縮刷版2015年8月中旬号


【8月20日】 チョコレートムース味のとうふと、とうふ味のチョコレートムースがあったらどっちを食べるかと問われれば、そりゃあ前者だろうと誰だって答えるところだろうけれど、元がムースのようなとうふがチョコレートムース味になったら、それはもはやチョコレートムースと変わらないんじゃないかという気もしないでもない。とはいえ実際に食べると分かるのは、やっぱりチョコレートムース味のとうふはチョコレートムースのとうふであって、舌にわずかに漂うとうふとしての大豆の味があるし、何より舌触りにとうふ感がある。そこに全部がムースとは違ったヘルシーさがあると思うとやっぱり軍配はチョコレートムース味のとうふに上がるかな。とうふ味のチョコレートムースじゃあやっぱり体、太りそうだし。

 そんなチョコレートムースを思わせるとうふが登場。相模屋食料が3年前からはじめた「Gとうふ」、すなわち「機動戦士ガンダム」に登場したジオン軍のモビルスーツをモデルにしたとうふの第4弾が、「ビグ・ザムとうふ」から2年の時を隔ててようやく登場した。その名も「トリプル・ドムとうふ」はジオン軍の重モビルスーツとしてザクともグフとも違った威容を見せてくれたドムを象ったものだけれど、ここで重要なのは「トリプル」であること。つまりは3台。ようするに黒い三連星を再現したものでメンバーを構成するガイアにマッシュにオルテガのそれぞれにちなんだ形が用意されているというから凄い。大量生産の品でここまでするか。するからこそのGとうふ。こだわりが形になった逸品。だから売れる。支持される。

 ガイアはサーベルと持ちマッシュはバズーカを持ち、そしてオルテガはマチルダさんが乗るミデア輸送機を叩き潰したポーズを再現して両の拳を合わせた形になっている。そんな3種類は味も違ってマイルドチョコ味にビターチョコ味、そしてミルクチョコ味といった感じに差がつけられている。食べるときはだからジェット・ストリーム・アタックを再現してガイアのマイルドチョコ味を食べて頭を踏みつけ、マッシュのビターチョコ味を食べて胴体を両断し、そしてオルテガのミルクチョコ味を食べてマチルダさんの仇を取る。そうすることによってふわっとした甘さが苦さに変わり、そして柔らかい甘さが最後に来て口の中を豊かにしてくれる。お口のジェットストリームアタックやー、と彦麿さんなら叫ぶかな。意味が分からないけど。

 それにしても前から2年という期間があいてしまったのは、ザクからズゴックときてビグ・ザムに至ってもうネタとして何をとうふでやればいいかに迷ってしまったからなんだろうか、どうなんだろうか。形だけ似せればグフだってゲルググだって作れるけれども、どうしてそれで作るかって意味がなければいけない、というのが相模屋食料の社長の人のポリシーみたい。だからズゴックでは水陸両用のイメージに合わせて鍋向けにしたし、ビグ・ザムはその巨大さを再現するため組み立て式にした。ドムならどうする。やっぱり3種類。味は。ほかのモビルスーツにはない設計思想を持ったドムに習って普通じゃないとうふにする。それがチョコ味。豆乳クリームを使ってムースのような味わいにできることが分かって、これで作るならドムしかないってことになったとか。そんなこだわりが味に形に反映された「トリプル・ドムとうふ」は食べて楽しく、飾って嬉しい逸品。食べるならやっぱり3種類を一気に行きたいところ。21日発売。急げ店頭へ。キャラホビにも来るそうだからそこでもどうぞ。

 なんだ離党したのか国会議員。でも言い訳では政局に混乱を与えてはいけないからとは言っても自分が悪いことをしたという認識はないという矛盾に満ちたもので、相手が悪くて自分が告訴をしようとしたら反対にやり替えされただけだという意見がそのままだったとしたら、党に説明をして自分から釈明もして報道の理解を得れば良いだけの話。それができないからこそ何も言わずかといって止まる訳にもいかないから離党した。そうとられたって不思議はない。仮に言い分どおりだったとしても国会議員になってから得ただろう歳費なり財産を、友人に貸してそれが帰ってこないだなんて状況を作ってしまったこと自体が無定見で不見識と問われても仕方が無いし、報じられる過程で出た「国会議員枠」という部分についての釈明は未だなされていない。

 国会議員が特権階級にあるかのごとき言説をまき散らして、国会議員の地位を貶めたことへの釈明がなければそれは全国会議員に疑惑が及ぶ。国会はだから党籍を離れたことで済まさずに、その資質を問う方向に動かないと大変なことになると思うんだけれど。どうなるか。どうもしないかなあ。トップが事態の重さをあまり噛みしめてなさそうだし。そんなトップは同じ週刊誌の報道で体調の悪化が随分と進んでいるかのように書かれていた。ここだけならまだ溜めにする捏造といった意見も飛び交うんだろうけれど、他の夕刊誌あたりも書き始めているからには相当に情報が出回っているんだろう。そんな体調の足を引っ張る議員のポン酢っぷり。神経も細るかなあ。反論になっていない反論をした議員に対して週刊誌の追い打ちも気になるところ。ハメるためにリークされただけって言われた週刊誌だけれどそれだけで記事にするわけがないからなあ。隠し球とか持ってそう。それは何か。来週もまた読んでくださいね。

 短いことは良いことだ。ってんで見た「ビキニウォリアーズ」はダークエルフがポンコツで役立たずな割に尊大で、良い味を出していたけれどもそれでやられたり死んだりしないところが安心して見ていられる秘密かも。これも短い「ワカコ酒」はポテトサラダとチューハイで一服。500円くらいならコンビニで缶チューハイとポテトサラダを買った方が安い気もするけどそれだと味気ない、街場のカウンターで1杯やるのが体験として良いってことなんだろうなあ。でもそういう店、近所から消えてしまったなあ。そんな短いアニメが他にもやっているけど見ていないので内容は不明。枕男子だっけ。人気あるみたいだけれどどんな内容なんだろ。1回くらいは見ておくか。

 そうかリイクニ・ノンデライコと同じ声なのかクルツコワ・ボスエリノフ。「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」の第19話に登場して北方マフィアに荷担し女性たちをさらう女スパイだけれどもその見かけとは違って本当の年齢は80歳くらい。義体には全身に武器を仕込んで外した腕には爆弾も入れているくらいの筋金入りだけれど、喋ると妙に可愛いのはやっぱり中身がリイクニだからか。名前は弥生みつきさん。声優というよりも女優としての活動が多かったみたいだけれど、どっちも最近は名前を見ない。どこで何をしているのか。こういう声が耳に響く人はもっと活躍して欲しいんだけれど。「紅」の村上銀子を演じた升望さんとか。いろいろと出てはいるけどメインで聞きたいなあ、もっと。

 「週刊少年サンデー」の新しい編集長になった人の宣言が俺様過ぎると話題になっているけれど、でも自分の全責任において雑誌を統括してそれで立て直していこうって覚悟は感じられるんで、あとはその波長が僕とあっているかどうかってところが読んで面白がれるかどうかの分水嶺かも。生粋のサンデーっ子という言い分はだからといってサンデー以外を読んでいないということにはならないし、何より漫画を愛して漫画家のために身銭を切れる覚悟を持っている人らしい。とてつもない高い給料をもらってもそれを自分にしか投資しないじゃなく、漫画家に貸すと言うより与えて成長の役に立てるようなことをずっとやって来た人らしい。それで漫画が面白くなることが1番という姿勢には共感できるけど、自分にそんなお金はないかならあ。そして今は編集者ですら事務的な立場になって貧困の中で作業をしている感じ。だからこそ高い給料をもらっていられる大出版社の編集長には頑張って欲しいんだけれど、いつまで続くか。見守りたい。


【8月19日】 この一件、自民党を結果として一時の衰退へと追い込んだリクルート事件での、国会議員への未公開株割り当てよりも悪質で事件的じゃないのか。「自民党の武藤貴也衆院議員が知人らに『値上がり確実な新規公開株を国会議員枠で買える』と持ち掛け、約4000万円を集めながら、実際に株は購入されず一部の出資金も返済されていないことが分かった。19日発売の週刊文春が報じた」というウォールストリートジャーナルの記事。ここで「国会議員枠」なんて珍妙なものを持ち出してお金を出せと煽っているところがどうにも気になって仕方が無い。

 政財界を揺るがし新聞界にも波及したリクルート事件は、職務権限がある人が濡れ手に粟の未公開株をもらって公開後に売り抜け利益を得た場合において贈賄という法律違反があって、国会でリクルートに便宜を図るような質問をした藤波孝生は罪に問われて政治家としての将来を断たれた。新聞界も中立公正であるべき立場を疑われるとして追求されて社長が辞めた。でも、そうでない人については、国会議員というエラい立場にある人に見返りは気にせず、プレゼント的に未公開株が与えられただけでモラル的に問題ではあっても法律的には問われなかった。だから森喜朗氏は後に総理になれた。

 今回の件は、あり得ない国会議員枠なんてものをチラつかせて金を集めるところが詐欺的だし、それを国会議員というエラい立場を活かして行っているからより悪質。安倍総理に親しいから追求されてしまったよ、なんて陰謀論めいた解説なんか関係なく、国会議員という立場を地に貶めた行為として糾弾されて当然だし、詐欺行為だと告発すらされてしかるべきだろ。安倍ちゃん親派はどうにも陰謀論を採りたがるし、メディアも戦争に行きたくないと言った学生たちを利己的と言ったことを逆手に自分が利己的だて揶揄しているけど、そんなレベルの問題じゃない。国会への挑戦であり国民への挑戦だと思うのだけれど、果たして火が着くかそれとも知らず流されるか。メディアの対応と国会の態度に注目したい。

 一般向けの完成披露試写会があったみたいで、Twitterのタイムライン上をいろいろな評判が流れたりRTされたりしている「ファンタスティック・フォー」だけれど、どうにもその評判がとてつもないというか、よろしくないというか。褒められるのがゲストに登壇した松井玲奈ちゃんだけだという話を聞くといったいどんな本編だって逆に興味も湧いてくる。興行的にはボロボロになるんだろうなあ。だったらいっそ、タイトルを「スペースニンジャ・ゴームズ」なんてものにして、キャラクター名をゴームズにスージーにガンロックにファイヤーボーイってことにして、そしてゴームズが大塚明夫さん、スージーは沢城みゆきさん、ファイヤーボーイは小野大輔さんとかそのあたりでそしてガンロックはダチョウ倶楽部から上島さんでも肥後さんでも良いから呼んできて、「ムッシュムラムラ」と言わせればそれでもう僕たちは見に行くと思わないでもなかったり。この面白さ、分かるかな、分かんねえだろうなあ。イェイ。

 「あたしたちのモチャ子が爆発しました!」っていう書き出しから何か、トンデモないことが起こっているじゃないかとワクワクさせてくれた第20回スニーカー大賞の特別賞を受賞した丹羽春信さんの「あれは超高率のモチャ子だよ!」(KADOKAWA、600円)だったけれども、すぐそのモチャ子が人型の紙切れに価値を持たせた一種の地域通貨だと判明し、なおかつ爆発なんてしていなくって奪われた言い訳としてそう誤魔化しただけだと分かって、モチャ子なるものへの興味がグッと薄れてしまう。そして物語は統制局と公安局なる2つの組織が並び立っては、地域通貨のモチャ子を土台に勢力を争い、その下で生徒たちもモチャ子の量を絶対とした生活を送っている状況下、どちらにも属さない配当局の生徒たちが画策をしてモチャ子集めに奔走するって展開へ。モチャ子はどこまで行っても単なる地域通貨に過ぎなくて、意思を持って動くようなことはない。

 つまりは社会から隔絶され経済的にも切り離された学園内を舞台に独自の経済と政治が繰り広げられている条件の下で、弱い奴らが知恵を廻らせ覚悟も決めて一種のクーデターに向かうと行ったストーリー。そこには誰が本当の黒幕かを見破るような推理もあるし、モチャ子をかけて図書館を奪い合うような展開において口で誤魔化しゲームで勝って最終的な勝利を手にしようと画策する謀略の楽しみもある。まさかそんな裏があったとは。なんて思えるけれどもそれなら別にモチャ子がダルでもヤンでもフロンでも構わないし人型じゃなく円形でも問題ない。せっかく面白そうな名前をつけて形も工夫したのに、それを生かし切れていないなあという思いが募るけれどもまあ、続く展開の中でそんなモチャ子が隠されていた秘密じゃなく、モチャ子そのものに隠されていた秘密が明らかになればグッと面白さも増すかも。待とう続きを。出るのか続きは。

 規模が倍になって余裕もできたかゲーム音楽ステージも設けられ、フードコートも作られるそうで「闘会議2016」はますますいつかの「ゲームサマーフェスティバル」に近づいてきたなあという印象。あの夏に成田の奥で開かれた野外のイベントが持っていたフェス感はさすがにないだろうけど、種々雑多なゲームの大会があちらこちらで開かれそれを見て楽しみつつ、ゲームの実況が行われているのを見て感嘆しつつ飯を食い、音楽を聴いて1日を過ごせる空間ってのがしばらなかっただけに、この“復活”は嬉しいところ。ゲーム音楽にアイマス勢が出てくればさらに大きな盛り上がりを見せるかもしれないなあ、あとズンタタとか。

 そんな「闘会議2016」では何と「あっちむいてホイ! 最強決定戦」なんてのも行われるからゲームを知らなくても参加できそうだけれど自分、あっちむいてホイに弱いから地域予選で落ちるか。優勝者の勝利の極意ってのを見てみたい。動体視力だろうか。判断力だろうか。ところで今回は主催がKADOKAWA・DWANGOとドワンゴになっていたようで「闘会議2016」、ファミ通編集長としてよく知られた浜村弘一さんをトップに据えてゲーム情報なんかを発信していくチャンネルも立ち上げどっぷりとゲーム三昧な展開にしていくっぽい。

 紙メディアでのゲーム情報の提供が滞りつつあり、またゲームそのものの楽しみ方も実況のような新旧を問わない作品を持ち出して大勢がわいわいと楽しむような形になって来ている時に、新作情報をいち早く伝えてきたメディアも役割を変えつつ、持てるノウハウを注いでゲーム文化全体を盛り上げるような形へとシフトしていこうとしていた。そこにやって来たドワンゴというネット企業でありニコニコというプラットフォーム。ガッチリと組むことで新しい展望が開ける、その魁に今度の「ニコニコ超パーティー2015」のゲーム実況コーナーがあり、「闘会議2016」があるんだろう。合併はだからエンターブレインのためにあったと。あるいは「週刊アスキー」を持っていたアスキー・メディアワークスのために。残る書籍や雑誌のKADOKAWAはどうしたらシナジーを得られるんだろう。そこが目下の難題って奴なんだろうなあ。


【8月18日】 それにしても「BORUTO −ボルト− NARUTO THE MOVIE」に登場する科学忍者、じゃなかった科学忍具班班長のカタスケってののデザインが、どうやら高名な映画評論家をモデルにしているらしくって、そして手下にいるコウスケってのもやっぱりラッパーな映画評論家がモデルだったりして、どういう経緯からそうなったんだろうかって興味津々。仲が良いから出してあげたのか、それともいろいろあったんで登場させてイジってやろうと考えたのか。分からないけれども映画ではカタスケもコウスケもちょっとした小悪党として、ナルトたちが考える忍者の道から外れたところで暗躍する。

 でも鍛えてこそ使える忍術を、誰もが簡単に使えるようにしたカタスケの科学忍具ってのはとてつもない発明なわけで、それを本当に忍術が使えるスーパーな上忍たちが使えばもう鬼に金棒な気もするけれど、やっぱり自分のチャクラを絞ってこその忍者っていう考えもあるんだろうし、そうでなければどこかで弾切れになって敗れることになっているのかもしれない。天才だけれど余計なことをして叱られるキャラクター、ってことならまあ、出してもらってイジられても悪い気はしないのかな、カタスケやコウスケのモデルの人たちも。子供がいれば父ちゃんナルトに出たんだぜって威張れるし。反応が気になるところ。

 「ブラックジャック」が載っていたころはチャンピオンっ子だったし、「サーキットの狼」や「アストロ球団」や「こちら葛飾区亀有公園前派出所」や「1、2のアッホ」や「ブルーシティ」や「暗黒神話」や「すすめ!パイレーツ」なんかが載っていたころはジャンプっ子で、それは「北斗の拳」や「ドラゴンボール」や「ジョジョの奇妙な冒険」の4部あたりまでの頃に復活していたりもして、そして今も「ONEPIECE」とか好きで読んでいたりする。あと「BLEACH」も。そして「ワイルド7」から「龍一くんライブ」や「プロスパイ」、そして「超人ロック」が載っていたころはもう全身キングっ子だったりと、時々に面白い漫画があれば行って読んでは、ほかの連載なんかも面白がって読んで自分の漫画に対する視野を広げていったっけ。

 サンデーっ子だった時代ももちろんあって、「うる星やつら」や「タッチ」や「ふたり鷹」や「究極超人あ〜る」やほか、諸々の漫画が載っていた時期は増刊も含めて骨の髄までサンデーっ子だった。振り返るとその期間は5年とか10年近くに及んでいたりするから、僕はどれと言われればサンデーっ子の血が濃いのかもしれないけれど、だからといって生粋のサンデーっ子だったとは言わない。それってありとあらゆる世の中に出ている漫画に対する視野の狭さを示すようなものだから。そして新しく「週刊少年サンデー」の編集長に就任した人が、「僕は少年時代から生粋のサンデーっ子でした。ジャンプっ子だったこともマガジンっ子だったことも一度たりともありません」だなんて檄文を書いているのを見るとちょっと、これでサンデーは安心だってことよりも、本当に大丈夫なんだろうかといった不安が先に立つ。

 なるほどその決意って奴は伝わってくるし、そんな自分を中心にして新人を育てていくぞっていう宣言にも好感が持てる。僕にとっての全盛期、僕がサンデーっ子だった時代は高橋留美子さんあだち充さんを起きながらも2人がトップではなく、岡崎つぐおさんがいて新谷かおるさんがいて池上遼一さんも書いていて森秀樹さんもいたり島本和彦さんもいたりみず谷なおきさんも出てきたりと本当にラインアップに幅があった。ゆうきまさみさんも登場してきて増刊はどの漫画も傑作で、そこから本誌に移ってヒットを飛ばす漫画家さんたちも大勢でた。自ら掘り出し自ら育て自ら売り出すその力は、ジャンプに勝るとも劣らなかったような気がする。

 生粋のサンデーっ子として、そんな時代を取り戻したいと思っての宣言であり、檄文なんだろうけれど、でも果たして今の時代にそこまでのパワーを漫画雑誌が1誌で担えるものなのか。「週刊少年ジャンプ」に連載の漫画ですらどれもが世間に知られるといった感じではなく、長期連載の幾つかとちょっとだけ話題になった作品が残って、あとは知らず連載されては埋もれ消えていくか、僚誌に移ってそこで新たな可能性を羽ばたかせていくといった感じ。1誌で完結というよりさまざまな媒体を駆使してそのどれかにマッチさせるような展開の入り口に、少年週刊漫画誌がなっているだけに過ぎない。おれはもう「週刊少年ジャンプ」ですら。

 じゃあ新しい方針の下で編集されるサンデーでそういった目配りは可能なんだろうかと考えると、どうも1誌完結の上で要塞化しようとしているような雰囲気。他誌から人材を引っ張ってきて新境地を開かせるようなことも行えるかどうかも見えない中で、「銀の匙 Silver Spoon」のような成功はあり得るのか、って興味というか疑問も浮かぶ。でももうそういうモデルも今の時点では作り起こせないのかもしれない。サンデー自体の部数が40万部を切ってきた中で、世間に広く存在を告知しマイナーだった漫画家に新境地を開いてあげて大きく売り出すだけのポータルになり得るかどうか。だったら今は力を溜めて、土台を築く時期と考え、新人の発掘育成を主軸に据えたのかも。1970年代末期から1980年代初頭の増刊と週刊の中から大勢が生まれてきた、あんな時代の再来を望みたいけれども、果たして。

 例の防衛相での安保法制に関する事前シミュレーション、幕僚監部が勝手にやったんじゃなくって防衛相が指示していたってことで、なんだ文民によってちゃんと統制されていたと分かって一安心、できるかってーの。だってその法案は未だ国会の審議を経ておらず憲法違反といった話も取りざたされていて、成立も危ぶまれれば運用へも注意が必要な危険物。それをまだ未定の間にシビリアンが成立したものと見なして運用を探るなんてことがあっては拙い。そういうのをコントロールするべきシビリアンが率先して暴走している状況はつまり、シビリアンそのものに問題があるってことなんだけれど、考えてみればそんなたがの外れたシビリアンを登用したシビリアンのトップが、ちょっと妙だったりするから困りもの。どうしたものかと思うけれど、だからといって軍にコントロールする権利を持って行かれるよりはマシだったりするから悩ましい。どうしたものか。どうしようもないものか。

 DMM.make AKIBAで文化庁メディア芸術祭の公募に向けてこれまでのエンターテインメント部門で受賞なんかをしたiPhoneが腕からしゅるっと出てくる作品とか、3Dプリンターで作る超カッコイイ義手なんかを作った人たちが登壇しては、こういう作品が入賞することの不思議とうれしさなんかを語ってくれた。その上でDMM.make AKIBAを仕掛けた小笠原治さんなんかはメディアが媒体からモノへと移って行っている状況があって、それが広まっていくことによってコミュニケーションが生まれるってことを話してた。データをアップしておけば世界のどこでも同じモノを作り出し、そして改良なんかもしていける。そこに交流なんかが生まれメディアとして機能していく。ただ情報だけでなくプロダクトを介在したコミュニケーションの広がりが進む中、既存のメディアは何ができるか、どうなっていくのか。なんてことを考えた夜だった。米光一成さんを見た。


【8月17日】 「反省会」っていったいどんなことが行われたんだろうなあ、なんて想像してしまった「ガールズ&パンツァー」の再放送、サンダース大付属高校と大洗女子学園との試合で大洗の通信を傍受していたアリサに向かって隊長のケイがそういったとたん、アリサが青ざめたんで相当に厳しいお説教が繰り返されるのかもしれない。まさか戦車にロープで縛って引きずるとかそんなこと? さすがにそれは厳しいか。でも外にはフランクでフェアでも、味方には厳しいケイの一面が見えた感じ。だからこそ強豪校をずっと演じていられたんだろうけれど、そこはやっぱり黒森峰学園で副隊長まで務めた西住流のご令嬢だけあって、戦えばやっぱり強いってことで。ただ車両数を合わせたサンダース大付属のフェアプレーには喝采。あれを見れば黒森峰だて麻子にヘリコプター、貸すよねえ。

 そして次がアンツィオ戦なんだけれどそれが本当のアンツィオ戦でないことを僕たちは知っている。テレビじゃあそこは放送しないし終了後にOVA版を放送してくれるとも思えないけれど、映画でのドゥーチェたちの人の良さを知った上で瞬殺なテレビのアンツィオ戦を見るとやっぱりちょっと可愛そうになってくる。でも仕方が無い、それが戦いというものだから。このあとの展開では新しい戦車が加わって、メンバーも風紀委員チームや自動車部チームが加わって、プラウダ高校との雪中の死闘を経て黒森峰との決勝へと至る過程でネット戦車ゲームチームも加わって、メンバーが揃うんだけれどその役割、映画ではどうなっているかに興味。まるで活躍しなかったネット戦車ゲームチームのとりわけねこにゃーにもっと出番を。美少女なんだから。眼鏡さえ取れば。

 無人島で大勢の人たちがサバイバル生活を送りながら、投票によって少しずつ人を減らしていって、最後に残った人が賞金を獲得するというテレビ番組とか、一般の人から選ばれた何人かの若い人たちが、一軒家で暮らしている姿を見せるテレビ番組といったリアリティー番組には、基本的には台本なないってことになっているけど、でも実際、流れはある程度決められているんだろうし、何よりカメラの向こう側に大勢の視聴者がいると分かっていると、出演者もどこかリ舞台に乗った役者のような立ち居振る舞いに誘導されて言ってしまう。

 同居者に異性がいるような番組なら、ここでアタックすれば恋愛ドラマの主人公のように見てもらえると考えるといった具合、あるいはもめ事が起こった時でも、カッコいい奴だと思われたいと身を引いたり、仲裁に張ったりするような。そんなドラマ好きが期待するような展開があり、けれどもドラマの台本とは違った展開もあるような満足感とドキドキ感が、リアリティー番組に大勢の人を引きつけて人気になっている。そういう感じか。

 喜多見かなたという人が書いた「されど僕らの幕は上がる。 Scene.1」(スニーカー文庫、620円)はそんなリアリティー番組が、小説の中で繰り広げられているという設定のライトノベル。「シェアハウス」というリアリティー番組に出演することになった香椎涼太という少年が、素人から選ばれてその家に行くと、すでに住んでいた人たりから拍手でもって出迎えられる。大好きだったアイドルの子も居て笑顔を向けてくれた。これは嬉しいと思ったののつかの間、その回の収録が終わったとたん、イケメンフリーターの龍之介は、おどおどとした態度を見せて部屋に引きこもり、美少女のように可愛いと評判の少年ピアニストの拓海は、涼太をからかい毒舌をまき散らす。

 涼太が憧れていたアイドルは無愛想な顔になって涼太のことを「ゴミムシ」呼ばわりして「非業の最期を遂げたいの?」と脅す。テレビで見ていた世界とはまるで違った世界に放り込まれることになった涼太だけれど、彼だって挫折続きで鬱屈した自分と、そう振る舞うことを求められていた明るいリーダー少年という設定とのギャップに悩む。番組内と変わらず優しくて頼りがいがあるお姉さんだった琴に励まされ、どうにか居場所を得た感じがしたら、その琴が“卒業”させられてしまったから吃驚仰天。リアリティー番組にはよくあることだけれど、納得ができなかった涼太は、裏に何か作為があるのかと疑って、出ていった琴と連絡を採る方法を探る。

 そんな展開の中で、カメラが向いていないところでさらけ出される本心の、さらに奥にある本音のようなものがぶつかり会い、「シェアハウス」の住人たちは少しずつ理解を深めていく、そこに浮かんだ、7年前に起こったというある事件と住人たちの関わり、偶然にしてはできすぎた状況に、いったい誰の作為がそこなるのかといった謎を残して以下続刊。気になるなあ、涼太自身がどういう経緯でその事件に関わったとか。しかしアイドルは毒舌を浴びせてきても、美少女棋士は下着姿で歩きまわって寝そべったりして何と眼福。そんな世界にいられるなら、キャラじゃなくてもリーダー少年を演じ切るぞと思わないのか少年は。まったくもって勿体ない。

 嫌な空気。外務省がホームページにあった、戦争に対するお詫びについて触れた文章を削除したっていう話が伝わってくるに、いったいどこを向いて仕事をしているんだいった気分になる。だって安倍談話では先の大戦に対するお詫びの気持ちは、歴代内閣の出した談話と同じで「今後も、揺るぎないものであります」とか言っているじゃないか。たとえ自分の口から自分の内閣においてお詫びしたいとは言って無くても、というかそれを自分から避けた以上は前の政権でのお詫びの意思が残っていて当然。けれどもそれを消してしまうということは、揺るぎがありまくりってことを自ら認めたってことになる。もう卑怯というより姑息というより無様でみっともないことこの上ない。それを外務省が自主的にやったのならなおのこと、官僚の平目思考と総理の意思が国全体に行き渡っていることの現れでもあって、そんな人たちが横溢した社会がこの先どこに向かうのかって考えると、どうにもいたたまれなくなってくる。やっぱり向かうか戦争へ。そして嫌われ者の道を。やれやれだ。

 よく歩くところだけに池袋のZARA前で、車道から車が突っ込んで人が亡くなられたり怪我を負われたりしたって話しに自分であった可能性なんかも思い胸が痛くなる。いったいどういう理由で突っ込んだのか、地下駐車場から出たときに停車はしても、そこから一気呵成に猛スピードで突っ走っていく理由が分からない。寝てしまったというけど寝るような距離でもなし、かといって薬や酒が入っていたという情報もないとなると別に理由があるんだろうかと想像も浮かぶ。病気とか。でも下ろされた時にちょっぴり様子がおかしかったという話しもあるだけに、検出はまだされていない何か原因があったりするのかも。いずれにしても悲しいなあ。そういえば少女が顔に粘着テープを巻かれた上で全身を滅多刺しにされて殺害されていたというニュースも。それが原因というより窒息したという話しもあって苦しかっただろうなあという思いに立ちすくむ。昔の方が残酷な事件が多かったなんて話もあるけど、今はちょっと違う残忍さが跋扈しているような気がする。人心に歪みが生じて元に戻ろうとしないのか。それが普通という心理がはびこり始めているのか。怖いけど。でもやっぱり改まって欲しい空気。シーラ様、浄化を。


【8月16日】 そしてあっさりとタイ・カッブ選手の全米では2位となる安打記録を日米通算ながら抜いてしまったフロリダ・マーリンズのイチロー選手に対して、カージナルスの応援に来ていたセントルイスのファンもスタンディングオベーション。これにはやっぱりヘルメットを脱いでちゃんと答えたようだけれど、敵地でありながらもしっかりと拍手が贈られるってところに例え日米通算であっても、偉大な記録は記録だという認識を米国の野球ファンも持っているんだってことが窺える。MLBの方もさっそくこのヒットのボールとバットを受け取り野球殿堂に贈ることにしたみたいだし。

 とはいえイチロー選手自身には日米通算ということへの引っかかりもあるだろうし、敵地ってこともあってヒットを打って即バンザイといった風情はなし。そこが人間としての強さだし凄さでもあるって言えそう。試合後にはコメントを出したようだけれど、記録を抜いたことよりも、現地のファンの暖かさについて触れていた。まだ途上にある身、そして現役である自分にとっての通過点だという認識を踏まえつつ、1歩1歩進んでいってくれそう。期待しよう、日米通算であってもピート・ローズの安打を抜く日を。

 そしてだんだんと恐ろしさが見えてきたゲルサドラ。多くの関心を引きつけ信頼を得て総理大臣になったけれども、その決定の正しさにいつしか誰もが頼るようになってすべてを預けてしまった挙げ句にいったい何が起こるのか。ひとつにならない人の心に体を痛めた挙げ句に調子を崩したゲルサドラが取るのはいったいどういう手法なのか。見えるのはその独断による独裁。それが見えていない間抜けでもないから爾乃美家累とかは真正面から破棄をひるがえし、一ノ瀬はじめはそれとなく異論を唱えて牽制し、すべてが分かっているらしい三栖立つばさのひいじいちゃんは長岡で悶々とした日々を送っている。

 でもひとり、つばさだけは自分が信じた者を信じなくなるのは自分が信じられなくなるからなのか、暴走し始めているゲルサドラに気付かず依然として味方を続けて無茶を言う。そんな自分を省みられない莫迦さ加減に腹も立つけど、それが若さってやつなんだろう。しかしあのベルクカッツェすら裸足で逃げ出したゲルサドラの暴政を、ガッチャマンたちはいったいどう止める? 「ガッチャマンクラウズンサイト」。これからの展開が面白そう。累の女装もいっぱい見られそう。それにしても累ちゃん、あの格好の時の下着、どっちなんだろう。ちらりと見えてトランクスだとやっぱり拙いとそれなりのもの、身につけていると思いたいけれど。果たして。

 いやそれはさすがに冤罪でしょう。佐野研二郎さんがデザインしたというローリングストーンズのTシャツに、どこかのアーティストのレコードジャケットに使われている写真が反転して使われているっていうニュースが取りざたされていて、見ると確かにレコードジャケットの人物がまんま裏返しになって載せられていてこれがそのままTシャツに使われていたら拙いことこの上ないんだけれど、よくよく見ると別にTシャツの前なり後ろにプリントされているわけじゃない。首の部分にあるブランドロゴ。そこに使われているようだった。そしてそれは「プライマルエンジン」というTシャツブランドのロゴであって、佐野さんデザインじゃないストーンズのTシャツにも使われていた。

 つまりは佐野さん関係ないってことで、たまたま依頼されたTシャツのその時期のロゴが、とあるレコードのジャケットからとった画像が反転して使われていただけのこと。これを佐野さんの責任にするのは不可能なんだけれど、今というこの時期に話題性があるなら取り上げればきっと世間も騒ぐだろうっていう浅はかな考えが、最初のネタを出した人にも受けて記事にしたメディアにも、蔓延している現れっていえそう。ただし個人が騒ぐのはともかく、メディアが記事にする時にどうしてちょっとだけ調べて見ようと思わなかったのか。そこにあるブランドネームがストーンズと関係なさそうならいったい、どういう形でそれがデザインされているのかと多い調べれば、自然とブランドロゴだと気付くだろう。そういう調査すらせずに時流に乗る。受けて世間も騒ぎ立てる。厄介な時代になったなあ。

 父方の里が鹿児島県の薩摩川内市にある関係で川内原発の存在についてはいろいろと気にはなっているけれど、だからといって鹿児島市の方にある桜島が噴火しそうだからといって、すぐさま川内原発に影響があるから止めろといった言い分には、賛成しかねるところがあるのはそれより先に言うべきことがあるだろうって思うから。つまりはすぐ対岸の鹿児島市であり、桜島から繋がった大隅半島にある垂水市であり、何より桜島に暮らしている人たちの安全を気にする方が先ってこと。遠く60キロもはなれた川内原発に影響がでくるくらいの噴火なら、鹿児島市は灰に埋もれ垂水市は火砕流に巻き込まれ島の家屋は噴石によって粉々になる。

 だから桜島が噴火しそうだって話については、そっちの近隣住民に対する非難誘導をまずは心配した上で、じゃあ川内原発はどうなんだって段取りをもって言うならまだしも、いろいろとすっ飛ばして川内原発やばいじゃないかとか、原発を再稼働させたから桜島が怒ったとか言われると、やれやれだから彼らはと言われてしまうんじゃなかろうか。もちろん川内原発に被害が及んだときに地球が受ける核汚染のダメージは半端じゃないけれど、川内原発に被害が及ぶような噴火そのものでも地球規模の気象変動めいた事態は起こる。だからここは静かに山の神様怒らないでとお祈りしよう。そういえば桜島の神様って誰なんだろう。

 せっかくだからと吉祥寺まで出向いていってリベストギャラリーで開かれていた青木俊直さんの個展「青木女学院2015」を見物。奥に吉祥寺の風景を置いてそこに女子高生を配置した上で手前に透明のアクリル板を置いてそこにも絵を描いて奥行きを持たせる手法で作られた作品が実に良く、1枚絵とは違った作品感というか吉祥寺という空間をそこに閉じ込めたような感じがあって面白かった。あとはやっぱり青木さんが描く女子高生の雰囲気の良さかなあ、きゃぴきゃぴとしていて萌えとは違うんだけれど地味でもなくギャルでもないけどそこそこ現代的。そんな人物が世代を超えて目を引きつけそう。

 はがき大のサイズに描かれたさまざまなシチュエーションの女子高生も良かったし、文化系っていうカテゴリーで軽音学部とか吹奏楽部とか美術部とか科学部なんかを描いた人物像もそれぞれに、特徴は出ていながらも青木さん的なスタイルに整えられててありきたり感がない。なにより顔が良い。そんな絵が並ぶ空間にいるとああ、こういう女子高生たちばかりなら中に浸っていたいなあと思わせるけれども現実の女子高生は口が厳しく態度もハードなのでおじさんにはちょっと耐えられないのだった。だからこその「青木女学院」か。せっかくだからとanフレットをいただいたらサインを入れてもらった。あとイラストも。家の後ろ、木の陰から巨大な女子高生がのぞいている絵は進撃的。こんな女子高生になら食べられても良いかな。頭からだって尻からだって。


【8月15日】 タイ・カッブにまで安打数並んでしまうとはフロリダー・マーリンズのイチロー選手、その成績を見るに日本が生んだアスリートで名実ともにトップに位置するといっても過言ではないけれど、記録が日本と米国の両方にまたがっているという1点から、認められないという状況も依然として根強くあるだけに、当人もそれを誇るということをしたくなかったのか、試合後のインタビューには登場しないで、言葉も残さなかった感じ。これがタイ・カッブの記録を抜いたとなったら、さすがに観客も拍手で讃え、イチロー選手だって塁上で手を挙げ答え、試合後にも言葉を残すだろうけれど、それでもやっぱり日米通算という形では、世界が認めないという意識は抱えていくんだろうなあ。

 ならばせめて数字だけでも、1位のピート・ローズ選手に並んで欲しいけれどもここが難関。本数でいうならわずかに65本だけれど、今の出場回数では年内は無理だし、来年に出られるかどうかも危うい。そして米国だけでの300本安打は、その上を行く87本を上積みしなくちゃいけないから、今年来年でもちょっと届きそうもない。とはいえ今年だって外野手の4番手5番手といったところで、代打代打といった出場機会しか得られなかったところを、他の選手の状況もありつつ、自身の打撃とそして守備によってしっかりポジションを掴んで、割とコンスタントに出場を重ねている。復調しつつあるとなれば来シーズン、1番レギュラーを獲得して一時のような打撃をすれば、すぐに達成できる数字じゃないか、って思いたいけれどもそこは厳しいんだろうか、やっぱり。とはいえ日本に戻って達成すれば良いとはならないだろうからなあ。まあ彼の人生、彼が決めるその生き方を見守ろう。どこまで行こうと。どこで終わろうと。

 世界の最前線でトップ争いをしている選手の偉業より、ローカルな日本のそれも高校生というカテゴリーで繰り広げられている試合が、スポーツ新聞の1面をおそらくは飾ってしまうこの国のスポーツというものに対する敬意のどこか歪んだ様に薄気味悪さを感じてはいるんだけれど、一方で世間の感心がそこに向かっているからこそ、答えなくちゃいけないっていう思いが高校生の真夏の野球を取り上げ持ち上げ盛り上げる筆となって現れているとも言える訳で、つまりは共犯関係によってスポーツがその内容ではなくドラマとして尊ばれる状況が、今も変わらず続いているって事なんだろう。夏の甲子園、早稲田実業から出場している清宮選手の打撃が爆発。本塁打を含む3安打5打点でこれで甲子園通算5割。活躍として半端じゃないけどそれは高校生の戦いであってプロ野球でも大リーグでもないんだよなあ。でも凄いと思えるこの気持ちが、スポーツをすることへの興味に繋がれば良いんだけれど。

 本を探して入った秋葉原の書泉ブックタワーに置かれていたクイックジャパンの最新号の裏表紙が、なぜか「Classroom☆Crisis」になっていてそして書店では表ではなくそっちの裏を上にして、平積みされていたんで何があったんだと手にとって、中を読んだら前にネットのアニメアニメで「がっこうぐらし」について話していた4人のアニメライターから、アニメアニメ編集長を除く3人のアニメライターさんが揃ってコメントを寄せていて、いよいよ新ユニット結成かと思ったというか、フラッシュ&シャイニングとでもいうか。原作のないオリジナルってこともあるし、どこか懐かしい学園ノリでSFのような作品ってことも、こうした年輩のアニメライターを引きつける理由になっているのかな。絵も良いし動きも良いし話もそれなりに面白く、そして原作がないから先も見えない。毎週追っていく楽しみがあるってことの意味を、改めて噛みしめさせてくれる作品だし。

 とはいえ最新話はちょっといろいろ拙いかなあ。月かどこかで行われた講習会にA−TECから出向いた白崎イリスにくっついて、服部花子アンジェリーナ先生が月まで行ったものの羽目を外して飲み過ぎて、帰りのシャトルを乗り逃すといったところにまず、切れ者で通っていた花子先生のキャラクターとしてのブレが見える。そこがアニメだしギャグなんだって言われても、キャラクターの能力のレベルをそこで下げてしまうのはやっぱり感心しない。それだけイリスのことが気に入らなかったとしても。そして乗り込めたシャトルがいきなりハイジャックされてしまうという状況。SPが裏切りの当事者だなんてことがあるなら、背後に動いている組織は相当なもの。内部に犯行を画策した者がいるとするなら、その目的は乗っていた教授なんだろうけれど、その生命が脅かされかねない事態へと至らせては事件を起こす意味が無い。プロの犯罪者としての能力が足りていない。ここにもレベルのブレが見える。

 そして何より宇宙船のコックピットで拳銃を乱射するという展開。そもそもが宇宙で拳銃を使おうだなんて発想がよく分からない。船内はほとんどが無重量でそこで拳銃なんかをつかえば反動で後ろに体が飛んでしまうから、狙いだって曖昧になる。普通は使わないか無反動の銃を使うといった描写になる。でもそんな感じはなくて普通に火薬で弾丸を発射する拳銃を使っていた。なおかつその弾丸が当たった程度で宇宙船のコックピットの窓ガラスが割れてしまった。あり得ない。ああいうのは外部からの衝撃、たとえば宇宙を漂う塵ひとつですら相対速度ではとてつもない威力となる状況を想定して、超分厚く超頑丈になっている。でも拳銃2発で穴があいた。そういう事態があり得る場所で、拳銃を振り回す莫迦がいることの不思議、そして拳銃で宇宙船の窓に穴があくことの微妙さに、これはちゃんとした人を入れた方が良いんじゃないかと思えたけれど、でもまあ今回はスカート姿の花子先生が飛んだり跳ねたりするのが見どころなんで、まあいっかと思うことにしておきたいものである。次回はもうちょっと真っ当に。せめて経済的な展開だけは。そこが1番のキモなんだから。

 そして買った本とか読みながら、王道ファンタジーなるものがライトノベルの世界で果たしてどれだけ好かれ喜ばれ読まれて来たのだろうかって考えた。水野良さんの「ロードス島戦記」しかり深沢深潮の「フォーチュンクエスト」シリーズしかり、一時期のライトノベルはすなわちファンタジーとも言い換えて良いくらいにジャンルとして隆盛を誇り人気も集めてきた。神坂一さんの「スレイヤーズ」のシリーズもそんなファンタジーの隆盛を組みつつもキャラクターを突出させ展開をコミカルにしつつ、背後に深くて広い世界観を仕込んで引っ張り読ませて大ベストセラーとなった。でも、それは劇薬でもあったのだろうか、異世界を構築して剣と魔法の物語を読ませるにはライトノベルは軽くなり広くなり過ぎたのかもしれない。

 設定に工夫をもたせゲーム性を入れる、転生者という異分子を紛れ込ませるといった作為の上にバランスを崩し、物語に変化を与えてバリエーションを楽しませるようになっていく。「ゼロの使い魔」しかり「ノーゲーム・ノーライフ」しかり。そんな状況に合って敢えて異世界ワンファジー、それも王道を行く剣と魔法の物語で挑もうとした部分を評価したいのが「偽神戦記」って作品で、幾つもの属性に別れた国々を設定してそれぞれに異能を持たせつつ時を経て構築された政治や社会をそこに載せ、人々の暮らしや息遣いの上に王族たちによる争いを描いてみせてくれている。

 面倒でも端折らずしっかりとした土台の上に築き上げられた世界観を持った作品だからこそ、身に近い存在として登場人物たちを感じつつ、それでも自分たちにはない異能であったり才能であったり武力であったりといたたものを楽しませる。ただ、これといったスペシャルな存在を未だ出していないところに核をもたない弱さがあるって感じ。死を与えられた少女を助けて少年が軍師となって活躍し、国を建てて盛り上げ反抗していくってストーリーなんだけれど、それでいったいどこに行きたいの、それを彼らは成し遂げられるのといった帰着点を見いだせない展開の中に放り込まれ、泥沼の戦いに絡み取られてしまいそう。

 これが鷹見一幸さんの「ご主人様は山猫姫」のように地域を支配し国家へと挑み取り戻すような主筋があれば読み継いでけるんだけれど、今のままだと局地戦が続いていった先、何が得られるのだろうかという不安があって、それがレーベルの変更に伴って続きを止めてしまっている理由にあったりするのかもしれない。王道であるならその積み重ねによって最終的に得られるカタルシスを想像させてくれれば、一気呵成に盛り上がることも可能で、なにより設定されている世界観のほとんどがいまだ見えていないという状況。だからこそどこか、続きを紡がせるなり、再始動させるといった差配をして欲しいんだけれど、そいういうところは出るかなあ。

 終戦記念日ということで70年目とう節目でもあるからなのか、戦争に関する特集を刷るテレビ番組が多かったけれども印象に残ったのは戦争を記録した映像をカラーで見せたものと、そして今もなお世界の各地で続く戦争を意識させたもの。前者はモノクロの映像として遠く隔てられた過去だった戦争が、今そこにあるリアルとして浮かんできて地続きの恐怖って奴を感じさせる。変わらない日常と隣り合わせでとてつもない惨劇があったという事実。それがここしばらく、モノクロの映像ですら滅多に公開されない状況下で遠のいてしまっていた。昔はそれこそ東京大空襲で亡くなった人の遺体が山積みされた写真が掲載されたムックとか、普通に読めたんだよなあ。それで悲惨さを知ったんだけれど、今はそれが遠ざけられている。改めて映像で、それもカラーで見た遺体の存在に、ああこれが戦争なんだと感じて二度とやるものかと思ってくれる人が増えたら僥倖、なんだけれど。

 もうひとつは、女優の石原さとみさんがアフリカのルワンダへと赴いて内戦で傷ついた人たちは、反政府軍で指揮をとっていた人や、戦っていた少年兵少女兵たちにインタビューをしていた番組。もちろん前に知識も仕込んでいったんだろうけれど、10数歳で反政府軍にさらわれた少女は3度、子供を産まされてそして1人は死に、1人は行方が分からなくなりもう1人は逃げるときに置いてこなくてはいけなかった。そのことを語る顔が横を向き、後悔の言葉が紡がれるのを傍らで聞いている石原さとみさんの口から、何をどう言えば良いのか分からないという言葉が漏れて、それが戦争の残酷さなんだろ気付かされた。慰めとか同意とかしてどうなるものでもない悲惨な現実。それが現在もなお進行しているとう事実。知ってなお戦いに向かうような態度をとれるのか。とれるんだろうなあ。あの人たちには。自分たちのプライド、それが満たされることだけが望みなんだから。そして世界で大勢が死んでいく。辛い時代は終わらない。


【8月14日】 うちはサラダが余りに可愛かったんで、サラダが主役になってる岸本斉史さんによる「NARUTO外伝 〜十代目火影と緋色の花つ月〜」(集英社)を買ってよんだらやっぱりサラダが可愛かった。時系列的には映画「BORUTO ボルト NARUTO THE MOVIE」よりはすこし前、ボルトたちがアカデミーを出て下忍になってお仕事を始めるようになるにはまだ至っていない、これからアカデミー卒業のための試験を行うってところでサラダは父親のサスケに生まれてひと目たりとも会えないまま、大きくなっては自分は本当に両親の子供なんだろうかと疑っている。

 その頃の子供にはよく浮かぶ感情だろうけれど、親に会えていないというのがそんな猜疑心を膨らませていた様子。おまけに母親のサクラと父親のサスケが写った写真には自分と同じような眼鏡をかけた女性が1人。これがもしかしたら自分の母親かもしれないと思い込み、サスケが戻ってきているという話も伝わってきてサラダは友だちの秋道チョウチョウといっしょにサスケを出迎えに行くナルトたちをおいかけそして晴れて対面となったものの、やっぱり生まれる諍いに疑い。でもそんなサラダにナルトは信じていれば、そして繋がっていれば良いじゃないかと諭してサラダは考えを改め、そして成長していくといった感じ。

 映画ではだからそうした理解が進んだ上で、ナルトに憧れ火影を目指すと決めたサラダが出てくることになるんだけれど、そこに至っていないボルトは父親に反抗して悪事に手を染めるという流れか。親と子の関係って奴が読んで分かり見て分かる外伝だなあという印象。それにしてもあの怪力はどう考えたってサクラの遺伝だろうし、使える忍法なんかも父親譲り。それだけでもう十分に親子って証明されているようなものだけれど、子供って疑うとずっと疑うものだからなあ。仕方が無い。あとサラダが大蛇丸を知っていたのはあそこで出会っていたからなのか。そりゃあ驚くよ、父親なのか母親なのかどっちなんだって。気になったのはサラダの眼鏡が伊達なのか、ってことだけれどどっちなんだろう。取ったらどんな顔なんだろう。いつか見たいその素顔。いや眼鏡をかけている顔こそが素顔なんだという声も。そうかもね。そうだよな。

 レヴィのフルグラフィックTシャツが売り切れたという話が流れてきて、もう行かなくていいかもって思いかけたけれども伊藤明弘さんの本が出ているのでやっぱり行こうと奮い立ってコミックマーケットへと出向いて西館(にし・やかた)の企業ブースをざっと回ってサンデーGXのブースで伊藤さんの本を買い、そして東館(ひがし・やかた)へと出向いて「マンガ論争」とか水玉螢之丞さんの雑誌への寄稿リストとかライトノベル作家が大勢参加の「求刑小説。」とかを買ってそれからしばらく待って、午後4時の終了後に行われたTPPに関するシンポジウムを見物する。割と取材がきていたなあ。それだけやっぱり注目事項ってことなんだろう。とりわけ著作権違反の非親告罪化ってあたりが。

 そして登壇した赤松健さんが「来ないっしょ、TPP」といってシンポジウムは終わってしまったのだった、っていうのは実は案外に本質で、先月だったか決まる決まると言われながらも結局決まらずお流れとなったまま、スケジュールの上でいつ決まるとかまるで見えない状況が続いている。このままオバマ政権が終わり安倍政権も終わってしまってそれでもTPPというものが継続して議論に乗り、そして成立へと向かうのか。怪しいとこも見えているだけに心配なんてしないで良いよっていうのもひとつの真理ではあるけれど、だからといって現状、いろいろと議論もされていることがあってそれが外に見えてきていないだけに、何が議論されていてそれがどういう影響をもたらすか、ってことは知っておいて損はない。急転直下、話しが動いてTPPで著作権のことが話し合われて非親告罪化、保護期間の延長、そして法定賠償制度の導入が決まったときに起こる影響には計り知れないものがあるから。

 具体的には誰か知らない悪意を持った第三者が非親告罪化にかこつけて、のべつまくなし気に入らない相手を告発して警察を動かし制作者を困らせるんじゃないかってことがあるんだけれど、そういう場合に警察とか検察がどういう基準で動くのか、著作権者の作家にいっぺん尋ねてこれ別にいいっすよと確認がとれれば逮捕も起訴もしないといったガイドラインが作られるのか、なんてところがポイントになりそう。でもそれだとやっぱり作家の胸先三寸、気に入らない内容のものは違反といって官権に渡すってことも無いわけじゃないからなあ。

 作家でコミケ準備会も手伝っている松智洋さんはそこまでぶち切れる作家も版元もないって立場だったけれど、赤松さんはシビアにぶち切れますよと話してた、そんな温度差こそが基準の曖昧さでもあって、例えガイドラインが作られてもその運用にさじ加減があれば結果として萎縮は起こる。そうならないための緩いガイドラインが作られるなり、いっそ赤松さんのいうように現状から何も変わらないことがベターなのかもしれない。いずれにしてももしも非親告罪化が決まった時に備えて、曖昧さを廃して萎縮が起こらないようにしておくことが大切、そのために今後も活動もロビイングも必要ってことで。

 保護期間の死語70年への延長もそいうした著作権者の確認に影響を与えるだけに認めたくないところ。作家本人は愛されているからオッケーと思っても、遺族はクリエーターじゃないからそういう魂とは無縁で、使われたなら訴える、そして金を取るってことになるかもしれない。だからこその厳密なガイドラインの導入。そして法定賠償金に関する制度決め。やっておく必要があるんだろうし、こちらとしても考えておく必要があるんだろう。行方だけは見守ろう。でもってやっぱり来なかったよ良かったとなる時が来るのを待とう。

 どれだけ謝りたくないんだろう。認めたくないんだろう。安倍談話。太平洋戦争の終結から70年の節目にあたっての談話でどうして日露戦争前までさかのぼるんだか。「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」っておいおい、列強がやっていたから日本もやったって。そりゃそうだろうけどそれは過去。太平洋戦争で行ったこととはまるで関係が無い。

 つまりはその後に悪いことをやった、それを本当は言いたくないし認めたくないんだけれどそれが目的である以上は言わなくちゃいけないんだけれど、少しでもその文言を薄めようと昔は良いこともしたんだぜって言わなくちゃいけなかった。だから冗長で曖昧で主題からズレて中身がなく本気の度合いも足りていない珍妙なものになってしまった。こんな談話ならだ出さなきゃいいのに。これに比べれば小泉純一郎総理による戦後60年談話の何とシンプルなこと。「また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です」と自分の内閣を主体にして「お詫び」をしてる。

 安倍談話だとこうだ。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります」。おいおい。過去の内閣が重ねてお詫びをしてきたよ。それは変わらないよってことだけど、今の内閣でも改めてお詫びするとは言ってない。自分の口、自分を主体にしてお詫びを言いたくないが為のアクロバティックな、でもすぐバレるロジックとか出すなら何も言わなきゃ良かったんだよ。そんな気持ちがどこまで滲んでいるから、言いたくないことを言わなくちゃいけないんだけれど言いたくないからどうやったら言わずに済むか、薄められるかに苦心惨憺した後がありありと見えるから、読んで目眩してくるんだ。こんな潔くない大和魂なんてないだろうに。早速世界から突っ込まれているけど、気付かないふりをして逃げるんだろうなあ。やれやれ。


【8月13日】 大爆発。それは凄いんだけれどいったい何が爆発したらあれほどまでの爆風が起こりキノコ雲が現れるのか。化学物質とかじゃあとてもああはいかない爆発に、よくないものでも保管してあったのかといぶかるけれどもそれを近くに高層マンションも建ち並ぶ場所に置いておくとはまた考えられないだけにやっぱり訳が分からない。ともあれ天津での工場の爆発は、遠く離れた場所から見ていた人の部屋にも衝撃波が届いて撮影中だった人を驚かせたほど。ましてや近くにいた人たちにはどれだけの被害が出たんだろうか。未だ判然としないその被害状況が明らかになっていった先が気になる。でもそこはあの国なんで100人を越える死者は存在しないことになるのかな。どうなのかな。

 毀誉褒貶かまびすしくて見に行く勇気がなかなか湧かない実写版「進撃の巨人 ATACK ON TITAN」を脇に見ながらまあ、アニメーション好きならやっぱりアニメーションを見ようと「NARUTO」を実は読んだこともアニメーションを見たこともない身を省みないで、「BORUTO −ボルト− NARUTO THE MOVIE」を見に行ったのは決して強気な眼鏡っ娘が出ているからではありませんと思いますけどどうなんでございましょう。まあ理由の8割くらいはそれだったけれども、あとはやっぱり西尾鉄也さんが総作画監督を務めて繰り広げられる激しいアクションに興味があったから、だろう、うん、そうしておこう。

 んで見た映画は実に痛快。なるほど最初の頃は偉大な父親がそれほどまでに偉大になる過程を知らない息子が、寂しさを隠すように粋がって親に認めてもらいたいと背伸びして無茶をやってズルもしてと、はた目には感心できない振る舞いを見せるんだけれど、そうやって重ねられたエピソードの果て、本気を出した父親の凄さを目の当たりにし、一方で自分にも自分を誇れる部分があるんだと気付いた息子が、少しだけ,成長していく物語があってその身になって楽しめる。あるいは親の目線から子供の成長というものを確認できる。親子で見られる映画だし、親子で見るべき映画。その意味では細田守監督の「バケモノの子」とも重なるテーマがある。

 あっちがどちらかといえば、本当でなくても父親役に立った者に求められる導き諭し教えつつ諫めもする役割なんかを仄めかして、はそうした立場に立ったとき、自分ならどうするんだろうと思わせるところがある作品なのに対し、こちらは子は子で悩み迷いながらも親の背にいつか気付いて成長し、親は親で省みなかったことを悔いつつそれでも本気を見せることでその背についてきてくれると感じて、明日から頑張ろうと自覚する。そんな話しといえば言えるんだろうか。現代の感覚に沿うようにリアルさを混ぜたことで単純さがそがれてしまった感じがある「バケモノの子」に比べて、分かりやすさでは「ボルト」が上だし、アクションのスペクタクルでもやっぱり「ボルト」が上。原作付きではあっても、原作をまるで知らず少年が頑張って忍者として強くなりついにリーダーにまで上り詰めた、その子の世代の話しといった程度しか分かっていなくても、存分に楽しめるからストーリーとしての強さもあると言える。

 ということは「バケモノの子」みたいに100万人の来場者を集めて大ヒット? って思いたいけどそこはやっぱり流行に乗った作品と、テレビの延長に立つ原作付きとの差が出るのかな。まあいいや面白かったから。眼鏡のうちはサラダちゃんも可愛かったし。うちはサスケというとんでもない強さを持ったナルトのライバルの娘さん。でも暗くなく曲がってもいないでまっすぐ育ってパワフルで、見ていてとっても愛くるしい。何より眼鏡だし。そんなサラダとボルトにくっついた3人目のミツキって少年の親を聞いてサラダが呆然としていたってのは、原作を知っている人にはびっくりなことなんだろうなあ。そういうのが分からないのは寂しいけれど、そこから原作を読んでみるかと思わせる効果もある。ってことで実は広がりをもったアニメーション。漫画もアニメお終わっているけどせっかくの登場だ。ボルトにサラダにミツキをメインにした映像でも漫画でも、続いていって欲しいなあ。まさか後の猿飛あやめでしたなんてことはないよね。

  ようやく読み終えた山口優さんの「サーヴァント・ガール」(一迅社)が凄まじかったよ。カミオカンデみたいな巨大で地下にある実験施設でダークマターの観測をしていた大学生の女性が実験の最中に異常に接し、そして寄せられた謎の電波を翻訳したらラテン語での呼びかけらしくそれにラテン語で返したところ,現れたたのが全裸ではないけれどもエロい格好をした美少女。自らを別次元のローマだか何かで作られた機械奴隷だと事項紹介しては静弦というその女子大生をマスターと仰ぎつつ共に家に帰ろうとしたその途中、ちょっかいをかけてきた相手があってそれがアリアと名付けられた異世界から来た少女と同じような存在で、激しいばとるが繰り広げられることになる。

 そこに絡むのが理論物理学やら宇宙物理学やら何やらかんやら。斥力場だの磁力場だの陽電子ビームだの核融合だのを使い振るって戦う美少女アリアほか機械奴隷たち。そして使役するは現代の地球に生きて彼女ら彼たちを呼び出してしまった者たち。世界征服すら可能な力を手に入れた人類は均衡を目指すも破る者も現れる中で、アリアと静弦は世界の平穏をかけて戦うことになるというか。言っててまるで意味が分からないけれど、理論物理学とか科学をのぞけば美少女や機械奴隷たちの異能バトルであり、世界を廻る戦いらしいとは分かる。あと百合な成分もあるからそっち方面からもお楽しみは十分かも。

 でもやっぱり山口優さんならではのテクノロジーとか物理学とかが織り交ぜられた物語のいったんでも理解できればさらに面白くなるのかな。そういう分析は専門家に任せたいとして、とりあえずは世界を征服だってできてしまう力を持ちながら、自分に絶対の忠誠を誓う最強の力を得て人は世界征服のような欲望に打ち勝てるのか。超絶的な科学力を持ちそれを理科強いている存在をかたわらにおいて、稚拙な理論を繰り出して軽蔑されるだろう恐れに打ち勝てるのか。人類がこれから手にするだろう力であり未来への希望と裏腹の絶望めいたもの、快楽と裏腹の恐怖みたいなものを改めて認識させてくれる。生き方を問う物語、って言えるかも。学究に励んできた女性が先輩の科学者に引かれ告ってふられガーンとなり美少女ゲームに走り等々、理系女子の生き様にも少し関わる展開もあり女性も引きつけそう。ともあれ戦いは始まったばかり。物語はこの後どうなる? そもそも続くのか。待とうその時を。

 引っ込めたかサントリーのトートバックの一部のデザイン。ネットで取りざたされたものばかりが選ばれ取り下げられているというのは、つまりそれがいわゆるパクリ立った可能性を認めたことで、手がけたデザイナーの人もあるいは自覚があったってことになるんだろう。たとえ事務所の誰かがやったとしてもそれを許容する風土があったと見なされる。そんな事務所から出た五輪のマークにも向けられる猜疑心は決して少なくはないだろう。もちろん縁遠い場所から浮かんだ発想がたまたまいっしょになった可能性は否定しない。でも結果として同じになってしまった以上は、そして別の仕事だけれどもろもろ疑いを向けられる状況が起こった以上は引いて立て直しを計るのが当人にとっても良いんじゃないのかなあ。それとも引けない理由があるんだろうか。ザハ・ディドみたいに。謎は深まる。


【8月12日】 バリさんだバリさんだ、アニメーション監督でメカデザイナーでアニメーターの大張正己さんが「メカニックデザイナー 大河原邦男展」の記事に添えられて登場していてそこで「大河原ロボを一番うまく動かせるのは自分だと思っています」と話している。至極納得、というか格好良くロボットを描くことは得意でも大河原さん、それが動くとなるとやっぱりアニメーターの技量ってのがどうしても重要になってくる。安彦良和さんはそこで一種のキャラクター的な動きを入れて無機質なんだけれど有機的な存在としてガンダムとかザクを演技付けして格好良く見せていた。そんな記憶。

 大張さんの場合もキャラクター性は出すけれどもやっぱりロボットはロボットで、そのパワフルさその大きさってものがやっぱり重要になると考えるのか。パースをつけてアクションを大きくして外連味たっぷりなロボットって奴を見せてくれる、ってことなんだろうか。ドラグナーにしてもガンダムビルドファイターズにしてもしっかりと見ていないからはっきりしたことは言えないけれど、グラビオンとかで大張さんが描くロボットを見るにつけ、そんなことを思うのだった。でもやっぱり大張さんにはキャラクターももっと描いて欲しいなあ。キャラとロボ。両方描けてどっちも凄くてスタイリッシュなアニメーション監督は他にいないんだから。「VIRUS」はやくブルーレイボックスにならないかなあ。

 可愛いじゃないか田丸翠。名前が桜沢翠と同じで被るんじゃないかって心配もあったけれど、富士沢が次に出てくるのは全国大会なんでその間に、大活躍して印象づければ本家の翠を獲得できそうな感じもしないでもない末次由紀さん「ちはやふる 第28巻」。いよいよ始まった東京都大会でずっとサボっていた綾瀬千早はメンバーの末尾にしか入れず、そしてかろうじて肉まんくんに及ばなかったけれども成績の良かった田丸翠が1年生ながらも副将の位置にあって自慢顔。自分はすごいんですよってことを言わせたいがために自分を卑下する言葉を発して周囲を辟易とさせるけれど、でもしっかりとその良さを見ていた肉まんくんが褒めてそれを真摯に受け止めた田丸翠との間に果たして芽生えるか恋心。でも真島太一が復帰して圧倒的な強さを見せれば誰だってそっち行くよなあ。美男子にかなう男なし。

 そんな眼鏡のイケズな可愛さでアピールしつつもやっぱり美少女な綾瀬千早は無駄な言動でさらにポンコツ度を増して高感度がグググとアップ。さらに東京都大会の決勝に登場した西高の速水さんって人は顔は美少女だけれど言葉少なく寡黙な雰囲気でもって下から押し上げてきそう。遠く福井には綿谷新が作ったかるた部に入ったミス藤岡東の山本理沙という逸材がいて速水さんと同様のショートフェアでもって美少女戦線に乱入してきそう。眼鏡という武器でもって田丸翠が頑張っても果たしてこらえきれるのか。まつげが4本になった大江奏ちゃんのボインが全てをはじき飛ばすのか。やっぱり大人の魅力で桜沢翠先生か。人妻で眼鏡という強力な猪熊遙もいるしなあ。眼鏡でイケズなら明石の逢坂恵も強力か。ああ迷う。迷うけれども所詮は二次元、手に触れられないのならせめて3次元の実写映画で触れたいもの。誰が演じるんだろう綾瀬以外。

 30年も経ってしまったと思うけれども鏡を見れば刻まれた30ねの年齢。あの頃はまだ痩せていて髪もふさふさで、そして友だちなんてものもいて北海道をいっしょになって回っていたっけ。札幌を出てとちゅの十勝かどこかで止まったのかな、そこから網走へとたどり着いて宿に入り、コインランドリーへと出かけて洗濯をして戻ってきたかその間くらいにテレビのニュースで飛行機が落ちた、ジャンボ機が落ちたといった話しをやっていた。坂本さんとう有名人が亡くなって,誰だろう坂本アキラさんだろうかと思ったのは東京乾電池がの方がまだ有名だたから。後に坂本九さんと分かってそうか亡くなったのかと寂しくなった。そんな8月12日。日航ジャンボ機墜落事件のあった日から30年。

 旅行はそこからまだ続いて弟子屈に厚岸に帯広に登別といったところを回って青函連絡船で青森に出て東京へ、そこで神保町辺りを初めて回って書泉ブックマートで「That’sイズミコ」のあれは何巻だろうかを買ったんだった。新聞とか読まずテレビも積極的には見ていなかったから、刻一刻と入ってくる情報にくいついて成り行きを見守るということはなかった。スマートフォンなんてものも持ってないから当然のように状況は分からない。それで困ったかとうと実は困らず、自分は自分だといった感じに旅行を満喫していた。満喫していられた。都会の帯広では止まったホテルに新聞があって、結構なスペースで報じられてようやく事態の大きさを知ったけれど、続く旅の中に感情は薄れていった。

 テレビやラジオだけでなく、ネットがあってSNSがあってメッセージも飛び交うといった具合に、情報にどっぷりと浸って周囲の変化に右往左往しているようになった今、あらゆる現象に皆が一喜一憂して、そしてちょっとしたことで右に左に上に下へと流され持ち上げられて落とされるようになっている。それが世界をダイレクトでスピーディーに動かすような場合もあるけれど、感情に流されて行き過ぎるような事態もまま起こる。ネットがなければ起こらなかったような革命風の騒乱もあるくらいだし。だから今、ネットを断って外に出て、冷静になって周囲を見渡してみるのも悪くはないのかもしれない。そう言いたいけれど薄情な奴めとも言われるかもしれない恐れもあるからなあ。外にいればそんな風聞も耳にしなくて済むのだけれど。そうかやっぱりネットから離れるか。全国民が。それができない時代だからこそ冷静に、落ち着いた判断を。それができれば世話ないんだけれどね。

 REBECCAを最初に見たのはテレビで名古屋で東海テレビで深夜に放送されていた音楽番組で東名商事という会社が1社提供していたような番組で驚くべき事にその東名商事の社長と弟が組んだユニットによる歌が流れたりもするジャガーにおまかせみたいなところもあったけれどもメインは新進気鋭のバンドの紹介でそこに登場したのがREBECCAで「ウェラム・ボートクラブ」を歌ってくれてそのハイトーンでのびのびとしたNOKKOの声に1発でやられてこれは凄いバンドが出てきたものだと驚いた。もちろんそれなりに有名にはなって「ヴァージニティ」とかシングルも出て評判は呼んでいたけど後に来るブレイクにはほど遠かった。3枚目のアルバム「WILD&HONEY」も「ラヴパッション」とか「ラブイズCASH」とか入っていて好きなアルバムなんだけれどそのあたりまではビッグといった雰囲気はなかった。

 それが4枚目のアルバム「REBECCAW 〜MayBe Tommorow〜」が傑作すぎたというか「フレンズ」という曲が大ブレイクして一気にメジャーへの道を駆け上がって、そしてその後はご存じの通り。1980年代の後半をリードするビッグバンドになったんだけれどその辺りから、僕の好きだったNOKKOのどこまでも素直に張り上げて突き抜ける歌い声が薄れ、タイミングをずらしたりして工夫が行き過ぎて何かちょっぴり辛かった。たぶん「ブロントザウルス」のツアーあたりなんだろうけれどもデカい箱で大勢を引きつけNOKKOのパフォーマンスが目立てば目立つほど、バンドとしてのREBECCAの良さが背後に引っ込んでしまって、まとまりがあってパワフルなREBECCAという集合体として見られなくなった。

 それが原因だった訳じゃないし、NOKKOの歌い方が旋律を無視して感情の赴くままに伸ばし緩めるような感じになったことも原因ではないんだろうけれど、でもそんなズレから関心が遠のいた果て、1991年にREBECCAは活動を停止してしまう。そしてソロになったNOKKOは数々のアルバムを出してくれてそれも僕は聞いたけれども甘くささやくような歌い方は初期、「ウェラムボートクラブ」で聞いた若くて幼いけれどもパンチが効いて張り裂けんばかりのボイスとは遠く、好きだけれど違うといった気分を抱えてきた。

 そして時は流れて2015年8月12日、横浜アリーナのステージに立ったNOKKOは昔のNOKKOだった。初期のNOKKOの歌い方だった。ストレートで。旋律を外さず。タイミングもずらさないで高らかに、どこまでも突き抜けるような声を聞かせてくれた。嬉しかった。本当だったらそう、1980年代に直接ライブで聞いておくべきだったけれどもまだ若く、ライブハウスに行く甲斐性も無い中で聞き逃していた声。やがてライブでは聞けなくなってソロでも聞けなくなった歌い方を今、30年近い時間を経て聞けた喜びに震えている。そんなNOKKOを支えるメンバーの演奏も変わりが無く、土橋安騎夫さんのキーボードはいつか聞いたメロディを奏で、小田原豊さんのドラムは淡々としながらもパワフルでそして正しくビートを刻んでNOKKOの声を下から支える。

 高橋教之さんのベースは…うん、REBECCAでベースが目立たないバンドだよなあ、でもしっかし存在していた。そしてサポートとしてREBECCAの全盛期を支え続けた是永巧一さんのギターはまさしくREBECCAの煌びやかなサウンドを体現していた。セットリストは詳しくは書かないけれどもオープニングの「ラズベリードリーム」でのイントロを、いつかどこかで聴いたような旋律でサウンドで奏でてくれて気分を一気にあの頃へと引き戻してくれた。kalafinaや梶浦由記さんのライブにメンバーとして入って聞かせてくれるギターの音色と同じはずなんだけれどでも、REBECCAに入ると若くて激しいロックミュージシャンの、ロックなギタリストとしての顔になり服装になり、そして演奏になる。

 途中、着替えに引っ込んだNOKKOや土橋さん高橋さん是永さんに付いていかないでステージに残った小田原さんが刻んだリズムに寄り添い見せた中島オバヲさんのパーカッションの軽快さ。そこに加わった土橋さんのキーボードの旋律はNOKKOのボーカルを置かなくてもREBECCAというバンドの確かで分厚くテクニカルなサウンドの凄さを感じさせてくれた。あれを座って聞くなんて何てもったいない観客たちだ。そして戻ってきたNOKKOの声がのり醸し出された音楽空間の、何という至福であることよ。年寄りにが過去を懐かしむ身を笑うものもいるだろう。けれども年寄りだからこを懐かしめる過去があってそれが現実に、目の前におかれて歓喜できる現在があるのだ。

 羨ましがれ、若い奴らめ。俺たち年寄りだからこそREBECCAの復活をこんなにもうれしがれるんだ。喜べるんだ。まあそれは年寄りの冷や水としても、とてもとても素晴らしかった演奏。そしてセットリスト。大好きな「ウェラム・ボートクラブ」こそなかったけれども知られた曲、ヒット曲はしっかり入れられそのどれをも口ずさめる。いっしょになって心で歌いそして時間を過ごしていける。そんなライブ。もう見ることはないかもしれないけれど、また見られるのなら行ってみたい。恒久的な復活を期待したいけれどもさてはて、いかに。


【8月11日】 やあ驚いた。いや年齢から言えば驚くことではないんだけれど、現役のスター選手がこのタイミング、つまりはリオ五輪の出場をかけた戦いが間もなく始まるというタイミングで結婚を発表するとはつまり、それだけの重さを持った決断だったってことなんだろう。女子サッカーのINAC神戸レオネッサに所属する澤穂希選手が30代の一般男性と入籍したことをクラブを通じて発表。一般男性って範囲がよく分からないんだけれど芸能人だとかスポーツ選手だとか政治家だとかいった一般とは言えないかもしれない人ではないってことなんだろう。会社経営者ってのは一般男性なんだろうか。貴賓席じゃないところに座る人を一般人と呼ぶならたいていの人は一般人ってことになるけれど。ともあれ一般男性つまりは男性との入籍だったってことをひとつ、認識しておく必要はあるかも。女子サッカーって案外に多いからなあ、同性婚。

 気になるのは女子のサッカー選手って、入籍すると普通に名字を変えてくることで永里優季選手が結婚して大儀見優季選手となったように、澤穂希選手も相手によっては別の名前にしてくるのかな、それとも一般男性であることに配慮して相手の姓名を明かさないために今の名字でいくのかな。かつて五味だった酒井與恵さんは結婚して加藤與恵となってから確か引退で、現役の間に名字が変わってたっけ。ママさんボランチとして話題になった宮本ともみさんも旧姓は三井だったし。割と普通に変えても違和感がないけれど、変えなくても良いならそでいいかも。背番号の上につけるネームも「SAWA」がなくなるとちょっと困るし、いっぱい作ってあったのに、とか。しかしやっぱり気になるその新姓。「国野穂希」だとなんか高揚感漂うし「村野穂希」だとローカル色が濃くなるし。さてはて。

 わははははは。もうポン酢だなあとしか言い様がない、とある新聞の夕刊における戦意高揚的記事での大間違い。この時期に軍歌ブームとかってのを取り上げるのは、あの戦争に関する苦い部分の記憶を消し去って、楽しかったこととか面白かったことなんかを引っ張り出しつつ、それが現在において称揚されていることを取り上げて、あの戦争を悲惨で非道なものだったという印象を薄めようって意図がどこかにあるんだろうけれど、そういう記事を補強する文脈として、若い人が大好きなゲームを織り交ぜようとして「艦隊これくしょん」を例に挙げ、そこで「月月火水木金金」が使われているんだぜ、なんて書いてしまったものだから世間は大騒ぎ。そんな歌出てきたっけ、もしかしてあの戦闘シーンで流れるBGMがそれなんだろうかと思った人もいたかもしれない。普通は思わないけれど。

 っていうか、「艦これ」をプレーしてればそうした軍歌的なニュアンスを持った楽曲なんてまるで流れないって分かっているのに、どこからそういう間違った情報を仕込んでしまったんだろう。ネットにだって流れているのを見たことがない情報。それともそうあって欲しいという願望が夢でも見させたんだろうか。幻聴でも聞かせたんだろうか。分からないけれどもとりあえず、突っ込みもあって今は取り消されているようで「艦これ」的にもいらぬ嫌疑をかけられていたのが晴らされ一安心といったところか。「ガールズ&パンツァー」みたいに戦車戦のパロディとして描かれている作品で軍歌が、それもどちらかといえは厭戦気分の入った軍歌が流れても戦意高揚とは思われないだろうけど、「艦これ」で土日がないブラック軍隊を称揚する歌が尊ばれていたら、やっぱり不味いものなあ、艦娘的にも制作会社的にも。後始末はちゃんといったかな。

 なんかもういろいろと出てきて大変そうな2020年東京オリンピック・パラリンピックのロゴ制作者。同じ看板は幾つもあるだろうけれども真ん中にヒビが入った看板を使ってはそりゃあバレる。そして画像検索が発達した今の時代にネット上にあるような画像素材を使えばそれも1発でバレてしまうのに、使ってしまったらしいというのはいったいどういう心境が働いてのものなんだろう。デザイナーといってもすべてを1から作らなくても、ある素材を組みあわせてトータルを作り上げて間に合うといった話しもあるけれど、それがキャンペーンか何かでプレゼントされるものであるなら、クライアントに迷惑を考える可能性を考えると普通は使わないし仕えない。なのに使ってしまったフランスパンのバゲットを。あそこまで焼き目が同じになるなんて万に一つもありえないだろうからやっぱり同じ画像なんだろうなあ。

 まあそれはそれであってこれはこれ、ロゴについてはゼロからちゃんと立ち上げたと主張して、それを絶対に疑わなくてはいけないというこはないんだけれど、一方ですでに同じようなデザインが存在していた以上は知らなかったということも、登録商標されていなかったということも関係なく、ああ同じデザインを作ってしまったこれはちょっと恥ずかしいかなと思い引っ込めるのがニッポンの粋って奴だろう。パクリを認めるんじゃなく、才能の限界を認めるというもの。だって先に向こうが作られていたし使われていたんだから、同時多発ということはありえない。すでに存在しているものと、似たものを作ってしまったという状況をもってクリエーターとして、何か考えるなら登録商標はされていないとか、パクっていないとかいった事とは関係ない、態度を示した方が後々に有利に働くような気がするんだけれど、もう遅いかなあ、ここまでいろいろ言われてしまっては。残念至極。

 とりあえず「川内」とかいて「せんだい」と読むことがこれで世間に大きく広まったなあと思った川内原発の再稼働。というかオタクな人の間ではすでに「艦隊これくしょん」を通して川内が「せんだい」であることは伝わっていたんだけれど、そうでない人にもどうにか認知されて川内の出身ですと言って宮城県なのと言われなくて済むようにはなったんじゃなかろうか。僕についていうなら父親の実家が川内市だったんでそれこそ子供の頃から読めたし大綱引きってイベントがあるとも知っていたし原発があることも分かってた。鹿児島本線だかを乗って川内市に向かっている途中に見えるんだよその建屋が確か。違ったかな。まあでもそれくらいに近い場所にある原発の再稼働。不安に思う人もいるだろうけどこと安全性に関しては、とりあえず担保されると思いつつやっぱり気になる廃棄物。その処理が永遠に及ぶと分かった今もその対策を打ち出せないまま稼動させられるかどうか。問われているのはそこだろう。でもあんまり話題にならない。扇情へと走って理路整然は嫌われる。その際が分裂を招き、隙間を縫って理不尽がまかり通る。そんな国。困ったもんだ。

 過労死した人が出ていてそれに関する裁判が行われていて超本人だと社長がやり玉にあがっているというシリアス極まりない状況を一方に置いて、社長が一種デフォルメされたキャラとして悪の限りを尽くし暴論の限りを吐いていっしゅブラックなユーモアをそこに醸し出すっていうバランスが、やっぱり気になって仕方が無いのだけれども高橋祐一さんの「星降る夜は社畜を殴れ」シリーズ、気がつくと第3巻まで出ているってことはこれを読んで面白がっている人が世の中には多いってことなんだろう。いや面白がるというのは大げさ極まりない社畜ぶりなんだろうけれど、その陰でひとりの人死にがあったという悲劇を、取り上げて怒りに昇華させて事態の突破に活かしているかどうか、ってあたりが評価の分かれ目になるのかもしれない。そして印象としてまあ、成功しているからこそ呆れられないで非道とも誹られないで続いているのかもしれない。そう思って読めば非道な社畜の社畜っぷりが改めて伺えて笑いつつ笑えない怒りも浮かぶストーリー。これはアニメ化というよりは実写化にむいているかもしれないなあ。動いているのかな。


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