縮刷版2015年12月上旬号


【12月10日】 そして気がつくと師走も10日が経って残りが20日とか21日とかそんなもの。早いけれどもそうやって、日々は過ぎて年もとって人は育ち成長してそして老いていくのだった。とかどうとか。そして「対魔導学園第35試験小隊」は草薙タケルの妹という草薙キセキが出て来たけれども入院しているか弱い少女どころかSS級の危険指定として異端審問会の奥深くに幽閉されては何度も殺されて組成するという悲惨な状態になっている。でも仕方が無い、生きていれば必ず世界を滅ぼしてしまうだけの危険な存在。かといって消滅させることが不可能ならばお兄ちゃん成分でもって危険を緩和するしかないというのがその実態なら、もっとお兄ちゃんに政府の支援とかあって良いのになぜか貧乏しているんだよなあ。彼が命じれば世界なんて簡単に滅びるのに。そこがちょっと分からないけどまあ仕方が無い、そういう風にできている。杉波斑鳩のおっぱいは今日も大きかった。

 おお。新海空を新海雲が漂う新海誠としか言い様のないビジュアルを持った作品が、久々に登場するようでファンとしては嬉しい限り。「君の名は。」ってタイトルは先にとてつもなく大きな作品があったりしてそれとの関連とか気にもなるところではあるけれど、別に数寄屋橋でのすれ違いを描くものではなさそうで、離れた場所にいる誰かと誰かがつながるとか、そんな感じの物語になりそうで、狭い場所で若い人たちが出会い確かめ合ったりして別れたりもするような、これまでの新海誠さんの作品とは少し違った新しい展開なんかも期待できそう。なによりキャラクターデザインがZ会でも一緒した田中将賀さんで、作画監督がスタジオジブリの数々の作品で活躍した安藤雅司さん。とてつもなくビッグな面々をかたわらに新海さんがコンテを練り上げ物語を作っていった先に生まれるビジュアルは、そして世界観は絶対に確実に僕達を見たことがありそうで、けれども見たことがないシーンへと誘ってくれるだろう。2016年8月の公開が今から楽しみ。「シン・ゴジラ」もそ直前に控えて、来年夏の映画館は大変だ。

 俺は先月に新宿ピカデリーで「RWBY」の上映時に劇場限定版ブルーレイディスクを買ったと思ったら、今日秋葉原のとらのあなで一般発売されている「RWBY」の初回限定生産版ブルーレイディスクをルビーとワイスとベラドンナとヤン・シャオロンが描かれたお風呂ポスター4枚入りの特典とともに買っていた。何が言っているか分からないだろうが、俺もなにが起こったのかさっぱり分からねえ。催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ。それは愛。作品愛。そして「RWBY」愛。愛があれば劇場限定版も買うし、いろいろとおまけがついている初回限定版も買う。そういうものだ。なあおい。まあボーナスが出て気が大きくなっていたってところもあるけれど、一方ではこうやってパッケージが売れることで日本でも評判が高いことを見せて、続くVolume.2の日本語吹き替え版の上映につなげたいってこと。これですぐどうにかなるとは思えないけれど、そもそもがVolume.1が日本語になって上映されてパッケージ化されたことが奇跡ななから、次だってきっとあると信じたい。信じて良いかな。

 せっかくだからと日本語の字幕もついている「RWBY」のVolume.3の第4話と第5話なんかをネットで見たら今は天下一武闘会、じゃなくってヴァイタル・フェスティバル・トーナメントが着々と進んでいて、ワルモノチームのエメラルドとマーキュリーが出て来てチームCFVYのココとフォックスのチームと闘っていたけどやっぱり強いといったところ。そしてVolume.1のラストに出て来てものすごい戦闘術を見せたペニーがチームを組んで登場したりもしたけれど、メーンはやっぱり我らがチームRWBYのワイス・シュニーとヤン・シャオロンによるトーナメントでの戦いぶり。まるでミッドバレイ・ザ・ホーンフリークみたいにラッパを吹き鳴らしては武器に変える男が出て来たり、ローラーブレードで高速に移動する女の子が出て来たりして苦戦しワイスなんて倒されてしまうけれど、怒ると目が赤くなって馬鹿力を発揮するヤンのパワーが相手を粉砕。そして勝利し相手からもクールと言われて次へと駒を進めた模様。とはいえそうした闘いばかりで裏で動く謀略が見えないのが気に掛かる。いったい何が行われようとしているのか。ビーコンアカデミーは大丈夫なのか。そんな大きな物語を、ちょっとずつ見せて行くことで次への興味ももっと募る。そのあたり、考えていってくれると信じて追い続けよう。

 偉くなれとか賢くなれとか言われるがままに勉強をして運動をして友達を作って先生にも良い顔して、そうやって3年間を過ごして卒業しては東大に進むとか、技能を身につけて良い会社に進むとかいった既存の価値観でトップに来るような生き方なんて自分にはできやしない。だから高校なんていきたくないし、いけやしないとドロップアウトした人が、それでも自分に合った学び方ができるかもしれない、自分にぴったりの進路が見つかるかも知れないと、家から出なくても通える高校として作られるのがカドカワによるN高等学校なのだとしたら、そうしたドロップアウトからの復帰組が、自分の輝く場所を見つけて進んでいけるようなロールモデルを提案し、その成功例を見せることによって大勢の生徒を呼び寄せるのが筋なんだろうなあ、とは思うけれども現実、まだ誰も卒業したことがなくて、そしてネットで学ぶという本当に学べるのか、それで3年間をやり通せるのかと子供は大丈夫でも親がそう思わない状況が、あったりするから難しい。3年後にはすごい作家が出ますとか、マイクロソフトをひっくり返す発明をしますといったところで誰が信じてくれるだろう。

 だから。たぶんおそらくしゃーなしだ、それならちゃんとした看板も掲げて親たちを安心させてやろうと踏み込んだんだと思うカドカワによるN高生を対象にした東大志望者専門の全寮制塾の設立とか、1年間でプログラミングが学べて即戦力になれるというスクールの開校とか。例の「ビリギャル」でもって偏差値40の女の子を鍛えて慶大に入れたという名古屋にある坪田塾が、全面的にバックアップをして生徒達を寮に入れ、囲って朝から晩まで面倒を見るというそのシステムで鍛えられれば、あるいは偏差値40からの東大合格だって夢じゃない。朝の9時から夜9時まで、勉強があってテストがあってそして自習がある。その後にはN高生として高校卒業資格を得るための勉強も待っている。1日たっぷり勉強漬けという環境を、用意してそこに自分を入れて追い込むことで、生まれる東大生というひとつの成果。それで人間が自分を確信し、自身を持って生きられるようになれば素晴らしい。

 とはいえ、そうした東大に入れた、あるいはバンタンといっしょにやって、1年間でプログラミングをみっちりとたたき込まれて即戦力になってIT企業が採用してくれたって成果をアピールすればするほど、そうした活躍こそがN高校のスタンダードになって、あるいはヒエラルキーの上位に立ってその他の、高校という場所に知力の向上と、そしてネットを通じた友人たちのと交流、そこから生まれる社交性が引きこもっていた自分を外へと向かわせ、社会復帰を達成させるといった、ごくごく平凡だけれど個々人にとてはとても大事なことが、なおざりにされてしまう可能性がある。そうはさせないし、する気もないというのが川上量生さんの思いだろうし志倉千代丸さんだって東大入学、即戦力プログラマ誕生こそたメインとは考えてないだろう。だからこそ、挙がった2つの道とは違う、平凡な子供たちがそれでも自分を見つけて生き甲斐を感じて勉強に取り組み、高校に挑むことこそが一番なんだよっていう空気を、作っていってあげて欲しい。そのために何が必要か。アイドル誕生かなあ。あるいは人気作家? 人気ボカロP? ともあれ見たい、その動静。もちろん東大入学が出るかも含めて。


【12月9日】 気がつくと上野公園に結構いた青いシートでテントを作って暮らすホームレスの人たちがまるでいなくなって、見通しが良く風通しの良い広場のような雰囲気になっていた。雑木林を刈り込んでは通路を作ってそこにテントなんて建てられないようにしたり、脇にスターバックスとか作って雰囲気を明るくしてそこに暮らすなんて難しいようにしたり。そうした雰囲気面での対策とは別に、裏側でも法律とか条令とかをいじるなりしてホームレスの人たちが居づらくしたんだろうなあと想像はするけれど、そうすることによって公園は綺麗になって日曜日でも親子連れから外国人から、いっぱい来ては噴水の脇でご飯とか食べているようになった一方、そこにいた人たちがどこに行ってしまったんだろうか、という疑問は今もついて回る。

 景気が良くなって仕事が増えてホームレスをしなくても飯場の仕事にありつけるような状況にあるならまだしも、高齢化とかあって建設現場とかじゃ働けないけど他にする仕事もないままホームレスになるような人だってきっと大勢いるだろう。そうした人たちが上野公園のような場所から荒川アンダーザブリッジな場所へと移動しているのか、それとも地方に流れているのか。新宿西口公園は見回ってないから分からないけれれど、「東京ゴッドファーザーズ」のような状況が今も続いているとは思えないだけに、そうした状況がちょっと気になる。そして渋谷におけるホームレスの“拠点”めいた場所になってた宮下公園が、3階建ての建物になって上が公園になるような改装を行うとか。区議会が決定したってことはもう、本決まりで撤回の余地もないんだろう。

 公園というパブリックな場所をつぶして商業施設に変えることは基本的に反対で、渋谷という場所はほかに代々木公園まで行かないと広い場所もないこともあって、災害の時の避難場所としても遺しておかなくてはいけない。たとえ上に公園を作ったとしても、そこまで上がれるアプローチを開放しておくのか、って問題もあるだけにその判断を歓迎できるかどうかはちょっと、計画を見て見ないと分からない。ただ公園を作るってのはある意味前向きな判断で、そこは白川公園を潰して名古屋グランパスのスタジアムを建てみゃーと言ってる名古屋とはちょっと違う。だからこそ公園の公共性が担保されるような改装がされて欲しいもの。とはいえあそこはホームレスを助け見守り炊き出しを行う支援のための“聖地”となっている感じがあって、そうした方面からいろいろと反発もありそう。ただの切り捨てではなく支援なり養護といった部分でのサポートを、しっかりとやって欲しいものだけれど、どういう反応があるかなあ。年末年始の締め出しとかまた起こって揉めたりするのかなあ。

 誰も死ななくなった世界、死んでもすぐに近くの神殿で蘇って元通りの暮らしを続けられる世界に生きていたら、人はヒャッハーと殺戮に走るかというとそういう感じでもなさそうで、捕まって死にそうで死なない刑罰のようなものでチクチクと傷みを与え続けられるような刑罰を食らったら、それは言葉通りに生き地獄になってしまうから自然、犯罪は行われず平和な社会が維持されていたという、そんな世界が舞台になったツガワトモタカさんの「剣と魔法の世界ですが、俺の機会平気は今日も無敵です。」(HJ文庫)。何でもウルティマラティオという世界をオンラインゲームの中みたいいにしてしまうような恩恵があって、普段は生きて食べて飲んで寝たりしながら寿命まで生きるんだけれど、途中で死んでもまた生き返るからモンスターに襲われるような危機があっても、女王様も近衛騎士の少女もとりあえず戦いながらも、ここで死んでもいいかと諦めていた、そんな時。

 現れたのがエイジ・ハウエルという少年で、不思議な機械兵器を手にし、テンコという名の不思議な少女を連れて現れモンスターを退ける。感謝する姫と騎士。ところがエイジのその体質を知って驚く。彼は死んでも生き返らない“落伍者”だった。それでも不思議な<工房>を使って機械兵器を発明し、その威力でモンスターと戦い続けてきたのには訳があった。かつてエイジが住んでいた地域を襲い、暴威をふるったアマデウスという怪物と戦うため。アマデウスによって殺害された人間は、エイジのようなウルティマラティオの恩恵を受けていない“落伍者”だけでなく、普通の人たちも含めて蘇ることがなかった。どうしてそんな存在が生まれたのか。それは物語のクライマックスで仄めかされるけれども、ともかくエイジはまた現れるかもしれないアマデウスに備えつつ、テンコとともに助けた女王と近衛騎士がいる王国に暮らしながら、その日に備えてた。

 不老不死ではないけれど、病気や怪我では死なない世界に生きていればやっぱり感性は弛緩しし文明は衰退するものなのだろうか。騎士だった両親をアマデウスに殺された近衛騎士のララセルは決して弛緩してないし、女王のクラリッサも立憲君主制めいた統治制度で象徴的な存在にされながらもしっかりと、国を見て国民を思いながら統治している。ようはやる気次第なんだけれど、やっぱり停滞する世界を良く思わない勢力もりようで、そうした勢力の企みがめぐらされ、そして新たなアマデウスの存在が示唆される。世界を脅かす力に挑むエイジの、文字通りの決死の戦いがこれからの展開で楽しめそう。同様に誰でも死ぬアマデウスを相手にした戦いに、弛緩した世界も引き締まっていきそうだけれど、果たしてそういう心理に至るのか。ぬるま湯から抜け出せないままなのか。その当たりも見ていきたい。

 「ラッスンゴレライ」なんて聞いたのって夏前くらいまででその後はサッパリ出てこなくなって年末恒例の新語・流行語大賞ではお笑い部門を「とにかく明るい安村」にさらわれてしまった感じ。「ダメヨー、ダメダメ」の「日本エレキテル連合」が去年から今年になってサッパリとテレビに出なくなったとは言え、2014年を通してそれなりな存在感を示したのと比べると、あっという間の衰退だったけれど、上半期の急上昇ぶりが大きく物を言ったのか、「Yahoo!検索大賞2015」ではお笑い芸人部門に見事輝いて、そのポーズを久々に満天下に示して見せた。それこそ「あの人は今」になろうとしているタイミングでのこの登場に、再び来年への道が開けるのか、それともこれを最後の火花と消えてしまうのか。分からないなあ。そもそもテレビで1度も見たことがないんだ「ラッスンゴレライ」。テレビ見ないしなあ。

 そんな「Yahoo!検索大賞2015」では声優部門ってのが創設されて登場したのがあの金田朋子さん。キンキンと甲高い声をテレビとかで聞かせて「金朋地獄」とまで呼ばれるようになったそのバラエティータレントぶりが、ここに来て評価されたって感じだけれどそれって声優、関係ないじゃんといった声もあるのかどうなのか。でも他の声優さんだと面倒くさくて出てくれないかもしれないから、1回目が賑やかな金田朋子さんで良かったよ。司会の雨上がり決死隊もその存在を認識していて、騒ぐ金田朋子さんを途中デストップさせて退場させようとする突っ込みなんかも披露。受けて金田朋子さんもその声で鳥が生き返った話を披露し「明日頭痛がしたら医者に行ってね」と報道陣に自虐のギャグもかます余裕を見せていた。すっかりバラエティータレント。可愛くて賢かったちよちゃんの面影は何処。ボンクラーズに取り込まれてしまったのかなあ。


【12月8日】 ジョン・レノンが射殺された日にして真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった日。ってことで新聞あたりで戦争どうよ的な企画を展開しているんだけれど、朝日新聞が「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインを手掛けた安彦良和さんを取り上げ「『戦争はかっこいい』と誤解招いたガンダム 安彦良和氏」という見だしてインタビューを掲載していて、どこかざらっとしたものを感じたのだった。そうだったっけ。戦争カッコいいって思って見てたっけ。あのストーリーから浮かぶのは戦争って大勢死ぬし身内が死ぬし恨みは募るし腹も減る。やっても碌な事がないってことだったんじゃなかったっけ。ミハルが消えてしまったあのエピソードしかし、マチルダさんがドムに潰されてしまったあのエピソードしかり、見ればヤだなあ戦争って思ったんじゃなかったっけ。

 というか、ガンダムだろうが戦国時代だろうが幕末だろうが、戦いが描かれればそこに悲惨を見る人もいるし、命をかけて何かを守ろうとする姿に格好良さを思う人もいる。単純に戦って勝利する姿に共感する人だっているだろう。たとえそこに反戦だのといったメッセージを込めようとも、人はそこに見たい物を見るし思いたいことを思うものであってクリエイターが言いたいことへと誘導できるものでもない。安彦さんはいきなり戦争から始まったから戦争がカッコいいものになってしまったんだといった理屈から、「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」では戦争の前を描こうとしたんだってことを言っているっぽいけれど、でも戦争そものではなくても戦闘を描いてその格好良さを感じさせていると言えば言える。

 ザビ家に虐げられたシャアの復讐を描いているという部分で、復讐のためなら何でも許されるのかという“誤解”が生まれることもある。というか、殺されたってジンバ・ラルが言ってるだけで本当はただの病死なのかもしれず、暗殺の可能性だってなかったかもしれない訳で、そもそもが逆恨みじゃないのかなんて雰囲気すらあるその復讐を描いているストーリーに、人を恨むなとか人と戦うななんて絶対ダメだなんてメッセージを確実に感じ取れなんて無理だろう。もしほんとうに戦争は格好いいものじゃないんだと言いたかったなら、徹底的に戦う者たちの無様さ非道さ悲惨さを描かないと。でもそれじゃあ見て面白い作品にならない。見ているのが苦痛になってしまう。それでも見せようとしたら、逆の意味でのプロパガンダになってしまう。あるいは教育映画とか。

 必要なのはだからエンターテインメントとして戦争は格好良く見えてたとしても、だからといって実際の戦争なんてしたくないと思わせることであったったり、ニュータイプだからわかり合えるのではなく、わかり合おうとするからこそニュータイプ、未来に生きるに値する存在なんだと見る人に思わせることであって、それは1つの作品でどうにかできるものではない。社会がそういう方向に流れ、そういった空気が漂うような中でそれを支えるような物語を作ることのような気がするのだけれど、それもまた一朝一夕で出来る話でもないのだろうなあ。というか澱み曲がり始めた空気を糾すべきとかいった意識から過去の作品の中にそうした空気にそぐう部分を抜き出して、今になってイカガナモノカという材料に使うのってどうにも釈然としない。

 つまるところ、作られた時代にはちゃんと厭戦であり融和といった方向に機能していた物語が、そうした気分が存在しなくなってしまって、どちらかといえば戦争万歳な雰囲気が漂い始めた中で、好戦であり超克といった要素だけがピックアップされて非難され、それについてどうですかと聞かれたから答えたクリエイターの言葉を、作品全体の当初からの意図だったと言うのは何か違うという気がするのだった。そもそもが安彦さんがすべてをコントロールしていた作品じゃ無く、やっぱり富野由悠季総監督という希有な才能がエンターテインメント的なストーリーの中にいろいろとぶち込んだ作品であって、その全てに携わっていた訳ではない安彦さんの言葉をそのまま、作品のメッセージと捉えて世に伝える方が無茶なんじゃないのかなあ。でもそう行って貰わなければ記事にならないからそうしてしまうという、どこか誘導的でマッチポンプ的な振る舞いがメディアへの信頼を少しずつ削いでいるような気がする、そんな12月8日。

 なんかまたしても村上隆さんの周辺でいろいろと起こっているようで、調べたら神戸アニメストリートってところが作ったロゴが村上隆さんのものかと言われるような状態になっていたんで、これはどうかと言って止めてもらったとかいったそんな話。でもって出回っているニュースの画像なんかを見て、多くの人がそもそもが目玉マークなんて古来いろいろあって村上さんのオリジナルじゃないから、文句を言うのは間違っているし村上さん自身もさまざまな古今の作品からインスパイアされつつ、取り入れながら作品を作っているアーティストじゃないかといった意見もあって、それがどちらかといえば大勢となっていたりするんだけれど、画像をよく見て目玉のマークだけじゃなく、下に添えられた文字が1文字つず違う多色になっていたりするのを見るにつけ、こういうのって村上さんもやってたなあと思い、そんな目玉×多色といった取り合わせから村上隆さんを想起する人がいても不思議じゃないなあと思ったのだった。

 報道では目玉マークが似ているといった取り上げられ方しかされてなくって、そうしたマルチカラーという村上隆さんがルイ=ヴィトンでもやってみたデザイン面での特徴で、kaikaikikiって会社のロゴにも使っていたりする特徴が、神戸アニメストリートって文字にも使われているのを合わせみて、合わせ技1本として抗議したのかそれとも単純に目玉だけを問題視したのか、分からないのが判断に迷うところ。そしてそうした目玉×多色といったことから浮かぶ総体としての類似性を、指摘している人が竹熊健太郎さんくらいしかおらず、ほとんどが村上隆さんがまた文句言った、それもお門違いの文句をといったものでちょっと呆然とするのだった。集団が1度貼ったレッテルを曲げることなく使い糾弾していくのって、例の東京五輪2020のシンボルマークでも起こったこと。違うという可能性を想起して考える余裕がネットの速度ではとれないのかもしれないなあ。それが悪質なデマで作用して起こることを考えるといろいろと怖くなる。それにしてもやっぱり気になる抗議の本質。目玉だけなのか。目玉×多色なのか。

 とりあえずビジョメガネの娘が良かった川崎市民ミュージアムでの江口寿史さんの展覧会「KING OF POP」。1970年代後半から1980年代にかけてのデビュー時から2010年代の現在まで、そして漫画の仕事からイラストレーションの仕事までを広くとらえて折々の代表的な仕事をピックアップしているといった感じで、決して膨大ではないけれども見て存分に堪能できるほどには作品が並んでた。イラストだと1986年に描かれたらしい当時の女の子たちが5人だか6人だか横並びに描かれているそれが、同時代的に大学生を過ごした僕にはいたなあこんな子たちと思い出させてくれたのだった。もちろん美の質は違っていたけど雰囲気が。あと「ビジョメガネ」って2000年代に入ってからの仕事があってそこでの眼鏡が1980年代とはまた違ってスタイリッシュになっていたけど、眼鏡美少女が醸し出す雰囲気というのは変わってないなあとも思ったのだった。何があるんだろう、眼鏡には。何かあるんだろう、眼鏡には。


【12月7日】 A市のほとんどを一瞬で壊滅させた攻撃でも耐えたヒーロー協会本部の天井を、中からとはいえぶち抜いて外に飛び出し空中に浮かんでいて、超人といえどもそうした能力を持っている戦慄のタツマキを除けばたどり着けない宇宙船の中に簡単に潜り込み、強いとは言えヒーローが4人がかりで外に出ていたメルザルガルを相手にしていた一方で、ラスボスを守る戦闘員たちをそれこそ瞬殺しながら進んでいっているサイタマを、見れば、他のヒーローだってヒーロー協会の人間だって最強だと分かりそうなものだけれど、そこに気付かせないくらいに自然体でなおかつあんまり強そうでないところに、サイタマの不幸があるんだろうなあ。でもバングは気付いているみたいだし、遠からずその実力を認められS級入りするだろう。アニメーション版「ワンパンマン」。見どころは落下するタツマキのチラと見えたお尻か。ほとんど2コマくらいしか描かれてない。そしてあのスピード感を出す。川尻義昭絵コンテの凄み。そしてマッドハウス制作の強み。

 先週にいきなり登場しては、前屈みになって白いものに包まれたそのお尻を、瞬間とはいえしっかりと見せてくれた破軍学園生徒会長こと東堂刀華が、学園でもトップクラスの実力を持って臨んだ黒鉄珠雫との戦いは純粋を操り氷も使える珠雫のアウトレンジからの攻撃をしのぎ打ち破って迫った刀華の「雷切」一閃、珠雫は敗れて連勝が途切れ、そして家からは彼女をポンコツの兄が上回ってはいけないとばかりに黒鉄一輝に工作がいろいろと向かいそう。それはそれとして鞘に入れた刀を腰だめにして足をふんばり構える刀華の何という格好良さ。それもスカート姿でやってくれるものだから、ちょいがに股っぽくなったその太ももが力強さとともに何ともいえない生々しさって奴を感じさせてくれる。突っ立って剣を振り回しているだけでは出せないその重さ、その速さ。ちゃんと描こうとしたのは監督か演出か絵コンテかアクション作監か。その切り分けは分からないけれども良い仕事ぶり。前回今回の2話はアクションのお手本としても剣豪美少女のサンプルとしても永久に保存したいもの。BD揃えてみるとかするとか。「落第騎士の英雄譚」。あと何話なんだろう。

 すごいタイトルだなあと見てまず思った「『罪と罰』を読まない」(文藝春秋)は、タイトル通りに「罪と罰」を“読まない”で語るという凄い本。それも参加しているのが翻訳家の岸本佐知子さんに作家の三浦しをんさんにクラフト・エヴィング商會として知られる吉田篤弘さんに吉田浩美さん。だからただ、あのドストエフスキーの代表作とも言える「罪と罰」を自分たちは読んでないけどこういう話と違うかな、って遠くから適当にワイワイとやるってだけじゃなく、世界的に知られた名著で触りとか雰囲気とかそれなりに公知のものとなっていながら、だったらどういう話なのかを想像しつつ冒頭と結末が訳させたものも参考にしつつ、どういう話なのかに迫っていきつつ、読んでいないからこそ名著という評判に踊らされることなく描かれた内容や情景や人物像なんかを現代の感覚に照らし合わせていろいろといじってみせている。

 そして最後にはちゃんと読んでからまた話すといった感じで、読み通すと「罪と罰」が読んでみたくなりそうな気がするけれど、まだ読んでないので多くは語れないのだった、ってここで読んでないのは「『罪と罰』を読まない」の方。ちなみに「罪と罰」は原作の方より先に手塚治虫さんの漫画版を手塚治虫全集で読んでラスコーリニコフって人物が手斧でもっておばあさんを殺害する話ってくらいは知っている。あと革命が出て来たり美少女が出て来たり。でもそこで語られていた本質が何か、ってのは分かってないし、原作の方も漫画を読んだ後に家にあった文庫版をぺらぺらっと読んだ程度でストーリーがどれだけ違うかも分かっていない。だからきっと読めば、ってもちろん「『罪と罰』を読まない」を読めばその展開とシンクロして「罪と罰」に迫っていける気はしてる。だからちょっと時間が取れた時にでも、傍らに「罪と罰」を用意しつつぺらぺらっと読んでいくことにしよう。もちろん漫画版じゃない方を。漫画版でも良いかな。

 立川へ。V8映画とか「ガールズ&パンツァー 劇場版」の爆音上映を見に行くんじゃなくって普通にお仕事。午前8時45分くらいで大勢が降りていくのにどうして立川なんて東京23区から西に遠く外れた地域で起こるんだ、何かあるのかあのあたりって思ったけれどもきっと向かう先があるんだろう、会社とか工場とか学校とか。そんな立川からモノレールに始めて乗って駅で2つ先の立飛って場所へ。ここに三井不動産が「ららぽーと田近立飛」ってのを作って10日にオープンさせるってことになっていて、その内覧会を見物して来た。メーンは「ららぽーと」そのものってよりは、中に入っているセガでありナムコのアミューズメント施設なんだけれど、まずは「ららぽーと立川立飛」について思うならば船橋にある第1号店の「ららぽーと TOKYO−BAY」のような煌びやかさよりもそれなりに落ち着いた郊外型ショッピングセンター的な雰囲気。もちろんファッションブランドも入っているし家具や雑貨の店にも良いのがあるけれど、気取っていくよりは気楽に入ってあれこれ見ながら食べて遊んで学んで……って場所になっている感じ。

 というか三井不動産によればこの「ららぽーと立川立飛」では近隣にある武蔵野美術大学とか国立音楽大学なんかと連携しながら課外活動的なものを支援して、いっしょに芸術的なものを育てていこうとしているとか。ただの集客施設に止まらず、近隣を巻き込みそこから何かを発信していこうっていうスタンスを持つことで、地域にあって欲しい施設であり、いずれなくてはならない施設へと発展し、浸透していこうって考えているのかも知れない。そうした社会的な展開も含めたデザインを、これからの商業施設って奴もしていかなくちゃ行けない時代に来ているのかもしれないなあ。前に見に行った「ららぽーと」海老名」もそんな感じに地域のコミュニティーを支援する場所って位置づけだったし。「ららぽーと TOKYO−BAY」はそういうのがあんまりないけど。あそこはとりあえず「ふなっしー」とコラボする店、って意味で十分に地域性があるんだけれど。うん。

 さてセガがオープンした「Kids Bee」は前に横浜にある「minamo」に作ったものと一緒でブッフェがあってお母さんたちがご飯を食べながら遊具で子供を遊ばせておけるような施設。プロフェッショナルが仕立てた種類も豊富な料理やデザートが特徴で、横浜ではママ友たちが集まる場所としてそれなりな支持を集めているみたい。だかこその2号店ってことになるんだろう。ゲーム機も置いてはあるけど時間待ちにちょっと遊ぶ程度で本格的じゃない。ショッピングセンターのゲームセンターといえば昔は最新鋭のビデオゲーム機にメダルゲーム機にクレーンゲーム機が並んで子供も大人もコインを握りしめて遊び回るってイメージだったけれど、業務用ゲーム機が廃れ気味な中でゲーム会社としてもエンターテインメントのアイデアを形にして売っていくようになっているんだろう。それはナムコの店も同様で、ここにもビデオゲーム機やメダルゲーム機はなくシールプリント機とクレーンゲーム機だけ。割り切ってそういう客に楽しんでもらう。そういう客が割り切って楽しみに来る。何でもありからそれだけの場所へ。心理の変化と業態の転換が進んでいるんだろうなあ。休日にどんな賑わいかを見に行きたいかも。「ガルパン」の爆音上映が続いていたら来週辺りにのぞいてくるか。


【12月6日】 そして気がつくとサッカーのJリーグでサンフレッチェ広島がシーズン通しての優勝を果たしていたみたいで、2ステージ制になって1年通しての勝ち点とかが意味を持たなくなりかかっていた所に、ちゃんと年間通じて最も勝ち点をとったところがちゃんと優勝したところに、反映される実力って奴を見た想い。とはえいもしかしたら前半をぶっちぎりで優勝した浦和レッドダイヤモンズが、あそこで1stシーズンの優勝だなんてことにならなかったら、緩めず後半も勝ちまくってやっぱり年間1位の勝ち点を撮っていたかもしれないと思うと判断に迷うところではある。

 いやいやそれも実力とはいえ環境というのは心理に作用し心理は肉体に作用するものだから、無関係と言い切ってしまうのはちょっと苦しい。なおかつチャンピオンシップ的なものでJリーグが盛り上がって世間の耳目が集まったかというとたいして変わらないとうのも実際。野球のプレミア12みたいな半分くらいはエキシビジョンめいた国際大会があれだけ数字を取ったのに、れっきとした公式戦でなおかつ優勝を決める戦いにしてゃ注目が低いのはやっぱり別に理由を求めた方が良いんじゃないかなあ。まあサッカーはテレビ的な注目とは別に地域的な評判もあるから、それに支えられているうちは大丈夫だと思うけど。だからこそ広島には専用スタジアムを作って地盤を固めさせてあげたいなあ。土地はあるんだから。白川公園みたいな無茶じゃない土地は。

 御三家本流でも及ばない名家の九条家のれっきとしたお嬢様でありながらも、どうして九条みゆきが長が付くとはいえメイドなんてやっているのかという謎は、原作を読んでも多分解消されていないんだろうからここはアニメを見続けるとして、そんな九条みゆきがどうして朝まだ目覚めない神楽坂公人の部屋に行って、眠っている公人に覆い被さるようにして目が明くのを待っているのか、そしてそれまでの間に口づけをしているのかがやっぱり気になるところではある。そもそもが公人を庶民サンプルとして招いたのが九条みゆきだっていう話もあるし、過去に何かいろいろと関係があったのか、気になって夜眠れない。目覚めても九条みゆきが覗き込んでくれている訳でもないし。

 というか、ただ見ているだけで起こさない、という口での言い訳のその前段に口づけをしているという行為があるって分かると、ただ見ているだけの時とか、起きた公人に「ずっと目覚めなければ良かったのに」という言葉とかに、別の感情めいたものが立ち上がっているように見えたりする。それはいったい何だろう、公人を敢えて招いたことと関係があるんだろうか、それはいったいどういう感情に依るものなのか、ってあたりを考えさせつつしっかりと、個々のお嬢様たちと公人との関係を描き、けれども誰かが嫌な気持ちになるような展開にしないところに巧さがあるなあ、アニメーション版「俺がお嬢様学校に『庶民サンプル』としてゲッツされた件」。ただのハーレムアニメではない深さがあって楽しさがある。これだからアニメーションって侮れない。ゲッツ。

 成功しているからなんだろうか、上野の西郷さんの真下当たりにあるペッパーランチダイナーが肉の量り売り的なメニューも加えて「いきなりステーキ」的なサービスを混ぜつつある感じ。もちろんハンバーグとかもまだあるしペッパーライスも食べられるけれども勧めているのはグラム6円とか7円の肉塊で、それを300グラムとか食べると結構な値段になるんだよなあ、でも僕は普通にハンバーグ目玉焼きのセットを食べたいんだよなあと思ったところで変わるメニューにはかなわない。それとも探せばちゃんとペッパーランチ的なメニューも出てくるんだろうか。ハンバーグ目玉焼きライスの卵にまだ火が通ってないうちに潰してもやしに絡めて焼き、食べるのが僕が好きなんだよう。

 そして上野の森美術館で「肉筆浮世絵 −美の競艶」って展覧会を見る。浮世絵といえば一般には紙にプリントされた版画が浮かぶけれどもそれは絵師の原画を彫り師が版木に写して掘ったのを摺師が摺って作り出した印刷物。だから絵師たちの手仕事はそこには直接的には入ってなくって、それでも凄みが見えるってところに工芸の技の確かさと、原画を描いた絵師の巧みさってのも見えたりするんだけれど、その絵師の仕事の神髄ってのはやっぱり全部は写されていない。でも肉筆画は違う。絹の地に筆を執って描いたその絵は確かな線が引かれていて、そして絵の具による色が塗られているのが見て分かる。歪まずにすっと引かれた線と、浮かび上がるように塗られた着物の模様や背景が、どうやってその絵が描かれたのかってことを目から直接感じさせる。

 葛飾北斎の大原女の絵なんて筆だけですすっと引かれてちょい色が置かれた絵なんだけれどもそのすっくと建った女性の佇まいの何とりりしいことか。顔とのバランスも良くって本当の人間がそこにいるようにすら思わせる。別の絵は装飾がかってポーズがつけられているけれど、それでもやっぱり確かなバランスの上に描かれていて、なおかつ塗られた色のひとつひとつに繊細な筆さばきの跡ってのを見て取れる。それは北斎に限らずあらゆる肉筆画について言えること。画集とか図録とかでは分からず浮世絵からだってつかめない、そのタッチを目の当たりにできる肉筆画の展覧会は、構図だけでなく絵を本当に見たい学びたいって人は絶対に行くべきものなのかもしれない。

 そうした肉筆画の持つポテンシャルを、しっかりと観客に伝えられるようにした展示の方式も面白い。ガラスケースの奥に吊されるのをちょい離れた場所から見るのが普通の展覧会。なおかつ古くて繊細な肉筆画を保護するために灯りも落とされ細部が分からずタッチなんてつかめないのがこれまでだったけれど、この「肉筆浮世絵 −美の競艶」では奥行きがあまりないショーケースを用意した上に、LEDによる灯りでそれなりに明るく、そして色味を損なわないように見える状況が作ってあるから、着物の模様も顔の輪郭もしっかりと目に刻める。そこまで筆を落としているのかを見えてくる。200年前に誰かが置いた筆の跡。それが分かるってところが面白いし、素晴らしい。

 そんな絵の中では、ジョサイア・コンドルが持っていたという河鍋暁斎の「一休禅師地獄太夫」が凄かった。何でも初出しだそうで、他にも幾つかある同じモチーフの絵の基準となるというその絵は、遠目には美しい太夫がすっくと立って脇に一休が小さく映っているようだけれども、目をこらすと、一休の下には骸骨がいて三味線を弾いている。太夫の服には地獄の亡者が描かれている。美しい上に恐ろしく、だからこそどことなく滑稽でもあるその絶妙のバランスが、封じられた絵を間近に見られるだけでもこの展覧会には行く価値がある。何より太夫が美人だし。だんだんと異形化していく暁斎の浮世絵師的な粋を感じさせる1枚か。あとはやっぱり渓斎英泉の美人画かなあ、「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」でお栄から「ヘタ善」と罵られていた善次郎の、異形だけれど色気を感じさせる女たちが見られるから。ホント、美って不思議。

 そしてツアーファイナルとなったきゃりーぱみゅぱみゅを渡橋国際フォーラムのホールAで。5000人は入る都内でもホールとしては最大級の場所を埋めてしまえる実力があって、なおかつ老若男女と幅広い世代をライブ会場まで来させるだけのバリューはやっぱり紅白歌合戦に相応しいアーティストだなあと改めて思ったけれど、NHK的にはもしかしたらそうした子供やあるいは高齢者は排除してでも若い層と作り手が思っているだけの中年層だけ見てくれれば良いとか思っていたりするのかな。ちょっと勿体ない。でもライブではそうした落選の話はいっさいしないで唄い踊って2時間弱を通して見せた。そこも強い。そして5周年となる2016年は目一杯に飛ばすとか。つまりは引退とかそういった話はなさそうで、どんなライブが行われるのか、どこでライブが行われるのかを楽しみにして待とう。いよいよドームとか? スタジアムとか? でもまたライブハウスでも見たい気が。いろいろやろう。やれるうちに。海外も。


【12月5日】 4月22日の官邸ドローン事件をきっかけにして、急ピッチで進んだ航空法の改正によって12月1日からはドローンが人口密集地では自由に飛ばせなくなるといった状況。東京都内はほぼダメで、神奈川県あたりも東京に近いところは結構ダメそうで練習も兼ねて飛ばしていた人はこれから埼玉県の置くとか千葉県とか、茨城県あたりに向かうことになるんだろう。大学みたいに広い場所があって大学の自治めいたものに守られていれば良いんじゃないか、って思われがちだけれども航空法という奴は地面と違って空全体を覆っているためそれが広大な式を持った私有地であってもダメみたい。ってことは天皇陛下が皇居でドローンをあげてもダメってことなのか。運転は皇居内で練習できてもそれは道路交通法上の“私有地”だから大丈夫だったのが、空は航空法で管理されているってことになるからやっぱりダメなんだろうなあ。世知辛い。

 そんな話があった12月4日デジタルハリウッドで開かれた公開シンポジウム。ドローンの民間での有効利用なんかを検討し合っているJUIDAって団体の理事長で、東大院の教授でもある鈴木真二さんが登壇をして研究に使うドローンも規制されるってことを話していたけれど、だからと文句を言っているんじゃなくってやっぱり規制は必要だったって立場から、それがちょっとした事件をきかっけに一気に進んだことは評価していた。ただそうした十把一絡げみたいな規制がはたして便益としてどうなんだろうか、ってところの議論はこれからされていくべきだそうで、欧州みたいにオープンにしてしまうカテゴリー、ちょっとした特例が求められるカテゴリー、飛行機みたいに厳密な認証が必要なカテゴリーなんかに分けてそれぞれで、手続きを踏むなり踏まなくても良い用意して分かりやすくドローンを使えるようにすることを求めていた。いちいち考えてられないものなあ、これはここで飛ばせるか、とか。

 ただやっぱり、ドローンがある生活とない生活とでは大きく違ってくるのは確実で、来たるべきドローン時代をどうやって進めていくかってことはとても重要。そのために視覚というか経験を積んでそっちの世界で一旗揚げようと考えている人もいるだろうし、新しいサービスなんかを考えてその実施に向けて研究を重ねている人もいそう。そうした目論みがコロコロと法律が変わってしまうことで崩れてしまっては迷惑だし日本のためにも良くないんで、ひとつしっかりと世の中のためになるルール作りって奴を進めていって欲しいもの。あれで安倍総理だって3年後にはドローン配送の実現だ、なんて喋っている訳で、その言質をたてに運用の弾力化なんてのを計ってぶんぶんと空を飛んで荷物が行ったりきたりするようなインフラを、作って欲しいけども日本じゃあやっぱり無理かなあ、ドローンが着陸する庭がないし、途中で電線に引っかかるし。タワーマンションなら屋上にドローンポートを設ければ良いって? いやいやでもあの高さにドローン飛ばすのはちょっと無理だし。さてはて。

 えっと第1話からの抜粋になるのかどうなのか、それでも嬉しい淡島世理ちゃんの股間アップで見えた白い逆さのドームのその中にあるのはいったい何? 見ればきっと踏まれ切り刻まれるだろうけれど、それでも見たいと思うべきかやっぱり包まれてこそ花だと感じて包む白に喜ぶべきか。ああ難しい。でも白でも良いからもっと見たいんだけれど青の王が自爆を覚悟で突っ込んでく中でいったい世理ちゃんはどんな行動に出てしまうのか、その身を危うくしてでも付いていくのか。そんなあたりが気になって仕方が無い「K RETURN OF KING」はいよいよドレスデン石版から力の源が溢れていって世界に異能の持ち主が大勢現れそう。そしてそれぞれの王の身体にも異常がありそう。それは力が分散してしまうからなのか、それとも。白の王が決めた作戦が果たして成功するかも含めて、残り話数を追っていこう。白がまた見られるのかも含めて。はみ出て揺れる双房でも良いけれど。揺れまくってたなあ今回も。

 ずっと追いかけていた訳ではないし、アニメーションの方も当時はTOKYO MXが入らなかったんで1話たりとも見たことがないんでμ’sについては興味もそれほどなく、見ればああ唄っているねえ頑張っているねえとは思うけれども活動が終わるからといっても大きな感慨はない。というか声優ユニットをいつまでもひとつの番組に縛り付けていたら、他の活動にも差し障りが出てより大きなステップを踏むとか、より広い場所で活躍するといったことが出来なくなるので、ここで区切りを付けるってことも決して悪いことではないと、僕なんかは思うのだけれど「ラブライブ!」が大好きでμ’sを追いかけてきたファンにはやっぱりいろいろと募る思いもあるだろう。残るシーズンをどういう過ごし方をするのか。そしてどういう帰結を迎えるか。ちょっと気になる。あと特別番組が流出した経路も。シロバコを勝手にコピーした奴がいる? ネットのアーカイブがあってそこにハッキングしかけた奴がいる? 究明が待たれる。まあ結果は一緒だったんで今さらだけれど。

 今日も今日とて「2015国際ロボット展」へと出向いてもっぱらフォーラムを聞く仕事。最初の家電ロボットがどうなるかってあたりは、ロボット掃除機が使えない部屋に住んでいる人間にはあんまり関係なかったけれど、そうしたロボットに人間が合わせていく可能性なんかが示唆されると、それが効率化の前に人間性が崩壊していくということなのか、それとも利便性を享受するシステムそのものが進化したひとつの人間なのかといったことをちょっと考えてしまった。そういえば次のフォーラムで登壇した「初音ミク」で知られるクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之さんが、「マツコロイド」を使ったテレビ番組なんかで起こった、アンドロイドがだんだんと人間に見えていくような感覚なんかを参考にしつつ、アンドロイドが人間に近づいていく一方で、人間がアンドロイドに近づいていくといった両方からの接近が起こるといったことを話してた。相互に影響し合ってそれぞれの利点を取り入れ合った果て、世界は誰が人間でアンドロイドかも分からない、というかそんなことすら気にしない状態になっているのかもしれないなあ。

 そのシンポジウムで面白かったのがきゅんくん、という名前の女性ロボティクスファッションクリエイターの人。何でもロボット展に来て産業用ロボットを見てロボット好きに目覚めたそうで、機械工学を専攻して大学に通いつつ自分では秋葉原にあるもの作り拠点でもって自作のロボットアームを作っては背中にしょって歩くようになっている。アームといっても手足の代わりになるようなものじゃなく、ただ動くといったもの。それを着けて意味があるかといわれれば、格好いいという意味があるんだけれど世間の人はロボットといえば道具であって役に立つかどうかが重要って考えがあって、そこに格好いいとうだけの、見てくれだけの装置が意味あるのかって言い出しそう。でも服だって何の意味も無いネクタイが未だ流通しているし、デザインは格好いいけど暖かくない服だってある。ウエアラブルだって見てくれが格好良ければそれで十分、体温を測るとかスケジュールを管理しなくても、身につけて歩いて悪くない。いずれ技術が進んでウエアラブルが内装されれば、外装としてのウエアラブルなアクセサリーが埋まれ、綺麗さを競いあう時代が来るんじゃないかな、かな。それにしてもきゅんくん、さんて着けなきゃいけないんだろうか。とても迷う。


【12月4日】 そして消えてしまった出入り口を監視していた画像ファイルの謎が解明されて一気に解決へと向かい始めたアニメーション版「すべてがFになる」。というよりも犀川創平はすでに犯人が分かっているようで、その相手を呼び出してこれから謎解きって奴を始めるけれども、ついていけない周囲はどうして死んだはずの真賀田四季が現れ通信であっても会話をするのかが分からないだろうなあ。でもそこから真賀田四季は生きている、それなら死んでいたのは誰なんだって話になってそして真賀田四季の妹という真賀田未来が誰だということになってすべてがFに、じゃなくってクリアになるんだろう。残りはあと2回くらいだっけ。たった1冊の新書をそれでもよく10数話のアニメーション爾仕立て上げた。脚本家と演出家に喝采。創平のTシャツのバリエーションはもう増えないんだろうか。

 年齢は同じで関わってきた領域も重なっているんでどこかで見かけたかすれ違ったかしたことはあるんだろうけれど、面と向かって話したとか取材したとかいったことは多分なく、シンポジウムとかで見かけたということも実はなかったりするメディアプロデューサーの櫻井孝昌さん。どちらかといえば僕がアニメーションとか漫画といった二次元の方面で取材をしていたのに対して、櫻井さんはもっぱらアイドル方面が中心だったことから重ならなかった可能性もあるけれど、それでも世界にポップカルチャーを紹介するという仕事においてはアニメも含めて一生懸命にやっておられた方が、不幸にも事故で亡くなられてしまったようで関係者一同が哀しみに暮れている。声優でシンガーの上坂すみれさんとか仲も良かったようでちょっと辛そう。あとモーニング娘。周りの人たちも。ただ親しいってだけじゃなく、仕事においても可能性を広げてくれた人だけに、不在は大きく響くんだろう。そしてこれからの日本のクールジャパンとかいうものの行方にも。分かっていて公正な人が去り、分からないけど意図を持った輩が出て来て専横に走った果て、起こるドタバタが今から心配。変わる人材がいれば良いんだけれど。

 1位から転落して2位になったといって驚き慌てて大騒ぎしても不思議はなかったものが、今や2位どころか3位でもなく4位にすら止まれないで5位に落ちて、それでもやっぱりそうか、仕方がないよな、まあいずれそうなるだろうと思ってた、なんて反応が大半だったりするとこに今のフジテレビというテレビ局が、世間からどういう風に思われているかが浮かんで来る。もうその中身そのものを云々する段階を通り越して、そこで放送されているのが面白いはずがないといった固定観念。これが1度ついてしまうと、たとえ何があっても見ないという人が大半で、引っ張ろうにも戻ってきてはくれないだろう。じゃあ本当は面白言うのかというと、それだったらさすがにテレビ東京にまでは抜かれない。やっぱりな理由があって、そしてやっぱりな理由から浮上できそうにもない以上、しばらくそんあ状態が続いて、事実としての見上げればテレビ東京になってしまいそう。それで稼げる金はなく、当然にばらまける金も減る。おこぼれに預かっていた会社はどうなる? 考えると夜寝られなく鳴っちゃう。

 おいおいそれはダメだろう。名古屋グランパスが瑞穂じゃあちょっと古いし豊田スタジアムは遠いってことで名古屋市内に3万人規模のサッカー専用スタジアムを欲しがっているんだけれど、その候補地が名古屋もど真ん中にある白川公園ってんだからもう何言ってるんだレベル。元よりそんなに広い場所でもない上に、名古屋市科学館が建っていてギネス級のプラネタリウムで評判を取っている一方で、名古屋市美術館もあって現代美術とかの割と良いところを抑えていたりする。そんな立地にスタジアムだなんて騒々しいものを立てたら土曜日の昼間の試合とかで人がわんさかと来て科学館には鬱陶しいし美術館だって迷惑だろう。仮に美術館は移転したとしても科学館はちょっと無理。だって建て替えたばかりだから。それを置いたままのスペースでスタジアムなんて建ちはしない。

 もちろんスペースぎりぎりだったら話は別だけれど、フクダ電子アリーナだって味の素スタジアムだって、それなりのスペースが周囲にあるから来場者が来ても行列を作って待てたりする。柏だって公園の中にあるから行列をそちらに引っ張れるんだけれど、白川公園だとそういうスペースがなくってそれこそ道路にはみ出てだいぎょうれつが出来、終わったら人が溢れて周囲を埋め尽くす。それで快適と言えるのか、立地ってのは便利なだけじゃなく、人の余裕ってものも見ておかないといけないってことは埼玉スタジアム2002のあの遠距離ぶりからも分かる。あれだけ遠くてようやく6万人規模の人をさばけるんだ。その半分もの人間をスペースもない場所でどうやってさばく? 考えたら無理だとすぐに分かるだろう。

 そもそもが都心に限られた緑地であり広場であって大勢が自由に出入りしては走ったり踊ったり佇んだり寝転がったりできる場所をなくしてどうする。ニューヨークヤンキースがセントラルパークにスタジアムを建てたいといって誰が許すか。ハイドパークにチェルシーがスタジアムを建てるなんてことを望んだらチェルシーへの非難、サッカーへの非難がわいて大変なことになる。白川公園も同様で、あれだけの空間をグランパスが潰したらサッカーへの批判は高まり、支えたトヨタ自動車への批判も燃え上がるだろう。それを考えればとても出来ない計画を、それでも人気取りの市長はやってしまうのかなあ。でも名古屋だったらちょっと動けばいくらだってスペースはあるじゃないか。鶴舞公園にだって運動場があってそれを改装すればそれなりのスタジアムになる。そもそもが瑞穂を作り替えれば済む話。それこそ可動式にしてどちらもできるくらいにすれば盛り上がるんだけど、そういう話になぜ行かない? サッパリ訳が分からない。金でも動いているのかなあ。

 さすがに都内で配布される版では他のに替えたものの、それでも1面の肩に置かれていてそして、関東周辺で配られる新聞では1面トップに置かれていたのが例の靖国神社での爆発事件。疑わし人物がいて韓国に帰国していたっていう話を持ってきたところがあって腰が砕けるのを通り越してビッグバン。誰かが亡くなった訳でもなければ火災が起こって延焼した訳でもなく、見ようによってはイタズラの範囲で治められそうにな一件を取り上げるのもそうなら、まだ犯人どころか容疑者として画定した訳でもない人間を挙げて、その国籍やら振る舞いやらを挙げてはいかにもそうだといったトーンで紹介してみせるのは、人権への配慮という面でも大いに腰が砕けている。あるいは頭が爆発している。書いて社会面のトップかサイド。そういう扱いのニュースだろう。

 でもここん家にかかるとそれは国家への反逆であって日本という国への宣戦布告に等しい仕儀。取り上げて糾弾しつつ靖国神社という国家機関とはまるで違ったひとつの宗教施設を、世界においてもたぐいまれなる聖地として奉っていこうとするスタンスが見えておいおいそれで良いのかといった気すら起こる。もちろん靖国神社に家族親族がまつられている人たちにとっては、大いに意味のある場所であってそうした人の心情も汲んで、黙しつつ敬っておくのが人間としては正しいし、この国がここまで来たことに貢献をしてくれた人たちもいるという意味で、讃えてることもあって良いけれどもそこへで起こった小火にすら及ばない事件を、国家の一大事とばかりに1面トップで報じようとする新聞の意識はちょっとよく分からない。

 それが国民にとって本当に大事なことであって、書けば新聞が売れると思ったのならもはや何かを踏み間違えているし、心から信仰していてそこへの攻撃は自分への攻撃にも等しいとばかりに憤りから1面トップに吸えたのだとしたら公私混同とすら言われそうな判断と言われてしまいそう。というかあれが何かのテロあとしたら、そして1面トップに来てしまうんだとしたら自民党の代議士だった加藤紘一さんの家が放火された件なんて代議士という国民が選んだ人間への攻撃であって国家に挑み権力に挑む重大なテロってことで1面トップで報じられて不思議はない。民主党の石井紘基代議士が刺殺された件とかテロ以外の何者でもなくって、1面から最終面までを埋めて報じて当然っていうことになるだろうけれど、ここん家の新聞がそしたなんて話は聞かない。靖国参拝を批判した加藤紘一さんの家が焼かれてニュースにするんだろうかなんて疑問すら浮かんでしまう。極めて恣意的で偏光した判断から行う報道のバリュー判断。そのうち安倍総理の悪口が壁に書かれたってことで号外を出すかもしれないなあ。やれやれだ。


【12月3日】 合田一人に振り回されている公安九課。あの荒巻部長を持ってしても退けられず、草薙素子を看板にしていても翻弄される彼の攻撃がいったいどういう手順で及び、公安九課のみならず日本を揺るがしているのかってあたりを解析すると、これからの日本でいろいろと必要になってくる情報の出し入れ、および行動の要不要なんてのも見えてくるかもしれないなあ。どこかを刺激し何かをばらまき誰かを動かしていった果て、その連鎖が空気を作り世論を動かし人を脅かしていくといった波及。でもバタフライ効果とかカオス理論みたいな曖昧さじゃなく、しっかりとした見通しを持たないとうまくいかないことを、合田やとりあえずやってのけている。今もし彼がいたら何をしただろう。個別の11人は誰が任じてどう動いただろう。ちょっと気になった「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX 2nd GIG」。公安九課の反撃はあるか。乞うご期待。

 ずっと録画はしてあるんだけれど、どうせ前に見たのと同じだからと録るだけにしてあったテレビアニメーションの「STEINS;GATE」で、か凄いことが起こったという話。牧瀬紅莉栖を助けたいと時間線を飛び越えて進む岡部倫太郎を描いたストーリーは、戻ったりズレたする状況が何度も重なるように現れて、どうなってしまうんだろう、どうすれば良いんだろうかと見る人の手に汗を握らせるんだけれど、それでもすでに放送されて決まっていた展開がもはや変わるはずもないと安心していたら、何と前とは違った分岐が現れたという話。ゲームじゃないんだから隠しルートなんてものがあるはずもないテレビアニメ。けどそれが出たってことはその後の展開も違うのか。いったい何が目的か、ってのは多分間もなく出るか出たかしたゲーム「STEINS;GATE 0」との関わりがあるんだろう。プロモーションでありサービスであり。その結果どういう未来が現れたのか。紅莉栖はどうなってしうのか。これまた乞うご期待の残り話数。BDボックスにはどれが収録されるんだろう。

 ちょっと前に京急蒲田に行こうとして止まらない便に乗ってしまって、来てしまったことはあった羽田空港国際線ターミナル。今日は普通にそこで行われるNTTとかパナソニックの発表を見に、都営地下鉄浅草線の日本橋駅から快速特急でもって一気に到着。前に降り立ったのは、羽田空港を舞台にコスプレイヤーとか外国人のアニソン歌手とかがいろいろとイベントを繰り広げた3月末のことだったんで、かれこれ8カ月ぶりといった感じになるか。特に変わることもなく、広々とした空間には外国へと帰る人たちが歩き、外国から来た人たちも歩いていたりと賑わって、昨今のインバウンドの増加って奴を示してた。とりあえず昼飯でもと店を眺めたら、やっぱり空港だけあってどこもお値段が高くって、仕方が無く隅っこにある吉野家へと行って牛丼大盛りと卵を食べたけれど、それで630円もした。国際価格なのか。円高が悪いのか。

 さて発表会では「空港の情報ユニバーサルデザイン高度化」に向けた共同実験のあれやこれやを見物。例えばトイレを案内する音声ガイドが騒音によってかき消されてしまうような場合も、その音声の一部を持ち上げてあげるとかすることによって、決して騒音のエスカレーションではなしに耳に届く音にできるといった感じ。逆に静かになれば案内の方もパワーを下げるとかいった操作をすることで、常にその雰囲気に合った案内ができるという。なるほどなあ。空港に限らず雑踏とかでも導入して欲しい技術かも。それからプロジェクションマッピング、っていうと大げさだけれどプロジェクターで壁面に中央口が込んでいるから空いてる北口に行きましょうと案内する映像。これはその場で混雑具合を察知して、その都度そういう案内を出せるよういするのが狙いとか。タイミングもこれから混みそうってのを事前に察知し早めに案内するのを目指すというから結構奥深い。これが導入されれば壁際サークルや人気ラーメン店の行列も減るかっていうと、そこが唯一な場合はちょっと無理。でも動態を見極め空いてる場所を歩くような案内には使えるかも。

 これらはどちらもNTTの技術。ほかには矢印だとかはてなマークが描かれたサインボードにスマホとかをかざすと、その画像が何かを検索してその画像にマッチした情報を呼び出すような仕組みも提案してた。前に武蔵野のR&D発表会でも見た技術で、あの時は観光地とかの建物の外観に紐付けされた情報を、建物を撮影することで呼び出すようなデモンストレーションを行ってた。ちょっとくらい角度が違ってもちゃんと当該の情報を検索して呼び出せるとか。飲食店のメニューとか材料の情報とかを呼び出せば便利になるけど、情報を作り込むまでがちょっと大変かも。そんなNTTの技術に対してパナソニックが見せていたのは、LEDのサインボードの光に混ぜてIDを送りだし、それを受けたスマホでIDにマッチした情報を引っ張り出すという技術。例えば光るバッグの広告看板にスマホを向けると、そのバッグのサイトが呼びだれるといった具合。隣の地図に向けるとすぐに地図が出る。切り替えの速さにはちょっと驚いた。

 あくまでやりとりするのはIDであって光に混じって電波だとかデータなんかを通信する訳じゃないから、時間も掛からずにすぐに反応するんだろう。あとはどうやってLEDの中にそういったIDを仕込ませるか、っていったところでそのあたりの技術なり、システムが普通に使えるようになれば、町中のLEDパネルが情報の入り口になっていくのかもしれない。ポスターだったら印刷データにコードを仕込めるし、簡単にQRコードを張り付けておくってこともできるけど、それだと可変性に乏しくなる。LEDで次々に映し出す映像に紐付けして、さまざまなIDを送りだす。それを複数の人間が同時にスマホをかざして読み出すというサービスが、とりあえずは可能になるのかんな。ライブ会場でバックで輝くLEDのパネルからIDを送りだし、スマホに歌詞データとか楽曲データを表示するようなことが出来れば面白いけど、ライブ中にスマホが光るのも厄介だからなあ、そこはまた、別の使い方を考えようってことで。

   やれやれ。とある新聞のそれなりに偉い人が例の流行語大賞について取り上げて、そこに入っていた「アベ政治を許さない」という言葉がどうにも気に入らないらしく「『アベ政治を許さない』はて、こんな政治スローガンが果たしてそんなに流行したり、人口に膾炙したりしていただろうか。そう書かれたビラが一部で配布されていたらしいことは報道で承知していたが、巷で耳にしたことはない」と書いていて、読んで腰が抜けたというか、木っ端みじんに砕け散った。韜晦としても苦しすぎるというか、自分の情報収集力の拙さを満天下に示してしまっていて恥も外聞もないのかというか。僕自身はこの「安倍」を「アベ」と書く表記がどうにもキザったらしくて斜に構えているところも見えて大嫌いで、ちゃんと「安倍晋三政治」と書けば良いのにと思っている口だけれど、それでもスローガンに込めた意図、どうにかしなきゃという思いには考えが及ぶし、そうした批判の是非については考え無くちゃいけないとも思う。

 でもこのコラムはスローガンの表層に漂う衒いのみあげつらって誹り罵倒するだけで、彼らが言いたかったことの是非にまで考えを及ぼそうとしない。それとも考えが及ばないのか。不気味なのはそうした表層への罵倒に呼応する人が結構な数いたりすることだけれど、さすがにスローガンの存在くらいは知っていて、だかこそ批判もするし罵倒もする。けどこのコラムはそんなもの知らない見てない聞いてないと公言している。つまりそれって聞きたくないこと、見たくないこと、知りたくないことには自分はコミットしないと言ってるようなものじゃないか。もちろん本当に知らなかったなんて可能性も微細ながらあるけれど、さすがにそこまでポン酢でもないだろう。国会記者会館の真下にある国会議事堂前駅を、一時はそのスローガンをぶら下げた人たちが埋め尽くしていた訳だから。

 なので知らない見てない聞いてないというのはある種の韜晦か、レトリックなんだろうけれど、それをメディアの最前線に立って、深く政治を見ている人間が言って良いことじゃない。自分はポン酢ですと言ってるようなものだし、さらに書いていることがポン酢とあって、それがそれなりな立場の人間によって書かれていることに、もうこの先どうなってしまうのかと震えてしまうのだった。一部に大受けしたって、大半はこりゃあちょっとポン酢が過ぎると想うだろうから。というか、この偉い人が書いたコラムの1本なり、ここん家に乗る記事の1本が、果たして「Yahoo! ニュース 個人」として掲載され得るだろうか、そして大勢が読んですごいと感じて、社会を変えるインパクトを持っていたと評価されて月間MVAに輝くことがあるだろうか。ないよなあ、だって小手先の言葉遊びなり、ネットから集めた情報を並べて嫌韓反中対民主のロジックをこね上げているだけだから。そう思うと絶望の度合いも膨らむ。どうしたものであるか。どうしようもないのであるか。


【12月2日】 そうそうYahoo!ニュース 個人のオーサーカンファレンスで開かれたパネルディスカッションで、登壇した江川紹子さんがネットでの炎上問題から敷衍して、例の埼玉の高校生がガンバ大阪のパトリック選手に対する差別的なツイートをしたことについて触れていて、名乗り出て謝罪をしたということはそれとして、言えば悪いことだったと分かるくらいの人間が、そもそもどうしてそういうツイートをしてしまったのかといったところに目を向けて、普段から接触しているネットなり、あるいは日常会話なりの言葉の空間の中で、これくらいはアリって感じになっていたんじゃないか、そっちをどうするか考えていかないとってことを話してたのが気になった。

 それは自分も真っ先に思ったことで、普通だったら高校生になるまでに何が差別的な言葉で、それを公然と言ったらどうなるかくらい教えられ、窘められて分かるようなものなんだけれど、そういう機会がひとつにはなく、学校で教えられることももちろんないまま、ネットというあらゆる言葉が垣根無しに流れ込んでくる空間で、だんだんと強まりつつある強い言葉、そして差別的な言葉に触れる機会が増え、浸り染められてしまった果ての言動だったんじゃないのか、なんて考えるとここでひとりが教育的指導を受け、それが報じられてもまた同じような言葉が生まれてくるんじゃないか、なんて思わないではいられない。というかおそらくはさらに強烈で、そして様々な方面に向けての荒々しい言葉が、今この瞬間にも紡がれていたりするんだろう。

 どうすりゃあ良いんだ、って言ってどうにかなる問題でもなく、いつか誰もが気付いてネットからそういう過激で差別的な言葉を退けるような動きが強まれば理想的なんだけれど、そうではないなら媒体として、可能な限りそうした言葉を取り除いていくような活動に出るしかないんだろう。同じパネルディスカッションに出ていた松谷創一カさんは、ブログでもネットニュースでも逆張り炎上狙いの過激な言葉なんかが蔓延って、アクセスを稼いでいる状況に対してYahoo!ニュースは、そしてYahoo!ニュース 個人はそうした言葉を改善するような効果を発揮しているとは話していたけれど、これからの世の中でアクセス至上のマインドがぶり返して来た時に、Yahoo!は耐えて忍んで正しい言葉を紡ぎ続けることが出来るのか。それだけの強い意識を持っているのか。持っていて欲しいと願いつつ、様子を眺めていこう。意識高い編集者が居ればいいんだけれど、それだと意識高い記事しか乗らなくなるしなあ。いろいろと難しい。

 ロベルタとレヴィがステゴロでどつきあっている場に赴いて、もっと平和的に話し合って解決しようよと呼びかけて、2人から「すっこんでろ。」と怒鳴られたロックのような立場なんだろうなあ、対立するトルコとロシアの仲介役を勝手に買って出ようとした安倍晋三総理。立ち話でトルコの人と話して喧嘩はダメだよボクがロシアに何か言ってあげるよと良い顔をしたもの、そのロシアの人にはまるで取り合ってもらえなかったという状況。そもそもがトルコとロシアの対立が、誰かの仲介で丸く収まるのなら2国間での話し合いで終わっている。でもうまくいかないのはどちらかに非がありどちらかに憤りがあるからで、それを解きほぐすだけのアイデアも方法も持たずに親日だと思い込んでるトルコに良い顔をし、自分が仲良しだと思っているロシアに顔を向けようとしたって誰が相手にするものか。それこそ「すっこんでろ。」ってなもんだ。

 ISISの勃興を抑えてぶっつぶしたいと思って爆撃とかしていたロシアなのに、それをやっていた爆撃機をトルコが落としたのは実はトルコがシリア政府に対するゲリラと?がっていて、ロシアの爆撃を良く思っていなかったからだ、なんて話もあったりする状況で、日本の総理がいったい何を行けるのか。シリアのゲリラと手を切れとトルコに言って聞くわけもないし、シリアのゲリラへの爆撃を止めろとロシアに言って聞いてもらえる筋もない。つまりは八方ふさがりの状況に乗り込んでいって、平和が大事と叫ぶその態度は、安倍総理が毛嫌いしている、憲法九条があれば敵は攻めてこないんだと叫ぶ勢力とそっくりというか、実際に世界の戦争に巻き込まれることを防いだ憲法九条のほうがよほどか実行力を伴う一方で、安倍総理の動きはまる無意味どころか、どっちつかずとの非難を浴びて日本のプレゼンスを下げる方にすら働く。それでもちょろちょろと動き回るのは、目立てば勝ちで、あとは野となれのいつものスタンスが出ただけのことなのか。亡国へとひた走るそのはしゃぎっぷりが、次に招くのはどんな危機? 誰か止めてくれないかなあ。羽交い締めにしてでも。

 目も覚めたんで東京ビッグサイトで始まった2015国際ロボット展へ。日刊工業新聞社が主催に入っているイベントで、そうかまだちゃんと事業を継続していたんだなあと日刊工業新聞社とともに産業3紙を形成しながら、ポカやってポシャっていった日本工業新聞のことを思い出す。フジサンケイビジネスアイと名前は変えて残っているけど、昔ほどの産業界に密な取材をしている感じでもないし、東京ビッグサイトを全館埋め尽くすような展示会を開くほどの体力も果たして残っているか。日経産業新聞は母体の日本経済新聞がまだまだ元気でイベントなんかもバンバンやっているのを見ると、1紙の衰退ぶりってのも見えてくる。一時は瀬戸際まで行ったのに、紙面は変えないで産業界に寄り添い発展する分野を見定めてきた堅実な経営が、ここに来て奏功したのかなあ。逆に貧すれば鈍するを行くどこか。親会社も……。明日はどっちだ。

 そんな2015国際ロボット展では、産業用ロボットが並ぶ本当の意味でのメーン会場はほとんど見ないでもっぱらコミュニケーションロボットとか、サービスロボットなんかが並ぶゾーンを行ったりきたり。つまりはPepperであり、それに類するコンパクトで家庭に入り込んではいろいろと世話をしてくれそうなロボットたち。そこで幾つか目に付いたのは、傍らにおいて会話なんかを楽しみつつ画像も撮ってもらいつつ、日々の情報なんかを送ってもらうようなロボットだった。MJIってところが出していた「Mji」もそうだし、ユニロボットが出していた「unibo」もそう。ともに顔が液晶画面になっていて、いろいろな表情を写しつつインターフェイスとしても機能しつつ、その形状でもって部屋の空気に柔らかさを与えていた。

 二足歩行でがしゃがしゃ動いて会話もしてくれるロボットも悪くはないけれど、必要なのは情報であり会話でありといった機能。ならばそれに特化させつつクラウドなんかも利用して、日々進化していくようにすれば良いってことに割り切ったんだろう。昔だったら「プリモプエル」が単体で担っていたような機能が、ネット時代ならもうちょっと高性能で高知能な感じに行えるし、発信する情報も日々更新していける訳だから。あとはやっぱり高齢化が進む中でテレビを見たり新聞を読むのに変わって、何かコミュニケーションの相手を求める人が増えているのに対応した、ってこともあるのかな。そんな成果が幾つか。どれが勝つとかじゃなく、どれもそれなりに受け入れられながら発展してくんだろう。

 でも個人的に目が行ったのは、「プリメイドAI」っていう踊るロボット。二本足で立つタイプだけれど仕草とかやけになまめかしいなあと思ったら、何と25個のサーボモーターが入っていて手足なんかを自在に動かしているんだとか。「虹のコンキスタドール」とかアイドルユニットと組んではそのダンスのデータをもらい、ロボットに踊らせることが出来るとか。見に行けないアイドルから卓上で踊るアイドルロボットへ、なんてシフトが起こるかどうか。個人的にはやっぱりPerfumeのダンスデータを落として踊ってくれるロボットが見たいけれど、それだとやっぱり3体を買わないといけなくなるのかなあ。1体が14万円とかだから3つだと。ちょっと無理だ。1体で、のっちと多い。それともかしゆか? あーちゃんとう手も。あと目立ったのが「ダ・ヴィンチ」。爺さんで表情とか人間そっくり。そしてしゃべりも。ただし実態は「ヒミツのクマ」ちゃん。人によっては万能の天才も再現できるけど、それが出来るのはダ・ヴィンチ本人しかいないかなあ。ってなもんで。


【12月1日】 つじかんの愛称で慣れ親しんだ辻寛一さんの息子さんといった感じで名古屋にいた頃は辻真先さんのことを感じていたけれど、そんな人がアニメーションの世界では黎明期から脚本を書いてジュブナイル小説もいっぱい書いて、子供たちに夢や希望や驚きを与えてきたことの重大さに、気付いたのはちょっぴり大人になってからかもしれない。子供の頃はアニメーションを脚本が誰かってことで見てはいないから。そして大人になって知った辻真先さんは、もうベテランも大ベテランで第一線からはちょっと外れたところにいるのかなあ、なんて思っていたらこれがどうして、今なお健在な上に現役でもって最新のアニメーションの脚本を何本も手掛けている。

 常に進化していて展開も早いアニメーションの脚本だけに、歳をとったら追いついていけなくなるのが普通なんだけれど辻真先さんは今もなお最新のアニメーションを何本も見て、そして話題の小説を何作も読んで流行を追っている。その言葉使いは風俗も含めて。だから書ける。このクールでも先鋭的なアクションで鳴る「コンクリート・レボルティオ 超人幻想」のシナリオを。なるほど昭和44年あたりに相当する神化44年を舞台にして、辻さんがいっぱい書いてきただろうヒーローたちが大暴れする中にヒーローの哀しみなんかも交えた展開を、今という時代に再現したようなストーリーを辻さんが書くのは合っている、って声もありそう。だから書いてもらったんだという意見もあるだろう。

 けれどでも、お年寄りだからお年寄りならではの場面を書いてもらうだなんて失礼なことを、アニメを愛し辻さんに経緯を抱くこのスタッフたちがするはずがない。ひとつの挑戦であり今という時代にヒーローを再確認させるようなこの再生の物語を、現代の最先端の感覚を今なお失っていない辻さんならどう描き、どんな課題を突きつけてくるかっていう挑戦であってそれに辻さんは見事に答えて、地球の発生時から生き続ける家族が抱える悩みであり、結束でありその刹那の気持ちといったものを浮かび上がらせてみせた。なおかつ悲嘆の向こう側に現れる希望という物も。見て僕達は思っただろう、格好いい生き様というものがあるってことを。そんな家族に触れてヒーローを保護するとか、解放するとかいって対立する爾郎と超人課の面々も、もっと違う方法があるんじゃないかと思っただろう。受けてどんな答えを出すのか。若い書き手たちの奮起が楽しみ。

 ボノボ、ってチンパンジーなんかよりもさらに人に近い存在だって言われているお猿さんだけれど、決して人間にはなれない訳でもちろん人間は越えられない訳で、そういう存在をサービスの名前に持ってきて良いのかなあ、人間が望む以上のサービスは得られないってことなのかなあ、なんて勘ぐってみたりもしたけれども、とりあえず映画会社とかが参画してはじめる「bonobo」ってサービスは、松竹東宝東映に大映変じてKADOKAWAも乗った日本映画製作者連盟の会社とか、20世紀フォックスとかディズニーと言った洋画系とかアスミック・エースやギャガといった配給会社、さらにはバンダイビジュアルやポニーキャニオンやアニプレックスといったビデオメーカーとそしてプロダクション・アイジー、東映アニメーション、シンエイ動画といったアニメーション制作会社も名前を連ねているところに、何か業界の“本気”めいたものを感じてしまう。

 その本気とは他の配信サービスにイニシアティブをとられて、タイミングとか価格なんかを良いようにされてしまうんじゃなく、自分たちが出したいタイミングで出したい料金で映像を配信しては視聴者の満足を誘おうとうすることへの意識。もちそんそれが見合ってな商売の論理にのって、高額な上に公開から遅くなったタイミングで配信したって意味が無い。それなら見ないし買いもしないだろうけれど、他に出すよりここに早く出して見てもらうとか、パッケージを買った人とか映画館に行った人には配信を受けられるようなコードを出すとかいったサービスを行うことで、他の定額制配信サービスとは違ったポジションを得られる、かもしれない。

 実際に「キングスマン」とか配信されてはじめているし「東京無国籍少女」なんかも面白そう。値段はレンタルで500円とか700円とかで購入なら2000円とか無茶な感じもするけれど、それだって映画館で見るよりは安くパッケージを買うよりも安いといった考えに経てば許容範囲かも知れない。そうでないかもしれな。そのあたりどういうマーケティングを行いこれから展開していくのかがちょっと気になるけれど、やっぱりタイトルだよなあ、「百日紅 〜Miss HOKUSAI〜」なんてデモンストレーションの画面をちらちらしていたから、パッケージより早いか同時くらいに配信を始めてくれたりするのかな。まあパッケージを買うけど開けずにそっちを見るとかする手もないでもない。そういう使い方をする人がいて、タイトルが供給されれば優位性は見せられるかも。様子を眺めていこう。しかし久々に見たけど岡田裕介さん、青春スターぶりは変わってなかったなあ。俳優を続けていればどんなポジションになったかなあ。

 20年近く日記を書いていたって日々の雑記が中心で、社会に対して何か提案するなんて面倒なことをやってこなかったんで呼ばれるはずもないYahoo!ニュース個人のオーサーカンファレンスってのに取材でもって入り込み、パネルディスカッションに登場した松谷創一カさんのトークなんかを聞いたり山本一郎さんお炎上上等、でもちゃと議論の種になるような火の付け方であってただ燃えるだけではないぜってなスタンスを感じたりして、優れた書き手になるのはそういう意識が大切なんだなあと思って自分を改めるかとうと、面倒だからそれはしない。テーマも無く日々に見たことを綴り、記憶を言葉に置き換えていくのがこの日記の役割だから。メディアの代わりにはならないよ。

 一方でYahoo!ニュース 個人、メディアとしてちゃんとしようとしているなあという印象。もちろんyahoo!という巨大な収入源を持って、良質なコンテンツ、社会を変えるようなインパクトを持った意義あるコンテンツを書かせ集めて世に発信していこうとう気概が見えた。収入の機会を増やし優れた人には分配の料率を高める一方で、編集部の方から取材を依頼し必要ならば取材費も出すとかいったことまでする。それってもうほとんどメディア。あるいはマスコミ。編集部の問題意識ってのがどこにあるかが気になるけれど、そこもこれまでのyahoo!ニュース 個人の展開で、それなりに確かなものだってことは窺える。

 単体での収益とか考えているのかどうかは分からないし、オーサーがそれで雑誌みたいにギリギリでも食えるようになっているかも今はまだ見えていないけれど、もはや死に体の雑誌ではではできなくなったノンフィクションなりルポルタージュが、ここから発信されるようになる、という可能性はないでもない。ただ、それも現場の意識次第かなあ。江川紹子さんが求めていたけれど、編集としてそれが必要とチームを組みアンカーを仕立てリサーチャーも揃えてひとつの主題にとり組んでいく体制が整えられるかどうか。その余裕が会社にあり、内容に対する批判的なリアクションに対する耐久があるかどうか。社会的に意義はあっても、事業的にはマイナスかもしれないテーマに、それでも社会的に意義はあるからと事業側が目をつぶる覚悟はあるか。ってところが重要になってくる。

 出版社のような独立したメディアはかつて強かったけれど、広告に頼るようになってダメになった。読まれる記事と読ませたい記事との乖離を埋められなくなって、読者に媚びて媚びまくっては爛れていった。そういうことが、最初から広告と購読に頼っているYahoo!という幹に生えた枝としてのYahoo!ニュース 個人に起こらないと言えるのか。儲からないから切り捨てられるって可能性は本当にないのか。ニコニコがニュース部門を作ったけれどあっというまに閉じられたような事態もあるだけに、ネット企業の浮薄さを考えに入れておきたくも鳴るけれど、ここん家は割と本気っぽいので、何かやってくれそうな予感はする。まあ自分にお呼びが掛かることは一生ないのでどうでも良いけど。いや良くないか。真っ当なメディアにちゃんとなってくれないと日本がダメになるから。とかどうとか。オーサーの人たちが自律と尊厳をもって活動していても、それに関わる会社の人が妙な特権意識を与えるような煽り方をしておだて方をしていくとメディアも痛んでいくからそのあたり、意識しないといけないところ。なんとかブロガーとかってそんなイタい特権意識をくすぐって盛り上がっては揺れていったしなあ。さてどうなる。遠巻きに見ていこう。お呼びじゃないし。


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