縮刷版2014年3月中旬号


【3月20日】 年が明けたと思ったらあと10日で1年の4分の1が終わってしまうとか、ちょっと早すぎないかとは思うけれどもそれだけいろいろと日々、何かしているってことでもあるので、決して悪い話ではないのかな。自分にとって将来の糧になるか分からない日銭仕事みたいなものだけれど、それでも何もしないで無為に過ごすよりは情報を、世に媒介させることで誰かの役に立っているかもしれないと思えば、少しは気も晴れるってことで。物を作れない人間にとって、情報を媒介することだけが数少ない出来ることでもあるのだから。明日はどこに行って何を見てどう書こう。それがいつか誰かの何かを変えてくれたらとりあえずは本望。なるべく良い方向へと。

 目が覚めたので電車を乗り継ぎ、東京ビッグサイトで始まった「Anime Japan2015」とやらのビジネスゾーンを見物に行く。午前の10時半くらいで結構な人出で商談に勢いもありそうで、日本のアニメーションはまだまだ世界で勝負できるのかもしれないなあと思った一方で、この場でいったいどれだけの商談が可能なのかがちょっと見えないのが悩ましいのと、あとはすでにできあがった作品を、日本でそれなりな収益を確保した上で、海外でどれだけ稼ぐかっていった番組販売が中心になっていて、企画を立ち上げたんでそれに対して賛同者を求め出資を仰ぐといった、ピッチ的な要素が見えないところが気になった。

 というか、ちょっと前から片渕素直監督が「この世界の片隅に」をアニメーション映画化する上で、お金を集めるためにはまずパイロット必要だからとクラウドファンディングで2000万円を集め、それでスタッフを集めてフィルム作りに取りかかるって話が話題になっている。それは見事に成功して、企画への関心の高さを示したんだけれどでも、肝心の作品に対して、どういうところが出資をするかって話がまるで見えていないのが気になるところ。パッケージメーカーなり配給会社なりといったところが乗らないとと、てもじゃないけどアニメーションスタジオだけで制作は出来ても製作なんて出来はしない。

 だからこそ企画を投げて出資を募る場として有効かなあ、って思った展示会が、そういう役目を果たしてないのはもどかしい。前の「東京国際アニメフェア」のころはビジネスデーにスタジオが出てチラシを置いて、企画を見せてた気もするけど今回は、そういう動きはなくって既存の作品を置くか、スタジオなら自分のところが幹事社になっていそうな作品を番販しているくらいだった。もちろん1日2日の商談会で簡単に決まる話でもないから、企画を置いてもどれだけ反応があるかは微妙だけれど、まるで見せないよりは見せた方が少しなりとも効果があるなら、そうした方が良いとは思う。あるいは映画とはいかないまでも、もうちょっとハードルの低い企画に対して出資を決めるて、新しい才能を送り出す場にもなってくれれば良かっただけれど。「クリエイターズワールド」がまさにそれだったんだけれど……。そのあたりはまだ発展途上かなあ。発展させる気があるかは分からないけど。

 せっかくだからとアートフェア東京にも寄って、「透明標本」の冨田伊織さんが作品w置いているギャラリー戸村のブースに寄って、そこにあった」縄田みのりさんって人の作品を眺めて、なかなかの出来だと感嘆。いわゆる女の子のドールって奴で、顔立ちとか球体関節人形をやってる人たちに近いところがあるけれども、そういったドール系からは一線を画しつつあるようで、一方で美少女フィギュアともまた違った独自性を持たせた直立系の人形を作り続けている。ドールなんだけれど服は粘土で造形するし、それでいてフィギュアな割には髪は植毛といったハイブリッド。それぞれにちょっぴり異形なところを持たせて、可愛らしさの中に少女の怖さって奴がのぞいている作品になっていた。値段とか見たら結構に上がってたんで人気なのかも。こういう時にサッと買えると資本も増えていくんだろうけどなあ。ピケティ的負け組では仕方がないのだった。

 TOHOシネマズ日本橋の東京アニメアワードフェスティバル2015における「カナダフォーカス」ってプログラムで「もう一つの視点」というタイトルで集められた作品に、あのクリス・ランドレス監督による「Ryan」が入っていたんで見に行く。アカデミー賞の短編アニメーション賞を受賞した作品で、かつて天才アニメーション作家と讃えられながらも消えてしまったライアン・ラーキンに、クリス・ランドレスがインタビューしに行って、再起を促すといった様を3DCGのアニメーションで描いていく。その描き方がまたスタイリッシュというか、その人物が置かれた肉体的な状態やら心理的な様子やら、リアルタイムに変化する感情やらがキャラクターのフォルムやエフェクトにあらわれ不思議な感覚を見る人に与える。

 ボロボロになった肉体は欠け、懊悩にあえぐ頭からは触手みたいなものが飛び出し、痛い感情は体を縛ってそして過去は優しげに傍らによりそう。ライアン・ラーキンを描こう、かつての天才が今はアルコールに体を蝕まれながら物乞いをして生きているとう状況を描いて再起を促そうという着想があって、それをビジュアル的にどう描くのかって発想があって苦心惨憺していった、その果てにたどりついた表現の凄みって奴にとにかく圧倒される。よくもまああんな風に描いたなあ、それをライアン・ラーキンが許したなあ。見れば感動の作品で、アカデミー賞とったのもうなずける。これに刺激されたか注目が集まり、再評価されて居場所も得たかでライアン・ラーキンは復活を遂げ、新作の制作にかかるも、肺ガンが脳に転移して死去。あと10年早ければってと思わないでもないけれど、その頃ではクリス・ランドレスは「Ryan」を作れなかっただろうから仕方がない。それが運命って奴なんだろう。

 そんな「Ryan」をプロデュースしたNFBカナダ国立映画制作庁のプロデューサーのマーシー・ペイジさんは、「もう一つの現実」というプログラムに入っている作品では他にアカデミー賞にノミネートされた「Wild Life」とそれから「Boy Who Saw The Iceberg」もプロデュースしてた。別のプログラムで上映される「Madam Totuli−Putuli」もマーシーさんだし、「愛犬とごちそう」が受賞した今年のアカデミー賞でノミネートされていた「Me and May Moulton」もマーシーさんのプロデュース。そんに沢山の作品をアカデミー賞に送りこむなんて、よほど凄腕のプロデューサーだったんだなあ。カナダ大使館でインタビューした時は、お土産といってあげた半魚人のポニョのぬいぐるみにキャッキャ言ってたのに。その感性が凄いアーティストを見つけてとてつもない作品を世に送り出させるんだろう。日本にいるかなそんな人。それ以前にプロデューサーが資金をバックにアーティストを支える仕組みがないのも難点だけど。東京藝大院は決してNFBじゃないからなあ。国は何とかしないのかなあ。


【3月19日】 チュニジアといったら2002年のワールドカップ日韓大会で、日本代表がグループリーグの第3戦を戦って勝利して決勝トーナメント進出を決めた相手の国だなあ、という印象がまずあって、サッカーでW杯に出場できるくらいなんだから国情もそれなりに安定していて、経済も文化もまずまずな国だと思っていたら、それを支えた独裁政権が例のジャスミン革命で崩壊し、政情不安の中でアルカイダの勢力なりISILなりの浸透もあって、地域によってはだんだんと不穏な動きも起こり始めているとか。でもさすがに首都であって地中海に面して対岸にはイタリアのシチリア島が臨めるチュニスでもって、博物館に観光に来ていた人が襲撃される事件が起こるとは思わなかったというか、今はどこでだって何でも起こり得るっていうか。

 もう20年近く昔のことになるけれど、エジプトのルクソール神殿っていうこれも世界有数の観光地がテロリストに襲撃されて、50人とかいった数に上る観光客が命を落としたテロ事件があったけれど、当時からエジプトは政情が揺らいでいた上に、観光客が外貨収入になっていると政府を非難する勢力によって、観光産業の衰退が目論まれたってこともあっての襲撃だったように記憶している。ある意味で用意周到で計画的。でもチュニジアの博物館襲撃は政権を揺さぶると言ったものではく、何か自分たちの存在をアピールするためだけに外国人を狙って見せた感じがあって、殺害すればそれで目的が達せられてしまうタイプのテロにいったい、どう立ち向かえば良いのかが見えずこの先ちょっと困ったことになりそう。

 特定の組織が特定の目的を持って動いているというよりは、薄い思想に染まりつつ反感の気持ちだけを募らせた面々が手に銃を取って示威行為に出たってだけの動きを、あらかじめ予測して潰すのはちょっと難しい。どこに行って誰を捕まえれば良いのか。それが見えないままいつ何が起こるか分からない状況で、不安だけが募っていく中で比較的平穏だったチュニスもテロの最前線となり、そこへと向かう人が途絶えて衰退したその隙を狙って、テロリストの勢力が浸透していっては内ゲバ的に争って、さらなる混乱を引き起こすって展開になるのかなあ。リビアが混乱しシリアが混乱し、イラクが混乱しエジプトもいつ火が燃え上がるかって空気。そんな難しい地中海の東や南に対して西は対岸の火事と眺めているだけなのか。500年余を経てジブラルタル海峡を渡られグラナダを奪われてやっと目覚めたりするのかなあ。

 真相は藪の中というか、つつけばいろいろと出てくる藪蛇というか。発端は幾夜大黒堂さんの話として「境界のないセカイ」の単行本発売が見送られ、付随して連載も中止となったことについて「講談社さんが危惧した部分は作中で"男女の性にもとづく役割を強調している"部分で、『男は男らしく女は女らしくするべき』というメッセージが断定的に読み取れることだと伺っています。(私への窓口はマンガボックスさんの担当編集氏なので、伝聞になっています)これに対して起こるかもしれない性的マイノリティの個人・団体からのクレームを回避したい、とのことでした」という状況説明があったこと。読めばなるほど講談社がそう言ったか、担当編集がそう聞いたってことが伺える。

 普通に読めば講談社がちょっと憶してしまったなあ、という印象が先に立つ。ところがその講談社は、記事を書いたハフィントンポストにこう言ったとか。「講談社の週刊少年マガジン編集部の担当者に連絡が取れた。『僕らとしてはそうした発言をしたつもりはないが、現在、関係各所に事実関係を確認している。近日中に会社として公式発表をする予定だ』と話している」。言ってないの講談社? じゃあマンガボックスがそう聞いたってことなのか? でも事実として単行本は出ず、それでお金が得られないならと連載も打ち切りになった訳で、いわゆる差別との誤解を招きそうな表現に遠慮したんじゃないとしたら、どうして講談社が単行本を出さないのかって理由は問いただされるべきだろう。

 講談社で大活躍をしてから独立し、今はマガボックス編集長を務めている樹林伸さん的には「僕にとって、仕事上に限っていうなら、守るべきものは自分の中と僕の読者の足元にしかない。組織的な意味での『保身』というのは、実は講談社の社員だった時代からまったくなかったのだが、今も同じようにない。でも、一般的に会社員という立場でいる人達にとっての『保身』を、軽くみるつもりもない」とツイートし、続けて「『我が身かわいさにケツの穴の小さいこと言いやがってよ!』と、ネットで騒ぐのは簡単だ。でも、その立場になったらそういう連中こそ、一番『保身』に走る。世の中そんなに優しくないってこと、自分の言動でわかってるから。僕は自分のしりぬぐいは自分でやる。でも組織人にそれを要求するのは酷だ」と組織としての講談社の対応に理解を見せている。

 ただ読み替えれば、これはつまりは講談社がヤバさを感じて単行本化を止めたってニュアンスで事態を受け止めているってこと。だから「保身」という辛辣な言葉を使いつつ企業人としてそれはしゃあないとも言いつつ、樹林さんが自分の裁量で出来ることをしようってことになり、作品の放出を決めて早くに移籍を可能にして作者には喜ばれているっぽい。でも講談社が表現の問題ではないと考えていたとしたら? 結局のところどこにネックがあってそして止まったのか。そこが解決に当たっての重要なポイントになるんだろう。単行本が出ないという決断はどういう理由で成されたのか。社会への行き過ぎた配慮があったのか、単純にもはや売上が見込めない本は出さない方針があって、その理由として売れてないとか言えず圧力めいたことを口にしたのか。憶測は出るけど真実は未だ不明。だから見守りたい成り行きを。

 大河原邦男さんの展覧会が上野の森美術館で開催されることにもはや驚きはない。全国各地の美術館でその作品が展示されてはメカニックデザイナーというカテゴリーをひとり歩み、切り開いて日本にメカニックとキャラクターが融合したひとつのジャンルをうち立てたアーティストとして、讃えられ鑑賞されることに一切の不思議はない。むしろその作品がスミソニアン博物館にパーマネントコレクションとして選ばれ保存されても良いくらいなんだけれど、もしかしたら既にされていたりするのかな、大英博物館にだって入っても良いかもなあ、なんて思っている人も多いから、8月8日から始まる「メカニックデザイナー 大河原邦男展」の発表があってもそれほど大きく話題になることはなかった。ところが。

 同じ上野の森美術館で10月に、「ひだまりスケッチ」や「魔法少女まどか☆マギカ」といった漫画やキャラクターのデザインで、名前を知られた蒼樹うめさんの展覧会が開かれるという情報がチラシとともに流れるや、大きな話題となって広がり驚きをもって受け止められていたりする。なおかつ絶対に行く行かなくてはならないといった声も多数。それは蒼樹うめさんという人の認知度がとてつもなく高いことの現れでもあるし、それでいて未だ漫画家でありキャラクターデザインの人といったカテゴリーにありながら、ファインアートの上野の森美術館で展覧会が開かれることへの意外性を、誰もが感じていることの現れなのもしれない。いやでも今や美術館も漫画やアニメに関する展示がわんさかで、蒼樹うめさんのこともそっちでは驚かれていないのかも。むしろまとまって作品が見られることへの喜びか。だから行こう行くぞといった声が多いのかも。どんな賑わいになるかなあ。どんなグッズが出てくるかなあ。今からちょっと楽しみ。

 東京アニメアワードフェスティバル2015が始まっていたんでそのオープニングを飾るアニメドールの贈呈式を見物に行ったら、昨日ユーロスペースで「ズドラーストヴィチェ」の原画を売ってくれたおねさんがレッドカーペットの上をトコトコと歩いてた。そんな凄い人だったんだあ、って幸洋子さんは去年に制作した「黄色い気球とばんの先生」が短編アニメーションのコンペティションに残っていたのだった。どういう経緯で選ばれたんだろう、学生CGコンテストでのグランプリか何かをとったからだろうか、分からないけどでもあれは傑作だし、今年の「ズドラーストヴィチェ」はさらに傑作なので今年はもっといろいろな映画祭からお呼びがかかるかも。あとは映画祭向けだと米谷聡美さんの「白いうなばら」かなあ、ザグレブにや山羊さんの「糀」が入ってたし。優秀だなあ藝大院修了生。

 そしてアニメドールは「百日紅」の公開を待つ原恵一監督が受賞して大河原邦男さんがデザインして3Dプリンターで作り出したトロフィーを受け取っていた。前はまだ試作っぽくって色も塗ってなかったけれど、ちゃんと金ぴかになっていてイメージどおり。よく作ったなあと関心。そして終わってから見たトムス・エンタテインメントの50周年を記念した記録映画「飄々〜拝啓、大塚康生様〜」を見たらもうどこまでも大塚康生さんづくしだった。高畑勲さんおおすみ正秋さん小田部洋一さん月岡貞夫さん友永和秀さん富沢信雄さんといった、大塚さんと同時代を走っって来てアニメーションを作って来た人たちが登場して大塚さんについて語り尽くすからもう聞き応えがたっぷり。

 どれくらい絵が上手でそれでいて奢らずしっかりと演出の意図に合わせて絵を描き、周囲とも調和を保ちながら自分の仕事を仕上げていく職人っぷりも分かって勉強になった。中でもおおすみ正秋さんが師匠と弟子という関係ではなしに、演出家であり作画監督という関係でもって大塚さんが過去に手がけた仕事へのダメ出しもしつつモンキーパンチさんが描く絵とまるで違うタイプだった大塚さんが、どれくらいの鍛錬を経てモンキーパンチさんと同じだけの悪漢でしゃちほこばってないルパン三世を描けるようになったのか、ってあたりが解説されてて面白かった。人の見えないところで努力し越えていくというその才能が大塚さんを誰よりも凄いアニメーターとして今なお尊敬を集める存在にしていったんだろうなあ。

 面白いのはそんな大塚さんをフィーチャーした記録映画が、トムスの50周年記念作品ということ。他にも関わったクリエイターはいるし作品だってあるのに。そこがトムスにとっての大塚さんの大きさ、そして日本のアニメーションにとっての大塚さんの大きさって奴なんだろう。これはどこかで公開されるのかなあ、されて欲しいなあ、でもって大塚さんの降臨を戴きたいなあ、ちょっと前に東映アニメーションミュージアムの最終日に来られていたのを見たばかりだけれど、ご健勝な姿を見ることが日本のアニメーションにとっての最高のエネルギーになるのだから。いつまでもご活躍を。それにそても大塚さんの部屋にあった「ガールズパンサー」って書かれた箱にはいったい何が入っていたんだろう? それも是非に伺いたいし。


【3月18日】 明けてやっぱりよく分からない任天堂とDeNAの資本・業務提携の行方は、敢えて今この時期に「Wii U」とかに影響が出ることも厭わないで、新しいコンソールとなる「NX」の情報を発信しているところに単純に、IPすなわちキャラクターをドカドカと供給して有りもののゲームをキャラで覆ってファンを引きつけるような末期的試作を、前面に打ち出すようなことはしないんじゃないかって予想も浮かぶ。もちろんそれもあるだろうし、マリオとゼルダとカービーでツムツムするようなゲームが出たって不思議はないけど、決してメインストリームじゃない。だってそれって任天堂らしくないから。

 まず遊びという原点があって、どう遊んだら楽しいか嬉しいかってことから発想を起こして突き詰めて、それを実現させるためにはどんな器が必要かってことを考え、対応が可能なゲーム機を作り上げてきたのが任天堂の強みであり、一種の哲学。だからゲームソフトだけを作らず、ハードもいっしょに開発してきた。キャラでゲームを遊ぶんじゃなく、ゲームをキャラで遊んでもらうことが社是みたいな会社が、キャラだけを譲り渡してそれで満足する訳がない。収入にはなっても未来はない。だから今は雌伏と認めつつ、ネットワークが浸透する未来に向けての布石を打つ、そのための技術とノウハウをDeNAからも借りつつ新しい地平に向かって行こうとしていると、そう思うんだけれど真相やいかに。答えはいずれ出るだろう。

 まずはおめでたい。「マイマイ新子と千年の魔法」の片渕須直監督が、こうの史代さんの漫画を原作にして進めようとしていた「この世界の片隅に」の映画化に向けたクラウドファンディングが、目標としていた2000万円を7日とか8日といった短い期間で達成して、ひとまずはその作品への関心の高さというやつと満天下に指し示すことができた。2000人程度の支持ではあっても2000万円はなかなかな金額。昔だったらそれで1本、OVAだって作れたかもしれないお金を得たことで、企画への支持者はいるということが見えて、映画の製作に向けてゴーサインも出せるようになるだろうし、是非になって欲しい。

 まだ未来形の願望なのは、このクラウドファンディングがあくまでもパイロットフィルムを作るためのスタッフ集めといったものが目的で、映画の製作から公開といったもののためではない、ということ。映像が作られそれを見せることによって少なからず出資者が集まって、ようやくスタッフが組まれ映画の製作が動き出す。そうなるにはまだ越えなくてはいけなさそうな山はあるし、完成しても公開されてから収益につながるまでの道も極めて細い。そうした困難を「マイマイ新子」では味わったし、これからも壁となって立ちふさがる可能性はある。どれだけ有名な監督が作っても、期待を外すっておとはある訳だし。「思い出のマーニー」なんて良い映画だったんだけれどなあ。

 けれど、何もなかったところからスタートして、ファンの熱烈な声とそれからどうしても作品を見て欲しいと走り回った監督をはじめスタッフの強い運動もあって、場所を変えて公開されて公開延長を繰り返し、DVD発売というひとつの到達点へと至った「マイマイ新子」の前例を見て、この作品を是が非でも応援しないといけないという声は大きくなった。そんな声を受けたクラウドファンディングも規模の額を集めて成功した。だったら……。まだまだ予断も油断も禁物だけれど、一筋の光明は射した。あとはその先、見えた道を歩んでいくスタッフを可能な限り応援していこう。それが僕達の思いだから。

 東京ドームシティにオープンしたプリパラのショップをさっと見学して居並ぶ商品に萌えたあと、転戦して六本木ヒルズで始まった西島大介さんの個展に行ってたぶん2012年の2月あたり以来というと3年ぶりくらいの西島大介さんの顔を見る。ミイケ先生にそっくりだったニャンコー。まあそりゃそうだ。「くらやみ村 森のおばけ」展ってタイトルにあるように西島さんの本「くらやみ村のこどもたち」がモチーフになったペインティングがメインでそれは西島さんの可愛いけど恐ろしいモノを描くセンスが存分に出ていてアーティスティックな感じに溢れていたけど、でも個人としてはパラボリカ・ビスに展示してあった「世界の終わりのいずこねこ」関連のペインティングの方にグッと来たかなあ。やっぱり“原作”あるとそれに沿うキャラ萌え世代なのかもしれない。値段も安かったし。いやそんなに安くはないけれど。

 西島さんや最近話題のゴーストミュージシャンと組んで喧騒のバリトンサックスプレイヤーの吉田隆一さんと話してから退散して渋谷へと回ってユーロスペースこと欧州場所で相撲を見る。いや違う。東京藝術大学大学院のアニメーション専攻の修了生による修了制作展で前に横浜で見ているし、DVDも買ってあるけれどもパンフレットやグッズが売っているってんで見物に言ってあの、傑作と評判の幸洋子さんによる「ズドラーストヴィチェ」の原画を買う。おじさんがWI−FIを拾ってホテルのソファでSNSをやってる場面。メインキャストが写っているからセル画としては一級品かなあ、ってセル画じゃないけど。ほかにも米谷聡美さんの「白いうなばら」の原画もあったけど手元不如意で断念。金曜日までやっているので行けたらまた行って買い占めるか。

 そして上映されて見るのは2度目になる「ズドラーストヴィチェ」は冒頭のぼんやりとした黄色い部屋から海に出て、トロピカルな空気の中で出会った陽気なんだけれどロシアだというおじさんの言葉に振り回されるように、現実が歪み差し替えられてどこか不思議な横浜へと変貌を遂げていくその描写が面白い。前の「黄色い気球とばんの先生」は過去の幼い頃の記憶が時間とともに歪んで強烈なエピソードが残りそれに後付で体験した様々なシチュエーションが重なって塗り替えられた幻想のビジョンとなって繰り出されたけど、これはリアルタイムの記憶でありながらも、強烈な個性の前に感覚が歪み蹂躙されつつ歓喜の中に書き換えられたビジョンといったところだろうか。

 凄いのはそうしたビジョンを無意識にバラまいているんじゃないってこと。それを絵にしてアニメーションという作品にして描いていくプロセスには、どこか冷めて状況を冷静に振り返って記憶を差し替えている自分がいなくてはならない。そんなハイな自分と日常にハマって引っ張り回され愉快な体験をして喜んでいるベタな自分がいる。それらを統合させ両立させながらあの不思議な世界を描いてみせるってあたりにクリエイターの凄さってものを感じてみたりした渋谷の夜。出れば道玄坂の歓楽街に位置するその街で、何を見てそれをどう描くのだろうか、って興味もわいてきたけど、これから何を作るんだろう?

 パクリを指摘されてダメ出しをされて謝ったコラムが、同じ名前でずっと連載され続けていることがまず、不思議であってこれが「天声人語」なり「編集手帳」でもってパクリ発覚となったら、そのコラムは大ダメージを受けて信頼を失墜して廃止となるだろう。それくらいのインパクトがある事態だったのに、ネットだからなのか体質なのか、同じタイトルでコラムは続いて、そしてパクリではないけれど羊頭狗肉なことをやっては、真っ当な人の苦笑を勝っている。とはいえ真っ当な苦笑は苦笑に留まって向こうには届かず、エッセンスとしての嫌韓にばかり賞賛があつまって、それを支持だと勘違いしてコラムが続いていってしまう。

 何という薄気味悪さ。だいたいが「スポーツ異聞」というからには、ひとつの地域のスポーツばかりと取りあげる必要はないだろう。韓国中国ばかりがメインではなく米国にだって欧州にだって世界各地にだって日本にだってスポーツに関する話題はいくらでも転がっている。週末にちょっと歩けばいろいろなスポーツが繰り広げられているにも関わらず、書いて来るのはスポーツを前フリにした嫌韓的な文章ばかり。それがアクセスを稼いでいたって金にはならず、未来にもつながらない。でもやらざるを得ないのが瀬戸際の断末魔って奴なんだろうなあ。明日はどっちだ。真っ暗だよきっと。

 それにしても現地紙の報道を引き写しつつ、向こうから「調査します」という書簡が贈られてきただけの話に「反日・韓国教授の削除要求にアジアサッカー連盟が回答した『中身』」って見出しをつけられるセンスが凄いというか。それでも“本来”の目的を果たせたのならそれで良いのか。良いわけないでしょと後藤隊長ならボヤくところ。でも仕方がない、それでしか浮かぶ瀬がない場所らしいから。韓国なら近いんで言って当人からコメントとるなり、AFCとコンタクトしてどんな解答をしたか聞けば良いのにそれすらしないし、するお金もなくて人もいない。そんな状況が続けばこれからも生まれるだろうなあ、パクリで固めたスポーツとは名ばかりの嫌韓コラムが。やれやれだ。


【3月17日】 録画してあった「弱虫ペダル」を見たら真波山岳が坂道を駆け上がっていこうとしていたけれど、その後ろから小野田坂道がピッタリとくっついてデッドヒート。ギアをトップへと持っていって馬力で登る真波に対して軽くても回転数を稼いで上がる坂道といった違いがさて、この先にどういう結末をもたらすかってところが残る多分1話くらいの注目ポイントになるんだろう。結果は単行本に描いてあるだろうけれどそれは読まずにアニメを見るのを楽しみに。でも真波、自分を傷めてまでそこまで回転を上げるところが勝つより楽しみたいって方をとった感じ。でもって坂道はみんなのために勝つ道を選んで回し続けるか、それともギアを上げるのか。そこにも注目。

 録画してあった「神様はじめました◎」を見たら桃園奈々生を相手に天狗の二郎がヨロめいていた。やっぱり女性への免疫がなかったのか、あれで見てくれは良い奈々生に騙され地得るのか。いずれにしてもその時限りの邂逅はこの後も続いていくのかどうか。こっちは単行本を読んでみたいなあ。あと雷獣、天狗を脅かす強さのをあっという間に片づけた巴衛が強すぎるのか天狗が弱すぎるのか。そこもちょっと気になった。桃丹を翠郎に飲ませても羽根は治らないのかなあって思ったけれど、どうやら切っちゃったみたい。でも性格歪まず鞍馬一筋。優しいのか優しすぎるのか。そんなアニメもあと何話? 第3シーズンに期待したいなあ。

 任天堂がDeNAと資本・業務提携をしたとかいった話が流れてきて、それだったらいっそドワンゴとKADOKAWAみたいに合併しちゃったら新しい可能性も見えたかなあ、って思わないでもなかったけれどDeNAは動画配信プラットフォームとして知名度がり会員も多くて自らコンテンツのアグリゲーションにも力を入れているドワンゴと違って、ゲーム配信のプラットフォームとしていつまで保つか分からないし開発力だって飛び抜けてるって感じじゃない。あくまでも大勢ある中の1つという位置づけならそこを取り込むよりは任天堂のIPを提供して、何か楽しんでもらう方が道として正しいのかもしれない。

 問題はそうやって任天堂のキャラがあちらこちらに蔓延っていっては、簡単に遊べてしまうようになった時に任天堂として独自のプラットフォームを出し、その上でキャラクターも含めて楽しんでもらっていた構造が崩れて任天堂のプラットフォーマーとしての魅力が減殺されてしまいはしないか? ってこと。面白いゲームのためにプラットフォームを開発して来た任天堂にとって、そのゲーム自体に魅力があればプラットフォームも含めて売れるって自信があるのかもしれないけれど、そうした思いの答えるだけの忠誠心をもう、ゲームファンは失ってしまっているんだよなあ、だから似たようなゲームのキャラだけ違うようなものが人気になる。ファンを奪い合う。そんな状況へ飛び込む任天堂の成算やいかに。様子を見たい。やっぱりと合併して「ニンテンディーエヌエー」って会社が生まれるその日まで。

 澁澤龍彦っ子だとやっぱりその周辺に多くいる、文学者さんとかクリエイターに憧れるもので、人形師の四谷シモンさんなんかは作る人形の艶めかしさもあって憧れなんかが強かったけれど、金子國義さんについては澁澤さんとは無関係にスタイリッシュでストイックで、それでいてエロティックな雰囲気もちゃんと漂わせている絵への強い関心って奴が、その絵を初めて見た時くらいからずっと息づいていた。展覧会とかで時々出ていて値段もまあそこそこで、買えはしないけれども現役感もあっただけにその訃報を受けていったいどれくらいの値段へと上がっていくのか。そういう尾籠な反応しか出来ない身も寂しいけれど、でもやっぱり同時代に活動を見てきた人が亡くなると、そんな思いも一方に浮かんでしまう。合掌。それにしてもCD−ROMの「Alice」だけは手に入れておけばよかったかなあ。限定版が1万円くらいで並んでいたんだよ、1990年代半ばの秋葉原に。

 遠かったはずの戦争が瞬く間にやって来る、ってことがあるんだなあと思ったし、たぶん実際にもそんな感じに日常の延長みたいな感じで戦争が、始まってしまうのかもしれないと思ったりもした鷹見一幸さんによる「宇宙軍士官学校 −前哨− 7」(ハヤカワ文庫JA)。ケイローンっていう星系国家へと赴いて、粛清者の襲来に手をかしてくれるようお願いするために受けた試練で見事に歴史的な勝利を収めて支援を得ることが決まった地球だけれど、そこに突然の粛清者の襲来。出張していた有坂恵一たち地球の士官も戦闘に参加することになったんだけど今までとは勝手が違って相手の出方も分からなければ、指揮がどうなっているかもちょっと見えない。

 とはいえ長くずっと戦ってきただけあってそのあたりの合理性はちゃんととれているようで、戦闘艦なんかを与えられつつさあどう戦うかを選ばせてもらって恵一は、任務として輸送艦をただ守るだけではくって攻撃へと移る可能性も含んで編成、そして実際に起こったとんでもない自体に恵一は見事に対応してこれまでにない勝利ってやつを得てみせた。すごいなあ。すごいけれどもそうやって勝ち進んでいってもいずれ当たるだろう壁を、どう受け止めていくかが不安だし、地球の方でも戦闘とは無関係だった人たちに戦火の影響が及び始めている。

 ちょっとづつ、そして確実に向かう戦争への道を不安と思いつつ仕方がないと受け入れていくその過程に、過去の戦争もこんな感じになし崩しに起こったんだろうかと考える。絶滅が目的の粛清者相手の戦争とは違うことは分かっているけど、でもやっぱり不安も募る、そんな時に人として何をすべきか、不安を払い勝つため、生きるために何をすべきか、って辺りへの答えは結構な価値があるかもしれない。情報は隠さず判断をちゃんとさせ、そして事態が動いているならそれに合わせて臨機応変に対応して最善を選んでいく。無理なことを決まりだからと押し通さない、その柔軟さと何より勇気が突破の道になるのかも。学び、生かそう、このきな臭い時代を生き延びるために。

 今月に入ってお顔を見るのはもう3回目になるけれど、それはつまりそれだけ今が旬ってことなのかもしれない大河原邦男さん。8月に東京で開かれる展覧会の発表があってのぞいてきたけど、そこに展示されるらしい電気自動車がなかなか良さそうで、前にあったモックアップから進んでちゃんと走りそして変形もするみたい。そこまではさすがにやってくれなかったけれど、もしも展覧会で動けばそれだけで見たい人がおしかけるかもなあ。あとはお蔵だし的な作品もあるみたいなんでちょっと注目。それより展覧会のために作られたポスターがなかなかの格好良さで、ガンダムにダグラムにボトムズにレイズナーといったあたりの良いイラストレーションが、大判のサイズでポスター化されるみたいなんで是非に購入、額に入れて保存だ。サインも欲しいけどサイン会とかやってくれるかなあ。

 よくわからないけどオリジナルがバグダッドとか世界各地の美術館にある像のレプリカが、モスルの博物館にあったのをISILがこれは偶像崇拝だっていって破壊したけど、レプリカだとは知らずあれれれれ、って話じゃないのかと思ったりもしたんだけれど煽りたい媒体はそうした行為を「やらせ」と断じて、最初からそこにある像のコピーを作って破壊しつつ、密かに売りさばいているってな感じの無理矢理すぎるストーリーを作って添えていたりするから話が歪むというか。元ネタになったデイリーテレグラフにも偽物とはあってもやらせといった話はないし、売りさばいているといった話もない。牽強付会気味に話を足して面白くしたみたいだけれど羊頭狗肉な感じは否めない。そういうのが新聞で常態化していることの厄介さ。いずれ数字となって現れるんだろうなあ。すでに現れているとも言えるけれど。


【3月16日】 1600万円を越えたあたりで胸突き八丁となって、ジリジリとしか伸びなくなった片渕須直監督によるこうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」のアニメーション化に向けたクラウドファンディング。2000万円をひとまずの目標として、どうにかこうにか1500人の参加を呼び、1800万円という目標の9割まで来たのはすごいことだけれど、それでアニメーション映画の本編が作られる訳ではなく、パイロット版のための人材が集められ、パイロット版が作られてそして、その先にどれだけのマーケットがあるかが探られようやくやっと本編制作のゴーサインが出される。

 もしも本当に映画が作られ、上映にまで至るんだったらこの2000万円という額はまったく少なくって、そしてここに来ての勢いの鈍化も、先に待ち受けるいくつもの困難を突破していく上で弱い足りていないと見なされかねない。なのでここはさらにグッと盛り上げ一気に完成へ、そして拡大公開へと至ってもらえるために、2000万円が5割程度と思われるような勢いでもってお金が積み上がり、支持者も増えていってくれることを期待しつつ改めて応援の言葉を贈ろう。頑張れ、頑張れ。これでも片渕監督の映画「マイマイ新子と千年の魔法」の劇場での舞台挨拶を見た身、そこでの感動が落胆に変わりかけたあの苦衷を、またしても舐めないような盛り上がりを願いたい。お金はもう出せないけど。宝くじが当たればあるいは。当たるかなあ。

 もう20年も前になるのかと、過ぎた時間を数えて重ねた歳を思ったりもしたAMDアワードの贈賞式を見物に行く。1回目は確か新宿NSビルのホールで行われて、マルチメディアタイトルのアカデミー賞を目指すんだってことで全員が正装を求められていたのを記憶しているけれど、そのスタイルだけはしっかりと維持されながらも、中身はずいぶんと変わったというか、クリエイターをメーンに讃えるという大前提がやや崩れて「大賞/総務大臣賞」に輝いた「妖怪ウォッチ」は、それを手掛けたクリエイターというより、企画を立ち上げ推進した日野晃博さんが出席して賞を受け取っていた。

 まあそれも仕方がないっちゃあないんだけれど、昔だったらあそこに「妖怪ウォッチ」開発チームも一緒に並んで受け取っていたなあ、と思うと隔世の感。それは他のタイトルにも言えることで、開発した個人というより会社が受取人になっていた。AMDに加盟している会社がマルチメディアを制作しているファクトリーと言うよりは、コンテンツの流通を支えている大企業だったり玩具メーカーだったりネットワーク会社だったりと大きなところばかりで、立ち上がりのころのデジタローグにシナジー幾何学にボイジャーにオラシオンにインフォシティといった顔ぶれは一部を残して変わってしまったし、イニシアティブという意味でも大きな会社が持って新しい企業を引っぱり入れている。

 携帯電話の販売会社とかが入ってそれがデジタルコンテンツなのかなあ、って思わなくもないけれど、運営してくにはお金が必要でそれを持ってる会社がどこか、ってことになるとそう成らざるを得ないのかもしれない。寂しいけれどこれ、現実なのよね。まあ仕方がない、それでもちゃんと受賞するべきところが受賞しているなら文句も言わないってことで今回の「妖怪ウォッチ」は文句なしに昨年度の最大のヒット作。ゲームが売れてアニメも人気になって玩具なんて莫迦売れしてと、もう隙がないくらいのヒットぶりって奴を見せてくれた。

 それを計画してクロスメディアとして展開してちゃんと当ててみせたところが、日野さんの凄いところで「イナズマイレブン」とか「ダンボール戦記」といった作品でいろいろと経験し、「機動戦士ガンダムAGE」で引っ掛かったところも改善して臨んでちゃんと回収してみせるその才能を、讃えない訳にはいかないだろう。ただあっぱり国内限定ってところで日野さんが目標に挙げた「ドラえもん」なり「ポケットモンスター」のように世界のコンテンツになれるかどうかが目下の課題。それ以前に国内での下火感も漂う中でどう維持し、同持ち上げどう展開させていくか、そこにちょっと目を向けたい。それとも次へと切り替える準備をしているのかな。

 ちょい企業っぽいのが受賞するAMD理事長賞は、「SmartNews」が受賞ってことで東洋経済だっけ、あるいはハフィントンポストだっけかで名前を見ていたらいつの間にスマートニュースに移ってたんだ的な松浦茂樹さんが登壇をして、赤いメガネでぬいぐるみを手に持ち歩いてた、って贈賞の場にはぬいぐるみは抱えていなかったか。少し前にかき集めたニュースの中に例の川崎の事件の犯人の顔写真と実名が混じっていたとかで問題視されていたけれど、そこでちょっと間違えましたと謝ったもののそうしたことが起こり得る仕組み、編集機能ではなく収集機能に傾くメディアの特性めいたものが浮かんで果たして、発展してって良いのかどうかといった悩みも浮かぶ。

 そういうメディアだから仕方がないと言って良いのか悪いのか。お行儀の悪いネットメディアも少なくない中でせめて最先端を行く企業はもっと、編集も倫理も真っ当に機能していって欲しいけれど。古巣の東洋経済オンラインは、誰かがやってるブログを集めたメディアから原稿をもらってはいるものの、そのブログが池内恵さんの本からのまるまくりだったりして、池内さんからいろいろと突っ込まれているものなあ。直接は悪くなくても、集めるコンテンツの質を問わない体質は前に得体の知れない発明を讃えていたおじさんの原稿を載せていた頃と変わらない。どうなったんだ例の発明、放射線を中和するとかいった。反省も検証もしないで日々垂れ流していくネットメディアが招く心性の崩壊。それが今は怖いのだった。

 ふと思い立って近づく実写版の映画の公開に向けた予習って意味も含めて、前に買ってあった「機動警察パトレイバー2 the MOVIE」のDVDのlimited editionって奴を掘り出して、1993年版の声が素人さんたちで占められているバージョンを見たんだけれどもそこに描かれた、仕組まれてなし崩し的に治安出動がなされ、戦争へと持って行かれる状況って奴がむわっと浮かんでむほむほと咳き込んだ。あるいは今。もしくはこれから。起こり得そうなことだけに心配になりつつ、それを20年以上も昔に予見していた押井守さんという監督の力量に改めて感嘆する。あるいは伊藤和典さんの脚本力ってことになるんだろうか。いずれにしてもどこかの誰かの思惑で、それが普通になってそれが日常になって、それが当然になってそれが命を奪っていく世界の到来は、夢物語ではもはやないってことで。

 なにしろ国会という場で参議院議員の人が「八紘一宇」なんて言葉を引っぱりだして、これこそが今、求められている言葉だと堂々言ってしまうんだから何ともはや。もちろんその言葉自体が含む意味には、広く世界を1つの家として誰もが仲良く争うことなしに暮らしていこうよってものがあって、素晴らしいんだけれどそれを表に抱えつつ、ひとつの主体を皇国日本に限定してその色で染め上げようとして世界中から反発を食らって自滅した、そんな過去があるだけに終戦と友に「八紘一宇」という言葉はネガティブな意味合いとともに封印された。それは今も変わっていないはずなのに、知ってか知らずか持ち出し讃えてみせるから分からない。

 きっと意味なんてたいして知らず、戦前をこそ素晴らしい時代と思い込み、そこで使われていた言葉に間違いはないと信じているだけなんだろうけれど、それは違うと糺したところで言うことを聞く頭でもなさそうなところが悩ましい。ならばここは本来の意味を分かってもらい、ユダヤ人をも受け入れた博愛の思想を今に受け継ぎ、嫌韓も嫌中も引っ込めて欲しいんだけれどそれはそれとか言いそうだからなあ。それでいて「八紘一宇」は素晴らしいという。何という矛盾。そして何という無知。でもそういう立ち居振る舞いが通ってしまう言論環境があり、政治環境があるってことが何より怖いし恐ろしい。きっと明日は「欲しがりません勝つまではが」尊ばれるに違いない。どこに勝つ気なのかは知らないけれど。やれやれだ。


【3月15日】 トランス物は割と好きであれこれ読んでいるけれど、ネットでの連載ということでちょっと手が及んでいなかった幾夜大黒堂さんの「境界のないセカイ」って作品で、あれやこれや起こっているようでその経過を見てちょっと茫然。具体的に表現に関して誰かから突っ込まれた訳でもないし、それ事態が将来において何か問題化するとは思えず、仮にそうなったとしても説明を行うことで理解へと至らしめることは十分に可能であるにも関わらず、何か異論があるかもしれないという理由でもって単行本の発売が行われなくなり、それで収益が上がらないならとネットでの連載も中止になってしまったという。

 いろいろと奇妙なところがあるけれど、まず後者から。単行本にならないと掲載がうち切られるっていうのは、ネット連載の世界で割と普通になっていることなんだろうか。紙の雑誌に連載されなくたって、いずれ単行本化されることで費用を回収するってことはもちろん絶無じゃないし、そうでなければサーバーの費用もでないしプロが描く漫画の原稿料だって出ない。だから、いずれ単行本化を視野にいれて費用なんかが計算されているところで、その目標がなくなった段階で目算画はずれるってことは十分にある。ただそこで、連載を止めなくたって別の方法で回収に向かうことは可能のような気がしないでもない。

 不人気で打ち切りになるならまだしも、表現でもってあまりにナイーブにあり過ぎた結果だったら、そこで修正を入れつつネットでの連載を続行しつつ過去のアーカイブを見せる料金をやや引き上げるなり、この際だからとネットだけの単行本にして、評判も加味しつつ売ってしまうっていうやり方だって出来ない訳じゃない。そんなに甘くはなくって、やっぱり単行本として刊行される方が得られる金額も大きいんで、それが外されると一気に目算が狂うというなら仕方がないけれど、電子書籍の時代が到来とか言いつつ紙の単行本が混ざらなければ回らない状況が未だに続いているっていうのも一方では奇妙な話。ここを改善していかないといつまで経っても紙に依存の状況が続いてそれで、出版社の妙な配慮に振り回されるって事態が続いていくことになる。

 だったらそれで仕方がないとして、別にうちは抗議があたっって気にしません、説得しますから大丈夫ですと引き取ってくれる版元が現れてくれれば、この一件もとりあえずは収まってくれるんだけれど、これまでの連載にかけたコストって奴が、単行本化を予定していた出版社から前借りのような形で運営しているサイトなりがもらい、それで原稿料がまかなわれていたとしたら、移動も簡単にはいかなかったりするのかも。権利を主張しお金を返せってことになり、その分負担が膨らむため他の版元からは手が上がらない、なんてことになったら目も当てられないんで、その辺り、事情が分からないんで仮にそうだとしても、うまく転がってまとまって、本が出るなり連載が続くことを今は願う。

 それはそれとして講談社、弱いところを見せてしまったなあ。まだ一切の抗議がなく、そして抗議があってもそれは曲解であって、正当に説明できる類のものであり、たとえそうでなくてもひとつの表現であり、旧態依然であっても決してマイナーではない見解を、異論があるかもしれないとう可能性でもって制約し、潰してしまっていったいそこでこれからどんな表現活動が出来るんだろう? 男性社会なり人間関係のひとつの形を絶対性めいた強い表現でもって描いたら、それは必ずそうでないところから抗議を受け得る。誰もが納得できる普遍の感性なんてものはないんだから。

 金持ちの絶対を描けば、対極に立つ貧乏人の絶対を元に反論を招くだろうし、逆もまたしかり。そんな中である程度の普遍性、もしくは社会性なり倫理性を探りその範囲を見極めつつ、時に挑むことで新しい表現というものは生まれていくし、広がってもいく。もしも単一の基準しか認めず、それ意外は配慮によって制限するなら表現は死ぬ。そのことを分かってやっているんだろうか。いないんだろうなあ、単純に今、ヤバいところに突っ込まれたくないという逃げの姿勢、そして一時しのぎ。それがこうして話題に取りあげられて炎上し、その体質として喧伝されてしまう。

 そんな可能性をまるで考えないで踏み切った担当者は、表現の自由に挑み潰した敵として、永遠に記録に刻まれることになるだろう。そうなりたくなければ早急の釈明と、そして最善の対応を望みたいところだけれど、果たして動くかなあ、動けるんならとっくに動いているよなあ。あとはだからどこかの大手マスコミがかぎつけて、記事にして何かを言うかだけれど、マイノリティの立場に立ち過ぎたような配慮につっこめるマスコミもまたいないところに、この社会への息苦しさが募る。傍若無人なマッチョ新聞があるにはあるけど、頭悪そうだしなあ…。もう八方ふさがり。だからせめてネットで話題になって、最善が開かれることを今は願おう。

 浅草橋にある「パラポリカ・ビス」ってギャラリーで始まっている西島大介さんによる「世界の終わりのいずこねこ」展を見にいく。文具会館だっけかがそばにあって数度だけれど同人誌の即売会をのぞいたことがある地域だけれど、そんな場所の古いビルを使って造られたギャラリーには、幾つか部屋があってヤン・シュバイクマイエルやらカフカやらをテーマにした展覧会が行われていて、カフカに扮した森村泰昌さんの写真が売られていたりして、こんな場所にこんな店がと思ったけれどもそういえば小山登美夫ギャラリーだって、昔は深川の食糧ビルだなんて古いビルに間借りして、そこで村上隆さんやら奈良美智さんやらを扱っていた訳で、東京の東の商業街やら問屋街と現代美術って、案外にマッチしているのかもしれない。西とか中とか家賃高すぎるし。

 さて展覧会は映画に関連した小道具めいたものとか映画のスチルなんかも飾られながらも、メインは西島大介さんいよる漫画版「世界の終わりのいずこねこ」の原画とか、それに出てくるキャラクターのパネルなんかで、原画とか見ると本当に未だに手書きでそこにシュッと真っ直ぐな線を引いて、木星からの輸送船やら放射線なんかを描きつつベタを手塗りしてあって、そのムラなんかが残っているのが見えてしまう。でも印刷されるとちゃんと真っ黒。そして真っ直ぐな線。凄い技術だなあと思うし、それでも手書きだからこそ図案的でもどこかに漂う暖かさ、あるいは揺らぎのようなものが感じられて見ていて馴染むのかもしれない。タブレットになって線を引いたら真っ直ぐはどこまで真っ直ぐになってしまいそうだし。そうじゃないとしても。

 展示物ではあと、イツ子とスウ子とレイニー&アイロニーが描かれたパネルがあって手書きでそれが1枚5万円で、4点まとめて買いそろえたくなったけれども手元不如意なのが残念。でもいずれ1枚が100万円になったって不思議はないその完成度。ちょっとだけ考えてみようっと。あと登場する同級生たちのちょっと小さめの絵が1枚3万円で並んでた。これお良いなあ。大きいパネルにイツ子とスウ子が描かれたのは10万円だけれど売れていた。誰が買ったんだろう。関係者だろうか。会場には映画でスウ子が手に持って立っていた「反対」のパネルと被っていたヘルメットが置いてあって、手に持って被れば誰でも何かに反対できるんで行ったらやってみよう。何に反対するかは各人の自由。講談社だろうとマンガボックスだろうと安倍ちゃんだろうとオッケーだけれど、届かないのがスウ子の「反対」だからなあ。やることに意義がある的な。まあそれも態度だから良いんだけれど。

 いよいよもってデジアナ変換も終わるみたいなんで地デジチューナー付きのHDDプレーヤーに換えるかどうかを秋葉原まで歩いていって検討したけど体力が持たず、空を見上げると天候も崩れかかっているんでフクダ電子アリーナでホームでのオープニングゲームとなる「ジェフユナイテッド市原・千葉対水戸ホーリーホック」の試合を見に行くのも断念して、大手町へと出て「今敏 絵コンテ集 PERFECT BLUE」を買って帰宅して寝る。絵コンテについては出し直しがされた「PERFECT BLUE」のDVDとBDボックスの初回版を両方を持っててそれについているんだけれどでも、大判でもって見てもやっぱり美しいだろう今敏さんの絵コンテは手元においておきたいところ。これを前に新宿眼科画廊で今敏さんに苦笑いされながらも通って5000円以上何か買っておまけにもらったセル画と動画のカット袋をつき合わせ、どこがどうなっているかを検討しながらお酒でも飲もう。その前に部屋をきれいにして、広げられる場所を作らないと。


【3月14日】 1カ月前に一切の授与が発生していない以上は今日、一切の贈与も発生しないのであったとう、それを喜ぶべきか悲しむべきかはそもそもが、授与に一切関わったことのない身にはどうにも判断がつかないのだった。つまりはそんな日常がやって来ただけということで、ひとり家でメイプルクッキーを囓る。ちょっと前にカナダ大使館でおやつに出たのを囓って以来、趣味になっているのだった。店によって2種類あるけどどっちが正解なんだろう、今は白い箱に「Tradition」って書いてあるのを食べているけど、前は別のブランドのを食べたっけ。味はどっちお甘くて美味しいから良いんだけれど。

 SF方面で何かあったみたいだけれど、まるで関わっていないので遠巻きにしつつよっこりゃしょっと立ち上がり、ではるばる甘城市へと行ってブリリアントパークの閑散ぶりを見に……ではなくってそれとよく似た稲城市ってところで開かれた、第3回メカデザイナーズサミットとやらを見物に行く。稲城市が誇る偉大なメカデザイナーの大河原邦男さんをフィーチャーして、自治体としての稲城市が主体となって開かれているらしいこのイベントでは、大河原杯ロボットバトルトーナメントなるものも行われて、そこではジオングに焼かれて首の取れたガンダムが、ビームライフルを上に向けたその銃口を見下ろし飛ぶジオングの頭が優勝を果たした。

 いや本番では頭だけじゃなく胴体も飛んだけれど、浮かんでは進もうとしてつんのめる繰り返しで、その間をガンダムはちゃんと普通に立っては手持ちぶさたな感じで、そのまま不戦勝でも良かったし、相手の出方に答えてちゃんとポーズも取ってみせるサービスぶりで、雰囲気としても圧勝だったのに勝ったのはインパクトの強かったジオングの方。飛ぶという驚きは見せてくれたけれど、ロボットとしてどうなんだ? って思わないでもなかったけれどこれはロボットの強さを決める「ROBO−ONE」ではないので仕方がない。そもそもが1回戦を勝ち上がった8チームが、対戦するには余りにも時間が少ないということで、拍手での決選投票となった状況も、勝利が必須のトーナメントではないってことを表している。

 そんな中では、個人的にはドロップキックを放ったキングカイザーJがやっぱり凄かったし、ロボットとして優れていてし圧倒的に強かったんだけれど、それでも勝利はジオングの下へ。そんな展開も含めて、強さだけでなくインパクト、あるいはキャラクター性こそが重要だっていう、続く大河原邦男さんと河森正治さんとのトークでの、一種の結論めいた物へとつながる布石だったのかもしれない。という訳で、アニメ特撮研究家の氷川竜介さんも交えたトークでは、2人ともメカ好きで立体好きだったのが、絵を描くようになって行ったあたりの経歴の似通いぶりに共通する、その手によってデザインされるメカの立体化した時の実在感といったものが伺えた。

 ただ絵としてスタイリッシュなだけじゃない、線が少なくなっておもちゃになって、それでもディテールが変わらず格好良くって楽しいかどうかといったあたりも含めたメカデザインの意識。それがないとやっぱり商業としてメカデザインをしていくのは大変ってことなのかもしれない。それとも大河原さん河森さんに固有の意識なんだろうか。2人とそれから先輩で、やっぱり商業を意識したデザインをして来た村上克司さんのロボットが、長く立体物として存続しているところに、その正しさがあるのかもしれない。あとトークでは、CGがが使えるようになって線の密度を上げてディテールを作っていくメカデザインも増えているけど、そうした線が減ってもちゃんと形が残って面白くないといけないねえ、って話がでていてなるほどなあと。

 なるほど絵として見れば格好良く、それが最近のCG作画によって画面内でもそれなりに動くようになってはいても、立体物になるとその格好良さがそげてしまうことってある。プラモデルならまだしも、子供が扱って楽しい玩具となると、そのニュアンスが落ちて生の形がでてきてしまう、そんな時、やっぱり格好良さが維持されているかどうか、ってところで重要になるのが、メカ自身のキャラクター性。それが足りていないと、やっぱり見て永遠に残るものにはならないらしい。パッと見でハッと思わせないと。でも今は絵としての格好良さに流れてしまっている感じ。それが案外に、今のメカデザインが世に残りづらくなっている理由なのかもしれない。 最近何があったっけ? って思うものなあ、実際。

 こういう言葉を書いている指が、どうして腐り落ちてしまわないかと書いている人間として不安に思わないのだろうか。真っ当な頭を持っているなら、そして人間としての心を持っているならとてもじゃないけれど出てこないし、出たとしても書けない言葉を書いてはしたり顔をしてまき散らす。それで心が痛まないんだろうか。例の大塚家具における社長と会長の確執で、社長を務めている久美子さんが会見をしたようだけれど、その一問一答を綴ったネットでの記事に付けた見出しが「大塚かぐや姫会見」。なんだこれは。なんなんだこれは。

 大韓航空の副社長につけた「ナッツ姫」というあだ名も侮辱的だったけれど、一応は罪に問われる行為をしたこと、それが創業者一族という立場に由来するものとして「姫」という称号でもって揶揄しつつ窘め、自省を促そうという意識もそこにないでmない。でも大塚家具は違う。その経営方針を巡って対立しているだけで、それぞれに支持者もついて今はどちらが正しく次の経営を担うべきかを争っている最中で、どちらが上で下でもない。なおにこの見出し、この称号。それを新聞という社会の木鐸を自認し、だからこそ軽減税率の対象になるべきだと主張している媒体が平気で使う。気持ち悪いことこの上ない。

 なるほどネットスラングでかぐや姫なり家具屋姫と呼ぶのはあるかもしれない。噺家やコメディアンが状況を嗤ってそう呼ぶのもあるだろう。でもそれはフォーマルじゃない。一企業のトップが最前線でしのぎを削っている時に、使って良い言葉じゃない。なのに使ってしまって一切恥じないその神経はいったい何なんだろう。社会の木鐸を捨てているんだろうか。煽り上等の誹謗中傷混じりな見出しであっても、それでアクセスが稼げれば本望なんだろうか。いやいや未だに軽減税率とか言っている以上は、最初からアフェリエイト狙いのまとめサイトの方がまだ正直。それにも劣る所業と断じて構わないくらいのみっともなさだろう。

 というか、そもそもが使って大丈夫な言葉なのか? 社長の役職に娘であるとか女性であるといったことは関係ないのに「姫」よばわり。でもって職業を家具屋呼ばわり。事実としてはそうではあっても、そう呼ぶ言葉に親しみも情愛もなく、からかいしか滲んでいないのは明らかに差別であり、ハラスメントの言葉だろう。聞けば決して愉快じゃないそんな言葉が、社会の木鐸を担う新聞の看板を掲げたサイトに載せられ、そこで働く女性たちは違和感覚えないんだろうか。覚えていたらちょっとは何か言うんだろうけど、まるで変わる気配がないところを見ると、上から下までそういう心性に染まってしまっているのかもしれないなあ。なるほど曽野綾子さんのアパルトヘイト気味なコラムだって載ってしまうし、韓国の大統領を噂の合成によって揶揄して非難されたりもする訳だ。起こるべくして起こったと。そしてまた起こり得ると。その先に来るものは? やれやれだ。


【3月13日】 さかなクンに「さん」を付けるのはやっぱりキャラとして妙なんで、ここは真っ直ぐに「さかなクン」と呼ばせていただくさかなクンが、上野にある国立科学博物館にやって来て、アロワナだかピラニアだかの話をしまくっていたのを間近で見て、本当にこの人はサービス精神が旺盛で、そして知識の伝播に熱心なんだなあってことが感じて取れた。自分がそうすることによって世間の耳目が集まり、そして伝えたい事柄がちゃんと世間に広まっていくという、そんな文字通りの“広告塔”をてらいもなくやってしまえる人格の素晴らしさ。なおかつそうした人格を裏打ちする知識の豊富さ。そりゃあ新発見だってするし、学校から呼ばれて講義だってするよなあ。

 お笑い芸人を呼んでメディアだけ集めるのとは違った、知識も共に伝播できる学者芸人、あるいは芸人学者。こと魚類の分野では他に変えられる人がいないだけに、これからもどんどんと活躍してくだろう。といった感じでさかなクンが現れた展覧会「大アマゾン展」の内覧があったんでさらりと見物。化石があってカピバラみたいな動物たちがいて、ナマケモノがぶら下がっていて熊がいてキツネもいて鳥たちもいたりする中で、珍しくキノコもあったんで担当していた学者の人に聞いたら、日本とはやっぱりまるで種類が違っている中に、少しだけ日本にもある種類のキノコが生えてるんだけれど、どうしてそうなったのかは分からないとか。

 人が連れて行った訳ではなく、風に乗って胞子が飛んだ訳でもない。想像するなら世界中に伝播した後で、日本とアマゾンにだけ残ったといったところで、だから系統が分かれてもうとてつもない年月が立っているという。遠すぎる親戚、って感じだろうか。人間だったら動いて広まっていくけれど、自分で動けない植物のそれもキノコという小さな生命ですらこうした、地球の広さを感じさせてくれる何かを持っている。生物学って面白いなあ。若かったら学んでみたいけれどももう、そんな歳でもないのだった。あとモルフォ蝶の話なんかをそこにいた偉い先生からあれこれ。

 何でもモルフォ蝶の鱗粉だか体表の構造は2層になってて、上は透明で下が黒かったり白かったりすると見え方が、モルフォらしい青になったり白い蝶になったりするそうな。不思議な世界。そんな蝶のコーナーに、三菱レイヨンが蝶のそうした構造を応用して、光の反射を防ぐシートというのを開発したのが置いてあった。ガラスに貼ると映り込みが減って中の展示物がくっきりという。導入すれば博物館でも美術館でも中の標本なり絵がくっきりと見えるようになるんだけれど、全部に貼るのはコストもかかるらしいので今は部分だけ。いずれそうした研究が行き渡っていくんだろうなあ。そんなことを思ったり。グッズコーナーにはなぜか透明標本が。あとぬいぐるみが。また行って買おうヤドクガエルのぬいぐるみとか。

 そういやあもうずいぶんとインタビューらしいインタビューの仕事をしていないんだけれど、展示会であってもそこにいる人から説明を聴くのもまあインタビューの一種とはいえないこともなく、そこで必要なことを聞くのに参考になるのかなあと、ラジオの世界と雑誌の世界でインタビュアーとして活躍している吉田尚記さんと柴那典さんの対談が代官山の蔦屋であったんで見物に行く。ロッキンオンに編集として入り、ライターといっしょに取材に行ってインタビューに立ち会いながらインタビューの仕方といったものを感じていった柴那典さんがひとつ、影響を受けたスタイルがあるとしたら、それはロッキンオン編集長の山崎洋一郎さんで、もう初っぱなからこはこうだという核心をついて、そこで相手の了解を得て話を繋いでいく方法がるんだとか。

 ただしこれはここぞ、って時しか使えなくって、だってもしも「違うよ」って言われたらもう後が続かない。地獄のような時間を過ごすことになるんでそこは撤退して、日野さん? って言うらしい別の有名な人のように、インタビューイがボールを蹴ってる周辺の柴を刈りながら近づいていく方法へと転じてアプローチをしていくという。それは巧い切り替え方。自分もどちらかといえばそういった、周辺から近づいていってエンジンを暖める方が多いけれど、憧れとしては山崎さん流の方でそれは相手のことをよく知っていなくちゃできない上に、自分の意見も持ってなければ出来ないこと。そういう人がただの聞き手から、批評といった世界へと進んでいけるんだろうなあ。僕にはちょと無理かも。っていうか新聞系はそういうのってあんまり必要ないんだよね、数行から数十行の「事実」が聞ければそれで良いから。

 雑誌はそうはいかず、長いページを言葉で埋めなくちゃいけないから、切り替えて言葉を繋ごうとする。さらに困るのがラジオの場合で、「違うよ」と言われてそれで話が続かなかったら事故になる。ただこれも雑誌とラジオの場の違いというものもあるみたいで、事故にするのはヤバいかなあ、という相手の思いなんかも引き受けつつ、こちらの思いが相手の思っても居なかった面を引き出す可能性なんかも含んで押し切ると吉田さんは話してた。それで話が弾めば万々歳、まとまって番組にちゃんとなる。そのあたりがラジオと雑誌の違いだろう。ただラジオの場合、インタビュアーがラジオで相づちを打つと後で編集が難しくなるからと配慮しているという話も。いずれにしても基本はやっぱり相手から何を聞くかってことで、そこで大きなテーマをぶつけて話を転がすなり、相手の関心に興味を持って攻めていくなりが必要と。

 それは一種コミュニケーションの在り方でもあって、相手と仲良くなりたい、そうでなくても近づきたいと思った時に会話をして、そこで相手と趣味がまるで合わずに断絶してしまうってことは割とある。でもそこで相手の興味があることに、自分も興味を持っていくようなアプローチができれば深く関係していける。それは下手に立っての媚びでもなければ上から目線での憐れみでもない。お互いがお互いのことに興味を抱き、それぞれが抱いている興味に興味を抱いていく連鎖によって接する幅は広がり近づいていける。そういうコミュニケーションが相互にできれば良いけれど、歳を取ってくると偏屈になって自分だけが分かれば良いやという態度に出て面倒だからと退いてしまうから未だに前向きになれない。そのあたり、ちょっと直さないと死ぬまで宴会とか披露宴とかに出ないで過ごすことになりそうだなあ。葬式すら行かないものなあ、知り合いが少ないと。

   広告が幸せにサイエンスしているところばかりってのは、別に今に始まった話じゃないしそこが作った政党の偉い人のコラムが載り始めたのも、もうずいぶんと前のことで今さら感が強いけれどもただ、当時はさすがに毎週はヤバいだろうってことになって途中から、違う政党の代表のコラムなんかも載せ始めてバランスを取ろうという雰囲気を、出す努力はしていたっけ。それもだんだんと苦しくなったか、違う媒体はもう毎週のように政党の偉い人のコラムが載るし、そこから支援を受けてるっぽい米国おっさんが頻繁に出てきて、ほとんど乗っ取られている状態。それを知ってる多くのメディアは、そんな米国おっさんの言葉を後追いもしなければ、目すら向けないんだけれどそれにすがるしかない媒体は、余計にそれ一色となってオレンジ色は幸せ色に染まりつつある、というのが昨今。

 そんな悲惨な状況を、ようやくもって取りあげたネット媒体があって、まあ遅すぎるって思うけれどもそこの中でちゃんと指摘していた1つの事態があったのは嬉しいかもしれない。千葉の海岸っぺりに作ってた大学がまだ認可もされていない段階で、これから認可される大学の紹介をするぞってコラムが唐突に始まったのが夏ごろだったっけ、それを見てああこれはと思ったら、やっぱり第2週でハッピーに科学している団体が出てきて、そこが設立準備を進めている大学を思いっきり宣伝してたんだけれど、その翌週から他にもあるはずの認可待ち大学の紹介はなくなり、あまつさえその大学は認可すらされずさらには5年は申請出してくるんじゃないと文部科学省から叩き出されたという始末。

 つまりはカリキュラム的に相当にヤバげな大学だった訳で、それをまだ認可すらされていない段階で紹介したっていったい読者のためになるのか? って話があった訳だけれど、そんな風に読者のためって頭はきっとなかったんだろう。つまりは宣伝のため。あるいは広告のため。記事といったところで裏でどいういうやりとりがあったか分かったもんじゃないし、書いているところだって記者がいる編集局とは違ったところが原稿を寄せて、それをあたかも記事のように掲載しただけかもしれない。つまりは記事と偽った広告で、それって本当は社会の木鐸的にとってもイケナイことなんだけれど、あくまでそれは記事だと言い張り別に広告をもらえば世間的には分からない。

 かと思ったら他の広告が入らない中で幸福にサイエンスするところばかりが目立ってしまって、やっぱりベッタリだったんど露見したというのが今回のネット記事ってことになるんだろう。当時からやれやれと思ってた身にはやっぱり今さらだけれど、波及力のある媒体がこうして記事にして赤旗までツイートしてたくらいだから、きっとちゃんと追求もあってくれるんじゃないかなあ、その結果、載せた媒体がどうなるかってのはひとつの問題ではあるけれど。しかしやっぱり異常だよ、広告が多いってのはそれとして、いかにもな連載が立ち上がっては目的らしきものを果たしたら、連載がパタッと消えてしまうのは。もはや体裁さえ取り繕うって意識がないか、それをする余力するらないかってことになる。大丈夫だろうか。大丈夫じゃないからこうなっているというか。やれやれだ。


【3月12日】 テレビアニメーションで映画にもなった「PSYCHO−PASS サイコパス」からスピンオフした吉上亮さんの小説「PSYCHO−PASS GENESIS1」(ハヤカワ文庫JA)を読んだら、これがもう面白くってラストシーンまで一気読み。実を言うと前に出ていた、アニメーションに出てくるキャラクターたちをそれぞれに描いた「PSYCHO−PASS ASYLUM」は映像で見知ったキャラの前後を今はまだ、あんまり知りたくないと深くは読んでなかったりするんだけれど、この「GENESIS」はアニメではとっつぁんとなっている征陸智己が、まだ新人の刑事として活動を始めた頃から筆を起こして、だんだんとベテランになって姿の一方で変貌する社会環境も描いてあって、あのどこか異常で異形な「PSYCHO−PASS サイコパス」の世界がどうやって成立してしまったのか? ってあたりが見えて戦慄が走った。

 つまりは今のこの社会が、監視され管理されるようになっても、それを誰もが従順に受け入れてしまう可能性って奴。初期には抵抗もあって反発もあったシビュラシステムによる監視であり、潜在犯の除去の容認といったものが、どういう経緯で弾圧なり懐柔を経て導入されてしまったのかといった描写は、来るべき社会の変化に立ち向かうなり仕方がないと受けれるなりといった判断に大いに役立つ。いや役に立っては困るのか。あんまり困らないかなあ、潜在犯ではない真面目で真っ当な人には。ってそういう人ですら刺激を受けて誘いをもらえば、すぐに“落ちる”可能性ってのも示されているる。なおかつそうした人を取り締まっている者が、だんだんと染まっていって“落ちる”可能性も。智己も結局はそうなって潜在犯に落ち、近所から迫害をされて子供に疎まれることになる訳で、そんな潔癖さの裏に汚泥をはらんだ2枚仕立ての社会への、怖気が浮かんで震えてしまう。

 お話はまだ終わっていなくって、刑事警察が解体されて厚生省の公安局に吸収されつつ、公安局の管理官はまだ現れていないけれど執行官という潜在犯を起用した存在は現れ、そして潜在犯というカテゴリーも明確にされていく過程が描かれていてその中で、今はまだ安全圏に踏みとどまっている智己が、どういう事件を経て変わっていくのか、かつて自分が師事をした男が冒頭に描写されるように悪へと落ちていった果てにどんな事件を起こし、智己とどういう風に対峙するのかといった展開への興味を誘われる。まだ幼い息子がどういう風に育っていくかも。あれだけのひねくれた性格になるんだから、いろいろあったんだろうなあ。どうやら全4巻のようなんで次から次へと繰り出される物語から、変化する社会のどこにターニングポイントがあったのかを探り、そうすべきか否かを考えたい。

 声優の小川真司さん死去、といっても活躍しているのはもっぱら洋画の吹き替えで、ロバート・デニーロとかマイケル・ダグラスの声を担当しているといわれても浮かぶのはデニーロであったりマイケル・ダグラスの顔ばかりで、それだけ雰囲気にマッチした声を出す人だったんだってことなんだろう。声が逆にキャラクターを作り出したって意味ではアニメーション「BLACK LAGOON」のロベルタ復讐編でもって演じた、NSAの思惑で動く米国陸軍のシェーン・J・キャクストン少佐があるいはその実直さ、その勤勉さ、その勇敢さ、それゆえに国のために絶対を貫く頑なさって奴を声でもって醸しだしていて、ピッタリだったかもしれない。74歳で死去。もう珍しくはなくなっているけど、そういう年齢に達した先人たちが次々って感じだなあ。来たれ若者よ。でもいるかなあ、洋画でキャラを壊さず雰囲気を出せる人。

 ちょっと前に「週刊少年サンデー」が40万部を割るかも知れないって話が流れて来て、たぶんそれを参考にしたんだろうなと日本雑誌協会が出している印刷証明付き発行部数のページを見たらやっぱり確かに2014年の12月末でぎりぎり40万部に乗っていたけど「週刊少年マガジン」が119万部とかで、「週刊少年ジャンプ」が260万部になっているのと比べると41万部はいかにも少ない。「週刊少年チャンピオン」がどれくらいかは分からないけどどっこいどっこいだとすると、ちょっと先行きも不安になってくる。っていうか200万部を軽く超えて「ジャンプ」すら凌駕する時代もあった「マガジン」がこれで、そして600万部を誇った「ジャンプ」がこの数字というのも世知辛い。そんなに読まれなくなったのかマンガ誌は。それとも買われなくなっただけ? コンビニで読んでしまうものなあ。

 それはそれとして、ついでだからと見たアニメ誌の部数にちょっと驚いた。「ニュータイプ」の部数が5万8834部で、そして「アニメージュ」が5万6134部とその間に2700部しか開きがなかった。気持ち的には3倍の多さで「ニュータイプ」が優っていたと思っていただけに、この僅差ぶりに驚いたし何より「ニュータイプ」がこんなに減ってしまっていることに驚いた。データにある1番昔の2008年の4月から6月で「ニュータイプ」は15万7000部あって、そして「アニメージュ」は6万4000部だから3倍とは言わなくても2・5倍の開きはあったのが、今はもう誤差の範囲内といった感じ。そして「アニメージュ」の減りが1万部なのに「ニュータイプ」は10万部近く落としてしまっている。

 いったい何があったんだろう。「ファイブスター物語」の連載がないっていうのはまあ、あるかもしれないけれど、それでもここまで減ることはないだろう。だったらアニメを見る人が少なくなった、ってことになるけど、それなら「アニメージュ」なんてもっと減ってていて良いはず。そうでないところにきっとアニメ誌を読む人たちの関心の向く方向が変わってきたっていえるのかも。女性が好んで買うキャラクターを積極的に取りあげ作品を取りあげるようになった「アニメージュ」は、そうした一定数いるファン層を確保したけど、遍く作品を広く取りあげ先鋭的なものもプッシュする「ニュータイプ」も、それに付随する一定層しか確保できず、それがほぼ互角になっているっていう。

 でも女性向けより圧倒的に男性向けが多いアニメで、女性より数倍のファン層を確保できないのか? って話になるけどそういう人たちはもはやアニメに関する絵は欲しくても、クリエイターの情報とかをそんなに必要としてないのかもしれないなあ。あるいはどんなアニメでも見る人たちの数がそれだけになってしまっている? 個々の作品を見ていてもアニメ誌を買おうとは思わない人が増えている? 分からないけれどもこれを見るとアニメ誌の編集もいろいろと変わっていかないといけないのかも。

 ちなみに最新の「ニュータイプ」2015年4月号は、創刊30周年ってことでクリエイターのインタビューが多く載ってて僕的には傑作号。10年保管してその時に、ここで話している人たちが何をやっているかを知りたくなったくらいだけれど、そういう細かさで毎号作るのは大変だし、そういう記事に需要がどれだけあるかも「アニメスタイル」の苦戦を見れば何となく分かる。価格を上げて必要な需要に応えるか、それとも遍くファンのいそうなところに突っ込み声優とかアニソン歌手とかの声を届けグラビアみたいな版権イラストを散りばめて稼ぐか。それよりは「ファイブスター物語」の連載再開が先ってことになるのかなあ、そいういう雑誌になってしまったことの是非、ちょっと考える時代にあるのかなあ。

 そしてどうやらサッカー日本代表監督がハリルホジッチさんに決まったみたいで阿らず憶さないで自分のやりたいサッカーを貫いてくれそうな東欧の監督の就任で、日本代表が自分の頭で考えつつそれだけにこだわらない強くなれるサッカーをやってくれるようになると信じたいけど、それにはやっぱり選手たちの意識の変化とか、それが出来なければ選手そのものの変更何てのも必要になって来そう。間際になってもパワープレーをやりたくない選手なんていらないし、できもしないでパスにばかり頼る選手もいらない。戦術があって規律があってそして強さを持ったサッカー。何よりちゃんと成長していっていることが分かるサッカーを、ハリルホジッチ監督なら見せてくれるだろう。いったいどんな指揮を執るのか。そしてどんな選手を起用するのか。まずは初戦だ。っていつから指揮を執るんだっけ。


【3月11日】 御堂筋くんがついにぶっ倒れたり、桃園奈々生が本気だして駆け回ったりしたのを録画で見たりしてから起き出して、東京ビッグサイトで開かれている自動車のナビとか何かが展示されているイベントをのぞいたら、テスラって米国の電気自動車がいて、それが前のボンネットの中も空っぽで、後ろのハッチを開けたところにも大きな空間があって、エンジンがどこにも存在しなかった。空気で動いているのか? だから電気だってば。電池があってそこから拾った電気でもって車軸に近いところにあるモーターを回しているとか。前にもモーターを置いてもやっぱりボンネットはがらんとしたまま。技術ってすげえなあと思った。

 というか、無駄な場所があるなら削って軽くしてより航続距離を伸ばすのが日本的な発想だけれど、テスラはゴージャスなサルーンといった感じで大型のボディをそのまま使い、コクピットもゴージャスなままで運転して楽しく載せられて嬉しい車に仕上げてた。そこが米国的かなあ。重量は2トンくらいあるそうで、それでも400キロから500キロは走るというから凄いもの。これが300キロだとちょっと遠出は気にしたくなるところだけに、大きくしてでも電池を載せて遠くまで走るようにした意味はあったってことになるのかなあ。そういえばライバルの水素自動車は確か300キロくらいだったっけ。そんな辺りのアメニティへの気配りの差が、どういった売れ行きにつながるか。対決に興味。

 他に見るものもなかったんで、同じビッグサイトの東館(ひがし・やかた)でやってた「建国博覧会2015」ってのを覗いてみる。最近流行なんでウエアラブルで健康管理をするシステムとかあるかなあ、って思ったけれども大抵はサプリメントとか健康食品の類で記事になりそうなものはなく、かろうじて前に「デジタルコンテンツEXPO」で見たキネクトでもって動きを読み取りその動きを技に変えて自動車にぶつけてぶちこわして遊ぶ、デイジーって会社のゲームが出ていたくらい。なるほど激しく動くんで運動になるし、高齢者の人とかが車いすのままで健康増進のために遊ぶ用途にも使えそう。見入っている人も結構いたんで、ここから何か商談がまとまると良いけれど。

 他にはないなかあ、と歩いていたところに見つけたのが、頭にくくりつけるVRメガネを使った「NUR*VE」って名前のフィットネス・プラットフォーム。つまりは3D空間に自分がいるような感覚で、ボクササイズだのいろいろなフィットネスを体験できるってもので、味気ない道場とかで腹筋してたりボクササイズするよりは、そうした仮想空間で遊びながら運動できる方がやる気も出る。そうした夢を形にしてくれた機器、ってことになるけどここでひとつ、特徴なのはVRのヘッドマウントディスプレイを独自に作ろうとしていること。中に映像再生装置が仕込んであるのも、スマホを挟んで擬似的にVRメガネに仕立て上げるものも含めて、伸縮性のある素材を使って頭にフィットし、簡単にはズレたり外れたりしないようにしている。

 これなら重たいメガネを頭に縛り付けるようにして見ることもなく、スクワットしたりダッキングしてもズレることなくそのまま運動し続けられる。洗えるようにもなっているから汗をかいても安心。フィットネス施設用のプロはキネクトなんかで体の動きを読んで映像に反映させるみたいだけれど、スマホを挟む簡易版はアプリも込みで1万円くらいだから、ちょっとばかりスポーティなVR再生メガネが欲しい人にはちょうど良いかも知れない。コンテンツはスクワットでトロッコを走らせるものもあれば、跳んできた球を腹筋して跳ね返すものもあり、ボクシングの動きを真似るものもあったりと多彩。そうしたメニューをヘッドマウントディスプレイを着けたまま、首を傾げて選べるのも配慮が行き届いている。どんな反響があってどんな売れ方をするか。ちょっと楽しみだけれど自分、スマホ持ってないんだよなあ。出たら買うか。

 4年目を迎えて未だ復興の途上にある状況の大変さに思いを深くする。その日になにをやっていたかは、はるか離れた場所で部屋に積んであったものが崩れた程度の被害しか受けず、何より無事にこうして生きている人間が振り返ってもあまり意味がない。今を懸命に生きている人たちのために、自分も懸命に生きて何か出来るかを考えるのが精一杯。その結果が事態の再来を防ぎ新たなる希望を招き寄せるならば嬉しいけれど、そうした状況を許さない何かがあるとしたら断固として戦っていかなくてはならない。それは何か。プライドだけが肥大して下を向けない為政者か。安全を絶対のものにしたがる頑固者たちか。分からないけれども生きている人たちが生き続けられるようなことを、して欲しいししていきたい。4年目に改めて。合掌。

 その合掌とか黙祷が、震災の起こった同時刻に全国いっせいに行われていることに異論を唱えている評論家の人がいて、言い分事態は自分はそうした全国一斉徒手体操みたいなことは嫌いだからやらないってことなんだけれど、自分の嫌悪感を多くが儀礼としてやっていて、政府もその時間に黙祷しようぜって呼びかけていることであるにも関わらず、お前らいったい何なんだって感じに喧嘩をふっかけているから、そりゃあ怒る人は怒るだろう。自分に関わりがなくなって、いつか自分とも関わるかもしれない事態への想像力って奴が、同時国の黙祷と合掌を誘っているとするなら、そうした行為への批判は想像力の欠如であって自己主張の押しつけでもある。

 一斉の黙祷も押しつけだけれどそれへの批判も同様に押しつけなのに、自分だけは正義とばかりに主張をし続けるからどうにもこうにも面倒くさい。世界が不思議に思うかもってニュージーランドでの地震があって1カ月後の月変わりの同日同時国に、ニュージーランドでいっせいに黙祷が行われるくらい、そうした1つの起点でもって何かをすることは割とありそう。なのに自分が巻かれるのは嫌だという感情を、世間に押しつけ俺って正しいだろう? ってばかりの言い分を並べて、それにいろいろと論理をつけて正しさを訴えようとしたって世間はそれを受け入れないし、受け入れる気もない。それでも結構というだろうけど、そういう思考が何か多くを啓蒙する言葉を生み出せるのかどうか。そこがこれからの関心事になっていくんだろうなあ。しかし何でああまでこだわったんだろう?

  ようするに奴らの言い分っていうのは、先の大戦でもって日本は一切の悪いことはしていなくって、それでも戦犯で裁かれたのは戦勝国の横暴だってことで、そこに土台を置いて語ろうとするから、例えばドイツが自分たちの反省を踏まえて日本もそうした方が良いんじゃないのと仄めかしても、一切の受け入れを拒絶して自分たちの無罪を主張しようとする。だからいろいろと鬱陶しい言葉が出てきて、同じ同盟国だったドイツも敵に回してしまいそうな感じ。とある自称するところの全国紙が、ドイツのメルケル首相の訪日に関して言ったことにあれこれ推測も交えて難癖を付けている。

 曰く「メルケル氏が9日の安倍首相との共同記者会見で、日本の行為を指してではないもののホロコーストに言及し、『過去の総括は和解のための前提だ』と指摘したことも、旧日本軍とナチスを一定程度混同している可能性をうかがわせる。だが、戦前・戦中の日本では、兵士らの暴走による戦争犯罪はあっても、ナチス・ドイツのような組織的な特定人種の迫害・抹殺行為など全く行っていない」。特定人種の迫害・抹殺行為があろうとなかろうと過去に犯した罪は罪、その軽重や内容が問われているのではなく状況としての行為であり根本としての戦争遂行意識が問われているのであってそこに立って自省を共に言うことで手を携え歩んでいけるのに、奴らは非道だが俺らは善意とか言って逃げようとする。

 何という姑息さ。言外どころか真っ向からドイツ人の方が酷いことをしているって書いてあるこの記事を、ドイツ語に翻訳してドイツ人たちに読ませたらいったい何を思うんだろう。問われていやいやナチスとは違うだけですよ、って答えたとしてもそこからじゃあ戦争で一切の罪は犯してないのかと突き詰められた時に、本音としての自分たちは無罪で高潔で素晴らしいと言ったら、もうど阿呆扱いされるのがオチだろう。既にして「南京大虐殺などカケラも無かった」の次に「東京大空襲は米国による無差別爆撃それのみである」というファクトを広めて、戦争責任の幻化を画策しているその筆が、日本を妙な方向へと一パリ内弁慶の挙げ句に袋叩きに会わないことを願いたいけど、その道を突っ走ってるんだよなあ、自称全国紙とそれが崇める安倍ちゃんは。やれやれだ。


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