縮刷版2018年8月上旬号


【8月10日】 とりあえず米倉恒貴選手の代表定着が期待できそうで、その面では収穫があったと思いたいサッカー日本代表の東アジア杯だけれど全体としては戦術がなく技術もない中でただぶつかっていっては相手のフィジカルとテクニックに跳ね返され、得点を奪われ守備もされて勝ちきれなかったといったところか。トップに入った選手がポストになれず周囲にボールを渡せず相手に戻してしまうていたらく。そして中盤から前にパスをしても届かずカットされ相手に渡してしまうという状況では、いくら頑張って守ったところでいつか得点を奪われ、そしていくら一生懸命に攻めたところで危険なところにボールが行かない。どうしてそんな単純なことが分からないのかっていぶかしくなるけど、分かろうとする頭がないのか分かりたくないのか。いずれにしてもちょっと大変そう。かといってクラブチームを飛び越え戦術を教える訳にもいかないしなあ。米倉選手にはサイドバックで内村選手長友選手を越えて両酒井選手すら凌駕する存在になってと期待。なるだろうし。

 とりあえず松井珠理奈さんの上半身が裸らしい写真集が出るというニュースを聞いて、思い浮かべたのがそれでいったい眼鏡はかけているのか、ってことでそれがあるのとないのとでは、乳首が見えているかいないか以上に写真集の価値が変わってくると思うんだけれど、他にそういう人がどれだけいるかは不明。ただ、一昨年だっけかの紅白歌合戦に登場した松井珠理奈さんが、目を悪くしていたのかひとり眼鏡をかけていたのを見てズッキューンとなった身としては、あれ以来となってしまっている状況をここで打破して、W松井の若い方とか背が高いのに頭身がやや小さくなりがちなくらいの頭部状況だとか言われることもなく、より目立つ存在へとステップアップして欲しいもの。そのためには是非に眼鏡の姿をまた見たい。それで全身がすっぽんぽんならなお良いのだけれど。果たして。9月9日発売。買おう。

 サンダース大学附属高校との戦いがいよいよ始まった「ガールズ&パンツァー」はピンクだったり金色だったりに塗られていたり、旗竿が立っていたりした戦車が塗り替えられて戦争使用になっていて、これが本気というところを見せてくれたけれどもプラモデル的にはほんの数話、出ただけの金色の38(t)戦車やピンク色のM3中戦車リーや旗竿が建てられた3号突撃砲なんかの方がそれっぽくってカッコイイ気がしないでもなく、だから今もって売られていたりするんだろう。アヒルさんチームの八九式中型戦車は色は塗られていなかったけれどスローガンは書かれていたけど、あれもやっぱり取らなきゃいけないものなのかな。ちょっともったいないというか、そもそも全国大会で遊手してもバレー部復活してないというか、5人目が入ってこないというか。可愛そう。まあ仕方がない、それがドラマだ。

 お話の方では組み合わせ抽選後に喫茶店でケーキを食べているところに現れた、黒森峰学園の隊長と今の副隊長による西住みほをさげすむような目線がこれまがズッキューンと来るけれど、そこですかさずみほの判断は間違っていなかったと返す秋山優花里の観察力もしっかりとうかがわせるようになっているところが巧いかな、それだけ前から戦車道の戦いを見ていたってことになる訳だし。そんな秋山優花里のサンダース大学附属高校への潜入があってそして本番がスタートして、諜報に対する盗聴といった戦いが繰り広げられて苦戦に陥るけれどもすぐに気付かれるところが抜けているというか、そりゃあアンテナを打ち上げていればすぐに分かるよなあというか。早速発揮される武部沙織の携帯メール入力スキルが戦車間の連絡を担って口とは別の作戦が裏で進行し、反撃の口火を切ってそして以下来週。これもネットでは見ているけれど、でも改めて見ても面白いところによくできたシナリオであり作画があるんだろう。何よりテーマ性が。映画が今から楽しみだ。

 有栖川有栖さん推薦というから有栖川さんが選考委員をしている新人賞から出た人かと思ったら、何か文章教室みたいなところで学んでいたらしい野々宮さちさんという人による「黄昏のまぼろし 華族探偵と書生」(ホワイトハート講談社X文庫)がなかなかにミステリーしていて深みもあって面白かった。新本格の中心的な存在だった有栖川有栖さん推薦だからといって凝ったトリックがある訳ではなく、むしろストレートな人間ドラマを描く上でひとつの事件が設定され、その謎を探る過程で人が生きる困難さが描かれ、時代がどんどんと厳しくなっていく雰囲気が描かれてといった具合に、社会性と文学性を備えた物語になっていた。

 舞台は昭和7年の京都。いわゆる5・15事件なんかが起こって軍部による政治への口出しがだんだんと色濃くなっていった時代、京都にある旧制高校の三高に飛び級で入った少年が、下宿先の主人に言われ伯爵の次男という青年のところに持ち込まれたある事件の謎を解くため走り回るというストーリー。伯爵の次男は別にペンネームを持っていて作家として活躍していたんだけれど、その名前を挙げてちょっと気取っているとか目の前で論評をして、どうして少年が無事で済んだかがちょっと不思議。あるいは書いている方もちょっとペダンティックだと気付いてはいたけれど、それを言えずプライドも邪魔して認められない中で、あっさりと指摘してのけた少年に一目置いたのかもしれない。単に気に入らないからと使いっ走りさせようとかいった考えもあったのかな。それなら重要な役割は任せないか。

 ともあれ少年が伯爵家の次男の青年から命じられたのは、その青年の伯父で子爵という人の家にいた秘書が失踪した事件を追うというもの。誰からも好かれ青年の伯父にも可愛がられていた秘書なのにどうして消えなくてはいけなかったのか。調べると部屋は整理され財布などもなく、ふらりと医者に行ったといった雰囲気ではない。ではどこへ。調べていくうちに少年は、消えた秘書の複雑な出生を知り、厳しかった境遇を知り、そしてどうにかたどりついた場所で感じた幸福と、けれども越えられない壁を自覚し、そこに追い打ちをかけるようにのしかかってきた暗黒を見る。途中、左翼への傾注かとも思わせながらも地道な地取りによって秘書の境遇を浮かび上がらせていく展開は、足で稼いで証拠を固める昔ながらの刑事ドラマのよう。最後に見えた驚きの展開がひとつの悲劇を得つつ残された者たちの幸せも感じさせて、読後感も悪くない。これは相当な才能かも。まずはこれを第1巻として、出会った華族で作家と欠食少年の助手が次にどんな事件に挑む? 続きも決まっているようで、刊行が今から楽しみだ。

 危険水域に来ている感じ。日本テレビ放送網による月例の世論調査で安倍内閣を支持する人の割合は37・8%へと前の月から1・9ポイント落ち込みそして支持しない人の割合は46・7%と前の月から5・7%も増えた。あれだけ口を尽くして説明し、そして連休とやらを経てほとぼりも冷めただろうと思っていても結果はとてもシビアなものに。つまりはいくら誤魔化そうとしてもしっかりとバレてるって現れなんだろう。あの日本テレビ放送網が調査してこれなんだから。ちなみにNHKもだいたい同じ割合で不支持が支持を上回っていた。さらに言うならNHKでは公明党より共産党の方が支持を集めていた。前代未聞。この事態に公明党もいよいよもって創価学会から突き上げをくらって連立への意識を問い直されるだろう。そうなった時に孤高となる自民党、というより安倍政権はどの道を選ぶのか。この8月がやっぱり山場かもしれない。


【8月9日】 テレビの放送もでハルハルとヨタロウが刑部蒔絵と出会って友だちになるまでが描かれたので、この続きがどうなるんだと気になったけれど、ブルーレイボックスが9月に出るんでテレビシリーズの続きは毎週の再放送を追うとして、一応の総集編的なストーリーが分かる劇場版「蒼き鋼のアルペジオ DC」を買って来て見てそうか結構端折られていたんだなあってことを確認する。テレビを見てハルナがあんなにスリムで背も高かったことに気付いたのは、映画館で見た劇場版ではそうした描写がほとんど削られ、イ401との戦いで吹き飛ばされてハンガー内に落下して横たわっていた時くらいしか、全身が分からなかったりしたから。

 これがテレビだと、布団を押し上げすっくと立ち、蒔絵から着替えを押しつけられて弱っていたりした場面があったんで、あのブカブカなコートの下が実は凄いんですと分かった。それを見ていた人なら映画でもそういうもんだと思っただろう。とはいえ映画で初めてアニメの「アルペジオ」に触れた人が、ハルハルが実はグラマラスだという情報が必要かというと本筋には関係ないし、横須賀で黒幕に拉致されそうになったところを逃げ出す描写も実は不要。アメリカで振動弾頭を渡した後に、使用できないようにする描写で千早群像たちが政治に与せず、霧にも着かないまま平和を実現する道を探る独立愚連隊だって分かるから。そんな取捨選択をして分かりにくくはしないで本編への興味を持たせた劇場版のスタッフ、偉いかも。後は劇場版の後編がどうなるか。まだだれも知らない霧の艦隊の正体と物語の結末を心待ちにして公開を待とう。ヤマトって結局どうなっているんだろう。

 ネット上に佐賀県の武雄市図書館が購入した書籍のリストってのが出回っていて、合わせて廃棄した書籍のリストもあってそちらに小説が多いのも気になったけど、流行小説は時代がちょっとずれるととたんに陳腐になるから入れ替えるってのもまあ仕方がない話、そして新しい小説を入れたのかと思いきや、何だか得体の知れない自己啓発本とか占いの本とかがわんさか入っていて、いったい誰が読むんだろう、武雄市でこういう本を地元の人が読んでさあおれもこれから頑張ってサラリーマンとして出世するんだ、人生をサクセスさせるんだと思うかどうかって考えると、むしろ日々を平穏に過ごすために指針めいたものを置いた方がいいんじゃないかって思えたり。

 まあでも自己啓発本とかスピリチュアルの本とかは、読みようによっては人生の指針にならない訳じゃないからまだマシだ。いろいろと取りざたされている統一教会を創設した文鮮明氏の著作が置いてあるのも、宗教についていろいろと考えるという意味合いは持っていて、批判本も含めて置いておけばバランスも取れる。問題は購入本リストとして出回っているPDFの30枚あるうちの約半分、16枚目以降がほとんど旅行用の本になっていること。国内外について書かれた本がそれこそわんさか。おなじ地域に関する本が並んでいて、そんなに武雄市の人は旅行好きなのかっていぶかりたくなる。

 不思議なのは武雄市民にとってまるで無関係ともいえるガイドがいろいろと入っていること。例えば「子どもといっしょに関東日帰りお出かけガイド」とか「首都圏子どもが喜ぶ夏の水あびスポット」とか「東京ぶらり自転車散歩」とか、佐賀県で読んでいったいどうしろっていうんだろう。日帰りで東京に行けるのか。行けないわけじゃないけど散歩も自転車も無理だろ。とんぼ返りがせいぜい。そんな本を置いておく意味が分からない。「日帰りウォーキング関東周辺1」を佐賀の武雄市民は読んで、関東への日帰りウォーキングに行くのかと。日帰りで。いやいや、想像の中に旅行をした気分を味わうんだと中学校の机上旅行クラブみたいなことを推奨してるのかもしれないけれど、それだったら時刻表も置いておかないと。いずれにしても関東日帰りウォーキングは無理だけど。

 もしかしたらあのリストは、武雄市図書館の購入本リストじゃなくて、日比谷図書館の購入本なのかもしれない。だったら関東日帰りプランは分かるけれど、それだと今度は「関西親子連れ日帰りおでかけガイド」とか「関西日帰り温泉」を誰が借りるのかが分からなくなる。もしもこんなリストを東京にある学校の図書委員会で買いたい本って出したら、眼鏡の図書委員長から「東京、関係ないです」と白眼視されて罵倒されて踏まれるぞ絶対に。そうされたくてこんなリストを作ったのか。だったら分からないでもないけれど。まあ言われているとおりに武雄市図書館だとしたら、「こんな近くにあった!! 埼玉バーベキュー場」とか「こんな近くにあった!! 神奈川バーベキュー場」とか借りる人の顔が全く見えない。「関東周辺ゆったりごくらく日帰り温泉ガイド」を読んで火の国九州から関東まで日帰りで温泉に行く可能性も見えない。

 どういう経過でこんな本がリストに挙がったのか。突き詰められたら購入を決定した人はそれこそ不要な本を大量購入した角で罪に問われても不思議はない。まあ旅行本ならいずれ活用の可能性はとごまかせても、佐々木俊尚さんが2007年に書いた「ネット未来地図」とか、すでに古くなってしまったIT系やPC系の本は業務上の無駄遣いを問われたって仕方がない。「あと6年使う! XPパソコン快適化大作戦」なてのを2013年とかに買っていたらそれは罪だろう、人道に対する。1995年刊行の中島洋さん「マルチメディア・ビジネス」を今読んで、いったい何の役に立つのか? 編集者の安原顯さんが創設したメタローグが出してた「ブック・ナビ東京」なんてのもリストにあるけど、どうやったら2005年に倒産した会社の本を買えるんだ。1997年刊行の「私がマイクロソフトで学んだこと」や2000年刊行の「私がマイクロソフトで過ごした日々」も今は無きアスキー刊。古本屋を回ったって買えないかもしれない。

 言われているように書店の倉庫とかに眠っていたゾッキ本を仕入れたって、絶対にこうはならないリストを誰が、どうやって策定してどういう機関決定を経て購入したのか。それを追求しないで、市民に対する詐欺であり犯罪に等しい行為を見逃していたら誰も正しいことをしようとはしなくなる。何となく決まったことだから、もう変えられないとばかりに新国立競技場の一件が進んでは、瀬戸際を過ぎて問題になってひっくり返された例を間近に見てもなお、大いなる無駄であり無茶が行われたことへの追求が行われなかったら、武雄市がいい加減で、適当で、知性すら放棄した地域だと思われかねないんだけれど、果たしてそういう動きは起こるのか。遠い場所から成り行きを見ていこう。しかしあのスタイリッシュでクールな図書館で読むのが自己啓発本というのも、末世だなあ。

 昼間になると余り混んでないという話しを聞いて開幕2日目の東京・上野は上野の森美術館で開催中の「メカニックデザイナー 大河原邦男展」を見物に。確かに普通に見る分には行列ができることもなく、絵の前に人垣が出来てじっくり見られないということもそんなにはなく、さっと見てめぼしいところで近寄って、ああそうなっていたんだと確認できたりしたけれどもただ1カ所、「機動戦士ガンダムF91」のところだけは妙に行列が出来ていた。世代としてこのあたりのファンが多いからなのか、それとも「F91」のデザインに対して富野由悠季さんか誰かがいろいろとリテイクを指示している言葉を読んでみたかったのか、その両方かもしれない。直すたびにひどくなるとか何かひどい良いようだけれど、それに答えて傑作ともいえる「F91」をデザインした大河原さんはやっぱり職人だよなあ。「機動戦士ガンダムSEED」のところもそれなりに人。40年の画業にそれぞれファンがいるのがこの展覧会に広い世代を呼び込んでいる理由なんだなあと改めて。また行こう、「科学忍者隊ガッチャマン」のOPで白鳥のジュンが蹴り上げてパンツ見せてるシーンを見に、ってそれ大河原さん関係ない。


【8月8日】 「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」に登場したアンチョビが、その性格からちっちゃい娘っぽく見えてって案外にスタイルが良かったりするのと同様なのか、「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」に登場するハルナもぶかぶかのコートを被っているからどうにもちっちゃい風に見えるけれど、脱ぐと実は凄いんです。スリムな姿態で胸とかあってそれで飛び蹴り回転する。でもその姿では何か恥ずかしいのか体温が奪われるのか、ヘタってしまって動けなくなるのですぐにコートを着てシャキーンtなる。もったいない美少女。再放送では刑部蒔絵と知り合い友だちになってそしてイオナに救われ千早群像たちと合流して向かうは硫黄島だっけ。そこに一足早くたどり着いてたタカオが目覚めた前にいたのは? 以下次回。面白いなあ。BDボックス出たら買おう。

 実家に帰って食道に風を入れていたところに持ち上がった唐揚げ勝負。駅ナカに出展していた関西の名門「もずや」が出す唐揚げに勝とうだなんて相当に無茶があったけれど、商店街って地の利を活かして食べ歩きが出来る唐揚げを提案して、見事に客を奪い返したエピソード。「食戟のソーマ」はそんな話を挟んでいよいよ秋の選抜戦に向かうと言った展開に。不思議なのは家に帰って食べるとちょうど良い味の「もずや」の唐揚げを、その場で試食してもちゃんと美味しかったんだろうかってことだけれど、そこは相手も海千山千、試食用にはその場で食べて美味しいような調理が施してあるんだろう。でも商店街のフットワークには勝てなかったってことで。ソーマと肉魅の調理がなくても大丈夫かは分からないけど、レシピさえ守り運営さえしっかりしていれば商店街、ちゃんと回していくんだろう。後腐れなく学園に戻って勝負だソーマ。次はいよいよカレーか。どんなカレーが出てくるのかなあ。火星カレーとか?

 ポン酢の度合いもますます進んでいそうな安倍晋三総理。広島での原爆犠牲者の慰霊における式典で、非核三原則について言及しなかったことを突っ込まれて「核三原則を堅持する姿勢について『一切変化はない』と強調した」ものの「言及しなかった理由については『広島と長崎でのあいさつは基本的にセットで起案している。重複する言葉もあればそうでない言葉もある』などと述べるにとどまった」とか言い訳をしている。でもまるで言い訳になってない。そもそも挨拶ってそいういうものじゃないだろう。親戚の法事が相次いだ時にお悔やみは前の家で言ったからこっちでは無しと言うのか。その時々においてそこに関わる人たちに対する意思表明をして、あいさつって価値ががあるんじゃないのか。

 もしかしたら安倍晋三総理、終戦50年を区切りとした村山富市総理の談話も戦後60年を区切りとした小泉純一郎総理の談話も、同じ総理談話としてセットで考えいるから自分は「お詫び」だの「侵略」だのは言わないとでも言うんだろうか。そうすることで自分の口から「お詫び」を言わず「侵略」と認めなくても良いからなあ。もしそうだったとして、それが周囲にどういう印象を与えるかを考えたらちょっと出来ない。過去に誰が何を言おうとその時、その地位にある人が何かを言うべき場所で何も言わないのは、自分として言わなかったということでしかない。過去とのセットにはなり得ない。そんな振る舞いが周囲にどんな影響を与えるか。印象をもたらすか。分かっていればやらないことなんだけれどやってしまい、それで周囲が大慌てして取り繕っても、さらに輪をかけてポン酢をやってしまう。周囲も大変だなあ。同情しないけど。担いでいるのはその周囲なんだし。

 ちょっぴり暑さも和らいだ感じの中を東京ビッグサイトで開かれているデザインフェスタの学生版とも言える「万国學生藝術博覧会」をのぞいてみる。すでに西館(にし・やかた)の全部を使う巨大イベントとなった「デザインフェスタ」に比べると、1階の半分を使った程度でおとなしく、出ている人たちも学生ってことで大仕掛けは望めずポストカードとかアクセサリーといったものが中心であとは雑貨類。それらが並んで自分っぽさを醸し出しているところなんか、プロフェッショナルが大挙して出展してそこで結構な額を稼ぐ今の「デザインフェスタ」とは違った、まだ初期でこぢんまりとして原宿代々木あたりの露店をやってる若い人たちが、場所を移して集まったようなまったりとした雰囲気に近いものがあった。でも作っているものは「デザインフェスタ」に負けておらず良いものも幾つか。買っておけばやがて未来に……ってなるかは分からないけれど、珍しいものが手に入る場所にはなっていた。

 そんな中でまず眼に入ったのが内山航さんって昔GEISAIに出ていたのをみかけたことがあった当時はまだ中学生が、今は高校生くらいになっていたけ変わらずロットリングかボールペンか、何かで紙に僕の考えた未来都市、あるいは僕の考えた秘密基地といったものを細かく細かく描いてはそれに自分なりの物語を想像して口承してくれるといった作品。口承は聞けば語ってくれるという意味で、つまりは1枚の絵には物語があってそれぞれの描画に意味があるってことなんだけれど、そういうのを省いてもどこか偏執的な雰囲気があってなおかつレトロフューチャーな感じもあって見ていて飽きないし面白い。これはだからイラストといよりアートの類で、もしかしたらヘンリー・ダーガー的なアウトサイダーアートの範疇に寄っている感じもないでもないけど、ここから本格的に絵を学ぶか、それとも作家として物語りを添えて絵を描き続けるかで世間の評価も変わってきそう。でも当人はそういう評価より描きたいものを描いていくだけなんだろう。それが結果としてアートとなりアーティストと呼ばれる。そういうものだ。頑張れとエール。

 若いといえばよしだひとはさんというのかな、まだ12歳だか13歳の女の子が描いている絵があってそれがなかなか良いフォルムをしていた。模写なんだろうけど相撲取りとか歌麿写楽的な大首絵とかをペンで描いてあって雰囲気が良い。ヘタか巧いかといえばヘタだけれどその崩れ、その揺らぎは見て心地よい部類に入っている。だから本質的には巧いのかも。UFOをかたどったというアクセサリーを打っていたのはNEWPACKというユニットで聞くとUFOが好きらしい。しれも葉巻型。でも葉巻じゃアクセサリーにならないからここはアダムスキー型でといった感じ。「デザインフェスタ」には出ず「學展」専門みたいだから買うならそこで。

 インドから来て京都でボールペンを作っているという職人さんの作品は何と機関銃の殻薬莢を使ったボールペンで、銃弾の代わりに木の軸を入れて中にボールペンの芯を通してかけるようにしてある。重みがあって良い感じ。別にライフルのようにボルトアクションで芯を出すボールペンもつくっていてこれもカチッと動いて格好良かった。削り出して組み立てているとしたら相当な腕前。なおかつ軸とかのデザインも良い。ミリタリー系以外の飾られたボールペンや万年筆も格好良かったんで職人として、あるいはクリエーターとしてこれからちょっと出てくるかも。でもミリタリー系はワンフェスの方があるいは受けが良いかもしれないなあ。教えてあげたけど出展するかな。東海市から来ていた人は茶碗を焼くのにいろいろと工夫。使い捨てカイロの中の鉄とかを固めて茶碗をくるみ焼いて割って取り出すと茶碗の表面が良い感じにざらつくとか、わかめをかけて役とミネラルと塩分が灰になって付着して雰囲気が変わるとか。焼き方の工夫によって景色を変えた茶碗が並んでいた。磁石なんてポロポロ剥がれるのにそれがくっつく。飲むのには使えないけど飾って楽しく触って面白い茶碗。次は何をまぶして焼いてくるかな。


【8月7日】 コバヤシ少年って少年なのか少女なのか、分からないけど分からなくても別に良いんだと思いながら最新話からやっと見た「乱歩綺譚」が1部屋で進む会話劇でシチュエーションコメディになってて見ていて楽しく面白かった。さすがだなあ上江洲誠さん。拾ってきた猫を飼うの飼わないのとやっていたら影男が現れ胸に爆弾が取り付けられて移動もできずに大騒ぎ。そんな瀬戸際でも揺るがず楽しい会話を繰り広げてはどうにか解決へと持っていく展開が、どうやら毎回って訳ではなくって,調べると過去には悲惨な事件もあったっぽい。幕間にあるコメディ回だったのかな。

 まあ良いこういうきっかけを得て録画はしてあるけど見ていなかったのを見ようとう気が起こるのはよくある事。振り返って見ていきコバヤシ少年についているかどうかを確かめたい。「がっこうぐらし」はやっぱり見るのが辛いなあ。つまらないんじゃなくそのシチュエーションが。幸せになって欲しいなあ。そんな「がっこうぐらし」とは反対に、難しく考えなくて見られるのとあと、見ていて怖くなく恐ろしくなく辛くもないのがありがたいのとがあるからか、第1話から放送直後にずっと見ている「城下町のダンデライオン」の最新話では分身の術が仕える岬が分身たちを集めて会議をしているけれど、その力でもっていったいどうすれば、人目について人気が出るのか答えが出ないという悲しみが。

 学校で部活を助けることができるなら、国の仕事でもそれぞれに何かできそうな気がするけれどそれをやっているのは分身たちで、本体は何もしていないというところにひとつ、臆するところがあるんだろうなあ。難しい。そして長姉の葵のとてつもない能力が判明。なるほどこれは王様を目指せない訳だ。っていうか目指そうとしたとたんに実現してしまう能力。それを使うのを自制できる心があるっていうだけで、王様に相応しいとも思えてしまうジレンマ。難しい。茜はといえば未だに自分のことだけに権力を使おうと王様を目指しているけど、葵の苦悩を知れば変わるかな、いやいや王様になって自分のために力を使ってと願うかな。難しい。

 困ったなあ。本当に困ったというか困った人だというか安倍総理、談話をこれまで閣議決定しないと言っていたのを、どうやら閣議決定するとか言い始めているようで、閣議決定しないなら出す意味ないじゃんっていう異論に対して、分かっただったら決定してやろうって思ったんだろうなあ、なんて考えたけれど、決定しないように考えていた理由がちょっと決定するとヤバいことを混ぜたかったってことだろうから、これが決定になったってことはヤバい話はなくするのか、それともヤバい話を含めて閣議決定するのかってあたりでひとつ、今後へと尾を引く問題が起こりそう。

 でもってそうした談話において「侵略」の事実認定と「謝罪」の文言が入るかどうかって問題が早速持ち上がっているようで、「謝罪」については過去の談話で終わった話だという言い訳をしそうだけれど、「侵略」については有識者が集まった懇談会でも指摘され、元総理もそうだと言ってる話であるにも関わらず、認めないのはさらにいろいろと尾を引きそう。そうでないなら何だったんだ、ってことになるんだけれど、説明できるのかなあ、しないままでスルーしそうな気もするなあ。あの頑固な小泉元総理だって60年談話に入れた「侵略」であり「お詫び」の文言を、どうして使いたいたくないのかって謎もこれあり。親の敵が祖父の遺言か。聞いてみたいけどそんな機会は一生なさそう。別に会いたくもないけどね。

 暑い暑い、東京地方が暑すぎるけれど、家にいる訳にもいかないんで支度をして家を出てとりあえず上野は東京都美術館で開かれている「伝説の洋画家たち 二科100年展」ってのを見ておく。半分はオシゴト。でもってこれ、結構良い展覧会だった。東京国立近代美術館の常設展に並んでいる日本の洋画が好きな人ならいろいろと感じるところがありそうというか、そこから持ってこられているのもあって日本が明治維新を経て文明開化をして以降、西洋の美術をどんどんと取り入れていった果て、行き詰まるなかで新しい芽が吹き始めて新しい表現なんかがどんどんと取り入れられていった時代の、模索と革新が溢れた作品が多く並んでいて目を惹いた。

 坂本繁二郎さんとか安井曾太郎さんとか、前に東京国立近代美術館とかぶりジストン美術館で見たような絵もあってそれはそれでありがたいけど、古賀春江さんとかは東京国立近代美術館にある潜水艦と水着の美女が描かれた「海」って作品とはまた違う。ちょっぴりシュールで幻想的だけれどプリミティブでもある不思議な絵が着ていて楽しめた。何かで見たことはあったし、もしかしたら実物も見たことがあったかもしれないけれど、改めて見られる機会としてこれは貴重。それから東郷青児さん。新宿にある東郷青児美術館とかにいけば有名な美女の絵がいっぱい見られるけれど、そうではないまだシュールな絵を描いていた時代の作品が並んでいて、こういうところからスタートしたんだなあってことが分かる。時代を重ね経験を積んでたどり着いたあの美女たち。綺麗な訳だよ。

 愁眉だったのが藤田嗣治さんで日本だとあの白い背景に白い肌の美女が描かれたレオナール・フジタな絵が知られているし、一方では戦争画なんかが思い浮かぶけれどもここに展示されていたのはメキシコで見かけた美女とか、ブラジルで刺激を受けて描いたサーカスの一座めいた集団。もとより美しい絵を描ける筆がどこか原始的な色彩を描いていて眼を引きつけるし、サーカスの団員っぽい人たちはそれぞれに特徴が浮かび上がっていてキャラクターとしても面白い。こういう絵を描いた果てが自信を戯画化したような自画像へと至ったのかとも思えてきた。岡本太郎さんの作品もあれば小出楢重さんおスーツを着た画家の絵もあって吉原良治さんの具体前の作品も並んでいたりと、日本の戦前戦中あたりの洋画をまとめて見られるチャンス。とはいえ戦後、こうした洋画がどうなって今、どうなっているかを思うと叡智は続かず模索や革新も衰えるってことなのかな。ひとつの時代を確かめよう。

 そんな東京都美術館を出て、御徒町辺りまで出て唐揚げとメンチカツのセットを食べてからタリーズでしばらく時間を潰し、そして明日から始まる「メカニックデザイナー 大河原邦男展」の内覧会を取材に行く。すでに六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで始まっている「機動戦士ガンダム展」は見ているんだけれど、そこに似ているようでまるで違った展覧会だなあという印象。というのもあちらは基本はガンダムで、それもファーストがメインの展覧会になっているのに対して、こちらはガンダムもあるし、それが大きな核にはなっているけど決して中心ではなく、それ以外の「科学忍者隊ガッチャマン」もあれば「ゴワッパー5ゴーダム」もあり「ヤッターマン」に「太陽の牙ダグラム」に「装甲騎兵ボトムズ」に「勇者シリーズ」に平成以降のガンダムと、様々な作品のメカニックに関する絵が並んで、メカ好きを喜ばせると共にこの40数年の日本のアニメーションをメカって軸から振り返られる展覧会になっている。

 ああ、こういうメカもいたなあという慨嘆が浮かぶ人もいるだろうし、こんなアニメがあってこんなロボットたちが活躍していたなあと回顧を覚える人もいそう。それは裏返せば、この時代のアニメーションはキャラクターでありストーリーと言ったものと、メカがちゃんと絡み合って物語りを作り上げていたってこと。だから自然とメカにも興味を覚え、そしてキャラにも物語にもハマって総体として作品を認識していった。大河原邦男さんがメカをデザインし、富野由悠季監督がストーリーを作り、安彦良和さんがキャラクターをデザインしメカのリファインも行って作られたガンダム(中村光毅さんの美術もだけれど)はだから全体を誰もが覚えて好きになったんだろう。

 最近はどうだろう。メカものはあるけどそれが押し出される時はキャラが引っ込み、キャラが建つときはメカの意味が下がるような気がしないでもない。どうすれば昔みたいなアニメが出来るのか。メカもキャラも物語も愛されるアニメになるのか。夏休みの課題にしよう。さて六本木の「機動戦士ガンダム展」との比較でいうなら、欲しいグッズは「メカニックデザイナー 大河原邦男展」の方が多かったかなあ、って印象か。どの絵もカッコイイ上にポストカードだけじゃなくクリアファイルやポスターになっていて、様々な使うシーン飾るニーズに合わせて選べるようになっている。

 Tシャツ類も大河原さんのメカがしっかりと描かれてあるから着てカッコイイ。長袖のラグランスリーブもあるのはラグラン好きには嬉しい限り。それから「Oh!かわらせんべい」。瓦せんべいなんだけれどそれに大河原メカが描かれている。食べて良いのか迷うけど、でも食べてこその瓦せんべい。いつか食べよう。展覧会に書き下ろされたという6枚屏風のグッズもあったけど、それが巻物になっていたのには笑ったというか、でもちょっと欲しいというか。高いけど。どうせなら屏風、出してくれないかなあ、サイズはやや小さめでも構わないから。


【8月6日】 昔にこんなやんちゃをしていたぜ自慢、その1。「俺の姉ちゃん、ファッション関係なんだけど、仕事場で若い子たちに服を作らせてたんで、驚かせようと思って馬の皮をはがして、中身の方を仕事場の天井をぶち破って放り込んでやったんだ。もう大騒ぎ。そしたら1人、ショックで死んじゃって、姉ちゃんマジギレして部屋に引きこもっちゃった。出てこないと会社が立ちゆかないんで、偉い人とか受付の美人とかが姉ちゃんを引っ張り出そうと部屋の前で裸踊りしたっけ。面白かったなあ」。

 昔のやんちゃ自慢、その2。「兄貴があんまり飯に顔を出さないんで、親父が俺に呼んで来いって言ったんすよ。んで、朝方に兄貴が便所に入った時にひっ捕まえて掴んで潰して、手足引きちぎってシートに包んで投げ捨ててやったっす。親父にそう言ったら口あんぐり。ちょっとお前散歩してこいって言われて、東の方へと追い出されちまった」。昔の人ってアグレッシブだったんだなあ。ってそれ、どっちも日本神話だってば。まあ実際にあったかどうかは別にして、あったとするなら現在の法律とか倫理とかに照らし合わせればどちらも犯罪級に大変なことで、たとえ当時は許されていたことでも、今それらを自慢げに言うのはやっぱり拙いだろう。

 それなのに、どこかの自民党の議員が、学校の女性教師に対して行ったイタズラというよりほとんど虐待をネットで自慢げに語っていたり、これもどこかの自民党の議員が、同級生だかに対して行ったいじめを反省とか交えず語って、それで教育がどうのと言っていたりするのを読むにつけ、どうして今はやっぱり悪いと思っているから、みなも止めようって言えないんだろうかと疑問に思う。そういう方面に頭が回らないんだろうか、それとも心理的には今も別に拙いことだと思ってない現れなんだろうか。女性教師にイタズラをしていた議員は書いていた文章を削除したけど、どうして今になってそうした言葉を晒してしまったかへの自省がない。そこがなければまた繰り返すだろう。でも上は何も言わない。そんな人たちに率いられた国の行く先は。やれやれ。本当にやれやれ。

 大変だったろうな、という思いがまずは浮かんだ朝日新聞による「ガンダム新聞」。ニュース仕立ての1面は自由に作れるけれども園後に続く個々の「機動戦士ガンダム」に関連した作品の情報の網羅とか、ガンプラのHGの箱絵の掲載とかデータを集めるだけでも大変なら、それに付随する情報を間違い無しに書いて乗せなきゃ行けない。チェックも大変だろうし校閲だって細かいところまで見なきゃいけないから大変そう。それらをいわゆる新聞的な常識でなく、ガンダム的な常識の上でタームも含めて調べなきゃ行けないとなると、普通の整理さん校閲さんではちょっと対応できないかも。やっぱり編集プロダクションを入れたのかなあ。データとして価値があるという意味では力作。400円という値段にもうなずける。

 ただ1面のニュース仕立ての架空記事はちょっといろいろ気になるところが。基本的にア・バオア・クーでの戦いについて書かれたニュースなんだけれど、そこでギレン・ザビ総帥とキシリア・ザビ少将の死亡は伝え、連邦軍のレビル将軍のソーラ・レイシステムによる死にも触れながら、それでデギン・ザビ公王が死んでいて、ドズル・ザビ中将もソロモン攻略戦で死亡し、その最中で一人娘のミネバ・ラオ・ザビの行方が不明になっていることに触れてない。それでいて「ザビ家のジオン支配は崩壊したとみられる」と書くのは新聞記事としていかがなものか。皇室なり王室のニュースを書くときに、皇位継承者だった人の行方を書かずして通じるのか。ってところで突っ込んでも仕方がないけれど、これが太田啓之さんでなく別のアニマゲ丼な人だったら、どんな1面トップを書いただろう。私気になります。

 悲惨な出来事ばかりが続いて、ページを繰るたびに絶望が訪れていたんで、新しい巻が出て手にとってもすぐにページを開けなかった梅田阿比さんの「クジラの子らは砂上に歌う5」(秋田書店)をやっと読んだら、冒頭からしばらく外界とのコンタクトがあって楽しげで未来に希望が感じられてとりあえず良かった。でも最後に泥クジラに生きる意味をって奴が突きつけられてある種の絶望なんてものを見せられる。そんな泥クジラが存在する秘密とか、対立している国以外へと世界が広がっていく展開とかもあって、これからどこへと向かうのがまるで見えない。不穏な空気も再び漂い始めていて、この先に予想される混乱が興味深くもありつつ辛そうでもありつつ。いずれにしても落ち着くだろうことは確か。それがどこになるのかを確かめるために読んでいきたい。誰もが幸せであれ、そして世界は平和であれと願いつつ。

 カマトトぶっていうならゴティックメードっていったい何? でもってダッカス・ザ・ブラックナイトがどうして黒騎士? って感じだけれどもすでにして雑誌「ニュータイプ」の連載の方で洗礼は受けているから別に今さら驚きはしない。映画「花の詩女 ゴティックメード」の公開に前後して永野護さんがメカとかの設定をがらりと変えてハスハの巫女ならぬ詩女って設定も乗せて再構築を計り始めている「ファイブスター物語」シリーズ。最新第13巻の冒頭からデコース・ワイズメルがバッシュ・ザ・ブラックナイトというモーターヘッドではなく、ダッカスというゴティックメードに乗って登場した瞬間から、世界は切り替わってその上で何事もなかったように物語りだけは続いてく感じになっている。

 そこではデコースが使っているファティマのエストにもそろそろメンテナンスが来ていたようで、ミース・バランシェの家へと行って皆と再会して繰り広げられるチョットしたパーティの最中に現れたのが三石琴乃さん声に僕には聞こえるエルディアイ・ツバンツヒ。いきなりの登場だけれど映画を見てれば分かるだろうといった感じに突っ込んできてはかき回す無茶を、それでも仕方がないと受け入れさせるところに今を読んで今に必要な物語を紡ぐ永野護さんならではの成算があるんだろう。だって今、モーターヘッドだなんて鈍重そうな名称でシュペルターだなんて重厚そうなマシンを出したところでそこにスタイリッシュさはないもん。バッシュはかろうじてスリムさがあるけどでも重い。なら細く、そして流行すら飛び越えるデザインにしようってことで細身の土偶みたいなゴティックメードのデザインが出てきたんだろう。今は妙でも未来はこれが普通になる。でも30年後は。その時はまた未来につながるデザインを繰り出してくるんだろう。そんない続いて欲しくはないけど。生きていられる自信がないし。


【8月5日】 笑いに混ぜて安易に逃げようとしたら、日本テレビ放送網は世界から人権の侵害を問われることになるんじゃないのか。性適合手術を受けて心身も戸籍上でも「女性」となっている人を取り上げて、どこかバラエティ的なニュアンスを持っている番組で、敬意よりはからかいのニュアンスが濃い「オネエ」というカテゴリーで括ってみせたのは、その人の権利であり尊厳を大いに損なう事態。違うと反論されたのなら真正面から真面目に答えないといけないことなんだけれど、テレビの側にそうした意識が果たしてあるのかどうか、そこが問われそう。

 しかしこれだけジェンダーに絡んだ話題が日常的に取りざたされるようになり、さまざまな人がさまざまな性に対する認識を持って暮らすようになっているにも関わらず、旧態依然とした括りでもって「オカマ」だ「オネエ」だといった認識の枠内で異性装者なり同性愛者なりを括って囲って表現する。その想像力の足り無さって奴が今のテレビへの辟易とした心理を呼んで、人を遠ざけているんだろう。ただテレビに限らず「男の娘」という括りでもって、綺麗な女装男子を持てはやす風潮には、心身の違和感からやむにやまれず女装する人に、自分なんてという疎外感を与えそうな気がして厄介さを感じている。美醜とか関係無しに誰もがなりたい自分になれて、それを誰もが普通と感じる世界の訪れを願いたい。テレビがれを引っ張るような報じをしてくれればなお嬉しいのだけれど。

 ジャンボリー、ジャンボリジャンボリー、ジャンボリジャンボリー、ジャンボリオホホホホホホホ。って歌があったようななかったような。これは記憶だと何回目かの日本ジャンボリーのために作られた歌だけれどもそんな日本ジャンボリーが日本選手権ならこっちは世界選手権、あるいはオリンピック、もしくはワールドカップともいえる世界スカウトジャンボリーって奴が、先月末から山口県でもって始まっているとかで、いったいどんな歌が作られたんだって興味も一方にありながら、そんな世界スカウトジャンボリーであの中川しょこたんのライブが行われたと聞いて、ボーイスカウトも最近はポップでカジュアルになっているんだなと思ったというか、それありなんと驚いたというか。

 っていうかボーイスカウトなんてストイックさの固まりのような集団で、弁当は梅干し入りのおにぎりにソーセージに水筒のお茶と決められたら、おかかや卵が入ったおにぎりは認められず、ペットボトルのお茶なんてもってのほか、というか僕が現役の頃はまだペットボトルなんて存在して折らず、缶入りのお茶なんてものも珍しかったかなかったような時代に、自販機で飲料を買うことすらはばかられた。飲むなら水。そんな状況を経験しているだけに、世界からスカウトのエリートたちが集う世界スカウトジャンボリーでアニソンの女帝、中川翔子さんがライブをやってその美脚をちらちら見せるなんて何事だ! って叫びたくもなる。まあでもある種、日本の文化代表めいたところもあるし今のスカウトには女子もいる。開けて裁けた人たちに、ポップで楽しい歌を楽しんでもらうってのもありなんだろう。見たかったなあ、しょこたん。

 そして気がつくとサッカーの東アジア大会でなでしこジャパンことサッカー日本女子代表が韓国代表を相手に戦い敗れていた。後半のアディショナルタイムにあんな離れた場所から打たれたフリーキックを決められるのは壁のポジション取りにゴールキーパーの力量の問題って言えば言えるのかもしれないけれど、それよりも1点を決められたりするところに未だ慣れないディフェンス陣の問題もあったりするんだろう。それでも得点は奪えているから攻撃は決して劣ってはいなさそう。そのあたりを伸ばしつつディフェンスを引き締めればこれでもうちょっと良いチームになるのかな。しかし北朝鮮戦に続いて2連敗。中国にも負けて3連敗はさすがに雰囲気を拙くするんで、ここは山根恵里奈選手をキーパーに点を奪えるフォワードを並べ中盤にもテクニシャンをそろえて相手を蹂躙して自信を取り戻して欲しいところ。横山久美選手とかもっと使えば良いのに。

 「ニャンまげ」とかデザインしている人だからもうちょっと、ユニークでユーモラスで余裕があってそれでいて才能と自信にも溢れている人だって思っていたんだけれど佐野研二郎さん、例の東京五輪のエンブレムについて海外からそっくりやんけと突っ込まれたことに反論の会見を開いてそこで言った言葉が「要素は同じものはあるが、デザインに対する考え方が全く違うので、全く似ていないと思った」。もちろん盗作ではないとは思っているし盗作する理由なんかもないことも理解している。だから偶然にも同じ「T」という字を図案化するプロセスで、似た意匠が出来てしまったんだろうなあというくらいの認識で、その先にオリジナルな意匠を加えて独自性の高いデザインにしたって経過を説明すれば世間もまあそうだよね、って納得したんだろうけれど、こうも真っ向から否定されると逆に「でもそっくりじゃん」て混ぜっ返したくなってしまう。事実そっくりな訳だし。

 だから「世界に類のないエンブレムだと確信している」とか「真にオリジナルのものができたからこそ自信を持って世の中に送り出した」とかって言われても、あーそうですかって半歩くらい引いて聞いてしまうし、世間もあっちのデザインが広まってしまっている以上はうーんそうなんだって半信半疑な思いで受け止めてしまうだろう。そこはだから似ている意匠が経過としてあった、それは広い世界であることだけれどそこから先に苦労と苦悩はオリジナルであり、そして結果として表れたものがオリジナリティに溢れたものであるということを、自分は信じているからあとは皆さんに判断をお任せしますと謙虚になれば、分かったそれならオッケーだってなったかもしれない。釈明の絵を描いた人なり振り付けをした人がここは完全否定の強行突破で行けと言ったのか、自信がそういうキャラクターの人なのか、分からないけれどもまだしばらくは尾を引きそう。結果変わりましたじゃみっともないんで早く厳密な判断を。

 超絶的な強さを誇った兵士ルートが引退して始めたのがパン屋さん。腕は良いんだけれど顔が怖くて客が来ないところにやって来た訳ありの美少女が、パン屋さんを助けてクーデターも潰してどうにかパン屋さんが町に受け入れられるまでを描いたのが第1巻だったSOWさんによるシリーズの最新刊となる「戦うパン屋と機械じかけの看板娘2」(HJ文庫)。どうやらルートの元上官だったソフィアって女性で少佐が現れては、彼女が乗り込むことになったパーティーのための飛行船にルートも呼ばれてパンを焼くことになって感動の再会、とはならず相手は表現を拳でするタイプらしくルートに向かって乱暴狼藉。それを嫌がる訳じゃないけど相変わらずだなあと受け流す。まさに朴念仁の本領発揮といったところ。

 つまりはソフィアはルートのことが……って設定はさておいて、飛行船の中で繰り広げられたテロはすなわち戦争で被害を受けた者たちによる復讐ではったなけれど、それはルートにだって言えることでけれども連鎖する復讐が何も生まないと知ってルートは身を引き、相手はそれが出来なかったというこの違いを埋めるために人は学んでいかなくてはいけないのだ。とはいえ裏にはさらに複雑な謀略も進んでいて後に尾を引きそう。ひとまずは落ち着きパン屋もなおいっそうの繁盛を迎えそうだけれど、もっと大きな事件に巻き込まれたとしてルートは戦うのか、パン屋であり続けるのか、そしてルートによりそう少女であり機械人形のスヴェンの運命は。ソフィアの胸とかまた見たいし再登場の上でより混乱する世界の先に希望を開いてほしいもの。そこまで続くと信じたい。


【8月4日】 新聞沙汰になってようやく質問に答えたらしい自民党の某国会議員だけれど、それがまるで釈明になっていないところに昨今の安倍ちゃん応援団に共通のポン酢っぷりが漂って、どうしようもないやるせなさに襲われる。安保法案に反対して戦争に行きたくないと叫んだ若い人たちに向かって、それは利己的だと言い放った某国会議員。でも釈明の場で言ったのは安保法案が通ったところで戦争に行くことにはならない、学生たちは誤解しているんだってこと。おいおいまるで違うじゃないか。戦争に行きたくないという切実な叫びに対して利己的だと言ったことが非難されているのは、戦争が起きればそこに行くのが国民としての義務だといった思想が、そこに透けて見えるから。それは安保法案で戦争に行くことにはならなくても、戦争が起こった時には立派に意味を持って若者たちを縛る。戦場へと送りだす。

 それは間違っているという反論に、安保法案では戦争に行かないからといった言葉で取り繕って逃げようとしたって誰が認める? 誰が信じる? そういう当たり前の思考にまるで至らず手前の議論で逃げようとしても、絶対に逃れられはしないだろう。追い打ちがかかって追い詰められてボロボロになる。その前にさっさと謝れば良いのに、この人もどうやら謝ったら負けだという病に冒されているみたい。なおかつ官邸も個々の言説に意見を差し挟むことはしないと知らん顔を決め込んでいる。そんな中から自民党ちょっと嫌いだなんて空気が起こってはジワジワと広がっていくことになるんだろう。それを分かっていて止められないのや止めのを嫌がる人がトップにいるからなんだろうなあ。下もいろいろと大変だ。明日にはさらに炎上するかなあ。ちょっと注目。

 気がついたら池袋の東武百貨店で「THE 世界名作劇場展 〜制作スタジオ・日本アニメーション 40年のしごと〜」が始まっていたんで、池袋に行く用事のついでにのぞいてみたらこれがなかなかの密度だった。何しろ宮崎駿監督による「赤毛のアン」のレイアウトがあり、近藤喜文監督によるキャラクター設定があり、森やすじさん椋尾篁さん関修一さん小田部洋一さんといった面々が手がけた仕事が飾ってあって日本のそうそうたるクリエーターが携わって作っていたシリーズ、それが「世界名作劇場」だったんだなあってことが見えて来る。1年間にわって放送されるシリーズを、それぞれに起伏を持たせながらも大きな物語を描いていく、その安心感と安定感を作り上げるためにどれだけの労力が払われたのか。1発で引きつけ1クールの12話を保たせるのとは訳が違うアニメ作りのノウハウが、今ちょっと失われかけているのが何か寂しい。

 アニメーターが描きやすくて日常芝居をつけやすい簡単な線でありながらも、豊かな表情と動きを出せるキャラクターデザインであり、広々とした自然を背景に描かれる作品を支える背景美術であり、奥行きのある空間の中でキャラクターたちの芝居を生きているように見せるレイアウトでありといった具合に、日本のアニメ界における叡智が結集して注ぎ込み作り上げたその手法の凄さを改めて見て、ここからスタジオジブリのあの感動も生まれたのか、ここから日本が世界に誇るアニメーションのノウハウが生まれたのかなんてことを強く思う。線が多くて複雑で激しく動くことも大事だけれど、そうでないことも大事だという相対性。そこに気付かせてくれるという意味で、大勢に見てもらいたい展覧会かもしれない。

 グッズ類も結構豊富で、アニメのキャラクターがプリントされたまんじゅうがあったり、宮崎駿さんにレイアウトがプリントされたミニトートバッグに入ったマシュマロがあったりと、食べ物類が割と豊富。宮さんの絵が描かれた缶に入ったお茶もあったなあ。こういう食品系はイベントが終わると長持ちしないんで処分されるだろうから、グッズとして欲しい人は早めに買っておくのが良いかもしれない。それ以外の例えば「赤毛のアン」での宮さんのレイアウトがプリントされたクリアファイルやミニファイル、ノートといったものはこの展覧会が続く限りは売られそう。「未来少年コナン」は別に世界名作劇場じゃないんだけれど、クリアファイルとリングノートがあってキャラクターがいっぱい描かれているんで好きな人は買っておくと良さそう。絵はがき類も豊富。でもTシャツとかがないのがちょっと残念。アンの真正面からの顔のレイアウトがプリントされたTシャツとか、欲しかったかなあ。時間があったらまた行って今度は何かを買おう。まんじゅうか。マシュマロか。

 池袋ではアニメ「銀魂」をフィーチャーしたキャラクロが出来るんでその内覧会を見物。前に秋葉原で「アイマス」のキャラクロを見た時にも店内に作り込み、メニューの凝りように驚いたけれどもそこは世界観が爆裂している「銀魂」だけあって、店内にはどちらかといえばパロディな回の「銀魂」がガンガンと流れて空間を異様にしつつメニューも登場するキャラクターの属性にとことんまで寄り添ったものにしてあって、食べる人でありなおかつ「銀魂」のファンをとことんまで満足させそう。マヨラーとケチャラーの対決っていったい何なんだ。作品見てないとまるで分からないけどオムライスにチャーハンを同じプレートに乗せて提供して、それにケチャップとマヨネーズまで添えてみせる拘りようには知らなくっても驚ける。ドリンク類も豊富でどれも綺麗。コースターも楽しげだし、そんな空間だからこそ予約がわんさか入って大人気になるんだろうなあ。どこまでも作品によりそうこと。それがこのオタクビジネスで成功する秘訣ってことで。

 何がなにやら。日本経済新聞がコナミを取り上げその経営に綻びが出ているって見出しで思いっきり批判を繰り出しているけれど、でもコナミってこの2015年3月期は増収増益で経営的な綻びはどこにも見えていない。個々に言うならパッケージとしてのゲームソフトがあまり出ず、そしてクリエーターたちがどんどんと離れていったり、社内で労務管理の面でやや突出した部分があったりするようだったりするけれど、そういう部分を横に置いてこと経営を見るならば、海外で展開しているカジノマシンが順調なようでパッケージの落ち込みやフィットネスの飽和化を埋めて収益に貢献している。早くに身ぎれいにして海外のカジノマシン製造ライセンスを取得し開発から提供に努めてきた効果が出ているってことで、国内での遊技機とは厳しさが違う分野に踏み込み育成してきた先見性には恐れ入る。

 パッケージの縮小とスマホ分野への展開もそうした機を見て転進を行う経営の現れで、その過程で必要性が薄れた人材をだんだんと外に出しているのだとしたら、経営としては間違っていないという話になる。人情としてはちょっと拙いかなあと思うけど。やっぱり企業は人なんでそのあたり、もう少し大切にしないと人から滅びていくことになりかねないから。ただ海外の反応なんかを見ていると、やっぱりコナミはゲームをつくってナンボといったとらえ方をされているようで、そこの弱体化が前面に出てしまっていることにもうちょっと警戒感を持った方がいいかもしれない。人徳知徳の類を戻しつつ情には流されないで経営は厳密に行くこと。それでしか企業は永遠を生き延びられないのだから。


【8月3日】 「蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ」を観て「ガールズ&パンツァー」を観てといった感じに何か、再放送ものばかりを観ているような2015年7月−9月のテレビアニメーション。TOKYO MXが入らず見逃していたこともあるとはいえ、未見なら他の作品と条件的に変わらないはずなんだけれど、ともに劇場で「アルペジオ」だったら総集編プラスアルファを観て、そして「ガルパン」はOVAを観て共に作品世界への興味ってやつを誘われていたことが、こうして改めて再放送された時にアドバンテージとなって興味を引きつけている感じ。なおかつ共にこれから新しい劇場版が待っている。すでに観ている人には復習となるし、劇場版から入った人にはさかのぼっての初対面となってともすれば、パッケージへの手を伸ばさせるきっかけになる。その意味でこの再放送戦略は正しいって言えそう。

 もしかしたらこれからのテレビシリーズは、無理にでも劇場版を作って上映することによって、テレビ放送への興味を喚起させるって方向なんかも考えられるのかなあ。さすがに「ラブライブ!」が上映されているからといって、それを観てテレビを全部見返そうとは思わないけれど、グッズ類とかへの関心はちょっとだけでも浮かぶ感じ。つまりはもはや、テレビで放送してパッケージを買ってもらうようなサイクルでは足りなくなっているってこと。ゲームを作るなりアプリを作るなりして興味を喚起し再放送してさらに加速させるようなモデルが、これからは主流になってくるのかもしれない。「I.S」なんて今さら感ありありだけれど、観るしゲームへも興味が向かうし。やらないけど。あっと「ガルパン」のゲームはちょっとやってみたいかも。戦車戦の戦略ゲームっぽいし。

 アプリといえば大変だった「モンスターストライク」の幕張メッセでのイベント。午前の段階で入りきれない数の人が来て入場制限がかかるって、いったいどれだけ狭い場所でやっているんだと調べたら、4ホール分くらいを使っていたから会場の規模としてはいつかの大混雑だった「アニメジャパン」より広いくらい。それでどうして入場制限がかかるのかってあたりが謎めく。中で人が滞留してしまうような仕掛けになっていたんだろうか。それが何かは分からないけれど。ゲームのキャラクターか何かゲットできるコードの配布? それでもやっぱりあの広い空間がいっぱいになる理由が分からない。

 そもそも「モンスト」にそれだけの大量動員を果たせるだけの魅力があるのかが分からないんだけれど、世界で遊んでいる人の人数とか聞くと相当に普及してそうで、その一部がわんさか詰めかけただけで行列くらいはできるんだろう。加えて運営側がどれだけの人数が来るかを見誤り、なおかつ列整理とか場内整理に人数を割かなかったことが混乱を招いた理由みたい。コミケに来る人だったらそれでも自主的な整列くらいしそうだけれど、残念ながらそうした層とスマホのアプリでゲームをやっている層は似ているようで違っている。オタクとヤンキーの違いというか。サブカルと厨二の差というか。自分の思いに率直で他を省みるだけの余裕もない人たちが集まれば起こることはひとつだったってことなのかも。これで反省して次はちゃんと運営をすればまずは良し。死人が出なかったことは僥倖なんで次はちゃんとやりましょう。次なんてあるのかな。

 さて「ガールズ&パンツァー」の方は聖グロリアーナ女学院を相手にした大洗の市街戦が繰り広げられては路地を曲がれず店舗に突っ込む戦車もあってと大騒ぎ。その現場を前にネットで全話観たときには行ってなかったけれど、去年の夏に現地に行って歩いてきた今はああそこだってすぐ分かる。また行けばなおいっそうの感慨も湧きそう。その意味では「ガルパン」の聖地巡礼者が繰り返し行くってのもよく分かる。劇場版はさらにいっぱいの大洗とか出てきそうなだけに通う人も増えるかな、僕だって観ればまた行きたくなるだろうそ。そして戦闘は1年生が逃げ歴史好きは幟が見つかり壁越しに打たれ生徒会はテンパって自滅。バレーボール部は良くやっていたけどでもさすがに西住みほが車長を務めるあんこうチーム(まだそうは名乗っていないけれど)にはかなわない。あと1歩まで聖グロリアーナ女学院を追い詰めるなんてどれだけの才能なんだ。テレビではすでに全国で買っているだけに映画でどこどどんな戦いをするのかが今から楽しみ。やっぱり勝つのかな。負けてそして勝つのかな。

 2010年のあれは12月ごろに明治記念館で発表会があって、当時から大人気の漫画家の赤松健さんがなにやらネットでサービスを立ち上げるというから興味を持って行って見たのが「Jコミ」ってサービスの発表。絶版とういか手に入りづらくなった漫画をまるまるデータ化して無料で読めるようにして、それに広告をつけて収益を漫画家に還元するというとてもとてもハッピーに思える仕組みに感動する一方で、それで事業として回るんだろうか、ひとり赤松さんだけが自分の境遇に不満を覚えて自分の作品なら読まれるはずだと突っ走っているじゃないのかなんて不安も浮かんだりした。けど事業は廃れもしないでそのまま続いて拡大し、2014年には「絶版マンガ図書館」という名前に変えてさらに発展を遂げてきた。

 作品数が増えて読者数も増えて、広告収入に労力が見合うと作家がも考えるようになって作品供給がさらに増える良い循環があったのかもしれないし、そうでなくても読まれる機会の減った作品を誰でもいいから読んでもらいたい。もう1度日の目の当たる場所に出したいという作家としての思いが後押ししたのかもしれない。作家を支援するようなクラウドファンディングも行ったりして版元ではなく作家の味方だよ、個人ではなく漫画家たちの味方なんだよってことを世間に知らしめたことも、共感を呼んで支援者を増やしたのかもしれない.そして何より赤松健さんの本気をそこに見たからかもしれない。だから。

 GYAOが入って「絶版マンガ図書館」を傘下に入れるような感じで「マンガ図書館Z」に改めて以後、サービスの対価として何か不自由や不具合が生じるんじゃないかという不安を抱く人も今はそれなりにいそう。Yahoo!ブックスだかが囲い込んで外に出さなくなるとかいった、企業の論理が読者の心理を逆なでした挙げ句に離反を招くなんて可能性もあるけれど、忙しいのに赤松健さんが依然として会長職にあって作品の選定とか漫画家さんたちとの交渉なんかを行うそうだから、そうやすやすと理念を壊すような事態にはならないだろうとは思う。51カ国語への自動翻訳とか無茶すぎる仕掛けも導入して、世界から読者を呼ぶような仕組みも作ってさらに収益化を目指している。そこに期待しそこに賛同して、今はしばらく様子を見たいところ。

 というか他にないんだよなあ、こういう昔の漫画が楽しく読めるサービスって。出版社は何をやっているんだって話しになるけれど、もはや新人すら育てて世に送りだす機能が損なわれつつあるらしい。ましてや昔のカタログを大事に持つなんて不可能。そんな版元に変わって作品を電子化して循環させつつ、いよいよもって若手の漫画家やアマチュアの漫画家たちが作品をネットに挙げて、それを添削するような仕組みも乗せて漫画家の育成から漫画界の興隆を画策しているらしい。全ての漫画はここに集まる、なんて豪語していたけれどあながち外れてはいないかも。でも人気投票になって「なろう」みたいに同じ傾向の漫画ばかりが集まるのは勘弁。幸いにして漫画の多様性はこの時代でも保たれている。そこを曲げずに突き進んでくださいな。アイデア豊富な赤松さんのこと、新しいことを考えているだろうし。次は何が飛び出すだろう。楽しみだ。


【8月2日】 パンツの日。だからといって被って「お○んぽおおおおお」などと叫んだりはしない。危ない人だと思われるから。とはいえあまりの暑さに脳も溶けそうになっているんで、いつかどこかでやってしまうかもしれない。せめて体にタオルは巻こう。その最新話はまだ見て無いけど、録画した中からとりあえず「ガッチャマン クラウズ インサイト」の最新話。いよいよとヤバい感じになっていて、ゲルサドラも立った首相公選で現職の総理へのちょっとしたネガティブな言動が、拡大されて空気となって伝染し、それはないっしょといった雰囲気とともに広がって結局は落選の憂き目に。世界を1つにしただなんて、見てくれは良いけれどもとてもファッショな雰囲気をはらんだゲルサドラの当選で、日本いにったい何が起こるのかが目下の注目点になっている。

 そんなゲルサドラの脇に立って応援する三栖立つばさの今は純粋でまっすぐな言動が爽やかだけれど、本気を出して異論を排除にかかった時にどういう反応を示すのかが今から楽しみというか、絶望をしなければいいけれど。枇々木丈の方はまだクラウズの停止という目的で手を組んでいる感があって、それが果たされればあとは倒閣に向かうかもしれない。そういう態度の大人っぷりと翻弄さっるつばさの子供っぷりの対比から、何が最善かを考える機会がえられそう。間に入って達観しつつ自分は自分だと言い続ける一ノ瀬はじめの凄さがやっぱり光るなあ。だからこそベルクカッツェを倒し身に取り込んでも変わらないでいられるんだろう。彼女こそがやっぱりヒロイン、なんだなあ。いや正ヒロインが爾乃美家累であることには変わりがないんだけれど。絶対なんだけれど。うん。

 それにしてもというか何というか、この暑い最中を頑張って街頭に立って安倍晋三総理の政権に対する反対デモを仕掛ける若い人たちが大勢出ているようで、その意気や良しなんだけれどもだんだんと、その言動に先鋭化の兆しが見えてきて困ったというか、心配というか。いろいろと話題になっている若者たちによる盾の集団を関西方面で仕切っている人がツイートで、何かの集会だかで学生さんから「民主主義=多数決ではな」とか「政治参加の方法は選挙だけではない」といった言葉が飛び出したのをそのまま流してみせている。

 「選挙で選ばれたから驕り高ぶっていいというのは間違い」というのはなるほど、納得できる言葉ではあるけれど、民主主義における多数決の論理に反意を示し、議会制民主主義を否定して別のなにか力でもって政治を変える可能性を言うのは、それが関西における盾の集団の代表的見解ではないにしろ、それに与する思考もあると判断されても不思議はなく、だったらいったい民主主義って何だよ、選挙以外の政治参加って何だよって突っ込まれかねないし、敷衍すればそれはテロなのか、ゲリラ戦なのかっていった憶測を呼んでいろいろと面倒な状況をたぐり寄せかねない。

 ルールに則って得票を得て代表となった人が、それが民意じゃないと言われ尊敬を得られず、頼りにもされない時にどうして、市民のために働こうだなんて思うのか。選挙以外に手段があると言われてどうして、過激な方法による制圧を心配しないでいられるのか。そんなことはないって言うだろうけど、過去に民主主義を否定し選挙システムを蔑ろにした挙げ句、先鋭化しては突出して暴力に端って多くを不幸にした出来事がこの国にはあった。それを思い返せば、議会制民主主義を真っ向から否定し、選挙制度を背景にした政治権力を蔑ろにするような言説は出せないはずなんだけれど、裏で誰かが焚きつけているのかはわからないけれど、安易にそうした言葉を口にしていらぬ反意を買ってしまうのはもったいないし、面倒くさい。

 それとも彼ら彼女たちは本気なんだろうか。本気でたかだか数万人による動員で政治を動かそうとしているんだろうか。見た目の動員はたとえあっても、選挙で得られた数百万もの数を前にしたらそんなものは埒外でしかない。だからといって少数であっても虐げられた者たちの声を蔑ろにする政治は忌避されるべいだけれど、一方で少数派を省みないからといって政治そのものを否定しては話はまとまらないし、始まらない。自分たちこそがある種の特権階級めいた立場に立って、その指導によって政治を変えられると思うようになれば、たとえ正義から出た言動であっても、そこからは正当が落ちて信用を失い、大衆から浮き上がって果て、瓦解するだけなんだけど。分かっているのかなあ。

 同じ盾の集団でも、東京の方では国会前に囲われた中で学生代表がパフォーマンスを見せて喝采を浴びつつ、他の本気を出してかけつけた人たちは近寄れず声も届けられない状況が起こっている、なんて話が出始ていたりする。分断のための誘導かもしれないけれど、同じ目的を持っている人たちからそういう声が出始めたとしたら、分裂から過去撃破へと至りかねない恐れがある。それを画策する者がいれば、学生の運動を危険視して就職危ないだなんて脅して崩壊に導くよりも、褒め称え持ち上げて鼻を高くさせればあとは、周囲が何だアノヤロウと憤り呆れ見捨てるような図面を引く。乗れば至るのは瓦解なんだけれど、気付いているのかなあ。囲われた特権階級は先鋭化するか腐敗するしかない。そうならないために何が必要か。考えないと。子供たちが分からないなら大人たちが。

 西荻窪でのサポーターたちによるミーティングで上映されたパイロット的なフィルムから、映像を使い音楽も同じコトリンゴさんによるカバー版「悲しくてやりきれない」を使った「特報 この世界の片隅に」が公開されて早速評判を呼んでいる。その映像の繊細にして人間が濃く描かれた動きとか、緻密な交渉の上に描かれた背景なんかを観て受ける衝撃に重なり、「マイマイ新子と千年の魔法」でもエンディングを唄っていたコトリンゴさんの心に染みいるような声で唄われる歌が大勢を引きつけた様子。首をかしげたり手を動かしたり。そんなすずさんの動きのひとつひとつがとても柔かくて人間っぽい。それがそんな人が生きていたあの終戦前という時代を思わせ時を隔てて心を添えさせる。生きるって大変。でも行きたい。そのために必要なこと。大切なこと。そう思わせた予告編の先に来る本編が、どれだけの驚きと感動を呼ぶか。今から楽しみ。本当に楽しみ。

 そして3度目となる「劇場上映 日本アニメ(ーター)見本市」を観にバルト9へ。今日は夕方からだったんで時間にも余裕があったんで、BGMが収録されているCDを買おうかと池袋のニコニコ本社のショップに行ったけど見当たらず、渋谷のタワレコならあるかと思ったけれどそっちにもなく、とって返して新宿のタワレコに入る前にそいういえば、紀伊國屋書店のCD売り場で前に見かけたなあと思って入ったら初回限定版の前田真宏さんによるジャケット付きがまだあった。紀伊國屋偉い。これで「そこからの明日。」の歌とそれから山寺宏一さんが唄う「アジアの海賊」を目一杯聞けるようになる。でもどちらも映像が乗って印象が膨らむ作品だからなあ。そこはだから劇場へと通って「そこからの明日。」と「ヤマデロイド」を音楽だけで思い浮かべられるくらいに観で観込むんだ。あと2回は観たいけど行けるかな。

 改めて観て海外でアニメーション映画祭に出してアニメーションとして評価されそうなのは「西荻窪駅徒歩20分2LDK敷金2ケ月ペット不可」とそれから「ブブとブブリーナ」だろうかと考える。後者はなかむらたかしさんという知られたクリエーターが挑んだ新境地で、平面の絵本調に店ながらも奥行きがあるダイナミックな動きを見せてくれるところが受けそう。セリフも入るけど簡単なんで説明しなくても通じそうだし。前者につていては手描きの作画をつないでこれだけのアクションが描けるということが世界にアピールできる点。とりわけおそらくは大平晋也さんが絡んだあたりの背景動画も含めたダイナミックな絵は凄い凄いと言われそう。でも個人のクリエーターが手描きで作った作品じゃない点がやっぱり評価から外れるのかもしれない。大平さん個人が全編、作った作品じゃないし。「コントころしや1989」は脚本が凄い素晴らしい。それにそぐう絵があり演技があって出来上がった特級品。こういうのって映画祭で受けるんだろうか。ちょっと気になる。


【8月1日】 水着回で温泉回が入るのはシリーズ物のお約束としても、そうした回にありがちなサービスをメインにしないで、これまでずっと離反していた感じのあった霧羽ナギサとA−TECの面々との間を少しだけ近づけ、共に何かおなじ物を目指していく同志となる可能性を仄めかしたあたりに展開を構成する人の巧みさがあるなあって気がした「Classroom☆Crisis」。アンジェリーナこと服部花子さんの水着姿も拝めたし経理だけじゃないただ者じゃないっぽさも醸し出して展開にどう絡むのかって期待もさせてくれたし、何よりすごいドライバーでありパイロットであることは分かっていてもその性格や属性が今ひとつ判然としなかった白崎イリスの過去に何か因縁めいたものがありそうってことも分かって今後に興味を持たせた。

 あとは八槙スバルって子の不思議さがちょっと際だったかなあという感じ。なるほど北原コジローや舞岡サクゴらとつるんでいるから男子だろうって思わせながらも、ジェット水流で宙に浮く遊びをしていた時に、他の2人は上半身が裸だったのにスバルはシャツを着ていたし、2人が温泉に向かったときもひとり部屋でシャワーを浴びるとかいって行かなかった。怪しい。大いに怪しいけれどもひん剥いて確かめる訳にもいかないのは2次元の絶対。なのでそういうところがどういうプロセスで明かされるのかを楽しみにしつつ、今後のストーリーを見守っていこう。気になるのはナギサが兄の暴政に逆らい虎視眈々と逆転を狙って成功するのがゴールなのか、A−TECが何か大きなことを成し遂げて終わりなのか、イリスの正体が明らかになるのが結末なのかがみえないこと。それらを統合しつつ大きな問題が提示され、それに向かって皆が結束して立ち向かうような外枠が、用意してあるとちょと嬉しいかな。いずれにしても今期で期待の1作。見守ろう。

 「HANMERHEAD」の公開は終わったけれども代わりに「ヒストリー機関」とそして噂の「ザ・ウルトラマン」が加わって2週目を迎えた「劇場上映 日本アニメ(ーター)見本市」を観るべく新宿はバルト9へ。映画の日ってことで「進撃の巨人」の封切りもあってさぞや大混雑かと思いきや、ロビーはすいてたしエレベーターを待つ行列も出来ていなかったのはすでに上って差す日の暑さに昼間は家で涼み、夜から動き出す人が多かったっておとの現れか。でも先週までと違って午前10時にしか今日の上映がない「日本アニメ(ーター)見本市」を観るなら朝しかないんで駆けつけて、そして観た「ヤマデロイド」はやっぱり楽しかったなあ、見ていて痛快なインチキ時代劇な上に音楽も軽快でついついいっしょにかけ声をかけたくなる。映像と内容と歌がガッチリかみあった傑作。これが映画館で観られるのもあと少し? もったいないからまた行こう。

 そんな「ヤマデロイド」で歌を唄った山寺宏一さんが24役に挑んだという吉浦裕康監督の「ヒストリー機関」はなるほど円卓を囲んだ世界を司るおっさんたちの声をそれぞれに演じ分けつつ彼らが観る世界の真実を捉えた映像にも確か声を当てて年齢も属性もまるで違った人物になりきってみせる。って聞いてすぐ分かるものでもないし、どれが誰の声かを後で聞いて分かるものでもないんだけれど、その場で違うキャラに違う声が当てられていると分かればそれで良いのだこういう場合。そのストーリーは…おっと、これはまだ言いっこなし。ただひとつだけ指摘するなら世界の滅亡は常にZによるもので、その解決策は未だに見いだされていないというか、すべてが投げっぱなしジャーマンというか。「がっこうぐらし」もそうなるのかなあ。救いがないのかなあ。

 「ザ・ウルトラマン」については僕の世代よりも少し上か少し下、内山まもるさんという漫画家の人が描いた「ザ・ウルトラマン」という漫画をリアルタイムに読んでいたという小さな子どもか、「ウルトラマン」のシリーズを特撮映像として少し大人の目線で楽しんでいてそれが「ウルトラマンレオ」で費えかかった時にしっかりと、その衣鉢を継ぐような形で世に定着させようとした作品として評価している人たちから、ああ僕たちの「ザ・ウルトラマン」がアニメになったよ、それも漫画とおなじ雰囲気で映像化されたよって感じに喜ばれているといったところ。その狭間にあって「ウルトラマン」のシリーズを「ウルトラマンタロウ」あたりで卒業して、漫画として読むことがなくアニメは「ヤッターマン」から「宇宙戦艦ヤマト」なり「超電磁ロボ コンバトラーV」といったあたりに流れていた身には、刷り込みがなくって喝采という感じではなく、そうかこういうものがあったんだといった“発見”を与えてくれる作品だった。

 前に話題になった「電光超人グリッドマン」も含めてノスタルジーが少し入った作品のどちらとも重なっていないと、それらを諸手を挙げて歓迎して喝采を贈ることができず、ちょっと出遅れたというか、蚊帳の外におかれた感じもあってそういうのじゃない、もっと新し物が見たいんだといって他のオリジナルを称揚したくなるけれど、でも「グリッドマン」も「ザ・ウルトラマン」もアクションとして正しく特撮のアニメ化として巧くやていたり漫画の雰囲気を出しつつ特撮の醍醐味も混ぜ込んでいたりして、アニメーションとしての凄さ素晴らしさは存分に感じさせてくれるから観て損はないし、観なくて大いに人生に欠落が生じるんで席を立たずにしっかり観ようと行っておこう。でも「ヤマデロイド」で席を立つのはやっぱり勘弁。あと林明美監督「そこからの明日」。この2本はそのままPVの傑作として世に出したいけど、そういうのを評価するシステムがないからなあ、この国には。

 というかそれぞれが独立してアニメーションとして素晴らしい「日本アニメ(ーター)見本市」なんだから、切り分けて映画祭とかに出せば受賞連発間違いなしとか思うんだけれど、そういう気配があまり感じられないのはレギュレーションとして何か引っかかるところがあるからなのか、主催している側にそういう意欲がないからなのか。でも安野モヨコさんの漫画が原作の「オチビサン」はカナダで開かれる世界4大アニメーション映画祭の1つ、オタワ国際アニメーションフェスティバルの子ども短編部門にノミネートされているみたいなんで、働きかけはあるし意欲もあるんだろう。あとセル画チックな「アニメ」はそれとしての楽しさはあっても「アニメーション」として観た場合に違うと感じさせるとか。そんな中で「オチビサン」はコマ撮りを徹底した作品としての凄さがあるから分かるだろうという判断が双方にあったのかも。どうなるか。ライバルはベルリン銀熊の和田淳さんだけど。

 見終わって昨日も設営の様子を見た「Maker Faire TOKYO 2015」を見に東京ビッグサイトへ。去年のあの喧噪を思うと相当な暑さも心配されたけれど、幸いにして会場も広くなっていたようで涼しさは保たれていた様子。まずはファウンダーのデイル・ダハティさんによる基調講演を聞いて、世界中で輪が広まっているのはいいけれど、でも見るだけじゃなく自分で作ってみたいと思うことが大事なんだよって話を聞いて作り手と受け手の分断があっては意味がないなあと感じたり。コミケだって一般参加者という言葉にはいつか自分たちも作り手になって欲しいという願望も含まれているんだろうと思うけれど、今は買い手としての表現者からさらに意味が薄まってただのお客と化している感じがあるからなあ。そうならないためにはやっぱり、作る楽しさ、作ったものを見せる楽しさを感じてもらう必要があるってこで、ワークショップも積極的に開いているんだろう。それに群がる子どもたちを見ていると、まだ安心かもって思えてきた。

 でもそんな子どもたちが観て真似するとお父さんお母さんも大変かもしれないEepyBirdって2人組によるコーラにメントスを入れて吹き上がらせるパフォーマンス。巧みな話術と計算された吹き出させ方なり吹き出し量によって見た目も楽しいものになっているけど、でも家でやるとメントスを5個放り込んで吹き上がるのは一瞬。それもごぼごぼっと吹き出て終わりになって周囲を汚すだけなんで、どういう吹き出し口を作れば綺麗に上がるかってのを考えさせ、まさに「Make」する楽しさを覚えさせないとただのイタズラに終わってしまうだろう。そういう誘導をちゃんとやって、気をつけつつ工夫しようと呼びかけていたところはさすがに「Make」の持ち主でもある2人組。観て子どもたちは何を思ったか。さっそく帰りにコークとメントスを買っていったかな。でも普通のコーラでやったらダメだよ砂糖でベトベトになるから。ZEROかダイエット。それが大事。そうなのかい?


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