縮刷版2015年8月下旬号


【8月31日】 米子からだと名古屋まで戻るだけで5時間とかかかって帰省のついでに寄るのは難しそうだったけれど、来年の日本SF大会の会場となる三重県の鳥羽なら実家のある平針からでも3時間弱で着けてしまう。なおかつ都市型ではなく合宿形式だから始まるのが夕方で夜を徹してお祭りが続く感じになっていそうで、これなら7月8日に実家に帰って1晩とまって荷物を置いて、翌日の9日に朝早く家を出て鳥羽まで行ってその名も国際秘宝館を見物してから会場に入って夕食を食べて温泉に入ってオープニングを聞いて企画をのぞいて朝まで頑張ってエンディングも聞いてから、会場を出て鳥羽水族館でダイオウグソクムシを眺めてそして鳥羽を出て夕方に実家に戻るなんて展開が出来そう。そして翌日に東京へと戻ると。

 問題は実家にいる時間が短すぎて帰省にならないこととあと、国際秘宝館がすでに営業を止めていて見学が出来ないこと。でも全国からSFがあつまるこのチャンスを、SF性の高い国際秘宝館が見過ごす手はないので、この日ばかりはと復活させてはSF者たちに国際的な秘宝を見せて喜ばせて欲しいもの。どうかなあ。合宿形式のSF大会って遠い昔に島根県の玉造温泉で開かれたものに出たくらいで、何がどんな感じに繰り広げられるかよく知らないんで鳥羽でも鯛や平目の舞い踊りがあったりするのを期待しつつ、真珠のつかみ取りがあったりするのも予想しつつダイオウグソクムシの活け作りを味わいたい。いったいどんな場所なんだ、鳥羽って。

 日本SF新人賞から出た人たちって誰が1番大成しているんだろうかと見渡して、山口優さんなんかいろいろと本を書いているけど、それがとてつもないSFであるにも関わらず、SFの主流から可能されていないこともあって、SFの人たちからあんまり注目されていないなあと思ったり、中山友香さんはその後にアガサクリスティー賞も受賞して名前はいろいろ取りざたされたけれど、その先へと至っているかというとちょっとまだといった感じ。三雲岳斗さんは元よりライトノベルで活動していた人だから、日本SF新人賞とは関係無しにその路線をちゃんと続けて今ではベテラン。他には……と見渡して名前は残っていても日本SF大賞へと迫る活躍にはまだ至っていないような気がする。

 そんな中にあって北國浩二さんは、警察物のミステリーへと転じて本をいっぱい出している感じ。富士見L文庫から出た「白般若は語らない」も山奥の村を舞台に能が絡んだ伝奇的なミステリー。背後に渦巻く山奥ならではの濃密で封建的な人間関係を描き、それを若き能楽師と冴えない大学講師がそれぞれに推理を出し合いつつ、解決へと持っていく展開が興味を誘う。冴えない方が実は意外な才能の持ち主で、っていうのはパターンだけれど、それで主役に躍り出るでもなく、イケメン能楽師も当て馬にはならずそれぞれに持ち味を出しつつ合わせて1本といった感じにしているところがキャラクターの配置的に面白い。陰惨だけれど救われる展開もあって読み終えていらだちは少ない。ただやっぱりもう少し、能楽そのものが絡んだ話を読んでみたかったような。次に期待。

 GEISAIで初めて見たのがたぶん2002年の秋くらいで、その頃から粗いタッチながらも繊細に街並みを表現しつつそこに生きる人たちの表情を、とらえ描いてきた大畑伸太郎さんが久々に個展を開くっていうんで、帰省先の名古屋からとって返した東京駅から銀座へと出て、銀座幸伸ギャラリーってところに行って最新作を見る。ユカリアートギャラリーとかアートフェア東京での展示と同様に、最近ずっと挑んでいる平面の前に立体を置いて奥行きを与えつつ逆に現実を平面へと溶け込ませる不思議な味わいの作品たち。その新作が並んでいて、今回も新鮮なその世界に触れることができた。

 例えば夜の自販機が薄く光る夜るの路地。照らされた周辺を点描よりは大きなタッチで色を並べて表現しつつ、自販機の前に立つ少女を立体で作ってそこに置いた作品なんかは、立体物ゆえの生体感が醸し出すひとつの空間といった感じが、ギャラリーに不思議な空気を作り出す。そこに路地が生まれたというか。あるいは窓から刺す光のまぶしさを表現した絵。窓辺に佇む少女と猫は立体で作られていて、これはまた挑戦的だった洗面台に向かう少女。立体物の顔が平面に描かれているというか、平面に描かれた顔の立体物があるというか。鏡という平面とそれを見る人という立体の関係をある意味再現しつつ、2次元の平面世界から3次元の立体をのぞき見るような不思議な味わいが漂う。

 立体物を平面に似せて塗るから、斜めから見てもそれを撮ると平面の絵に見えてしまう不思議さも。ガンプラの平面塗りに近いかもしれない。ショーウィンドーにはギターを持った少女が背景を起きつつ、立体でもって作られていて、マネキンが醸し出すものとは違ったひとつの空間、ひとつの世界を底に感じさせてくれる。巧いなあ。そして面白い。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」を監督したジェムズ・ガンさんがFacebookで大畑さんの作品を見て恋をしたって書いていたくらい、見る人に驚きを与えるその表現は、世界に通用しているって言えるかも。

 問題はそうした作品が、世界の評価とは違って日本ではなかなか広まらないことで、ユカリアートギャラリーでの個展からしばらく、用賀でのオフィスロビーでの展示を最後にしばらく国内では見られなかった。朝の輝くような表現から、夕刻の西日が差す表現までさまざまな瞬間をとらえ、それにマッチした色使いで絵の具を粗く置いては描いていく絵画的技法も確かな上に、モチーフとなっているそのビジョンも心に刺さる。なおかつ作品によってはそこに立体物がおかれて奥行きのある絵画、あるいは平面へと収束していく立体作品といったハイブリッドなフォルムで見る人に彫刻を見るのでも、絵画を眺めるのでもない交錯する意識といったものを感じさせてくれる。

 なおかつ瞬間をとらえた表現の優しげな色使いなり柔らかいフォルムが、見る人にホッとした気分を与えてくれる。ジェームズ・ガン監督が惹かれたのも、表現としての面白さ以上に、表現された瞬間の日常を切り取ったようなビジョンに、自分の日常の一瞬を感じるなり望んでいた日常への妄想を感じて、入り込んでいきたい気分にかられたからだろう。それくらいの作品が、日本でなかなか観られないというのは残念なんでどこか大きなギャラリーなり美術館は、個展を開いて新作を作らせて欲しいもの。大きな場所が与えられれば大きな構想の作品を作ってくれるだろうから。見たいなあ、もっと。

 わははははは。憎い相手を罵倒するためにインタビューに行ったら、お前のところの方がひどい記事を書いていたじゃないかとつっこみ返され、そうでしたっけ読んでませんでしたでも言われてみればそうですねってな感じにけちょんけちょんに粉砕されている記事が掲載されては評判に。いったいどういう力学が働いてそんな自分を貶めることになる記事が載ったのかがいまいちよくわからなくって、ここで批判していた相手に突っ込ませて自分ところも悪かったんだねごめんなさいと禊を済ませ、さあ慰安婦問題は事実無根のものだったと仕切り直して攻勢に転じるための段取りなのか、ちょっと出過ぎてる感じがある記者を晒して勢力を削ごうとする内輪揉めなのか、いろいろと想像が浮かぶ。

 今の雰囲気からすると、論説委員にもなった総理のお気に入りを引きずり下ろす動きでもないだろうから、バカを晒して正直を見せて次へといったところか。あんまり勝手なことを書いたので、相手がインタビューの全文公表するぞと突っ込み、それなら自前でやりますからと折れたのかも。まさかバカを晒しても良いからアクセス稼げるネタをと突っ走った?  実は何も考えていない説が最有力。というか普通ならジャーナリストとして致命傷になりかねない不勉強ぶりが、傷どころか勲章になる風土が内にあり支える周辺がある状況が実は怖い。それはとてもとても狭い範囲での容認で、社会では通用しないものなんだけれど認めず称揚を謳歌して悦に入っているうちに削られ狭められて瀬戸際へと追い込まれるのだったという。すでに瀬戸際から溢れているかも知れないけれど。


【8月30日】 もう終わった感があったけれどもまだまだ競技が続いていた北京での世界陸上で、女子の走り高跳びが行われていて最後まで残った3人が誰もスリムで誰も高身長。ああいった体型でなければ出来ないし勝てないスポーツならば日本では、誰もそこに残れないかもしれななあと思ったのは、そうしたアスリートがわざわざ走り高跳びを選ぶほど、競技として日本では確立されていないことがありそう。だって食えないもん、女子走り高跳びでは。もしもそんな人がいたらバレーボールに行くか、バスケットボールに行くものなあ。

 なでしこジャパンにも選ばれてるサッカー選手で、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースに所属するゴールキーパーの山根恵里奈選手がバレーボールではなくサッカーに来てくれたのも、学校に望む部活がなかったからという幸運を受けたもの。そして女子サッカーという競技事態の認知度も上がってそこに行く価値が感じられたからで、環境的に陸上競技の跳躍競技に向かう価値を感じられない状況では、そういう人材才能があっても選ばないだろう。そこが日本のスポーツ行政の厄介な点。箱物ではあれやこれや言い合ってもソフト面、すなわち人材の育成で金も人も注ぎ込むなんてこと、ないものなあ。やれやれだ。

 そんな高身長でスリムな女子がブルマ姿でおなかとかおガッツリ見せはのけぞってくれる女子走り高跳びはいつか近くで見たいものだけれど、競争率の激しそうな東京五輪が終わった後でそういう機会もなさそうなのは、オリンピック後の国立競技場で陸上の世界大会が開かれる可能性が低いから。言われているように6万8000人規模に抑えそしてサブグラウンドも常設しない施設では、レギュレーション的に世界陸上なんかを開くことができない。それどころかインターハイだって開かれない。それもひとつの選択だけれど、今後において首都・東京で陸上の世界大会もラグビーのワールドカップも永劫、開かれないのを金のせいだと言って逃げる国や都にプライドはあるんだろうかと不思議になる。2番じゃだめなのかと言った蓮舫議員をあれほど非難したライトな人たちなら、拳を振り上げ逃げる国とか政府に文句言って良いはずなのに。安倍ちゃんはそれとも何をやっても正解か。なんだかよく分からないよ。

 過去にいったいどれだけの人が、原発の再稼働反対とかで国会前に集まったのかは知らないけれども、結果として原発は再稼働されてしまった状況を見ると、デモでどれだけの人間が国会前に押しかけたところでそれで変わる政策はなく、だから安保法制も3万人が10万人だろうと国会前に押し寄せそこで休日に何かを叫んだところで、明日からの政策に変化が出るとも思えないという妙なしらけがあって、心がどんよりとする。もちろん動いて欲しいという気持ちはある。一方でそんなことで動く政治があったら別のもっと悲惨な政策を、進めようとする人の波でそれが決まってしまう不安もつのる。

 ポーツマス条約で頑張った全権の小村寿太郎が持ち帰った成果を日本国民は腰抜けだと批判し、日比谷を焼き討ちしたのはまさにそうした動きの現れだった訳で、人は直接のデモに効果を求めず、しっかりとやってくれる政治家を選んで、その実行力にかけるのが最善の道ってことになる。でも去年の選挙でそうした変化は起こらなかった。だからこうなってしまったことを今は噛みしめるべきなんじゃないのかなあ。つまりは遅すぎたんだということで。<BR>
>  ただ次の政治を選ぶ際に今のこういう行動が、何かの影響を与えることもある訳で、10万人が30万人と増えて反意が広まることで次の政権を選ぶ心理が揺れて今とは違ったものを求めることになるかもしれない。そういう未来を見通した行動として今日、国会前に集まった人たちを讃えるべきなのかもしれないなあ。でも何も変わらなかったらやっぱり、安保の時と同様に虚無感から無政府主義とかに走る人とか出てくるかもしれない。それもまた拙い話なんで諦めないで前を向き、未来に意識がつながるような運動を進めていって欲しいもの。特定の誰かが持ち上げられては引きずり下ろされるような厄介ごとが1番拙い。だから言葉を発する人たちは慎重に。でも今の人って言葉への繊細さが本当に足りてないんだ。炎上しまくり。そこを教育できる大人はいないのかなあ。いないなあ。

 やっぱり1度くらいは雰囲気を見ておこうかと、栄まで出て久屋大通を歩いて「にっぽんど真ん中祭り」をいろいろと見物。雨がパラついていて落ち着いてみられる状況ではなかったけれど、それでもサブステージめいたところで繰り広げられる小さい団体の演技とか、メインステージに登場してくるそれなりな団体の演技なんかを見物。ストリートを練り歩く形とはまた違った、横長で奥行きもあるステージを使った演劇にも見えるストーリー性のある演技を眺めながらよくもまあ、これだけ作り上げてくるものだと感心する。別にこれで食べていける訳ではないし、年がら年中活躍できる訳でもないのに、やり抜くという意思はやっぱり人目に触れたいという思い、何かをやり遂げたいという願いが人にはあって、それを達成したいと頑張るからなんだろうなあ。学生ならまだしも一般人がのめり込む理由はそれしかないもん、プロでもなければ。

 ランドセルを背負った幼女が集団で踊ったりする舞台もあってちょっと見入ったけれども流石にカメラは向けられず。そして大津通の方で平針みたいにストリートを練り歩くタイプの演技をしていたんで行って沿道からいろいろと眺めていたら北海道大学の“縁”という、知っている人には有名な団体が出てきて見せてくれたよ赤いふんどし。もうそれがトレードマークになっているみたいだけれど、ステージじゃなく公道の上で衆人環視の中を披露するのも相当の覚悟がいるだろう。でもやってしまえるのは流石、本場のYOSAKOIソーラン祭りで鍛えられているだけのことはあるのかな。対抗して名古屋は白いブリーフを……ってそれはさすがにヤバいか。パンティー……はもっと無理。男子は良くて女子はダメなのは何か釈然としないけれどもそれが文化ってことで。

 さすがにずっとつきあえず、続きはニコニコ生放送で見ていたけれども会場では止んでいた雨がセミファイナルからファイナルへと向かう中で強まっていったみたいで、出演者たちも大変だった様子。でも踊っている姿はそうした苦しさはまるで感じさせず、足下もしっかりとしながら前に見せてくれたような凄まじい切れ味の演技を見せてくれていた。そんな中で目を引いたのが「Kagura」って中区のチームだったけれど、その切れ味のある演技を上回って犬山から来た「笑”」ってチームが最終的にはどまつり大賞を受賞。平針に登場してくれたのを見ていた時も、ダンスのキレは感じたけれども構成となると狭いあのストリートではちょっと分からなかった。

 改めてステージで繰り広げられた演技を見ると左右に前後によく動き、そして群舞もそろって目を引きつける。ここに限らず他も群舞の凄さを見せてくれていただけに、現場で被り尽きて見たかったって思いが募る。来年こそはステージ前でしっかりと見たいもの。それにあわせて帰省するか。手に職もなく実家に引きこもっているから帰省なんて不要になっているか。いや後者、マジにそんな可能性があるんだよなあ。他人を悪口の限りを尽くしてののしっていた人間の足下で行われていたことが、ののしっていた他人よりもひどいことをしていたのに、それに気付かなかったのか気付かないふりをしてスルーしていたことを相手に突っ込まれ、知りませんでしたとか言っちゃってたしるるからなあ。そんな適当な人間が偉くなる組織が続くのか。どうなのか。いずれ結果は出るだろう。やれやれ。


【8月29日】 何が何だか。例の2020年の東京五輪で使われるロゴマークがベルギーの劇場で使われているものに似ているという問題で、デザイナーは参考にしていなかったという証拠としてデザイナーが最初に上げてきた案ってのが公表されたんだけれどこれはこれで「T」という文字を図案化したものとしてわかりやすかったんだけれど、でもそれだと決定したデザインの添え物として同じスタイルでアルファベットや数字がちゃんとデザインされていたことで、ただ「T」だけをパクったんじゃないと訴えていたのがまるっとすっ飛ぶ。だって違うじゃん、そのアルファベットと原案らしいデザインのスタイルが。

 三角形の一辺にカーブをつけて曲線にして優美さを出したあたりが決定したロゴマークのひとつの特徴で、それは添えられた日の丸をイメージした赤い丸とも重なるデザインになっている。アルファベットや数字もそうしたスタイルを踏襲して三角形が使われている部分はことごとくアールがついたものになっているんだけれど、でも最初に描かれた原案というのは斜線はまっすぐ。アールなんてどこにもない。それでアルファベットも作ってあったら良かったんだけれど出されたものは違ってた。

 あるいは最初、そういうデザインですべて作ってあったのかもしれないけれど、決定した案を世の中に見せるだんかいで、原案を示すわけにはいかないとアルファベットも全部アールつきのものにすり替えたのかもしれない。結果、三角形ならシンプルでわかりやすかった文字がどうにも見づらくいったい何が図案化されているのか分からなくなってしまった。そもそもが決定案だって「T」のはずなおにいじって「L」に見えるようにして、それがベルギーの劇場のシアターの「T」とリネージュの「L」を取り入れたデザインに重なってしまった。どうして最初の案でアールをつけたものにしなかったのか。そこがよく分からない。似たものが多そうではあるけれど。「T」といじろうなんて人、世界に5億といるだろうから。

 結果、ますます混迷を深める結果となっているこの騒動のどこで終止符が打たれるか。著作権的にどうとか登録商標的にこうとかいってるレベルを超えて不穏さが漂い使いづらくなっている。何よりクリエーターとして前例があったならそれに驚き恥じつつでもしかしといった言葉で世間を納得させればいいのに、まるで違うと突っ張るからいろいろと掘り返される羽目となる。プレゼン用に作られたらしいロゴマークの展開例、空港や渋谷の街角のものが既存の画像のレイアウトを引っ張りそこにはめこんだらしいと言われ始めた。

 内輪向けのプレゼンなら、写真をあちらこちらから集めてきてコラージュしてイメージを伝えることはあっても良い。ただクリエーターならそういう時であっても、探してフリー素材を使うなり、自分で撮りにいくなりするのがプライドってものなのに、あっさり引っ張り過ぎている。それもたくさん。何でだろうなあ。そういう時代なのかなあ。ともあれ大変そう。明日明後日にも何か動くかな。しかしロゴマーク問題で目が逸らされた感じだけれども揉め始めた最初の問題ともいえる新国立競技場でも問題は山積みになっている。次から次へとよくもまあでてくるもの。隣国とか地球の裏の国を笑ってる場合じゃないよまったくもう。

 夏場なのに温暖化で死ぬほど暑い状況になりそうなのに、観客席を冷やす装置を外すとか行った無茶を誰かが言い出して、IOCあたりから突っ込まれそうな予感。観客を殺すのかと。先進国の大国でそれすらできない阿呆なのかと。考えれば分かるリアクションなんだけれど目の前の予算削減という問題の解決を最優先したときに、そうした案配がまるでできなくなるのが官僚機構って奴なのかもしれないなあ。そもそもの設計を改めるしかないってことなんだろうけれど。そして大会に間に合わないなら2019年のラグビーW杯の開催権を剥奪するという話も浮上。そりゃそうだ。2万人規模で観客が減ってその試合が10試合とかあったら20万人が減って1人あたりのチケットがいくらだ、2万円としても40億円とかが減ってしまう。どうすんだ、って話にそれはなるわな。どうするんだろう。でも誰も責任をとらない。そんな国に生きている。やれやれだ。

 米子で日本SF大会が開かれているようだけれど、遠くて行けそうもないので代わりに来年の伊勢・志摩での日本SF大会に今から行こうと家を出て、新幹線で名古屋まで来て近鉄に乗ろうとしたものの、サミットがあってうろんな奴は大会を目前にして伊勢・志摩から追い出されそうなんで、今から並ぶのは諦めてとりあえず実家へ。途中で名古屋駅のそばでYOSAKOIをやっていて、そうか今が「にっぽんど真ん中祭り」こと「どまつり」の真っ最中かと知って調べると平針での開催が今日だったんで、家から最寄りの平針駅で降りて通りに陣取りしばらく待ってそして始まった踊りを幾つか見物する。

 基本的にはYOSAKOIなんだけれども幾つかルールがあるみたい。あとダンスも伝統的なものもあればスタイリッシュなものもあってと、形にそれほどはまらず和風の衣装を着た集団によるアクションといった感じのものを見せてくれた。各地にある会場を回っているみたいで平針だけで踊るってことはないみたいで、自分が好きなチームを追ってあちらの会場こちらの会場を回る人もいるみたい。それほど知らない身ではまず、観て何が面白いかを確認したところによれば山梨県から来ていた「甲斐◇風林火山」というチームが切れ味もあって観ていてとっても迫力があった。

 聞くと結構な人気らしく「どまつり」でも賞をとったことがあるみたい。今回もあるいは上に来そうなチームを間近で観られたのは良かったかも。追いかけていって次にやる場所で観てくるか。あと名古屋でのイベントなのに結構遠くから来ているようで、東京農業大学に東京理科大学といった東京とか関東にある大学のチームが乗り込んできていた。大学にそういうサークルがあるくらいに、YOSAKOIが人気なのも改めて分かったし、そもそもが「どまつり」だって始めたのはYOSAKOIソーラン祭りに参加した名古屋の学生が立ち上げたもので、そのYOSAKOIソーラン祭りも北海道の若い人が立ち上げたもの。自分の燃えたぎるパッションを発散する場所として止められているだあという理解はあったけど、はた目にはどこかヤンキー系でタケノコっぽさも漂わせて、自分とは相容れないものかとも思っていた。

 でも実際に観てみると楽しそうで面白そう。疲れそうだけれど鍛えられそう。なにより観てもらえる嬉しさがある。スポーツでは競技場でしか観てもらえないけれどこれならダンスのイベントに行けば大勢に観てもらえる。「どまつり」なんてピークで200万人、そうでなくても150万人は集まるイベント。そこに参加し自分を表現できると思えば、やってみたくなっても不思議はないってことで。自分自身が関わることはないけれど、あって不思議はないしこれから広がるものだという理解を得た。それだけでも意味のあった観戦。明日も久屋大通に行って見てくるか。

 そして米子では星雲賞が決まったみたいで、メディア部門では「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」が受賞。出渕裕監督って今まで星雲賞って獲ってたっけと調べたら、2003年の自由部門で人間型ロボットのHRP−2を川田工業とともに受賞してた。岐阜での大会かあ、表彰式に来てたかな、ちょっと記憶にない。アニメーション作品は数多くあって、どれがとっても不思議はないけど「ヤマト2199」がとっても不思議はないというシチュエーション。そこで「楽園追放」に流れず「ヤマト2199」に向かうところがSF界のレジェンドへの敬意であり、あるいは年齢から来る認知度の差違でもあるのかも。文句はないけどそうでない可能性も認めたいっていうか。「楽園追放」は他に何かとらないかなあ。

 ノンフィクション部門では「サンリオSF文庫総解説」が受賞し日本長編部門は藤井太洋さんの「オービタル・クラウド」が受賞とこれもまあ納得の領域。海外は読んでないからよく分からない。漫画はなあ、「もやしもん」は悪くないけど他にもあるような気もする中で、結局は誰もが読んでいる作品に落ち着きやすい人気投票的方式、なおかつ日本SF大会に参加する傾向を持った人たちによる投票というものが生んだひとつの結果といった気がする。それなら「薔薇のマリア」でも良い気はするんだけれど、そこはそれでこれはこれか。「クジラの子らは砂上に歌う」が入ってくる時は来るのかなあ。「ダンジョン飯」あたりも来そうだなあ。激戦の漫画部門。これからも目が離せない。イラスト部門はそして水玉螢之丞画伯に。追贈にしかならない寂しさはあっても、異論のない受賞。おめでとう。そしてありがとう。


【8月28日】 埴輪の日。土偶の日ではない。それが10月9日。そしてニュースでは「お笑いコンビ、ピース又吉直樹の小説家デビュー作で、第153回芥川賞を受賞した『火花』が来年、映像化されることが27日、分かった」とか。それがNHKでもフジテレビでもなく東宝でも東映でもなく、米動画配信サービス最大手の「Netflix」からのストリーミング配信になるとか。これをもって「世界に6500万人の会員を持つ同サービスを通じ、又吉の世界観が海を越える」って書くのは、ネットだからといって海外で観られる訳でもないし、海外のが観られる訳でもない状況を鑑みれば勇み足な気はするけれど、それをおいても今もっとも客のとれそうなコンテンツを、テレビではなく映画でもなしにネットで発信するというこの衝撃を、テレビもそうだし新聞も含めてもっともっと噛みしめないといけないだろう。

 ミクシィの人気ゲーム「モンスターストライク」のアニメ化が、テレビじゃなくYouTube向けに行われるというのが7月に発表になって、会見を聞いててひとつのメディアミックスにおけるパラダイム的変化が起こっていて、テレビという媒体、それを観る視聴形態の変化というか停滞に伴いネットという立ち位置、動画配信サイトという媒体の浸透が起こっているだなあと感じられたものだったけれど、又吉さんの「花火」までもがネットで映像化されて配信されるという状況は、そういう意味合いがさらに加速しているように感じられなくもない。

 もちろん2000円しない本ですら買われず、無料で読める図書館に2000人の予約がはいって、閲覧は2時間以内にしてくれとかいったお触れが出たりするようなコンテンツに対する人の向き合い方が割と普通な状況で、ネットのような場所に向かい対価を支払ってまで能動的に観ようとする人がいるのかどうか、それが「火花」であっても、というかメディアで評判になったからこそようやく食指を伸ばした人たちが、ネットという場所で配信される映像に向かうかとうところでちょっと疑問もあったりする。一方で、持ち歩くスマホでその場で観られるコンテンツ、寝ながらでも寝る前に観られる気楽さもあるコンテンツならあるいはといった可能性も浮かぶのだった。

 ちょうどこの日に発表になった「デジタルコンテンツ白書2015」なんかでも、コンテンツのデジタル化がどんどんと進んでいてネットワーク化も普及しパッケージが衰退していることが示されていた。音楽なんかはライブ市場が膨らんでいてデジタル化率が低いけれども映像作品においてはデジタル化でありネットワーク化は必然の流れ、だからこそ「火花」が動画配信サイトから提供されてももう、驚くことではないかもしれない。あとはどういう形態での配信になるかが注目。BeeTVみたく短い映像を連続でつなぐか。どかっと30分のドラマみたいな重たい作品にするか。「モンスト」のアニメは7分で、それはYouTubeの滞在時間が10分くらいだからという分析からだと会見の時に話してたっけ。やっぱりそうなるかな。あとは有料なのか無料なのか。想像すると興味深い一件。時代が変わるかもしれない一件。ところでそもそも「火花」って面白いのか。そこが肝心。

 「デジタルコンテンツ白書2015」に関しては、去年も開かれた発刊記念セミナーが今年も開かれるみたいで9月4日に城西国際大学の紀尾井町キャンパスってところで白書に執筆している面々を招いてのパネルディスカッションが開かれる様子。それに加えて去年も確か登場したPIPっていう、濱野智史さんがプロデュースしているアイドルユニットが登場してライブパフォーマンスを繰り広げるようで、1年が経過してもちゃんと続いていたんだなあという感慨を覚えつつ、その白書に濱野さんが別項としてPIPの現状にも触れていて、メンバーが半分以下に減ってしまって厳しいってことを話してた。でもアイドルビジネスの将来を考える上で必要なモデルだと信じるという言葉も。その意気を買うならまだまだ続けていってくれると信じたいけれども、果たして。

 そしてさいたまスーパーアリーナへと出向いて「アニメロサマーライブ2015 −THE GATE−」の初日を見物。のっけからアイドルマスターとμ’sが出てきてアイマスならではの「READY!!」を演り、ラブライブ!としてよく聞く「僕らは今のなかで」をやってくれたりして耳を煽ってくれたあと、キング・クリームソーダが出てきてmotsuさんみたいな人が前に出たことあるかもとか話していたりして、それは妖怪の仕業だということになったりしてなかなかの楽しさ。相手が子供ではなくても耳に知ってる曲だとやっぱり盛り上がる。それからBACK−ONを挟んで野水いおりさんが登場して「棺姫のチャイか」とか「空戦魔道士候補生の教官」とか演り、井口裕香さんが登場して「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」とか「とある科学の超電磁砲S」とか演ってくれた。

 何を聞いても楽しいけれど、やっぱり耳に見知った楽曲があると一安心。アニメが流れる曲とそうでない曲があるんですぐには思い出せなくても、なじんでいるとちゃんと乗れるのだった。以後、Rayさん昆夏美さんといったところも登場してさすがな歌の巧さを見せてくれた後に黒崎真音さんでひとつのピークに。そして呼び込んだTRUSTRICKのボーカルが神田沙也加さんてそれはあの神田沙也加さんかと驚きつつ、アニメ好きで声優を目指してアニソンも歌うようになった身としてアニサマのステージに立ったうれしさはやっぱり大きいものがあるんだろうなあと想像する。歌ったのは「銃皇無人のファフニール」の主題歌「FLYNG FAFNIR」。その顔立ちその佇まいにその声がやっぱりスターな要素を持っていた。

 そして休憩前のトリとして登場したアイドルマスター。出てくるだけで上がる歓声にはやっぱり凄いものがある。もしかしたら歓声だけならそのあとのももいろクローバーZよりも大きかったかもしれないのは、そこがアニソンのホームだからだろうけれど、でもももいろクローバーZもさすがなもので、三石琴乃さんが演じるうさぎちゃんの声による煽りを受けて登場しては、「美少女戦士セーラームーンCrystal」の楽曲とか「ドラゴンボールZ」の楽曲とかを、メンバーの1人の怪我も押して登場してしっかりと歌い聞かせてくれるところはさすがももクロ。伊達にアイドルの世界でトップに立ってないグループだってことで、とてもとても良いものを見せてもらいました。

 テーマがGATEってこともあって今回は「STEINS;GATE」とのコラボもあったみたいで、グッズ販売でコラボTシャツとか売ってたりしたけど買わず。演目でもいとうかなこさんが登場してアニメーション「STEINS;GATE」の主題歌とあと「STEINS;GATE 0」だっけ、たぶんゲームの歌も歌ってくれてこちらもさすがに響くその歌声。声優さんが登場して歌を唄ってくれるのもファンとしては嬉しいけれど、歌として聞ける歌手専門の人たちの歌はやっぱり本物の力がある。どっちが良いじゃなくどっちも良い。だから作る方も声優でアイドルで歌も歌えば万々歳じゃなくってアニソンというカテゴリーにおいて歌を専業にしていける人をちゃんと、育てて送りだして欲しいなあ。ANIMAXがやってた全日本アニソングランプリが終わってしまった今、そういう人がどこから出てくるかちょっと見えなくなっているから。

 そんな全日本アニソングランプリ出身の春奈るなさんが会場の後方から移動車に乗って登場して歌ってくれたのがアニソン好きとしても嬉しい一幕。さらに同じアニソングランプリ出身でグランプリを獲得した鈴木このみさんが出てきて2人で「魔法少女まどか☆マギカ」のオープニングを歌ってくれた時は肌に戦慄が走った。やっぱり良い歌。そして良い作品。それを巧い2人が歌ってくれる。これだからアニサマはやめられない。でもこのコラボならANIMAX MUSIXでもできそうな気が。どうなるか。やってくれるか。ちょっと期待していよう。そこでとりあえず退却。メロキュアやμ’sやLiSAさんを聞けなかったのは残念だけれどまたいつか、どこかで聞く機会もあるだろう。今年はこれで打ち止めだけれど来年もあればまた行こう。しかし今年はアリーナ席になってた関係者系。だからこそ味わえた全身で被るように感じられる観客の声援。あの中で歌えるアーティストは幸せだよなあ。やっぱり。良いイベントに育ったなあ。


【8月27日】 サンライズフェスティバルで「境界線上のホライゾン」が上映されると知って、チケットを探したけれどもだいたいが埋まっていて最前列くらいしか取れなかった。何という人気ぶり。放送が終わってもう随分と経つのに最終的には満席になるくらいアニメーションとしての「境界線上のホライゾン」が好きだった人がいるってことが分かって嬉しかったけど、それでも第3期が作られそうな予感はない。3冊に及んで六護式仏蘭西と対峙しネイトがママンとど突き合いしてそして武蔵が羽柴・秀吉率いるM.H.H.Rを相手に戦って里見・義頼らを失う悲惨な戦いが描かれた展開を、アニメにするのも難しければ終わってのカタルシスもないからなあ。

 いっそだったら2クールを前庭にして第3巻と第4巻をまとめてアニメにして、挫折から再起までを一気に描けばそれで腑に落ちるところも多そうだけれど、全6冊に及ぶ膨大な文庫のどこを選んでどうつなげ、そしてどう絵にしていくかを考えただけでも大変な作業。1巻の頃と違って分厚さも増しているし。それをやりとげるなら監督の小野学さんがサンライズのスタジオをそれこそ1つの会社にしてしまうくらいに確保して、1年2年かけて準備しないと難しいだろう。そうした状況が裏で進んでいたら嬉しいけど。今このタイミングでサンライズフェスティバルで上映された意味とかがそこにあったら良いんだけれど。単純に巡り合わせだっただけろうけれど。どっちなんだ。

 さて上映されたのは1期から本多・忠勝が立花・宗茂を相手に戦いながらも最後は三河消失とともに消えていく傑作エピソードと、そして葵・喜美が本多・二代を軽くしのいでその強さを見せつつ武蔵が決断をして教皇総長に挑むホライゾン・アリアダスト奪還へと向かう転換のエピソード。前者だと鹿角が可愛かったし後者では喋るアデーレの声が良かった。本当ならちょっと前の本多・正純がズボンをずり下ろされる場面を大きなスクリーンで最前列から見上げるようにして浴びたかったけれど、物語的にはやっぱりアリアダスト教導員の面々が決意し歩み出すあの場面をおいてないから仕方が無い。それにしても葵・喜美は強いなあ。武蔵最強かもしれない。

 そして第2期からは英国へと向かおうとする武蔵を西征西班牙が追撃をして総長連合が襲ってくるところだけれど、そこではやっぱりフアナさまの「火事よー」と叫ぶ直前、何かを掴んだ場面が良かった。というか掴まれてみたかった。どんな感じだろう。掴まれると。あるいは掴むと。そんなフアナさまが登場しつつセグンド総長と並び武蔵を相手に最後の戦いを繰り広げるエピソードがラストに流れ、次から次へと繰り出される武蔵の知略機略が西征西班牙をしのぎかわして勝利を掴み、そしてメアリと立花・ぎんが武蔵へと来て次へと向かうところでまずは幕。途中に巴御前や最上・義光やネイトママンや毛利・輝元やルイ14世や北条・氏直も出てきてさあこれから登場だ、って期待させても結局未だ見えず。どんな声で喋ってくれたんだろう。その声が聞ける日が来るとは限らないけれど、来ると信じて待ち続けよう。完結より前に何かあると嬉しいけど、そもそも完結っていつになるんだろう。

 最初に撃たれたのがカメラマンではなかったら、カメラに写ったのは歩み寄る銃撃犯ではなく撃たれて崩れ落ちる女性リポーターだったんだろう。もしかしたら銃撃犯がSNSにアップしたという画像には、撃たれる瞬間のカメラマンと逃げながら撃たれる女性リポーターも写っていたのかもしれない。テレビの前で人が襲われる映像ならそれこそ豊田商事の代表襲撃事件でありオウム真理教の教団幹部刺殺事といったものが日本にもあって、その度にどうしてカメラは襲撃を見逃したんだという声があがり、あるいは狙われるほどの人物をどうしてガードしておかなかったんだという声もあがるけれど、今回はまるで日常の中で元同僚という男が起こした事件。防ぎようもないし誰も守りようがない。

 分からないのは襲撃が特定の人間を狙ったものか、元の職場を恨んで誰でも良いからと襲ったものかってところだけれど、女性リポーターの言動に対する怨恨説といったものも取りざたされているからあるいは、そのタイミングを狙っていたのかもしれない。だとしたらカメラマンはとばっちりだけれど殺人に誰なら殺されていいということはないからやっぱり銃撃犯は非道であり、その心理を説明して罰を受けて欲しかった。追い詰められて自殺。銃で襲えて銃で死ねる社会っていうものはいつ、またこういうことが起きるか分からないし今年は映画館が襲撃される事件も頻発していたりする。少なくない人がなくなっていながら凶器となっている銃はいっこうに取り締まられる気配はない。人が銃を使うなら人をどうにかしろたっってどうにもならないなら銃をどうにかするしかない。にも関わらず……。不思議な世界に生きている。

 「ムーンスペル!!」は読んだけれどもその後も幾つか読んでいたけれども今どうだっけ、って尼野ゆたかさんが何とSFでもって登場。といっても原作があるボカロ系の作品で楽曲を作ったCazさんという人が原作となり、3DCGの映像を寄せたIKEDAさんが原案となった「CORRUPTION GARDEN コラプション・ガーデン」(PHP)は、そこで描かれる世界の構造がなかなかに多層的で面白かった。出だしはエスという侵略者に襲われている宇宙空間にある惑星だかそのあたりで、その侵略者と戦うために戦闘を学ぶ少年少女が集められた学校があって、そこで主人公の少女は結構な好成績を収めている。妹もいて戦闘の天才だけれど姉と違って学力はひまひとつ。そんな2人の反発し合いながらも認め合うような関係が崩れる。

 妹は何かにそそのかされたか何かを知ったかして逃亡。その際に警備にあたっていた人間を殺害してお尋ね者になる。姉はそれでも優秀な成績で学校を出て最前線へ。圧倒的な力を見せてエスを倒しているけれど、それでも苛烈になっていく戦いで少女は多くを失う。補給に戻った空母で支えてくれた者たちが一瞬の攻撃で藻屑となり、翼を並べた者たちが次の瞬間に塵と消える苛烈な戦場の描写は、読むほどに胸が痛くなる。さっきまで喋っていた人が動かなくなる死の絶対。それに耐えつつひとり生きて戦い続ける少女の悲痛さが描かれる。でもそんな世界がだんだんと歪んでいく。崩れていく。

 消えた妹との再会。親友が見せる不思議な態度。そこから浮かんで来る世界の構造。宇宙のビジョン。人間を指導し導く人工知性のような存在が持つ二重性が、悪夢のような戦場の外側にある世界を仄めかせ、主人公の少女やその周辺にいる者たちの正体を浮かび上がらせていく。そこは人間にとって幸福な場所なのか。戦場であらがう少女は何と戦い何を得ようとしているのか。勝利はあるのか。勝利した先に何があるのか。そんなビジョンを見せてくれる。可能ならそうした世界をさらに顕在化させ、それに絶望させた果てにもう1枚、外側にある世界を描いて驚きをもたらしカタルシスを与えて欲しかったかも。それにしても山口優さんが一迅社から「サーヴァント・ガール」を出し、PHPかはらこれ。四六ソフトカバーが大隆盛なラノベっぽい単行本世界に本格SFの息吹が見えつつある。まあ気付かれないで終わるんだろうなあ。見えてなさそうだもんなあ、SFな人たちには。

 キャラクター文芸について考えるお仕事。キャラクターが立っているのは必然だけれどそれだけで押し切れるほど文芸の人は優しくないんでやっぱり物語であり文体なんかも必要になる。でもそれがいくら巧みでも設定に抜けがあったりキャラクターが平板では飽きられてしまうといったところでどの要素をどんな案配でもって組みあわせていくかってのが重要になりそう。もちろん最適解ってのはなくてこの設定ならこの程度のキャラでストーリーで見せるとか、このストーリーだけどキャラで引っ張り納得さえるといったバランスが、個々に整っていればそれはそれで読めるものになるんじゃないかなあ。あとはだから作り手の意識と書き手の客観性。それらが重なったところに明日の大ヒット作は生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。だから見守っていこう。その行方を。


【8月26日】 SFマガジン2015年10月号の伊藤計劃特集に掲載の前島賢さんによる評論「ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』〜以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?〜」。そのタイトルが紹介された段階で毀誉褒貶、何だこれはと激怒する人が現れゼロ年代にすっこんでろとか過激な言葉も飛び交っていたけど、読んだら何のことはない伊藤計劃さんという人となりがどういう文化状況の中で形成され、そうした文化的背景がどういう感じに作品に反映されているかを分析した批評でありエッセイであったという。いや分かっていたけど、そのタイトルを見た段階で。

 なるほど添えられた副題的にある「〜以後とか以前とか最初に言い出したのは誰なのかしら?〜」への答えがないってところで、何だよ言えよ言っちゃえよと思ったし羊頭狗肉だなあとも思ったけれど、メインとなる「ボンクラ青春SFとしての『虐殺器官』」である部分、つまりはサブカルに浸りオタクでもあっただろう伊藤計劃さんという作家のメンタリティを前後する文学アニメ漫画ゲーム等々の中から探り、それらが形作る空間の中に位置づけて意義を探ろうとしたという意味に置いて、多分に納得できるも内容になっていた。

 というか、そういう言説は前々からあって、というよりそもそもが「虐殺器官」はメタルギアソリッドだし、藤原とうふ店とかときメモとかからの盛り込みもあるって話題に上っていた上での「ボンクラ青春SF」認定なので、そういう流れを見知っていれば何を言おうとしているかは、そのタイトルから十分に分かっただろう。そうした側面がどこか祭りあげられる風潮の中で黙殺され気味になっていたから、ここで改めて語っておく必要はあったし、そう判断したからこそ塩澤編集長は前島さんにそういう批評を依頼して載せたのだろう。そこまで詳しく追いかけていない人で、作品に感動をした人がいきなり「ボンクラSF」と言われて激怒するなら分かるけれど、少なくともSFの周辺でそうした考察を察知している人は、読む前からタイトルにだけ激怒してはいけないと思うのだった。

 あるいはそうした引用を漫画でいう欄外の作者コメントめいたものと見るか、作品全体、作家総体を形作っているものととるかで判断の分かれることはあるけれど、前者の立場から些事を大げさに書き立てるのは間違っているという反論はできても、最初から投げ出すのはやっぱり勿体ない。ここは投げずに改めてテキストと対峙してみて、それは本流か傍流かを検証しつつ伊藤計劃という作家、そのテキストを純粋にでもカルチュラルにでも検証し論争してくれれば、前向きな世界が広がるだろう。殴り合ったってあざけりあったって何も変わらないのだから。うん。

 ソニーや日立が出ないCEATECに東芝も出ないことになって日本を代表するエレクトロニクス企業のそれこそ過半がいないイベントに、いったい何の意味があるんだって思わないでもないけれど、それだったらいっそ空いてしまうスペースを、ニコニコ技術部だとかニコニコ学会βだとかMakeな人たちに使ってもらって、そこで自作の驚きと面白みの発明品たちを並べてもらって来場する企業の人たちに見てもらうことで、次のビジネスの機会も生まれるんじゃないかなあ、なんて思ったり。

 というか、すでにCEATECにはそうしたベンチャー系を紹介するコーナーがあって、去年とかスケルトニクスが出ていてものすごく話題になっていた。個人やグループが自分たちのアイデアで何かを作れる時代。それに企業の本格的な生産力やら技術力が乗ればとてつもないものが出てくる可能性がある。そういうBtoBのマッチングの場にしつつ、いったい次に何が流行りそうなんだろうってことを見極めるマーケティングの場にしつつ、子供たちが来て面白い発明品に夢中になって自分でも作ってみようと思う、そんな教育の場にすれば日本のエレクトロニクスとかAVとかの未来も少しは明るくなるんじゃないのかなあ。

 あるいはMakeな人たちの中から優れたアイデアを持っていそうな人たちに集まってもらい、会場内に出展している電子部品や電機部品のメーカーにも協力してもらって、そこにある品々で時間内に画期的な発明品を作ってもらう「Makeの達人」とかってコーナーを展開すれば、手に汗握るスリリングな技術バトルを楽しめ、そして子供たちにも興味を持ってもらえるような気がするんだけれど。おい部品が足りないぞアクチュエーターが置いてないぞセンサーはどこだあそこにあるじゃないかムラタセイサクくんに搭載されているぞ使え1台さらってバラしてパーツを引っこ抜け。なんてことも起きたりして。

 それは流石に反則だけれど、ブースまで行きプレゼンをしてどうしても必要と頭を下げればあるいは涙を呑んで1台、進呈してくれたりするかな。そんな企画が立ち上がれば面白いんだけれど、流石にこれからの短い期間では無理だろうなあ。でもすでにあるものなら持ち寄れる。スペースとテーブルがあれば展示だけなら何とかなるなら、誰かが走り回れば可能かも。本当なら1カ月とか後のデジタルコンテンツエキスポをそっちに吸収すれば一石二鳥なんだけれど、同じ経済産業省が管轄してても家電業界が主体のCEATECとデジタルコンテンツ協会が仕切ってるDCエキスポでは合流は無理か。そんなセクト主義と大企業偏重が未来を潰すと自覚して、これを機会に大改革があればと願おう。

 エヴァだエヴァだ「新世紀エヴァンゲリオン」のBDボックスとDVDボックスが発売になったってんで秋葉原のヨドバシカメラに寄ったけれども店頭にブツはなし。想像するなら予約でいっぱいだったってことでAmazonと競い合って安値競争をしている店に人は集まるんだなあと諦め、ここなら確実にあるだろう池袋はP’パルコに入っているエヴァンゲリオンストアに行って、プラス1000円でBDボックスには第壱話、DVDボックスには第二四話のアフレコ台本がセットになった限定版をまとめて買ってこれで今年最大のプロジェクトを終了する。懐も終了になる。これからどうやって生きていこう。

 LDこそ買ってないけど「新世紀エヴァンゲリオン」は最初に出たDVDを単品で揃えてそれから劇場版のLDがボックスになったものを買い、さらに最初のDVDボックスを今はもうない秋葉原のヤマギワソフト館で拾って見ようと思えばいつだって見られるようにはなっているけど、今回についてはDVDボックスがテレビ放送版をそのまま収録してあって。リアルタイムで見たのがまだビデオを持っていなかった時代に最終の4話くらいをどうにかこうにか見た程度で、DVDでは幾つか修正もされていたんで本放送版を見たことがほとんどなかった。それが見られるのなら買うしかない。そういうものだ。

 そしてBDには劇場で最初に上映された「DEATH」が入っているそうで、(TRUE)とか添えられていないバージョンを見るのはこれしかないならやっぱり買うしかないのだった。あとは「魂のルフラン」が奏でられて量産型が空を舞うシーンで終わるバージョンとか。これはLDの劇場版ボックスに入っていたんだっけ。どのみちLDのプレーヤーが壊れているから持っていたって意味がない。そんなこんなで両方揃えたテレビ版「エヴァンゲリオン」だけれど、今みたいのはやっぱり新劇場版の完結編。作られているのかどうなのか、まるで情報が入ってこないし庵野秀明監督は来年の「ゴジラ」もあるだろうから忙しさにかまけていそう。でもそういう間隙をぬってフッと出てくることもあるから、これからの情報に注意を払っていつ、公開になるのかそれともならないのかを見極めたい。それまではテレビ版を見返そう。「アスカ来日」とかを。

 会見したらしい例の国会議員だけれど、未公開株の国会議員優先枠についてどう読んだって自分でそういうのがあるからとしか読めない文章をそうじゃないと言い張る無茶がどうにも息苦しい。説明になってないのに突っ張ると、司直もいよいよ業を煮やして一罰百戒と動くことを恐れないのは若さなんだろうか。ただのポン酢なんだろうか。そんな国会議員に週刊誌が追い打ちをかけているけどこれがどうにも筋が悪い。どうだって良いじゃん相手が誰だろうと何だろうと。18歳以上だし違法じゃないなら気にすることで生まれる偏見もあるならここはどうでも良いじゃんとスルーしたいところ。

 というか問題は国会議員枠とやらの実態な訳でそこで追い打ちをかけられないのが何だかなあと思うのだった。ネタの弱さも畢竟、浮かんでくるけど以下に。ただ一般にはむしろこっちの方がいといろと取りざたされるネタってところがどうにも辛い。これで性的嗜好を恥として辞められると偏見が固定化されて中傷を招きかねない不安を抱く。公人として“売買春”を問われた時にモラル的に拙かったと感じて辞めるのが、道としてはすっきりしているけれどそれだって、偏見に屈したことになるからなあ。どうしてこういうところに突っ込むかなあ。それが週刊誌って奴なんだとしても。今はだから問題の相手をパートナーに迎え幸せになって、取りざたされる偏見を払拭して欲しいもの。あとどっちがどっちなのかもちょっと知りたい。


【8月25日】 帯に「怪作」なんてあるから、どれほどヤバい作品なんだろうかとおそるおそる手にとって読んだら普通に面白いSFだった松屋大好さんの「宇宙人の村へようこそ 四之村農業高校探偵部は見た!」(電撃文庫)。コンサルタントとして活躍していた母親が、突然仕事を辞めて病気になってる父親の面倒を見るために実家に戻ると言い出して、それに着いていった息子はそこ、四之村という場所でも村長よりさらに高い位の伝統ある名家の出身だと知り、そして通い始めた学校でも、校長から教師から下にも置かない態度でもって丁寧に丁重に扱われる。

 何でもその村に住には不思議な力を持った人が多く住んででいて、主人公の家はその中でもぬきんでた力を持っているらしく、だから母親も全世界で活躍できて、なおかつ未だ若いままだというからやっぱり不思議。じゃあ息子はというと、とりたてて力は見えないけれど、それでも周囲から名家の坊ちゃんとして持ち上げられる。そこに起こる事件。農作業をしていた少年の前に現れたひからびた死体。傷跡もないのに血が抜かれた不思議な状態の死体がどうしてできたのか。そして発見された首無し死体。犯人は学校の女子生徒と疑われるが本当なのか。そんな不思議な事件が次々に起こっては、少年とそして彼が入った探偵部の部長という少女がいっしょに解決に向かう。

 事件だったら警察の出番じゃないかというけれど、そこは不思議な村だけあって、それぞれの事件が起こった地域のコミュニティで対処するようになっているとか。だから学校で起こった事件は探偵部か、別にある警察部ってところが調査に当たることになっている。なおかつ不思議な事件が起こったところで、住民たちは誰も驚かない。吸血鬼がいたて不思議はないし首くらいねじ切る力を持った人がごろごろいる。引っ張るヒロインの部長だって、背中に毛が茂っていて弁当は生肉の塊で、そして半端ない力の持ち主で、なぜか全裸で鉄のような大根を手刀でたたき切る。そんな奇妙な人たちと奇妙な事件から村の不思議さが見えて来る。

 そんな村がどうしてできてここまで来たのかは判然としないけれど、どうやら昔に宇宙人がやって来て、その子孫たちが暮らしているらしい。そして行く先々奇妙な人たちがぞろぞろ出てきて起こる不思議のめまぐるしさは、遠い彼方の宇宙を旅していろいろな種族の人と出会う物語のよう。それが村レベルで起こっている感じがあって、どこか懐かしいSFの香りを感じさせられる。種族が違っているのに理解し合ったりなれ合ったりしていないのも面白いところか。最後のエピソードとか残酷さはあるけれど、そういうものかもしれないと思わされるし。次はどんな種族が何が現れるか。続くと良いな。松屋大好さんは吉野家は嫌いなのかな。

 高殿円さんの「剣と紅」が原作って訳ではないみたいだけれども大河ドラマで取り上げられるなら井伊直虎を描いた「剣と虹」にも注目が集まって、小説が売れてこれを原作に映画でもって話になってくれたら面白いけど、でも大河こそが正規とかって意識から埋もれていってしまうんだろうなあ。そんな井伊直虎は戦国時代に活躍した女地頭で一族を殺されたりしながらも養子を守り領地を守って井伊の家が戦国を越えて江戸時代すら息抜き幕末へと至る道を切り開いた偉大な女性。だから取り上げる意味は存分にある。ただその生涯において織田信長の桶狭間、豊臣秀吉の天下取り、そして徳川家康の関ヶ原といった感じに大舞台に立って大活躍したってところがあまりない。

 時代的には織田信長とほぼ重なっていて没年もいっしょではあるんだけれど、地域的には遠州あたりから盟友となる徳川家康が暮らす岡崎あたりまで。その範囲で起こる出来事を描いてもダイナミックな展開にはならないから、ここは歴史をゆがめてでも織田信長と対比させ、今川義元あたりとも関連させつつ徳川家康を子のように愛でるオネショタな姉さんとして描いてくれれば面白くなるような気が。今と地続きの幕末じゃないんだし何やったって良いじゃないか。手に武器を取って桶狭間から三方原から長篠から金ケ崎から、信長家康がいる場所に現れ大活躍する女武者。そんな姿が見たいなあ。格好はできれば「戦国無双」で。「戦国BASARA」でも良いよ。

 ううん。僕らは知っているからなあ。とあるアニソン歌手のメンタルの大変さを。応援してたんだよ。その歌のうまさを。さびでかかるビブラートの良さを。だから日本のアニソン大会で優勝して、デビューした時には本当に成功して欲しいと願っていたんだけれど、その本人がずっと変われなかった。努力はしたのかな。頑張って心を鍛えようとしたのかな。何が何でもって意識はあったのかな。あったんだろうけどでも、ズレてしまった。だから踏みとどまれず、居場所を失い国に戻ってしまった。それでいろいろ言ってしまったのは、応援している僕らにとっては悲しいことで、同情したいって気も萎えるけれど、でもその才能は買っている。頑張って欲しいとは思っている。なので堪えてまたいつか。日本へ。

 なんとうポン酢ぶりか。中国でちょっと前に開かれたサッカーの東アジア杯で、日本人カメラマンが無茶やって取材証を没収された話について書かれた記事があったんだけれど、その一件で非があるのは明らかに日本人カメラマンの側で、番号札を受け取らず順番を無視して座って怒られたのにキレて担当者を突き飛ばし、追い出された流れのどこにも擁護できるところはない。それなのに記事は中国の側に最初から敵意があって、それにたまった鬱憤が炸裂しただけってな感じに逸らして日本人カメラマンを擁護し、相手を貶めている。

 そりゃあ相手だって人間だから、気に入らない日本人が来たといってちょっとくらいキツくあたったところもあったかもしれないけれど、それは日本国内でだってあること。いや本来ならスポーツの現場であってはいけないことだけれど、それでも起こり得るならそれも含めてスポーツだと思いつつ、キレないで自分を貫くことこそが正義ってものだろうに。でも違う。記事は相手がさも悪かったかのような言葉を弄して自分たちを正当化しようとしている。というより相手をひたすらに乙女用としている。これで他の日本人カメラマンたちは嬉しいのか。自分たちの身内から無茶な輩を出したにも関わらず、それが味方され相手を貶めるような言葉に日本人カメラマンたちは救われるのか。俺たちは悪くないんだと溜飲を下げるのか。

 そんなわけはないだろう。悪いことは悪い。それは罰せられて当然で、反抗して暴力まで振るった日本人カメラマンは取材証を没収されて叩き出されても仕方が無い。そして我々は正義を貫き公正な態度をとり続ける。それがルールってもの。何よりアウェイで無茶はされてもそれも含めて正義と貫き通す意識で望むのがそ大和魂ってものじゃないのか。そういう意識をすっとばして、ただひたすらに相手を誹り自らを持ち上げて溜飲を下げる人間で、日本人があって良いはずがないのにもかかわらず、日本人を妙に称揚したがる新聞が、そうした言説を平気で繰り出す。それで溜飲を下げられる輩におもねり、アクセスを稼ぐことでしか生きる道がないのかもしれないなあ、媒体としても、そして書き手としても。内輪で通じるそうした意識は、はた目ではひたすらに恥ずかしい振る舞い。でも止められない。やれやれだ。


【8月24日】 これが本当のアンツィオ戦ではないアンツィオ戦を見たらアンツィオ高校があっという間に負けていた。いったい何があったのか、ってことは本当のアンツィオ戦を見ているから知っているけど、放送当時にこれを見ていた人はいったい何が起こったんだろうかと戸惑い唖然としたかもしれないし、そういうものだと受け入れたかもしれない。まあでも今は「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦」があるからアンチョビやらペパロニやらを相手に大洗女子学園が奮戦し、敵フラッグ車を仕留めて見事に2回戦を突破したことは分かっている。

 あれだけ圧勝できれば、次のプラウダ高校戦で悪い方向へと走って苦戦を強いられることになるのも分かるかな。そんなテレビ放送。おばあとの対面は無事に済んで戻った大洗女子学園でもって始まったのは戦車探し。あちらこちらをあるいていたらルノーが見つかり学園艦の底であれは三式中戦車だろうか、何かも見つかりそして「これが本当のアンツィオ戦」の中ではポルシェティーガーも確か見つかって、それらが揃って新たにメンバーも加わってそして駒を進めた対黒森峰学園戦がいったいどんな風に戦われるのか。バンダイチャンネルで見てだいたいは知っているけど改めて、放送される日を待とう。その勢いで劇場版へと突入だ。

 知ったのは翌日の8月25日だからまだ1年は経ってないけど、亡くなられた日付でいうなら2010年8月24日の午前6時20分、つまりは今日の朝に今敏監督は亡くなられ、そして残された「さようなら」という遺書とも回顧とも決意ともとれる言葉に誰もが驚き慟哭して亡き呻いた。表層的には覚悟であったり達観であったりといった雰囲気が漂うけれども告知からわずかに3カ月、迫る死というものに対してどう対峙するか、そして自分よりも残された者たちが何を思いどう乗り越えていくのかを考え呻吟しただろうとも思えて奥に蠢くそんな気持ちを勝手に組んで、自分ならここまでの心境で最後の日々を送れるのだろうかといった迷いに惑う。

 7月あたりからの文章はiPadを買い丸坊主にして身辺整理もしたといった感じに、何かをうかがわせるものがあったけれども会社を設立したというところで、新たに居場所をそこに得て世界に雄飛していくのかとも思わせた。それが……。あれから5年。その間に「夢みる機械」の製作は監督が決まりつつ決まらずペンディングとなって止まったまま。丸山正雄さんはマッドハウスを離れてMAPPAを立ち上げ今という時間に必要な作品のプロデュースに奔走していて、おそらくは「夢みる機械」にまでは手が回らない。それにやっぱり今敏監督という人がいてコンテを描き脚本も練り音楽も検討した上で現れる世界観こそが今敏監督の作品だと思うと、他の誰がなにをやてもそこに至っているかどうかを問われ、そうじゃないといわれるリスクも多々ある中で身動きも取りづらいだろう。止まってしまうのも半ば必然、それはだから夢の中に見る作品として心に思い描くしかないんだろう。残念だけれど、それはひとつの真実。仕方が無い。

 今年は毎年のように開かれていた追悼上映会もないようで、劇場で林原めぐみさんんらの声を聞きつつ作品を観ることもなさそう。それもやっぱり少しずつ風化していく時間の形だとも言えるだろうけど世間がたとえそうなろうとも強く、そして深く今敏監督の世界に魅了された者にとっては変わることのない色濃さで、その作品世界は心に残っている。今見ても斬新でそして10年後に見ても革新的なその作品たちを、残してくれただけでもありがとうと感謝しつつ変わらない思いを改めて引っ張り出しては「千年女優」であり「PERFECTBLUE」であり「東京ゴッドファーザーズ」であり「パプリカ」であり「妄想代理人」であり「オハヨウ」といった映像作品を、引っ張り出しては観てその凄さを噛みしめよう。たとえ金曜ロードショーで特集はされなくても、今敏監督が世界に冠たるアニメーション監督であることは確実で絶対のことなのだから。

 壱日千次さんの「魔剣の軍師と虹の兵団(アルクス・レギオン)3」(MF文庫J)を読んだら相変わらずの変態さんいらっしゃいだった。元よりエロいこと大好きな軍師の少年がいて性格的にぶっとんだお姫様もいたりして、そしてドMの美少女吸血鬼やらロリコンの騎士やら自己顕示欲のカタマリという弓使いやらオネショタの仮面の剣士といった変態さんがそろってくんずほぐれつしながらも、国を奪った隣国の勢力を排除してどうにか領地を回復するまでが第2巻。笑えながらもしっかりと戦略を楽しむ部分もあるファンタジーとして注目を集めかけている。

 そして登場した待望の第3巻では、さらに別の国から攻められそうになっている隣国を仇でありながらも助けることになって、そこで軟禁されていた隣国の王子様を助けに行ったらこれが拘禁フェチで顔を美少女の尻で踏まれて喜ぶド変態だった。あとメンヘラーな弓使いも出てきた。なんて愉快なキャラクターたち。それでいて軍略でもって大軍を蹴散らし政略でもって敵国にくさびを入れる謀略もしっかり描かれていて楽しめる。柔らか8割硬さ2割の戦略ファンタジー。強敵があらわれ大敵を巻き込み反抗の狼煙を上げてきそうな展開を主人公たちはどうしのぐ。楽しみだ。

 昔ロボット今自動運転技術のZMPがソニーモバイルコミュニケーションズと組んで何かドローン事業を始めるってんで六本木へ。発表会を待っている間にネットを立ち上げたら見知った作家の人が逮捕されていていったい何があったんだと驚く。DVだそうだけれども夫婦でひとつのユニットめいたところもあったから、仲違いとかあり得なさそうなだけにちょっと様子を見たいところ。でも時は人を変えるからなあ。気になるのは秋に発売予定の新劇場版か。確か脚本書いてたし。新刊を出したばかりのところは大変だろうなあ。盛大に中吊り出してたものなあ。なんて思いながら観たZMPとソニーモバイルコミュニケーションズの発表会。測量とかやって3Dデータにして可視化するとかすでに他もやってるビジネスだけれど、ロボットとか手がけ自動化技術に優れたZMPが絡むってところにいひとつ、意味があるのかな。

 今時のドローンは手で操縦して見える範囲だけで動かしていても仕事にならないし失敗するリスクもある。自動化して自律的に飛んでいって作業して帰ってくるようにすることで手間は省けるしリスクも軽減できる。利用する側だって安心できるといったメリットを打ち出していけるのもZMPでありソニーといった技術を持った企業が組んだからなんだろうなあ。どちらかとったらZMPか。でも世間はソニーの技術があったればこそって報道。ちょっと変だけれどそれもベンチャー企業の宿命ってやつなのか。驚いたのはドローンまで作っていることで、4枚のプロペラで飛ぶマルチコプターは完成品があり、そして垂直離着陸型UAVはスタイリッシュなボディラインで2時間くらい飛んでいくとか。航続距離は200キロは越えそう。それに3キログラムまで詰めるなら撮影だけじゃなく緊急時の配送にも使えそう。早く実用化しないかな。それで運んでもらうんだ。花束を。彼女のところへ。そんな夢を見た。一生夢で終わりそう。ちゃんちゃん。


【8月23日】 今日も今日とて「キャラホビ2015 C3×HOBBY」へと出向いてもっぱらガレージキットの様子を見るお仕事。サンライズのとりわけ「機動戦士ガンダム」関係の版権が降りるのってここん家くらいってことで、日本中からガンダム関係のキットを求めに来る人が多かったようで会場と同時に人がそっちへと向かってあちらこちらに長い列。声優さんも登場するイベントの整理券を求める人の数がそんなでもなかったのを見るにつけ、キャラホビっていうイベントの本質を表すとともにちょっぴりこのまま続いていけるのかなって気分も浮かんで来る。

 コミックマーケットの企業ブースが出るようになってからもう20年くらいはなるんだろうか、規模をどんどんと広げ出展企業も大手が加わってその時に出すそれだけのために1日をかけて並ぶ人が出るくらいの賑わいを見せるようになった。もはや企業のグッズ販売においてなくてはならない場所なんだけれどそういうのはやっぱり本来、企業だけが集まって行うようなイベントであって欲しい気がする。だからかつて「東京キャラクターショー」ってのが立ち上がったんだけれどいつの間にか終わってしまった。入らなかったのかなあ、お客さん。それともコミケへの集中で出店企業が減ったとか。

 一方でワンダーフェスティバルと対抗するガレージキットのイベントとして「機動戦士ガンダム」関係が唯一出ていたホビージャパン系のイベント「JAF−CON」または「ホビーEXPO」が、「東京キャラクターショー」の末期に力を持ってきたメディアワークスが立ち上げた「C3」とが合体して「キャラホビ」という形になってそちらで企業系のグッズが扱われるようになった。「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」の頃はガンダム関係のグッズが出るってことで女子の人気が凄まじくって長い行列ができたような記憶もあるし、そうではないゲームの女性向けのキャラクターが人気となっていた時代もあった。凄かったよなああの行列。

 けれども最近は、そうしたコンテンツを積極的に押し出す感じもなくって全体にまったりとした雰囲気。今日なんてブースに行列ができてたのって、SKE48のカフェくらいだったもんなあ。今が旬の「刀剣乱舞−ONLINE−」のガチャポンが並ぶコーナーですら大混雑といった雰囲気でなかったのはこれも企業ブースの充実が著しいワンフェスへと人が回っているからか。まあでもそれなら「機動戦士ガンダム」が中心のイベントとして独自性を発揮していけば良いということでもある。その核となりそうな新作「鉄血のオルフェンズ」も始まるし、ここからファンが付いて来年の「キャラホビ2016」が女性で埋め尽くされるなんてこと、あるのかな、そういうキャラって感じでもないからなあ、三日月・オーガス・目がシュトヘル。

   場所が場所だった、ってのが大きいのかなあ、日本テレビ放送網がラグビーのワールドカップを紹介するサイトの中に映像コンテンツとしてアップしていた「セクシー☆ラグビールール」に非難が集まり速攻削除へと追い込まれた一件、もしもこれがラグビーを中継する日本テレビであったとしてもスポーツとは関係のない深夜番組のお色気コーナーで、そういえばラグビーのワールドカップがあるけどルールよく分からないからちょっと解説してみますね的名目で、水着に女の子たちがくんずほぐれつしてラックだのモールだのスクラムだのをやってその意味を紹介している映像を、真面目に作って笑いをとって視聴率も稼ぐというのならまだ、従来からあるテレビのちょっぴりエッチだけれども楽しい番組として、受け入れられたかもしれない。

 そりゃあ公序良俗って面からPTAとかの抗議はあるかもしれないけれど、深夜だから子供は見ないし、セクシー番組お色気番組は昔も今もテレビにとってはひとつの大きなコンテンツ。それに女性差別だ女性蔑視だと難癖をつけるなら、美形男子が勢揃いする歌番組だのドラマだのも同様に男性への不当な扱いだって言われても仕方が無い。お互いの了解のもとにまあこれくらいなら双方が納得できるだろうという範囲の中でギリギリのお色気が追求されては時々ちょっぴりハミ出たりして問題になって番組が中止になったりするという、そんなテレビの歴史。だからやっても構わなかっただろう。

 問題はそれが、「ラグビーワールドカップ2015」というパブリックなスポーツイベントを中継するテレビ局のオフィシャルなサイトに載せられてしまったことにある。真面目にラグビーというものに取り組み、一生懸命に普及に努めてきた人たちからすれば、女性によるルール説明だけならまだしもボールを抱えて走るプレーヤーの揺れる胸だとか、はみ出た胸の押さえとか、倒れてみえる胸の谷間とか、ラックで押し合うプレーヤーの尻だとかをことさらに捉えアップにする必要があったのか、ってなるとそこはさすがに目的がズレてしまっている。

 それでルールは分かっても、本当にルールを伝えるためだったのかといったところで主従が転倒してしまっている。いやこれでひと目が集まればルールも伝わるだろうという言い訳もあるんだろうけれど、パブリックな大会のオフィシャルなサイトでやって良いことではない、っていうのが多分大方の人が抱くモラルだろう。そうモラル。厳密な線引きはないけれど、何となくそれは拙いんじゃないかってった意識がここのところ混沌しているような感じがある。アクセスを稼いで見てもらうためには何をやっても良いという風潮。それはネット界隈にここのところ顕著になって来ているんだけれど、それがテレビ局のような大きな企業にも入り込んで、場所もわいまえないでそういう方向へと走ってしまうことが多々ある。

 なるほど公開されていた場所は同じネットであっても、看板としてついているテレビ局であり、ラグビーのワールドカップといったものが醸し出す公共性への意識を、踏み越えてはやっぱり成立しないだろう。そこで踏み越えてしまったか、あるいはもはや踏み越えたという意識すらなくこれで良いんじゃないかという意識だけで進んでしまったか。分からないけれどもいずれにしても場所をわきまえ公序良俗を踏まえモラルを感じて判断するという感覚が、テレビ業界でどこか壊れてきているような感じがしてならない。まあ新聞社だって自前のニュースサイトでトップから10項目くらいを日本人の生活とはまるで無関係に中国批判だの韓国中傷だのといった記事を並べて埋め尽くし、横の写真にはお色気の度合いが高い写真を並べてアクセスを稼ごうとしている節があるから人の事は言えないけれど。

 紙の新聞本紙では絶対にやならい、ってわけでもないけれども多少は歯止めのあることをネットでは、アクセス上等といった態度でもってそうした編集を行い、それで多少のアクセスがあったらそれを金科玉条として続けていった果てに濃縮されてますますそういう傾向が強まり、それから外れることができなくなってしまう。だって昨日までそういうサイトだからと群がっていた人が、真っ当になって離れたら一瞬アクセスは落ちるだろう。それを真っ当化へのステップとは思わず、選び方が悪いからと元に戻していたらずっとそのままになってしまう。でも止められない。怖いから。アクセスが落ちるのが。その責任をとらされるのが。そこには誰だいったいどんな情報を欲しているかという視座がない。アクセス上等。それだけだ。

 「セクシー☆ラグビールール」の方はまだ頭が働いているようで、そういうコンテンツが面白がられる世界がある、それも結構な広さであるということへの意識はあって、だからこそああいったコンテンツが作られたんだと思うけれども、そこで出す場所を間違え出す段取りを間違えてしまった。「公」と「私」の区別がつかなくなってきていると訴えたのはもう10年以上も前の小林よしのりさんだったと思うけれども、それはますます顕著になって公的であるべき場所で私的な思惑が跋扈し、なおかつそうした私的に過ぎない思惑に公人ではなく私的でしかな人たちが共感して群がり持ち上げ大きくなっていった果て、世界には私的な情動と興奮しかモノサシとして残らなくなってしまった。

 そんなところに起こったひとつの事件。さすがにさっさと取り下げたのには感心だけれど、これで風潮が元に戻るわけではなし。いずれ同じような事態が繰り返されては一線を踏み越え塗り替えていって世界をアクセスだけの価値観に、染め上げてしまうんだろうなあとアクセス貧者が言っても何の意味もないのであった。「セクシー☆卓球ルール」とかってどんなコンテンツになるんだろう。ユルいパンツをはいたイケメンがラケットを回すとすそから卓球的な何かがちょろりと遠心力ではみ出たりするような、そんな感じ? むしろ「どすこい☆ラグビールール」としてお相撲さんたちがくんずほぐれつラック&モールを演じた方が評判は得たかも。本気のぶつかり合いじゃあラグビーに負けないパワフルさがある上に、見た目に愛嬌もあるから。ぷにぷにとして。


【8月22日】 キャラホビだキャラホビだ。キャラクターとグッズが勢揃いする「キャラホビ2015 C3×HOBBY」が幕張メッセで開かれるってんで早起きをして会場に入ったけれども全体にまったりしていて良い感じ。セガネットワークカンパニーのブースで「チェインクロニクル〜絆の新大陸〜」とか「ケイオスドラゴン 混沌戦争」のキャラクターに扮したコスプレイヤーさんを撮影したりトリプル・ドムとうふを試食したりとアクティブに楽しめる上にステージイベントもあって「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」の声優さんとか登壇して、今までとはちょっと違ったヒーロー像に作品への興味を引かれた。ヒロインは高飛車なお嬢様だから前にも見たことあるような。でも環境が厳しい状況に生きるお嬢様だからただ高飛車なだけでもないんだろう。どうなるかな。10月の放送を待とう。

 そして見終えた2日目の「風街レジェンド」は入り口でもらった木綿のハンカチーフの色が昨日とは違ってラッキー。でもこれを送る相手なんていないのでひとりの寂しさにむせび泣くときの涙を拭こう。席は昨日と同じ2階だけれど若干後ろ目。でも真ん中目だったんで昨日よりステージ全体がよく見渡せた。松本隆さんのドラミングをほとんど真上から見下ろす感じ。ちゃんと叩けていたなあ。セット的には派手じゃないのに必要な音はちゃんとある。そんなドラミングって好き。これに細野晴臣さんのベースラインが乗り鈴木茂さんの極限のギターが重なって醸し出されるサウンドに井上鑑さんやら林立夫さんやらのサポートが加わればもう盤石の「はっぴいえんど」なんだけれどでも、やっぱりいないと寂しい大瀧詠一さんのあの声。もう聞けないんだと思うと余計に寂しさも募ってくる。

 ただ裏を返せば松本隆さんの作詞家生活45周年だなんてちょっと半端なこの時期に、こういうライブが開かれたのは40周年を逃してしまってそして迎えた大瀧さんの死。絶対の不在を得てこれから先、ずっと何もしないでいるのはどうなんだろうという思いもあっての企画だったんだろうと考える。それは天の配剤と喜んで良い話ではないけれど、でも時の氏神、あるいはきかっけとなったということで、大瀧さんの急逝が残してくれたとっても大きなプレゼントだと受け止めるしかないんだろう。そのプレゼント、2日間とも聞いたけれどもやっぱりとても大きかった。重かった。熱かった。そして素晴らしかった。

 冒頭から登場の「はっぴいえんど」。もちろん1人欠けているけど、その不在を噛みしめつつ埋めるように演奏するサポートメンバーを受けて細野晴臣さんが「夏なんです」を歌い鈴木茂さんが「花いちもんめ」を歌って風街の世界を広げたあと、次から次へとう登場するシンガーが懐かしくも嬉しい曲を歌って聴かせてくれてその懐かしさに涙しつつ、今もって現役感漂う声の持ち主たちに感嘆した。たとえば石川ひとみさん。超アイドルだった時代ははるか彼方のことだけれども歌った「三枚の写真」の声は澄んでよく響き、超絶的なバンドメンバーが奏でる重厚なサウンドの上に立って聞こえてきた。それこそ歌詞までちゃんと聞こえるその発生。今だってじゅうぶんに現役のアイドルとして通用するじゃなかろうか。その点で早見優さんはビジュアルが現役のアイドルだった。歌は…歌ってたのかどうなのか。そこは不明。

 そして今が現役アイドルなのかもしれないと思わせてくれた中川翔子さん。昨日は「東京ららばい」という中原理恵さんの歌を借りての登場だったけれど、今日はそれに加えて持ち歌の「綺麗ア・ラ・モード」も歌って聞かせてくれた。とてつもないバックバンドに壮絶極まりない出演者たちの中でもっとも若輩といってもいい立場なんだけれど、それに負けず臆することなくステージに立って歌った勇気をまずは褒めたい。石川ひとみさんや太田裕美さんの未だ衰えない声を間近に聞いてその域へと向かって歩むと決意してくれればなお結構。勢いからだんだんと円熟味を求められる段階に入ってきたこの時期に、ああいったメンバーをやれたことはしょこたんにとって大きな財産になったんじゃなかろうか。そう信じる。

 何しろ人は成長できる。成長し続けられるのだってことを教えてくれた安田成美さん。あの安田成美さんがあの「風の谷のナウシカ」を歌うということで開催前からすごい話題になっていたけど、登場した安田さんは細野さんが作った音に乗せ松本さんが作った詞をしっかりと発して聞かせてくれた。音程もしっかり。耳にも届くその声質はいつか劇場で公開を待つときに流れていた歌声をさらに熟成させた感じがあった。テレビのベストテン番組で歌わされて苦労して、それが一生に残る歌声となってしまった感があるけど本当は歌えばちゃんと歌える人なんだよ。そう思った。聞くほどに当時の想い出も浮かんで涙がにじんだ「風の谷のナウシカ」。夢とかいろいろあったけれども、それはどれだけかなっているかな。まあアニメをずっと見ていられる身であるなら、人生として夢の続きを生きているとは言えるかな。またどこかで聞きたいなあ、安田成美さんの「風の谷のナウシカ」。

 一方で超ベテランたちによる歌い較べのすさまじさは、昨日だけ登場した矢野顕子さんの不在で吉田美奈子さんの独壇場になってしまったが少し寂しかったかな。なぜかアグネス・チャンの歌を唄って聞かせてくれた矢野さんに対して吉田さんは薬師丸ひろ子さんが歌った「Woman“Wの悲劇より”」を浪々と歌って観客席を圧倒したその先で、松田聖子さんの「ガラスの林檎」をジャジーなサウンドに乗せて歌って聞かせるという反則技。それがちゃんと聞けるから不思議だし凄い。ちょっと美空ひばりさんの「りんご追分」っぽさもあったけれど、それあつまりそれだけ巧い人なんだってことで。これがテレビで放送されたら聞いていた人は驚きつつも知るだろう、吉田美奈子さんというとてつもないシンガーの存在を。世間の人は知らないからなあ。大橋純子さんほどには。「シンプル・ラブ」とか「ペイパー・ムーン」とか良かったなあ。

 でもやっぱりナイアガラな人たちが登場すると気持ちも高ぶるナイアガラっ子。というか元は山下達郎っ子でYMOっ子なんだけれどもさかのぼって「はっぴいえんど」を聞いて大瀧詠一サウンドにもハマってた身からするなら「ナイアガラトライアングル VOL.1」と「ナイアガラトライアングル VOL.2」が合体したような伊藤銀次さん杉真理さんに佐野元春さんが並んで歌った「A面で恋をして」はアルバムでも気取っていた佐野さんのあの歌い声を聞けたり若々しさがあった杉さんの大人びた(そりゃあ30年近く経ってるから)声が聞けたりして嬉しかった。でもその前、伊藤さんと杉さんが歌った「君は天然色」の歌詞の意味とかを聞くとちょっと、グッとくるものがあった。この文字通りに天然色で明るく爽やかかな曲に着けられた詞には、松本隆さんの若くして亡くなられた妹さんへの思いが込められていたんだとか。

 すべてのラスト、ドラムセットを離れてステージに立ちマイクを持った松本さんが話すには、90歳になる母親が今日は見に来ていいて、そしてその母親から自分が小学6年生だった時に1年生になって入学してきた妹は、心臓が弱いから兄である隆がランドセルを持っていけと言われてそのとおりに2つのランドセルを持って学校に通っていたという。それが誰かのために何かをするという人生観につながり作詞家としても役に立っているのだとか。自分を主張しすぎては歌い手を染めてしまうけど、相手に媚びては詞にならない、そんな狭間で相手を思いつつ優しさも貫いていくスタンスが、作詞家として大成させたんだろう。「A LONG VACATION」を作っている時に妹を亡くされ、詞が書けなくなった松本さんが、大瀧さんから待つと言われて何ヶ月かの懊悩の果てに書いた「君は天然色」の、とっても明るくて楽しげな歌の詞にこめられた思い。悲しみを優しさで包んで明るさの中に昇華させつつ記憶として残した。それが永遠の楽曲となって今に続き、そしてこれからも続いていく。ありがとう松本さん。そして大瀧さん。僕たちはこれを歌い継いでいく。思いを込めて。永遠に。


【8月21日】 テレビでは連日のように寝屋川市で起こった女子中学生の殺害事件と同行していたはずの男子中学生の行方不明事件を報じていて、はやく犯人が捕まって欲しいという気持ちにこちらもまったく同意はするけれど、ただ報じるときにいつまでも、夜の商店街を行き来する女子中学生や男子中学生の映像を流し続けることにはちょっと、困った気分が浮かんでいるのも実際のところ。芸能人やスポーツ選手の生前の活躍を映像で振り返る場合とは違って、防犯カメラに偶然撮られた生前の最後の姿、これからまもなく悲しいことになると分かっている姿を繰り返し、テレビとかで見せられる家族とか友人知人の思いを想像すると、涙混じりの感情が浮かんで立ちすくんでしまうのだった。それを見せたからといって解決策が得られる映像でもないなら、ここは放送を止めるのも配慮だと思うのだけれど、それではテレビだと間が持たないんだろうなあ。映像がなければつなげない厄介なメディア。やれやれだ。

 ううん。ユリイカのユリイカ2015年9月号の特集が「男の娘−“かわいい”ボクたちの現在」だと見聞きしていろいろともやもやした感情が湧いたり浮かんだり。「男の娘」という事象を取り扱う際に”かわいい”という言葉を添えてその美醜を価値化し半ば絶対化してしまうことの厄介さについて、メディアはもう少し慎重であって欲しいなあとまず思う。外部的には女の子の代替でありながらも中身は女の子ではないギャップから浮かぶ罪悪感めいた感情を含みつつ、女の子を判断する時の美醜の物差しをそこに当てはめてプラスアルファを持った存在として愛でようとしている。それが「男の子」という存在が持てはやされる背景にあるのだろう。

 そういう意識があること、それは否定しない。男の子であろうと女の子であるとそうした価値基準でもって世間は動き経済も回っているところがあるから。ミスコンテストしかりアイドルしかり。そこに「男の子」というカテゴリーが加わって美醜を問われる状況が生まれることは仕方がない。でも「男の娘」というのはそうした外部的な美醜の価値基準だけで判断して良いものではないと僕は思う。女の子になりたい男の子はかわいくなりたいから女の子になりたいとは限らない。生まれながらに負った性と自認する性との差違を感じ苦しみを覚え迷い葛藤した挙げ句にそのままの人生を歩む場合もあれば、自分にあった性を選ぶ場合もある。今はそうした性別の変更も昔より容易になっている。

 でもそれはかわいくなることと同列ではない。理想としてかわいい女の子になりたいと思い、そう努力してもそこには厳然とした物理的な壁が存在する場合がある。それでもやっぱり自認する性を選んで、女の子となった存在に対してぶつけられる、あるいは仄めかされる「かわいい男の子」という価値基準は果たしてどんな心理を呼ぶのだろうか。メディアが書いてテレビがミスコン的なミスターレディのランク付けを行って、周囲が男の子はかわいくあるべきだといった認識でいっぱいになった社会において、性自認において女の子でありたいと願いつつ、かわいくはなれないとも認識したそうした人たちの行き場はあるのか。なんてことを考えると簡単には「男の子」に「かわいい」という言葉を添えて語ることはできないのだった。

 性自認とは無関係に女装したいという心理があり、かわいい女装をしたいとう目的があってそれに向かって努力し、結果を得た人たちがいるということも分かる。それを尊ぶことは厭わないけれど、その時も一方に性自認において悩みを抱えた人がいて、美醜とは違ったところでやむを得なくその道を選ぶ人たちがいるということを、心にとめておいて欲しいのだけれど、そういうフォローが雑誌の方にはあるのかなあ。あるとは思えないけど。とりあえず読んではみよう。その道の大先輩であるところの三橋順子さんも寄稿しているみたいだし。ただやっぱり世間はゆきあつの女装を無様と笑い、実写版のゆきあつが女装の似合う男子かどうかが話題になる空気が溢れているんだよなあ。それはは分からないでもないけれど、分かって良いものでもないというか。まあそんな感じ。やれやれ。

 水中ニーソだ水中ニーソだ、水中でニーソックスをはいて泳ぎ回る少女たちをとらえた写真の展覧会があるってんで原宿まで行ってのぞた会場は水中ニーソの写真でいっぱい。何で水中でニーソなのかは分からないけれども見れば浮かんで来る生足とは違った、それでいてウエットスーツなんかとも違った半分人間で半分魚のようなツクリモノ感が、見る人を引きつけて止まないんだろうかどうなんだろうか。ニーソ好きと水着好きの両方をいっしょに満足させられるからってことなのかもしれないけれど。そんな会場で写真を眺めてフィギュアも見て、缶バッジも買ってさっさと退散。古賀学さんらしき人もいたけど面識がないんで遠巻きにしてそのまま去る出没家であった。ネットで見知っているだけの人と喋るのって勇気がいるのだ。こっちは向こうを知っていても向こうはこっちを一顧だにしていないって考えたりすると。まあ仕方が無い、ただの出没家なんで。

 明日もあるから詳細は控えるけれども松本隆さんの作詞家業45周年を記念した「風街レジェンド」はとにかく凄い。大瀧詠一さんというピースは欠けているものの「はっぴいえんど」がステージに立って松本隆さんがドラムを叩き、そして大瀧さんが唯一の共同作業者と行った松本さんの詞による大瀧詠一ナンバーを数々のミュージシャンたちが演奏し歌い聞かせてくれるし、松本さんが多くのシンガーに提供してきた楽曲も次々と奏でられてはああこの曲知ってる、あああの曲はとても耳に残っているといった感じに懐かしさとともに身に迫ってきて涙が浮かんでくる。太田裕美さんが出るという時点で分かっている「木綿のハンカチーフ」はもちろん聞けるけれどもそんあ楽曲に合わせたかのように、入場時に木綿のハンカチーフが配られるのが心をズキューンと打ち抜く。これやっぱり歌の時に振った方が良いのかなあ。涙を拭いた方がいいのかなあ。

 あとはやっぱり「イモ欽トリオ」の復活ステージが懐かしくもあって涙もの。テレビだとどうしても短かったのがフルコーラスで演じられてテレビで見たのではない振り付けなんかも入ってた。長江健治大丈夫かなあ。おっとこれ以上は言えないけれどもひとつ、今日だけの出演となった矢野顕子さんについて触れるならばナンバーはアグネス・チャンで「ポケットいっぱいの秘密」ととんでもないアレンジで聞かせてくれた。あと矢野さんも歌っているアグネスの曲「想い出の散歩道」。これは凄かった。とくに「ポケットいっぱいの秘密」は元の歌がどうだったっけって思わせるくらいの矢野さんアレンジの歌になってて、それでいてちゃんと聞かせるすごみがあった。いやあ、さすがは歌のバケモノだけれど、その後に登場した吉田美奈子さんが歌のモンスターだった。

 自身、松本隆さんの作詞による楽曲がないにも関わらず、登場して歌った曲は意外や意外なあの名曲たち。そのひとつは朗々と歌い上げる感じで元歌をリスペクトしつつ自身の張り出すような声に乗せていたけれど、もうひとつはあのアイドルのあのキャピっとした曲をとてつもないジャージーなアレンジに乗せて歌いきる。それでいてしっかりと元歌の印象は感じられ詞も聞き取れるからすごいすごい凄すぎる。いった何を歌うかは2日目を終えてのお楽しみ。たぶんちゃんと同じのをやってくれるだろうと期待しよう。そして演奏も凄かった。林立夫さんに松原正樹さんに今剛さんという「PARACHUTE」の面々が並びほかにも凄腕ミュージシャンがいてそれらを束ねて井上鑑さんがキーボードを奏で続ける演奏だけでも凄いのに、そこに乗っかる超一流のシンガーたち。懐かしいけど今なおしっかりと声が出ているベテランたちを耳にして、気持ちは一気に1980年代へと引き戻される。みんな聞いていたなあ。それが松本隆さんの詞だったんだなあ。改めて感じるその偉大さを、明日も見聞できるこの幸せを噛みしめよう。生きてて良かった。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る