縮刷版2014年8月下旬号


【8月31日】 ひええ1年の3分の1がもう終わろうとしているけれど、だからとって次の1年が始まるだけなんで実はどうとうこともなかったりする窓際ですらない窓外生活。しがみついていられるのもいつまでか。ようやくもって芝村裕吏さんの「遥か凍土のカナン3 石室の天使」(星海社FICTIONS)を読み終えたらアラタがジブリールを泣かせてた。3代前からやっぱりそうだったんだ、ってアラタに関しては新田良造が祖父であることは分かっているけど、サマルカンドへと向かう途中の石室にいた天使(ジブリール)を名乗った女性が「マージナル・オペレーション」のジブリールとどう関わっているか分からないから運命が繰り返されているかは不明。でもここで連れなくしたせいで、後にしつこくつきまとわれるようになった可能性もないでもない。因果応報。まったくもって。

 というかジニだってどこまで後のジニと関わってくるかは分からないんだけれど、アフガニスタンから仲間を引き連れ引っ越してきたからには、あのあたりに拠点を構えて子孫を残した可能性はあるんで、そこからジニが生まれてきた蓋然性はジブリールより高いかも。あるいはご近所に住んでる関係で子孫もだいたい同じ地域にいて、やって来たアラタの下に入ったって考える方が自然だけれど、それだとオレーナ姫の子孫が浮いてしまうんだよなあ、どこに行ったんだろう? ってそれがだから新田良太ってことなのか? 考えるとちょっと羨ましいかも、あんな美少女の血を引いているってことになるから。それとも違うんだろうか。そんな辺りがこれからの展開で描かれるんだろう。クロパトキンの再登場で何が起こるか中央アジア。展開が楽しみだ。

 そうか10回目になるのかアニメロサマーライブ。記事だけなら多分2回目の日本武道館へと会場が移る話あたりから書いていて、そして現場はさいたまスーパーアリーナへと会場が移ってすっかりと定着した2010年くらいに初めていったんだっけか、との時の日記をひっくり返したら田村ゆかりさんが登場してmotsuさんといっしょに「you & me」を歌ったのが記憶に残ってライブBDか何かを買いに走ったってあったっけ。その「you & me」が再びの登場となったアニサマは3日間の開催となっても衰えることなく全日が満席というこの凄みに10年の間に広がったアニソンでありライブエンターテインメントってカテゴリーの強さを改めて感じてみたり。そしてアニサマがそうした状況の嚆矢にになっていることは間違いない。

 CDで聞くのも悪くないけど、あれだけの会場で目の前にアーティストを目の前にして大勢の観客に混じって声援をとばしながら見ると本当、ライブって場所に自分も身を委ねてみたくなる。ちょっぴり恥ずかしいなあって気持ちが最初はあった人も、あれあけの人数がアニソンっていうカテゴリーに臆せず目一杯に体を使って声を出して楽しんでいる様を見れば、自分だって遅れてはいられないって思えてくる。そして走る、ライブへと。なおかつ普段は聞いていなかったアーティストの楽曲に興味を持ってそっちも聞いてみたくなる。誰かが好きではなく誰でも好きという思いにさせてくれるのがアニソンのライブ。昔ながらのロックフェスだと聞きたいアーティストは聞いてそれ以外は休んでいるか流しているかのどっちかだけど、アニソンは始まったら最初から最後まで聞きっぱなしの応援しっぱなし。その中から好きの範囲が広がっていく。

 そういう場を最初に作ったのがアニサマだった訳でそれが10年。やっぱりひとつの文化の源泉になっているって言えるんじゃないかなあ、こういうのをそれこそ国家が大々的に支援するとかすればクールなジャパンも盛り上がるんだけれどそういう気持ちはさらさらなし。外国から1万人を招いてアニソンイベントに1日突っ込むことでどれだけ日本をアピールできるのか、なんて考えてみたりもするけれど、そういうことを国がしなくても来たい人はちゃんと来る。今日も見回せば外国人がアニメなTシャツ姿で歩いてた。そんな草の根の交流を広めてきたって意味でもアニサマは大きな役割を果たしてる。そしてこれからも果たしていってくれるだろう。11年目から20年30年と続くイベントになっていって欲しいけれど、そこに僕はいられるだろうか。「you & me」を歌い「Fantastic future」でスカートの裾をつまみ上げる田村ゆかりさんを見られるだろうか。分からないけどアニソンだけは、アニサマだけは続いって欲しいもの。影ながら応援していこう。

 出演者では水樹奈々さんとT.M.Revorutionとのコラボが見事というより他になかったしLiSAさんは「魔法科高校の劣等生」のオープニングも含めて歌唱力があり迫力もあってなかなか良かった。May’nさんは安定してたし鈴木このみさんもあの小さいからだのどこから出るんだって感じの声を出していた。って見るとわりとアニソン専業の人も頑張ってるなあって感じ、一時そういうアーティストよりも声優さんが歌った方が人気が出るしCDも売れるって話になっていろいろ去っていく人もいたりしたけど、こうやってアニソン歌手が歌のうまさとパワフルさでもって聞く人を感嘆させることによって、やっぱり歌は歌える人に歌わせたいって思う人も増えるだろうし、そういう人のCDを買うファンも増えるだろう。まずは見てもらうこと。その意味でごっちゃんなアニサマって場はとっても意義深い。そっちから逆に田村ゆかりさんのような愛らしさ、水樹奈々さんのようなど迫力を感じて向かう人もいるだろうし。

 「ラブライブ」のμ’sは誰が誰だか分からないけど可愛かったしプリキュアな人たちによるステージはベテランが揃っているのかなかなか芸達者で見飽きさせなかった感じ。そしてOLDCODEXはそうしたアイドル系の声優シンガーの間に挟まる形で登場しながらまるで気にせず場をつかみ空気を変えて迫力の歌と怒濤のドラミング、そしてアーティスティックなペインティングを重ねて見せて一気に場を掴む。ステージから降りてきて通路を歩いてそこで歌っても会場の隅々まで響き渡るその声量、その声の良さ。見れば納得のステージングって奴を繰り広げてそういうアーティストに縁がなかった人も引きつけた。じゃあライブに行ってみようかってことにはやっぱりならないけれど、でもフェスに出るならのぞいてみるかって気にはなるかも。混ざり合い関係し合って影響し合う。だからアニサマは面白い。

 同意以外の何物でもないというか、軟式野球の高校生の大会で準決勝が同点のまま延長戦に入ってそれが延々と50回まで日を変えながらも続いたって事態にライターの松谷創一郎さんが書いた「『残酷ショー』としての高校野球」って文。それに烈火の如く怒り反論をぶつけてくる人がさっそくいるんだけれど、当事者が好きでやっているんだから良いんだとかいった意見を初めそうした反論のだいたいが文章の中であらかじめ潰してあるのに、なおもそれを振りかざしてくる所に高校野球が一種カルト化しているって印象を受ける。これが高校サッカーや高校バレーだと果たしてそこまでの反論は起こったか、っていうかそもそも高校サッカーや高校バレーでは炎天下で連投とかいった事態が起こらない。

 こういうのがあるのは野球のそれも高校野球だけだから、こうした批判記事にあるような事態が起こるし、だから批判記事だって出てくる。特殊過ぎるんだよ高校野球は。まあそんなことはスポーツライターの重鎮の玉木正之さんがずっと前から言っていて、夏の甲子園とかの阿呆らしさとかずっと訴え続けてきた訳でもあるんだけれど、それで高野連、何一つ変わらなかったし変わろうとしていないからなあ。でもってメディアはさらに変わってないところを見ると今回の松谷さんの記事で何か大きく流れが変わるとも思えないから嫌になる。

 というか普通のマスコミがまず動かない。美談仕立てで頑張りましたと誉め言葉。それはおにぎりマネージャーの時と一緒。記事に同意しながらその悪の原因を朝日新聞や毎日新聞やNHKに求めてアサヒガー、マイニチガー、エネッチケーガーって言ってる人も割といるけど、従軍慰安婦問題で朝日を誹り、OBが現会長に文句付けたからってNHKをなじっている産経が、高校野球について朝日も毎日もNHKも誹謗しないし高校野球を否定してないのは何故なのか。そっちの方がよっぽど奇妙で大問題。つまりはすべてのマスコミが結託して、高野連様高校野球様にひれ伏し読者様にひれ伏している状況な訳なんだけれど、そういう方面へと頭を働かせようとしない状況もやっぱり気持ち悪い。きっとスルーされるんだろう今回も。

 えっと……戯けなの? 阿呆なの? とある新聞が1面コラムでもって自由民主党の石破茂幹事長について「国家観が首相に比べて格段に頼りない。若いころ朝日新聞を読んでいたせいか、慰安婦や靖国神社に関する言動も首を傾げるものが多い」って書いている。いやいや、今の首相の国家観の方が問題じゃないのかこの国が世界に冠たる実力を未だ持ち続けていると頑なに信じている人間の独りよがりの国家観が、この国をどれだけ世界から孤立させているかに気づいてないのか、気づかないふりをしているのか。あるいは戯けだから気づいていない可能性もあるけれど、商売としてやっているんだったらそれもまた死への道筋でしかない。

 だってたとえ幾百万が倒れようともその屍の上に旭日旗がひるがえって、それを自分が掲げてさえいれば満足って思っていそうな人間だよ、そんな人についていって本当にそうなった時にいったい責任をとれるのか。その時には自分たちはもういないって思っているんだろうなあ、書いている人間たちは。そもそもが朝日新聞を読んでいたって読売新聞を読んでいたって、それを金科玉条のように掲げて信仰している人間なんていやしない。それはそれでありこれはこれ。そう理解して取捨選択の上に今、必要なことを行っているだけなのに、自分たちの意に添わないからと非難して誹謗するのが、言論の自由の上に成り立っている新聞のやることなのか。それとも新聞じゃなく別の何かなのか。そんな可能性もありそうだからちょっと迷う。

 だいたいがその新聞だってどこまで真っ当なことを書いているのやら。「科学観が元首相に比べて格段に頼りない。○○新聞しか読んでいないせいか、ホメオパシーや永久機関や江戸しぐさやグレートサムシングやSTAP細胞やオッペンハイマーや神武天皇に関する言動も、首を傾げるものが多い」と言われてどれだけ反論できるのか。いやいや言われませんよ読まれてませんからと開き直るんだとしたらそれも寂しい話だし、そうした真っ当な意見すら耳に届かないんだとしたらそれはもう終末期。見たいものだけ見ながら周辺が焼け野原となっていくのを気づかず燃え上がっていくだけだろうなあ、遠からず。同じことには24時間なんとかにも言えそうで、食事で癌が治るかもしれない系ドラマなんか今どき流して信じる人が出たらいったいどう責任を取るんだと。感動の安売りをして視聴率さえ稼げれば良いのかと。良いんだろうなあ。そんなメディアに囲まれ生きている。いやもう囲まれてないか。見られてないし、読まれてないから。


【8月30日】 声が大きかろうと小さかろうとネットの中の流言だろうと、ヘイトスピーチは「ヘイト」であること、つまり差別的であることが問題になっている訳であって、それをとらえて自民党なり政府なりが何か考えるなら、ヘイトであることの是非を論じその適用範囲について言論の自由とぶつからないよう慎重に協議しながら、対応策を出すべきなんだけれども阿呆なのか阿呆なふりをしているだけなのか、自民党の偉い人はヘイトスピーチが時に騒然として行われることをもって、騒然としていることがさも問題であるかのようにすり替え、そして騒然とした国会前のデモを規制しようとか言い出しているらしいから何というか、訳が分からないというか。つまりはやっぱり阿呆というか。

 もちろん条例なり規制を越えた喧騒は、それが正しい主張であっても抑えられるべきであって、周辺住民なり通行人なりが迷惑を被るようなことはあってはならない。国会周辺のデモが時にやかましくなり過ぎて、業務に差し支えると考える人がいるならそれは、騒音でない範囲で行うようにすれば良いだけの話であって、デモそのものが禁止される謂われはない。たとえ千人万人が集まろうとも静かにそこにいて、憤りの姿勢を見せることで伝えたいことは伝えられる。逆に言うなら大声で叫んだところで聞こうとしない相手には何の意味もない。頼めるのは数だけならば数を集めて静かに、そしてひしひしとプレッシャーをかけていけば良いだろう。

 それをも規制しようとするならそれこそ言論なり、集会なりの自由への挑戦。だから徹底的に向かい合う必要もあるし、日本新聞協会も編集委員会あたりが懸念だなんてとりあえず意見出しておきました的な態度ではなく、会長がそれこそ先頭に立って声明を発表するくらいの気構えを見せなくてはならない。しないだろうけど。ただ一方で、騒音を規制する動きに止まるならばそれはそうだと受け止め改めるスタンスも必要。周辺に理解されない活動が、世間に理解されるはずもないから。そしてヘイトスピーチのヘイトたり得る部分に対する何らかのアクションを、今は率先して行うべきなんだろうけどそれを司る政権与党が、どこか弱者に優しくないスタンスをずっと取り続けているからなあ。動くものも動かなさそうで。さてもどうなる。

 そして朝から起き出して、新宿はピカデリーにて「THE NEXT GENERATIONパトレイバー第4章」を舞台挨拶付きで見物、GA★PAが大暴れして怪しげな鈴木Pが暗躍して双子のリリーズが歌ってた。やっぱり歌巧いなあ、舞台挨拶にきて披露して欲しかったけれどそれはなし。そしてエピソード6にあたる「大怪獣現る 後編」は大怪獣の正体に迫るストーリーが繰り広げられる中で塩原佑馬を演じた福士誠治さんと御酒屋慎司さんを演じたしおつかこうへいさんとの掛け合いが絶妙でなるほどあるあると思ってしまったミリタリーオタ×特撮オタの誉め合いつつ自慢し合うその関係。自分が相手に負けているとは思いたくないその心理が実に出ていた。あるいは本当にそういう性格なのか演技が素晴らしいということなのか。

 しおつかこうへいさんといえば、続くエピソード7「タイムドカン」への出演がやっぱり気になったみたい。小劇場あたりから出てきた人にはそりゃあそうだよなあ、目の前に神様たちがいるんだから。もちろんひとりは筧利夫さんでもうひとりは……それは見てのお楽しみ。でも舞台挨拶によると筧さんは颯爽としているというか、あんまりうち解けようとはしていないみたいで、それは真野恵里菜さんの考えによると、隊長という役柄で隊員とうち解けてはいけないとう判断から、自発的にそうしているんじゃないかってこと。それは確かにあるかも。そういうことをする人かも。でもやっぱり映画の中では変人隊長だった。カミソリっぷりが発揮されるのは、来年ゴールデンウィークの劇場版あたりかなあ。南雲隊長みたいな引っぱりつつ立ててくれる人がいないとその真価は発揮されないのかなあ。

 しかしやっぱり凄かったGA★PAのシーンは撮ったのはそうか押井守さんじゃないんだ。だから流石なできだけれど、それだけで終わってはパトレイバーではないというのは当然なところ。だからいつもの落ちへと向かって、さて怪獣はどこへと向かった? 押井さん曰く、怪獣は出すより帰ってもらうのが難しい。そして「大怪獣現る」ではどうしたか……ってのもやっぱり見てのお楽しみってことで。とりあえず理屈は付けているけどそれが誰かの妄想だった可能性もないでもないし、行く末に待っているのが本当だったらそれこそ大変。でもだからといってそこでパトレイバーが活躍することはない。だってあそこで鉄砲撃って大騒ぎして帰っていくのがパトレイバーだから。そして戻ったパトレイバーに熱海の記憶も経験も残ってないんだから。そういうもの。だから「タイムドカン」で吹っ飛んだ特車二課も次には平気に復活して鶏小屋も元通り。本気で悲しんだ山崎弘道さん役の田尻茂一さんも、再建というか何事もなかったかのように立つ鶏小屋で卵をとっては食べさせているんだろう。それは哀しくないのか。やっぱりよく分からない。

 ちょっとだけ間を挟んでからピカデリーに戻って、今日が初日の「ルパン三世」。もちろん実写版。当然に北村龍平監督。そしてやっぱり面白かったよ、って言うと驚かれるかもしれないけれども、僕は「VERSUS −ヴァーサス−」の頃から北村龍平監督の信者だし、そうでなくてもこの「ルパン三世」は、テレビや映画のアニメーションとあと実写でもって映像化されて来た「ルパン三世」の世界に並び時に上回ってすらいる「ルパン三世」になっているって断言できる。だって振り返ってこの何十年、どの「ルパン三世」が自分たちを満足させた? 宮崎駿監督作品として世に名高い「ルパン三世カリオストロの城」だってもう35年も前の作品で、それ以降に作られた数々の「ルパン三世」のうちどれが「カリオストロ」とか「ルパンvs複製人間」を越えていたって考えた時に、実写版「ルパン三世」はアニメファンの暖かい目に頼らず映画ファンの厳しい視線に挑み、そして見事に楽しめてなおかつ「ルパン三世」という映像を作り上げていたって言えるだろう。

 それだけでも凄いことな上に、ストーリーとしてちゃんと最後まで面白い。ルパン三世って希代のキャラクターの良いところを見せようとして、挙げ句にキャラクター映画になってしまいがちなところを抑えて、彼を若い泥棒たちの1人として位置づけつつ、他の泥棒たちを配置して裏切りがあって復讐があって悔恨があって友情があってといったアクションエンターテインメントに仕立て上げ、アジア全体の観客に向けて誰もがルパン三世って定型化されステレオタイプとなりお約束の上に成り立ってすらいるキャラに縋らず楽しめるようにしていた。テレビの30分シリーズならルパンの活躍だけで押せるけれども、2時間ある映画で、それも初見の人だっている作品でルパンってキャラに頼りすぎたらただのテレビの延長。そうじゃないところにいったん下げつつ、ルパンを見せルパン一家を見せながらアジアの俳優たちの活躍も見せようとしていた。

 もちろんキャラは外してない。次元大介の格好良さはテレビシリーズでデザインがちょい変化してしまった時以上の格好良さ。玉山鉄二さんの佇まいはもしも次元が実写になったらって命題にこれ以上ないくらい応えていた。コスプレじゃないけど次元そのものという、難しい線をこなしてみせてくれていた。凄いなあ。そして綾野剛さんの石川五エ門。悪くない。誰がやってもコメディにしかならない現代のサムライを演じて、しっかりあの世界の中に定着させていた。綾野さんがすごいのか脚本なり演出なりがすごいのか、その両方がマッチしたからなのか分からないけど浮き上がらず埋没もしないで、五エ門らしさって奴をちゃんと感じさせてくれた。さらに銭形警部の浅野忠信さん。浅野さんとしか見えないんだけれど銭形でもあるその風体。ハマってたなあ。ちょい正義を外すところがあるのは問題だけれど、それもまた新しさって奴で。

 さても気になる峰不二子だけれど、黒木メイサさん良かったよ、胸とかあまりに巨大すぎたらスタイリッシュでスピーディな峰不二子って演技ができなくなる。そうじゃなく色気だけで世を渡っていくのが峰不二子って話もあるけれど、でも「カリオストロの城」だって結構アクションしているし、最近の「次元大介の墓標」でもやっぱりアクションやっていた。戦う女が峰不二子とうならそのアクションを実写でも再現してみえなくちゃいけないとなったところで、スレンダーな上にナイスバディでもある黒木メイサさんが演じた不二子はベストなラインを走ってた。谷間だって見えたしふくらみだってのぞいたし。ちゃんとあるけどそれが演技をじゃましない。だから黒木さんはベストだったんじゃなかろうか。

 何より小栗旬さんのルパン三世がしっかりルパン三世になっていた。表情のふてぶてしさから口調の軽さ、そしてアクションの軽快さ。ルパンってあそこまでカンフー使いでもないけれども実写でおたおたしていたらやっぱりすぐにあられてしまう。それなりに格闘もできてなおかつ銃の腕も確かでそれでいてひょうひょうとした不思議なキャラ。ルパン三世のそんな像を人間として再現できる現時点で最高な人材を得たんじゃないかって言っても良い。そんな面子がそろって繰り広げられた映画のしっかりとまとまったストーリーは過去から現在まで、数多ある「ルパン三世」の中で決して劣るものじゃない、って思うんだけれど人は実写だからといって文句を言う。だったら最近のテレビスペシャルと比べて見ろって言いたいけれど、最近何があったっけ? まあ良いこういう感想がたとえ少数派だったとしても、僕は北村龍平監督を信じているし山本又一朗プロデューサーの衰えない挑戦意欲に敬意を覚えている。小栗旬さんの映画にかける思いも。そんな幾つもの思いが結実した映画。それが実写版「ルパン三世」なのだって、言ってもまだ信じてもらえない? いいさ僕が信じているから。また行こう黒木メイサさんのおっぱいを拝みに。あれは良いものだ。


【8月29日】 アカデミー賞の名誉賞に宮崎駿監督が選ばれたそうで、何というか目出度いけれどもこれで現役感が薄れてしまうってのはちょっと残念。もっと作って欲しいから。昔は黒澤明監督のように「羅生門」で1951年に1度もらいながらも1989年に再度もらったりした人もいたし、アニメーションだとウォルト・ディズニーが特別賞時代も含めて3度もらっていたりして、本賞に絡まなくても映画界にそれなりな名を残した人なら現役でももらえてたって感じがある。でも昨今はピータ・オトゥールやエンリコ・モリコーネやエリア・カザンといったお歴々が受賞していたりしてほとんど上がりだけれども今、讃えておきたい功労賞的な意味合いの賞になっていたから宮崎駿監督も、そんな1人として去年の引退発表が受け止められているってことなんだろうなあ、嘘なのに。いや分からないけど。

 そんな宮崎駿監督が関わらなかった「海がきこえる」に続く作品となった「思い出のマーニー」で美術監督を務めた種田陽平さんを取りあげた番組が、ちょっと前にNHKで放送されていたのを見たんだけれどもその美術へのこだわりようが凄まじくって、これはまた映画を見ていったいどういう効果を出してるんだと確かめてみたくなった。例えば窓の桟なんかを種田さん、ただ平ぺったく描くんじゃだめでどういう構造になっているかを教えて、そのとおりに角があって厚みがあるように描くようにと支持してた。あとは湿っ地屋敷の下に広がる海の色とか屋敷にかかる緑のディテールとか。それが変わっていったいどうなるの、ってことは監督の米林宏昌さんでもピンとは来なかったみたいだけれど、種田さんの強いプッシュを受けて分かりましたと受けて後工程に響く美術の直しを認めてた。

 それはだから今までの経験とは違う、今までにないことをやってみるんだという米林監督の意志の現れでもあったんだけれど、それが言えたのも種田さんがアニメーションの出身ではなく実写映画のセットを主に手掛けてきた人だから。実写においてそれが画面でどう見えるか、ってことについてのエキスパートが絵で描かれるアニメーションの美術を手掛けることによっていった何が起こるのか。それを米林監督も期待したし種田さんも応えようとした、そんな丁々発止があの番組で映し出された美術への細かい注文になったんだろう。番組では細かく描くことによって画面に奥行きが生まれるって話してた。

 そういう奥行きが省略とデフォルメの中にリアルを浮かび上がらせるアニメーションに果たして必要か、って思いも一方にあるけれど、それは作品次第。省略の中に際だった動きを見せるタイプのアニメーションと違って「思い出のマーニー」はリアルな自然の中にリアルな人間の心情を、ファンタスティックな描写も混ぜながら見せようとした。だから背景がリアルである必要があった、ってことになるんだろう。そして効果は? 2度見たけれどもそれは種田さんの本「ジブリの世界を創る」で読んでからが1度だけ。話には効いていた美術へのコダワリを映像として見せられた今、改めて映画を見てどういう風にそれが見えるのかを感じてみる必要がありそう。番組を見ていた人もきっとそう思ったはずだから、東宝は興行なんて気にせずこの映画をひたすらロングランして欲しいとお願いしたい。してくれるよね。

 というわけで江戸東京博物館で美術監督を務めた種田陽平さんによる生解説付き「思い出のマーニー×種田陽平展」。人が多すぎで種田さんの顔すら見られない人もいたようだけれど、幸いにして前目に詰めていって割と間近でお顔を見ながら話を聞き流していけた。テレビ番組の時ほど突っ込んだ説明はなかったけれど、マーニーの部屋の作り込みとか刺繍がいっぱいあるよという指摘とか聞いて見るとなるほどと思った。あとは壁紙の再現度。ちゃんと美術の人が描いたパターンを再現して貼ったみたい。それだけ売り出すとかしないんだろうか。でもあれだけの部屋じゃないと見劣りがするか。それから説明では、最後にもあるマーニーの部屋のセットは前のセットとは違いアニメの背景美術の用法で描かれているのでアンチエイジングとか窓枠の傷めいたものがぜんぶ手で描いているとか。遠目だと立体だけど近づくと平面。平面で立体に見せるアニメの手法を立体の上で使って見せたという不思議でユニークな展示はアニメの美術に関わりそこから学び与えもした種田さんならではの発想から生まれたって言えそう。

   原画とか美術とかはいつかまたどこかに並ぶ機会はあるかもしれないけれど、建て込みした物は前のアリエッティの時と同様、二度と見られない可能性も高いだけにやっぱりこの展覧会は見ておかないといけない気がする。サイロの作り込みとか本当に凄いものなあ、サイロ感が出ているっていうか、いると本当に怖くなるし、風雨にさらされている気になるからね。美術で分かったのはマーニーと杏奈が森に行くシーンの美術が男鹿さんで、嵐に立つサイロは武重さんだったってことか。なるほどらしいというセレクト。ほかはジブリのあれは若手なんだろうか、担当していて名前もあって頑張ってる感が感じられた。

 そんな美術スタッフも、ジブリが制作を止めてしまったとしたら一体、次はどこで仕事をするんだろう。別にそういう会社からきていたんだろうか、それともジブリの社員かは知らないけれど、これまでにない細かい仕事を「思い出のマーニー」ではしたことになるんだよなあ。窓の桟とか立体に見えるようにシャドウなりハイライトを入れてあるんだよ。平面で描いてたこれまでの技では種田さんに却下され、そして取り入れた新しい技を次に使う機会を与えてあげて欲しいなあ。ともあれ大行列になったギャラリートークの人並みをかきわけ前後に移動しながら何度も喋ってそれも笑顔で喋り続けた種田さんとっても良い人。テレビじゃ人にあんまり会いたくなさそうな感じを醸し出していたけど、でもやっぱり自分の仕事に誇りがあるからああやって大勢に話せるんだろう。いつかまた聞きたいそのお話。今の仕事じゃ無理だけれどいつかどこかで。

 諫め誹る声に若干の衝撃を受けつつも、淡々とキュレーションとやらのツイートを続けるネットなキュレーターの人のスタンスに、そうだったこの人は元からネット上にあるネタを集めて自分というフォロワーを大勢かかえた“メディア”を通して世に蒔くことによって、さらに自分を“メディア化”して大きくなっていったんであって、自分で歩き回って見て聞いて感じて思ったことを世に広めたいという衝動から、すこし身を引いたところにいた人なんだと改めて思ったりして、なるほどそれならネット上にあるネタをかき集めて紹介するサイトの行為に、関心を寄せていても不思議はないなあと思ったりしたのだった。自分で見に行くなり読むなりしてその行為を楽しみつつ、世に顕示したいささやかな欲もあって、出没と日記書きを続けている人間とはちょっと思考が違うというか。でもお金になるのはあっちなんだよなあ。こっちは出ていくばかりだけれど、それで良いのだ自己満足なのだから。うん。

 ホメオパシーか、うんホメオパシーねえ、信じている人がいるのはその人の心に依るものだから別にとがめ立てはしないのだけれど、公器と世に呼ばれている新聞等がそれを前向きに取りあげるのにいささかはばかりがあるのは、ホメオパシーによって健康が良くなったと主張する人がいる一方で、悪化し果ては命にまで関わってしまった人もいたりする状況があってそれで問題が起こっているから。厚生労働省が医学的なお墨付きを与えた訳ではなく科学的にもいろいろ厄介を抱えていて、日本学術会議が批判的生命を出しそれを日本医師会と日本医学界も支持したそのの主題を、公器であるところの新聞がまずもって広告として世に喧伝していいかという問題がひとつあって、それはあくまで向こうの主張の範囲と言い逃れは聞いても記事のような体裁でもって紙面に載せてしまうことはやはり拙いんじゃなかろうか。いやいやそう見えるだけで実は広告ですという言い訳もしたいんだろうけれどちょっと無理だし、それが通ってもネットには記事と区別を付けずにニュースとして乗せてしまっている。いわば公器がお墨付きを与えてしまった訳で、これで何か起こった時に言い逃れが聞くかというと無理だろう。でもやってしまったのはどうしてか。広告が載り記事めいたものが載ってウエブにまで載ってしまったこの流れをどう見るか。みんな貧乏が悪いのさ。


【8月28日】 日付が変わると同時に始まったTOHOシネマズ川崎での「攻殻機動隊ARISE border:4」の舞台挨拶付き上映のチケットを確保して、これで4作すべてを初日の初回、最初の舞台挨拶が行われる川崎で見ることが確定。都内でスタートすることが多い舞台挨拶だけれど、なぜか「ARISE」シリーズは川崎から六本木とか新宿あたりを回ることが多いんだよなあ、早朝では劇場にマスコミが来てくれないんで、来やすい時間帯に都心部へと戻れるようなツアーを組んでいるのかも。でもやっぱり最初に触れたいってのがこうした作品に対するアニメファンの心境。それが4度に渡って満たされて今はとりあえず充足している。この気持ちが作品でも続くと良いけどまあ、大丈夫だろう冲方丁さんの脚本なだけに。

 そういやあ「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第四章」もとりあえず今のところ全部で舞台挨拶を見られそう。場所がピカデリーだったり豊洲のユナイテッドシネマだったりと行き来はしているけれど、来るメンバーに変わりはなさそうでお尻の可愛い真野恵里菜ちゃんだけはしっかりこの目で見られそう。あと今回は押井守監督もちゃんと登場するみたい。前はカナダからとって都内で撮ったらしい映像なんかを流していたけど、今回はいったい何を話すのか。何しろ映画に怪しい怪しいプロデューサーが登場しているから、そのことについて何か話してくれるかな、自分をすっ飛ばして庵野秀明さんを後継者指名したくらいだし。怪しいプロデューサーは夜のトークイベントにも来るみたいなんでそっちも行こう。いきなり後継者指名したりして。あとは殴り合って決めろと。でも押井さんなら言うだろうなあ、「だが断る」って。

 目覚めるとそこは見たこともない異世界で、自分は勇者に転生していて国を魔物の侵略から救うとか、逆に魔王となって先代魔王の娘なんかを守りながら勇者に攻められ滅亡寸前の魔界を救うとかいった話がライトノベルでは大人気。加えて目覚めた勇者も魔王も決して負けない強さを誇っていたりして、ここではないどこかへと行って、今とは違う自分になれば何だってできるんだって可能性を見せてくれるってことで、自分の置かれた境遇に不満があったり未来に不安があったりする若い世代の支持を集めているんだろう。

 それは良い。小説に限らずアニメも含めたフィクションなんて願望を満たしてくれるための娯楽なんだから。問題はどれもこれも同じような設定ばかりになって、受け取る側でまたこれかよって感じに辟易とした気持ちがわき起こっているんじゃないかってことだけれど、少なくとも本の形で出てくるものは編集の手もはいっているんだろうし、他とは違った何かを見せたいってクリエーターの心意気も入ってそれなりに、工夫がこらされ新しい展開とか設定なんかも盛り込まれていて、目新しさの中にまたこれだけれどこれだから良いんだって気持ちにさせてくれる。

 オーバーラップ文庫から出たGibsonっていうギターだかカクテルだか分からないけどそんな名前の人による「銀河戦記の実弾兵器(アンティーク)1 高校生の俺が目覚めたら宇宙船にいた件」も、そんな目新しさを持った1冊。目覚めるのは異世界ではなく遥か未来の遠い宇宙で、酷い腹痛で入院したはずの高校生の一条太朗は、気がつくと何か部屋にいて奇妙な寝台の上に寝かされていた。起きてあたりを見渡すとそこには同じような装置が並んでいて中には何と白骨が。つまりはコールドスリープの装置で、太朗はそれにいれられ宇宙に出されていたらしい。そして4000人以上いた睡眠者でたった1人、生き残ってしまったらしい。

 自分の感覚では昨日まで高校生だったのが、いきなり絶海の孤島ならぬ真空の宇宙へと放り込まれていったいどうすればいいのか迷うもの。でも何故かコールドスリープの装置だという知識はあり、そして船内を探索してどうにかしようとする意志もあって太朗はあれこれ動き回って、そこで喋る球体を発見する。AIらしいそれは太朗を誘い脳に新たな知識を書き込ませることによってコミュニケーションを円滑にし、そして宇宙船をハイパードライブさせて人が暮らしている地域まで誘うんだけれどそこで出会ったのがサルベージャーをしているマールという少女。彼女がワインドと呼ばれる野生化して人間を襲うようになった人工知能に難渋していたのを助け、そして一緒に運送会社を設立して未来の宇宙に適応しながら故郷の地球を目指そうとする。

 何しろ誰も地球の存在を覚えていないという未来。存在すら忘れ去られている中で、与迷い子とだと思われながらも太朗は地球のことを知っていそうな学者を捜して宇宙に出る。そこでも襲ってくるワインド。そして増殖するワインドを見て宇宙に何か起こっているんだと感じるけれども、強力なワインド相手にそれで逃げ延びられるものではなく、軍事情報を上書きすることによって知識を得て、ピンチを切り抜けていく。代償を払って。そうここがちょっとしたポイントで、新たな知識を得るには過去の記憶を失わなくてはいけないらしい。

 知らず両親の顔すら忘れてしまったことに気がつき戸惑う太朗。いつか地球の記憶すら失ってしまうかもしれないけれどでも、新たに得た仲間を助ける時に新たな知識が必要になったら太朗はいったいどんな行動をとるんだろう、ってあたりがちょっと気になる部分かも。あと誰も知らないはずの地球のことを知っていた、元は球体型のAIで後にヒューマノイドのボディを与えられた小梅の正体なんかも。ちょっと優秀すぎるというか知り尽くしているというか。そんな謎なんかも引きずりながら進んでいくお話が向かうのはどんな地平か。そして太朗は地球へと帰還できるのか。今どき珍しい青春と冒険とアクションが混じったスペースオペラの新機軸。追っていきたいその完結まで。

 考えているみたいだなあ、ハビエル・アギーレ新監督。サッカーの日本代表に選んだメンバーを見ると、マンチェスター・ユナイテッドで出場機会をもらえずやっと出してもらえたリーグカップ戦でもケガをして退場して、そして4点を奪われ負けるというネガティブオーラを発揮してる香川真司選手が入らず、ブラジルの地でまるで仕事をさせてもらえなかった遠藤保仁選手もこちらは年齢もあってかやっぱり外れてて、ちゃんと選手たちのコンディションをちゃんと見ているっぽいところが伺えた。清武選手もそんな感じで外れたのかなあ。でも柿谷曜一郎選手は入ってたっけ。そこはポテンシャルを見てって感じか。

 注目を集めそうなのが、初の代表選出となったFC東京の武藤嘉紀選手で、現役慶大生って話がメディアをわんさか賑わせているけれど、その前はFC東京のジュニアユースとかユースでちゃんと活躍していた生粋のFC東京っ子。ただプロに行くかどうかのところで誘われながら、遠回りをして大学を選んだところが変わってて、そこで道が閉ざされる可能性もあったんだけれどしっかり部活でも選抜でも活躍をみせて、この春に正式にFC東京へと復帰した。そしてここまで7得点。その実績を鑑みつつ今期の活躍を見ればアギーレ監督だって選ばない訳にはいかなかったってことだろう。あとは始まるだろうスター・システムによって潰されないこと。ふてぶてしさが感じされた平山相太選手だって注目されて持ち上げられて結果を残せず消えてしまったんだから。武藤選手にも地に足を着けた活躍を期待しよう。

 そして他にもわんさかの20代前半組。鹿島アントラーズの柴崎岳選手やヴィッセル神戸の森岡亮太選手やサガン鳥栖の坂井達弥やアルビレックス新潟の松原健やサンフレッチェの皆川祐介選手あたりは、初招集だったり呼ばれていたけど試合には出ていなかったりした選手たちで、どちらかといえば安定志向で同じ選手ばかりを結果的に使って新陳代謝をなおざりにしたザッケローニ前監督の穴埋めを、ここで一気にしようって意気込みが感じられる。でも本当にアギーレ監督が選んだんだろうか、忸怩たる思いをかかえていた協会がこれをチャンスを若返りを図って突っ込んだんだろうか。分からないけどでも期待。あとは水本裕貴選手の復帰も。あれだけのセンターバックが軟弱で鈍重なブラジル代表組にどうして話って入れなかったんだろう? そんな思いもあっただけに復帰からポジション奪取、そして定着を期待だ。

 間近でアイドルが見られるというのでゲンロンカフェで開かれた大森望さんととしてSFマガジンの最新号でP・K・ディックの本を手に持っている西田藍さんのトークイベントを見物する。そうかそういう人なのか。まだ若いのに吾妻ひでおさんが大好きでたいていの本をコレクションしているそうで、いずれは河出書房新社あたりから出ていたアンソロジーに自分も参加して自分の表紙でもって自分が選んだ作品を並べて出したいそうなので河出書房新社の人は是非にとお願いして頂きたいもの。まだ選ばれていない女の子向けの作品なんかを並べたいそうで中でも「翔べ翔べドンキー」とうい作品がお気に入り。プリンセスコミックから出ていた本らしくその頃の吾妻さんの描く女の子のラインが顔立ちもボディラインも含めて良いらしい。確かにそんな感じだけれど手に入れるのは難しそう。「チョッキン」復刊が決まった復刊ドットコムで再刊しないかなあ。西田藍さんの推薦文付きで。

 いやいやだって雑誌だったら海外の雑誌に掲載された記事はちゃんとエージェントなりを通して翻訳して掲載して良いかを訪ねて許可をもらって、必要ならロイヤリティを支払って翻訳して転載するもので、それをやらず海外の雑誌から勝手に記事を翻訳して載せ写真もパクって載せたら大問題になるだろう。でもキュレーションの世界ではそういう着想がないのかそれとも裏でやっているけどカッコワルイから黙っているだけなのか、某旅の情報紹介サイトが海外サイトからの引用なのかそれを越える事態なのか難しい状況にあるんじゃないかと指摘され、さっそくだしたお断りが「参照元の表記漏れがあり」って感じにふるってた。

 おいおい参照元を書いておけば良いのか、それで住むなら新聞記事だって雑誌の写真だって参照元を書いておけばもって来放題ってことじゃないか。引用の要件を満たすとか言うならまだしも「記事内の各発言の著作権は参照元の写真・動画の発言者に属します。何か問題が発生した場合、著作権の権利者様ご自身からご連絡をいただきましたら、すぐに削除または適切な形で修正いたします」ってそれまでは知らん顔ってこと? 遠く海外のサイトが日本のローカルなサイトに持って行かれて翻訳までされて、どこまでがまるまるなのかどこにキュレーションというか、編集の要素があるか判断し切れない状況をいちいち咎め立てて言っては来ないと思っているならちょっと哀しい。なおかつそんなサイトをキュレーションとかで世に鳴る人がトップに座って運営している状況が胸苦しい。グレーゾーンで踵を挙げてピンポン奪取する寸前のような体制で行うバイラルメディアがいつまでも続くものなのか、それこそがバイラルメディアなのか。成り行きを見ていこう。


【8月27日】 さて個別に見ていくと第27回東京国際映画祭における庵野秀明監督作人の上映会「庵野秀明の世界」は、若い頃に作ったそれこそ島本和彦さんの漫画とそれを原作にしたドラマ「アオイホノオ」に出てくるようなショートアニメーション作品とかも上映されれば、後に続編が作られパッケージ化もされた「帰ってきたウルトラマン2」の前身となる「ウルトラマン」も上映されたりと、貴重なことこの上ない映像が目白押し。さすがに「DAICON3」や「DAICON4」のオープニングアニメの上映はないけれど、これは自分が関わったところだけを切り出すのが難しいのか描かれている物が大変なのかどっちなんだろう。

 分からないけどそういう感じに「風の谷のナウシカ」では有名な巨神兵が現れるシーン、そして「火垂るの墓」では撮影で真っ黒にされてしまったという満艦全飾のシーンといった具合に、庵野監督が手掛けた部分なんかが抜粋され上映されるというから、監督としてだけではないアニメーターとしての庵野秀明というクリエーターの技って奴を、大画面で見てとれる。上映リストには「超時空要塞マクロス」とかその劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」「メガゾーン23」なんかも入っていて、いったいどの辺りを担当したのかってことが分かるのも面白そう。「王立宇宙軍 オネアミスの翼」だとロケットが上がって行くシーンで散らばる氷になるのかなあ。

 あと「夢幻戦士ヴァリス」とか「メタルスキンパニック MADOX−01」とかは作品自体が触れられる機会もあまりないのでこれもやっぱり貴重かも。「トップをねらえ!」とか「ふしぎの海のナディア」とかになるともう普通に見られるから良いんだけれどその辺りになると「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビシリーズ全話上映って奴が大きなポイントになって来そう。いったいどれが上映されるんだ。テレビ上映版なのかそれともDVDとかに収録されたバージョンなのか。ラスト2話とかどっちなんだとかちょっと気になる。普通にテレビ版が良いかなあ。「ポップ・チェイサー」は……やっぱりないや。

 実写だと「ラブ&ポップ」が懐かしい。あの柳原白蓮こと仲間由紀恵さんがまだ初々しい水着姿って奴を見せてくれていたんじゃなかろうか。今から16年前だと年齢は18歳とかそんなくらい? 美少女だったよ当時から。他には平成ガメラシリーズにも出ている手塚とおるさんとか、「ルパン三世」の実写版で銭形警部を演じていたりする浅野忠信さんとかも登場。浅野さんは無精ひげが怖さを醸し出すちょっと前の美少年然とした、不逞でもって狂気を見せるような演技がとっても怖かったっけ。三輪明日美さんとかマジに怖そうな演技をしてたもんなあ。「式日」は劇場で観たけど意味が分からなかったから再見したいところ。「キューティーハニー」は……これはいいか。

 評判になりそうなのが記者会見でも触れられていた「空想の機械達の中の破壊の発明」ってジブリ美術館の展示物に紛れて上映されていたもので、それこそiPadより小さいサイズで上映されていたらしいけれども実際はスクリーンに耐えられるくらいのクオリティを持っているとかで、それが待望のスクリーンにかかる。見逃せない。音声は会見では5.1chって話していたけど実際はドルビーSR。どっちにしたって凄いじゃん。それを小さいところで流すなんて宮崎駿監督はなかなかのイケズ。「自分は大きいところでかけるんですよねえ」って庵野監督も笑ってた。あとコンテを勝手に描き直したりしたとか。ってことは巨匠2人の合作ってこと? やっぱり気になる。新劇場版も大きな画面で見られる機会ってそうはないからやっぱり見ておきたいかなあ、「Q」だけでも。だって「Q」を見ると陽気で明るく若々しいシンジもアスカも見られないよ。そんな気分。次はいったい何時なんだ?

 2013年まで連載されていたといっても話題になって盛り上がったのは1990年代の後半あたりで、昭和の残り香が漂う時期ならではの峠への熱情とか彼女との使いなんてものが分かる時代でなければ観てもサッパリな気がしないでもない「頭文字D」が、2010年代も半ばにさしかかった今になって劇場映画化されるというこの状況は、陸続と生み出され続けているコンテンツに魅力がなくって、やっぱり過去に遡ってヒットしたものを引っ張り出すしかないのかそれとも、当時それらに夢中になった世代が決定権を握る年になって思い出を入れ込んで企画化してゴーサインを出しているのかどっちなんだろうかと考える某劇場。

 とはいえ観客は決して空っぽではなく、それなりに入っては3DCGで描かれたAE86トレノとそれからマツダのRX−7との対決に見入ったりしているのは、作品が時を越えてしっかりとファンに広がっている現れなんだろうなあ、声が宮野真守さんだからってことで観に来て楽しめる作品でもないし、普通に青春していて対決もあって勝利もあるという王道を行くストーリーが、時代を越えて観る人たちを引きつけているってことなのかも。自動車を知っていればとてつもなく楽しめるけどそうでなくても大丈夫、ってのは主人公の拓海自身がテクニックはあっても自動車に素人で、それをだんだんと学んでいく家庭が素人のファンを一緒になって引っぱっているのかもしれない。分からないけど。

 というか「頭文字D」どころか新宿ピカデリーでも最大規模のスクリーン1で上映されててそこに満杯近い観客が入る「ホットロード」っていったいいつの原作なんだとか、やっぱり好調が続いている「るろうに剣心」っていつ「週刊少年ジャンプ」に連載されていた漫画なんだといった声だって出そうな映画状況。見渡せば1980年代から90年代にかけて人気だった「機動警察パトレイバー」の実写版が控え、その先には25周年を迎えた「攻殻機動隊」の新作アニメーション映画も待っていたりする映画興行の世界はやっぱり、時代の感覚が大きくズレているような気もしないでもない。おっと「ルパン三世」と「寄生獣」の実写版を忘れてた。どっちも歴史、長いよなあ。

 でもそうした過去に縋らざるを得ないのはアメリカだって同様で、「バットマン」に「スパイダーマン」に「スーパーマン」に「トランスフォーマー」とどれも昨日今日生まれた作品じゃない。「ゴジラ」なんて60年前だよ。でも作られそして受けている。最新のものを熱いうちに届けるんじゃなく、過去から人気だったもののその人気ぶりをしっかり汲み取って映像の形にして見せることによって、過去のファンと新たなファンをともに獲得できるというのがあるいは、こうしたリバイバルブームの根底にあったりするのかも。新しいもので勝負して未来を作り上げるだけの性根がないとも言えるけど。「ターミネーター」に「ブレードランナー」に「スターウォーズ」と当時はどれも新作だったよなあ、そして成功したり伝説になった。そんな状況の再来を期待した方がいいのか、安心して楽しめる物を観ていくのが良いのか。とりあえず新作の「スター・ウォーズ」を観てからその是非について考えよう。できるのかな。

 宇宙人がやって来て高校生たちと交流する、っていうとそうそう、エドワード・スミスさんの「侵略教師星人ユーマ」ってのがあったメディアワークス文庫だけれど、圧倒的なパワーを持ちながらも地球人を虐げず、むしろ親身になって教育し、それを脅かす敵が現れたら徹底して戦うという宇宙人を主人公にした新味があって面白かったにも関わらず、2巻でもって刊行が止まってちょっぴり残念に思っていたところに登場したのが、つるみ犬丸さんの「駅伝激走宇宙人 その名は山中鹿介」って本。読むと文字通りに宇宙人がやって来ては、駅伝部を作って同級生との勝負を引かれていた少年とか少女の中に入っていろいろ協力したり、逆に協力してもらったりして交流を深めていく話が繰り広げられる。

 といってもスーパーパワーとかはなく、父親と娘で来た方の娘の宇宙人で美少女の小夜が駅伝のメンバーになって走ったりするとか、そんな感じ。でもってそこでも超人的な能力は使わず、才能はあるけどそれを地道な鍛錬によって伸ばしていくといった展開は、駅伝をテーマにした青春スポーツ小説に近いかも。全体もそんな感じで、そこに主人公の少年が抱えていた、3キロを過ぎたら走れなくなるトラウマが突破されていくドラマもあるけどやっぱり宇宙人とは関係ない。ただ単純に青春スポーツ小説としてしまっては、過去に数多ある小説に並んでしまうところを、宇宙人でそれもかつて地球にあった尼子家に仕えながらも、宇宙に帰っていた一族が、戻ってきて尼子家の子孫を捜すという設定を混ぜ込んで、過去と現在を繋げてみせる。

 何しろ山中鹿介あ。月よ我に七難八苦を与えた前と呻吟して、尼子家再興だけのために走り回って最後は討ち死にしたと言われる男が再来した訳で、戦国時代に栄え滅びた者たちへの思いってのを改めてかき立ててくれる。そして宇宙人の進んだテクノロジーと追い付いていない倫理や、人権の問題を描いてみたところもあって、普通ではないシチュエーションを感じさせてくれる。地球でもある差別の問題と裏腹なシチュエーション。それを乗り越える優しさはあるいは地球を救い、宇宙すらも救うかもしれないと思わせる。最後の最後で宇宙的テクノロジーが発揮されるけれどそれも無理になくても通じたかなあ、あとは続編があるかどうかだけれど地上では片づいてしまった物語を、今度は向こうの星に乗り込んでいくことで再会されるなんてこともありかも。政争とか混迷に駅伝で決着をつけるとか。そこで地球の技術を獲得した小夜が頑張り名実ともに市民権を獲得するとか。そうなるかどうかはともかく、ちょっと期待。続くかな。


【8月26日】 まさかメディアワークス文庫でそれも綾崎隼さんで「冷たい方程式」を読めるとは。つまりは酸素と燃料に限界の宇宙船の中にいるメンバーで誰かが死ななければ生き残れないという過酷な条件下で、誰がいったいどういう判断を下すかというゲームでありパズル。そして酸素ってのは代謝を遅くすれば予想以上に長く保つものだとかいった計算や、現地までの到着に必要な燃料もやり方次第では保たせられるといった計算も働くようになって、昔とは違って抜け道も見つけやすくなっている状況で綾崎隼さんは「未来線上のアリア」(メディアワークス文庫)で結構練られた設定をぶち込んでは誰かが確実に死ななくてはいけない状況へとメンバーを追い込む。

 過酷な環境となった地球から大勢が遠くにある惑星へと船団を組んで移動することになった未来。80年近いコールドスリープから最初に目覚めて星へと人類を導き現地を整備し住めるように改良するために選ばれた人たちがいたけれど、それより先に目覚めて準備をしているはずの艦長が死んでいたから驚いた。調べると酸素を作り出すのに必要な装置とかが隕石にあたって吹っ飛んで、目覚めた面々を現地まで生き延びさせるだけの酸素が不足するらしい。そこでまず自分が死んであとは目覚めて来るメンバーに託したといったのが状況から分かることだったけれど、だからといって残されたメンバーも全員が生き延びられるのではないと分かって動揺が走る。

 それぞれが文系理系等々で突出した才能を持っているメンバーで、だからこそ先陣を切るように目覚めさせられた訳だけれどもその中でも軽重があって例えば法律の専門家や刑罰の専門家、財務の専門家に文化の専門家といった面々は医者や科学者や環境学者に比べて現地で必要とされる度合いもタイミングも違ってくる。たとえ文化の担い手がいなくても後から目覚めてくるメンバーにいるならそれがカバーすれば良いといった考え方。だから投票で誰が死ぬかを決めるとなって、最初に選ばれるのが文官であり財務官ということになりそうだったけれどそこで異論を唱えたのが医務官の青年。というか表向きは努力すれば何とかなるということを探すべきだということあったけれど、内心では文部官の女性に心を寄せていて是非とも生き延びて欲しいと思っていた。

 だからどうにか救おうと動いたけれども投票は残酷に文部官の少女を死に追いやった。はずだったけれどそこから始まる混乱とそして転倒の展開。誰かが艦長を殺したかもしれないという疑惑が持ち上がり、そして厚生官の女性が女王然とした振る舞いを見せて刑務官や法務官を従え別の誰かを死に追いやろうと画策する。ターゲットは絶対に必要とされているはずの科学官の女性。超然とした口振りで自分の優位性を信じ誰にも阿らないその態度が軋轢を生んでいたようだけれど現実、科学官を死においやれば現地に到着したら船団は崩壊しかねない可能性が高かった。

 じゃあ誰が死ぬ? といった混乱の最中に起こった奇跡、あるいは異常事態。その正体が判明し、そして誰が何をどうしていたかが分かって見えてくるのは一方通行の愛の虚しさと尊さといったもの。絶対に文部官を生き延びさせたいと願った医務官の青年の思いがあり、そんな医務官に向けられた別の角度からの思いが重ならずすれ違いもせず、ただただ一方だけを向いて虚空へと消えていくのがどうにも切ない。それでもやっぱり思いを貫き続ける態度にも。自分をワルモノにして犠牲にもして愛を貫けるのかと問う物語であり、誰かが振り向いてくれないと分かってもそれでも愛を向け続けられるのかと問う物語でもある作品。それを成り立たせている「冷たい方程式」の世界をバージョンアップして、抜け道を塞いだテクノロジー的な設定も見事。まさか綾崎隼さんにこういうのが描けるとは。SF。そしてミステリー。何よりラブストーリー。愛の牢獄から抜け出す道を探れ。

 たとえば誰かに何かの噂があるなら、その噂の真偽について当人なりに当てて確認をとるのが、名前を挙げて何かを報じる時のセオリーで、それがなければ多分アメリカの新聞なんかは絶対に書かないし、書けないだろうってことはウォーターゲート事件なんかの調査報道の厳密さなんかを見ていて感じるところ。権力に戦いを挑む上でどこかに誤謬があっては、相手に反撃を与え組織自体を破滅に追い込みかねないから、何が何でも不透明なところはなくしておこうとする。そういう手間を省いて、街の風聞を元にしてそれが事実か虚実かはともかく実名を挙げて書いてしまえば、当然のように当事者の状況が調べられ、報じた内容が事実か虚実かが問われることになる。

 そして虚実なら書いたことは完全なまでの誤報となり、それで誰かの名誉が傷つけられたのなら完全なる罪となる。権力者に関する話だから虚実が出回るという状況そのものが良くないことで、それを報じることをもって権力者の資質を問うのは当然といった言い方もあるだろうけれど、それにもやはり限度というものがあって、だから引用元にされたといわれる現地の報道では、そのあたりを曖昧にして、固有名詞を外して誰かを直接的に傷つけるような真似はしなかった。けれどもどこかの報道は、そうした配慮すら捨ててうわさ話をそのまま書いて、特定個人に関する誹謗に繋がるようなトーンの報道をしてしまった。だから訴えられてそして今、起訴されようとしている。

 それについてもちろん権力による弾圧だという声は挙げるべきだけれど、一方でどこかのステップに瑕疵はなかったかも問われるべきなんだろう。過去にありもしない話を書いて訴えられて敗訴した経験もあるだけに、そこは慎重に行くべきだったのに目的が正しければプロセスは無視といったスタンスが、上から下から全体的に染みついて広がっていたからなんだろうなあ。だから踏み越えた。そして糾弾された。そんなプロセスへの自省なくして次はないと思うんだけれど、やっぱり目的のためには牽強付会も捏造すらも辞さない態度を取り付けるんだろうか。それで未来はあるんだろうか。今がまさに分水嶺。

 世間では鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿監督の後継者に庵野秀明監督を指名した、なんて話でもちきりで、東京国際映画祭の庵野秀明監督関連企画に関する庵野監督本人が登壇しての会見では、そのことしか話題にならなかったような雰囲気すら出始めているから忠告すると、そうした話は鈴木プロデューサが加わった囲みの席の冒頭で、庵野監督を推薦した理由として挙げたひとつのエピソード。そこにもちろん庵野監督の才能を認めているという真意もあるだろうけれど、でも庵野監督は別に宮崎駿監督の後を継ぐ訳でもなければ現時点で後を追いかけている訳でもない。すでにひとつの才能として屹立しては絶大な支持を集めているクリエーター。その人をただの後継者扱いして騒ぎ立てるのはどうにも居心地が悪い。

 けれども一般のメディアにおけるバリューでは、宮崎駿監督のみがアニメ界の代表として君臨し、そのご下命こそがすべての価値観を差配するといった感じになっているんだろうなあ、だから報道も庵野監督が誰で何をするのかといった話しより先に、宮崎駿監督のバリューの下、あるいは鈴木敏夫プロデューサのバリューの下で新たな才能が生まれているような雰囲気の記事になっている。そうでなければ気にもされないという状況はちょっと哀しいけれどでも、アニメファンがそれで憤るより以前にやっぱり日本のアニメーションって宮崎駿監督作品をのぞけば世界で決して知られた存在ではない、といった状況が現実にあったりする。それを誰よりも自覚しているのが庵野秀明監督その人で、会見では「海外の人に日本のアニメとか映画作品を観て欲しい。その力添えになれれば」と東京国際映画祭で自分がフィーチャーされた意義についてしっかりと語ってくれた。

 それは単に後継者指名とやらをされてしまった自分だけでなく、日本のアニメなり映画が自分をあくまで尖兵にして世界にもっと届いて欲しいと願っているという思いの現れで、「アニメーションを商品として外に出していけるものにしたい。それだけの底力は日本のアニメーションにはあるけれどチャンスがない。外に出られない。ちょっとでも外の方や色々な国に見てもらえるものになれば」とも言って映画祭をきっかけに世界に日本のアニメが知られ、出ていけるようになる可能性を訴えている。自覚があるんだろうなあ、国とかがこういうお祭りの中で日本のアニメは世界一ぃぃぃぃぃぃと叫ぶほどには、現場のクリエーター感覚として日本のアニメはまだまだ世界に知られていないし儲かってもいないということへの。

 だからこそのクール・ジャパンなんだけれども国はショッピングモールだのフードコートだのファッションだのにシフトしゼネコンとか商社とかにお金が回ってアニメにはどんだけか。もちろん食もファッションも広がって欲しいけれど“本来”が蔑ろにされかかっている状況は何かちょっとやっぱり気になる。庵野さんの“参戦”でもって風を呼び戻して欲しいって気もあるけれど、国にあんまり期待してもしょうがないって覚悟もあるみたいだった庵野さん、日本のアニメが先進的であり続けるために必要なこととして「経済的な援助」をまず挙げたけれど、そこでは国の援助ではなく、民間の活力アップを通して全体が潤っていくことの必要性を訴えた。

 「食べられなくて辞めていく人がいる。人並みの生活ができるくらいの制作費があれば、技術は生き残れる」という慟哭にも似た指摘はなるほど事実。とはいえ現場にどうやったらお金が回るようになるかという仕組みもなかなか作りづらい状況で、どこに転換点を見いだすべきか、ってのがこれからの問題になっていくんだろう。それをだったら東京国際映画祭の総合プロデューサーになったとかいう秋元康さんが何とかしてくれるかというと……。いやいや秋元さんだて「ナースエンジェルりりかSOS」という傑作を世に出したアニメ人、その知性を信じて何かしてくれると期待しよう。庵野さんは言った。「いろいろな国の事情や風土を越えられるのがアニメーション」。アニメの力を信じて広げていく意味を、だから僕たちにではなく政府に向けて、秋元さんの力で訴えていって欲しいなあ。してくれるかなあ。


【8月25日】 それを聞いてなぜか真っ先に思い出すのが映画「ガンジー」の監督だというのは、多分当時むさぼるように読んでいた「POPEYE」って雑誌で毎号のように映画が特集されていて、そこに「ガンジー」も紹介されていて監督名も乗っていてそれで擦り込まれたからなんだろう、リチャード・アッテンボローという名前。それはロビン・ウィリアムスも同様で、亡くなった時に経歴を振り返ってなぜか真っ先に実写版「ポパイ」でのアニメや漫画にそっくりな風貌って奴が浮かぶのと一緒で、情報が今ほど目一杯に入ってこない時代においてテレビと新聞、そして雑誌が新しい情報に接することができる数少ない窓だった。

 とりわけ繰り返し見られて、最先端の情報がより抜かれている雑誌が与えてくれた情報は、若い脳に擦り込まれて今に至る強烈な記憶になっているってことなんだろう。本当にいろいろな情報が載っていたんだよ、1982年ごろの「POPEYE」って。 だから亡くなったという話に添えられて映画「大脱走」のバートレット中隊長を演じたのがリチャード・アッテンボローだって話を聞いて、「あれそうだったっけ?」と思ったほど情報が偏っている自分。でも、その演技はとてもよく覚えていて、がさつなアメリカ兵とは違って捕虜として連れてこられた英国軍のバートレット中隊長のどこか高慢でインテリっぽい佇まいに、何か嫌な奴然とした思いを覚えたけれども、それなりの指導力を発揮して脱走を成功させてそして国境を越える列車に乗ろうとしたあたりだったっけ、安心感からポカをやって捕まって収容所へと送り返される途中で悲劇的な状況に陥った姿を見て、彼もまた人間であったんだなあって思いつつ、ゲシュタポの非道さへの憤りを覚えたっけ。

 あとは「ジュラシックパーク」に出てきた爺さんも今にして思えばリチャード・アッテンボローだったとか。節目節目に存在を感じながら積極的に見ていなかった偉大な役者の訃報に接し、追悼を。「大脱走」はしかし本当に面白かったなあ。名優たちがそろい踏み、って今にして思えばそうだけれども当時はそういったオールスターキャストといった雰囲気で受け止められたんだろうか。後に誰もが有名になって大スターとなっていった役者たち。でもスティーブ・マックイーンもいなくなり、ジェームズ・コバーンもチャールズ・ブロンソンもドナルド・プレザンスもいなくなってジェームズ・ガーナーも先だって亡くなって、後は誰が残っているんだろう。バートレットを逃がそうとして駅頭で撃たれるアシュレイ・ピット役のデヴィッド・マッカラムくらいか。緊迫したシーンだったような記憶。なんかまた見たくなって来た。劇場でかからないかなあ、家で見ると絶対に飛ばしてしまうから。

 飛ばして見たくなる気も満々だけれど、ついつい見入ってしまうテレビアニメーション版「魔法科高校の劣等生」は、論文コンテスト編というか横浜騒乱編に突入して激しいスパイアクションがあるかと期待したのに、繰り広げられるのはラブコメチックなカップル間の描写があっちやこっちやそっちでいろいろ。本家の司波達也と深雪の間のいちゃいちゃこそなかったけれど、論文コンテストに出る選手を守る警備の面々が道場に入って食事を始めたその中で、吉田幹比古が眼鏡が特徴の柴田美月と寄り添って話し始めた姿を同じ道場に座っていた面々が、男子はコノヤロウといった目で幹比古をにらみ女子は何が交わされているのかと興味津々の目でカップルを眺めていたのを筆頭に、レオンハルトとエリカの偶然着替えをのぞいてしまいましたシーンとか、あちらこちらで温度を上げるような事態がが繰り広げられていて、登場人物でなくても顔がホカホカと火照ってくる。緊張感ないよなあ。

 でも、余裕ありすぎる時間をじっくりとねっちりと描くことで生まれる奇妙な間、って奴が逆に展開に目を見入らせる要因にもなっていそう。あとはカットされても仕方がないような描写がちゃんと描かれることによって生まれる注目シーンの数々とか。幹比古に掴まれる美月の胸とか実に柔らかそうだったし。スパイの平川千秋を逃げ出さないようにして固めていた戦闘力皆無にして合気道の達人という保険医の安宿怜美の白衣からのぞいた胸元とかも、やっぱりとってもふかふかそうだったし。あれだけ周囲にいっぱい美女に美少女がいるのに、司波達也が深雪にしか興味が向かわないのはそういう風に作られているからなのか、そういう趣味なのか、それをやったら深雪に凍り付けにされると分かって恐れていくからなのか。どっちにしても勿体ない話。馬に蹴られてしまえば良いんだ。

 これはどこの現代文学なんだ。英国かドイツかフランスかイタリアか。なんてことすら思ってしまったけれども刊行されているのはMF文庫J。すなわちライトノベルという縹けいかさんの「モーテ −水葬の少女−」(メディアファクトリー、580円)は、これからちょっとした騒動になるんじゃなかろうか、ライトノベル読みの間で、ってことはやっぱり世間的には知らん顔をされそうだけれど、それでもあえて言っておく、これは凄い小説だと。10代のうちに“自殺”してしまうという、奇妙で稀少な遺伝子の病にかかった「モーテ」という存在が世界中にいるという設定がまずあって、そしてサーシャ・ボドワンはドケオーという孤児ばかり集められた施設へと入って、誰かに引き取られるまでの間をそこで過ごすことになる。ドケオーにはひとりひとりりにフォスターという指導者的な役割の大人がついて相談事にのったりしていて、サーシャにはジャンカという名のフォスターがついている。

 そんなサーシャが男子寮へと行くと、なぜか手首から血を流した少女が部屋に入ってきた。いったい誰だ。どうして手首が血が出ている。聞くと少女はフォスターに切られたと答えた。どうしてそんなことをフォスターがしたのか。やがてどこかに言ってしまった少女のことを、同室のヤルミルに聞いて分かったのはマノンという名前で、ドゥドゥというまるで幽霊のような顔をしたフォスターがついているという。そしてドゥドゥには関わった生徒たちが次々に死んでいくという噂があって、なおかつサーシャの本当に目の前でサーシャやマノンにちょっかいをだしていた生徒が墜落死してしまう事態が起こる。サーシャは考える。このままではマノンも殺されてしまうかもしれない。そして選んだ道のその先で、ドゥドゥとマノンをめぐるもうひとつの物語が語られる。

 目の前の事実はたしかにひとつの事実ではあるけれど、そこから受けた印象が真実だとは限らない。そして目で見えることが世界のすべてはない。幽霊のようなドゥドゥの正体。か弱く虐げられた少女マノンのその真実。サーシャとマノンとドゥドゥにまつわる物語のその裏側、巻き戻された時間の中で紡がれたドゥドゥとマノンの物語から「モーテ」という奇病によって突きつけられた迫る死への恐怖があり、それに対して何の手もさしのべられないことへの苦悩があり、けれども諦められない切なる思いがあって、だからこそ心を傷つけられ身を苛まれながらも誰かの幸福を願って生き続ける辛さがあることが浮かび上がってくる。表層に流され激情に動かされることは罪ではないけれど、犯してしまったことへの罰はあるべきだろう。サーシャはそれでどうなったか。気になるところではあるけれど、その傍らで花開いた幸福があることを喜び、静かにページを閉じたい。生きること、生き続けることのその意味を問い、語る文学。それがMF文庫Jで何故。そこがやっぱり分からない。


【8月24日】 浪人はしていないから1年間をみっちり通ったことはないけれど、あまり自信がない科目なんかを選んで聞いていたことがあって、名古屋の駅西にある代々木ゼミナールには高校3年生の1年くらい、単科ゼミを取るような形で足を運んでいたことがある。それとも夏期講座だったっけ。待ち合わせ場所として有名だった名古屋駅の壁画前を横に抜け、こぢんまりとした地下街のエスカへと降りて北の端へと歩いてトンカツ屋の「矢場とん」前を通って端っこの出口から歩くとすぐに立っていた後者は、その前に短期集中講座なんかで通ったことのある河合塾とは違った新しさがあってもし、浪人する羽目になったらそっちに行く方が気持ち的には良いかなあ、なんて考えたかというとあまり浪人する気がなかったのは、受験に対して妙な自信があったから、あんまり未来を考えていなかったからなのか。

 結果として卒業をした大学にひっかかって、それもまあ希望の文学部の史学科だったんで良かったんだけれど、その時にもしかして役だったかもしれないとしたら、単科ゼミだか夏期講習だかでのぞいていた英語の講義が漫然として頭に残って、入学試験の英語で思いの外高得点がとれたからだったような気がしないでもない。ダミ声で有名な中村稔さんとう講師だったっけ。歴史と国語については満点とはいかないまでも高得点を取れても英語だけは苦手でそれがネックとなって、英語の配点がやたらと高いいりなか辺りにある大学は落ちてしまったし、ほかもあまり良い感じではなかったから、英語で得点を上積みできたのが結果として合格に繋がった。それが代ゼミの講義のお陰かどうかは推測だけれど、それなりに悪くない思い出がある代々木ゼミナールが何か大変なことになっている。

 大半の校舎を閉めて首都圏と大都市圏に集約するとかでもし、閉鎖される校舎に通っている予備校生で、今年度も合格できなかったらどこに行ったら良いんだって動揺して、試験に手が付けられなくなってしまうかも。他に予備校はいろいろあっても受け入れる方だって地方でそんなに“転校”してくる生徒は受け入れられないし、新たに生まれる予備校生だって増える訳でいったいどうするんだってことになりそう。もしかして試験をして入校の是非を決めるとか? そして生まれる予備校浪人という屋上屋を重ねたというか底辺の底にさらに下があるというか。でも衆生を遍く救うなんてことをしようにも、これからの少子化でなおかつ大学の拡大なんていうダブルパンチに挟まれて、予備校なんてどんどんとお客さんとしての浪人生を失っていくだけ。公共性というものが果たして予備校にあるかは迷うけれどもビジネスとして判断し、切り捨てて経営資源を浪人生については集約し、現役生の進学塾へとシフトしていくのがやっぱり筋だったってことなんだろうなあ。そのためにSAPIXを参加に入れた訳だし。

 とはいえ少子化という現実はさらに色濃さを増してそして予備校生が減った次は大学生の減少という現実が待ち受けるというか、すでに起こっている状況でこれからどんどんと大学も減っていくことになるんだろうなあ、別に卒業したからってそこから良い会社に就職できるなんてこともなくなっているようで、だったら堅実に公務員とかに合格できるようなカリキュラムを組んで始動してくれるような学校なりが文系では重宝され、そして研究者というよりはむしろ作業員的な感覚でもって技術を仕込まれた理系が育まれるような、就職予備校的大学へと様変わりしていくという、その果てに来るのは知の凋落か、それともしっかりした場所ではしっかりと叡智が育まれそれ以外は有象無象扱いされる格差の拡大か。っても別に東大とかが世界に優れた業績を残してトップ10に入っている感じでもなし。つまるところは日本全体の地盤沈下が進むだけという、そんな未来。どうするのかねえ、安倍ちゃんは。ただプライドだけが満たされる歴史教育なんかやってる場合じゃないだろうに。

 せっかくだからと幕張メッセで開かれている「キャラホビ2014」を見物。艦これ一色、って感じもあったのは専用ブースが出ていたり各所でスタンプラリーをやっていたり連装砲ちゃんの大きなフィギュアなんかが突っ立っていたりしたからだけれどでも、こうした盛り上がりって果たして世間のどこまで通じているんだろうか、って考えた時にやっぱりパソコンだけでしか楽しめないゲームでそして、キャラクターが女の子ばかりで内容みミリタリー系のシミュレーションとあって、長い歴史を持った「機動戦士ガンダム」とか「ウルトラマン」とか、子供たちに大ブレイクしている「妖怪ウォッチ」ほどには浸透していなんだろうなあ。SNSで大ヒットした「ドラゴンコレクション」ほどにも。そんなプロパティがいったいどれだけの範囲で濃く盛り上がるのかってのが目下の興味で、アニメーション化で一気に範囲を広げるか、それとも同じ集団が盛り上がるだけに止まるか。それを見てPCゲーム発のムーブメントの広がり具合って奴をちょっと検討してみたい。

 そんな会場でみかけたものではややっぱり「マ・クベの壺」がなかなかの人気。そもそもあんなに大きかったっけ、ってのが印象だけれど手抜かりなく商品化するからにはやっぱり、テレビ画面からオデッサ作戦に臨むマ・クベが眺めている様とかから大きさを割り出したんだろうなあ。質についてはノリタケが作っているから大丈夫なんだけれど問題はその値段で壺をかっていったい何を入れるのか、ってところ。北宋の白磁だかが元なんだっけ、覚えてないけど狭い口のあの壺に花を刺すにはちょっと壺が大きすぎる。かといって飲み物を入れるには口が狭すぎる。見て眺めるだけなのかなあ、そして自分の今際の際に「あの壺は良いものだ!」って叫ぶために購入するとか。いろいろな末期があるけれど、そういうのもありかもなあ。だったら僕は仮面の知人を作って死んだ後に「坊やだからさ」って言われたい。言ってくれても聞こえないけど。

 あとはネオジオングの食玩とか。1万円近いその値段にも40センチとかいうそのサイズにも驚いたけれどでも、そもそも何で食玩で出さなきゃいけないのかってところが最大の疑問だったりして、それがプレミアムバンダイって通販サイトで食眼ばかり扱っているコーナーがあって、そこで売られているシュナンジを元にしたらああいう大きさになっただけ、っていう逆算が必然としてあったってところで納得いった。そりゃしょうがない。とにかく無茶で破天荒な商品だけれどそれが作られる上で必然としてのストーリーがちゃんとあること、そしてそのラインに乗って真面目に作ってしまうってところがあるからきっと、惹かれてしまうんだろうなあ、マ・クベの壺も同様にに。笑わせつつも真面目さがそこにある良い笑い。お客さんの足下を見て売れ筋を狙いすぎてその売らんかなマインドを見透かされて拒絶されない良い取り組み。そんな取り組みをこれからも続けていって欲しいもの。次は何が出てくるだろう。G−セルフ用便座とか。TOTOと組んで。

 「ハイキュー!」を見てセッターの冷静さと観察眼がチームにもたらす影響力って奴を考え、それによって動かされるアタッカーのすごさなんてものを確認したことが尾を引いたのか、フジテレビで始まったバレーボールの女子代表による何とかって大会のたぶん決勝に近い日本とブラジルとの戦いを見ていたらタイーザって選手のデカさに脳がくらくらとしてきた。身長ももちろんデカいけれどもそれだけではないデカさは、あるいはジャンプした時に先っぽがかすってタッチネットになりはしないかというくらい。日本でもそんな心配があるのは果たしていたのかどうなのか。あるにはあるけどでもやっぱり。そんなところの格差を感じたりもしたけれどでも、やっぱり運動能力もケタ違いでエースブロッカーのファビアナ選手とか1人で斜めに打たれた日本のスパイクについていって止めてしまうなからやっぱりすごい。そういう選手たちを相手に日本はチームのすべての選手が良いところを出してそれを組み合わせて戦う総力戦。今はようやく歯車が噛み合いだしたところだけれど、より精度を高めていくことによって個の力で劣るところをカバーし総合力で上回っていくこともできるんじゃなかろうか、ってこれ、サッカーの日本代表にも言えることだよなあ。オシム監督が目指してたような組織力のサッカー。それがチームスポーツのこれからの潮流になっていくのかなあ。


【8月23日】 音七畔さんが出した「5ミニッツ4エバー」(集英社)はジャンプ小説新人賞の良く分からないけどそんな部門がある「’13Winter小説フリー部門の銀銀賞受賞作にしてSF。たぶんそう。白い衣装で髪まで白い天使めいた女の子が手にして配る風船をもらい割ってしまった4人・組に起こったのは、自分にとって大事なあることをするとそこから5分だけ時間が戻ってしまうという不思議。たとえば走るのが大好きな女子高生は、さあ走ろうとして駆け出すと時間が戻ってしまうから大変だ。朝食を食べて肉でいっぱいの弁当箱をもらい家を出て、学校に向けて駆けだした途端に朝食の場面へと戻ってしまう、といった具合。

 ただ走るのが好きなだけなら止めれば良いんだけれども彼女は陸上部の選手として競技に出ることが決まっていた。それが走れなくなった。だから出られなくなった。それこそ毎日の練習だってできなくなった。もう走るのを諦めるしかないのか。自分をライバルと思ってくれていた仲の良い同級生には事態を明かして、信じてもらえるとは思ってないけど向こうはそれを受け止めてくれたけど、でもどこか別の理由で譲ったと思わせしまったかもしれないと悩んでいる。いったいどうすれば自分のこのモヤモヤを払拭できるのか。そこで女子高生は考えつく。そして決意する。

 あるいは同級生たちから虐められている男子中学生。殴られて虐げられて、そこで泣いて涙を流すと5分だけ戻るようになってしまった。これはラッキーと虐められ殴られる場面を振り返ってひらりとかわし、反撃に出たりして虐められるのを回避するようになる。それ以外にも学校でテストがうまくいかないといった嫌なことがあったら、すぐに泣いて時間を戻していたら、同学年の女子中学生からどうして時間を巻き戻しているのかと突っ込まれた。なぜ知ってる? なぜ時間を戻したんだと彼女にはわかる? それは彼女も風船をもらったから。そして経験したから。

 泣いても泣いても取り戻せないことがある。それが痛いほどに分かる少女には、泣いて嫌なことから逃げている少年が許せない。だから泣くなと命令する。家までおしかけ泣かないようにと脅す。泣いて時間を戻せばどうして泣いたんだとバットをもって追いかける。そんな日々が積み重なって、そして少女のもう泣かない理由を聞いて動き出す少年の時間。そうなのだ。「5ミニッツ4エバー」は繰り返す物語ではなく、やり直す物語でもなくて、越えられない壁を乗り越えていく物語なのだ。

 大学生の青年。ようやくできた彼女と手を繋ぐと時間が戻ってしまう。繋ぎたいけど繋げない不満が2人の間をぎくしゃくとさせる。アルバイト先では同僚の女性が自分に関心を示す。靡いてもいいんじゃない? って思いもしかけたけれども大学生は決意するあるいは小学生3人組。そろって風船を割った3人は卒業式を終えて小学校を出ようとすると時間が戻ってしまう。学校から出られない。家族にも会えない。どうしよう。そしてどうにか脱出する。大切な時間から目をす向けて。それで良かった? だから考えそして実行する。

 そんな4編から成る「5ミニッツ4エバー」。5分であっても戻せればそれは武器になる。何だってやり直せそうな気がするけれど、その代償に失われるものがある。どうればいい? 選べばいい。乗り越えればい。我慢すればいい。理解すればいい。いろいろな方法が示されるけれど、でも大事なことはやっぱり絶対に逃げないこと。逃げていたって始まらない。だからどんな困難を受け止め越えていけ。そんなメッセージが4つのエピソードたちから流れ出て来る。ちょっとした不思議を得て人は戸惑い、それでも考え適応していく、そんな姿を見せてくれるという意味でうん、これはSFだ。そして困難多き時代に生きる少年少女に向けた青春ストーリーだ。

 後に小川一水さんとなる河出智紀さんとか、「ジハード」の定金伸司さんとかミステリーからホラーから青春から何でもござれに乙一さんとか直木賞作家の村山由佳さんとか、そうそうたる面々を世に出してきたジャンプ小説大賞こと今のジャンプ小説新人賞。音七畔さんもSF的な設定を入れて青春のもやもやを語るストーリーで若い読者を引きつけそう。そして文学へと流れても発揮されそうな才。だから次に何を書くのかちょっと気になる。天使のような少女が手にした風船はまだまだ多数。だからあるいは様々な、5分をやり直して乗り越えていく物語が、もっといろいろと読めるのかも。それにしても勿体ないなあ、手を繋げない女性より、積極的なアイスクリーム屋のアルバイトの女の子の方が魅力的に見えるのになあ。人はそれぞれ。

 国民から知る権利を付託されて新聞やらテレビといったメディアは国民ではなかなかアクセスできない官公庁なり政府なり国会といった場所に記者を置き記者クラブなんかも作ってそして日々会見だの取材だのといった行為を認めてもらっている訳で、つまりはそうした付託に応えて国民のためになる報道を行うことが何よりも大切な使命であるにも関わらず、とある新聞は1面でそれも地域によってはトップで他紙が行ったという“誤報”についてそれが明らかになってからもう何週間もたつのにしつこく糾弾し続けていたりする。それがどうした。それが何か国民の生活の向上に役に立つのか。例えば広島で起こった土砂災害が他の地域に広がらないとも限らない可能性のために、危ない地域を調べ啓発していくことが国民のためになるのではないか。あるいは上昇する物価と落ち込む生産に消費の関係が近い将来にどんな経済的な困難をもたらすかもしれない可能性のために、制作を総点検して糺すべきところを糺すのが知る権利に応えることではないのか。

 けれどもそうは考えないらしい。同業者の粗を見つけてなければ昔に遡ってあら探しをして瑕疵を見つけたらそれを論って鬼の首でも取ったように大騒ぎする。でもそんなことをしたって国民の暮らしは良くならないし、安全だって向上しない。ただ一部の勢力の気持ちが満足するだけだし、それに貢献できたと書いたものたちの心を喜ばせるだけ。そんな無意味を堂々とやっている報道機関が報道機関として存立していけるこの状況はいったいどうなのか。それこそ別の報道機関からの突っ込みが入って欲しいところだけれどでも、それすらも国民にとっては意味があまりない。やるべきは他にあると黙ってすべきことをやっている大人を相手に、わめきたてる子供の明日はどっちだ。やっぱりもうダメかもしれないなあ。とっくにダメだったりするんだろうけれど。ひーはー。

 「ガンダム Gのレコンギスタ」をTOHOシネマズ日本橋で見たよ。テレビシリーズだけれど巨大なスクリーンで見られて良かったよ。そしてストーリーはとっても楽しかったよ。世界観がまだまるで見えないんだけれどそれを飽きさせないようチアリーダーを挟んで目を引っぱり見させ続ける手腕が良かったよ、って意識してそうやったかは知らないけど。でもってだんだんと見えてきたけどまださっぱり分からないけど、見続けると何かだんだんと見えてくるものがあるんだと思うよ。テレビアニメなんだもん4話くらいから話が動けば良いんじゃないの的な。あとメカで何か懐かしい感じだなあって記憶を掘り起こしてうん、かがみあきらさんがスケッチしていたのに重なるんだなあと思ったよ。1人2人乗せて2本脚でとことこと走る乗り物とか、ずんぐりとした人型ロボットとか。スタイリッシュとは逆な感じ。ああいうのを今、持ってきた意味ってのが多分あるんだろうなあ、富野さん的に。意識していたかはやっぱり分からないけれど。ともあれあと2回くらいは見ておきたいかも。それでようやく富野さんが言いたい声優の演技のこれまでとの違いってのも分かるかも。うん。

 天気が心配だったけれども見上げると晴れ間も見えたんで西が丘へと向かいなでしこオールスターの見物。と言っても試合開始が午後6時半なのに早めも早めの午後3時に到着したのは何か横でイベントみたいなのをやっているって知ってたからで、到着するといきなり真っ赤な生き物みたいなのが歩いていて近寄って撮影、チーバ君だった。いつみても真っ赤だよなあ、ってか何でチーバ君が? どうやらゆるキャラグランプリか何かとタイアップしていたみたいで、ほかにもさのまるだっけ、ラーメンどんぶりかぶったポムポムしたのとか兜を被ってちょんまげのうなぎを切り落としたのを隠した出世大名家康君とか見知った奴らがうろちょろしていてなかなかの賑わいぶりを見せていた。

 そんな中に見えなかったのがゆるキャラ中のゆるキャラと言えそうなふなっ……ではなくくまモン。来るって聞いていたのにフリーゾーンになかなか現れなかったのは大にぎわいになってパニックを避けるためだったのかは分からないけど、入場列に並び始めた午後4時までには姿を魅せずだきつけずちょっと残念。それでも伊賀から来たくノ一とかみたりやたらと背の高い何かをみたりと楽しく過ごせた1時間。なでしこオールスターはこれがあるから楽しいんだ。屋台も出ていてせっかくなのでソーキ丼を食べたらなかなかの味。ほかにも屋台とか出してるんだろうか。どこかに出ているなら食べに行きたい。

 富士宮焼きそばには手を出さず行列に並んで開場待ち。そして入って眺めていたらフリーゾーンでは見なかったくまモンが現れ走ってた。やっぱり可愛いや。そしてピッチで始めたPK戦にはなぜかミルキィホームズシスターズがついてきた。何かサッカーと縁あったっけ。でも良いいろいろな場所に現れ存在をアピールするのは。3人いたけど来てたのは徳井青空さんと橘田いずみさんと愛美さんかな、メインスタンド前でうろついてたんでバックスタンドにいる僕にはちょっと見えなかった。でもPK戦の時とか寄り添って歩いてたんで割と近目で見えた。先週は「超電磁砲」と「ガルパン」で今週はミルキィホームズとはサッカー界にもおたくの波が徐々に確実に。

 そして試合は優れた選手がいっぱい出ていてなかなかの好試合。前半こそ浦和レッドダイヤモンズレディースとか日テレ・ベレーザとかアルビレックス新潟レディースとかが入ったチームがINAC神戸レオネッサの澤穂希選手とか湯ノ郷BELLEの宮間あや選手らを擁するチームに2点差を付けてリードしていたけれど、後半に入ってINACとかが入った側も盛り返して1点差とかになりその後も一進一退といった感じ。でもって後半から入った荒川理恵子選手とかがかつてのなでしこジャパン時代にも負けないキープ力展開力突破力を見せてまだまだ代表いけるんじゃんとか思わせてくれてそしてそんな荒川選手も入ったチームが3点目を入れて試合は終了。点差はちょい出たけどそれを感じさせない拮抗ぶりになでしこジャパンとなでしこリーグの未来にも安泰ぶりが見えてきた。巨大な山根恵里奈選手を見られなかったのは残念だけれどそっちは代表に任せよう。アジア大会、代表入りしているし。


【8月22日】 友達がいない僕にもし、最近流行の氷水をかぶるような晴れやかなアクションの指名があったとしたら、それは奇跡以外の何物でもないけれど、仮に受けたとして問題はそのアクションを映像として記録してアップしようとしても、友達がいないので誰もその様子を撮影してくれそうもないことで、いったいどうすれば良いんだと苦悩にまみれてのたうち回りそうな上に、いったい次に誰に回せば良いんだろう、友達でもないのに回して鬱陶しがられたり面倒くさがられたりするくらいなら、誰にも回さないのが良いんだけれどそれでは奇跡のように回してくれた人への立つ瀬がないという、そんな八方ふさがりの状況に懊悩して引きこもって、なおいっそう友達ができなくなるという暗黒のスパイラルに陥りそうな予感が今している。どうしたものか。実写版「僕は友達が少ない」のDVDでも見て隣人の作り方を学ぶか。友達じゃないじゃん。

 買ったのはいったい何年くらいの話だろうか、レーザーディスクとかビデオカセットで世に出ている「おたくのビデオ」というOVA作品があるってことくらいは知っていたけど、それがパッケージとして久々に出るって話を聞いてなおかつビデオCDというフォーマットで「おたくのVIDEO−CD」といういかにもなタイトルで出ると聞いて、これは快挙だと多分記事にした上で購入して見て、その揺れる胸とかに感動したんだったっけ。いわゆる乳揺れ作画の至高がそこにあった。

 もちろんストーリーとしてオタクというものが生まれ育まれ苦難を経て至上の存在へと駆け上がっていくストーリーの、ばかばかしくも憧れずにはいられない展開が、当時はまだどこか抑圧されていた日陰者のオタクとして、嬉しくもあり誇らしくもあった。そんな「おたくのビデオ」が遂にというかブルーレイディスクでもって発売されるとかで朝から話題に、っていうかDVDは出てたんだというのがようやく知った驚きだけれど、そこから14年とか経っているのも不思議な話で、売れる物は何度もパッケージになっても売れそうにないと再販される埋もれていってしまうのはGAINAX作品であっても代わらないんだなあと今どきのパッケージ事情を思って嘆息する。「ジェネレイターガウル」とか何で再発されないかなあ。

 ともあれ今、おたくが普通に市民権を得たような顔をして闊歩している一方で、カジュアルでライトで表層的であってもおたくと目され自認してしまえる時代に自ら行動し何かを生み出す“おたく”の姿が果たしてどこまで受け入れられるのか。テレビドラマ「アオイホノオ」で凄まじいばかりのおたくたちの日常を観てもただキモ凄いと思っているくらいで、それを情報として消費していくだけの状況ではやっぱり「おたくのビデオ」も昔の人はスゴかった的な需要で笑われ楽しまれ受け入れらては、消化されていくだけなのかもしれないなあ。まあ良い僕は懐かしくそして痛々しい気持ちを味わいながら、あの向こう側へと行かず止まった過去を悔いつつ見よう、乳揺れを。

 そうかナムコだから765秒か。って何の時間かというと閉じこめられた部屋から脱出するために与えられた時間。バンダイナムコグループのナムコが新宿は歌舞伎町の入り口にそびえ立つドン・キホーテの7階って絶好の場所に出した「なぞともCafe新宿店」ってのの内覧会があってのぞいたんだけれど、個室に入って謎を解くゲームのどれもが結構難しい。とりあえず手始めに時限爆弾を解除するような謎ときに挑んだものの壁に書かれたさまざまな問題を解いてもそれを数字に直して打ち込んだりする必要があって、なおかつそれが幾重にも重なっているから一筋縄では解答できない。もしかしたらああいったパズルが得意なミステリファンなら、こうれはこういう文法だって解けるかもしれないけれどそれだって、いきなり与えられた問題を解くのは難しいんじゃなかろうか。

 だから行く人は同じゲームに何度も挑むみたいで、代官山で同じ様な「なぞともCafe代官山」が開かれていた時は2回から3回は挑む人が多かったらしい。とはいえ2度挑んだところで1人だと煮詰まるのが人の思考の常ってやつで、そこを例えば前に経験したものの解ききれなかったプレーヤーと一緒に入ると、先にその人がどんどんと進めていってやっぱり行き当たった壁を、フレッシュな着想でもって突破していくこともできる。そういうコミュニケーションも生まれそうなスポットとしてこの「なぞともCafe」って賑わっていきそうな気がしてきた。10個ある問題のすべてをクリアするにはいったいどれだけ通う必要があるんだろうとは思うけど、こんどは期間限定じゃなく常設なんで機会を見つけて行ってみるか、ひとりで。だって友達いないもんん。

 もしも東日本大震災がなかったら浅田有皆さんの「ウッドストック」はどんな展開を迎えていたんだろうか、って考えることもあるけれど、普通にアメリカで成功してどんどんとのし上がっていきながら日本人が未だ見えない頂点にたどり着くドラマを描いたところで、連載を終えた「ウッドストック」のような感慨は覚えなかったような気がしないでもない。せっかくのアメリカでの成功を入り口で引き返してしまった楽たちチャーリーは、リードボーカルのスウが抜け要のあとに入ったベースの勝田も抜けて崩壊状態。でもそこに起こった東日本大震災がひとつのきっかけになって、音楽の力を試そう、あるいは音楽の力で何かできることはないかと足掻く展開から、東北の地を舞台に大勢の思いが結集するクライマックスへと進んでいった。

 それはひとつの勝利でもあったけれど、でも楽たちは勝ち負けよりも自分たちの音楽を欲してくれている人たちが世界に、そして足下に大勢いることを確認できた。そんな姿を漫画で見ることで僕たちは音楽がただ頂点を目指すものではなく、今を持ち上げるために必要な力の源なんだってことを教えられた。どこまでもエスカレーションしてインフレーションしていく音楽バトルなんて他にもあるしこれからも読める。でも2011年を挟んで連載された「ウッドストック」でしか描けなかったことがある。それがこの展開でありこのクライマックスでありこの結末。それを思うと途中からであってもリアルタイムでつきあえて本当に良かったと思う。ありがとう、浅田さんも編集さんも版元も。それにしても楽は椎名が好きだったのか。そしてどうなったんだ楽。まあきっと楽しくやっているだろう。楽だけに。音楽だけに。


【8月21日】 セレブたちがちゃかちゃかと回している間はまだ、世界のためになる振る舞いだと思ってながめていた「アイスバケツチャレンジ」って奴だけれど、だんだんとその話が広がり日本人が関わるようになって、その界隈の人たちが次々に氷水をかぶる映像なんかを出すようになって、どうにも面倒くさい雰囲気が立ち上ってきていい加減にどこかで歯止めをかけないと、気持ち悪いことになるなあと思い始めた昨今。というか被るか100ドル寄付しろって話で被るのはそもそもが間違った振る舞いな訳だけれど、いつしか被って自分を損なう行為が格好いいなんて空気が立ち上り、それに加えて寄付することも当然だなんて風潮が蔓延って、心底の善意の上にかすみのようにニセモノの正義感みたいなものが漂いはじめて来た。

 それを察して自分は寄付はするけど水は被らないとサイバーエージェントの藤田晋さんあたりがスパッと間違った連鎖を止めたり、海の向こうでも俳優のチャーリー・シーンが氷水の変わりにお金を被ってそれを全額寄付するといって、何が本来の目的なのかを思い出させようとしていたけれども日本では、そうした決断を逆にカッコ悪とか見る人がいたりするからたまらない。セレブが被ることによって問題が世に喧伝されたんだから意味がある、だからそれに棹さすのはカッコ悪いって考えなんだろうけれど、でももういい加減金額も集まったことだし、ここいらで切り替え世界を脅かす別の何かへと矛先を向けてみても良いんじゃないのかなあ。でないと換えってALSがワルモノになってしまう。とりあえずエボラ出血熱への対策とか。あれも下手すると世界が滅びかねない問題だから。

 そしてやっと読んだ星海社文庫版の犬村小六さんによる「サクラコ・アトミカ」は多分順番とか入れ替えてあって冒頭にボーイ・ミーツ・ガールを持ってきたりと引きをつけつつ丁都ってところに迫る攻撃を、とらえられたサクラコの奪還なり丁都の知事のディドル・オルガがやらかそうとしているサクラコを原子の矢に変え焼き払おうとしている企みの阻止だと思わせる作為が加わったりしていろいろと読み手を物語へと引き込む感じ。だからパッと読み始めた時の印象がどこかばっと設定を投げかけてくるようだった星海社FICTIONS版とはちょっと違って、ラブストーリー然とした雰囲気が漂っている。

 もちろん基本となっているのは劇場アニメーション映画にもなった「とある飛空士への追憶」でも見せてくれた、身分も立場も違う2人の間に通う恋心って奴で、あちらが皇太子妃になることが決まっている少女を乗せ、敵軍の包囲網をかいくぐって空を飛び、海を越えて運ぶ青年パイロットの物語だったとしたら、こちらはより大きな格差をものともしないで通い合い認め合う信頼の気持ちの物語。どんなに立場が違っても、そして姿形が変わったとしても、想いを貫き通すことの大切さというものが教えられる。

 見ると男は獣になるか、怯えてはいつくばるしかなくなる美貌の持ち主サクラコを、その美しさが世界を滅ぼすとう言葉に取り憑かれた丁都ってところの知事が捕まえ、言葉どおりにその美しさを原子の矢にかえ打ち出す装置を作りだしてしまったところから始まる物語。とらえられているわりにさめざめとは泣かずやんちゃで我が儘で居丈高なところを見せ続けるサクラコは、単なるお姫さまではないその出生を自覚し、それでも懸命に生きてきたことへの誇りってものがあって虐げられるだけの運命を受け入れられなかったんだろうなあ。あるいは達観みたいなものもあったのかも。

 そんなサクラコの真相を知れば、自分も怪物として生み出された牢番のナギという少年だってどこか心が動かされるというもの。っていうか元々持たない心がどうして動いたかてところも興味があるんだけれど、それもまたサクラコの美しさのたまものなのかもしれない。いやそうではなくって何かを思う心を持った存在なら、絶対に生まれないはずがない感情ってものがある現れなのかもしれない。夜の遊園地でコーヒーカップをぶん回し、観覧車に何度も乗ってはしゃぎ喜ぶサクラコとそれを見つめるナギとの楽しげな空気とか、そこに通う感情がなくしてどうして成立するものか。そう思える。そう思うしかない。

 そんな2人の逢瀬から、より深まっていく関係を描くエピソードに挟まるように描かれるのは、じりじりと丁都に迫る身の丈120メートルもある巨人の進撃。ナギの姉という女性指揮官が部下を率いて立ち向かっても止めらない強さを持ったその巨人の悲劇的とも言える正体が、ディドル・オルガによって「原子の矢」に変えられてしまったサクラコの想いと重なった時、たとえ報われなくても、そして引き離されても貫かれようとする愛の強さといったものが浮かび上がって来る。「祈れ。命に不可能はない」というラストの言葉が表しているように、命さえあれば必ずは明日は来ると感じられ、絶対に未来は開けるのだと教えられるラブストーリー。星海社FICTIONS版にも増して鳴り響く生命の賛歌をこの機会に味わってみてはいかが。

 それをプレッシャーと感じるのが愛国者然とした振る舞いをして支持を集めて総理大臣の座に座り続けている人間としては当然なんだろうけれど安倍晋三さん、天皇・皇后両陛下がご静養を取りやめたことを受けて自分も別荘での静養を取りやめることにしたって話はあんまり伝わってなくって、これからも別荘にこもり会食でもするのかゴルフでも続けるのか分からないけれど、自分の時間を持ち続けることになるみたい。もちろんすべてが総理の責任ではなく休める時に休んで欲しいという気もあるけれど、一方で国の象徴たる方々がその意志を行動という形で示してしまった以上、そうした方々を奉る人間が何もしないってのはちょっと難しいような気がする。でも平然として自分を貫き通しそうなところもあるからなあ、安倍総理。あるいは皇室が自分の代わりに弔意を見せてくれたんだからとくらい思っていたりするのかも。

 ふと気が付いたらジェフユナイテッド市原・千葉が天皇杯で柏レイソルを敗って4回戦に進出していた。試合があった昨日は速報なんかをみても1対1になっていながら終了の合図が出ず、何があったんだとツイッターあたりを掘ったらPK戦に突入していた模様。それが1人蹴り2人蹴りしたあたりで斑模様になたもののやがて誰もが成功する状況が続いて遂に11人目のキーパー同士が蹴る対決も終わって2巡目へと突入。そのプロセスがツイッターのキーワード検索でざっと出てきて手に汗握る展開にジリジリとしていたけど、13人目でレイソルが外してジェフが決め、長い試合に決着がついた。まあ4回戦だから優勝までにはほど遠いし、J2の大事な試合がある時に天皇杯まで面倒見られるかって不安もあるけど、勝ち癖を付けて欲しいというのも一方にあるだけに、ここで気持ちを上向きにして残るJ2の試合もそして天皇杯も、勝ち続けていって欲しいもの。その果てにあるJ1昇格に天皇杯獲得。夢かなあ。夢にしたくないなあ。

 そのメンバーの割にあんまり人数がいなかったこともあってのぞいたゲンロンカフェの市川真人さんと中森明夫さんの対談は3時間をほぼ出ずっぱりで喋り詰めという密度に加えて内容もアイドルから文学からサブカルから評論から文壇から演劇から多岐に渡ってそれも時代が戦後から現代まで広くに及んでいて、聞いているだけでいろいろ知った気になれるところがとても良かった。それらを縦横に語り尽くしてしまえる教養のほどには驚いたけれども当方、混じって話す立場にないので詳しく知っている必要はない訳で、ここからひとつ、どのジャンルでも良いから興味を持った分野について何か考えるきっかけになれば良いのかも。とりあえず深沢七郎さんを読んでみるかなあ。それにしても3時間の間に語られた事柄の1ナノ秒すら身の回りの周辺で触れられることもないこの実生活は果たして真っ当か。教養が現実から乖離している現れなのかそれとも現実から教養が後退している危機的状況なのか。分からないけどそこがひとつのメディア企業ってのはやっぱり問題かもしれないなあ。だからあんなんなんだろうけど。


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