縮刷版2015年9月上旬号


【9月10日】 安保法案の参院可決、もしくは自動的な成立を目標にして政治日程を組んだ関係で自民党の総裁選をやりたくないという意識があったのだとしたら、それは実質的な総理大臣を選ぶ自民党総裁選を壟断し、日本の進路を現役の総理大臣の大枠に委ねてしまって平気という専横の意識に他ならないし、総裁選で政策をぶつけ合うため、大勢の前に立つといろいろと突っ込まれて失言が出るかもしれない、あるいは何も身のある言葉が出てこないかもしれなといった懸念から、極力論争を避けようとして総裁選をないように仕向けたのなら、そのこ自体が総理大臣という多くを導く立場に立つ者として、不足が多いことを認めてしまっていることになる。そんな気がする。

 自民党がどうして野田聖子議員の総裁選出馬が不可能なように推薦者の数を減らし、推薦人にならないようにプレッシャーをかけたのか。それは分からない。そもそもそういう事実があったかも明らかにはされていない。ただ、あれだけの人数が居る自民党の議員の中に野田さんを除いて誰一人として、次の総理大臣を目指そう、そのためには自分の政策を公然の場で訴えようと思っていないということがどうにも怖い。そして寂しい。例え負けてもそこで自分という存在を広められれば、次に繋がるという意識すらないのか。それをやっては浮かばれないとでも思っているのか。いつまでも現在の総理が続ける訳ではない。そんな時になってやっと出てきて自分の政策を言うなら、どうして今言おうとしないのか。つまらない政党になったし、任せていい政党ではなくなった。でも任さざるを得ないこの現実。誰が悪いって、そりゃあ選んだ僕達が悪いんだけれど。どうしたものかなあ。

 クレマンティーヌ戦を終えて章が変わったようで、「オーバーロード」はナザリックに戻ったアインズに代わってシャルティアが外に出てセバスチャンやソルションらと強い者探しをしていたけれども、セバスチャンと別れたシャルティアが何やら敵と遭遇しては妖怪人間じみた姿を見せて突っ走った挙げ句にフラッシュを浴びて立ち往生。何が起こったか分からないけどこの後どうやらアインズ相手の一大バトルが繰り広げられることになるみたい。単独では最強というシャルティア相手に勝てるのか。勝つからこそのアインズなんだろうなあ。そんな展開を圧倒的な作画とアクションで見られるところがこのアニメの凄いところ。美少女が変幻するその顔も怖いしなあ。外国でも受けそうだけれど果たして。

 やあ折笠愛さんだ。でも1話で退場となってしまった「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」は笑い男事件に絡んで電脳硬化症のワクチン普及を阻止した男が暗殺されて支持した役人も意識を失ったりして事件はどんどんと泥沼へ。そして公安九課の荒巻課長が狙われ草薙素子も狙われ絶体絶命になっていたところを素子は笑い男に助けられてどうにか一命を取り留める。バトーが急行していた荒巻課長は別にして、素子は本当にヤバかったんだけれどそこで安易に敵の潜入を許してしまったのは意識が緩んでいたからか。脚本上の抜けか。まあ良いそれで折笠さんの淫靡でエロい声が聞けた訳だから。眼鏡で巨乳。良いなあ。また見たいけどこれで退場。仕方が無いから録画を見返してその声を聞きその姿態を眺めよう。

 そして読み終えた筒井康隆さんの「モナドの領域」はGODが裁判の法廷に立って繰り広げる問答、そして執行猶予を受けて外に出てテレビ局で質問者を集めて繰り広げられた問答から作家としての筒井康隆さんの溜めに溜めた知性ってものが開陳され、そして世界に対する見方も示されてその冷めてシニカルで、でもけっして虚無的ではなく人間は自分で自分たちのことを考えようぜっていったヒューマニズムめいたものも感じられて読み終えて気分がすっきりした。投げっぱなしではなく、超越的な知性にすがるのでもない人間としての生き様。それをGODによる未来視と、そこにたどり着くために人がすべきことへの施策から教えてくれるというか。こんな話を書けるのは筒地康隆さんしかいないよなあ、今や。芥川賞級の傑作だけれど、さすがにこれが芥川賞にノミネートされるってこと、ないよね。

 そして気がつくと鬼怒川の堤防が決壊していて常総市が大規模に水没していた。茨城の鬼怒川っていうと前に実写版「荒川アンダーザブリッジ」のロケセットがある水海道まで行って河川敷に並んだセットを眺めたり、演技する出演者を見たりして楽しんだけれども決壊したのはもうちょっと上流の岩下町だったあたりとはいえ、その水量から想像するにロケセットのあった地域も水に沈んでいそう。でもあのあたりはまだ人家もなく畑ばかりだったのに対して、今回はすぐに人家が並んだ場所での決壊で、濁流に家々が取り巻かれてながされる家も出て、逃げ出せずベランダとか屋根に非難している人も報道のカメラに映し出される。駆けつけた自衛隊ヘリによって救出されてはいくんだけれど、最初に救出された家がその後間をおかずに流されてしまったのを見るにつけ、時間は大切だしそれ以上に早めに非難しておく大切さってのを改めて感じる。幸いにして住居の側に川はないから水没はしないだろうけれど、いつ何時そういう状況に陥らないとも限らない。教訓としつつ今も助けを求めている人たちがいるなら、頑張れと告げ早く助けてあげてとお願いしよう。

ハシビロコウでも良いお父さんなのか。それともハシビロコウだからこそ良いお父さんなのか。水島ライカさんによる「ハシビロ家族」(新潮社)という漫画はお母さんがいてお姉さんがいて妹がいるという家庭のお父さんがハシビロコウ、鳥の、動かないと言われる、絶滅危惧種な、顔の怖い。だからどうしてという理由もなしに、ハシビロコウがお父さんだという一家を描いたストーリーは、そんなお父さんの動かないし強面だし、口数も多くはないけれどもしっかりと家庭に居場所を得て、娘を思い家族を思って生きている姿が浮かび上がって家族って良いなあと思わせ、そしてお父さんってこうあるべきだなあ、こうありたいなあ、こうあって欲しいなあというさまざまな思いを受け止めてくれる。

 これが普通に無口で木訥で強面の人間だったら、きっと違う印象になっただろうし違う漫画になっただろう。人間なら働きに出るかしなければ家でごろごろしていて役立たずと思われるけど、ハシビロコウのお父さんにはそうした理由は必要ない。家にいて1日動かないで立っている。じゃあお母さんが働いているといったことはなし。お父さんはハシビロコウ。それだけ。でもだからこそハシビロコウならではの存在感が家にまとまりを与える。不思議さの中に必然性が浮かび上がる。周りの人たちもまた良くて、純真なももかちゃんに美人だけれど口調は乱暴だけれど家族も父親も大好きな姉、美しくて優しいお母さんに美人だけれどちょっと抜けてる先生、あと友人とか近所の人たちとか、そんな人たちが織りなすハートフルでウォーミーな物語が読んで心をほっこりとさせてくれる。不思議な中に癒やしがあり、そして驚きの中に当たり前がある。企画した人も凄いけど、それを描いた作者も偉い。凄い漫画だなあ。誰かこの構造の凄さを分析してくれないかなあ。


【9月9日】 見ていないから経過については何も言えないけれど、結果はアフガニスタン相手に6対0だから順当に力を発揮したといえそうなサッカー日本代表のワールドカップ2018ロシア大会に向けたアジア2次予選。そもそもがシンガポールに引き分けたのがフロックで、今くらいの力を発揮できれば同じくらいの点差をつけられたんじゃないかと思うけれども、選手層もやや違っているところを考えるならやっぱり初期には間違いもあって、ああいった結果になっていたのかも。それが修正されての今。あるいはシーズンも始まって選手のコンディションが上がってきていることもあるのかな。続く試合を乗り越え最終予選に勝ち抜くこと。そこまでどんな強化があって変化があるか。見守ろう。ガンバ大阪の米倉恒貴選手、いつ出てくるかなあ。

 遊んでないからその価値はまるで分からないのだけれど、近所のコンビニエンスストアでベビースターラーメンの「刀剣乱舞−ONLINE−」版が売っているので3つばかり買ってみて、おまけのシールを開いたら2枚が薬研藤四郎とう刀剣男士で、半ズボン姿のその佇まいにショタかショタなのかとか思ったけれど、そういう理解で良いんだろうかどうなんだろうか。短パンなのは短刀だからなのかといった判断もありそうだけれど、それにしても愛らしい。きっとそこにはまってしまうんだろうな、審神者と呼ばれるプレーヤーの女性たちは。

 ちなみにもう1枚は和泉守兼定でいわゆる「之定」のひとふりは、ネットの解説によれば11代目とか12代目といった後代が打った江戸末期の一振りで、かの土方歳三が愛刀として使ったものらしい。その割には箱館戦争で紛失はせず今も現存しているのは分からないけれど、そんないわれを受けてか刀剣男士としての和泉守兼定はダンダラ羽織をまとっている。強そうだけれどゲーム的にはどうなのか。知るには遊ぶのが手っ取り早いんだけれど「艦隊これくしょん−艦これ−」ですら1カ月、手を付けない時もあるからなあ。まあいずれ。帰りにまた3袋ばかり買ってみよう。有名な三日月宗近とか出るかなあ。

 文芸誌の「新潮」2015年10月号があちらこちらで売り切れだそうで、いったい何事があったかといえば表紙を見れば一目瞭然、筒井康隆さんの330枚もある長編が一挙掲載されている。題して「モナドの領域」を「最高傑作にして、おそらくは最後の長編」と煽って載せてあって、これを見たらツツイストならずとも買わずにはいられないってのが心理だろう。いや「最高傑作」はほかにもあるだろうし「48億の妄想」に勝る長編なんてそうはないとも思ってる。でもって「最後の長編」であって欲しくはないという気持ちもある。そりゃそうだよファンなんだから。

 けれども読み終えればもしかしたら「最高傑作」になるかもしれれず、そして年齢も考えれば「最後の長編」になりかねない。そんな意識も働いて、誰もが手に取らざるを得ないのだった。そういうものだ。さて肝心の小説はというとまだ最初の方を読んだだけで詳細は不明。美男子と呼ばれるからにはきっと年よりも若作りの警部が登場して、ばらばら死体の腕とか脚とかが見つかった事件を追う一方でパン屋に働きに来ていた美大生が、そうやって見つかった腕によくにたバゲットを焼き上げメディアに取り上げられて大評判になったものの、最後に脚を作ってパン屋を辞めてしまって行方は何処。

 そしてパンのことを取り上げた美大の教授に神様がとりつき、予言めいたことをしては警察に捕まり裁判にかけられるという辺りで最初に感じた異様な死体の謎を探るミステリ的展開は薄れ、手だの足だのといったパーツをめぐる美の本質だか未来を知りたがる人間のエゴだかが描かれた観念的な小説になって来ている。この先もそうかは不明だけれどとにかく読ませる、引きつける。そこは流石に筒井康隆、神の文芸。ちょっと遠ざかっていたけど近年出たのを読んでみないといけないかもなあ。もしかしたらそこに本当の「最高傑作」があるかもしれないし。「聖痕」も掘れたし読んでみるか。

 台風が知多半島に上陸したそうで、ちょっと前に三重に上陸かもといっていたのが外れて渥美半島にぶち当たりそうだったのが、どうえり好みをしたのか縦に長い知多半島へと突っ込んでいくとは台風、もしかしたら先端が大好きなのかもしれない。そして名古屋あたりを抜けてすでに岡崎とかには晴れ間がのぞいているんだけれど、その行く先にある冷たい高気圧だか寒気だかに遮られ、前に進めない台風へと吹き込む風の影響からか関東地方を縦に走った雨雲が出来ているようで都心部ではずっと雨が降り続いている。これが西の方へといくと雨も降らずに晴れ間がのぞいて虹さえ出ているとか。狭い範囲でこれだけ違う気象ってのも珍しいけれど、そうなることを朝に予告していた気象予報士の人もやっぱりちゃんと気象予報士だなあと実感する。こういう天気の時こそ下北沢のトリウッドで上映中の「台風のノルダ」を見に行きたいんだけれど、行けば帰ってこられなくなって「台風のノルダ」みたいな状況になるから迷いどころ。もう1個台風が来ているんでそっちに合わせて見に行くか。

 間が抜けているというか何というか。例のマイナンバー導入に絡めて財務省あたりがすべての消費を把握し管理した上で減税分を還付すするようなシステムを構築するとか言い出している。マイナンバーを店頭で見せていちいち買うときに登録しておかないと後で戻ってこないといった手続き面の面倒さもポン酢なこと極まりないけど、それを可能にするために3000億円とかって費用をかけてシステムを構築しようとしているのも、何かと出費を抑えたがる財務省には真逆のスタンス。自分たちがやりたいことには金を出すのかって他の省庁なんかからも文句が出そう。あとこうやってシステムを作りすべてのデータを集めれば、漏れてしまうという可能性への懸念も浮かぶ。それを防ぐ手立てもないのにやろうとしている官僚の暴走を、止めるのが政治なんだけれど一蓮托生だからなあ、今の政治は。

 しかしあらゆる消費がマイナンバーによって把握され、税金まで持って行かれるとなると起こるのはそうした取引にひっかからない仮想通貨を使った取引の台頭で、それは藤井太洋さんの「アンダーグラウンド・マーケット」に描かれた世界がそのまま到来するってこと。もちろん脱税を是とするわけではないけれど、すべてをさらしてそれも不安定なシステムにおかれて平気でいられるほど人間は善人じゃない。だったらそうした管理に把握されない仮想通貨にすべてを預けて支払いから受け取りまでを済ませるようにすれば、税金もかかわらず費用も負担せずにお金を使っていける。問題はその構造の難しさとネゴシエートの大変さ。来たるべき時代のために今から勉強しておくのが良いのかなあ。あとはコミュニケーションの訓練も。口べたでIT無知が生きていける世の中じゃないんだこれからは。


【9月8日】 テレビで再放送されている「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」を見ていると途中に間もなく公開の映画「劇場版 蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− Cadenza」のCMが流れてそこで甲板を歩くムサシの姿が映し出されるんだけれどもそれがもう可愛くて、止めてゆっくりと動かして小さいけれども丸みのあるお尻とか、伏せた目とかを見ていったい映画でどれだけ動いてくれるんだ、どれだけ喋ってくれるんだといった期待が膨らんで膨らんで仕方がない。くぎみゅーが「うるさいうるさいうるさい」とか叫ばず静かに喋っているのも珍しくって興味深いし。

 そして秋葉原の角に立っているアドアーズだかの細長いビルの壁面にも、そんな映画の広告が出て巨大なムサシが真正面からとらえた姿で立っているのを見てきたんだけれど、ここでひとつ、思ったのはいったいムサシはどういうカテゴリーの服を着ているのか、ってこと。下着じゃないけどレースのフリルが裾から見えているからショートパンツとも言えないし、襟付きでネクタイが下がっていてシャツと言えそうだけれどパジャマにも見えるその上下。いったい何だろう。解説してくれるだろうか。そもそもどうしてそんな服なんだ。千早翔像の趣味か。明らかにされるだろう映画が楽しみ。されるのか?

 せっかくだからとちゃんと動いて喋っているムサシをさらに確認しようと、引っ張り出した「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ− DC」のブルーレイをプレイステーション3で再生したら、音声が前に再生した時に選んでいたオーディオコメンタリーになっていて、それも途中からスタートしてちょうどテレビの再放送がたどり着いていた、タカオの自分を賭してのイオナ再生、そして再浮上するイ401の場面が流れ出したけど、そこでテレビだと静だかいおりが「きれい」という台詞が、映画では削られているって話をしていた。

 なるほど2週目となる映画であえて「きれい」と言わせると見て分かることがしつこくなるといった意味から削ったんだと分かった。初めて見る人にとっても言わずもがなの映像。そういったあたり、両にらみでいかなくちゃいけない再編集による劇場版の難しさってものを感じ取る。でもテレビでは放送されていなかった新パートではもやりたい放題で、新しく登場したヒエイが概念伝達を行う生徒会室でひとり待ってる場面、奥で眼鏡だけが光っている描写をよくある手だけれどそれだからこそ使って意味がある絵なんだ的なことを岸誠二監督とかが話しているのを聞いてなるほど、典型にも意味があるんだと理解する。

 あとM.A.Oさんが演じるヒエイがイオナによて感化されないかどうかっていう心配なんかもイオナ役の渕上舞さんを絡めたトークから語られていて、誘い込もうとする渕上さんに逆らうM.A.Oさんがけなげだった。ある意味でとても感情豊かなヒエイはすぐに感化されそうだけれど、その感情を風紀委員としての責任に押し込め守ろうとしているから結構固いかも。まあこれも映画の方でいろいろと描かれていくんだろう。他の4人も含めて。どんな映画になるのかなあ。公開まであと少し。アニメイトとゲーマーズで売るムサシが描かれたタペストリーがついた前売り券、買うかなあ。

 なんか今日までだと聞いて「蒼樹うめ展」の予習になりそうな資料を買い出しに行く途中に、西武池袋店に寄って「心が叫びたがってるんだ×あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 世界展」をちらりと見物。「あの花」エリアには原画とかがいっぱいあってめんまが歩きあなるが動くような場面を感じ取ることができた。あとめんまのフィギュアの可愛らしさとか。イラストも添えられていてそれが最初でフィギュアはそれまんまに再現されたのか、フィギュアがあってイラストが描かれたのか分からないけど、どちらも良い出来。あの愛らしさを見たら敦之だって告白したくなるよなあ。くい込み具合とか。何がとかは聞かない。

 でもって「ここさけ」のコーナーには、これから公開される映画の原画とかが並んでいて予告編なんかで見るシーンが絵ではどう描かれているかが分かったけれど、少し気になったのは、キャラクターとして登場する人たちの設定画の頭身が、どれもちょっと小さいこと。頭が大きいというか手足が短いというか胴体が太いというか。それがリアルな高校生くらいの姿だって言えるのかもしれないけれど、テレビでは小さい画面に大きく映えたのが、劇場だとどんな風に見えるのかがちょっと気になった。あとストーリーとしてとてもとても良さそうなんだけれど、映画としてどこまで興業を保てるのかという点も。何作もかけて細田守監督をスターに押し上げた日本テレビと東宝のような展開が、まだあんまり出来ていないように感じるんだよなあ。もったいないけどそれがフジテレビのアニメに対するスタンスならそれも運命、仕方ないと諦めつつ応援できる範囲で応援しよう。誰がのり気じゃないんだろう。

 another sideがありそうな感じの耳目口司さんによる「愚者のジャンクション−side friendship−」(スニーカー文庫)は「飼育部」なる部活に所属して名探偵を気取る十文字という少年の前に起こるエーミールを名乗る敵からの予告のラクガキ。「悪党」をターゲットとしたその予告を誰が書いたのかを調べていた先で、同じ「飼育部」に所属する少女が中庭で殺害されて十文字や佐藤という口はきけないけれどもLINEのようなLINKというメッセンジャーなら饒舌になる少女、そして「飼育部」を作った部長らしき上級生の少女なんかも含めて犯人捜しが始まる。

 特進生なる特別な6人の生徒もいたりする学園で、あまりに独特過ぎる天才達も加えつつ対立もしながら進められていく捜査の先で十文字が得た真実、そして陥った苦境。もう誰が本当に犯人なのか分からないまま繰り広げられていった展開が、別のサイドから描かれるストーリーで解明されるかが今は興味の持ちどころか。同じ学園にいる普通科の生徒たちとは違った特進生の存在が、「めだかボックス」の箱庭学園のスペシャルとかアブノーマルなんかをちょっと思い浮かばせた。でもあそこまで人間離れはしてないか。いったい誰が何を目的にして事件を起こして十文字をはめたのか。冒頭で十文字が襲った相手と襲われた相手は誰なのか、等々を考えつつ読み返しつつ次を待とう。これといい「されど僕らの幕は開ける。」といいスニーカー文庫。萌えとかラブコメとかとは違ったユニークな作品が増えて来た。こちらも展開が楽しみ。

 四国にある高校が自衛官になるためのコースを作りたいとか言ったそうで早速のつっこみが方々から。すでに高校の代わりになる陸上自衛隊少年工科学校が変じての陸上自衛隊高等工科学校ってのが横須賀は武山駐屯地にあって、そこを出た人なら間違わなければ下士官になっていけるようなコースが出来上がっている。普通の高校が自衛官向きのコースを作ったところで、そうした自衛隊内部の制度とはまるで離れたものになるだろうから昇進のコースに入れてもらえず、入り口はきっと他の高卒で自衛隊に入る人たちと同様。そして同じように昇任の機会をうかがうも上がれず、数年を経ずして辞めていくしかなくなる。そんな不安定なコースにいったい生徒が集まるのか。未来において何か確約されているのなら分かるけど、自衛官を講師に呼ぶとかそんな程度で何が期待できるとも思えない。右に傾いた世界でこれが受けると思っているなら学校もポン酢なことこの上ないけど、これを政治家あたりが讃えるようだといよいよこの国も、知性が後退して勇ましいかけ声だけが跋扈した挙げ句、倒れていくことになりそう。やれやれ。


【9月7日】 欧州を騒がしている移民の問題について考えていて、それが日本で起こった場合に何が起こるんだろうかと思考を巡らせ、やっぱり起こるのは先住している日本人たちとの軋轢だろうなあと思い至って、そういえば日本でもブラジルから出稼ぎに来た人たちと、前から住んでいる人たちの軋轢が問題になった愛知県は豊田市の保見団地があったなあと思いだし、今いったいどうなっているかを調べていて、ヒットした藤野眞功さんによる「裕福な国で生き延びるための5つの方法 −落下と着地」というルポルタージュが、移民たちの状況というよりはむしろ、円が大金になる“故国”を持たない日本の若者達が永劫において抱える鬱屈した気分を浮かび上がらせ、それがこの国を漆黒の闇へと陥らせかねない不安を感じさせた。

 保見団地については初期、ブラジルからトヨタ自動車やその関連会社の工場なんかに出稼ぎに来たブラジルの日系人たちと、古くから団地に住んでいる人たちのと間にどうしてもあった文化の違いが問題になって、いろいろと取りざたされたことがあった。ゴーストタウンとか、言葉は最悪だけれどゲットーとかそんな言われ方をされた時期もあったけれど、長い時間が経つに連れてそこで暮らす人たちの間で対話が行われるようになり、話さなければ分からないという前からの住民の活動、溶け込むならば自分たちもそうなろうとするブラジル出身の人たちの努力もあって融和は図られ、それでいてしっかりとブラジルのカラーも残した街になって来ているという、そんな記事を読んだ記憶もある。

 そしてこのルポルタージュは、話しかけても無視するし初対面では壁がある日本人の性向も理解しつつ、この日本で暮らしているブラジルからの出稼ぎ者やその子供たちの生態、そういう開けっぴろげなブラジル系の人たちに好意を抱く日本人たちの心情を描いて、わかり合えれば融和は進むんだとう可能性を感じさせてくれた。だからむしろ厄介なのは、移民というだけで会いもしないで嫌悪を抱き、過去にあった軋轢だけを覚えて増幅して語って今を現実とは違った姿で映し出し、分断を図ろうとする勢力がいることで、そうではないってことを情報によって発信し、時間と対話があれば人は融和できるという可能性を示すことが大事なんだけれど、メディアはよりセンセーショナルで悲劇的な文脈を追いたがるから困りもの。ガンから回復して寛解したアイドルのルポルタージュ番組が寛解したからなくなったとかいった具合に。こっちの方が病気に苦しむ人によほど希望を与えるのに、死の悲劇なんかよりも。

 そんな風に煽り立てて分断しようとする空気が一方にあって、そして現実の世界でままならず円が何倍もの価値になる“故国”を持たずにこの国で、生き続けなければならない日本生まれの日本育ちで日本で死んでいくだろう若者達が抱える鬱屈が招く、他者への理由のない恐れと怒りとやっかみが、これから本格化するだろう移民という存在へのヘイトを呼んでこの国を喧噪と不安に陥らせかねないかと心配でならない。敵意を向けられた相手は親愛を逆転させて怒りを暴走させ、そして起こるさらなる軋轢。負の連鎖。それだけは避けたいのだけれど…。だからこそ保見団地の事例はもっと読まれるべきでしら得るべき。このルポルタージュを含めいろいろと読んでいきたいなあ。何かあるかな他に。しかし保見団地、車で近所は通ったけれど入ったことはないのだった。どんなとこだろう。サンバでシェラスコでロナウジーニョなのかな。

 しかしシリアから逃げ出しながらもボートが沈んで、海に投げ出されて亡くなった少年の痛ましい画像に映像が世に出回ったとたんに、世論が一気に移民の受け入れへと向かった欧州のその態度を、それでも前向きなことは良いことだと思いたい一方で、根本となるシリアの内戦をどうするかといったところに話が及ばず、これからも悲劇が生まれかねない状況を結果として認容しているのは、やっぱり態度として昔ながらの二枚舌だよなあとも感じて、国家というものの面倒くささを改めて感じたり。ただやっぱり動こうという態度は立派で、日本でもそうなれば良いんだけれども前述のように移民に対する意識がどうにも排外的で、可愛そうだけれど受け入れるかは別といった切り分けの中で時間ばかりが過ぎていきそう。とはいえ数年で終わる話でもなし。隣国の崩壊から来る大量の難民も視野に入っているだけに、いずれ何らかの対応を迫られるだろう。その時にどうなるか。今から気がかり。

 そうした世界で起こる悲劇を世に喧伝しようとする動きの中にも、どこか扇情的なものが出始めていてそれで引く人も出かねないと心配。なるほどナパーム弾で大火傷をしたベトナムの少女の写真があり、アフリカでハゲワシに狙われているような少女の写真があって、どちらも戦場や紛争がもたらした少年少女の悲劇を切り取って世界を動かした。ただベトナムの少女は今も存命であることが分かっているし、ハゲワシの少女は同一画面に収まってある文脈を醸し出しただけで、その場で少女が食われた訳も息絶えた訳でもない。そういう画像は今見てもその存命を信じることができるのに対して、海岸に流れ着いた少年は明白な遺体であって、その生を絶対に信じることができない。けれども今、それらを横並びにして悲劇として語ろうとする動きが出始めている。

 子供が犠牲になる悲しみを、センセーショナルな画像を連ねて表現し、悲しみを止めようとする行動や思考には賛成したい部分もない訳ではないけれど、今、すぐそこで起こったばかりの明白な死をつきつけられると、浮かぶ戸惑いの方が大きかったりする。何よりカナダに暮らしているという少年のおばさんなりという人が、遺体の画像を使うことよりもかつて生きていた少年の画像を見せることで、その断たれた生への思いをはせ、失われた生への慈しみを覚えて欲しいと言っているのだから、直接的な表現から瞬間の憤りを覚えさせるのではなくて、間接的な表現の中から広く大きな想像を醸し出せるような報じ方、運動の仕方を採用して欲しいんだけれど、でもやっぱり扇情に走るんだろうなあ、その方が“稼げる”し。厄介な時代に生きている。

 SFな偉い人が気付き始めたからには、作品として取り上げれ、語られるようになってたとえ打ち切られても続きをどこかで出してもらえる可能性も浮かんでは来たけれど、でもやっぱりライトノベルというレーベルの枠組みで、それらしさを維持しつつもスタイリッシュな展開と入り組んだ設定を読ませては、ライトノベルというものの凄さを世間に知らしめていって欲しいものだと思って止まないオキシタケヒコさん「筺底のエルピス2 −夏の終わり−」(ガガガ文庫)。門部と呼ばれる鬼と戦う勢力でも日本に拠点を置くグループが、前作で戦ったバチカンとは違った勢力によって責め立てられて崩壊の瀬戸際まで追い詰められるというか、ほとんど崩壊させられてしまったというか。

 同じ鬼を狩るために送り込まれた宇宙人たち3人が、同じ目的でそれぞに3つの勢力を作りながらもどうしていがみ合うのか、ってところはつまり見解の相違って奴で、人類を生き延びさせるには人類の中に鬼をあまり発生させなければいいわけで、それには人類がもっと少なくなれば良いという短絡というか最短の解に従い動く勢力の思惑では、人類に危害を加えず鬼も極力祓っていこうとする日本の門部はどうにもまだるっこい存在に見えてしまうんだろう。だから滅ぼす。そして白鬼につかれた少女を奪って発動させると。それに挑もうとした門部が、圧倒的に不利な戦力を工夫によって整え対抗していくところが読みどころ。門部では最強でも苦手な相手がいる最高戦力が、これも工夫をそれから自らの命もかけて挑み倒すとか、格好いいことこの上ない。ただそれも今回まで、戦力を削られ相手は最強という不等号な戦いをどう切り抜けるのか。そこが次巻の読みどころだけれど、出るかなあ、ライトノベルのレーベルで。そこが問題、最大の。


【9月6日】 江戸川区で2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて今は3番まである区の歌の4番を作ってそれをオリンピックとかパラリンピックとないちなんだものにしたいと言っていたのを聞いて早速作ってみる。韻を踏みつつとりあえず浮かんだのが江戸川区のとりわけ葛西あたりのワールドワイドな雰囲気を取り入れたこんな歌詞。「かつてインドの 山奥で 修行に励み スパイスに 込めた思いを 鍋で煮る 印度の都市よ わがさとよ ああ 江戸川は難民の 顔にわらいが でるところ.」。いやもう実にワールドワイド、って南アジアしか出てこないけどそこはそれ、ひとつの地域を受け入れている開放性は世界に広がる可能性も秘めているってことを訴えて、もっと江戸川区に人を呼び込もうっていうアピールになる。なるのかな。

 あるいはこんな歌詞。「まわるマグロの 死に絶えて からすいそうの 虚ろさに さかなくんさん いきどおる 末世の都市よ わがさとよ ああ 江戸川はお隣の ねずみの国を 嫉むところ」。うーん、ちょっと字余りか。でも江戸川区でもとくに良くニュースになる上にカヌー競技だかの会場にも近い臨海水族園を紹介しつつ、川を挟んですぐそばにある世界的なネズミの帝国にも触れてここはこんなにメジャーな地なんだってことを世界にアピールできるんじゃなかろうか。いやアピールしてないか。うーん。ともあえれしかしこんな感じにいろいろと、便乗めいた企画も出てくるんだろうなあ。でも「オリンピック」だの「パラリンピック」だの「五輪」だのって歌詞に盛り込めるのかどうなのか。商標だとかいって便乗するなと蹴られそう。

 そこが昔に較べて面倒なイベントになり、ああやって利権に群がる人を大勢出してはちょっとした過ちもそうした利権を手放すことになりかねない、あるいは責任を問われて利権から放逐されかねないって不安を呼んで最後まで原案にしがみつき、挙げ句に一線を越えてしまってチャラになっても、なお誰も責任を認めようとしないみっともない状況を生んでしまうんだろうなあ。でもってそこに集まる人たちの至らないところも満天下に見せてしまって、この国にあったはずの潔さとか気持ちよさが失われていることも見せてしまうという。同じ物でも撮らない限り無理な同じ形の眼鏡が同じ角度から撮られた画像を使ってなお自分で撮ったと言い張るように。そりゃ無理でしょう。でも引かない。引けないのかなあ。そういう人が処断されない世界に生まれて育っていったい、どんな人が生まれるか。未来を削っているんだと知ろう。

 せっかくだからもう1回くらい見ておこうかと上野の森美術館で開催中の「メカニックデザイナー 大河原邦男展」へ。午前の10時半くらいで最初のタツノコ関連のコーナーから「太陽の牙ダグラム」のあたりまで人がびっしり。元より通路も狭いってことおあるけれど、ちょっとした見どころが固まっている上に時代的に入り口から近いところになるんで、オープンと同時に入った人たちがそこをじっくりと見ているうちに、人が詰まってしまうといった感じ。おかげでこちらはスルー気味に通り過ぎて。「科学忍者隊ガッチャマン」のオープニングだかエンディングで白鳥のジュンが蹴り上げているシーンを見られなかった。白いのが見えるんだ白いのが。ただ「装甲騎兵ボトムズ」を過ぎたあたりから人波も薄れて、2階に上がったところにある「勇者」シリーズとか「機動戦士Vガンダム」「新機動戦機ガンダムWING」「機動戦士ガンダムSEED」あたりは空いてて、例の「F91」のデザインに添えられた多分安彦良和さんの注文もじっくりと読むことが出来た。

 描いては絵描きの立場から描きやすさも考えてと言いそれで直ってきたものにもちょっと違うと注文を付け、そうしたやりとりによって作り上げられていくアニメーションのロボットのデザイン。それはだから誰の成果ってんじゃない集団作業のたまもので、それを分かっているから大河原さんも自分が自分がと前には出ずに謙虚に日々の仕事をこなしていけるんだろう。偉くなってしまって祭りあげられそのままはしごを外されちゃあ、意味ないから。そんな大河原さんが絵を描くメイキング映像も今日はじっくり。紙に描いた絵の裏に鉛筆でカーボン紙のように塗りつぶし、面をなぞって厚紙に転写してからその上に色を塗っていく。黄色い目とか赤い部分とかを先に起き周囲を固めていく手法、グラデーションもまずはしっかりブロック分けして色を変えて塗りだんだとぼかす手法なんかが見られた。そうか絵って描くんだ。輪郭描いて塗りつぶすんじゃないんだ。そういうのを教えてくれる人いない中、みんなどうやって学んでいったんだろう。もっと長い映像が見たくなったよ。

 図録とかグッズを抱えてレジに運ぶ物販の賑わいも見つつガチャを回してダイターン3のバッジとかレイズナーのドッグタグとかを確保してから東京藝術大学で開かれている「藝祭」でのアニメーション専攻な人の上映会を見物、といっても2015年春の修了展は見ているのでそっちのプログラムはとりあえずおいて、修士1年生の人の過去作品集という奴をみたらこれがとても凄かった。修士だから当然に大学の課程は終えているからそこでそれなりな技術も磨いて作品も作っては来ただろう。でも藝大院の卒業制作のレベルはそれから何歩も進んでほとんど映画祭級。そことの差はやっぱりあるのが普通なのに、まるでもうプロとして映画祭に作品を出して負けない人がいた。それも何人も。

 たぶん筆頭が宮嶋龍太郎さんという人で、バリ島出身とかいうプロフィルも変わっているけど作品についてもずっと作っていろいろな所で話題になっていそうな人。その人が藝大の院に入って作っている。いったいどれだけのものが見られるんだろう。今回の上映は2015年制作だからどうやら東京藝大の美術学部の卒業制作として作ったらしい「小屋」という作品で、描きの日本的な絵本風で割と可愛らしいけれども背景は過酷な自然の中で生きるあれは猟師か誰かの日々を描きつつ、子育てをする鳥との交流も絡めてひとつの物語に仕立て上げている。その筋がまず良い。たぶん助けた雛を母親が美女になって迎えに来て、そんな鳥の巣が嵐でも大丈夫かと心配して、飛び立っていくのを見守るようなストーリー。それらを描く絵のひとつひとつが確かな上に動きも工夫されていて、じっくりと見入ってしまった。ひとりで作った「かぐや姫の物語」。そんな凄さも感じた。

 これがどういう評価を受けたのか、ちょっと分からないけどすでに学部でこれだけのものを作れるなら、きっと修士でとてつもないものを作ってくれると信じたい。今年は修士1年次、そして来年は修士修了の作品を見られるかな。来春の修了展が今から楽しみ。そしてもうひとり、矢野ほなみさんという人が作った「かさぶた」という作品も、ストーリー性があってそれを支える独特な絵があってじっくりと見入ってしまった。人と交われないけれども人に優しくしたい存在が、それを疎んじられて世界を去ってもなお人を見ていたい、人を助けたいと頑張る話。結果、その思いが多くに共有されていく。あるいは他人を誰でも疎んじた経験があるだろうけれど、振り返ってその行いを省みて、多くに喜びを与えることで挽回していこう、なんて思わせてくれる。この人も京都精華大を出て「有頂天」のPVなんかを手がけたりして世に活躍のきっかけを得ている人。多士済々の藝大で学んだ果てにどんな作品が出てくるか。期待したい。


【9月5日】 サンリオの人が何人もそろって言うんだから、本当に僅差だったんだろう、先の「サンリオキャラクター大賞2015」でのポムポムプリンの1位に続く2位の確保は、「SHOW BY ROCK!!」に登場するイケメンキャラたちによるユニット「シンガンクリムゾンズ」が持っている人気のすさまじさって奴を、改めて感じさせてくれた格好だけれど、その人気がアニメ終了後も続くのか、それともゲームとともにじりじりと人気を広げていくのか、ちょっと迷っていたところに燃料投入。何と「SHOW BY ROCK!!」がミュージカル化されることになって、その主役が「シンガンクリムゾンズ」になるらしい。

 主人公というかヒロインは別にいるのにどうして? って思われるだろうけれども2・5次元ミュージカルで受けるのは、女性キャラより男性キャラって感じなんでこれは当然。あとは誰がどの役を演じるか、ってところでチケットの争奪戦もいっそう凄まじくなるだろう。ちょっと前に出た会合でも「刀剣乱舞−ONLINE−」のミュージカル化に当たって誰が出演するってことでこの人ならチケットの争奪戦がきびしくなるって話していた人がいて、単純にゲームなりのキャストではなく舞台は舞台としてしっかりと演じられる人にこそ、関心が向かうってことがよく分かった。

 昔なら声優さんがそのまま登場する方が嬉しいって感覚があって、とりわけ女性の場合は「サクラ大戦」にしても「ギャラクシーエンジェル」にしても声優さんが頑張ってその紛争をして演じてくれていた。だってやっぱり声が違うとキャラに感情を添えられないっていうのが男性ファンの心情。女性ファン向けとして立ち上がった「美少女戦士セーラームーン」のミュージカルは別にして、男性ファン向けの舞台化だとそういう制約がつきまとっていた。そんな時代があったし今もあるからアイドル関係のアニメでは、演じる声優がそのままステージに立ってグループを結成して歌い踊る。それをファンも応援する。

 でも男性キャラの場合だと声優さんが演じることがないでもなかったけれども、むしろまるで違う俳優さんなりアイドルが演じてくれた方を女性ファンは喜ぶような傾向が、それはもう「テニスの王子様」のミュージカルの頃からあるように振り返って思えてきた。アニメはアニメとして尊びつつ、その声優は声優として愛でつつもキャラクターはキャラクターとして尊重し、それが実写化されるなら演じて相応しい人が演じてくれる方が嬉しいという意識を読み間違えないことが、もしかしたら2・5次元ミュージカルを成功させる上で大切なのかもしれない、って今頃言う話でもないか、そうやって多くのミュージカルが成功している訳だし。「SHOW BY ROCK!!」は誰がどんな姿を見せてくれるかなあ。ミュージシャンなだけに歌も巧くないと。そして何より格好良くないと。演じる人に注目。見に行くかは分からないけれど。行けないかそもそも。

 リョーシキとかジョーシキといわれるものに棹さして、ちょっと待ってよと異論を唱えている俺カッコイイ感が前々から漂ってはいたけれど、それで稼げるアクセスに気を良くしたのか、次々に異論暴論を投げつけてくる某フリーアナウンサー。大阪で人間ピラミッドを作るのを教育委員会が止めようぜって言ったことに対して、それで子供の乗り越えていく力が養えるかとか言い出した。でもちょっと待て、それで乗り越えられないと死ぬことだってある危険なことを、学校教育の現場でやらせておくことの方が問題だってことに、どうして気付かないのだろう。それとも気付いていないふりをしているのか、もっと危険なことがあるだろう、ほら通学路の交通とかって目線をそらそうとしている。

 確かに危険はいっぱいある。だららといって学校外で普通に生きていて起こる危険に学校が責任をとれるのか? とらなきゃいけないのか? それよりも今、目の前で起こっている組み体操の巨大化という危機にどう対処するのかを言ったらそれは違うだろうと突っ込んでくる。でもってそれで事故が起きてもきっと知らん顔をするんだろう。先生の教え方が悪いとか言って。まさか乗り越えられなかった子供が悪いとでも言うのかな。そう言ってるのも同然なんだよ、その意見は。

 女子生徒にサインコサインタンジェントを教えるのはどうなんだろうねえと県知事がいったことに異論が興っていることにも、でもやっぱりサインコサインタンジェントってどうなのよとか言ってみせる。その言い訳は他にもっと教えることがあるんじゃないのということだけれど、未来において必要とされる学問がいったいどれだけある? それこそ読み書きそろばんさえあれば生きていけるという極論を一方に抱えて、その上に積み重ねていく様々な知識に順位付けなんて出来はしない。誰にとって何がきっかけになるか分からないから。

 そりゃあ教育のカリキュラムには無駄もあるだろうし、その無駄の幅にもいろいろあるだろう。その人にとっては、一生使わないような知識だってそこで教えられることもある。けど、それを言い出したら削りに削ってそれこそ最後には読み書きそろばんしか残らなくなる。そろばんすらもはや自分で不必要だから、教える必要もないって話も出て来かねない。教育なんて必要か? そんな暗黒の世の中から、人間は戦って立ち上がって好奇心を満たし、人として満足し理性を育み視野を広げるための知識を学び獲得する権利を得てきた。そういう意識もなしに、目の前の不要を永遠の不要のごとく言って誇る態度の空虚さ。でもそれを格好いいと思う当人がいて、称揚する周辺がいて、それで食っていける状況がどうにも面倒くさい。厄介な世の中になったなあ。

 そして本厚木へと言っては厚木市文化会館でもってきゃりーぱみゅぱみゅのJAPAN HALL TOUR「Crazy Party Night 2015」の初日を見る。クラブでレイヴでダンサブルなチューンがノンストップで鳴り響いて年寄り注意、酸欠になりガス欠になって倒れないためにも鍛えて水分補給をしっかりと。これまでだとホールツアーもアリーナツアーもダンサーにキッズを配して子供が見て楽しめるライブにしていたけれど、今回はZeppなんかで見るようにダンサーは大人ばかりで前に女性が4人といういつもの布陣、そして後ろに1人どうか分からなかったけれどもとりあえず男性3人といった面々が激しく踊ってステージを盛り上げ、そこにきゃりーぱみゅぱみゅのダンサブルにビートを載せてアレンジされた楽曲がひたすら響き渡る。

 MCも控えめで来場者との言葉のキャッチボールはほとんどせず、振り付けの始動も1曲くらいでそれもアンコール前ニラストスパート的にやるくらい。あとはだいたいみなが知っている楽曲を知っているとおりに振りをつけて踊るなり、新しい曲をDJブースにいるDJダンサーの手の振りに合わせて踊るなりする感じで進んでいく。激しく高密度で高濃度な上に時間も前のホールツアーよりちょっと眺めといったところ。これは本当に大変だ。子供もいっぱい来ていたけれどそうした子供を喜ばせるような雰囲気でもないけれど、でもちゃんと子供はついてくる。下に媚びず阿らず、自分自身の歳相応を見せようとした感じ。それでもちゃんと子供は喜んで見ていて踊り騒いでる。大人のアーティストへと進んでいこうとしているんだろうなあ。そして世代を超えて支持されるアーティストになろうとしているとも言えそう。初日なんで詰め込みすぎな印象もあったけれど、こなれてくればさらに激しくそして気分も高まるライブになりそう。追いかけていこう、追いかけて行ける分については。

 これは拙い。マジ拙い。某紙の記事の見出しに「日弁連の“左巻き”政治活動に内部からも異論噴出 日弁連会長『9条守れは政治的発言じゃない』本紙記者質問に『帰れ!』と怒号も」ってあって見て思わず腰が砕けた。なるほど「左巻き」は左傾な人を差すスラングとして使われている節はあるけれど、それだって一般化されたものではないし、元々は別の侮蔑的意味を持っていて、それをかけて左傾な人を侮辱するスラングとなっている。そんな言葉を、本文で一切の説明なしに、というより本文に使われてすらいない言葉を見出しで掲げてしまって大丈夫なのか。本当なら大丈夫じゃなくって、責任者の首が飛びかねないくらいの酷い事態なんだけれど、やっぱりスルーされるんだろうなあ。やれやれだ。

 こうも季節違いの脳天気だったとは。知ってたけど。某新聞でとっても偉くなった割には、自分のところの記事をまるで読んでいなくて、それで他の新聞社の人を非難したらお前の所はどうなんだと突っ込まれてどうしようもなかった人が、どこかから得たかよく分からない情報でもって、8月30日に行われたデモは共産党系と社民党系の動員が大半だったと言っている。なるほど数字を過大に評価しようとする前向き過ぎる姿勢も暑苦しいけれど、過小に見積もるのみならず集まった人の前向きな意識をもひっくるめて動員という言葉に押し込め、その意思を貶めるのは流石にどうしたものか。あの雨の中に国会前から霞ヶ関から日比谷から集まった大勢の心を土足で踏みにじる言説を、平気で吐ける口っていったい何なんだろう。別の件で理路整然とした反論を受けて自分の価値を会社の価値も含めて地にまみれさせているのに、それへの自省もなしに闊歩している人間を、尊び称揚する組織ってものの行く先を思うと気が重い。すでに行き着いているって話もあるけれど。やれやれだ。


【9月4日】 悠木碧さんとはしかし声優三って色々な声が出せるものだなあと思った「オーバーロード」のクレマンティーヌ。クラウチングスタイルになって低い場所から疾駆し相手に迫って振るわれる剣をかいくぐり、急所に確実に剣を尽くさす腕前は人間としては最上級に位置していただろうけれども相手がアンデッドというかそもそも生きていたのかすら怪しいゲームキャラクターのモモンでは、目玉を貫いても通じず火で燃やしても倒れないままクレマンティーヌを抱えて鯖折りにして背骨をへし折ってジ・エンド。得意とする剣で敗れたわけでなく、そして剣で切り刻まれるのではなくじっくりと、しかし確実に背骨をへし折られる気分ってきっと最悪だっただろうなあ。相手が悪かった。でも相手を軽く見過ぎた報いが確実に及んだってことで。もう出ないのかなあ。良いキャラだったのに。ミニスカで低い姿勢になるといろいろ見えたし。黒だった。

 そしてメイド集団のプレアデスから同行していたナーベラル・ガンマは付き添いのナーベから本性を現し魔法の効かないはずのドラゴンをより高位の魔法で一瞬にして粉々に。操っていた爺さんも瞬間で灰にされたりして、こちらも相手を見誤った感がありありだけれどでも仕方が無いなあ、まるで違う文脈を持った相手が現れたんだから。もしも今の地球に宇宙人とか攻めてきたら、そんな感じにほとんどチートな力を振るわれ一瞬にして滅亡させられるのかな。いやでも人類はどんな外的にも必ず勝つのが「ヒストリー機関」的なお約束。地球に独特の防衛機構が働いて、宇宙人といえども滅びる運命にあるという。そういう風になっている。でもそんな人類も「Z」の前には無力なんだよなあ、投げっぱなしにするしかないくらい、相手は強くてしつこい。どうやったら勝てるのかな。続編を意識させないことかな。

 しかしそんなナーベラル・ガンマの声を演じていた沼倉愛美さんが「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」のタカオといっしょとは。「オーバーロード」では憮然として人間を未来だしモモンに傅く鋼のメイドを演じているけど、「アルペジオ」では千早群像に恋する乙女のメンタルモデル。沈んだ群像を助けに行くと潜った海の底で、身を犠牲にしてでも群像を救おうとしていたイオナを見て自分には入り込む隙間なんてないと認めて涙ぐみつつ、それでも自分のナノマテリアルを使ってイオナを助け伊401を再生させる献身ぶりに、いつか群像も気付いて笑顔で笑いかけてタカオに載ってくれるだろう。再生されさえすれば。けどナノマテリアルっていったいどこにいったらあるんだろう。どうやって作るんだろう。そのあたり、アニメだとよく分からないんだよなあ。やっぱり原作欲か。でもストーリーが違いすぎるんだよなあ。とりあえず劇場版の新作が終わるまではお預け。BDボックスどうしようかな。

 この国の感性はもはや相当に摩耗しているというか、余裕を失っているというか。多摩美大で誰かがいわさきちひろさんに似せた画風で現代の風俗を描くパロディあるいはパスティーシュといったものを行いそれを描いて学校内で賞をもらっていたことを取り上げて、いわさきちひろさんのパクリだ何だと騒ぎ立てる輩が現れ腰が抜ける。おいおいそれを行ったら藤田嗣治をはじめとした戦争画のタッチとか日本がの構図とかを現代に持ってきて批評性のある絵を描いた会田誠さんとかもパクリになってしまうし、文体なんかを真似て描いたパスティーシュと呼ばれる分野の小説だってパクリになってしまう。でも違う。そうした行為は一種アートとしての表現行為として認められていて評価だって受けている。そうした模倣の繰り返しから生まれる新しい表現だってある。

 けど世間はそうでないと叫ぶ。というより最初に騒ぎ立てただろう人間が、すべての作品を文脈の上に読んでいったい何を表現しようとしたのかを考えず、ただタッチや構図が似ているからといって、パクリだ何だと騒ぎ立てたに過ぎない。でも今時のアートを志している人間が、いわさきちひろさんを知らないはずもないし教授だって知らなかったらただのもぐり。それがちゃんと評価されているということは、そうしたタッチを今に蘇らせつつそうしたタッチで現代を描くことによって生まれる不思議な空気感って奴を評価したからだろう。メルヘンというかファンタスティックなあのタッチ、優しくて愛らしいあのフォルムで表現される今時の若者であり、習俗はささくれだった現代を慰撫して優しさに包み込む。あるいは欠けてしまったものを暴き立てる。

 そうした表現行為をも否定するならアートなんて成立しない。原案より劣化しているからパロディじゃないとか言い出す輩もいるけれど、ものまねだって本物とそっくりであることが大切だとは限らない。何となく似てはいているだけでも、それで繰り広げられるコントなりパフォーマンスをトータルでみて、批評性があればそれは立派に芸として成立する。そういう状況をまるで鑑みないで似ているからパクリだとまず騒ぎ、違うよと突っ込まれれば劣化しているからパロディじゃないとか言い出す心のゆとりのなさが、今のこの世界を住みづらいものにしているんだろう。いっそだったらすべてがいわさきちひろさんん風に変換される眼鏡でもかければ、優しい気持ちになれるだろうに。そうやって見える風景ですらパクリと言い出すんだろうなあ、騒ぎたい人たちは。世知辛いなあ。

 中平卓馬さんが亡くなったそうで、日本を代表する先鋭的な写真家たちもそういう歳になって来たのかなあと時代の過ぎるのを実感する。といっても森山大道さんも荒木経惟さんも存命で、篠山紀信さんなんて現役バリバリ。その中にあってどこか時流とは隔絶し、達観したところを見せていた中平さんの死で、写真界が大きく変わるといった感じはないのは前に1度、写真家としての“死”を迎えていたこともあるんだろうなあ。「なぜ植物図鑑か」とかを書いて写真界随一のアジテーターとして時代を刺激し、写真でもアレブレな手法でダイナミックに都市を切り取り、圧倒的な存在感を見せていた人がアルコール中毒の影響からか、昏睡して目覚めたら記憶を失って、そこから再生への道を歩み始めた。

 そしてカメラを手に撮るようにはなったものの、撮る写真はどうということもないスナップで、そこに時代を切り取ってやるといった強い想念のようなものは見えなくなった。じゃあ衰えたのか、老いたのかというとそれは判断に迷うところで、小原真史さんが監督として撮ったドキュメンタリー映画「カメラになった男 写真家中平卓馬」というのをちょうど6年前に見たあとで、日記に「純粋に1個のカメラに、今風のコピーでもなければ時流に乗った文脈でもない、今のこの瞬間を写しとることしかできないカメラになっていた」といった印象を書いていた。理論で撮るのではなく観念すらない。1個のカメラが世界に向かい、切り取っていく。

 あらゆる煩悩なり情念なりから解放されて、見るものをひたすらにスナップしていくその行為を介在して、僕たちはその風景を見てその空気を感じてその上で、どういう時代なのかを考えることになるという。透明でありながら存在するフィルター。そういう者になっていたのだとしたら、今、あらためてそうした後期に撮られた写真を見ることで、新たに感じることがあるかもしれない。横浜美術館あたりにもしも収蔵してある写真があるなら、この機会に改めて展示してくれれば見に行って、2003年の個展では分からなかったものを感じてみたいもの。そして改めてその偉大さに感じ入りたいもの。合掌。慎みつつ。


【9月3日】 出たらしいと聞いて秋葉原にあるタワーレコードへと出向いてカラスは真っ白の新しいミニアルバムって感じらしい「ヒアリズム」を購入。まだ聞いてないけどこれから始まるワンマンツアーでのメインあたりに使われるだろうからしっかり聞き込んでおきたいもの。ベースが変わってベキバキといった若さも漂わせるファンクがどう変化しているか、ってのが興味だけれどそれよりもやぱりヤギヌマカナさんのボーカルが、相変わらずに可愛いかも気にしたい。いっしょにきゃりーぱみゅぱみゅの新譜「Crazy Aprty Night 〜ぱんぷきんの逆襲〜」も購入。「ファッションモンスター」のノリとは違った重厚っぽい感じがあってどういう受け方をするかが気になった。

 他の曲なんかもあっけらかんとしたポップスが多かったこれまでと違って音程も難しく展開も複雑そう。普通に歌って楽しめるダンサブルなナンバーとも違うだけにこれをどう、ステージとかで演じるかも気になる。5日の厚木市を皮切りにツアーも始まるんでこれもステージでの演じられ形を見てどういう変化が起こっているかを判断しよう。そこから東京アニメセンターへと出て「Wake Up Girls!」の展示を見物。原画とかじゃなく主に衣装ってところが珍しい。リアルがいるからなあ、キャラに付随して。Tシャツも売ってたし映画の公開前に買い込んでおくか。せっかくだからとカレーの市民アルパでホームランカレー。ゴーゴーカレーに較べて濃密さが下がる分、さっぱりした美味しさがあるかなあ、やっぱり。値段がちょっと上がってた。世知辛いなあ。

 何か良くない話が流れてきたんで見たら何これ凄まじいなと腰が砕けた某アニメーション関連のニュースを集めたポータルサイト。声優さんの話題とかガンガン出ているんだけれど、その記事のほとんどすべてにおいて画像が他のサイトが取材して撮影しただろう画像とか、雑誌とかに掲載してあったものをスキャンして個人がブログなんかに上げたものとか、とにかく自前のものではない、ちょっぴり違法性すらある画像をそのまま当該のサイトの名前は出さず、画像に直接リンクする形のURLを小さく張り付けて「出典」として、そこに印象から得た感想文とか添えていっちょ上がりとやっている。

 しばらく前に海外サイトの風景画像を並べて良い景色ですねとやったバイラルサイトがネット民からフルボッコされたことがあったけれど、こちらのアニメ系ポータルサイトの悪質ぶりはそれと同等かそれ以上。だってアニメのスチルとか放送なり配信からのキャプチャ画面がそのまま張り付けてあったりするし、それを上げた元サイトの画像があるはずのURLに行ったらもう何もなかったりしてそれ出典とか良く書けたもんだと思えてくる。引用の条件なんて満たすつもりもないみたい。どこかのデザイナーのアイデアが過去のアイデアに似てる似てないといったレベルをはるか超越する無茶苦茶さ。それをとある大手の情報企業がやっているからたまらない。これが著作権への平均的な心理なら、デザイナーもアイデアを普通に引っ張るよなあ。それに突っ込むネット民ならこれは許せぬと突撃したて不思議はないのに未だ炎上の兆し無し。まあ知られていないだけで、発見されれば話題になるかな、ならないかな。先行きに注目。

 ふと気がついたらハヤカワSFコンテストの第3回の受賞作が決まっていたみたいで、今回は選考委員が小島秀夫さんから小川一水さんに替わっていて何で降りちゃったんだろうと思ったものの、もしもこの時期にかけて選考なんてしていたら、まさに今日あたりが発売日だった「メタルギアソリッド」最新作の制作にもプロモーションにも影響が出ただろうから、それを見越しての降板だったととりあえず思うことにしよう。でもって少しメンバーも替わって選ばれた第3回の大賞は、東大の院にいるらしい小川 哲さんの「ユートロニカのこちら側」という作品。個人情報をぜんぶ丸投げして代わりに安全な暮らしが補償されるユートピアの都市を舞台に何かが起こるって展開みたい。

 聞くほどにとってもSF的。監視社会や管理社会は一般的にディストピアとして描かれることが多いんだけれど、そういう話は過去にもいっぱいえがかれている。この「ユートロニカノのこちら側」はどういう扱いになっているか。そこにちょっと興味をそそられる。かんぜんあるユートピアとして誰もが行きたがる場所だったりして。それも新鮮だけレ痔、果たして。今回は佳作も出ていて関西大学を出たらしいつかいまことさんの「世界の涯ての夏」ってのが受賞したみたい。すでに「世界の涯ての庭」からい解題されているから刊行も決まっているんだろう。こちらは異次元との接触で滅亡に向かう人類が脳をつないでネットワークを形成したという未来が舞台。それで何が変わるのか。敵めいたものはいるのか。人類の進化と宇宙のこれからを見られそう。授賞式とかあるのかなあ。やっぱり紋付き羽織袴で来るのかなあ。

 例えるならば明日も明後日も仕事なんて行かなくて良い境遇で、温々とした炬燵に脚を突っ込んで蜜柑を食べながらお茶を飲んでいるような気分にさせてくれる物語だろうか。三木ナズナさんによる「姫騎士とキャンピングカー」(スニーカー文庫)は長い社畜暮らしともこれでおさらばと、働いて貯めた金で作ったバスくらいある大型のキャンピングカーに乗って家を出て走り始めたところで道を踏み外したのか異世界に迷い込み、そこでオークに襲われていた姫騎士を救うということろから開幕。助けた姫騎士をまずはキャンピングカーの中に作った炬燵に誘うと、もう出られなくなる動けなくなるという魔法がかかってしまった。違う魔法じゃない、それが炬燵の力。でも知らない人にはなぜ脚が抜けなくなるのか分からないだろうなあ。やっぱり魔法か。

 そして姫騎士を連れて彼女の故国へと向かう旅は実にのんびりとしていて、料理をしたり釣りをしたりとアウトドアな暮らしをキャンピングカーという便利さこの上のない施設をバックに繰り広げる大名旅行。途中でオークとエルフのハーフという少女を拾って乗せたり、キャンピングカーの妖精が現れたりして人数は増えていくけれど、それで事件とか送る訳でもなしにオークが苦手な姫騎士が、半分とはいえオークの少女とどうにか仲を深めていったり、拾った犬になつかれない姫騎士が、頑張って仲良くなろうとしたりする様子が繰り広げられる。日常ではないけれど異常でもない生活。危険ではないけれど緊張感もちょっとだけある暮らしは生きていて楽しいだろうなあ。そんな楽しさが読んでいて伝わってくるのが嬉しい。最後、離別もありそうだけれどそのあといったどうなるか。ガソリンというネックをどうこなし、電気自動車として走れるような体制をもしかしたら整えるのかといった興味も浮かぶけれど、その辺は書いてもらえるかなあ。続きがあるなら待ちたい。

 なんかサッカーの日本代表戦があったみたいだけれどもカンボジア相手に3点が、多いか少ないかと言えばやっぱり少ない気はするなあ、順位的には圧倒的な相手なのに、固められただけで崩せなくなるその攻撃の工夫の無さがむしろ頭が痛い。パスをゆっくり回して仕留めるような戦い、サイドを大きく使って相手を揺さぶり隙間をつってそこに攻め入る戦いといったものが出来ないのか分からないのか。ハリルホジッチ監督が苛立つのも、普通だったら相手を見て攻め方を工夫して点を奪っていく一流どころのプレーがまるで出来ているように見えないから、なんだろうなあ。教えなければ出来ないものなのかなあ。そうだからこそのブラジルでの惨敗と、今の若手の伸び悩みなんだろうけれど。自主性に責任を載せて突破しようとする心意気を見せて欲しいけれど、それが出来る選手なんているのかな、いないなあ。いよいよダメかもしれないなあ。


【9月2日】 そして目覚めると2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて作られたシンボルマークが撤回されていた。最初の段階でこれは「T」じゃなくって「L」だろうって抱いた感情とは別に、どこかにある誰かのデザインとよく似ていたってことが分かっても、それをそのまま使うのってちょっと恥ずかしいなあと思っていたけど、業界では似ていようともコンセプトが違うんだからオッケーっていう理屈がまかり通り、また著作権的には大丈夫だし商標登録も済ませたから大丈夫だっている法律的な意見も跋扈して、引っ込める気配がまるで見えなかった。

 それが何かを刺激したのかネットでは、過去の作品から似ているもの探しが始まってそして出るわ出るわの大フィーバー。そこで分かったのはネットから割と安易に画像なんかを持ってきては、コラージュ的に張り付ける癖がある人なりスタジオだなってことで、それを商店街のチラシなんかでやる分にはさすがに世間も許容していただろうけれど、大手の飲料メーカーであり大学でありといった場所で使われた作品の中に混ぜ込んでは、さすがにこれは拙いっていう意識も浮かんで追い込まれていった。そういう癖がある人だからという部分が、五輪のマークも同じ癖から生まれたものだとはならないし、なってはいけないんだけれども一方で、そういう傾向がある人が手がけた作品を、そのまま使って良いんだろうかという逡巡も働いただろう。

 とはいえ組織委委員会が引くわけにも行かなかったところを、当事者がその身を省みつつ撤回したことで、ひとまずは収束を迎えて次への段階へと移った。これだけのダメージを被ったなら、後追いのようにいろいろ言うのは可愛そうだけれどでも、これからの作品作りにおいて過去の癖をそのまま使わず、すべてをまっさらな状態で、画像データも集め必要ならブツ取りもして自分の作品を作り上げていくような態度になれるかどうかがまずは関心を集めそう。というか、それができないともう立ち上がれないくらいのところまで追い詰められている感がある。楽をして結果、苦労を得たというか。やっぱりあるんだなあ、自業自得っていう状況。

 ネット時代は景観にしてもオブジェクトにしても、ネットの上にごろごろと転がっていて、それを集めて組みあわせれば何か作れてしまうし、そうした組み合わせの妙を競うという面があっても悪いとばかりはいえない。サンプリングだのコラージュだのといった手法はアートの世界では結構あって、それが作品として認められることもある。でもこれはアドバタイジングの分野であって、そこに作品性なり芸術性を持ち込んで訴えることは難しい。そんな世界で前と同じサンプリングだのをやっては、どこかで足を引っ張られる。夕焼けの海でも雪を被ったヒマラヤでも、それが必要ならば自分で撮りにいくなりアーカイブから買うなりして、オリジナリティを確保していく細心さを、求められることになるんだろう。そうなってくれると信じたいけれども、果たして。

 もう食べられないよと贅沢ではなく言いたくなるライトノベル系レーベルのまたしてもの創刊ラッシュ。なぜかそういう出版にまるで無縁なはずだった毎日新聞出版が、大人向けのライトノベルレーベルと銘打って「μNOVEL(ミューノベル)」ってのを始めるみたいで、創刊ラインアップを見たら小川一水さん菊地秀行さん庄司卓さんといったところが並んでた。朝日ノベルズなり朝日ソノラマ文庫で出ていたような作品もあるってことはそっちから人でも来たかと想像もつくけど、それを決定づけたのが火浦功さんの新刊。どこまで新作が入っているかは分からないけれど、後書きでもいいからその新しい文なりが登場するということは世界に大混乱が起こっても不思議はない椿事。ましてや新作が載ったりしたら天変地異では住まない事態になるだろう。世界は来年2月で終わるかも。そして火浦功さんの新刊が存在する新しい世界が始まるという。そこまで保つかなあ、ライトノベル系出版界。

 そしてKADOKAWAでは「カドカワBOOKS」なるものが創刊されるみたいだけれどもいきなり惹句が「WEB発の才能がここに集う!」では、なろう系というかそういうところで人気の作家のそういうところで人気の作品を、本の体裁で出していくって感じかなあと思って気分もすこしひんやりとする。もちろんネットでの才能には敬意を抱いているし、そういうところで人気の作品が面白くないはずがないとも思っている。ただ大手の出版社に務める編集者の人たちが、そういう世間のモノサシでの人気に乗っかり自分の脚とか手とかで集め鍛えた作家とは違い、ある程度の評価を得て登場してきた作家を誘い送りだすことを本業として良いのかどうか、ってのは迷うところ。鍛えてプロモーションも行って数十万部を売る人気作家をそこから出したのなら当人も会社も嬉しいけれど、出してでも売れずだったら次の才能へと目移りしていくようだと、何か不幸が生まれるような気がしてならない。どうなっていくのか。まずは刊行物に注目。面白ければ良いんだよ。

 ロボットだロボットだ。タカラトミーがまたしても得体の知れないロボット玩具を出してくるみたいで、その身長が122センチもあるからほとんどペッパー。でもって中身もちゃんと喋るし動くから、ペッパーくらいのことはやれてしまいそう。それでいて値段は5万円。玩具としては高いけれどもロボットと思うと格安なだけに、買っていろいろと組み立ててみる人もいるかもしれない。骨組みだけって感じなんで、表面に紙とか張っていろいろなデザインいんすることも可能。ちょっと興味はあるけれど、我が家にそんなものを置くスペースはないのだった。残念。

 そんな玩具メーカーのクリスマス商談会では、箱から出てきた猫がコインを引っ張り込む貯金箱のシリーズにゴジラが登場。もう本格的な原盤から採用されたゴジラのマーチが鳴り響いていておいておくだけで楽しそう。でもってちゃんとコインを引っ張り込む。ゴジラファンとか買いそうだなあ。あと目に付いたのではシー・シー・ピーのドローンか。超小型なんだけれど4枚のプロペラがついたマルチコプターで、それがボタン操作1発で空中へと浮かび上がって一定の高さで止まってくれる。そこからバーを操作して前後に動かすことができるけれど、どっちが前かを視認しておかないといけないだけに難しい。もしもこれである程度、操作をマスターできたら大きいのでも飛ばせるようになるかもしれない。それくらいの本格派。でもって入門機。買って勉強するかなあ。でもやっぱりそんな小型であっても飛ばすスペースは我が家にはないのだった。どんな部屋だ。まったくもう。

 そんなイベントが開かれていた浅草から東京ビッグサイトへと回ってインターナショナル・ギフト・ショー。こっちではあの「刀剣乱舞−ONLINE−」のカレンダーが出ていたんで近寄ってじっくりと見る。黒地に浮かび上がった銀の刃の質感も鮮やかな上に、脇にその刀剣が元になった刀剣男士も描かれファンなら見入ってしまいそう。キャラより刀が大きいんだけれど、キャラを愛する余りに刀への興味を向ける刀剣女子がいっぱいいる状況を思えばこっちの方がむしろ喜ばれそう。カレンダーだけにキャラの印刷だって大きいし、現地に行かないと見られない刀剣が写真で見られるならもう嬉しくって仕方が無いんじゃなかろうか。同じ会社からは暦も出ていて1年365日の吉凶が見られる上に歴史年表も掲載されていてそこい刀剣男士たちが並んでいる。ありがたくも便利な暦を手に持って出歩けば、いつでも会えるし調べられる。こういう凝りようがファンに喜ばれるんだろうなあ。キャラ乗っけてオッケーな時代は、もう終わった。


【9月1日】 イケイケだったのは自分たちの力を過信していた訳ではなく、準決勝まで来られて初出場の弱小高校にはこれで十分、どうせ相手も強いんだし負けても良いかと心のどこかで思っていたからなんだろうなあ、大洗女子学園。でもそれで囲まれ追い詰められた先で生徒会の桃ちゃんから、この試合で負ければ大洗女子学園がなくなてしまうと聞かされ絶体絶命、負けても明日があるさと言っていられなくなったメンバーが、あんこう踊り1発で立ち直ってプラウダ学園との戦いに勝利していく展開が、来週の「ガールズ&パンツァー」の見どころってことになるんだろう。プラウダ学園も降伏まで3時間待つとかしなきゃ良かったんだけれどそこは戦車道、カチューシャにも甘さと同時に粋があったということで。しかしあの囲みをどう突破する? それは見てのお楽しみ、と。

 承認され慰撫されれると人間、ああも動かなくなるものなのか。ずっと認められないなかで呻吟してきた爾乃美家累が、ああもあっさりと転んでしまうくらい、その温もりは居心地が良いみたいで他の人間たちもどんどんと、その懐に抱かれて眠りについて、そうでない者たちは吸収されて消えていく。そして世界はひとつになって動かなくなるというのが「ガッチャマンクラウズインサイト」の現在の見通し。そんな流れに棹さして逆らい続けているガッチャマンたちなんて、真っ先に狙われそうだけれども反抗すればそれは人類が求める幸福を奪おうとする行為。だから難しい。でも拙い。どうするんだろう。そして三栖立つばさは相変わらず自分は正しくゲルサドラは正義と信じ込んでいる。ああも視野の狭い人間だったとは。でも自分を曲げない曾祖父がどうにかなった時に気付くんだろう。ただ展開ちょっと遅いのが見ていてまだるっこしいというか、毎週同じなんだよなあ。まあでもこれからクライマックス。一気のバトルが始まると期待しよう。累の女装復活も是非に。

 “本物”の漫画を見てもらうえさえすれば、世界に日本の漫画が広がり海賊版は撲滅されるはずだというのはひとつに真実で、ガンプラなんかも粗悪な模倣品に代わって、ちゃんとした日本の精密なガンプラを持って行ったら、値段は高いけれどもちゃんと受け入れられたって話がある。組み立てられない模倣品では買っても仕方が無いからこれは当然。ただ漫画の場合は、読めさえすれば紙が悪かろうと翻訳が適当だろうと求められて受け入れられて読まれてしまう。そこに値段が高い本物の装丁と本物の翻訳を持っていって売れるのかどうか、って辺りが今ひとつ見えなかったアニメイトとそれからKADOKAWA、講談社、集英社、小学館によるジャパン マンガ アライアンスの発表会。東南アジアなんかではびこる海賊版の漫画を本物パワーで駆逐することを目指しているそうだけど、その効果はあるんだろうか、どうなんだろうか。

 この会社が狙っているのは「著作権・権利関係がきちんと尊重され、守られ、ニセモノではなく、すばらしい本物の作品にファンたちが接する場所を提供し、日本マンガ・アニメのファンが爆発的に広まるインフラ作りを行う」ことだそうで、そこには日本の漫画への敬意なり愛情を漫画やアニメなんかを日本から持っていって、ガンガンと提供することによって育んでもらい、そこからやっぱり本物だよねって意識を醸成してもらうという狙いなんかもある。法律的に海賊版を取り締まろうったってそれはやっぱり無理な話。出来たらとっくにやっているけど追いつかないなら、ファンとしてやっぱり本物の方が品質的にも良いし、作品への愛も表明できるだろうっていう意識を持ってもらうことで、海賊版に手を出すのを遠慮するようになるんじゃないか。そんな目論みがある感じ。

 自分の意識ならやっぱり本物だよねと思うけれど、一方でテレビで見られるならBDとか買わないなあという意識も生まれてきていて揺れている。ただBDとかDVDなんかと違って漫画なら値段もそんなに高くはないから、それで品質を求めるならばやっぱり本物という意識が生まれていくことになるかもしれない。ならないかもしれない。どっちだろう。あるいはタイに作るというアニメイトをバリバリのオタクの“聖地”にして、そこに来てそこで買うことのインセンティブをファンに与えることが重要かも。大手出版社が絡んでいるなら、そこで人気の作家とか漫画家なんかを日本から送り込んでサイン会とかイベントを開い、てファンを集めるということが可能かも。いずれにしても出来るのは来春あたり。どんな店になるかなあ。超美少女のコスプレイヤーさんとか店員にならないかなあ。昔ついていたって今もついていたって可愛ければオッケー。タイならそれもある。

 「スコーピオン」の頃から知っているからだいたい10年、ベテランとまでは言えないものの中堅としてそれなりに名前も知られた作家だとは思うけれど、その新刊に「pixivで人気のweb小説を書籍化!」と書かないと、読む人の目にはとまらない状況にあるんだろうかと思うと作家が作家として名を残し、作品を出していくのも難しくなっている環境が浮かぶ。大変だなあ。そんな諸口正巳さんによる「謳えカナリア」(エンターブレイン、1200円)は、ミライショウセツ大賞のテーマ部門「恋と同居」での優秀賞作品というから、ネットで人気の上に新人賞の肩書きまで乗っていた。あの諸口さんも新人賞に応募するのかと思いつつ、賞をとってデビューした訳じゃないからやっぱり語る上ではこうした肩書きもあった方が、これからの活躍で良いのかもしれない。でも売れないと一瞬で終わってしまうのも新人賞。この作品はそうした壁を突破していけるのか。

 いけるからこそTHORES柴本さんという凄い凄い絵描きさんを配して表紙絵を描いてもらったんだろう。内容もTHORES柴本さんが描くに相応しく退廃的な雰囲気を漂わせるテクノゴシックな世界が舞台で、絵師さんが好きならそれで選んで読んで納得の1冊になっている。ミツオカ・マツリという少女が目覚めるとそこはどこかの寝台の上。聞くにどうやら死んでしまったようで、それが何か違う姿で目覚めようとしていた。最初はその状況に戸惑っていたものの、だんだんと落ち着いて話を聞くと、世界は大気が汚染されて人が住めなくなったこともあって、人々は天蓋の中に籠もってそこで命脈を保っていた。だその中で工業なんかも行われているため、空気は汚れて煤が飛び交い人々は気管支を痛めて咳き込んでいる。歌も歌えなくなっている。

 そんな世界で歌える存在が真鍮糸雀(カナリア)と呼ばれる一種の人形で、異世界から漂ってきた魂を捕まえる能力や、見えない腕を操り複雑な工作にいそしめる能力を持ったマエストロによって作られ、調律師によて仕込まれ極上の歌を歌えるようになるという。マツリもどうやら交通事故で死んで漂っていた魂を、ダムロッシュというマエストロによって掴まれ、その世界で真鍮糸雀にされたみたい。そしてアイレンベルグという調律師に引き取られ、そこで世界について学び歌についての訓練を始める。生きていた時に気になっていた音楽教師に似ているアイレンベルグに惹かれるマツリだったけれど、彼にはどこか秘密があってそれが暴かれていった先、さらに真鍮糸雀が置かれた境遇をマツリが知った時、彼女はただの真鍮糸雀とは違った力を発揮して世界の改変に挑む。

 煤けてくすんだ世界の描写、そこに暮らす人々の未来なき退廃の様、その中で唯一の娯楽として人造人間が謳う歌に心を傾けるという世界の雰囲気が、滅亡へと向かう中で怠惰に逃げる人類を伺わせる。そして絶対的なミューズを心に抱いてその姿を追い続け、作り続けようとするマエストロの職人魂が見え、そうやって生み出されたミューズ的な真鍮糸雀が混乱をもたらしてマエストロを打ちのめして、絶望へと追い込む悲劇が浮かんで至高を目指すことの困難さを感じさせる。人間ならぬ存在にされて人間の情念にまみれた少女が選ぶ道の残酷な清浄さも一興。その果てに訪れた世界で、人間と真鍮糸雀はどんな世界を築いていくことになるのだろうか。続きがあるならちょっと読んでみたいかも。転生がテーマになているけど有り体の異世界転生物とはまるで違った設定であり展開でありキャラクター造形。そこも一読する価値ありと言っておこう。こういうのがもっと読みたいなあ。


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