縮刷版2014年8月中旬号


【8月20日】 あれはジェフユナイテッド市原・千葉を率いていた頃のイビチャ・オシム監督だったろうか、選手たちが日頃の厳しい練習に対して息抜きをしたがるようなそぶりを見せたところでサッカー選手はサッカーをやることが仕事であってサッカー選手である間は、それ以外のことなんて考える必要はないって厳しいことを言っていたような記憶がある。もちろん、すべての時間を物理的にサッカーに注ぎ込めって意味ではなくって家族との時間、リラックスする時間といったものも否定はしていなかったけれど気持ちとして、そして態度でも可能な限りはサッカーに体も心も向けて、その上達でもって自分の役割を全うしろ、それが自分にとってもチームにとってもファンにとっても最大の効果をもたらすだろうって意味だったと思う。プロフェッショナリズムとでも言うんだろうか。

 だから、気持ちとしては内閣総理大臣にも日本を率いる人間としてのプロフェッショナリズムを発揮してもらって、国民にとてつもない甚大な被害が及んだ災害の発生に当たっては、何をおいてもその情報を収集することに務め、的確な指示を出すなりそうしたことが行えるような準備をしていて欲しいというのが心情なんだけれども、今の安倍晋三総理はどうも、そうした感情を逆撫ですることが好きというか得意というか知らずやってしまう性分というか。広島でもってとてつもない山崩れが起きて何十人もの犠牲者が出た災害が起こっていたにも関わらず、ゴルフ場に出てゴルフを始めてしまったというから何か情けないというか、哀しい気持ちが浮かんで漂う。

 一報を聴いたのがいつかは分からないし、それを受けて何か指示を出していたかもしれないし、そういうことにしたかもしれない。でもシチュエーションを見てそこでゴルフをすればいったいどういう反響が起こるか、っていうのは阿呆でもなければ間抜けでもなければ戯けでもないアタマの持ち主なら分かること。その場には、かつてとてつもない事態が発生していたにも関わらず、ゴルフを続けてしまってその身分を失った元総理大臣までいたんだから、目の前の教訓を自分に生かしてどうすれば良いかっていうのを考えることだって出来た。にも関わらず、平然とゴルフ場に出てしまえる心性は何なんだろうなあ、目の前の人の失敗を自分が受け継がないって態度が、目の前の人に失礼だとでも思ったんだろうか。それは流石にないと思いたいけど。

 国のトップが現場に行って何かできる訳ではないし、具体的な指示を飛ばせる訳でもない。適材適所、それが出来てさえいれば事態はちゃんと進行するということは分かるし、一方でキツい仕事の合間に人間として生き抜きもしたいし、リラックスもしたいという気持ちも分かる。でもそこはプロフェッショナルの総理大臣なんだから、今は何をした方が世間に顔向けができるのか、何をしない方が国民の心情にとってプラスなのかってことを考えて欲しかったし、実行して欲しかった。でもやらなかったのは、そうした国民の心情なんて自分には無関係とでも思ったのか、そう思い込まされてしまっているのか、国民よりも大切なものがゴルフなり一緒に回る存在にあったのか。分からないけどでもやっぱり釈然としない一件。これが尾を引かない国ってやっぱりどこか壊れてる。なおかつ総理大臣は指示を出し終わったら別荘に戻ってしまったというんだか不思議な話。戻っても今さらゴルフなんて出来ないのに。やるのかな。やるんだろうなあその性格だと。

 まあ仕方がない、そういう人間なんだとここは思い込むしかないけれど、でもさらに哀しいのは同じ現場にマスコミのとても偉い人がいっしょにいたってこと。そのキャリアなりその見識なら、総理が緊急時にどんな行動をすべきか、ってことくらい示唆できただろうに一緒に始めてしまうんだから分からない。それをいうならマスコミの人間、報道をその下に持つ企業のトップが権力者中の権力者を一緒にゴルフをする、それも2日連続でラウンドをして、数日前には会食までしてなおかつこの数カ月の間に何度もいっしょにゴルフしているということ事態が、一般的な感覚ではなかなか理解の及ばない高次元の振る舞いに見えてしまうだろう。現場にしてみれば何なんだって思いもあるはずなんだけれど、そういう声がまるで出ないあたりがやっぱりどこか壊れてしまっているんだろう、この国のマスコミ界も。天災で打ちのめされて人災で破壊されていくこの国の、明日はどっちだ。

 それにしても被害甚大というか、政令指定都市の区部という場所でありながらもほとんど山裾に家が建ち並んでいて何か山にあればすぐに何か起こりそうな雰囲気があって実際に過去、やっぱりいろいろ起こっていたにも関わらず人がそこまで入って家を建てて暮らしていたという状況が、今となっては不思議に見えるし怖くも思える。おそらくはそうした事態を受けて過去、人なんて暮らしていなかった場所なんだろうけれどもそれほど広大な平野部がある訳ではない広島で、人口が増えていったらやっぱりそうした山の裾へそして山の上へと住む場所を広げて行かなくてはいけなかったんだろうなあ。そしてここ数年来の大雨がきわまったような豪雨でもって山が壊れてしまったという形。だからといって住む場所を変えられないのも実際で、これからどういう対策が立てられ人はどこに暮らすようになるのか。いっそ山なんて全部削ってしまえとなるのか。でも里山と違って山地に連なる山裾を削ることなんて不可能だし……。国家的事業としてやらないといけない話だよなあ。でも総理大臣は……。やっぱりどこか壊れてる。

 知らぬは自分ばかりなり、といった感じなんだろうか。藤原健市さんの新作「オーがバスター・オーバードライブ」(集英社スーパーダッシュ文庫)は鬼の力を持ちそれが完全に自分を喰らってしまわないようにしながら鬼を退治している者たちの物語。その1人でまだ少年の天童玄が従姉妹の井原木美白といっしょに暮らしている街へどうやら玄が京都にいたころに知り合いだったらしい少女の皆本鋼が転校してきた。即座に玄をそれと知って話しかけてくるんだけれどどうも玄には彼女の記憶があまりなく、無理に思い出そうとするとキリキリと頭が痛む。それこそ名前を呼ぶだけで強烈な痛みが走るのには何かよくない思い出があるからなのかと当人は訝るけれど、でも美白は感じていたし玄よりも年上で本格的に鬼退治をやっているこれも従姉妹の天童朱は京都で何があったかを知っていた。

 つまりは鋼がどういう立場でそして彼女といっしょに街へとやってきて廃れていた神社の宮司となった父親や母親がどういう存在なのかも朱や美白は知っていたと考えるのが妥当なんだけれど、2人は行動に移すことなく鋼と玄の再会を見守りいっしょに時間を過ごすことを認める。それは過去を取り戻させてやりたかったのか、それとも背後でうごめく存在をあぶり出したかったのか。後者ではあるんだろうけれどでも、クライマックスにすべてが分かり、そして当然の展開へと向かっていくのにはやっぱり寂しいものがある。今さらどうしようもないけれどでも、失われた時間が取り戻せたならずっと取り戻させておいてあげたい。それが適わない哀しさを、敵への怒りへとぶつけるようなストーリーがこれから繰り広げられていくのかな。追っていこう、その行方。


【8月19日】 サイトに盗難があったことと、それからモザイクがかけられた顔写真が公開されて以降の話なので例の中古品店における鉄人フィギュアの同じ古物商への転売は、相手もそれがそれだと知っていた可能性がゼロではなかったりするのでもし、知っていて買ったのならそれは悪いことだとなって返さなくちゃいけなくなるのかもしれないけれど、もしも知らずにただ売りに来た人がいたから買ったってなったとき、堂々と変換を求めることが盗まれたと訴える中古品店に出来るのか、ってあたりがちょっと気になるところ。過去に盗まれたか横流しされた漫画の原稿を売ってたりしたことがあったから。それにも社長の人の言い分はあるんだけれど、漫画家の人の原稿管理が甘かったという主張もそこにあったりするらしく、だったらフィギュアの管理はどうだったのかと突っ込み返されかねない。何より盗むのは悪いけど、その絡みでいろいろと浮かんだ諸問題、さてどう動くのか。

 筧利夫さんって歌えるんだ! ってのが多分誰もが抱く驚きかもしれないミュージカルの「ミス・サイゴン」。ミスター・エンジニアこと市村正親さんが癌の手術で降板したエンジニア役を代わり務めることになって、駒田一さんとダブルキャストで代わる代わる舞台に立っているんだけれど、急すぎる代役でもものの見事に勤め上げてみせているのは過去の講演でエンジニア役をやったことがあったから、みたい。その時には見ていないけれども今回、せっかくだからと見に行った舞台で筧さんは警棒を振り回しながら「おれバカですからー」と言うこともなければ、美少女の上に四つん這いになって腕立て伏せをして先っぽを入れるようなことせず、冒頭から猥雑と喧騒にまみれたサイゴンの歓楽街で女たちを従え集まる米兵たちをいなしながら、アメリカ行きを夢見る男になりきって踊り、歌い、叫んでいた。

 そりゃあ市村さんみたいに劇団四季とかを経て声を出すだけじゃなくセリフを歌い上げるような芝居を長くやって来た人じゃないから、その巧みさって面では多分、見劣りがするんだろう。ミュージカルを長くやってて春に見た「サ・ビ・タ」でもややハスキーな声で歌っていた駒田一さんにも届いていないかもしれないけれど、つかこうへいさんの芝居で鍛え上げたような発声と、それから場に相応しい仕草表情を見せることに関しては負けていない。声楽のプロとも言えそうな人たちに混じってエンジニアを演じきり、そしてラスト前の「アメリカン・ドリーム」の歌ではたった1人で舞台の上を行きつ戻りつしながら、自分の願望を歌声に載せ身振りも交えてアピールする姿って奴を見せてくれた。ここは本当に格好良かった。

 エンジニアという役にとっては見せ場中の見せ場らいしその場面。他の人がどう演じるか分からないけれど、僕にとっては最初に見た筧さんが今のところは唯一無二にして至高の「アメリカン・ドリーム」になっている。でもやっぱり本家本元の市村さんがどう歌いどう踊るかも見てみたいから、体を治して是非に復帰をして欲しいもの。再演とかあるかなあ、あったら行きたいなあ。そんな初見となった「ミス・サイゴン」でヒロインのキムを演じたのはこれが初めての「ミス・サイゴン」という昆夏美さん。どっかで聴いたことがある名前だなあと振り返ったら「銀河機攻隊マジェスティクプリンス」の主題歌を歌っている人だった。
 でも別にアニソンシンガーって訳ではなくって、経歴はバリバリの舞台女優でミュージカル女優。声楽をやってるだけあって声は透き通り響いて清楚な、そしれ運命の翻弄されるキムって役を見せてくれた。過去には新妻聖子さんとか松たかこさん、そして何より本田美奈子さんが演じていた役なだけに、そうした人たちと比べてどうか、って過去からずっと追いかけている人は感じているんだろうけれど、これも初見で初体験な昆さんを今のところ至高と捕らえたい。機会があれば他のキャストの舞台も見てみたいけどもう日程も終わりだしなあ、ちょっと考えよう。ジジって役をやってた池谷祐子さんとかきっと胸とかいっぱい見せてくれていたんだろうけれど、15列目くらいだとその辺りは遠目すぎてよく分からない。下着姿で踊る美女とかいっぱいいたのに……。今度は前列をとるか双眼鏡を持っていってじっくり観察だ。

 基本的には唐変木でキムを不幸にしてエレンにも心に重荷を持たせることになる米兵のクリスを演じた原田優一さんもやっぱり歌は巧かった。やや高めでそして浪々と歌い上げるタイプの人。ミュージカルって喋りがまんま歌になるけどそのセリフをただ歌声にするんじゃなく感情も含めて伝えなきゃいけないってことで、張るところは張りながすところは流しそれでもちゃんと届くように歌わなくちゃいけなさそう。それを原田さんもそうだし他の人もちゃんとやってのけるんだよなあ、筧さんは慣れてないのかそのあたり出だしで聞き取りづらいところがあり、声量って部分も通りって部分もどこか物足りなさが感じられたけれど、それでも最後にはしっかりと追い付いて来たんだから凄いもの。千秋楽へと向かってきっと高めてくるだろう。

 あと興味深かったのがキムの息子のタムを演じた子役の新津ちせちゃん。女の子? なんだけれど頭は短くまるで男の子みたいな格好だった。舞台上ではセリフはないけど動きはあるし、相手に合わせて抱きついたり歩いたりしなきゃいけないところをやんとこなしてた。目の前で騒がれても逃げず泣かない強さも必要。3人いるキャストでは最年少らしいけどしっかりやってのけるとむしろ、役の年齢に近いだけあって1番しっくりと見えるかも。これも初見なだけに今のところは至高のタム。過去に演じた人たちって今、どうなっているのかなあ。それが分かると新津ちせちゃんの未来も見えてくるんだけれど。

 言うなれば由比ヶ浜あたりをテリトリーにしているサーファーな人が、その沖合でサーフィンを楽しんでいたら撮影に来たテレビ局が江ノ島の沖東方5キロでサーフィンをやっている人がいますと騒ぎ立てるようなもので、別に江ノ島なんかに日頃から近づいてないのに何か関連づけられて語られるのも良い迷惑。それが沖縄は辺野古の沖東方5キロという場所でジュゴンが泳いでいると騒ぎ立てている人たちの状況で、ジュゴンにとっては別にそこまで行かなくても十分に暮らしていけるのに、辺野古の海が埋め立てられると今すぐにでも絶滅してしまうような言い方をしてジュゴンを人質(ジュゴン質)にとるような言説を振りまく。海を埋める基地に反対したいという言説そのものに反意はなく、ないなら普天間も含めてない方が良いっていう考えはあるけれど、そこに“無関係”なジュゴンを絡めて情動を誘うやり方はやっぱり関心できない。

 現地でジュゴンをずっと観察して来ている人によれば、基地がこれで作られなかったからといってジュゴンの絶滅がおさまる訳ではない。というのも個体数が少なすぎてこのままでは自然にいなくなってしまうことがほぼ確実。だからジュゴンを守れと叫ぶ人なり、それを喧伝するメディアの人は、基地に反対している暇があったらジュゴンが繁殖可能な地域へと連れて行ってあげるか、あるいは逆にどこかから連れてくるかしないといけないんだけれどそういう活動に向かうといったことはないらしい。本末転倒というか、基地の反対という本分のためにはすべてを材料にしても構わないという意味では筋が通りすぎているというか。でも今はそういう情報操作もちゃんと発信している人のお陰で通用しなくなっている。そして裏を探られ足下を見られて活動そのものへの疑心を生む。勿体ない。すべき主張をするのは結構、そのために牽強付会をするのは駄目。それを徹底しないといずれ離反を招くよ、左も右も。市民も新聞も。


【8月18日】 そうか今晩か、というか明け方か。スタジオジブリ祭りに続いて日本テレビが夏休みの視聴率稼ぎに投入するのは「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版。その先陣を切るようにまずは1997年に劇場公開されたバージョンが深夜に放送されるってことをエキサイトレビューが書いていたけど、その見出しが「今夜『エヴァンゲリオン』旧劇場版地上波初放送、もう見られない幻の『シト新生』」ってなってて、これは凄いぞ、上映はされたけれどもその後に作り替えられたりもして見られなくなった「シト新生」こと「DEATH&REBIRTH」がテレビの地上波で初放送されるのかと小躍りする。

 何せ「シト新生」は、最後に量産型が空から輪になって舞い降りてくるシーンでもって「ったまっしぃーのるふぅらぁん!」って高橋洋子さんの声が鳴り響いた数少ないバージョン。それが放送されるんだったら絶対に見なくちゃと思って記事を読んだら違ってた。何だ放送されるのは「DEATH(TRUE)2」じゃないか。これは今別に見られないってことはなくて、ちゃんとパッケージにもなっていたりして、そして内容としては一種総集編みたいなもので、なおかつ最初の公開された「DEATH」のバージョンにあったマッドビデオ的に様々なシーンが付け加えられ、キャラクターのトラウマに迫るようなグロテスクな描写も弾かれてしまっている。

 だから見ても「はあそうですかと」思わされる程度の作品で、そこに地上初放送という意味合いはあっても、別に喝采を浴びせるようなものじゃない。あるいは「TV版」という部分にプラスアルファがあるのかもしれないけれど、でも「REBIRTH」の冒頭から少し行ったところで終わって「魂のルフラン」が流れて終わりってことにはならない。それは「シト新生」でしか見られないシーンだから。けど見出しからだと「シト新生」がテレビ初放送されるってような印象を受けてしまう。僕だけの勝手な思い込みかと思ったら、同じような反応をしていたりする人が結構いたりしたからやっぱり見出しが牽強付会過ぎるってことは間違いなさそう。

 っていうかエキレビ、取りあげる話題とか目の付け所は悪くないし、書かれる文章も興味深いものが多いんだけれど、こうやって釣りタイトルでアクセスを稼ごうとしているようなところが結構あって、過去にも何度か気分がドン引きしたような記憶がある。それがバイラルマーケティングの時代って奴なのかもしれないけれど、受け手が味わう“騙された感”ってのは結構引きずるもので、だから僕なんかエキレビにあんまり行かなくなってしまった。今はまだアクセス数こそが正義みたいな風潮があるけれど、いずれ中身こそがサイトのプレミアム感を押し上げるって風潮へと変わると思っているし信じているんで、釣りが習い性になっている所は将来いったいどうなるか、なんてことを考えてもみたりする。エキレビは中身もあるんだからもっと堂々と勝負すれば良いのになあ。誰かの趣味なのかなあ。

 朝日新聞にしか見えないものもあれば、産経新聞にしか見えないものもある。多分そういうこと。この国で1つの新聞社だけが手にして他が手に入れられない文書なんてものがあるはずがないという状況を踏まえ、今後も追随が予見されるだろう文書を題材に意図的なつまみ食いして、後で露見した場合のダメージとか考えられないアタマを築地がしていたというのなら別だけど、新聞協会賞にもノミネートしたネタであからさまな牽強付会はやってないだろうと類推するのがここは普通だろう。

 いやいや、それすらも突破できると考えたのならそんなアタマの築地は滅びるしかないんだけれど、流石にそこまでユルんじゃいないだろうと考えたとして、これに追いすがった大手町。その眼に築地には見えなかったものがどうやら見えているらしいけれど、それはいったいどいういうことなのか。違う文書を手に入れたのか、同じ文書でも見る目が霞んでいたのか、やっぱり築地のアタマが違っていたのかどれかってことになる。じゃあどれだ。そこに勝算はあるんだろうか。内容批判を一方的な文通と捨て置いていたのが今までだけど、新聞協会賞のネタに真正面から突っ込んで来た以上は築地だって相手をせざるを得ないだろう。そんなバトルの果てにどちらのオバケが浮かび上がるか。その結果何が起こるのか。ちょっとワクワクして来た。

 誰であれ日本人が異国で命の危険にさらされているというならそれに対して政府はやっぱり最大限に出きることをすべきだし、同じ日本国民として僕たちもその救出を最大限に願っている、というのは偽らざる本音ではあるけれどでも、やっぱり浮かぶそういう状況へと至ってしまったプロセスに対する懐疑や不信。自ら捕虜としての待遇を拒絶されても仕方がないと見なされている民間軍事会社の人間であるといった情報をプロフィールに張り、そしてカメラでもなければペンでもない銃を手にして特定の勢力に堂々していればそれは、やっぱり荷担した人間だと思われて不思議はないし、当人だってそう思われるだろう覚悟はあっただろう。なければただの阿呆だ。

 そして、事前の懸念がすぱっと当たって命が危険にさらされるという立場に追い込まれてしまった人間に、僕たち世間はいったいどういう態度を向け、どういう言葉をかけてあげるべきなのか。かけがえのない命なんだから、是非に助けてあげたいという気持ちの一方で、そういう立場に自ら分かって突入していったんだから仕方がないかなあという気持ちもやっぱりつきまとう。こればっかりはどうしようもないんだけれど、でもそうした状況に左右されると、あらゆる事例が相対的な評価に陥ってしまう。命は絶対。という線をだから崩さずことは訴えて行きたい。非難は帰ってきてからだ。帰ってきたらだけれど。

 BPOへと訴え出るのは取り下げたみたいだけれども女子中学生とかを相手にLINEをやって何があったか外され大人げない口調を投げつけたりしたい人もいれば、民族としてのアイヌは存在しないだなんてもしもアメリカでネイティブアメリカンを相手に似たようなことを言ったら一生がとんでもないことになりかねないようなことをつぶやいて非難を浴びたりした人もいれば、カルトというよりもはやオカルトに近い言説を信じ込んで輸血はよくないと書いて党籍離脱に追い込まれた人もいたりと地方議員のあれやこれやが花盛り。その前に政務費で文具買ったり切手買ったりしていた議員もいて話題になったように地方議員のボロがあちこちででまくっている。

 おそらくは昔も小さいところでいろいろあったんだけれどそれがオープンに伝わることはなかった。身近な人から気味悪がられ、あるいは年輩者に窘められておさまっていたのが、SNSなりといったツールが個人のボロを世に拡散して広く知らしめるようになってこうして、立て続けに発覚しているんだろうというのがひとつある。あとはやっぱり資質というものにも変化が見られていたりするのかもしれないなあ。臆病でも真っ当に何かひとつこつこつやるのが公人であり公僕であり選良だと誰もが思い当人も自覚していたのが今は目立てば勝ち、そして突飛なことが正義の証明みたいな感じになっている。アクセス多けりゃ勝ちみたいなバイラルマーケティングの風潮ってのもそんな空気の延長なのか、あるいは世間が全体的にそうなっているのか。分からないけどでも流石にここに来てアクセスが正義でもなくなって来ているからきっと、中身勝負へと回帰していってくれると信じたい。


【8月17日】 レールガン対タンク。なんか超未来的兵器と伝統的兵器との対決みたいに見えるけれども、これが行われたのは富士演習場でもなければ北海道の野戦場でもなくって、東京は板橋区にある味の素フィールド西が丘、すなわち国立西が丘競技場というサッカーの聖地だったりするから面白いというか、知らない人にはまるで訳が分からないというか。つまりはアニメーションの「とある科学の超電磁砲(レールガン)」とのコラボレーションを発表したサッカーのJ2にいる東京ヴェルディが、西が丘で行われた試合に迎えた対戦相手の水戸ホーリーホックもまたアニメ「ガールズ&パンツァー」とコラボレーションしていたりすることに引っかけて、この試合を「アニメコラボ対決」って感じに盛り上げ、宣伝してはサッカーだけじゃなくアニメのファンの目もサッカー場へと向けさせたってもの。

 そして会場に到着すると鳴り響くのは耳になれた「ガルパン」のマーチ。戦車がずんずんと進む時に奏でられるあのサウンドあのミュージックがまずは耳に入ってきて劇場で5度だか6度だか「劇場版ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です」を見た身に染みたあの音楽を、脳内へと蘇らせてくれる。知らない人が聞けばただのマーチだけれどそうでない人にはフィールド内を走る4号戦車とか、九七式戦車なんてものが見えたんじゃなかろうか、いやあんなものが走ったら芝生は剥がれて土までめくれてしまうけど。そんな「ガルパン」サウンドに続いて流れたのはfrip Sideによる「only my ralegun」とか「LEVEL5」とかいった「とある科学の超電磁砲」の主題歌群。これも知らない人が効けば流行りのビートが利いた音楽だけれどそうでない、しっかりとアニメを見てきた身にはこれから始まる試合の展開が頭に浮かんで離れなくなる。

 それはボールを蹴ろうとした選手の脚にビリビリっと電流が走っては振り下ろした爪先に当たったボールが激しい光を放って爆発的な勢いでもって相手ゴールへと向かい待ち受けるゴールキーパーを吹き飛ばしネットも吹き飛ばしスタンドすら壊滅させてしまう光景とか、常盤台中学校の制服を着た審判たちがファウルをした選手に向かってカードをつかんだ片腕を上にあげつつそこにはめられた腕章を指しつつ「ジャッジメントですの」とったりするとか、そんな光景だけれどまあ現実にレベル5の超能力者なんていないし審判もさすがに女子中学校の制服は着ないし白井黒子のような口調でも喋らないけど、でも何か普段とは違ったものがあるってだけでちょっぴり足が遠のいていたスタジアムへと向かってみたくなる。それはサッカーファンもアニメのファンもたぶん同じ。非日常を作り刺激を与える工夫を怠らないことが、新規も古参も含めたサッカーファミリーの輪を、そして塊を作り出す。

 とはいえ果たしてレールガンとヴェルディとのコラボが、これから巧くいくのか、ってのは様子を見たいところ。水戸ホーリーホックの場合は地元茨城県にある大洗町で賑わっていた「ガルパン」に早くから関心を示し、ストーリーが持つ弱い学校でも知恵と工夫と勇気と根性でもって強いところに勝ち抜いていくという主題を自分たちにも取り込もうと、声をかけたかあるいは声をかけられたところもあったのか、コラボレーションを行いあんこうチームのマークがついたレプリカを作りタオルマフラーをつくりTシャツも作り、そしてスタジアムで声優さんを呼んだイベントも開いたりして一緒になって作品を盛り上げ、サッカーも盛り上げてきた。それはとっても地域性があって地域に根ざし地域とともに成長していくJリーグという環境にマッチしたものだった。だから多分支持もされたし受け入れられた。ホーリーホックのサポーターに案外結構いたんだよ、あんこうマーク入りのレプリカ着ている人たちが。

 でもヴェルディとレールガンとのコラボには、そうした共に成長して勝ち上がっていくていうストーリー性は今のところあまりない。立川市とか多摩センターとかいった武蔵野の一帯を舞台として、ご当地が作品もよく出てくるアニメーションでそして東京ヴェルディが本拠地にしている味の素スタジアムも出てきたりはするけれど、それだけって言えば言えるような関係でもある。味スタならFC東京だって本拠地にしている訳だし。ただ稲城とか多摩とかいったあたりはどちらかと言えばヴェルディのテリトリーで、そしてJ2暮らしが長くなってサポーター数もFC東京に比べてちょっぴり見劣りが出始めていたヴェルディには、何かしなくちゃいけないっていう危機感もあった。そんな意識から何か新しいことって探して、近隣が舞台となった作品とコラボすることによって新しいファン層を取り込めれば、そしてチームも浮上できれば良いという考え方も決して間違ってはいない。始まりには偶然があっても良いのだから。

 願うのはだからこのコラボを一過性のものにしないで、ずっと関係を続けていって欲しいというもの。少なくとも「とある科学の超電磁砲」は本家の「とある魔術の禁書目録」も含めて続いていったりしている訳で、それらがご当地としている立川なり多摩丘陵なり武蔵野一帯を本拠地にして東京ヴェルディが活動し続けているなら共に歩み続けていって何の無理もない。そして今はまだお互いのファンが相手のことを知らなかったりするかもしれないけれど、関連していく中で交流も生まれて共に盛り上がり共に重なり合っていくだろう。そんな関係を金の切れ目が縁の切れ目みたいな考えで、スパッと断ち切ってしまうというのはサッカーにとっても、そして今はコンテンツを提供している形になっている作品側にとってもあんまり格好いい話じゃない。理由があって別れるというのはありだけれどもそれがないならしばらくは、関係って奴を続けていって欲しいなあ、せめて2年、あるいは3年は。湘南とでじこって何年くらい続いたっけ。せめてそれ以上。というか「ガルパン」と水戸はずっと続くのかな? 今年限りになっちゃうのかな。それも気になる。

 さても試合はどっちも走るしどっちも守る。特に東京ヴェルディは水戸ホーリーホックが師匠こと鈴木隆行選手をトップに配して両サイドからも真ん中からも責め立ててくるホーリーホックの攻撃を素早いタックルやゴールキーパーの代わりにマウスに立った選手が止めたりはじき返したりして得点を許さない。あとちょっと感があってもそこが届かないのはじれるところだけれどでお、どちらも卑怯な手は使わずに堂々とぶつかり合っているから見ていて結構気持ちいい。そんな展開からヴェルディがやっぱりこちらも素早い攻めでもって相手ゴール前へと迫り放ったシューとか送ったパスをキーパーが止めきれなかったところに突っ込んだ選手がゴールへと叩き込んで1点を先取。これを守りきる形でヴェルディが「レールガンvsタンク」のアニメコラボ対決を見事に制した。まあそりゃあレールガンが第二次世界大戦時の戦車に負けるはずがないっちゃあないんだけれど。

 見ていて素晴らしかったのはホーリーホックの選手たちが例えばヴェルディが前へとけり出したセーフティのボールを受ける時に頭で前へとはじき返すようなことはせず、しっかりと胸なり足下でトラップしては自分のところに収めてそこから前に走る選手たちに送ってスピーディな攻撃を組み立てようとしていたところ。これがちょっと前に見たジェフユナイテッド市原・千葉の試合だとクリアされて浮いたボールを受けようとしたジェフ千葉の選手は頭でぽーんと跳ね返してそれを味方も敵も頭でつないでいくような展開を見せていた。ボールはその間浮きっぱなしで展開も滞り、その間に前がかりになっていた相手は守備を固めて待ち受ける。ここでちゃんと足下に収めて素早い展開へと繋げれば得点機だってつかめたのになあ、って思ったことをホーリーホックはちゃんとやっていた。だから良い攻撃を見せられた。それが柱谷監督になってからなのかは分からないけど、水戸から監督を呼んだ時期にジェフ千葉にも浸透していれば、今みたいに遅滞する攻撃は見せていなかったかもしれないなあ、って間にジェフ千葉はロアッソ熊本と引き分け。勝てないなあ。勝てばするっと上に行けるところで停滞するのは去年も同様。そして終盤に負けが込んでいくという。今年もやっぱりダメかなあ。

 他者が犯した結果としての誤報について、それを撤回したことを取りあげては幾日にも渡って批判の矛先を向け続けている媒体があって、そして誤報を撤回したのならなぜ代表者が出てきて謝らないのだ、関係者を処分しないのだといった筆致でもって糾弾し続けていたりするけれど、その尖兵ともなっている人間が過去において誤報というより捏造を行い名誉毀損で訴えられて裁判で完敗したという皮肉な事態もあったりして、どうにもその身に潔癖さが欠けているなあと思ったら、今度はその題字の下でもってマンハッタン計画を推進したオッペンハイマー博士は、日本に原爆を落としたことを悔いて自死したなんて出鱈目が書かれた寄稿を堂々と掲載しては、見出しにまで「オッペンハイマーは自死した」と断定めいた言葉を添えて世にその珍奇な説を喧伝していたから汗が出た。

 当然のように入る批判なり嘲笑。だってオッペンハイマー博士は喉頭癌で亡くなったことが確定しているし、同じコラムにはアインシュタイン博士がマンハッタン計画に関与しているようなことも書かれていたけどこれも大きく間違っている。あと湯川秀樹博士に関してノーベル賞を受賞したのは「中性子論」だって言葉が添えてあったけれども、本当は「中間子論」で、こんなものは物理なり歴史の試験にも出たりする話。正しい教育を世に広めようだなんてことを訴えている媒体がやって良い間違いじゃない。にも関わらず、それを平気な顔で載せている。突っ込まれて流石に焦ったか記事の方は見出しで「オッペンハイマーは自死した?」ってクエスチョンマークが付けられ、本文も「自死を遂げたと聞きました」って伝聞調になったりした。果ては「オッペンハイマーは自死した?」が見出しから消えてしまってと後手後手な対応。でも本文には伝聞調になった形で残っている。

 でも伝聞なんだから例えそれが間違いでも載せて良いって訳じゃない。もしもそれが可能なら従軍慰安婦の強制連行はあったという伝聞を載せても構わないて突っ込み返される。相手には厳格さを強いつつ自分には甘いなんて態度で世間を納得させられる言論活動が出きるのか、ってのが誰もが考える当然の道理なんだけれど、それが通用しない世界もあるらしい。自分たちの牽強付会は愛国的だから無罪とか、そんな哲学でもあるんだろうか。あるのかもしれないなあ。というか従軍慰安婦に関する某氏の証言については撤回したけど、そこに至る以前に指摘された強制性といった部分までもが完璧に否定された訳じゃないのが先の一件。対してこのオッペンハイマー博士の自死はまるっきりの出鱈目で、たとえ噂であっても載せて良い話じゃない。でも載せてしまう。語尾を変えて伝聞にしてまで撤回しようとしないその頑なさってのは何なんだろう、何か裏でもあるんだろうか。分からないけどこの一件は、他者の誤謬を糾弾している今、絶対にやってはいけないことだよなあ。でもやってしまうのは何なんだろうなあ、自分たちの行為は世間にとってとるにたらない些事だなんて自虐でもあったりするんだろうか。明日が見えない。


【8月16日】 ようやくやっと峰守ひろかずさんの「絶対城先輩の妖怪学講座四」(メディアワークス文庫)を読んだらバイオホラーになっていた。いやホラーというほど怖がらせようとはしていないけれど、妖怪という伝承の裏側にあるだろう事実へと迫りつつ、その事実部分に突拍子もない設定を持ちだして唖然とさせる手法がふくれあがって、今までにない妖怪バトルストーリーに仕上がっていた。絶対城が自分の住処をクラウス教授から取り戻しての物語。同じ大学を出た人間が近隣で新興宗教を初めてその影響が学内にも浸透して来ているから、どうにかしろと織口という准教授に言われその背後に憑き物があると聞いた絶対城阿良耶先輩、これは自分が暴かねばと、下級生で実は“覚”の能力を受け継いだ“真怪”という礼音礼を相談希望者に仕立てて、新興宗教の本拠地へと乗り込んでいく。

 そこに現れたのはいかにもインチキくさい教祖様で、教義も唱える真言もいろいろなところから引っぱってきて継ぎ接ぎしたような感じに怒り心頭の絶対城先輩、そのインチキぶりを糾弾して去ろうとした時に異変が起こる。連れて行った礼音の腹が、相手の唱えた真言とともに激しく痛み出した。いったい何が起こっている? これはあるいはと気づいたか、それとも自分にある礼音への感情が動いたかは分からないけど、後者については絶対に認めようとしないだろうなあ絶対城先輩。ともあれその場は謝り術を解いてもらって引き下がっては、一体何が教祖にそんな力を与えたのか、そしてどうやら背後にいて彼を操っているらしい存在は何かを探り始めるという、そんなストーリー。

 絶対城の友人のはずだった元演劇部の杵松が、この件ではいっしょに動かず単独行動を決め込む上に、相手とは無関係を装いっていたりして、いろいろと不穏な空気も漂うけれども最終的にはひとつのとんでもない敵が姿を現し、対決に向かう。エンドウ豆に弱い妖怪とか、通ってはいけない道とか、伝承として幾つも残された妖怪なり変異にたいしてそれぞれに解釈がつけられつつ、クライマックスに向けて収斂していくてところがなかなか巧み。よく書けているなあと感心してしまう。

 あと、伝承として残っているからには実態があるんだけれど、その実態を現実の中に押し込めず、空前の伝承ならそれは空前の実態があったんだという方向に持っていって、真に怪なる存在を認め否定しないところがこの物語の良いところ。この世には不思議なことなどないけれど、その不思議が当たり前の解釈で説明できるとは限らない。そんなことを感じさせられる物語。さて次はいったいどんな妖怪が現れそれに絶対城先輩はどんな解釈を付けてくれるか。続きが楽しみ。ドラマ化しないかなあ。映画化でもいいや。

 ゲーム小説について何か語れというのでそれなら柾悟郎さんの「ヴィーナス・シティ」がどれだけ先鋭的かを話そうと思ってネットから取り寄せて読んだら面白かったよもう20年以上も昔の小説なのに。ようするにネットに没入してそこにある街でもって自在に動き回る遊びに興じていた主人公がそこを舞台にした事件に巻き込まれるという展開で、今でいうところの「ソードアート・オンライン」を先取りしたような設定ってだけでもその早さが分かるというものだけれどそれ以上にネットにダイブするテクノロジーが今よりもむしろ先鋭的なアイディアに溢れている上に、そうした事件の先に描かれるネットの未来像って奴が、誰もがネットを利用し耽溺している状況から起こり得る可能性って奴を示している。

 もうひとつ、リアルな社会が置かれている状況という奴も結構示唆的で、それは今の日本が置かれている、世界の中でどちらかといえば衰退へと向かいっていつかの英国へと向かいかねない状況とは逆に、テクノロジーを発展させて世界が注目する技術の発信地となってその技術をベースに世界各地に生産拠点を作り本土は司令塔的な位置づけでもって世界に君臨していたりする、それは1990年代のバブルとその崩壊を巧みに乗り越えテクノロジーオリエンテッドに回帰し真摯に向き合って立ち直り発展していったという、ひとつの可能性としての日本像って奴で1992年にこれが書かれた当時の思いがあるいは反映されていたりすのかもしれない。

 ただ現実はそこで利益を求めて技術革新を捨ててしまった結果、世界に逆に置いてきぼりにされて地盤沈下と空洞化の憂き目にあっている。SFのビジョンは時に未来を予見するけど、時に逆も描き出す。それがディストピアだったりする場合がSFとしては多いけれども幸福に溢れた世界だという場合があっていけない訳ではない。「ヴィーナス・シティ」に描かれる日本の像、外国人が誰も来たがりそこで職に就きたがる世界の中枢といったビジョンは現実のディストピアを架空のユートピアに見せて今に感じさせる効果がある。だからこし今、テクノロジーのビジョンを予言した素晴らしい小説として読まれて欲しいし、政治や経済のビジョンを逆方向に踏み外してしまったミスディレクションへの後悔を誘う小説としても読まれるべき、なんだけれど店頭はおろか古書店ですら手に入らないんだよなあ、勿体ない。せめてどこか電子出版化しないものか、作者自身でも構わないから。

 そして気が付くとなでしこリーグのレギュラーシーズンにおけるジェフユナイテッド市原・千葉レディースの最終節が終わっていて6位を争っていたベガルタ仙台レディースを相手に2対0で勝利したみたいでこれでーぐ6位以内を決めてエキサイティングシリーズだか何とかいった順位決定のシリーズで上位チームが並ぶ方へと進出できた。おめでとう。ホームとはいえ勝たなくては行けない試合をきっちりと、完封で勝ったのは強さの証拠だし前に負けてるチームにちゃんと“お返し”をできたのも意義深い。この勢いを引き継いでシリーズの方でも勝ち抜いて優勝という眼があるかはともかくその存在を広く満天下に喧伝してくれれば、顔立ちばかりで騒ぎがちなメディアの中に実力といったものでアピールできるんだけれど、さてどうなるか。とりあえず山根恵里奈選手の巨大さをもっともっとアピールだ。雲に手が届くとか。日本海をひとまたぎとか。そんな感じに。

 なるほど確かに「ふつうの会社では、商品に重大な欠陥があり、世間に迷惑をかければ、記者会見して謝罪するか担当者を処分するのが当たり前」であってそれをしなかった朝日新聞に対して「両方ともしなかった社の記者が、これまで通り、他社を厳しく追及できるのか同業者としてつい心配してしまう。まあ、余計なお世話だが」って言うのは正論だけれどそんなことを書いている会社が過去にだったら国会議員に関する捏造を書いて名誉毀損だと訴えられて裁判になって敗訴した時、なにか謝罪会見をひらいたのか担当者を処分したのかというとどうだったんだろうかと考える。なおかつ今起こっている糾弾の先鋒として筆を振るっていたりするこの状況は、いったいどこの新喜劇なんだろうかと思ったりもするけれど、他人に厳しく自分に甘くが世の常だから仕方がないので朝日新聞も自分への甘さを貫きつつ、矛先をどんどんと弾飛ばしてくるところに向けて全面戦争といってやって欲しいもの。体力勝負なら負けないだろうし。どっちが? そりゃ朝日が。


【8月15日】 なんというか残酷というか昔だったらヒーローはヒーローとしてヒーローらしさを前面に出し、いかにもな正義らしさを貫き通していたはずなんだけれど、ここ最近に読んだライトノベルの主人公たちは、そうした規範からちょっと外れているところがあって、今、そういうキャラクターが流行っているんだろうかとちょっと思ったり。まずは春鳩兼さんの「IHOF−イチジョーハンターズ・・オフィス−」(電撃文庫)。異能使いが生まれたり育ったりする国を舞台に起こる、異能たちを集めた賞金稼ぎのオフィスと街で暴れる犯罪者はマフィアたちとの戦いがメーンのバトルアクション。主人公は日本から移ってきて重力制御の異能を持つに至ったイチジョー・クロウ。そして配下には炎を操ったり分子分解してしまったり思念を送ったりできる面々が揃ってる。

 そして挑むのは、蜂やら蟻やらを操り悪さをしかけている兄妹の異能使いと、それを背後で操るナイフ使いの悪党ら。けど妹の方は根っからの悪党って訳ではなくて悲惨な境遇からいつしか犯罪に走った兄に道具として使われるようになっていただけで、内心ではその是非をずっと迷っていて、クロウに見つかり捉えられてからは彼の事務所でいっぱい食べられ、暖かいベッドで寝られる日々に幸せも感じたりしていた。けれどもそこはやっぱり血の繋がった兄と妹、あるいはドメスティックバイオレンスにありがちな、支配された感情で兄からなかなか抜け出せず、また自分のせいでクロウたちに被害が及んでもいけないと思って、妹は事務所を出てしまう。

 やがて起こった対決で兄とクロウは対決するけど、その結果に戸惑い悪人であれ肉親である兄への思慕も募って妹の力が暴走し、それを受けてクロウがとった手段がシリアスというか、仕方がないとはいえやっぱりどうにも後味が悪い。薄幸の少女を結果として突き放し追いやる正義って正義なの? って思うけれどもそれしか道がないなら仲間を守る意味でも、自分を守る意味でもそうせざるを得なかったんだろう。それが現実。でも気持ちはどっちか、ではなくどっちも、なんだよなあ、現実がそう巧くはいかない分、フィクションではそういう展開を望みたかった。心では。

 それは寺田海月さんの「閉鎖学園のリベリオン」(電撃文庫)でも言えること。卒業すれば行政機関で雇用してもらえる代わりに、不純なこと楽しげなことは漫画もゲームも含めて一切禁止とされてる学園に放り込まれた主人公の少年だけど、不思議な絵を描く少女を見かけ、彼女に自分が作るボードゲームのイラストを描いてもらいたいと思い声をかけたことをひとつのきっかけに、学園で進行していたある事態を知る。それは人工知性が人間にインプラントを埋め込み操るというもの。それによって人は健全になり真っ当にはなるけれど、本当にそれが自分自身と言えるのか、って疑問もあって立ち上がった学生たちがいて、少年もその仲間に引っ張り込まれる。

 ゲームが好きで戦略を立てるのが得意だった少年は、集団を引っぱり敵を相手に勝利を重ねるけれども、だんだんと強さを増していく相手にいずれじり貧になる考え、大逆転の手を打とうとする。それは人工知性によって“改造”されそうになる生徒を囮にして敵の本拠地を叩くというものだったけれど、そこで昔からレジスタンスとして戦ってきた仲間から批判が起こる。正義じゃないと。1人でも犠牲にするなんて間違っていると。でも少年は1人を見捨てることが、残る大勢を救うことになるんだからとロジックで語って仲間を説得する。そうかもしれないと分かっていても受け止めきれない仲間は号泣。でも結果として少年の策は採用され、けれども結果として罠にはまる。

 ヒーローだったら1人も救うし全員も救うもの。それなのにシリアスにロジカルに1人の犠牲でほかが助かるという主張を主人公がしてしまうところに、どうにも収まりの悪さを感じてしまう。それはヒーローじゃないだろって思ってしまうんだけれどでも、現実とうものを考えた時に、そうしたロジックはやっぱり不可欠。あと少年がゲームというものを基準に物事を考えてきたことが、架空の世界で駆け引きをしながら勝利だけを目指せばよかったゲームと、物語の中ではあっても少年たちにとって現実となっている現実の世界との齟齬を生んでしまったのかもしれない。途中で仲間が捕らえられても今は殺さないからと思い込んで一旦撤退するあたりも、冷静過ぎて肉声に乏しくヒーロー然としていない感じ。そんなギャップを後悔し、すべてを救ってこそヒーローと思うに至る展開となって後、戦いに熱を込めていってくれれば良いんだけれど、とりあえず終わってしまっているからなあ。続きはあるのかな。気にしていこう。

 終戦記念日にしてコミケ初日だけど特に引き合いに出して云々する声はなし。というか昔はもっと厳かに静粛にその日を迎え、過去を受け止め今を考え未来につなげようとする意識があって終戦記念日にひっかけ何か騒ぎ立てるようなことは少なかったんだけれど、今はやれ参拝がどうしたとか責任がどうしたといった話ばかりが引っかけられては騒ぎ立てられ、誰も彼もがポジショントークをしてるようなどこか浮ついた雰囲気が蔓延して、真っ当にその日を偲び悼むような空気になってない。だから他でいろいろ賑やかなイベントがあっても、それを論ってどうこいう言うなんて出来なかったりする。

 というか凄いらしいよ靖国神社。どこのコスプレ広場が移ってきているのかといった感じとか。まあ昔からそれを制服として凱旋し活動し演説してきた団体の人たちが、その扮装でもって参るのは筋が通っているとは思うし、実際にその服を着て戦地へと赴き、仲間たちを見送った人たちが当時を偲び自分たちの今を見せたいと、軍服姿で参集するのはよく分かる。でも戦争とかまるで無縁の世代が、どこかであつらえたような軍服姿でやって来きて、それで供養とか追悼とかになるんだろうか。そこがまるで分からない。日本軍だけならまだしも他国の軍服姿とかもあるとかで、もはやただのミリタリーマニアのファッションショー。それが堂々と出きる場所になってしまっている。

 でもなあ、靖国に集まっている人たちの軍服って制服ってより戦闘服じゃん、礼服じゃないじゃん、閣僚たちだってスーツに黒ネクタイで参拝しているのに、それを支持する人たちが、厳粛な場所に作業着姿で乗り込んできて騒いでいったい何の供養になるんだろう。ミリタリーしたけりゃ行くなら有明であって九段下じゃないんだけれど、そういう公私の区別すらつかないくらいに自分の主張を世に喧伝すること、あるいはそういう自分が何かによって承認されていると感じることが、何より大事になってしまっているんだろうなあ。それを窘めない神社も神社って気がするけれど、だったら更衣室くらいは用意してあげて欲しいもの。そしてコスプレする人は九段下に行くまでは普通の格好で行って欲しいもの。コミケだってコスプレでの来場退場は御法度なんだから。

 せっかくだからとコミケにも回っていっぱいの谷間を見る。水着姿を見に海岸に行けない独り者にはそういうものにまみえるチャンスだけれどでも、手が届く訳ではないのだった。少し哀しい。ライトノベル作家の人たちが集まって出している同人誌を買ったり、タイタニアが鋭意執筆されている状況を喜んだりしつつ西館(にし・やかた)4階へと上がって企業ブースに入ると割と通路が広かった。昔だったらホントにびっしりとブースが並んで通路に人が溢れ身動きもとれなかったけど、少し改善をしたのかな、でもその分出展社も少なくなったとか。更衣室を別に移して広げたんだろうか。ちょっと観察不足。そんな中ではアニメスタイルで結城信輝さんによる「宇宙戦艦ヤマト2199」の原画集を購入。思いんで別の場所で買うつもりでいたけれど、コミケ限定での小冊子に載ってた牢屋で胸元を開いて座る新見薫さんの姿にこれは買わねばと思わされた。そういうものだ、人間って。


【8月14日】 例えば東大医学部への進学がもう確実と言われていたほどの学校きっての秀才でイケメンで白衣の眼鏡男子が、なぜか思い立って女子バレーボール部のマネージャーになっておにぎりを握ることになったんだけれど米のとぎかたを知らず炊き方もしらずに三角フラスコに米をいれて炊けば三角形のおにぎりになると信じて火を付け爆発させて体育館に煙がもうもう。何やってんだと鬼のキャプテンに蹴られてひいひい転げ回って悔い改めて、ちゃんと炊飯器を使って炊きあげたお米を握ろうとしてハタと迷う。三角形のおにぎりとはいかなるものか。

 そう考え二等辺三角形であるべきか直角三角形でなければいけないのか、やっぱり正三角形がベストなのかと迷ったはてにたどり着いた正三角形という結論だけれどそれは平面だからなせる技、立体のおにぎりにあって美しいのは正三角形が4枚連なった正四面体であると考えそんな形におにぎりを握ったらやっぱり食べにくいとキャプテンからスパイクをぶつけられ部員たちからも蹴りまくられてやっぱりひいひい良いながら体育館の床を転げ回る姿なら、ちょっと見てみたい気がするなあと思ったとある高校野球のおにぎり娘。

 特進クラスから転籍してまでおにぎりを握るなんて勿体ないといった声も飛び交っているけれど、自分がやりたいからやっているんだから良いんじゃね、ってのがとりあえずの感想。だからそれで進学が滞って墜落する人生を送ったって僕の知った話ではないんだけれど、問題はそういう風潮を美談として喧伝し、誰もがそうしなきゃいけない的なプレッシャーをメディアが醸しだし、他の人に与えているのならこれは問題。だからおにぎり娘にはそれが自分の生きる道だと高らかに宣言して私のおにぎりに付いてこれるかとニヤリ笑って高速ドリフト握りを見せる姿満天下に示していただきたいもの。期待したい。

 ライトノベルと一般文芸の頭文字Lをレーベル名に入れた富士見L文庫から刊行され、なおかつラノベ文芸賞なんてものを受賞もしていたりする庵桐サチさんの「電池式 君の記憶から僕が消えるまで」(富士見書房、580円)がライトノベルでないはずがない、って断言したいところだけれども読んで思ったその切なさその純愛ぶり。これはむしろケータイ小説が全盛だった時代に隆盛した、泣きと嘆きを合わせ感じさせるラブストーリーなんじゃなかろうか。あるいはコバルトが創刊した頃に結構あった難病物の一種とか。

 どうやら舞台は今から50年くらい未来みたいで、化石燃料が中心だったエネルギー資源が枯渇した世界は、歯車ではなく電池によって動かされるようになっている。それがどういう仕組みでそして、そもそものエネルギー源は地熱なのか太陽光なのかはちょっと不明。ただそういう設定がまずあって、そして高校生の巧介は、幼なじで同級生で美少女で合唱部にいて歌の巧い妙子って少女から、クラスであまり目立っていなかった未来という少女を紹介されることになる。

 ただ、誰にでも優しいのか妙子はそんな未来に声をかけて一足早く友達になっていて、そして未来がどういう境遇に置かれているかを知ってもっといろいろ経験してもらいたいと考え、巧介を巻き込んだらしい。これが未来と巧介の運命を変える。そして妙子自身の運命も。未来と仲良くなった巧介は、どうして未来が誰とも触れあわずに過ごしていたかを知ることになる。彼女は胸に埋め込まれた電池によって生かされていた。脳を働かせるには微弱な電流が必要だって話があって、けれども未来はそんな電流がうまく流れない体質だったらしい。そこで胸に電池を埋め込み、そこから流れる電流によって脳を動かし、毎日を過ごし起こったことを脳に記憶していた。

 ただ、残念なことに電池には寿命があって、そして交換も難しいため未来は電池画商も失いよう、そして長く生きられるようにと脳が激しく使われないように生きてきた。運動はダメでもちろん恋愛ももってのほか。だって心がドキドキするから。そういう生き方を母親に言われて自分でもそう思い込んでいた未来だったけど、巧介との出会いで自分がやりたいことを考えるようになり、自分が生きたいように生きようと思うようになる。つまりは恋がしたい。巧介ともっといっしょにいたい。そんな思い。

 もちろんそんな生き方は、未来の寿命を縮めることになる。巧介も自分が未来を好きになることが彼女自身から時間を奪ってしまうことだ分かっている。でも止められない。止めたくない。感情が冷静さを追い越して2人を突き動かす。そんな2人を傍らからみているのが妙子。実はというかやっぱり巧介が好きだった妙子にとって、未来は巧介を奪ってしまった存在。だからいなくなってしまえば良いとも思うけれど、心根は優しい妙子は未来のことも大好きで、間に挟まれて思い悩む。なんて羨ましいんだ巧介。爆発しろ。

 物語はといえば、感情の赴くままに生き急ぐべきなのか、それとも感情を抑えて長い時間を生きていくべきなのか。それは本当に生きているということになるのか、なんて問いかけが投げかけられてどう生きたら良いのかを考えさせる。将来のために、今本当にやりたいことを我慢するってことは誰に出もあって、それがベストな結果を生むこともあったりする。とはいえ一方であの時にそちらを選んでおけばと悔いることだてある。どっちが良かったと未来に悩んだって仕方がない。そうならないためにも今をしっかり決断すること。その大切さって奴を多分、感じ取るべき物語なんだろう。自分が選んだ道なんだから、後悔しないんだという決断をするための勇気を得るための物語でもあるんだろう。

 それにしてもラノベ文芸賞というからどんなものが出てくるかと思っていたけど、意外に真っ当でそしてピュアならラブストーリーだった感じ。これならライトノベルが好きな人でもそうでない一般文芸の人でも読んでなるほどと納得できそう。どっちつかずにならず、どっちもありといったところ? 設定面の電池ってのが気になるところだけれどそこはまあ、そういうものだと理解しつつ、どこまでもピュアでそして切なく、けれどもちょっぴり嬉しさも最後に味わえるラブストーリーとして楽しみたい。次はどんな作品がラノベ文芸賞をとるのかな。ミステリーかなそれともホラーかな。やっぱりラブストーリーなんだろうか。そこも気になる。

 ジブリ文庫なら知っていたけどAKB新書なんてものが刊行されていたとはつい最近まで知らなかったよ、つまりはそれくらいに“国民的”になっているってことの現れで、続くとしたら何だろうって考えたけれど思い浮かばないくらいに突出しているそれらから、ジブリが脱落したらやっぱり残るのはAKB? 分からないけどどうなっても指原莉乃さんだけは残ってそして芸能界で燦然と輝き続けるような気がして来た、AKB新書第1弾「逆転力 〜ピンチを待て」の出版記念トークイベント。それを自分で書いたんじゃないよとさらりと良い喋ったことをまとめてもらったんだからと言って場を盛り上げ中身の正当性を伝えつつ、自分なんてまだまだだって謙遜もしてみせるあたりに人としての分厚さが見える。

 もう折れないしへこたれない。それだったらHKT48へと移籍させられた段階で崩れていただろうけれど、それすらも糧に変えて総選挙での1位をとったり2位に下がっても相変わらずトップクラスだったりするその強さが、あればどうなってもその存在をこの世に止め続けるだろう。メンバーで誰に読んでもらいたいかとかいった話でさらりと峰岸みなみさんを出したりしても、あっけらかんとして事件を陰湿なもとせずもう済んだことと流し笑いに変えつつ引っ張り上げようとしている配慮が伺える。苦労の度合いから言ったらどうなんだろう、どっちもどっち感があるけれど、共に辞めず今に至っているところを見るとやっぱりそうとうに人間として強い人が生き残れる世界なんだろうなあAKB48とその一派。他の面々はどうだろう。スキャンダルが最近ないから指原さんのアドバイスもあんまり効かなさそうだけれど、何か起こったら読んで自分の糧にして欲しいもの。そうやって最強チームへとのし上がっていくんだAKB48。やっぱり東京五輪は彼女たちが仕切るのかなあ。世界から何を言われたって気にしない根性、ありそうだもんなあ。


【8月13日】 「813」といったらアルセーヌ・ルパンだけど、どんな話だったか覚えてないのだった。「奇巌城」なら海辺にそびえる針山のような岩が舞台って感じに、何となく覚えているけどトータルではどんなストーリーだったかやっぱりあまり覚えてない。これがシャーロック・ホームズだったら短編長編も含めて割と原作は覚えていたりするのは、原作へのリスペクト含みでパロディやパスティーシュが描かれることが多いからで、そこがアルセーヌ・ルパン物とはちょっと違う。多分日本では「ルパン三世」があまりに有名になり過ぎて、大泥棒という設定以外はすべてすっ飛ばして描かれてしまったりすることが原因なんだろう。これで「ルパン三世」がまだ本家のアルセーヌ・ルパン物に殉じた設定と展開だったら、本家についてももうちょっと知られていたかもしれないなあ。なんてことを思った日。せっかくだから読み返してみるか。まずは森田崇さんによる漫画の「アバンチュリエ」から。

 そんな「アバンチュリエ」が連載されてた漫画誌「イブニング」では、遠藤浩輝さんの「オールラウンダー廻」で巨大な神谷真希ちゃんがブラジリアン柔術使いでカポィエラ使いの女子と戦いを繰り広げていて、最初は相手の変則的な動きに翻弄されていたけれどだんだんと気合いが入って来たか、好きな廻に格好悪いところを見せられないと奮起したか、繰り出す蹴りが当たるようになってそして最新号では側頭部へのハイキック閃! これで来週には決着がつきそうだけれど、試合を終えた真希ちゃんがしばらく引っ込んでしまうのは勿体ない。まあおそらく試合は続いて胸が巨大な延丘薫ちゃんが登場して、迫力ある試合を繰り広げてはその姿態でもって廻の眼を釘付けにして、それを横で真希ちゃんがハラハラしながら観ているという展開になるんだろう。ちょっと楽しみ。

 そんな「イブニング」ではしばらく前から始まった上条峰明さんの「たんさんすいぶ」が、ちょっと面白くって連載分をキンドル版でもって閲覧中。「もやしもん」の連載が移ってからしばらく雑誌としての「イブニング」を買わなくなっていて、その間に「累」とか面白い連載も始まっていながらちょっと遠のいていたら「おせん」の終盤にさしかかったり、「とろける鉄工所」の連載も終わったりしていろいろと雰囲気も変わっていたみたい。奥浩哉さんの連載なんてものが始まってもいたのにも驚いた。でも僕の好きな奥さんとはちょっと違うんだよなあ、って「変」が大好きな僕には「GANTZ」ですら違うんで何とも言えないけれど。そんな雰囲気がガラリと変わってオッサンぽさが漂い始めた「イブニング」にあって、何故か舞台が高校の吹奏楽部という設定がまず気になった。

 兄が有名なサックスプレーヤーでありながら、自分は音楽に関わらなくなっていた弟が吹奏楽部に埋もれていた古いサックスを手にしたことで大きく変わる。そのサックスがまずは女の子に見えて、そして治すと喜び吹くと華やかな表情でもって辺りを飛び回る。単に主人公にはそう見えているだけなのか、本当にそういう精霊みたいなのが宿っていて主人公にだけ見えるのかは分からないけれど、音楽というものが持つ神秘性めいたものを楽しげなタッチで描いているところが読んでいて心地よい。あと主人公の天才性。秘められていた才能が何かをきっかけに発動する展開って、誰もが持ってる自分じゃない何かになりたってい願望を刺激して心躍らせる。

 それは吹奏楽部に集う面々にも言えることで、気取っていたり遊んでいたり走り回っていたり何もしていなかったりする面々は、傍目には普通じゃなくってまともに吹奏楽をやっているようには見えない。ひとり眼鏡の女の子だけが一所懸命に吹奏楽に取り組んでいて、だから主人公がふらりと来ては珍しい楽器をリペアし吹いてみせたり難しいタンギングをあっさりやってのけたりすることに違和感とか反感を見せたりする。そんな部の雰囲気が、修理に出していた楽器が戻ってきたことでガラリと変わる。遊んでいた面々が自分たちの楽器を手にすると途端に何かやらかしそうな顔になる。そんな展開にワクワクさせられると同時に、そこに主人公が入っていってどれだけのすごさを見せてくれるのかって興味が浮かぶ。真面目に取り組んでいた眼鏡っ娘がちょっと可哀想になるけれど、彼女だって持っているものがあるはず。それらが一致した時に生まれる素晴らしい音の空間がどんな感じに描かれ、そこに少年にだけ見える精霊がどんな表情を見せるのか。期待して展開を追っていこう、キンドルで。ああでも単行本が出るのか。買おう。

 せっかくだからと東京国立博物館でやってる「台北 國立故宮博物院−神品至宝−」ってのをようやくやっと見に行ったけれどうん、白菜って見物がないとあれは結構普通の人には大変かも。だってほとんどが書で、それも掛け軸になるようなものってよりは当時の官僚とか文人たちによる文章だったりして、見る人が見ればその書体の綺麗さ完璧さにうなり、書かれている内容に歓喜したりもするんだろうけど、普通の人には何がどうすごいのか分からない。これが書をメインに飾る展覧会なら、その字体その内容その歴史的意味合いも含めて解説がされただろうけれど、歴史的博物的文物として捉えられている展覧会ではそこまで踏み込まれていない。

 出きればその書なり書いた人物なりの意味合いを、提示してくれる解説が欲しいところだけど、図録なんかにはそのあたり、ちゃんと書いてあるんだろうか。あと画についても、日本の掛け軸とか屏風絵とかとは違って、水墨めいたものが中心でそこに書が添えられたりしていてと全体に地味。刺繍めいが技法で作られた画なんてのもあって、その技巧の凄まじさには感嘆しても美術品としての価値付けがどうされているのか、ってところがやっぱり分かりづらいから見ていて戸惑った。歴史的な価値は時代とかを見れば存分に分かるけど、そうした博物的な関心と、美術的な関心をともに満足させるのはやっぱり難しいのかなあ、博物館だし仕方がないか。これが部屋が変わって青磁とか白磁とか景徳鎮とかが並ぶと、さすがに美術工芸品として見て何となく“分かる”感じになる。

 玉を使った工芸品の細工の細かさなんてもの、同じような流れで見る人にすごいものだって思わせる。それはそれで素晴らしいことだけれど、一方で紀元前から今日に至るまでに積み上げられた歴史の長さと、そこで生み出された書であり画であり工芸といった文化であり、それらを支えた政治でありといったものの 厚さをもっとアピールしないと、これだけの至宝が至宝として感じてもらえないまま過ぎてしまう心配がある。日本がどれだけ歴史が長いといったところで、紀元前10世紀とかになるとまだ、国なんて概念すらなかった、そんな頃にすでに王朝をうち立て政治を行い文化を残していた中国への、それなりの敬意ってものを抱いてもらえる結構な機会だったりする訳だし。今がどうなっているかはともかく、やっぱり持ってるスケールが違う、だから相手をするにもそこまで考えないとのみこまれてしまうだけだという感覚も、喚起できると思うんだけれど。


【8月12日】 29年前のその日は網走にいて、大学の同級生たちと北海道を電車で旅行していてたどり着いたその旅ではもっとも北端の街で、北とは思えない暑さに辟易としながら宿に入って洗濯物でもしようかと、街に出てコインランドリーへと入ってジーンズを洗ってから戻った宿のテレビで大変な事故が起きていると知った。ジャンボ機墜落。とはい、ネットでPCやスマホを見ならがリアルタイムで状況を追うなんてこともできなかったから、食堂あたりにあったテレビから流れてくる情報を聞いて「坂本」という有名人が亡くなったという話を耳にして、さて誰のことだろうか「坂本あきら」だろうかと思った記憶がある。

 つまりは1985年の当時、「坂本九」という名前は有名人としてすぐに浮かんで来るほどのメジャーな歌手ではなくなっていて、「上を向いて歩こう」や「レッツ・キス(ジェンカ)」といった楽曲でかつて名声を博し、そして「新・八犬伝」の語りとエンディング「夕やけの空」をリアルタイムで見て育って楽しい人がいるなあと思ってから幾年月。今はいったいどこで何をしている人なんだといったニュアンスが、大学生になった頃の僕らの間には漂っていたりした。調べるとしばらく歌手を休んでいたみたいで、その年にレーベルを移籍して活動を再開させようとしていた矢先の事故だったらしく、それだけに勿体ないという気持ちが今も浮かぶ。あるいは存命ならばそのまま復活へと向かったか、それともやっぱり過去の人として語られるだけに終わったか、分からないけれどもそれでも存命だとして今はまだ72歳。現役として舞台に立っていたとして不思議はない歳だったりする。

 というか亡くなられた当時で43歳。それで一時代をすでに作り終えた感が漂っていたっていったい何歳くらいから最前線でスターを張っていたんだろう。それが今さらだけど驚いてしまう。旅行は網走から阿寒を経て帯広を抜け登別から大沼公園を通って函館まで来てそして東京から名古屋へ。戻った時には報道合戦はおおむね終わっていたけれど、それでもやっぱり今へと続き未来へと語られる事故だったことには間違いない。過ちがあったのなら繰り返させないで欲しいけれどでも、やっぱり今も事故は起きるしそうでなくても狙い打ちされ堕とされる。科学と人間の進歩が待たれる。

 そういえば日航ジャンボ機墜落事故では真っ先に現場にかけつけたフジテレビが確か新聞協会賞を受賞したんだけれどこれはこれで墜落現場となった山中まで、当時はまだどこが現場かもはっかりとしない中で真っ先にかけつけてその惨状をリポートしたという意味で、やっぱり受賞に値する報道だったと言えそう。でももしも現在、そうした事故が発生したとしたらテレビ局に限らず少なくないフリーもあるいは個人までもが手にビデオカメラを持ち、あるいはスマートフォンだけもってとっところ現場にかけつけては、1番乗りよろしくその状況を撮りまくってはアップして衆目に触れさせるような行動に出たかもしれない。

 その行為にもちろんジャーナリズムが皆無って訳じゃないし、野次馬根性がジャーナリズムの根っこにある以上は仕方がないかもしれないけれど、でもやっぱり入る以上は節度とそして畏敬を持って報道に当たって欲しいというのが切なる思い。ただ目立ちたい、アクセスを稼ぎたいって心理だけが先走って現場に行っても救護とかせず、証拠になりそうなものを踏み荒らして取り除いて撮影に勤しむような真似だけはしないで欲しいんだけれどでも、今のメディアってのがそうした抑制も畏敬もない野次馬行為を認めすがっていたりするところがあるのが問題というか、それがメディアの全体的な信頼低下を招いているんだけれど気づいてないところが情けない。テレビ朝日の動画投稿募集告知。

 著作権だとか著作人格権がテレビ朝日にもっていかれるとか、それでいながら映像で何か問題が起こったら責任は投稿者にあるとかいった無茶な規約が問題になって、これは拙いとテレビ朝日も規約の改訂を行う構えでいるみたいだけれど、そんなことより気になったのは「動画も画像(写真)も大歓迎です。事件・事故、災害現場の様子や、ハプニングなど、あなたのスクープ映像をお待ちしています」という文言。テレビ局が嬉々とした面もちでもって災害だとか事件だとか事故だとかいったハプニングなりスクープなりの映像を一般から募っていたりする感じで、そこには現場にかけつけることによって二次災害めいたものが発生する可能性を指摘するとか、被害者の救護なり通報なりを後回しにしてまず撮影といった行為を窘めるような文言はまるでなく、ただ欲しいといったニュアンスしか漂って来ない。

 なるほど危険な場所に行って事故に遭うのは自己責任の範ちゅうかもしれないけれど、そういう覚悟を訓練されているジャーナリストではない一般の人も相手にしたようなサービスで、何の警告も啓発もしないで危険な場所へと尻を叩いて追い込んだり、人道といったものを踏みしだいてスクープを得るような気持ちを醸成させたりするのってやっぱり違うんじゃないかなあ。あるいはそれがもはやテレビ局という現場における共通認識になっていたりするのかもしれず、だからああいった煽るような文言を平気で載せられるのかもしれない。

 そして責任は負わないというその態度は自分たちで探し真偽を調べ許可を得て発信するというジャーナリズムの基本すら、投げ捨てていたりする現れなのかもしれない。報道の死。そしてジャーナリズムの死。これが派手さが売りのテレビだけなら良いけれど、最近は新聞にも調べるよりもインパクトに傾くところがあるからなあ。場違いな写真をいかにもな証拠と載せ存在しなかった人物がいたかのように書いてそれで告発の記事を書いて突っ込まれても返答なし。それでよく他紙の釈明を誤報だ捏造だと非難できるものだよなあ。参った参った。

 スナミ先生が実在する「週刊少年ジャンプ」の編集者だと気づいたのはいつなんだろうか。多分「トイレット博士」の連載が続いていることは分からなかったんじゃないのかなあ。今でこそDr.マシリトに鳥嶋さんって編集者がいたり樹林さんって編集者が強烈なキャラクターとして漫画に登場していたりと漫画の内と外とで人の行き来は普通に行われているけれど、その魁を単なる楽屋落ちではなくうちわ受けでもない、強烈きわまりない漫画のキャラクターとしてやってのけたあたりに原作のとりいかずよしさんのすごさがあり、それを認め描かせた編集者の角南攻さんのすごさがあった。

 後に「週刊ヤングジャンプ」を創刊して「花平バズーカ」とか「俺の空 刑事編」とかを送り出し週刊からは出ないような漫画家たちを世に出して漫画王国の基礎を確実に担い、そして白泉社へと移ってからは「コミックアニマル」から「ヤングアニマル」への移行期にリーダーシップを発揮してエロありバイオレンスありの柱を生かして伸ばしてそして今にいたる白泉社の主力だった少女漫画とはまた違った柱をうち立てた。ここがなければ「デトロイトメタルシティー」は生まれなかったし「3月のライオン」だって連載されていなかった訳でやっぱり今に繋がる何かを作り上げた人だった。角南攻さん死去。「メタクソ編集王」って漫画にかける熱情を綴った自伝を出したばかりだったけど、これも何かを予期してのことだったんだろうなあ。ご冥福をお祈りしつつ。敬意をこめて。マタンキ。


【8月11日】 そして気が付くとなでしこリーグがレギュラーシーズンの最終節1つ前まで来ていて、われらが巨大な山根恵里奈選手を擁するジェフユナイテッド市原・千葉レディースは7位と、上位6チームが出場できるプレーオフみたいなシリーズに出られる1歩手前。勝ち点とか勝ち星とかでは6位のベガルタ仙台レディースと並んでいるんだけれど、前に直接対決で負けているから多分この順位差になっているらしい。結構勝っていたような気がするだけに7位ってのがちょっと信じられないけれど、8位以下との差が割とあって、上位7チームがちょっとづつの勝ったり引き分けたりの差で並んでいるって感じ。

 一時は日テレベレーザが飛び抜けていて、その後はINAC神戸レオネッサが抜けてた時と比べると、チームに戦力が分散して実力が伯仲してきたとも言えるし上位チームから有力選手が海外に移籍してしまい、戦力がダウンした結果が横並びになったとも言えそう。前者ならリーグにとっては嬉しいし、日本の女子サッカー全体の底上げになっているとも言えるけど、後者だと代表選手が海外移籍組ばかりになってる男子の代表と状況が変わりなく、同じようにリーグの地盤沈下へと繋がりかねない心配はある。男子についてはそのあたり、新しい代表監督になったアギーレがどういう差配を見せるか興味があるけど、女子は海外だけに頼る訳にいかない事情もあって、代表でも国内組を使わなければいけない分、まだましかもしれない。

 でもって海外組が抜けてもアジアの大会で勝ち抜けるくらいには、戦力の積み上げは出来ていると考えられないこともないし、会場に行けば人気も決して衰えていないところを見ると、新しいファンは獲得できていると言えるかも。そんな状況だけにジェフレディースも上位で勝って目立って欲しいところ。そして残る最終節の対戦相手がそのベガルタレディースで、勝てば文句なしに6位に上がれそうなんだけれど、引き分けだったらやっぱり直接対決の結果でもってベガルタが上に行ってしまう。何としても買って欲しいけれども果たして。元がTEPCOマリーゼの解散を受けて立ち上がったチームなだけにマリーゼ出身の山根選手も思うところがありそうだけれど、そこが奮起し立ちふさがって欲しいもの。代表入りを狙うならそれだけの存在感、見せて欲しいなあ。

 そんなアギーレ監督が日本にやって来て会見したみたいで、見ていないけれどもそれなりにそつなくこなしたみたい。決して記者の「代表監督としてこれまでの経験を踏まえての抱負を」って質問に「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」って答えたり、記者に「香川選手や本田選手についてどう思います」と聴かれて「貧弱! 貧弱ゥ!」って答えてそして、メキシコから持参の石仮面を被って「俺は人間をやめるぞ!」と叫んでみせたりはしないところに、ニッポンのポップカルチャーへの理解はかいま見えなかった。ってそれはそう聴かれてないから答えなかっただけで、実は大好きで「日本代表向けに守備を強化してきたようですが」って質問すれば「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ッ!」と答えてくれるかもしれない。違うかも知れない。どっちにしても9月の代表選とそれに向けた選手選びのお手並み拝見。海外でシーズンが始まってすぐに海外組呼べるとも思えないし。

 そうやって話題が常に転がっているサッカーと比べると、プロ野球は何か漫然とした衰退って奴を迎えているのかどうなのか。いよいよもってセントラルとパシフィックの両リーグ間で行われていた交流試合が削減の方向になったみたいで、いずれ廃止だなんて話も生まれてきているけれどもそうやって削減したがるセ・リーグの理由が振るっているというか、オールスターの人気が落ちて中継が途中でうち切られたって言っているけど、それはパ・リーグが不人気だとか希少価値がなくなったって訳じゃなく、セ・リーグも含めたプロ野球全体への関心が低下しているだけのことであって、あるいは交流試合がなくパ・リーグの選手へのセ・リーグファンの関心がなければさらに視聴率が下がっていたかもしれない。

 本拠地にドーム球場が少なく、雨天で中止の試合が多くて日程がズレてシーズンオフの日本代表の試合にかかってきそうってのは球場に金をつかわないセ・リーグの事情でもあるし、やっぱりドーム球場がないアメリカみたいに、順延された分はダブルヘッダーを重ねて調整するような強引を通せない運営側の問題でもあったりする。まあ選手がそれで疲れたり観客動員が下がったりするのは嫌だという気持ちも分からないでもないけれど、日本代表なんてものがいったいどれだけプロ野球の価値向上につながっているんだと考えると別に無理して守り立てる必要もない。メジャーリーグがアメリカ代表のために交流試合を減らさないように。

 つまりはすべてがじり貧だからこそ、話題性に頼らざるを得なくなっている体質が問題であって、そこを解決しないで話題作りに邁進して、地道な球団へのファン作りという本筋をおろそかにしているデフレスパイラルが、ここに来て吹き出しているって感じ。だから交流戦の減らしても抜本的な解決にはならず、むしろ断末魔へと向かって進んでいきそう。カープ女子とかいつまでも続くもんじゃないし、楽天ガールズだって似たようなもの。時流が過ぎれば雲散霧消しかねないブームを受けて喜んでいるより先に、プロ野球ってこんなに面白いんだっていう印象を醸し出すようにしていかないといずれまた、交流戦が始まるきっかけとなった状況が起こりかけないんだけれど、日本って間抜けだから球団増やそうぜとか言っちゃってる。

 それは確かに地方にファンを生むけれど、一方で人気の分散って奴を招く。トータルとして上向きの時はいいけれど、下がり気味の時にそれやったらどうなるか。今のJリーグみたいになるんだろうなあ、プロなのに年収数百万円とかって選手がゴロゴロ生まれ、トップも1億円越えが数人いるかいないかっていう。それで良いなら良いけれど、夢がなくなり選手は育っても海外移籍で空洞化が生まれてさらなる地盤沈下のデフレスパイラル。代表人気に頼ろうったって野球の代表が活躍できる場がどこにある? WBCなんて世界最高峰って感じじゃないしオリンピックの場に野球はない。どうすりゃ良い? ってところで名案が浮かばないくらい、この国の興業としてのスポーツがひとつ曲がり角に来ている感じ。アメリカじゃあMLSが興隆してヤンキースタジアムでサッカーやるって程なのに。どうしてこんなに差がついた? 慢心というより無策なんだろうなあ。どうなるプロ野球。そしてサッカー。

 せっかくだから人の入っているところを見ようと池袋西武本店で開かれている「攻殻機動隊大原画展」をのぞいたら結構な人がいて、それが最初の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と続編「イノセンス」の原画あたりに割と溜まって見ていた。最初の方に展示してあるらたまたま入った人が滞留していただけっていう、展覧会によくある構図かもしれないけれども奥の方にある「STAND ALONE COMPLEX」に人がびっしりって感じでもないのが意外といえば意外。だってテレビで放送されてよく見られているのって「S.A.C」シリーズじゃん、そして草薙素子もエロいじゃん、だからもっとファンが多いと思ってた。版画も最初の「GHOST IN THE SHELL」で使われていた、沖浦啓之さんによるケーブルが全身義体から出た素子のイラストが1番売れてたし、やっぱり「攻殻」の印象は最初に誰もが置いている、ってことなのかな。でもそれでも「ARISE」にちゃんとお客さんは来ているから、やっぱり全体に散らばっているのかな。最終日近くにまた行って様子を見てこよう。


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