縮刷版2015年9月下旬号


【9月30日】 何が何だか分からないというか、例の砲台山こと虎尾山での女子高校生刺殺事件は周辺への取材の結果、女子高校生が男子高校生にほんとうに自分から刺してと言ったらしいといったニュアンスへと報道が傾いている。前に1度、家出したこともあってその性格その言動に諸々の不穏もささやかれていた中で起こった事件。刺されてから何時間も経ってやって来た家族や友人たちが、即座に延命措置を計るでも警察や消防に連絡するでもなく見守っていたという辺りにどうも、いろいろと前段階の動きがありそうなんだけれどそこまで踏み込んで語られることになるのか。そして刺した男子高校生の罪はどうなるのか。興味が及ぶ。

 不思議なのは、刺してと言われて刺せる男子高校生の心理で、そうやって相手が死んだら自分だって罪に問われることへの恐れといったものがなかったのかが気になるけれど、相手に同情してその思いを叶えてあげたいといった心理に囚われると、人は罪とか意識しないでそいういうことをやってしまうものなのかもしれない。ただ、別に恋人でも何でもないんだよなあ。女子高校生と付き合っていたという男子高校生は別にいるみたいだし。どうして彼じゃなかったんだろう。そして別の彼だったんだろう。その刺した男子高校生と刺された女子高校生の関係が、いったいどういうものだったのかも解明が待たれるところかも。

 ただひとつだけ言えること。そして言いたいことは、橋本紡さんの小説「半分の月がのぼる空」は死を称揚し、悲劇を美化するような作品ではないということ。どこまでも少女に生きて欲しいと願う少年の話であり、たとえ未来が分からなくてもそれでも精一杯の生を認め受け入れる話であり、仮に喪われたとしてもその喪失を噛みしめて生きていく大切さを問う物語であって、それを読んだからといって、というより読んだからには死を願う気持ちなんて浮かぶはずがない。そんな気持ちは里香に失礼だ。だからもし、ここを死に場所に選ぶような人がこの後相次いでも、それは「半分の月がのぼる空」のせいではないし、死ぬ人が続いて良いはずもない。ファンはだからそこを永遠に添い合う場所として、改めて整えていく活動をしていこう。思いだけでも届けていこう。ひとりの少女の若い死を悼みつつ、喪失を越える力を発しよう。

 アミューズの株価を下落させて時価総額を吹き飛ばし、世の女性たちを会社から学校から早退させた福山雅治さんの吹石一恵さんとの結婚だけれど、それで憤りが吹石一恵さんへと向かって吹き上がり爆発しないのが不思議というか面白いというか。その傍らにいるのが自分だという認識でいたいことは山々だけれど、現実としてその傍らにいるのが吹石さんでも異論はないといった認識なんだろうか。それは吹石さんが目立って発言するタイプではなく、演技で見せて共感を呼ぶタイプだからなのかもしれない。お父さんが元プロ野球選手だからといって、それを光に仰ぐことなく自分の力で歩いてきた。それが見えているから了解し、添い遂げたことを祝福しているのかも。一方で男子もかつて藤崎詩織だったとはいえ、それを知る者はごく一部。取った相手が福山さんなら文句なんて言えるはずもない、と。そんな祝福された2人が歩む道。眺めていきたい、独り身で。

 そして漫画版の「蒼き鋼のアルペジオ」を既刊の第11巻まで読み終えてついでにタカオを主人公としたスピンオフ作品「ソルティ・ロード」も読み終えて、アニメーション版とは違った世界のだいたいを理解する。こっちではまだ人類がしっかりと霧を相手に戦っていたんだなあ、白鯨とか。そこに乗り合わせている元のイ401ソナーの響真瑠璃で千早群像に対していろいろ思いがあるみたいだけれど、それがどういう感情なのかはやっぱり分からない。あと漫画版を読んでもタカオは函館にいていろいろやっていたことにはなっていても、それは詳細には描かれていないななあと。アニメーション版のタカオももしかしたら部屋を借りて住んで中をゴージャスに飾っていたのかな。そして「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− Cadenza」が終わった世界で、今度は環境をゴージャスに仕立て上げるのかな。そんなアニメーション版「ソルティ・ロード」がちょっと見たい。

 さて発売になった「ヤングキングアワーズ」の2015年11月号では、「蒼き鋼のアルペジオ」の連載も続いていて、アシガラとハグロを乗せてイ401がいよいよコンゴウを相手に挑むことになりそう。コンゴウもイセを呼び寄せ真正面からぶつかり合うみたいだけれど、これが終わった後は群像たちクルーはアメリカに向かって船を進めることになるのかな。ハルナとキリシマは横須賀で第四施設消失事件の謎を調べるみたいで、それが明らかになってそしてヤマトがどうして天羽琴乃とそっくりのメンタルモデルを持っているかも分かって、霧の発生の理由とかが見えてくるのかもしれない。先はまだまだ長そう。付録の冊子は「ソルティ・ロード」のTALIさんによる漫画もあってなかなか愉快。ヒュウガにミサイル撃ち込まれて岸辺に揚げられたタカオが体面した告白の練習台の生き物はモデルがいるのかなあ、眼鏡の関西弁って脚本の上江洲誠さんを思い出すけど、果たして。

 他の国の首脳が国連で演説したら席がいっぱいではなくガラガラだったと茶化す声もあるけれど、そんな茶化す人たちが仰ぎ見る我らが安倍ちゃんの演説も、やっぱりガラガラだったことに果たしてどういう理由を付けるのか。少数精鋭とか言ったら愉快だけれど、結局のところは聞くべき意味を見いだせる演説が行われないか、行えないと踏んでいたんだろうなあ。現実、その後の会見でも妙なことを言って、逆の意味で注目を集めてしまった。シリアあたりからの難民の増加をどうにかしたいと、結構な金額を支援することを表明した安倍ちゃん。会見で「これはまさに国際社会で連携して取り組まなけれないけない課題であろうと思います」と言ったとか。

 それは良い。ただ続けてなぜか「人口問題として申し上げればですね、我々はいわば『移民』を受け入れるよりも前にやるべきことがあって、それは女性の活躍であり、高齢者の活躍であり、そして出生率を上げていくにはまだまだ打つべき手があるということでもあります」と言って、質問した記者を含めた海外メディアの眼を白黒させたらしい。もしかしたら2つのことを聞かれて、難民については人道支援で対応する、そして国内問題についてはひとつの解決策として想起した移民を置いてやるべきことがあると言ったのかもしれないけれど、受け取った海外メディアは総じて安倍ちゃんは口では良いことを言い、金も出すけど実際が伴っていないと感じて、それを世界に打電したのかもしれない。

 ロイターにAPだなんて世界を2分つる通信社が発して、受けたニューヨーク・タイムズなんかも掲載しているんだから、もうその認識は世界共通のものになっている。海外からは白い目で見られること確実なんだけれど、国内でそうした認識が世界にはあるって報じたところがないんだよなあ。だから安倍ちゃんは立派な人だと、日本の新聞だけ読んでいる人はそう思っていそうだけれど、ネットに漂う多くの情報はそうでないことを分かっている。そのギャップが信頼を殺いで部数を減らさせ収益を削る可能性を、想像するよりも安倍ちゃんに媚びておこぼれに預かりたいというのなら、未来はちょっと暗いなあ。今も真っ暗なんだけれど。やれやれだ。


【9月29日】 劇場版を観たのは何度くらいだっただろう。池松壮亮さんが忽那汐里さんを抱えて登り、大泉洋さんがひとりで上って本を開いて残された文字を読んで涙にむせたあの場所、「半分の月がのぼる空」の中の名前で言うなら砲台山で、現実には三重県伊勢市にある虎尾山にある戦役記念碑の前で女子高生が刺殺されたという事件が伝わって、妙な形でまた橋本紡さんの原作や、それを元にしたアニメーションや実写ドラマや実写映画がクローズアップされそうでちょっと複雑な気持ち。原作ライトノベルの人気を受けて聖地化したあの場所は、けれども草木に覆われ人も近づけなかったところをファンが集まり、再生計画を遂行して今のように誰でも上って作品の舞台に触れられるようになった。その意味で聖地巡礼が前向きに働いた場所だった。

 集まる人たちも昼間にやって来ては聖地を堪能して作品の世界を振り返り、恋の話をしながら仲を深める場所になっていた。それがこの一件で悲劇の場所に。いったいどういうやりとりがあったかが分からないし、殺害したらしい男子高校生は頼まれたとか言い出してもうしっちゃかめっちゃか。それが事実かどうかは分からないけれど、どっちにしたって人の命が失われた場所を、どうやってこれから訪れれば良いのか。ひとつの鎮魂として、そして自分たちの恋路を確かめ場所として両立しえるのか。関係ないというのではなく、やはり起こった事件を噛みしめながら、それでも前向きに自分たちを生きようとする場所として、続いていってくれれば良いのだけれど。橋本紡さんが何を思っているか、ちょっと知りたいけれど最近、音信がよく分からないんだよなあ。日本にいるんだろうか。

 そんな橋本紡さんが一般小説へと移って出した「流れ星が消えないうちに」が実写映画化されたみたいで11月には公開の予定。それに合わせてまた出てくるか、分からないけれども映画自体は主演にNHKの朝の連続テレビ小説への出演が決まっている波瑠さんが起用され、立川あたりを舞台に映画が撮られたらしいんでキャストの面から話題になり、また聖地化の方面からも話題になれば橋本さんへの脚光も戻って、次の作品も生まれてくるかもしれない。最近ほんと、その活動を観ないんだよ。まだ50歳ではないとはいえ結構な歳になって来ただけにいったい、どういうものを書くのか見たいところ。「もうすぐ」のうような社会性も含んだ作品になるのか、やっぱり恋愛小説の旗手として活躍するのか。ライトノベル出身作家のSFっぽい設定を持った恋愛小説が文庫で50万部とか売れる時代なだけに、橋本さんには活躍の場もいっぱいあると思うんだよなあ。見たいその姿、読みたいその作品。

 実演しているのを観たことがないのでどれだけの力量なのか分からないし、興味があるかどうかと言われればあまりないのでPIPというアイドルグループがこの先どういう風になって行こうとも、それは数あるアイドルグループのたどった道だと思い眺めることは出来る。ただそうしたアイドルグループを立ち上げプロデュースをして来た社会学者が自分から放り投げるようなことを言い、行ったとしたらそれはちょっと気分的によろしくない。事実がどうかはまだ分からないけど伝わってくる言動と、その周辺にいる人たちの所感からもあり得る話と考えるならば、少なくない人たちのそれも未成年とか若い子たちの人生に関わり、その道を変えたことへのある種の責任って奴は感じて苦悩して欲しいなあ。それがなくって物か何かのように作り売って売れず放り出すのは人間としてちょと拙い。いくら言うことを聞かないからってそれが人間を扱うマネジメントって仕事な訳で。果たして真相は。そしてこの先は、様子を眺めていこう。とりあえずどこかで1度くらいは観てみるかなあ、PIP。

 去年は庵野秀明監督だった東京国際映画祭の特集企画上映が今年は機動戦士ガンダムだってことで、誰かゲストの登場でもあるかなと思い出向いた第28回東京国際映画祭のラインナップ発表会だったけれどもそっち方面での詳しい説明は特になし。まあすでにリリースとして出ているんでそれを読んでおけってことなんだろうけれど、実際にスタートしてからどんなゲストが登壇して喋ってくれるかが今は興味の置き所。庵野監督の時もいろいろな人が出てきたからなあ。やっぱり富野由悠季監督の登壇があって欲しいなあ。「Gのレコンギスタ」の上映に合わせて登壇したものなあ去年は。あるいは安彦良和さんとか。サイトをチェックしておこう。

 そんな東京国際映画祭には華となるコンペティション部門に日本から3作品がノミネート。あの「泥の河」の小栗康平監督による10年ぶりの新作となる「FOUJITA」はまるでのび太な藤田嗣治をオダギリジョーさんがそっくりに演じているのに今から関心が向くけれど、それとは別に「十二国記」の小野不由美さんが手がけたホラー小説も、映画になって登場するというからそっちのファンには注目かも。ただその作品、中村義洋監督の「残穢【ざんえ】−住んではいけない部屋−」は監督が撮りたくないと言い、主演の竹内結子さんも脚本を読みたくないと言い、そして撮影が終わったら一刻も早くに家に帰って鍵をかけて閉じこもり塩を撒きたくなるくらいに怖いらしいから、僕にはちょっと観られそうもない。でも場内がどんな感じになって、出てくる人たちがどんな足取りになるかは興味ある。挑むか否か。映画祭での評判を聞いて決めよう。でも怖いのはいやだなあ。

 それがお互いにそれぞれの立場を了解し合った上でそれぞれにちょっとだけ異なることを言っているのか、それともどちらかが嘘を言っているのか判然とはしないけれども後者の場合を想定するなら、やっぱり自分の見栄えを良くするためになかったことをそれと言っているのは日本側のような気がしないでもない国連総会における日ロ首脳会談。安倍総理は北方領土について話し合う余地があるようなことを言ったけど、プーチン大統領は平和条約締結交渉とは言っても北方領土については何も言及しなかったとか。そりゃあ向こうとしては日本が主語の北方領土なんてものは存在しておらず、それについて語る余地なんかないというのが立場だから、敢えて言うはずもないんだけれどもなぜか日本では安倍総理が「平和条約交渉すなわち領土問題」という言い方で両者をイコールで結びつけている。

 外務省のサイトにもそんな首相の意向を受けてか「領土問題については,双方に受け入れ可能な解決策を作成するため,交渉の前進を図ること」で一致したってあるけれど、プーチン大統領の側なりロシア大使館なりがこれを読んだらいったいどういう反応を見せるのか。ちょっと気になるところ。そしてもうひとつ、気になるのがこの件についての報じ方でそれなりな新聞はちゃんとプーチン側の言い分も取材するなり聞くなりして、「北方領土」についてはまるで言及しておらず、あくまでも「平和条約締結交渉」についてのみ、話したと言ったことを紹介して日ロ間の温度差というか溝をしっかり認識している。一流の所作って奴だ。

 でもどこかの安倍ちゃん大好き新聞はそうしたロシアの立場にまるで触れず、安倍ちゃん側なり外務省側の言い分をのみ紹介してさも成果があったかのように見せている。そりゃあ読んでその方が気持ち良い人が読者なのかもしれないけれど、結果として何も進展しなかった時に落胆も大きく憤りも凄くなる。そうした興奮がかつて外国へのいらぬ反感を呼んだことを考えるなら、もうちょっと普段から差違を知らしめそこからどう埋めていくかを考えさせるのが教育だし外交って奴ななけれど、その場が気持ちよければ良いという考えで売っているんだろう。ある意味で荷担しているというか。その果てに来る反発を受け止める覚悟があれば良いんだけれど、やらせた人たちはそんな時にはもうおらず、残された者たちが被ってつるし上げを食らう。茨の道を自分で敷いて歩いて行く者たちに同情。でもそれも自業自得か。やれやれ。


【9月28日】 そして最終回を迎えた再放送中のアニメーション「ガールズ&パンツァー」は、子亀の上に親象を乗せてしまうような無茶をやっては3台がかりでマウスを沈め、そして到着した黒森峰学園の本体からうまく西住まほが乗るフラッグ車だけを招き入れて1対1の場面を作った大洗女子学園の西住みほの作戦が上回った模様。あそこで逆に黒森峰学園が逃げ、レオポンを乗り越えて敷地内に入ろうとしていた副長たちの到着を待てば、台数で上回る黒森峰学園に勝機もあったように思うけど、面と向かって対峙された相手から逃げるというのは自分が信じる西住流にはないと断じたまほだけに、出来なかったんだろうなあ。

 そして最後の戦いで、初陣となったセントグロリアーナ女学院との戦いで見せた近寄ってドリフトしながらゼロ距離射撃が見事に決まって大洗女子学園が黒折り峰学園を見事に撃破。優勝を果たした訳だけれどもこれってつまり黒森峰学園は2年連続で2位に甘んじたってことで、隊長をやってる西住まほにとってはちょっと頭の痛いことかもしれないなあ。今が3年生なら3年間のうち1年生の時にしか勝てなかった。そして西住みほは2年生で勝ってもしかしたら3年生の時も勝つかもしれない。完璧な跡継ぎの姉を上回る成績を上げた妹に、それでも跡を継がせないのかどうなのか。分からないけどこれから公開の映画で別に、西住の姓を持つ人が出てくるみたいだし、いろいろ事情もあるのかも。そんなお家騒動の行方も含めて早く見たいな劇場版。どんな戦いが繰り広げられるかなあ。ねこにゃーは活躍するかなあ。エンディングで眼鏡外した横顔は、大洗女子学園の誰よりも美少女だったよ。

 アニメーションシリーズの結末を見せる「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− Cadenza」も見て一応の結末も見たんで、あとはアニメーション版は漫画版のどういうところを汲みとりながら、物語を気付いていったのか、そして目指すところは同じなのか違うのかを確かめようと、未読だった漫画版「蒼き鋼のアルペジオ」とぼつぼつと読み始める。「ヤングキングアワーズ」はずっと買っていて、それこそ「アルペジオ」の連載当初から読んでいるはずなんだけれど、ほとんど覚えていなかったりするのは入り組んだ内容に入り込めないなあと感じていたからかもしれない。それでだけに改めて読んでみると、意外に諸々のシチュエーションが、アニメーション版に取り入れられているのが分かって面白かった。

 たとえば「DC」の方で高いところから飛び降りて見せたムサシなんかは、英国との条約を締結した千早翔像の傍らにふわっと降り立つムサシの様子からとった感じ。刑部蒔絵をコートの内側に入れて走るハルナも、アニメではナノマテリアルで作ったダミーを入れていたけど、漫画では本人を入れて走り回っていた。同じビジョンでも展開を変えて使って漫画版のファンにはああ見たこれ、って思わせつつでもアニメとしてのストーリーに整合性を持たせるアレンジを加える。原作をアレンジさせることにかけて当代一と思える上江洲誠さんらしい仕事っぷり。他にもそんなシーンが鏤められていて、改めて劇場版「Cadenza」を見るのが楽しみになって来た。舞台あいさつに行くし。

 ひとつ、分からないのは八月一日静の正体かなあ。バスタオル1枚で艦内を走る描写は漫画にもアニメにもあったけど、戦闘服着て特殊部隊を手玉に取るのは漫画だけ。いったい何者? 台湾で何をやっていた? 気になるなあ。そしてアドミラリティ・コードの正体。どうやら霧はそれを探しているようだけれど、それって霧の中にしっかと植え付けられたものではないのか。ある一定の規範はあっても、それ以外が分からないだけに仲間割れも起こって大変そう。だからこそ根本となる部分が何かを探し求めているのかもしれない。宇宙服を着た女性が持ち込んだものだとしたら、あるいは宇宙から飛来したナノ宇宙人が増殖したものが霧か。それにプログラミングを行ったのが宇宙服の女性か。いろいろと浮かぶ想像だけれど、合っていても合っていなくても答え合わせが楽しめそう。それが描かれる時まで追っていこう。あと何年くらい楽しめるかなあ。

 その真夜中の思い出が…。蘇ってきた「ARIA The AVVENIRE」。基本は深夜アニメとして放送されて、淡々とした描写に浮かぶ眠気をこらえて見ているうちにミラクルな世界へと引っ張り込まれた「ARIA The ANIMATION」に始まるシリーズの後日譚として、新たに製作された劇場版。60分ほどの時間の中に3つのエピソードを入れながら、ミラクルが起こるネオ・ヴェネツィアでゴンドラを操るウンディーネをしている3つの世代の3人づつの計9人が、それぞにれ出会い、感じ抱いた友人というものの大切さを思い起こさせ、そして伝統を繋いでいくことの意味を感じさせるストーリーを描き出す。

 大きな事件が起こる訳でなく、普段はなかなか会えない人たちが、軌跡のような偶然があって邂逅するだけといった展開なのに、それが妙に嬉しくてそして涙ぐんでしまうのは、誰かといることの幸せって奴を今、求めがちな時代に生きているからだろう。水が広がり建物がひしめく間をゴンドラが行き交うネオ・ヴェネツィアの描写から漂うどこか非日常的な、けれども普通に誰もが生きている日常というものの感じは、今を特別なものとしていつか普通が来ると願うことよりも、今を普通だと認識し、その中に特別を探して生きることの方がずっと容易く、そして嬉しいものだということも思わせる。ネオ・ヴェネツィアに行かなければミラクルは起きない訳じゃない。どこでだって願っていればいつかはミラクルは起きるのだ。なんて思いたいけれど、そういう出会いもないからなあ。だからこそ涙が出るのかもしれない、3人がそれぞれにしかりと繋がって、思い合いいたわり合っている3組の姿に。

 そしてアニメの中のつながりは、現実のつながりをも意識させる。川上とも子さん、そして河合英里さん。オレンジぷらねっとに所属するウンディーネで澄んだ歌声が評判のアテナ・グローリィの声を演じた川上さんも、その歌を唄った河合さんもともに早くに亡くなっていて、今回の映画に新しい声も歌も入れていない。入れられるものでもないけれどでも、エンディングのクレジットに2人の名前はしっかりと入り、そして本編でもおそらくは過去から引っ張ってきたシーンに合わせた台詞が載り、澄んだ歌声が響き渡る。会食の場面、ちょっと離れている場所から唄われたあの歌の心に刺さること。そこにいなくても、そこにいるんだと感じさせてくれる。

 そんな歌声を耳にした時、作品の中のアテナと晃とアリシアが感じた結束は、現実の世界で大原さやかさんと皆川純子さんに川上さんや河合さんとの繋がりを思い出させ、そして見る人たちのそんな作品があって、そんな人たちが演じ唄っていたことを思い出させる。繋がりの大切さ。繋がっていた素晴らしさ。それを感じさせてくれる作品を、作ってくれてありがとうと佐藤順一監督にただただ感謝したい。この永遠の繋がりは…。僕の一生をきっと実りあるものにしてくれるだろう。とはいえ僕にはまだミラクルがないなあ。誰かどこかでいつか。あり得ないなあ。出不精すぎて。

 ネットでコピペしたような噂を重ねてコラムの一丁上がりってお手軽すぎだろう。「小欄は確認していないが、中国共産党に批判的な米国の華人向けニュースサイトなどは、暗殺未遂事件が起きた−として、以下報じた」ってこれ、ジャーナリストとしての立場を放棄しているに等しい台詞だし、「事実関係は判然とせぬが、報道に触れて傍証を思い出した。天津港は中国がパキスタンなど友好国へ兵器を輸出・供与する拠点で、戦闘車輌など大量の兵器や弾薬の集積地だ。その一部が、習派幹部らの爆殺用に用意されていた可能性は高い」って天津の爆発事故にありがちな陰謀論まで添えている。それを社会の木鐸を自認する新聞の偉い専門委員様が書くんだからどうしたものか。どんな媒体なんだと思われたって不思議はないけど、すでにそんな媒体だと思われているから何の問題もないのだったりしちゃったり。やれやれ。


【9月27日】 もしも実写化されたらさぞや凄惨な映像になるだろう。そのシーンは透明にされてしまった家の中で、それでも壁とかドアとか窓とか家具とか見えないだけでしっかりと存在する状況に入り込んだひとりの少女が、やっぱり透明にされてしまった炎が燃えさかる中で見えない炎にあぶられ逃げようとしても見えない壁に阻まれながら、じわじわと焼かれて死んでいくというもの。当人にとってはすぐに見えている外であってもそこに行くには壁があって抜けられず、扉だったとしてもしまっていたらくぐれない。鍵をはずして開けたくても見えない鍵をどうやればあけられる? そんな焦りにとらわれ炎に焼かれながら死んでいく身に浮かぶ思いを想像するだけで戦慄する。

 そんな凄惨な場面を創り出したのが春日透という名のひとりの少女。事故か何かで両腕がまったく動かなくなって、今は足をつかって食事をし、メモもとったりしながら暮らしている。そして殺人も。これは口に刀をくわえて斬りかかるというもので、不思議なことに彼女が傷を付けたものは透明になってしまうそうで、斬り殺した姿態は透明になって発見されないという寸法。超能力かどうかは不明。ただその街には超能力者が割と居て、人間と対立しながら暮らしている。そんな超能力者を刈り、邪魔するものを刈るのが春日透の生きる目的。だから夜の街に出ては何人も殺していたんだけれど、そんな彼女が自分で透明にした服をきて身を隠しながら歩いていたのを関知した少女がいた。

 見つかった。だから殺そうとしたけれど果たせず、いずれとつけねらっていたところに少女の弟が飛び込んで傷を負い透明になってしまった。そして始まる透と少年との戦いに関わったのが別の少女で、透が暮らしている祖父の家にしのびこんで物色していたところに帰ってきた祖父を殺したことで透の怒りに火が着いて、そして起こった冒頭の惨劇。そのすさまじさを映像にしたらいったいどんな感じの絵になるかなあ。まったくなにもない空き地に浮かんだ少女が勝手に燃え上がる。ああ何というグロテスク。見たいわけじゃないけど、それを言葉でも描いた入間人間さんに感嘆。「美少女とは、斬る事と見つけたり」(電撃文庫)は続刊の予定で透明になった少年は元に戻って姉を助けられるのか。けどいったん、家を出るに当たって少年が姉の下着を鞄に1枚、入れたのは何だろうなあ。フェチかシスコンか。どんな香りがするんだろうなあ。

 今日ではなくて昨日に国立新美術家でニキ・ド・サンファルの展覧会を見たけどほとんどが那須のニキ博物館にあったものって感じで日本には慧眼のパトロンがいたなあという思い。世界でそれとも知られてないかっていうとそうでもなく、初期の射撃芸術なんてアンファンテリブルのひとりとして注目されてガラクタをつないで音を鳴らすジャン・ティンゲリーとかからも評価された凄い人。ただ原始女性は太陽であった的な地母神風の像を描き作るようになってから、そのあまりにプリミティブな雰囲気が先端のアートから外れたものとして覆われたのかあんまり関心を持たれていなかった。そんな時代にもニキが描こうとしていた女性の強さ、女性の素晴らしさをしっかりと捉え、支援し続けたYOKO増田静江さんという人の信念に改めて敬服。時代が変わって今や世界がその斬新で懐かしくもある造形を讃えているのだから。

 休日だけれど雨模様で遠出するのもはばかられたんで皇居側の北の丸公園で開かれていたスーパーフェスティバルへと行く程度。でも皇居の周りはいっぱいのランナーが走ってた。同じ方向へと向かって。いつから反時計回りって決まったんだろう。何か2013年にはそういうルールが明文化されたみたいだけれどどういう根拠があったのかが気になる。道路的には左側通行になるのに。もしかしたら走りやすさで大手町あたりから麹町へと抜ける過程がゆるやかな上り坂になってて走るのに適しているのかも。下りが長いと膝とか痛めやすそうだし。そして科学技術館でスーパーフェスティバル。怪獣がいっぱい。特撮がいっぱい。特撮な人もいっぱいいて韮沢靖さんが歩いていたり開田裕治さんが講演を行っていたりとその筋のファンには嬉しイベント。そんな講演で幕間に紹介されてた村瀬継蔵さんって造形家の人の「怪獣秘蔵写真集 造形師村瀬継蔵」(洋泉社)って本のサイン会に並んで本を買って色紙と本にサインを頂く。

 ずっと現場にいた方でゴジラやガメラといった怪獣の造形なんかを手がけたことでも知られているけど、テレビ世代の僕にとっては「仮面ライダー」「超人バロム1」「人造人間キカイダー」といったテレビの特撮番組を手がけたことで当人は知らなくてもその作品は毎週どころか毎日のように観て慣れ親しんだって感じ。「クレクレタコラ」もやっていたみたい。そんな人が現場にいながら撮影したスナップショットが中心で、スチルじゃないから画像もあらいし、写っている人が誰だかさっぱり分からない。ただそうした記念撮影の背後にある造形物の作りかけやら動かしているところなんかが資料として超貴重。今は金色として知られているキングギドラが当初は青かった説を証明するスナップ写真なんかもあって、伝説がそういう場所から現実となって未来に伝えてられていく。撮っておくものだなあ写真って。今はそれたTwitterとかinstaglamに上がって世界に記録される。逆に言うなら上がってなければ記録に残らない。厄介な時代でもあるかもしれない。

 そういえば開田裕治さん、今日はそのキングギドラも描かれている「怪獣大戦争」のTシャツを着て登場していたけれども昨日、地下鉄に乗っていて前に座っていた人が開田裕治さんにそっくりで、そして「海底軍艦」のTシャツを着ていたのを見たばかりだったんで世の中には似た趣味と似た容姿を持った人がいるんだなあと思ったというか、単にご本人だったというか。それにしても格好いいTシャツだった。デザインも白地に黒の線で描かれ怪獣やらメカやら人物の配置も抜群で。どこかで製造されているんだろうか。探してみよう。怪獣系だとエリマキゴジラのジラースのフィギュアとか出ていたし、村瀬さんがサイン会をしていたM1号のブースには大きめのツインテールもあってこれが良い出来。衣を付けて揚げたら良いフライになりそうだったけれど食べても固いんで揚げません。

 そんなスーパーフェスティバルでは怪獣じゃないオリジナルのフィギュアを出している人もいて中に荒川エリーさんというイラストレーターで造形家で美人な人がいて、チーズ天使というチーズの神様めいたフィギュアがあって気に入って1つ購入。聞くとソフビの原型に自分でひとつひとつ手で色を塗っているらしい。スタンダードなのもあればカラフルに塗装を施したものもあって珍しくも楽しそう。イタリア料理の店が守り神めいて買って置いてあるって話も聞いて、これを置けば自分で作るイタリア料理も美味しくなるかなあと思ったけれど今、ガスレンジが本に埋もれて何も作れないのだった。コンビニのパスタが美味しくなるかなあ。別にピッツァ天使めいたのもあってこっちはナポリピッツァの石窯をモチーフにしたペイントが施されているのもあった。ピザ屋さんの守り神。今度行ったら置いてあるか見てみようっと。

 ああもうどうしようもないゲス野郎だ。  もはや日本人から慎みだとか恥とかいった精神が失われているのかもしれない。それが大和魂の根幹とも言えるのに、そうした大和魂を称揚する勢力が率先してみっともなさをさらけ出す。NHK放送されていた山崎豊子さんの評伝番組を受けて、早速ウィキペディアにこう付け加えた人が居る。「元大本営参謀だった瀬島龍三に対して、『どうして(日本)は、おめおめと負けちゃったの?』と旧軍の関係者を小馬鹿にした態度に批判がある。また、あまりにも中国および中国人民と中国共産党寄りのスタンスのため『売国奴』『反日』という批判がある」。おいおい、あの番組を見てなぜこう書ける。瀬島龍三さんとの会話は取材で問い詰めると言うより違いに言葉を交わし合う中でのひょっとでたもの。受けて瀬島は「それは別」と怒りではなくざっくばらんな調子で答えている。

 そういう会話を切り取り無礼な詰問があったかのように脚色する。音声じゃないから伝わらないネット。それを増幅する奴ら。かくしてニュアンスは殺がれて雰囲気は伝わらず山崎さんを「小馬鹿にした」などという文言で批判する。そしてまた、どうしたら番組を見て中国人民と中国共産党寄りと書けけるのか。あの胡耀邦総書記に面と向かって悪いことも書くと宣言していたではないか。受けて胡耀邦総書記は悪いこともあって改めていくのが私たち中国人だと答えた。これは今の中国に対しても痛烈に響く言葉だ。文化大革命の悲惨もちゃんと伝えた。中国での寒村の過酷な暮らしも書いてある。それぞれに過去を忘れ未来を見ないで突っ走る日中の双方を撃つ言葉であり書物を挙げて反日とか売国奴とかいった言葉がすぐに出る人間性、それが普通になて来ている世間がもう本当に壊れてしまっているのかもしれない。

 中国残留孤児を日本に手放し、数年間は泣いて暮らしていたとう中国の両親に山崎さんはどうして子に残れと言わなかったのか、自分なら泣いてわめいて止めるといったら中国の両親はそれは違う、友好のために私たちは子を手放すと断言した。泣いて暮らしていたにもかかわらず。その言葉、その思いを今、どれだけ踏みにじっているのかを思えば、とてもじゃないけれども山崎さんを、その作品を誹り罵る気持ちなど生まれないのに。もう本当に壊れきってしまったのかもしれない。後に続く言葉が、あとに続く物語が生まれない限り、誰も自分を振り返らず、他者を慈しむこともなく自分だけが可愛く正しいという認識の中に溺れ他者を排して孤高の中を暗闇へと向かって突き進んでいくんだろう。その果てに来る世界はどんな色をしているのか。想像するだけで恐ろしい。本当に恐ろしい。


【9月26日】 いやいや製品には特許ってものがあってそれを会社側が抑えていたらいくら技術者が揃っていたって外に成果を持ち出して、同じようなものを作ろうとしたって作れないんじゃないかと思った「Classroom☆Crisis」の最終回だけれど、霧羽ナギサ(偽)のことだからきっと技術特許もしっかりと押さえてA−TECのものにしてあって、独立をしても同じかそれ以上の物を豊富な資金の支援によって作り上げられるようになっているんだろうと思いたい。でもって結局、白崎イリスの正体が本物の霧羽ナギサだとは仲間の誰にも明かされていなくて、知っていたのは当人の霧羽ナギサ(偽)くらい。あとは社長あたりでそこが次のシリーズがあったら、話題の中心になるんだろう。電話をかけて来た先代ってのが何かいろいろと糸を引いていそうだし。というかやっぱり次、あるのかなあ、あって欲しいな面白かったから。

 こっとは続いてくれないと中途半端過ぎる「食戟のソーマ」はカレー勝負がまだグループ予選でソーマがリゾットをオムレツで包んだものを出して審査員のうちの3人から、葉山リョウより高い得点を付けられこれが食戟だったら買ったのはソーマって言われたけれど、総得点で競い合う勝負だから1点差をつけられある意味敗戦。父親の城一郎から次に対戦するまで負けるなよと言われながらもこれで負け、確か本戦でもリョウに負ける感じでソーマの無敵も崩れてはいるけどそれを気にしないのがソーマ。なぜってずっと父親に負け続けているから。それでも立ち直って新たな食に挑んでいるからで、きっと遠月学園でも負けを糧にして勝ちに向かう道を歩んでいくんだろう。そういうストーリーがアニメーションで描かれる時は来るのか。巻数が重なったら第2期って行ってくれるかな。いって欲しいなこちらも面白かったんで。

 朝も起きられたんで電車を乗り継ぎ中野ブロードウェイで開催中の安倍吉俊さんの展覧会「安倍吉俊デビュー20周年記念自選画展『祝祭の街 明・暗・素』」を見物。これで2度目。ただし展覧会の内容が変わっているんで行かざるを得ないのだった。正午の会場に合わせていったらすでに何人かの行列で、それから入って見たららlaineがいた。どこかで見たなあってあれはプレイステーション版のゲームのジャケットだったっけ。他にもあってlaine好きとしては行かざるを得ない内容になっていた。前もそうだったけど。あと「灰羽連盟」のラッカとか眼鏡をかけた名前は誰だったっけかな子とか。100万円の実画はやっぱり売れてたけれど、その下のはまだだったみたい。まとめて買えば良いのに。100万円も200万円もいっしょでしょうにお金持ちには。僕には違うけど。普通は違うか。お金持ちになりたい。

 珍しいところでは「NHKにようこそ」のあれは文庫か何かの表紙だろうか。中原岬が描かれているのがあってちょっと心が揺れたけれど、滝本竜彦さん作品ではやっぱり「ネガティブハッピーチェーンソーエッヂ」のソフトカバー版表紙に描かれた雪崎絵里ちゃんがヒロインとして最高なので浮気はできないのだった。雪崎絵里ちゃんは今回も出ていなかったなあ。基本飾ってあるのはいっしゅの版画というか複製で、もちろんたぶん描かれたものより相当に拡大してあるだろうけど、それでかすれたり歪んだりギザったりしていないのは元のデータが相当に大きかったってことなのか、加工に力を入れたってことなのか。こんなサイズでlaineに見えることなんでそうはないチャンスなんで、1枚欲しかったけど8万5000円では手が出ないので諦める。11枚も売れていたなあ。やっぱり好きなんだみんな、laineが。再放送とかやれば良いのに。それとも再アニメ化? それは中村隆太郎監督がいないから無理か。オリジナルをまたテレビで。今見てもきっといろいろ学べ驚ける作品だから。

 同じ中野ブロードウェイのHidari Zingaroの方であのMr.の展覧会「“lost” −めんたーる すけっち もぢふぁいど−」ってのも始まっていて、これはとのぞきにいったら凄かった。いやもう本当に凄いんだけれどきっと世間は黙殺し、アートなメディアも知らん顔して通り過ぎそうな気がするなあ、権威にこりかたまった新聞のアート評とか。前に西麻布のKaikaikiki Gyaralyで見たビッグサイズの作品とはまた違って、大きいことは大きいけれども背丈におさまる範囲のキャンバスに描かれるのはやっぱり少女たち。大昔のジブリか日本アニメーションかってなテイストはなく、今は丸顔で目が大きい可愛らしさ全開の少女たちが、顔だけとか全身とかいろいろ描かれている周囲をポップなアイコンとか文字が埋め尽くし、書き文字なんかもあってとコラージュめいた雰囲気を醸し出している。

 その雑多さは興味を電波的にキャッチしてはキャンバスに塗りたくっていくMr.さんらしさに溢れたものだけれど、そこは無秩序ではあってもどことなく秩序だったものが感じられるのは、興味の範囲が僕と、というか僕たちオクタな大人と似通っているからで、その共時性というか共感めいたものが漂うからなのかもしれない。ただそれで僕らが同じ物を描けるかというと描けないのはMr.がアーティストだから。無秩序な秩序をスペシャルなカラーリングと細部へのこだわりで探求していった果てに完成するその平面世界は、曼荼羅めいたカラフルさとストリートアートのような奔放さを兼ね備えた不思議な味わいのものとなっている。それが何枚も連なる個展の部屋に立っていると、絵から漂ってくる電波ともつかないささやきが耳に聞こえ、そして少女たちのざわめきが響いているような気になってくる。生きているんだその中で。

 そんな絵を今回はちょっと不思議な手法で描いている感じ。カンバスに描いた上にあれは麻か何かの布を張り付け、その上からまた描いて幾重かのレイヤーをそこに作り出している。麻の布に明けられた穴の下が表面の絵と続いている場合もあれば、そこに違うモチーフがのぞいている場所もあったりと縦横無尽。これも想像するなら少女たちを見つめて抱く表面的な思考のその奥に、欲望だとか羨望だとか他のこととかいろいろな思考があってそれらが折り重なるようにして人間の思考を形成し、そして世界を形作っていることを表現しようとしたのかもしれない。意図的にではなく感覚として。そう思い改めて見るとそこにMr.という稀代のクリエーターの思考が垣間見えるかもしれないけれど、触れると痺れのめり込むと巻き込まれるから要注意。本当に凄いアーティストになたなあ。食糧ビルで見かけたおとなしめな青年が今や世界と戦っている。ファレル・ウィリアムから尊敬されている。凄いなあ。僕も頑張ろう。頑張ってどうにかなるものではなかったとしても。

 公開したとはいえ自前のサイトで来るのは味方ばかりという中、世間にそれほど露見していなかった失態が、他のニュースサイトでまとめられて配信されたことでもう少し世間にその人となりが伝わることになるだろう。他人を誹り貶して生活に影響が出るくらいのことをしでかしながらもそれと同じこと、というよりもっと酷いことをやっていた身内にたいしてまるで非難の矛先を向けず、それ以前にそうしたことを身近でやっていたことすら知らず他人を批判していたことがバレてしまったんだから、何をやっているんだって世間が思って不思議はない。でも当人がそうとは思わないところにこの問題も難しさがある。周囲もそうとは認めず未だエースとして取り扱っていたりする。信用をこそ尊ばれる場所でそれが通じるはずもないんだけれど、その周辺だけでは通じてしまうこの乖離が、何を招くかは明々白々。きっと遠からずリアクションが起こると思いたいけど、果たして。

 そして夕方の新宿へと出て「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ ?アルス・ノヴァ? Cadenza」の劇場先行上映会へ。「DC」との同時上映という異例の機会で長丁場になったけれども、まずはちょっと前に放送もあった「DC」を見て冒頭に流れる白い人が海底へと沈み大爆発が起こるシーンを思い起こしてこれが後編にあたる「Cadenza」に繋がり物語全体を貫き通す意味を持ったシーンだということを思い知る。なおかつテレビでの20分間先行放送でも落とされていたシーンが「Cadenza」では描かれていていったい何が起こってあの大爆発へと至ったのかが分かるようになっていて、予告編との繋がりが見えて何となく「霧の艦隊」で起こっていることが理解できてそういう戦いになっているんだとう構図にうなずけた。

 問題はだからそこからどうやって大逆転するかということと、あの千早翔像がどうしてムサシの傍らにいて「霧の艦隊」に味方をしているのかといった部分になるけれど、それも次第に明かされていってムサシというメンタルモデルに生じた様々な思いが流れ込んできて胸が痛くなった。辛かったんだよね。でも頑張ったんだよね。同意はしないけど同情はできる。だからこそラストシーンでひとつの思いがかなったことに微笑みが浮かぶ。良かったね。温かいね。でもやっぱりちょっと急ぎすぎたかなあ。そこが子供だったんだろう。釘宮理恵さんが声を当てるに相応しいキャラだったんだろう。そんなシーンもあってくぎにゅーらしさを存分に堪能できる。あんなにおすまししたくぎみゅーはくぎみゅーじゃないと思っていた諸兄、大丈夫です、どこまでもどれだけでもくぎみゅーだから。

 そんな「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ ?アルス・ノヴァ? Cadenza」の見どころを一言でいうならヤマトが大きくて谷間も深かったこと。もう近づいて埋めたくなったけど今、埋められない状態になっていたらそりゃあムサシもキレると思った。群像だってきっと比べればあっちがいいと思っただろう。そういうものだ。 もうひとつ、駆けつけ警護の意味を理解した。あれはやっぱり嬉しいよ。そして有り難い。喜ばれることをするんだからきっと自衛隊の方々満足だろう。いやでも霧と自衛隊じゃあ装備が違いすぎる。あの火力を持って行く霧としょせんは自衛隊装備の自衛隊では勝算が違いすぎる。霧ほどとはいわないけれど、浸食魚雷とクラインフィールドくらいは持たせてあげよう。あれがあるとないとじゃ大違いだから。

 実際にあれがないイ401がとてつもない苦労をするのを見せられる訳で、どれだけクルーが優秀でもクラインフィールドですら防ぎきれない浸食魚雷に重力砲をぶちこまれてはお陀仏だ。そいういう格差のある戦いをどうやって互角へと持って行き、そこから相互理解の糸口を探ることで世界がもっと平和になっていけば良いなあと、思わせてくれる作品いなっていた。本当だって。艦隊戦がどつきあいになり物理的な殴りあいになっていく辺りとか、エスカレートする戦いの虚しさも感じさせてくれるし。お前ら霧の戦艦としてのプライドはどこにいたんだ的な感じも含めて。だってシャムシエルvsゲッターロボ2号だぜ。どこが艦隊戦だよっての。

 それを言うなら潜水艦の戦いもどっかへ行いっちゃたなあ、ラストは。もうとってつもないどつきあい。それも身内間の。群像もクルーもどこかへ置き去りにされてしまった感じだけれど、それを置いてもハイパーばバトルと言葉のやりとりがあるんで楽しめる。そして霧の艦隊の過去とイオナ誕生への経緯が、現在の霧の艦隊へと繋がり状況を示しつつ解決への糸口を与えそれをしっかり掴ませ、くぐらせまとめあげてあるからすべてが腑に落ちる。見れば納得の出来。激しいバトルは細部まで描き混まれているから劇場の大きなスクリーンで見なければ何が起こっているかも分からない。何度も足を運べば新しい発見もありそうなんで僕は通おう、舞台あいさつ回も含めて何度か劇場へ。ムサシの絶対領域のプニプニ感も劇場ならより強く感じられそうだし。やっぱりそこか。そういうものだ。


【9月25日】 そこからいったいどうなるんだ、霧の生徒会のナチへと向かって海底を突き進んでいったイ401はいったいどんな反撃を見せるんだ、ってところでプツンと終わって欲求不満が募りに募った状態で、公開を迎えることになりそうな「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− Cadenza」。TOKYO MXで最初の20分だけ先行で公開されて群像がヒエイを相手に問答をした後、やっぱりヒエイにも何かエラーが出たようで霧の生徒会でもそのあたり、突っ込まれながらも居住まいを正して叱咤したものの、ムサシの元へと出向いた時には幸せとは何だと言ってムサシに慰撫され諭される。

 あれで納得したのかどうかはちょっと分からないけれど、ふっと口元が緩んだところを見ると少しはカウンセリングの効果が出たのかも。でもそのムサシは予告編ではヤンデレっぷりを炸裂させてヤマトに向かって突っ込んで言っている様子。あそこでヤマトが沈みそしてイオナが生まれて群像との邂逅があって今に繋がっているのかどうか。それも確かめられるのは「Cadenza」が公開されてからってことになる。どうなるかなあ。まあでも来週の公開じゃなくって先行で、「DC」と同時に上映されるのを見るんでそれでまずは全体のストーリーを確認し、舞台あいさつがつく封切りでも見て改めて全体像を把握しよう。面白い話になっていると良いな。

 そんな「アルペジオ」関連も結構あったりした「全日本模型ホビーショー」。日本の軍艦の模型というと今はやっぱり「艦隊これくしょん −艦これ−」の人気が先を行ってて艦娘のフィギュアに限らず、元になった艦船の模型もいっぱい出てきてコラボレーションしながら盛り上がっている感じ。でも「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− DC」の公開からこっち、「アルペジオ」関連も随分と盛り返している感じで展示会にも艦船がそれぞれ霧の艦隊風にペイントされたものとか、アルス・ノヴァモードになったイ401とか並んで作品の雰囲気を形にして見せてくれていた。「アルペジオ」向けの塗料もあったのには驚いたなあ、昔はガンダムカラーみたいにたくさん出るのしかそうはならなかったけど、今はそれだけ需要があるってことなんだろうなあ、「アルペジオ」でも、他のコンテンツでも。

 映画が控えているといえば「ガールズ&パンツァー 劇場版」が11月に公開となる「ガールズ&パンツァー」関連もあちらこちらに。筆頭は「ガルパン」のプラモデルでは筆頭のファインモールドのブースで何と劇場版に登場するっぽい九五式軽戦車のほとんど実物かと思われる物をどかんと持ち込み、周囲に劇場版に出てくる九五式とか九七式中戦車の模型も並べて雰囲気を出していた。戦車自体の格好良さもあるけれど、それを美少女たちが操縦して戦うストーリーに引きずり込まれると、ついついその乗機にも興味が移り情も乗ってしまうんだよなあ。そういうニーズを最初からとらえていたかはともかく、結果として大きなマーケットになった。戦車模型の老舗ともいえる田宮模型では出来なかったことをやってしまった作品と、模型メーカーに喝采。

 「ガルパン」ではピットロードがエンディングに出てくるデフォルメキャラ&戦車をまんま模型にしたのを並べていて、4号戦車が最終仕様に改造されたものもあって可愛らしさに手が伸びそうになった。戦車が可愛いと思える時代が来るなんて。そのピットロードには何とサンダース大学附属高校が盗聴のために挙げた「阻塞気球」なんてものの空気ビニール製品が出ていて笑うというか、流石というか。前にも戦車の砲弾を空気ビニールにしたものを並べていたけど今度はそこかと。というかあの戦艦大和の46センチ砲から発射されたという徹甲弾を空気ビニールにしたものも製品化するようで、高さ2メートルはゆうにあるそれをいったい誰が買ってどこに置くかに興味津々。抱き枕にするにはクッション性がちょっと足りないし。やっぱり床の間かなあ。国会に持ち込んだら追い出されるかなあ。

 ドローン関連もいろいろあったけれども興味が湧いたのは空を飛ぶのではなく地を這うドローン。それはドローンなのかと言われそうだけれど製品名が「ジャンピングナイトドローン」だから仕方が無い。京商が取り扱っているフランスのメーカー、パロット社の製品なんだけれどサイドに大きい車輪がついたものが地面を突っ走るといった感じ。それを操作するのはコントローラーではなくスマートフォンとかタブレットで、なぞったり傾けたりするとその通りにドローンが反応する。プログラミングも行えてその場で四角く走れとかって命令できる。いろいろと遊べそう。あと「ジャンピング」とあるようにバネで80センチくらい飛び上がる。台の上とかに乗せられるしそこから転がしてまた走らせとか出来るから、庭とか凸凹のある場所でも楽しめそう。別にレーシングに向いたタイプもあって時速13キロくらいで走るとか。結構速い。遊びたいけど近所にそういう場所がないし、そもそもスマホを持ってない。iPad miniでも大丈夫なのかな。ちょっと気になった。

 せっかくだからと東館(ひがし・やかた)で開かれている「ツーリズムEXPOジャパン」もさっと見物。名鉄グループが出している昇龍道って中部の9県を紹介するブースで我らが名古屋の大須が生んだアイドルグループ「OS☆U」から6人くらいが登場してチラシを配ったりトークをするのをほとんど1人で見守った。アイドルが来ているんだからもっと近寄って喝采を浴びせれば良いのに、奥手なんだから来場者。いやふつうにビジネスデーなんでそういうのに興味を示さなかっただけなのか。それともやっぱり興味はいっぱい歩いていたゆるキャラへと向かったのか。有名かどうかは分からないのがいっぱいいたものなあ。ぐまんちゃんとかみきゃんとか、そういうメジャーなのもきっと時間を見計らえばいるんだろう。また行くか。OSUは誰が誰だかまだ分からないけれど、ひとり眼鏡をかけていた人は覚えた。高橋萌さん。次にあったら萌え萌えって声をかけてあげれば良いのかな。まあ無理だよ僕はもっと奥手だから。

 終わったなあ「がっこうぐらし」。1回目の終わりあたりの衝撃からだいたいの内容を掴んで、そしていつ誰がどうなるかって恐怖もあって見ていられなかったけれども最終回はそのあたり、決着もつくだろうと思ってさらっと見てどうにか無事に過ごせたと分かって一安心。たださかのぼって見た前週に主要なあのキャラの末路ってのが描かれていて、そこへと至る前の離別の際に浮かんだだろう一方の悲しみや、一方の不安や絶望を笑顔で押し殺した心理への同情とも共感ともつかない気分が浮かんで悲しさにむせかえる。自分がそうなってしまうことが、まだ分かっていながらどうしようも出来ない恐怖にどうやって向かっていったんだろうなあ。その挙げ句があれ。それを当人はもはや意識すらできないという状況は、客観的に見ればやっぱり哀しすぎる。でもどうにもならない。そこで緩めない脚本の残酷だけれどリアルに、そして前向きなスタンスが見えた作品だった。2期もあるのかな。関心は残しておこう。

 一億玉砕って言葉が過去にあって、一億総白痴化とか言われてどうにも居心地の悪い文言を平気で使うセンスがやっぱりいたたまれないけれど、それが「一億総活躍」って誰も彼もが働け働け死ぬまで働けって感じにとられかねない言葉だからなお始末に負えない。もしも豊かな社会を目指すならば誰もが活躍しなくちゃいけない世界じゃなく、誰も活躍しなくっても普通に生きられ普通に暮らせて普通に死んでいける社会だろうに。そういう平穏と平凡に目を向けず、すべての国民に義務を負わせ責任を果たさせる形で社会への参画を求め政体に組み込んでいこうとしている態度が透けて見えて嫌だ。活躍のためあからあなたは戦場で戦ってくださいねとか平気で言いそう。そういうスローガンに縛られたくない人間には居場所すら与えない管理社会。マイナンバーと結びついて成果が示され順番が振られて下のものから切られていく。ああ何といういうディストピア。それに疑問も抱かず垂れ流すメディアの多いこと。未来は暗いなあ。というよりもうないか。やれやれだ。


【9月24日】 こちらが中3日であちらが初戦だということは戦う前から分かっていたことであって、それに何も対策をたてずに臨んだのだとしたらラグビーの日本代表はちょっと至らなかったと言えるけど、そんなことはないだろうからちゃんと対策も立てつつ相手のコンディションも見つつ、どうやれば戦いになるかを考えて試合に臨んだと思いたい。にも関わらず周囲はそうした努力をなかったかのように中3日では厳しかったと日程のせいにして、彼らの努力を蔑ろにする。そうやって負けた言い訳を探したって何にもならないのに。きっとしやって厳しい中を日本が大好きな根性で突破しようとしたけど果たせなかったけれど良くやったといって快哉を叫びたいんだろう。そういう風に出来ているな、日本のスポーツ親父たちのメンタリティは。

 だから試合の途中に1人が激しいプレーの後に結構な怪我をして、フィールドに寝転がって退場していったにもかかわらず、次の試合に出られなくても今を突破する意気込みで突っ込んだんだって妙な称揚をしていたけれど、そんなことを選手が思っているはずがあるものか。ここで退場して次に出られず負けたら何の意味も無い。今も頑張るけれど次も出る。それくらいの意気込みでプレーしたのを妙な自己犠牲の象徴にされてきっと困っているだろう。言う方はそうやって自分の憧れをそこに載せて溜飲を下げられれば良いけれど、選手は出られなければただの巨漢な訳だから。まあでもここで大きく期間も空くことだし、それも見越してちょっぴり激しいプレーをし、あわよくば得点と思っていたのなら実にクレバー。インターバルに直して次のトンガ戦、出て勝てば良いのだから。そうなるかなあ。なって欲しいなあ。

 北米に続いて欧州でも行われてたらしいと分かってきたフォルクス・ワーゲン社によるクリアのための不正プログラム使用問題。すでに北米ではユーザーから何やってんだと訴訟が起こり、司直の方でも取り調べに向けた調査が進んでいる模様で、これに地元欧州での不正発覚となればさらに反発の火は広がり、それだけではなく司直や訴追の手も及んで企業自体が立っていられなくなる事態なんてもの起こりそう。あれだけの規模の会社がすぐに倒れることもないとは思うけれど、会社ぐるみ組織ぐるみでの“犯罪”となったら信頼も損なわれ売上げにも響いていずれ大きく影響を被ることもあるだろう。そうなった時にいったいどうなるか。解体されてブランド別にあちらこちらに引き取られていくことになるのか。いろいろと想像は浮かぶけれど、これでしばらくはトヨタが世界一を走り続けることになるんだろうなあ。まさか不正はしていないよね。してないけれど引っかけられる可能性もあるかな。そこが心配。

 公開から5日間が休日だという最高の日程の中で封切りされたこともあって「心が叫びたがってるんだ。」は観客動員数が23万人を超え興行収入も3億円に達したというからまずは善哉。もちろんこれで足りる規模の作品ではないし、本音を言うならその脚本の完璧さ、そして描かれている表情や仕草の素晴らしさなんかから細田守監督の「バケモノの子」に匹敵するだけのクオリティを持った作品だと感じ、それに及ばないまでもせめて半分くらいの興行収入は行って欲しいし行くべきだと思っているんで、まだまだ全然足りていない。ただ最初のうちの揶揄めいた言説が引っ込んで、おおむねの好評がネットなんかにも飛び交うようになって風は追い風。あとはそうした好評がちゃんと多くの耳に届いて映画館へと向かわせ、そして映画館もそうした観客が入りやすいような時間帯に上映を組んでおけば相乗効果で更に盛り上がるんじゃないだろうか。2週目からガクンと減るような事態は避けられたと思うで、あとは今週末の興業が次の試金石かな。また行こうかな。

 異世界転生がなろう系から大隆盛なのはそれとして、じわりじわりとエロ系も盛り上がっているようなライトノベルに登場した櫂末高彰さんという人の「サバイバルPゲーム」(ダッシュエックス文庫)がエロかった。女性がいっぱいの学校に少数の男子がいて抑圧を受けているという設定がひとつ、最近アニメの方面でエロを前回にさせている作品とちょっと重なっているけれど、あそこまで悲惨な境遇ではなくただ使いっ走りにされているというからやっぱり悲惨か。ただそういう境遇から脱出する道筋が与えられていて、それはあるサバイバルゲームに勝つことで、ようし分かったと挑んだ1年生のチームだったけれど、それをやりきれば勝利の悦楽がある上に、やっている途中でも至福眼福の極みになれるにも関わらず、メンバーの大半が次々と脱落して行ってしまった。

 それは相手がとてつもないエキスパートだったから。ゲーム自体は極めてシンプルで呈した銃で相手を撃って撃って撃ちまくれば勝ち。どうして何度も撃つかというとそれはその弾丸に入った特殊な薬液が、相手の着ている服を溶かしてしまうからで、全部溶かせば勝ちというルールで上着から下着から靴下から何から何まで、溶かすにはそれなりの銃弾が必要になる。あと腕前も。そして女子チームにはそれがあってとんでもな銃器を持ちまた相当な腕前で男子を迎え撃ったからたまらない。勝てば相手を真っ裸に出来るんだという欲望は即座についてて死屍累々となった中で、数人だけがどうにか残って敵の攻撃をしのぎ1人また1人と強敵を倒していく。薬液が欲情を招くという副作用の効能も感じながら進んだ果てに少年たちは勝利を得られるか。その先に何が待っている、ってあたりでとりあえず終了。先に続く展開はさらに過酷そうだけれど、なあにやってくれるさ僕達の眼福のために。

 Amazonがデジタル関連で会見というから何か新しいサービスでも始めるのかと思ったらすでに数日前にAmazonプライム会員が無料で視聴できるプライム・ビデオのサービスインは発表になっていた。それを改めて会見で明らかにするはずもないから何だろうと思っていたら、すでに海外では導入がされているFire TVを日本でも導入するって話だった。それこそ文庫本とかいったサイズの端末をHDMI端子でテレビにつなぐとあら不思議、Wi−Fi経由でネットからコンテンツが降りてきてはテレビに映し出される上に、高速で検索してあれやこれや即座に取り出し見ることができる。アマゾン・プライムに限らずYouTubeだってniconicoだってGYAOだってあるしAmazonにとってはライバルなはずのHuluもあればNETFLIXだってある。そのあたり、敵に塩を送る形になるのかもしれないけれど、端末を売る商売はひとつ成り立つし、そうやって見てもらった映像のパッケージを欲しがる人には売るサービスだって提供できる。ポータルになること。プラットフォームのその上を行くこと。そこに商機を見たんだろう。

 ネット環境さえしっかりしてれば相当に見やすそうだち使いやすそうで、言葉で検索をして必要な作品を引っ張り出せる。あとは海外で人気のドラマなんかが揃っていて見ていたら何日だってそこにいて帰ってこられなくなりそう。これがあればもう本当、普通の地上波のテレビ番組なんて見ないよなあ、アニメをのぞいて。そういうビジネスにさしかかっている時にいったいテレビ局に何が出来るのか。製作力だってもはやAmazonとかの方が持っている時代にテレビが出来ることは何なのか、って考えた時にやっぱり再編なり業態転換って話も出てくるんだろうなあ。ニュースに強い局とドラマを専門にする局、歌番組を製作する局にバス旅行温泉旅行がメインの局等々。そうしないと専門店が並んだネットの映像配信サービスに勝てないよ、っていうかすでに負け始めているのか。どうするんだろう。気にしていこう。僕は当面は地上波のアニメの新番組を楽しむけれど。それもまた専門特化しているよなあ。


【9月23日】 酷いことになっているなあ、という印象だけれどそれ以前にどうしてそんな酷いことをしてしまったのかに興味が及ぶ、ドイツの自動車会社フォルクス・ワーゲン社によるアメリカでのディーゼル車の排ガス規制クリアに向けたソフト操作。だってバレるでしょ。バレたら大変なことになるでしょ。でもそれをやってしまった、やらざるを得なかったところに何が組織としての問題がなかったのかに注目が集まりそう。いわゆる「チャレンジ」って奴? クリーディーゼルを看板にして低燃費車の市場で大きく前進していこう、そのためにはやっぱり最大の市場ともいえる北米で勝利しなくちゃいけない、そのためには是が非でも車を売らなきゃいけないけれど、技術が追いつかないなら誤魔化してでも送りだすっていった思考が働いたのか。それにしても結果を想像すれば出来ない所業なだけに、やっぱりどこかに何か、圧力と無責任があったと見るのが妥当だろう。

 何しろ事態が事態なだけに、それをトップクラスが知らずに通すなんてことが出来るはずもない。設計の段階からソフトにそうした操作プログラムを仕込んでおかなくては間に合わない。マフラーに排ガス除去装置を組み込ん検査に臨むような真似ができない以上はすべての車に対して、抜き打ち検査が行われることを想定して細工するためのソフトを仕込んでおいたのだとしたら、そこにはやっぱり製造工程に関わる誰かの作為があり、それを許す誰かの看過があったと見るのが妥当。そこへと捜査が及んだときにフォルクス・ワーゲン社は果たして無事で済むのか。そこが気になる。

 一方で世界でも最高に厳しい排ガス規制の基準を持った日本のクリーディーゼル社に商機はあるのか。そんなことがこれからの市場で取りざたされそう。どっちにしたって当分、車とか乗る様子もないんでクリーンディーゼルの良さを味わうことはなさそうだけれど、デザインと安全性が好きな上に燃費も良さそうだったフォルクス・ワーゲン社の脱落は車好きとしては痛いなあ。立ち直ってくれるかなあ。BMWにもメルセデスにももちろんポルシェにも乗れる身じゃない僕にはVWこそが手に届きそうなドイツ車なんだよ。届かないけど。

 テレビアニメーションの方はちょっと違う展開を見せたものの小説の方はどんどんとスケールが大きくなって国を相手に戦い世界を相手に戦うところまで来た赤城大空さんの「下ネタという概念が存在しない退屈な世界10」(ガガガ文庫)。綾女が善導課により捕まって北にある収容所送りとなった一方、狸吉も捕まったもののどうにか脱出に成功しては過去に敵対した者たちと協力して北の収容所に収容された面々の解放と奪還に向かう。その過程で対立した者の意図も見えたりして、性急さではなく計画的に虎視眈々と、国というものが築き上げた規制に挑む大切さって奴を教わった気分だけれどそれをまさかエロ解放のテロリスト達が主役の物語から教わるとはなああ。弾圧が酷いだけにそれだけ対応にも慎重にならざるを得ないってことか。

 んで収容所で綾女は国会議員だった父親とエロ作家だった母親とも再会できたみたいだけれども父親はフケ専でそして母親はまるで歳を取らない姿でもって口から吐くのはエロワードの毒電波。凄まじい一家から生まれてきたならああなるのも当然だけれどそれをいうなら狸吉だって、稀代のエロテロリストだった作家の父親と善導課きっての武闘派と目される母親の間でどうしてあれだけの人間になったのか。父親についていくのか母親に従うのか、分かれ目もあったはずなんだけれどそこはやっぱり学校で会った綾女の影響が凄まじかったってことなんだろうなあ。開口一番「お○んぽおおおおおおお」ではなあ。まあアンナ先輩も清純に見えて中身は好奇心と欲望のカタマリで、狸吉の歯止めにはならなかったってこともあるけれど。

 ともあれ敵が20年の抑圧の果てにすべてをひっくり返す目算のところを、それでは絶滅してしまうと数年の期間で世間の気分をひっくり返して解放へと持っていこうとするSOXメンバーたち。綾女は収容所へと戻ってそこからの変革を志し、狸吉は完璧すぎる規制への警戒感を抱く母親とも理解し合って「雪原の青」の2代目として娑婆で変革の旗振りをする模様。そこから2年くらいを一気に飛んで再開となったストーリーは一気に日本を打倒し世界を変えていくのかそれとも、しばらくの日常ストーリーに戻るのか。風呂敷広げてしまったんでここはもう、国を相手にした戦いへと至ってそれをどう変えるのか、プロセスをしっかり見たいもの。今まさに進む規制への対抗に役立つヒント、得られるかなあ。得たいなあ。

 そして始まったラグビーのワールドカップ2015イングランド大会における日本代表対スコットランド代表は結果としての大敗に。前半とか食らい付いてたいように見えたけれどもところどこにおかしたノックオンとかパントのキャッチ失敗といったミスが相手の有利につながり得点を読んで日本をどんどんと振りにしていった、その結果が大差となってしまったような感じがする。終盤はともかく後半の途中まで、勝負としては互角だったけれども肝心なところでノックオンが出たりパスのミスが出たりして攻撃を続けられれず、焦りを読んでパスミスが相手ボールになって得点につなげられるような場面も増えて一気に引き離された。

 あそこでもう少し我慢が出来ていたら、ってそれが出来るのがやっぱり強豪国なんだろうなあ。難しいプレーとかしなくても、ラックからボールを出してつないでそこでラックになって起点を作り、出してパスしてまたラック。そんなスコットランドの堅実でお手本のようなプレーに対して日本は突っ込みラックを作ってそこからパスして突っ込みラックからパスといった過程で落としたり、奪われたりする。スコットランドにはそれがなかった。そういう差をどうやって埋めるかはやぱり慣れであり、試合に対する集中の度合いなんだろう。臆さず自分の精一杯をずっと出し続けられるメンタル。そこを鍛えれば日本だって行けると思う。切り替えて次。そして次。2つ勝てば上に行けるだろう。頑張れ日本。勇気ある桜たち。

 参ったなあ。いやまあ沖縄県知事が何か火の着いた薪のように世界を回って広島の実情を訴えていることも、どこか性急すぎてお前さんのやることはそれだけじゃないはず、もっと産業の振興なり観光の開発なりを行って、沖縄という場所が基地に頼らず経済的にも立っていけるような雰囲気を作ることが大事だろうっていう気もするんだけれど、それにはやっぱり基地という、広範な土地を占有している地域の問題があるから簡単には言えない。まあ解決に向けて動くことは必要だし、喫緊の課題として普天間の辺野古移設というステップをひとつ、止めることがあるならそれに向けて動くことも良いだろう。だから今は順番としてそれに勤しんでいるという自覚があって、県民も納得しているなら県外の人間が何も言うことはない。

 面倒なのはそうした沖縄県知事の、選挙であり住民の投票なりで支持を受けているだろう辺野古移設反対という状況に対して、違う住民は反対なんだといった声を引っ張ってきてぶつけてくるメディアがあること。声があるなら当然じゃんと言えば言えるけれどもその声が、本当に住民の意思を汲んだものかとっいった部分に検証がなく、どことなく運動めいたものが漂っているところに、半歩下がって眉をひそめて観察したい気にかられる。なるほど住民ではあるけれど、過去にフリーペーパーを発行して沖縄メディアやら反基地運動やらを非難し、それがたちどころに発行停止に追い込まれてると右に傾いた媒体のキャスターとして活動を続けていたりするから、ちょっと普通とは良い難い。

 他にもいろいろと安倍政権へのくい込みが取りざたされている団体に招かれ講演を行ったりする人物を、本当にただの住民と見て良いのか。その媒体が左側を批判するときに平気で使うネットスラングで言うところの「プロ市民」じゃないのか。検証すればいろいろありそうだけれど、左には厳しく右には甘いどころか何度も取り上げ祭りあげるようにした人物を、こういうところで引っ張り出してはさも普通の人っぽく語っても世間はそうとは思わないし、気付いている人はちゃんと気付いている。

 他のメディアだってそうだと気付いているから、そんな人物がカウンターの演説を行ったことについて触ろうとしないか、ちゃんと出自を書いてその人物がどういう思考を持ち、どういう経歴を持ち、どういう背景を持って動いているかをちゃんと示しているのに、なぜかその媒体は経歴とか書かずに市民としてしか紹介しない。分かっているんだろうなあ。だからののこと鬱陶しい。それを堂々の1面で掲載しているところも含め。手の内が透けているのにそれをやらざるを得ないのも、やっぱり未来の信頼を潰しても今を勝ちたい、いや縋りたい気持ちが働いているからなんだろうなあ。あるいはそれすらもなくただ敵への憎悪だけで突き進んでいる。本気の狂気で。果てに来るのは何かは明白なんだけれど、もう止まれないし止まろうともしない。やれやれだ。


【9月22日】 そうだなでしこリーグに行こうと朝起きて、サンクスでチケットを買い電車を乗り継いでフクダ電子アリーナへ。ジェフユナイテッド市原・千葉レディースは普通、東金とか五井とかで試合をやっててバスとか徒歩とか通うのが大変なんだけれどもビッグマッチではフクアリを使ってくれるので行きやすくて見やすいのだった。おまけに連休中ということもあって観客も4000人を超える盛況ぶり。バックスタンドとか全体の半分を使わないからもちろんJリーグの盛況ぶりには及ばないけど女子サッカーで1000人を超える状況すら珍しかった時代、それこそ300人でも多かった時代を知っているだけにメインスタンドがほぼ埋まり、ゴール裏も半分だけど2階までぎっしりの状況には涙が出てきた。それもこれも選手達が頑張ったからよなあ。長かったけれど着実に積み上げること。そして勝つこと。それが何よりも大切な成長へのステップなのだ。

 そんな頑張りの中心でもう20年とかそれ以上、女子サッカーを牽引してきた澤穂希選手も出場したINAC神戸レオネッサだけれど、中盤にどっしりと構えた澤選手のところをボールがあまり経由せず、サイドからの崩しもなくってジェフユレディースを攻めあぐねている状態。4人がフラットに並んでコントロールするラインの裏をなかなか付けず山根恵里奈選手が守るゴール前まで迫れない。逆にジェフレディースの方は中盤からサイドに振ってそこに走り込む選手が受けて中へと素早く入れる攻撃のリズムがでていて、菅澤優衣香選手の落としとかもあって結構ゴール前に迫れていたんだけれども精度が低くて枠に跳ばず、また飛ぶときは力が足りずに海堀あゆみ選手にしっかりキャッチされていた。サイドからの崩しとかコーナーキックとかも海堀選手のところに飛ぶ感じでキャッチされて触れられず。あれがもうちょっとゴールから離れていたら飛び出せず混戦になったところを押し込めていたかもしれない。

 そんな感じで攻めあぐねるINACに攻めきれないジェフレディースといった感じの中で、光っていたのが山根選手。元より187センチの長身でハイボールには強いという触れ込みだったんだけれど、足下とかには弱く飛び出しの判断も今ひとつで守備を割られて1対1になったりするとだいたい得点されていたのが今日は違った。何度か迎えた1対1の場面で素早くでては足下に飛び込んで相手のシュートを体で止めてゴールに届かせず、グラウンダーのボールも横っ飛びではじき出して得点を奪わせない。他の面々もゴール前でしっかりと受けては中途半端なクリアはしないで遠くに出すなりサイドに蹴るなりして2次攻撃を許さなかったことが、最後までINACに得点を奪わせなかったことに繋がった。規律が取れたチームだった。

 これで残り1節となった時点でジェフレディースは4位でもちろん上位6チームが出るエキサイティングシリーズへの進出は確定。これまで2敗しかしていないのは日テレベレーザの1敗に次いでINACと同等で相当な強豪だって印象だけれどそれでも4位なのは引き分けが多いから。得点王の菅澤選手を要していてもやっぱり上位にしっかり勝ちきれないとシーズンでの上位進出は難しい。それが自力というならトーナメント方式の皇后杯までにもうちょっと得点力を上げて勝ちきるサッカーを目指していって欲しいもの。出来るさジェフレディースなら。安定した守備の上に乗る得点力で目指せ優勝、そして2冠。一方で強豪のはずの湯郷Bellが7位に沈んで下位チームの戦いへ。なでしこジャパンのキャプテンを要してはいてもやっぱりチームとしては勝てないか。関西でINACが頑張り過ぎなのかなあ、もうちょっと戦力分布を。ともあれまだまだ楽しめそう。フクアリで試合があったらまた行こう。

 可愛いバニー姿の殺し屋さんが夜の街で大暴れ的なサスペンスめいたものを想像してたかというと、作者が江波光則さんである段階ですでに違う感も漂っていた「ボーパルバニー」(ガガガ文庫)を読み終えたらまったくもって可愛らしさとか萌えとかエロとか関係無しにバイオレンスだけがあふれかえった物語。元ネタはモンティパイソンでそこから派生したウィザードリィの用語としての首刈り殺人ウサギをタイトルにしているだけあって、地下銀行から移送途中にあった現金3億円をせしめた若い6人組が不死身のバニーガールに襲われ次々に戦いの渦に巻き込まれていくという展開から、肉弾戦にも強くスラッグ弾をぶち込まれても立ち上がってくるバニーガールが次々を相手の首を刈ってていく。

 3億円を奪った若い奴らの公安警察幹部の息子で秀才とか、ハッキングの才能だけしかない天才とか、格闘技を極めた筋肉野郎とか散弾銃を発射できる拳銃を持った美少女とかいった奴らの快楽ともまた違う退屈な日々からの脱却を願い、己の欲望を探求して夜の街を危険と分かって徘徊する求道的精神の壊れ方もまた凄まじく、故に強大な壁に向かって刹那的に突っ込み戦い散っていく様が、血まみれなのに妙に清々しい印象となっていたりするところが江波光則的。首を駆られて当然の奴らばかりなんだけれど、その潔さというか満足感に溢れた死に際に快哉はなく喝采が浮かんでしまう。退廃的で刹那的な精神の頂点と、そして肉体的な快楽の絶頂を味わえる物語とでも言えるかな。

 最初にやられる奴なんか首を狩られるというより引きちぎられたような感じだし、堂上に佇む90歳のカンフー使いなんてもう超人の域。そのかたわらで縛り上げられ全裸にされて無抵抗に殺害されて焼かれる母子がいて、6人の1人を人間サンドバックにするため薬物を与えるマッドサイエンティストなんかも関わってキャラクター的に破天荒。中でもやっぱり不死身のバニーガールが凄まじいけど、そこへと至る心理、そして客観的に見た不死身っぷりがまた凄い。戦闘能力に加えて高い防護力。そのバニーヘッドにも意味があったりするところに、人間であることを辞めさせられた存在の悲劇と喜劇が漂う。どこかアサウラさんの「デスニードラウンド」に登場したロナウダに似た存在。戦わせてみたいなあ。どっちが勝つかなあ。

 いやもう唖然呆然としか。とある新聞がちょっと前にあった野球のU−18ワールドカップでアメリカチームが9回表に逆転して歓喜にあふれた姿を店かと事を捉えて騒ぎすぎで傲慢だと非難している。おいおい。日本で独自進化した高校野球の場ですら、礼儀がどうのこうとと言われることに時代遅れ感も漂い始めているけれど、日本で育った“野球”というものの神髄を見せる場として、礼節という名目の抑圧に縛られているのも仕方が無いことだと言えるかもしれない。そして逸脱する行為などに大人が大人げないけど大人として窘め糾すことがあっても仕方がないかもしれない。でも。

 U−18ワールドカップという国際的な大会の場、別に高野連が仕切っているでもないベースボールの祭典で、ベースボール発祥の地であるアメリカから来たチームがベースボールならではの歓喜を見せたことに対して、日本人が日本ならではの感覚でもって傲慢だとか尊大だとか言うのがよほど傲慢で尊大だと思うのだ。いったい何様というか。おまけにその筆が語るのが武士道だから嫌になる。文化の違う相手に自分たちの文化をこそ唯一絶対のものだと知らしめ押しつけるのが武士道なのか。もっと個人的なもので沈思し黙考の果てに礼節と謙譲を覚えるのが武士道的な嗜みだとするなら、その真逆を行く異国への暴言。でもそんな自覚もなしに自分は正しいと信じて外国の文化を誹る態度がどうにもこうにも腹立たしい。

 引っ込んでろと言いたいけれども、引っ込む気もなければ引っ込める気も無く、そして傲慢で尊大な自尊の意識がさらにふくらみ他を圧して周囲を辟易とさせるという。やれやれ。これでリオ五輪が始まって、ウサイン・ボルト選手が派手にVポーズを見せてもやっぱり負けた人への配慮がないと非難して、日本のトラックでは絶対にさせないそれは武士道に反するからとでも言うのか。言えるはずもないのに。バレーボールでスパイクが決まる度にガッツポーズして方を組み合う選手たちをそんな暇があったら急げと促すのか。言うはずもないのに。結局のところ、後先の考え無しに思うところをぶちまけて、非難されても炎上もアクセスと開き直って過ぎるのを待つだけなんだろうなあ。それで稼いだアクセスを本体はともかく配信されてるYahoo!は平気で受け取るの? 他虐もみっともないけど他を貶めての自尊もやっぱりみっともない。そこにメスを入れる気構えを見せてくれたらどこかのサイトをバンしたのも納得だけど。問われているよその姿勢。


【9月21日】 それはやっぱり歴史的なことであって、スケールとしてはアトランタ五輪でのサッカー競技における日本代表対ブラジル代表戦での日本代表の勝利なんかをはるかに上回っているとは言えるけれど、言葉を変えればそれだけ日本代表が今まで弱すぎたのであって、だからこそ強化の果てにようやく世界という舞台に存在を示せるまでになったという段階に、どうにかたどり着いただけと言えなくもないラグビーワールドカップ2015イングランド大会における日本代表対南アフリカ代表戦での日本代表の奇跡的な勝利。相手は世界3位でワールドカップでも2度優勝していて、選手たちも一流揃いでそれに勝てたのはやっぱり凄いし素晴らしいけれど、これが10回やって1回勝利できるレベルにまで来たかどうかとなると今はまだ謎。あるいは全然。そんな段階。

 初戦であり相手が出場国でも最弱扱いの日本代表だったことで、相当な油断もあったかもしれないし、日本代表が最高に最高を重ねたプレーをしたのかもしれない。そんな複合的な要因が生みだした奇跡に過ぎないのだったら、次は相手も油断せずそして日本代表の緊張感も続かないまま、惨敗を重ねて予選敗退へと至っても不思議はない。そしてそれが当然といった流れのままで、また停滞の時を過ごしてしまうこともあり得る。あるいは勝利をよりどころにし過ぎてプレッシャーを与え続けた果てに自壊するとか。だからここは勝てた要因をしっかりと分析して、それを毎回、毎試合続けられるように定着させていくことが重要なんだけれど、次の監督というのがそういう選手たちの自主性を促し、全体を押し上げていくだけの才覚を持った人なのか。功名心に走って俺もやってやると出しゃばった挙げ句に全体をスポイルしてしまわないか。そこが心配。誰とは言わないけれど。

 まあでもそれも日本らしくて良いかなあ。せっかくくフィリップ・トゥルシェという強烈な個性で選手たちを叱咤し、嫌々ながらもその自主性を育まざるを得ない状況へと追い込み、なおかつ戦術も整えて世界を相手に戦える集団へとサッカーの日本代表を育てながらも次の監督選びに失敗し、肥大した自主性だけを頼りに戦っては惨敗を喫した例もあることだし。そしてそれがずっと続いている。でも1度の世界レベルでサッカーは10数年、どうにかこうにか人気の最前線に止まっていられる訳で、ラグビーも今回の勝利をひとつの糧にして夢を与え、そこに人を集めることでどうにか次のワールドカップまでは人気を保ち、人材も得ていけるんじゃないのかなあ。でもラグビーは大学ラグビーっていう勢力があって、そこに止まり盛り上がっている勢力があって世界とか、気にしないでもやっていけるからサッカーよりは衰退速いかな、どうなのかな。ちょっと関心。ともあれ次の試合に勝てるかが将来への試金石か。どうなることやら。

 中野ブロードウェイで始まっていた安倍吉俊さんの展覧会にようやく行っていろいろと見てくる。lainがいっぱい。あちらこちらで見たことのあるlainのイラストが大きなサイズで飾ってあっておまけに値札もついていて、そうかこれは原画展とかではなく複製の展示即売会なんだと気付いたけれど、大きなサイズで出力されたイラストはどれも綺麗で目に美しく、なによりも懐かしい。laineにしても「灰羽連盟」のラッカにしても、昔見たアニメーションと関連して描かれた絵が並んでいてあの時代、いろいろなアニメーションがあってそれに夢中になっていたことを思い出す。今はそういう意味で選択肢が少ないというか、実験的で冒険的な作品があまりなくなったなあという気が。もちろん面白いんだけれど哲学とか神話とか、そういったものを淡々とした筋の中でじわじわと感じさせるものはあまりないかなあ。いやそういうのがあればったで退屈してしまうかもしれないけれど。あの時代はアニメに夢中になれたからなあ。

 中に何枚か、手描きのイラストがあってそれも販売中でお値段100万円だったけれども売れていた。値段はうん、妥当と言えば言えるし高いと言えば言えるかも。全部手塗りのイラストだってそれくらいで売っても悪くはないけど、今はスキャンで色塗りをやる時代、タブレットを使えば手描きすら残らない時代に唯一、オリジナルとして手描きの原画なり下絵を作るんだとしたらそれは素描であっても100万円の価値がある。あとはモチーフなんだけれど、laineとかがあったら即座に欲しくなったかなあ、いややっぱり100万円は無理か。そっちは手描きじゃなかったけれど、岩倉玲音に四方田千砂にほか諸々が描かれたコードでいっぱいのイラストとか、売られていてこれはちょっと欲しかった。でも今はお金もないし、laineだったらセル画も持っているからそれで良しとしておこう。3冊出ている画集を入れるスリーブケースとポストカードを買って退散。画集は素描のを買ってあるけど残り2冊も早く手に入れ箱に入れてしまっておこう。展覧会は2期で中身が変わるそうなんでその際に。雪崎絵里ちゃんとか出るかなあ。出ないよなあ。

 前半は「ミステリマガジン」の連載で読んでいた會川昇さんの「超人幻想 神化三六年」(ハヤカワ文庫JA)の後半部分を文庫で読了、そうかなるほどタイムトリップの技は彼が使っていて、それはそういう目的だったのかといろいろと種明かし。そして改変された歴史というものが他にもいっぱいあって、そこには昭和15年に東京オリンピックが開かれず太平洋戦争が起こって日本が壊滅する歴史もあったんだけれど、そうやって焼け野原になった日本に芽生えた娯楽からひとりの神様が誕生するといった歴史もあって、それが失われて困った人が取り戻そうとして起こる惨劇の可能性が少し気になった。結果としてはそれは起こらず、神様も生まれたものの……といった展開に、一抹の寂しさは募るもののそれで満足なら良いのかなあ、やっぱり思い残すところがあるのかなあ。

 つまりはさまざまな歴史の選択肢を重ね合わせの中から見せることがひとつと、そしてそうした歴史の狭間に浮かんでは消え、漂っては流される「超人」とう存在をどうやってくっきりとさせるのか、あるいはさせるべきなのかを問いつつ仮に超人がいたとして、それはどういういわれを持って存在し、そしてどういう活躍をして社会の中に位置づけられ得るのかといったことを考察してみせた物語。現実の世界にいない超人も、あるいはいる可能性があるかもってことを想像させ、空想と現実との垣根を低くしてくれる効果もある。そこからしみ出てきた超人たちがあるいはこの現実の、とてつもなくくだらなくて気持ち悪い社会で何かしでかしてくれるかもしれない。そんな企みに心を添えてささやかな希望と期待を抱くのだ。

 昭和で言うなら36年という東京五輪を3年後に控えて社会にはまだ戦後が漂いながらも近代が見えていた時代の、空想と現実とが共存できた世界を選んだからこそ成り立つ物語。この感覚を昭和40年生まれの僕は何とはなしに感じ取って面白がれるけれど、平成に入って生まれた今が20歳とか25歳の人たちには、いったいどういう時代に写っているのかにちょっと興味。あるいは「ALWAYS 三丁目の夕日」を見て東京タワーが出来てテレビが普及始めた古き良き時代と認識しているかもしれないけれど、そこに喧噪と猟奇の色合いは薄い。そういう雰囲気を改めて描いて「ALWAYS」のような誰もがハッピーな時代じゃなかったと知らせる意味もあるかもしれない。そして神化40年代が舞台となった「コンクリート・レボルティオ 〜超人幻想〜」で、もはや戦後ではないけれど、今より戦後だったあの時代の喧噪を改めて、世に知らしめると。僕達が生きてフィクションから得た驚きを、現実のものとして受け止める登場人物たちがいたのだと、フィクションを通して感じ取る今の人たちの喜悦と当惑を横目でみながら、うんそういう時代だったよとほくそ笑むのだ。放送が待ち遠しい。


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