縮刷版2014年4月下旬号


【4月30日】 表紙がどかんと大股開き気味なオッパイミーヌではなくオルミーヌだから本編でも登場してはおっぱいを見せてくれるのかと思ったら「ヤングキングアワーズ」の2014年6月号に掲載された平野耕太さん「ドリフターズ」は島津豊久と土方歳三との戦いがひたすらに続いて膠着状態。それでも死ぬのを恐れず勝つためには卑怯だって厭わない戦国ならではの豊久に、江戸時代の平穏を経て哲学になってしまった武士道に引きずられた土方ではちょっと押され気味で、仕方なく変身して霧みたいになっても自分と一緒に撃てとドワーフに命じる豊久の捨て身の戦いにやっぱりかなわない模様。そりゃそうだ、戦国バリバリの世の中で命を投げ出した豊久と江戸末期の京都で浪人相手に威張ってた新撰組とではソルジャーとしての質が違いすぎる。そんな差異を見せてくれたって面で「ドリフターズ」はやっぱりなかなか面白い。でもやっぱり見たかったなあオッパイミーヌ。来月こそは。

 そんな「ヤングキングアワーズ」でやまむらはじめさんの「天にひびき」は帰国したひびきがオーケストラを振るってことであちらこちらから若い音楽家が集まってきてはだんだんとまとまりが出てきた様子。胸の巨大な波多野深香さんなんてヴァイオリンではなく声楽の方へを回され何か歌わされることになったけれど意外や基礎がちゃんと出来ててマーラーの「大地」を歌うにふさわしいと声楽の先生からお墨付き。そしてオーケストラにはメガネが可愛い講師の如月風花さんが加わりチェロは引退したはずの清水照夫がトップで参加し久住秋央の師匠で脳梗塞で手が動かなくなった榊まで出てきてとんでもないことになって来た様子。そんな中でコンマスなんて立場になって果たしてひびきの音をメンバーに伝えきれるのか秋央は。ってな感じで進む漫画はそろそろクライマックスかなあ。秋央はやっぱりひびきに靡くんだろうかそれとも波多野が勇気を出して引っ張っていくんだろうか。そこも楽しみ。いつかアニメ化しないかなあ。

 続くのか、ってまあその薄さを見たら続いて当然かもしれないけれど、レーベルがレーベルだけに次があるのか不安なところなんでここで喧伝して続きを読ませろと行っておきたい朝日エリヲさんって人の「銃★射道 ガン・シャドー」(創芸社クリア文庫)。なにせ豊田巧さんの「RAIL WARS! 日本國有鉄道公安隊」くらいしかシリーズ化されてなかったりしてほぼ専用レーベルと化しているだけに、先がはなはだ心配だったりする。どれだけ中途半端かというと冒頭、佐々木三姉妹ってのが出てきて銃器を振り回して戦う競技の世界大会で準優勝に入る快挙を見せたと思わせて、実は余裕で相手を倒せる実力を見せながらも悲劇の三姉妹で4年間を過ごそうと手を抜いたっぽい。何という余裕。それも佐々木小次郎の系譜を受け継ぐ銃道の達人家計だからこそできること。けれどもそんな彼女たちに迫る的があった……。

 っておいおい佐々木小次郎は銃なんか撃たなかっただろう。そこがライトノベルということで、剣術の変わりに銃術なるものがあって銃器をつかった真剣勝負が昔にあって、それが今では銃道としてスポーツとして受け継がれているらしい。佐々木三姉妹はその国内チャンピオンだけれど彼女に恨みを持つ者があり。名は宮本武蔵……ではない宮本エリーナだけれど剣術の武蔵よろしくリボルバーのトゥーハンドして戦っては学校で部活を率いて全国大会に出て佐々木三姉妹に迫ろうとしていた。その名前に気づけばなるほどそういう武器の使い手だって分かるだろうけど、知らずに挑んだら負けるよなあ。でもそれも1度だけ、2度はないと思ったら実はってあたり、ご先祖様もよくよく考えていたなあと関心。もとより評判を逆手に取ってでも勝つのが武蔵の家系だから当然かもしれないけれど、それにしても。

 もっとも、入る学校を間違え名前のよく似た名門校ではない学校へと来てしまった宮本エリーナは、だったらと学校にいた毛利の名字を持つ生徒会長を誘い、国友の名字を持つ少年を下僕に部活を立ち上げようとして生徒会長の姉という学校長に最初は人数が足りないと断られ、真央ちゃんという中学生で「なう」が口癖の女の子をメンバーに引き入れ条件は満たしたと訴え、それでも渋る校長に勝負を挑み武蔵ならではの必殺技(?)でどうにか勝利し部活を始めたというところで1巻の終わり。おいおい佐々木三姉妹はどこいった? それは次巻ってことなんだけれど、その次巻があるのかないのか。なければ困るよなあ。だから続きを読ませて欲しいとここにお願い。国友君の銃の腕とは違ったスキルもあらわになってどんな戦いぶりを見せてくれるか。楽しみだなあ。どうなるかなあ。

 粛々と何が問題だったのかを突き詰め、感情的にならず情緒的に陥らないで改善すべき部分を拾い出していくことこそが、今の社会に求められているんじゃないかって、メディアも自省し国民もそう考え始めていたように見えたのに韓国、セウォル号の沈没事故に関連してなぜか矛先を国のトップの大統領に向けて、その謝罪を引きだそうと躍起になっては遂に謝罪の言葉を言わせたといって大騒ぎしている。なるほどそれで溜飲が下がるなら良いんだけれど、この一件に関して大統領が謝罪したところでいったい何が変わるのか、というかそもそも大統領に何か瑕疵があったのか。問題はそこではなくって平生の検査業務がいい加減に行われ船員の教育も適当に行われていたことにあるだろう。
 それは大統領の問題というより社会全体の問題。必要ではないと思われた部分を適当に流し、そして何かあったら責任をどこかに押しつければそれで良しとするような心理が、最悪の形で働いてしまったもので、大統領に反省させるのはそんな悪しき心理が、何らの自省を経ないで吹き出しているようにしか見えない。それで一件落着させたらまた同じ事が起こるだけ。そういう意識に戻って欲しいんだけれど、煽り引っ張るメディアの体質は日本も韓国も一緒だからなあ。こうなるとただいたずらに責任者探しだけが横行し、その糾弾へと話が向かって自分自身を変えよう、そして周囲を変えて全体を変えていこうってことにはなりそうもない。そこを曲げるべきメディアが働かない以上、変えられるのはひとりひとりの意識だと、今なお海に取り残された多くの子供たちを思うことで感じて欲しい。もう悲劇は見たくない。それはどこの国の誰だって同じ思いなのだから。


【4月29日】 やっと見たアニメーション版の「魔法科高校の劣等生」は、特に激しいバトルもなくって司馬達也お兄さまが剣道部の2年生に言い寄られていたというか、陰謀めかしたものに誘われていたというか、そんな回だったけれども下手に乗ったら妹の司馬深雪から、ゴゴゴゴゴゴって冷気が吹雪いてたちどころに学校中が凍り付いてしまうからそこは遠慮して相手に乗らなかった模様、というより妹べったりな兄がそんなことをするはずはないか、たとえ横に深雪がいなくたって、豊満な谷間を見せつけてくるカウンセリングの先生相手に靡きもしないんだから。普通なら顔を埋めてるってばあの谷間に。それはない。それとも冒頭に出てきた十文字克人の分厚い腹筋にこそ靡くとか。それもない。いやあるいは。それくらい凄まじい肉体をしていたものなあ、達也に服のしたの腹筋を想像させるほど。そんな不思議な描写も交えて進むストーリー。次はバトルとか見せてくれるかな。

 内覧会とかに呼ばれる身分でもないので初日となった「絵師100人展」へと出向いて会場に入ってまずは行列に並んで図録を確保。それから戻ってじっくりを絵を見てやっぱりバーニア600さんの鉄道絵は素晴らしいなあと感心する。今回は切符売り場に座る女性駅員の絵で硬券が挟まった装置とかあってそれぞれに行き先が書いてあってなかなかに細かい。どこまでも鉄道愛に溢れてる。あと尻への愛と乳への愛も。そんな愛をイラストにして提供している豊田巧さん原作のライトノベル「RAIL WARS! 日本國有鉄道公安隊」が程なくアニメーション化されて放映される模様で人気になって原作へと目が向けられ、そこで表紙とかイラストとかで炸裂しているバーニア600さんの細かくも美しい鉄道と美少女のマッチングに世界が気づいてその活動を大きく支援し、画集が出るくらいになってくれたら嬉しいんだけれど。それこそJRのポスターに起用されるとかしないかなあ、東か東海が西か北海道か四国か九州かどこが早いか。競争だぞ。

 あとは誰だっけ、今回の「かわいい」ってテーマでいわゆる美少女たちが乱舞してたりたたずんでいたりする絵が多い中でモディリアーニばりに首が長い少女の絵を描いていた人がちょっと気になった。それからいつも幽霊絵で勝負してきた岡崎武士さんが普通に卓上だかで飛び跳ねる女子高生だかの絵を出していたのが面白かった。こういう作風もあるんだというか。広江礼威さんは女子高生が方からAK47だか何かのサブマシンガンを下げている絵を出していたけれど顔は描かずそしてサブマシンガンを思いっきりデコしてあってなるほどこれは可愛いけれど、そんな可愛さが人の命すら粉砕する銃器に向けられているシチュエーションってのを想像した時、半身しか人物が描かれていない絵に一気に奥行きが出ていろいろと想像したくなった。混乱の中で女子高生でも銃器をとらないといけない社会になったとか。女子高生が圧倒的な権力を握って男共を従えている社会が訪れたとか。そんな漫画を描く予定でもあるのかな。

 いやいや広江礼威さんにはまだまだ「BLACK LAGOON」を書いてもらわないと。どうやら待望の第10巻が5月に刊行となるみたいで限定版にはアートワーク集とかお風呂ポスターなんかがつくとか。とてもゴージャス。値段もハイパー。でも買うんだろうなあ絶対に。それからロベルタが大暴れするエピソードを集めたコンビニコミックが出る模様。最初の普通に凶悪メイドとして出てきた時はまだとぼけたところもあったけれど、後に復讐の鬼と化して登場した時にはもはやギャグなんて見せる余裕もなく、ひたすらに殺戮を繰り返していたからなあ。そのギャップを一気に楽しめるとあってこれは必読。せっかくだからしばらく見ていないロベルタ編のOVAも見返すか。単品でも買ったしボックスでも手に入れたけ訳だし。

 もうひとつガイナックスが吉祥寺で運営しているシューティングバーで連動企画が繰り広げられる模様。あのソードカトラスをおおっぴらに撃てるみたいだけれど、やっぱり2丁を手に持ってトゥーハンドで撃てるのかな、それをやってこそ気分はレヴィなんだけれど。持ち込めるならKSCで再販された時に頑張って2丁そろえたソードカトラスを家から持っていくけど、「BLACK LAGOON」使用の革製ダブルショルダーストラップとそれから指ぬきグローブも一緒に。レヴィのタトゥーシールも昔買ったけどこれを貼るのはもうちょっと痩せないといけないから今からだとちょっと無理。せめて夏まで企画が続けばなあ。ロベルタのガバメントとかも用意してあるならそっちも撃ちたいなあ。ファビオラのグレネードランチャーは撃てるのかな。

 ふと気が付くとジェフユナイテッド市原・千葉がジュビロ磐田に引き分けてこれでJ2での勝ち点が12となって22チーム中の17位まで落ちていた。だめだこりゃ。下に東京ヴェルディがいるちゃあいるんだけれどほかはカマタマーレ讃岐にカターレ富山にザスカクサツ群馬に愛媛FCといった並びでそれぞれに地域で頑張ってはいても、上位をうかがいJ1参入を狙うといったところにはまだたどり着いていないチーム。そんな群に混じって下位争いを本来、演じていて良いチームじゃ東京ヴェルディも含めてないはずなんだけれども、それをこの数年のチーム作りが許してしまったところがあってもはや中位すら安定確保できないところに来てしまった。

 いったい何が悪いのか、って言うならチームが悪いんだろうけれどもそれでもメンバーだけ見ればそんな所にいるようにはちょっと思えない。去年だって昇格はできなかったけれどもプレーオフに出るくらいの順位は確保できていた訳で、何人か抜けても大きく戦力を落としたってことはない。ケンペス選手だって残った訳だし。だったらどうしてこんなにも、って言えばうん、やっぱり監督ってことになるんだろうなあ、責任上。味の素スタジアムに東京ヴェルディとの試合を見に行った時も思ったけれどもやっぱり攻め手がまるでない。運んでもそこからシュートへと持っていく動きがまるでない。それはたぶん、走りの質の問題でもあって、マークを外してフリーを作ってシュートへともっていく動きを作れていないんだろうなあ、オシム監督の頃みたいには。

 とはいえオシム監督はもういない訳で、今いる選手と監督がどうにかしなきゃいけないんだけれど、どうにか出来たら去年の段階でどうにか出来ていただろう。継続すればやがてなんて甘いことは、何か萌芽があってこそ言える言葉でまるで何の打開策も見いだせないまま1年を過ごして2年目に杯って、やぱり何も出来ない上に弱くなっているチームがすべきことはやっぱり1つ、改革しかないんだけれどそれが出来れば降格1年目2年目にやっているか。うーん困った。J2とかワールドカップあんまり関係なさそうだし、このまま何の打開策も打たれないまま、ズルズルと中位から下位を行ったり来たりするんだろうなあ。ワールドカップ後に手の空いた有名監督とか来てくれないかなあ。ユナイテッド繋がりでモイーズ監督でも良いぞ。はあ。

 夜になって青森県にある国際芸術センター青森で開催中の國府理さんの展覧会で当のアーティストの國府理さんが亡くなっていたという報。一瞬誰? って思って調べたら去年のあいちトリエンナーレで長者町にある会場でビルの中に車を2台持ち込んでひっくり返して草だか土だかを盛っていた人だと分かった。そうした自動車という文明の象徴とそれから自然をない交ぜにして置くことで、時間と空間をひとつところに見せようとした作品なのかなって思ったけれど、今度の展覧会でも自動車を展示室に持ち込み何か見せようとしていた模様。それが仇になっての一酸化炭素中毒だったみたいだけれど、どういう経緯からそんな事態になってしまったのかが分からない。注意はしてたとは思うんだけれど……。人がひとり、亡くなってしまった展示がそのまま残るの安全性の面からはたぶん難しいし、そうした展覧会がそのまま続けられるかという点でも議論が起こりそうだけれど、始まったばかりの展覧会が回顧展になってしまったこの残念を、感じてもらう意味でも可能な範囲で続行となるのが良いのかどうか。やっぱり危険と中止にすべきなのか。ちょっと考えたい。芸術だから、命がけだったんだから許されるという思考はひとまず置いて。


【4月28日】 朝のワイドショーでは「ニコニコ超会議3」が人気だったようで、とりわけ大相撲がああいった場所で繰り広げられていたことを、ミスマッチだけれど面白いといった雰囲気で取りあげていたところが多かった模様。どちらかといえば権威の側にあるテレビが、同じ権威としての大相撲がネットユーザーの集まりという俗な場所へと降りていったことへの意外性に着目して、報じたような雰囲気があったように感じたけれど、それでも伝統が次第に馴れ合いと化す中で、世間にタイするインパクトが薄れている大相撲にとっては、今までにない動きをしたことで、こうやってメディアに取りあげられて存在をアピールできたって意味はあったんじゃなかろうか。

 もっとも大相撲にとっては、テレビを通して世間にアピールできたことよりも、ニコニコ超会議という場を通して、ネットユーザーに改めてその存在を認知させられたってことの方が大きいかも。とうに古びてしまってはいても、それなりに知名度はあって敬意を抱かれている大相撲という存在が、自分たちのフィールドへと降りて来て、というより次元をまたいで現れては、歴史と伝統と何より力士の巨体という圧倒的な説得力を持ったビジュアルを感じさせてくれた。日本にはこういうものがあったんだと気づかされた。ちょっと関心を持ってみよう、見てみよう、国技館に足を運んでみようと思った人が出たなら大成功。何もしなかったら得られなかった動きがそこから始まることになる訳だから。

 それはすでに話題沸騰となっている将棋とそれから新たに加わった以後の「電王戦」についても言えることで、将棋という伝統という名の古典になって埋もれてしまっていたコンテンツが、ネットという場を経て多くのユーザーにその存在を気づかせた。今や将棋のタイトル戦の中継はニコニコ生放送でも超人気のコンテンツで、一般でははじかれる場合も出ていてそれでプレミアム会員になる人が現れる。相撲はテレビで中継しているけれど、いつかの八百長問題でNHKが中継を取りやめた時、ニコニコ生放送が中継をして結構なアクセスを稼いだことからも、ネットで相撲を見たいというユーザーは結構な数いそう。そうした方面にテレビとは違った情報を提供していくことで、新たなファンを得て収入も得て広がっていける、その手応えをこのニコニコ超会議場所から感じただろう。あとはどう実行していくか、だけだけれどそこが鈍かったら元の木阿弥だからなあ。頑張れ大相撲。そしてニコニコ生放送。

 ふわふわさんとは綿毛のようなものが集まってヒトの形を取る謎の存在で、生き物かどうかも分からないけど言えるのは、ふわふわさんは誰か失われた者と同じ姿形をとって現れるということ。少年の前に現れたふわふわさんもそうで、交通事故に遭って何年も前に死んだ姉と同じ姿形をしていて、その死を目の前で見ていた少年を戸惑わせる。車椅子に乗っていて毎日施設に出かけていっては絵を50枚、何でもいいから描くことを繰り返している少年が、姉とそっくりなふわふわさんと出会って思い出した過去と抱くようになった感情。それは……。

 廃棄された街があって、使われなかったロケットがあって、停滞している社会があってとどこか滅びへと向かう雰囲気を感じさせる世界の上で繰り広げられるボーイ・ミーツ・ガール。その意外な裏側に驚かされ、未来の有無を考えさせられ、それでも生きていく者たちの互いを求めよりそう姿を描いた入間人間「ふわふわさん」(電撃文庫)。昔だったらセンチメンタルなSFとして評判になっただろうかどうだろうか。なぜそうなってしまったのかという説明がないところがネックだけれど、そうなってしまって起こっている変容と、そしてふわふわさんが記憶を再現するのだとしても、その記憶が元になった存在を考えた時に、果たして記憶とは何かと自問自答せざるを得ない設定は、やっぱりSFのような気がするなあ。ふわふわさんは何かを癒しているのだろうか。それとも何かの罰なのだろうか。いろいろと考えたい1冊。

 面白い。それだけにちょっと勿体ない。という気がした八重野統摩さんの「犯罪者書館アレクサンドリア 〜殺人犯はパピレスの森にいる〜」(メディアワークス文庫)は、父親が友人の保証人となって抱えた借金を残したまま事故で死んで、その息子が相続放棄をするかもと思われ、取り立て屋から内蔵をバラされ売られようとしていた時に、夏目さんという謎めいた美女が現れ少年を6000万円で買って、自分が経営する書館で働かせ始めるというストーリー。働き始めて主人公は、そこは犯罪者だけが集まるという書店だと知り、実際に美少女の殺し屋やら、変装が得意な青年やらが現れ、歓談しつつ定価の10倍という値段で本を買っていく姿を見る。

 いったいどうやって儲けているんだろう。そもそも儲けとか度外視のシステムがそこを成立させているんだろうか。いろいろな不思議については説明らしきものはあるけれど、それを成り立たせるには来る客も限られていてサロン的な場所として機能しているように感じられないのがひとつ悩むところか。あるいは書かれていないだけで、それなりに繁盛はしていたのかも。ただ主人公が働き始めて割と短い期間でその場所に、大きな転機が訪れてしまって夏目さんはそこでいったい何をしていたのか、何がそこを支えていたのかが見えなくなってしまうのが残念。そこはだから想像するしかないのかなあ、夏目さん過去と意図、そしてちょっぴり寂しい結末から。

 そんな場所と人が醸し出す謎を一方に置いて、ストーリーでは主人公がそこで巡り会った本をひとつのヒントにしながら、起こるちょっとした謎を解き明かしていく。殺し屋の少女が10万円近く出してフィリップ・マーロウが出てくるレイモンド・チャンドラーの「さらば愛しき女よ」を買っては、これは違うと捨てたりあげたり燃やしたりしている謎だとか、P.D.ジェイムズの「女には向かない職業」が好きという贋作家が、どうやって贋作をする作品を選り好みしているかという問いかけとかに、たいしてミステリが好きではないけれども観察眼と理解力はある主人公が本に触れたり読んだりすることで答えていく。

 ミステリーの本やストーリーに関する豆知識が得られるって意味で、個々の短編は面白いけれど、それが連作となって1冊を構成した時に、夏目さんをめぐる本筋とどこまで絡み合っているかというと判断に迷うところで、ただ主人公の冴えを実証する材料にしかなっていないところが、この本にどこかもわっとした感じを覚えるところか。シャーロック・ホームズを名乗る者が起こす、書館の常連客が次々に殺されていく事件の解明に向けたひとつの伏線には確かになっているけれど、動機に迫るようなものではないしなあ。まあでも夏目さんというクールな美人に出会えて、その変わらない表情に隠れた焦燥なり感情めいたものに触れられたという意味では、読んで良かったと言えるかも。それにしてもやっぱり気になる。アーミンはどっちだったんだ。


【4月27日】 不徳が祟って埒外に置かれたか、凄くなりそうなライトノベルを読む機会が今年はどうもなさそうなので、発売されているライトノベルを粛々と読む日々。ファンタジーの「ブレイブレイド」シリーズが、凄いお兄ちゃんを慕う凄いい妹のお話として「魔法科高校の劣等生」くらいに評価されても良いあやめゆうさんが、今度出した現代を舞台に書いた「夜を歩けば1 ザクロビジョン」(中央公論新社)が、優れて面白くそしてスリリングな異能ミステリだったので誰も彼もが読むように。フリーターで22歳の宮村一野という男性には、人の雰囲気が眼で見える異能があって、そんな彼が繁華街を歩いていて地上にザクロの花が咲くビジョンを見て墜落してきた少女と出会い物語りが幕を開ける。

 その社会では異能を持つ者が<外側>にいる者、アウターと呼ばれつつとりあえず存在を権力に把握されていたりする。一野もそんな1人としてリサーチ会社を隠れ蓑にした組織に半ば雇われ、異能が使われた事件を調べ解決する仕事をしている。そして墜落して来た少女は誰かに突き落とされたらしい。ちなみにその少女なのかどうなのか、一野の家にあがりこんだかのように居着いているニット帽を被った石本花梨という名の少女がいて、体育座りをしながらテレビを見ていたりして、一野はそれに話しかけたりしている。

 もしかするとと浮かぶ可能性。そして彼女はどうやら異能に操られた何者かによって突き落とされたらしく、関連するかのように街には人が墜死する事件が相次いでいて、一野は調査に向かいとりあえず犯人らしい男を見つけて追い込んでいく。ひとまず解決。それもちょっと苦い。続く第2話でも一野は、同じリサーチ会社に所属する意識を燃やせる異能使いらと調査に向かう。そこには人の意識を読む異能を新たに発した女子高生も加わっていた。なんだそうだったのかと驚くところかも。そんな異能を持ってしまって女子高生は戸惑い驚き恐怖とか絶望を感じてしまう。なぜって自分が誰かに嫌われていることが分かってしまうから。普通だったらなかなか生きられない。

 他の異能持ちも同様なはずなのに、一野も含めた異能持ちが恐怖を通り越して”慣れて”しまうという道筋を見せる。そんなひとりとして一野が見せる時に冷淡で残酷で退廃的な振る舞いから、人が人にあらざる能力を得ることへの是非が漂う。それでも、いったん持ってしまった力なら、人はそこから逃げることはできない。力を持って変わってしまったのだとしても、それは自分自身として受け入れるしかない。あとは自分がどうするか。一野のように諦観するか意識を焼く真冬のように踏みとどまるか。心を読む花梨はどちらへ? そんな問いが投げかけられるような物語。

 もちろん、事件に関する謎解きも平行して進んでいく。連続した人の飛び降りなり墜落といった事件に共通することは何なのかを、一野が資料などを身ながら迫っていく。なおかつ連続する事件ならではのどこからが連続となっていくのかという犯罪心理めいたものへの言及もあって、そういうものなのかと教えられる。そこに異能ならではの展開が加わる。女子高生が読んだ他人の意識から誰かに操られていることが見える。そうした人たちに共通することは。そんな手がかりを元に真相に迫るミステリ的な展開を楽しめる。一方で異能と直接間接に向き合う者たちの在り方についても思索される。異能を使った派手なバトルは起こらないし、血みどろで陰惨は方向へともそれほどは転がらない。淡々として乾いていて。それでも時折のぞく異能がもたらす歪んだビジョン。そちら側へと足を踏み出す覚悟を問う。異能は欲しいか? 答えを出すのはあなたたち自身だ。

 嘘つきは泥棒の始まりというけれど、泥棒に入ったからこそ嘘をつかなくてはならなかった少年にはだったら何が始まったのか? なんて話が石崎ともさんによる「嘘つきは探偵の始まり 〜おかしな兄妹と奇妙な事件〜」(メディアワークス文庫)という小説。父親が名の知れた探偵という神條久人だったけれども母親ともども追い出されて2人暮らしをしていてそして母親が死に、久人は母親が大切にしていながら父親の元に残してきたブローチを取り戻そうと探偵もその新しい妻や娘がいない時を狙って探偵の家に泥棒に入る。ここしばらくそうした“修行”をしていて腕は確か。情報もしっかり集めてあって家族の動静も把握している。だから安心と開けた書斎に人がいた。見知らぬ少女が。

 今の探偵の娘であるはずがない。彼女は学校に行っている。なら誰だ。それは向こうも抱いた感情らしくお互いに誰だと訪ね会い、久人は「オレはこの家の長男だ」と答えてしばらく家を離れていて戻ったばかりだと告げた。それはある意味で正しい。ただしずっと住んでいなかった。それを見知らぬ少女が知っているはずがない。彼女はこの家の子ではないはずなのだから。ところが彼女はこう答えた。「私はあなたの妹ですよ、お兄さん」。そんなはずはない、とは思うものの自分だってずっと家を離れていて、妹がほかにいたかどうかは定かではない。生まれる疑心。それは相手も同様だったのか2人は即座にお互いを妹で兄だという演技に入っていく。

 兄なんだから妹に1万円をお小遣いとして渡すのが普通ですよと言われて渡したり、妹ならお茶を入れてくれるのが当然だといって入れさせようとして白湯だけ持ってこられたり。どうもそうではないとお互いに感じていながら、そうだと指摘したら自分もそうだと言われかねない関係に狐と狸の化かし合いのような状況が続く。インターフォンをならして宅配便がやってきたり、近所の警察官が立ち寄ったりともう次から次へと襲ってくるピンチに、割と抜けたところのある妹の方は自分の本名なんかを明かそうとして演じることを忘れてしまい、その度に兄のほうが怪しまれたらまずいとフォローに入る場面もあって、同志のような関係も育まれていくところが何かユニーク。奸智によって危地を脱するテクニックを楽しめる。

 本当の娘が忘れ物を取りに帰ってきた最大のピンチすらもしのいだ2人は、お互いの境遇を他人に仮託してほのめかすことでどういう生活を営んでいたかを理解する。そして始まる共闘のような関係。父でありながらも久人の母親を追い出し、そして娘と名乗った少女をひとり過ごさせてきた探偵への復讐すら考えたところに起こった探偵とその家族がまとめて誘拐されてしまったらしい事件。久人と少女は集い考え事件に挑みそして探偵の居場所をつきとめ真実を知る。それは……読んでのお楽しみということでただひとつ、言えることは嘘つきは泥棒の始まりではなく、嘘つきが探偵のこだわりだったということ。大きな包容力でもってその手の上で転がされた人生を、受け入れ喜べというのは酷かもしれないけれど、すべてを知ってそして未来を感じた2人には、きっとわだかまりはなかったんじゃなかろうか。そんな2人が父親譲りの機知を発揮してこれからどんな事件に挑むのか、なんて話は果たして描かれるのか。ちょっと気になる。そういや探偵の今の家族ってどうなったんだ。それもそうかそういうことなのか。父親って偉いなあ。

 今日も今日とて幕張メッセへと出向いて「ニコニコ超会議3」を見物。何かニコニコ動画の過去から現在までのヒットランキングを可視化して自在に検索しアクセスできるようなブラウザっていうんだろうかインターフェイスになるんだろうか、そんな仕組みを並べていたところがったんで近寄って話を聞いていたら作っていたのが産業総合研究所だった。お国の機関が何でまた、って前々からロボットを作ったりといろいろ手広くやっているところだけに、こうした過去のアーカイブを自在に取り出し利用できるようにするシステムってのはネットだビッグデータだと言われている時代には必要不可欠なもの。誰もが感覚的に操作できてそして楽しさすら覚えるインターフェースがそこにあれば一層の利活用も進むってもの。そんな可能性をニコニコ動画を使って見せようとしてたのかもしれない。

 ただ、ニコニコ動画の場合はタグ付けとかアクセス数ってデータが蓄積されていた分、こうしたインターフェースが作りやすかったけれど、ほかのただ漫然と並べられたり分散していたりするデータを集め可視化するのは難しそう。そうした方面を分析して整理する仕組みってのが加われば可能だけれど、どうしてもグーグル的な検索エンジンが先に来そうでそこにキーワードからのランダムな選択はあっても、タグ付けされて整頓されたものから必要に応じて選ぶようなことはない。だから今後はそうした将来の利用も含めて、データを整理し保存し記録していくような一種の電子司書的な存在も必要になっていくのかもしれない。あるいはニコニコ動画的な整頓が標準化していくとか? それはないけどでもひとつ、デファクトとして突っ走っていくとそこに乗っかるところも出てきて知らず席巻したりしているのかも。興味を持って眺めていこう。

 ダース・ベイダー卿が力士の遠藤関を応援して暗黒のフォースを与えたりする場面に立ち会ったり、NTT未来研究所のブースで縦に並んだ点滅するLEDか何かをさっと首を振って見るとそこにNTTのマークが浮かび上がる不思議を体験したりと楽しんだニコニコ超会議3。噂のダイオウグソクムシも間近で見たりしたけれど、別に誰かと会ったり誰かと喋ったりはしなかった。それでも楽しめたのはあちらこちらで何かをやっているのを見ているだけでも面白かったから。ネットのあちらこちらで起こっているいろいろを、サーフしザップしながら楽しんでいるのと同じ感覚をリアルでも味わえたとでもいうんだろうか。誰かと繋がらなくたって、そこにいるだけで良いという人にはこういうイベントは心地良い。もちろん誰かと繋がってそこで自分の存在を訴えたいという人にも嬉しいイベント。誰もが受け手で誰もが出し手でそれがくるくると変わる社会が、ネットの発達とともに生まれていくのかな。


【4月26日】 ニコニコだニコニコ超会議3が幕張メッセで開かれるっていうんで朝もはやくもないけれども起きて準備してメッセまでだいたい40分。こういう時に船橋あたりに住んでいると実に便利だ、東京ビッグサイトだって1時間もあれば到着できるち東京ディズニーリゾートだって40分とかそんなもので行けるし。問題は東京ディズニーリゾートに行く用事がないことだけれど、誰かとでも1人でも。嗚呼。でもって幕張メッセで受付を済ませて午前10時に入場すると向こうからニコニコ技術部の馬車が走ってきた。野尻抱介さんが傍らを歩いていた。その頃はまだ観客も少なくすいすいと回れていたけれど、だんだんと混雑して来た昼過ぎとかはどうなっていたんだろう。ちょっと気になった。でも野尻さんの報告では米兵とかも乗って演奏してたみたいだから運用はされたのだろう。でないと作り込んだ甲斐がないからね。

 とりあえず今回は技術系を見ようと「まるなげひろば」へと回って前に見た「きのこの山たけのこの里判別ロボットアーム」の稼働状況を確認し、オキュラスのバーチャルリアリティを使ったシューティングゲームで遊び巨大な風船を見上げミニベロサイズの自転車の後輪が回転するとLEDが光って絵を映し出す装置を眺め透明な板をなぞったりすると音楽が流れ音階が移動する装置に感動しライトノベルフェスティバルの告知をもらい「なつこん」の案内とかをもらって1時間くらいを存分に楽しむ。コミケとワンフェスとディーラーズルームとデザインフェスタとほか諸々がいっしょくたになった感じの島。ボカロ系っぽいブースもあって女子が群を成していた。混沌としていたけれどそれもまたあらゆるジャンルを包括してぶちまけるネットの要素をリアルに映したお祭りらしい。明日もじっくりと回ろう。

 せっかくだからとNTTが出している超未来研究所のブースに行ったら本当に超未来研究所っぽかった。とくに女性の衣装が銀色していてキラキラしていてお尻とか丸くって素晴らしかった。これでヘアスタイルが全員ボブカットだったらさらにX星人度が増したのに。でもって噂の20メートル先からだって音を集めちゃうぞマシーンは三鷹の研究所なんか比べものにならないくらい騒音雑音が多い環境にあってパラボラアンテナと100個のマイクはしっかりと前方の音をキャッチし特定の場所から響く宇宙人の声とかをしっかりと拾っていた。さらに突き詰めれば応援が鳴り響く国立競技場で30メートル先の選手の内緒話だって拾えそうかも。「なんか今日二日酔いでさ、楽するから」「いいよ寝てたら、あとはやっとく」なんて。どんな会話だそれ。

 あと面白かったのはリフトの上に360度をぐるりと見渡せるカメラをつけて周囲を撮ったそれをコンピュータ上でつなぎ合わせてシームレスに合成して、モニターに映してそれをタッチしながらずらすと視点が変わっていくという装置。見上げてもカメラは止まったままで動いていないというのがすごいところで、これなら1人で1つの風景だけじゃなくいろいろな人が観たい位置を見られるようになる。集音装置もたぶんそうでサーバー側の元データから特定個人の声をそれぞれに引っ張り出せるようになっているんじゃないのかな。そうやってパーソナルなニーズにあわせた情報提供が出来るようになると、編集とかいったマスコミの機能がユーザーサイドに移されていくことになる。そんな時代のメディアの在り方って何だろう? ちょっと考えさせられたけどそういう立場にいない下っ端は何も考えない上が滅びるに任せるのを眺めているだけであったという。

 電話ボックスに入って向かい合わせに喋ると相手の喋った分だけ腹と背中につけられた振動装置が震えて押される感じがする装置を見知らぬ人と楽しみ喋り倒して勝利したつもりになってそして光ファイバー入りのお守り袋をもらって退散。横では心拍数を映し出しながら将棋のプロ棋士が対戦をして大勢が見入っていた。電王戦といいITと将棋ってこんなに相性が良かったのかとひとつ発見。戻って民主党のブースに去年より人がいることを確認したり自民党のブースで小池百合子さんが「あべぴょん危機一髪」に鍵を差し込む場面を見たりしてから戻ってニコニコ言論ブースに安倍晋三総理大臣が登場するのを間近で見る。やあ本物だ。

 政治評論家の人と会話するその内容に目新しさなんてまるでなくって、打ち合わせでもしたか台本でももらったか、若者のために頑張るとかオバマさんはビジネスマンみたいだったという会話で10分くらいの持ち時間は終了。リップサービスとまでは言わないけれども有り体のことを言っただけなのにあの場に降臨して耳障りの良いことを言えばちゃんと受けると知っているのはある意味偉い。けどそれを見抜けないほど世間も間抜けではないんでそんな当たりからズレが見え始めてやがてちょっとした弾みで非難囂々となるんだろうなあ、反日ポーズで支持率を集めていたって国内の問題で韓国の大統領が大ダメージを被ったみたいに、自分たちに危機が及べば国民だってちゃんと為政者の虚栄には気づくから。気づくかな?

 まだ言ってなかったニコニコ学会βへと立ち寄りヤマハが何か新しそうなことをやっているのを見物。鍵盤を弾くとモニターに映し出されたミクがラジオ体操第一をし始めるんだけれど弾く速度がもたつくとだんだんとイライラし始めるという。それはあるいは音楽をちゃんと聞いてそれが適性でないと反応するAIでも組み込んであるんだろうか音によって動作が決まっているんだろうかと考えたら、何でもMIDIデータが仕込んであってそれを元に鍵盤でならされる音とすりあわせてここならこういう動作をするようにって支持が与えられているらしい。テンポが遅れればそれにマッチしたいらつきとか焦りの反応もするようにとか。

 音楽でキャラクターを操作できる、っていうひとつのパターンをそこでは見せていたけれど、決してそういう方面だけでなはくって例えば演奏している音楽に合わせてライブの照明だとか演出をタイミングよく操作できるようにするってことも可能とか。これまでだと聴いている人がそれを受けてスイッチングなり操作なりする必要があったけれど、これなら演奏に応じて有る程度自動的に切り替えたりできる。費用とか人手もあって人数をそれほどかけられないライブなんかでも多人数が関わっているライブに負けない演奏と演出を見せられるようになるってことらしい。もちろんCGのキャラクターを動かし演じさせるということも。

 聞くと学会とかではまだ出したものではなくってニコニコ超会議でのお披露目がほとんど初とか。いいのか、そういうのって新聞記者とか集めて発表するんじゃないのか。いやいや、今はそうやったところで取りあげてくれるメディアもないし、学会では具体的な利用法と結びつけて有用性を考えてくれるなんてことは起こらない。それがニコニコ学会になれば、よりユーザーに近い場所から反応を得られ評判も得られる。だからこっちに持ってくるという考えは、NTTの超未来研究所に置いてあった諸々のテクノロジーとも共通する話か。ジャンルを超えて大勢の人が集まりそして考え方もいろいろ持っている人たちの中で揉まれてこそより多方面に向いた技術が生まれる。そういう技術を生み出そうとするモチベーションも起こる。そこから生まれる製品だから受けるのも当然、ってことになるのかな。時代だなあ。そこにソニーがいないのが残念。本当なら彼らこそそういう場所で画期的なアイディアを見せて喝采を浴びていたはずなのに。だからそれも含めて時代なんだろうなあ。

 フードコートは行列ができていたんで遠慮し相撲は化粧回しをした十両の力士があらわれお披露目するのを眺め台湾ブースにふなっしーが現れたのを人垣の間から眺めアパッチとしんかい6000が並ぶ異例な光景に驚きながら歩き回って疲れたんで帰宅。これを決めずにぶらつくともういろいろな発見があってああこういう文化があるんだ、こういう人がいるんだと面白がれて勉強になるし、自分はこれを見たいやりたいと行って1日それに浸りきりってことも可能。まるでネットを彷徨う時のよう。というかそれを可視化したイベントというのがニコニコ超会議な訳で、その存在自体がやっぱりひとつの新しい時代の文化や思考の在り方ってものを示している。ここから旧来のメディアも学ぶことが多いんだけれど、そういう発想もなさそうだしなあ、ほとんどは。めざといところだけが生き残るんだろう。自分のところはどっちだろう? いやもう所属より自分自身がどっちに行くかだ。頑張ろう、明日も。

 その知名度その貢献度だけでも十分すぎる要件を満たしている上に、受賞という大きなポイントも加算されて一種、その分野の第一人者と世間から見なされている以上は、その分野の集いに参画できるのが一般的な感覚から言うなら普通のことであって、他に選択肢なんかないものなんだけれど、どうにもその分野にはその分野としての不文律なり考え方なりがあるようで、結果は参画できないということになったという。結果からしか判断するしか出来ない身としては、やっぱりどこか意味不明な感じがするし、それは世間一般もきっと同様に感じている。そんあ感想にさらされてなお、外に向かって何も説明できないとするなら、それは世間の関心の埒外に、自らを置くと決断したに他ならない。それでいい、内輪の集まりなのだからと広言するのは構わないけど、そうなら世間と何かすりあわせたい時に、感覚をのズレを理由に咎め立てられることも覚悟はしておいた方が良いだろう。それが結果責任というものなのだから。理由はどうあれ。


【4月25日】 海上に作られた積層都市トーキョー・ルルイエを舞台に仮面を付けた少年がひとりでホラーって電脳を喰らう化け物を退治していて少女と出会いそして都市の秘密を暴き出す展開だった第1巻から一転というか視点を変えたというか、桜井光さんによる「殺戮のマトリクスエッジ2」はランナーと呼ばれるホラーと戦うことを生業にしているユーノ・柏木ことユノという少女をヒロインにして彼女が調査することになった事件を巡るストーリーになっている。何でも5人が次々に電脳を食われてそのまま肉体も死を迎えたという事件。いずれも大変な危地から生き延びた者たちだっただけに何があったのか、何かが狙われているのかといった視点でユノとして調査に乗り出す。

 とにかくよく喋る相棒も得て次に襲われそうな人物を捜し求めて積層都市の地下へと降りていくユノ。電脳によって誰もが幸福に暮らしているように見えて、地下にはスラムのようになった場所もあってと都市の裏側も見えてくる。そんなこんなで迫った事件の真相、そしてユノ自身に迫る危機に現れた仮面のソロ・ランナー。サイバー要素に散りばめられた舞台で少女の思いが炸裂する、ライトノベルならではのサイバーパンクSFって言えるかも。とはいえ全体に起伏があんまりなくって広がりももうちょっと。都市全体の謎とそしてソーマと呼ばれる少年の戦いに今度は話を戻して苛烈なバトルって奴を見せてくれたらさらに面白くなるかも。待とう続きを。

 なんかお栄さんづいてるなというか、ちょっと前に江戸東京美術館でもって「大浮世絵展」を見てそこに葛飾北斎の娘でやっぱり浮世絵師の葛飾応為ことお栄さんの絵を見てああこれが杉浦日向子さんの漫画「百日紅」に出てきたあの女性の描いた絵なんだなあ、と思っていたら間もなく田中麗奈さんが座長を務める舞台「きりきり舞い」の話を書くことになってそれがやっぱりお栄さんが登場する話で、田中さんが演じる十返舎一九の娘の舞の友人として北斎の娘のお栄が絡むってストーリーに何か因縁めいたものを感じていたら、今度はあの「カラフル」の原恵一監督が杉浦日向子さんの「百日紅」を劇場アニメーション映画にするって話が飛び込んできて、何か時代がお栄さんに向かっているなあと感じ取ったり驚いたり。何かあったんだろうか没後何年とか。

 原作の漫画では美人というより牛だか何かみたいな顔をした女性に描かれていて、それでいて才能はたっぷりとあって北斎ですら一目置くような美人画の描き手になっていたけど映画だと、杉浦さんの木訥なタッチではさすがにプリミティブ過ぎると考えたのか強そうな雰囲気はあるけれどまあそれなりに可愛い少女って感じなっている。これが舞台の「きりきり舞い」だと演じるのは南海キャンディーズのしずちゃんこと山崎静代さんで、諸田玲子さんの原作ともまた違って巨漢でぬぼーっとして口が悪くてそれでいてやっぱり芸術にかけては一本気なところがあって、その才能を父親の北斎もちゃんと認めているってキャラクターになっている。見てくれと才能とのギャップ、口調と心情とのギャップがともに感じられて面白いキャラクターに仕上がっていたけど映画だと、そのあたり真面目で利発で才気煥発な少女って感じになるのかな。それもまたひとつの見所になりそう。公開は来年かあ。生きていたいなあ。

 球数も限られていたなあと悩んでいたライトノベル系ミステリーがメディアワークス文庫の新刊の大量投入で急に増えたんであわてて何冊か買い込んでまずは樹のえるさん「レイカ 警視庁刑事部捜査零課」から読んでみた。5人の女性が次々に殺されなおかつその顔を持ち去られるという事件が起きてその中には女性警官もいたりして上司が愕然としていたら6人目の犠牲者まででて茫然としていたところに現れた被害者の妹の少女が、姉の遺体に触れるとなぜかその顔が年上なはずの姉と同じになってしまったというプロローグから始まって、所轄にいた巡査が何か死体を察知する異能というか鋭い感覚があるからということもあってか、本庁に呼ばれそこにある零課というところに配属されて行くと課長代理が盆栽をいじっていて、そして若そうに見えて歳いってそうな女性がソファで携帯ゲームで遊んでた。

 なんだここは窓際どころか離れ小島かと思ったところに現れたのがとてつもない美人のレイカという女性刑事。新米を連れてそのまま出ていっては、早速その新米が能力でもって川の底から顔が潰されている女性の遺体を発見した事件の調査に捜査一課の迷惑そうな顔など省みないで突き進んでいく。アイドルになりたいと頑張っていた少女の身にいったい何が起こったのか。地道に歩いて情報を集めては少女が立ち寄った先とか合っていた人とかを割り出して訪ねていく方法と、そういう時にどう言えば黙りを決め込んでいる相手に情報とかを出させされるのかといったテクニックなんかが分かって面白いけど、本当の刑事がそんなことをやって果たして大丈夫なのか、って思うくらいにすれすれのところを行くレイカ。どうしてそこまで躍起になるのかといったところにも理由があって、彼女の過去とそして今の立場といったものに繋がってくる。

 アイドルになりたいという思いと自分の顔立ちへの不安、そして母親への心情なんかがいりまじって浮かび上がる年頃の少女が抱く感情が、身に迫ってきて切なくなる。そんな感情につけこもうとした奴らの卑怯さに浮かぶ憤り。それを同様に感じたレイカが見せる異能が事件を解決へと導く。そもそもどうしてそういう力があるのか、分からないしどこか超常的でオカルティックでシリアスな刑事ドラマにはいらない要素かもって思うけれど、本筋というか底流にある女性の顔が奪われた事件との関係として、あるいは描かれていくのかもしれない。そっちは最後の最後まで明かされていないみたいだし。

 そんな3本目のエピソードでは、薬の売人だった若い男が2人、相次いで殺された事件からまず犯人として同じ零課に所属する見当たりといって不審な人物を見分け犯罪者の特徴を覚えておくことが得意な陣内という刑事が疑われるもののアリバイがあってとりあえずは解放、けれども事件に関われなくなりそうなところをひとり単独でレイカが動いて誰がいったい2人を殺したのか、彼らに恨みを持っている者がいるなら誰なのかを探しつきとめようとする。そのプロセスはしっかりと刑事ドラマ。なおかつ過去におこった陣内の娘がレイプ事件から少女を助けた一件のあと、行方をくらましていた事件もそこに絡んできて、かつて起こった悲惨な出来事が浮かび上がってくる。卑怯な人間はいるものだなあ。そこでも働くレイカの異能。今度は人を安心させる方へと働いた。そういう使い方もあるのか。ともあれまずは3遍のお披露目となって、次にどんな展開になっていくのか、やぱり「首狩り事件」に挑むのか。続きが楽しみ。


【4月24日】 太気が付いたらマンチェスター・ユナイテッドでデイビッド・モイーズ監督が解任されてて次は誰か分からないけどとりあえずライアン・ギグス選手が監督も兼務して残りの試合の指揮を執るという。すでに順位でもチャンピオンズリーグはおろか欧州リーグにも出られないことが確定してしまっては残り試合をどう戦っても選手たちにやる気は起こらないものなあ。とはいえ残留できるかどうかってところにある選手には野折り試合で出られるかどうかってのが大きな分かれ目で、その意味で香川真司選手は起用されて欲しいだろうけどマタ選手とのバッティングもあるだけに難しい。個人的には是非にアーセナルに行って欲しいんだけれどそっちで果たしてヴェンゲル監督、続投ってあるんだろうか。それもまた問題か。チャンピオンズリーグに出られるかどうかってところがそちも鍵か。

 去年あれだけ大勝しながら今年こんなに勝てないとなるとやっぱり監督の力量ってのが大きく物を言ってると言えそうで、だから解任ともなったんだけれどこれがずっと停滞していた中で監督に就任したサー・アレックス・ファーガソン監督のような時代だったらせめてもう1シーズンくらいはモイーズ監督に指揮をとらせたんじゃなかろーか。エヴァートン時代に3度も最優秀監督に輝いているくらいだから決して無能ではないんだろう。でもそれがマンチェスター・Uでは発揮できなかった。なぜなんだ。ってあたりから解読してそれが可能な状況へと持っていきさえすればチームはまた常勝となったはずなんだけれど、それを待てるほど優雅な時代でもないってことなんだろう、投資の対象となっている今のマンチェスター・Uなだけに。厳しいなあ。そんな厳しい環境で結果を出し続けてきたヴェンゲル監督ってすごいかも。そしてモウリーニョ監督も。どうしてその辺りを呼べなかったのかなあ。監督選びって難しいなあ。

 ポール・マッカートニーは日本でまた聴けることになったみたいで、東京ドームに頑張ってかけつけ2日間を聴いた身にはちょい肩すかし感も漂ったけれど、日本にやって来る機会がそもそも少ないアメリカのオバマ大統領にとって、すきゃばし次郎の寿司は次にまた来て食べられるってものでもなさそうなんで、やっぱりこの機会に味わっておきたかったんだろうなあ、大統領を退いても多忙さは続くだろうし、すきやばし次郎の店主がいつまでもカウンターで握り続けてくれるとは限らない、そんなそれぞれの時間軸が重なったこの瞬間を逃さず要求して行ったことに、彼の幸運を見た感じ。次の大統領では間に合わないかもしれないし。それにしてもあの銀座のビルの地下にある小さな店に大統領が来たとはなあ、警備も大変だっただろうなあ、少し静かになってから行くことにしよう、店の前まで、入るなんて無理だから、絶対に、永遠に。

 「ほしのこえ」をひっさげインディーズシーンから現れては、連日の超満員を記録して自主制作アニメーションといった分野にアートとしてのみならずコマーシャルとしての成功を持ち込んで、後進に道を開いた新海誠さんの伝説の再来なるか。「雨ふらば 風ふかば」「15時30分の拍手喝采」といったアニメーションを作ってそのセリフ劇が醸し出す哀しいけれど暖かくて寂しいけれども嬉しさもあるドラマを感じさせてくれた沼田友さんが、この5月に下北沢にあるトリウッドで「伝える」at下北沢トリウッドという形で上映会を開くという。「伝える」は去年11月にリリースされた映像作品集で発売時に原宿の珈琲店で上映会も開かれたけれど、プロジェクターから小さいスクリーンに映し出されても感動と涙を呼んだ作品群がトリウッドのスクリーンにかかっていったいどれだけの感動を招くのか。今から上映が楽しみで仕方がない。

 見てたぶん誰もが泣きそうになる作品ばかりだけれど、とりわけ「むすんで ひらいて」は本当に心が動かされる。上映会の会場となった原宿にある喫茶店が舞台になっている作品で、女子高生らしい3人がやって来てはお茶してデザートをつついて女子っぽい会話をしているという場面から始まるんだけれど、いつまでも友だちでいようねずっと仲良くしていこうねといった関係は関係として維持されながらも時間という残酷で厳密な要素がそこに乗って3人を翻弄する。それに流されそうになることもあるし潰されそうになることもある。でも結びついた3人はずっとずっと3人であり続けるというそんなストーリーから友情といった言葉で簡単に表せないくらい、強くて深い絆といったものがあるんだあという感嘆、それらをもっている人たちへの羨望が浮かんでくる。自分にはそんな関係を持った人がいないだけになおのこと。誰もが絶対に何かを感じ取る作品だけに、大勢の人に見て欲しいなあ。

 とにかく脚本が素晴らしくってそれを演じる声優の人も良くって見ていてぐいぐいと引き込まれるのが沼田友さんの作品の特徴。なるほどアニメーションとして見たときに新誠さんしかり、吉浦康裕さんしかり石田祐康さんしかりといった商業で活躍を始めているインディーズ出身のアニメーション作家と比べると萌えたり誘ったりする要素にはちょっと乏しいかもしれない。かといってアートとしての凄みからもちょっと離れている。3DCGで作られたキャラクターはぎこちなく背景はシンプルでまるで1980年代のCGを見ているかのよう。でもそんなキャラクターたちをよく見ると仕草であったり視線であったところに実に感情が表れている。シチュエーションが描かれている。そんな演出力とそして脚本の力を誰か他人の作品で活かしたらどうなるか、ってのはかねてからの興味だったけれど、4月から沼田さん、そうした活動も始めていくことにしたらしい。どんな脚本を書くか、それがどんな映像になっていくのか。楽しみなので誰かお仕事、回してあげて下さいな。ここに挙げた幾つかの作品を見ればその力の程は分かるから。絶対に何かを感じるから。

 すごいすごいすご過ぎた4DX。椅子が動いて風が吹いて霧が漂って水が噴き出して匂いまで薫ってそして耳元では空気がシュッシュと音を立てる。それらがスクリーンに映し出された映像と連動して起こるからもう見ているこっちの臨場感たるや半端ない。高速道路の上で繰り広げられるカーチェイスがそんな4DX化された映像は車がぶつかる振動があって揺れがあってともうテーマパークで何かライドに乗っているよう。それが5分とかじゃなく映画だったら2時間は続くと思うと相当な体力と覚悟で見に行く必要があるじゃないかと思ったシネマサンシャイン平和島における「4DXシアター」の発表会見。都内にようやく登場した訳だけれどそこでの体験を踏まえるなら、「パシフィック・リム」の4DXを体験しようと名だたる映像クリエーターのみなさんが、遠く名古屋にある4DXの施設まで見物に行った理由もよく分かる。なおかつそれが都内の平和島とか大森海岸から歩いて10分ほどの施設で体感できるようになる。行くしかないよなあ。当面は「アメイジングスパイダーマン2」だけれどいずれ「パシフィック・リム」もやって欲しいなあ。

 ニコラ・テスラとトーマス・エジソンの確執は科学と発明の歴史においても有名な話。そんな2人の因縁が土台にありながらも現実とは少し違う世界を描いたのが兎月竜之介さんによる「流星(ほし)生まれのスピカ」(集英社スーパーダッシュ文庫)でこの世界ではテスラとエジソンは流星エンジンというものをめぐって争いを繰り広げてはやっぱりエジソンが勝利しテスラはエジソンの野望の前に排除されてしまってそして、エジソンの会社は流星を独り占めして世界を牛耳るくらいの規模になっていく。そもそも流星エンジンとは何なのか。それは上空に浮かぶ流星が地上に落下して来てばらまかれた破片を使った動力のこと。なぜか流星にはそうしたエネルギーが秘められていて、エジソンが作った流星エンジンはその力を取り出すことによって人類に利便性を与えている。

 それだけに高値で取り引きされていてそしてエジソンの会社は権力と財力を使って流星エンジンをかき集めようとして、その日も落ちてきた流星を追って現場に駆けつけたもののそこに目当てのものはなかった。というのも直前に、シンという少年がアルバイトで使わせてもらっている流星バイクを走らせ落下の現場に行ってそこで、とんでもないものを見てしまったから。結晶に入った少女。その少女をエジソンの会社が追っていると知り、かつて流星の落下で巻き添えになって両親が死に、その時にエジソンの会社が助力をしてくれなかったことに憤っていたシンは少女を連れてその場を逃げる。けれども追ってくるエジソンの会社。いったい少女は何なのか。どんな秘密があるのか、ってところでテスラとエジソンの確執が浮かび上がり少女の正体が明かされそして、シンという少年の血筋も分かって2人はテロリストたちとも共闘してエジソンの会社の打倒に向かう。スチームというよりメテオなパンクといった感じの世界観。ボーイ・ミーツ・ガールが成就した先にまだ暗躍する何者かがいそうなだけにこれからどんな戦いがあって、そしてそもそもどういう世界なのかが見えてきそう。楽しみにして読んでいこう。


【4月23日】 すでに原作は完結しているからストーリーがどうなるかは知れ渡っているとは思うけれど、僕みたいに原作は途中までであとは映画の進行でもって初めて観ている人間も少なくないんで「機動戦士ガンダムUC episode7 虹の彼方に」ついて詳細は述べない。ただ言えることは激しくバトルしていてガンダムパンチにガンダムキックにガンダムチョップなんかが炸裂しては敵を叩きのめし、そんな敵の攻撃ガンダムシールドで防ぎガンダムバリアーで退けていく「ガンダム無双」にも匹敵するような激しいシーンが観られるからお楽しみに。あとはオードリーことミネバ・ラオ・ザビが宇宙服を着ている後ろ姿か。やっぱり女の子だけあってお尻が大きいんだよなあ。ラストシーンでは胸も結構ありそうに見えたし。このあとどんな子になっていったんだろう。そこだけでも描いて欲しいなあ、福井晴敏さんには。

 真面目な話をするなら「機動戦士ガンダム」で半ば戦局を傾けるヒーローに理屈をつけるために持ち出されたような「ニュータイプ」という存在について、1年戦争よりはるか過去へと引き戻されてその登場への希望と予見が示され、そして100年の後へと飛ばされそこでは呪いと脅威の存在となって立ちふさがりながらも、さらにその先へと人類が向かうための可能性なんかを示す存在として描かれているのが「機動戦士ガンダムUC」というシリーズ。富野悠由季監督のアイディアを前後に時間を延ばしてくるりと包み込んで宇宙時代の人類の在り方を描いてみせた。ニュータイプの存在を唱えて勢力を伸ばしたジオンが、なぜ認められず弾圧され排撃されなければならなかったのかも、地球連邦の中に謀略なり過去の遺物なりを想定することで説明がついたような。けれども時代は変わり歴史は動いて未来は開けた、その後を想定するのは楽しいけれどでもやっぱり、存在は忘れ去られて混乱は続くんだろう、人が簡単に変われる訳はないんだから。そんな諦観への答えを果たして富野監督は「ガンダム Gのレコンギスタ」で出してくれるのか? 見守るしかないその思想を、哲学を、物語を。

 枯れたのか、目が慣れたのか、趣味が変わったのか。慣れたって言うのは実物なんて終ぞ見てないからあり得ないんだけれど、実物以外ならネットから幾らでも見られるようになったってことがあって、やっぱり珍しさはなくなってしまったのかもしれない。それこそ昔だったら、Y字の縦棒がちょいV字に食い込んでいる記号を見ただけで昂奮に悶えたものが、今ではだからどうしたといった感じ。だからなんだろう、観ても昔ほどの昂奮とか官能とか衝動は覚えなかった、上野の東京都美術館で開かれている「バルテュス展」。その分落ち着いて観られたって点では良かったけれど、それだとどこまであの画家の真価を味わえたのか。歳を取るのは素敵だけれど哀しくもある。バルテュスの場合はそんな衰えがなかったからこそ描き続けられたんだろうなあ、だからこその芸術家なんだろうなあ。

 メインビジュアルになっている、少女が片膝を立ててスカートの奥までのぞかせている絵とかはうん、悪くはないし観ていていろいろと想像はするし、何よりこの絵がメインビジュアルとして街頭とか上野公園の中とかに堂々、飾られていることにほくそ笑みもする。昔だったら公序良俗がとうとか言われただろうから。今だって言う人もいそうだけれど、それを言うならテレビで堂々、スカートの下をひらひらさせながら歌い踊っている大集団の方をまず何とかすべきであって、たかだか絵について言うのはお門違いも甚だしい。その意味では、世間が慣れすぎてしまった感はあるけれど、越えて良い一線はまだ絵は越えていない。それを一緒くたにしつつ絵ばかりをあげつらう面々がいるから困ったことになっている訳で……。話がそれた。バルテュスだ。

 そんな少女の絵には、いろいろと胸元とかのぞいていたり下半身とか見えていたりするのもあったけれど、わざとおとなしめの絵をセレクトして並べたのか、それともバルテュスの作品が元からそうだったのか、1993年に東京ステーションギャラリーで開かれた展覧会を観て、いろいろと感じた昂奮だとか官能性があんまり伝わって来なかった。前はもっと少女の神秘性と官能性に踏み込むような絵が多かったような気がするんだけれど、気のせいかなあ、今回とそんなに変わらないのかなあ、当時の図録とか買ったような買わなかったような記憶があるけど、部屋のどこにあるか分からないから見返せない。そんな辺りの比較をやっている人っていたっけ? 美術手帖とかどうだっけ? 調べてみたいそのうちに。

 少女というより大人の女性がほぼ直立している絵で、性器まで描かれていたものがあったけれど、世間にヘアヌードってのが認められてしまった今に思えばツルツルしていようがもじゃもじゃしていようが、それが普通なんだといった認識が大多数の頭に備わってしまっている。観て思うのは、女性という存在が持つボディバランスとか体の線とかいったものの豊潤さとか柔軟さとかいったもの。それらがいろいろと伝わってくる絵があって、観ていて暖かい気持ちになれた。バルテュスを観て戦慄せずにそっちに行くとは。これが枯れたということなのか。感性が摩耗したということなのか。まあそれもひとつの発見か、バルテュスという画家の持ち味の。

 そういう面で言うなら良かったのが風景画で、田舎に引っ込んでいた時に描かれた田園とかの景色のスーラみたいでセザンヌみたいだけれどしっかりバルテュスな絵にその気質と才能を観た。時代が時代ならそっちで評価されたかも。でも20世紀は画としての美醜よりモチーフの社会性なり衝撃性なりが取りざたされた時代。少女の持つ神秘さなり官能性なり危うさなりをそこに乗せ、衝動を引き出す方へと向かい探求し到達したからこそ20世紀最後の画家としての名を得て今なおこうして展覧会が開かれるくらいの栄誉を得ているんだろう。21世紀では逆に古すぎる。今の20代がバルテュスを観ていったい何を思うのか。そういう人たちが20年後にさらに何を思うのか。聞いてみたい。今に。そして20年後に。

 ネイルシールってのがいったいどの辺りの年齢層に受けているのか分からないだけに、タカラトミーアーツが新しく発売することになった「ルミデコネイル」って製品がどこまで受けるのかが見えないんだけれど、だからこそ理解の一助になるかもと渋谷にあるパルコの公園通り広場前で開かれた「ルミデコネイル」の発売記念イベントを見物に行く。商品を説明するなら爪に貼るシールでそこにLEDがついていてピカピカと光る。でも電池とかは入っていない。何それ生体電流でも拾って光っているのと思うとなかなかサイバーだけれど、実態はFelicaっていうかおサイフケータイなんかが使える携帯が放つ電波なり、そうしたFelica系のカードを使う時に交信される電波なんかを拾って光るんだとか。

 つまりはそのネイルシールを指に貼ってケータイを持つと爪が光ったりするし、ICカードリーダーを使う時なんかも爪が光って観ている人にあれ何だってちょっとしたアピールができる。それが嬉しいのかどうかっていう心理はだから、ネイルに色を塗ったりデコを入れたりする心理とも重なるんで正しいところは分からないけれど、手軽に張れてその上でプラスアルファまであるってことでデコりたい人には関心を持たれるんじゃなかろーか。サンプリングの場面でもただ物珍しさだけでなく、可愛いかもともらっていく女性とか割といたし。さてどうなるか。別にICカードに貼るタイプのものもあってこれを貼ったカードをリーダーにかざすとピカピカ光ってちょっと楽しい。ネイルなんて付けられない男子もこれなら遊べるし、企業のノベルティとかで配っても良さそう。どんな展開を見せるのか。見ていこう。見るだけだけど。


【4月22日】 内覧では来ている人は基本的に関係者としてのプロか、報道としての素人しかおらずファンの気質といったものがどの辺りに向かうのか、掴みづらいってこともあるんでやっぱり実際の現場をのぞいておきたいと、西武百貨店池袋本店で始まった「宇宙戦艦ヤマト2199原画展」を池袋まで行って見物。いつも劇場で「宇宙戦艦ヤマト2199」が上映される時にブルーレイディスクを買うための行列に並んでいる姿を見かけたお姉さま方がいて、なるほどこれが本当のファン気質なんだとその熱量に感嘆する。封切りはたいてい土曜日だけれど今日は火曜日。それでいてしっかりと駆けつける。凄いよなあやっぱり。

 あとはやっぱり版画の人気ってところで、会場にいた担当のお姉さんなんかから様子をうかがうと、展覧会の入り口に飾ってあった麻宮騎亜さんによるヤマトを真正面から描いた絵が元になった版画とかに割と人気があるみたい。あとメインビジュアルになっている地面に埋まって主砲と艦橋だけがのぞいているヤマトとか。その存在感がぐわっと迫ってくる絵が、やっぱり飾るのにふさわしいって判断なんだろうか。個人的には加藤直之さんが描いた、メルダ・ディッツとあと誰だっけ、パイロットが2人戦闘機をバックに向かい合って立っている横長の絵が、キャラもあって戦闘機も描いてあって構図も美しくって欲しかったけどお金がないんで図録で我慢。原画は飾ってなかったなあ。どこで描いたものなんだろう。

 あと内覧会ではまだ未整備な箇所があって見られなかった場所に、テレビ放送版「宇宙戦艦ヤマト2199」のエンディングに使われた縦長で下から舐め上げていく絵の麻宮騎亜さんによるラフ画が展示してあって、見ると人員をいろいろと配置しながら試行錯誤もして最終形になっていったんだってことが分かって面白かった。真田志郎と新見薫のあたりの配置はラフのまんまだったかな、それも段階があったのかな。さらに面白かったのはそうやって描かれた麻宮さんのラフ画のキャラクターが、森雪もメルダ・ディッツもだいたい麻宮さん顔になっているってところ。「彼女のカレラ」で轟麗奈が茫洋としているような、あんな表情というか。それが使われる絵になるとしっかりキャラ絵になっているというその変換ぶり。もしも麻宮さん絵でクリーンアップされたらどんなんだったか気になった。「機動戦艦ナデシコ」が「遊撃宇宙戦艦ナデシコ」になった感じかなあ。うん。

 西条未来の耳原画をたっぷりと味わい、それから原田真琴ちゃんの下着でターンな連続原画で遠心力からたわみ伸びる胸の作画っぷりをしっかりと確認。後に図録にも入っていたんでそっちでも堪能しつつせっかくだからと西武池袋駅の切符売り場まで出向いて、「宇宙戦艦ヤマト2199原画展」の記念乗車券を地球版とガミラス版のそろいで買う。地球版には沖田十三艦長に真田に古代守に森雪に山本玲が描かれ、ガミラス版にはデスラーにセレステラにドメルにメルダと来てゲイルが描かれていたりと、なかなかユニークなセレクション。でも考えてみれば地球版でそこに新見は無理だし、原田も岬百合亜も無理だもんなあ、でもってガミラス版でスターシャは絶対無理、ってことはやっぱりこの面々か。付録のポストカードは地球版が艦長系でガミラス版がドメル艦隊の強者たち。船乗りには嬉しい絵柄だけど、でもこれ列車の切符なんだよね。うん。

 韓国での旅客船沈没事故で、行方不明者や死亡者の家族が韓国の大統領や閣僚や官僚や政府の出遅れや間違いを誹り罵倒するのはまったくもって正しいんだけれど、それを事故とは関係のない日本のメディアが、被災者たちへの追悼とか進まない捜索への苦悩とかをすっ飛ばして、ただ単純に韓国の大統領なり国を非難したいがための文脈で、取りあげ報じるのはとてもとても恥ずかしいことだよなあと、オレンジ色の夕刊紙あたりが連日書き飛ばす記事の見出しなんかを見て思ったりする昼下がり。それはそれとして、韓国ではこの一件が相当に堪えているようで、どこかに対抗するかのように背伸びし自国の優位性ばかりを喧伝していたような節があるメディアの論調が変化して、立ち止まって足下を見ていろいろ追い付いていないことがある点を自省し、考え直そうとしている。

 中央日報や朝鮮日報といったメディアが社説で、自国の経済発展の速度に追い付いていない安全への配慮なんかについて既に指摘していたけれど、その後に書かれる「コリア大丈夫か?」なんかをはじめとしたコラムや記事が続々と登場。追い付き追い越せあるいは既に追い越した感を漂わせながら書いていた日本を挙げて、どういう具合に安全への配慮が成されているかをちゃんと調べて書いているコラムも出てきた。沈没したセウォル号と同じ会社が運航していたフェリーが事故に遭った時、船長や船員がどういう態度をとって乗客たちを安全に非難させそして最後に自分たちが退船した話を紹介していたりとか。なるほど感情において彼の国が今なおいろいろと引きずりそれを原動力にするためになお煽った結果、ちょっぴり理不尽さも混じった意識が少し前まで漂っていたけれど、今回の一件でそうした自尊がまず吹き飛び、冷静になって見渡して何を成すべきか、そして何が成されていなかったかを考えた時、改めるべきことが見えてきたってことなんだろう。

 対馬から仏像が韓国へと持って行かれて、それを戻してと頼んだら向こうの裁判所が戻すのは待ったといった判断を下した一件について、韓国野のメディアが「日本から盗み出した仏像、戻さなくては…」といった記事を載せたのは、このタイミングを見たわけじゃたぶんないだろうけれど、お国のためであり日本を追い越すためなら何をやっても何を言っても正しいとされるような空気にちょい、待ったがかかった状況になっているだけに、囂々の非難は起こっていない様子。ここから“愛国無罪”的な空気が沈静化し、省みてやっぱり盗んでしまったのは良くなかったかもなあ、って考え直せるようになっていけば、両国の間に対話も生まれ交流も戻ってくると思いたい。

 とはいえ、ボールを投げられた日本にはまだ、凝り固まった思考で非難のための非難を繰り返している勢力がいたりするから難しい。日本製のフェリーだから日本に賠償を求めてくるぞ絶対に、って言ってた人が結構いたもんなあ、でも今のところそういう声なんてまるでなし。向こうが冷静になったのかそれともちゃんとわきまえているのに日本が邪推を重ねたのか。いずれにしてもまずは行方不明者の捜索が進み、事態が収拾されることを願いつつ、これを機会に安全で安心に暮らせるような社会をちゃんと構築していくことを、政府も役人も為政者も国民も考える風潮が両国にしっかりと定着することを願いたいもの。日本は大丈夫っていうけれど、韓国のように発展に伴わなかったのとはまた違って、発展が行き詰まった果てにコストをカットする必要が生じて、そこで安全性を犠牲にするような風潮が、出ないとも限らないし実際に起こりつつあるから、交通機関の人減らしとか流通現場の人減らしとかって話が聞こえてくるように。どうなってしまうんだろう。

 かをる子様vs蓮子様。2大怪獣の激突に朝のお茶の間も騒然としただろう「花子とアン」だけれども初戦はさすがに年上で経験も豊富な蓮子様が食事に出てこいと怒鳴り込んだかをる子様に食べたくないからと言ってドアをばたんとしめて追い返して蓮子さんのTKO勝ちといったところ。これで終わるとは思えないけど歳も身分も上っぽい蓮子様を相手にいったいどう切り込む? そこが今週の見物になるのかな。一方で花子は蓮子様に振り回されっぱなしで部屋に連れ込まれてはワインを薬といって飲まされべろんべろんになって真夜中に歌を歌いはじめた。見つかったら大事だけれどこれくらいでどうにかなるタマではないのは過去のエピソードが証明している。蓮子様も決して意地悪ではない、と思いたいけどと分からないけどとりあえずそう思いつつ何か擁護の手をさしのべ2人でこの牢獄のような場所を楽しく華やかな場所へと変えていくことになるんだろう。続きが楽しみになって来た。こりゃあ人気、出そうだなあ。


【4月21日】 月刊コミック@バンチの2014年6月号に載ってた吉本浩二さんによる勝新太郎さんの評伝漫画「カツシン 〜さみしがりやの天才(スター)〜」が今回も凄かった。東京都美術館で展覧会が始まったバルテュスとの交遊について描かれたエピソードで、日本人を妻に迎えるくらいに日本が好きだったバルテュスは来日時に「兵隊やくざ」を見て勝新太郎という役者に惚れ込み「座頭市」のシリーズをビデオでそろえてスイスにあるホテルを改装したアトリエのある家でも見ていてとりわけ「座頭市 二段斬り」が大好きらしくて小林幸子さんが唄う歌まで覚えて日本語で唄っていたとか。

 それだけに日本から篠山紀信さんがバルテュスを撮りに来て、これは確か後に写真集にもなったんだけれど、その時にバルテュスに会いたいと言いそして翌年に東京ステーションギャラリーでバルテュス展があって来日した時に、1日空いたオフを箱根とかにもいかずイチさんこと勝新太郎に会いたいと言って篠山紀信さんを介して呼んでもらって会食を果たしたという。方や世界的な画家でこなた日本が誇る大スター。とはいえ勝新太郎さんにはバルテュスという画家がどういう人かはまるで知らず、会いに行く義理もなかったんだろうけれど何を考えたか何かを感じたか、その会食にやって来て自分は怒れる老人だというバルテュスに俺もだと返して意気投合したという。

 そして勝新太郎さんが保釈中で日本から出られない身の上だったにも関わらず、スイス政府を動かしスイスへと正体をしてアトリエで再開しては三味線を弾いてもらい座頭市の演舞を拾うしてもらったとか。嬉しかっただろうなあバルテュス。そして勝新太郎さんもそんなバルテュスを世界的な画家と知ったか感じたか、持っていったジーンズで筆を拭いてもらい、それを大事に持っていたという。そんな交遊が調べるとバルテュスの映画にも残っているようで、座頭市の着物を羽織ったバルテュスの前で勝新太郎さんが三味線を弾く映像が残っていた。これって東京都美術館の「バルテュス展」に行くと見られるのかなあ、歳を経た老人ともいえる男たちの、それでも気持を通じ合い、分かり合える楽しさって奴を感じてみたいなあ、自分にはおそらくそういう出会いはもうないだろうから。

 何か明日から「宇宙戦艦ヤマト2199」の原画展が始まるってんで池袋の西武に回っていろいろと見物。とりあえず西条未来さんの耳の原画があったんで心から嬉しかった。あの耳が画面に出るたびに何て美しい耳なんだろうって思ったもんなあ、その割には良いところは全部森雪に持って行かれてしまった。可愛そうに。もしも続きがあるなら是非に西条未来さんには大活躍をしてもらいたいんだけれど、いよいよ公開が12月に決まった劇場版「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟」にはそのまま登場して搭乗してくれるんだろうか。しなければならいと断じておく。そして半ば総集編的な映画「宇宙戦艦ヤマト199 追憶の後悔」ってのが先んじて10月に公開されるみたいだけれど、そこでは是非に西条未来さんを大フィーチャーして森雪の変わりのヒロインに仕立て上げて欲しいもの。お願いします監督の人。

 キャラクター系では酔っぱらって暴れ回る下着姿の真琴ちゃんがいたりスターシャに精を搾り取られてぺたんと座り込んだ古代守がいたりと割と名場面とか揃ってたかなあ、口をひょいとひんまげたユリーシャとかもいたし。メカニック系では設定とかもあれば細かい絵とかもあったけれどガンダムでもメカよりキャラに走ってガンプラとかにまるで燃えなかった人間なんで割とスルー。でもそっちが好きな人にはそっち系がいっぱいあったんで楽しめるかも、何しろ100分の1ヤマトの巨大模型とかも置いてあるし。中央部がぼてっとして先端がしゅっと細くなってなかなかのかっこうよさ。サイズだけならイベントで展示してあったのもそれないの大きさだったんだけれど、バンダイのプラモデルとかと同じモデリングで作られた今回はよりヤマトっぽさが増している、らしいけどそれもあっぱり分からないのだった。第三艦橋は格好良かったぞ。

 グッズ系では西武での展覧会ではおなじみなイラストを元にした版画もあって中に加藤直之さんが描いたメルダ・ディッツとそれから誰かが向かい合って立っている絵とかはなかなかのかっこうよさ。図録には入っていたんだけれど原画は飾ってなかったなあ。ほかにも麻宮騎亜さんが描いたヤマトとか草薙琢仁さんが描いたデスラーとスターシャとかの版画もあってファンなら結構ほしがりそう。萩尾望都さんの時みたいに10数万円とかって値段のものはなく高くて9万円で安いのは5万円とお買い得。それでサインも必ず入るんだからファンにはお宝になるだろうなあ。僕は加藤さんのが欲しいと思った程度だけれどそれは図録の方で我慢しよう。売店にはあと「イスカンダル到着記念饅頭」とかデアゴスティーニが通販していた「ヤマト・メカニカルイラストレーションズ」もあって買い逃していた人にはこれがチャンス。是非に行こう。5月7日まで。

 クズでなければゴミでゴミでなければカスと言おう敢えてでもなく必然として。どこかの新聞の関西版のウェブサイトに国際ビジネスマンとやらが寄稿していてそこであろうことか中華・朝鮮民族をチンパンジーに例えている。そんな寄稿につけられた見出しが「近くて遠い『反日チンパンジー・中韓』より、遠くて近い『「親日・インド』を大事にすべし」。もしもこんなコラムが朝日新聞のウェブサイトに掲載されたらたちまちのうちに大炎上して下手したら社長の首だってとびかねない。ちょっと前にも小保方晴子さんに本人に成り代わって勝手に書いたコラムが大炎上して即座に削除されたっけ。それくらいに見ている人が多く非難だって集まりやすいんだけれど今のところ「反日チン場ジー」の見出しや記事が問題になっている風がないのはそれだけ世間に対する影響力が乏しいからなんだろうなあ、媒体的に。

 擁護じゃないけど理解に務めようとするなら類人猿にはチンパンジー系とボノボ系があってチンパンジーは攻撃的でボノボ系は友好的だという分類があるそうで、そんな気質を中国やインドや日本や朝鮮に当てはめようとしたものだってことになるものの、そもそもが類人猿は別に人間の先祖ではなく別系統で進化していった果てにあるだけのいわゆるお猿さんに過ぎない。そういうものに人間を例えることがまずもって失礼であり差別的である上に、日本にとって友好的かどうかだけで相手を分類しているだけで気質について統計的に分析したような節はない。だいたいがアーリア人種のインド人がモンゴロイドの日本人とどうして類人猿的気質では同じになるんだ。そこがまず分からない。

 というか、どうしてインドが友好的で愛情的だって言えるのか。自分が得する相手にはそういう見せるかもしれないけれど、国内的にはカーストの問題があって差別が酷く女性への攻撃も凄まじくっていろいろと問題が起こっている。そんな人種を挙げて日本に友好的だと語りたいのは、ひとえに中国や韓国といった相手を違うものだと誹りたいという意図があるからで、誰かをおとしめるために誰かを持ち上げているだけに過ぎない。そんな差別と罵倒の材料に使われて、インドの人も良い迷惑だろうなあ。こういう雑な論陣を平気で張ってそれで国際ビジネスマンと名乗れるんだから世間は何て広いんだ。まあいい個人で何を考えようともそれは自由だけれど、どこか差別的なニュアンスを含んだコラムを載せてそれに差別的にしか読めない見だしを掲げてウェブサイトにながすメディアはやっぱり拙いだろう。でも改まる節がないのは拙いと気づけないほど完成が濁っているか、拙いと教えてくれるような読者がいないかどちらかか、あるいは両方か。どっちにしても困った話。参ったねえ。


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