縮刷版2015年9月中旬号


【9月20日】 そして「青春×機関銃」も見終わって、小松未可子さん演じる立花は結局、仲間には女の子と気付かれず自分で宣言するとは言いつつも言わないままでとりあえずの最終回。「トイ☆ガンガン」を追い出されてもくじけず、追い出した正宗に挑んでいくその勝ち気さがあれば次はきっと緑も倒して「ホシシロ」に勝利し、TGCのトップを取ってくれると思いたいけど、それだとお話も終わってしまうからまだまだ高い壁として「ホシシロ」は置いておくのが良いのかな。この後に続きがあるのか原作読んでないから知らないけれど、でもあったら見たい。とくに赤羽市とか。あの巨大さは国の宝、BB弾だってきっとはじき返すだろう。でも当たればそれは負けだから、当ててみせてはくれないだろうなあ。残念。

 せっかくだから来場者がいっぱいいる様子も見てこようと「東京ゲームショウ2015」へ。午前9時あたりだとイオンモール幕張新都心へと詰めかける車で、幕張本郷から運転免許センターを抜ける辺りに渋滞が出来るから、JRで海浜幕張駅まで行くのも考えたけれど、特に急ぐ訳でもないのでJRの幕張本郷駅からバスに乗ったら案外に空いていた。あれはたまたまだったのか、それとも時間帯によってはやっぱり渋滞が起こるのか。要研究。そして到着した幕張メッセは、初日や2日目とは様子が変わってどこもかしこも人の波。とりわけ今日は「黒子のバスケ」のイベントが隣接しているイベントホールで開かれるみたいで、それに来た女子がわんさか列を作っていたんで混雑具合も加速加増されていた感じ。

 でもって中の方も午前10時半頃はまだ隙間もあったけれど、だんだんと人が入って人気のあるゲーム会社のブースの周りは歩くのも難しいくらいの人の波。昔もそんな時代があったけれど、割とびっちりとブースを配置して通路が狭かった時代であって、今は8ホールまでではなくって別館の9ホールから11ホールも使って物販とかインディゲームをそちらに移して、通路に余裕を持たせてもなお人がぎっしりというから、相当に入っていたって言えそう。後で出たリリースを読むと今日だけで11万人を超えていたようで、総勢でも2013年の過去最高に次ぐ数字を記録したらしい。「プレイステーション4」のような新型ハードが出た訳でもなく、アプリ会社が特別キャラとか配布する訳でもないのにこれだけの人気ぶりっていうのはつまり、ゲームが少しまた身近な存在として戻ってきた現れなんだろうか、どうなんだろうか。

 それはスマートフォンの普及で手にゲーム機を持って常にゲームをプレーできるようになって、ゲームへの意識を少しまた持つようになって来たことがゲームショウへの関心も深めているからなのかもしれないし、ゲーム実況のようなカルチャーが生まれて、ゲームを自分でプレーするだけでなく、ゲームをプレーする人を見ることもまたひとつの文化となってユーザー(遊ぶ+見る)を増やしているからなのかもしれない。そんな環境に向けてスマートフォンで楽しめるゲームがいっぱい作られ、それをアピールするために巨大な会社から小さい会社までがわんさかと出展して、そういうゲームを試しに来る人が増えたからなのかもしれない。どれが1番真相に近いかは分からないけれど、そんな感じに諸々の要因が積み重なっての今なのかもしれない。

 あとはVRヘッドマウントディスプレイとか使って楽しむバーチャルリアリティなゲームが現れ、それを体験しに人が来たのかもしれない。スマートフォンを紙製の箱みたいなのにセットして見るVRもあって普及し始めてはいるけれど、本格的なHMDを体験できる機会はあってもどおおっぴらにはあまりない。ならばとゲームショウに来て話題のOculusRiftでありGEAR VRでありプレイステーションVRといったものを体験し、体感しにやって来たのかもしれない。それもまた複合的な要因のひとつとして幕張メッセへと脚を運ばせたのだろう。まさに岡村秀樹さんのいう結節点であり転換点になり得た東京ゲームショウ2015。ここから何かが生まれて明日のゲーム産業を切り開ければ良いんだけれど、わんさか生まれているそうした新しいゲームが一般にも広がり得るかというとそこが難しいところで、ピンポイントで知られるような仕組みの構築しづらい状況で、1強9999弱な状況にもなりかねない中でどうやって、広くそしてそれなりにゲームが浸透していくか、ってところを考えなくちゃいけない時期にあるのかもしれない。

 TwitchっていうAmazonが参加に入れたゲーム実況の会社のブースを通りかかったら、そんなインディゲームの面白いけど厳しい状況とか、どうやって広めるかが重要だってこととかを話すトークセッションをやっていて、9ホールのインディゲームのブースに出している会社の人が、日本ではなかなか知られずダウンロードへの関心も薄くて厳しいけれども海外向けも大変なんでそこをどうにかしなくちゃってことを話してた。あとでその会社のブースに行って、トークに出ていた社長の人とかにも聞いて、タイミングによって受けたり受けなかったりする波があって、結構大変だって教えてもらった。だから次はユニティっていうエンジンを使ってマルチプラットフォームに一気に展開して、評判のあるうちに大勢に遊んでもらうことで収益機会を狙うとか。そういう作戦もあるだなあ。いろいろと勉強になった最終日。来年はまた面白いゲームに出会えるかな。また行こう。ほぼ皆勤賞で行っているだけに。それもヒラ記者として。ちょっと泣けてきた。出世って美味しいの?

 嫌韓とか反中って感じの記事なりコラムなりをわんさか載せてはアクセスを稼ぐ媒体なんかが散見されるネット上で、そうした記事を天下のYahoo!が排除しようとしている動きがあるとかで、割と名の知られたサイトがYahoo!からバンを食らって記事が転載されなくなったらしい。出せば配信元は幾ばくかの収益にもなっていただろうし、そうした記事への食いつきもそれなりにあるだろうからYahoo!だって潤っていただろうに、それをやらなくなったってことはひとつの覚悟なり判断があったってことだろう。そして配信元はひとつの収入源を失った、と。

 その額が全体のどれかけに当たるかは分からないけれど、転載がまとめに張られSNSにさらされアクセスも等比級数的に広がっていたのが、一気にしぼんで認知の範囲も狭まるのは相当な痛手。以後どうするかは分からないけど、進路変更も余儀なくされるんだろう。問題はそんなサイトよりさらに過激に、そして大々的に嫌韓反中の記事を載せてる新聞社系のサイトがあることで、それがYahoo!に転載されて結構な告知になっている。もしも今の方針からそれが排除されたら果たしてどれだけの収入が失われるのか、そして元のサイトへの関心も薄れてどれだけアクセスが落ちるのか。Yahoo!に載ってなければ元のサイトを見れば良いとか言うけれど、Yahoo!に載ってないのは存在しないも同然というネット行動の人も少なくない。わざわざ探して元のサイトに行くなんて面倒だからこそ、Yahoo!ニュースが重宝されている。そこからの排除は痛いだろうなあ。果たしてどうなる。そしてどうする。どうもしないで全滅エンドかな。やれやれと。

 実写版「進撃の巨人」はあるいは「映画秘宝」最新号でのガース柳下×ウェイン町山のファビュラスバーカーボーイズによる、反省会とも言い訳会とも突っ込み会とも解説会ともとれそうな長くて深くて面白い対談、あるいは漫談をも含めてひとつの作品なのであるのであるのだという気が、その対談を読んでした。特撮は凄いし最初のグロさも良いのにいろいろとその後でどうにもこうにもと言った部分が増えていって、それを脚本ではどうしようもできなかったといった話が繰り返されている。それは言い訳なのか真実なのかはともかくとして話し合われているこうすれば良くなる案が実に面白そうだったのは、評論家としての2人の真骨頂って奴なんだろう。だから監督には真の意味での東宝出禁を狙ってグロ3倍増しのディレクターズカットを作ってもらい、世に出してほしいもの。それが出れば歴史に残る映画になるかもしれないし。どんな歴史だ。


【9月19日】 ざっと見るなら民主主義とやらはいささかも死んではおらず破壊されてもいなくて、民主主義における国が、国民による選挙によって選ばれた国会議員の中から任命された内閣総理大臣を筆頭とする内閣によって運営されること、そして国会が、選挙によって選ばれた国会議員によって運営されることを考えおくなら、その内閣総理大臣が示した方針は結果として国民が認めざるをえないものであり、そして国会が決議したこともやはり国民が承るしかないものであって且つ、そうした内閣の決定なり国会の決議が、法律からいささかも外れていないものなら、そこに何らかの誤りを訴えるのは筋として無理がある。それを誤りとしてしまったらどんなことも、道徳的心情的に正しいと思えることも同列に誤りなのではと言われ、返す言葉を失ってしまう。ルールに則った決定はすべらかく尊重されるべき。それが民主主義というならまさしく民主主義だった。一連の安保法制に関する動静は。

 だから、問題はそうした道徳的で心情的な感覚において拙いと思われることを、平気で打ち出す内閣を選ぶ国会議員達を選挙で選んでしまったことであって、そこに細心の注意があったのかと言ったところで、今となってはどうしようもない。どうしてそうなってしまったのか。前の政権を担った民主党のふがいなさもあったかもしれないけれど、総じて見るにいったいどこに不備があったかというと、大きな問題はなかったような気がする。現政権と五十歩百歩。あるいは現政権となってから打ち出された安保法制以外の問題、たとえば雇用であり教育といったものへの締め付けなどを考えるなら、前の方が良かったと思われたって仕方が無い。ひとつ経済だけは持ち直したというけれど、円安にして果たして輸出企業は潤ったのかというと為替的には良くても、技術開発という根幹を蔑ろにした結果、プロダクツとしての競争力を失って青息吐息の状態に置かれている。

 インバウンドという功もあって、国内の観光は潤い買い物客は増えて喜んでいる地域も産業もあるけれど、その一方で厳しさから廃れる産業もあって一長一短、空洞化めいたものが進んでいる。見てくれのために大仰さを尊びバランスを失って陰となる部分が出てもそこを見ない、見せないことでバラ色の雰囲気を醸し出しているだけ。そんな虚ろさを感じ取ったからこそ、未来のさらなる闇を厭い、若い世代が今、これだけ立ち上がっているのだろう。そうなってしまったのはなぜなのか。そうしてしまったのは誰なのか。考えると行き着くのは政権であり、それを作ったのはだから国民というブーメランに打ち倒されて声も出ない。自己責任。あるいは自業自得か。この状況は。

 ただ、今回の件が徹頭徹尾、民主主義のプロセスに則って決められたものならば、逆に民主主義のプロセスを使って事態をひっくり返すことだって可能だろう。それを厭うならば次の選挙で事態を刷新してくれる人を選び、国会を構成して政権を構築すれば良い。そうでないなら今を承認し続ければ良いだけのこと。機会すなわち選挙は遠いと言うけれど、去年の末に行われた絶好の機会で、聞く耳を持たないまま選んでしまった後悔を噛みしめながら、次をじっくりと考えるには良い時間かもしれない。選挙で争点ではなかったというけれど、閣議で決めた後の選挙を経ていったい、何をやるかを予想しておかなかった過ちを自省しつつ、次に誰をどう選ぶかを考えた方が良い。満足ならば今を続けてもらえば良い。そうやって民主主義は連綿として続いていく。必要なのは考えること。何がおかしかったのか。どこで見誤ったのかを。

 それは多々ある。憲法違反の問題。たぶんこれが大きい。法律を決めるプロセスに民主主義は働いていても、憲法というものを無視して憲法学者が大挙して違憲と指摘するような案件を、平気な顔をして押し通した心性はやはり不思議がられてしかるべき。そうした状況を大挙して後押しした与党と呼ばれる面々の心性も含めて、改めて問われるべきだろう。その中身がたとえ将来において日本のためになったとしても、立憲主義という護持すべきものを壊してでも突き進もうとする心性は、やがてあらゆる場面で噴出しては国を、世界を大混乱へと陥れる。守るべきものを守らない不道徳が許されては社会は壊れ、人心は乱れるばかり。そこへと至る布石を打った所業に対して何からのリアクションはあって当然だろう。そのリアクションこそが選挙というなら、その機会を今は待てと言おう。

 あれだけバッタバッタと敵をなぎ倒しておきながら、最後の詰めを誤り無効化しなかった相手に銃で撃たれるなんで、それでも忍かと花子ちゃんに言ってあげたくなったけれど、とにかくナギサを救うこと、そのために突っ走って周囲をちょっと見誤っていたというのなら、それを信じるしかないかもしれない「classroom☆Crisis」。刺したのにそのまま殺さず行かしたままにして宇宙へと放出するとか、元専務の行動もちょっと意味が分からないけど人間、怒りが心頭に達すると間抜けなことも平気でしでかすってことで、それが犯人逮捕へと繋がることもあるから仕方が無い。そしてA−TECはプレゼンとそしてナギサ救出の2面作戦を成功させなきゃいけないんだけれどイリスがどうにも不安定。あんなポンコツでこれまでよく、テストパイロットとしてA−TECにいられたものだと思うけど、きっときっかけがあったんだろう、トリガーの。それが収まるきっかけもあって回復し、大活躍するのが最終回かな、どうなのかな。ともあれ様子見。本当のナギサ生存の衝撃がどう波及するかも含めて。

 19日までだと気付いて明治大学博物館で開かれている「リトルウィッチアカデミア」関連の展示へ。途中で小川町にある「上等カレー」に寄って辛酸っぱい感じの大阪的なカレーを食べる。生たまごがのっているのも大阪っぽいかなあ、でも船場「自由軒」とはちょっと違うか。エビカレーだったけどエビが大きかった。次はカツカレーを試すか。そして歩いて明治大学へと行って、「『リトルウィッチアカデミア』の世界:アニメ発メディアミックスの新潮流」って展示を見物。入り口に明治大学の刑罰博物館だかにおいてあるらしい「鉄の処女(アイアン・メイデン)」の案内があってそれを「リトルウィッチアカデミア」に出てくるアッコとロッテとスーシィが見ておののいている絵が張ってあった。

 考えるならこのシチュエーション、アイアンメイデンが「さあお入りよ」と誘うのをロッテが「わ、わたし行きます」と言いそしてスーシィが「いんや、あたしがいくよ、こういうのは得意だから、ひっひっひ」と手足を震わせながら言うのを聞いたアッコ」が正義感を発揮して、「ダメーッ、みんなを危険にはさせられない、わたしが行くっ!」と叫んだのを聞いてロッテとスーシィが「どうぞどうぞ」と背中を押しやるといったところか。それってどこのダチョウ倶楽部。良いコンビです。そんな展示は新作「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」に関する原画の修正具合とか、新作に絡んで行われたクラウドファンディングの経過なんかが展示してあって、単に作品そのものではなくそれが生まれた周辺も説明しながらアニメ界隈の動静を語る展示になっていた。

 メディアミックスってことで「ひみつのアッコちゃん」とか「幻魔大戦」とか「犬神家の一族」の紹介もあって端的に本から漫画からアニメへ映画へ音楽へと展開された状況を語り、それともまた違った形で生まれた「リトルウィッチアカデミア」から今度は漫画へフィギュアへ展覧会へと展開される様子が示されている。時代をさかのぼりジャンルを広げるメディアミックスの歴史と現在、そして未来をコンパクトに収めた展示。海外での「リトルウィッチアカデミア」に関するファンアートも集めているところが、企画した森川嘉一郎さんらしい目配りか。いや楽しかった。帰りがけにすれ違ったのは森川さんではありませんか。今日が最後は寂しいけれども次には映画が引かれているのでそれを見て、あとは支援した分のブルーレイディスクが届くのを待とう。Tシャツって僕の名前も入っているのかな、そっちには支援してなかったっけ。

 もうポン酢かと。とある記事、とある日本企業が凄い技術を開発したよという、その内容に問題はないのだけれど、それを報じるに当たって「中韓たじろぐ日本技術」とかってタイトルを付けて、日本人はすげえんだぜお前らよりなハッハッハって尊大な態度を見せていた。あるいは彼らを貶めていた。どうしてそんなことを言う必要がある。凄いは凄いで十分じゃないか。そして新技術をどれだけ作ろうと製造に、そして消費に中国韓国は必要であり不可欠な相手じゃないか。俺たち凄いぜって尊大になりつつ相手を見下す態度って、どう考えたって武士道でも大和魂でもないだろう。五族協和とか八紘一宇とかを博愛の思想だと言いつくろったって、根底にあるのは相手を見下し自分を持ち上げる尊大さでしかないってことが、こういうタイトルを平然とつけるところに滲んでいる。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。これが日本人に受けると、読者に喜ばれると思っているんだろうか。思っているんだろうなあ。あるいはもう喜ぶ相手しか見ていないというか。やれやれだ。

 完璧だったよ。そして完敗させられたよ。どうせあんな感じだろうと「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の雰囲気で泣けるシチュエーションの連打とそして泣いてる奴らの連投によって泣かせ嗚咽させる物語を繰り広げて涙の中に沈めるような話だろうと思ってそれならちょっと身を引きたいと思って劇場に運んだ身が打ちのめされたよ。覆される予想とそして被せられる驚き。そこにはひたすらの心の描写があって人々の感情のぶつけ合いがあって安易さに逃げて気楽さに漂っていた心を叩かれ引っ張られて震えさせられたよ。よくもまあこんな作品を作った。よくもまあこんな作品を見せてくれた。完敗だ。貶す言葉もなければ知らずに過ぎる態度もない。「心が叫びたがってるんだ。」はそんな映画。完璧な。<BR>
>  予告編でもチラついていた山の上の猥雑なお城は予想通りに絡んでそして幼い少女を縛り付ける。その身に何の責任もないのに、大人の世界のいざこざが心に何の濁りも淀みもない少女を痛めつける。そこにこの映画が大人の社会と隔絶していない現実と地続きの世界が舞台なんだと分からせる。子供の論理、子供の感情、子供の都合だけでは回っていかない世界だけれど、それだからこそ大人の顔色をうかがうという処世術が持ち込まれて子供を縛り、心叫びを顔に出さない大人な子供たちがいっぱい出来る.現実のような。まさしく現実の社会のような。

 そして生まれる体面だの見てくれといったもの、あるいは上っ面といったものを抱きながら、生きていくのは子供にとってはとても大変。殻にこもったままでは窮屈で息苦しくて死んでしまう。それをどう破るのか、ってところで生まれる仲間たち、友人たちといった関係が殻をぶちやぶったところに現れる摩擦のようなものを打ち払い、自分たちの生き方ってものを意識させる。自分は自分で良いんだと思わせる。そんな物語だったかなあ。

 これはだから子供に限らず大人にだって、というかしがらみだの体面だのといったものに雁字搦めになっている大人の方がより心に、縛られたままで良いのか、分厚いからに閉じこもったまま朽ちていって良いのか問いかけているような気もする。わかった明日から俺も歌うぞ、会議にミュージカルで臨むぞってことは無理でも、本音を出し合いそこからより合理的で生産的で前向きで、何より誰もが楽しく嬉しい言葉に包まれた日々が送れるようになれば、世界ももっと美しくて優しくなれるのに。そういう意味で中高生のみならず全年齢に見てもらいたい映画だし、見るべき映画だし見ても構わない映画。なんてことを分かってもらえればアニメーション映画だからって、ジブリ作品じゃないからって、細田守監督でもないからって劇場に足を運ぶのを遠慮している人もわんさか詰めかけ、見て感じて涙して喜んでそして前向きに、喉を開いて歌声を、満天下に響かせるようになるだろう。なって欲しい。だから喧伝する。この映画は完璧だと。

 水瀬いのりさんはヘスティアさまみたいなロリ巨乳ではないけれども言葉が出せないでも感情豊かな少女を演じその少女の叫びを渾身の演技で振り絞って聞かせてくれる。そんな少女を描ききった作画も凄い。シリアスからコミカルから幼い感じから怒った感じからもう凄い変幻を見せてくれる。細谷佳正さんの坊主も最初の荒くれで体育会系からだんだんと分かり合い、気持ちの良い奴へと代わっていくところがちゃんと感じられた。もちろん内山昂輝さんも雨宮天さんも良かった。演技も。作画も。でもやっぱり凄いのは脚本かなあ。見ていてストレスがないその心理描写。どういう理由でのぼせ焦り怒って泣くのかってのがちゃんと分かる。そういう流れの上に書かれているから見ていてすっと入り込める。それぞれの気持ちになれる。何考えているか分からないっていった辟易がない。そこが凄い。

 滂沱祭りの「あの花」だってもちろん筋は通っているけど感動に急ぐ余りの無茶もあった。「ここさけ」にはそれがない。凄いなあ。こういう脚本家を何でアニメーション界隈が独占していられるんだろう、ドラマ業界実写映画業界は使わないなろうと思うけれど、そっちに使われアニメがおろそかになっても困るのでこれで良いのだ。日本映画はだから無茶に無理を重ねてああやっぱりと言われ続けてくださいな。いやそれも困るか。あと舞台あいさつで内山さん水瀬さん天宮さんたちがクラムボンのミトさんのことを「水戸」のイントネーションで喋っていたのを聞いてそうだったんだと思った。「宇宙海賊ミトの大冒険」の「ミト」じゃなかったんだ。そうなのか? そこが知りたい。


【9月18日】 やっぱり修ちゃんが次期王様の候補になったけれども、それが男性で長男だからという理由ではなく、長女の葵が自分の能力を理由に王様候補になるのを辞退し、そして起こった飛行船落下というアクシデントに的確に修が対処したこと、で誰もが信頼を感じて選んだというなら、それはやっぱり自然な流れだったと見たい「城下町のダンデライオン」最終回。テレビシリーズの最終回らしく、それぞれにちゃんと見せ場を用意して、茜は重力を操り遙は安全な方法を確率によって導きだし、奏はネットを生成して落ちてくる飛行船を押さえ込んでそして、輝が力一杯ロープを引っ張り飛行船が進むのを止めた。栞も飛行船の中で飛行船とお話をして操縦の方法を聞き出したりしていたけれど、そういえば岬と光は何か役に立ってたっけか。

 放送直後に1回見ただけだとちょっと思い出せないんで、もう1回くらい見てそのあたりを確認しつつそれぞれの能力が、どういう場面でどう役立つかを改めて知ろう。自分にとって欲しい能力は何かも含めて。何だろうなあ。奏の能力は便利だけれどもお金がかかるのが難点だし。岬みたいに分裂したって呼ばれて派遣する場所もないし。輝もただ力が強いだけだと王様じゃなければ工事現場で働くくらいが関の山。栞の能力もそれで何か金儲けが出来るかというと……当たる宝くじかどうかを聞いたって分からないだろうし。そこで確率から判断する? ちょっと面倒。やっぱり移動が便利な修か、空だって飛べる茜がいいかなあ。そんなこんなで面白かったアニメーション。でも1話の「パンツが見えちゃう」に匹敵するシーンはなかったかなあ。繰り返し聞きたいいい名台詞。抜き出して着信音にしたいくらい。やらないけど。やれないけれど。

 特に推理合戦がある訳でもなく、取り囲んでいる群衆をいかに蹴散らし抜け出して時計塔まで駆けつけるかという体力勝負になってしまって、スリリングではあったけれどもサスペンスフルとはちょっと違った「乱歩綺譚 Game of Laplace」の最終回。何も考えていないのか、いろいろと考えた果てのあっけらかんさなのが小林君が怪人二十面相の側について、時計塔から落下する様を見せようとしていることも、凡人ではなかなか理解が及ばずそれでどうなるんだという疑問も浮かんだけれどもまあ、それで何かが動くかもしれないと予測したからこその行動だったということで、それが破られたからには別の何かが動いていったということになるんだろう、その後の世界では。死んではなさそうだし、いずれ復活して再挑戦という第2部とかあっても良いかな。その時は黒蜥蜴に外へと出て大活躍して欲しいなあ。牢屋に張り付きジョージョーさせているだけでも可愛いけれど、外でも盛大にジョージョーさせて欲しいもの。お願いします。

 こちらも再放送が最終回を迎えたテレビシリーズの「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」では、コンゴウが盛大にイってしまっていて同じ霧の米国艦艇を超重力砲で根こそぎ沈めて粉砕して、イ401を沈めるのは自分だと言わんばかりの主張をしてみせてそこに怨恨でも何でも、合理性とはかけ離れた感情が生まれていたところを見せてくれた。劇場版の「DC」だとそのあたりが端折られていて執着度合いがちょっと減災されていたけれど、改めて見ると相当なもの。イオナとの邂逅がどうしてそこまで至らせたのか、そもそもイオナって何なのかへの興味が浮かぶ。コンゴウの場合はそうやって目覚めた感情の上に、世話を焼いていたマヤの一種の裏切りであり、消滅も衝撃を与えたんだろうなあ。だからイき過ぎた。でも事が終わって甲板に大きなピアノをおいたあたり、今でも偲んでいるのかも。それともある種の恋情が。そういう百合本ってあるのかな。

 今日も今日とて早起きをして東京ゲームショウ2015へ。講演をメインに聴いてあとはほとんど会場を回れなかった昨日とは違って、午前中にいろいろと回れたけれども、やっぱりVR系が増えているのと、あとはアプリを中心に小さい企業が国内外を含めて結構でていて、ゲームボーイ対応ソフトとか初代プレイステーション対応ソフトみたいに小さいところでも少人数でも、アイディアさえあればソフトを作れてリリースして、うまくいけば収益につなげられる時代が戻ってきているのかもとちょっと思った。もちろんユーザーにリーチさせるまでには相当な苦労があって、そこで実況プラットフォームとかインフルエンサーと呼ばれる人気者の実況者なんかが鍵となってくるんだけれど、それにのるなり別の方法で認知されるなりした後は、大手とだって互していける状況が戻っているならクリエイターも頑張ろうって気になるだろう。

 だからなのか、今回は9ホールへと追い出されたのか場所を移したのか、物販とフードコートなんかも並ぶホールにおかれたインディーズゲームコーナーも大盛況で、国内外から半分プロとかも含めて結構な数が来ていて、それぞれに自慢のゲームって奴を見せてくれていた。台湾から来ていたこれは企業のものだろうけれど、美少年に美青年が勢ぞろいした乙女ゲームなんかは操作性もビジュアルも日本で人気のそれらをまるで遜色なし。そういうのが普通に作られ日本に入ってきた日には、遊んでしまう女性とかも相当いそう。そこに分け隔てはなく、起こることもないまま日本とアジアのゲーム市場が開発者もユーザーも関係無しに垣根を越えて溶け合っていく。そういう状況があるいは文化の融合も生んで人の交流も促して、相互理解と平和に繋がればこんなに嬉しいことはないんだけれど。難しいけどだからこそ、進む意義はある。遊ぼう世界のゲームを。遊んでもらうゲームを世界の人に。

 そんなインディーズゲームでも優れた作品が登場してピコピコハンマーによる支持を競い合う「センス・オブ・ワンダーナイト2015」ってのが開かれたんで見物に。数年前にも1度、見たことがあってその時もアイディアに優れたゲームが並んで個人ってスゲえと思ったけれど、今回はさらにプロフェッショナルの域に到達しているゲームが幾つも登場して、企業ではなく個人なりチームが世界で勝負できる時代が来ているんだって事を可児させてくれた。それは「マインクラフト」ですでに実現しているんだけれど、後に続く作品はまだまだ生まれてきていそう。

 そんな中で最高賞を受賞した「Plug&Play」なんかは、個人制作のアニメーションにちかい雰囲気を持っている映像を、自分で触って動かせるというのが特徴で、もともとはアニメーションだったものを、インタラクティブ化する時に手描きの戦とコンピューターの線とで整合性を持たせるのに苦労したとか。結果は見てまるで手描きのような線のオブジェクトをつまで動かせる。そして起こる不思議。脱力系に近い雰囲気があって、そして底知れない技術力が裏にある。そういう作品が流行ればもっとゲームの幅は広がり可能性も生まれてくるんじゃないのかな。

 あと個人的に興味を引かれたのは、「ベストテクノロジカルゲームアワード」を受賞したシンガポール在住の勝本雄一朗さんによる「ReelBlade」って作品。手にしたナイフで画面に出てくる怪物を切り刻んで倒すというゲームなんだけれど、そのナイフがボタンひとつでムチのようにしなって曲がって動くようになるから不思議。プレゼンターは「ソウルキャリバー」でアイヴィーが使う道具だと言っていたけどまさにその通り。剣にもなればムチにもなるその形態を、巧く使い分けて剣で切り、それ以前に怪物を捕まえるために釣り竿のように振り、さらには怪物が投げてくる岩をはじき返すために振るといった具合に遊んでいける。ただ切るだけでは飽きるところを、多彩なアクションを楽しめるようにした優れもの。このアイデアを活用して他にゲームを作るってことも可能なだけに、開発者とかは見てどんなものか確かめておいた方が良いかも。それこそ「ソウルキャリバー」のコントローラーとかに採用されれば。でもアイヴィー使い専用か。それはちょっと拙いかな。


【9月17日】 自分の恥部が目の前に現れるとやっぱり尊大な態度もかなぐりすてて、陰へと引っ張り込んで脅し宥めて辞めてもらおうとするんだろうかモモンガさま。というか最初にそういう名前をつけたことも相当に恥ずかしいなけれど、それだけあの世界に思い入れがあったって現れでもあって、だから誰も彼もがひとりまたひとりとゲームを抜けても、彼だけは最後まで残ってそして異常な事態に巻き込まれてしまうことになったのかも。そんな「オーバーロード」は荒野でぴくりとも動かないシャルティアに放った魔法が聞かず、ワールドクラスの魔法が背後にあると踏んでいろいろと策を練るものの、ここはやっぱり一騎打ちということで単身乗り込み闘うらしい。肉弾戦では最強のシャルティアと。大丈夫かなあ。まあそこは大丈夫なんだろう主人公だし。残り話数を考えるとこのシャルティア戦で一段落ってことなのかな。それとももう1クールあって世界の謎に迫る展開があるのかな。分割でもあって欲しいなこの続き。

 こちらはすでに12話だと分かっているので、再放送では残る最終話を待っているだけの「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」だけれど、続く映画があってその続編も待っているだけに見終わってもワクワクし続けられるのが嬉しいところ。幸いにして先行の連続上映会のチケットも買えたんで公開日よりは先に見てその驚くべき展開に見えられそう。いったいどうなるんだろう。「月刊ニュータイプ」の最新号に挟まっていた冊子で劇場版も含めた「アルペジオ」の脚本とシリーズ構成を担当した上江洲誠さんがインタビューに答えているんだけれど、基本的には原作の要素も踏まえながらもちゃんと完結する展開に持っていくってことらしい。原作はまだまだ続いているだけに独特の終わりをどう見せるか。それが原作ファンも喜ばせるものになるのか。腕が試されているなあ。

 そこはでも、原作付きを手がけて当代一かもしれない上江洲さんだからきっと最高の帰結を描いてくれるだろう。というかほとんどオリジナルなんて手がけないで、原作付きばかりをやっている感じだけれどそのことごとくが面白い。まるっと同じ場合もあればアレンジを加えている場合もあるけれど、原作をクラッシュすることはなくストーリー的にも設定的にも納得できるものにして、そしてハイクオリティのアニメーションとともに世に送りだしてくれる。スタッフを選んでいる訳じゃないから、選ばれた場所で最高の仕事をしているんだろうし、最高の仕事をしてもらえるからこそ、最高のスタッフが上江洲さんと組みたがって、結果として最高のアニメーションが出来上がる、って感じかな。そもそもが「うたわれるもの」でほとんどチュートリアルに近いパートをドラマにして描いてみせたという上江洲さん。それでひとつコツを掴んだって話を前に聞いたっけ。誰からも非難されずそれでいて驚きも見せてくれる脚本が、どんな「アルペジオ」の締めくくりを見せるのか。今から楽しみ。

 現職の警察官が殺人を犯したという状況だけでも十分に県警本部長の首が飛びそうだった上に、いったんは確保した犯人らしきうろんな人間を取り逃がしたことで、結果として2人の殺人を呼び起こしてしまい、そこですぐさま身柄を拘束できなかったばかりにおばあさんが殺害されてしまうという事態を引き起こしてしまった。、さらにそこでどういう経緯があったか判然としないんだけど、すぐに取り押さえられなかったことで母親と娘2人という3人が殺害されてしまうというとてつもない事態を呼んでしまった。計6人の死亡という空前の事態が偶発的ではなく、失態の上に起こったものだとしたら埼玉県警の本部長だけでなく、幹部全員の首が飛びさらには上位に位置する警視総監の進退にだって影響が出たって不思議じゃない。それくらいの事態。

 分からないのはNHKだかどこかのテレビが、男を何人もの警察官が追いかけている場面を見たという人の証言を載せていることで、それがおばあさんを殺害したあとだとするなら、確保できず逃げ込まれた場所で3人の殺害という事態を起こされたということになる。そうなればもう責任の範囲は無限大になりそうだけれど、本当にそうなのかはまだ不明。いずれにしたって犯人に最後の最後で自殺に近い振る舞いを許してしまう失態もあって、もう取り返しがつかない状況。これで死なれたら誰を処罰できず、真相すら不明になてしまう。必死で生き延びさせようとするけれど、でも死刑は確実な犯人を助けなくちゃいけない医者もちょっと辛いだろう。そういう状況に至らしめてしまったこともやっぱり失態。どんな処罰が出るのか。それをメディアがどう報じるか。目をこらしていきたい。

 帝王判断が今年の流行語になるかどうか。企業のトップにあって数々の成功をひっさげ時の人として語られる人間が、帝王判断こそが大事だなんて言えば普通は専横だの独裁だのといったネガティブな経営スタンスの持ち主として、いずれの失敗を予言されてしまいそうだけれど、そうなるかどうかってところでなりそうもないかなと思わせるのが、経営者でありクリエーターでもある自分の状態を巧く御して、どちらの分野でも最良の結果を出せるようにうまくバランスをとって進行できる人間だと思われているからなんだろうなあ、つまりはレベルファイブの日野晃博さんのことなんだけれど、東京ゲームショウ2015の基調講演に登場して、数々のヒットコンテンツを生み出した裏にあったそうした帝王判断を挙げて、どうすれば成功できるのかってことを教えてくれた。

 たとえば「レイトン教授」シリーズだと、脳トレが流行った次に来るのが頭の体操だと見抜いたことであり、そのために多湖さんという教授の所に通って許可をもらったことであり、さららに普通に頭の体操を並べたソフトに使用としたら、頭の体操という言葉を使えないと分かってじゃあどうするとなって、ストーリーモードにしようと即決して許可をもらい、そっちでソフトを創ったことにある。戦っても良かったんだけれど、結論までに1年とかかかるならそれは選ばず別を選ぶ。それでいて面白いものが作れる。経営者としての判断とクリエーターとしての判断の両方を、うまいバランスで打ち出せたからこそあのタイトルが生まれってことなんだろう。声優に当時はまだそれほどでもなかった大泉洋さんや、アイドルっぽかった堀北真希さんを起用したことも、英断だったけど結果を呼んだ。慧眼だなあ。

 そんな帝王判断は「イナズマイレブン」でもあってアニメの展開をゲームの展開に合わせるようにしたってあたりに、強引だけれど必要ならば実現させる強さでありこだわりが見えてくる。その集大成が「妖怪ウォッチ」だとするならば、講演で触れられなかった「機動戦士ガンダムAGE」はどうだったんだろう、ってことで想像するなら1年という長い時間をストーリー仕立てで引っ張るだけのノウハウを、まだ持ち得ていなかった時期でアリまた「ガンダム」というあちらこちらからのこだわりもあって、日野さんといえども自由には振り回せない重さもあって帝王判断を持ち込めなかったんだろう。原作権がない作品は面倒、ならば原作も自分でやれば良いって回帰し思う存分展開し、オムニバス形式でパロディも交えて大人も楽しめるようなアニメを作った「妖怪ウォッチ」が出来上がった。そう思うと「ガンダムAGE」も無駄な経験ではなかったんだろうなあ。だったらどうしてそれについて触れないんだろう。やっぱり忸怩たる思いがあるのかなあ。いつか聞いてみたい。怖いけど。


【9月16日】 楕円の白目の表現が面白くって、つい見始めた「モンスター娘のいる日常」のアニメがなかなか良くって、放送されたら間をおかずに見る番組に昇格。でもって「D」なるイニシャルが書かれた脅迫状で脅されている、だぁりんやこと主殿こと公人が、犯人をあぶり出すためにMONに囲われているモンスター娘たちと順繰りにデートする展開で、ひとつ目のマナコにも驚かずにその目をみつめ、手が取れてしまうアンデッドのゾンビーナにもすかさず手を縫い胸まで取り付けてあげる親切さ。巨大なオークのティオニアにも怖がらないで接するその分け隔て無い態度が、あれだけのモンスター娘たちと同居して臆さず、誰も嫌な気持ちにさせない空気を生んでいるんだろう。その性格、差違が諍いを呼ぶ今の世界に必要だよなあ。新たに登場のデュラハンちゃんもやっぱり公人が好きになるのかなあ。羨ましい。うん羨ましい。

 名古屋のユニーがスーパーを50店舗とかまとめて閉店させるって話が伝わってきて、愛知県で全盛を誇ったスーパーでもやっぱり厳しい状態に置かれているのかなあと思ったけれど、他に大きな総合スーパーがぼこぼこと建っている節は無し。実家のある平針なんてスーパーは地下鉄の前に1軒くらいで、それ以外だと遠くまで出向かなければイオンのようなショッピングモールは存在しない。いったいどこで皆さん買い物しているんだろう。つまりはそれだけ必要とされている感じなのに、厳しいというところに少子化めいた変化もライフスタイルの転換もあるんだろう。スーパーで物を買いだめしなくなったというか。

 そして登場したAmazonのプライム会員向けサービス「Amazonパントリー」は生鮮食料品なんかをのぞく食品に雑貨に飲料なんかをひと箱290円の配送料でもってまとめて配送してくれるっているサービス。サイトからぽちぽちとチェックしていって、ひと箱分になったらそこで決済をすればすぐさま配送されるという寸法。ラーメンだってビールだって1個から1缶から買えてなおかつ店内をあたふた走る必要も、家まで持って帰る必要もないからこれは便利。それこそスマートフォンやパソコンの中にスーパーマーケットが出来た感覚だろう。これが本格化すればもう町のスーパーで雑貨やスナックとか乾物とかを買う人はいなくなりそう。でも生鮮食料品はどこで買う? スーパーが潰れたらそういうのもなくなるだけにちょっと心配。まあAmazonのことだから、いずれそっちにも進出してくるかなあ。各地に生鮮品を扱うデポを作って。バイトが毎朝肉切って。魚捌いてパックに詰めるんだ。

 たぶん1988年の7月で、日付でも17日くらいだと思うのはブルーザー・ブロディが死んだというニュースを新幹線の熱海駅で読んだ記憶があって、その前日に三島から修善寺を通ってバスで伊豆の松崎まで行って、そこで「長八」という名前を知って漆喰で絵を描くすごい職人がいたということを記憶に刻んでいたからで、その翌日にブロディの死が伝えられていたのなら、死んだ翌日だということで死んだその日に僕は伊豆の松崎にいて、「長八」のことを知ったという、そんな順番。そして吉祥寺へと出向いたついでに、武蔵野市吉祥寺美術館で開かれていた「伊豆の長八」という展覧会で久々に、その作品を目の当たりにしてやっぱり日本の職人芸は、凄いものだと改めて思うのだった。

 まるで浮世絵のような、あるいは山水画のような絵を漆喰で描いてのけるその技。大ざっぱではなく細かい扇の中の絵までも描いてのけるというからいったい、どんな技巧を使ったかを目の前で確認したくなる。きっと今の職人が漆喰で絵を描いても、あれほどの細かさにはならないだろう。そしてなおかつそんな作品が、100年以上を隔てた今もちゃんと残っていることに驚き。絵のように描いたものを巻いてしまえるものでもなし。倒れたり落ちたりしたら割れて粉々になってしまう繊細な美術が残っているのは、その素晴らしさを見て誰もが必死に残そうとしたってことなんだろう。今に技術が伝われば、さらに大きな資産になったんだろうけれど。その意味でも特殊で珠玉のアーティストだったんだろうなあ。大久保利通から表彰されるのも当然か。そんな賞状があったんだよ。存在したんだ大久保利通。そりゃそうだ。

 そんな吉祥寺では江口寿史さんから「KING OF POP」という新しい画集にサインをいただく。もう嬉しいというか。デビューした頃から読んできた漫画家の人が目の前にいてサインをしているというその僥倖に、ただひたすら嬉しさが募って直立不動になる。「恐るべき子供たち」は読んだかどうか、記憶にないけど「すすめ!! パイレーツ」はその頃、家が廃品回収の集積地になっていて読まれた雑誌が近所から集められていたこともあって、その中にあった「週刊少年ジャンプ」を読みあさって「こちら葛飾区亀有公園前派出所」とか「すすめ!!パイレーツ」を楽しみにしていた。「1、2のアッホ」なんてのもちょっと前にあったっけ。

 そんな“同時代”の漫画家あ今も現役、かはともかくとしてイラストの世界では第一線で活躍していて、そんな人の作品がまとまった画集が出てそれにサインが頂ける。こんなに凄いことはないし、こんなに嬉しいことはない。あまたの漫画を読んで漫画家の人も見てきたけれど、これだけ嬉しいのは萩尾望都さんに話を伺えた時以来かなあ、いやまあ他にもいっぱい漫画家の人はいるけれど、会いたい順では10指に入る人に会えたような気はする。ちょっとしたイラストも頂けたし。家宝にしよう。家には前に買った「ストップ!! ひばりくん」の絵もあるし、飾って讃えて懐かしもう。漫画また買い直すかなあ。

 「神奈川の安保法案反対派に動員がかかっていたのは知ってるわね。今から30分前、神奈川県警が地方公聴会に出席して車で横浜プリンスホテルから出ようとした参院委員長を出さないようにとピケ張った安保法案反対派を突いて暴れさせて、公務執行妨害で連行したそうよ。しかも往来で」「あそこの本部長は警備部時代から総監の腰巾着と言われてた男だったな。それにしても無茶しやがる。今時転び公妨なんて真似をされて、安保法案反対派が黙ってるかどうか」「全国の安保法案反対派は現在、外部との交信を活発化させて国会を取り囲もうとしているそうよ。こんな時にあなたは一体どこをうろついてたの!」。

 という会話が埋め立て地のガレージで交わされたかどうか分からないけれど、警備さえしっかりしておけば起こらない事態を起こして混乱を招き、それを理由に摘発へと持っていく気があったのだとしたらちょっと筋が悪い。もちろん暴れる側が最悪なのは当然だけれど、そうならなって起こる諍いと、双方に抱くネガティブな思いが招く面倒で長い戦いを思うと、やっぱりちゃんと警備しておくべきだったのかもしれない。それとも諍いを理由に一気呵成に叩けば、上から褒められるとでも思ったかどうか。警視庁が極力騒乱を起こさないよう、国会前とかで必要以上にガードを固めているのと較べると、やっぱり差があるなあと思うのだった、意図的かどうかは別にして。さていったい何が起こるか。興味津々。

 国家が例え首長の悪口をメディアに書かれたからと言って、それを削除してくれといったことをメディアに直接申し入れる、報道の自由に対する圧力ともいえそうな異例の事態の是非はともかくとして、抗議を申し入れた側がそのメディアに掲載されたコラムのどこにどう憤りを感じているかを知ることはやっぱり大切。それなのに抗議された側はただ、抗議されたといった赴きで、報道の自由に挑戦したと言わんばかりの相手の態度をクローズアップし、その理不尽さが漂うような書き方をしていて、それに賛同する声を集めている。一方で抗議した側の国ではしっかりと、その記事がはらんでいる問題性をちゃんと報じて、そういう理屈であり感情があって抗議したのだと言うことが分かるようになっていた。

 そちらを読めばあるいは抗議もやむなし、それは報道の自由に棹を差す物ではあっても、苦しい気持ちを抱く人が出るのは当然だろうといった思いが浮かぶくらいに、抗議した側の主張に一定の筋はある。それが首長に対する指摘であり、行ったのが自由を認めらっるべきメディアといった構図をおけば、誹謗中傷に等しい言葉を連ねたことへのの責任を求められても仕方が無いかもしれない。というかいくらメディアが自由でも、そこで紡がれた内容があまりに非道なら、ちゃんとその責任は果たさなくてはいけない訳で、そうした方向へといかずただ、相手の理不尽さばかりを強調していては、争いは平行線をたどり続けると思うんだけれど、そうせざるをえない虚勢があるからなあ、どちらにも。どうにも厄介。


【9月15日】 光り物を持って集まって〜、という呼びかけに応じて9月14日の国会議事堂前のデモにはサイリウムとか閃光ブレードとかキングブレードといったものを持って集まり、ピカピカと光らせている人が大勢いたようで、空撮からでもその輝きが結構見えた。ネットでの中継を見ていたら、トラメガ持ってコールしている人にもオレンジ色のサイリウムが光っていて、ここは代々木かさいたまスーパーアリーナか、ってな雰囲気を醸し出していた。それなら中には光り物だねってことで、サバとかサンマとかコハダとかを持ってきて尻尾を持って振り回して周囲を生臭くさせる厄介さんもいたんだろうか、なんてこともふと思った。いるんだよアニソン系のライブにはそういう人が。

 まあでもそこは国会議事堂前で、50年前からゲバ棒持ってヘルメット被ってシュプレヒコールを叫んでいた血気盛んな高齢者もいるだろう場でひとり、周囲から外れたことをやれる度胸も厄介にはないか。周囲はだいたい一緒の世代であり、共通の思想の持ち主であるという安心感と、そこで目立ちたいという欲望の重なりがアニソン系のイベントでの厄介を生む訳で。いやそういう自覚も今は薄れてとにかう目立てば良いと考える若い人もいたりするかなら。今日明日辺りもデモがあるとしたらそ中に光るサンマがないかを目をこらそう。最近サンマもいんで学生では持って来られないかな。

 しかし現実、いくらどれだけデモをやろうと人が集まろうと、国会での審議は通って成立してしまうっていうのが今の流れ。だからあそこでの運動は、来週には目先の出口を牛なたまま宙ぶらりんになってしまう。その時に運動のエネルギーはいったいどうなってしまうのか。どこへ向かおうとするのか。受け皿が出来たとしてそれは何なのか。危ないことにはならないか。そんなことを40年以上前に起こったこととか振り返りながら考えるのだった。もちろん長期的な視座で、いずれくる政権交代を視野に入れて戦い続けることは必要だし、そのための第1歩として今をアピールすること、そして頑張ることは悪くないけれど、運動の効用にアテられそれが目的化してしまわないかが心配。どうなるものか。

 佳境に入ってきたのか「Classroom☆Crisis」は霧羽ナギサの正体が判明していろいろと複雑な状況があることが見えてきたけれど、誰が本物かはともかく企業は企業の論理でA−TECを押しつぶそうとしていて、最後の逆転に向けて動き始めた現行にして替え玉の霧羽ナギサは遠ざけたはずの元専務に刺されていったいどうなる? 軍事技術に進出するという大方針をひっくり返すには説得力も足らない中でロケット事業であり、A−TECといった組織の存続を図るために必要な、それが求められる環境ってのを果たして打ち出せるのか、そこに現在の白崎イリスの存在がどれだけ関わってくるのかで、作品としてのまとまりが大きく違ってきそう。どんな収束へと向かわせるのか。期待しつつ見守ろう。

 佳境に入ってきたようで「城下町のダンデライオン」は次期の王様選挙に向けてそれぞれが自覚して自律していろいろと行動していく中にあってアイドルとして活躍している光はその正体を王女様だと同じ事務所でアイドルやってる先輩の米澤紗千子に知られたんだっけどうだっけ。でも外には明かしてないからアイドル人気をそのまま王様としての投票に結びつけられない厳しさ。まあどっちにしたって長女の葵にはかなわないかならなあ。その葵は自分の能力が他人を従わせるものだと感じてそれでトップには立てないと遠慮気味。かといって茜では人前に立てず立ちたくもない性格ではちょっと王様には向いていなさそう、ってことでやっぱり普通に長男の修が継ぐのが良いんだけれど、それだと普通すぎるし。どうなるか。そこまで描かれるのか。茜のパンツは見えるのか。こうご期待。

 どこの民放局のなんて番組かは知らないけれども、マツコ・デラックスさんが司会を担当していてこれはないだろうと憤りを得た人も多いんじゃないだろうか。NHKの紅白歌合戦が男性の白組と女性の紅組に別れていることについて触れ、最近はそうじゃない人もいっぱい活躍しているんで新しい組を作るとしたらどうなるかってことを、前にNHKにいたことがある人に聞きに行っている。そのひとり目が池田信夫さんで、まあ確かにいたけれどもそうやって聞いて普通に答えてくれる人でもない。興味もなさそうだし。だからそこで聞く人を間違えたとやるのは別に良いんだけれど、次に向かった掘潤さんに対するスタンスが酷かった。

 NHKは日本の社会状況を写す鏡であるとかどうとか喋ったことに、さっさと喋れと言わんばかりのコメントを添えてそして、ようやく掘さんが答えたことに対してなんだこの期待外れめがといったコメントで、笑いに埋もれさせていたことが引っかかった。その答えは「虹色」。つまりはレインボーカラーで、いわゆる性的マイノリティを象徴する色としてパレードなんかでも使われているその色を、答えたことは極めて質問の趣旨にも沿っているし、そうした方面への掘さんの関心の深さも分かってとても良かった。でも番組はそういう答えは期待していないとコメントし、ピンクとかいった固定観念とか先入観の中に落とし込めようとし、挙げ句に聞く人を間違えたといってその答えに対する一切の評価を行わなかった。良いとも悪いとも。

 むしろ期待外れだから悪いって判断を下したことになる。それに対してマツコさんが流石に突っ込むだろうと思ったらスルー。もしかしたらスタジオではそうしたリアクションを取る時間が与えられていなかったのかもしれない。?ぎ方の問題で前の映像を見ていなかったのかもしれないけれど、あのマツコさんをして「虹色」との回答に言葉を添えさせず、そして性的マイノリティを固定観念にまみれさせ、運動する人たちを嘲笑するような番組が堂々と放送されたことに今のテレビの不勉強ぶり、頭の悪さってのが見てとれる。そりゃあ視聴率も下がるよなあ。Netflixも来たしHuluだって堅調な中で、バラエティ番組の頭の悪さばかりが目立ち、ドラマの軽佻浮薄ぶりも目につく地上波。いったいどうなる。どうもならないか。何かする気もなさそうだし。やれやれ。

 「ごはんライス」ならニコニコ超会議とかでもメニューに出たけど、それに餅とかも加えたところが新しいかな、「週刊ビッグコミックスピリッツ」に掲載されたゆうきまさみさんによる久々の「究極超人あ〜る」は時代を現代に持ってくることなく、あの時代のあの光画部をメンバーもそのままに持ってきては、ただひたすらにご飯を食べるエピソードでもって引っ張り埋めて終わらせている。というか続くんだったら何か引きがあるのか、ないんだよなあ、これが。だから次、「月刊スピリッツ」に載る後編とやらがどうなるかまるで予想がつかないんだけれど、今回は出ていない西園寺まりぃとか成原博士とかが出てきてひっかき回してくれると期待。あと毒島さんとか。昔はそこにバーディーとかも絡んだけれど、新作になって時代も下がり「あ〜る」の時代とは違ってしまった。あるいは「白暮のクロニクル」で永遠を生きるオキナガが登場してくれるかな。そんな楽しみを抱きつつ、期して待とう発売を。単行本とかに収録されるんだろうか。


【9月14日】 偶然とはいえ、ねこにゃーたちネット戦車ゲームチームが加わって、慣れない操作に戸惑い戦車をバックさせてしまったおかげで、遠距離射撃からフラッグ車は守られ我らが大洗女子学園チームは黒森峰学園の初撃をかわして持久戦へと持ち込むことに成功してからが来週以降のお楽しみとなった「ガールズ&パンツァー」。すでに結果は知ってはいても、経過がどうだったかを思い出せないんで残り2週をじっくりと楽しんでいきたいところだけれど、やっぱり合間にアンツィオ戦が挟まってないのが残念なんで劇場公開を前にして、テレビ東京には是非に「これが本当のアンツィオ戦です」を放送して欲しいもの。見れば戦えば誰もが友だちになる西住みほの前にアンチョビが現れなかったかも分かるから。やっぱり可愛そうじゃないか外されたままでは。

 1台として同じ車両がなく、西住みほをのぞいては戦車道の経験すらなかったチームがしかし、歴戦の勇者たちを次々に撃破して決勝にまでコマを進めたことはやっぱり都合が良すぎるって気もするけれど、たとえ性能が段違いでも台数に差があっても、埋めようと思えば才能と戦略でもって埋められる差に抑えてあるっていうのが巧い発想。フラッグ車を撃破すれば勝ちとかっていうのは過程をすっ飛ばすことを可能にするし、性能の差だって条件によって詰められる。あとは組み合わせの妙とかを巧く考え演出することで、丁々発止を見せられる。それでここまで来たけれど、このあとの映画はいったいどんな戦いをうまく演出するのか。大洗女子学園も手慣れてきたけど車両に増強はあったのかな、人員に補充は。そんな想像をしつつ待とう、公開を。しかし池上遼一さんがエンドカードとは。先週は岡部いさくさんだったし。来週は、最終回は。そっちも楽しみ。

 これが「ガッチャマンクラウズ インサイト」で言うところの空気って奴なのかなあ、叩かれているものは、何も考えないで叩いていいのだという根拠のない正義感に依拠した。どこかの美術大学の卒業制作作品が、有名なイラストレーターの作品に雰囲気が似ていたという話から端を発したパクリ論争は、それが雰囲気を似せることで描かれているモチーフとのギャップを呼び、過去と今との差違を浮かび上がらせるアートでありパロディでありパスティーシュだったことが分かって一件落着したと思ったら、どこかのネットメディアがご丁寧にもそのイラストレーターの権利を管理しているところに、学生が卒業制作でパクってますが、なんてご注進申し上げたらしい。

 学生がアートとして描いた卒業制作は、商業ではなく公衆に向けたものでもなく、それで誰かが傷つく訳でもないのにどうしてといったところだろうけれど、世間がその学生が所属する学校を叩いているなら、学生がやっていることも叩いて良いんだという妙な空気を感じ取り、それを汲んであおり立てればアクセスだって稼げるという功利的な判断でもそこにあったんだろう。でもって相手は「対処する」と答えたとか。そりゃそうだ、何か言われれば「そうですか」と言うのが権利者というもの。そこで「無視という対処」をするかもしれないんだけれど、ネットメディアはどうにもネガティブというか、正義的にポジティブに批判なり抗議といった方向での「対処」がありそうな雰囲気で書いている。そうと決まった訳でもないのに。

 願うなら今後の波及を防ぐ意味でも、学生だしパロディだしといったところで知らんぷりを決め込で欲しいところだろうけれど、これで味を占めたネットメディアは、だからどういう対処をしたんだとしつこく聞いては火を着け盛大に仰いで燃え上がらそうとするんだろう。面倒な事態。そんな状況を報じるメディアの上で、学生の絵とそれからイラストレーターの作品を引っ張り堂々の権利違反をしているんだからちょっと笑えるというか、まるで笑えないというか。心配なのはこうやって、くだらない正義感が金になると感じた人たちが、次から次へとパクリだ何だと騒ぎ立てるんじゃないかといったこと。著作権の非親告罪化なんて状況も彼方に控えて、誰も彼もがパクリをチクって官憲が動くような状況が、起こりそうな可能性が先取りされて示されたとも言えそう。

 聞かれれば答えなくてはいけないし、告発されれば捜査だってしなくちゃいけない。その判断基準も示されない中で、パクリだ何だとあらゆるものをあげつらってつっこみそれでアクセスを稼ぐようなネットメディアの手段が常套化していった果て、そこらじゅうで告げ口合戦が起こって誰も何も創作しなくなってしまいそう。古今東西、さまざまな意匠に使われている4分割された盾のエンブレムを、自分たちでも掲げた学生の組織に、そのエンブレムは外国のゲーム会社が作ったもののパクリだとつっこみ騒ぐ輩とかもいるし。おいおいもっと前からあるだろう、そんなことも知らないのか、って知っていたって騒げば勝ちだし、燃え上がればなお勝利。そんな空気にあふれた世界の息苦しさが、今から感じられて嫌になる。森村泰昌さんとかパロディとか本歌取りでアートやっている人とか、どういう活動をしていくんだろう。そんなところにも興味を及ぶ。「いわさきちひろとしての私」とか、作ってくれないかなあ。

 吉祥寺で開かれているということで江口寿史さんの展覧会「KING OF POP Annex 江口寿史 個展」というのを見にリベストギャラリー創へ。前に江口さんのイラストレーションというかひばりくんが描かれた絵を買ったけど、今回はさすがに生原稿なんでそうした販売はなし。そして何より生原稿が壁一面につり下げられていて、間近まで寄ってじっくりと見られるところが凄いというかあり得ないというか。これが美術館とかならコピーが額に入れられ飾られているところを、それこそ国宝級といっても過言ではない原稿が生でつり下げられているという不穏さは、同時に来る人を信じている現れだとも言えるかも。それとも手で触れた瞬間にブザーがなる仕組みが入れられているとか? いやいや写植が張られたトレーシングペーパーをめくって原稿を見られるくらいだからそういうのもなし。つまりは愛。作品への。そして来場者への。その相互関係が最良の鑑賞環境を生みだした。

 展示してあったのはどうだろう、「江口寿史のなんとかなるでショ!」とかから始まったショートコミックの原稿がだいたいといったところで、「月刊ASUKA」とか買って好きで読んでいたんで懐かしいことこの上ない。そして「ストップ! ひばりくん」とはまた違って1話完結なんで、それぞれが起承転結づいていて原稿を読んでも面白く、なおかつキャラクターも多彩でいろいろと楽しめる。「うしみつくん」とか最高だったなあ。そんなキャラを間近に見られて嬉しい上に、ちょっぴりエロティックな漫画も結構あって、そしてその頃から江口さんの絵が頭身的に立ってきてリアルさが醸し出されるようになって、見ていて官能をそそられた。青春と重ね合わさってもう脳に刻まれたそのエロスを改めて見られた嬉しさ。これが分かるのはやっぱりもう、結構な大人の人なんだろう。

 それは飾ってあった眼鏡っ娘のイラストにもいえることで、ぶかっとした服で大きめの眼鏡をかけた少女がカチューシャで髪の毛を止めているという、そんな表情とかを見てやあ眼鏡っ娘だと感動し、可愛いなあって思える回路を持っているのはやっぱりそうした時代を過ごしてきた世代だろう。ちょっと下がった世代にける眼鏡っ娘、はそれこそ委員長属性がついたり、秘書のお姉様といった感じでアラレちゃん的眼鏡っ娘、不思議ちゃんけい眼鏡っ娘とは随分と違う。多分今の若い人が見てもグッとは来ないその絵を僕たちは、ああこれが理想の眼鏡っ娘だと喜べる。その意味でも嬉しい展覧会だった。生きてて良かった。そして江口さんが生き続けてくれて良かった。これからも描いて欲しいけれど、最近何を描いていたっけ。漫画また描かないかなあ。お願いしますと臥す。


  【9月13日】 空気に勝つのは容易ではないと思わないでもないけれど、それが決して認めてはいけない空気ならば、絶対に勝つしかないのだろう。そのためのどんな道をガッチャマンたちが見せてくれるかが今は興味の「ガッチャマンクラウズ インサイト」。結局のところゲルサドラは誰もが願うことを最大公約数的にかなえてあげる装置に過ぎなくて、人間たちが安易に走って安寧に溺れてしまいたいという気持ちをくみ取って、それを全体の空気へと変えて世の中に漂わせ、世の中を満たしてしまった。自分で何も考えず、ただ従ってさえ居れば気楽に過ごせる世界。そこに溺れてしまった人たちは、快楽の中に惰眠を貪ることになったけれど、浮き上がった人も中にはいて、助けてくれと叫んだら足を引っ張られて沈められた。

 どうしてそんなことをするのか。羨ましいという気持ちでもないだろう。面倒くさいといった気持ちでもない。ただ、どこかに誰もが同一であれば気持ちが揺り動かされないでいられるという、そんな感じが世界を満たして異端を認めず、異論を排除していった果てに誰もが逆らえない空気が生まれ、漂い世界を満たしていったという、そんな感じ。でも、やっぱりそれは拙い。だから嫌だという気分が生まれてきたものの、今度はそうした空気ばかりが世界を満たして、人々を溺れさせ、ゲルサドラの排除へと向かわせる悪循環。誰もが自分であり続けられて、それでいてぶつかり合わず認め合える世界であるためには何が必要か、ってところを示してくれればありがたいんだけれど、そんな答えが出せるならもっと世界はとっくに平和になっているからなあ。難しい問題に挑んでいるアニメーション。そんな感じ。とりあえず爾乃美家累の女装が復活して嬉しい楽しい。見えたお尻のラインからするにやっぱり下着は女物? それもTバック? ちょっと気になる。いや大いにか。

 テレビか何かで甘利経済再生大臣が、「マイナンバーそのものを使うわけではなく、カードのICチップのIDを使う」から安心だって言ったらしけれど、でも世間が不安に思っているのは、マイナンバーが記載されたカードそのものを持ち出し持ち歩くことであって、そこから起こる紛失と、世間に知られるリスクを考えるなら、持ち出すこと自体を抑制するように動かなくちゃいけないのに、そこについてまるで触れていない。なんだかなあ。説明になっていない説明をしてそれで平気な大臣とか、報じて突っ込まない報道とか、なんか世の中の知性って奴がぐだぐだになっているような気がする。別に飛び抜けた知性ってんじゃなく、普通に考えて誰もが思いつくことに、偉い人たちが気付いていないか、気付かないふりをしている。たまらんなあ。

 それを言うなら例の武雄市のTSUTAYA図書館の一件で、元市長とか教育委員会に加えて現職の市長までもが言い訳にならない言い訳をして苦笑を買っている。曰く契約の範囲内であって手続きは適正に行われたんだとか。おいおいそもそもが整備費が必要になったんで本代を削る、そして中古本を買うような所業が認められる契約そのものが不当であり不正ではり不道徳なんじゃないのか。それを許してしまった行政の手続きに問題があったんじゃないのか。でもそこは認めない。触れようともしない。図書館が本を揃えるためのお金が、設備費にとられて削られてしまうこととか、それで足りなくなったから、中古の本で数あわせをするとか、普通に考えたらあり得ない所業に恥ずかしいことやったとか、忸怩たる思いを載せずに、契約の範囲内だからしゃあなしだと言える偉い人たちの心って、やっぱり何か壊れてしまっているのかなあ。誰かに壊されてしまっているだけかなあ。

 いやあ面白い。「失恋探偵ももせ」のシリーズで知られる岬鷺宮さんの新刊というか新シリーズになって欲しい「魔導書作家になろう! >ではダンジョンに逝きますか?(はい/いいえ)」(電撃文庫)がとっても面白かったよ。新人賞を受賞してデビューが決まった新人魔道書作家が、元勇者で美少女でとてもアクティブな担当編集者に誘われて、叱咤されつつ魔導書のブラッシュアップのためにダンジョンへと潜り、そこで馬導の実践というかモンスター相手の実戦させられるという話。投稿で新人賞を受賞したならそれをそのまま出せば良いはずなのに、やっぱり中身を充実させるには、それが有効かどうかを確かめなくちゃいけ、インチキな本は出せないという、出版界の良心みたいなニュアンスが漂っていたよ。

 なおかつ誘ってくれる編集者が美少女だったらやっぱり逝かなくちゃいけないダンジョン。そしてまずはモンスターを倒し、次は相手の幻惑させるような混乱させるような能力を減衰させといった具合にいろいろと試すことになる新人馬導書作家。それでちゃんと中身が良くなり、売れるようになるからきっと正しいことなんだろう。そんな展開の中でやっぱり実戦派というか、実物を見てたぎりたいオークで美少女のイラストレーターが加わり、本当はとてつもない魔法の使い手ながらも今は校閲をやっていて、それもとてつもなく厳しい校閲のお姉さんも加わり向かうダンジョンでの大冒険。そこまでかけて生まれた本が悪いはずはない。そしてそんな本がテーマの小説を出す電撃文庫もしっかりと、取材がされイラストも吟味され校閲も経ているかというとどうなんだ。そこはそれ、フィクションだからということで。次はどんな本を書いてくれるかな。楽しみ。

 もしかしたら2007年の11月4日に南船橋にあるららぽーとで「ぁみの取扱い説明書(トリセツ)」って本の発売記念ライブと握手会に参加して以来だから生で見るのは8年ぶりとかになったりするんだろうか。時東ぁみさん。代々木公園で昨日今日と開かれている「ONE ASIA2015」ってイベントに出演してライブを行うって話が流れてきて、特に用事もなかったんでちょっと見てくるかと思い立って家を出て、途中に昨日今上天皇陛下がお立ち寄りになられた東京国立近代美術館でユニークな展覧会を見た後で、神保町経由で代々木へと出てガパオとか食べつつしばらく。中国雑伎団による変面っていう、瞬時に面を付け替えていく国家機密的な技を目の当たりにしてその凄さに堪能してから、いよいよと登場となった時東ぁみさんは可愛かった。もうひたすらに若かった。

 というか1987年生まれだからまだ9月25日の誕生日が来てやっと28歳。まだまだ全然若いけれども8年前はつまり二十歳だったってことで、その時の若さをちゃんと維持しつつボディスタイルも完璧を保ちながらも笑顔と眼鏡はグレードアップしパワフルなステージを見せてくれた。いやあ楽しい。懐かしの「せんちめんたるじぇねれ〜しょん」とか聞かせてくれて思わず上で指をくるくる回してしまったけれど「発明美人とパインアップル」はやってくれなかったから眼鏡に手を添え前でパインアップルを作るダンスは出来なかった。またやりたいなあ。それでもまったくの新曲とか聞かせてくれたし、ベトナムとかアジアに向けて活動を広げているぁみにぃが、ベトナムの言葉も交えて作った曲とか聞けて未だ衰えず、むしろ広がるその活躍に今一度、触れてみたくなってきた。ライブとかもあるみたいだし、のぞいてみるかなあ。こっちは50歳になったけれど、だからこそ元気さをわけてもらいに。いぇいいぇえいいぇい。

 そんな感じに7、8年前を懐かしんでいたら今度は30年前を思い出すような「爆風スランプ」が登場、といっても半分のサンプラザ中野くんとそしてパッパラー河合さんだけれどその2人が全盛期を思わせるパワフルなボーカルとテクニカルでスピーディーなギターでもって「リゾ・ラバ」を演り、そしてあの名曲にして傑作にして永遠の青春ソング「Runner」を演ってくれればもう、1980年代に青春を送った人間の120%が活気づき血湧き肉躍ってそして涙ぐむ。少し前とかサンプラザ中野くん、ボーカルに疲れが出たとか言われていたけど今日とか聞いてまるでそんなところはなし。水も飲まずにステージに立ってセンターに位置して声を張り上げ喉から振り絞って代々木の空へと響かせた。いやあ凄い。そして素晴らしい。傑作名曲を持っていることも強みだけれど、何より未だ現役で歌えることが何をおいても嬉しい限り。この声をまた、万人の前で聞きたいものだけれどそんな時は来るかなあ。1985年12月13日金曜日からもうすぐ30年。幾たびかの武道館を。是非。


【9月12日】 最高だよ最高だ。「スペースインベーダー」を遊んでいたのは1978年とか9年のころで、高校生になっていた1980年代にはもう余りゲーマーではなかったけれど、ゲームセンターには時々入ってゲームをしたし、様子も見ていた人間にとって共有できる体験があり、共有したい記憶もあって、それが30余年を経た現在、最高の形で表現されているからにはもう心の底から最高だと喝采を浴びせるしかない。そんな映画だったよ「ピクセル」は。

 前々から劇場で流されていた予告編のとおりに、いろいろと理由があって地球に宇宙人が攻めてきて、それが「パックマン」やら「ギャラガ」やら「ドンキーコング」といった昔懐かしいゲームを3次元的に再現させたような形になっていて世界をどんどんとピクセル、すなわちゲームでいうところのドットに分解していっている。これは大変だ。どう戦えば良い。普通の軍隊ではまずかなう武器がないし、戦い方だって分かっていない。そこで引っ張り出されたのがかつての天才ゲーマーたち。今はただのAV機器の配線技師だったり、陰謀論をとなえて引きこもっているオタクだったり携帯電話販売で詐欺をやって刑務所にいれられている男だったり。

 主人公の幼なじみで、クレーンゲームが得意だったひとりはなぜか出世して大統領になっているけど、でもダメダメな大統領として支持率は下がってる。そんなダメなやつが大統領になれたのか? って言うけど実際、ダメでも大統領になった人は多いから大丈夫ってことで。他に取り柄はあったのかもしれないし。そんな大統領でも態度は変わらずに元天才ゲーマーの今は配線技師と友だちとして付き合っている、そんな状況下で起こったゲームによる侵略に、適任と引っ張り出された元ゲーマー達の活躍が、ゲームを極めていったい何になるんだと言われていただろうゲーム中毒な人たちと、そんなプレッシャーを感じていたあの世代の人たちに、ゲームにだって意味があったじゃないかと思わせてくれる。

 2Dのゲームが3D空間で再現されていて、それとルールに従って戦うという設定も最高なら、それを表現する映像も最高。なおかつズルをしていた奴がいたという過去が現在にも影響を与えて、それがピンチを招きさらには再生を呼んで地球を救うと言った下から上へといった盛り上げっぷりも楽しい。裏コードとかチートとか、分かる人なら納得できるストーリーだし展開だし描写だけれど、分からない人にはまるで面白くないしリアリティもないと感じられるんだろうなあ。週刊誌とかでは評価低かったそうで。まあそういう人は劇中で憮然とし続けている老軍人の仲間か身内か当人だということで。落ちもあって一件落着だったけれども続ければ続けられそうな気もするんで次はちょい、時代は下がったファミコン時代のゲームを是非に。PS以降だとリアルなフィールドになりすぎて戦争なりファンタジーのシミュレーションと変わらなくなるから難しいかな。関係ないけど幕間の山崎紘菜ちゃんの胸最高。こんもりとして。

 明らかに失策を重ね、明らかな間違いをおかして住民に損害を与え、自治体の信用を失墜してなお自分は悪くないと開き直れる前市長様の根性が、素晴らしくて羨ましく思えるけれど、そんな人間が反省もしないで大手振ってお天道様の下を闊歩しては、周囲から持ち上げられ周囲も持ち上げようとしているところにこの国の劣化具合が透けて見えるようで嫌になる。九州にある図書館で大量の中古本が購入され、その大半が意味不明な実用書だの自己啓発書だったりして、何やっているんだと批判を浴びた件について、当事者でもあった前市長様が弁解にもならない繰り言を発している。

 て、これを読んで納得できる人が世間にどれだけいるんだと訝るものの、書いている本人は信じているんだと思うと、よけにさっさとどうにかしないと大変なことになると言いたくなる。下々に任せっきりで自分は関知していなかったというなら、それを任せたのは誰なんだという話であって、議会なりが承認したからそっちの責任というのなら、提案したのは誰なんだという話になれば、やっぱり責任は最終的には首長が負うべきもの。それなのに、手続きに不備はなかったといってそっちに責任を押しつけようとする。こんな上司を仰いでいたら誰も戦えないよなあ、戦いたくもないか。

 例えば何かの裁判で死刑なりの判決が出たのだから、捜査の過程で冤罪があっても自分は知らないよって法務大臣が言って通じる世間でもないのに、それを堂々と言ってしまえる神経がまずは分からない。でもって図書館であるにも関わらず中古本を買った理由が、何よりもスピーディーに図書館を作る必要があり、そこで問題が起こっても立ち止まって予算とか承認している暇がなかったから、っていうから分からない。

 つまりは見てくれのために豪奢な本棚を並べた結果、発生した耐震費用を本の購入費から回したっていったてこと。聞いてきっと100万人が図書館で1番大事なのは何なんだってつっこみを入れただろう。図書館で何より必要なのは本。まっとうな本があって、それを供するために施設や仕組みが必要だから作るっていうのが順序なのに、まずは器を作ります、見てくれを整えます、そしたら費用が足りなくなりました、だから本を削ります、でもって中古で適当な本を買いますってこれ、「本末転倒」という言葉を地ででいく展開じゃないか。それこそ教科書に事例として載せて、1000年語り継いでいっても良い愚策失策を、そうとは認めず仕方が無かったことのように語れる神経の持ち主を、重要なポジションにつけたらきっと同じ事を繰り返すだろう。

 それをやってしまった事業体に、同じようなことを任せたら、それが正しいと言われたから、本は中古で良くって選書も適当で良いんだっ言われたから、なんて言って同じ事を繰り返すだろう。そんな無茶苦茶が前世紀の高度成長期ではなく、今まさに起こっているということが絶望的。いやきっと高度成長期であっても、図書館は本のためにある場所で、その本は新刊を揃えて本を作ってくれている人にも感謝しながら住民が必要とする本を集めて読ませ、誰もが喜び知性を高めるような場所にしていこうと努力を重ね、浸食を削ってでも本の費用に回しただろう。それが知性であり、教養であり、モラルであり日本人ならではの美意識って奴だから。

 今はそれが見てくれのため、そして早く完成させて喝采を浴びるんだというプライドのために本の購入費用が削られた。急がないと批判を浴びてプロジェクトが潰されるっていうなら、それこそプロジェクトに問題があったってことじゃないか。それを認めず見えない敵を勝手に想定して、潰されるよりましだろうと言って強行する。まるでどこかの国を仮想敵扱いして妙な法案を急ぐ総理大臣みたいだ。そうかそういう人材が大手を振って跋扈する時代ということなのか。それを認めたのも僕達有権者であって……。劣化は彼らだけじゃなく、僕らにも及んでいたんだなあ。共に逝こうか、彼岸へと。

 上がそれだから下もそうだと思われるのか、実際にやっぱりそうなのか。ゴージャスな見てくれとすかすかな中身が話題の図書館で知られる自治体を辞めて国を変え、そこでブロガーになりますと宣言し、ライターとして立派になりたいから仕事くださいと呼びかけている某氏。でもなあ、これが書きたいという思いから書くとか、書かなくちゃいけないから書くとか、そんな思いを続けていたら、書けるようになっていくのがだいたいであって、何でも良いから書かなくちゃという動機からはじまると、どこへ流れ着くか分からない。

 バイラルなりコピペなりまとめなりに走ってアクセス稼ぎに奔走した挙げ句に、パクリ指摘されてアジャパーとか、そうならないことを祈るんだけれど、すでにそんな雰囲気も見えているし。もちろん、書きたいものもないけど書けるというので、あれ書いてこれ書いてという仕事が重なってやがて大家へという道もあただろう。重松清さんなんてライターとして重宝されて、インタビューのまとめとか雑文とかをどんどんと書いているうちに作家にもなって直木賞を取って、それでも自分で書きたいものがないとライターも続けていた時代があった。そんなことが出来たのは、雑誌で文章を書く仕事がいっぱい求められていたからであって、今は雑誌が消滅している状況で、そうした雑文書きもだんだんと消滅しつつある。

 移住したという四国の某県みたいな地方ならなおさら。そこでライターになりたい、それで食べたいといっても可能なのか。何か書きたいものを書いていくしかないだろうけど、それがある風でもないからなあ。かといって気の利いたことを言ってエッセイストとして稼げるタイプでもなさそうだし。そもそもが自分を切り売りするようなタイプの言葉が求められるブロガーと書いて、言葉を媒介にして事象と読者を繋ぐライターになりたいとも言う。どっちなんだと。よく分からないけれど、まあ頑張れと言っておこう。届かないけだろうけど。届ける気もないけれど。


【9月11日】 劇場版の「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− DC」では端折られている部分もあってどうやって、タカオが映像だけでも復活を遂げてそしてイ401が迫るイ400とイ402を迎え撃って倒したのか、そこで霧のメンタルモデルたちに対してイオナが与える不思議な影響がどう働いたのか、ってところが今ひとつ分からなかったけれどもテレビの「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」第11話「姉妹」を見てそうかやっぱりイオナに近づいただけで影響を受けるんだなあと分かったというか、誰かを守り自分が犠牲になるなんて、霧の艦隊じゃああり得ないことだから。でもやってしまった。どういう現象なんだろう。それがどうしてイオナから起こるんだろう。作った誰かの意図が絡んでいるんだろうなあ。それはヤマトか。そのさらに上か。劇場版「Cadenza」で明かされるかに、今から興味津々。

 しかしいったいあれだけの戦術を、千早群像がどうやって学んだのかってところも興味があるかなあ、横須賀のドックでイ401を起動させてからたぶん2人で逃げ出して、学校時代の仲間を集めて戦闘に勝利していった過程はアニメじゃ描かれてないんで想像するしかないんだけれど、元々が優秀な学生だったとしても刻一刻と変化する戦場で1発食らえばおしまいのシビアな戦闘を、だいたい勝ち続けてきたんだから相当な戦術家。仲間の優秀さもあるしイオナのコントロールも万全だけれどやっぱり船は艦長が動かしてナンボのもの。そこであれだけの勝率を誇りなおかつ出会った霧のメンタルモデルをことごとく自分に惚れさせるんだからあるいはあの世界で最高のジゴロかもしれない。いや最高はその父親か。超戦艦にお父様とか呼ばせているんだから。そんなジゴロな親子の対決が間もなく。早く見たいなあ。

 明けてだんだんと分かってきた常総市の鬼怒川堤防決壊は近隣だけでなくってどんどんと下流域にも水が流れて8キロ先の常総市役所も1階が水没してしまったとか。地図で調べると底は昔の水海道あたりだから前に「荒川アンダーザブリッジ」のロケ現場を見に行った場所よりさらに下流。ということはあのあたりもやっぱり水に浸かってしまっているってことで、不思議な建物が並んである種の理想郷をそこに現出させていた空間も、すでに完全に存在が失われたってことになる、っていうか撮影が終わった後は一切の痕跡を残すことなく撤去されたって聞いたもんなあ、河川敷だからくい打ちとか出来ずすぐに撤収できるような建物にしたとか。残してロケ地としてテーマパークにするとか絶対に無理だった訳で、ちょっぴり寂しいけれどそれも浮き世を生きる荒川河川敷のパラダイスっぽいかも。記憶は映画としての映像ととして撮影した画像の中に。

 ソニックユースのアルバムジャケットをもじったTシャツをSEALD’sが作ったことに、ネットメディアがパクリだと難癖をつける記事を書いてアクセスを稼いだ、その話題にネットメディアがパクリじゃないぜ無教養めがと書いてアクセスを稼いでいく、そんな情報戦の連鎖の中で本当にちゃんと動いてデモしてTシャツも作って売っているのはSEALD’sだけなんだなあと思うと、いろいろと心が空しくなった。ネットで情報集めてまとめて並べて稼げるなんて素晴らしい時代な気もしないでもないけれどそれが決して素晴らしいものにはなっていない実情に、いろいろと心がやつれてきた。行きはしない。読みもしない。調べもしないで書いて稼げる世界の厄介さ。どうしたものか。どうしようもないのか。

 空気はあったんだなあと14年前の9月11日、つまりははアメリカ同時多発テロが起こった日の日記なんかを読み返しながら今のこの無様な日本へと至る道筋が見えていたんだってことを確認する。曰く「それよりかくも悲惨な結果を招き、宣戦布告をされたに等しい扱いを受けたアメリカが、いったいどんな報復に乗り出すのかが今は心配。イラクでもユーゴスラヴィアでも圧倒的に有為な立場で本国から遠く離れた場所で軍事的にも政治的にも圧力をかけるだけに留まって来たのが、これからは恐怖に脅えながらも本気で1つの勢力を潰しに行くとしたら、影響の及ぶ範囲はそれこそ世界レベルになる。中で日本も踏み絵を踏まされる可能性がある訳で、今のこのどこか全体に右側に触れつつある状況で、巻き起こる空気がいったいどんなものになり、それをメディアがどう膨らませるのか。他人事じゃなく見ていく必要がありそー。時代が動き始めたのかな」。

 言うまでも無くアメリカは直後にブッシュが大量破壊兵器なんてものをでっち上げてイラクに攻め入りフセイン政権を倒して以後、イラクは混乱が続いて結果、イスラム国なんてものを生みだしてさらに騒乱を拡大させている。火は近隣にも及んでシリアにリビアにチュニジアから東南アジアまで。広い範囲で秩序は乱れテロが相次ぎ大勢の人が苦しむ結果を招いた。もしもあそこで無茶をしなかったら。別の弾圧があったかもしれないけれど、混乱は狭い範囲に止まっていたかもしれない。正義をいうならそのどっちも悪いけれど、最善を求めるならばやはりアメリカは勇み足を極力抑えるべきだった。

 そして日本。後にくっつき散々っぱら暴れた挙げ句に今やお先棒を担いで露払いまで引き受けそうな国になってしまった。それを是認する空気はさらに濃さを増し、当時の右よりさらに右へと舵を切って戻れないまま紛争の中へと突っ込んでいこうとしている。14年後に世界はどうなりそこで日本は何をしているのか。考えたくもないけれど、想像するならアジアにおいて混乱の中、貧困さを増して東西が分断され、ロシアと中国の傘下に入っているかも。それは戦闘の結果ではなく経済の破綻の結果として。あり得る話。でも認めたくないんだろうなあ。だったらもっと今から仲を良くして共に世界経済においてプレゼンスを発揮できるような国になれば良いのに。プライドというか侮蔑的な尊大さが邪魔して頭を下げられず握手すら出来ないままそっくりかえって頭を打って沈没していく憐れな国。その時に僕はどこで何をしているだろう。日記は続けてないかなやっぱり。

 テレビを店けたら珍しく時代劇。池波正太郎さんの「剣客商売」で過去にもいろいろとドラマ化はされていたけど加藤剛さんのも藤田まことさんのも見ていなかったのがなぜか登場していた男装の女剣士が気になって、見ていたらその演技にぐいぐいと引き込まれていってしまった。いや別に抜群に巧いとか男装が似合っているとかじゃなくって、その憮然とした表情とつんけんとした台詞なんかの割には声が妙に可愛らしくって一所懸命に男っぽく見せかけようとした女の子といった感じで耳にギンギンと響いてきた。誰が演じているのはって顔を見て気がついた。杏さんだ。

 「ごちそうさん」ではいつもニコニコな大飯ぐらいだった人がこっちではりりしくあろうと背伸びする男装の女剣士。でもって内心に秘めた乙女心を斎藤工さん演じる剣客の青年に分かってもらえないいらだちなんかを声や表情や仕草に載せて見せてくれる。これは来る。グッと来る。録画しておけば良かったなあと思ったけど後の祭り。あとは再放送に期待しよう。北大路欣也さんのシリーズはこれで4作目か。過去のも掘ってみるかなあ。最高の役者たちが最良のセットやロケで最善の脚本に載って演じた芝居はやっぱり見ていて気持ちが良い。フジテレビももっとこういうのを作れば良いのに。お金も時間もかかるんだろうなあ。それを惜しむからどうなったか。考えればやっぱりしっかりお金と時間をかけて作ろう。それしか生き残る道はないと認めて。


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