縮刷版2014年9月下旬号


【9月30日】 司波深雪「今日から高校生ですねお兄さま」司波達也「クラスは違うが深雪を虐める奴がいたら遠慮なく行ってくれ」一科生「やーい、お前の兄ちゃん劣等生」達也「マテリアル・バースト」深雪「高校なくなっちゃいましたね」達也「仕方がないさ」深雪「そうですね」(完)。いや(完)じゃないだろうってセルフに突っ込みたくもなるけれど、実際のところあの技を達也が本気で使ったらすべてが意のままに支配できるんじゃないかとすら思ったほど、凄まじい破壊力でもって敵の船どころか艦隊もろとも吹き飛ばしていた「魔法科高校の劣等生」のアニメーション。死んでさえなければ何でも再生できる力もあって無敵なはずの達也が叔母の言いなりになり政府の言いなりになって生きているのは倫理観が高いからか、別に理由があるからか。深雪の幸せ、それだけだろうなあ、いくら強くたって深雪がそれで幸せになるとは思ってないだろうから。

 とはいえ深雪自身は達也が孤高の存在になって世界にたった1人の男になってもそのかたわらに寄り添いむしろそんな状況を歓迎すらしそうな感じ。ただやっぱり達也にだって魔法士として生まれて来た意味ってものを考えているだろうし、深雪に限らず周囲の平穏を脅かすものを排除したいという思いもあるからああやって、軍に入りマテリアルをバーストしていたりするんだろう。次は何を吹っ飛ばしてくれるんだろう。「横浜騒乱編」のあとはしばらく日常の話が続いてあんまり派手な動きとかなかったしなあ、いやアメリカから来た魔法士を相手にしたバトルがあったか、それでもマテリアル・バーストはでなかった。それが出るのは今の「古都内乱編」になるのかそれとも。ワクワクしながら読んでいこうこの先を。

 島根県の隠岐にある海士町が街おこしのために海産物を使った料理を考案しては全国的に売り歩いているのは知っているし、そうやって生まれたひとつの「寒シマメ漬け丼」は美味しくって東京で食べられる機会があると見つけて食べに行ったりもしていたくらいだけれど、でもそうしたひとつの成功を挙げて全国すべてがそんな風に名産品を作っては、全国に売って歩けばそれが地方創生に繋がるんだろ脳天気なことを言い始めている内閣総理大臣がいたりして気も萎える。地ビールが人気だとか観光客が来てくれるとか、そんな話もしていたけれどそれがいったいどれだけの産業規模になるのか、地方に人を止め置いて都会とは言わないまでも都市部に負けない経済規模をそこに作り上げることが出来るのか。

 できやしないだろう。というかあらゆる地方都市が名物を作ったところでそこから生き残れるのなんてごくごくわずか。いくら都会に消費力があったところでそこはそこで増すプロダクツが大手を振って存在している世界で、名物品なんてニッチなところで運営側が生きていけるくらいに売れているだけ。そこに新しい名物が来れば置き換わるか撃退されるだけという状況で、あれもこれも名物がやってきたら起こるのはバトルロイヤル、残るのは1つとか2つとかそんなもの。優勝劣敗の中で地方に死屍累々の状態が起こるだけだということに、まるで想像を巡らせることができない総理大臣も間抜けなら、そうした施策を名アイディアだと喝采を浴びせ報じるメディアも間抜け。そんな間抜けたちに引っぱられるように坂道を転げ落ちているのが今の日本ってことなんだろう。

 もしも本当に地方を創世したいのなら、観光客が増えたといって徳島を紹介するならその口でもって徳島にアニメーション関連企業をわんさか引き込んで年に2度の大イベントを展開しては何万では効かない人数を招き入れてしばらくホテルをパンクさせるくらいの賑わいを作り出し、その上に地元にスタジオを作って雇用を生み出し映画館も作って文化を醸成してそこから未来のクリエーターなりが育つ土壌を作っているユーフォーテーブルを取りあげその取り組みを讃え国が援助するくらいの太っ腹を見せればこれは本気だって思うだろう。あるいは富山県南砺市を拠点に作品を生みだし続ける一方で、富山のみならず石川やら京都といった地域と絡んで文化を送出し、観光客を誘致しそれを一過性に終わらせないピーエーワークスの活動を讃え喝采を浴びせたら分かってるなあと思うだろう。

 成功した所だけを挙げて他も成功すればと言うのは阿呆でもできる。すべてが成功するのが無理ならそうではない道を提案していくことが政治なのに、その場を美辞麗句で乗り切れれば良いと考えているその脳天気によって導かれる国の行方は、地方の未来はいかばかりか。本気なら役所の1つ2つを地方に持っていくくらいのことをやればいいのに、反発を食らから絶対にやらないだろうなあ。まあいい総理大臣がテキトー行っているかたわらで、アソビシステムは日本各地に外国人のための案内所を作り、そして世界各国で日本の文化をリアルタイムで広めるイベントを打とうとしている。そこに国の援助はないけれど、無能に手柄を持って行かれるよりは本当に求める人たちのために役立つ活動をしていくことが今は重要。そのために邁進している人たちを影ながら応援したい。僕には総理大臣を褒め称えることで恩恵を受けるような筆のふるい場はないけれど。

 日本の紙メディアとネットメディアをそれぞれ牛耳る2人がいっしょになって新しい会社を立ち上げようとしてる会見に行ったら、冒頭に流れた映像で漫画原作者で批評家の大塚英志さんがそりゃあダメだと激しく突っ込んでいたのだった。曰く「5年後に離婚しているか、両方とも沈没しているよ」「いろいろな意味で終わりの始まり」「面白かったのは春樹さんの頃。あの時はちゃんと映画を作っていた。出版社との資本によって、滅び掛ける映画をギリギリのtおころでどうにかしようとしていた。いまの上層部は映画も本も信じていない。不愉快ですね」「メディアミックスでありコンテンツ、それ以上でもそれ以下でもない。メディアミックスやコンテンツが面白いかと言ったら、面白くも何ともない。ビジネススキームを作ったことは別にして、いまはどこの出版社も本を作ることからコンテンツやメディアミックスになってしまっている」等々。

 恐ろしいのはこれを作ったのが批判されているドワンゴでありKADOKAWAだったりすることで、そうした声を自虐的に受け止めるんじゃなくむしろ叱咤ととらえあるいは分かってない声と認識して、自分たちの持っている力はそんなもんじゃないぞと示そうとしているところか。大塚さんは「ドワンゴは自分たちをプラットフォームと定義したでしょ。そこの内容に責任がない。社会的な責任がないメディアが巨大化していくことが良いこととは思えない。終わりの始まり。終わり方には興味がない」とまで行っていたけどドワンゴは自分たちでコンテンツを生み出し企業としての責任はとりつつユーザーの自由な試行を引き受け伸ばそうとしている。それが今、さまざまな新しい表現を生んでいたりする以上はやっぱり分はドワンゴでありKADOKAWAでありKADOKAWA・DOWANGOにあるような気がするけれど、果たして5年後はいかに。観察していこう。


【9月29日】 水戸ホーリーホックが「ガールズ&パンツァー」とのコラボレーションを行って、あんこうチームのマークが入ったユニフォームを作ったりタオルマフラーを作ったりして羨ましいなあと思っていたら、東京ヴェルディまでもが「とある科学の超電磁砲」とコラボレーションしていろいろ始めるとかで、先にそんな2つのチームが激突する試合が西が丘で行われたことはあったけど、まだ本気を出してなかったヴェルディがコラボグッズなんかをいろいろと見せ始めた様子。これがまたチケットに御坂美琴や白井黒子といった面々が並んで描かれているだけでなく、御坂が堂々プリントされたマフラーまで登場するというから羨ましい。

 ホーリーホックのマフラーはあんこうマークだっただけに、キャラが登場するってのは本邦初かどうなのか。湘南ベルマーレにブロッコリーがスポンサードしていた時期はプラクティスシャツにでじこが描かれていたけれど、さすがにマフラーではなかったものなあ、もちろん本番のユニフォームも。これはちょっと欲しいけれども本数は限定っぽいから果たして手に入れられるのか。どちらかといえば白井黒子のが欲しいけれどもそれは作ってくれそうもないし。まあ様子を見ながら変えたら買おう。そして試合に行けたら見に行こう。応援しているジェフユナイテッド市原・千葉もそんなコラボをやればもっと応援する意欲も湧くなけれど、降格圏をうろうろとするヴェルディに引き分ける体たらくだしなあ、来期もJ2は決まった感じがあるなあ。

 世界に誇る日本のスターといえばまずはマリオが筆頭で、あるいはピカチュウだったりもするけれど、「ゼルダの伝説」のリンクだって世界的にはとてつもなく有名だし、「星のカービィ」のカービィだってやっぱり同じくらいかそれ以上に知られていたりする、そんな任天堂とグループが誇るキャラクターたちと共演したってことはつまり、きゃりーぱみゅぱみゅももはや世界的な認知度を得たに等しいってことになるんだろうかどうなんだろうか。任天堂の携帯型ゲーム機「ニンテンドー3DS」の新型が登場するってんでそのプロモーション映像が出来てそこできゃりーぱみゅぱみゅと任天堂のゲームキャラが共演していてまずは正直驚いた。やったなあ。

 でもってその混ざりっぷりにまずは感心。ゲームと人間が混じるとどこか違和感があるものだけれど、キッチュでポップなアイコンのきゃりーぱみゅぱみゅだと、そこにあんまり壁が存在しないのは日常的にPVなんかでゲームっぽいキャラと共演していたりするからなのかもしれないし、格好がそもそも現実離れしてゲーム的だからなのかもしれない。一方で任天堂のキャラたちもきゃりーに寄せてポップでカラフルな格好になっている。そんなお互いの寄りっぷりがうまく重なり不思議だけれど不思議じゃないPVが仕上がったんだろうなあ。ちょっと面白い。これって海外にも流れるんだろうかそれとも日本だけだろうか。放っておいても海外には広まるだろうから、そこで互いに知名度を高め合っていくんだろう。世界をさらにその手中へ。きゃりーぱみゅぱみゅの旅は続く。

 あまりに久々過ぎて最初はお茶の水だというから前のゴーゴーカレーがある向かいあたりに言ったら違う駿河台予備校の美術専門学校か何かがあったりして、いったいどこに行ったんだデジタルハリウッドと調べたら前に日立製作所の本社が建ってたあたりを建て直して建った新しいビルに入ってた。秋葉原のダイビルにあったデジタルハリウッド大学もいっしょになったみたいでゴージャスなビルにあって歩けば神保町も秋葉原も近く楽器屋さんもわんさかなデジタルハリウッド大学及びデジタルハリウッド、通うにこれほどベストな学校もないんじゃないかと思えてきた。手に職も着けられるしなあ、文系にしろ情報系にしろ、へたに普通の大学に行くよりよっぽど良いかもしれないなあ。有名人を招いての公開講座も割と頻繁に行われているし。

 ってことで誰以来になるんだろいう、久々に一般にも公開して行われる講座をデジタルハリウッド大学へと見に行く。今回の登場はライブ・ビューイング・ジャパンっていう映画館なんかにライブとかを配信している会社の久保田康さんという社長の人。アミューズでずっと仕事をしていて広報なんかもやていたそうだから、もしかしたらどこかですれ違っていたかもしれないけれどちょっと覚えていなかった。まあ出入りしてたのも10年以上前の話だものなあ、アーティストのオーディションとかもやってた時代。2002年に京都でその展覧会があったんで見に行ったら大里洋吉会長が来ていたんだ、ワールドカップのセネガル対トルコ戦を観た翌日だ。遠い思い出。

 その時のワールドカップで日本代表選の中継を国立競技場で観たのが一種、ライブビューイングの僕個人としての始まりで、そこで試合が行われていないにも関わらず、モニターの向こうで繰り広げられる試合に会場の数万人が一喜一憂し、拍手を贈りコールを送って応援していた。家でテレビを見ていれば済む話が、どうして外に出て集まって応援しなくちゃいけないのか、って疑問も少なからずあったけれど、その答えが現場に行けばすぐに分かった。楽しいんだ。一体感があって。そして共時性があって。同好の士が集まり同じ目的に向かって何かをする心地よさは、家でテレビを見ていては絶対に味わえない。ライブビューイングならそれがある。たとえ現場に選手はいなくても、あるいはアーティストはいなくても感動は十分に味わえる。そんな確信を得たから、今、ライブビューイングが映画館で頻繁に行われ、それを観に大勢のファンが集まる気持ちもよく分かる。

 久保田さんが説明したライブビューイングのメリットもそんな辺りで、あと個人的には映画館だと実はライブ会場にいるよりも快適にアーティストのアクトを観られたりするってメリットも最近はちょっと感じている。いくらそこにアーティストがいたって豆粒のように小さくしか見えず、音も届かずおまけに雨とか振られた日には気分もすこし萎えてしまう。映画館ならそれはない、巨大なスクリーンにアップにされたアーティストが映ってそれこそ自分たちより巨大な姿で覆い被さってくるような感じに写し出される。それも鮮明な映像で、音声もハイクオリティで。空調は効いてトイレも近く終わればすぐに電車に乗って家に帰れる。そういうメリットを享受できるならむしろ遠くのライブより近くのライブビューイングってなる人がいたって不思議はないかもしれない。本当のファンでないならなおさら、体験としてのライブを味わう場としてライブビューイングには大きな意義がある。

 キャパシティが限られているライブ会場にプラスアルファして、それこそ可能な限り観られる人を増やせるってのもひとつのメリット。ただここで気になったのが、それならネット配信にすればもっと桁違いの観客を集められるんじゃないかってことだけれど、かつてニコニコ動画が演劇とかミュージカルなんかを主催して作った上でネットでも配信して観客席に座れない人に観てもらってお金を余分に稼ごうとしたことがあった。箱のキャパだけでは限りがあった制作費が有料ネット配信を行うことで増大させられそれでよりよい舞台を作れるようになるって片岡義朗さんが訴えていたけど、その後、映画館とかでのライブビューイングが隆盛を極める一方で、ネット配信はなまり派手な話を聞かない。やっぱり一体感の問題なんだろうか、それとも権利の関係でコピーとか恐れると配信は難しいってなってしまっているんだろうか。そんな辺りをどう感じているか、伺いたかったけど時間もなかったので今回は断念、いずれまたどこかで話を聞ける機会があったらその時には聞いてみよう。

 もうひとつ、ライブビューイングは国内のアーティストが世界へと出ていく時の尖兵として使えるって話が面白かった。いきない海外に出ていって数千人規模のキャパでライブを出来るターティストなんて限られている。それは日本でいくらアリーナツアーを成功させているアーティストでも同様で、海外でそれだけの規模ではまずライブは行えないし、かといって小さいキャパで満足させるには演奏の規模が大きすぎるとなった時、先行してライブビューイングを配信して観てもらうことで海外にファンを醸成し、増殖させてその結果、大きな規模でもライブが行えるような下地が作り上げられるという、そんな未来を見越したライブビューイングの海外展開ってのがあるみたい。日本へと観光客を連れてくる一方で海外に日本を紹介しようとしている「もしもしにっぽん」あたりと巧く連携すれば、新しい動きとかも出来そうだけれどそんな話はあるのかな、Perfumeを抱えるアミューズが母胎だけに中田ヤスタカさん繋がりでアソビシステムとも連携しているかも。だとしたらちょっと先を期待してみたくなるけれど、果たして。


【9月28日】 やっぱりか。あれだけ吹き上がった噴煙の下がどうなっているかと想像すると、とんでもないことになっているとしか言い様がない中で、被害者が出ていないということはやっぱりなかったようで、入山した捜索隊の手によって何人かが倒れているのが発見されたという。傷ましい。しかしどうしてこれほどまでの人が直撃を受けたんだろうか、事前に予兆はなかったんだろうかって思えたりもするけれど、振動はあっても噴火の兆しなんてまるでなく、秋晴れの週末に山を楽しみたい人が上がっていたところにいきなりの噴火ではどうしようもなかったんだろう。冬山は怖いとか活火山は危ないといったこととはまるで違うこのリスクを、どう理解しどう今後に活かしていくか。考えないといけないか。

もしもし日本にいらっしゃい!  話の種になるかもとしれないと、きゃりーぱみゅぱみゅが所属するアソビシステムが千駄ヶ谷にある東京体育館で開いた「もしもしにっぽんフェスティバル」ってのを見物に行く。始まる前に企業なんかを集めて「もしもしにっぽん」というプロジェクトそのものへの協賛なんかを求めるセミナーがあったんでそっちから見物、あの増田セバスチャンさんとそしてアソビシステムを率いる中川悠介社長が登壇して、おちまさとさんと対談を繰り広げてくれた。増田さんも中川さんも遠巻きには何度もみていたけれど、まとまって考え方なんかを聞いたのはこれが初めてくらいかな。そのスタンスにいろいろと勉強できるところが多かった。

 例えば増田さんは、1995年から原宿に自分の店をもって日本のカワイイ文化ってのを国内のみならず世界に発信してきた第一人者だけれど、大事なのは日本人が考える外国人が好きな日本じゃなく、今の日本ってものを見せることだって話していて目からウロコ。そうだよなあ、これだけ情報が氾濫してリアルタイムに日本の文物に触れられる時代に、寿司だ着物だ忍者だ侍だって感じでもないものなあ。西洋化されているようでそれでも独特な日本の今を感じたいから日本に来る、あるいは日本を求めているのなら、その声に素直に答えてあげるのが1番だってこと。ジャパンエキスポのようなイベントも、外国人に任せるんじゃなく日本がそのまま行って欲しいと話してた。それがまさしくこの「もしもしにっぽんフェスティバル」ってことになる。

 聞くと来年のロンドンを手始めに世界各国へと持っていくみたい。ただ中川さんの方は海外の人が主催して稼ぐことそののこと自体は否定していなくって、外国人が主催するからこそ大勢が集まり成功する面もあると理解。ただ、その先にいったい何があるのか、日本として何を提供できてそして共に発展していけるのか、ブームに終わらせないでカルチャーとして定着させていけるかってことを、考える必要があるって話してた。そこまで見据えての活動がこの「もしもしにっぽん」であり、それがリアルイベントとなった「もしもしにっぽんフェスティバル」。音楽がありファッションがありフードもあってそれを日本人だけでなく外国人にも見てもらう、むしろ外国人に積極的に見てもらうことでここから日本の今を発信していこうとしている。

 だから今回の「もしもしにっぽんフェスティバル」は、何と外国人を無料で招いてステージ前にも外国人専用エリアを作っておもてなししていた。太っ腹。でも合理的。そして開明的。7対3とか6対4で外国人が多くなるんじゃないかって始まる前に予想していたけれど、ざっと見て本当に半分くらいは外国人が確実にいて、日本にこんなに外国人が来ていたんだと驚きつつ、ちゃんと情報を知って見に来るんだということにも驚いた。好きなんだ。でもこうやって情報を発信したからこその来場で、イベントとかない時にはやっぱりどこに行けば良いのか戸惑うのが外国人。そんな人のために拠点を作ろうってことで、冬に原宿は明治通りのビルケンシュトックがあったビルを使って、「もしもしにっぽん」のショールームを作るみたい。

 情報を集め発信する拠点。ここに行けば日本のカワイイスポットが分かるという便利な場所になれば利用してもらえるだろうという算段。そんなの東京都なり国がやるべき仕事じゃないか、そのためにクールジャパンファンドとか作っているんだろうって思ったりもしたけれど、でもそれだとゼネコンさんも商社さんも儲からない。だから独自にやるしかない。やっぱりどこかおかしいこの国の施策。でもだからこそ民間が自由に振る舞える。それを応援していこう。邪魔はするなよ政府も大企業も。

 さてイベントはといえばでんぱ組.incが出てMay’nが出てと、時間を分けて人を入れ別ステージに送りと流動させているからか、東京体育館がZepp的に身動き取れなくなることはなく、適当に賑わっていて良い感じ。夜が近づききゃりーぱみゅぱみゅのステージが迫るに連れて、混雑も増してきたけどそれもフィナーレ感が高まって来て盛り上がった。場内には協賛各社からブースも出て、カラオケとかファッションとかを見せていて、中にアニメイトのコスプレブランドもあったけど、いわゆるおたくっぽいのはそこくらい。カワイイカルチャーとオタクカルチャーは日本じゃ住み分けられてる感じがあるけど外国人だと混ざってる部分もあって、そんなあたりに刺さるような出店があっても良かったかなあと思ったり。そういうクロスオーバーが課題かな。

 例年だったらもっと見てるんだけれど、時間が合わずに今回のインターカレッジアニメーションフェスティバルことICAF2014はプログラムを1つだけ。多摩美術大学と東京工芸大学とそして東京造形大学から選ばれた作品が上映されたけれども、そのうちの東京工芸大は幾つかを冬の卒業制作展で見ていて中島悠喜さんの「乱波」は中でも気に入った作品で、忍者のアクションがスピーディに描かれていて相変わらずに格好良かった。観客賞でも2位に入ったから見た目にもインパクトがあったんだろう。工芸大だと同じみさとうちひろさんの「さとうのちひろブラック」も、コマ割された中でキャラが移動しつつ展開される独特の作風が受け入れられるかなと思ったけど定番過ぎたかプロだと思われたか。相変わらず巧い。でもってご本人を始めて見た。ああいう人だったか。

 工芸大でも田中直子さん「シェアハウスの3人」は初見。まるでプロだった。引っ越してきた狸が何かが隣近所に挨拶しつつ、迷惑かけられつつおいかけあっこする展開は笑いがあってシュールさもあって落ちもしっかりとしていて、そのままテレビで流れも良さそうだった。流れたのかな。他の作品も見てみたかった。そんな感じに多大な才能を輩出している感がある工芸大だけ、ど観客賞の1位は出せずにやっぱり去年も久野遥子さんの「Airy me」に持っていかれた多摩美から出た、中舎康平さんの「想い雲」が連覇というか、一昨年を覚えてないから分からないけど常連と化しつつある感じ。

 学校で仲違いしてしまった少女が仲直りするまでのストーリー。謝りたくて謝れなくて謝ったけど、許せなくて仲違いしてしまってけれどもやっぱり仲直りしてくって。そんな少女の想いってものがふくらむ雲にもなぞらえられて描かれていて、見ていて心がほっこりする。あと眼鏡っ娘が可愛かった。作者の人は今はアニメじゃなくって漫画を描いているんだっけ、なるほど漫画を描けそうな絵柄の人だったけれど、動いてそこからにじみ出す心情ってのはやっぱりアニメーションならではのもの。だから漫画を描くかたわらでアニメーションにも挑戦し続けて欲しいなあ。あるいは誰かがその漫画をアニメ化するとか。名前を気にしていこう。

 でも多摩美では朴美玲さんって人の「夢かもしれない話」が気になった。老夫婦が仲違いしてしまい事故に遭ってそして……ってところから始まる走馬燈、そして思い出した心情に突き動かされるように老人がかけるという展開そのものはよくあるけれど、さまざまなシーンが孤状に歪んだ部屋の中で繰り広げられて、そのカメラアングルの独特さ、そして絵の巧みさに惹かれてしまった。プロになれるじゃん、とすら思ったけれどどうやら今はゲーム会社で働いているらしい。だとするとその特徴が前に出てくることはしばらくないだろうけれど、巧さを持った人だから何か絶対にゲームの中なり個人なりでその才能を、見せてくれる日が来ると信じたい。待ってます。 冠木佐和子さんは作品も独特だったけどキャラも独特だった。「MASTER BLASTER」。エロいなあ。外国人はああいうエロが好きなんだろうか。へたっぽく描かれた絵がずっと崩れないその凄さに感嘆。いずれ世界を獲る人だろう。既に獲ってたりもするけれど。


【9月27日】 1979年というと昭和54年だからもう中学生になっていて、だとすると遠く平針から木曽の御嶽山を見たのは中学校の3階からだろうかと振り返ったけれども果たしてあの立地から、遮られることなく御嶽山が見通せるのかどうかはちょっと分からない。ただ周囲にそびえる建物もなく、高い山もないからあるいは見えたのかもしれないし、見ていたのは噴火する前の御嶽山でそれを小学校の3階から見ていた記憶と混じっているかもしれない。どっちにしても平針から御嶽山は見えたのは確かで、それなら今見れば吹き上がる噴煙も見えるのかというと周囲に高い建物も増えて来ただけに、もう見えなかったりするのかもしれない。どっちなんだろう。

 ずっと休火山というか死火山だと思われていたらしいけれど、そもそも御嶽山が火山だったかどうかも覚えていなかった。昭和54年以降は時々噴火する山という位置づけになっていたけれど、それでもちゃんと予兆はあって噴火によって被害者が出ることはあまりなかったように記憶している。それが今回は大勢がまさに登っている最中での結構な噴火。噴煙が上まで上がり灰色の火砕流が山嶺をかけ下る様子も撮影されていたりする、そんな大きな噴火を間近に控えてどうして人が登っていたのだろうかという疑問がまず浮かぶ。それほどまでに急だったのか。何か見落としていたのか。侮っていたのか。そんなあたりを解明してこそ、次に繋がる安全もあるのだろう。ともあれ登山者の人たいtの無事を。そして鎮静を。

 アペンドラインがアドベンドカレンダーでも別に意味とか分からないから気にしてないけど、いわゆるキャッキャでウフフなライトノベルのラインとは違ったものをそう呼ぶらしいMF文庫Jのアペンドラインに入っているっぽい、「てにをは」って名前の人の「モノノケミステリヰ」がアペンドがどうとかってことは関係になしに面白かったよ。少年少女が妖怪相手に事件を解決するという冒険活劇ストーリー。紹介とかに使われている「めいたんていのおとおりだ」って言葉とか、どうして漢字が何で開かれてるのかと読んで思って言葉選びが下手なんだろうかと心配したら、ちゃんとそれにも意味が見えて納得いった。

 主人公は月岡春足という少年で、神楽坂を根城に探偵事務所を開いているんだけれどそれは人間が起こす事件が相手の探偵ではない。でもってそんな不思議な探偵事務所を、どうして少年が運営しているのかと問われるなら、春足はある異能を持っていて妖怪を従え力を振るったり出来るという点がひとつのポイント。彼はそんな力を使って持ち込まれる難事件を解決して、業界でもそれなりに名前を知られるようになった。今も何者かが見張っていてそれで寝られない家に行って犯人をとっつかまえる仕事をこなし、そして大手の鉄道会社を脅かし、さらには街を跳梁するようになった化け物汽車の正体を暴こうとする。そんな春足には、いつか神楽坂に自分だけの王国を作るんだと大言壮語するマッドな部分があるんだけれど、奇矯さというよりは子供ならではの我が儘っぽさに見えて案外に可愛らしい。嫌いになれないタイプというか、そんなキャラ造形がまず巧い。

 春足を守るのが着物の少年、鉄輪弥人。本好きらしく本屋に行ったりするけれど、その店番はみつあみおっぱいの女性で、いつも居眠りとかをしてるという不思議系。おまけに普通は見えない妖怪が見えてしまう体質だけれど今はまだ事件には絡んでこないからその正体に何がかるのかは不明。でもって店で居眠りする彼女を観る視線があり。弥人は頼まれ解決したらちょっと前に春足が夜寝られないと訴えて来た家を狙っていた妖怪だったという、そんな展開の中、3人いる事務所の残りのひとり、クダギツネを使う少女の南方うつひを入れて3人で挑む怪事件の行く末は? ってのが大筋のストーリーラインになっている。

 春足に弥人、そしてうつひという三者三様のキャラが立っているとのその会話に妙味があって誰も浮かず誰も沈まず賑やかに楽しく展開を追っていける。現れる妖怪たちと3人とがそれぞれに戦う場面もスリリング。ピンチを脱してそして最後の戦いへと行き対峙した敵の正体は? とっても楽しい探偵活劇。妖怪については割と伝統的なものが多く出てきて、それぞれに特徴のある怪しい技を見せては春足たちを困らせるけど、シリアスさとはちょっと違ったほのぼのとした雰囲気があって楽しく読める。春足がどうしてそんな体質なのか、弥人やうつひとの関係は、といった謎も含め描かれていく中でいろいろな事件が起こり対決があってそして春足の技も炸裂してくるんだろうなあ。どこかカードゲームバトルっぽいというかポケモンバトルっぽいけど使役ではなく拝借といった辺りがユニーク。女郎蜘蛛な春足ちょっと可愛いかも。

 全日本模型ホビーショーに行こうかICAFに行こうか迷ったけれども、珍しくライトノベル作家の河野裕さんが登場するサイン会があるんで池袋のリブロへと行って「いなくなれ、群青」(新潮文庫nex)を買って列に並んでサインをもらう。3番目くらい。ライトノベルの人のサイン会で最後に出たのがいつか覚えてないけれど、そうでない作家も含めて当方の名前も顔も知られてないので気にはならず、どんな人が来ているんだろうと観察できた。若い人が多かったけれどライトノベルの中心層であるティーンがいっぱいって感じでもなかったかなあ、青年層。どういう回路でファンになったのか知りたいけれど、少なくともこの作品は世代を問わず読んで感じさせることができる物語。次代の村上春樹さんって言っちゃってもいいくらいなんで十分に届いているんじゃなかろうか。ミリオンとか行けばさらにすごさも広まりそう。それで「サクラダリセット」とか読ませてSF的にもすごさが伝われば嬉しいんだけれど。そっちはもう書かないのかなあ。

 懲りてないとうより、問題の所在が分かってないのだろう。STAP細胞を巡る騒動で、最先端の科学的発見だとして大々的に喧伝しては、それが実はインチキだったかもしれないという話を受けて、手のひらを返したようにぶっ叩きに回ったメディアたち。なるほど理化学研究所という場所での実験に世界的な権威がバックについての実験、そしてネイチャー掲載というお墨付きもあっては、間違えるのも仕方のない話だけれど、問題はそこに胡乱な影が見えてから、どうして検証に走って問題点を洗い出し、再発を防ぐような方向へと筆を進めなかったってことで、それがなくズルズルと曖昧な状態で生殺しにした挙げ句、世界に名のある真っ当な上に真っ当が乗る科学者を失ってしまった。

 間違いは誰にだってあるのだから、それを改め再発を防ぎつつ再起を期する風土を醸成することは、メディアにだってできるというかメディアだからこそ出来ることなんだけれど、風が吹けばそちらに流され反証されれば逆に大きく流れていくだけの紙風船、そこに科学とうものに真剣に向かい合おうとする意志も主体性もないのが分かってしまったのが先の騒動。だからこそメディアも今一度、自分たちに何が足りていないのかを考えつつ科学報道とどう向き合うかってことを突き詰めれば良いものを、どこかのメディアが科学的に根拠が薄いというより極めて非科学的な話を堂々、正論の如くに載せてしまっているから面倒くさい。

 前々からその怪しげな言説は、科学の方面から唖然茫然のまなざしを向けられている素敵なサムシンググレート。もはや科学ではなくスピリチュアルの世界に陥っているその言説を取りあげ喧伝してみせるその態度は、端から見れば捏造だと罵倒されている報道を行った新聞とかわりない。それどこころか引っ込めもせずに堂々「科学」のカテゴリーに入れて報道しているのだから恐れ入る。もはやオカルトでありそれを信じるカルトの領域にまで足を踏み入れている言説に「科学」のお墨付きを与えるその態度は、科学と科学者に対する叛逆とすら言って良い。それだけのことを平然としでかして揺るぎないスタンスは、ある意味感心してしまう。

 もちろん主義主張は自由であって、それを伝えることもまた自由。だからこれが少なくとも「宗教」であり「思想」といったカテゴリーで紹介されていたのなら、まだ言い訳も利いただろうによりによって「科学」だからなあ。それとも本当にサムシンググレートが科学的に正しい理論だと思っているんだろうかそのメディアは。教科書にも載っているから正しい? その教科書はどこが出していたんだっけ。まあでも永久機関に「科学」と付けて報じて未だ引っ込めないメディアし、不思議でも何でもないんだろう。いずれ「歴史」として江戸しぐさが紙面を飾り「ホメオパシー」が「医学」として紹介され「親学」が「教育」として喧伝されていく。本当の歴史はねじ曲げられて気持ちいい部分だけがピックアップされて並んだその紙面を、読んで喝采を浴びせる濃度の高い人たちにだけ群れ集われ、ひとつの楼閣を築き上げるだろう、砂上ですらない断崖のその橋に。参ったなあ。

 金子修介監督による美少女アクションSF映画「少女は異世界で戦った」を舞台挨拶付きで見た。前に試写で見た時は展開とか出てくる役者さんの演技とかにハラハラした所も割とあったりしたけれど、世界観を知り流れを理解し結末を分かって見た今回、これほどまでに壮絶で悲しくそして力強い物語は近年ないと改めて思えた。パンフで監督がボヤいたあの予算で良くここまでのものを作ったと感心した。冒頭からレーガンにブッシュといった大統領のあり得ない紹介でオヤと思わせアイドルたちのライブでオオと思わせておいて、戦う少女たちの苛烈さを見せだんだんと強めていってもう逃げたいと思わせ、けれどもここが居場所なんだと覚悟させる。悲しい覚悟を。だからとっても切なくなる。そして応援したくなる。残った少女たちのこれからを。今に生きる者たちすべてを。

 こなた核がなくテロに走る宗教もなく、むしろ健全に宗教団体が人のためになる政治を目指している世界を脅かす敵と少女たちは戦う。かたや核にまみれ戦争もテロもある世界だけど、少女たちはアイドルとして光の中を踊り歌う。幸せな世界はどっちなんだろう? どっちが本当の世界なんだろう? なんてことを思ってしまった。そんなメッセージに加え、低予算と2週間とかの撮影日数でよくあれだけのアクションを撮り物語を撮ったという状況。そんなさまざまな思いや情熱が滲んでいるからこそ、400人を超えた観客がスクリーンに見入り、終わった後に拍手をしたのだろう。単館で始まりB級に埋没して不思議はない状況を抜きんでる力がある映画。初動はともかくこれからの上映に期待しつつ応援したい。それにしても凄まじかったのは舞台挨拶のフォトセッションで金子修介を囲んでi.Dollsの面々がポーズを決めた場面で、花井瑠美さんが金子監督の背後でピンと脚を挙げて立っていたこと。さすが元新体操選手。振り向けば何か見えたに違いない。何がとは聞かない。金子監督が見たかも知らない。


【9月26日】 ううん、TOKYO OTAKU MODEの頑張り具合については前々から遠巻きながらも見ていたんで、そこに国だかファンドだかからお金が出て、世界に日本のクールジャパンな文化を伝える窓口になってもらうことにまったくもって異論はなく、むしろ遅すぎたし少なすぎると感じていて、これを機会に商社でも銀行でも流通でも、どこでも良いから支援していって欲しいと思っているんだけれど、何というかこの国は力を持った存在が、王者として君臨してその高貴なる義務を果たすどころか、力を牙に変えてハイエナのように金に群がり弱者を蹴落とすのが普通らしいから嫌になる。

 クールジャパン機構と俗に言われる海外需要開拓支援機構の第1弾投資内容ってのが明らかになって来たんだけれど、そこでTOKYO OTAKU MODEに向かう3年で15億円の30数倍という510億円もの金額を、中国な寧波ってところに作るらしい日系最大級とかいう百貨店に注ぎ込んでは、クールジャパンな文化や物品を見せるショーケース的な活動を行うんだとかどうとか。いやちょっと待て、手を組むエイチツーオーリテーリングって言えば阪急グループという日本でも有数の企業グループじゃないか、海外にだって平気で出ていける財力がありながら、どうしてファンドから金を回してもらうんだ。でもってそれがいったいどれだけの成功を生み出すんだ。まったく訳が分からない。

 中国にだったら日本の少なくない流通企業が出ては、失敗もしつつそれでも頑張って地歩を固めてきたし、今だって飲食チェーンとかが出てはいろいろと苦しみながらも、それでも浸透しているという。なのにエイチツーオーリテーリングは510億円だなんて投資を受ける。もちろんそのすべてがファンドからの拠出ではないんだろうけれど、たとえ少しだってもらう謂われのないものを、もらってその分クールジャパンに相応しいところがもらえなかったりしたら何ともいたたまれない。マレーシアに三越伊勢丹が作るクールジャパンフロアだって19億円だなんてTOKYO OTAKU MODEより大きな額が注ぎ込まれる。それでTOKYO OTAKU MODEほど世界に向けてジャパンカルチャーを紹介できるのか、向こうが望む形で提供していけるのか。やっぱり意味が分からない。

 どうしてこうなってしまったんだろう。それはだから声の大きく力も強いところが泰然自若とせずにハイエナのごときに群がっては、自分のリスクをヘッジしてちょっぴりいい目を見てみようと思っているからなんだろうなあ。カバンに身ひとつで日本を背負って世界を飛び回っていた先輩たちに恥ずかしくないのか、なんて思ったりもするけれど、それが日本の今なら無理に改めるのも無理だろう。だからやっぱりあてにしないで頑張るところが自前で頑張り誰にも左右されないで、世界にその文化って奴を示してやって欲しいもの。きゃりーぱみゅぱみゅの所属するアソビシステムなんかが展開しているもしもしにっぽんなんかも、今のところお上からお金が出ている感じじゃないけど、それでも自前でやろうと盛り上がっている。だからこそ成功して欲しいなあ、28日のイベントとか。様子見に行こうかなあ。

 ゲートを超えた宇宙の彼方にある惑星では地球のように見えて地球にはもういない怪物が暴れ回っているのを、地球からゲートを超えていった人たちがパワードスーツのようなものをまとい迎え撃っては、人類の未来を切り開いているという。それはさておき地球では……ってなってあれれと肩すかしをくらった気分がまず涌いた神尾丈治さんの「エデンズ・エンド・エクスプローラー」(一迅社文庫)だけれど、戦場なり世界の果てで人類が危機に陥っても、学生は学生の本分として勉強と鍛錬に励んでいるのが普通の世の中。そう考えるなら彼方で使うパワードスーツを将来まとい活躍を目指す少年少女が、地球でもって平穏な中に学業としてパワードスーツバトルを繰り広げていて不思議はない、のかもしれない。

 いろいろと他用途だけれどそれを使うには切り替えも必要だったりするパワードスーツを、それでも父親が作ったものだからをまとい続ける主人公の少年。当然に他の特化した力を持ったパワードスーツに及ばず学校でもそんなに優秀な成績は残せていないけれど、それでも逆転を狙い少年は頑張り続けたそのかたわらには、かつて女王とまで呼ばれたジュニアチャンピオンの少女が、ポンコツと誹られている少年がまとうパワードスーツが良いとそのチームに入ってきてから1年。類い希なる才能がポンコツのために伸び悩んでいる様を周囲は気にして移籍を持ちかけるけれど、少女は頑として聞き入れようとしない。ひょっとして主人公の少年が好きだから? それもあるかもしれないけれど理由は他にもあって、それが物語の後半に分かってくるのがひちつの読みどころ。

 なるほど最強であることが幸福であるとは限らないってことで、そんな幸福を求める少女をなかなか理解できなかった主人公だけれど、汎用性があるゆえに脆弱なパワードスーツをどうやれば他より強くできるのかと考えたどり着いたチームワークという結論を経て、少女の思いってものを理解して共に歩んでいこうと覚悟する。実は隠れていた力が発動して圧倒的な強さを発揮する、ってご都合も混じった展開にはいかず弱いのは弱いなりに理由もあってそれが一朝一夕でひっくり返ることはないと示しているところに巷間。でもって使い方次第ではちゃんと強くもなるようにしてある部分も納得できるんで読んでいて頑張れと支えたくなり、自分も頑張ろうと思えてくる。いつかゲートの向こうへと行って活躍する物語になるのか、それとも驚天動地の展開に学生でありなが参戦していくことになるのか。見えないけれどもいろいろ考えられて楽しみ。僕たちは一人じゃない。そんな言葉を胸に続きが出るのを待とう。

 おおこれは。公開しているのにようやく気づいて最終日でありながらようやく行けた「鬼灯さん家のアネキ」を見終わったら大傑作だったじゃないか。また見たいのに単館で3週間の上映でもう終わりとはいったい何事だ。天下のKADOKAWAが何をしているんだ。そんな憤りも浮かんでしまったくらいに素晴らしい映画だった。それは青春の迷いと家族の絆と愛する意味とわかり合う意義を問うヒューマニズムに溢れた映画だった。夜明けの蒼い道で赤いテールランプがどうとかいった青春映画が大規模に上映されているけれど、それに匹敵するか以上の規模で公開されるべきだった。今からでも遅くないからそうしろって言いたいけれど、そうはならない映画の世界。ぐるりと回ってきて戻った横浜のジャック&ベティでの上映にまた行こう。

 原作の漫画の存在は知っていたし、ビジュアル面もチラリとは観ていたから映画としてはエロティックなところがあってそれを楽しむような青春コメディかと思っていたけど、そういうシーンもあるけどそれぞれに意味があったという展開にただただ感心。そういうビジョンで喜ばせるのは観客であると同時に映画の登場人物であって、あっけらかんとエロを繰り出す見た目の明るさが、時に上滑りして浮かぶギャップというかズレが実は大切で、そんなズレを合わせ重ねていく過程が物語として描かれていた、って言えば言えるのかな。だからみていて辟易とせず、頑張れって応援したくなったし、そこまでしなくてもって胸が苦しくなった。でもやってしまうところが“愛”なんだろうなあ、谷桃子さん演じるアネキのハルの。

 吾朗を演じた前野朋哉さんのあの童貞力はしかしいったい何なんだ。実年齢とか無関係に現役まみれの高校生に見えるし、茫洋としているようで繊細過ぎるそのキャラを完璧なまでに演じている。あるいは地か? それとも演技プランにのっとってのものなのか。名バイプレーヤーとなっていきそうだけれど、そういう役者が活躍する余地ってのをまだ映画界はもっているんだろうか。ビジュアル系で固めて飛ばす傾向が強まっているからなあ、最近は。そして谷桃子さんも天然エロスの間に見せる地の真面目さが、コントラストとなってハルってキャラを印象づける。健気だなあ。優しいなあ。そんなアネキを邪険にする吾朗最悪、って思わせるくらいの天使ぶり。映画祭の主演女優賞だって不思議はないけど、そこに連ねられるくらいの知名度がないのが何か悲しい。

 そして水野役の佐藤かよさんは、そうとは知らずに観ればそうだし、そうなんだと知って観ても分からないくらいに美少女してた。眼鏡が良いなあ。でもってそんな一方で、役柄として抱える心情の難しさ複雑さが、その属性も加味されて観る目に滲んで水野っていうキャラを色づける。つまりはキャスティングの勝利。それは吾朗にもハルにも言えることなんだけれど、キャスティングに限らず淡々としつつ面白い部分を混ぜて興味を引かせつつしっかりと家族の物語を描く演出も、それを感じさせる脚本も含めて完全に完璧な映画がやっぱり単館で小さく全国を回るのって理不尽極まりない。どうしてそうなってしまうんだろう。メディアが悪いのか観客が及んでないのか。いろいろ重なっているんだろうなあ。でももう観た僕はこれからは絶対に応援する。それでどうなるものではないけど頑張って応援して今一度、東京で観られる機会が与えられることを願おう。千葉でも良いけど。


【9月25日】 午後1時過ぎからセガネットワークスの発表会が恵比寿であるってんで次いでだからと東京都写真美術館をのぞいたら潰れてた、じゃなかった昨日をもっていったん閉館となったみたいでこれから2年のリニューアル期間に入る模様。また2年とは長すぎる気もするし、その間に展示品の貸し出しとかもしないってのは勿体ない上に文化的な損失でもあるんだけれど整理整頓とかもあるだろうから仕方がない。まあ近現代の写真ならきっと他ももっているだろうからそっちから借りることになるのかな、富士フイルムギャラリーとか。そういえば愛知県美術館の常設展に並んでいた日本の近現代の写真は富士フイルムギャラリーの提供だったっけ。もう写真美術館から借りられなかったんだろうか。

 東京都写真美術館といえば1990年に今ある場所からちょっとズレたところ、恵比寿ガーデンプレイスの外縁部あたりに仮小屋みたいな形でオープンした時に行ってからずっと通い続けている施設で、商業芸術を問わず写真といった表現にスポットを当ててコレクションをするという珍しいコンセプトで国内はもとより世界的にも珍しい存在だなあと思った記憶が今もある。国内に海外にコンテンポラリーに報道にといろいろと見ては勉強もしたし発見もした。たださあこれから世に出るぞといった写真家に関しては今ひとつ、ノリが悪かったような気もしないでもなく、ここで知って気が付いたら超有名になっていたって写真家はあんまり覚えがない。

 インキュベーターたるギャラリーと収蔵の場たる美術館の違いってことなのかもしれないけれど、そうした若手への視線をもっと強めて収集を強化していけば、この四半世紀の間に世界に冠たる美術館になったような気もしないでもない。その辺りは東京都外題美術館が担ってしまった感じかなあ。そうそう東京都写真美術館といえば途中、文化庁メディア芸術祭を開催してメディアアートに漫画にゲームといった、それまで美術館からオミットされていた分野の作品を世に展示して見せた場として大きな役割を果たしたっけ。あそこで僕は堀井雄二さんも見たし今敏さんとも合ったし北久保弘之さん安彦良和さんといった面々のお顔も拝見したんだった。

 それまでの文化長メディア芸術祭と言えば、新国立劇場の下とか草月会館といった場所での開催で、いわゆるアートの展覧会といった感じではなく際物のサブカルチャーを見せるイベントといった感じがどうしても漂っていた。それを東京都写真美術館が開いてくれたお陰で、メディア芸術祭は美術館で開くに相応しいイベントとなり展覧会として認知されていく。それが今の開催場所となっている国立新美術館へのと流れて、とてつもない来場者で賑わう隆盛をもたらしたって言えそう。写真美術館での開催を誰が働きかけたか分からないし、決断したのかも分からないけど、とても素晴らしい業績だったとここに讃えつつ、その2年間の沈黙を見守ろう。どんな美術館になるんだろう。

 さて恵比寿ガーデンホールで始まろうとするセガネットワークスの新作タイトル発表会を待っていたら耳に聞いた旋律が届いてきた。演奏はギターなんだけれどもその旋律はまさしく手塚治虫さんの漫画を原作にしたアニメーション「リボンの騎士」で冨田勲さんが作曲した主題歌。そんなCDが出ているんだろうかと気になっていたら続いて聞いたことがあるメロディが流れてきて、すぐい思い出せなかったけれどもやっぱり気になって手にしたiPadで検索したら押尾コータローさんの「LOVE STRINGS」だと判明した。そんなものを出していたんだ押尾さん。ほかに「ニューシネマパラダイス」があったり「いつか王子様が」があったりして映画音楽が中心なんだろうかと思ったけれど、そこに混じった「リボンの騎士」。選んだ理由は分からないけどやっぱり現代音楽の巨匠が残したあの旋律に、ミュージシャン魂が揺さぶられたんだろうなあ。CDとか今でも手に入るんだろうか。

 そんなセガネットワークスの発表ではいろいろとタイトルが明らかにされたけれどもその中では女性向けのアプリっていう「オシャレコーデGIRLS HOLIC」にちょっと関心。いわゆる着せ替えを楽しむような内容だけれど2000アイテムくらいが最初からあってそして毎月100アイテムくらい加わってアバターのキャラをどんどんと自分の思うようにコーディネートできる。でもってそれでコンテストに出たりスナップとったりして楽しんだり自慢したりといった感じに、自分自身を着飾れなくてもアバターを使ってファッションセンスってやつをアピールできる。そういうのが女性にとって楽しい遊びなのか、ってのは分からないけどアイテムに限りがある男よりはいろいろと試せそうな気がするなあ。出てきたら遊んでみようか。でもって知らずハマってそこから服を買って自分自身をコーディネート。ああ立派に「男の娘」だ。娘って歳でもないけれど。絶対に。

 あとはガチ魂(ダマ)バトルアプリゲームって何かとっても男らしい名前のついた「スカッズ〜最凶の絆〜」ってゲームかなあ、いわゆる不良対戦ゲームって感じでその名も我地魂(がち・たましい)ってこれまた男の中の男を粋そうな主人公の少年が、幼なじみで宿敵の男を追って、グループを作りたむろする不良たちを相手に戦うストーリーって奴を楽しめる。指先ひとつで操作できて必殺技まで繰り出せるという簡単さと、200人以上も登場する不良キャラクターたちのバリエーションが面白そう。なおかつ今や不良漫画の電動とも言える「少年チャンピオン」を抱える秋田書店とコラボレーションもしていて、完全コミカライズ作品が「別冊ヤングチャンピオン」で連載されたり、チャンピオンお抱えの人気漫画家描き下ろしのキャラクターなんかも登場する。もしかしてあの不良も? って期待も膨らむ。見たいよなあ、ブラックジャックや岩城や薔薇の進さまがバトルをする場面、ってそれはない。番長惑星も? 内だろうなあ。目下事前登録を受け付け中。ちょっとやってみようかな。

 どことは言わないけれど、他人のミスはとことん突っ込む癖に自分のところの過ちは決して認めようとしないどころか存在すら脳内から消え失せているらしい媒体の伝統あるコラムが昨今問題となっているイスラム国による暴虐ともいえそうな処刑について触れつつ、そんな事態を招いたのは「2011年末のイラクからの米軍撤退である」だなんて書いて、米国という抑止力がなくなったことに求めている。でもってお定まりのように「『軍隊がなくなれば、戦争がなくなる』。今も一部の日本人が信じる『平和思想』は、アラブで、いや世界で一切通用しない」だなんて言葉で締めて、平和ボケを窘めようと躍起になっているけどでも世間はみんな知っている。その媒体がありもしない大量破壊兵器の存在を信じ喧伝して、ブッシュ大統領のイラク侵攻を擁護したことを。

 イスラム国の暴虐とうとてつもない事態のそもそもの始まりは、それでフセイン政権が倒れその後の統治がままならなかったこと。いずれ排除するにしてももうちょっとやりようもあった筈なのに、そうはせず理由を捏造して面子を守ろうとした米国を、支持した新聞の自分たちの面子にこだわって大量破壊兵器なんて存在しなかったと分かった今も謝ろうとはしていない。そんな態度をすぐさま突っ込まれているんだけれど、聞きたくないことは聞こえない耳ばかりなようで路線が変わる節はない。そんな論調が世界的ソフト会社のオープンマインドという頚城をうけなくなって、さらに特化し濃縮していった先に来るのはいったい何だろう。オピニオンとは名ばかりのライトな言葉が集まる場所だとしたらその先に来るのはどうにもやりきれない未来のような気がするけれど、さてもどうなる10月以降。


【9月24日】 実は見てなかったりするんだけれど1979年のサンリオによる人形アニメーションによる「くるみ割り人形」、そのリニューアルというかフィルムを綺麗にした上に3D化してそしてきゃりーぱみゅぱみゅの舞台なんかをデザインしている増田セバスチャンさんが監督を務めた「くるみ割り人形」を見たらこれがなかなかにしっかりとした人形アニメーションで驚いた。多くがオリジナルに依るとして、その印象について言うなら1979年だからとてつもなく昔って訳でもないんだけれど、かといって新しさの中に安さがのぞくようなことはなくってチェコだのロシアだのといった人形アニメーションの雰囲気を造形でもストーリーでも感じさせつつ1本の映画として見られるようになっていた。

 その映画を元にして編集とかを加えたのが増田セバスチャン版の『くるみ割り人形』は所々に新しい映像をちゃんと撮り下ろして付け加えたそうで、なるほどきゃりーぱみゅぱみゅであり増田セバスチャンといった感じの極彩色でキラキラとしたビジョンってのがそこかしこに見られるようになっていた。あと2Dのアニメーション部分を付け加えたそうで、クララがくるみ割り人形になってしまった王子様をかかえ旅をする中で、本当の愛を探すようなストーリーを変幻するアニメーションによって表現していた。それは極彩色でもサイケでもなくどこか上品な感じのアニメーション。本編から乖離することなくとけこんでは視線を明るく幸せなビジョンの中に引っ張り込んでくれた。

 キャスティングも素晴らしいの一言。オリジナル版を見ると杉田かおるさんがいて志垣太郎さんがいて西村晃さん益田喜頓さん藤村有弘さん藤村俊二さん森山周一郎さんといったお歴々が並んでいるけど増田セバスチャン版は「思い出のマーニー」でマーニーを演じてピュアな少女の雰囲気を感じさせてくれた有村架純さんがクララとして想像力が豊かで思いやりも深い少女をしっかりと演じきっていたし、王子の松坂桃季さんもその凛々しくて優しい声で王子様っぷりを醸し出していた。そしてロッセルマイヤー他を演じた市村正親さん。やっぱり巧いなあ。優しくて厳しくてクララに弱くてそれでもやっぱり頼もしい老人だったり町で出会った不思議なおばあさんだったりを完璧以上で演じてみせる。本人が演じてもきっと同じくらいの表情を見せただろうけど、人形であってもその演技がただでさえ豊かな人形の表情をもっと強く豊かにする。凄いなあ。

 ふたつ頭の白ねずみの女王が広末涼子さんだとは気づかないくらいのハマりやくで嫌な女王の怖さをしっかり感じさせたし、その息子の王子を演じた藤井隆さんもボンボンなボンクラぶりが完璧に出ていた。巧い巧い。そして以外な登場の板野友美さん。奔放で我が儘なお姫さまって奴がこんなに似合う声だったとは。地かどうかは知らないけれども聞き所。王子様が可哀想になってくる。そんなお姫さまに弱い王様は吉田剛太郎さん。嘉納伝助の。やっぱり巧い。元がシェイクスピア役者あけあって王様役はお手の物。そんな声優陣の頑張りをたっぷりを味わえるって意味でもこの映画、見て置いて損はないかも。オリジナル版との違いも比べてみたいけれど、どれだけ増田セバスチャンぶりが発揮されているのか、絢爛としたビジュアルではなくストーリーの部分でどんな勘案が働いているのか、それを知るにはやっぱり見るしかないかなあ、オリジナル版。

 川本直さんという人が書いた「『「男の娘』たち」って女装男子について書かれた本を買ってさっと見たらなかなか深かった。カジュアルに女装して綺麗さを見せてにんまりといったコスプレ感覚とは一線を画して、異性装をする人の心理的な部分での男性女性といった部分について検討があったりするようで、どうしてそれでも今「男の娘」なのかといったあたりに踏み込んでいるような内容に読めた。どこかの新聞の記事がカジュアルだなんて言葉を使い流行っているから流行っているんだといった風の紹介になっていて、それで自分もやってみました綺麗でしょって感じだっただけに心配したけど、そこは問題意識を持って書かれた本だけあって、業の深さで比べ物にならない内容になっていた。あの新聞記事はふみふみこさんの漫画「ぼくらのへんたい」だってあっさり紹介してたもんなあ、三者三様の”女装”にある心理なり事情なりが重要な漫画なのに。とはいえ浅くても新聞記事はメジャーな言説となって広まり易いだけに悩ましい。取りあげる側の意識にもっと深みが欲しいけど、今って記者までお手軽にカジュアルだからなあ。困ったものです。自戒を込めつつ。

 神戸で発生した女の子の行方不明事件はいたましい結果となってまずは亡くなった子に黙祷、そしてご家族に哀悼。あれだけ住宅が密集していて人通りもあっただろう夕方に人がひとり消えてしまってそして10日くらい経って遠くではなくまさに現場で遺体となって発見される事態はやっぱりどこかコミュニティに穴とか影とかがあるんだろうかと思えて仕方がない。見つからないものなのか。そしていなくなる場面とかに誰も居合わせないものなのか。他人への関心が希薄になっている状況で誰がどうなっても目の端に止まらなかったりするのかもしれない。というか熱意を持った関心が逆に疑惑を招いてしまう風潮すらある中で、誰もが無関心を決め込もうとすらしているのかもしれない、そんな状況が招いたこの結果を糧にして、何か始まってくれないのかと願うのみ。それが亡くなった子への供養にもなるだろうから。合掌。

 なんだかなあ、と思った大河ドラマ「花燃ゆ」への池田秀一さんのナレーションとしての出演に関する報。ほとんどがシャア・アズナブルでありシャンクスの声の人がドラマにナレーターとして登場しては若いアニメ世代なんかを引っ張り込んだりガンダム世代を招いたりしそうってストーリーになっていたけどでも、池田秀一さんといえば名作中の名作「花神」に役者として出演しては、ちょうど「花燃ゆ」でヒロインとなる吉田松陰の妹たちの1人が結婚した久坂玄瑞が、禁門の変を起こして鎮圧されてもう行き場がないってとこころで自刃した、まさにその場面に居合わせ差し違えた寺島忠三郎を演じていた。その意味ではとっても因縁の深い番組への出演な訳だけれど、そうしたことにはまるで触れていない記事がだいたい。シャアが大河といえばアクセス稼げるって分かっているけど、でもやっぱり役者として38年を経て声とはいえ大河ドラマに出演することについて触れてあげるのが、池田秀一さんという希代の名優への敬意ってものなんじゃないのかなあ。芸へのリスペクトより自分たちの商売が大事というこの風潮。たまらんなあ。


【9月23日】 組み体操で下が潰れて大変問題は、柔道の授業で亡くなる子供が出て大変といったニュースにも増して、あちらこちらで取りあげられ始めた様子。名古屋大学の内田良准教授がずっと問題にしていたことだけれど、ここに来て話題に上り始めたのはどこかが記事にしたから後を追いかけるところが出るという、メディア的なブロックバスターが起こっているからか、やっぱり問題として大きいとどこもが関心を持ったからなのか。多分前者だろうなあ、でなきゃずっと問題になっていたことが、急にこうまで取りあげられる訳がない。どこかが叩けばどこかも叩いて、それで全部が叩きに回るという連鎖反応。そしてなおかつそれは叩きやすい方面に限られるという。

 だって内田准教授といえば、柔道の授業で事故が起こって死傷者が出てくる問題について、ずっと前から警告を発していた人。そして柔道を含めた武道が学校の授業で必須科目となってしまうという、安倍ちゃん的風潮が立ち上ったにも関わらず、内田さんを前線に立てて逆風を吹かせるようなことは起こらなかった。メディアが安倍ちゃんに遠慮したのか、それとも安倍ちゃんの施策にメディアはもともと大賛成だったのか、分からないけどやっぱり逆らいたくなかったんだろうなあ、権力に。だから今も柔道の授業は行われていて、きっとどこかでいろいろと問題は起こっている。いずれもっと増えるだろう。

 対して組み体操は別に授業でもなければ必須科目でもなく、学校の先生が生徒を煽って自慢作りのためにやらせていたりすること。中には生徒が“自主的”に自分たちならではの記録を打ち立てたいと頑張っている所もあるかもしれないけれど、そういう時に危険性を感じて止めるのが大人たる教師の役目なのに、特にそうした動きはなくって学校自慢のためか煽り立て、それが全国に広がる気配すら見えている。いずれ大事故も起こりかねない状況に拙いと立ち上がった内田准教授の声が、これは早く届いて広まったってのが今。それはそれで幸いだけれど、果たして止まるのか、何十回も球を投げる高校野球の投手の頑張りを止めず讃える風潮にまみれた世間で、生徒の自主性であり青春の思い出を盾に取られて世間は止めに入れるのか。そんなところが問題になって来るんだろうなあ。でもって柔道は武道で授業だからお咎め無しと。不思議な世界に生きている。

 大泉学園の東映アニメーション本社横に「東映アニメーションギャラリー」が出来たのは、20003年3月29日のこと。振り返って読んだ当時の日記によれば展示物としては「白蛇伝」から始まった東映動画の歴史を振り返るような重要にして貴重な品々が並べられ、アニメーション史的にはそれこそ“国宝”と言っていいような品もゴロゴロとしていて見て感涙にむせんだみたい。だって手塚治虫さんの「西遊記」や「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」の絵コンテだよ、後に虫プロダクションを作って自分でアニメーション制作を始める手塚さんが、まだ当時はディズニー好きの1人として日本に立ち上がった“東洋のディズニー”を“世界の東映動画”にするべく、その才能を注いでいた。そんな時代の空気を感じて今(といっても10年前だけど)を思って隔世の感を得つつ、これからのアニメを考えてみたくなるミュージアムだった。

 あとは当時は俳優が演技した姿を見るなり撮影するなりして、それを参考に絵を描いていたことも記録写真として残されていたようで、当時の日記に「『安寿と厨子王丸』の時にもやられたみたいで、スチールにはちゃんと鎌倉だか室町だか戦国だかな衣装を着てそれっぽい舞台の上で演じる俳優さんたちが映ってる。メンバーはあの山田五十鈴さんに佐久間良子さんに東野英治郎さんに平幹二郎さん。潮建児さんもいたり子役だった頃の風間杜夫さんも本名でライブアクションに出演していたとか」って感想が書かれている。今もそうしたライブアクションを元に描くアニメもあるし、ロトスコープといって動きをなぞって絵にする作品もあったりするけど、たいていはアニメーターの想像の中でキャラクターが動き演技する。それは演劇や実写を離れた独特の感性をそこに現出させ、目にも新しいビジョンって物を見せてくれることに繋がったけれど、一方で基本となる動きが背後に下がって、見せかけの格好良さだけが伝承され、どこかいびつな絵ばかりになってしまっている、って言えないこもなかったりする。

 3DCGが入ってきて、動きを立体的に設計しなくちゃいけなくなった時、どうやったら人なりキャラクターなりが動いているように見えるか、ってことを達成するにはやっぱり人や動物といったものがどう動くかをちゃんと描けないといけなかったりする。それが出来ている海外のアニメーターは、3DCGへと移行してそしてピクサーしかりドリームワークスしかりの世界が納得する3DCGによるアニメーション映画ができあがったけれど、日本では、キャラ化してしまった動きに慣れた目に合わせて再現しようとして、そこに無理が生じてしまっているような気がしてならない。ちょっとリアルに振られると動きにぎこちなさが見えてしまうっていうか。だからキャラ風に特化するんだけれど、それだと動きのバリエーションが乏しくなる。勢いとノリで見せられないから。

 だから、やっぱり今一度、基本に立ち返って人なりの動きをまず理解し動物なりの動きをスケッチして観察して頭に叩き込むような教育をしないといずれ、日本のアニメーションもどんどんと突飛な方向へと走って、ガラパゴスとなって壁に当たるなり陥穽にはまるなりしてしまうのかもしれないなあ、なんてことを振り返りつつ思ったりもした東映アニメーションギャラリー最後の日の見物。どうやらあの一帯が建て替えになるそうで、ギャラリーは9月23日をもっていったん閉鎖となってしまう、その最終日ってことで大泉学園まで見に行った次第。一時期は割と新しめの展示も増えていたギャラリーが歴史を振り返るってことで、「白蛇伝」とか「シンドバッドの冒険」とかいった昔の作品の展示に代わっていて、初日に見た感動を今一度味わうことが出来た。同時に今との違いも。

 とはいえ会場に流されていた、例えば「サイボーグ009」であったり「宇宙海賊キャプテンハーロック」であったり「銀河鉄道999」といった作品の映像を見るにつけ、テレビサイズでテレビクオリティの作品だって、フルアニメーションとして描かれた作品に劣ることはなく、多少の同時代的に見た感傷があるとはいえ、それはそれでやっぱり優れたアニメだって印象を醸し出していた。フルだリミテッドだではない何かがきっとそこにはあったんだろう。それが動きへの飽くなき探求心であり、手慣れていない中で懸命に足掻いて作り出された絵の持つ力なのかどうなのか、分からないけどでもやっぱり、今のアニメに溢れた時代に逆に失われつつある熱量を思うと、彼我の差ってものについて改めて考えてみたくなる。ギャラリーが再開したらそういった比較検討に繋がる展示が行われると良いなあ。

 そんな東映アニメーションギャラリーにいたら、とんでもなくとてつもないアニメーターの人が歩いていて仰天。作画が汗まみれになっている人、って言えば分かるだろうけどそうでない人のためにぶっちゃけるなら大塚康生さん。あの「ルパン三世」で作画監督とかを務めた人で、杉井ギサブローさんを鍛えたくらいに長い長いキャリアを誇っている人が、とことこと歩いてきて普通に受付をして中に入っていくから驚いた。顔パスでも良いのに。っていうか所長が出迎えるくらいの御大なのに。そうでないところがこの国のアニメーションに対する文化的価値の状況であり、一方で東映アニメーションにとって日常に近いくらいとけ込んでいる人ってことの現れなんだろう。そんな神様の登場にサインをもらい、ルパン三世と次元大介の絵を描いてもらっていた熱烈なファンがいて、羨ましいなあと思ったけれど僕もと声をかけるには人間が臆病すぎた。ただ眺めるだけで後で後悔に歯がみしているけれど、それも僕の人生だから仕方がない。3年後のギャラリー再開で大塚さんに再会できることを願って。偉大なアニメーターに最敬礼。

 そして東京国際フォーラムへと返して「ミュージックエナジー2014」を見物、スペースクラフトってモデルさんとかシンガーが所属している事務所で、主に歌を唄っている女性ばかりが集まってのライブイベントで、メインどころではKalafinaの3人が登場して短い時間の中に充実の歌声を聞かせてくれたけれど、その大トリ前となるトリを務めたのが春奈るなさん。ANIMAXがずっとやってたアニメミュージックのコンテストで、優勝ではなく決勝に残った1人だったけれど、やっぱり持ち前の歌声とかルックスが認められてか、デビューを果たしたと思ったら、あれよあれよという間に「物語」シリーズとか「ソードアート・オンライン」の歌とかを唄ったりして、アニソンシンガーの中心に立つようになってしまった。凄いなあ。

 これが事務所のパワーなのか、本人の才能なのかは分からないけれど、少なくとも才能は十分。だってKalafinaを筆頭に梶浦由記さんのライブでステージに立てるくらいに歌の巧い人がそろったステージに立って遜色がないなんだから。それだけの逸材をきっちりと抑えて売り出したスペースクラフトってやっぱり凄いのかも。というか歌に対する姿勢がちゃんとしているのが良いのかも。声優さんだって巧い人は大勢いるけどどこかキャラソン化した中に安住してしまいがちになるものが、ここではシンガーとしてひとり立ちできないとやっていけない訳で、そこでしっかりと地歩を固めているってのは、やっぱり本人の才能があったってことになるんだろう。12月にワンマンを渋谷公会堂でやるみたいなんでのぞいてみたい気が。ゴスロリな女の子たちがいっぱい集まりそうなんで怖いけど。

 そんな「ミュージックエナジー2014」でやっぱり嬉しかったのは、ボンボンブランコというラテンなアイドルという極北を行っていたグループにいたサントス・アンナさんがソロで登壇しては、ボンブラの「∞Changing∞」を歌ってくれたこと。「ヤマトナデシコ七変化?」の主題歌として耳にも馴染んでいたし、あと石丸電器のフリーライブでも確か見た記憶もあった曲だけに、懐かしさが浮かんであのポップで弾けたサウンドが今、どうして聴けないんだろうかってことへの郷愁も募ってきた。勿体ないけどでもそれがユニットの宿命だから仕方がない。サントス・アンナさんは歌声にさらに磨きがかかってレリゴーとか歌って伸びやかな声を聞かせてくれた。その歌唱力ならずっとシンガーを努めていってくれそうで、その中でボンブラの曲も聴かせてくれると期待しよう。ところでサントス・アンナさんって楽天の美馬楽投手と結婚してたんだって。今知って驚き。どういう繋がりがあったんだろう。面白いなあ。

 遅れ気味に「サンリオSF文庫総解説」のトークイベントを見に青山ブックセンターへ。登壇者に池澤春菜さん西田藍さんがいたりするゴージャスなイベントであったことも良かったけれど、終了後にそんな2人も含めた主だった執筆者がサインをしてくれたことに驚いた。横に並んで順繰りにサインをいれていく様はアイドルグループの握手会の用。でもって握手会ならさっと剥がされるところをサインだから書き終わるまではその前から動かないで澄む。これは嬉しい。とりくに池澤さん西田さんの前は。他の人は……SFファンとしては嬉しいかな、山形浩生さんと柳下毅一郎さんが並んでサインを入れる場面なんておそらくこれから一生見られるものではないんじゃないかと思われるし。最初から聞きたかったけれどボンブラにKalafinaに織田かおりさん春奈るなさんサントス・アンナさんおがまなこと小川真奈さん結城アイラさん宇浦冴香さんで楽しんでいたから仕方がない。次は何か別の文庫の総解説で執筆者が揃いトークイベントを開かれるのを待とう。でも何の総解説? ハヤカワSFシリーズじゃあ多すぎるし国書刊行会ではマイナー過ぎるし……ジグザグノベルズ……誰も覚えてないよなあ。


【9月22日】 ジャスコといったら八事ジャスコで、平針にある家からだと地下鉄が平針まで来る前は、荒池から栄え方面に行くバスか、平針小学校前から光が丘方面へと抜けるバスに乗って八事で降りるか、車で向かうしか行きようがなくって、とても気軽に行けるようなところではなかったけれど、行ったらそこはパラダイス、地下には寿がきやがあって美味しいラーメンを食べられたし、多分1階には本屋さんがあって「スター・ウォーズ」のムックなんかが並んでた。そして上にはファッショナブルな服が並んでいて、ビッグジョンとかボブソンなんて目の眩むようなブランドを横目に、ジーパンなんかを買ってもらっては喜んでいたっけか、引っぱると伸びるような素材の。

 だから分かる、ポー姫が言った「おお、ジャスコ−そこに行けばどんな夢でも叶うという、どこか遠くにあるユートピア……。偉大な海賊王が、この世のすべてを置いてきたという……」とジャスコを例えて讃えたその真意が。美味しい食べ物に満ちあふれた桃源郷にして夢のような品物に目が眩む黄金郷。それがジャスコ。あるいはジャスコなる言葉で言い表されるショッピングモール。すっと歩けばそこに百貨店があってスーパーがあってコンビニがあるような街に生まれて育ち暮らしている人には、絶対に分からない感覚だけれどでも、そんな人ばかりがこの国に暮らしている訳ではない。だからきっと伝わるだろう。そして読んで頷くだろう。これが田舎だ。いや日本だ。そしてこれがジャスコだ。ジャスコなんだと。

 なんて語気を荒くして語りたくなってしまう小説が伊藤ヒロさんの「女騎士さん、ジャスコ行こうよ」(MF文庫J)。っていうか今はジャスコも全部イオンになっていて、八事のジャスコもイオンになっているご時世に、何でジャスコなんて言葉を引っ張り出したのかが分からないけれど、でも「女騎士さん、イオンに行こうよ」だとどこか先端的だけれども圧倒的ではない「ジャスコ」という言葉に込められた意味合いがすっとんでしまう。超巨大なショッピングモールにはちょっと及ばないけれど、それでも田舎にあっては大都会に等しい煌めきを放ち、あらゆる品物が揃っているようにすら見える場末のトップランナー感を、「ジャスコ」っていう今はないけどかつてあったブランドなら表現できるって気がする。

 例えジャスコが今もあると思い選びつつ使って良いのかなあと臆して編集に聞いてもらって、ジャスコはもうないイオンに代わっているんだとやっと分かったという経緯があったとしても、そんな記憶に染みついて物語を紡がせるくらいにジャスコには深い意味があるってことなのかも。さて本題。とあるファンタスティックな王国があってオークに攻められお姫さまが騎士の女性を連れてゲートをくぐってやって来た先が、岐阜県の東端にあって人口が873人とかいう平家町。そんな町あったっけ? ってそこはライトノベルでフィクションだから気にしない。

 でもって平家町って町名もひとつの伏線になっているから気にとめておこう。そんな町に気絶してやって来ていたポーリリファ姫と騎士のクラウゼラを拾ったのが瀬田燐一郎という高校生の少年で、田舎だからそこらへんによくとめてあるリアカーに2人を載せて祖母と暮らす家へと連れ帰ると目を覚まし、女騎士が姫を守ろうとして暴れたりもしたけれどとりあえず事情は伝わったようでそこに亡命政府を樹立するとお姫さまは宣言する。もう大騒ぎ……になるかというと、そうはならないところが、SFファンでもファンタジー好きでもない燐太郎やその祖母が驚きも慌てもしなかった理由と繋がる。そしてちょぴり妙な街にあって、ポー姫は日々の娯楽を求めてネットやテレビに耽溺したいけど出来ないと暴れ、そして夢が詰まったジャスコに連れていってと転げ回る。そんな話。

 面白いのは現代文明のただ中に放り込まれたファンタジー世界の姫と騎士とが文化のギャップに戸惑い暴れるってところではなく、そうしたものを知り尽くした上で自分たちの田舎過ぎる境遇を変えようと立ち上がってみたものの、いろいろと壁にぶつかっていくといったところ。それは現代の社会に問題として指摘されている田舎の過疎化であり恒例化であり、そして大型店舗の出店に伴う弊害といったもの。社会派的なニュアンスをそこに込めつつ描かれる展開の向こう側に、人は物に満たされたら幸せなんだろうかという問いかけがあって考えさせられる。そりゃあ、あった方がいい気はするけど、そればかりでもないからなあ、ってのは八事のジャスコに行くしかなかった昔も、割に楽しかった自分だから言えることか。今の満たされた生活に慣れた人にはやっぱり大変なのかも、ジャスコがないと。どうやら陰謀もうごめいているみたいでこれからの展開に興味津々。何が起こるか。そしてポー姫は秋葉原に行けるのか。ちょっと楽しみ。

 あらあらまあまあ。朝日新聞がちょっと前に「男の娘」を記事で取りあげていたことがあったけれど、そこで使われた文言について女装の研究をしている三橋順子さんがツイートでもって「『後ろから2つめの段落、まったく私の本(「女装と日本人」)のパクリではないか…」って書いていたりしてちょっと驚いた。読むと三橋さんが指摘している記事の当該部分は「古来、日本は異性装に対しておおらかな国柄だったと言われる。古事記にはヤマトタケルが女装して敵を討つ場面があるし、歌舞伎の女形は江戸時代の大スターだった。明治期以降、西洋的な価値観の流入で女装への抑圧が強まったが、戦後の混乱を経て復活。女装に寛容な風土のもと、ビジュアル系をはじめとする独特の文化が育まれてきた」って感じ。

 これがそのままだとしたら、どうして「三橋順子さんの著書によると」って書いておかなかったのかな? って不思議になる。別に自分の発案として書かなくてはいけない文章でもないのに。文章で挙げられた抑えたポイントがきっと同一で、それで分かったんだろうけれど、一方でどうして三橋さんの指摘に頼りすぎたんだろうかって気にもなった。異性装とかに感心がある人なら三橋さんのは分かりやすいけどすべてではないって感じるはず。ヤマトタケルはひとつだけれど、他にも「とりかへばや物語」や巴御前に出雲阿国とがあってそこから元禄の野郎歌舞伎へと繋がっていく。女形が賞揚されたから日本は女装に寛容になった、って発想は実はあんまり生まれてこない。あれは結果だから、公序良俗を取り締まる動きの中から生まれた、仕方が無しの。

 それに日本だけが寛容って訳じゃなく、世界の神話を調べれば異性装なんて実はわりとありふれていたりする。ギリシャ神話のヘラクレスなんてずっと女装していたくらいだし。それから戦後に寛容になったって言うけど現実はやっぱりずっと厳しかった。美輪明宏さんだってカルーセル麻紀さんだって特異な目で見られながらも戦って来たし、そうした先達を受けて新宿二丁目のお姉さまたちがテレビに出ては小馬鹿にもされながら自分たちを貫き通してその存在を認めさせ、認識のハードルを下げてきた、そんな流れがひとつあった中に生まれたある種の寛容さを、現代のポップカルチャーの隆盛をもってのみ語ろうとするから本当に苦労して来た過去を持つ人たちの愁眉を誘っている。そこに気づかないと良い記事は書けないと思うのだけれど、朝日が書けばそれが真実になって歴史になってしまうんだよなあ。ちょっと困った。でもどうしようもない。せめて遠吠えでもして周辺の狭い範囲からでも認識を改めさせよう。

 いやあ何というか9割7分が女子の観客という映画あるっていうだけでも驚きだけれど、それが劇場アニメーションだってことにもやっぱり驚き。アニメだサブカルだてのに女子はどちらかといえば背を向けていた時代から幾年月、今は劇場のアニメに女子が足を運んで当人たちも平気だし、周囲もそれが普通だと思い認めるようになっている。アニメを見る男子が遠巻きにされ罵声を浴びていた時代から見て何という変わり様。これは女子の裏切りではなく女子にも面白さが伝わるアニメが増えて溢れてきていっれことの現れだろう。喜びたい。でもって映画はインターハイの最後までやらずまだ2日目。三つどもえのゴールスプリントが始まろうとしているところでテレビも映画も終わったけれど、ここまでのおさらい的な映像でも映画館に集まって見たいと考える女子がいっぱいいることは、やっぱり驚くしかなかった。そういう時代なんだなあ。しかしインターハイはどっちが勝つんだ。単行本読めば一発だけれどそれをしない自省が、快適さより段取りを求める年寄りならではのものなんだろう。ともあれ好スタートを切ったみたいでまずは善哉。いずれ後編も映画館で見させてくれれば嬉しいけれど。さてはて。


【9月21日】 そうそう静岡県立美術館で20日から始まった「美少女の美術史展」で、前に展覧会をやった青森県立美術館とそれから今度やる島根県立石見美術館のキュレーターの人が静岡県立美術館のキュレーターと並んでトークイベントを行った時に会場に出展者の1人という村山加奈恵さんが来ていて登壇したんだけれど、その作品というのがいわゆるセルフポートレートで黒いバックに背中を見せた村山さんが裸で座り、周囲を造花みたいなのが埋めてそしてそんな大きな1枚の周囲を小さい写真が埋めているといった感じのもの。前に旧INAXギャラリーで今はLIXILギャラリーってとこで開かれた展覧会にも出品されていたみたいなんだけれど、その時は見逃していたから今回が僕にとっては初見ってことになる。

 何でも周囲の小さいカンバスに写し出されている花みたいなのは着け爪というかネイルアートを行うときの素材で作られているそうで、それを大きく伸ばしたか何かした作品はキッチュでグロテスクなんだけれど同時に静謐で深淵でもあってと不思議な存在感を醸し出している。人工的な生命感とでもいうのかな、そんな得体の知れないものに囲まれて座り込んだ村山さんは物憂げでどこか儚げで神経質そうにも見えて虚無的にも見えるこれもどこか人間離れした感じ。だから当然に当人もそうしたナイーブで内向的な人かと思って静岡県立美術館の人が会いに行ったらこれが逆に明るくて陽気で楽しげな人だったというから驚いたというか、人は作品によらないというか。トークイベントに登壇した村山さんも少女展に併せて少女っぽい格好で眼鏡までかけての登場と、場に合わせて雰囲気を盛り上げようとする外向的な感じがその佇まいから放たれていた。

 でも作品はあんな感じというか実に端正で構造的。今道子さんという魚とかを使ってファッションのアイテムを作りそれを写真にとってグロテスクなんだけれど静謐なオブジェをそこに現出させる写真家の人が前にいたけれど(今もいるんだろうけれど)、そんな人をどこか思わせる雰囲気があって今後の飛躍が気になったし、今もいったいどんなものを現在進行形で作っているのかが気になって仕方がない。それより何より当人が美少女。っていうか「美少女の美術史展」というタイトルの展覧会に当人のセルフポートレートが入っているってことはつまり静岡県立美術館でありアート界が“公認”した美少女ってことになる訳で、その姿をどこかで見られる機会があるならまた見たいと誰もが思って当然だろう。個展とかあるのかな、グループ展でも構わないけど。10月18日にトークイベントに出た学芸員の3人がそろって東京まで来て青山ブックセンターでイベントを開くそうなんで、その場にも現れるかなって期待も浮かんだけれど当日は別件で行かれないのだった。残念。まあその才能なら遠からずどこかに現れてくれるだろう。応援していこう。

 青山ブックセンターのイベントでは多分Mr.の作品が表紙になった図録は売られるんだろうと思うけれど、気になるのは弥栄堂/塚原重義さんが監督した短編アニメーションの「女生徒」が収録されたDVDが東京でも売られるか、ってことかなあ、僕は会場で2枚買って1枚はどうするか決めてないけどさっそく1枚を開いて見たらやっぱり素晴らしくって何度も見返してしまったくらい。とりわけやっぱり遊佐未森さんの語り口が良くって、自分の眼鏡姿にいろいろ迷って悩んで喋る「たどん、と思うと、がっかりする。これですからね。ひどいですよ」の辺りとか、そのトボけて嘆きつつ開き直ってもいるような声音とか、繰り返して聞き返してしまいたくなる。

 DVDならそれが出来るけど会場ではループ上映なんでその場面とあと、終わりがけに眼鏡をとって雨戸を閉めるシーンとかを見るために頃合いを見計らって上映場所まで行くようなことまでしてしまった。眼鏡っ娘は眼鏡があってこそ美少女なんだけれどでも、眼鏡を外してもやっぱり美少女なのだという典型みたいなその姿。炭団とは酷いけれども黒い眼がぽっかりと見えるその表情をこの眼に刻みつけたくって会場では立ち止まり、そしてDVDでも何度か見返してしまった。もしも東京で売る機会があるならそれを逃す手はないと大声で叫んでおきたいけれど、こんなマイナーな場所からいくら叫んでも世間には届かないのが残念というか月50万円を稼げないウェブ日記者の悲哀というか。

 まあでも塚原重義さんのツイートによれば11月のデザインフェスタでも出展して販売するような話が出ていたんで、そっちに行ける人は行くのが吉。何しろ首都圏から1番近い今ですら静岡駅からバスで30分という三保の松原か日本平かてな場所にあるから行くのが結構大変。ましてや石見なんて松江からだとどれくらかかるんだ、萩の方が違いじゃないか的な場所が次になってしまうから、見たい人はまずは目先のトークイベントで、次はデザインフェスタの情報に炭団のような目を光らせておくべき。見ないと一生損するぞ。

 最終日くらいはのぞいておこうと「東京ゲームショウ2014」の会場へ。こういう時に船橋からだと1時間かからず着けるから便利。んでもって会場内はそれなりに通路も広くとられていて、スペースに余裕があった感じだったけれども午後になるとそんな通路にも人があふれるくらいで大盛況に。聞けば最終的に25万人が来たそうで、50万人が3日で集まるコミケに比べれば少ないって思われそうだけれども初日2日目がビジネスデーってことを考えるなら2日で20万人は有料イベントで幕張という土地柄を考えれば結構な数。つまりはそれくらい今もなおゲームが人気のエンターテインメントなのか、っていわれるとそこがちょっと分からないから悩ましい。

 なるほど「ポケットモンスター」に「マリオカート」に「大乱闘スマッシュブラザーズ」といったゲームは売れに売れているけど、そうした商材は訳あってかゲームショウとは無縁。でもって人気の上位に来る「バイオハザード」や「メタルギアソリッド」だって国内ではミリオンとか届かなかったりするタイトルで北米みたく数百万本が売れるって訳ではないし、何か世論を喚起してカルチャーの中心にあるような空気感も醸し出していない。例えばこれが「進撃の巨人」とかだと漫画が売れてアニメになってアニソンも評判になってとさまざまなメディアで喧伝されるけど、ゲームでそこまで行くのって今どれだけあるだろう。そう考えるとやっぱりエンターテインメントの中心を行くとはちょっと言えない。スマホは? ソーシャルは? ってなるとうん、確かに売れて会社が儲かったりするものはあってもやっぱり文化史に何かを残すようなものにはまだ至っていない感じがする。

 そんな状況でありながらもイベントを開けば25万人がやってくるというこのギャップ。でもって蓋を開けてみれば収益も決して昔ほどの万々歳状態ではないという世評とのシンクロぶり。試したい確かめたいという思いはあっても遊びたい至りたいという欲求には届かないところをあるいはゲームって存在が漂っている現れなんだろうか。いろいろ考えてみたくなる。今一度文化の華として表舞台に出てくる可能性なんかも。その切り札にいわゆるVR眼鏡がなるかっていつとなあ、やっぱりホビーの領域なんだよなあ、タイトル的にも雰囲気的にも。Oculusが登場してモーフィアスが追いかけてってな構図の中でそれがメインカルチャーとなり得るか否か。あの任天堂ですら撤退を余儀なくされた3Dの領域に今ならマシンパワーと映像の力で食い込んでいけるのか。興味はあるけどでもやっぱり、ホビーの世界に止まりそうな気がするなあ。それ着けて歩けないもん、外を。むしりだから可能性はあるのは透過型のARの方かなあ。研究したい。

 そんな東京ゲームショウで見て感嘆したのがSUPERBって会社が出してたスマホ関連グッズの「PUKKAR」。それは何かといえばお風呂でスマホを楽しむためのスタンドで、空気をいれてふくらませる枕みたいな製品なんだけれど枕みたいに平らにはならず中程から折れまがってくの字になってそして浮かべると座椅子みたいな形になってそこにスマホとかタブレットを立てかけられるようになっている。後ろにひっくり返らないか心配になるけれど、空気の入り方とか重心とかを研究してあってちゃんとしっかり浮かび続ける。もちろんスマホなりタブレットは防水のために袋にいれておく必要があるけれど、そうまでして持ち込みたい人が結構いたりするって状況を鑑みるに案外需要もあるのかも。映像とか再生させながら体のあちらこちらを触ったりもできるし。どんな映像を見てどこを触っているかは内緒。いやだからマッサージのハウツー映像だってば。


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