縮刷版2014年5月下旬号


【5月31日】 久々に超早起きをして豊洲へ。出遅れた割には席があまっていた「THE NEXT GENERATION パトレイバー 第2章」の舞台挨拶付き上映があるんでユナイテッドシネマ豊洲があるららぽーと豊洲に入ったらまだ人がほとんどいなかった。エレベーター前には先頭に並んでそこから3階へと上がって、劇場版のブルーレイディスクを買うのもやっぱり先頭。「宇宙戦艦ヤマト2199」の時の争奪戦めいた雰囲気はなく、おそらくはその10倍は凄まじかっただろう「機動戦士ガンダムUC epi.7」の喧噪には遠く及ばない静かな滑り出しにもしかしたらこれはヤバいかも、なんて懸念が漂い始める。

 まあそこはそれ、初日だけあって劇場の方は1番大きな10番スクリーンをいっぱいに埋め尽くす観客が集まって今回が初の舞台挨拶となった福士誠治さんもまずまず満足だった様子だし、2作目以降はぐっと人が減るんだよそれが心配だったと舞台挨拶で話した押井守総監督も初日の朝1番での満員ぶりまずは一安心といったところ。とにかくお金を使いすぎてしまったらしい作品だけに劇場での動員と、そしてブルーレイディスクなりの売り上げがないと途中で公開が止まってしまう……なんてことはないだろうけど編集予算もBDの製造費用も捻出できなくなったらそれもあったりするのかな。なのでそれらが可能になるくらいには、お客さんが入ってくれないと困ってしまう、ファンとして。

 そこはやっぱり作品力ということで、「THE NEXT GENERATION パトレイバー第2章」はエピソード2とエピソード3が上映されてそれぞれに押井的であってなおかつ個々の監督の色も出た面白い内容に仕上がっていた。まずはエピソード2の「98式再起動せよ」ではノベライズの第1巻にもちょろっとあった感じにレイバーが警視総監の観閲式に駆り出される感じで直立を求められるという話。けどレイバーは直前に泉野明と遊馬がレイバーに空手の形をさせるなんて暴挙に出たため損傷が激しく、2号の方も部品が足りずにちょっと無理。「そこをなんとか」という後藤田さんの無表情なプレッシャーに繁さんも折れたか根性見せたか、全員動員による地獄のような修繕作業がスタートする。

 一方では、オートパイロットが使えなくなった時に自立すべく操縦担当者のバランス感覚向上の特訓も。そこは運動神経は良さそうな明はするするこなすけど酒飲みの太田はちょっと大変。なおかつ周囲でもいろいろな企みが。そして巡ってきた当日、というより意地悪のために前倒しされた警視総監の見学でとんでもないことが起こる。それは……ってやってしまって良いのかってくらいの派手さだったけれどもそこはそれ、次の回には何ともなくなっているのであった。ギャグ漫画ってそういうものだ。

 それについてはこういうこともある、って作品世界が持つ“リアル”の限界をそう見せて、観客に擦り込んでいくという役目もあった模様。以後、何が起ころうともそれはそれぞれのエピソードでのスターシステム的振り回し。死にさえしなければ次の場面で復活を遂げて平気な顔で参加してきても大丈夫ってことなんだろう。ただ最後の映画でそれらの設定が全部ぶち込まれるか、映画は映画で独立した話になるのかは不明。個々のエピソードを絡めてくるのかそれとも。そういう楽しみも出てきた。とりあえずそんなエピソード2での見所は、レイバーに向かい空手をする特車二課整備班にいる空手美女かなあ、最前線にいてピシッと形を決めてくる。誰なんだろう、あの人。岩松了さんは……存在感だけはあったかな。

 でもってエピソード3「鉄拳アキラ」は、第1章を見たときに上映された予告編でもっと激しくゲームでバトルするような話を想像したら案外に押井さん的に哲学する方へと流れていって、それはそれで押井さんらしいんだけれども少しズラされた感じ。まあでもエピソード2でもってアクションから最後は爆発まで言ってしまった後でまた、アクションを重ねるのも芸がない。そこはだから「機動警察パトレイバー THE MOVIE2」と同じようにアクションを抑えつつ言葉でもって戦うような静かに滾る話を持ってきたって考えよう。とはいえゲームの中を空想するようにして真野恵里菜ちゃん演じる明がカーシャを相手に「鉄拳」していた場面は圧巻。聞けばスタントを使わず全部真野さんが演じてみせたとか。

 用意されてたスタントの人にギャラは出たのか心配だけれど、本職を外してでも演じさせたくなるくらいのアクションを見せてくれているんでやっぱり才能あるのかも。あの重たそうなお尻でよくもまあハイキックとか出せるよなあ。気になるのはやっぱり「強いオヤジ」こと竹中直人さんがこの後も出るかどうからだけれど、本当だったら怪獣の回に出したかったけどスケジュールが合わなかったというからたぶんこれっきり。エピソードが後に繋がるってこともなく、泉野明というキャラクターを楽しむ回として受け止めつつ次は次として見るのがよさそう。そんな次はひとつのカーシャがゲリラ戦とか見せてくれそう。そして熱海での怪獣退治。警視庁が何で熱海に出向くんだ? って謎はさておき劇場版第3作ではあんまり見られなかったレイバーvs怪獣って奴を、実写で見せてくれると信じて待とう、公開を。信じて良いかは知らない。

 なでしこリーグの再開にも心引かれたけれども大田区産業会館PIOでもって川上稔さん作品のオンリーイベントが開かれているってんで豊洲から月島へ出て都営地下鉄で大門へと回り都営浅草線から京浜急行へと入って蒲田まで行き現地へ。入場列を一気に作るんんじゃなく艦娘じゃないけど武蔵を構成する船になぞらえられた集団を作ってそこに並ばせくじで順番を決める方式がなかなかユニーク。早く来れば早く入れるって訳じゃないところが面白いというか無茶な競争にならなくて良いというか。でもって浅草に並んで4集団目くらいに入ってまずは川上稔さんご本人が出してるブースで同人誌やら浅間フィギュアの解説本やら買って、それから場内をぐるりと見渡したら最上・義光さまがいた。

 尻尾をいっぱい後ろに着けて、そして胸元をしっかりとふくらませたコスチュームも良かったけれど演じておられる形の顔立ちがあのニマっとした最上・義光さまっぽかった。テンゾーは長身ぶりが実写版といった感じだったけどマスクしてたんで素顔は見えず。どうせ本編でも見せてないからどうでも良いんだけれど。他に本とか買う余裕もないんでざっと見渡すと、色紙に加藤・嘉明を描いていたところがあってちょっと気になった。あと糟屋・武則を色紙に描いてたところもあった。十本槍だとどうしても加藤・清正と福島・正則に向かいがちだけれど、でもやっぱり知略では加藤・嘉明に引かれるところがあるよなあ、竹中・半兵衛はあのえろえろさえ無ければ。糟屋はこれからに期待ですの。いったいどこの出身なんだろう。そんなイベント。面白かったんでまた開かれたらまた行こう。

 抽選には落ちたけれどネットの予約で席が空いていたのを見つけたんで「ロボットガールズZ」の舞台挨拶付き上映をバルト9まで見に行った。「良い意味で酷い映画」だった。ってそういえって舞台挨拶で誰かが言っていたんだけれどまさしくそんな言葉通りに楽しくそして酷い映画。いわゆる萌え擬人化って奴を往年のアニメに出てくるロボットでやったものだけれどもマジンガーZなりグレートマジンガーなりグレンダイザーといったものが擬人化した美少女たちがあしゅら男爵を始め敵を容赦なくフルボッコ。時にはロボットガールズもふるぼっこにされては顔を腫らし鼻血も流してぴくぴくとしている姿を毎回のように拝めるなんて普通のアニメではあり得ない。

 ギャグとして楽しく展開として面白いアニメ。ガ・キーンだとかジーグだとかガイキングだとかゲッターロボGだとかも並んで登場して懐かしさを覚えることができるし、歯止めなんて吹っ飛ばしたバトルの激しさを楽しむこともできる。あとはキャラクターへの感情移入か。なるほどマジンガーZも悪くはないしグレンダさんも色っぽいけどあれであしゅら男爵、半分を褐色にして短髪にもして男っぽさを加えているけど水着になったらちゃんと男側にも胸はあったから女性が左右を塗り分けているだけみたい。その努力が甲斐甲斐しい。あと部下思いなところも。殴られて鼻血を出している部下を治療しなくちゃと駆け寄るその態度。地下帝国はブラックなんかじゃないんだなあ。舞台挨拶にああのコレジャナイロボも出てきて中を開けたら吃驚な展開になっていたけど本編でもコレジャナイロボはいまいち萌えない娘と吃驚な展開に。どうなるかは見てのお楽しみってことで。第2期とかあるかなあ。


【5月30日】 ワイドショーではまるで触れられなかったけれども、トム・クルーズが主演してダグ・ライマンが監督した「Edge Of Tomorrow」という映画のワールドプレミアがロンドンとパリ、そしてニューヨークという3カ所でもって同じ日中に開かれるという前代未聞のことが行われ、トム・クルーズが早朝から日付が替わるその瞬間まで世界を飛び回って映画を宣伝したって話の中で、原作となる「All You Need Is Kill」を書いた桜坂洋さんがロンドンのワールドプレミアに登壇し、赤絨毯を歩いたって話が海外のサイトから流れて来て、見て本当にそこに立っている姿を見てそうかちゃんと連れて行ってもらえたのか、ってまずは喜ぶ。ってことは終わったのかなお仕事は。

 でもって日本人の作家がハリウッドのメジャーで撮られてあのトム・クルーズが主演した映画の原作者として赤絨毯を歩くという事態に、改めて驚いたというかそんな時代がやっと来たというか。日本人作家の原作が海外で映画になったってことが過去にない訳ではなくって、村上春樹さんの原作だって海外で映画化されていたりしたっけそんな記憶もあったりするし、漫画やアニメーションやゲームだったら噂の「ドラゴンボール」を始めとして「スピードレーサー」に「バイオハザード」に「サイレントヒル」と挙げればやっぱり幾つも並ぶ。

 けれども、規模という感じでいくならワーナーブラザーズという超メジャーがスタジオとなり、トム・クルーズという当代きってのスーパースターが主演を務めた映画はやっぱりちょっと印象が違う。なおかつそんな映画の原作を、日本では伝統的な文化なり報道なりの観点から見るなら、決してメジャーな場所に立っているとは見なされていないライトノベルの分野で書いている作家が手掛けていたということはやっぱり事件。それこそ宮崎駿監督の作品がアカデミー賞を受賞したくらいに、日米の文化史的にも重要な出来事だって言って言い過ぎじゃない。そう思う。

 だからワイドショーだってトム・クルーズに触れる以上に、ってことはなくても少しは原作者について触れてくれたって有り難いんだけれどざっと見てそういう話が聞こえて来ないのはやっぱりテレビなりの主要メディアにとって、ライトノベルの小説家というのは存在自体が触れて何か得るものがあると見なされていないのか。直木賞だとか芥川賞だといった賞を獲得していればそれで世間もそういう作家だと認めて紹介に対して身構えるけど、ライトノベルなんて誰が読んでいるか分からないジャンルの小説の書き手は、誰それと言われ関心を持たれないから紹介しないってことなのか。

 テレビが紹介したから有名になるけど有名じゃないから紹介しないって何というトートロジーとは思うけど、そういう図式になっているからなあ、実際に。アニソン歌手だって田村ゆかりさんも茅原実里さんも堀江由衣さんも誰も彼もすごい人数を集めてライブを繰り広げているんだけれど、テレビに登場するのは水樹奈々さんが精一杯。紅白に出ている人といった看板がつかないと、テレビでは紹介しづらいんだろうなあ。まあ良いこれで世評が広まりトム・クルーズというビッグネームが乗ることによって、映画も原作も原作者も一気に世間に名を広め、芥川賞だ直木賞だなんてドメスティックな権威なんて軽く吹き飛ばす存在感を、示してくれるようになるだろうから。って思いたいけど無理かな、それが日本の文化状況という奴だから。

 それにしても海外ではちゃんとリスペクトされているというか桜坂洋さん、「All You Need Is Kill」の漫画版が最終回を迎えた「週刊ヤングジャンプ」でもってあのトム・クルーズと対談をしていてその様子が見開きでもって掲載されている。まず何よりもツーショット。それが実現しているというだけで凄いことだけれど、単なるインタビュアーではなくって主演俳優と原作者という関係でもって並んでいるところが素晴らしい。会話もお互いをちゃんとリスペクトしたものとなっていて、作品に対する相当な理解のものであの設定が作られあの役柄が作り込まれていったかが分かる。撮影に入るまでの1年くらいをダグ・ライマン監督と話し合ったそうだから。

 それにしてもあの重たい機動スーツをトム・クルーズは、誰よりも早く現場に入ってその動きを身に叩き込み、そこから共演者に教えていったってことらしい。実に俳優魂を感じるし、スターとしての矜持って奴も感じる。軽く動けるように作らせるんじゃなく、作られたもので動けるようにするという真摯さも。だからこその迫力に繋がっているんだろうなあ、まだ予告編を見ただけだけど。「ヤンジャン」にはそんな対談の模様をロンドンまで出向いていって記録した竹内良輔さんによる漫画も掲載。トム・クルーズの気さくさが浮かんでくる。記念撮影をした同行者の中に丸宝さんが描かれていたけど、何か優しげなおじさまになっていた。そうだったっけ?

 出崎統監督ばりの繰り返しショットが連発していたアニメーション版「僕らはみんな河合荘」はとりあえず麻弓さんの胸と谷間がいっぱい拝めて有り難いやら嬉しいやら。あれほどのものを拝めあわよくばさわれるのならと誰だって思い寄り添いたくなるはずなのに、どーして麻弓さんはもてなかったりふられてばかりいるんだろう。そこが分からない。飲むと騒ぐからか。いろいろ面倒くさいからか。部屋は確かに汚れていたけどあれも彼氏がいなくなってからだというから、普段はちゃんとしているはず。それなのにやっぱりふられてしまうのは、あまりにいい女過ぎて誰も釣り合わないと思ってしまうからなんだよベイベイ、って誘って靡く相手でもないか。自分に正直。思いに純粋。それを受け止められるだけの強靱な男が世界にはいないってことで。でも勿体ないよなああの谷間。

 そんな「河合荘」が掲載されている「ヤングキングアワーズ」の2014年7月号での「並木通りアオバ自転車店」は自転車がテーマの漫画が原作のミュージカル話が登場、って何かモデルがありそうだけれどそれはそれとして舞台を見てロードレースに興味を持ったというよりは、主演の俳優が醸し出す格好良さやライバルとの関係を自分でも表現したいといった感覚から、主役と同じロードレーサーに乗りたいって女子がアオバ自転車店にやって来るといった展開。そこでアオバだったらいきなりレーサーなんてと追い返すなり諭すかと思ったら、どうしても欲しいという2人に普通にレーサーを売ってしまう。それで良いの? 素人の雰囲気作りに自転車が使われることに我慢ならないんじゃないの?

 そこが今回はちゃんと2人がロードレーサーに乗って走って、そして峠を目指して登って登ってちゃんと登り切っては自転車の良さを表現するストーリーになっているから大丈夫。きっかけはミーハーであっても、ちゃんと筋道を立ててハマっていくような人には優しい展開になっている。誰だって初めての時があって、そこからどう取り組んでいくのが大事なんだってことで。ちょうと「球場ラヴァーズ」の新シリーズでもカープファンになった女の子が、イケメンの青年に取り入りたいからカープ女子やってるだけじゃない、って陰口を言われていたけどでも、誰だって最初はあってそれがたまたま今だったってこと。これからどうなるか。それが大事なんだって教えてくれた。だかあらカープ女子に成り立ての人もずっと応援よろしく。今年優勝したって来年以降そうとは限らなくても。マエケンがいつかいなくなったとしても。

 沼田友さんのトリウッド上映会「伝える」の千秋楽に行く。「河童の腕」のひらのりょうさん、「ニュ〜東京音頭」ぬQさんという当代きってのいかれた作品を作る2人がゲストとして登壇して、いうに事欠いて沼田友さんの作品のいかれっぷりを挙げる挙げる。泣かせと切なさに満ちた純粋で純朴なあの作品の、けれどもまっすぐだからこそ刺さる狂気のようなものがあるのかもしれない。お話の純粋さで押し切ろうとしているあの絵の、ぶつけてくるような暴力性も含めてのいかれっぷりを言っているのかもしれない。ちょっとユニークな視点だった。ひらのりょうさんの新作「パラダイス」のDVDを買ってサインをもらった。ありがとうございます。


【5月29日】 真っ先に浮かぶのが「全日本維新の会」と「新日本維新の会」で、橋下徹さんの方が正統派ということで「全日本」を取るのか、それとも年の功もあって石原慎太郎さんの方が「全日本」で横紙破りのストリートファイとが大好きな橋下さんが「新日本」を取るのか分からないけど、ともあれ「日本維新の会」の分裂に誰もが想像を浮かべるその党名の行方。喧嘩別れではなくそれぞれが独自の道を歩むんだ的なことを言っているあたりから、あの偉大な漫画家を例に出して「日本・H・維新の会」とそれから「日本維新の会I」とそれぞれの頭文字を混ぜた党名にしたりする可能性もありそうだけれど、これも正統派の「F」と革新派の「A」を引くなら「日本・I・維新の会」と「日本維新の会H」って線も考えられそう。いずれにしても面白くなりそうなシチュエーション。日本の政治的には何の役にも立たないけど。

 改憲ってことを目指す自民党に協力できるような体制にしましょうと、勢力を結集して選挙で党勢を拡大してさあ協力という段になって、中身がまとまらずトップの求心力も落ちて自民党からあんまり相手にされなくなりかかっていたところに、分裂でもってさらに党勢を小さくしてはもはや烏合の衆というか、泡沫政党といった扱いで何のイニシアティブも取れなさそう。揉まれすりつぶされるかどこかに吸収されるか。いずれにしても政党としての体を保っていられなくなりそう。石原さんはそれでも国会議員だから国政にいろいろ口は出せるけど、橋下さんはただの大阪市長に過ぎない訳で中央政界への窓口って奴を失って、いったいどれかけの影響力を保てるのか。上昇機運にあった時は誰もがご意見を拝聴しに行ったけど今はそれもない中で、国政を狙ったところで浮かぶ瀬があるとも思えない。大阪市での任期が切れたらあとは元のタレント弁護士に戻るのか。市議になって政治を目指すのか。どっちにしたって些細な存在に落ちてしまいそう。

 石原さんの方はといえばやっぱり年齢が年齢だけに先行きどれだけの活躍の時間が残されているか。維新の会という有る程度の勢力がばっくにあれば国会での質疑にも顔を出せたけれど、それが泡沫になってしまえば時間も与えられず存在感も見せられない。都知事の頃ならそれでも会見で何かを語るという場が与えられたけれど、泡沫政党の党首に何を聞いたところでそれが実行される可能性は薄い。ご意見番としての価値ならあっても政治を動かすキーマンにはなりえないご老体をもてはやす世間もないだろう。だからやっぱり2人はどうでも一緒にいなきゃいけなかった。なのにそれが出来ない2人だからこそのこれまでのインパクトであり、これからの雲散霧消なんだろうなあ。カウンターとして何かしでかしてくれる人がいなくなるのは残念だけれど、いたって何のカウンターにもなってなかったし、しゃあないか。うん。

 それは宇宙からの侵略者なのか人外の妖怪か何かなのか、分からないけれども人間を変えてしまう力を持った小指ってのがあるらしく、それを着けた人間はちょっとした異能を発揮できるようになるらしい。もっともたいていは人間にとって悪い方向に働くみたいで、事件を起こし人を殺めたりもするそうで、なおかつそんな小指をつけた人にはボディに毒の袋か何かができて、指を一気に取り外そうものならその毒が破裂して死んでしまうというから簡単には指切りできない。それ専門の能力を持った者が相手をする成り、相手が死んでしまうのを承知で切り取るなりすることになっている。そんな世界観を持った小説が、ついへいじりう、なんて奇妙な名前のライトノベル作家による「機械仕掛けのブラッドハウンド」(ガガガ文庫)。そこではあらゆる者を圧殺というか潰して殺す力を持った小指というのが出てきて連続しての潰殺事件を起こす。

 挑むのが芥宗佑という名の美少年、というか少女と見まがうような顔立ちだから、学校でトイレで小用を足しているところにずけずけと入って来た巻島という後輩が、場をわきまえもしないで「あんなキレーな人がトイレで立ちションって」とか騒いで宗佑にぶちのめされるんだけれど、それがきかっけになったか宗佑が別に営む探偵事務所に出入りするようになって、その夜もバイト先のメイド喫茶の服で現れ宗佑相手にラブコメチックなドタバタを演じつつ、潰殺鬼による事件があったことを伝える。そんな巻島が帰った後、事務所に現れたのがその事件で父母と叔父を殺されながら、ひとり行方が分からなくなっていた栂貴織という少女。学校で虐められていたところを宗佑に救われた過去もあって、彼を慕い助けを求めてやって来たらしい。帰れといっても嫌がる彼女を事務所に置いて、宗佑は事件の犯人捜しに乗り出す。

 そして現れた潰殺鬼は油断してしまった宗佑を追いつめるものの、そこに参上した1人の美少女。神楽ヰ音耶という名で宗佑が働く事務所の所長にして戦闘員でもある彼女は潰殺鬼を追いつめるものの宗佑がその力で小指をうまく外そうと言い出して揉めている間に消えてしまう。さらに起こる事件。巻島が巻き込まれたらしいと分かって落ち込み憤る宗佑に意外な救いがあったものの、代わりに表だっては知られていない陰惨な生活の諸相が見えてきて、ひとり愛を求めて彷徨った少女の嘆きと叫びのようなものが聞こえてきて心を打つ。どうして誰かがもっと早く。けれどもそうはいかない事情があり、また感情もあってそれが少しずつ重なって最悪の結果を招いてしまった。

 それでも助けたいと願う宗佑に、憤りつつ従う音耶。そのコンビだけが小指を巧く回収できるらしい状況が、どういう条件で設定されたが明示されていないところが面白い。今後過去のエピソードとして明かされるなり、進行する事件の中で明かされることになるんだろう。小指の種類をバリエーションとして展開していくことで様々な事件に宗佑と音耶を遭遇させることが出来る設定だけに巻数を重ねていってくれると信じたい。小指がそもそも何でそれはどういう仕組みで街に蔓延っているのか、なんて根本にまつわる種明かしなんてのもあったら嬉しいかも。やっぱり宇宙人なのかなあ、それともマッドな科学者が発明した特殊な異能発動アタッチメントか何かかなあ。異神とかそんな類だったりするかもしれない。SFなのかサスペンスなのかホラーなのかクトゥルーなのか。ジャンルを見極める楽しみもありそう。だから続いて欲しいと願う。

 日本2・5次元ミュージカル協会なんてものが出来たらしく、そのオープンセミナーがあったんで見物に言ったらネルケプランニングとかホリプロとかマーベラスAQLとかバンダイナムコとかぴえろとかエイベックスとか阿佐ヶ谷スパイダースの親会社みたいなところとかがずらりと並んでなかなか壮観。日本のエンターテインメント界隈を支えるプレーヤーが参画し、「テニスの王子さま」とか「美少女戦士セーラームーン」といった作品を元にしたミュージカルを展開して大勢の来場者を集めた経験を生かし、アニメとか漫画とかゲームを題材にした舞台を作っていこう、あわよくば世界にも展開していこうと立ち上がった組織みたいで、その面子と過去の実績を見れば成功間違いなし、って思いたいけど実際のところまだまだ知名度はそれほどなく、どこか際物扱いされている感じもあってそのあたりから理解を深めていくのが必要そう。

 僕らは「テニスの王子さま」のミュージカルにどれだけの人が詰めかけているかは知っているし、「美少女戦士セーラームーン」のミュージカルを愛する人たちがどれくらいいるかも知っている。取材では「SAMURAI7」のミュージカルをDVDで見たり「聖闘士星矢」のミュージカルも見に行ってその熱さに撃たれつつ観客席の熱気を浴びてどれだけの支持がそこにあるかを分かってるけど官庁は、あるいは経済界は、そして大手メディアはなかなか気づいていないっぽい。噂のクール・ジャパンが国を挙げて推進されようとしているけれど、そうした知名度の低さもあってか本来はこれこそがクール・ジャパンと呼べるものでありながら、脇に追いやられてお金も回ってきそうにない状況で、それを待ちの姿勢でいては先が見えないと業界の重鎮たちも興味を持った企業なんかも混じって団体を作り、世に訴えていこう、そしてお互いに便宜を図っていこうとなったらしい。

 個々の企業が独自にやって、それが並立していくような状況になるのがもちろん喜ばしいけれど、それだけでは今の激変する環境に間に合わないところも出てしまう。どうせ前へと向かいたいなら皆で情報を共有しあい、悩みも喜びも分け合って移行というのがこの協会だとするなら、その中でこれがベストなタイトルだって研究が行われ、実施に移され世に登場しては大勢を喜ばせてくれることも起こりそう。逆にこの協会であれもこれもと権利をかき集めて、参加者に分配していくようなカルテルっぽいことをすれば、ファンが求める本当の面白さはスポイルされてしまうことも起こり得る。そんな圧両団体、あるいは権利団体にはならず2・5次元ミュージカルという歴史はそれなりにあっても、まだまだ発展が期待される分野の振興に役立つ活動をしていてくれたら、心の底から応援するし支援もする、って言葉では表せないから心の中で。とりあえず会員は今、紀伊国屋ホールで劇団スタジオライフが上演している「トーマの心臓」を見ておけば、ミュージカルだkではない2・5次元の演劇の面白さ、奥深さ、ファンの熱さを知ることが出来ると思うよ。


【5月28日】 神話はあくまで神話であって歴史そのものではないと考えるなら、出雲に関する国譲りの神話も、当地に発して支配を強めていった勢力に対して、全国統一を目指すヤマト王権から圧力がかかって抵抗するものの遂に墜ち、支配下に入ったもののそれまでの権勢は捨て置けず、そのまま有る程度の権限を認められるようになったものの、やがて政治的経済的な部分は中央から派遣される官僚なりが担当するようになって、そして統治の元からの勢力は出雲大社の祭祀を司るようになっていったことを、遡って神様どうしの話し合いになぞらえたものってことになる。

 だとするならそうした出雲大社のあの人は、当地の古い勢力の末裔に当たってかつてヤマト王権と対立しながらも結果として頭を垂れざるを得なかった側で、そこにヤマト王権から続く皇室のお嬢様が嫁ぐというのは、和宮様降嫁にもなぞらえられるような、というかそれ以上に古くて因縁もありそうな結びつきだと考えて悪いことはなさそうな気がする。神話を引いて出雲大社は古い出雲の支配者だった大国主命を封じつつ敬い奉る場所で、そこを取り仕切るのはだから同じヤマト側だというのはだからどこまで妥当なのか。神話と歴史をごっちゃにして良いのかどうなのか。いろいろと考えさせられる一件だったと言えそうだけれどしかしやっぱり出雲国造家、皇統があるいは継体天皇を始まりとする説を採るなら、皇室に並ぶかそれにも増して古い家柄ってことになるから凄いよなあ、そんな家に生まれるとやっぱり大変なのかなあ、秋葉原とか気軽に行けそうもないもんなあ、行ってそうな顔立ちだといえ。

 ふと気がつくと「天地無用!」シリーズが再稼働していたようで、岡山で発行されている山陽新聞に「高梁舞台にアニメ『天地無用』新シリーズ制作、市が宣伝費負担」なんて記事が載ってシリーズの舞台になってた岡山県高梁市がお金まで出すことになっていて、シリーズが始まった20数年前とは隔世の感って奴を覚えさせる。だってアニメだよ、それも若い男子のところに宇宙人だけど女の子たちがわんさかときて、いちゃいちゃとするようなハーレムアニメの典型が、市のPRに役立つってことでお金を出してもらえるんだから凄いというか、それだけアニメが持つ集客力、つまりは聖地巡礼という行為によって生まれる収益なりへの認識が高まったってことなんだろう。

 もとより現地の風景を強く織り込み、少なくないファンを当地へと誘った聖地巡礼のルーツ的な存在だったシリーズだけに、こうして改めて認められるのはファンとして嬉しい限り。出来れば良い作品になって欲しいけれどしかしいったいどんな作品になるんだろうなあ「愛・天地無用!」とやら。OVAの「天地無用! 魍魎鬼」のシリーズがあってテレビ版「天地無用!」があって「新・天地無用!」に「天地無用! GPX」なんかもあってシリーズの時間軸やら世界観やらがどう重なり繋がり関わっているか、理解が面倒になっているだけに新作がどういう系列で造られるものなのか、ちょっと興味が湧いてくる。「魔法少女プリティサミー」の流れってことは流石にないよなあ、流石にスピンオフ過ぎる。

 しばらくアニメを見なかった時期があって、それが一気に引き戻されたきっかけとして日曜の夕方にやってたテレビ版「天地無用!」があるだけに、そのシリーズと関わってくれると面白いと思うしやっぱり原点のOVA版「天地無用! 魍魎鬼」の再始動を目指した5分番組ってことだと嬉しくもある。あのキャラクターを使い関係性だけを使ったものでも悪くはないけど5分の枠でどうやって説明するのか。50話というそれでも結構な長さを使ってちょっとづつ、説明しながら積み重ねていくってことも出来るのかな、「戦勇」がそんな感じだったし。いずれにしても再び魎呼や阿重霞や砂沙美や鷲羽や美星と出会えるならこれ幸いだし、声も前と同じならなお結構。青野武さんがいないのは残念だけれどでも今ふたたびの天地ファミリー大集結、ってなれば良いなあ、ならないかなあ、シリーズでも声優の交代なんて日常茶飯事だしなあ。

 「青春ダストボックス」も良かったけれど新作「さよなら流星ガール」(電撃文庫)も良かった一二三スイさん。前のがひとりの少女を軸にしつつ3人だっけ4人だっけかの男子がもろもろ被害を受けつつ影響を与えつつ青春の1ページを記すような話だったのと比べると、今回は同じ日に生まれたご近所の少年と少女が、いっしょに成長していきながらも少女の病気という問題もあって深く重なり合うことはできず、そしていっしょに老いることも難しいなかで、それでも懸命にふれあう時間を過ごし会話し空を見上げて心をかわす日々ってのが綴られ、かけがえのない時間ってものの持つ大きさを強く感じさせられる。

 ユニークなのは戦争の後で北海道がおそらくはソ連か何かに半分くらい持って行かれ、壁で仕切られているってことでこの設定が北海道の地でロケットの打ち上げ実験が行われ、主人公たちのとりわけ少女の方の気持ちを宇宙へと向けさせる背景になっている。と同時に宇宙開発の活発化が月を越えて火星へと人を送り出すプロジェクトを生み出し、けれどもそこに生まれたある障害が少女の抱えた難病とも重なり合って彼女の運命を左右し、また彼女の決意を促すことに繋がっていたりするからその意味では現実とは違う設定を持ち込み、揺れ動く人や状況を描いたSFって言えるかも。

 少女に限らず2人がかつて病院で出会った少年がたどった運命は悲しいけれどでも、真っ暗な中に見つけた光明に向かって歩き少しの猶予を得たという意味で、彼は嬉しかったのかもしれないし、やっぱり悔しかったのかもしれない。似たような経過を辿ることになる少女は果たしてどうだったのか。スプートニクに入れられたライカ犬が果たした役割を自分も果たせたと宇宙好きとして喜んだのか、やっぱり寂しさと悔しさに苛まれたのか。覚悟というものを未だしたことのない身にはなかなかつかめない心境だし、少年の側に立ってひとり置いて行かれる寂しさと悲しさもそれほど味わったことがないけれど、ずっと並んで歩いてきた2人の間に流れる心の動きに触れ、淡々としているようで諦観しているように見えて所々に滲む感情の在処に迫ることで、2人の気持に近づけるかもしれない。そんな物語。しかし不思議な世界観。電撃文庫の「世界の終わり、素晴らしき日々より」とは重なってないよな。


【5月27日】 池袋あたりでアニメのお祭りが始まるそうで「魔法少女まどか☆マギカ」の劇場版一挙上演なんて企画もあってすぐさまチケットが売り切れていたけれど、こっちの方はまだあるみたいな「銀河鉄道の夜」と「おおかみこどもの雨と雪」の上映会にプラスしての杉井ギサブローさん、細田守さん両監督によるトークイベント。とりわけ「銀河鉄道の夜」はもはやあんまり劇場ではかからず、今回の上映は大きなスクリーンであの独特な音響も含めて味わう滅多にないチャンス。フィルムでの上映なのかブルーレイディスクの発売に合わせてリマスターされたものがデジタル上映されるのかは分からないけれど、夜の街から黒い空へと移り流れる場面が暗い映画館と溶け合って、そこ全体が銀河鉄道の中にいるような感覚を味わえるから、やっぱり劇場に足を運んだ方が良いと行っておこう。僕はもうチケット買った。でも時間的に遅くなるから「おおかみこどもの雨と雪」はパスかなあ。

 そういえば2012年の7月21日に、もうなくなってしまった銀座のシネパトスで久々に「銀河鉄道の夜」がフィルムで上映されていて、杉井ギサブロー監督が登壇しての舞台挨拶があったんだけど、その日は朝から「おおかみこどもの雨と雪」が封切られていて、TOHOシネマズ六本木で細田守監督も登壇しての舞台挨拶があって両方を見に行ったんだっけ。初日なのに連日超満員だっけ何だっけ、あり得ない文言がかかれた内輪を全員で持っての写真撮影なんかがあったあと、そのうちわをもってシネパトスでチケットを確保してからTOHOシネマズ錦糸町まで行って「メリダとおそろしの森」を見てから戻ってシネパトスに行くと、杉井ギサブロー監督がいてあらかじめ持っていた「グスコーブドリの伝記」のぬいぐるみにサインしてもらいつつ「おおかみこどもの雨と雪」のうちわを見せたら「どうだった」と聞かれたんだった。「丁寧な作品でした」と答えたっけ。その後にもちろんごらんになっているだろうからトークイベントでは、ちゃんとした感想を聞かせてもらえそう。だから楽しみ。杉井監督には次回作も何かつくって欲しいけれど予定はあるんだろうか。

 私には夢がある。いつか、ツール・ド・フランスであのアルプスの山に挑もうとしているクライマーたちが、そろって「ヒーメヒメヒメ」と大合唱しながら懸命にペダルを漕いでいる姿をこの目で見ることを。あるいはテレビアニメーションの「弱虫ペダル」が海外へと輸出されてそれを見てロードレースに興味を持つようになった子供たちが、成長してプロのロードレース選手となってツール・ド・フランスに臨むようになった時に、実現するかもしれないシチュエーションだけれど、そうなるにはあと10年はやっぱりかかるだろうなあ。そもそも海外でちゃんと受けるんだろうか。いやでもあれで自転車乗りに関する描写はしっかりしていて、ちょっとだけ化け物みたいなのもいるけれど、超人怪人の類ではないから、超人続出の「キャプテン翼」にすら惹かれてサッカーを始めた欧州の子供たちなら、「弱虫ペダル」も見ればハマってくれるだろうと思いたい。千葉から秋葉原という距離感もきっと分かってくれるだろう、成田から秋葉原へと向かう外国人も増えていることだし。

 そんなアニメーション版「弱虫ペダル」はインターハイのえっと最終日なんだっけ、スプリント勝負をやり過ぎてしまった巨漢の田所が脱水症状なのか熱中症なのか翌日に疲労を持ち越して体に力が入らず胸も痛くてちょっと大変。漕いでも漕いで前に進めない状況を後ろに覚えつつ総北高校の他のメンバーはもうこれまでと田所をおいて進むかどうか、選択を迫られる中で巻島はドライに割り切り田所から直接言われたこともあって進もうというものの、そこは優柔不断な癖に頑固な小野田が自分が戻って引っ張ってくるといって大喧嘩。するかと思ったけれどそこは小野田の一途さを知っている巻島がだったら行って来いと小野田を置いて先に行き、残った小野田は追い抜かれてしまう中でやっと現れた田所を引っ張りながら彼に走るためのこつを伝授する。それが「ヒーメヒメヒメ」の歌。一緒に歌ってペダルを漕げばリズムが重なり前へと進む力になる、ってそんなことあるかと思うけれども電波ソングの持つトランスを生み出す力はやっぱり半端じゃないってことで。あの田所ですら回復させたんだからツール・ド・フランスとかジロ・デ・イタリアを走る選手も試せば元気いっぱいにアルプスもピレネーも越えられると思うけど。思いたいけど。

 マンガ大賞の大賞作品の映像化率は100%、って訳ではなくって羽海野チカさんの「3月のライオン」はまだドラマ化も映画化もアニメ化もされていないし、森薫さんの「乙嫁語り」は実写はもとよりアニメにだってするのは難しそうな感じだけれど、それでも石塚真一さんの「岳」に始まって、末次由紀さん「ちはやふる」にヤマザキマリさん「テルマエ・ロマエ」に荒川弘さん「銀の匙 Silver Spoon」と5回目までのうちの4回が実写映画かされたりテレビアニメ化されたりしていてなかなかの打率。そして6回目の受賞作となった吉田秋生さん「海街Diary」が遂に是枝和裕監督によって実写映画かされるとあって7作品中の5作品がこれで映像化を達成。羽海野さんだって「ハチミツとクローバー」がアニメ化されたり日本や台湾でドラマ化されたりしているから映像化が嫌いじゃないと思いたいから「3月のライオン」もいずれはって考えるけど、日本版のドラマが謎めいていたからそれでちょっとためらってしまうところもあるんだろうか。「乙嫁語り」はデジタル技術を使えばあるいはアニメ化も。主題が地味というかマイナーすぎるからそこが心配。ともあれ「海街Diary」のあの陽気で爽やかな感じを保ちつつ人生の厳しいところをしっかり描くストーリーを、是枝監督がどんな映像に仕立て上げるかに今から興味。良い映画になると思いたいし信じたい。2015年公開予定。

 えっと大丈夫なのサッカー日本代表。親善試合というか壮行試合というかそんな試合が埼玉スタジアム2002で開かれたみたいなんだけれども、ザッケローニ監督が送り出したメンバーはケガの内田選手吉田選手長谷部選手をちょい入れ替えた程度であとはもう見定食のようなメンバーで、なるほどそれが現時点での最高だと言えば言えるもののその試合ぶりがとても最高とは言えなくって本番での戦いぶりに不安が浮かぶ。キプロスが仮想ギリシャだと言ったところでキプロスはキプロス、しっかりとしたリーグがあって代表も強いギリシャとは比べるまでもない面々を相手に得点こそ奪われなかったものの攻めあぐんだりパスをミスしたりと散々な出来。コンディションがどうとかいったってJリーグ組は今がシーズン真っ最中だし海外組は試合に出してもらえず疲れが溜まるはずもない。そせいぜいが長友選手くらいか。その彼が1番走ってクロスもあげていたという状況に他の面々の停滞ぶりが伺える。南アフリカの時は直前にガラリを変えて成功したけどあれはオプションがしっかり整っていたから。今回はメンバーほぼ固定でそのサブという感じがありありなんでメンバーを変えても戦い方が変わるとは思えないだけに本番でも同じような攻めあぐねから奪われ敗れる繰り返しになるのかなあ。次の試合を様子見。どこかとやるのかなあ。


【5月26日】 ファンがまだ少なく、自分たちによってアイドルを守り立て押し上げ送り出すんだという意識が全員に共通している間は例えば握手会をやってもお誕生会を開いても、迷惑に及ぶような人はまずおらずいても想いが思いこみへと走り過ぎてしまって、前のめりになってしまう程度で対象となるアイドルに迷惑をかけるような行為や言動は慎むし、相手に危害を加えることなんて絶対にあり得ない。けれどもアイドルが人気となって、ファンの数が増えてくれば中に想いが突出したり、違う方向へと曲がってしまったりする人が現れる可能性は必然的に高くなる。国民的アイドルとなればなおさらで、そんな可能性が悪い方向へと当たってしまったのが岩手におけるAKB48のメンバーに対する襲撃だった。って、そう言えるのかどうなのか。

 犯人として逮捕された男性が、どうしてAKB48のメンバーを襲ったのか、そこら辺の動機がはっきりと分からないうちは何とも言えないけれど、思い詰めた感情の発露だったとしたら、どういう風にそれが歪みつつ醸成されていったのか知りたいところ。そうでない、単純に大勢が集まる場所で激しく注目される行為をすることによって、自分へのリアクションがあるのだという、半ば自爆テロに近いものだったとしたら、それがどうしてAKB48の握手会だったのかが知りたい気分。ほかにもいろいろ人が集まるイベントがある中で、わざわざ握手券が入ったCDを買い青森らしい場所から岩手まで来て握手会に参加してまで事件を起こすその心理の、どこかにAKBへの想いがあったのかそれとも他に場所を知らなかったのか。似たような事件が相次ぐ可能性にも関わることあけに調査を待ちたい。

 とはいえ、こうやって握手会において襲撃事件が起きたという、ひとつのフォーマットが呈示されてしまった以上はなんだその手があったのかと、分かって真似するような行動に走る人が現れる可能性は否定できない。もちろん過去にも芸能人が襲われた事件は数々あって、美空ひばりに松田聖子にこれは例がちょっと違うけと長谷川一夫等々と、挙げればいくらでもあってそれらは今にも増して大きく世の中に喧伝された。とはいえ1人の芸能人が相手なら、ガードを固めれば危険は防げる。大勢のアイドルがそれ以上の不特定多数のファンを集めて握手会を開くなんていう状況では、それは不可能に近く仮にやったら入場時のチェックから何からで膨大なコストと時間がかかってしまう。

 だったら止めてしまえば良いという声もあるだろうけれど、止めてしまった時に果たしてファンは前のとおりにAKB48を応援してくれるのか、って問題が浮かび上がる。とりわけAKB48の場合、握手会というのは握手券付きのCDなりを売るための一種のツールになってしまっている。いわば誘い水。それをなくしてしまったらCDが売れなくなってしまうという懸念と戦って、勝つほどのスタンスが運営なりレコード会社にあるのか。ないとしたら握手会を続けざるを得ない訳でその時にどこまでコストをかけてアイドルを完全に守ることができるのか。できないとしたらリスクをどれくらい含みつつ続けるのか。いろいろと解決していかなくちゃいけない問題も多そう。もちろん何よりもファンが自覚してコストをかけないように自主的に安全を守り安心を与える態度でい続けることが大事な訳で、それができるのが日本のアイドルファンだと思いたいけど、さてはて。

 やったやった。いくらワールドカップで世界一に輝いたとはいっても、地元のアジアでまだ1度も優勝の栄冠に輝いていないというのはやっぱり寂しい話。だから今回のアジアカップでの優勝を狙ってのぞんだサッカー女子日本代表ことなでしこジャパンが、決勝でオーストラリアを敗って見事に優勝を果たしたことは日本のサッカー界にとっても嬉しい話だし、選手たちにとっても感慨深いものがあるんじゃなかろうか。澤穂希選手なんてもう長く日本代表に名を連ね、幾度となくこの大会に出ながらも優勝できなかっただけになおのこと、得られる思いも深そうでこれをひとつのバネして、来年のワールドカップの本番で活躍を見せてくれそう。年齢的にも体力的にもやっぱり次が最後の大会になりそうだし。それは宮間あや選手らベテラン勢にも言えることかなあ。だからこそ次代のタレントが必要になってくるけれど。

 そこに果たして今回の大会に出場したどれだけの選手が名前を連ねてくるか。決勝のピッチに立てなかったのが怪我の影響なのかやっぱり足下への不安が懸念されたか分からないけれど、187センチという長身を誇る山根恵里奈選手はやっぱり起用されそうな予感はあるし、ゴール前でハンターのようにゴールを狙う動きを見せた菅澤優衣香選手もきっと大丈夫そう。あとは最終戦で途中後退で入った吉良知夏選手あたりか。サイドバックの人材については今大会でも有吉佐織選手と宇津木瑠美選手が起用されたけれどサイドから駆け上がってはクロスを入れるプレーが果たしてどこまであったか、って考えると選考にも逡巡が出てきそう。宇津木選手はボランチもできるから起用はありそうだけれど、サイドバックはやっぱり近賀ゆかり選手が戻ってくるのかなあ。

 外国で活躍している選手が多かったこともあって超ベストってメンバーにはならなかった今回の大会。それで優勝できたってことはベストが揃えばって期待も一方には膨らむ。とはいえ海外にいる選手たちがどこまで底上げされてそしてチームにフィットするかが見えないのは不安なところで、その辺りを確かめるような試合なり大会があれば是非に見に行きたいところ。とはいえそういう大会は来年のアルガルベカップまでなさそうなんだよなあ。それも開催はポルトガルで見に行くのは不可能だし。だからやっぱり国内で再開されるなでしこリーグを見に行って、日本にはまだまだこれだけの選手がいるってことを先に確認しておこう。秋津でのジェフレディースとAS埼玉の試合はちょっと見たいかなあ、山根選手に菅澤選手が見られるだけに。相手には荒川ボンバー恵理子選手も山郷のぞみ選手もいるしなあ。

 反戦反核が大嫌いなとある目ん玉な新聞が、アメリカで2度目となるリメイクが作られ大ヒットして脚光を浴びつつある「ゴジラ」はもともと反戦反核ではなかったと言い始めていて、心がくじけそうになる。ネタ元は樋口尚文さによるによる本多猪四郎さんについて書かれた「グッドモーニング、ゴジラ −監督本多猪四郎と撮影所の時代」という本で、そこに書かれている本多監督から聞いた言葉というものを引いて、「ゴジラ」は「キングコング」のようなアナーキーな大怪獣映画を目指したもので、実は反戦反核なんて意図はなかったんだよと書いて、何でもかんでも反戦反核に結びつけるのはどうなのよとそういう紹介をした朝日新聞と揶揄っている。

 目ん玉な新聞が反戦反核が嫌いなのはそれで結構、集団的自衛権は判断に難しい話だし原発再稼働も未来への禍根やリスクの大きさを考えつつも、今をどうするかという議論の中で判断に迷う案件だったりする。ならそういう主張を堂々繰り広げれば良いのに「ゴジラ」を持ち出しそこに反戦反核の意図はなかったという話を持ってきてしまうロジックのつたなさみっともなさに頭が痛くなる。なるほど樋口さんの本には2011年に国書刊行会から出た再刊版のあとがきとして、本多猪四郎監督のそうした意図が紹介されている。それは1992年に筑摩書房から出た最初の版に対して切通理作さんらが批判したのを受け書かれたもので、戦争に3度も行って帰ってきた本多監督が、目にしてきた戦争という凄まじいものを映画に撮ろうなんて考えるとは思えないといった推察なんかもあったりする。

 けど本多猪四郎監督と生活を共にして来たご夫人の本多きみさんによる「ゴジラのトランク 〜夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情」(宝島社)という本によると、東宝の田中友幸プロデューサーから「水爆実験がモチーフだと言われて、中国から引き上げてきた時の広島を思い出したわけなんだ」と本多監督はきみさんにそう言って、「ゴジラ」の監督を引き受ける決心を固めたと書いてある。「被爆地を通過する列車の中で、人間が地球に対して犯してしまった罪はどういう結果をもたらすのかって考えたからね」「被爆地をこの目で見た者として伝えられることがあるはずだ、と。うん、力が涌くよ。それで決心がついたよ」とも。

 むしろ「『恐ろしい怪獣を登場させて、ただ暴れてぶっ壊しまくって怖がらせりゃいい』ってユーコーさんから説明を受けた時は、これでは引き受けられないって感じていたんだけど」と本多監督。例として持ち出された「キングコング」の楽しさに興味はあっても、それだけではと逡巡していた本多猪四郎監督に「ゴジラ」を撮らせたのはだから、反戦であり反核の意識があったって見るのが普通有ろう。「グッドモーニング、ゴジラ」における樋口尚文さんの「『ゴジラ』は反戦反核にあらず」という持論にも、1992年当時の「ゴジラ」に対する批評なり、映画が撮られた当時の批評なりが反戦反核ありきで固まっていたことに辟易としていたことへの感情が、漂っているようなニュアンスがあったりする。

 あるいは自分の経験というものを元にして、戦争というもの、核兵器というものの凄まじさを表現しただけで、それへの反意を看板にして掲げて撮った映画ではないよという本多監督の気分を、「反戦反核にあらず」というニュアンスで受け止めたのかもしれない。いずれにしても諸説ある問題であり、またフィルムを見ればそこから放たれるメッセージは明らかに戦争への恐怖、核兵器への旋律を描いていることは分かるというもので、そんな映画を挙げてまるで反戦ではなく反核でもないと言ってしまう目ん玉新聞の1面コラムには、やっぱり何とも言えない厄介さが感じられるのであったという、そんなオチ。持論のためなら見えるものも見ないし見ようとすら態度で紡がれる言論に、世間は付いていくのかねえ。いかないからこその現状か。困ったねえ。


【5月25日】 ロナウダは恐ろしかった。撃っても撃っても弾が届かず立ち上がっては迫ってくる。強い意志が根底にあって、そして狂気に取り憑かれた絶対に曲がらない意識に塗り固められた思考によってその極限まで改造された体が躍動する。かなうはずがないところを女子高生のユリと松倉ら仲間たちは銃器とチームワークによって倒し退け生き延びた。P君は凄まじかった。内部に入った人間の意識すら奪ってただひたすらに目的のために突き進むそのボディを相手にユリはひたすら逃げ、そして戦いどうにかこうにか倒して生き延びた。そんな2つの戦いを経て登場したアサウラさんの「デスニードラウンド ラウンド3」(オーバーラップ文庫)は前の2つと比べると、絶体絶命のピンチをしのいで逃げだし生き延び反撃して倒すといったスリリングさとはまた違った、激しい戦いが繰り広げられてユリと仲間たちを追いつめる。

 もとより「デスニードラウンド」というタイトルに込められていた日本最大のテーマパークへのダークなオマージュが、本格的に姿形を現し迫ってくる第3巻。誰もが大好きで行けば誰もが楽しみ出会えば誰もが喜ぶテーマパークであり、マスコットが持つ魔法のような魅力を麻薬のような魅惑へと変え、引き込まれた果てに戻ってこられない人すら出てくる場所へと変えてしまっただけに止まらず、世界中が愛するキャラクターの姿形をオマージュするなりネガティブにリスペクトするように引っ張り出しては、その純粋なまでに邪悪な意志を繰り出させて、ユリたちを戦いの場所へと引きずり込む。そこは地獄の楽園。取り囲まれて逃げられないせっぱ詰まった状況にあって、ユリを含む松倉のチームは持てる戦闘能力で凌ぎきり、そして最後の闘いへと突き進んでいく。

 底知れない恐怖をにじませ迫ってきた、お化け屋敷の怪物のようなロナウダなりP君ととの戦いとはちょっと違って、戦争のような様相の中で繰り広げられる戦いにあんまりサスペンスは感じない。かわって覚える「ジオブリーダーズ」の梅崎真紀ちゃんが口癖のように話していた「戦闘は火力」という言葉。相手だってそれこそ国家レベルの金と技術が注ぎ込まれた軍隊以上の存在。そこにたかだが数人の傭兵たちが挑んで戦い勝てるのか、っていった問題に、それでも挑む奴らが見せる「戦闘は火力」を地でいく戦いぶりに恐怖ではなく痛快さを感じてしまう。

 自分たちの趣味嗜好のためには人が傷つき死んでいく姿すら平気で眺める奴らに覚える嫌悪感を、さっぱり払ってくれるその行動に魅了される。この腐った世の中をヤっちまいたいなあとすら思えてくるけど、残念ながら手に銃はなく日本には法律もあってままならない。ならば言葉だ。「デスニードラウンド」シリーズを肇とする物語の力で腐敗して崩壊してく国や政府や企業や人間に銃弾を撃ち込み粉砕し、糺していって欲しいと願う。ちょうどいい終わり方をしてもう続きはないけれど、北海道が独立戦争を仕掛け群馬と栃木が争った世界観を共通に、銃器が認められた日本を舞台に痛快なガンアクションを読ませて欲しいとここに願おう。次は何がいつ出てくる?

 「弱虫ペダル」をHDDレコーダーで再生しつつ消しつつ、修善寺での合宿前まで見たころでサッカーのUEFAチャンピオンズリーグ決勝「レアル・マドリードvsアトレチコ・マドリード」のマドリードダービーをテレビで見ながら半分眠って起きたら延長後半に入っていた。1対1。そのまま前半も終えてPK戦で決着が付くのかなあと思っていた延長後半に左サイドから放たれたシュート気味のボールをキーパーがそらしたところに、ゴール右へと走り込んでいたベイルがピタリと頭で合わせてまず1点。あの速い攻撃でもきっちりと併走してゴール前に詰めていたからこそ生まれた得点で、個人技だけで割って入れるチームとは違うレアルのチーム力ってものを垣間見た。これでもリーグ戦ではバルセロナにもアトレチコにも及ばなかったんだから怖いリーグだよなあ、リーガ・エスパニョーラ。

 そこで糸が切れたのかアトレチコの守備陣の隙間を縫うようにしてマルセロがゴール前からグラウンダーに放ったシュートがキーパーを抜けてゴールイン。さらにPKを得てクリスチアーノ・ロナウドがきっちりを決めてこの延長後半だけで3点を入れて計4対1でアトレチコを下して12年ぶり10度目の欧州チャンピオンに輝いた。12年前というとあのギャラクティカなメンバーを擁して全盛を誇っていた頃で、年末のトヨタカップにも登場してはベッカムを加えたスーパーな面々が流石な戦いぶりって奴を見せてくれたっけ。

 今はあの時代とは違って銀河系に匹敵するのはクリスチアーノ・ロナウドくらいだけれどベンゼマだってモドリッチだってフランス代表、クロアチア代表として中心的な役割を果たしてる。マルセロもブラジル代表として母国のワールドカップに出場する身。そんな選手たちをまとめあげチームにしたアンチェロッティ監督の手腕をまず誉めたいし、応えた選手たちにも喝采。クラブワールドカップは今年はモロッコで12年ぶりのレアルを日本で見ることはかなわないけれど、戦力を維持しつつ積み上げ臨んで世界最高の戦いって奴を見せて欲しいもの。相手はどこになるかなあ。Jリーグのチームではないんだよなあ。そこが残念。

 せっかくだからと下北沢のトリウッドで開催中の沼田友さんによるショートアニメーションを集めた上映会「伝える」を見に下北沢へ。おしゃれすぎるより人が多すぎることに息が上がりそうになったけど頑張って劇場まで行き午後5時からのを見たら20人以上の人がいた。人気者じゃないか沼田さん。作品自体は去年の11月に発売された2ndアルバムの「伝える」とかそのリリース時に原宿で開かれた上映会で見ているし、「15時30分の拍手喝采」のようにネットで何度繰り返して見てその度に涙ぐんだりする作品もあるけれど、上映会という箱の中で暗いスクリーンに浮かぶ映像を皆で共有するように、それでいて自分自身と向き合うように見るっていうのは別の体験。映画館でかかるっていうプレミアム感とも相まって何か幸せな気分になってきた。辛辣なメッセージがあってもそこは優しい言葉で締めてくれるから、見て安心なところも沼田さんの作品にはあるんだよなあ。

 今回のトークゲストは名だたることは認識していても実はあんまり作品を観てこなかった2人の映像クリエーター、未乃タイキさん塚原重義さんで未乃さんはNHKBSの「おとうさんといっしょ」でアヒルが出てくるアニメーションを監督していたりする人で、長身のイケメンで小説なんかも書くマルチな才能の持ち主って感じ。「終わらない鎮魂歌を歌おう」は映像だけでなく演劇にもなっているそうなんでもしかしたら見ている人は沼田友さんの作品を観ている人より多いかも。僕は触れていなかったんで今回のトークをそれから本人を見てこれから気にしていくことにする。もうひとりの塚原重義さんは「東京今哲マーケット」なんかでブースをのぞいたことがあるような記憶で、それから「デザインフェスタ」でもしかしたらブースに寄ったかもしれないけれど、詳細に作品は観たことがなかっただけに改めてレトロな雰囲気の街で起こる事件を熱かったアニメーション「端ノ向フ」なんかを見てみたい気分。

 なかむらたかし監督の「寫眞館」も昭和初期な感じだったけれどそれをコンセプトとして少年探偵団的雰囲気の中で眼鏡の女性が探索していく、って設定がピンと来た。もっと速くしっていれば2年前だっけかに開かれた荒川都電での上映会も行ったのになあ。今も何か作っているみたいなんでちょっと期待。そんな2人に挟まれ沼田友さんが言われていたのは白沼田と黒沼田の塩梅。良い人そうに見えてダークなメッセージも突きつけてくるのは計算なのかって話だけれどそこは2面性として分裂しているんではなく裏表として誰もが持っている感情をそのまま出したという感じ。なおかつストーリーも最初にこうと決めず描いているうちにだんだんと固まってくるらしい。だから自在。そして自然。作り物めいた感じがしないのかもしれない。

 あとはやっぱり目の演技とか表情とかに凝っているといった話があって実際、「天体観測」とか「15時30分拍手喝采」を見ていて出てくるキャラクターの表情と視線の演技の絶妙さにいつも感心する。そこにかける労力は全体の7割8割とか。よく実写の俳優を使って同じシチュエーションで撮れば良いって話になるけど、俳優さんにそこまでの完璧な演技を監督が求めるのは無理だしそれは映画ではない。だからすべてをコントロールできるアニメで描いているんだけれどそこに絵の力が追い付いていない、あるいは追い付かせている暇がないというのが沼田さんのあの作風になっているって言えるのかも。あふれ出る物語を完璧な映像で作ろうとして2年かけては意味がない、ってことになる。

 「むすんで ひらいて」のように脚本から録音から作画で2年近くかけているものもあるけれど、あれもラストはぎりぎりまで考えていたとか。そう言うライブ感ある作品作りを大勢のスタッフを使いつつ監督脚本演出として統合したらいったいどんな映像作品になるのか、って興味がやっぱり尽きないので誰か是非にそういう仕事を沼田さんに。上映は金曜日まで続いて最終日にはぬQさんにひらのりょうさんと今回とはまた違ったキッチュでポップな面々がゲストに登場するみたい。時間はちょい短めだけれど濃い話が聞けそうなんで時間が許せばでかけてみたいけど金曜日の下北沢のサブカル熱量に果たして秋葉原的オタクが耐えられるのか。そこが1番心配だ。

 根本は言葉が下劣で貧困すぎることであって、それ以上でもなければ以下でもない。「ボックス」は素晴らしい小説だったし、本屋大賞を受賞したあたりまではまだ普通のおっさんだったのが、だんだんと本性を現したのか何かに取り憑かれでもしたのか、ライト層のそれもきわめて右側に立つ方面に受ける言説を垂れ流し始めたのが、そうした発言を好む政治の偉い人に囲われ対談本を出し、NHKの経営委員なんてものにまで任命されて大爆発。自分の言説が認められたと前にも増して右側通行を側溝すら超えた土手の下まで進めてみたのは良いけれど、立場なり人間としての品性から大きく逸脱する発言を連発しては、真っ当な思考の持ち主から、右も左も含めてひんしゅくを買いまくっているというのが今の状況。

 そして飛び出したバヌアツなりナウルをおとしめる発言。軍隊を持とうとしない日本の態度に業を煮やしつつ、実際に軍隊を持っていない国があることを事例から除外する意味で「家に例えると貧乏長屋で、泥棒も入らない」といって揶揄している。なるほど経済的あるいは軍事的な側面から、バヌアツなりナウルを支配下に入れようとする他国はあまりなく、だから軍隊を持つ必要はないかもしれないけれど、それを例えて「貧乏長屋」というのは主権国家に対して失礼きわまりない発言で、両国が侮辱されたと憤っても仕方がない。その立場が政府の管轄下にあって首相によって任命されたNHK経営委員というなら、その責任を国に求めて抗議して来たって不思議ではない。

 なるほど発言は長いもので、NHK経営委員という立場ではないと断っているにも関わらず、一部をつままれたものでそしてもともとが冗談だという言い訳をしている。だからといってNHK経営委員という立場が消えてなくなる者ではないし、そういう思想でありそういう認識を持った者を政府と首相が重用しているということ事態が、国としての利益を損なっていると言えば言える。そもそもが相手を酷く侮辱する言葉を「冗談」といって流せる品性がいかんともしがたい。「ウサギ小屋」と言われて日本人はまあそうだよなあと納得しつつ、そうではなくなる国を目指して発憤したから他国もなんて理屈を言ってきそうだけれど、国土が狭い上に土地代が高くそうならざるを得ない状況を認識して納得できる言葉と「貧乏長屋」はやっぱり違う。単なる侮蔑。「冗談」で済む話ではない。

 言い訳も聞かないとみると、報じた時事通信が云々といってメディアの特性に帰結させようと言葉を弄してみたは良いけれど、そんな時事とか朝日といった左側からの誹謗だと言い訳しようもないように、同じ右側を歩く読売からも同じような報道が載っている。まあ読売の場合は右といっても知性があって分別もあり常識もあって、同じ右側にいるけれども知性のかけらもなければ品性という言葉がどこかに飛んだお隣に建つ会社とはまるで違う。右あるいは保守というものを本当に確かなものにしようとする上で、下品で反知性的で非科学的な言説はむしろ足を引っ張ると考え、こうしてしっかり指摘する。

 だからこそ読売はああやって国内最高部数を維持できているんだけれど、それがNHKの経営委員にも、お隣にある最近カラーが少なくなってページも減った新聞にも、分からないの分からないふりをしているのか分かる頭がそもそもないのか。いずれにしても一時右へと人の関心を寄せた風はほとんど止まりかけ、保守であろうと革新であろうと知性と理性をもって議論される時が来ている。そういう言葉でないと誰も納得しないし説得できない。拝外主義的に煽ってネット空間に一部に受けたような気になって、悦に入っていては遠からずまとめて沈没する。というか既に沈没しかかっているんだけれど、気づかず部屋で待っているのが彼らってことか。その先は。言うまでもない。嘆息。ほんとうにダメかもしれないなあ。


【5月24日】 いやあ分厚い。同じ月のミステリマガジンの3倍はありそうなSFマガジン2014年7月号は700号記念ってことで過去のSFマガジンに掲載されていた記事とかが再録されている上に、歴代編集長の何人か、って2代目の森優さんと6代目の今岡清さんだけど、その2人が登場してはSF界隈で“事件”と呼ばれる出来事について語っている。例えば森優さんは有名な「覆面座談会事件」に触れていて、福島正実さんが編集長を引いたあとを受け継いで日本人作家たちとの関係修復に務めた話なんかを披露。結構大変だったんだなあと分かる。

 仲間だと思われていたSFマガジンから悪し様に言われ、憤って早川書房に背を向けようとした作家もいれば、変わらずつきあいもした作家もいたりと旗幟は様々だったみたいだけれど、そんな中にあって眉村卓さんのように作品を執筆し続け協力を続けた人もいた。平井和正さんもそんなひとりみたいで、早川書房に執筆を続けた中から「狼男だよ」から「狼の紋章」といったウルフガイシリーズが生まれてきた。これを読んでSFはしかめっ面をして哲学的に読むって文学より、激しくスリリングな展開を浴びるように楽しむエンターテインメントって印象を強く植え付けられた。

 それが僕のSF読みとして、あるいは平井さんに端を発するとも言われているライトノベル読みとしての根底にあるんだとしたら、「覆面座談会」は文学派の福島さんを一線から引かせて、大衆文学あるいはエンターテインメント派の森優さんを登場させて平井和正さんをブレイクさせたって意味から、僕の人生に結構な影響を与えているのかもしれない。これがあったからライトノベルのレビューを書くようになって、そして700号にもレビューを載せられたのだから。あと面白かったのは石ノ森章太郎さんや手塚治虫さん、藤子・F・不二雄さんといった今に名だたる漫画家さんたちが、SFの漫画をSFマガジンに喜んで描いていたことか。

 売れっ子で編集者が何人も待っている手塚さんから原稿を取るなんて困難極まりないはずなのに、別室に待たされ原稿を渡されたっていうんだから何という厚遇。それは手塚さんのSFに対する思いと愛情の現れであり、SFマガジンという雑誌が持っていた唯一にして至高の立ち位置への敬意でもあったんだろう。今はもうSF漫画を載せる媒体がいくらでもあるからわざわざSFマガジンってこともないだろうけど、超本格的なSFを描いて載せてもらえるようになっているかどうなのか。漫画雑誌も厳しさを増す折、本格的なSFを描いて載せて大丈夫な媒体としてSFマガジンに今一度、ページを開いて欲しい気もするなあ。とり・みきさんの「石神伝説」の続きとか。いやとり・みきさんには100号置きの連載があるから無理か、今回はしかし凄まじく時事的なネタだったなあ、100号後の時点で進展は見られているかなあ。

 一方の今岡清さんは早川書房に入る前に3カ月ほど日刊自動車新聞にいたってことを話してた。ってこれは今は無き「KITAN」という読売新聞社が一瞬出してた雑誌の中で大原まり子さんが担当していたコーナーに登場した今岡さんが喋っていたから耳新しい話ではないんだけれど、何せ幻過ぎる雑誌なだけに今となっては知っている人も少なそう。もしも日刊自動車新聞がどんなところか知りたかったらその8倍近くはいた人間に聞いてみてくれれば少しは教えられますによって。でも東京にいたことはないからなあ。時代も違いすぎるし。

 さてそんな今岡さんが語っている「事件」は言わずと知れた「太陽風交点事件」って奴で日本SF大賞を受賞した同作を徳間書店が文庫化したら単行本を出している早川ともめたというもの。今岡さんの認識では徳間と小松左京さんとの組み合わせに早川書房が対立して、その狭間で掘晃さんが煽りを喰らったといった感じになっていた。当事者にはまた違う思いもいろいろあるだろうけれど、そんな諍いの発端となった日本SF大賞から徳間書店も離れてしまって、日本のSFは早川と東京創元社が半ば担っている感じに戻ってしまった。NOVAを出している河出書房新社も一翼を担っているって言えるかな。

 だからといって日本SF大賞を早川が後援するのは無理っていうのが、行き場を彷徨った果てにドワンゴへとたどり着いた現在の状態をもたらしたのかも。そのドワンゴもKADOKAWAといっしょになってしまったし……。そもそもが小松左京さんの早川離れから徳間推しをもたらしたのが「覆面座談怪事件」だった訳だしその根は深くそして鋭い。「太陽風交点事件」もそんな延長にあったと見るなら日本のSF界は未だ福島正実さんの手のひらの上であっちにこっちに転がされているってことになるのかも。そんな歴史もかいま見えたSFマガジンの編集長インタビュー。今の編集長はどんな事件について未来、何を語るのか。その頃に日本SF大賞と日本SF作家クラブとSFマガジンはどうなっているのか。800号を待とう。とり・みきさんの連載も楽しみにしつつ。

 HDDレコーダーがいっぱいになって来たんで見ながら消そうと「弱虫ペダル」の4月以降の分をざっと見たらなかなかしっかりロードレースを描いてあった。デフォルメとか無いわけじゃないけどでも派手な技が炸裂するとか異常な運動神経を見せるといったことはなく、常識の範囲内でそれぞれが持っている才能を存分に発揮しながら戦うといった展開はバレーボールがテーマになった「ハイキュー!!」とも同様だし、先駆的な作品で野球のことを練習から試合の経過から細かく綴った「おおきく振りかぶって」もそう。スポーツのことをルールから協議の内容から丁寧に逸脱しないで描きつつ、それでいてスポーツならではの醍醐味って奴を見せて興味を持たせる手法が、あるいは今の主流になっているのかも。

 稲妻サーブとかツインキックとかなくてもスポーツは描けるし、読む人を楽しませることができる。秘打もなければ殺人野球もあれば面白いけど、なくてもスポーツそのものの魅力って奴は感じられる。というかむしろ漫画やアニメからくらいしか、スポーツの魅力に触れる機会が今はない。かつてはスポーツ新聞やテレビなんかがスポーツを伝えていてくれた。でも今、漫画の丁寧さに追い付いていないのが実はスポーツ新聞の記事でありテレビのスポーツ報道だったりする。選手のお気持ちだの家族の応援だのコーチとかとの関係性だのといった話ばかりで肝心のスポーツがどうなのか、ってあんまり書かれず報じられない。見ても漫画ほど楽しめないとなると人はテレビなんか見ずスポーツ新聞なんか読まず直接競技場に足を運ぶようになる。それは素晴らしいことだけど、メディアにとっては死へのロード。どうにかしなきゃいけないのに、どうにかする気はなさそうなだけに未来はやっぱり真っ黒け。どうしたものか。

 すでに「マージナル」とか「続・11人いる」とかは見ているんだけれど劇団スタジオライフの萩尾望都さん作品で、肝心の「トーマの心臓」をずっと見ていなかったのにこれは拙いと思い立ち、今日が初日となった紀伊国屋ホールでの公演へと駆けつける。原作については大昔に読んだくらいで時々読み返すもののはっきりとした筋立てを覚えている訳じゃないけれど、劇団での公演を見ているうちになるほどそういう話だということが思い出されてきた。つまりはひとりの純粋な少年が身を挺して迷い悩む少年たちを明るい場所へと導く話。それは結果としてそうなったのか、意図してのものなのかは分からないけれどもトーマ・ヴェルナーという少年の死をきっかけにして残されたユーリ、オスカー、そして新たに加わったエーリクたちは自分自身の中に抱える過去を思い今を感じて未来へと踏み出す。

 表面上では取り繕って笑ったりおどけたり、逆に鉄面皮を決め込んだりと多感な少年たちは本心を見せようとしないけれど、それでもわき上がる情念が時に激しく、時に狂おしく若い身を苛む。そんな青春の諸々を決して若いとはいえない役者たちが、そこは役者だけあって初々しさを感じさせる演技でもって見せてくれるのがスタジオライフの凄いところ。とりわけ今日はオスカーに岩崎大さん、エーリクに及川健さん、そしてユリスモールに山本芳樹さんといったスタジオライフきっての看板俳優たちが並んでベテランならではの演技を見せてくれた。山本さんは肉体の柔軟性もあるのか苦悶にふるえ苦痛にあえぐユリスモールの姿って奴を体を張ってみせてくれたし、及川さんはその小柄な体躯を弾けさせて自分に正直で屈託のないエーリクを見せてくれた。ちょっとウザくて面倒くさそうな性格もそのままに。

 そしてオスカー。長身で気障ったらしく大人びた男って奴がそこにいた。格好いいなあ。もっぱら女性を演じる姿を見ることが多かった岩崎さんだけれどその細さその美しさはつまり男を演じてもやっぱり美しいということで。他にもサイフリート役の青木隆敏さんのサディスティックな感じとか、曽世海司さんの紳士なミュラー校長とか良い役者たちが最高の姿を見せてくれた舞台「トーマの心臓」。日にちが変われば役者も変わって他の人がユリスモールやエーリクやオスカーを演じることになるみたいなんで、そっちがどんな感じになるのかも見てみたい。曽世さんとか青木さんは通しか。なかなか大変だけれど他に代え難いってことなのかも。松本真也さんのユリスモールはどんな感じかなあ、冷熱の山本ユリスモールとはまた違った繊細なユリスモールが見られるかな。時間とお金があったらのぞいてみよう。


【5月23日】 宮間あや選手の正確すぎるプレースキックが凄いのか、それにピタリと会わせてみせる澤穂稀選手や岩清水梓選手が凄いのか。サッカーの女子アジア杯ですでにワールドカップ出場権を確保したサッカー女子日本代表ことなでしこジャパン。初の優勝を狙って決勝進出をかけ中国と戦った準決勝はまず1点を宮間選手のコーナーキックにニアポストへと走り込んだ澤選手がピンポイントで頭に当ててゴールへとボールを叩き込む。あの薄い確度でなおかつやや低かったボールをどうして頭に当てられるのか。練習もあり技術もあるんだろうけれどきっと、宮間選手からここにボールが来るという信頼、その上でボールがどう動くかを理解できるまでに重ねた経験なんかもあってのあのプレーなんだろう。若い選手にはだからちょっと出来ないかも。

 コーナーキックっていうとやっぱりゴール前に放り込んで空中戦ってイメージが強いけど、確実に決まってそして決まると格好いいのはニアポストから角度を変えての叩き込み。昔はジェフユナイテッド市原・千葉時代の阿部勇樹選手なんかが得意にしていた印象があるけれど、今のJリーグではあんまり見ないんだよなあそういうの。難しいんだろうか。対して岩清水選手のファーポストからほぼ直角にボールの動きを変えてゴールに叩き込むのはよくある光景だけれど、逆にそれだけ相手の守備も準備が整う訳でその中でひとりフリーになるなり、高さで突出するなりしないとゴールはおろかボールを当てることすら難しい。そんな中でしっかりと、それも延長後半アディショナルタイム中に得点を決めた岩清水選手の技術と胆力たるや。歴戦の勇者ならではの冷静さもあってのものだったって言えそう。

 そういう経験が今回の大会から若手へと伝わっていくと来年のワールドカップも、その次の五輪も良いところに行けるだろう。すでにして吉良知夏選手とか試合にいっぱい出て揉まれているし、菅澤優衣香選手なんてほとんど初めてのなでしこジャパンだっていうのにすっかりとけ込み躍動を見せている。岩清水選手のゴールを読んだコーナーキックも、菅澤選手がゴール前からボレーを決めたのを相手キーパーがファインプレーで外へとはじき出したプレーから生まれたもの。キーパーがそらしてたらあそこで決まって菅澤選手が勝利の立て役者になっていた訳で、その意味では運がないけどでも佐々木監督はしっかりと見ているだろうから、優勝のかかったオーストラリア戦でもきっと出番はあると信じたい。あとはジェフレディースでは山根恵理奈選手かなあ、大きい選手がいるオーストラリア戦なら起用されるかな、アルガルベカップでも初戦と最終戦が確か山根選手だったし。そういう意味での信頼と期待はあるってことで、もし出られるなら期待に応えたプレーを見せて欲しいなあ。

 もうずいぶんと昔から追いかけている大畑伸太郎さんの新作が二子玉川に出ているってんで見物に行く。駅を降りたら別世界、昔は多摩川の下流にはナムコワンダーエッグがあって周辺には木々も植わり小さい家やら工場やらがあったような記憶もあるけどそこががさっと巨大なオフィス&商業ビルになってそしてタワーマンションなんかもガンガンと出来ていた。高島屋だか何かがある上流側も小ぎれいなビルが並んで雰囲気が一変。駅前にありがちなファストフードのチェーン店とかすき家を除けばほかに見えず食事をとろうにも安月給にはちょっと迷いそうなレイアウトになっていた。立ち食い蕎麦屋の1軒もないんだもんなあ。オルタナティブなフタコイでニコタマ最高ーって叫んでた双子がいたけど、あの頃のどこか雑然とした雰囲気は何処へ。世は移ろう。それにしてもガンガンと立つタワーマンションにいったい誰が住んでいるんだろう、買える値段でも住める家賃でもないのに、それとも僕が低すぎるだけ? そうなんだろうなあやっぱり。

 そして見た大畑さんの作品は相変わらずの巧みさ。そして切なさ。同じような色に階調をつけて乗せていく手法で描かれた街並みはどこかリアル。けれどもそこにたたずむ人物は丸顔で丸目とイラスト的。写実と図案の組み合わさったような空間がリアルだけれども虚構でもある曖昧な雰囲気を醸し出して見る人を現実から少しだけ引き離す。たぶん夕陽だろう太陽の光が低い位置からこちらへと差し込んでくる構図も、見慣れているようでいつもとは違った街並みに自分がいるような感覚にさせてくれる。昔は夜の街並みに雨が降って濡れた路面にビルの灯りや車のライトが輝くような絵が多くあって、それもまた見慣れた光景から少しだけ、離れた場所へと自分を連れていってくれて幻想の現実という不思議な世界をかいま見せてくれたけれど、夕暮れや朝焼けの世界を描いてもやっぱり続くそのアプローチ。なるほど展覧会のタイトルが「境界線」という理由もそんな、現実と虚構の合間に立ってどちらでもありどちらでもない状況を、描いているからなのかもしれない。

 もうひとつ、意味があるとしたら平面と立体という異なる次元の橋渡しをしている作品があるからなのあも。大畑さんがこのところずっと挑んでいる平面に立体を組み合わせる作品が1点あって、公園でもって鉄棒をする少女が公園の絵を背景に立体の人形となって手前に作られ置かれている。背景となっている絵と同様の色づけによって正面から見れば絵にとけ込んでしまう人形が、斜めから見るとしっかりと絵から手前に飛び出していることが分かる、その不思議な雰囲気はたとえひとりの人間であっても空間だとか社会とかにあれば単なる背景のひとつに過ぎないのだという指摘なのかもしれない。

 一方で、たとえ空間にとけてしまった群衆であっても個々の人間には形があり意志もあって存在があるんだということを示したかったのかもしれない。単純に組み合わせとして面白いというのもあるけれど。今回はそんな3点だけでもっといろいろ見たい気はしたけど、その3点だけでしっかりと自分を表現しているところが大畑さん。海外でも注目をされ始めているそうなんでいつか海外で個展でも何でも開いて日本に優れた才能がいることを、示してくれたらデザインフェスタとか初期のGEISAIあたりから、追いかけている身としては嬉しい限り。それでいて1点も作品は持ってないんだけれど。そういうところがコレクターには向いてない僕。お金がいくらだって使えたらなあ。

 ユーフォニアムな遊歩新夢さんによるユーフォニアム小説、というかユーフォニアムとかでアンサンブルをする少女たちが出てくる小説「きんいろカルテット」に待望の第2巻が登場。コンテストでの勝利至上主義に凝り固まっていた吹奏楽部の顧問から邪険にされた4人の中学生の金管吹きが音大生の指導でもってブリティッシュ・カルテットの魅力に目覚め実力も高めてコンクールに出て素晴らしい演奏をして妨害して来た顧問も叩き出すといった感動と喝采の第1巻から続く2巻では、とてつもなく優秀なだけに阻害されてきたフランス人の少女が登場。5人組以上なら夏のフェスティバルに出られると誘われたチームに加えたらさぞやと思わせるものの、その孤高ぶりからなじめず激突を繰り返す。

 けど音楽にかける情熱は同じ。メンバーの1人と河原で殴り合い夕陽に向かってダッシュし肩を組んで笑うことによってとけ込みそして壁を乗り越え進んでいく、ってそういう話ではないけれど、そういう話みたいなものだからスポーツを楽器に置き換えた青春ストーリーとして楽しもう。夏フェスにすらまだ届いてないけどそこを乗り越えさらに目指す本場のコンテスト出場を成し遂げる場面を是非に読んでみたいもの。音楽の専門用語も続出しとっつきにくさもあるけれど、丁寧な描写で読むだけで音が響いてくるようなところがあって、ラブコメとか日常シーンよりもむしろ音楽に取り組んでいるシーンの方が読んでいて集中できる。その意味ではちょっと変わった作品。それだけに受け入れられるのかが気になるところ。売れて欲しいなあ。続いて欲しいなあ。


【5月22日】 そして気が付くと将棋の名人戦で森内俊之名人に挑んでいた羽生善治三冠が4連勝で勝利して名人位を奪取していた。2010年に森内名人と戦って敗れ失陥して2年連続でA級順位戦のトップを確保し挑んでは敗れていただけに、3度目の正直となるか3年連続の敗退となるかが注目されたけれども3連勝という調子の良さもあってか一気に押し切ったという感じ。森内さんはこれで竜王位だけになったけれども順位戦で果たして羽生新名人のように1位となってすぐに返り咲きを狙うのか、それとも竜王位こそ奪われたものの王将位を羽生新名人から奪取した渡辺明王将の前に沈むのか。今期はそんな順位戦の行方もちょっと面白くなって来た。ちょっぴり目立ってないけど佐藤康光九段もいるし、郷田三浦久保行方といずれ劣らぬ強豪ぞろい。阿久津広瀬と新A級も迎えた戦いの行方やいかに。来年3月の「将棋界の1番長い日」が今から待ち遠しくて仕方がない。

 そして気が付くと韓国公演も中止になっていたポール・マッカートニー。入院したなんて話も出ていていったいどんな病状なのかがむしろ気になってきた。日の丸のTシャツか何かを来てロボットなんかを引き連れての登場はこれからのコンサートを楽しく行うんだって雰囲気に満ちていたのに、数日を経てのいきなりのウイルス性炎症っていったいどこがどうなっているのか、まるで分からないところが不安を煽る。そもそもが割と先までの日程がキャンセルとなっていてなお日本に止まり続けている理由は何なのか。出国したって話も聞かないだけに動かせないくらい重症なのかって憶測も浮かんでしまうけれど、そこは不滅のポール・マッカートニーだけあって実は密かに肉襦袢でも羽織って相撲取りに紛れて国技館の中を闊歩していたりする、訳はないか流石に。元気だったら見に行ったんだろうなあ。ちょっと残念。そして次こそは。

 そして気が付くと前の日本SF作家クラブ会長だった瀬名秀明さんがブログで今回の朝日新聞の「日本のSFの厳しい現実」って記事に関して何か話してた。といっても記事そのものが言うSFの厳しさについては特にコメントがなく売れているとも売れていないとも言ってないのは見方によってどうとでもとれるといったことなんだろうか。結構触れているのは日本SF大賞がドワンゴの後援になった経緯で、日本のSFを応援したいと考えたドワンゴがニコニコ動画と関係の深い野尻抱介さんこと尻Pに話してそこから大森望さんを経由して日本SF作家クラブに話が向かったってあるけどそんなドワンゴが後援することに瀬名さんは、変化の激しいIT系ゲーム系企業が文学賞の後援をしてずっと続けられるんだろうかといった心配があるみたい。現実ドワンゴがKADOKAWAと経営統合を発表して早速来年がどうなるか、なんて話も出ているけれどそこはそれ、始めたことはやり抜いてくれると思いたい。けど分からない。ドワンゴだし。

 「シアンの憂鬱な銃」(電撃文庫)って作品の退廃的でハードボイルドな雰囲気から一変しての佐原菜月さん「アナザー・ビート戦場の音語り」(電撃文庫)は音楽の力をベースに置いたファンタジー。王国があって神国があって戦争があって終結して15年。終戦の条件として騎士団を解散させられた王国では“旋律士”と呼ばれ生まれながらに現実の世界でいう楽器のような音を奏でられる器官を持った者たちが、尊ばれ貴族がこぞって雇い楽団を作りたがるくらいに重用されていた。そんな“旋律士”の卵でありながらもあまり巧く音を操れないコハクという少女は、音楽学校を抜け出して祭りが開かれる街までいってそこで貴族たちから依頼がひっきりなしに舞い込む売れっ子作曲家のヂェスと出会う。

 ジルバという女装の男も巻き込んで祭り見学などをして過ごしたものの、やがてコハクは音楽学校に帰りそこでヂェスによく作曲を依頼していた貴族のボディーガードになってくれるよう頼まれ、貴族が抱える楽団を間近に見られるチャンスと思いコハクはその依頼に応える。これが激動の始まりだった。商売を手広く営んでいる貴族はコハクを連れて神国へと赴き、そこでコハクはその国にはなぜかいない“旋律士”としての力を認められたか神国に止まるよう法王から頼まれる。とはいえ音楽がない暮らしに耐えられないコハクは、街に出て自分があまり得意としない、ゆえに“旋律士”の試験には合格できなかった堅苦しい音楽ではなく、自在に奏でられる音楽を演じて街の人から喝采を浴び慕われるようになっていく。

 そこには裏に法王の企みがあり、そんな企みを感づいてヂェスやジルバ、そしてヂェスの従姉妹というエマらが立ち上がって神国との対決に臨むことになる。ヂェスには過去に秘密があり、そして神国との因縁があったようで、最前線に立って神国側にとらわれた形のコハクに歌うように呼びかける。そうやって奏でられた歌が何かを引き起こすところが感動的。ってまあよくある話ではあるけれど、やっぱり人間、感動によって碇や憎しみが乗り越えられていけるっていう話が好きなんだろうなあ。あと“旋律士”っていう器官によって奏でられる音が違う人間というか種族の存在も面白い。どういう振り分けで金管木管等々の違いやその中での高低の違いが生まれてくるんだろう。遺伝だろうか体格だろうか偶然だろうか鍛錬だろうか。そんんあ辺りについて教えてくれる話があればいいけれど、まとまりから想像するにこれ1冊で終わりかなあ、それはそれで良い感じ。1冊で読めて感動を得られる良質ファンタジー。こういうのが増えてくるとシリーズ化で疲弊したり途中でうち切られるような残念も起こらなくなるなあ。書く人は大変だけど。

 「伊月の戦争」がどんな話だったかと思い出しているけど忘れているけど涼野遊平さん「アトラ・シンドローム 世界壊しの子」(集英社スーパーダッシュ文庫)は異能を持ってしまった少年少女が集まり戦うという話。地球に巨大な惑星が迫っていたのが突然消えてしまった事件があってそこから世界に異能の持ち主が生まれるようになったんだけれど国にしっかり守られていて、何か事件があったらその異能を振るうように頼まれていた。主人公の少年は別に異能の持ち主ではなかったけれど、ある時に不思議な空間に迷い込んでそこで強力な力を持った少女と出会う。彼女はそんな力を時に抑え切れなくなるけど少年の存在が彼女を鎮めることが分かって一安心、かと思ったらまたしても巨大な惑星が近づいてきていた。いったい何で。そして少年の母親はどうしてその秘密を知っているの。ボーイ・ミーツ・ガールと異能バトルと世界の命運をかけた戦いがいっしょに楽しめる物語。


【5月21日】 なんだか朝からザワザワとしていたんで調べたら朝日新聞が「日本のSF厳しい現実、海外でウケても本が売れない」なんて素っ頓狂な記事を載せていた。枕に大森望さんが日本SF作家クラブへの入会を総会の議決によって否決され、それを受けて作家たちが何人か脱退を公表した件を挙げつつ昨今の日本のSFが、あんまり売れてないらしいという情報を幾つかの事由を並べることによって示そうとしている。でもちょっと待て。まずもって日本のSFは売れてないのか。写真にもあるように丸善の丸の内店にはSFのコーナーが作られていてそこにSF関連と見なされた本がわんさと積まれたり棚差しされていたりするんだけれどこれひとつとっても、いつかに比べてSFと名乗ったりそう見なされる本は出ているってことが言える。

 でもってそこには並ばないライトノベルとか文庫なんかもSFにはいっぱいある訳で、決して出版状況としてどん底にあるとは言えない。見渡しても宮内悠介さんは直木賞にノミネートされ円城塔さんは芥川賞をとり伊藤計劃さんの本は何十万部と言うベストセラーになっている。ライトノベルならさらにケタが違ったベストセラーが出ている状況を挙げてSFは売れないジャンルだと、言ってしまって良いのかってところで記事への懐疑がひとつ浮かぶ。日本SF大賞を後援していた徳間書店が降りたのは、SF全体が売れなかったというより徳間が出してたSFがあんまり売れてなかったことがひとつと、そして徳間書店が再建の中でSFよりも時代小説とかミステリとかにシフトしSFを従来のように中心と見なさなくなっていたことがある。自分のところで出せないジャンルの本に賞を出す理由がなければ降りる。それが賞ってものだろう。

 だから撤退したけれど、代わってドワンゴが支援をしてニコニコ生放送で授賞式の中継もした。何かしら未来がそこにあると踏んでの参画であってそれをもってしてもSFが売れてないと言い切るには難しいと分かるのに、記事を書いた記者には何が何でもSFは売れてないというネガティブな方向へと記事を持って行かなくちゃならない理由があったのかもしれない。想像するならそれは枕に日本SF作家クラブの“内紛”を振ったから、あるいはそのワイドショー的ゴシップを紹介したいという気持ちがあったからで、そうしあネガティブなスキャンダルを報じる上でSFはそれなりに繁盛していて、ドワンゴも注目していて、世界で円城塔がフィリップ・K・ディック記念賞の特別賞をとり桜坂洋さんの「All You Need Is Kill」がワーナーでトム・クルーズ主演で映画かされるなど大いに栄えているとは書けなかったんじゃなかろうか。

 だから最初に結論ありき、あるいはストーリーありきで記事を作ろうとする新聞メディアの悪い癖が、大きく出てしまった記事だなあという印象。でもそういう印象を抱く人が多い以上はデスクだってポン酢ではないからこれはちょっとなあと思いどうにかしようとするのが普通なんだけれど、そうはならなかったところにやっぱり新聞媒体の足腰の弱さというか融通の利かなさ、小回りの出来にくさなんてものが見て取れる。あるいはやっぱり世間一般にはそういう風に見えてしまているとか。だとしたらやっぱり問題で、せっかくの追い風気味な状況を変えないためにも日本SF作家クラブは冬の時代ならに厳しい時代に異論を唱える論陣を張り、SF作家は店頭に立ってSFの面白さを訴えそして桜坂洋さんは新作を発表してハリウッドが認めた男とそていワイドショーに出まくり7時のニュースに出まくり園遊会にも招かれて欲しいものだけれど、果たして可能か否か。書いてないものなあ、最近。

 うーん残念。スチームパンク的な世界観を持ちつつSF的な設定と謀略物のような伏線を持ってこれからの展開を楽しみにさせてくれていた羽根川牧人さんの「心空管レトロアクタ」(富士見ファンタジア文庫)が2巻をもって打ち切りとなってしまった模様で、1巻から続いていた伏線とかを回収できず設定されていた壁とかを越えることもできないまま「僕たちの戦いはこれからだ!(先生の次の作品をお楽しみに)」状態になっていた。主人公の少年がどうにかこうにか動かそうとしていた、7つもの心空管がついた武器なんて登場おしなければフル稼働もしないんだからいったい何だった気分。世界を牛耳る敵として指摘された十三貴族に加えて電子技術の復権を目指す奴らまでもが現れ世界の謎が深まったというのに、その先を読むことができないのは正直辛い。

 もちろん書いている方が1番辛いんだろうけれど、そういう状況に追い込まざるを得ないほどこれって売れてなかったのか、それとも編集サイドにつまらないものと思われてしまったんだろうか。そこがちょっと掴み切れていないだけに判断に迷う。自分の感性は絶対じゃないからこれが売れないライトノベルがおかしいというつもりはないけれど、せっかく立ち上げたひとつの世界、そして秘められた可能性を引きだし開花させるのが編集の役目だという古い考えの自分には、ただ売り上げの問題だけであっさりと切ってしまうというスタンスはなかなか理解しづらい。それが今だというならそういう今に生まれてくるものって僕にとって面白いものなんだろうかとも考えてしまう。

 幾つかある作品の中で僕の感性と時代の感性がズレていて、他に登場した作品は順調に推移しているというならそれはそれで仕方がない。ただオリジナルに発掘した作家を育て上げようとはせず、ネットで人気という安心の元にネットから作家を引っ張ってきてそれなりに市場を確保するのはやっぱりどこかズレている。ネットの人気という保険を元にいっぱい売ったその利益を、冒険なり育成なりに回すといったこともしていかないと、やがて人気が傾向を狭めその傾向が人気を先鋭化させるスパイラルに陥ったものしか生まれず出せず、やがて飽きられ捨てられるような状況に陥ってしまうんじゃなかろうか。その時はその時で、別の人気者を引っ張ってくれば良いというのかもしれないけれど。何だかなあ。ともあれ次にも期待。何を書いてくれるかな。

 せっかくだからと教育ITソリューションEXPOってのを見物に行く。黒板に先生が書いて生徒が教科書を見ながらノートに写して勉強したり、出席簿でもって生徒の出欠を管理し成績表もノートにつけて記録したりしていた時代はとうの昔になって今は電子の黒板で板書や授業をしたものを生徒が教科書を見ながら電子のノートに写していけるという時代。でもって生徒の出欠や成績の管理もパソコンの上で行える時代。便利になったなあ、とは思うもののそういう教育フローなり、ワークフローなりってのは他の世界ではとうに電子化されていたもので、それが教育の世界ではどうしてようやく端緒につき始めたものなのか、って辺りに教育が持つ多様性と一方での制度的な限界性ってものがあるんだろう。

 ひとつのワークフローに落とし込むにはあまりにバラバラ。生徒ひとりひとりも違えば先生の教え方ひとつひとつもやっぱり違う。それを網羅して統合できるシステムなんてものが本当にできるのか、できて年輩の先生とかは使えるのか、ってあたりに腐心をしながら開発していったものなんだろう。でもそうやって出来上がったものが使いやすいとは限らない。さあ電子化だといわれ予算をつけて実行に移しても、使いづらいものが出来上がっては何にもならない。先生は何を求めていてITには何ができるのか、ってあたりをマッチングしてコーディネートできる人材がやっぱり求められていくんだろうなあと、凸版印刷のブースであったそうしたコンサルをメインにしている人を見て思った次第。ソニーでみた13インチこえたeペーパーのタブレットは大きくて見やすかったなあ。あれが読書でつかれば良いのになあ。


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