縮刷版2015年7月上旬号


【7月10日】 「納豆の日」だとか「ウルトラマンの日」だとかで世間では、納豆を浴びるように食べたり、ウルトラマンに変身しては空を飛んだりする活動が盛んには行われてはいないようだけれど、それ以上に当方の50回目となる誕生日を祝う動きがまったく行われていないのはどうしてなのかと憤ったところで、知ったことかと言われそうなので黙ってひとりで静かにお祝いすることにする。おめでとう。それだとあまりに寂しいので、せめて日本で1番くらいに高い建物にでも上ってこようと「東京スカイツリー」へと赴いて、開業した2012年の7月10日以来、3年ぶり2度目となる登頂へと挑むことにする。

 っても東京タワーとか名古屋のテレビ塔みたいに歩いて上れる場所でもなし。普通に予約してあったチケットを引き取って、超高速のエレベーターで上がった訳だけれども3年前は、そんな平日の朝1番となる午前8時ですでに予約の人たけでチケットカウンター前に行列ができていたのが、今日のところは僕を入れて3人くらいしか予約をしていなかったみたい。そして外に並んでいた当日券の人たちも見て数えられるくらいという状況なのは、ブームが過ぎて混雑する時は込むけれどもそうでない日は朝とかはまだ人は来ず、観光の人が動き始める昼前あたりから込み始めようになったんだろうかと想像する。まさか平日でも昼間は閑散としているってことはないよなあ。これだけ世界中から観光客が来ている訳だし。

 そのあたりは追々調べるとして、こちらとしてはまずは350メートルとかにある展望台へと上がってそこから、1030円を払ってさらに上にある展望台へと進んで行ったのは前回と同じ。ここで後れを取ると上まで上がるエレベーター前に行列ができるはずだったんだけれど、もともとがそれほど人が上がっていない朝だけあってエレベーターの待ち時間はほとんどなく、乗るのも数人といったところですんなり最高地点へと到達することができた。これで良いのか。まあそんなものだろう。値段だってそんなに安い訳じゃなし。それでも朝にちゃんと来る人がいて、外国人もアジアに西欧と多彩なあたりにまだまだ観光スポットとしての価値が衰えていないってことだと思いたい。

 地方から来ていた人もいたようで、上にあがって皇居は見えるのとか聞いていたけどあいにくの曇り空で皇居までは見えず、両国国技館と隣の江戸東京博物館はよく見えたし、原恵一監督の長編アニメーション映画「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」でお栄がお猶を連れて雪の中をお参りに行った三囲神社は眼下にくっきりと見ることができた。3年前に上った時には気にもしなかった神社だけれど、ああやって映画の中で紹介されるととたんに身近に感じてしまうところが自分の聖地巡礼気質というか、影響のされ易さって奴を体現している。これで本気で時代劇とか読んだり見始めた日には、東京中が聖地になるか、っていうとそうでもないんだけれど。出てくるところはだいたい決まっているし、そういう場所はもう行ったし。

 「東京スカイツリー」自体はっていうと「ルパン三世vs名探偵コナン THE MOVIE」の聖地ってことになるのかな。幸いにして今日のところは次元大介が現れて拳銃で窓を撃ち抜くことなく静かに過ぎていったけれど、いずれ作られるだろう樋口真嗣さんと庵野秀明監督による日本版「ゴジラ」あたりで蹴倒されたりしそうな予感。それとも時代を変えて東京タワーすらまだない昭和29年版のリメイクとかをやったりするんだろうか。いやいやそれより気になる「エヴァンゲリオン新劇場版」の最終話となる「シン・エヴァンゲリオン」の話。宇多田ヒカルさんの出産話と絡んで漂っていて2015年冬公開なんて話が出ていたけれど本当なのか。それで「ゴジラ」も作られるのか。箝口令がびっちり引かれる作品だけにそのあたり、進んでいるかもしれないなあ。でも「日本アニメ(ーター)見本市」にもどっぷり浸っていてそんなの作ってる時間があったようには見えないし。謎は深まる。

 そんな「東京スカイツリー」から世界に向けて天下布武を誓ってから、京成を少し載って都営浅草線に入って新橋まで行ってそこからゆりかもめで「東京ビッグサイト」へと回って「防災EXPO」なんかを見物。いやあいろいろとある保存食。昔はそれこそ乾パンにビスケットにアルファ米くらいしかなかったのが、今はおかゆはあるしパンもあってそれらがいずれも5年とかの長期保存に対応している。なおかつ開けて食べるとちゃんと美味しい。おかゆなんかは鰹だしのにんべんが協力していて、レトルトパウチを暖めなくても出してそのまま食べると口中の鰹出汁が広がって美味しいし、缶詰に入ったパンもブリオッシュだっけかの感じで柔らかくてしっとりしている。あとは井村屋の羊羹か。そんな保存食もあるのです。

 パンなんかは小麦粉とか使われていてアレルギー物質を完全いは排してないけれど、保存食のなかには23だか25だかあるアレルギー物質を使っていなくて、そういうのがある人でも安心して食べられるようなものも増えている。いざというときに何か食料を確保しなくちゃいけないんだけれど、それが安心して食べられるものかどうかってのが分からないのは当人にとっても不安だし、子供ならその親にとって不安も大きい。そういう不安をカバーするのも“防災”であり“減災”ってことなら今後、そういうスタイルが広まっていくんだろうなあ。

 昔ながらの乾パンはだから用済みってこと? いやいや大丈夫な人にはそれも立派な保存食。高知のビスケット「ミレー」なんかも塩気を抜いて揚げてもないものを保存食として提供してたりするんで、自分は安心という人は買って自分のために備蓄しておくと良いかも。水といっしょに。そちらもなんと12年の長期保存が可能なものとかが出ていて驚いた。ウイスキーならぬ12年ものの水。美味しいの? いやただの水だけど、それがただの水であるってところに凄さがある。高温で殺菌したのをすぐに詰めて壊れないボトルなんかも用意して作ってる。そこまでしないといけないの? 買い換えれば済むことじゃんとは言うけれど、数年おきに買い換えるのって大勢の社員を抱えた企業にとっては大変らしい。だから出てくる超ロングライフ。いずれ30年ものとか出てきたりするんだろうなあ。美味しいんだろうか。だから美味しくなくて良いんだってば。

 おかしいだろう現政権。あるいは官邸。もしくは自民党の長老たち。政治主導とかいってあれやこれやと口を出しては、新国立競技場ならバカ高いものを東京オリンピック・パラリンピックではないラグビーのワールドカップに間に合わせるために突貫工事で作らせようとして財政に無理を生じさせ、産業世界遺産なら当初に予定されていた長崎の教会群を差し置いて、明治とも産業とも無関係な松下村塾だの萩の城下町だのを混ぜたものを無理に世界遺産に登録させようとしては、近隣諸国と軋轢を引き起こしている。その責任を官僚に向ける政治家が現れ始めているんだけれど、上が決めたことには従わないといけないというのが官僚の世界な訳で、それだからと粛々と従っていたら政治家から何をやっているんだと叱咤がはいり、売国的だと誹られ聴取までされる。

 やってられっか! って憤ったって不思議はないけれどもそこは公僕、言われていることさえやっていればお咎めは受けないで天下り先も得られる構造ってのもあるんだろうなあ。それを狙って相手のメンツは立てつつ自分たちの立場も守ってシャンシャンと進んでいった果て、競技場では財政で世界遺産ではレッテルという負の遺産だけを国民が押しつけられるんだ。とはいえそんな無茶な政権をそろそろ無茶だと気付いている人たちも多そうで、自民党が外務省の失策を批判したってニュースに、違うだろう官邸が無茶したからだろう、韓国との交渉だった現場はちゃんとやっていたのを、官邸が偉いさんのプライドを満たすために無茶を入れて相手を怒らせただけだろうってことを、察知してそう指摘する声も出ている。

 前なら反日だの売国だのといった誹りが官僚に向けられていたのが、官邸の度重なる無茶ぶりに本当にヤバいのはこいつらだと世間も気付いて、いい加減に何とかしなくちゃと思い始めている現れなのかも。例の報道圧力事件以降、本当に潮目が変わった感じ。このまま一気に崩壊へと向かうのか。でもその前に安保法制だけ通して政治家たちは逃げ延びそう。自分たちが満足できればそれで良い人たちだから。それで政治家は逃げられても、翼賛し続けたメディアは逃げられないだろうなあ。参ったなあ。やれやれ。


【7月9日】 しかし本当に財源とかまるで決まっていなさそうな新国立競技場の建設では、足りないお金を集めるためにサッカーだけじゃなくプロ野球でもスポーツくじを導入しようとしているらしい。でもサッカーがtotoの公平性公正性を維持するためにベストメンバー規定なんてものを導入しては、その時々での調子の良い選手を使う戦い方を封じられ、そして若手の選手を抜擢する可能性も縮小されて今になって育成が滞っていることに喘いでいることを思うと、プロ野球の方でもその導入には相当に慎重にならざるを得ないだろう。

 もとより試合数も多い上に、大量得点大量失点も発生して、捨て試合なんかも生まれがちなプロ野球がスポーツくじの対象になった時、最後まで全力で試合にのぞめとか言われたら監督だってチームだって困ってしまう。常に先発は一定の価値が見込める選手でもってローテーションを作らなくてはいけないとか、打線はいじってはいけないとか言われたらそれは野球にはなならいし、リーグ戦にだってならない。まるでトーナメントのような戦いが繰り広げられてはシーズン半ばで疲弊し、選手も壊れチームは崩壊して観客だって来なくなる。

 それで良いはずもないだろうからオーナーたちも唐突な討議に反対の意見を示しているんだろう。もしもそれが単なるポーズで、裏では説得が進んでいて導入となった場合、そうした公正性が担保されないような状況が許容されたとしたら今度は観客の方がそんないい加減なくじなんて買えるかって話になる。元よりスポーツくじの暗黒版ともいえそうな野球賭博が取りざたされて、イメージにダメージを与えてきた世界で今度は国が胴元となって公平性や公正性に欠けた賭博を開帳して、世間が認めるはずがないだろうに。そういうことが分からないくらい、スポーツくじの導入を進める国会議員も、新国立競技場を推進したい勢力も知能の減衰が始まっているんだろうなあ。そういう人たちに率いられて征国、そしてプロジェクト。行き着く先は言うまでも無い。やれやれだ。

 なるほど人気の“異世界転生”ではあるけれども、ゲームの世界からログアウトできなくなってそのまま居ついてしまったという状況を作りつつ、それが先行する「ソードアートオンライン」とはまた違って一生懸命にネットの中に拠点を作りキャラクターを作り皆で頑張ってきたものの、1人抜けまた1人いなくなって最後に残った1人もこれで見納めかと諦めていた次の瞬間、ただのNPCだったキャラクターたちが意思をもって動きだし、それにコマンドでもって指令するんじゃなくて言葉で命令できるようになったりしたという意外性のある展開の中で、外ではただの社会人だった主人公がネット内の魔王として改めて君臨しようとする姿が見ていて自分もそうなれればなあと思わされる。

 もちろん転生だと喜んでばかりかというと、一種異様な事態に戸惑ってまだ夢なのか、単なるゲームの故障なのかと悩んでいるところが見える主人公。それでもそこが居場所だと分かった時にどういう風に変わっていくのかがひとつの見どころ。家来として付き従うNPCには命があって、死にもすれば裏切りもするといったような話が浮かんでくればそれもまた、ひとつの世界が立ち上がる中で自分という人間の器量を見極め、そこでどう生きれば良いかを問い直す機会も得られるだろう。そうやって成長した主人公が、一生をそこで過ごすのかそれとも元いた世界にログアウトしてかつての仲間と再会し、リアルの世界で何かを目指すことになるのか、って原作を読めばそれも分かるんだろうけれど、今はよく動きよく話すキャラクターたちを楽しみながら、進んでいくドラマの先を見極めたい。

 そうか高校を作るのか。KADOKAWA・DWANGOが教育事業に参入するって会見があって、アニメーションの作り方だとか声優のトレーニングだとか漫画の描き方だとかライトノベルの描き方といったものを、ネットを使った通信講座として立ち上げるのかなあと思ったらちゃんとした法律にのっとって作られる、そして卒業資格も得られる高校を作るって言う話でちょっと驚いた。いきなりそっちに行くのか。大学を作るってなるとさらにスケールも大きくなるんだろうけれど、高校だって全寮制のエリート校が企業の資本で作られるっていう話が話題になるくらい、結構な注目度はあったりする。それをKADOKAWA・DWANGOがやるとあってはいったいどういう中身のものになるのか、オタク養成高校になるんじゃないのかなんて憶測とかも浮かんで来る。

 会見した川上量生さんも角川歴彦さんもまだ、認可前でもあって具体的なカリキュラムだとか学費だとかについては振れなかったけれどただ、課外授業的な部分でライトノベル作家だとかゲームクリエーターだとかを読んで講師として話してもらうようなことを行うとは話してた。いわゆるキャリア教育って奴で、そうしたものに今は無頓着な高校が多い中で実績を持っているKADOKAWA・DWANGOがネットワークを駆使してそういうことを行うなら、ちょっと“通って”みようかっていう生徒が出ても不思議はない。ただでさえリアルな学校はオタクには行きづらい場所。ならネットで学校に通いつつそうした授業も受けてオタクライフを満喫できるなら、こんなに良いことはないってだれもが思いそう。

 もっともそうやってラノベの書き方だとかアニメーションの作り方だとかスイーツのレシピだとかを学んだところで、そうした方面でプロデビューできるわけでも就職できるわけでもない。KADOKAWA・DWANGOが雇ってくれるものでもない。結局は自助努力ってことになるしそれ以上に才能がものをいう。つまりは夢だけをいつまでも抱き続けるニート予備軍が高校の卒業資格だけを得る学校になるのか、ってあたりで次につながる手を打てるのもKADOKAWA・DWANGOの強みか。ひとつはコミュニケーション。ニコニコ生放送だのを繰り広げ、ニコニコ超会議なんてものも開催してはネットでリアルで人の交流を促しているその機能を、学校教育にも取り込んで生徒がひとりで没していかないようにする。

 誰かと交流ができればそこに切磋琢磨も生まれるし、夢はかなわなくても夢を抱いて生きていこうと思える。たぶんそいういうものだろう。少なくとも真口は広がる。ここが重要。あとは地方自治体なんかと積極的に汲んで、彼らが求める人材ってのを出していくこともする。そりゃあラノベ作家を目指していたり、アニメの世界を目指していたのが地方で農業だ漁業だ職人に弟子入りだってことになったら、それは大きく迷うだろうけれどでも、今までどこに行ったら良いのか、何をいたらいいのか分からないままネットに“逃げて”いた人が、そうしたリアルの求めに応じて自分自身の価値をそこに見いだすことによって、次へと進むための動機を得られる。機会ももらえる。これはリアルの高校にはない機能だろう。

 そこまで広く深く考えての参入なのか、もうちょっと気楽にやろうって考えたからなのかは分からないけれど、ただ言い出しっぺがあの志倉千代丸さんだというのがちょっと面白い。5pbを立ち上げた人で数々の楽曲を作り「STEINS;GATE」をはじめとした話題のゲームを作り出してきたトップクリエーターが、どういう思いから学校を作ろうとしたのか、そしてその思いつきを角川歴彦さん、川上量生さんというトップ経営者たちに納得させられるだけのものにして提案できたのかって辺りに興味が及ぶ。あるいは学校が立ち上がった暁には、志倉さんが何かしでかしてくれるのかもしれないと思うと、その手腕にも期待がかかるけれども果たして。ともあれ未だ見えないぞの全容が、明らかにされる時を待とう。でも来年春には開校なんだよなあ。間に合うのかな。


 表通りの大通りではないけれどもフェイスブックのような場所だって公開していればそれは往来で、そこでたとえ身分とは無関係の個人を主張しようともその身分といっしょくたにして捉えられてしまうのも当然の理。さらにいうならそうした身分が日頃の言動にいっしゅの箔を与えているなら無関係といいつつも威を借りていることに違いは無く、むしろ身分の上に成り立つ言動でありそれへの関心だとも言って良い、そんな人物が炊きすべきヘイトな言動を吐き散らしているという話が伝わってきて、たとえ個人であっても公器に携わる人間が言って良い言動ではないにも関わらず、それを自重するどころかむしろ誇らしげな感じすら与えているところにそうした人間の存在が許される公器とやらの底も知れたというか、すでに公器であることを失っているからこそ出た言動というか。その個人に限らず周辺でもそうしたヘイトな言動がまかり通っては喝采を浴びているんだろうなあとも想像できる。その末路は。言わずもがな。まったくもってやれやれだ。


【7月8日】 やはり運を使い果たしていたようで、細田守監督の新作「バケモノの子」の舞台挨拶は落選したようだったんで日付が変わった段階で、予約が可能になった土曜日の劇場公開をとりあえず1席とっておく。どこに行くのが良いんだろうかと迷ったものの、近隣のアウトレットモールがリニューアルされるシネプレックス幕張の初回をとりあえず予約。TCXだとかドルビーATMOSだとかいったゴージャスな設備ではなさそうだけれど、割と大きめのスクリーンだったんでここならきっと浴びるような感じで見られることだろう。そこまで近寄って見て楽しいシーンとかがあるかは分からないけれど。

 細田さんといえばアニメ・特撮研究家の氷川竜介さんが、東映アニメーションを離れて以降の「時をかける少女」から「サマーウォーズ」「おおかみこどもの雨と雪」とそしてこの「バケモノの子」について解説をした本「細田守の世界 希望と奇跡を生むアニメーション」(祥伝社)が出ていて、早速買ったけれども最終の第5章を読むのは映画を見てからにしたいんで、どうせ読めばそこも読みたくなるだろうと考え今は封印。ただ最後のあとがきを読んで、なるほど合縁奇縁というのはあるんだなあとは思った。そうやって嫁って見つけるのか。あるいは旦那とか。好きっていうのは作品を越えて本人に及ぶものなのか。いろいろと考えたかえれども自分にはそういう可能性はないなあとも思った。作品出してないからなあ。日記のファンですって人もいないし。ちょっと悲しい。

 気力体力が衰え気味だと新作のアニメーションを見るのにも、結構な心構えが必要になって踏み出せない中を、どうにかこうにか見た「ビキニ・ウォリアーズ」が簡単に見られて面白かった、って短いからなあ、でも詰まってた。とりあえず大事なことはビキニアーマーはビキニアーマーであってビキニではないということ。正しくビキニアーマーならばそれを着用すれば炎は熱くなく凍えるような息吹でもそれに震えることはなく、溶解液を浴びても溶けることはない。同じように見えてそれがただのビキニだと熱いし寒いし溶けて痛い。そういうものだ。でもそれを纏っているという自分が得られる満足は、たとえ面積が同一でもただのビキニを纏った時には得られない。むしろ違う感情が湧いてくる。恥辱という。それがなぜビキニアーマーでは湧かないのかはきっと永遠の謎だろう。言えるのはつまり「そういうものだ」といったことか。奥深い。

 ギリシャのデフォルト危機を受けたか日本の株式市場が大幅安になって結構大変そう。特定の勢力に阿る新聞なんかは中国の上海市場の下落を嗤っていたりするけれど、そこの影響も半ば関わって肝心のお膝元の日本がガタガタになっているのを見もしないで、中国を揶揄して罵倒するばかりっていうのも視野の狭い話。というより上海市場の暴落よりもやっぱり欧州で起こった金融不安が今後世界にどうなるか、ってところをもっと緻密に検証しつつ、財政出動と金利の操作で上げ底されていた日本の株式市場もこれでメッキが剥がれて、一気に停滞へと向かう可能性なんかもうかがわれて仕方が無い。それが自分の政権にとってダメージになると感じた安倍ちゃんが、またぞろ日銀総裁の尻を叩いて異次元の政策なんかをぶち込んで来たりしそうだけれど打つ手もないのにいったい何をどうしたって、傷つくのは日本という国。それを分かってもなお今の自分が可愛いと、何かしでかしたりするのかなあ。やりかねないよなあ。

 去年のぞいた時にはいったい、誰が見に来て何を見せるのかが今ひとつ掴みづらかった「ライブ&イベント産業展」だけれど、会場を東京ビッグサイトから幕張メッセへと移して広さも倍にした上に、きっとセールスでも頑張ったんだろうその結果、「第2回ライブ&イベント産業展」はライブに関係するモニターやら音響機材やら証明やらがずらりと並んだ上に配信に関するソリューションなんかも登場し、そしてイベント会場を盛り上げるさまざまなアイテムの集まっていてここに行けば何か新しいイベントを始められそうな予感を与えてくれる展示会になっていた。タレント事務所やモデル事務所まで出ているんだからブッキングだってできそう。そっくりさんばかりを集めた事務所も出ていたっけ。もう無茶苦茶でござりまする。

 そんな中でも目を引いたのがサイリウムというかキンブレというか、観客席でぴかぴかと光らせてライブを盛り上げる発光装置関係で、それも自分で操作して光らせるんじゃなくって、演出の側からあれこれ遠隔操作を行って、イベントを光でも演出できるようにするアイテムが幾つかの会社から出ていた。ソニーグループなんかは前からやっているリストバンド型のを並べてユニオンジャックなんて描けますよって見せていて、これを座席に配置すればスタジアムにキレイな模様を描けるんじゃないかって気にさせてくれた。出来るかどうかは知らない。でもって代名詞ともなっているキンブレを出している会社はといえば、ペンライト型な上にそれを無線で1本づつIDを振って操作できるようにする新製品を出していて、これをうまく使えば観客席に動く映像なんかを描き出すことだって出来るような気にさせられた。

 テレビだって印刷だって拡大すれば細かい点で、それが色違いになって遠目に映像に見える。それをペンライトで作ろうと思えば作れるのかどうなのか。ちょっと気になる。別の会社は無線ではなく赤外線で操作する光るリストバンドを送り込んでいてちょっと差別化。そんな品々が切磋琢磨しながらもスタジアムの光の演出を一般化して、観客席にはびこる身勝手なバルログ野郎どもを駆逐していってくれれば見ていて美しく一体感のある観客席も作れるんだろう。ただやっぱり、自分たちの意思で誰かを推したいっていう欲求もあって、それを満たすためには演出がすべてを握っているものは使いたくない。そういう個人での操作も可能で、けれども演出をしたいときには操作も可能な製品が、あるいはこれから浸透していきそうな気もちょっとした。どうなることか。

 そんな「第2回ライブ&イベント産業展」の基調講演にはアソビシステムの中川悠介さんが登場して今すぐに何かやろうよってなことを呼びかけていた。世界と日本とがネットでダイレクトにつながっている今、日本が話題になっている時にどんどんとアピールしないといずれ通り過ぎられてしまう。どんどんと世界に展開していって日本文化を紹介するも良し、日本へと呼んで日本の文化に親しんでもらうのも良し。そのために器として「もしもしにっぽん」というイベントを立ち上げて世界で実施しているし、日本でも去年に続いて今年も11月に東京体育館で開催することになったらしい。

 ただアソビシステムだけでは無理なんで、協力を広く呼びかけていてそのために講演会が終わった後、ロビーで長い行列が出来ているのも構わず1人1人と名刺交換を行っていた。軽いフットワークとオープンなスタンス。そして原宿というコンテンツ。もちろんきゃりーぱみゅぱみゅも。それらを総合させつつ新しい人たちを引き入れて一種の船団を作り世界へと行き日本へと招くようなことができれば、どこぞのクールジャパンなんていらないって気もするんだけれどどうなんだろう。それも含めて本当は、みなが協力し合えれば良いんだけれど。ジャパンエキスポだってフランス任せにするから余計なことが起こる。自分達で開ければ自分たちが見せたいものを見せられるのになあ。それが出来るか。そこまで行けるか。中川さんの頑張りにかかっている。独身になったの? そこはちょっと気になった。


【7月7日】 ポニーテールの日らしい。どうしてかは知らない。ただアニメーションや漫画のキャラクターでポニーテールの人を呼び出し紹介し合ったりする動きがSNSあたりで見られたけれど、個人的には今もっとも輝いているポニーテールといったら澤穂希さん意外にはありえないと思ってる。もちろん米国のロイド選手とかもポニーテールにしているけれど、サッカー女子日本代表を長く支えて中心として活躍し、たとえ試合に出られなくても代表メンバーから外されても、自分の立場をしっかりととらえ役割を考えて日々精進し、いざ呼ばれればそれがレギュラーでなくても自分に出来ることをちゃんとやるすごさは、スポーツ選手でなくても見習いたいところだろう。

 そして試合に出れば、押されていた試合を拮抗へと戻して日本に希望をもたらす。残念ながら点差は広がったままだったけれど、それでも引き離されなかったのは澤選手の粘り強い守備があり献身的な動きがあり、何より精神的な支えを全選手にもたらしたからだろう。そんな澤選手の試合での髪型がポニーテール。長い髪を縛って後ろにたなびかせ、グラウンドを疾走する姿は女神といって過言では無い。もうワールドカップでは見られないかもしれないけれど、リオの五輪は現役である以上は目指すと言っている。ならば本気で挑むだろう、その本気を僕たちは受け止め自分の生き方に役立てなくちゃいけない。生きよう今を、本気で、まっすぐに、前を向いて。

 強制性という文言を入れるとか入れないとか、日本語でどう訳すとか英語じゃやっぱりとかいった話が喧しいけど、根本として明治の産業革命遺産にどうして松下村塾と萩の城下町が入っているんだという問題について、外務省とか官邸とかがいったいどういう説得力のある説明をしてくれるかの方が実は興味深かったり。だって私塾じゃん、それもどちらかといえば政治結社的な。そこから高杉晋作が巣立って奇兵隊を作って藩政を握り倒幕へと動き、伊藤博文になる俊輔に井上馨の聞多も巣立っては明治政府を立ち上げたけれど、法律だとか経済が専門で何か産業的な発展に寄与したってことはない。同じ長州ファイブなら日本の鉄道の基礎を作った井上勝がいるけれど、別に松下村塾を出た訳ではない。

 主宰の吉田松陰からして英国戦を打ち払うための大砲をつくった訳でもないし、そうした工場が萩にあった訳でもない。萩からも松下村塾からも産業なんて生まれてないし生み出されてもないものが、どうして八幡製鉄所や三井三池炭鉱や軍艦島と並んで世界遺産に登録されなきゃいけないのか、ってあたりに現政権による無理押し的な空気が漂って辟易とさせられる。もしかしたらそれを通したいがために長崎の教会なんかを差し置いて、一緒くたにできる産業遺産を持ち出し、そこに松下村塾も混ぜたんじゃないかって勘ぐりも浮かぶ。本当に私塾を入れるなら、大阪にあって村田蔵六やら長与専斎やら福沢諭吉やらを送り出した蘭学の適々斎塾を入れるべきだろうけれど、検討された陰はみじんも見えないところにやっぱり無茶なゴリ惜しっぷりがうかがえる。

 その結果が寝た子を起こすような強制労働というタームの問題化。もしも本格的に動けば当然にそうした問題が立ち現れては議論の俎上に挙げられるってことは分かっていただろうに、それでも自分がやりたいことのためには全てを突破できると踏んだか、そうしたところまで頭が回らなかったか。結果として外務省も頭を悩ませ韓国ととりあえず手打ちをしながら了解まで向かったもの、が土壇場でこりゃなんだってことで頭に血でも上らせて、僕知らないもーんと投げては現場を困らせて、混乱を招いてそこで日本語と英語で表現を変えるといった荒技を出したものの、世界にはバレバレだという次第。そして過去にもなかった強制労働というタームを浮上させることになった。藪をつついて竜を出す。ポン酢としか言いようがない。日本に永遠の禍根を残してそれで自分は戦後レジュームからの脱却を図った英雄だと気取ってみせるそのポン酢ぶりをこそ、歴史家は語り継いで滑稽さの中に描いていくべきなんじゃじゃないかなあ。うん。

 旧日本軍ならまだ大本営があって、幕僚たちがいて大臣もいて、さらには天皇陛下という国家の統治者が存在していたから、誰かが責任の所在を認めて権限を行使すれば止まることができたし、実際に太平洋戦争は御聖断というものが行われて終戦へと向かい舵を切れた。でも新国立競技場の問題では、いったい誰が最高責任者で、誰が推進をしていてそして誰が止めると言い出せば止まるのかがまるで分からないというのが恐ろしい。なにやら開かれたらしい有識者会議とやらでも、そうした責任の所在を問う声に、帰ってきたのはザハさんのデザインを信じるだとか、頑張って間に合わせますと言った言葉で、聞かれたことに誰も答えていないし答えようとしない。それとも答えられないのか。聞かれたとをはぐらかしてはやりたいことに邁進するのは、どこかの総理大臣にも見られる傾向だけれど、それが国の中枢に蔓延している感じ。でもって何か起こってもその責任は誰もとらないという可能性。これでまた戦争が起こったら今度は絶対に滅びるな。それとも滅ぼすつもりなのか。参ったなあ。本当に参った。

 たぶん最初のステラボールで開かれた回には行ってないけど、新木場のスタジオコースとで開かれた回には行って、アビングドン・ボーイズ・スクールなんかを見てへえと思ったんだっけ。続くJCBホールはどうだったかなあ、って日記を掘ったらその日はもっぱらデザインフェスタへと行っていたようだった。そして横浜アリーナへと移ってからの「ANIMAX MUSIX」には、だいたい見物に出かけていってそこでSCANDALのあれはMAMIたすがこけたりしたのを間近で見て来たんだけれど、その後もちゃんと続くんだろうかと思っていたら、あれよあれよと続いて大阪での公演なんかも開かれるようになったのが昨年。そして今年もまた横浜と大阪で開催されるみたいで、その会見があったんで都内のスタジオへと出向いて、サンキュータツオさんと喜屋武ちあきさんの司会による出演者決定番組ってやつを見物する。

 いつもだったら出演アーティストがズラリではなくても何人か揃うんだけれ、ど今回は、七夕らしく短冊から手紙をとってそこに書かれたメンバーリストを読み上げていくといった趣向。そして小野賢章さんと黒崎真音さんというそれぞれに横浜と大阪に登場するアーティストが登壇してきて、イベントへの意気込みを語ってくれた。というか7時間とか長丁場になるイベントで、どうやって空いた時間を過ごすかといった難問に対して小野さんは「寝具」を要求していたのが面白かった。寝て過ごせば出番もあっという間に。ただ一方で友だち作りもしたいと話していて、それなら寝ていたらダメじゃんとサンキュータツオさんい突っ込まれていた。寝ながらも出来る友だちは……ってそれはちょっとシチュエーション的にヤバいかな。でも小野さん、どんな歌を歌うのかが楽しみ。

 黒崎さんは大阪での出演で、去年は肉まんを食べたそうだけれど今年は「串カツ」をリクエストしていた。いっそ屋台を連れてきて楽屋に置いてケータリングをするとかすれば、誰もが暖かい串カツを味わえるけれど、それだと飲み始めて出演してくれなくなるアーティストも出そうなだけにいろいろ工夫が必要。二度漬け禁止とか、ってそれは屋台のルールで出演者をステージに向かわせるルールじゃ無いか。気になったのは横浜に出演が決まったMay’nさんで、ほとんど皆勤賞的に出ては大トリを飾ってくれているんだけれど、今年は喉の療養があって今はお休み中。8月だかに日本武道館で復活が予定されているけれど、それを無事に乗り切り11月のANIMAX MUSIXに立ってくれるかどうか。部長のあの圧倒的な歌があってこそのANIMAX MUSIXなだけに是非、絶対の復活を期待して祈ろう。


【7月6日】 フットサルみたいだったよ。というのがまずはFIFAサッカー女子ワールドカップ2015カナダ大会での決勝「米国代表対日本代表」の冒頭に繰り広げられた日本の失点シーを見た感想。コーナーからグラウンダーで入れられたボールをほとんどフリーの選手が外からドッカンと蹴り込むのってフットサルだと割と見る光景というか、フットサルなら浮かせるコーナーなんてあり得ないからそれが普通。けど普通のサッカーでは芝の状態なんかも影響するんであり得ないプレーを人工芝という環境を鑑み、また高さにのみ注意をはらっている日本代表の意表を突く意味もあって選んだことが米国代表のあっさりとした先取点とそれから2点目を呼んだんだろう。

 浮き球なら浮いている間に誰かに張り付けるけれど、グラウンダーだと走る相手を見なくちゃいけなくて、どうにも対応しきれなかったような日本代表。ばたばたとしているうちに3点を奪われ、反撃しはじめたもののフロックともいえそうな遠距離からのループが前のめり気味だった海堀あゆみ選手の裏に落ちて4点目。これで万事休すと普通ならなるところを、我らがなでしこジャパンは諦めないで攻撃を続けては最前線でうまい体の使い方をした大儀見優希選手が、鉄壁を誇るホープ・ソロ選手のワールドカップでの無失点記録更新を阻む得点を挙げて3点差。そしてディフェンスリーダーの岩清水梓選手を外して澤穂希選手を入れる意表をついた交代を行い、試合を落ち着かせることに成功して後半での反撃を期待させる。

 そして後半は宮間あや選手のフリーキックが相手に触れてオウンゴールとなって2点差まで追いすがり、けれども1点を奪い返されまた3点差とはなったものの振り返れば前半の途中からは五分五分の戦いぶりって奴を見せて、その底力を示して見せた。なるほど4点まで来て気が緩んだところがあったかもしれないけれど、それでも無失点の記録を消滅させるほどの緩み方はしていなかったはずで、そこにまだ日本代表のつけいる隙って奴はある感じ。だからもし、次に当たることがあったとしたら前半のプレッシャーをどれだけ頑張ってしのぎつつ、ボールを保持してパスを回しつつ前へと攻めていけるかを、研究して臨む必要がありそう。それは決して不可能ではないし、現にやってのけたとも思う。

 ただやっぱりパスの速度は圧倒的に米国の方が速かったし、受けたボールをこぼさず奪われないで足下におさめ、それを走り込んでいる選手にパスする精度も高かった。日本はパスを無理に出しては届かず奪われるケースもあれば、弱くて届くまでに詰められ次の攻撃につなげられないケースもあった。そういう部分を改善していけばもっと得点も奪えるし、リズムも作れるんじゃなかろーか。そうした意識を残る半年で高めつつ来たるリオ五輪の予選に臨んでほしいもの。出るのは当然というプレッシャーもあるだろうけど、出なければまた来る地獄の日々を思い起こして頑張って欲しい。それまでは澤穂希選手には代表を離れて欲しくないなあ、ワールドカップはこれが最後でも五輪が最後って訳じゃないよね、そうだよね。

 気になるのはそんな澤選手の去就も含めたメンバーの選び方かなあ。ほとんどと言って良いほど世代交代が進まなかった前回2011年のドイツ大会からこっち、実力は示せても次へのビジョンはまだ示せていない。五輪は絶対の出場を課せられた中で、可能性を高める意味から今のままでいくのか、それとも来たる2019年のワールドカップを見据えて入れ替えを進めるのか。それが出来なかったからこその2015年だという声もあるだけに判断が難しいところだけれど、米国相手にポストプレーが通用した菅澤優衣香選手を軸にするような戦いも一つ見えたし、出場した1試合を無失点でしのいだ山根恵里奈選手も代表への定着が進みそう。

 そしてもちろん岩渕真奈選手のドリブルという武器も活かす方向で選択を進める中に、今回は涙を呑んだ浦和レッドダイヤモンズレディースの吉良知夏選手とか猶本光選手といった面々とか、ヤングなでしことかつて言われた今はノジマの田中陽子選手なんかも入ってくると思いたい。あと岩渕選手に負けないドリブラーとして評判になった横山久美選手とか。2部だけれどAC長野パルセイロレディースで得点、稼いでるんで一気の抜擢といって、代表での自信を付けさせてあげて欲しいなあ。10年前の5月21日にニュージーランドを相手にした試合で大儀見優希選手(当時は永里姓)が2点を決めた試合をこの目で見た者として、若い選手が試合に出て実績を積むことに重要性は強く感じているから。まずはだからなでしこリーグを見に行って、女子サッカーへの人気を衰えさせない努力をしつつ、選手たちの活躍ぶりを確認しつつ、若い才能の選出を待とう。

 それは米国代表もいっしょかなあ。ハットトリックのアレックス・モーガン選手こそ26歳とまだ若いし、相棒のカーリー・ロイド選手も25歳とピチピチで、次のリオ五輪でも大活躍しそうだけれども一方で、ミア・ハム選手に続くサッカー米国女子代表の伝説となったアビー・ワンバック選手は澤選手と同世代でこれでワールドカップは引退となる予定。続く才能が果たしているのかどうなのか、そこが気になるところではあるものの、日本とは裾野が違いすぎる環境からきっと大勢の候補が日々生まれては研鑽の果てに代表のユニフォームをまとって登場してくるんだろう。誰もが丈夫な下半身を持って技術もあり体力ある。そんな選手が戦術を覚えて挑んできたらアジアのサッカー選手なんてかなうのか? かなうと思わせるためにも日本はさらに技術を磨き戦術も高めて挑んで欲しいもの。次はどこで戦うか。リオ五輪の決勝か。

 事前の協議で合意したと見せかけておいて、現場でひっくり返したのはいったいどっちなんだろうか。ユネスコでの世界文化遺産登録に関連して、日本の明治以降の産業革命に関連した建物とかをどう評価するのかってところで、大正から昭和に入って以降だろうけれども植民地化された地域から来た人たちに、労働が強いられたんじゃないかって部分で韓国が反発したのを受けて、文言をどうするかって話し合いが事前に行われていたのは周知の事実。それが合意を見ての本会議への上程となった以上は、それぞれが納得する文言に落ち着いたって見るのが妥当なんだろうけれど、それが本番での混乱となったのは、韓国側に納得できない状況が生まれたって見るべきか、それとも韓国側が事前の協議を超えて無理難題を言ってきたのか、そのあたりが見えないのがどうにももどかしい。

 さすがにここで無茶を言えば反発も食らうだろうし、自分達が推している百済関連の世界遺産登録も実現しないと思った韓国側が、急に無理を言ったとは思えないと考えるならば、ひっくりかえしたのは日本側で、それをやったのはいったい誰なんだ、官邸なのんだろうか、やっぱり負けを認めたくない安倍ちゃんだったんだろうかなんて想像も浮かんでくる。違うよ、最初から文言なんてないのに急に韓国が言い出したんだというのも想像の範囲にあるけれど、結果として表明された文言から想像するに、労働の強制性という言葉を入れるという合意はあったんだろう。それをそれぞれの言語で表現する時に、どいういう言い方をするかでのすれ違いがあったみたいで、とりあえず日本では「仕事をした」という風に発表はしたけれど、英語だと「forced to work」で誰が呼んでも強制的に仕事をさせたってことになる。内に認めず外に認める2枚舌をやってでも、自分の口から罪を認めない為政者らしからぬだだっ子ぶりに、そろそろ世界もポン酢だなあと気付くんじゃないかなあ。どうでも良いのか日本なんて。

 Kickstarterでもって資金が募られ作られ完成した「リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード」に一応は出資をしていたんで、映像をネットで見られるようになっていて早速見たらこれがやっぱりよく動く。ストーリーもしっかりと練られていて、魔女狩りがかってあった街を舞台にその歴史を再現するようなイベントが行われているのをひっくり返そうとしてアッコがひとり頑張るんだけれど空回りするのを、周囲が諫めつつ認めもしながら頑張っていくという展開に自分はわがままなんだろうかという自省があり、誰かのわがままを許してあげるのも愛なのかもって思いもうかんで優しい気持ちになれる。大団円の先に来るわかり合えたみんなの笑顔がとても嬉しい。日本でも上映されるみたいなんで大きなスクリーンでも見たいもの。ニコチャン大王でニャロメの大竹宏さんも大活躍しているから、その悪者でありながらも憎めない声を存分に堪能しよう。


【7月5日】 喋る何かが潜んでいるからあんなに大きいんだろうかと、宮野真守さんの声が出てくる一ノ瀬はじめの胸とかに見入ってしまった「ガッチャマンクラウズインサイト」。でも主人公ははじめではなく新潟県は長岡市で花火師の曾孫として曾祖父を目指す三栖立つばさみたいで、田んぼの上に降りてきた円盤から現れた謎の宇宙人ゲルサドラと接触しているうちに現れたJ・J・ロビンソンからMOLESKINEの手帳、じゃなかったNOTE受け取りガッチャマンへと変身していく可能性を見せてくれた。でもそこは長岡、平和な町でいったい何と戦うの? 世界を脅かしている赤いクラウズ「BAPE」を相手に戦うにしては遠すぎるし…。まあきっと場所も前の立川へと戻ってくるんだろう。でないの爾乃宮累ちゃんの出番がないし。メインヒロインの。

 ってか橘清音がつばさのガッチャマン化を聞いて確か「また女」って言ってたけれども前の「ガッチャマンクラウズ」でガッチャマン入りした累のこともつまり清音は女の子だと思っているってことなのか。いや女の子だし。どう見たって。付いてたって。そんな状況も確かめたい一方で、主題がいったい何になるかも気になるところ。「ガッチャマンクラウズ」ではネット上に存在する大勢の人の善意が世界を平和にもすれば悪意が突っ走って世界を不穏にもした、そんな狭間に介在して純粋な悪意すらも受け止め飲み込んで一ノ瀬はじめが勝つまでを描いていたけれど、今回はゲルサドラの作用によって人の心が吹き出しのように色と形で見えるようになる設定の上で、同じ思いを持つことが平和になるっていう主張を見せつつも、はじめとそして花火師の爺さんだけが自分を保ち続けている状況がひとつの鍵になりそう。

 それは一種の同調圧力による一枚岩の平和じゃない、誰もが自分を貫きながらも優しさは失われない世界ってのを、目指すべきだってメッセージになるのかな。そのあたりも含めておいおい。総理大臣まで端末からのボタン投票で選べるとかいった設定も、利便性の一方で軽さと同調圧力とが重なり合ったところに生まれるポピュリズムであり専制主義なんてものを浮かび上がらせる展開に絡んだりしたら今の政治状況をも捉え未来を伺わせる意味で結構重要。見ていこうその行方。とりあえず「BAPE」の正体が不明だし累の活躍もまだないし、うつつちゃんもうつうつしている割にはまだ水着になってない。早く立川へと戻ってそんな日常を見せて欲しいもの。でも長岡の花火大会がアニメーションでどう描かれるのかにもちょっと興味。っていうか長岡ってあんなに田んぼと畑の町なのか。村なのか。

 そうなっては嫌すぎる未来を描いたアニメーションの、そういう未来へとだんだんと移行していく過程を描いた吉上亮さんによる「PSYCHO−PASS GENESIS2」(ハヤカワ文庫JA)は精神汚染を引き起こしては大量の人間を殺してきた元上司の八尋を追って征陸智己が東京の街を駆け回る。といっても潜在犯化してしまった征陸は収容所にあって外には出られず、妻もやがて尋ねてこなくなった孤独の身。どうやって八尋に迫ったかというとそこに現れたのが謎めく美少女、って少女という歳でもないのか。巌永望月とう名の彼女は厚生省の公安局に所属して潜在班を追うチームの監視管で、八尋を知り捜査の能力も高い征陸をスカウトに来たという。そうしてアニメの「PSYCHO−PASS サイコパス」に登場した、ベテラン執行官にして宜野座という若い監視管と因縁を持った征陸智己が誕生したんだけれど、望月がアニメの世界には登場しないのが気になっていたら理由があった。

 ではいった誰なんだ? それによっては活躍する女刑事への萌え度合いも変わってくるけど一方では征陸への理解が深い方の壬生壌宗と振る舞いとも関わってくる話なだけに、いろいろと考えてみたい部分。過去にそうなる可能性があって、そして正義感が強く征陸への関心を持っていそうな人物っていたっけか。まあそれもおいおい考えよう。厚生省に警察が飲み込まれたことへの不満からの暴走かと思ったら警察にすくっていた汚職幹部を守る政治的な謀略へと移ってそれが、一網打尽の大粛正を意図したものだといった展開のスケールアップ感はなかなか。打たれても倒れても負けず食らいついていく征陸の刑事魂も見事。それが息子には分かってもらえないというつらさを飲み込み、生きていた彼が最後に得られた平穏を改めて思いその生涯に喝采を贈ろう。しかし「PSYCHO−PASS」のその後の常森朱とか世界とか、どうなっていくかがまた見たいなあ。誰かが読ませてくれても良い。書かないかなあ吉上さん。

 これは凄いと小説が出たときにも思ったけれど、まさかアニメーションになるとは思わなかった赤城大空さん「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」が実際にアニメーションになって小説のあの感じをまるまるっと映像化していてこれまた凄いと驚いた。伏せ字もたっぷりの展開にはエロい映像もいっぱい重なって見る人を選びそう。それこそあの世界の学生のように健全な環境で育てられた子供が、いきなり見たら登場人物たちといっしょになってあふれ出る本能に誘われて官能の世界へと誘わされそうだけれどそもそもがTOKYO MXの深夜アニメを純粋無垢な少年少女が見るはずもないのだった。だから今さらな話なんだけれどそれをやっぱり映像で見せセリフで聞かせるのは凄いなあ。「雪原の青」を演じた石上静香さん、偉い。「健全ロボダイミダラー」でもエロ炸裂だったりしてそっち方面のプロとして育っていくんだろうか。小林ゆうさんの後を継ぎ。いろいろ期待だ。

 あとアニメーションのできが良いんでこれも「ダンジョンに出会いを求めるのは街合致得るだろうか」と同様に小説版の売上げを加速させそう。まさかこれほどのエロを映像でやっているけど小説の方はもうちょっとおとなしいんじゃないかと思って開いて読んで驚くんだ。「お」が「ち」で「ん」に「ぽ」と「ーーーーーー」な連呼に。そんな小説版の第9巻は想像妊娠が打ち破られて精神的に衝撃を受けた生徒会長のアンナ・錦ノ宮が引きこもってしまった一方で、SOXのメンバーは国会図書館の地下に眠るというエロ本の類を奪取しに潜入するもののそこい現れたのが妖艶な美女の藻女であり彼女に操られたか洗脳されたアンナ。狸吉大好きだったはずのアンナが「雪原の青」の正体を知りそして狸吉にも捕縛が及びSOXは解体の危機を迎えるもののそこに事件。政治家がとんでもない言葉を叫び始めて日本は一気に大混乱へと向かおうとする。学園でのエロワード解放運動が一気に国家的スペクタクルへとエスカレートしていくこの結末、どこに落ちるのか。次巻あたりが鍵かなあ。

 ジャパンエキスポに韓国がーっ、とかいうニュースがこの時期の風物詩になっているけど、ジャパンエキスポなんてフランス政府がやっている訳でも日本政府が共催している訳でも確かなくって、民間人がはじめたお祭りみたいなもんでそこに韓国が入り込んで来ることへの身の処し方として、日本じゃねーと蹴飛ばすのは物の道理だし日本から出展してもらっていてそういう振る舞いは人倫にもとると主催している人らに異論は差し挟めても、いやいやでもそれでは足りないんで商売として受け入れそれでお金を落としてくれるならそれもありじゃんと言うのも経済であって、そういう混在やら混乱が嫌なら日本がイニシアティブを持った見本市を日本のお金と人脈でもって海外で開けば良いんであって確かそんなことを増田セバスチャンさんも国立新美術館の館長さんも話していたのを思い出したりしたり。とはいえそうやって行われたのがくまモンのカンヌ行きではあるんだけれど。


【7月4日】 もう2回も見たから映画館でも上映はパスしても良いかなあとか思っていたけど、アリ・フォルマン監督がスタニスワフ・レムの小説「泰平ヨンの未来学会議」を元に映画化した「コングレス未来学会議」が上映されているシネマカリテのサイトを見たら、3日にスタニスワフ・レムの作品を翻訳したこともある翻訳家の沼野充義さんと字幕監修を担当した柳下毅一郎さんが登壇して、上映後にトークを行うってんで朝方に最前列のチケットを確保。スクリーンに近すぎるかどうか分からなかったけれど、時間が来て中に入ったら案外に小さいスクリーンだったんで、最前列で見てもちょうど良かった感じだった。映画ってやっぱりスクリーンを浴びるような位置で見てこそだって思うし。

 でもって3回目となった「コングレス未来学会議」でようやく大体の流れを把握。初見だといったいどこに連れて行かれるか分からない上に、アニメ−ションのパートに入ってからのサイケデリックに変幻自在な展開が、自分の立っている位置を見失わせがちにしてしまう作品になっていて、自分の場合は初見となった昨年秋の東京国際映画祭絡みでの上映で、そこはどこであれは誰といった感じになって流れを追うのが精一杯になってしまった。それを前回、東京アニメアワードフェスティバルでアリ・フォルマン監督と山村浩二さんとの対談も付いた上映を見て、そういう出入りがあったと理解できた。それでもまだラストシーンとかどうなったか覚えきれなかったけど。

 その上で見た3回目だったんで、冒頭から半ばまでの実写パートは別にして、アニメ−ションパートへと入って以降の一体どこが幻想で、どのあたりがそれでもある程度は現実をトレースしていて、それが空想なり妄想へと入って、やがて幻想の現実に戻ってそして、実写としての現実に回帰してその後にいったいどこへと向かったのかを、ほぼほぼ理解できた。なるほど、人の心が何を思うかで変化するその主観的な世界の見え方、そして反乱時に撒かれたという幻想を見せる薬の作用か何かで浮かんでくる、アニメーションとしての幻想のさらに奥にある虚構の出し入れなんかのタイミングも把握しつつ、ヒロインのロビン・ライトがどういう心理でもってそのシチュエーションを捉えそして、何を目的として進んでいるかを追いながら観ていくことができた。

 結果、それが幻想であっても妄想に溺れているに過ぎなくっても、見たいものを見ている方が人は心地良いんじゃないかって思ったりもしたけれど、それでもやっぱり人は決してひとりじゃないし、ひとりでは生きていけなくって、その意思からコミュニケーションを捏造して溺れていられても、やがて誰かとの関係性を求めて他者を探すことになるのかなあ、なんてことも感じたりした。最愛の家族ならなおのこと、探さずにはいられないというか。そのためには身を最愛の人へと変えてでも、相手に近づき分かってもらおうとするというか。あそこは、自分の思いがその身を選ばせたのかもしれないけれど、でもやっぱり出会った以上はつながりを求めての“変身”だったと考えたい。

 そうした誰かを愛し、誰かを求めて進んでいくという1本の筋を除いたところで話題になるだろう、役者という個性がデジタルに置き換えられていく可能性、やがて個性すらデジタルの中から創造され得る可能性なんかは、すでに現実のものになっている。あり得ないキャラクターが実写の人間と合成され、登場している映画が多々ある状況の、さらに先を伺えば現実の役者が完璧なCGとなってそこに配置され、演技をしていることだって、今の技術だったら十二分に可能だろう。そこにパフォーマンスだけを撮るアクターが必要かどうか、何もなくても合成だけで人の動きも表情も完璧に再現できるCGの役者が、人間の役者との間に不気味の谷を生じさせないで共存できるようになるか、ってあたりは目下の課題でもあり期待もふくらむところ。それが可能になったらもう、「コングレス未来学会議」の前半部分は空想科学から現実の技術へと変わって不思議も驚きも感じなくなるだろう。

 後半部分の、人が脳内に幻想を抱いてそれを現実として受け止めて生きていきつつ、客観的に見てそうした幻想に溺れた集団が、事故もなく飢えることもなく存在し得るかといった部分については、ちょっと検討が必要かも。ただ突っ立っているだけで、それこそ荘氏の““胡蝶の夢”のような永遠を、瞬間に繰り返していて客観的な次の時間には命を失っていても、幻想の主観では長い長い時を生きているのかもしれない、それは果たして幸福か、っていう部分は主観が幸福ならそれで良いと感じる一方、客観を理解できる立ち位置ではやっぱりちょっと辛いかもって感じたりもする。そうしたギャップを人類は解消しきれるのか、できれば幻想に溺れ続ける暮らしも生まれ、受け入れられて主流になっていくんだろう。ちょっと考えたい部分。そのためにはあともう1回くらいは見ておくか。前屈みになった時のロビン・ライトの娘さん役の人の胸元とか、結構目にグッとくるし。ジョブズもどきの社長の後ろでブリーフだけはいて太鼓を叩いているひげ面のメガネの2人がどうにも庵野秀明さんに見えて仕方が無いし。

 本屋さんの店頭でパッと見かけたファッション雑誌らしい「Soup.」が「めがね少女」って特集だったんだけれど、その表紙とか中をひらいて見た特集にどうにもコレジャナイ感がつきまとう。その理由がうまく説明できないんだけれど、言葉にするならつまりは美少女がただメガネをかけました的すぎる企画に、メガネをかけた委員長のキツさであるとか、メガネがずり落ちる少女のちょっぴりダサげだけれどでもそれがキュートといった、幾重もの心理的検討と解釈を経て、そこに”美”を見いだす作業への入り口で、閉め出されているような感覚を覚えて戸惑うから、なのかもしれない。美少女とめがねが足し算になっても、そこにグッとは来ないし、似合ってないものを掛けさせ無理矢理引き算するのももってのほか。少女がいてメガネがあって掛け合わされて混ざり合って生まれる多次元的な何かが人をハッとさせる。それがめがねっ娘というものなんだよ、たぶん。というか「Soup.」はその顔にその眼鏡が徹底的に似合っていないことが問題なんだろうなあ。うん。

 前回に続いてTOHOシネマズ日本橋での舞台挨拶が当たったんで「コードギアス 亡国のアキト 第4章 憎しみの記憶から」を見に行くと前から3列目くらいだった。スクリーンは大きくて全身に映像を浴びるように観られる上に、舞台挨拶も隅っことはいえ出演者を近くから見られてなかなかの僥倖。松本隆さんのライブのチケットが当たって運は使い果たしたかと思ったけれどもまだまだ残っているみたい。でもって作品はといえば冒頭から空中要塞を舞台にした跳んだり跳ねたりのバトルがあって、そこでアシュレイとアキトとの決戦から意外な展開があったりしたものの事件が起こっていったん引いて、そして地上へと部隊はうつってレイラが自分はアルテイシア・ソム・ダイクンだと……じゃないレイラ・フォン・ブライスガウだと明かして騒然とするパリを沈めたもののすぐに平穏は裏切りを呼んで喧噪を招く。

 そしてレイラは城でもって攻めてきたシン・ヒュウガ・シャイニングと彼が操るvエルキンゲトリクスを迎え撃つといった展開。とりあえず足止めはした物の総力戦へと向かおうとしている展開でもって1つ2つ大きな出来事が起こってそして続きは来年公開の最終章へと引き継がれる訳だけれどもとりあえず、最後の最後まで香坂アヤノのおっぱいが無事ならあとは何がどうなったって気にしない。可能ならソフィさんほか「wZERO」のオペレーターの女子もまとめて無事ならそれで良いけどもう1人、加えるとしたらジャン・ロウにも生き残って欲しいかなあ、スリムで胸は薄いけれどもお尻はあれで結構丸い。気になるといえば前回に暴れようとしたものの押さえつけられたルルーシュめいた兄ちゃんが、まるで活躍もしない状態が続いていること。いったい何しに出てきたんだ。でも本編の展開がああならきっと、そこへとつながる布石も打たれるんだろう。さらに本編とのリンクもあると嬉しいかなあ、日本解放後のユーロピア共和国連合との関係と、そこでのレイラの役割とか。アヤノと紅月カレンとのおっぱい対決とか見てみたいし。見てみたいよね。

 クラウドファンディングに参加した人を招いて今の状況を知らせるという「この世界の片隅に」の制作支援者ミーティングがあって、本日夜の部に参加して出来上がったパイロットフィルムを見て背筋が伸びる。こりゃ凄い。すずさんの表情が仕草がどこまでも素晴らしい。こくっとかしげた首も向かう視線も止めて抜群動いて完璧。あの漫画の世界が色を持ち、動きを伴ってそこに現れる。だからついつい見入ってしまう。すずさんを支える空間をどう描くかへの拘りは周知のとおりで、とてつもない資料を集めて再現に務めてきたってことは、これまでのイベントなんかでも語られている。ただそれは絵としてのリアルさを追究するためではなく、あの時代のあの空気の中に架空だった漫画の主人公が、登場人物が現れて生きて息づいているってことを見せようとしたもの。それが数分のパイロットフィルムにしっっかりを再現されている。

 もしこれが2時間弱なりの映画になった時、僕らはきっとその時代と繋がれるだろう。ミーティングで片渕須直監督から話されていたのも、そんな過去の時間と繋がれる感覚の大切さ。建物ひとつ風俗ひとつをおろそかにしないで再現していくことで、その時代がフィクションであっても現実となり時を超えて今とつながり翻ってその時代の関心を呼び共感を誘う。だからこそ、その時代に生きた人たちの心情が今に響き、体験が今に伝わってあの時代の何を尊び何をもう繰り返してはいけないのかと多分、思えるようになるのかもしれないと、ミーティングで片渕須直監督が話していたことから考えた。時間も空間も地続きなのだ。そう思わせるという。

 そうすることによって、いらぬ思想やうっとうしい主義の介在しない過去への純粋な自省というものが生まれるのかもしれない。左にしろ右にしろ、あの時代のあの空気、あの心情とはきっとそういうものだという思い、そうあって欲しいという思いが思い入れになり思い込みになり社会性と結託して、偏光を経た光景として浮かび上がってくる。それを真とする声もあれば虚とする声もある。主張のためなら絵空事を許す風潮はあるけど、行き過ぎれば辟易とした感情を呼ぶ。そして過去をただ主義として省みたい人に利用される。逆に省みたくない人は別の物語を持ち出して対抗する。その間に乖離が生まれた結果として今、過去は自己主張のための材料と化している。

 そうではない、日常だったあの時代を映像として蘇らせることによって今一度、自省のための出発点が生まれる。 そんな作品となれば良いなあと「この世界の片隅に」を作っている人たちの思いを聞きながら思ったのだった。とはいえこう書くことすらある種の政治性を作品に与えてしまいかねないのが人間の性というもの。見る人はそうした綱引きに巻き込まれず純粋な目で見て欲しいなあ。さてもどういう映像になるのか。すずさんの表情や仕草を追っているだけで時間が経ちそうでそれを見返しに20回は映画館へと通いそうな気が今からしているアニメーション版「この世界の片隅に」。気になる声は誰かなあ。音響とかも背景に負けないリアルさをどなたが手がけるかなあ。いろいろ楽しみ。


【7月3日】 池袋で異常な奴らが大騒ぎといったら、成田良悟さんいよる「デュラララ!!」のシリーズが今の時代だと筆頭で、少し前だと石田衣良さんの「池袋ウェストゲートパーク」なんかが入ってきたりするんだけれど、どちらも大御所感が漂い始めて後続なんてあり得ないと思われていた池袋物に新規参入してきた勇気ある1冊。ノギノアキゾさんという人によるその名も「ジョーカーズ!!」は、スマホのゲームなんかも絡めて人に異能が与えられ、なおかつソーシャルでの評判によって能力が増しもすれば衰えもする設定を加えてUGCな時代、ユーチューバーな状況に起こる悪目立ちの喧噪と、劇場型の犯罪と、過剰な自意識の暴走による破壊なんてものを見せてくれる。

 我門という名の少年は、ビビリのリアクションが良すぎるからと池袋一帯を根城にした「IKB椿屋ポッセ」という集団につけねらわれては、「ジョークスター」というアプリによって与えられる不思議な力を使ったイタズラを仕掛けられ、そしてその姿を是世界に中継されてちょっとばかり有名人になっている。集団のスキルは結構凄くて我門はいつも逃げ惑うばかり。それも世間に受けていたけどある時、ひとりの少女が彼に手をさしのべる。彼女は実はアイドル声優で、ネットに男と会って騒いでいる画像が出回ったのを見た狂信的なファンによって殺害の予告をされていた真っ最中だった。

 彼女にとっては身に覚えのないことで、だから逃げずに結構なスキルを操り彼女を追い詰めるストーカーに立ち向かう姿を見て、我門は守ってあげたいと思ったけれども彼のスキルはまるでたいしたことがない。ただ不思議なことに、1人で1つしか使えないスキルを我門は2つ使えてしまった。それを見とがめた「IKB椿屋ポッセ」が我門に与してストーカーを相手に大暴れ。そん中で我門も少しずつ成長していくといった展開が池袋を舞台に繰り広げられる。ど派手なバトルもあれば勇気づけられるドラマもあってあってと読ませるアクション&スラップスティック。イタズラよりも感動をこそ人は求めているんだとも分かってこの世界もまんざらではないと思わせる。結局我門の2スキル使いの秘密は不明。そして問題も山積みなあけに続いてくれると嬉しいけれども果たして。

 7月に入ってアニメーションの新番組とか始まっているけど、見たいのが「STEINS;GATE」だったり「蒼き鋼のアルペジオ −アルス・ノヴァ−」だったりもうすぐ始まる「ガールズ&パンツァー」だったりと、前に放送されて評判になったものばかりというのもある意味で、視聴者というフィルターがかかってちゃんと支持されるものが今一度、再放送されて視聴されてパッケージの販促にもつながっていくってことの証明で、つまりはちゃんと良い物を作ろうぜってことなんだけれど、それでもパッケージを買おうかと迷ってしまう辺りに、最近の物価の上昇と我が収入の乏しさが見えてげんなりとする。

 昔は今よりもらってなかったのに、毎月5作品くらいのレーザーディスクを買ってたんだよなあ。それが今は1作品も買ってない。最近買ったのって劇場版の「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」で、近く買うのは「コードギアス 亡国のアキト第3章 輝くもの天より堕つ」で予約したのは「Fate/Stay Night 【UBW】」のBOX2といったところ。テレビで見て面白いというのもあるんだけれど、でもパッケージを買いそろえようって気に至らないはどういうことなんだろう。気分かそれともテレビで見たんで十分という感じか。。やっぱり値段かなあ。2話で7000円とかするものなあ。

 「ヤマト」は映画で1本買えばそれで終わるしこれまでのシリーズも買っていたんでその流れ。「ギアス」と「Fate」も同様に買い続けているんでおつきあいだけれど、この春に放送されたものもそろそろ出始めるけど、何かを買うかというと……「血界戦線」には期待したものの、テレビ版はストーリーが僕の見たかったものとちょい、ズレているんだよなあ、というかまだ終わっていないんで判断すら難しい状況だし。最終回が長くなりすぎたんで放送しませんなんてこと、普通はあるはずないよなあ。総集編まで挟んでそんな言い分が通るくらいに恵まれた作品ってことなんだろうか。ノイタミナの「パンチライン」は設定上からちょっと欲しいかも。あとは再販売されるという「ガールズ&パンツァー」の初回限定豪華版を買いそろえることになるのかなあ。7月からはそうした候補に何か入ってくるかなあ。

 あるいは「城下町のダンデライオン」はどうかと思って見たけれど、ヒロインとして登場している花澤香菜さんが言った「パンツが見えちゃう」のセリフを延々とリピートした特典ディスクがつくなら買ってもいいかなあとは思ったものの、作品としてシリーズを購入売るのはちょっとないかなあといったところ。DVDで全12話が入って9800円ならあるいは。ってそれは安すぎるけれどもパッケージとして買って保存するより、1度見てああ面白かったで流して良い作品といった気はする。「食戟のソーマ」もそんな感じに見てはすぐ消してるし。

 「青春×機関銃」はというとうん、男の娘が出ているってだけでアドバンテージはあるけれど、それが露見していろいろと大変といった描写へとは向かわなさそうなんで態度保留。っていうかメーンはサバゲーでその使い方なり戦術なりが描かれ勉強にはなるんだろう。でも男子の格好をしたヒロインはそれを意識されることもなく、当人が意識することのもないままドタバタと進んでいくとう展開が予想されるんで、これも見ては蛍ってヒロインがあたふたする様を見るのが良いのかも、とりあえず最初に学校でカツアゲをやってた生徒を瞬殺する場面の絵は良かった。良く動いてた。そういう見所が積み重なった時に改めて考えよう。

 ポン酢の一言で終わってしまっても良い話だけれどもネタがネタなんで問題は根深そうな琉球大名誉教授による朝日新聞提訴に関するニュース。ブログから言葉をとられたって名誉教授は主張するけどそれを報じる新聞が「無断で引用」とか書いているのがまず笑止。引用っていうのは用件さえ満たせば無断でも構わないってことになっている訳で、そうでなければ本の言葉とかを引くときにいちいち著作権者に断らなくてはいけなくなってしまう。その新聞じゃあ1面おコラムで毎回のように著作から言葉を引くのを枕にして、政権批判だの中韓罵倒だのの文章を作っている訳で、それもまた立派な「無断引用」。さらいいうなら版元もページ数も書いてない引用は用件に少し足りないんだけれどそんなことは誰も問わない。常識の範囲内だから。

 相手がその引用はちょっと筋が違うと訴えたところで、日頃から他の媒体なんかでも盛んに主張していることなら引用にすらあたらず、無断かどうかはまるで関係ないのにそこに問題の力点を置いて報じようとするから唖然となる。なおかつそうやって名誉教授が守ろうとした名誉がオカルトの領域に入っているEM菌について朝日新聞ではそれを批判する論調で取り上げていて、推進する名誉教授が反発するのは分かるけれども世間一般の良識と常識、そして科学的な論拠を土台にするならEM菌を真っ当に取り上げるのはいろいろと工夫が必要になる。土壌改良についてはある程度効果はあると限定するといった具合に。

 でもそうした提訴を報じる新聞はEM菌がどういう評価を受けているかを論評しないで、ただ朝日の横暴を訴えた行為を後押しするようなスタンスだから突っ込まれる。いくら敵だからってその敵をすべて味方とするのは問題だらけなんだけれど、そういう自制も検証も働かないで、敵の敵は味方だと直感して脊髄反射で報じてしまったんだろうなあ。そうと気づいて改めればまだ救いはあるけど、そう振り返る頭があるとも思えないし。それともEM菌は正しいと思っていたりするのかも。永久機関を報じサムシンググレートやらインテリジェントデザインやらを推進してきた実績もあるから。やれやれ。


【7月2日】 ちゃんと目覚めてFIFAサッカー女子ワールドカップ2015カナダ大会の準決勝、日本代表対イングランド代表ってのを見始めたけれど最初のうちこそちゃんとパスが回って飽いてゴール付近まで攻めていられて、そうした中から速攻めいたものも出てそして有吉選手がペナルティエリアに入ったかどうかってところで倒され幸いにもPKを獲得したのを宮間あや選手がじっくりと、そしてしっかりと決めてまずは先制。あれだけのボール支配率もあるならこのまま逃げ切りかと思ったのもつかの間、逆にファウルをとられて相手にPKを与えてしまって1対1の振り出しに戻る。そして後半。

 イングランド代表の圧力が高まって戻しても戻しても中盤で奪われ攻め返されるような苦しい展開にこのままではいつか失点もやむを得ないと思ったものの、運もあったし実力もあっってゴールを割らせずこのまま同点で延長突入も覚悟したその時、川澄選手が入れたクロスを大儀見選手と併走してゴールに戻っていたイングランドの選手が足先に当ててしまってそれがクリアにならず自ゴールへと突き進んではクロスバーに当たって跳ね返ってゴールラインを割ってオウンゴールとなってしまった。なんという残酷。なんという悲劇。当人の後悔たるやきっと誰の予想も超える深さと強さがあるだろう。流石に帰国してマフィアに射殺されるなんて国情ではないけれど、口の悪い人ならどこまでも非難し続けたって不思議はない。

 けどそこは紳士の国であるのかそれとも状況が状況だけに仕方の無いオウンゴールだと認めたのか、同情をして一緒に悲しむ声が起こってこれなら戻って酷い目に遭うとか言った心配はなさそうだし、当人の傷も早晩癒えるんじゃなかろうか。勝てば決勝だったとはいってもここで準決勝まで来た訳で、3位決定戦にも回れてそこで名誉を取り戻す働きをできる。監督もきっと温情をもって出場させるんじゃないのかな、試合の中でこそ輝けるし後悔も晴らせるのがスポーツ選手ならではの恩典。そこを自覚してきっと前向きに戦っていくだろう。相手はドイツ、第二次世界大戦での因縁の国を相手に押し返せるか、それとも。地上波での中継はないんだろうなあ。

 さても「なでしこジャパン」はこれで2011年のW杯ドイツ大会とそして2012年のロンドン五輪に続けて決勝へと出て同じ米国を相手に戦うことになった。ドイツでの勝利をロンドンで返され五分になっているこの関係を、再び自国に優位へと戻すならば化粧では絶対に買っておきたい相手。そりゃあ五輪の金メダルも嬉しいけれどでも、やっぱりサッカーならワールドカップという名前をもった大会を最高峰と仰ぎ位置づけ、そこでの勝利を目指して欲しい。そんな流れを作るためにも決勝は絶対に勝とう。選手はやっぱり同じかな、満を持して山根恵里奈選手を起用し澤穂希選手も先発でトップスピードで相手を推しまくるかな。見るぞ決勝。どこかでライブビューイングとかやらないかなあ。

 そして出かけた昨日に続けての「コンテンツ東京2015」で、KADOKAWA取締役会長でKADOKAWA・DWANGO取締役相談役の角川歴彦さんによる基調講演を聴講。最初は一億総クリエイター時代のコンテンツ産業がどうとかいった内容だったのが、その場で急にNetflix上陸の影響についての一考察となったのは、ただのネット映像配信サービスとは違う何かを感じている現れか、あるいはこのNetflixも含めて映像配信サービスそのものが大きく変化しようとしている時代だという認識なのかといった想像が浮かぶ。そのどっちでもあるんだろう。あとはIT企業がコンテンツを製作するようになってきていることへの関心とかも。だからこそネット映像配信を行っていてIT企業として技術者も多く抱えてコンテンツにも理解があるドワンゴとの経営統合を急いだって言えるんだけれど。

 そうした日本の産業の将来に対する提言とはまた別に、角川歴彦さんが所沢に作ろうとしている物流センターに関する話もあって、そこに添える美術館やら博物館やら図書館なんかの話も出てそこで、図書館から出版社やら著作権者にお金を返す仕組みを検討していきたいって話が出てきてちょっとビビった。図書館が利用者に無料で貸すのは良いけれど、図書館がコンテンツ事業者にも無料で良いということにはならないから、著作権者には何かしらの料金を示すことができたら嬉しいと考えているとかどうとか。それってもう日本のというか存在としての図書館の意味を根幹から揺るがしそうな話で僕の脳ではちょっと考えるのが難しそう。着地点もちょっと見えない。

 角川歴彦さんが言っている意味そのものは分かる。買った本を何度も無料で回転させられては本が売れなくなって出版社も著作権者も商売あがったり、だったら例えばレンタルビデオのようにそうした回転して得られる収益なんかもあらかじめ値段に織り込んでおこうよってことになれば良いんだけれど再販制もあるんで本の値段を販売用とレンタル用で変えられるものでもないからそこは一物一価にしつつも利用に応じて何かリターンがあれば出版社としても嬉しいし著作権者としても嬉しいんじゃないかな、ってことなんだろう。ただ図書館というのはある意味で知識の集合体であって様々なジャンルの本を収集して蓄積することによってひとつの大きな知性ってものをそこに現出させつつ、当代から後世にいたる様々な人にそうした知性を供与してみなでお利口になっていこうといった公共的な存在としての意味合いも持っている、って僕は思う。

 あるいは歴史というものをそこに折り重ねていくという博物的な意味も。ただその場合はベストセラーばかりを集めてそれを100人待ちとかいった状況で貸しまくっては出版社や書店の商機を奪うといった行動はまた違った判断が必要になってしまう。100人も待っているなら同じ本を10冊かってより回りやすくしろとかいった住民サービスとしての図書館のあり方、それはもうずっと議論の対象になっているけれど、貧乏な頃に利用してきた身としてはそれはダメとは言えないし、かといって著作権者の苦境を思うとそれは良いともいえば複雑な心境にあったりする。

 そうした状況を改善するための方策、それはたとえばレンタルCDのように発売から半年なり3カ月は貸し出しを行わないとかいった制度を作ることへと向かうなら一方で公共における知性の集積地としての図書館の意味であり意義は守られる。そうした知性を多くが無料で利用できるなら素晴らしいことだし、そうしたあり方を願って著作権者も出版社も本を作り図書館に治めてひとつの商売が成り立つならなおのこと万々歳ってことになる。ここにも踏み込んで図書館に買った本が借りられたなら出版社にいくらとか著作権者にいくらとか戻すようになったら手間はかかるしお金もかかってそれだけで運営費が圧迫される。見込みとしていくらか図書館用に上乗せされるならなおのこと購入費用が減って買われなくなる本が出てしまう。それはかえって出版社は著作権者の首を絞めやしないか。なんてことも思うのだった。

 図書館、という一つの言葉で言い表せてもその事業形態は多様で一概にひとつの制度に落とし込めない難しさがある。そういう事情を斟酌しないで出版社としての立場から、図書館の運営に意見を出してそれを実践して業界のスタンダードにしてしまおうという動きなら、これはやはりどこかで牽制を行うなり条件を糾すなりした方が良いんじゃないかと思うのだった。まあ図書館というものにそれほど詳しくもない人間の思いつきなんでそのあたり、ぐっと詳しい人がどこにどんな悩みが浮かぶかを検証していって頂ければこれ幸い。どっちにしたって所沢は遠いし軽井沢に海はない。

 やっぱり潮目が変わってきているのかもしれない。しばらく前から安倍政権への苦言を多く載せていた月刊の「文藝春秋」ではなくて、安倍ちゃん応援団のひとつでもあった幹事の「週刊文春」までもがここのところを風向きを変えて政権への非難を載せるようになっていて、そして最新号では「自民党は死んだ」という過激な見出しでもって自民党内部で始まっているポン酢どもが幅をきかせてそれを官邸は咎めない一方で、真っ当な人たちを締め付け逆らわないようにしている状況がしっかりとリポートされている。例の暴言が出た会合だって現場の青年将校なんかじゃなく、安倍ちゃんの側近が音頭を取ってやらせたものでアレな講師を呼んだのもその伝手。それで起こった混乱を、官邸が尻ぬぐいせず党に押しつけ逃げようってしている状況が、ここまであらわにされるとこれは拙いと少なくない人も思うだろう。

 昔と違ってそれほど中吊りも多くない状況で「週刊新潮」はまだ安倍ちゃん寄りなところを見せつつ、それでもやっぱりこれは認められないといった感じの記事を書いて見出しを大きく載せ、そして「週刊文春」は「自民党は死んだ」と載せれば見る人の感覚もそちらへとなびいていく。カウンターとして応援団の新聞社が刊行しているオピニオン誌の中吊り広告を出して安倍ちゃんを讃えれば良いとかいっても、それができるだけの余裕なんて応援団の新聞社にはかけらもない。そうやってだんだんと状勢されていった安倍ちゃんやばいの空気がいつか、台風となって政権を襲わないとも限らないだけにこっこはそうした潮目が本当に変わったかを見極める必要がありそう。もっとも応援団を買っているちうかもはやそこしか縋る場所のないメディアは潮目の変化を読む気もなしに相変わらずの礼賛ぶり。結果、共倒れになったらどうするんだろう。どうもしないか、そういうことに回る頭なんてないみたいだから。やれやれ。


【7月1日】 気がついたら1年の半分が終わっていたりして、月日の経つのは速いけれども代わり映えのしない我が暮らし、我が収入。じっと手を見てもなにも出てこない。いい加減に考えた方が良いかなあ、いつまで経ってもヒラではなあ、それもまた好き勝手できて楽しくはあるんだけれど。さてもしばらく前から行われていた中村隆太郎監督の劇場長編アニメーション映画「ちびねこトムの大冒険 地球を救え! なかまたち」のクラウドファンディングが、予定していた100万円を大きく上回って300万円近くを集めて大成功。上映すらされずに終わった幻の映画で、ビデオ化もDVD化も確かされていなかったものをリマスターしてブルーレイディスクで出すだなんて、よくも考えたものだけれどこれを推進したのが作品を愛する一個人で、それに当時のスタッフが乗って応援したというのが経緯としては珍しい。

 知る人ぞ知る作品で、そのままでも仕方が無いかなあと思われていたのを、下北沢のトリウッドで上映を行い作品への認知度を高めて、これなら応援したいって思わせたのがひとつ成功の秘密になったのかも。中村隆太郎監督自身は「serial experiments lain」の監督として世界的に知られていても、それだけで過去のどちらかといえば児童向けで、なおかつ地球環境といった教育的な主題も含んだ映画を復活させようという原動力にはならない。作品の良さでありスタッフワークの素晴らしさ、出演声優の豪華さなんかを告知して上映によって知らしめ、是非みたいと思わせたことがやっぱり重要だったんじゃないのかなあ。つまりはだから作品本位。良い物を作って良いところを教えれば、ちゃんと結果はついてくる。そんな経緯を見せられたことが、これから続く別のクラウドファンディングの成功につながってくれることを願おう。アニメ関係だと何が動いていたっけ。アニメスタイルの定期刊化があったっけ。

 これで20年くらいは通っているのかどうなのか。東京ビッグサイトで開かれた東京国際ブックフェアとかのぞいたけれども、昔は西館(にし・やかた)の1階のそれなりなスペースを使って開いていたりしたものが、今は半分にも及んでなくて残りを電子出版EXPOだとか、コンテンツ制作・配信ソリューションEXPOといったものが締めていて、デジタルな環境でもってあれやこれや提供するサービスを提案していた。日本という場所に海外から本を持ち込み、翻訳出版を依頼するといったこともなく、かといって日本まで来て本をあれこれ探すといったこともない、トレードショーとしてのブックフェアが成立し得ない情勢では、出展社が減るのも仕方が無いし、規模が縮小されるのも当然か。あとはだから絵本とか学術書を並べて買ってもらう機会にするしかないんだろう。2割引くらいで買えるし。

 そんな出版の逆風に倒れず、むしろ追い風にしたところがリード・エグジビジョンの賢いところで、電子出版を入れコンテンツを混ぜて「コンテンツ東京2015」というものを仕立て上げてしまったんだからすごいもの。前は専門の会社がやっていたキャラクターライセンスなんかも取り込み、最先端のコンテンツ技術なんかも見せる展示を行いつつ個人クリエイターをわんさか募ってブースを並べてみせたりもして、それで2階のスペースをきっちりと埋めて外のフロアまで使っていた。鶏舎みたいに人が1人ずつ並ぶブースに作品を並べる形態で、クリエーターにとってどんなメリットがあるんだって思ったけれど、聞けば今は企業なんかから誘いもあるらしく、BtoBのイベントとして認知されて来たって感じ。そうやって桂由美さんのところから仕事を受けたペーパークラフトの人もいたし。

 本当ならデザインフェスタとかワン-ダーフェスティバルといった、BtoCのイベントにも出ているそういう人たちを、企業が足繁く回って発掘すれば良いんだろうけど今時そういう殊勝な人がいるって話はあまり聞かない。スカウトを受けたって感じでもない。足腰が弱っているのか新しい才能を発見したいっていうモチベーションが下がっているのか。発掘したって売り出すチャネルもないのが現実なだけに意欲も下がるだろうけれど、それでも必ずいる玉を拾って磨くのが楽しいって思えるかどうかってのが分かれ目なんだろう。ただクリエーターEXPOならそういう風に奮い立たずとも、仕事を求めるクリエーターがわんさか待ってるから探す方は楽。でもそれすらも行かないんじゃあもったいないんで、意欲ある人はいって見つけよう、明日の才能を。きっといるから凄い人が。たぶん。

 例の自民党の安倍ちゃん親派な国会議員たちが集まって、百田尚樹さんを招いて繰り広げた勉強会で暴言が飛び交ったことをすでに真っ当と呼ばれる新聞が社説で批判をしているけれど、安倍ちゃん親派な新聞は今に至るまでそうした批判をせず、態度すら保留したままで経過を報告しつつ一方で、百田さんが繰り出す報道批判を大々的に取り扱ってはそれに対する論評もしなというのはつまり、百田さんに味方をして沖縄の新聞をつぶせとか、朝日はダメダメといった批判を肯定しているってことになるんだろうなあ。それもひとつのスタンスではあるけれど、でも百田さんが朝日新聞の英字紙が、この一件を報じた時の翻訳が捏造だっていうのはちょっと無理筋で、それを論評も抜きに紹介しているのは果たして報道機関としてどうなのっていう気もしないでもない。

 というか、あの日本語での発言を、訳すとそうなるのが普通だよなあっていうのが英語をよく知る人たちの反応で、だったら報じる側もその日本語に対する英字紙の翻訳がどうだったのかを、社内の外信部の人でもいいし、外国語に通じた学者でもいいから尋ね、てそのいちゃもんの妥当性を論評するべきだったんじゃないかなあ。でないとただ言い分を垂れ流すだけで、つまりはそれに荷担したってことになる、だって反対の意見は載せてないんだから。そういうバランス感覚よりも、言いたいことを言うためにはほかに矛盾があっても知らん顔というスタンスを、ここでも貫き通しているってことなのか。それを世間も感じてああまたやってる、あそこなら当然だって思い始めているのがどうにも不気味なんだけれど、そういう空気は果たして感じているのかなあ、いないだろうなあ、いたらやれない。やれやれ。

 そういえばこんなこともあったっけ。ある政治家から書いた記事が間違ってことを咎められ、書いた記者を外せと言われたことを報道圧力だなんだと騒ぎ立てていた件。でも書いたこと、間違っていたことの責任を求められて「筋が違う」はないだろう。たしかにそれは強権的で強圧的かもしれないけれど、筋は違わない。間違えたことへの責任を求められて重大すぎると反論はできても、筋違いとは言えない。それはつまり間違ったことへの責任を回避することになるから。そうは思わないならそれは書くことへの責任を放棄していることに他ならない。そんな意識をもってメディアの中枢で何かを書く。これはちょっと不気味すぎる。社員が自分のサイトか何かで書いた暴言を咎められ、訴えられたことも問題視していたいけれど、公的な場所で公的な目的を持って批判するんじゃなく、私的な場所で私的に中傷したからこそ訴えられたんだろうに。公的な発信なら言論として言論で戦えとは言えても、私的な発信をそれも言論として扱えと言うのか。本当にやれやれだ。


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