット」みたいに複数のクリエイターがそれぞれの特長を活かしてデザインしたキャラが同じ世界観に混在するような作品だってあるけれど、設定も展開も冒険していた作品だからこそ許された。「艦隊これくしょん−艦これ]−」だってアニメーション化の時は元のキャラクターを活かしながらも同じ雰囲気の中に揃えられた。秋元さんの作品はずっとバラバラな感じでいくのかな。そこが気になる。

 あとはやっぱり秋元さんという名前に対して一般の人ではなオタクなりアニメファンと呼ばれる人たちがどちらかと言えばネガティブな感覚を抱いていることがあるかなあ。昔だったら、あるいは最近でもこれは俺らの手で世に送り出す、たとえ出来合の押しつけであっても俺らが盛り上げるといったコミットする感覚を誘われ、それで押し上げられることもあったけれども、それも大量発生で食傷気味の中で天下の秋元康さんが大資本バックに引っかき回しに来たぞ感が先に立っているようで、ノれる人がどれだけいるかが今のところの興味。どうなるか。とりあえず「AKB0048」をちゃんとしないと、同じように使い捨てされるだけだと思われ忌避されるぞ。それから眼鏡っ娘がいないとノれる人を3000万人は失うぞ。男の娘だと500万人くらいかな。

 興行成績としての「アニメ映画の当たり年」が、作品の面白さとか品質とか素晴らしさとか楽しさとかいった評価としての「アニメ映画の当たり年」を決して言い表してはいないことは分かるけれども、言説として「アニメ映画の当たり年」といった言葉で2016年が括られ「君の名は。」や「映画 聲の形」「ONEPIECE FILM GOLD」あたりがその担い手として語られ「この世界の片隅に」も加わって持ち上げられる一方で、それぞれの年々にあった素晴らしいアニメーション映画たちが埒外として忘れ去られたり思い出される機会を逸したりするのはちょっと寂しいなあと思うのだった。

 振り返れば「マイマイ新子と千年の魔法」があり「REDLINE」があり「BEYONETTA Bloody Fate」があり「ねらわれた学園」があり「ハル」があり「伏 鉄砲娘の捕物帖」があり「AURA ?魔竜院光牙最後の闘い?」があり「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」があり「屍者の帝国」があり「ハーモニー」があり「楽園追放 −Expelled from Paradise−」があり「RWBY volume.1」があり「グスコーブドリの伝記」があり「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」があり「魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」があり「サカサマのパテマ」があった。

 まだまだ。「陽なたのアオシグレ」「寫眞館」があり「009 RE:CYBORG」があり「ジョバンニの島」があり「思い出のマーニー」があり「百日紅〜Miss HOKUSAI」があって「かぐや姫の物語」もあったりしたここんとこ何年かは、もうずっとアニメーション映画の“当たり年”だった。僕の中では。テレビシリーズからのスピンオフ的な「蒼き鋼のアルペジオ 〜アルス・ノヴァ〜」なり「ラブライブ! The MOVIE」なり「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」なり「ガールズ&パンツァー劇場版」なりといった作品だってマニア層に限られてはいたかもしれないけれど、アニメーション映画として立派な成績を挙げ、そして内容的にも大きな印象を残した。

 でも誰かが今年を「アニメ映画の当たり年」と言葉によって規定してしまった時に、その年に含まれた映画たちこそが当たりであって他の年のは違ったかのごとく認識され印象づけられ思わされてしまう心配が杞憂ながらもあったりするのだ。それだけ世間というものはレッテルによって左右され引っ張られていってしまう。そうじゃない、アニメーション映画は毎年いろいろと作られそれぞれに面白くって個人によっては当たっていたのだということを、改めてしつこく口にしていかないと来年以降、興行成績としての上位にアニメーション映画が来なかった時に当たっておらずすなわち当たりのアニメーション映画がなくそれは興行成績のみなら、ず中身的にも当たっていなかったのかもしれないといった認識に、引っ張られ流されていってしまうことになりかねない。

 そんなの嫌だ。絶対に嫌だ。なのでことある毎に懐かしいと言われようと趣味的だと誹られようと、毎年毎年観たアニメーション映画を僕の当たりとしていきたいし、大勢にとってもそういうアニメーション映画があったんだという印象を、抱き続けて欲しいもの。なるほど爆発的なヒット作を持った年の埒外にはあっても、敷衍された先にあってアニメーション映画というかたまりの中に、存在を認知されていって欲しいもの。なんだけれど。とりあえず次は「ポッピンQ」をどうにか当たりの文脈に持っていきたいのだけれど。どうしたら良いだろう。あと2カ月ちょっとで公開なんだよなあ「ポッピンQ」。でもまだ知られていないというか。「君の名は。」が12月上旬に新ビジュアルを劇場に掲示って感じにそこまで引っ張り年も越そうという波に飲み込まれず乗っていければ。高校受験を年明けに控えて追い込みの中学三年生だけどぜひ見て欲しいのだ。応援しよう。

 しかしやっぱり興行的には当たり年なんだよなあ、2016年。新海誠監督の「君の名は。」がついに8週連続で1位を獲得して早速「マッドマックス」な人たちからV8! V8! といったお祝いの叫びが捧げられている。興行収入ももう少しで「崖の上のポニョ」を抜きそうな感じ。いよいよもって宮崎駿監督の“後継者”的な言われ方をしていくことになりそうだけれど、当人はそういう称号よりも次にまた作品がどこまで目一杯に作れるかを考えているんだろう。シッチェスカタロニア映画祭でアニメーション部門の最優秀賞を獲得して、海外行脚も大変そうで次に取りかかれるんだろうかとファンには不安だけれど、それも糧としてきっと羽ばたいてくれるだろう。「映画 聲の形」も5位と大健闘。館数少ないのにこの成績は凄い。こちらも20億円、届くかなあ。


【10月16日】 ちょっと前に「映画 聲の形」について感動ポルノであるとか、バリアフリー作品じゃないんじゃないかといった批判があるとかいった見出しの記事がネットに出ていて、読んだらそういうことではないといった主張が繰り広げられていたにもかかわらず、憶測を呼ぶような扇情的な見出しが躍って読む人を誘導するようになっていたのがどうにも居心地が悪かったというか。そりゃあ本文を読めば分かることなのかもしれないけれど、ネットに主に出回るのは見出しであって扇情的な言葉が踊ってそういった印象を世間にもたらす。“本当”のことを書いたらアクセスが稼げないとばかりに反対の事を書いて煽って誘う。そこが厄介きわまりない。

 紙の新聞の見出しは基本的に本文の要約でいあって1番言いたいことを抽出して書くものであって、だからこそ言いたいことが整理さんに分かるように記事を書けとも言われてきた。でも今のネット時代にそういう作法では通用しないと考えているのか、新聞社系のサイトでもどことは言わないけれども自称全国紙を名乗っているところのサイトなんかは羊頭狗肉で針小棒大で扇情的で口汚い言葉を見出しにおいてはアクセスを稼ごうと必死になっている。

 それで煽られて載せられてサイトに来る人たちが紙媒体へと移ってきたり、情報を深く知りたいからと電子であっても購読に向かうかどうかはなかなかに難しいところ。広告主に何かを還元するような気構えの持ち主なのかどうかも判断に迷う。でも数字こそがアピールなのだとばかりにやってしまう。他もそう。そんな空気が蔓延してネットは扇情と悪罵の言葉に溢れた場所となり、浸る人心は汚れて爛れてそれに満ちた社会が、国が増えていく。米国ではあり得ない大統領候補が二大政党の正式な候補にまでなってしまったし日本でも悪罵が正義と見なされ関心を集める。そんな社会が、国がいっぱいになった世界はいったいどこへと向かう? もう後戻りはできないのかもしれないなあ。

 というかどんどんと乱れ衰えているといった感じ。前に石原さとみさん主演のドラマ「地味にスゴい! 校閲ガール」を取り上げて「石原さとみ『校閲ガール』、放送事故レベルの現実乖離に批判殺到『校閲をナメるな』」って記事を書いてフィクションのドラマが演出として行っているオーバーだけれど興味を惹く演出をとりあげては、現実的にどうなのよといった野暮としか言いようがない記事を書いていたサイトが今度は、米倉涼子さんのヒットドラマを取り上げ「『ドクターX」、放送事故レベルの現実離れだらけで批判殺到…『医師をバカにしている』」だなんて記事を出してきた。

 アプローチはまるで同じで、職業もののドラマを取り上げつつヒーローなりヒロインが活躍する状況のあり得なさを論って批判を浴びせているけどそれを言うなら手塚治虫さんお「ブラック・ジャック」は現実離れして医師から見たら噴飯物の漫画なのか。あれを読んで医師の仕事に憧れその道に進んだ人の多さを思えば、感動の物語において現実というものはしばしば無視され、そして乖離よりも意義をこそ伝えようとするもの。「校閲ガール」だって「ドクターX」だってそうしたポリシーの上、勧善懲悪とは限らないけれども観てカタルシスがあり、そしてその仕事への憧れと尊敬を呼べるような作りになっている。

 にも関わらず同業者があり得ないという。君たちは自分たちの仕事がフィクションのようであってはいけないというのか。金八先生のような先生が存在するような世界はもはや放送事故レベルであって、現実の先生が人情で生徒を導くような状況はあってはいえかにというのか。そんな理想もなければ思想も持てないプロフェッショナルに溢れた世界に未来も希望もなさそうだけれど、考えるなら現実のこの厳しさが理想とか信念といったものの上で、プロフェッショナルたちに余裕を持った仕事をさせなくなっているのかもしれない。現場を踏んで事実関係を確かめるとか、校閲がやっても良いじゃん。でも許されないと思っている。そんな狭い了見が世の中に溢れたとき、すべてのフィクションには難癖がつけられつまらない社会が反映され、観て誰もが絶望を抱いてもっとつまらない社会になっていくんだ。たまらんなあ。それを煽っているサイトともども。

 せっかくだからとアーツ千代田3331で開催中の文化庁メディア芸術祭20周年企画展を見物に。普通の展示室にははっきりって観るものはなくて、せいぜいが佐原ミズさんの原画といったくらいであとはモニターで上映されるメディアアートの作品の一端に触れるくらいなんだけれど、地下におりれば漫画の受賞作品がずらりと並んだ部屋があってそのどれもがちゃんと刊行分が揃えられた状態で手にとって読むことができる。受賞当時は途中までだった作品も完結していたり巻数が増えていたり。1日2日入り浸りたい気分だけれど、誰も読んでいないから居てはいけない気になってくるのが辛いところか。

 1冊、川原まり子さんという人の審査委員会推薦作「日本武尊」というのがあって和綴じで和紙みたいな紙に太い描線ながらも少女漫画っぽさも残るキャラが描かれているのがあってこれ何状態。橘の弟媛とうのも出ていたけれどもトップレスで裸馬に乗っていた。こんな本があったな、というかこれって本なのか、同人誌なのか、特別限定の何冊なのか。気になるけれども説明はない。置いてある受賞作一覧の冊子を読むしかないのかなあ。また行って読んでこよう。同じ地下1階にはクボカワリョウタさんの「10番目の感傷(点・線・面)というのがあってランプを搭載したミニチュアの列車が線路を走るそれらが釣られた洗濯ばさみとかハコとか立てられた鉛筆の脇を通って照らして壁面に影を映し出していた。暗闇を走る列車の車窓から見える夜の街の風景を体感させられるというか。不思議な作品。必見。

 アニメーションの上映があったんでしばらく見物。山村浩二さんお「頭山」と「カフカ田舎医者」の上映もあって、あの独特なタッチでもって奇妙な姿勢をとった登場人物たちが伸びたり膨らんだりして内面だとか状況だとかを感じさせてくれる、ザ・山村浩二といった作風に今一度触れることができた。「マイブリッジの糸」になると優しさが出てきたりして「サティのパラード」になると動きと音楽をシンクロさせたようなカナダっぽいアニメーションになっていたりして、プリミティブな恐怖を喚起させるものからちょっと離れていた。それがあるいは海外でグランプリ級に入らない理由なのかな。でも人は変わるものだから仕方が無い。しかし改めて見直して「カフカ田舎医者」は人の変形も展開も圧倒的な想像力に溢れていたなあ。よく作った。また観たいかも。

 そういえば次の文化庁メディア芸術祭の毎年やっている受賞作展は時期が来年早々から来年秋くらいにズレて会場も国立新美術館じゃなく初台のICCになるらしい。まだ初台だった第2回目からのぞいている身には里帰りっぽさもあるけど国立新美術館は場所も良かっただけにちょっと残念。なんで変わる? お金の取れない展覧会はやって欲しくないと追い出された? それで会場を探したけれど時期が合うのがなくって秋へとずれ込んだ? 分からないけどちょっと残念。初台から草月会館から東京都写真美術館から国立新美術館までずっと追いかけてきたから、会場が変わっても作品はちゃんと選ばれると分かっているけど、国立新美術館は広くて天上も高くてレイアウトも工夫できたからなあ。ICCだとどんな感じになるのか。今の20周年企画展を観て考えよう。


【10月15日】 うん。「劇場上映−ゴーゴー日本アニメ(ーター)見本市」は2000円と普通の映画より高めの値段設定ではあるけれど、あの沖浦啓之さんによる渾身のパンツ作画が大きなスクリーンでもって浴びるように見られると思えば、たとえ「機動警察パトレイバーREBOOT」が一瞬であっても全然気にならないし元は12分に取れたと思うんだ。思うんだってば。まあさすがに一瞬ってことはなくって低層の住宅が並ぶ市街地に現れた暴走レイバーを止めようと、出動した多分特車二課のレイバー中隊が乗り込んでいっては狭い路地でリフトアップしようとして電線とか引っかけ税金泥棒呼ばわりされ、そして向かってくる暴走レイバー相手に操縦する青年が震えるところを、指令する女性警官がバックアップするその後ろで後藤隊長ならぬふわふわとしたおばさん隊長が明るく厳しく指示を出す。そんなシチュエーション。

 なるほどアニメーション版「機動警察パトレイバー」にあった日常の風景を切り取って、時代や登場人物を買えつつもしっかり遺して描いたREBOOT作品。あの泉野明やら後藤隊長がいた時代の特車二課からどれくらい時代が進んでいるか分からないけれど、かわらない東京の風景と、そこに立ちあがるレイバーという異質な存在のかみ合わせが、今再び描かれていて懐かしさに涙を流す人だっていたかもしれない。たとえストーリーがその懐かしさだけだったとしても。つまりは回顧させつつ原点を確認するような作品で、ここから新たな物語が立ちあがっていってくれれば嬉しいかもしれないけれど、それを担えるあけのキャラクター性がまだ、登場している青年のパイロットにも女性の指揮担当にも今はまだちょっと感じられないといえば感じられない。

 女性の隊長の昼行灯ぶりは後藤さんを思い出させてくれたけれど、それだって実写版の筧利夫さんが演じた後藤田さんみたいに再生産のようなもの。本性をつかむにはもっと長さが必要だけれど、それが明らかになったところでやっぱりカミソリの昼行灯という設定から逃れられるとは思えないんだよなあ。つまりはだから過去のパーツを役割分担のシャッフルを行いつつ今また描いてみせた作品という枠組みを、大きく超えるものではない。そこから何か新しいものを付け加えていくとするなら、やっぱり操縦担当の青年が何者で、指揮担当の女性が何をしたくてそこにいて、ってなドラマをこれから作っていく必要がありそう。そうする気があればだけれど。

 ないなら「機動警察パトレイバーREBOOT」は、販売用に描き下ろされたセル画のようなポートレート的作品に止まってしまう。でもトークイベントで、出渕裕さんは「再起動だから。これで終わってはリブートじゃないから」と念押しをしていたし、吉浦さんも「パトレイバーに未来があるように作った」と話していたから、やる気は満々といった感じ。押井守監督の“作家性”で最後まで引っ張られた「THE NEXT GENERATIONパトレイバー」があった今、必要なのはやっぱり作家性ってことになるのかな。それを誰が担うのか。誰かが担う覚悟を示しているのか。そことが知りたい。そんな感想を最後に抱きつつ、やっぱり短いなあと言った思いも抱かせ終わる「機動警察パトレイバーREBOOT」へと至るまでの「日本アニメ(−ター)見本市」からの作品は選りすぐられただけあってどれも凄い。

 セカンドシーズンでは「キルラキル」の今石洋之監督が原案・監督を務めた「SEX and VIOLENCE with MACHSPEED」が異色でこれを劇場で公開して良いんだろうかと思わされた。「美人探偵局」という場所を舞台に繰り広げられセクシャルでバイオレンスな展開が、アメリカのカートゥーンのような独特の絵柄で表現されている。交合めいた描写もあって尻から垂れる白いあれはつまり……ってことでちょっとテレビで放送することはまず不可能な内容だけに、配信も終了した今、今回の上映が見られる貴重な機会と言えそう。

 同じセカンドシーズンの「神速のRouge」は「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」でCGI監督を務めた鬼塚大輔さんが監督し、「青の六号」の前田真宏さん、「トップをねらえ2」の鶴巻和哉さん、そして井関修一さんといった著名クリエイターも参加した作品。甲胄のような戦闘服に身を固めた戦闘員が飛行する巨大な船の中で刀などを柄って激しいバトルを繰り広げる。背後に壮大なストーリーを感じさせる作品で、ラストには「つづく」なんて出たりするから、ここからシリーズ化、長編化といった期待もしたくなる。するのかなあ。その意味では、直接のシリーズ化ではないけれど、サードシーズンに登場した「ENDLESS NIGHT」は、現在放送中のテレビアニメーション「ユーリ!!! on ICE」のある意味で原型で、そういった発展が期待できる企画だとは言えそう。

 「ENDLESS NIGHT」はフィギュアスケート選手の男子が踊る姿を、少年時代から追いかけた描いた内容で、学校の中からアイスリンクの上から踊る姿が楽しそう。そして指先からつま先まで行き届いたポージングが素晴らしい。それもそのはず、振付師として活躍する宮本賢二さんによる振り付けが、アニメーションによって完璧に作画されている。監督は「ミツコとハッチン」や「LUPIN the Third −峰不二子という女− 」の山本沙夜さんで、その山本さんが今、同じフィギュアスケートをテーマにした「ユーリ!!! on ICE」の監督を務めている。スケートシーンの作画が評判になっているテレビアニメーションだけに、その原型とも言えそうな「ENDLESS NIGHT」を見ておいて損はない。なおかつキャラクターデザインは上条敦さん。格好いいなあ。どうしてこっちでアニメ、企画しなかったんだろう。

 そんなサードシーズンでもやっぱり目に焼き付いたのが「ももへの手紙」を監督した沖浦啓之さんが原案・脚本・監督を務めた「旅のロボから」。キャンピングトレーラーを引っ張り旅をする女性が、ヒッチハイクをしていた1台のロボットを載せるが、どうも挙動が怪しい。いったい何をしているのか? といったところで笑いがあり、エロティックなところもある愉快な作品になっている。「傷物語」の羽川翼のパンツがスクリーンいっぱいに広がる感動と似つつ、なおいっそう中身を感じさせるパンツの作画を味わえる。柔らかそうだもんな、そりゃあロボットだって間近によって見たくなるよなあ。そんなシーンだけ何度も見に劇場へと通いたい気分。

 小林裕康監督の「カセットガール」は廃棄されたビデオショップで見つけたベータカセットをローディングして変身するロボットに少女のバトルが懐かしい画角とそしてダイコンフィルムを思わせるアクションでもって描かれ1980年代OVAの良い時代をよりクオリティアップして見せてくれたような感覚にさせられる。よくまあ動かしたよなあ。これも大きなスクリーンで見てこそなのかもしれないんで、行こう上映中に劇場へ。個人的には新第三東京市でバンド組んでた3人の少女が離ればなれになった後、使徒がやって来てそしてってな展開を可愛い作画で描いていた「新世紀いんぱくつ」が気になった。あの戦いの直下で繰り広げられていた諸々。世界はそして。たくさんのドラマの上に成り立った作品なんだと改めて思い知らされた。ともかく画期的な作品のオンパレード。それを上映と配信だけでしか見せないなんて。イケズ。BDボックスになれば買うのになあ。

 当然、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞で来るかと思った新聞各紙の1面コラム。そして朝日の「天声人語」も毎日の「余録」もしっかりボブ・ディランだったのに対して、とある自称全国紙が持ち出してきたのが中日新聞による子供の貧困に関する記事で虚偽があったという話。そのこと自体は悪くはなく、報道として自らを戒めつつも現実としてある貧困をどうするか、って話になるかと思ったかというと、ここん家がそんな殊勝なことをするはずもなく、そうした貧困を探り抉るような報道は、この国を貶めるものだといった非難へと繋げて朝日のサンゴ事件まで持ち出し罵倒する。手前ん家の捏造など省みることなく。

 いやいや、触れてはあるけどこれがまた“愛国無罪”を地で行くよう。曰く「一連の報道には、事実関係は軽視する一方で、とにかく日本をおとしめたいという暗く理解し難い情熱を感じる。小紙もかつて合成写真を本物として掲載したことがあり、心から反省しているが、少なくともそんな自虐趣味とは無縁である」。もうポン酢かと。月に向かって飛ぶ鳥を大きくしたことはあったけれど、虚報はそれだけじゃないだろう。防災訓練で出動した自衛隊を区役所が追い返したと書いて、すべての区役所から抗議を食らったのはどこの新聞だ。あまつさえ抗議が来た翌日の1面コラムで自衛隊を追い返した話を蒸し返し、2度も抗議を食らうという失態をさらしている。

 そんな間抜けは他にみたことがない。インタビューで民進党の党首選挙について答えた女性をピースボートと絡めて報じて抗議を食らったこともあったっけ。そんなことばかり。でもそうした虚報については触れようとしない。自衛隊と区役所の話なんてサンゴ級の虚報なのに。それとも我らが国民の自衛隊様を毛嫌いするような風潮をすくいあげ、牽制した記事は虚報であっても良い虚報で、そこに暗い情熱はないとでもいうのか。愛国の記事は無罪になるとでもいうのか。言うんだろうなあ。もしかしたらこのコラムの書き手は前に辻元議員に関する虚偽を書いて訴えられ、裁判で負けたことがある人かもしれない。その人は最近でも民進党の議員をブログで侮辱して裁判で負けた。虚偽でもピースボートや民進党なら貶めてもそれは明るい情熱で、だから反省はしても誇り続ける気構えか。

 普通だったらこんな自らを省みず他者を非難し、それを報じることは日本を貶めることになる言って現実にある子供の貧困から目を背けようとする報道を、載せていいのかと考えるだろうし、そもそもがどうしてボブ・ディランを書かないと上が指摘するだろう。横並びになろうとも、そこで知識と文才を競ってこその1面コラムなのに、そうしいた時事的な話を蹴飛ばしてでも自分が嫌いな相手を非難するような文章ばかりを書き続ける。そういえばバラク・オバマ大統領が広島で歴史的な演説をした翌日も、コラムで一切触れようとしなかったっけ。それをとがめて下ろすでもなく、自省のない厚顔ぶりを見せている。もはやアンタッチャブルにでもなっているのかなあ。そして民進党と韓国中国と菅直人を叩き続ける暗い情熱が言葉となって広まっていく。やれやれだ。


【10月14日】 そもそもが候補者など発表もされておらず、ノミネートされているかなんて50年経たなければ明らかにされないことになっていて、現時点で下馬評に挙がっているとはいったところで村上春樹さんがノーベル文学賞を取るかどうかなんて選考委員を除けばだれも分からない。そんな曖昧な賞を今年こそ取る、いやいや今年こそはといった感じに毎年、ファンという人たちが集まっては固唾をのんで発表を見守る状況がどうにも息苦しいというか、村上春樹のファンにあるまじきベタさ加減というか。

 もうちょっとスノビッシュにシニカルに、ふふんと顔をして待ちつつ決まれば黙って関係箇所に集まって、ニヤッと笑って去って行くのがそれっぽいような気がするんだけれど、椅子とか並べてステージとか作って、クラッカー持って待つなんていったいどこの町内会のお祭りだ。そんな風に歓迎されて村上春樹さん、嬉しいんだろうかとすら思えてくる。あまつさえボブ・ディランの受賞が決まったと聞いて、なんで歌手が取るんだと叫んだおっさんがいたとかいないとか。おいおいボブ・ディランっていったらもうずっと前からノーベル文学賞の有力候補呼ばわりされていたし、村上春樹さんだって小説にその楽曲のタイトルを引っ張るくらいの大御所。ファンならむしろ喜ぶべきなんじゃなかろーか。

 文学じゃないって声もあるけどもともと文学なて近代に入ってから生まれた形式で、それ以前は戯曲であったり詩であったり歌謡といったものが文芸の長い歴史を担ってきた。吟遊詩人なんてものもいて旅をしながら伝説を語って文字のない時代に物語を口伝してく、そんな文学中の文学ともいえる現代の吟遊詩人、ボブ・ディランのノーベル文学賞をこれは見事な先祖返りと讃えず、ポップスのシンガーが受賞するのは変とか言う方が変だろう。まあ現実、これだけ売れている人間を今さら讃えるよりも世界に埋もれた文学の俊英を世に送り出す方が、ずっと意味もあるけれどそれなら村上春樹さんだって今さら感。なので来年はみっともない発表待ちとかしないで知らん顔して受賞したら改めて集まる格好良さを、見せて欲しいなあ。

 気がついたら原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」が北米でもうすぐ公開のようで、海外のメディアにも続々とレビューが出ているんだけれどそれがどれも好評な感じ。Rotten Tomatoesなんかにも19あるレビューのすべてがFRESHすなわち好評と分類されていて、この調子なら公開を受けて権利が出たアカデミー賞の長編アニメーション部門にノミネートもされ、そして受賞まで行ってしまう可能性だって出てきたかも。最近は最終候補前の段階で名前が名前が入っても、最後まで残ることはなかったから、せめてノミネートまでは行って欲しい。

 受賞となるとさすがにディズニーの作品とかピクサーの作品とかいろいろあるから難しいだろうけれど、「千と千尋の神隠し」だって受賞できたんだから日本の優れたアニメーションが受賞できない訳ではない。ニューヨークタイムズとかロサンゼルスタイムズの双璧が揃って好評を寄せているのも好材料となるだろう。ちゃんと井上俊之さんが作画した、お猶が少年と雪の中で遊ぶ名シーンを映画の中でもっとも心を惹きつけられたシーンだって書いているところもあったし。ちゃんと伝わっている。とりあえずノミネートは確実で全米批評家賞なんかも獲得し、その勢いで科でミー賞受賞となって欲しいなあ。全米で最も知られた日本人俳優、渡辺謙さんの娘さんがヒロインの声を当てているってのも米国人の関心を惹きつけるだろうし。日本語喋ってるって驚かれたりして。

 ジャンカレーでライスのボリュームがたっぷりのキーマカレーをかき込んで、アーツ千代田3331で明日から始まる「文化庁メディア芸術祭20周年企画展 変える力」の内覧を見物。20年という歴史を振り返るような展示がぎっしりあるかと思ったけれど、漫画作品は数点でそれも原画は少なくパネルが並んでいる程度、メディアアート作品はだいたいが映像で実物は少なく触れて眺めて楽しむって訳にはいかない。ゲームはプレイラブルなものは1つもなし。パッケージだけ展示されてどうしろって言うんだ。かろうじてタブレットを使ってインタラクションを楽しめる展示もあったけれど、ほとんどにおいてカタログ以上の飛び出しがなくってこれで何を振り返られるか、ちょっと不安になって来た。

 ただ、漫画でいうなら受賞作品や審査委員会推薦作品がぜんぶ集められては会場地下の一室に集められているんで、行ってじっと読み耽っている分にはこんなに楽しい場所はない。そしてアニメーション。原画とか設定がといった中間生成物がいっさいなくって上映のみと割り切った出展になっていて、地下にある上映室で見たりUDXシアターで見たりといったことができる。その本数は膨大でもしかしたら東京アニメアワードフェスティバルに関連した上映なんかより充実しているかも。それこそ国内最大規模のアニメーション映画祭になっているとも言えるけれども20年分だから出来たこと、毎年なり隔年なりに実施して評価していくものとは違うってことで。初台のICCだともうちょっとメディアアート作品が実機で見られるのかな。内覧会があるんでまた行ってこよう。

 どん底からの這い上がりにかけてはベル・クラネルの右に出る物は無く、その頑張りに引っ張られて周囲もどんどんと這い上がっていくといった展開がまた繰り広げられていた大森藤ノさんによる「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか11」(GA文庫)。モンスターだけれど知性があって言葉も話せる特別な存在がなぜか地上に出てしまって、そしてモンスターだということで追い詰められていく。竜女の少女は命すら奪われたけれどもそこは骸骨の魔導師による術で復活してあとはとにかくダンジョンの中へと戻るだけって良いながら、出入り口を名うてのハンターたちに固められて近づけない。そして頼りのベル・クラネルはモンスターを助けて人間の冒険者を蹴散らしたことで白い目で見られて身動きがとれずにいた。

 まさに絶体絶命。でもそこで諦めるベルくんではなく、その想いを貫き最愛のアイズ・ヴァレンシュタインがあいてもひるまずに立ち向かおうとする。そしてロキファミリアにずらり揃った1級の冒険者たちをベルが所属するフェスティアファミリアの仲間たちが相手を士、ヘスティアの事情を知る神様の配下の冒険者たちも協力することでどうにかこうにか凌ぎきる。絶対的な強さを持っているはずのロキファミリアのメンバーでも、多勢でかかり魔剣を振るいその心情に訴えればどうにか切り抜けられる。

 そんな布石があり段取りがありベルくんという絶対的な存在が持つ優しさへの憧憬もあったりと、積み重ねられた設定がちゃんと効果を発揮するところが読んでいて心地良い。よくまあ組み上げたものだ。そんな展開はヘルメスの思惑すら超えてベルくんの力が炸裂、するかと思ったもののそこは痛み分け。だからこそ次に来る3度目の対戦の行方が気になるし、何よりモンスターにも知性を持った者がいると分かった世界でいったい、どんな冒険が可能になるのか。そもそも世界は成り立つのか。いろいろと気になる今後の展開。最終的にベルくんはダレを選ぶんだろうなあ。

 一迅社文庫を傘下に入れた講談社グループは講談社ラノベ文庫があり星海社文庫があって講談社タイガも加わりライトノベルの世界で確固たる地位を……地位を……沈黙は金。カクヨムを作ったKADOKAWAグループのようにライトノベル系だけで連携するにもそれぞれが独立独歩で存在感もそれほど強くはなかったりするんで、まとまったところで何か大きな勢力になるようには見えないところがちょっと残念。講談社ホワイトハートX文庫あたりだけは別に少女向けとかBLめいたあたりとかに浸透して、コバルト文庫とかビーンズ文庫ビーズログ文庫あたりを抑えている感じもあるだけに、男性向けライトノベルの方をどうにかしていって欲しいと思うけれど、今ですらバラバラなのが一迅社が加わったところでまとまるとも思えないからなあ。何が目的なんだろう。ちょっと気になる。一迅社文庫の先行きも。


【10月13日】 将棋の棋士が対局の場にスマートフォンを持ち込むのを禁止するのが日本将棋連盟で決まったという話に、棋士の矜持を信じるならば禁止するとかないんじゃないのと思ったけれども現実、矜持を疑っても禁止せざるを得ない出来事が起こっていたっぽい。将棋の7大タイトルでも金額的には最高峰とされる竜王戦に挑戦が決まっていた三浦弘行九段に対して、スマートフォンを使って将棋ソフトを動かし次の手を読んでいたんじゃないかという嫌疑がかかっていたらしく、それで竜王戦には臨めないから休場すると言いながらも休場届を期日までに出さなかったため、日本将棋連盟が出場停止の処分を行った。

 その処分自体に将棋ソフトを見たかどうかの判断はないけれど、嫌疑をかけられ将棋を指せる心境ではなくなったという三浦九段の言はあるようで、そこにひとつの煙が立っていたことだけは確かっぽい。もっとも本当に火があったかどうかは未だ確定はしておらず、三浦九段は濡れ衣だといって弁護士を立てて主張していくみたいだけれど、一方で嫌疑がかけられるような何か言動があったということも、おそらくは実際のことなんだろう。でなければ同じ棋士から激しい言葉で糾弾されるようなことは起こらない。その糾弾すらも怨恨だという可能性も皆無ではないけれど、中立であるはずの日本将棋連盟が疑い、問いただすに足るだけの状況もあっての処分の検討だったとするなら、やはりといった想像も浮かぶ。

 そうなると素行不良といった問題ではなく、勝負事に、そして賞金がかかっているプロ棋士としての対局に不正を持ち込んだということで、数カ月の出場停止で済む話ではなくなてくる。それこそプロ野球の賭博問題と同様に、それこそ棋士としての資格剥奪といった厳しい処分だって行われても不思議はない。それほどまでの一件なだけに、なあなあで済ませるのではなく明確な基準をもって、そして外部による有識者なりを招いての本格的な調査を行って潔白なのか、それとも事実なのかを徹底的に洗い出すべきなんじゃなかろーか。もはやプロの矜持とやらを信じないと決めた日本将棋連盟。それなら身内の身贔屓という可能性も排除しクリーンな運営を目指して突き進もう。しかし竜王戦、挑戦者となった丸山忠久九段も居心地悪いだろうなあ。勝っても言われそうだけれど、でも勝てば竜王だから。それは間違いないから。

 しかしスマートフォンごときが今やスーパーコンピューター並みの演算能力を持つなり、外部のサーバーからデータを持って来るなりして棋士より強い将棋ソフトを動かせるようになってしまった状況は、いずれ超小型化したウェアラブル器機の誕生も促すと考えるなら眼鏡も時計も持ち込み禁止にされてしまいそう。いやいや芝村裕吏さんの「プリント・ブレイン」という小説に登場した、布地にプリントされた模様が一種のウェアラブルのAIとしてか働きまとった人間を動かすような事態だって実際に起こりえる。そうなると服すら着てはいけないとなって素っ裸の対局者が向かい将棋を指すような状況だって来るのかな。それだと人気は女流棋士に向かいそうだけれども果たして。どうせ裸なんだからと徹底的に鍛え上げたマッチョな棋士が女性の目をさらうとかって事態も起こったりして。楽しいなあ、未来。

 透析患者への中傷に近い言動で出演していたテレビ番組をすべて降ろされネットTVもしばらく休止といった感じになっているアナウンサーの長谷川某が、日経ビジネスだなんて結構大きなサイトに登場してあれこれ喋っているけれど、相変わらず根本のところが分かってないといった感じ。「あくまで『殺せ』というのはスラング(俗語)で」、だから軽意味としては軽いんですよと言い訳しているけれど世間にそんなスラングがあるかよと。ツイートで「殺す」と書いて警察に捕まった人も大勢居る状況で、その言葉が軽口として許される状況にはないことくらい、ジャーナリストなら知っていて当然だろう。でもそうは考えない。考えようとしない。

 テレビ局へと苦情が多く寄せられた件についても「ネット上である集団から目を付けられていたのですね」といって、ごくごく少数の自分が嫌いな勢力が何百本もの電話をかけて攻撃してきたって認識を未だ示してる。でもそんな少数派が騒いだところでであんな大騒動にはなりはしない。受ける方だって莫迦じゃない。それくらい見分けてこれは本当にヤバい案件だからと切ったのに、それを認めようとしてないところに復帰の目のなさを感じざるを得ない。「アナウンサーとして正確な日本語を使い続けてきた自負があります。テレビの世界で問題を起こしたことは一度もありません」ってのもなあ。だったらどうして「ガセ川」って呼ばれてる? そういうことを過去に引き起こしてきたからだろう。それなのに反省の色無し。自覚の節もまるで見えない。

 全腎協からの抗議に未だ「残念ながらきちんと僕のブログの内容を読んでもらった上での抗議ではありませんでした」っておいおい、九州に在住している透析をしながらライターもしている人のブログと盗用したことを謝りに行って、全腎協にも謝罪するって言ってたじゃないか。それなのに別の場所ではそうは言わないのは目の前に透析患者がいればそちらにおもねり、そうでなければ去勢を張り続けているからだって見なされても仕方が無い。つまりは自分が1番可愛いだけ。だから「原因が分からず苦しんでいる患者と、医者の言うことを聞かずに酒を飲み続ける患者が本当に同じ負担でいいのでしょうか」とも言って、未だに差別的な態度だったことを認めようとしない。

 もはや処置無し。だから放っておいてそのまま雲散霧消するのを待つしかないんだけれども、数字が取れると思ったからなのか日経ビジネスなんて大手メディアが引っ張り出してその言を載せる。問題はそれなりにジャーナリズムであるはずの媒体が、相手の言い分をまるで検証もせず突っ込みもしないでただ書いているだけってこと。弁護士が調べて1人で400回以上も抗議電話した人がいたって言い分もそのまま。テレビ大阪には問い合わせたのか? 弁護士が調べて1人で400回以上も抗議電話した人がいたって言い分なんかもそのまま載せているけれど、これって他の弁護士から疑義が出ていなかったっけ。テレビ大阪なりスポンサーに問い合わせて、事実かどうか確認してぶつけるべきなのにそうはせず、逆に相手に同情する節すら見せていたりもする。そんな記事の書き手も掲載媒体も、長谷川某と同類と見なされたって仕方がない。その覚悟はあるんだろうか。矛先が向けられた時に対応に注目。

 興行収入が16億円を突破と、普段だったらとてつもない数字だと歓声も上がりそうな「映画 聲の形」。今はその10倍に届きそうなアニメーション映画「君の名は。」があったりするから、比べてしまうと肩身も狭くなるけれど、ともすれば心に痛みを伴う内容でありながらも、100万人以上を動員してのけた実績は、文芸映画が苦戦しがちな昨今の映画状況にあって、大いに誇って良いと言えるんじゃなかろーか。そんな「映画 聲の形」の山田尚子監督と音楽の牛尾憲輔さんとのトークイベントがあって、牛尾さんが話していた「ふわふわしたものからソリッドになった」という音楽作りのイメージが、どこか他の映画音楽とは違った、そして他の映画とは違った作品の雰囲気を現しているようで面白かった。

 劇伴というとシーンにあわせカチッと作るものらしいけど、この「映画 聲の形」では山田監督からコンテをもらうかどうかという段階で、すでに音楽を作り始めているような感じで同時進行していったらしい。紙でコンテをもらって譜面台の横に立てて作曲したことも。映像に合わせるような形ではない音楽作りについて牛尾憲輔さん、映像作家や音楽家がインタビューで言語化することでイメージが固定されてしまい、それが作品を殺すこともあるといった例を挙げ、「映画 聲の形」では滲んだ、ぼやけた状態で音楽を作れたと話していた。それが互いに主張し合うのではなく、かといって背景として沈みも隠れもしない映像と音楽の両立を生んだのかもしれない。

 ようやく買った牛尾憲輔さんの「映画 聲の形」のサウンドトラックを聴いていると、ノイズ混じりの優しいテクノはともすれば単調だけどじんわりと漂い、その中にいるような気にさせられる。遠くで響く打音が自分の鼓動と重なり、なおいっそう引きずり込まれる。それが映画の展開と重なって、映像と物語に空気感をもたらすといった感じ。シーンやキャラクターの演技に合わせ盛り上げ、煽り哀しませといった作用を狙う一般の劇伴とまるで作法が違うところがある。そんな牛尾さんの音楽を、漫画「聲の形」のアニメーション化に必要と感じて依頼した山田尚子監督の直感は、淡淡と進む中で心理が滲む「映画 聲の形」での演出を、すでに見越していたのかも。

 そんな「映画 聲の形」の劇伴は、むしろ音楽を前面に立てるところは立てて、そのリズムや展開に合わせて編集もしたところがある新海誠監督の「君の名は。」とはどこか違う。どちらが良いとうことではなく、「君の名は。」はそうしたPV的とも言える音楽の作法が若い世代の気持ちをノせた。「映画 聲の形」では環境に近いサウンドが、重くなりがちなテーマをふわっと日常に溶け込ませ、やんわりと感じさせる作品にした。どちらも希有な音楽作り。そんな作品がほぼ同時期に並び上映されて共にヒットするこの国のアニメーション状況の素晴らしさを改めて噛みしめる。次はどんな映画でどんな劇伴を楽しめるかなあ。まずは期待したい片渕須直監督の「この世界の片隅に」のサウンドトラック。前作「マイマイ新子と千年の魔法」も村井清秀さんのトラックにMookiさんのスキャットが乗って不思議な軽やかさを醸し出していたから。


【10月12日】 勝ちきれなかったというか、押し込まれてしまった段階で誰かがどこかでほころびを見せることも必然だったとするなら、引き分けは上々だったというか。そんなFIFAワールドカップ2018ロシア大会に向けてのアジア予選最終戦、日本代表対オーストラリア代表の試合はグラウンドにカモメがいっぱい降りたって、どれがボールか話か分からなくなる幻惑が使われたようだけれど、選手たちは騙されることなくボールを追って本田圭佑から原口元気選手へとダイレクト気味のパスが届いて、それを原口選手がゴールキーパーの脇を抜けるシュートを放ってまず先制。これで畳みかけられると思ったものの、相手も前線からプレスに来て日本代表にボールを回させない。

 後半に入るともうオーストラリアに押し込まれる感じで日本の選手のほとんどが自陣に引きこもるような戦いに。これって弱い選手を相手に日本代表が試合をするときに感じる引きこもった相手をどう崩すかっていった展開を、逆にして見ているようだけれど、そんな時に感じる時の相手チームのしつこさとは違って、日本代表は割と簡単にサイドにボールを回されたり突っ込まれたりする感じ。そこをどうにか跳ね返せてはいたけれど、原口選手が慌てて戻って体を寄せるだけで良かったところを、なぜかドカンとかましたショルダータックルで反則をとられ、PKを献上して1点奪われ動転に追いつかれてしまった。

 以降、勝ちを狙って点を奪いにいくような強さは見せられなかった日本代表。まあ仕方が無い、相手は実質的にアジアでナンバーワンのオーストラリアで、それも彼らにとってのホームの試合でコンディションも良く雰囲気も最高の中をノせてしまって得点を連取されてはたまらない。引きこもってでも抑えて引き分けで逃げ切るのが最高の判断だったとは思うけれど、そうした試合運びを未だ“アジアの盟主”だなんて過去過ぎる栄光を引き摺る偉い人たちや、そんな人たちにおもねらないとパスももらえず居場所もないのかスポーツ新聞お記者たちが、消極的だとかいって叩きに回っているようでやりきれない。

 目標はもはや力を見せつけることではなく、ワールドカップに出ることに変わっている。ならばすべきは勝ち点を積み重ねること。そのための最善をとった采配を批判されては立つ瀬もないってものだろう。そこを気にするハリルホジッチ監督でもないけれど。ただ顕現を持つ協会がどう動くかは気になるところ。後任に誰を入れたいかって思惑も勘案しつつ状況を見守ろう。さすがに五輪代表を率いて惨敗を喫した手倉森誠監督を、フル代表のコーチから監督へとに引き上げるなんてことはしないと思うけど。思いたいけれど。でもその布石として五輪での成績とか見ないで入れたんだとしたら……魑魅魍魎が跋扈しているなあ。時に腐ったミカンとも言い換えられる。

 「てっしーだ」「てっしーだよね」「てっしーだろう」といった声がざわざわとネットを駆け巡った新座市における東京電力の変電所火災。燃やして近隣の住民を避難させたところに空から彗星の欠片が降ってくる、なんて未来を想像して恐怖に震えたけれどもさやちんによるアナウンスもなかったらかてっしーは絡んでいないと気付いてそれなら大丈夫だろう、裏で三葉が暗躍していることもないだろうと結論づける。でも案外に。というかそいういった反応がふっと出てくること自体、「君の名は。」が多くの人に見られてそこでのエピソードが一般化しているって証。「まっくろくろすけ」と叫んで家の中を走り回る子供にも等しいそんな共通体験を、させた映画から次に生まれる映画館でアニメーション映画を観るという行為がもたらす豊穣に期待したいけれども、さてはて。「ポッピンQ」まで続いていってくれるかなあ。

 だいたいストーリーを知っているから驚きはしないけれども「魔法少女育成計画」、やっぱり展開上で魔法少女が削減されるとなって、点数が最下位だったねむりんがさくっと削除されてしまった果てに、生身の方にも影響があったりする展開が、動くアニメーションと聞こえる声でもって繰り出されると心がびくっとしてしまう。辛いのは嫌だなあ。でもそういう驚きと憤りの向こう側に来る闘争と開放のドラマがあるってことだから、ここは我慢して観ていくしかないんだろう。すでにほとんどストーリーも忘れているんで、主役級のスノウホワイトとかラ・ピュセルあたりがたぶん残りつつ、他に出てきた色々な魔法少女が中身おばさんでも少女でも含めて、バタバタと削除されていくだろうと予想しつつ覚悟もしながら、今後の展開を追っていこう。次は誰がどうなるんだったっけ。シリーズ化されてる他の本では誰がどうなるんだっけ。

 「装神少女まとい」は変身して解けたら素っ裸になってしまった皇まといが、慌てて家逃げ帰ったら神主の娘の草薙ゆまも来ていて2人でいったい何があったか話し合っていたところにボッと浮かんだ神様の像。でも何をするでもなくただいるだけという。そして2人にしか見えていなさそう。そんな状況下で起こった銀行強盗事件い飛び込んでいった父親の刑事を助けにいった形のまとい。暴れる相手に追い詰められたらそこに現れた謎の少女によってどうやら神様がついていても正しい神様と正しくない神様がいるっぽいことが見えてくる。でもってまといの母親は死んではおらず行方不明なことも。何が起こっているのか。そしてこれから何が起こるのか。変身するたびに裸にならざるを得ないのか。興味をもって見ていこう。しまった「夏目友人帳 伍」の録画に失敗した。

 いよいよ北米での公開が始まった「シン・ゴジラ」。400館って公開規模は日本だと最大級ななけれど北米では最小でもって1週間の期間限定はセルスルーにならなくて良かったね的なぎりぎりの線。日本人的な感性に満ちている作品だからきっと通用しないんだろうって前評判もあって散々かと思いきや、批評を集めて好悪のどちらかを判断するRotten Tomatoesのサイトでは18本中の14本がフレッシュ、つまりは好評をつけている。一般の評価でも好評の割合が80%くらいに達していてなかなか。

 ニューヨークタイムズとかニューヨークデイリーニューズとか、不評になっているんだけれど中を読むと常識的なとらえ方で、在来線爆弾とダレた怪獣をやっつける上で人を乗せて走るより効果的だなんて、分かっているコメントも寄せていてしっかり見てくれていることが伝わってくる。でも日本だと好評がついているヴァラエティとかハリウッドリポーターとかの評を引っ張りながらも、全体主義的な現れだといったコメントを抜き出し不評らしいといったニュアンスを醸し出そうとしている。素直にそれなりに喜ばれていると言ってはいけない何かがあるんだろうか。

 想像するなら日本人にしか分からないんだぜっていう優越感を粉砕されるのが嫌なのか、あるいは作品からどうしても読み取れてしまう国家主義的、全体主義なものへの称揚を嫌悪する意見を、アメリカの映画評に代弁させているのか。いずれにしても実際にはそれなりに受けていてそれなりに入っている感じ。規模が規模なんでギャレス・エドワーズ版を追い越すことは絶対にないだろうけれど、公開されたことをもってアカデミー賞へのノミネート視覚はクリアしたんでここから何か、賞とかってなると一気に日本での態度もひっくり返るかなあ。しかしみんあ、カヨコ・アン・パタースンの演技が気になっているようだなあ。英語が分かれば好評不評の理由も分かるんだけれど。誰かまとめてくれないかなあ。


【10月11日】 始まったテレビアニメーションの「ALL OUT」を見て、あの美形なラグビー選手の石清水澄明がとんがった性格ではなく、逆に優しすぎてラグビーに向いてないと自分で決め込んでいる系だとやっと分かった。そこに小さいけれども無知だけれども情熱だけはいっぱいの同級生、祇園健二が加わって、2人で組んで1年生としてラグビー部を引っ張っていくといた感じか。素人って意味では祇園は「DAYS」の柄本つくしといっしょだけれど性格は正反対だし、才能があるって意味では石清水は風間陣と並ぶけどこれも性格は反対。いろいろな組み合わせがキャラクターにはあるんだなあと勉強になる。

 1年生コンビって意味では、新シリーズが始まった「ハイキュー!!」の日向翔陽と影山飛雄もいるけれど、こちらは共に才能はあっても荒削りな日向と冷めてる影山が混ざり合って良い塩梅になるといった感じ、でやっぱりちょっとタイプが違う。そんなスポーツアニメーションの新1年生6人がいっしょに組んで、「黒子のバスケ」に殴り込んだら勝てるだろうか。190センチはありそうな石清水にジャンプ力がすごい日向がいればダンクもエアも決められそうだけれど、バスケットボールとバスケじゃ違うしなあ。柄本はまるで役に立たなさそう。風間は天才だから何でもできるかな。ってことで柄本補欠で祇園をポイントガードにするのがベストか。見てみたいなあ。見られないって。

 そんな「ハイキュー!!」で烏養繁心コーチを演じていた声優の田中一成さんが死去。脳幹出血って脳梗塞系かそれとも打撲系か、分からないけれども多分本当に急死だったんだろう。ほかには「コードギアス 反逆のルルーシュ」で玉城真一郎を演じていたっけか。最初から出ていて途中ですぐに退場するザコかと思ったら、最後の最後まで生き残ってバーを開いてみんなを集めてた。しぶとくってそれなりに人望もあった不思議な男。そのしぶとさで生きていて欲しかった。まだスタートしたばかりの「ハイキュー!!」第3期なだけに声も全部録り終わっていないだろうから、途中で誰かが代役を務める形になるのかな。柄は悪くても実直で暖かみもあって優しさもある声って探すと案外、いないんだよなあ。格好いい系ばかりが増えている声優界にあって貴重な脇役。それも重要な。白石稔さんとかが後釜に入ったら合いそうな。ともあれ合掌。

 訃報とえばスタジオジブリで宮崎駿監督の片腕として、あるいはがっぷりと組んで支えうるようにしてあの色彩を作り出していた保田道世さんが亡くなられたとの報。そんなお歳かと思ったら77歳は宮崎監督よりも上で、高畑勲監督よりは少し下。つまりはほとんど同時代として東映動画からAプロダクションを経てスタジオジブリへと連なる宮崎&高畑の仕事に色の方面かた携わり続けた人ってことになる。日本のアニメーション史をともに築いて世界にその名をとどろかせた人でもありながら、宮崎監督に比べて世に知られているといった感じはなく、顕彰の類もほとんどない感じ。東京アニメアワードの功労賞とか取っていたっけか。そうじゃないとしたらいずれ遠からず顕彰されるだろうけれど、死後ではやっぱり寂しいなあ。

 たぶん東映動画時代からずっつ培われたものだろうけれど、「未来少年コナン」とか「ルパン三世 カリオストロの城」なんかでもその才能は発揮されて宮崎監督の世界ってものを色の面から作り上げ、どこか優しさを持ち心にもすっと忍び込んでくる雰囲気を醸し出したんだろう。明るい世界でのパステルカラーが乱舞する色使いから、夜の中に沈んでもそれでもどこかにビビッドさを遺した配色まで、その色彩設計があったからこそ宮崎ワールドは宮崎ワールドとして僕たちに届き、やがてジブリワールドとして他のあらゆるアニメーションの世界へと広がっていった。たぶん新海誠監督だって影響を受けていて、「ほしのこえ」のあの淡い色調が交じるような色使いとか、「星を追う子ども」なんかのジブリっぽさなんかに現れているような気がする。それだけの偉大な才が世を去った。惜しみつつ、合掌。

 ようやくやっと雪村花菜さん「紅霞後宮物語 第零幕  一、伝説のはじまり」(富士見L文庫)を読了、まだ15歳くらいの小玉がいなかにいて縁談を破談にされてそれで嫁のもらい手がなくなり宙ぶらりんだったところを、脚の悪い兄に徴兵があって代わりに自分が出仕することになって都に行って、禁軍に入って下っ端として訓練を始めたといったところなんだけれど、体力はまだなく武術だってまるで素人。そこからどうしてあんな豪傑として名を馳せ皇后にもなって、やっぱり豪傑として皇帝を助けるようになるのかと思ったら、生来の物覚えの良さがあり、あとは度胸めいたものもあったみたいで後宮で繰り広げられていた違法な逢い引きを取り締まって、処刑までして初殺人。それでひるまずしっかりと兵士になって使えた宦官を守って戦い何人もの敵を退ける。

 そういう立場になれば仕方なくとかいった後悔などなしに、当然といった感じで任務をこなすさっぱりした性格。なおかつ戦闘の筋も良かったことがこの後、だんだんと腕に力を付けさせ勘の良さも働いて、戦術面でもぬきんでた存在になっていくって感じ。そういう立身出世の道筋が33歳で皇帝に見初められるまで描かれるのか、それとも適当なところで切り上げられるのかは分からないけれども、目下の本編では皇帝をめぐって謀略もあって、その中で友人を失い怒り心頭から逆襲に出て行く展開も進んでいる。そっちも忘れず描かれては歴史に名を刻む存在になっていくまでの物語も、しっかりと描かれて欲しいところ。あとはやっぱり映像化かなあ。実写でも良いけれど。「精霊の守り人」が実写になるんだし、これだって大丈夫だろうと思うけど。さてはて。

 7週目に入った「君の名は。」が興行成績の集客でもって7週連続第1位となったみたいで、スタジオジブリ作品でもないアニメーション映画がこんな記録を打ち立てるとはといった驚きとともに、前々から好きだった監督がこうやって知られる存在になっていくことへの喜びも感じて嬉しくなる。第4位には3位から落ちたものの「映画 聲の形」も踏みとどまっていてなかなかの好調ぶり。あるいはスタジオジブリのアニメーション映画だから、みんな観に行くといった感覚が、「君の名は。」でも観に行くといった状況をくぐりぬけて、長編アニメーション映画で感動できそうだから見に行く、ってことになっていたりするのかもしれない。そうなると期待できそうな「この世界の片隅に」。主演声優がプロモーション面でハンディを余儀なくされそうだけれど、「月刊アニメージュ」とかにインタビューも出て露出させて良いところではちゃんと取り上げられている。テレビだってきっと突破してくれるだろうと信じて公開を待とう。試写なんて無縁な一般人にはそこがスタート。見て話して多くを誘おう。


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