縮刷版2014年9月中旬号


【9月20日】 京まふ、とやらに行こうとも考えたけれど、東京都は方向も逆なんでやっぱり当初の予定に従って新幹線のこだまに乗って静岡まで行って、静岡県立美術館で今日から始まる「美少女の美術史展」ってのを観ることにしたけれど、到着した静岡駅で美術館行きのバスがちょっと来なかったんで、すぐ駅前にあるこちはら静岡市美術館に入って「山本二三展」ってのを見物する。言わずと知れたアニメーションの美術監督で、スタジオジブリとかで「天空の城のラピュタ」や「火垂るの墓」や「もののけ姫」を手掛けたり、それ以前から宮崎駿監督と「未来少年コナン」をやったりなかむらたかし監督の「ファンタジックチルドレン」をやったり、杉井ギサブロー監督の「グスコーブドリの伝記」を手掛けたりしたアニメーション美術の大重鎮。その作品が出先で観られる幸運を逃す手はやっぱりないよね。

 ってことで観た展覧会は、「未来少年コナン」だとギガントの操縦席なんかがあったり「死の翼アルバトロス」や「さらば愛しきルパンよ」の背景があったりと懐かしくて目が眩む。「ファンタジックチルドレン」は自然と建築物が入り混じった感じが「天空の城ラピュタ」と重なっているかなあという印象。そういうのが得意な人なんだろうとも思ったけれど、「火垂るの墓」では終戦間際の街を克明に描いているし「時をかける少女」でも商店街とか学校とか現代にある風景をそれらしく描いている。何が得意ってんじゃなく何でも手掛けてそれらしく見せる、まさしくアニメーション美術の人っていった印象を受ける。研究熱心でスナップとかいっぱい撮って参考にしていたみたい。「時かけ」の踏切とかある風景はなるほどこういう写真がああいう画面になったのかって思わせる。

 面白かったのは、「時かけ」のポスターのビジュアルになってる、坂道から下がった踏切の前で真琴たちが立ってたりする構図の美術原画では雲の形がちょっと違っていたこと。こんもりと描かれていたそれがポスターだとちょい尖って上に伸びていた。構図を考える上でそうした方が相応しいと描き直したみたい。だからこそそうではない原画で絵を見られるのは貴重かも。奇跡の一本松とか東日本大震災を受けての東北の話とかも企画しているみたいでこれからの活動が楽しみ。藤崎慎吾さん「ハイドゥナン」のイメージボードっぽいのもあったけれど何か動いているのかな、プレートには「企画中」になっていたけど。「企画倒れ」とは書かないか。動いて欲しいなあ企画。

 さてもバスに乗って30分ほどかけて静岡県立美術館へ。途中で東静岡駅を経由してグランシップを見て相変わらずでっかいなあと感嘆したけど、ここで世界SF大会をやるとなると宿泊が別だったりしてちょい狭いような気もしないでもないような。もっと巨大なコンベンションホールがないと、アートショウとかディーラーズといった企画が回らないんじゃないのかなあ、パシフィコ横浜はそのあたり、ホテルがあってホールもあって展示場もあったから全部まかなえたけど静岡では。ちょうど近所に巨大なキラキラとした宇宙船のような建物が造られていて、これが展示ホールなら十分って気もしたけれど、ホールはホールでもいわゆるアミューズメントの古典としてのホールであり、キャラクタービジネスの最先端を行く施設になるみたいで使えそうもない。そこに案内してたら或いは楽しんでもらえるかもしれないけれど。「イチマンエンスッタ」とか言って喜ばれたりして。

 そして到着した静岡県立美術館で見た「美少女の美術史展」は青森県立美術館でやられていた時と基本、出品物は同じだけれどところどころ圧縮されていたり増えていたりちった感じ。会場も違えば並べ方も変わって、そこで提案の仕方も少し変わるのも当然だし仕方がないか。浮世絵もあれば源氏物語の昔のような絵もあれば、大正昭和の双六の絵もあり少女小説とかの挿し絵もあり、中原淳一さん蕗谷虹児さんといった往年の少女画の作家の作品もあり、内藤ルネさん水森亜土さんがありといったイラストもありといった感じに美少女として思いつく美術館的な作品を取りそろえつつ、アニメキャラクターのフィギュアだとか漫画の場面とかも区別せず、テーマでもって揃えて昔の絵なんかと並べているところが斬新というか。それが西洋美術ではちょっと思い浮かばない、古来より続く日本人と日本文化にとっての少女なり美少女といったものへの向き合い方の共通性、そして底流をいく感性みたなものを浮かび上がらせているような気がした。

 そんな中でやっぱり気になったのが、最近の現代アートとかに観られる美少女像と、そしてフィギュアとかアニメーションとかに観られる美少女キャラ。それは裏表のような関係で、文化としてポップカルチャーが蔓延りそれを受けて育った世代が、アートとしてポップカルチャーの文脈なり意匠なりを取り入れる連鎖が起こって立ち現れてきたものだったりして、決して切り分けは出来ないんだけれど、日常空間ではやっぱり別のものとして捉えられているものがこうして同一の空間に並べられているのが画期的。そんな作品ではやっぱりMr.の描く巨大な美少女画が凄かった。これでもかって感じに美少女たちをその意匠とそして衣装も含めて描きまくって巨大なカンバスを塗り込める。それも上っ面ではなく多層的な感じに重ねていき、言葉も添えたりしてあってひとつの美少女的空間って奴をそこに作り上げてみせる。

 チラシの裏とかレシートの白いところとかに1人づつ、ひたすら美少女を描いていた20年とか昔からの思いが積み重なって到達した現在、日々の鍛錬とそして美少女への熱い思いが絵を巧くした上に立体感すら与えてしまった。あれは平面だけれどひとつの彫刻なのだ、Mr.というアーティストによる美少女というモチーフの。それに比べると師匠の村上隆さんによる「6・Princess by Takashi Murakami for Shu Uemura」 ってアニメーションは、いわゆる魔法少女でありプリキュア的な意匠を借景した中に成り立たせたパロディでありリスペクトであって、それらをとうの昔に超えてきたMr.の熱量には、ちょっと足りてないって気もしたけれどでも、こうやって最先端の意匠をアニメーションに取り入れ、ボーカロイドも乗せてアートの中に置いて見せたりする手の素早さは村上さんの真骨頂。同世代でやっぱり少女がモチーフになった奈良祥智さんや会田誠さんが展覧会に呼ばれていない中でただ1人、名を連ねているってのもそうしたところに理由があったりするのかもしれない。

 なんつって。これは展覧会場で行われたトリメガ研究所というこの展覧会を企画した青森県と静岡県と島根県の県立石見美術館の学芸員さんたちが、トークショーの終わりで静岡県立美術館の館長さんから聞かれて答えていたことだけれど、名前で人を呼べるようなアーティストは今回避けようってことになって、奈良さんは外れ会田さんも村上さんも外れたんだけれど、集めてみてKaikaikikiって村上さんが手掛けているファクトリーに所属しているアーティストが多くいて、そこで繰り広げられた交渉の中で村上さんの作品も展示が決まったとか。なんだバーターか、って思われそうだけれどでも、それだけじゃない新しさと熱量が、村上さんの作品にあることはさっきも書いたとおり。だからこそあの場に並んでいても遜色ないし、多くが足を止めてその映像に見入っていた。名前だけじゃないビジュアル的な何かがそこに感じられた現れだろう。だから村上さん、まだまだ自分を誇っていいと思うよ。Mr.にタカノ綾さん青島千穂さんんobさんに美少女で負けてないって胸を張って良いと思うよ。

 展覧会ではあとやっぱり感動したのがアニメーション。前回の「ロボットと美術」ってテーマの展覧会では、ロマノふ比嘉さんがアニメを手掛けて話題になったけれど、今回は長さも15分とたっぷりに弥栄堂/塚原重義さんがかの太宰治の名作をアニメーションにした「女生徒」って作品を作って会場で上映している。淡々とした女生徒の独白による日常描写心情描写が小説の要になっているとすると、アニメ版はそんな少女の独白を受けてアニメーターが想像の翼を伸ばし広げて幻想と妄想の混じったビジョンって奴を作り上げていた。同級生の女の子が木魚になっていたり都電で見かけたうるさいおばさんが雌鳥になっていたりと、言葉を受けてビジュアルにした時の作家的な工夫ってものがそこかしこに込められていた。観ていてそうかそう描くのかって勉強にもなるし感動もする、そんなアニメーションに仕上がっていた。

 そんな幻想性の一方で、女生徒の日常に着る服とか街の光景なんかはシリアスでリアルに描かれていて、時代性ってものをしっかりと感じさせてくれる。リアリティの上だからこそ浮かび上がり広がるバーチャルの浮つかないビジョン。その間合いが実に良い。そしてそんな映像を言葉で語る遊佐未森さんの朗読が最高で、どこかトボけているような感じもあり、凛としている強さもあったりする声が映像について語られると、キャラクターで主人公の眼鏡をかけた少女の存在がよりいっそう生き生きとしてくる。そして好きになる。もしかして主人公は今年のアニメーションにおいて屈指の美少女キャラであり眼鏡っ娘キャラかもしれず、そしてベスト声優女性編に遊佐さんが入ってもおかしくないかもしれない。どうだろう、そういうレースに乗ってくる作品だろうか、キャストだろうか。分からないけど傑作であることは確かなのでみんな観よう、静岡県立美術館へと行って。僕はDVDを買ったから家でじっくりと見る、すり切れるまで。

 気持ち悪いなあ。毎日新聞で専門編集委員をやっている与良正男さんが、耳障りが良い言葉ばかりが並んでいる新聞に気持ちよさを感じている社長の話を枕にしながら、それってどうなのと突っ込みつつ、気持ちよさに走った新聞たちによって流された世界がどうなったかについて、「日本が真珠湾攻撃に踏み切った時、それまでリベラル派だった知識人の多くも『これですっきりした』といった爽快感を日記などに記しているのを思い起こそう」と書いて、時流に乗りすぎることへの警告を発している。それは実に的確なんだけれど、そこで取りあげられた新聞の編集長氏が気持ち良くって何が悪いと言い返しているコラムが出てきて、自分の意見にマッチする言説で埋め尽くされることを賞揚している。これがどうにも気持ち悪い。

 雑誌なら良い。あるいはウェブサイトのような場所なら、特定の言説ばかりが並んでもそれを元より好きこのんで読んでいる人たちのための媒体だから、慰撫になって何も悪いことはない。あるいは新聞もそうした言説で埋め尽くされて何が悪いって話なのかもしれないけれど、与良さんが警句を発しているのはそうした言説があらゆる新聞に広まり、言論空間が埋め尽くされてしまう状況に対して。特定の1紙が何をやろうと咎め立ててはいないのに、そうした文脈を読まないのか読めないのか、自分たちの言説が真っ向否定されたと思って筋違いの反論を、諧謔さとはちょっと外れた言葉で締めて繰り出すその感性がどうにも居心地が悪い。

 状況が読者に気持ちが良いならそれを伝えるにやぶさかではないけれど、気持ちよさを先取りして事実ではないことを重ね連ねていって良いのかって話。とはいえそうした言論と向き合う厳格さとは無縁のスタンス。だから生まれるんだ、いて欲しくない人の訃報をそうなった時の快楽に流されるかのように早々と載せてしまったりする無茶を。気持ちよさとは何なのか。それを伝えるということはどれだけの厳密さが求められるのか。そして、気持ちよさに答え過ぎ気持ち悪いことから目を逸らさせ続けた世界がかつてどうなったかを振り返り、状況をどう伝えるのかってことを考えて欲しいんだけれど、そういう考えはちょっとなさそうだしなあ、自分たちの気持ちよさを第一にして、それを支持する内輪にのみ発信していく縮小均衡。結果は? それは見てのお楽しみ。楽しくないんだけど。


【9月19日】 そして気がついたらスコットランドがグレートブリテン及び来たアイルランド連合王国に残ることが決まっていて、喜んで良いのかどうなのか当事者じゃないから分からないけれども、疑問に思ったことがひとつ、ネッシーはどっちに投票したんだろう? そりゃあ誰よりも古くからスコットランドに住んでる身としては、やっぱり独自の国家として歩んで欲しいと賛成に投票したくなっただろうけれど、一方で独立なんかされて経済が悪化したら、観光客だって減って餌とかもらえなくなって、それからノベルティグッズも売れずロイヤリティも入らなくなって生活が困窮してしまうから、やっぱり独立に反対したのかもしれない。どっちか聞いてみたいけど、最近会った人の話を聞かないからなあ。それとも投票所ですれ違った人とかいたりするのかな。「最近どうなっしー」「ふなっしーにはかなわないっしー」。そんな会話があったとかなかったとか。

 帰省したところで同窓会とかある訳でもなければ、誰かに誘われる訳でもないんで勝手にひとりふらふらと名古屋を散歩する日々。今日も今日とて地下鉄を乗り継ぎ名古屋大学へと向かって、「日本バーチャルリアリティ学会」の一般公開ってのを見物する。昔は八事あたりからバスに乗らないとたどり着けなかった名古屋大学前だけれど、今は地下鉄の名城線がぐるりと大曽根方面から回って、新瑞橋まで繋がった途中に東山線の本山を抜け鶴舞線の八事を抜けるようになっている。その途中に名古屋大学駅ってのが出来て降りればすぐ目の前が豊田講堂っていう交通至便な学校になっていた。こりゃあ偏差値も上がるわ。ってまあ前から高かったけれど、今もなお全国的に高い水準にあるのかどうかはよく分からない。東大京大阪大と違って何かやっぱり特徴に欠けるんだよなあ、名大。

 ああでもノーベル賞はいっぱい出ているみたいで、日本VR学会の開かれていた棟に続いたところにノーベル賞の記念館みたいなのが出来ていて、そこに最近ノーベル賞を取った3人の人の業績なんかが飾ってあったり、ノーベル賞のメダルが置いてあったけどあれはホンモノなのかどうなのか。触って囓った訳じゃないから分からない。チョコレート味がするかどうかも。そうそうノーベル賞といえば2008年に名古屋大絡みの3人が受賞して、2010年に化学賞が出て2012年に山中伸弥さんの生理学・医学賞が出てと2年ごとに日本人の受賞者が出ているから、2014年の今年は誰か受賞してくれるかも。それが文学賞の村上春樹さんになる可能性もない訳じゃあないけれど、未だ現役のベストセラー作家よりも地道に活動して来た人が受賞して欲しいなあ、村上さんはが受賞するとどこかの号外が1年を経てスクープになってしまうし、それはちょっと避けたいし。なんて。

 んで日本VR学会の一般公開では、もっぱら学生さんたちによる国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(IVRC)なんてのものを見物。あちこちから面白いVR装置を持ち寄ってみてもらって投票してもらうって試みで、ここで勝ち抜いたものが東京の日本科学未来館で開かれる本戦に出られるというか、そんな感じ。それだけにどこも気合いが入っていたけれど、そんな中で幾つか触って面白かったもののひとつが慶應大学のPenTechってチームが出していた「ヒキワラシのいる庭」。土から頭を出しているニンジンを抜こうとするとなかな抜けず、それでも抜こうとすると下で引っぱられる。何かが抵抗しているらしい。そして無理して抜くと抜けるけど叫び声とか聞こえる。その叫び声を聞いた者は死んでしまう……ってマンドラゴラかよ。

 いや別に叫び声は聞いても死なないから、犬に引かせて自分は耳を塞がなくても良かった。詳しい機構は分からないけれど、下で抜こうとする力を受けて抜けないように絞る機能なんかが付いているって感じかな。VRっていうとどうしても映像としての仮想現実を思い浮かべてしまうけれど、現実空間に仮想の反応を作り出すって意味でも立派に仮想現実で、それを装置でもって顕在化させたって意味でこの「ヒキワラシのいる庭」はひとつの可能性を見せてくれた。VR眼鏡ばかりが人気な中でそうでないアプローチを見せたって意味でも評価したい。下で抜けないように抵抗する力を電動ドリルで作り出していたのも面白かった。いろいろとアイディアを盛り込んでいるんだなあ。いつかまた試してみたいけれど、果たして結果はどうだったんだろう。

 個人的には大阪大学のチーム「烏龍茶」が出していた装置の方に興味を引かれて投票してしまったんで、こっちの行方も気になってる。というか「烏龍茶」のが残ったかどうかも分からないけれど、こちらもやっぱりVR眼鏡とか使わないインタラクションでもって何かを表現しようとした装置。水に浮かぶ油に細胞みたいなのが投影されてて、そんな小さい油を集めて大きくしていくと細胞が寄り集まって、やがて一定の大きさを超えると動物になるという、そんな作品。ラーメンだか何かを食べたあと、どんぶりに残ったスープに浮かぶ油をいじって大きくして遊んだりした子供の頃を思い出させてくれたところが評価のポイントになった。

 サイズを下から計測してその大きさに会わせた絵をその位置に投影し、やがて大きくなったら別の映像を投影する、って仕組みなのかな。インタラクティブ性のあるメディアアートへと発展させられそう。どんなアイディアを乗せられるだろうか。ちょっと考えてみたくなった。大阪大は「渡る世間は綱渡り」ってのも出していて、これはコンベアの上を手にバランス棒を持ちVR眼鏡をかけて歩いて綱渡りを体験するという装置。結構楽しそう。ただVR眼鏡だと足下見えないからコンベア上を棒もって歩くとバランス崩す心配。だからこそ綱渡りなんだけど。シミュレータとして使える、かな、綱渡りの。使用する人少なそう。

 筑波大のTKB@DEEPってチームが出してた掃除機の作品も、VR眼鏡を使っていないタイプで、床の映像として出てくるものを手にした掃除機で吸い込んでいくという内容。ほこりとかすぐに消えるけど、西瓜とか雑誌の束はしばらく当てておかないと吸い込めない。そして、吸い込んでいく時にパイプ部分がゴトゴトしたり手に感触があったりする。吸い込みノズルの先端にセンサーがあるんじゃなく、ノズルの位置を読んでそこに投影されている映像を動かしているって感じかな。パッと見では分からないけどいろいろなアイディアが盛り込まれているって感じがした。でもって掃除機を開いてパックを取り出しひっくり返すと、吸い込んだものが戻って映し出されるといった具合に、バーチャルでもってリアルを再現させている。そこが良かった。こだわりがあってこそ仮想って仮想に終わらずリアルさを感じさせてくれるものだから。

 東京工業大の「だらけハプティクス」によるヴィブロスケートは、スケボを左右に揺らし進行方向を決めつつコンベアを蹴ると目の前の映像の中を進んでいけるという装置。アミューズメントマシンにバーチャスノボみたいあのが既にあるんで驚きはしなかったけれど、自分で蹴って進んでいく部分はそうした機器とは違った部分。だからただ滑降するだけじゃない、自分の足で探検したり探索するような場所を設定すると特徴が生かせるかも。やや映像を見下ろすような位置に写してエアボードで飛んでいるような感覚を感じさせるってのもありかなあ。話を聞いたのはそんなところ。あと見ただけだけど、早稲田大の「チーム太平洋育ち」が出してた雪の上を歩く感じを再現する装置が長靴に機会を取り付け踏むとたぶん雪の中に潜る感じを再現しているっぽくて面白そうだった。これもいろいろな場所を歩くシミュレーションに使えそう。泥沼とか。地獄とか。

 日本VR学会では学生じゃない企業なんか大学の研究発表の展示もあって、豊田中央研究所が出してた自動車の運転中を娯楽の時間にする提案というのにSFを感じた。シリアスに考えると運転時は運転に集中して、脇目もふらずスマホも操作しないのが第一だけど、将来、自動運転が広がれば話は変わってくる。だって何もしなくて良いんだから。そんな時間はただの暇な時間、それを楽しくするには、移動中にセンサーが見聞きしたものを運転者にフィードバックさせればいいと考えたのがその装置。センサーの情報をビジュアルなりサウンドなりに変えて体感さえるという模索をしていた。今は自動車の運転をほっぽりだしてって非難されそうだけれど、何十年後かには当たり前になっているシチュエーションを、今から想定しておくのが発明であり科学って奴なのだ。

 でもってそこから連想したのは、これを例えば戦闘機とかに応用したらどうなるんだろうかってこと。戦闘って基本的に人殺しな訳で、やってるほうは心理的な負担も大きい。遠くからミサイルをぶち込むだけなら自分の手を汚した感じはしないんじゃないかと言われても、やっぱりアクションが結果を招いたことへの感情は残る。それを払拭するような仕組みをもしかしたらこの研究が生み出すかも。パイロットを閉鎖空間におしこみセンサーの情報を娯楽的な快楽的なものにしてパイロットに伝え、それに応じるなりすることで戦闘機を操縦したり戦闘したりする。楽しい気分を味わった後、気がつくと相手は全滅していたという。そんな未来が正しいかどうかは別にして、可能性としては考えられるだけにそうしたテクノロジーがもたらす何かって奴を、ちょっと考えてみたくなった。うまく何か思いつけばSFになるんだけれど僕にはアイディア不足でストーリー不足。なので誰か考えてみてはいかが。

 莫迦だろう、こいつら。鯨を食べるのは日本の文化だから自民党本部の食堂に鯨のメニューを加えますっておいおい、それで世界がはいそうですね鯨は日本人にとって不可欠なものなのですね分かりました捕鯨も認めますなんて言うとでも思っているのか。たとえ文化であってもそれが今の潮流からそう思われるのかを忖度し、行動するのが世界に生きる文明国ってものの利口な振る舞いで、それに反するような行動を取るのは世界への野蛮な挑戦に他ならない。あるいは人間の叡智への。いくら反知性が自民党の流行だからって、ここでそれに輪をかけるようなことをしてどうするんだ。せっかく水産庁が必死に「調査捕鯨は、鯨類の調査のために行われているものであり、鯨肉を販売することを目的にして行われているものではありません」と取り繕っていたのが、食文化だすなわち食うことが目的だなんて世界に喧伝するとかいったいどういう思考回路だ。誰か止めなかったのか。止められる人がいたらこんな惨状になってないよなあ、景気も文化も。やれやれだぜ。


【9月18日】 こっちは本当にこの為に帰省した山下達郎さんのマニアックツアーを見に行こうと実家を出たけど、夕方のスタートまで大分時間もあったんで、さてどこへ行こうかと思案して旧愛知青少年公園にあるらしい「サツキとメイのいえ」でも見に行こうかと思ったものの、ちょっと遠すぎるしチケットとかどうなっているか分からないからいずれまたの機会にと諦め、そこへ行く途中にあってちょっと前、東京の番組でぐっさんと横山剣さんが訪ねて騒いでいた「トヨタ博物館」に行こうと地下鉄を乗り継ぎ藤が丘へ。その地下鉄に金城学院大学のチアリーディング部っぽいダッフルをかかえた女子が乗っていたんだけれど、格好が長めのスカートにブラウスで上にカーディガンをはおるといった超お嬢様スタイル。そんな子がチアリーディングの時にはあの衣装になるのかと思うと胸も高鳴る。

 いったいどんな感じに変わるんだろうかと興味も湧いたけれど、何しろ女子大なんで忍び込むなんてとうてい無理だし、応援に駆り出される競技を見に行くことも東京からではちょっと難しそう。全国大会に出て来るような競技もあんまり聞かないしなあ。ってか女子大でチアリーディング部が応援するのって、やっぱり女子のチームってことになるのかな、そんなシチュエーションを考えるとそれもそれで汗まみれの応援とは違った豊潤な香りが漂い、なおいっそう興味が浮かんでくる。案外に応援団的気質を男女問わず受け継いでいて、硬派な応援を繰り出し選手を叱咤激励していたりするのかもしれない。まあどうで見る機会なんてあり得ないんで、夢のある想像をするに止めておこう。

 さて到着した藤が丘から初めて乗ったリニモとやらに学生っぽいのがいっぱい乗ってたけれど、途中の愛知学院大とか愛知県立芸大とかがある駅で大量に降りた感じもなし。まあ学院は巨大な駐車場があるんで学生もたいていは車で通っているからリニモなんて使わないのかもしれないし、芸大もまだ休みかもしれないで学生っぽいのは旧青少年公園へと「サツキとメイのいえ」を見に……はさすがに行かないか、遊びに行っただけかなあ、それとも八草の方にさらに大学とかあったっけ、猿投山も近い密林の中にいったいどんな大学が。愛知も変わったなあ。

 さてトヨタ博物館は開館した時に取材に行ったからちょうど25年ぶり。当時がどんなんだったかを詳しく覚えている訳じゃないけれど、相当に古い車がわんさか並んでいたって記憶はあって、それを頼りに改めて、館内を見渡してなるほどこういう車が確かに当時からあったなあと拙い記憶を掘り起こす。例えばルーズヴェルト大統領の専用車だったというパッカードトゥエルブ、だっけ何だっけ。星条旗とか大統領旗とか立ってて目立ってて遠くからだってそこに大統領がいるって分かって狙われそう。防弾ガラスとかで囲まれている訳でもないし。まあRPGとか向けられないから別にそれでも良かったんだろうけど。

 ほかにもブガッティとかフォードとか古めかしいスタイルの車もあれば、映画にもなったタッカーの特徴的なフロントマスクをした車なんかもあって、よくもまあ集めも集めたもんだと改めて感心感嘆。すごいのはそれらが全部動態保存になっていて、動かそうと思えば動かせるってこと。部品だって存在しないものもあるだろうに、どうやってって思うけれどもそこは世界屈指の自動車会社が運営しているだけに、部品だっていろいろと融通が利くんだろうなあ、3Dプリンターを使ってワンオフで作るとか。技術の面では今どきの電子制御バリバリの車を触っている人にはとても扱えそうにもない気もしないでもないけれど、逆にトヨタ博物館にある車なんかを見て原点に立ち返ることで、新しさなり基本なりってものを感じて今の設計に活かせるのかな、分からないけどそうあってほしい、当時のあまりに個性的な車に触れて今の没個性極まりない車を恥じて、もっと楽しく美しい車を作って欲しいだけに。

 3階とかに回るとそんな思いはさらに切実に。戦前から戦後のスペシャルな車たちがカッコイイのは当然として、1960年代70年代といったあたりに作られていた車もそれぞれに個性があってスタイリッシュで乗りたい、触りたいって思わせるビジュアルをしていた。今のどれ乗ってもいっしょじゃん、なんて言いたくなる車たちとは違う雰囲気ってものをそれぞれの車が持っていた。ブルーバードにフェアレディZにいすず117クーペにマツダコスモスポーツにトヨタ2000GTにホンダシビック等々。それこそカローラとサニーといったモータリゼーションを一気に進めたファミリーカーまでもが個性ってものを持っていた。

 そんな時代を見知ってしまうと、誰だって今の車が途端につまらなくなって来るはず。すぐに新しいことをやれるって訳じゃないけれど、何か紙一重の差異ってものをつけて心を動かそうとする企みを、設計者が抱くようになれば嬉しいんだけれど一方でコストだのってものがついてくるから難しい。むしろ個性を殺して他から乗り換えを誘うようなマーケティングにすらなってしまっている。世知辛い時代に入ったなあ。それはうん、新館の方に展示してあった車とそして会わせるように紹介されてた文化なんかを見ても浮かんできたこと。ホンダシビックのバックには新聞の全面広告って奴が壁の3本に張り出されてそして手前にはポータブルテレビが並べられて昭和30年代40年代のCMを流してた。

 思ったのは、当時はまだ新聞ってのが新製品を紹介するに相応しい媒体だって意識がクライアントにあったこと。それを見て人々も製品のスペックを知り買いに行こうと決めていた。やがてテレビCMが出てきてより広く伝えるメディアとして、そして人口に膾炙されるようなムーブメントを作り出すメディアとして、テレビが重宝されるようになるけれどそれでも新聞はテレビでは伝えきれない情報をテレビと同じビジュアル的な雰囲気もつけて届ける媒体としての地位を保っていた。それが今では、新製品の情報が新聞に載るなんてあまりなく、そしてスペックとかも新聞広告で語られることはない。そういうのは雑誌を経てネットへと向かってしまった。

 テレビでCMを見てネットで広告に触れる暮らしの中で、新聞の広告なんてどれだけ必要か、って考えた時に新聞広告がネット広告に敗れ、そんな広告に頼っていた新聞が衰退していくってのも当然かって思えてくる。過去の栄光って奴をそこに感じさせつつ今に愕然とさせる展示。見るといろいろ感じるところがあるんで近くの人は行ってみよう、ソニーのポータブルテレビとか見ると、別の意味で時代の変化って奴を感じさせられるかも、とんがった品を出していた企業の今の体たらくぶりが強く浮かんでくるから。

 同じコーナーには別に昭和30年代40年代の漫画雑誌をバックに飾ったコーナーもあったけど、驚いたのが子供が自衛隊の装備といっしょに写り、微笑んでいる号が結構あったこと。当時は別に自衛隊も教育の敵ではなく子供の憧れとしてスポーツ選手とかと同様に受け入れられていた。それがいったいいつから教育関係から目の敵にされるようになったんだろう。1970年代になるのかなあ。そうなる過程でいったい何があったんだろう、どういう組織的な動きが巡らされたんだろう。日教組とやらが組織化されて反戦教育に乗り出したのってその辺りになるんだろうか? でもあんまり記憶にないや。PTAが騒いだ? それもあんまり。でも都会と田舎じゃあ事情も違っていたかも。美濃部都政のあたりの東京でどうなっていったか考えてみたくなって来た。

 午後1時過ぎには出て栄あたりにまわって丸栄スカイルの上にある「コモ」で今日も今日とてあんかけスパ。今日はピカタ。650円は安いよなあ、ここん家は全体に安くてお昼時からサラリーマンも来ればちょっと外して女性の客も食べに来る。丸栄スカイルって昔はそれこそファッションのテナントも詰まっていたけど今は100円ショップにブックオフにユニクロにGUといったいどこのスーパーかって感じ。栄のど真ん中でそういうテナントでなければ入らず維持できない状況っていうのはやっぱり何か、景気全体に停滞から衰退の影が見えているってことなんだろうか。景気が良いっていう名古屋ですらこれななから。どうしたものか。

 そして去年はきゃりーぱみゅぱみゅを観た白鳥のセンチュリーホールで山下達郎さんのマニアックツアー。これで3本目にして個人的には打ち上げの回。東京に戻るみたいだけれどそっちは取れなかったから。演目としてはだいたいいっしょでちょっとだけ「潮騒」を演奏する時間が長かったかな、パルテノンではイントロだけだったしNHKホールでもそんな感じだったから。あと声が時々引っ掛かっていたような、「WAR SONG」と「シャンプー」でそれぞれ1カ所。ちょっと気になったのはそれだけ音を外さない歌声が続いていたからで、それだけでも凄いんだけれどだからこそ気になった。2日目だからお疲れか。でも良いライブ。ぬかりない選曲。あらためていうけど聞き慣れた人には全然マニアックではないんで怯える必要もなければ妙な期待をし過ぎる必要もなし。ああこれかこれだよって気持ちで聴こう3時間とあと少し。次は普通のツアー。取れるかな。取りたいな。チケットを。

 朝日新聞への袋叩き状況がもたらす活字文化やジャーナリズムへの弊害を憂い、諌める池上彰さんのコラムをしっかりと載せたり、叩くにしても例えばデアゴスティーニの資料持ちだしや任天堂の社長インタビュー転載と言ったファクトを掘り出し、いかがなものかと指摘して叩く週刊文春と、起こったことへの非難を百田だの櫻井だのといった反朝日人総動員で文学的に叩く週刊新潮の差異ってなんか、いろいろ重要な気がするんだけど、ジャーナリズムなり週刊誌の未来っていったものを伺う上で。

 文学的な非難なんていくらやったところでそこに新しい発見なんてないし、生まれるものもない。そして苛烈な言葉にもやがて慣れた大衆めがけてより過激な言葉が濃縮されて投げかけられては一時の快楽を呼び起こすスパイラルに陥るだけ。それを支持されていると勘違いしたらさらに未来は狭まって、金のかかる取材とかを減らし引っぱってきたファクトに対する文学的な言葉の創造のみをもってページを埋め尽くす繰り返し。来たついたらマニアしかついてこなくなっていたという、まるでどこかの新聞のような常態に陥る。いやもはや新聞ですらないか。日刊正論+共同ニュース。そんな感じ。

 週刊新潮がそういう道を目指しているかは分からないけれど、日刊正論がウェブ正論へと発展していく感じのiRONNAへの参加とか表明していたりするあたりに右へ右へと極めつつある雰囲気ってのが見て取れる。それを活路にしたいってんなら別だけれど、一方で新潮社は文学もやってるしサブカルだってノンフィクションだってやっている総合出版社。偏り濃縮された論壇に身を浸らせて果たして良いのかって懸念がある。

 そして一方の雄とも言える週刊文春は、あれで山谷えり子大臣の記念写真問題を書き誰ですかと知らん顔した大臣をそれで国家公安委員会委員長が務まるのかと皮肉ったり、別の女性大臣が初登庁の出迎えが少なかったと引き返した話を書いて安倍政権から距離を保ってる感じ。それは文芸春秋も一緒。今の状況を諸手を挙げて歓迎している感じではない。リベラル、とまではいえないけれど保守でもどこか中道を目指している。左に触れる訳じゃないけど右にはまる感じでもない。そんな2つの生き方が未来にいったい何をもたらすか。あるいはやっぱりと足下を見直して週刊新潮がジャーナリズムを取り戻すか。今がおそらくは分水嶺。百田だ櫻井だといった、いかにもな面子がそういうだろうってことを載せてその界隈の溜飲を下げさせる繰り返しがもたらす隘路って奴を、感じて引き返してくれれば嬉しいんだけれどなあ、週刊誌好きとして。


【9月17日】 ようやくやっと物草純平さんの「ミス・ファーブルの蟲ノ荒園(アルマス・ギヴル)4 」を読んだらマルティナが可愛かったよいじらしかったよ。3巻で敵方だと判明して学園が汲んだ合唱団から離脱して、そしてパリを壊滅に追い込む蟲を蘇らせる側に回って秋津慧太郎や魔女のアンリや騎士のクロエらと向かい合ったけれど、そこで相手をしたのはマルティナを友達として信じていたアンリ。ミニハットをプレゼントもしたりして仲も結構進んでいただけに、裏切りを怒り許そうとしないのかと思いきや、そこは傍若無人が服を来て歩いているような女の子だけに、マルティナを上から目線で罵倒し説得もしつつ手を差し伸べようとする。

 ほだされたかやっぱり心は嬉しかったかマルティナは、帽子を叩き返すどころか飛ばされようとした帽子を追っ手身を危険にさらしてしまう。それを見てアンリが助けに回って2人の仲ははい元通りになったかというと、そこはやっぱりパリに多数の被害を出して平気でいられるマルティナではないようで、蟲を世にはびこらせようとしている連中の企みをひとり追ってアメリカへと渡ろうとする。それを追っておそらくはアンリと慧太郎とクロエの新たな旅が始まっていくことになるんだろう。勿体ないのは慧太郎がクロエ相手に女装だとバラしてしまったことだけれど、それにピンと来てない感じのクロエ。ついてる女性の存在に心を馳せているってことは、それを信じさるための女装は続くか。侍の格好なんて別に見たくないものなあ。そこら辺はだからよしなに。

 そしてこれを見たさに名古屋へと帰省した、ってのは半分嘘だけれど半分以上は本当な「これからの写真」を愛知県立美術館まで見に行く。お目当ては鷹野隆大さんによるヌード写真集へと向けられた権力による圧力の結果。って、そこまで思想弾圧的なものではもちろんなくって、アートか否かといった問題から切り離された法律の上での猥褻か否かといった判断を、とりあえず法治国家の上で行われるイベントでのことだからと、アートの側が受け入れたってことなんだけれど、それでも本当に法律的に猥褻なのか否かってあたりをもうちょっと、突き詰めてみても良かったかなあって作品を眺めてそう感じた。だって別にセクシャルでも何でもないんだも。たとえ女性が写っていたとしても。

 なるほど当該の写真作品には腰巻きのようなものが写真の前に貼られ下げられ、腰巻きで隠されたかのように男性のぶら下がる性器は見えないようになっている。別の作品でもトレーシングペーパーが前にはられて猥褻なブラブラは見えないようにされてしまっているんだけれど、それがあの文脈で猥褻かどうか、って考えた時にそれこそ「ありのまま」の自分とやらをそこに置いただけ、自然であり人間であり生命であるひとつの個体がそこに存在するだけであって、とりたてて情欲をかきたてられることはないし、それを意図したものでもない。中にはそこに性欲の対象物を見てしまう人もいるだろうけれど、そういう人は壁の染みを見たって昂奮するもの。そこに併せてナチュラルさに竿を差すと、かえって猥褻だという感情が喚起されそして定着してしまう。

 だからここは踏みとどまって欲しかったけど、それで展覧会が潰れてしまっては本末転倒な訳で、だから苦渋しつつ決断したんだろう鷹野さん。結果として話題にはなったし、そこを起点に性器はぶら下がってないけど裸の男同士が並んでいたり男と女が並んでいたりする風景を集めて提示し、そこに写真というものが何か特別な部分を切り取るんでもなく、一方的に切り取っていくものでもない、生の人間であり生の人々ってものをすくい上げる媒体なんだってことを感じさせようとした。でもやっぱり女性のおっぱいとか、鷹野さんの乳首と乳首の間にちょろりと生えてる胸毛に目が行ってしまうけど、そこからだんだんと人間という存在のフラットでナチュラルな様に気づいていければ、展示し続けた意味もあったってことになる。残り会期は短いけれど、行けるなら行っておいた方が良いよ。各地に巡回とかもしなさそうだし。

 出展者では「ライムワークス」の頃から炭坑とか鉱山とか採掘場とかを撮り続けてきた畠山直哉さんが、爆破される採掘場の瞬間をとらえた作品を並べてて見ると迫力。現場で撮ってる時はどれほどの轟音が鳴り響いたんだろうかって気になるけれど、そうした音をスポイルし爆風や散乱の様子なんかも写真という一瞬を切り取り固めてみせるメディアを使うことによって、現場にいてライブで見るのとは違う、おそらくは瞬間過ぎて目には見えない、けれども刹那に存在した光景って奴をそこに現出させようとしたんだろう。そして見る人は静謐の中に前後の激しい動きを想像して、変転する無常のこの世を思う、と。そこまで哲学的かどうかは知らないけれど。単純にすっげえ光景が切り取れたって意識だけかもしれないけれど。

 あとは東日本大震災の現場を歩いて、道行く人たちを捉え続けた田代一倫さんのアプローチが興味深かったかなあ。カッコつける人もいればそのままの人もいて、けれども誰も彼もがあの凄まじい経験をした場所で、今もなお生きている。生き続けている。そんな未来へと向かうビジョンって奴が、田代さんの作品群から何となく漂ってきた。すべてをまとめてスライド的に見せるアプリとかあれば、もっと世界がそのビジョンを共有できるのに。現地の人には思い出になり励ましになる、のかな。そんな辺りも知りたいところ。鈴木崇さん。スポンジを組み合わせてオブジェにして、それを撮りポストカードくらいのフレームに収めそれを500個並べた作品。どれだけ時間をかけたんだ。その苦闘をおくびにも出さない静かなポップさを持ったトータルでのインスタレーション。河原温さん的な現代アートとすら言えるかも。これから何を撮るかに注目。たわしか何かか。

 見終わると昼だったんで錦にある「ヨコイ」まで行って元祖なミラカン。やっぱりワイルド。食べやすい。ただ昔はもっと賑やかで食堂っぽかった店が、ちょい小綺麗になっているのは客の足がその値段に恐れを成して遠ざかっているからなのか。普通盛りのミラカンで950円。ミラネーゼですら850円。どこの高級レストランだよ、って昔の名古屋なら思っただろうけど、今はそれくらいがランチの値段になっているのかなあ。でもそれなら客が昼時に行列してたって不思議はない。そうじゃないのはやっぱり値段が上がりすぎて、そして景気は持ち直さず固くなった財布の紐を緩められないサラリーマンは、弁当食ったりコンビニ飯でしのいでいたりするんだろう。アベノミクスは確実に壊れてきている。でもまだ信じたがる信者たち。気がつくとリッジ平井に率いられたソニーみたく、あれもこれもそれも売られてエリートだけが潤う国になっていたりして。大いにあり得るだけに怖い。

 せっかく1日パスも買ってあるからと、栄からバスに乗って徳川美術館へ。大昔に行った記憶はあってもどんなだったか覚えてなかったその中は、徳川家康の書状も在れば武田信玄の書状もあって、織田信長の書状に豊臣秀吉の書状に加藤清正が狩った虎の頭蓋骨に加藤清正がかぶっていた特徴的な縦長の兜といったものが、目の前にごろごろと展示してあるとう戦国好き「境界線上のホライゾン」好きにはもうたまらない空間になっていた。たまたま信長から家康へとかけての戦国武将たちをテーマにした特別展がやっていたってこともあるけれど、そこで尾張徳川版に伝わっていたものとして、そんな名のある武将たちに縁の品々が並べられるんだからやっぱり凄い徳川美術館。世界遺産にしたって良いくらいだけれど中のゴタゴタは片づいたのかな。パワハラだか何ハラだかあったって話。そういうので存続に影響が出ては損失だから、世界にとって。自省し自重して欲しいとお願い。

 しかしやっぱり頑固な爺さんの意識を変えるのは困難どころか不可能なんじゃないかとすら思えてきた。例の東京都議会におけるセクハラ野次問題を受けて立ち上がった超党派の委員会の会長が、あろうことか私的ならセクハラ発言をしても良いんじゃね、って喋って大騒ぎに。公的だろうと私的だろうと言って相手が嫌な気分になればそれはセクハラなんだと分かってないって突っ込まれて、拙いと思ったか謝罪したらしんだけれどそれがまた「個人的な心情を話したのは不適切だった」って感じに、個人的にそういう信条を持っているのは構わない、自分はそういう信条の持ち主なんだと広言しているから莫迦というか、莫迦を通り越して大莫迦というか。

 人は殺したって良いんだとか、誰か差別するのは構わないんだと個人的な信条として持っているのが是か非か、って考えれば分かるように、会長さんとやらの個人的信条がそういうセクハラ意識に固定されている時点で問題視され、改めさせられるべきだったりする。もちろんこの国で思想信条は自由だけれど、それが支持されるか疎まれるかってのは自己責任で、そういう信条は疎まれ退けられる、当然の如くに。糾弾だって食らって仕方がない。でもそれほどまでにヤバい信条だってことをまるで理解していないのか、理解すると負けだとでも思っているのか。分かってないんだろうなあ、だから立て続けに間抜けな発言が口から続く。そんな迂闊な人間をトップにすえて一体何がやりたいんだ。何が出来るんだ。火に油を注ぎぶっかけ火炎放射器で炙るが如くのバーニングファイアー都議会。そして自民党。やれやれだぜ。


【9月16日】 家を出て新幹線に乗って静岡あたりまで来たら何か地震があったという報が流れて、チェックすると関東一円で結構揺れたとかで山積みの本が崩れたとかBDが流れ落ちたとかいった話がそこかしこから聞こえてきて、いったい我が家はどうなっているのかが今は心配だけれどどうしようもない。ただ2011年3月11日の東日本大震災で当日のあの巨大な揺れで家の中があらかた崩れ落ちたけれど、その後に頻発した結構大きな余震ではまるでびくともしなかったあたりを考えると、震度5弱あたりでは多分大丈夫な気がしないでもない。東京へと余震は流れても千葉って案外に揺れないものだし。どうなっているかなあ。DVDとかBDとか本の山。

 でもって名古屋に到着したんで新幹線のホームにあるきしめん屋でも寄ろうかと思ったら長蛇の列ができていた。たかだか駅のホームの立ち食いきしめんに昼時とはいえどうして行列が。それだけ有名になってしまったってことなんだろうけど、さすがに並ぶのも釈然としないんで寄らず外に出て駅前にある「ちゃお」であんかけスパのミラカンを食べる。「ヨコイ」あたりとは違っていろいろ具材が凝ってる感じでちょっと上品すぎかなあ、もっとタマネギにピーマンにマッシュルームにウインナーがてろてろくらいになるまで炒められててそれが油の光る麺に乗っかり遠目にもカロリー高そうなのがミラカンなのに。「ちゃお」はフライ系にしておけば良かった。明日あたりに栄に出るんで「ヨコイ」に挑戦できればしよう。

 とりあえず家に行こうと地下鉄に乗ってどこか家の近所で本でも買おうかと考えて、昔あった本屋が潰れて今はスーパーの中の本屋くらいしかない平針駅は抜けて赤池にある高原書店に寄ろうと思って行ったら潰れてた、じゃない移転が決まって店が閉鎖されていた。どうやら天白区というか島田橋の手前あたり、天白中学校からちょい進んだあたりに移るみたいでそれはもうちょっと車でなければ行けそうもなさそう。バスなら行けるけどそれなら地下鉄でいりなかか上前津に行くからなあ。いやでも高原書店には特徴があって自動車関係の資料とか雑誌とかがとても充実していて、そういうのを探す人にとっては行かずにはおられない書店だった。倉庫風の建物の結構なスペースがそうした車関係に使われていたけれど、移転先でもそれだけの規模が維持できるのか。ちょっと心配。

 というか移転の理由がそうした専門書店ですらやっていけなくなったからなのか、使っている場所が取り壊しになるなりするんで仕方なくなのか、分からないけど名古屋であっても駅前であっても書店の経営が成り立たないって状況が現在、起こっているのはたぶん確実で、平針の駅前にあった書店とか昔は新刊を買いによく行ってたけれども今は薬局だか何かになって、そして平針周辺で真っ当な書店ってのは多分まだあるだろう平針小学校から中学校へと向かう途中にある1件くらいになっているような気がする。そこもあるかは不明。なければあるいは平針団地までいかないとないんだろうか、商店街の亀山書店、まだあるかなあ、昔はそこか、今の原小学校がある辺りまでいかないと平針って本屋さんがなかったんだよ。

 その時に比べれば格段に人口も増えて人通りも多くなり駅の利用者数も増大しているはずなんだけれど、本屋さんはそうした場所に存在を許されないというかコンビニなら角角に建っててそこで雑誌は買えるけれども漫画のメジャーどころとファッション誌と週刊誌とあと娯楽系くらい。もっと多彩な雑誌類なんてものを買おうと思ったらいったいどこまで行けば良いのやら。SFマガジンなんて売っているかなあ。ミステリマガジンは。ちょっと悩んでしまう。そういうのを子供の頃から触れていたから、今のSF好きな僕ができあがった訳で、きっかけすら与えられなかったらいったいどうなっていたかと考えて、それが今の子供たちに起こっていると思うと、未来がちょっと暗くなる。

 というか町中の書店だって文芸書とか売れなさそうなジャンルを置きたがらないのが今だからなあ。昔は例の平針小学校のちょっと先のその書店でSFマガジンもSFアドベンチャーもSF宝石も奇想天外も置いていて、買えないんで手に取り読んでその最先端に触れていたっけ。アニメ雑誌もだいたいあってアニメックもそこで買ってた。今、そうした多彩な雑誌を並べ文庫も置き文芸書もちゃんと並べておく本屋さんが地方なんかだと減っている。赤池からは多分消えた。そんな状況が地方なんかでは進んでいるとしたら、本の未来なんてもうやっぱり大変としか言いようがない。そして本に触れないまま成長していった人でいっぱいになった社会ではさらに本屋さんが不要となっていくスパイラルのその先に、いったい何が来るのか。あんまり想像したくないなあ。

 えっと、あんた莫迦ぁ。例の東京都議会で女性議員に向かって自民党の議員がセクハラ発言をしたて問題を受けて、その対策のために超党派の議員たちで作る「都男女共同参画社会推進議員連盟」とやらの会合が開かれたらしいんだけれど、報道によるとそこで会長に就任した議員さんが「公の場ではなく、平場なら『結婚したらどうだ』という話は僕だって言う」って言ったそうでのセクハラへの認識ぶりが無知を通り過ぎていてお腹がいたくなった。っていうか分かってない人間を会長にするっていったいどういうことなんだ。すぐさま報道陣から当然のように「『どういう場で言ってもセクハラになるのでは』と問われ」たらしいんだけれどそこでこの会長、「『平場は全くプライベートな場だ』などと説明。私的な場であれば問題はないとの考えを示した」というから恐れ入る。

 プライベートだろうと密室だろうと、性的ないやがらせだと相手が感じればそれはセクハラであって、国会議員が議会で言うとか会社の中で上司が部下に向かっていうとかいったシチュエーションは関係ない。それだけに軽重が判然とせず誤解も生まれて問題化する場合もあったりして厄介なことは厄介なのだけれど、それでも誤解を招いてしまった以上はやはりどこかに瑕疵があったと考え改めることでしか、セクハラといった問題は解決に向かわない。だからまずは態度を改めいついかなる場所でも相手を慮る姿勢が求められるにも関わらず、平場は違うプライベートでは言って良いとか言い出すから処置なしといったところ。

 あるいはニュアンスとして親しい相手に励ます意味で何か言うことはあります、ただ結果として誤解を招くかもしれない可能性も鑑みる必要がありますといいたかったのかもしれないけれど、そう汲んでもらえなかれば何を言ってもいっしょのこと。そして状況から本気で議会はダメだがプライベートはOKと考えているっぽいだけに、その認識でセクハラ問題を話し合う場のトップに座られては議論も進まないし、参加している議員さんにとっても迷惑なだけだろう。まあすぐに問題化していろいろ進むと思いたいけど、大元となった議員さんが雑誌で俺は悪くない的発言を堂々としたりしていると、やっぱり流されてしまって同じような体質が続くというか、半ば承認されてしまってヘイトな発言のハードルを下げて蔓延らせる道を、歩み始めるかもしれない。酷い国。でもそれが僕たちの選んだ人たちのよって治められている国。どうしたら良いんだ。どうにか出来るのか。機会はある。そう信じたい。信じて次はちゃんと行動したい。


【9月15日】 「はい本日も番組では新聞各紙の朝刊を並べてその内容を紹介していきます」「どんな記事が出ているでしょう?」「今朝はネットのインタビュー映像を記事にして掲載した新聞の話で埋め尽くされてますね」「他人のふんどしで相撲をとる行為、許される話ではありませんね」「まったくそのとおりですね、はい別の記事ですが、イラクやシリアでISISが戦闘を強化して大勢の方が亡くなっているという話を、エジプトのカイロにいる特派員が書いて来ています」^。現地から送られてきた通信社の記事やテレビ映像を元に書いている記事でよくまとまっていますね。まるで現地にいるようです」「新聞の紹介はこのくらいにして、さて次のコーナーはネットで人気のハプニング動画をたっぷりお届けします」「面白い映像が勢揃いしてますね」。そんな日本のメディア界。

 春日太一さんって年上かと思ったら僕より干支で一回りも下で、それでいて時代劇への該博な知識を持っていて情熱もあってとなかなかの熱血漢っぷり。その筆もこれまでは愛情に溢れたものが多かったってことらしいけど、遂に堪忍袋の緒が切れたか、もはやのっぴきならないところに来ていると自覚してしまったか「なぜ時代劇は滅びるのか」(新潮社)って新書にはあれがダメでこれもダメでなにもかもダメでもはや時代劇はダメなんじゃないかというダメ出しと絶望にあふれた1冊になっている。あれほどまでに固有名詞を上げて時代劇の問題を論っていいんだろうか、って心配になるけれどそこでそういうことによって改善されるなら自分はどうなっても良いという覚悟がもはや出来てしまったんだろう。そこまで春日さんを追いつめた時代劇界の大変さ、読んでとっぷりと味わいたい。

 そして読んだアニメーション界隈の人からも反響があっていずれこれは他の映像業界にも及ぶ話だってっことになってて自覚と行動を促している。じゃあ何をやれるか、ってあたりだけれどううん、声優さんを役柄へのマッチではなく人気度だけで推し量って並べていくというか、人気があるから起用してそこから作品を構築していくような動きがなるほど少しはあって、懸念もされていてもそれが全部じゃないところはアニメって界隈の未だ広いすそ野をもっている状況の良さ。子供向けに玩具を売るアニメで声優が美少女系だとかアイドル系だって関係ないものなあ。それをやろうとしてミスマッチ起こして虻蜂取らずになったアニメもないでもないし、今は作品は作品としてちゃんと推している、ってことなのか。

 それにアイドル声優を起用するってより起用することによってアイドル化していくことの方がまだまだ多いこの界隈。アニサマで見たμ’sってユニットは「ラブライブ」から出たらしいけれども筆頭格の新田恵海さんなんてしばらく前に「境界線上のホライゾン」にマルガ・ナルゼ役で出ていた時なんて相方のマルゴット・ナイトを演じていた東山奈央さんのメジャーっぷりとの対比が出てしまってこの先大丈夫? なんて個人的に思ってしまったけれども今は推しおおされぬ人気声優でチャートにも入って渋谷のビジョンにプロモーション映像が流れるくらいになっている。ちょっと凄い。そういう頑張りが評価され実力になっていく状況があるだけに、時代劇のように相応しくない役者がわんさかと出て反目を買い見られなくなって衰退へと向かう、ってことはまだないんじゃなかろうか。

 それに役者がフロントで大きく印象を左右するドラマと違ってアニメは絵っていうものがやっぱり目に真っ先に突き刺さる。声がどうでもその映像に凄みがあれば大丈夫だし、そういう凄みをスポイルするような動きってのはまだ見えない。だってアイドルアニメーターが登場してそんな人たちを起用すれば見てもらえるってものでもないじゃん、美形のアニメーターユニットとか美少女アニメーターチームなんてのが出来てCDを出しライブを行ってフェスに出るような状況でも来ればそれはもはやアニメとは違った別の何かが立ち現れているってことになるけど、幸いにして顔立ちではなく絵描きとして凄いアニメーターを尊ぶ風潮がまだ残っている。これがある限りアニメは安全、って言えるかっていうと巧くてもその絵柄がファンにおもねり過ぎるとやっぱりどこかでひずみを生むかなあ、勧善懲悪ヒーロー時代劇ばかりになって飽きられたように。さてもどう組むその教訓。

 鈴木鈴さんの新シリーズとなる「異世界管理人・久藤幸太郎」(電撃文庫)が面白かったよ。とある世界の12の国とつながったアパートで、世界の管理人さんになってしまった高校生の久遠幸太郎という少年。とある国の王女様に懐かれるけど、その国と隣国との間に戦争話が持ち上がって調停に追われることになる。けどどうも話がきな臭い。なにやら裏でいろいろうごめいているようす。誰からも愛される王女様なら真相に迫れるかと思ったけれど誰をも信じている天真爛漫な性格で利用しようとしても頑として聞き入れない。その一方で幸太郎には誰をも疑ってしまう“力”があって、それが原因で若くして家を出てアパートの管理人を叔父から譲られる羽目になったんだけれど、その力が働いておおよその真相を知ってしまう。さてどうする?

 疑い脅し引っかけ白状させる道もあれば、愛し愛される中で相手の理解を引っ張り出す道もある。どちらも正しくて間違っていて、そんな2つを重ねてよりよい道を探っていこうとする物語、なのかもしれない「異世界管理人・久藤幸太郎」。最後の最後に突きつけられる残酷な真実に背筋も凍るけれど、それを指摘した幸太郎に向けられる言葉がどうにも切ない。そういう視線を克服していくのか、ってところも今後の展開の鍵になるのかな。そしてそれを手伝うのは純粋で優しい王女様ってことになるのかな。部屋はまだ3つくらいしか明らかにされておらずどんな部屋があるかも楽しみ。こけし好きとかお寿司好きとか馴染んでらっしゃる異世界の人たちが好む日本文化の次は何? そこも楽しみ。

 そして市川市できゃりーぱみゅぱみゅのホールツアーの関東圏ファイナルを見物に行く。何でも今朝早くに風呂場でひっくり返って頭を8針縫うケガをしたそうで血がドクドクと流れて何か生暖かかったって笑顔で話していたけど普通はそんなケガしたらしばらく動けないものなのに、ちゃんと1時間半のライブをやりとげ歌い踊って喋ってた。プロフェッショナリズム。もちろんCTとかMRIとかで後遺症が出るようなケガにはなってないと分かってのことだと思うけど、場所が場所だけに心配にもなってくるけどそれでも仕事を仕事して楽しみにしていたファンのためにやり遂げるあたりはやっぱり凄い。バロン森みたい。ってバロンは死んでしまったんだから例えにならない。とりあえず養生して残るホールツアーを走り抜いて、そして10月から始まるアリーナツアーを全力疾走して欲しいもの。その後はやっぱり紅白歌合戦? 出るかなあ、そして何を歌うかなあ。


【9月14日】 あーあ。やっちまったなあ。っていうか2012年の話が何で今さら問題になるんだっていう気持ちも一方にあるけど、当該の人たちどうして話を付けてしまって、読んだ人に向けた釈明が何もなかったんだから突っ込まれても仕方がない。いや別に読者だってそれが朝日新聞による単独のインタビューなのか、それともサイトにあった動画から引っぱってきたものかなんで実はどうだって良くって、要するに何を岩田聡社長は喋っているかが分かれば、それはそれで用は足りるものなんだけれど、任天堂の岩田社長に会えるメディアという価値が、記事に付随してその信憑性を上げているといった理解をしている人にとっては、やっぱり違ってネットから引っぱってきたっていうのは、騙されたって感じるものなんだろうかどうなんだろうか。やっぱりちょっと分からない。

 ストレートに考えるなら、ネット上にあったものを切り張りした上でそれを独自のインタビューめかして掲載したことは拙い。大いに拙い。そこは無理してでも張り込んででも本人からのコメントをとるべきだったし、それができなかったのならサイトからの転載だということを断って掲載するべきだった。それすら拙いという意見もあるけれどでも、海外の報道を引用して独自の記事を作り上げるってことは、今のバイラルメディアじゃなくても新聞もテレビもやって来たことであって、要は引用もとさえしっかりしていれば、それを引っぱってきた上で独自の見方なり編集なりを加えて、ひとつのコンテクストを作り上げて悪い訳じゃない。朝日新聞はだから手続きをおそろかにしたってところで、非難はされてしかるべきだけれど、引用が悪いっていうならもはや今どきのバイラルだのキュレーションだのって成立しなくなるんじゃないのかな。

 だいたいがそうやってキュレーションだのバイラルだのと言って、華々しく事業立ち上げ稼いでらっしゃる人たちとかを見ると、コストをかけて時間もかけて一次ソース集めて記事化するのが何か、面倒くさくなってくるってのも当然の流れ。だからといってネットソースに走ると新聞はベチャベチャ言われて頭下げることになるのに、バイラルだとかキュレーションだとかは頭も下げず開き直って堂々とパク……じゃなかったキュレーションとやらをしてみせるから新聞も割に合わない商売というか。引用元が書いてあれば良いって訳じゃないだろう、その編集といったものにもある程度の権利を見るべきだろうものなのに、まるで知らない顔して同じネタを並べてみせる恥知らずが、大金を稼いでいる現実にどうやって一次ソースを集めて記事なんて作りたいと思うんだ。

   ましてや、今はネタ元が独自に情報発信始めている時代。それを利用せずに無理にでも一次ソースを無理にでも作り出さないといけない状況って、競争からすれば厳しいんじゃないかと思わざるを得ない。というか、そういった一次ソースを世に伝えるメディアのスタンスを世の中ももっと理解して、取材の受け手も含めて一次ソースの出し手となって世に何かを語っていく必要を、もっと感じていかないと誰も彼もが噂と伝聞をぐるぐると回してそれが何か現象めいて受け取られる世界になってしまう。そこに真実なんてあるのかどうかは関係ない、受けるかどうかが価値を決めるって世界。それで良い? そんな世界で大丈夫? 朝日を責め立てるってことはやがて、そういう状況を招きかねない恐れも含んでいると思っておかないと、とんでもないことが起こるんじゃないのかなあ。困ったなあ。いや朝日が悪いんだけれど。でもしかし2年も前の話が引っ張り出されてぶったたかれるんじゃ、もっとヤバいことやってる会社もおちおちしてられないんじゃないのかなあ。記事に見せかけた広告出してたりするのなんて、読者を欺く態度の究極な訳だしさ。どことは言わないけど。

 割と最近まで消息は聞こえていたから存命だったのか、という驚きはそれほどないけれどやっぱりひとつの時代が終わったなあ、と感じさせる李香蘭こと山口淑子さんの訃報。戦前に中国大陸とか満州で大活躍したスターが実は日本人だった、って分かった当時の驚きなんかを戦後20年経って生まれた人間が知るはずもないけれど、単純にその美貌とその歌声の素晴らしさを見聞きするに偉大なスターが戦中戦後を通じて日本にはいたってことはどこか誇りに思いたいところがある。中国人でありながら日本人に見方した人たちが罪に問われ処刑されていくなかで、間一髪生き延びた経験なんかを自信、どう思われていたのかってあたりは興味のあるところ。中国で生まれ中国で活動し中国人から慕われながら日本人として生き延び日本に帰ったことに対して、どういう意識を抱いていたのか。逆に日本人然としていながら中国の人だったため処刑された川島芳子との対比なんかも含めて改めて、語られて欲しいもの。まずは合掌。それにしても山口淑子さん、あの原節子さんと同じ歳なんだなあ、そして原さんは今なお存命という。昭和はまだ続く。

 夏海公司さんの新シリーズ「ガーリー・エアフォース」(電撃文庫)を読んだ。ヒロインの美少女の戦闘機が、掩体壕のなかにポツンと座っているビジョンに心打たれた。守ってあげたいと思ったけど、実は彼女強いんだった。謎の飛翔体侵略者、ザイを相手に戦えるのは彼女だけだから。戦闘機を全身で感じ操るドーターの操縦機構だから。鳴谷慧って主人公の少年がいて、その母親が中国の奥地で曲芸飛行を見せていたところに突然に現れた謎の飛翔体ザイに落とされ、そして始まった世界とザイとの戦いは、大陸が制圧され台湾や朝鮮半島を防衛戦にしながら日本列島にも及びかけていた。慧は上海を経て幼なじみの少女と日本へと脱出を図る。

 そこに現れたザイによって危機を迎えた時、現れたスウェーデンの戦闘機グリペンが人間の及ばない機動で敵のザイを退けるもグリペンも着水。これはまずいいと鳴谷慧が泳ぎ寄ってコックピットをあけると中に少女がいて慧にキスをした。それがアニマとしてのグリペンとの出会い。日本へとたどり着き小松市へと疎開した慧と幼なじみの明華だったけど、ちょっとした口論なんかをしながら小松基地の周辺で前に見た赤いグリペンを見つけ、そして突然に基地内へと拉致されそこで慧はコックピットにいた少女と再会する。戦闘機として作り出された少女と少年との謎めく関係は? いろいろと複雑な出生の秘密がありそうなグリペン。だからこそ慧との不思議な関係もあるんだけれど、それが何かは以下次巻。完璧ならザイすら相手に戦えるアニマのグリペンが、少女姿だとドジっ子でお小遣いも多くなさそうなのに慧に奢ろうとする姿がちょっと可愛い。

 そしてTOHOシネマズ船橋ららぽーとでもって3度目となる「攻殻機動隊ARISE border:4」を黄瀬和哉監督の舞台挨拶付きで鑑賞、本当はプロダクションI.Gの石川光久社長も来るはずだったんだけれど急病とかでスーパーバイザーの藤崎淳一さんに代わってて、うどんを打つはずだったのが急に呼ばれて「ダイヤのA」も「ハイキュー」もみられず残念って藤崎さん嘆いてた。でも最初の封切りの舞台挨拶では触れることすらタブーな感じだった新劇場版について何かうごめいていることが分かってそれだけでも聞いた意義があった舞台挨拶。当人は外から見ていたといったって、I.Gでやる以上はきっと関わるんだろうなあと黄瀬監督も話していたからそれはそれで楽しみ。いったいどのあたりが描かれるんだろうなあ。クルツのおっぱいだけはまた見たいなあ。


【9月13日】 見た勢いで森高千里さんが前に出した「森高ランド」のライブBDとかツアーパンフとかがセットになった「森高ランド・ツアー1990.3.3 at NHKホール(5枚組完全初回生産限定BOX)」なんてものをアマゾンに注文してしまって到着するまでを待ちながらあれやこれや見ていたら、ジャンボことジェフユナイテッド市原・千葉レディースの上村崇士総監督にセクハラ問題が持ち上がっていて解任になっていたとか。すでにトップチームの監督は降りて下部組織の方で監督なんかをしていたみたいだけれど、そんな代替わりにも敢えて総監督としての肩書きを残したってことは単純に後進に道を譲りつつ総合的な判断をしていくポジションに上がったのかなあ、と思っていたらどうも事情は違っていたみたい。

 総監督になったこと事態にまず何かきっかけがあったらしくて、それでいてユース世代の監督に残したのは切るに切れない恩情なり何かが働いてしまったからなんだけれど、それでもなお収まりがつかなかったといったことになるのかな。分からないけどブログなんかで書かれていたことを読んだ印象では、指導者としては厳しく妥協を許さず戦わないで舐めきったようなプレーをする選手に対してはそれこそ罵声すら浴びせかねない雰囲気があった一方で、しっかりと仕事をしていく選手は誉めて伸ばすようなところが感じられたし、千葉県全体の女子サッカーの向上という意味でいろいろと動いて時に軋轢もあったような感じがあった。

 あるいはそっちが原因でトバされた? って謀略説も頭をよぎったけれど実際に被害を受けて休場を訴えていた選手たちがいる以上、指摘されたことは事実でそれに対して責任を取るのは当然だと言えるだろう。今後どうなるのかなあ。まずはジェフレディースに動揺が走らず今の順位決定シリーズをしっかりと戦ってくれることを願いたいし、なでしこジャパンに呼ばれてアジア大会に臨む所属選手の山根恵里奈選手と菅澤優衣香選手にはしっかりとプレーして来年のワールドカップでレギュラー入りできるよう、活躍して欲しいと思いたい。しかし何だスポーツ新聞、千葉でのセクハラ問題をなでしこジャパンに招集されたINAC神戸レオネッサに復帰したばかりの川澄奈穂美選手に聞くなんてお門違いも甚だしい。そこにちゃんと2人もジェフレディース所属選手がいるのに。

 ようするに問題を憤っているんじゃなく川澄選手の名前が欲しいだけの下衆記事で、それ自体にどこか上から目線のセクハラおやじ的雰囲気が感じられて腹立たしい。同じくらいに凄まじいセクハラで立場的にはジャンボ上村氏の何億倍も上の橋本聖子議員が何かやらかしたって、取りあげて騒いで糾弾するようなこともないメディアのこれが実態なんだろうなあ。だから疎まれ嫌われていくと。しかしそんな川澄選手、アメリカから復帰してまだチームにだって合流してないのにしっかりと試合で活躍してみせるんだからやっぱり凄い選手。同じチームの高瀬愛実選手もしっかりと活躍したみたいで、これならINACが今は順位決定シリーズの最下位に沈んでいても、これから上に上がっていくことになるだろう。それだとジェフレディースが沈んでしまうから困るんだけれど。女子サッカー全体が底上げされるんなら仕方がない、かな、どう、かな。

 いろいろと読書。まずは伊吹契さんって人の「アリス・エクス・マキナ01 愚者たちのマドリガル」(星海社FICTION)。切ないなあ。人は絶対に死から免れ得ないというひとつの残酷な現実があって、誰もが幸福に生きられるとは限らず、そして道から外れてしまった者にはなかなか元に戻る術が与えられないという苛烈な社会があって、そんな現実と社会の上で翻弄されるアンドロイドがいて、けれどもそんなアンドロイドに縋り付かざるを得ない人間がいる、という構図。どこかで優しく手が差し伸べられれば何かが変わったかもしれない可能性があったのに、そうとはならず誤解と絶望ばかりが生まれて幸せはするりと手を抜け遠くへと行ってしまう。そのどうしようもなさが読んでいて心に刺さる。いたたまれなくなる。

 人間そっくりのアンドロイドが作られ、家事だけでなくそれこそ性行為の相手もしてくれるようになった社会が舞台の物語。高級外車が1台2台は買えそうな価格のアンドロイドをそれでも買う人はいるんだけれど、でもどこかで飽きてしまうのか捨てる人もいたりする。そんな時に誰かに譲渡できればいいのに新品が売れなくなると考えたメーカーの縛りがはいって仲介金が必要になっていたりして簡単にはいかず、かといって廃棄にもお金が必要なため捨てられるというより追い出されたままどこにも行けないアンドロイドがいたりする。そんなことが許されるのか。ロボット保護法は存在しないのか。そう憤りたくなるけれども同じ人間にすら残酷な侮蔑の言動を向けられる人間が、ロボットを相手に情愛だけを抱けるなんて都合の良い話は存在しない。

 そして生まれる不幸をどうにか治めることができた主人公でアンドロイドの調律をしている青年だけれど、そこに現れたかつての幼なじみにそっくりな少女のアンドロイドを調律する仕事の過程で、自分が見て見ないふりをしてきた現実を知って苛烈な運命に翻弄された女性の存在を知ってそして悲惨な境遇を歩んできたアンドロイドの過去を知ってそんな女性とアンドロイドとの交流が呼んだ“再会”とそして“離別”のドラマを経て、ひとつの決断を下すというそんなストーリー。02とあるみたいだけれどそれは続くのだろうか。別のシチュエーションを舞台にしたアンドロイドと人間の交流が描かれるのだろうか。いずれにしてもあんまり人を不幸に追い込まず、そしてアンドロイドに苛烈な運命を与えないで欲しいなあ。そういう感情を浮かばせられるくらいに物語でありアンドロイドといった“虚構”に感情移入する術を持った僕たちだから。

 絶望するしかないのか。今のメディア状況って奴はまったくどうしようもなく歪んでいるというか知性に反しているというか、例の「吉田調書」がいよいよもって公に明らかにされたことを受けてメディアはそこから原子力発電所の事故という前代未聞のできごとに対していったい現場でどういうことが行われ、それのどこに問題があってああいった事態へと至ってしまったのかということを改めて検証し、今後の糧にしようとするかと思ったら、その1カ所をちょっと誤読というか牽強付会というか、自分たちの都合の良いように解釈して報道したメディアを袋叩きにするだけで、中にはそれを大量のページを使って何日も繰り返していたりするメディアもあったりして、読んでいていったい国民はそこにどんな問題意識を見いだせば良いのかがまるで分からない。緊急時にはどういう命令適当を構築するべきか。そして現場ではどういう判断をしていくべきか。大事なことなのにそれを知らせようとしないメディアは事故でこの国が滅びれば良いとでも思っているのか。思ってはいないだろうなあ、そんなところに回る頭すらない。目の前の騒動に乗っかり自分を大きく見せたいだけの夜郎自大が蔓延った果て、導かれる国民のたどり着く場所はどこだろう。


【9月12日】 そして記者会見も終わって朝日新聞袋田叩きはさらに苛烈を極めているようだけれど、やっぱり不思議に思うのはちゃんとしっかり「吉田調書」とやらを引っぱってきて置いて、それを読んでどうしてああいった趣旨でああいった見出しを持った記事になってしまったのかということ。あるいは部分だけしかリークしてもらえずそれを元に書いたから間違えたんだ、なんて言説もしみ出して来ているけれど、朝日の報道直後からおかしいんじゃないかと疑問を呈していた門田隆将さんのブログによれば、ちゃんと朝日は「吉田調書」の当該部分をつかんでいて、それでいてああいった逆張りの結論と見出しを引っ張り出していたことが分かる。

 ブログの引用によると、吉田所長は「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです」と証言していて、ここまでを挙げればなるほど命令に誰かが逆らったか間違えたか気を回しすぎたかで2Fに行ってしまって状況として“命令違反”が起こってしまったといったニュアンスも引っ張り出せないでもなかったりする。でもその後で吉田所長は「確かに考えてみれば、みんな全面マスクしているわけです。それで何時間も退避していて、死んでしまうよねとなって、よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです。いずれにしても2Fに行って、面を外してあれしたんだと思うんです。マスク外して」といった感じに、2F行きは結果として正しかったんじゃないかと証言している。

 前半部分だけでも十分に書く理由足り得ると判断したっていうなら、それはもう思考のスタイルが違うとしか言いようがないけれど、通して読んだら別にこの部分をどうこう論って何かを指摘する必要もない部分で、むしろ「吉田調書」なんだから現場の最前線で指揮した人がいったい何をどう見てそして、何が原因と感じているかを素直に伝えた方が結果として伝わるものもあったような気がする。なのに無理に“命令無視”による撤退状況の発生部分をのみ引っ張り出して書いて指摘したから間違った。そして謝る羽目になった。どうしてこんなことが起こったのか。そこがやっぱり分からないというか分かりたくないというか、天下の朝日がいったいどういうプロセスで記事化を行っているんだというか。

 ここで門田さんが引用しているということは、記事にも紙面にも出ていた訳で、ひとりの記者が調書を握って隠しながら曲げて書いたということではないし、隠されていた部分があった訳でもない。だから、紙面を読んだデスクなり部長なり局長なり校閲がそれ解釈が違うんじゃないのと言ってあげてしかるべきだったと思うのだけれど、スルーされてしまったという、そのシチュエーションがやっぱりどこかギクシャクしているように思うのだった。ワシントンポストでウォーターゲート事件を報じた時とか、ニューヨークタイムズでペンタゴン・ペーパーズを報じた時とか、きっと手に入れた文書なり情報を逐一確かめ、裏をとって間違いがないと確信してから載せていたように伝え聞いている。それと同じことをどうしてやらなかったんだろう。それともやらなかったのか。やる必要がないと感じていたのか。分からないけどここからやっぱり意識し改めていかないと、同じことはまた起こりそう。第三者による検証がどこまでそうした意志決定プロセスにまで踏み込まれてあるかに、今は注目。あと、どこかの新聞もはしゃいで叩いている前に自らを振り返って誤りを謝ったりしないとね。恥ずかしさでは世界レベルだった訳だし、沢民さん春樹さん。

 しかし吉田証言でもって誤報をしでかし、撤回から訂正そして謝罪へと追い込まれて、そして吉田調書でもって曲解を掲載して、批判を食らって訂正から謝罪から果ては辞任へと追い込まれそうな展開にある朝日新聞としては、もはや「吉田」という人物名は極力避けたいって思って仕方がないところだろうけれど、そうは問屋が下ろすまじとレスリングの世界選手権で女子53キロ級の吉田沙保里選手が見事に優勝を果たしてこれで世界選手権と五輪を合わせた世界大会を15連覇というとてつもない偉業を成し遂げてしまった。やっぱり58キロ級で優勝の伊調馨選手も12連覇という偉業なんだけれどそれすらもかすんでしまう飛ばしっぷりをトップで報じてしかるべきなんだけれど、それをやると「吉田調書で社長謝罪」「吉田証言でも謝罪」にならんで「吉田15連覇」といったい何が何だか分からない紙面になってしまうから扱いが小さくても仕方がない、ってことはないけどまあでもやっぱり。

 春にお父さんを亡くしてきっと気持ちも落ち込んだだろうけれど、直後の大会にしっかり勝って世界選手権への道をつかんでいったその根性、その胆力。なおかつ試合に臨んではまるでポイントを落とさないで価値上がり勝ち抜いてしまったその強さを、もはや人間と比べるのも間違っていそうな気がするけれど、かといって動物にも比肩しうる存在はいない。ここはだから人類最強でも霊長類最強でもなく女性最強ですらないただの“最強”という称号を、与え讃えたいと思う。最強=吉田沙保里。でもって伊調はやや最強? それもまた。この強さだと次の世界選手権もさらには五輪でもまた勝ちそうな気がして来たけれど、その時に歳はいったいどれくらい。でもきっと大丈夫。最強なんだから。安心して見守ろう。

 六本木ヒルズの展望台で明日から人形の展覧会が始まるってんで一足早く見物に。メインはリカちゃんにジェニーにバービーにブライスにスーパードルフィーで、それらの歴史的な展示があったりファッションをアレンジしたものの展示があったりして、同じ素体でもいじると本当に綺麗になるものだなあと関心。あと歴史的な人形を並べるコーナーがあってそこにはピンクレディーの人形とかもあればなぜかラムちゃんがあったりマジカルエミがあったりと人形ってものが意味する範囲の広さってものがよくわかる。ロボット玩具を混ぜるとさらに広がるんだけれどそれをやったらスペースが足りなくなるんでここはファッションドールをメインにしとこうって感じかな。前に制作が発表されたきゃりーぱみゅぱみゅのバービーもあってイラストがしっかり再現されていた。顔はもろバービーだったけど。増田セバスチャンさんがデザインした背景にそれぞれの人形が立つメインビジュアルが綺麗。どうしてそんなに人形心が分かるんだろう増田セバスチャンさん。監督した「くるみ割り人形」もきっと良い映画になっていると信じよう。公開はいつだ。

 i−dollsが居並ぶ「1999年の夏休み」も見たかったけれどでも、巨大なスクリーンで森高千里さんのライブBDを上映する企画があったのでそっちに行ってしまったのであった。「古今東西〜鬼が出るか蛇が出るかツアー’91完全版」。完璧だったよその美貌そのステップその衣装その歌声。それが家のモニターとは比べものにならない巨大さで覆い被さってくる。ライブじゃ豆粒でもそこではエアーズロック級。音質も最高。映画館でのライブ上映って絶対に絶対に売りになるなあと改めて思った。そんな森高さんのツアーの映像を見て改めて思ったけれど、1990年代初頭の森高千里さんはうん、確実に森高千里というジャンルを1人で担って動かしてた。そのビジュアルそのステップにその歌声その作品。それぞれに特徴があってなおかつ融合してひとつの世界観を醸し出してた。

 奇跡のようなパッケージ。今に例えると誰になるんだろうか。きゃりーぱみゅぱみゅも近いけどでもまだ動かされている感がどこかにあるかなあ。しかし繰り出される曲をだいたい覚えているなあ自分。前に出たときにライブDVDは買ってあったんで見ていたし、CDもだいたい買っていたし。でもってあの頃はCDを買えば1枚をすり切れるかもしれないくらいに聞いていたっけ。借りてはカセットに録音してこちらはテープが伸びるくらいに聞きこんだのでだいたい覚えてしまっている。それが今はiTunesに落としたらもう聞かないというか。ちょっと拙いけどでもそんな風になっている。何でだろ。音楽がバックグラウンドになりさらに空気となってそこにあるだけで聞いたことにしてしまう気分の根元。それが今の音楽市場の停滞を招いている可能性。考えてみたいなあ。っていうかさっさと聴けよ竹内まりやさんの「TRAD」を。実はまだ1曲も聴いてないのです。


【9月11日】 そして最新刊が出た佐島勤さんの「魔法科高校の劣等生14 古都内乱編<上>」は、いよいよ本格的に顔出しも始めた四葉真夜によって司波達也と深雪の2人が京都へと逃げた周公きんを追いかける事態となって古都を舞台に戦乱の予感。ただの商売人に見えてあれでなかなか使い手のようで、黒羽の家の手練れに傷を負わせそして七草真由美をボディーガードしていたくらいの男までをも退けてしまったりして、これで達也はかなうのか、って心配が浮かぶかというとこそは絶対に傷つかない達也だけに心配はいらないけれど、周辺でうごめく「伝統派」と自称する魔法使いたちが、達也や深雪の周辺に何も知らずに襲いかかっているのがちょっと面倒。まあそこも達也の信頼する同級生たちや、師匠の周辺の面々が潰して回っているから安心か。

 そんな展開が見え始めたこの巻で瞠目は九島烈の孫にあたる少年の登場。とにかく美形。とてつもなく美形でこれが深雪でなかったらすぎに惚れて転んでいたかもしれないけれど、そこは兄ベッタリでそれ以外はカボチャにすら見えていないだろう深雪なだけに大丈夫だった様子。でもいっしょにいった桜井水波は結構ぜえはあしたかもなあ。そんな九島光宣さんの何と強いことか。達也が不意打ちで倒した相手に真正面から堂々と挑んで軽く倒してしまうんだからあるいは正面切って戦えば良い戦いを繰り広げられるかもしれないけれど、病弱っていう設定もあるから無理はできない体調なのかも。でもこうやって絡んできた以上は次にまた活躍の場面もあるだろう。それより問題は達也のところに現れた七草真由美か。その真意がどこにあるかは不明ながらも深雪を刺激して血の雨ならぬ吹雪の嵐を巻き起こしそう。「伝統派」はそのとばっちりで全滅かも。やっぱり最強は司波深雪、ってことで。

 「ラストビジョン」(電撃文庫)以来だから実に13年ぶりってことになる電撃文庫への登場となった海羽超史郎さんの新刊「バベロニカ・トライアル 西春日学派の黄昏」(電撃文庫)はなるほど海羽さんらしく何がどういうシチュエーションなのかが1読ではさっぱり分からないくらいに小難しかったりするんだけれど、その上で繰り広げられるドラマは明快にある美少女で天才が現れ少年の主人公が暮らす街を舞台に起こる事態に絡んできて、それに少年は向かい合いつつ協力もしながら過去に起こったある事態の解消を目指すといった感じ。そうしたおおまかなストーリーを成り立たせるディテール部分に、コンピューターテクノロジー的な物がありボルヘス的な哲学があって混乱するけど、何かの象徴か暗喩と思いつつスルーしていけば本筋はだいたい理解できるから良しとしよう。いや良くないか。何なんだろうなあバベロニカ屋とかハイポセシスとか。研究していこう。とりあえず八重垣櫻は尊大で可愛い。

 朝から何やら朝日新聞の社長が会見するといった話でザワザワ。出所が毀誉褒貶もたっぷりな上杉隆さんが主宰しているメディアなだけあって、信憑性を疑う声なんかも出まくっていたけれども午後に入って菅義信官房長官がいよいよもって「吉田調書」を含めた当時の福島第一原発事故に絡んだインタビューを公開することを発表し、これを受けて朝日も報じた内容に原本との差異があったことを認めざるを得なくなって会見を判断した模様。そりゃあ目の前に原本があれば間違いもバレバレになってしまうだろうけれど、ここで不思議なのはいずれこうなる可能性なんかも鑑みながら、どうして朝日新聞が無理すぎな牽強付会へと走ってしまったのか、といったこと。もしかしたら本当に自分のところだけしか手に入れられないとでも思っていたんだろうか。そこが何より気になって仕方がない。

 公開の可能性を感じつつも言いたいことのためには証拠もねじ曲げる必要があったと筆に熱がこもったんだろうか。分からないけれども今となってはお粗末な話で、どうしてそういう事態が起こったのかを、精査して誰が筆を曲げ誰がそれを支持し誰がそれを掲載させたかまで確定して再発を防ぐ仕組みを作らないと、同じことは何度も起こるっていうかすでに時間を遡るようにして、同じ名字の「吉田清治証言」を全面取り消しにしなければいけない羽目に追い込まれている。それに対する釈明もまだな段階で吉田証言についても取り消しをしなくちゃいけない朝日新聞が受けるダメージたるやどれほどのものか。きっと社内の吉田さんは居心地が悪いだろうなあ。それはともかくやっぱり精査が必要な執筆の動機と掲載の経緯。ワシントンポストが「ジミーの世界」の捏造報道の詳細を調べ結果を明らかにしたような検証をすべきなんだろうけれど、そこまでやれるかなあ、やれるんなら池上彰さんの寄稿掲載拒否問題であんなコメントは出さないよなあ。やっぱりダメなのかもしれない。まあ倒れるにしても大手町界隈の某社かよりは後だろうけど。資産が違いすぎるから。悲哀。

 いやあ腹が痛い。「THE NEXT GENERATION パトレイバー第4章」の公開に併せて開かれたトークイベント「マモルの部屋」でホストの押井守監督からゲストとして来たスタジオジブリのの鈴木敏夫プロデューサーへの問いがとてつもなくど真ん中。「どうするの?」。以下、何をどう鈴木敏夫さんがいいつくろっても「だからどうするの?」で押しまくったスリリングな1時間に、そのうち怒り出すかもとか、とてつもない話が飛び出すんじゃないかといった緊張感と、そしてあれだけ世間に名は知られていてある相手でも臆さない押井さんの容赦のなさに腹が腹がよじれて痛くなった。観客席でもそうなんだから、進行の人は胃がヒリヒリと痛かっただらうな。でも仕方がない、そういうゲストを呼んでしまった訳だから。誰が呼ぼうって言ったんだ?

 しかしまあ、あれだけ押井守監督に「どうするの?」と押されまくれば、頑固な鈴木敏夫プロデューサーとしても何かを仄めかさざるを得なくなる。それはだから何を作るか、誰が作るかと言ったところにまずは落ち着くんだけれど、そこからさらに攻め込む押井監督がやっぱり宮崎駿監督は毎日来ているんでしょ、だからじっとしていられないでしょといった突っ込みを重ねて今の宮崎駿監督の気分について、よく知る人間として触れていく。そして浮かび上がったのが「口も手も出して作っていたが、口だけ出して作りたい」という宮さんの気分。そうかそれならやっぱり何か作ってくれるかも、って小躍りしたけど一方で、あの宮さんがそれで済むはずもなくそして押井守監督が「短編とかいいつつ時間が延びていく」という予想をズバリ。

 誰もが思っていたこととはいえ、押井さんが言えば信憑性も増すけれど、そうなると本気の度合いも違って来るからやっぱり無理ってこともあり得そう。どれくらいの関わり方 を宮さんが許容するか、って話にうまくまとまればいずれ引退も雲散霧消し何か世に提案してくれるって可能性も見えてきた。ってな訳で散々に押井監督から「どうするの?」と聞かれたスタジオジブリは、何か企画が出てくれば何か作るだろうし、それに併せて人も必要。ただ前みたいに作品ごとに人を集める形になるか、宮さんがこだわり人を手元に置きたがる体制が続くか。つまりは誰が作るか、何を作るかってところに戻っていく。どうなるのかな。ジブリ。

  そんな鈴木敏夫プロデューサーが呼ばれたのは、そもそもが熱海編にインチキプロデューサーとして登場していたからで、そんな自分の出演を振り返って何を言うかと思ったら鈴木敏夫プロデューサ、3話に登場した竹中直人さんの役柄こそが自分に相応しい役と強調して押井守監督から全否定を喰らってた、いやちょっとは考えたけれどしゃべれないからやっぱり無理ってことになったみたい。そして鈴木さんが竹中さんは熱海市長が合ってたと指摘すると、実は最初そう考えていたと押井さん。なるほど流石のプロデューサ眼ってことか。そういえば前に自分の監督で起用したかったと押井監督話してたっけ。でもスケジュールが合わずにあの回に出てもらったという。ちょっと見たかった。

 それを受けて改めて竹中直人の役は自分だったと訴え、押井守監督から「そんなわけないでしょ」と上擦り気味の声で全否定されていて可哀想だった鈴木敏夫プロデューサー。でもセリフ覚えてこないんだから仕方がない。あのちょっとの登場シーンですら台本とまるで違うとか。でも胡散臭さは出ていたよ。そんな鈴木さんが来たからには、やっぱり聞かれた後継者指名があったとかどうとかいう庵野秀明監督との関わりだけれどまあ、東京国際映画祭で庵野監督作品が上映される会見に呼ばれて「押井監督が後継者です」とは言えないし、還暦過ぎた爺さんを今さら後継者に指名するはずもないからひとつは流れとして、そして宮崎駿監督と庵野秀明監督の師弟関係を理由にああいう発言になったと説明してた。

 そんな2人の関係を押井守監督、爺さんと孫に例えていたのがなかなかの妙手。利害関係がないから仲良くできるという。でも宮さんは庵野監督の作品は観てないかもという指摘。でも孫が爺さん尊敬しているからそれはそれで良いんだろう。本当に後継者か否かはどうかなあ、庵野監督がジブリに行くとは思えないしなあ。ただ2人を比べる中で、宮崎駿監督は母性の人で庵野秀明監督は父性の人という押井守監督の解釈が出てきて、そんな庵野監督が「エヴァ」をまとめるには今は気づいていない母親を出す必要があるって話に流れて、「ナウシカ出すしかない」と声が出て「ナウシカ2を作るしかない」といった見解に、押井守監督と鈴木敏夫プロデューサーが一致を見たのが興味深かった。

 それはスタジオの維持だとかマーケッティングの方向といった銭金が絡む話ではなく、庵野秀明監督って人の経歴や嗜好や作品に反映されている思想なんかから導き出しての見解。プロデューサーであり監督である鈴木敏夫さんと押井守監督は、流石に庵野監督と長くつき合っていろいろ感じている人たちなんだって思わせた。ともあれ濃密過ぎる1時間だったけれど、最後に「THE NEXT GENERATION パトレイバー第4章」の2度目を見ての感想は、爆弾魔のエピソードのエピローグで柵によりかかり煙草を吸うカーシャのズボンのお尻に下着のラインが浮かんでいるような気がしたってことか。ただ一瞬なので正確には不明。どうなんだろう。もう1度くらい見に行って前方の席でスクリーンを間近に眺めて確認してくるか。


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