縮刷版2015年1月上旬号


【1月10日】 根津甚八さんで見たかったし、聞きたかったという声が多くでるだろうことは承知で、それはパンフレットでも押井守総監督・監督が長編アニメーション映画「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」で、柘植行人という男の声を俳優の根津甚八さんが担当していたけれど、今は俳優を辞めてしまっていると言及していることからも、そういう声を欲していたんだろうと想像できる。でも現実、根津さんは俳優業から下がって演出やプロデューサーといった仕事を中心にやられている。それで出てくださいというのも無理と分かったところで押井さんは、アニメーションのイメージを壊さないで、それでもちゃんと引き継ぐ雰囲気を見せようって意識をしている感じ。

 それがあの独特なレイアウトとなり、カメラワークとなったんだろう。その苦心ぶりを伺いにまた見に行きたいと思った実写版「THE NEXT GENERATION パトレイバー/第七章」のエピソード12「大いなる遺産」。それを見て思ったのは押井さんはきっと心底から、この実写版を始めるにあたって「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」の続きをやりたかったか、あるいは実写版でリメイクめいたことをやる以上は「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」の続きにするしかないって考えたんじゃないかな、ってこと。

 別に普通にオープンエンドでわいわいやってる日常がちょっぴりの危機を挟みながらも続いていくような展開にしても良かった訳で、初期OVAシリーズのように「二課の一番長い日」みたいにオリジナルの混乱を入れても良かったはずなのに、わざわざ柘植を出し南雲しのぶさんらしき女性を出して、後藤さんまで電話口の向こうに立たせ、過去に起こったクーデーター未遂を持ち出してきては、その延長戦が5月1日封切りの映画「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」で始まることを堂々、予告してみたりする。

 つまりはその映画のプロローグでしかなかったりもする「エピソード12」。過去に11話積み重ねてきたエピソードも、単独ではお笑いありラブストーリーありサスペンスありといった具合に、バリエーションを付けて楽しませたけれど、それぞれで登場人物たちのキャラクターを肉付けし、浮かび上がらせつつ周辺で起こる出来事から警備なり公安といった警察組織がどういうスタンスで日本を見て特車二課も見ているかを、理解させようとしている。そんな積み重ねに加えて柘植という男を引っ張り出して、南雲さんまで登場させた「エピソード12」はこれまで主役になることがなかった後藤田隊長をメインに据えて、彼が先輩から引き継いだ“だけ”の特車二課という部署を、そこで働くメンバーを改めて意識しつつ、何を成すべきかを決意するまでを描いている。ここから本当の物語が始まる。そう思わせる。

 ってことは泉野明も塩原佑馬も山崎弘道も、カーシャも太田原勇も御酒屋慎司もただの脇役か、って辺りになるとちょっと分からないけれど、「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」が後藤隊長と南雲隊長と柘植のドラマになっていて、そこに刑事さんや自衛隊のスパイも絡んだくらいで、特車二課の面々は引退先から呼び戻されてちょっぴり働く駒に過ぎなくなっていたりするように、映画「THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦」でも特車二課の面々は、後藤田隊長と柘植の配下としのぶさんの意思、そして謎めく乗り手がメインとなった戦いに、兵隊として関わるだけの存在になりかねないか、どうなのか。

 でも、「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」とは決定的に違っていふのhz、泉野も塩原も現役の特車二課の隊員だということ。その意識、その立場、その思いをかけて前線に立ち、それぞれの正義への思いを披露してくれるに違いない、って思いたいけれども果たして。そうでなければやっぱりいつもの押井さんによる、前にすら進んでいないノスタルジーの焼き直しになってしまう。そんな安易なクリエーターとは思えない以上は絶対に、真野ちゃんを前線に立たせてカーシャを再び戦士にし、太田原も御酒屋も立派に勤め上げる展開を描いてくれると信じたい。山崎はニワトリのことしか考えてないだろうけれど。だってそういうキャラだったし、そういうキャラであり続けることが山崎弘道だし。こけこっこ。

 さて今回も舞台挨拶で見た「エピソード12」は、いつもだったら早朝なんで見終わった後なのが、他に廻る予定もあるのか今回は見る前にあって内容に触れられなかったのが残念。ただ真野恵里菜さんが隊員服で来てくれて、ズボンのタイプに包まれパッドもはいったお尻の大きさって奴を改めて感じさせてくれたのが良かった。とはいえ1年前とはやっぱりカラダも細くなっているようで、映画の時のようなボリューム感があんまり感じられなかったのは少し寂しいかなあ。筧利夫さんはもうハイテンション。寡黙な後藤田隊長とは違って賢明に自分を紹介して映画をアピールする。あのハイテンションな千葉繁さんでも苦笑しそうなその一生懸命さは、始めて主役みたいになった映画のためか、舞台俳優として大勢が見る場ではやっぱり一所懸命になってしまう性質なのか。映画での演技がああだっただけになおのこと、ギャップが面白かった。

 さてもこうして最終章が公開されてあとは映画を残すのみ。プロローグ的である以上に本当のプロローグまで添えられて、予告編にも出てくるステルスヘリコプターが誰かによって整備され、そして送り出されるまでがちゃんと描かれていた。いったい誰が運用しているのか。そしてねらいは。予告編ではいつか見た光景のように特車二課の棟が機銃掃射を受ける場面もあってと懐かしいこと懐かしいこと。これで飛行船まで飛べば完璧なんだけどなあ。そこまで踏襲はしないか。あとは気になるのは後藤さんが果たして喋るのか、南雲しのぶさんは誰が演じていたのか、それは姿を現すのか、ってこと。声は聞けた。もうそのままにあの声だったってことは後藤さんも……。期待するしか道はない。期待するより他はない。5月1日。駆けつけようその封切りに。真野ちゃん来てくれるかなあ。お尻をもうちょっとだけ膨らませて。

 しかし映画で行使されるかもしれない現実を、フィクションの中で想像していられる日本の平穏が、妙に際だって感じられたフランスでの不穏の連続は、女性警官らを射殺した犯人がユダヤ人向けのスーパーに立てこもった一方で、風刺週刊紙のシャルリー・エブドを襲った犯人のうちの2人は逃げて印刷会社か何かに立てこもって、そして共にフランスの警察なり特殊部隊に追いつめられて射殺されるという幕引き。その背景を直接聞き出すことが不可能になってしまったけど、どこかが直接、シャルリー・エブドを襲った犯人に聞いた話しとしては、彼らは別にイスラム国に刺激された訳でも、最近のシャルリー・エブドの風刺画に憤った訳でもなく、もうなんねんも前からイエメンのアルカイダに指示され支援も受けて着々と、襲撃を計画していたってことらしい。

 だからこそ編集会議のある日の、それもジャストの時間に会社を訪れ会議室に突入していたメンバーを皆殺しにできたし、逃亡も結果として射殺はされたもののしばらくは逃げることができた。興味深いのは彼らに指令を下したイエメンのアルカイダの指導者はすでにCIAによって暗殺されているということ。それでも指令は残り金も動いてその計画は執行された。考えるならそうした指令は他にもあって、今もなお着々と根を張り花を咲かせようとしているのかもしれない。次々と噴出する事件もそんな一環で、そしてこれからもどんどんと、同じような事件が起こるかもしれない。刺激されてさらに新たな計画も発動された果て、世界はどんな混乱へと向かうのか。その中で日本はどうなるのか。テロとの戦いなどと軽々と口にする総理大臣には、それにはどんな犠牲が伴うのかも考え口にして欲しい。その身すらかける覚悟で。でもないかなあ、そんな根性。さてはて。

 藤田純二さんといったら2000年の6月に、ロフトプラスワンで開かれたテレビアニメ「BLUE GENDER」を振り返るイベントに登壇していたのを見たことがあったけれど、当時から薄々と知ってはいたその経歴のスタート、キングレコードであの「機動戦士ガンダム」の一連のレコードを手掛けた時の話をしてくれるってんで、中野にある明治大学に行って氷川竜介さんの特別講義の一環として行われた一種の対談を聞きに行く。森川嘉一郎さんの姿も見受けられた教室は、結構な広さなのにそれなりな人数。集まっているのもかつて「ガンダム」のサントラを聴いただろう人から、最近の若いアニメファンまで種々に多数。その興味が「ガンダム」なのかアニメのサントラなのかは分からないけれど、今でこそ普通に売られるアニメのBGM集なんかが当時、いろいろな模索や決断の上に出てきたことが分かって面白かった。

 僕なんかはその前の「宇宙戦艦ヤマト」に関連して出た交響組曲あたりも見知ってはいて、サントラでも素晴らしいものが集まればそれはレコードになり得るとは感じていたけど、それらは新たに録音された編曲版であって、アニメの上で使われたものではなかった。劇伴はあくまで材料であって、単独の商品ではなく、レコード会社が作るものでもないって考えがあったようだけれど、それをいつの頃からか現れた熱心なアニメファンが、映像とともに音楽もひとつの作品を形作っている要素ととらえ、そのままで聞きたいといいだしていたことを藤田さんは受け止めて、「ウルトラマン」のBGM集を出し「無敵超人ザンボット3」のドラマも入ったBGM集を出して下地を作って、そして「機動戦士ガンダム」のBGM集へと至る。

 そのジャケットがあまりにアニメしていて不評だったことを受け、第2集「戦場で」では安彦良和さん描き下ろしのアムロがたたずむジャケットを使ったら、1枚目よりも売れてそれでジャケットの大切さを知ったとか。それでも第3集では安彦さんが体を崩していて新しい絵がもらえなかったんで、修正原画を使う方法を過去のシングルやアニメージュの表紙絵なんかから延長し、氷川竜介さんのセレクトでもってトマトか何かを食べるアムロが使われたという、そんあ感じ。この「アムロよ…」もドラマを総集編的に収録したアルバムとして、後の劇場版の構成に何らかの影響を与えているっぽいんでその意味で、キングレコードの動きが今に続く文化を作ったことは間違いない。

 それはキングレコードから「ガンダム」のサントラが出なかった歴史、ってものを想定してみると良いかもしれない。「ザンボット3」をやりながら次の「無敵剛人ダイターン3」が日本コロムビアに行ってしまったのを観てあわてて取り戻してキングが「ガンダム」を手掛けたけれど、ここで黙っていたらそのまま「ガンダム」もコロムビアへといって、そこの方針で主題歌は出てもBGM集は出なかったかもしれないし、ジャケットもアニメが使われた子供っぽいものに終わっていたかも知れない。

 アニメ絵ではない安彦さんの絵を使い、そのクリエーターとしての魅力に気づかせガンダムの人気をそちらから盛り上げたあのアルバムも世に出なかった訳で、その場合に今のようなガンダムブームが起こったか? って考えた時にアニメの今の隆盛あるはキングレコードが「ガンダム」の音楽を“取り戻した”ことも重要な役割を果たしている、って言えるのかも。歴史はこうして作られる。他にも楽しい話が多々。BGM集が作られづらく売れづらい時代にどうするか、ってのも聞きたかったけれど時間切れ。いずれまたお話を伺える機会があれば、ユーメックスから今日までの藤田さんの仕事を聞いてみたい。是非に企画を。


【1月9日】 実を言うとテレビシリーズは、録画はしてあってもほとんど見ていなかったりして、そして小説版も深見真さんの原作バージョンも吉上亮さんのスピンオフバージョンも並べてはあっても、読んでいない程度に「PSYCHO−PASS サイコパス」のことは知っていたりするというか、つまりはほとんど知らなくて、慌てて「SFマガジン」の2015年2月号の特集を読み、どういう世界観で動いている作品かを確認した人間だけど、そんな薄い知識で見て果たして大丈夫なんだろうかと、劇場へと駆けつけて見た劇場版「PSYCHO−PASS サイコパス」はうん、面白かったよいろいろと。

 SFとして、ってSF読みとして言うなら、管理された社会で犯罪者を予備的に始末する組織があって、そして背後で動いているシステムがとてつもない、って設定は過去に様々な類例をもったその変奏。とはいえ、独立していたそれらが組み合わさった上に、「シビュラシステム」というものの独特さがあって、誰がいったい誰を裁いているのか、ひょっとして人智を超えた何かだろうかってて懐疑から、少し離れたところで人間そのものの正義の在処って奴を考えさせてくれる。それはある種の特権的な善意の集合体であって、どこか「楽園追放 Expelled from Paradise」の舞台になっているディーヴァを導く者たちの意識とも重なって見える。同じ虚淵玄さんだし。

 ただ「楽園追放」の場合は、本当に人間なのかそれとも……っていう可能性なんかが示唆されているし、フロンティアセッターっていうロボットで人工知能でありながら、知性を得て人間に近づいていった存在の提示が、人間による人間のためのといった、限界であり制約であり歯止めといったものを超えた所にある地平を見せてくれている。それが楽園なのか地獄なのかは分からないけれど。「PSYCHO−PASS サイコパス」に描かれる、シビュラシステムによって管理された日本であり、劇場版で舞台になった海上都市は、そうした遥か未来の新たな可能性へと向かう前、まだ人間が唯一の知性であった時代でどこまで、歪みのない正しい世界が作れるか、って可能性を探ろうとしているのかもしれない。

 そんな世界だと理解の進んだ上で考える劇場版「PSYCHO−PASS サイコパス」は、かつての同僚だった咬噛慎也が逃亡して3年、東南アジアらしい場所で政府に挑むゲリラを支える兵士として、咬噛が暗躍していることを知った公安局の常守朱が志願して現地へと飛ぶ、という展開。一介の公安局員が、どうして世界をまたにかけて飛び回れるんだろう、そして現地で上を下にもおかないVIP待遇を受けるんだろうという謎は、朱が世界を動かすシステムの正体を知りつつ、それに違和感を抱きつつ、だからといって排除されない不思議な立ち位置にいるから。どうしてそうなった? ってあたりはTVシリーズを見直せば分かるのかもしれないけれど、とりあえずそういうものだとこれも後付で理解をしつつ、物語では現地に飛んだ朱がまずは見せられた、シュビラシステムが独裁と弾圧のツールとして使われたらどうなるか、っていうグロテスクなビジョンに戦慄させられる。

 軍閥からのし上がって独裁者となった男の配下で、憲兵隊の隊長が部下たちを組織してゲリラの掃討に当たっている。そして海上都市の中では、シビュラシステムによって犯罪係数が高いと認定された人間たちが、首に枷をはめられ逆らえば毒殺されるような恐怖を感じながら、顔では平静を装って世界の素晴らしさを讃えていきている。これのどこが平和に誰もが暮らせる世界だ? 正義が正義として貫かれる世界だ? 日本とは違いすぎるシュビラシステムの恐ろしさを見せつけておいたそのはるか先、エンディングで繰り出されるひとつの陰謀とその結末が、なるほどそういう道筋だったんだと納得を誘う一方で、その過程でどれだけが犠牲になったんだという憤りも喚起させる。

 正義のための犠牲か。それもひとつの正義なのかもしれないけれど、そうしなければ正義は訪れないのかもしれないけれどそれにしても……。こうした苦渋を味わいながらも朱は日々を生き、そしてより良い世界の訪れを願って闘っているんだろうなあ。その純粋さが彼女を特別なものにしているんだろうか。それも原作を読んだり見て考えよう。さて現地では、咬噛が現れ朱と合流して今の自分を見せつつ、その意思が汚れていないことも分かってもらうけれど、そこに敵。何で憲兵隊が攻撃しても落ちなかったゲリラのアジトが、数人のプロの傭兵によって簡単に蹂躙されるんだ? っていう疑問はあるけれど立場として憲兵隊が傭兵をおおっぴらに傭兵を使ってゲリラを掃討する訳にもいかなかったから、と理解しておこう。

 その傭兵たちがまた誰も強そうだけれど、中にグラマラスな上に戦闘に長けた女性がいてちょっとお気に入り。でも……。脇役は儚い。リーダーはリーダーでとてつもなく強そうだったし、戦闘中に咬噛に手を差し伸べたりもするんだけれど、最後には敗れ破壊されて果てる。何がしたかったんだろう。どう生きたかったんだろう。そしてどうしてその道を選んだんだろう。生きていたら聞きたかった。咬噛に何かひとつの可能性を見たのかな、クソったれた世界がより正しくなるための道を開いてくれる可能性を。それがただ、朱が見る世界の正しさと同じとは限らない、ってあたりがこれからの展開で何か意味を持ちそう。重なり合ってすれ違った咬噛と朱の道が、それぞれに行き着いた果てで2人は、戦うのか手を取り合うのか。そんな期待もあるけれど、続きとか作られるのかなあ。話が世界に出て大きく成りすぎてしまっただけに、映像では無理かもしれないなあ。そこはだから小説で。是非に。

 戦闘服姿がメインビジュアルになっている常守朱にフェティッシュが存在せず、どう気持ちを入れ込もうって見る前は思ったけれど、見てもビジュアル的な魅力はやっぱり乏しかったなあ。かろうじて見えたお尻とか胸に感じないでもないけれど、それでも貧相なのには変わりがないし。ひとつあるとしたら、あの目の下についている不思議な線か。例えるなら「トライガン」に出てきたレガート・ブルーサマーズの右肩に生えていた何かみたいな。普通に言うなら下まつげなんだろうけど、疲れた時に現れる隈みたいに見えるのは何かデザイン的な意図があるんだろうか。可愛くはせずでも気にはさせるような軟弱で、でも意思の強い女性とかっていう。そこはちょっと知りたいかも。おおよその設定を叩き込んだんで、また見に行って会話とか聞いてどうしてシビュラシステムが、朱をあれほど気にしているのか、そして誰がいったい本当の黒幕で、その差配で何が行われその上で朱はどう動かされたのかを確認していこう。

 見ていた女性層の多さに、劇場版「PSYCHO−PASS サイコパス」は満足がいったものだったか、それとも朱がメインで咬噛と宜野座伸元との絡みがなくって残念だったかって想像もあれこれ。昨日見た、東京メトロの新宿駅脇でやってるシビュラシステムの測定イベントにたかっていたのも女性ばかりだったものなあ。槙島聖護の登場もあるにはあったけれどあの程度で良かったのか。終わった途端に「戦闘シーン長過ぎー」って声があがったところを見ると、そういうのを期待した層ではなく、あるいは朱とか唐之森志恩と六合塚弥生の絡みに心躍らせたい層でもない人が、作品のファンに多いって感じで、そうした層に映画が答えていたかが迷うところ。でも例え戦闘シーンばかりでも、そんな中に男たちの関係を見いだすのが鍛錬を経たお姉さま方だから、何か新たな魅力をきっと感じて通うことだろう。

 ちょっと最近、外れが多かったチケットぴあの先行で東京宝塚劇場の「ルパン三世」があたり、「アップルシードアルファ」の舞台挨拶があたり上坂すみれさんのライブあ当たってどれも行けることになった。後の2つはともかく宝塚は過去に行ったこともなく、B席という2階の最後列に地下場所とはいえ男が1人で行って良いものか、迷うし悩むところだけれどそこは演目が「ルパン三世」ということで、そういうのを目当てにした男のファンも大勢来ているだろうと信じてのぞいてこちょう。「劇団スタジオライフ」だって大概が女性って中に男がぽつりぽつりと居ても大丈夫だから、きっと受け入れてくれるよね。しかしどんな展開なんだろうなあ宝塚の「ルパン三世」。次元とか格好いいけど不二子ちゃんは可愛いけれど、やっぱりルパンの喋りが気になるなあ。


【1月8日】 1月7日の夜の8時前、タイムラインに流れてきた、フランスの新聞社に襲撃があったってコメントから何があったんだろうと探して多分、AFPのツイッターあたりで10人くらいが亡くなったといった情報が引っ掛かる。そこからいったい、どこの新聞社だろうかとキーワードをぶちこみ、検索していって行き当たったのがシャルリー・エブドという名前。そこからさらに調べていって、過去にイスラム教の教祖に冠する風刺画を載せて世界中から反発を食らい、そして襲撃も受けて放火されたことがある週刊の新聞社だということが分かってくる。

 つまりはだからそういう襲撃があったんだろうとは理解したけど、それにしても10人とは数が多すぎる。朝日新聞の阪神支局で起こった赤報隊の事件では、散弾のようなものが支局内で発射されて1人が亡くなり1人が怪我をした。撃てば響く銃声は、すぐに近隣から人を呼んで犯人の逃走を不可能にする。だから撃ったらすぐに退くといった行動の様式を踏まえるなら、10人もの人間を全員殺害するなんてちょっとあり得ない。それこそ爆弾を積んだ車で突っ込まない限り無理なはずなのに、伝わってくる情報によるとさらに1人増え、もう1人増えて12人が亡くなったということになっていく。

 いったい何が起こったのか。それはすぐに分かった。覆面をして身をミリタリー風の衣装でかためた男2人が、手に自動小銃らしきものを持って籠城を駆け回り、撃って人を倒してさらにもう1発、至近から頭の当たりにぶち込んでいた。もうそれは戦場のよう。あるいは特殊部隊による作戦のように、スムースに淀みなく目標に向かって走って行っては、撃ち逃げる姿にこれは慣れた者たちによる仕業だと感じたら、さらに事態は深刻だったようで、水曜日の午前という毎週の打ち合わせがある日時を狙って襲っては、そこにいた編集者や風刺漫画の漫画家たちをほとんど皆殺しにしていた感じ。

 まさに計画的。そして作戦的ですらあるその襲撃がいったいどういう勢力によるものか、ってのがこれから明らかになっていく真相から浮かんでくるんだけれど、伝わる情報では移民系ながらも生まれはフランスでパリ近郊の出身らしい兄弟と、あと若い少年の3人だそうで特殊部隊とか暗殺者といった感じではない。かといって話に上がっているイスラムへの冒涜を処断するため派遣されたイスラム系の国々の人という訳でもない。どいういった回路かでイスラムへの信奉と高めつつ、そこへの侮辱を憤って吹き上がった者の暴走、って見るのが流れとしては真っ当なんだけれど、そこでやっぱりプロフェッショナルな手際の良さが気にかかってくる。

 それともすでに世界には、人をあっさりと殺戮するための道具も手法も行き届いてしまっているんだろうか。恐れおののく心もなしに、淡々と狙った相手を殺戮していけるようになっているんだろうか。だとしたらとても恐ろしい。そして悲しい話だけれど、これがこの1件で終わるとは思えないところに募るさらなる恐怖もある。暴力は抑制にはならず反発を生んで過激な表現を招き、そしてさらなる反発の連鎖を呼んでそして……。想像したくないけど、それが世界の今であり、未来という奴だからたまらない。

 何より言論機関に対する襲撃ということで、表現という人間のひとつの営みがこれで大きく制約される懸念が出てくる。漫画という表現がターゲットになったというのも、漫画を好きな人間として憤りとともに不安も浮かぶ。あるいは漫画という表現が持つ、分かりやすく強烈なメッセージを伝え得る機能が、相手の恐怖や怒りを誘ったとも言えそうで、それは漫画の力が認められたいうことであり、なおかつ漫画の暴力性も同時に指摘されたということになる。そんな漫画を恐れ、これから先に漫画が受けるだろうさまざまな指摘に対して、どう答えていくべきなんだろうか。風刺を呼読んで溜飲を下げるだけに限らず、欲望なり願望も漫画の表現が満たしてくれていた状況への影響が、今は気になって仕方がない。

 英語とか分からなくって、ネット翻訳の機能を使って自動的に翻訳したものから想像するしかないんだけれど、「悪魔の詩」のサルマン・ラシュディさんがその、このシャルリー・エブド襲撃の件についてコメントを発している。いったいどこに暮らしていて、どういうルートから発信しているのか、その身に今もなお迫っているだろう危機を思うと興味深くもあり、大変だなあと同情もしつつ、それが言葉で戦う者の道なのかも思ったりするけれど、そんな身だけあってつむがれる言葉もリアリティがあって、読む者の心に刺さる。

 「“宗教”という不条理な中世の形は、近代兵器と組み合わさったたとき、私たちの自由への本当の脅威になる」。信心は尊ばれるべきものであっても、それが近代から現代という、さまざまな価値観が入り混じって存在している状況下において、生まれた時なりすべての中心となっていた時と同じ価値観のみで尊ばれて良いのか否か、って考えた時に浮かぶそのギャップが、トリガーを弾くだけで簡単に大勢を殺せてしまう銃器を得てどれだけの悲劇をもたらすのかを、改めて感じさせてくれる。棍棒と松明だけで大勢を異端のレッテルを張って追いつめ、火あぶりにしていった中世の価値観が、現代にあったら世界はそれこそ3日で滅びてしまうだろう。

 幸いにして宗教の思想信条は尊ばれつつも一方に置いて、現代社会の合理的で多様な価値観も尊ばれているからこそ、そうした虐殺は平穏な日常の中では起こっていない。とはいえ、宗派の違い宗教の違いが生む悲劇は今なお世界中のそこかしこで起こっていたりするから、ラシュディさんの抱く危機感は、単純に事件を受けたものというよりも、むしろ現在進行形で起こっている様々な悲劇をとらえて警鐘を鳴らすものとして受け止めるべきなのかもしれない。「この宗教的全体主義は、イスラム教の中心部に致命的な変異を起こしている」。そうラシュディさんは語っている。「われわれは今日のパリの悲劇的な事態を見なくてはならない」。そして世界に目を向けなくてはならない。

 だからといって、あらゆる表現が許されるか否か、という部分はいろいろと判断に迷うところであって、表現に対して銃器なり暴力でもって答えるのは筋が違う、絶対にあってはいけないという意見もあるにはあるけど、表現が人々の心を操作し、手に武器をとらせるプロパガンダにも成り得る世界において、ただの表現だからといって排除を禁じられるのかといった懐疑は常ににつきまとう。表現が暴力を招かないための制約が、法律として存在するなり自制として屹立すれば、まだ平穏も維持されるだろうけれど、時に表現はその影響力に溺れるあまりに暴力的になって、人々を傷つけ憤りを呼んでしまう。

 ラシュディさんは「われわれは全員が、常に自由のために、専制や不正、愚かさに対する力となっている風刺の芸術を、守らなくてはならない。だから私はシャルリー・エブドを支持する」と訴える。その言に歪みはないし、間違ってもいないんだろうけれど、あらゆる表現が常に自由なのか否かという部分、そのバランスについても一方で考え続けなくてはいけないのだろう。こと宗教に挑んで今の境遇に至ったラシュディさんは、宗教への批判に拘りがあるような感じ。だから「『宗教の尊重』が『宗教の恐怖』を意味するような言葉になっている」ような現状を憂い、「宗教は他の考え方ど同様に、私たちの大胆で無礼な批判や風刺の対象に成り得るのだ」って言っている、って拙い読解力からそう受け取った。

 この言も間違ってはいないけど、ただやっぱりそこに節度は必要か、制約はあるべきか、命や自由以外で対価を支払うべきなのか、って思いも漂って離れない。批判や風刺はその特質から誰かを傷つける。それが特定個人ならまだしも大勢を、全体を傷つけるものだったときに追う言葉への責任は皆無ではない訳で、その案配って奴を改めて考えてみる必要があるのかもしれない。シャルリー・エブドはどうするべきだったのか。その命で贖う覚悟があったのか、あるいはラシュディさんのように自由を制約されても発信し続けようとした準備があったのか。そういう覚悟も準備も不用な世界が来ると良いけれど、蔓延る銃器がより凄惨なシーンを呼ぶ現代に、そして未来に希望を抱くのも難しい。シャルリー・エブドはどうしたら良かったのか、そして表現者たちは何をしていくべきなのか。岐路にある。思索を求められる。たぶんそれは永遠に続く。永遠に。

 そして日本では銃が表現を撃たず、権力が表現を撃ち、殺すらしい。お笑いコンビの「爆笑問題」がNHKで政治家をネタにしたコントをしようとしたら没にされたという一件について、そのNHKを率いる最高責任者の籾井勝人会長がお笑いであっても特定個人を論うような品のないものはどうかとか言ったらしい。おいおい、たとえ特定個人であってもそれが批判の対象となるなら、そして風刺の対象となるなら取りあげ批判し風刺するのが表現ってものだし、それが下品であってもより下品な相手を引きずり出すという効用だってあったりする。だいたいが批判や風刺とは総じて品がないもの。そうした表現を品がないと規制したらあらゆる批判も風刺も出来なくなってしまう。

 それともNHKではもはや絶対に批判やら風刺はまかりならんという判断か。それが時の権力者であっても。すごい放送局になったなあ。報道とかの看板、下ろした方が良いんじゃないか。そういうスタンスならもはやお隣の国で、超下品な言葉でもって権力者を誹謗したと支局長が訴えられたことに対して、報道の自由がどうとかいって批判は出来なくなるんだけれど。それはそれ、嫌いな相手はどんどん風刺し自分がこびへつらいたい相手の批判は封じるという二重基準を振りかざすのなら、やっぱり報道の看板は下ろさなくっちゃいけなくなるんだけれど、果たして。気になるのはそうしたNHKの判断を安倍ちゃん大好きな新聞あたりがどう書いてくるか、ってことかなあ。当然だ、って味方するならそれは自分家の人間を見捨てたってことになる訳だし。

 とりあえず容疑者も1人が出頭して、事件も解決に向かうのだろうかと安心したのも束の間、パリで新たに銃撃があって女性警官が撃たれ亡くなり、もう1人の男性も重傷を負ったというニュースが飛び込んできた。昨日の今日で、警戒もしていただろう中でどうしてこんな事態あ起こるのだ? いったいフランスで、パリで何が起こっているのか? 昨日起こったようなことが今日にも起こった。そして明日にもまた何か起こるかも知れない。何かが始まってしまったのだろうか。戦争が始まってしまったのだろうか。それとも戦争はとっくに始まっていたのだろうか。分からないし、分かりたくないけれど、これはまがう事なき世界の現実。日本だけが、僕たちだけが埒外にあるのだとはもう言えないのかもしれない。引き締めよ、その心身を。そして見渡し世界の今を感じ取れ。


【1月7日】 少年マガジンとかでは「はじめの一歩」が電子化されていなかったりしながら、値段は紙の雑誌と同じという不思議が招じている一方で、アマゾンではグランドジャンプとか漫画アクションなんかが無料で公開されるという奇跡が招じていたりして、電子コミックの世界は日進月歩で疾風怒濤、いろいろとんでもないことが起こっている。せっかくだからとグランドジャンプを落としてキンドルで読んだら、これはすでに発売されているものだって分かったけれど、でも普段はあまり読まない「地獄先生ぬーべー」とかをじっくり読めたり、他の目を通していなかった漫画に触れられたりして、ここから新しい読書が広がっていきそう。

 そうやって読んで気に入れば、そのままキンドルで落として単行本を読むとかいった感じ。そういう誘導を狙っての無料化だとしたら、集英社なり双葉社なり一迅社は相当な英断。逆に講談社は……ってその差異が、未来の漫画市場にどういう影響を与えるのかをちょっと見ていきたい。でも「イブニング」とかは気にせず全部乗せていたりするから、出版社というよりは漫画家の意識の差異ってことなのかも。そうやって世に出さずにいた結果が果たして……ってでもなあ、森川ジョージさんも浦沢直樹さんもともに名のある単行本がちゃんと買われる漫画家で、今さら電子化でアピールする必要もないって感じだもんなあ。作家としての将来も含めて見ていく必要があるのかも。それにしてもやっぱり「甘い生活」は面白いなあ。

 毎日新聞の須田桃子さんって環境科学部(そういう風に言うのか毎日では)の女性記者が書いた「捏造の科学者 STAP細胞事件」(文藝春秋)が出てたんで買って読む、っていうか毎日新聞社からは出ないんだなあ、出版局だってあったはずなんだけれど、編集して本にするにはやっぱり文藝春秋の方が良かったかもしれない。毎日新聞社の本ってよくゾッキ本化して自由価格の棚に並んでいたりするし。そんな「捏造の科学者 STAP細胞事件」を読んでまず思ったのは、あれだけ偉い人たちが自信満々に信じて話しているんだから、少しくらい記者の側に素養があっても、というか素養があるほど偉い人の偉さが分かるんで、その言を鵜呑みにしてしまい、報じてしまうのも仕方がないってことだったりする。

 衝撃的な発表があった後、割と早い段階から「これ怪しいんじゃないの?」って説が出始めたSTAP細胞の問題だったけれど、新聞とかテレビとか、すぐに後追いをしないで様子を見ていたってのもやっぱり誰とも知らない人たちによるネットでの懐疑より、それこそノーベル賞だって確実と思われているその筋の権威が自信満々に押す太鼓判の方を信じたってことなんだろう。そうやって生まれた信じる連鎖が、メディアも読者も覆って日本にSTAP細胞フィーバーとやらを引き起こしたのが最初の喧騒。その段階で、というより発表する依然の内部的な喧騒の段階で、誰か冷静になってこれちょっとおかしいんじゃない、って言えば良かっただけなんだけれど、後になってあれだけの穴もほころびもわんさか出てきたSTAP細胞の研究なり実験なり論文を、当時は偉い人たちがだれも疑おうとしなかった。そのことがちょっと怖いし、そして興味深い。

 信じさせるに足る何かがあったんだとしても、それでも疑り深いのが科学者って奴で、けれども誰も疑わなかったそのプロセスを検証していくことによって、何かが信じられ広まり一般化してしまう状況ってものの秘密を探り出せるかもしれない。想像するにとっかかりは若山照彦さんによる検証実験がちゃんとうまくいったって辺りにあって、実験にかけては世界有数の若山さんがそういう結果を出したなら、信じざるを得ないって理研の中にも認める人が現れて、それが連鎖的に広まっていった果て、誰も異論を唱えられなくなったって感じかな。ちょうど折り悪しく、そうした研究が多大な予算をもたらすって状況も重なって、批判するのが憚れる空気になっていたとか、まあそんな想像。

 だったら若山さんが悪いかというとそうではなくって、そもそもが若山さんに渡された試料だかに謝りというか、捏造というか作為があったんだとしたらそれはもう若山さんでもどうしようもない。じゃあ誰が? ってあたりで関西では人気のキャスターが“陰謀”だなんてヌかしているけど、別に小保方さんと若山さんの間に陰謀の主が介在する必要なんて何もない。というか小保方さんが最初の実験に成功していたかどうかって部分を鑑みるなら、外面はともかく内に画策するところがあって、それが若山さんのところへと渡ってしまったって考える方が案配が言い。つまり……ってところなんだけれど、そういう“捏造”があったと最終的に理研も判断しながら、じゃあ誰が、何のために、どうやってそうした“捏造”をしたのかを糾弾しようとはしていない。そこが分からない。

 シェーン事件にしろ韓国の黄禹錫さんによるES細胞論文不正事件にしろ、個人の資質への帰結をもって事件の全貌として、幕引きへと持っていった経緯がありながら、今回は特定個人をあげつらってその名を事件に冠するようにならないのはどうしてか? そこにパーソナリティへの配慮があるのか、それこそ某キャスターがいうように“陰謀”めいたものでもあるのか、って疑いも浮かんでしまう。最初の会見の前にすでに文部科学大臣あたりが発表内容を知っていたとか、そんな話があってなおかつ、それに引っ掛かるような経済関係の動きでもあったとしたら……。そりゃあ個人の糾弾なんて出来ないよなあ、糾弾すれば悪事が露見するから。いやこれも些末な陰謀論でしかないんだけれど、でもやっぱり未だ不思議な展開を見せるこの事件の全貌が、明らかにされる時は来るんだろうか。書いた記者の人のさらなる探求って奴を待ちたいなあ。自分たちでやれ? 無理無理そんな知性も人材も資金も皆無だから、某紙は。

 あと面白かったのは、記者の人がまだ世間でSTAP細胞の論文の怪しさが大きく喧伝される前に、京都の小料理屋で例の森口氏を騒動の前に怪しいと指摘した研究者の人と話したってエピソード。なぜか名前は書かれていないんだけれど、その研究者は小保方さんのスタンスなんかを見て「何でもやってしまう人」と喝破していたとか。つまりは目的のため、研究でもって世に何かを問うために経過とかはすっ飛ばし、データすら創造して体裁を取り繕い、結果だけつじつま合わせをしてその場をしのぐ人だってことなんだろうか。ただそれだと、後から山と出てくるほころびへの配慮がまるでない。それともすっ飛ばした経過とかまるで忘れ、取り繕った結果を正しいものを信じて気持ちを上書きしてしまうような精神の持ち主だったんだろうか。それもそれでひとつの人格研究として面白いけど、そういう風には向かわないだろうなあ、今ですら糾弾がないってことは。やっぱり謎めくこの一件。正解は? やっぱりあるのかもしれないSTAP細胞。そのカタマリが今の小保方さんだというバイオSFめいた落ちも付いて。

 ようやく読んだ速水螺旋人さんの「大砲とスタンプ」は、ミサイルが富んできて毒ガスが撒かれたりして結構な市民が死んだりする場面がさらりと描かれていて、戦争の悲惨さを醸し出しつつ絵柄はほのぼのとして可愛らしく、軍人たちがあっちいったりこっちに来たりを右往左往する様がやっぱり楽しく面白い。憲兵隊が間に入って物資の流通を管理しようとしたら、そこに兵站軍からマルチナが管理にいって厳密な上に厳密な仕事をしたんで流通が滞り、結果として権益を手放すことになったりとか、あの生真面目さをしっかりと活かした展開になっている。でもよく射殺とかされないよなあ、そうしそうな奴らがいっぱいいるのに。コンピュータの購入のために捕虜を金と引き替えに帰そうとしたら、相手から攻撃にあったけどその捕虜が、マルチなの上司が書くファンタスティカのファンで攻撃を止めさせたとか、とっても良い話。SFは世界を超えるのだ。

 あとはとっても体の大きな帝国軍大佐のガブリエラ・ラドワンスカが、実は良いところのお嬢様で口調も「ですわ」だったのを、無理に軍人口調にしていったこととか、そんなお嬢様から軍隊に入ったころは体も細くて可愛らしかったこととか分かった。でもどうしてあんな体格に? 軍人なら食事だって厳しいだろうに? そこはそれ、良いところのお嬢様で階級も偉いんで、食べるものには不自由しないってことなんだろう。あるいは民族的な資質とか。戦争集結に向けた動きもあるようだけれど、裏でさまざまに陰謀が巡らされて暗殺とかも起こって先は不透明。そうした諜報やら戦闘やらをハードに描きつつ、ほのぼのとした軍隊の兵站の日々も描いていく手腕は速水螺旋人さんならでは。エントリーは避けたけれど誰かマンガ大賞にノミネートして、そして最終候補に挙がってきたら絶対に入れよう。入るかなあ。


【1月6日】 OPは変わったんだっけ「弱虫ペダル GRANDE ROAD」はやっぱりビートの効いたサウンドに乗って激しい自転車のバトルが繰り広げられている映像が目に刺さるけども、途中でちょっとだけ映る寒咲幹ちゃんの胸の揺れがなかなかに鮮やかでそこだけ抜いて何度でも見たくなった。直後に映る眼鏡のお下げは箱根学園の委員長だったっけ。まあいずれまた登場するだろう。そんなアニメーションの本編は、インターハイ3日目もクライマックスとなって、いよいよ最後の山登りとなる直前、引き離そうとする箱根学園に何が何でも追い付きたいと、千葉総北が田所と金城の順繰りの引っぱりによってどうにかこうにか迫るものの、箱根学園も新開の野獣モードでの走りで引き離しにかかって追いつけない。

 もっと速く3年生だけになっていたら、あるいは引き離されなかったかもしれないけれど、金城が6人で総北だとか主張して、1年生の3人を連れていくことを大事にしたから仕方がない。だったら諦めるのかと思ったら前の3人が限界を越える走りを見せて1年生を驚かせつつ、それで追い付いてしまったから驚いた。やっぱり総北、6人そろってゴールを目指すのかと思ったら、何のことはない最後は田所でもって引っぱりそして金城と巻島を切り離して送り出し、ゴール前にどちらか2人が行くって算段が出来ていた。

 6人揃って云々って何だったんだ? そう首を傾げたくもなったけれど1年生に背中を見せつつそれでも置いていくのも教育だてことなんだろうなあ。とはいえ田所が限界を越えて脱落した先、いよいよ金城と巻島が峠で箱根学園に迫るかと思ったら何か調子がおかしいみたい。金城の脚が限界だった? それが1年生を捨てずに走ったからなのかは分からないけれど、結果としてここで残っていてた1年生が金城の声を背中に走っていくって展開になるんだろうなあ、それでこそ1年生が着いてきた意味があるってものだから。残るのは鳴子が今泉か、って斧田坂道がいるんだよなあ、それでこそ主人公。しかしあと何話かけてインターハイを描くんだろう。残る1クールすべて使ったりするのかな。

 実際の対局がどれくらい行われて、その成績が何勝何敗だったのかを知る術はないけれど、残された棋譜が8つあってそのうちに勝ったのが1局に過ぎない本因坊算砂が、将棋でも初代大橋宗桂よりも強くて日本一だったと言うのは無理筋ってものだろうけれど、でもコンピュータに負けた将棋を引き合いに、未だコンピューターが勝つのは無理だという感じに囲碁の世界を持ち上げ、そこで活躍する者を主人公にした物語を書こうとしてる時に、囲碁の棋士が将棋の棋士より将棋が強かったという文脈を添えたいという気持ちが浮かぶのも半ば自然な流れ。そして目の前に1勝という“事実”があったことをもってして、他の7敗はこの際気にしないで「算砂は将棋でも日本一ぃぃぃぃぃ!」って書いて知らぬ顔で逃げ切ろうって思ったと、そんな想像が浮かんでしまった例の一件。

 つまるところ書きたい話のために、事実をねじ曲げるとまではいかないものの、事実から都合の良い部分だけを抜き出してあたかもそうであるかのような文脈を作り上げていたってところで、それが果たして正直な態度かそれともエンターテインメントしての演出の範囲内か、判断に迷うところではあるけれどもその書き手がフレームアップした牽強付会な記事をあげつらって大批判する側にいたりしたことも鑑みるなら、自分の都合に合わせて情報を取捨選択して勝手に文脈を作るのは、やっぱり拙いんじゃなかろうか。

 それとも本当に、1勝したという事実しか知らなかったのなら、それで過去、ノンフィクションに近いフィクションを書いてきた人間の作品の、どこにそうしたフレームアップや牽強付会や紛らわしい大げさがあるか分からなくなって来る。謝ったから正直という前に、謝っていない過去に間違いはなかったのか、そして今現在もたくさんの誤りを指摘されているにも関わらず、謝るどころか開き直って相手を恫喝していたりする態度を、どう改めるのかってところを突っ込む人がいても良いけれど、いないだろうなあ今のこの雑誌メディア状況では。どこも腫れ物に触るような感じで取りあげない。「婦人公論」はだから良くやったよ。やしきたかじんさんの娘さんの手記を掲載したし。ともあれ話題にはなった「週刊文春」誌上の新連載、終わるまでにどれだけの浅学非才が飛び出すか。別の意味で楽しみだ。

 「マンガ大賞2015」の1次エントリーが月の半ばまでだってことで急ぎ幾つか挙げて放り込む。去年から続くものとか新しいものとか取り混ぜたけれどでも、残りそうにないよなあ、最終には。そんな中で唯一、残るかもって思っているのが近藤ようこさんの漫画で津原泰水さん原作の「五色の舟」。それについて書くなら、ひとつの軸線に、異形の者たちが日々を精一杯に、懸命に生きていく姿が描かれた漫画ってことで、まずは女形として評判を取りながらも、その道から足を洗わざるを得なかった男に、小さな体にとてつもない力を秘めた少年に、背骨が歪んでかしいだ体を持った少女に、訳あって親から柳行李に入れられたまま捨てられた少年が登場する。

 そして、新しく加わった見た目は普通の女性が、川縁に浮かんだ舟に家族のように暮らしながら、四方を行脚し、その身体に備わったそれぞれの特質を売りにして、観客から見料を頂く。すなわち見世物の一座の物語。奇異な目で見られ、日常の暮らしから遠ざけられながらも、虐げられることなく、見下されもしないで生きていられるその状況が、あらゆる異質を排除し、見下して虐げがちな現代にあって、どうにも愛おしいく映る。生きるに辛い時代だったからこその、誰もが生きていられることに飢えてた、その感情が連帯を生んだのだとしても、今また同じように不穏な時代に生きながら、誰かを見下げて生きていなけれ、ば平静が保てない人の心の荒み何なのかと考えさせられる。そんな漫画になっている。

 もうひとつの軸線としては、SF的な設定の上にあり得たかもしれない可能性への憧憬が描かれる。“くだん”と呼ばれる謎の生き物を媒介にして、あちらへと、或いはこちらへと切り替わった人生が幸福であればあるほど、捨ててきた人生の辿った悲惨が浮かんで身を苛む。これで良かったのか。逃げずに今を良く変えるべきではなかったのか。そう感じさせられる。大戦末期というひとつの時代を舞台に、原作者が小説に入れ込んだSF的な設定を交えつつ、異形の愛が通い交わされる暖かさを描き、支え合い生きていく美しさを描いた物語。原作の異端を、柔らかくて丹誠な近藤ようこさんの筆が、巧みに膨らませてそう描き切った、文字通りに傑出した歴史に刻まれるべき漫画なんじゃなかろうか。文化庁メディア芸術祭にも輝いたことだし、ここでマンガ大賞も、って思うけれど、果たして。手塚治虫漫画賞には挙がるだろうなあ。

 そして「神様はじめました◎」がスタートして大地丙太郎さんならではのギャグ描写に思わず微笑む。やっぱり面白いなあ、こういうのがどうして夕方にやらないんだろうって言っても詮無いけどでも言っちゃう。勿体ないよ一般性あるギャグを描ける監督なのに。お話は実は前のシリーズをよく見てなかったんでおおよその関係性をまずつかむところからだったけれど、そこは新シリーズの1話として経過をちゃんと説明してくれるんで分かりやすかった。そういうところも巧いなあ。でもってどうやら出雲へと行くみたい。お風呂に入るんだろうか? ってそれは「かみちゅ!」か「千と千尋の神隠し」。こっちでは神様が出雲に集まり何するんだろう。そこも楽しみ。今シリーズはだからちゃんと見ていこう。主題歌もやっぱり可愛いし。


【1月5日】 想像するなら新しいNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」は、9月過ぎまで吉田松陰がずっと生きていてはさまざまな冒険を繰りひろげ、密航しようとして失敗し、投獄されて弾圧も受けながらそれでも松下村塾で若き獅子たちを教え、諭しているドラマで引っぱった後、安政の大獄でもって断罪されて斬首され、そして激動の最中へと放り込まれた長州が、いきなり倒幕へとは向かわず、まずは勤王を掲げて戦おうとして新撰組と対峙し、池田屋事件でもって吉田稔麿らが死んで禁門の変が起こり、久坂玄瑞が自決してそれで10月がだいたい終わって、ヒロインの文がたどった激動の人生がすこしだけ一段落する。

 でもすぐに高杉晋作らの長州征伐に対する戦争があって、それが戊辰戦争から明治維新へと展開してくダイナミックなドラマでもって11月から12月半ばまでを埋めた後、姉の寿が亡くなって、その亭主だった小田村伊之助に文が嫁ぐシーンをやって残るは1週分。そこで残る40年近い年月を一気に描くなり、最後のシーンへと持っていっては、明治の官僚の妻として生きただけの後半生をどうにかごまかすんじゃなかろうか。見てなかったけど噂に聞いた「八重の桜」の後半が、会津戦争を過ぎて一気に退屈になったって聞くから、クライマックスをとにかく後へと送っておくのが、反省に答えたNHKのスタンスって思うんだけれど、果たして。伊勢谷友介さんと大沢たかおさんが2人揃って見せる存在感ある振る舞いや演技を、前半にも届かない段階で途切れさせるのは勿体ないし。さてどうなるか。配役で気になるのはやっぱり村田蔵六こと大村益次郎が誰になるかだなあ。

 朝からあっちこっちで取りざたされている某匿名ダイアリー。「ベイマックス」の登場でもって日本のアニメーションは撲滅されるんじゃないかっていう危惧なのか、それとも揶揄なのか分からない文章を書いて世間をブルブルさせていたりする。でもなあ。「ベイマックス」を誉めつつ過去のディズニー作品を貶しつつ、「ちょっと前までのディズニー映画ってそうでした。刺激の何もない砂糖菓子のような、甘っちょろい子ども向けの映画。無難で、可も不可もなくて、つまらなくはないんだけど、心に何も残らない映画。うるさい日曜日のガキを数時間黙らせて、疲れた親御さんがぐっすり眠るような、そんな映画。夕食までの時間を埋めるだけのデートムービー」ってあるのがそもそも違ってはいないか?

 1990年代だって「美女と野獣」があり「アラジン」があり、「ライオン・キング」があって「ターザン」もあってと、ディズニーアニメはそれぞれに楽しめてそして大ヒットした。「アラジン」のビデオなんていったいどれだけ売れたんだ? 2000年代は少し迷走したけれど、その分を傘下にあったピクサーがカバーして、とってつもない大ヒット作を次々と世に送り出してきた。だから「ベイマックス」が特別な作品という訳ではないし、その脚本に人と金をかけるのはディズニーだってピクサーだってハリウッド全体だって普通の話。それで世界を席巻して来たのは、「ベイマックス」に始まったことではない。

 ピクサーが短編「ワンマンバンド」を作った時、後に「メリダとおそろしの森」でアカデミー取るマーク・アンドリュース監督に聞いたことがあって、その時に彼は予算の半分と10カ月の時間をかけたって話してくれた。だからこそ生まれる完璧なまでに飽きることのないストーリーテリング。そしてレイアウト。あるいは演出。そういう緻密な作り方を日本ではしていないけど、そこを作家性という名の神話でもって乗り切ってきたし、今もそうやってネームバリューから来る関心誘引で続けていこうとしている訳で、それが日本のクリエイティブなら死んではいなし、死ぬ事もない。ディズニーはディズニーとして、あるいはピクサーもピクサーとして世界市場でかっぱぎつつ、日本では宮崎駿監督を筆頭にした監督名で見る長編アニメーション映画が人気を維持し続ける。そういうものだ。

 なるほど単純に市場規模を比較すれば象に蟻で、日本は死んだも同然とはいえたりするものの、国内で生きていけるなら別に良いんじゃないかというか、世界と勝負しなくちゃいけない理由って何だというか、それこそ1970年代から続いているだろう映画界の構造的な問題に突き当たる。こと国内においては「ベイマックス」が、果たして3Dの「ドラえもん」を超えられるのかどうか。そう思えば大勢が寄ってたかって最適解を求め作り出した作品を世界で当てて、ようやく制作資金を回収できる仕組みより、日本国内でそれなりの規模とそして人数で作ってペイできれれば、十分じゃないかって気にもなる。決して嘆く必要も、憤る必要もなんだけれど、でも山崎貴監督とはちょっと違う作家性という部分が前面に出て、それでいて3D「ドラえもん」くらいのヒット作が出ない状況は、ちょっと拙いかもしれない。まずはそこを建て直した上で、世界に出ていける作品を作るべきか、それにはどういう体制が良いのかを考えるべき、なんだろうなあ。

 「もう何年も前から、ヒトのDNAの塩基配列の解読が進められているが、仮に1日千個解読したとしても、八千年を要するというアポロ計画に匹敵する大変な作業であるという。1965年以降のノーベル賞受賞者の約半数はDNAに関する研究であったそうだ」っておいおい、ヒトゲノムの解析って2003年に一応の終了を見て、今はそれを元に何がいったいどういう資質に関わってくるかまで調べ上げられていて、だからDeNAみたいにDNA鑑定のビジネスに参入するところが出てきたり、海外ではそうした鑑定結果を元にガンになりやすい部位をあらかじめ切除するような手術が行われて、物議を醸していたりするんだけれど、冒頭の一文を載せたとある新聞のサイトでは、未だヒトゲノムの解析は未踏の高峰としてそびえ立っているらしい。いったいどこの国の新聞なんだ?

 いやいや、国といったら地球に生きている人たちに失礼で、もはや違う次元にある新聞というより他にない。そこではオッペンハイマー博士は原爆を作ってしまった罪の意識から自殺をし、「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」に登場したガトランティスが中国や韓国の暗喩であったりするんだろう。現実の世界ではまったく通用しない常識が、そこでは通用しては誉められ讃えられていたりするから恐ろしい。あとはインテリジェント・デザインというか、人類というこの恐るべき存在が世に発生した背後には何か得体の知れない神々しい存在による差配があったとするサムシング・グレート説が、今なお堂々と信じられてもいたりする。現実世界では科学としては否定され、宗教としてもどこか偏って信じられていない言説が、新聞という看板を掲げたサイトに堂々と掲載されてしまうという不思議時空。できれば現実世界には出てきて欲しくないけれど、どこかで繋がっていたりして、その影響がジワジワと滲んで来たりしているからなあ。やれやれ困った。明日はどっちだ。

 講談社がついに漫画の雑誌を発売と同時に電子化するって話になって、すでに「イブニング」をずっとキンドル版で読んでいる身には、やっと来たかって感じだけれどそんな電子化に棹さすように、一部の漫画家が電子版には漫画作品を掲載させないってことを広言していて、祝いの席に水を差されたような気分。それも確かにひとつの決断ではあるけれど、そこにどういう心境があって、あるいは未来を予見して電子化をしないと決めたのかが分からないと、褒め称えるべきなのか、貶し誹るべきなのかの判断に迷う。やっぱり漫画は雑誌で読んで欲しい、そのリアルな質感を目で味わって欲しいという理由でも良いし、作品の緻密さは電子版では表現できないから拒絶するってんでも良い。でも、コピーが怖いとか言うんなら、それはテクノロジーが解決していることであって、ちょっと違うんじゃないかって声が出そう。いったい何が理由なのか。だからそこが知りたい。

 そうした作品、それも柱になっている作品が抜けてなお、電子版と紙の雑誌を同じ値段で販売するのも不思議というか、おかしいというか。だって明らかに価値が違うじゃん、でも同じ値段にするってことは、それで電子版の方が売れたら拒否した作品はそもそも無価値だったって話になってしまう。そうはならないって自信があるのかもしれないけれど、いずれ追い越すところまではいかなくても、相当規模を占めるだろう電子版に自分の居場所を最初っから求めない姿勢が果たしてクリエーターとして、遍く大勢に漫画を読んで貰いたい作家として正しい姿勢か否か。議論されていくんだろうなあ。どっちにしたって「少年マガジン」を電子版で読むことはないけれど。「イブニング」で十分楽しめているし。「オールラウンダー廻」「少女ファイト」「のりりん」「累」……。最高に面白い漫画雑誌な気がしてきた。


【1月4日】 溜まったハードディスクレコーダーから録画を減らそうと、未見だった「甘城ブリリアントパーク」の最終回にかけてのエピソードを、順繰りになぜか後ろの方から見ていく。分かったことは原作が大きく改変されていたことだけれど、それをやっているのが原作者の賀東招二さん自身というのが面白い。エピソード的に続きを書かなくてはいけない小説版と、次があるのか果たして分からないテレビアニメーションは状況が違う。

 それでいてアニメで12話なりのクールを引っぱるには、クライマックスに大きな山場も設けなくてはいけない。そんな状況で、原作では第1巻のクライマックスになっていた50万人達成だかの課題を、アニメではラストまで引っぱりつつ、ラティファ姫が抱える呪いについても、独自のアレンジを加えて「ああ良い物を見たなあ」って気にさせる。

 これだと、あのどこか寂しさもつきまといながら新しい出会いと思い出を積み重ねていく展開にできない難しさがあるけれど、まあそれはそれ、今はクリアされても呪い自体が消えた訳ではないってことで、もし作られるとしたら次のクールにも、また別の新たな課題を設けさせ、そこに向かってクリアできるかそれでラティファの呪いも同時にロールオーバーできるかって辺りを問わせれば、歴とした物語にもなるんだろう。

 ただ、小説の1巻がある意味で最大の難局だっただけに、この後をアニメで描くってのもやっぱり難しい気もしないでもない。だからここはとりあえず、ひとつのテーマパークが見事に存続を果たすと同時に、どこか世間に背を向けていた少年が、仲間たちを得て新たな1歩を踏み出すまでを描いたアニメとして受け止め受け入れるのが良いんだろう。京都アニメーションだけあって動きもタイミングも良く揃えたいけど、すぐにボックスとか出ると思うとなあ。そういう感情がBDの売上を減らしているんだろうか。

 そういえばテレビシリーズでBDを買ったのって、西尾維新さん原作の「偽物語」シリーズが最後のような。それもラストエピソードの「恋物語」の「ひたぎエンド」上下2巻は、しばらく買わずに放ってあって、テレビ放送されなかった「花物語」も「するがデビル」の上下をやっぱり見送っていりした。ちょっと購買力が落ちているというか、購買意欲が盛り下がっているのはそれだけお金が乏しいからか、買うだけの魅力に欠けているから、家の視聴環境がBDを見るのに値しないほど貧弱だからか、狭すぎて買ったBDを置く場所にすら困っているからか。

 そんな諸々が要因になっているんだろうなあ、きっと。あとやっぱりBDになって値段も高くなっているし。とはいえそんな「物語シリーズ」から新作の「憑物語」が、年末にBS11で一気に放映されてたまたま実家にいて見られたこともあって、その面白さにこれは揃え直さないという気になって来た。相変わらずにひたすらな喋りの間を、動いたり動いていなかったり本編と関係会ったり関係なかったりする絵で繋いでいく手法は、アニメーションと言えるかどうか迷う部分もあるけれども、それが新房昭之さんならではだと思えば、そして「物語シリーズ」のひとつの特質だと思えば苦にもならない。

 むしろ目で見ず耳だけで聞き流すことのできない作品っていう意味で、強く映像作品だとも言えそう。なおかつ月火ちゃんのすっぽんぽんがいっぱいでてきてもう目に毒なくらいだったり、アンリミテッド・ルールブックを決め顔で駆使する斧乃木余接ちゃんがいっぱい出てきて楽しかったりした「憑物語」は、何度も繰り返して見たい作品。あといつも高い所にいる影縫余弦さんの、相変わらず自信満々な顔も良い。いずれリリースされるそれを買って、途中が抜けているのはやっぱりちょっと気持ちが落ち着かないってことで、まずは「花物語」の上下をネットで購入し、そして「恋物語」をネットで探したら、「ひたぎエンド」の下がなく、それは確か秋葉原のヨドバシカメラにあったなあと見に行ったらもうなかったのは、同じように考えて揃え直そうと思った人がいたからだろう。

 ってことで秋葉原にあるゲーマーズに行って、なぜかそれだけはあった「ひたぎエンド」の下を買い、上はネットから頼んでこれでとりあえずコンプリートしたけれど、原作的にはまだ「終物語」があり「続・終物語」もあって、そして映画化が発表されながら動いていない「傷物語」もあってと、映像化の材料には事欠かないそれらが順繰りに映像化されていって、BDも買っていくことになるんだろう。それ以外は長編アニメーションのBDかボックス化されたBDを買うくらい? テレビシリーズでも買いたい買わなきゃと思わされる作品の登場をひたすら願う。「甘城ブリリアントパーク」はちょっと心動かされているけれど。主にいすずの胸の揺れに。

 神木隆之介さんが腕につけたベイマックスから恋心を喝破され、広く喧伝されてドギマギする番組を見てからふと、チャンネルを変えたら始まったEテレの「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」が面白くって全部見てしまったよ。日本の戦後の歴史において重要な役割を果たしただろう建築を追いつつ一方で、世間の変化に応じて建築の在り方も変わっていった様子るを紹介する内容で、そこからは時代と建築の結びつきぶりって奴が強く浮かんで来た。

 つまるところ名声へと走りがちな建築家であっても、ただ作品として建物を建てるだけでなく、人と建物の調和なり、空間と建築の意味ってのを考え、ひとつの理想に燃えて仕事をしていたんだなあってこと。けど今はもうそうでもないんだろうか。駅の前とか空き地とかに、ボコボコと無秩序に立つタワーマンションが何か生活空間そのものをデザインしているとは思えない。ただいきなり巨大な建物が建って、世帯数だけはやたらと増えるけど、それに対する街としての空間なりインフラに何のバックアップもないという情勢は、やっぱり無理があるような気がする。あるいはいずれ無理が出てくるとも言える。

 かつて増えた人口をどうにかしたいと首都圏の人たちは、郊外に人工の街としてのニュータウンを作ってそこに人を送りこんだ。でもそれはただ建物をボコボコと立てただけじゃなくって、周辺には森があって建物も不均衡に並んで空間にひとつのリズムというか、生命感といったものを作りだそうとしていた。人工の盛り土で作られた通路とかも、今に生きてそこに躍動感がある風景ってものを作り出している。独立したタワーマンションにはそういう思想はおしらく皆無。ただ建ててそれを売って設ければ良いっていうデベロッパーも意図しかなく、そして設計する人間にも人がそこに暮らして生き育ち老いていくようなビジョンはない。あるいはあってもそれを表現できる仕事の場ではない。

 ナビゲーターだかモデレーターとして登場していた建築家の藤村龍至さんとか、若い世代はきっとどうにかしたいと頑張っていても、街を、あるいは街区全体をトータルでコーディネイトするまでには至っていない。というか、番組によればそうした大規模なプロジェクトに思想性を持ち込んでひとつの形へとまとめ上げていくのは無理で、外面を良くして内側は巨大事務所が受け持ちパッチワークのようにポイントを整えそこまでて感じになっている。例えば六本木ヒルズ的な。まあそれでも六本木ヒルズは10年が経過すると木々も育ってどうにか街めいた感じになった気はするけれど、これが虎ノ門ヒルズとなるともういけない。どっかんとビルが建って、そこに店舗がちょろっと入っているだけの突出したお化けでしかない。

 霞ヶ関ビルだってできた当時は突出した建物だったけれど、あれはオフィスとしての集合体で、そこに街を作ろうという意識はなかった。虎ノ門ヒルズだってそうなのかもしれないけれど、それにしては周辺の低層の商店とか飲食店との断絶も激しく、掘で囲まれたバベルの塔めいた違和感しか醸し出さない。道路だって遮っているし。何であったものを建てたんだろう。あるいは建てさせたんだろう。そこが分からない。翻って番組に出てきた丹下健三さんの広島平和記念資料館だとか、多摩ニュータウンとかはやぱりグランドデザインがあった。そこにそれらをトータルで作り出すだけでなく、将来においてどういう進化を遂げていくかといったグランドビジョンがあった。今は……。そこが寂しくて、そして怖い。

 無秩序なタワーマンション林立が生む街の崩壊も、そうした懸念をなおいっそう膨らませる。だから番組の最後に登場した、藤村龍至さんの「大宮東口プロジェクト」が、どういう展開を見せ地域住人の声も入れつつそれでいて、さまざまな理想が寄せ集められた果てに鵺みたいな不調和にならず、誰もが納得の形に仕上がるかに目を向けたいところだけれど、果たして。あと、番組を見て思ったのは、東京での広場の無さって奴で、かつて存在した新宿西口広場が、学生運動の騒乱の中で取りつぶされて新宿西口通路となって集会を拒絶され、人は留まれずただ流れるだけになったけれど、その受け皿となる広場は終ぞ生み出されなかった。

 だからそれでも集まりたい欲求を人は、渋谷スクランブル交差点を通路という名の広場に還ることで占拠し、晴らそうとしたけれども官憲と行政はそれすら制して正月に立ち入りを制限した。ではどこへ行く? どこに行けば良い? どこにも行けないならその鬱屈はどこに向かう? もはやそうそういう欲求すら失せてただ、個に籠もりつつネット上で言葉を交わし繋がった気になっているのだろうか。それが現代の繋がっていることになるのだろうか。なんて思ったりもしたEテレ「建築は知っている ランドマークから見た70年」という番組。長崎にある「ハウステンボス」が、オランダの模倣であっても新しく作られた虚構であっても、20年を経てリアルさを醸し出すようになったことへの指摘も含め、理念と時間が空間を創造していく過程を人に考えさせてくれる。これから建築を目指そうとする人は、絶対に見ておいた方が良い番組。あるいは街を作ろうとしている政治家も。行政人も。

 三が日も終わったけれどもまだ正月気分があるうちに靖国神社へと行って大村益次郎像を見上げながら「花燃ゆ」では誰が演じるんだろうかと想像しつつ浅草へと回って浅草寺でおみくじを引いたら「吉」だった。2割ほどの「凶」があるというおみくじで「吉」ならまさしく「吉」ってことで言葉を受け止め今年1年を乗り切ろう、たとえ潰れても降り出されても生きているならそれは「幸い」ってことで。六区へと回って賑わう人たちを眺めつつ秋葉原ではUDXの上で「エンジェルビーツ」の原画展をさっと眺める。トランペットなんて吹いているキャラいたっけか。そんなこんなで終わった正月四が日。新年会はやっぱり今年もなさそうだ。忘年会だってなかったし。そういう風に生きている。


【1月3日】 3が日も最終日だけれど、明日が日曜日だと気分も土曜日モードなのかそれとも3が日なのか曖昧になって身の置き場に迷う、そんな朝をとりあえず昨日はいけなかった不忍池にある弁天様へとお参りに朝、家を出て京成に乗って上野まで。時間によっては行列ができていることもあるけれど、朝も9時過ぎとなるとそんなに人もおらずスムースにお参りして、今年も文芸で仕事があって欲しいとお願いする。目指せ文庫解説1冊超え。いや1月中に1冊は出るけど仕事的には2014年のなんで、2015年にも1冊とはいわず2冊3冊あれば嬉しいなあ。問題は読んでるライトノベルと呼ばれるジャンルに解説は不要なことだけど。ミステリ評論とはそこが違うところ。まあ仕方がない、好きで読んでる身だから。

 横を見るとあれは「包丁人味平」にも出てきた「包丁塚」があったけれど、聖地巡礼をしている人の姿は見えず。電脳マヴォで紹介されているのがまだカレー戦争あたりで包丁試しの回はまだ若い人には知られてないってこともあるのかな。年末に寄った熱田神宮も点心礼勝負の会場になっていたけど、味平の聖地として巡礼されている気配はなかったし、ってそもそも気づかなかったよ行った時。そんな包丁塚の横を抜け、不忍池を横切って湯島から大手町へと到着して地下鉄を上がると、早くも箱根駅伝のゴールを見ようとする人たちで場所取りが行われていた。地下鉄の通気口の上とか暖かそうで良いけれど、そうでない場所から残る数時間を待つのって、結構大変だったんじゃなかろうか。

 でも、年に1度の行事なんで難行苦行も風物詩、というより走ってくる若い人に比べて苦労なんて何ともないと思っているのかもしれない。別にすごいプレーがある訳でもなくスターがいる訳でもなく、ただ走ってきて通り過ぎてゴールを切るくらいのシーンを、それでも見たいという人がいる限り、箱根駅伝の伝統と伝説は残り続けるんだろう。それがスポーツとしてどうなの、って意見にはもちろん賛成する部分もあるし、マラソン王国だった日本が弱体化していく原因になっていることも分からないでもない。でも、マラソンで今さら世界と勝負できる人間が出るとも思いづらい最近のハイペース、いずれ2時間だって切ろうかという時に、それに太刀打ちできる人間を出せないならせめて、大学生の時に花を咲かせて実業団でしばらく走って、ランナーとしての人生を全うするのも、日本人アスリートとしてひとつの道なのかもしれない。そう最近思い始めた。

 山の神ともてはやされた柏原竜二選手だって、確かに箱根駅伝での5区での走りはすさまじくって、それを見て多くの人に感銘を与えたかもしれないけれど、卒業をして入った実業団で走っている姿は、100人並というかそれほど目立ったアスリートって感じでもない。かつて凄かった人、そして趣味がオタクな人というキャラクター性でしばらくは持ち上げられるけれど、実業団でだって画期的な走りをできていないアスリートを、いつまでも会社が選手として雇用していくとは限らない。そんな狭間をそれでも選手として生きていける幸運を、もたらしたのは箱根駅伝という場で魅せた力走だった訳で、自分でつかんだ自分の道を、自分で消化し消費していく人が、それで満足だというならもうそれを認めるしかないんじゃなかろうか。

 それが嫌なら箱根なんか出ないで、ひたすらマラソンでの2時間切りを目指せば良い。あるいは川内選手のように、記録なんて大したことないけどそれでもマラソンに出ることを“仕事”にすれば良い。国がどうこう言う時代でもなし。ただし人間としての健康に影響を及ぼすような事態があるなら、それはきっちり是正すべきで、どこかの監督だったかが、低体温症でふらふらになて今にも倒れそうになりながら、ゴールまでたどり着いた選手を指して「棄権しなくて良かった」と嘯いたけれど、そこで死んだら、あるいは一生の暮らしに影響が残る事態になったらどうするんだといった批判はできる。それも含めて選手の自己判断とは言えない、だってまだ学生なんだから。そして自己判断ができる立場でもないんだから。そういう部分で適正化は図られるべきだけれど、記録とか才能はもはや日本から出ないと諦め、箱根駅伝という花道を精一杯に飾りそこで煌めくことを、日本の長距離ランナーは目指せば良いんじゃないのかなあ。とか思ったりもした正月。

 せっかくだからと、池袋はサンシャインシティの噴水広場で行われた「SORAMIMI」ってバンドのライブを見物に行く。まるで昨日まで知らなかっバンドだけれど、お正月にあちらこちらでライブとかがあるのを調べていたら、アニソンをバンドスタイルでやるガールズユニットがあるって分かってPVとか見たら結構楽しそう。これは見ておかなくてはと池袋に回ると、ちょうどライブに向けてのリハーサル中で、ちゃんと自分たちで弾いてるギターもドラムもベースも巧くボーカルもキリリとしていたのを聴いて、これは遠巻きではなくちゃんと前で座って聴こうと、その場で1月7日発売のアルバムを予約して、そして既にファンをやっている人たつの後ろ辺りに座って待つことしばらく。現れたSORAMIMIは、リハーサルにも増して楽しく明るくそして力強いアニソンを聴かせてくれた。あとオリジナルも。

 まずはボーカルのKAYAさんが、とっても通る声でもって歌ってくれて耳に響く。そしてバックではギターのUNIさんが、レスポールタイプのギターを奏でて滑らずしっかりとサウンドを刻んで場を盛り上げる。ベースのJunaさんもしっかりしたテクニックで全体を底から支え、そしてドラムのtmtmさんが背後から、リズム感もしっかりとして手数も多いドラミングでもって全体のドライブ感を守り立てる。誰をとってもテクニックがあり、そして魅せる部分もあってこれは結構行きそうな感じを覚えたけれど、果たしてどういう展開を魅せるのか。プロモーション次第かなあ。SCANDALみたいに大きくなっていってくれると嬉しいかな、ポスターに4人のサインをもらったし。アルバムが出たらまた聞きこもう。ワンマンライブものぞいてみようかな。

 そんなSORAMIMIと対バンする形になった「平成琴姫」ってユニットがまた面白かった。平成琴、って大正琴をエレクトロニックにしたような楽器を3人が持ち、着物をベースにした衣装で登場するからてっきり和風をベースにひらひらと踊り歌う、柔らかい音楽を聞かせるんだろうなあと思ったら、ポップな感じでノリも良い音楽ってものを演じてみせてくれて、これも結構これから来そうな印象を受けた。ビジュアル面では、まずやっぱり加藤唯さんていうセンターの子の美少女ぶりに目が向かい、そして沙月美祐さんに関心を向けがちだけれど、そんな2人の間から突き抜けるように入る桃屋マミさんの叫びというか、合いの手というか、その声がとっても可愛らしい。

 しっとりとしがちな全体を、どこか愉快にしてくれるその声にその仕草。そんな桃屋マミさんのキャラクター性があってこその平成琴姫なのかもしれない、って感じたけれども人によってはやっぱり加藤唯さんのビジュアルだとか、沙月美祐さんの雰囲気に向かうんだろうなあ。3人3様。その結束でもって感じさせる一体感。支えるファンというか「衛兵」と呼ばれる人たちも熱く、コールもそろって聞き応えたっぷり。そこに入るには年を食いすぎているけれどでも、ライブとかでそうしたファンの声援とともに見ると心が晴れて来そう。こちらもやっぱりライブで1度、見てみたいなあ。ワンマンライブもあるそうだし、ちょっとのぞいてみようかな。愛知岐阜三重の東海3県出身というのも名古屋人的にポイント高いし。

 せっかくだからとピーダッシュパルコにあるエヴァンゲリオンストアによって8000円の福袋を買ったら1万円を超えるパーカーと7000円のTシャツが入っていてとりあえず元はとったという感じ。ブンダーの木製パネルの時計とかマグカップとかボールペンとかノートとか使徒のパスケースとかスマホケースとかネルフの金属製のペーパーウエイトとか、あって悪くはないけどなくても不自由はしない物もあってと悩ましいところだったけど、そういうがっかり感と嬉しい感じが綯い交ぜになるのが福袋っていう奴だから仕方がない。とりあえずパーカーとTシャツで春は過ごせそうなんでこれはこれで僥倖としておこう。でもフィギュアとかもっとキャラ性の高いグッズも欲しかったかなあ、クリアファイルだけだもんなあ、イラスト入り。まあそれも含めて福袋って奴で。


【1月2日】 日課というか年課なんで埼玉県にある鷲宮神社に行こうと、午前6時に家を出て総武線から武蔵野線を乗り継ぎ東武伊勢崎線へと乗り換え鷲宮神社に到着したのが午前7時半くらい。流石に人も少なかったけれど参道に並ぶ粉もん屋もフランクフルトもまだ稼働しておらず、駐車場に並ぶテントもどこも閉まっていたんでいつものようにたこ焼きを食べ、そしてフランクフルトを囓りう巻きを買って駅でむさぼることもできなかったのはちょっと残念。でもそれらが店を開く頃だと参道から鳥居を超える食らいに人が行列して参拝まで30分はかかってしまうから仕方がない。むしろ朝からちゃんと待ち受けてくれている神様ありがとうとお礼を言いたい。あとお札売ってる巫女さん(アルバイト含む)とかも。

 今回は幾人か美少女がいたしショートで眼鏡でのび太くんみたいな女の子もいたりと選り取りみどりで目の保養。こちらもやっぱり早すぎていなかった富福銭の巫女さん(アルバイトかも)が見られなかったのは心残りだけれど、お札売りの子たちだけでも気持ちは十分に満たされた。神様良い出会いをありがとうございます。とりあえず方位除けの年らしいんでいつもの「鷲宮大神宮」とそれから「天照大神」のお札とともに「方位除」の方だも買って鷲宮神社を退散。いつもの大酉茶屋には「らき☆すた」だけじゃな「グリザイアの果実」の垂れ幕もかかっていて日々進化の様子。原点を持ちつつ可変しながら永続を目指すそのスタンスは実に正しい。ただあんまり浮気をして原点が掠れると意味も失せるんでそこには注意が必要かと。

 終わって午前8時前ではどこに行く訳にもいかないんでここはやっぱり年課にしている下総中山は中山法華経寺へと行こうと東武伊勢崎線なのかスカイツリーラインなのか分からないそれに乗って牛田まで行き、京成の関谷で乗り換えて各駅停車の旅を京成中山まで。道中、読み始めたのが谷瑞恵さんていう「異邦人絵画館」の人が書いた初の単行本を読んだらうん、これが実に素晴らしくって面白かった。いや面白かったというと語弊があるかな、そういうエンターテインメントというよりミステリーであり大人の恋を描いたラブストーリーといった感じ。どちらかといえばコバルト出身でライトノベルや少女小説に長けた人だけれど、こういう大人の女性が読んでしっくりと来て男性が読んでも堪能できる書き手だったんだ。未来の村山由佳さんになれるかな。

 さて、そんな谷瑞恵さんの新刊「拝啓 彼方からあなたへ」(集英社)。手紙に関する品々を扱う店を営む詩穂の手には昔、同級生だった響子から「自分が死んだらこの手紙を投函して欲しい」と託された手紙があった。そして伝わった1年ほど前だったという響子の死。けれども詩穂は、手紙を出すべきか迷っていた、そんな時、店の常連だけどいつも怒っているようで詩穂が苦手にしていた黒ずくめで長髪のぶっきらぼうな男を街で見かけ、避けようとして自転車にぶつかりそうになり、倒れた拍子に響子の手紙を水たまりに落としてしまう。

 慌てて拾ったけどびしょぬれになった手紙を、その男が自分が治すと言って詩穂を自分の家へと誘う。そこは書道教室。なぜかスキンヘッドの男が書道をしていたりして、ソチラ系の事務所かもとすら思ったけれどもちゃんとした書道家だった城山という名の男の手で、手紙はどうにか元通りになる。もっとも、きれいに治した時に城山は中身をチラと読んでいて、その内容を詩穂に告げて詩穂は怒りつつこれはやっぱり届けるべきだと思い至り、手紙を宛名にあった女性に送ったけれど、これは読めないと言われ返されその女性に会って、会い事情を聞く。

 そして分かった響子の過去。抱いていただろう慚愧。共に複雑な感情があったようで、これは受け取れないのも当然かとは思った詩穂。それでも改めて全文を読んで、詩穂は響子の本意を知って読みたくないと言った宛名の女性から、響子への手紙を預かり響子が自殺したという場所へ行き手紙と花を手向ける。メールのように即時性はないけれど、貰えば思いが長く残り、書くだけでも思いがそこに言葉で浮かぶ手紙という存在が持つ不思議な特性を描いた物語。さらに瓶詰めの手紙を長く持って老女の過去を知り、その母への感情、娘への感情を知ってそのもつれを手紙でほぐすエピソードなどを経て、物語は詩穂の周辺に起こる謎めいた出来事に巻き込まれる。響子は生きている? それとも…。ミステリアスな雰囲気が立ち現れる。

 さらに2人の男も絡む。 1人はもちろん城山で、怖い感じが苦手だったけれど正直さで詩穂を見守る感じがあってだんだんと心を許していく。もう1人は詩穂のかつての恋人だけど、彼女が営む手紙屋の仕事を疎ましく思っている。それは自分が好きだった詩穂を奪われてしまう感情があり、自分の庇護者だったはずの詩穂が自分と台頭どころか上に言ってしまうことへの恐れもあった感じ。分からないでもないけれど、分かる訳にはいかないそんな性格の前カレが舞い戻って来て、騒動も複雑化する中で事件は起こる。詩穂の周辺に「きょうこ」と名乗る人物が寄せた不思議な手紙がばらまかれ始めたのだった。

 ちょっとしたエピソードや感情のもつれがあり、あるいは事件も起こる展開を城山の示唆や行動が支えとなって解決していくミステリとも言えそうな「拝啓 彼方からあなたへ」。そこで鍵となるのはやっぱり手紙で、手紙が心をほぐし、手紙が喪われた過去を蘇らせ、そして手紙が事件の解決へと繋がっていく。そんな展開から、ああ手紙って良いものだなあと思わされる。自分で書くのは流石に面倒だけれど、というか字が下手で手紙ってあんまり書きたくないのだった。そんな物語のラスト、スリリングな展開の中で明かされた真相は何とも不気味だけれどでも、思い込みって時にそういう自体を招くもの。速度がすべてな現代は、特に高ぶった感情で突っ走りがちな中に、手紙というひと呼吸置く思考とコミュニケーションのツールの大切さを思わされる。書くか手紙。誰に? 自分に。セルフコミュニケーション!

 到着した中山法華経寺でもやっぱり屋台は開いて折らず粉もんは食べられず。昔に比べて少ないように思うのは不景気だからか2日だからなのか。まずは本堂にお参りしてそれから鬼子母神へと向かい、並ぶお札を持って祈祷を待つ人たちの間を抜けてお参りをしてそそくさと退散、ここでも厄除けのお守りを買って鍵につける。厄年の前と本と後の3年をここに通って札を持ってご祈祷してもらったからか、健康に一切の影響が出ないで過ごして来られたんで霊験はあらたか。いずれ来る60歳とかの厄年にも、東京にいれば通うかな。厄年当たりで会社がつぶれかけたり、それ以降ずっと不景気が続いているのは別に厄年とは関係ないし鬼子母神の霊験も及ぶ範疇ではないと思いたい。それは巣くう疫病神共の範疇なんで。

 ここで終わって午前11時。帰るのも早すぎるんで秋葉原へと回り特に買うものもないなかを見回ってから神田明神へと行ったら大行列だった。遠くに見えた湯島天神もやっぱり大行列。時間が遅いとやっぱりどこも混むなあ、東京の寺社は。でも湯島聖堂はあんまり混んでいなかった。頭に効くならこっちも手なのに。でもやっぱり天神様にお願いしたいか。神田明神でようやく粉もんにありつき食べて帰宅。大手町にも寄ったけれど出発した後の読売新聞前には人っ子ひとりおらず、ただ「絆」と書かれた銅像がゴールのテープを切るポーズで立ちすくんでいた。ちなみにポータル的には青の陣地ね。知って緑勢が押し掛けハックにかかるかな。帰っても箱根駅伝は特に見ず。駒沢大学のランナーが低体温症で半死半生なのを止めず「棄権させずによかった」と監督が嘯くようなスポーツ、というより苦行をあんまり、応援する気にはなれないなあ。でもチアリーダーは見たいかな。明日も行くかな大手町。混みそうだけれど。緑に塗り替えに集まったイングレッサーたちで。


【1月1日】 スケルトニクスだスケルトニクスだ、紅白歌合戦で氷川きょしさんの歌う後ろで、謎の巨大なおかめとひょっとこの面から両腕が生えて上下に動いて歩いて大見得を切っていた。あれは何だ? って普通に見ていた人は思ったけれども前から知っている人ならあれが何か分かっただろう。そう、スケルトニクス。沖縄工業高等専門学校の生徒たちが有志で作り始めた人体の動作を拡張するマシン。それがやがて評判をとってベンチャー企業として独立し、そしてCEATECとかデジタルコンテンツエキスポといった場面へと出て大勢の観客の目にさらされ、驚きを呼んで歓待されていた。

 けれども決してメジャーではない謎のマシンが、エンターテインメントの最高峰とも言える紅白歌合戦の舞台に立った。それも2体も。作った人たちとしても晴れ舞台でありひのき舞台だった筈だけれど、使ったNHKの英断ってやつもここでは相当に働いていたって見るべきなんだろう。未だ知らない謎の機械をどうしてあそこで使おうと思ったのか、そもそもどこで見かけてこれは面白いと思ったのかを、どこか聞き出してくれたら是非に読みたい。後ろの扇もロボットアームが操作していたそうで、同じ回の水森かおりさんとの対決で、特徴を出そうとした時に伝統とハイテクの融合ってのを浮かべてそこで、いろいろと探したんだんろう。

 でも、決して期間もあった訳じゃない中で、調べて依頼したNHKも英断だし、受けたスケルトニクスもフットワークが軽い。何よりNHKの決断ぶりは民放にはない強み。アグレッシブで進取の気風に富んでいる。Eテレビに登場するタレントやクリエーターなんかにも言えることで、視聴率のために有名人に縋りがちな民放とは違ってまず面白ければ使い、そこから世間を面白がらせていこうとしている。楽しい場所だなあNHK。その気風がある限りは上に誰が座ろうと、変わらず世間を楽しませ、そして新しい才能を世に送り出していってくれるだろう。Perfumeでもドローンを使って提灯を飛ばしていた。ワイヤーで吊ってた訳じゃなかったんだと分かって驚いた。ああいった進取が来年はどんな形で現れるだろう。やっぱり3Dプリンターかなあ、現場で3Dスキャナーでスキャンしたモデルを生体3Dプリンターで合成して送り出して舞台でデュエットさせる、と。やったら凄い、ってそりゃノーベル賞ものだって。

 きゃりーぱみゅぱみゅだきゃりーぱみゅぱみゅだ。でも吉高由里子さんが言ったのは「きゃりーぱみゅぱむ」で半分成功で半分失敗といった感じ? それを言いきれるかがひとつの関門になってスポットが当たるって面であの名前にもひとつの大きな意味があったって言えるかも。んで紅白歌合戦は奇をてらった演出はなく普通に「キラキラキラー」を大人のダンサーを従え唄って踊って見せた。アーティストとしての存在感をちゃんと見せられたんじゃなかろうか。これは前日のレコード大賞の時も思ったけれどもあの切れ味のあるきゃりーダンサーズが出ずっぱりのライブをやっぱり見たいなあ、ってこと。本当に見ていると引き込まれる。そんな凄いダンサーを従えちゃんとセンターで踊りきるきゃりーぱみゅぱみゅの凄さも分かってもらえる。キッズを楽しませる遊園地としてのツアーとは別に、大人を引きずり込んで酔わせ踊らせるツアーも今回は是非。準備が大変だけれど是非。というかツアー、あるのかなあ。

 きゃりーぱみゅぱみゅとダンサーの切れ味鋭い唄とダンスを夜の「カウントダウンTV」でも見て眠り起きて新年の2015年は生まれて満50年を迎える年であり、ちょっと行けば日記も20年目に突入する年だけれど眼前に広がる政治情勢は桑田圭佑さんがちょび髭を付けて揶揄った男の再来めいた存在が、勢力を伸ばしてこの国をとんでもない方向へと引きずり込んでいきそうだし、そんな男に荷担する媒体はあまりに度が過ぎた礼賛ぶりから呆れられて見放されて沈みそう。脱出の道もない訳じゃなくって、50歳という区切りで割り増される手当を当てにしてしばらく悠々自適って手もないでもないけどそんなにもらえるものでもなく、真っ当な同業他社の年収にすら及ばないその金額を切りつめたって3年がやっとという状況で、何か新しい世界に迎えるだけの研鑽を詰めるかってのがひとつの鍵になるだろう。どうするか。判断の年になりそうだなあ。3年あれば声優デビューできるかなあ。

 しかしやっぱりやってくれるというか。元旦に向けて天皇陛下が話されたというお言葉が各紙で報じられているんだけれどそれは「本年は終戦から七十年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした」と戦争の惨禍を振り返り、その悲惨さに言及しつつ「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」といったもの。普通に受ければ戦争ダメ絶対! ってことになる。

 でも早速というか、そういう意図ではないといった感じに受け止めようとする向きもあったりして、「日本のあり方考えていくこと極めて大切」だなんて見出しで紹介しては天皇陛下は先の戦争の大義について新ためてお考えになるようおっしゃられているんだ、そしてマッカーサーによって憲法が作られアメリカによって築かれた戦後体制の見直しを示唆されたんだと受け止めたがる雰囲気なんかを漂わせている媒体もある。そう天皇陛下がおっしゃった訳ではないし絶対に違うと思うけれど、断定的に「戦争ダメ絶対!」とは言わないところをもってそういう風に引用し、戦後レジュームの見直し云々を声高に叫び日本を戦禍へと誘おうとする風向きも出てきそう。やれやれだけれど、そういう声を指示する向きも少なからずあるんだよなあ。いつかそれが政権をバックに体勢となった果て、何が起こるのか。考えると夜寝られなくなっちゃう。

 首都圏では軒並み品切れになってた芝村裕吏さんの「遥か凍土のカナン4 未だ見ぬ楽土」(星海社FICTIONS)を呼んだらオレーナがしおらしくなっていた。いやまあ最初っから嫁に来たといってはすげなくされてシクシク泣いていたけれどもさらに情が深くなると新田良造が前に知り合ったジニだとかに手紙を贈ると言い出すだけで拗ねて起こって泣いてしまう。何てまた深い情愛。そんなレナ姫の年齢とかが明らかになって良造は吃驚。読者も仰天。ああでも本編でもジブリールとかそんな年だったっけ。だから気にしない。現代でもないし。旅はさらに続き途中で愛馬が大変なんことに。メカ富士号として復活しては両手をぶつけて「スーパー!」ってやってはくれなかったけど、きっと魂は受け継いだ。これからきっと厳しい凍土を失踪してくれるだろう。でも売ってたんだあの時代、サンクトペテルブルグだかでハーレー・ダビッドソン。

 冒頭だけ見て以下は帰京へとあてて見られなかった全日本サッカー女子選手権大会こと皇后杯の決勝は、雪振りしきる味の素スタジアムで開かれたみたいでリーグ戦との2を狙う浦和レッドダイヤモンズ・レディースと、かつての女王は今なお健在なところを見せようとした日テレ・ベレーザがぶつかり合って好試合を見せたみたいで、結果はベレーザが1点を守りきって勝利して、リーグ戦の雪辱を果たし5シーズンぶりとなる全日本のタイトルを手に入れた格好だけれど、浦和もよくぞここまで強いチームになって来たものだと感心。埼玉レイナスを引き継ぐように発足したけど熱狂的な男子チームのサポーターをかかえる中で女子がどういう扱いを受けるか、心配だっただけにちゃんと受け入れられたみたいで応援もベレーザを上回る。上に男子のJリーグのチームがあるとそういう掛け持ちも可能になるけど逆にお荷物扱いされて独立した存在になれない場合もないでもない。

 これで強豪としてレディースもレッズの名の下に輝いて、日本のサッカー界を引っぱっていってくれると期待したい。ベレーザも名門の名に恥じぬ戦いぶり。それ以上に新鋭を次々に送り出してくる。それらを活用できるかがなでしこジャパンの腕の見せ所になるんだろう。世代交代、本格化させてワールドカップも五輪も頂こう。それからこの試合はベレーザの小林弥生選手にとって現役最後の試合となったんだけれど、展開がシビアだった関係で最後まで出られず出場で最後を飾れなかった。でもそれがサッカーであり勝負の世界、仕方がないと当人だって思っているだろうし、何より最後の勝利の方がきっと嬉しいに違いない。

 思い起こせば2004年1月25日の全日本女子サッカー選手権大会、TASAKIペルーれと対戦した日テレ・ベレーザは同点のままPK戦へと突入してそこで小林弥生選手がPKを外し、相手は決めてそしてペルーレがリーグ戦との2冠を成し遂げベレーザは無冠に終わった。その時に小林弥生選手はセンターサークルにうずくまり泣きじゃくり、表彰式でも準優勝に笑顔を見せる選手たちがいる中で、当時は酒井だった加藤與恵選手ともどもうつむき涙をこらえていた。けどその後に立ち直ってなでしこジャパンに入りアテネ五輪へと出てすごいパスを見せて多くの脳裏にそのプレーを刻んで日本を代表する女子サッカー選手へとなった。敗戦も失敗もいずれ絶対に糧となる。そのことを教えてくれた選手。だから誰もが失敗に下を向かず上を向き、立ち止まらないで歩いていこう。まずは御礼、そして感謝、ありがとうございました、ファンタジスタ弥生!


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る