縮刷版2014年3月中旬号


【3月20日】 何年ぶりかの賀東招二さんによる「COP CRAFT4」(ガガガ文庫)が登場して読み始めた冒頭にチラリと前フリがあってもしかしたら今回のネタはこれかなあと思ったら案の定そのままそれだったとう。別に良いんだよ、そういうネタは大好きだから。でもって繰り広げられる痴態もそれが元になったイラストも素晴らしいから。でもなあ、そのワン・アイディアだけで1冊突っ走るとは思わなかった。というか普通のライトノベルの1冊分には届かない長さで別にサイドストーリーみたいなのを2編ほどいれてもそれでも1冊分というにはまだ薄い。良いのかそれで。

 面白いから良いのだ、って言いたいけれどでも、やっぱりもうちょっと入り組んで謎めいてそして解決編もしっかりとあるバディ物のサスペンスファンタジーって奴を読みたかった。篠房六郎さんがイラストを描いていた前のバージョンだったらそういうサスペンスも平気だったけど、村田連爾さんに代わって萌えを求めるようになってしまったのかなあ。まあそれだからこそ今回のネタも可能だったんだけど。篠房ティアラでやられると罪悪感が生まれてしまうからなあ。今度はいつ頃出るんだろう。「甘城ブリリアントパーク」がアニメーション化とかなって人気も出て来たから後回しになってしまうかなあ。それでも続いてくれればオッケーだからまた3年後でも出して、出来ればもうちょっとだけでも分厚く。

 もはや案内など届くような身分ではない、窓際以下の窓外の提灯持ちだから発表会見を見に行くなんてことは出来なかったけれど、やっぱり気になった「機動戦士ガンダム」の35周年を記念するような発表の諸々。そこから出てきた「ガンダム Gのレコンギスタ」って企画には御大の富野由悠季さんが総監督として名前が挙がり、キャラクターデザインに吉田健一さんが入っていたりとなかなかの布陣で「OVERMAN キングゲイナー」以来の何か新しいことをやってくれるんじゃないか、って期待感がむわむわと浮かぶ。

 なるほど一見すると「機動戦士エウレカセブン」みたいな雰囲気があって、ガンダムがサーフボードに乗って空を飛んだりしないか心配になるけれど、一応は宇宙世紀の延長めいたところを起点に描くそうなんで、異世界だの異星だのといったものにはならないと信じよう。それは「機動戦士ガンダム00」が劇場版で既にやっているから目新しくないし。だから「Gのレコンギスタ」では今の富野さんが考えるガンダムというものの意味って奴を存分に描いてくれたらそれで良い。「キングゲイナー」とか作っていた時のように、楽しくて激しくて前向きな気持ちに乗せて、宇宙を駆ける少年少女たちの物語って奴を。

 折しも4月からは「THE」 NEXT GENERATION パトレイバー」という形で押井守監督が考えるパトレイバーってものの意味をとことんまで突き詰めた実写作品がスタートする。もう何十年も昔のコンテンツを引っ張り出してきて、その知名度にあやかろうって魂胆があるとしたらがっかりだけれど、この2人に関しては、そして「ガンダム」と「パトレイバー」に関しては、何度蘇って来てもその度にちゃんと楽しめる。土台があって骨組みもある上にクリエーターの想像力って奴がのっかり果てしない可能性って奴を見せてくれる。そりゃあ失敗もあるだろう。独りよがりに走って誰もついてこられないことだって起こるだろう。それも含めて富野監督であり押井監督の魅力。ダメならダメで「機動戦士ガンダム」を見れば良いし「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」を見れば良い。ちゃんと残してくれたものがあるんだから、その先に何をしようと彼らの権利。僕たちはただ受け止めるだけだ。

 そしてもう1本は安彦良和さんが漫画で再度描いた「機動戦士ガンダム」の物語を再びアニメーション化けする「機動戦士ガンダム THE ORiGIN」で、プロモーションなんかを見ると1年戦争が始まるはるか以前、ジオン・ズム・ダイクンがジオン共和国を立ち上げたものの意思半ばで倒れそしてキャスバル・レム・ダイクンこと後のシャア・アズナブルとアルテイシア・ソム・ダイクンこと後のセイラ・マスがザビ家に囲われどうなるか、って辺りから始まりそう。なるほどそこは「機動戦士ガンダム」では描かれていなかったから。でも1年戦争が始まって後をまた映像かしても、「宇宙戦艦ヤマト2199」ほどの改変はちょっと無理。基本は漫画も第1作に沿っていたから。それでも映像化していくのかな。半年に1作で1時間のペースで全9話くらいでやったとしても4年から5年かあ。追いかけるのも大変そう。でもやっぱり見られるんだろうなあ。それがガンダム。やっぱり強いよこのタイトルは。

 ボイルドエッグズ新人賞からデビューした徳永圭さんの待望の3作目になるんだっけ、その名も「その名もエスペランサ」(新潮社)ってのが出たので読み始めたら面白くってページを繰る手が止まらずそのまま一気に読み終える。新卒で入った会社がつぶれて以後、派遣として活動して来た苑子(えんこ)さん29歳が、直前に勤めていた商社で色々あって休息しいたら、派遣会社から乞われて暮らしているアパートの近所にある自動車エンジンのメーカーで働くことになった。英文の事務ということで行ったら何か違う。いきなり工場を案内されて、部品チームというものの面々に紹介され、そして部品整理の仕事なんかを頼まれる。

 どうやら外国の自動車会社向けにエンジンを開発納入するプロジェクトに、参画させられることになっていたらしい。おまけにエンジンい組み付ける部品の調達なんかもさせれることになってこれは何だと驚きつつ、それでも即座に辞める訳にもいかず、いずれは海外の会社とのやりとりで英文事務の仕事も回ってくると思い、そのまま部品チームの仕事を始めてやっぱり壁にぶちあたる。そりゃあ無理だよ、エンジンの構造も生産の現場もまるで分からない人がいきなり放り込まれて出来る仕事じゃないよ。

 出入りの会社との折衝なんものまで任されたけれど、部品を納入したりエンジンを搬出したりする物流会社の担当は頑固で新米に厳しく、電話をしただけで苑子は怒鳴られ、先輩に連れられその会社まで言ってもやっぱり理不尽に失跡され、理不尽だと口答えしたからよけにこじれて以後大変。悔しさと悲しさに涙するけれども実際、それで回らないと回らない仕事ならどうするか。やるしかないんじゃないか。格好良さなんて必要ない。自分のこだわりなんて脇に置け。まずやるべきことはやらなくてはいけない仕事。それを地道にこなす大切さってものを突きつける。

 気持ち的にはスーパー派遣社員が見知らぬエンジン生産の現場に入って、大いなる才能を発揮しては威張る男や権勢を誇るお局さんたちを蹴散らし、プロジェクトを大成功に導き去っていく、なんてサクセスストーリーに溜飲を下げたかったかったと思う人もいるかもしれない。理不尽な女性蔑視の言動が多々あったりして、読んで不愉快に思う人も結構いそう。でも、男女の区別なく仕事は仕事としてどう取り組むかって原点も、一方ではしっかりと問い直しているようで捨て置けない。苑子自身、振り返れば失敗も多くそれが大事にも発展する。派遣だから、英文事務が本業だからと言ったところでそのポジションにあるならこなしていて当然の仕事。それをこなして始めて文句も言えるのだ。その名もエスペランサ」という小説からから滲むのは出来ることはどこまでも精一杯にやる大切さ。その上で考えよう。自分には何が出来るのかを。そして何をやらなければならないのかを。

 設定にある自動車メーカーではなく系列なり独立したエンジン専業メーカーというのを日本で見渡すとあまりなく、海外の自動車メーカーに自製のエンジンを外販しているメーカーもあまり聞かない。今は日産自動車の100%子会社になったけれど、昔は自前でオート三輪なんかも作っていた愛知機械工業くらいかなあ、エンジンの生産をやっている企業って。そこはだから想像力。トランスミッションとかブレーキといった部品ではなく、自動車のエンジンという夢のカタマリだからこそ働く人の熱意も生まれ、現場も本社も真剣にその成功に向かって侃々諤々としながらも進んでいこうとするんだと考えよう。口だけの本社がどこか悪者になっているようなところもあるけれど、最後の段で案外に格好いいところも見せてくれるから悪し様には言えない。誰も彼もやっぱり夢の実現に向かって走ってる。だから成功してよと手に汗も浮かぶ。そんな小説。読めば働こうって思えてくるよ。


【3月19日】 クリミアのウクライナからの独立が決まったと思ったら、ロシアへの編入が決まって何かめまぐるしい昨今。元よりロシア系住民が多く暮らしウクライナ編入前はロシアに帰属していたこともあって気分的には原点回帰といったところなんだろうけれど、持って行かれるウクライナにとってはやっぱり貴重な領土であり、黒海に面した場所でもあってそう簡単には手放せない。とはいえ止められるだけの軍事力はなくそれでも行使しようとしたらロシアとの間にいろいろと悶着も起こりそう。気になるのはNATOの動きだけれど、セルビアからの独立を求めるコソボをセルビアがいじめたといってセルビアを爆撃したNATOが、ウクライナの件ではクリミアの独立を認めずロシアと対峙するこの矛盾。外交の二枚舌っぷりが見えて興味深いけれど本気で諍いがおこればセルビアの比じゃない混乱が起こりそうなだけに注意が必要。とはいえ既定路線ではクリミアのロシア入りは避けられそうもないし……。歴史がまた動く。

 大量のナポリタンスパゲッティがパンの間に詰め込まれたナポリタンドッグで知られるのか、それほど知られていないのか確かめたことはないけれど、食べるとそれ1本でお腹いっぱいにしてくれる食べ物を売ってる、大手町ビルのリトル小岩井ってスパゲッティ屋さんが、新しく「揚げ焼売ドッグ」なんてものを作り出したみたい。ホットドッグならウインナーが挟まっている部分に、揚げた焼売が4個ほど、挟まれていてそれにたぶんマスタード系のマヨネーズか何かがかけられているから、食べると芥子で焼売を食べている感じがしつつ、しっかりサンドイッチの味もするという。ナポリタンドッグには及ばないけれどなかなかな食べ応え。焼きそばパン的な位置づけになりそうな調理パンと言えそう。焼売があるんだから同じ点心で蒸し餃子パンとか作ったらどんな味になるのかに興味があるけど、水気でパンがぐちゃぐちゃになるから向かないか。かといって王将風焼き餃子だと匂いが……。間を取って揚げ春巻きドッグを是非に。

 丸の内オアゾにある丸善丸の内本店の4階に入っているギャラリーで「AVANT☆GALZ展」ってのが始まったのでちょっとだけ見物に。ワンダーフェスティバルのフライングメガロポリスのコーナーにいつも出ている松岡ミチヒロさんが在廊していたのでワンフェスでいつも見ていますとご挨拶。記事にとりあげた記憶もあるけれど当時よりもさらにアイテム数も増えて生態とメカニカルの融合した不思議な感じを醸し出している。いつもワンフェスやデザインフェスタで出会うKamaty Moonさんはワンフェスとかとは違ってオブジェ級の大物を出典。30万円とか40万円とかするけれどもそれくらいの価値は絶対あるから是非に欲しいと思いながらもやっぱり手が出ないのだった。フライング白熊とか可愛くて格好いいんだよなあ。

 この人もワンフェスで確か見かける宇田川誉仁/Shovel Headは大小取り混ぜて生態メカオブジェを出展。ポストカードもあって手始めには良さそう。そんなフィギュア系とそれからドール系がいっしょに並んで出展しているのがこのイベントの面白いところで、ずっと昔に桜奈ドールってちょい下ぶくれな顔立ちをした女性のドールを作ってたUNIVERSAL Pooyanはそんな桜奈顔に花魁風の衣装の着せたものから、ウサギ耳のついた動物顔にアヴァンギャルドだったり退廃的だったりヤンキーだったりするような衣装を着せたドールを並べて見せてくれていた。手の届きそうな値段だけれど売れるかなあ、やっぱり普通の少女ドールに人気が集まってしまうのかなあ。

 オアゾ丸の内の展覧会はギャラリーの半分が銅板でもって人形とかロボットとかを作り出すcoopers早川さんの展覧会をやっていて、その硬質なはずなんだけれど柔らかく、先端に見えて懐かしい品々とのイメージはフライングメガロポリスのコーナーに並ぶ品々とも共通点がありそう。だから一緒の部屋で一緒の時期に開催となったのかな。そこに混じってちょっぴり不思議なぬいぐるみとか、球体関節人形とかも並んでいる不思議な空間が丸の内というオフィス街に出来ているというのが今回のひとつの特徴かも。個人のファンが来て買っていくこともありそうだけれど、企業なんかが立ち寄りロビーのオブジェにひとつふたつとなっていったら、大きく展開も広がりそう。企業の資金なら鎌田光司さんの品だってまとめ買いできちゃうし。でも本当はやっぱり好きな人が買って愛でることかなあ。どんな売れ行きを見せるのか。会期は3月25日まで。

 もうこれは、人として何か道を踏み外しているとしか思えない物言いだったりするんだけれど。とあるメディアのとある記者がとある案件についてこう書いた。「『地方の巡査クラスはほとんど朝鮮人と言っていい。面の職員も当然そうだ』。だとすると、『強圧的な行為』に加担したのは朝鮮人自身でもあることになる」。つまりはいわゆる朝鮮人の従軍慰安婦に関する物言いで、強制かそれとも柔らかなプレッシャーかはともかく、徴用に当たって日本軍の関与がいろいろ取りざたされているけれど、朝鮮半島で直接的に徴用に携わったのは現地の官憲なり、村の偉い人たちだから、日本はもう最初から全然関係ないんじゃないかって言いたいみたい。でもねえ。

 当時の日本に併合された朝鮮半島はつまり日本だったとも言えるし、同じ民族が関わったという言い分についても、侵略なり併合された地域において、代官のような立場の官憲なり権力者は、併合した側の指令に従わなければ生きていけない。それはすなわち朝鮮総督府であり日本軍な訳で、そうした政治的にも軍事的にも権力を持った存在が、上からギュウギュウ圧力をかけていた環境下で行われたことについて、あくまでその民族によって自主的に決定されたことなんですよと言って、果たして世界に通用するか。しないよなあ。ただの責任逃れにしか思わないだろうなあ。奴隷狩りをしていたのは部族の違う黒人で、白人はそこから買って使っただけだから責任はありませんとか、言おうものなら為政者なら首が飛ぶし、物書きだったら筆を止められる。でもこの国ではそんな言説がまかり通ってしまう。まったく訳がわからないよ。

 というか、当時のそんな状況に感じる心があるならば、人としてとてもじゃないけど自分たちは知りません、無関係ですなんて言えはしない。そう言いたがる人たちがすがりたくなる大和魂とか武士道といったものに倣うなら、むしろ圧力によって意に添わない行動をとらされた者たちに慈愛の目を向け、追い込んだ権力者に対して糾弾の筆なり刃を向けるものなんじゃなかろうか。でもそうはならない。それをいうならGHQの統治下で作られた日本国憲法はアメリカの言いなりだから認めないっていう意見も、たとえGHQの統治下であっても実際に起草したのは日本人で、承認したのも日本の国会だから日本は認めるべきだし、嫌なら起草した学者なり承認した国会議員を糾弾すべきって話になる。でもそうはならない。言いたいことのためだけに都合良く情報を振り回し、歴史をつまみ食いする態度。それはジャーナリストではなくアジテーターでしかないんだけれど。困ったものです。

 剣はあっても魔法はない異世界ファンタジーかな、って読んでいていたスズキヒサシさんの「銀光騎士団 −フロストナイツ−」(電撃文庫)だけれど、どうやらいろいろ含んでいそう。ただこの第1巻にあたるだろう1冊のほとんどは、故郷の村を帝国の侵略で焼かれ、ただひとり生き延びたアスペルという名の少年が、通りがかった奴隷の女に拾われその主人ともども帝国へと連れて行かれてそこでいろいろあって、南の方にも足を向けてそこで何年か暮らした後、故郷の村へと戻ろうとしている道中で鶉を仕留めたと主張しながら通りがかった村人に奪われそうになっていた、リュシアンという少年を助けそしてついたり離れたりしながらも生まれ故郷の村へと向かい、リュシアンが成そうとしていることの手伝いをする羽目となる、という展開で占められている。

 大人ではないけれどなかなかしっかりしている上に、周辺に強そうな男たちが3人も従えているところから見て、リュシアンの立場には何か大きな秘密がありそう。それを貴族か何かと思っていたアスペルだけど、リュシアンから乞われても道中をいっしょに歩もうとはせず、自分ひとりで放浪しようとする。ただ、経緯があって助けることになった奴隷の少女がアスペルを慕い、けれどもアスペルだけではどうしようもなくリュシアンたちに預け、それなのに逃げ出してきてアスペルの危地を伝えたことから巻き込まれていった果て。リュシアンの正体を知りその目的を知り結果的に巻き込まれていくことになる。どうして最初、アスペルはああも頑なに自分を遠そうとしたのか、そこが少し分からないけど面倒に巻き込まれることがつくづく嫌になっていたんだろうなあ、その生い立ちから。そして最後に現れた謎の存在。その正体は。目的は。一気に雰囲気が暗黒に染まる展開を楽しみにしながら読み継いでいこう。次に出るのは何月だろう。


【3月18日】 知らなかったなあ、藤井美咲さんという声優さん、最近人気の「ガンダムビルドファイターズ」で、主人公のライバルキャラを演じていたりするからそれなりに、人気もあって役も多くこなしている人かと思ったら、NHKのEテレの「あしたをつかめ」って番組に出て、語っていたことには月に1回とかしか仕事がなくって、それも4月からはゼロになってしまいそうだとか。デビューして5年くらい? 所属も結構な大手の声優事務所。なのにそんな状況で、当然食べられるはずもないから、週に何日かはアルバイトをして稼いでそして、合間に練習をしたりオーディションを受けたりして過ごしているという。

 決して珍しい話ではなく、おそらく一般的な新進の声優さんに共通の生活で、毎日が大忙しでオーディションすら受けずに役が指名で来るような声優さんは、それこそ上の一握り。とてもじゃないけどプロと言えなさそうな境遇にありながら、誰もがそれでも自分のやりたいことをやろうと思って、毎日を過ごしている。なるほどアルバイトからパートへと移った方が生きるには楽かもしれないけれど、それで毎日を過ごしていったい自分が生きているんだという実感を得られるのか。他に何かやりたいことが見つかるのか。違うんだろうなあ。だから諦めないで今日もアルバイトに明け暮れ、練習を繰り返してそしてオーディションへと足を運ぶ。人生すら賭けて。見ていて強い感銘を受けた。やりたいことってこうまでしてやるんだと見えてきた。今さらだけど。

 幸いにして藤井さんは、ひとつソーシャルネットワークゲームの役が回ってきたようで、4月以降も仕事をしていけそう。そのオーディションでは少年役で出ている「ガンダムビルドファイターズ」とはまた違った、妖艶な大人の女性の声ってのも出していて、それが見事な演じ方になっていた。監督も褒めちぎるくらいのその演技。だけど自分ではそんな声が出せるとは思っていなかったところに、自覚と他覚の差異って奴があるんだろう。自分におぼれてしまってはたどり着けない地平がある。他流試合も厭わずに向かって見る大切さ。そんなものも見せてもらった。本人にそれだけの才能があったんだろうけど。これからどうなるんだろう。ずっと1つかそれともブレイクか。名前は覚えた。気にしていこう。

 なんというか2020年の東京五輪の組織委員会にずらりと理事が28人もそろったそうで、いったいそんなに多くてどれだけの人材が結集したんだと名簿を見たら、企業の人とかスポーツ団体の人とそれから現役あるいは引退直後の選手ってのが多く並んでた。そりゃあ選手たちの意見をそこに取り入れ、よりよい競技環境作りってのを目指すのは良い話だけれど、とってつけたように引退したばかりの女性選手とか入っているのを見るにつけ、いったい何をやってもらいたいんだろうという疑問がわいて出る。個々には素晴らしい選手でも、組織委員会という場においてどれだけの力量を発揮できるかは未知数。将来に期待したというよりも、今言われている高齢者の男ばかりという批判を、だったらとかわすために若い女性を入れたに過ぎない感が漂っていて、気分がささくれ立つ。

 AKB48のプロデューサーとして名を挙げた秋元康さんが入っていたり、写真家の蜷川実花さんが入っていたりと、アートやエンターテインメントにも気を配っていると外に向かって言いたそうなメンバーだけれど、その秋元さんに国際的なイベントを取り仕切った実績があるかというと微妙なところで、蜷川さんも美しい花の写真とかとってもアートをトータルでデザインして来たかというとうーん、ちょっと迷う。もちろん個々でやるんではなくその人脈なりをフルに生かして、世界に誇れるエンターテインメントを盛り込めれば万々歳だし、1964年の素晴らしい仕事で日本のデザイン力を世界に見せつけたようなことを、またやってくれれば有り難い。でもなあ、何か不安。勝見勝さんの指揮の下、田中一光さんとか起用して各種デザインを任せた1964年の東京五輪の時のようには、デザイン面を取り仕切る人の姿があんまり見えないんだよなあ。それこそ競技案内や施設案内のピクトグラムをAKBやEXILEの実写で作ろうとか言い出しかねない。どうなってしまうのかなあ。

 東京国際アニメフェアと開催が重なっていたり、東日本大震災があったりして行けずにいたら案内が来なくなったAMD AWARDからまた案内が回ってきたんでせっかくだからと春一番が吹く青山あたりを歩いて会場へ。今年はとりあえず優秀賞にきゃりーぱみゅぱみゅが入っているってことで、もしかしたら実物が見られるかと最初は思ったけれど、どうやら来られずビデオメッセージになりそうだと聞いていたので当日、会えなくてもそれほどショックは大きくなかった。会えるかもしてないと家族に言って出てきた受賞者の人はちょっと残念。でもそのかわりに超絶ゴージャスな美女にしてマサチューセッツ工科大学メディアラボ助教のスプツニ子!さんを見られたから良かったかも。何しろ長身。そしてグラマラス。そんな人がのっしのっしと歩いているのを見るともし、進撃の巨人がスプツニ子!さんだったら誰だって喜んで踏みつぶされに行くんじゃないか、って思えてきた。タイトスカートならなお良し。見上げればそこに……。

 そんなスプツニ子!さんが受賞したのが、新人賞として授与される江並直美賞というのにひとつ感慨。グラフィックとテクノロジーを融合させた前田ジョンさんとかMIT出身のクリエーターと交流したりして日本にデジタル時代のユーザーインタフェースの形というのを提案した江並さんが倒れて幾年月。未だ復活の予兆はないけれど、それでも過去にデジタローグから出した革新のインターフェースを盛り込んだコンテンツの影響は、ウエブ時代にあちらこちらに浸透して、そこから次代のクリエーターというのを送り出している。スプツニ子!さんが直接関係わる訳ではないけれど、テクノロジーにビジュアルを盛り込み見た目とか肌触りの良さを作り出しつつ革新的なアイディアなり先鋭的なメッセージを送り出すスプツニ子!さんの作品は、江並さんの目指していたものと重なる気がしてならない。あのおっさんがスプツニ子!さんを見たら何と言ったか。それも気になった。ともあれおめでとうございます。とってもとってもゴージャスでした。

 そんなAMD AWARDでは栄えあるデジタル・コンテンツ・オブ・ジ・イヤーに「進撃の巨人」プロジェクトが輝き、表彰式には進撃の巨人くんが登壇しては記念撮影でスプツニ子!さんと並んでたりして美女と巨人の組み合わせに少し吹き出す。どんな美女でも1枚向けばあんな感じという皮肉。でも巨人でも美女ならやっぱり喜んで踏みつぶされたいという人間の美醜へのこだわり。いろいろと考えさせられた。ほかに優秀賞には「艦隊これくしょん」とか「ニコニコ超会議」とか「孤独のグルメSeason3」とか入っていて支離滅裂感もあったけれど、今時デジタルが絡んでいない物って見つけるのが難しいからなあ。だからはやっているものがノミネートされ、1番はやっているものに賞が行くのが至極当然ということで。きゃりーぱみゅぱみゅは来年こそグランプリに輝いて日比野克彦さんデザインによるおしゃれな筵旗ことグランプリフラッグをぶん回して欲しいもの。上坂すみれさんでも良いかなあ、きっと似合うと思うんだ。


【3月17日】 どうやら吉田沙保里選手を含んだワールドカップ国別対抗女子レスリングの日本代表は決勝をロシアと戦って8人が全員勝利して、ぶっちぎりの優勝を決めたそうでお父さんを亡くされたばかりで出場をして、出た試合の3つともを買った吉田選手の試合にかける執念というか、それをお父さんが臨んだからという気持ちを途切れさせない強さにただただ感心。普通だったら放心で何も手に付かず納棺から火葬までずっとつき合っていたいと思っただろうに、そこを出棺で切り上げ東京に向かい計量をして練習し、翌日に試合しそして翌々日に決勝というハードスケジュールを完璧にこなしてみせた。お父さんとともに歩んできたレスリング人生だったからこそ、その教えを全うすることこそが供養だって考えたんだろうなあ。そうやって教えを守ってもらえるお父さんがちょっぴりうらやましい。

 そんな日本代表で個人的に嬉しかったのは、最重量級の75キログラム級で臨んだ浜口京子選手がきっちりと買って日本の全勝に貢献したこと。前日の予選では2試合に出て両方とも負けて日本のスコアを7対1にしてしまった要因を、その一身に背負う形になっていた。だってもう36歳だよ。1997年の世界選手権で優勝して世界的な選手となってそこから17年とかいう長い年月をずっと第一線に立ち続けているというか、後進がなかなか育たず第1線に立たされ続けている。なるほど確かに不世出の大選手なのかもしれないけれど、他の階級ではちゃんと進んでいる世代交代(吉田選手はずば抜けすぎているので別として)が浜口選手の階級ではまるで進まないのはそれだけレスリングの層が女子はやっぱり薄いってことなのかなあ。最近は国内最強でも世界ではメダルに届かない場合が増えてきて、先行きを心配していたけれどこうやって国際試合で強豪を相手に勝利できたってことはまだまだ世界水準で戦える力を持っているってことなのかも。吉田選手も頑張っていることだし浜口選手にもまだまだ頑張って欲しいもの。目指せリオデジャネイロ五輪。そしてその先を。

 莫迦なのか、それとも莫迦のふりをした間抜けなのか。例の上野千鶴子さんによる講演を急にキャンセルして、世間から非難囂々の山梨市長が、やっぱり止めるのを止めたといって予定通りに開催することを決定。それについて新聞に聞かれて「いろいろとうるさいのでコメントしない。結果をみて判断してほしい」と言ったとかで、結果としていくら講演が開かれようとも、その途中に講演者の言説をよく確かめもせずイメージだけで中止させようとしたという、言論への挑戦にも等しい振る舞いがあったことからは逃れられず、そして周辺からいろいろ言われたら今度は自分の信念を曲げてでも復活させるという右往左往ぶりに、いったいこの人に市長を任せて大丈夫なのかって考える市民とかも出てきそう。言われて止めて言われて始めてまた言われてまた止めて。災害なんかが起こった時にこんなに迷っていたら対応なんて出来ないだろうに。

 もっとも、恐ろしいのはそうやって人間性が疑われるようなことを平気でしでかした市長が、その地位をまるで脅かされることなく居座り続けていられる状況で、以前だったら即座にメディアが指摘し市民が叫び市会議員たちもいかがなものかと表明しては、その立場を大きく問うような事態に発展したんだろうけれど、今は市長とか県知事が暴言はいてもそれでもって大きく咎め立てられることはなく、謝ったから良いだろう? 取り消したから関係ないよといった態度をとって平気なこと。綸言汗のごとしとか、李下に冠を正さずといったそれぞれの立場においてすべきこと、守らなくてはいけないことのハードルが大きく下がりむしろ存在すら疑われるような状況になって、少々の暴言はそれが個性だといった程度の認識しかされなくなている。

 これは国政でも同様で国会議員にあるまじき暴言を書きつづっても、取り消したから良いだろうと開き直ったりする事例が続出。そして一国の総理までもが世間に大見得を切って打ち出したことを、取り消しなかったことにして、謝らずその地位に居座り続ける。もはや言葉に重みはなく、けれどもそんな言葉によって国政は担われ国も国民も引っ張って行かれる。いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう。たぶんそれは行き過ぎた左翼の無茶に呆れてしまった中間層が、甘言を弄して近づいてきた右翼に引っ張られてそっちにシフトしてしまい、真っ当な中間層のやや左よりが真っ当な言説を吐いても、言うことを聞いてもらえなくなってしまっているから、なんだろう。そして右に右にと曲がり続けるこの世間。さすがに拙いと思ったか、文藝春秋ですらNHK会長の問題を挙げて政府の強引さを批判に回っていたりするけれど、それが世論を動かすような雰囲気もなし。諦めと無関心の中でこの国がたどり着く先は。考えると夜寝られなくなっちゃうから考えない。

 そしていよいよ決まってきた大学読書人大賞の最終候補作は似鳥鶏さん「昨日まで不思議の校舎」(東京創元社)にジュノ・ディアス「こうしてお前は彼女にフラれる」(新潮社)、江波光則さん「鳥葬 まだ人間じゃない」(小学館ガガガ文庫)、芝村裕吏さん「富士学校まめたん研究分室」(ハヤカワ文庫JA)とそして伊坂幸太郎さん「マリアビートル」(角川書店)とまあそれなりに旬な作品が並んでいて、どれが来ても面白そう。旬っていうのは伊坂さん以外の似鳥さん江波さん芝村さんが文庫オリジナルでジュノア・ディアスも新刊がそのままといった感じに、新しい作品が揃ったからってところがあるからかな、文庫落ちも認めているこの賞は数年前の人気作品でも賞をとることがあったから。個人的には芝村さんが注目だけれどもし取ると伊藤計劃さん野尻抱介さんと連覇して来た早川の3連勝になってしまう。かといって「マリアビートル」で角川に戻すってのもバリエーションに欠けんで、ここは早川に持っていかれっぱなしの東京創元社に頑張って欲しいかな、ガガガ文庫でラノベ初受賞、っていうのも面白いか。決定は5月。行けたら討論会また見に行こう。

 せっかくだからとスカパーとアニマックスが4月から行うキャンペーンで放送されるという「機動戦士ガンダム」のHDによる第1話の試写会ってのを見物に行く。滝山正夫社長の髪が青かったのはいつもどおりとしてガンダムの第1話はやっぱり何回見ても良く出来ているよなあ、新兵の功名心から戦闘が始まってその過程で悲劇が重なり偶然も起こってアムロ・レイが自分からガンダムに搭乗して戦う道を選ぶ。もしもあの場でフラウ・ボウの家族が流れ弾の爆発で亡くなっていなかったらアムロはあそこまで踏み切れただろうか。ちょっと考えてしまう。それ以前にジーンがちゃんと最初にガンダムを仕留めていたらジオンはガンダム1機に追いつめられることもなかっただろうに、アムロが覚醒してシャアを仕留めることにならなかっただろうに、それはジーンたちが偵察任務だけで終えてガンダムが戦場に出て運用されながらもアムロ以上に巧く扱える人が出ずシャアにこてんぱんにされて連邦は敗北していたかもしれないだろうにって様々な想像にも繋がるんだけれど、そういう可能性をくぐって1番、面白くってドラマティックで、何よりあり得る展開を選んでそれを必然としつつガンダムというドラマへと誘っている。だから今なお面白がれるし続きが見たくなるんだろう。超えられる作品、出ないなあやっぱり。


【3月16日】 しばらく足が遠のいていた南船橋にあるららぽーと TOKYO−BAYに、オンワードが「シェアパーク」ってブランドのショップをオープンしたんで土曜日にちょいと偵察に行って来たら、昔とまるでショッピングモールの様子が変わってた。日本からの撤退をいったん発表したウェンディーズのラストデイに行ったのが、あるいは立ち寄った最後くらいになるんだけれど、そのウェンディーズはもちろん無く、そして建物と建物の間にあたる屋外に面した場所に並んでいた飲食店も、前と入れ変わっていた感じ。

 あと昔は南船橋寄りにあったTOHOシネマズ船橋が、反対側にあたるそごうが入っていた建物の上に来たようで、船橋から歩いていった場合に近くなった感じだけれど、いったいどういう風になっているんだろう。そごうが撤退して後、ずいぶんと寂れた店内になっていたもんなあ、あの棟は。それを確かめることはせず、昔ダイエーとかが入っていた場所も見ずナムコがゲームセンターを置いたり「東京パン屋ストリート」や「しましまランド」を置いたあたりも観察しないで、「シェアパーク」の位置をまずは確認。南船橋からららぽーとまで来て入った店内を1階へと降りて、そこの通路を旧そごうの方に歩いていったら途中でカーブするそのカーブの出口当たりに店があった。

 結構大きい。100坪。その中にはレディースもあればメンズもあって、なおかつ中央部分にカフェがあるというファッションブランドにしては珍しい作り。でもそんなカフェが通路に面してあったりするから、歩いている人がカフェを観て立ち寄ろうとして店内を眺めて買ったりするような不思議な行動が起こったりする。そういう期待もあってのカフェ併設なんだろう。あとは買い物に来て迷い惑っている奥様を待つ旦那様と子供の待機場所とか。

 基本はベーシックでカジュアルな中にちょっぴりフレンチテイストを混ぜた感じのアイテムで、レディースはナチュラルな素材でカラフルさも持ったスカートやニットやシャツなんかを用意している。あとミリタリー風のブルゾンとか。メンズはジャージー素材のパンツとかジャケットとかストレッチ素材のGジャンとかあって、超細身を維持できなくなった30代の旦那様とかでもどうにかこうにか着られそう。普段着がユニクロのスウェットとかって人に着せて、ワンランクもツーランクもアップを目指したい奥さまとかに連れて行かれて買わされるかも、もちろん奥さま自身が欲しがる物も含めて。そんな店。行けば地獄の買い物づきあい。でも大荷物を抱えてスタバに移動しなくても、その場にあるカフェでスムージーやらグラノーラを味わえる。そこがカフェ付きならではの強みかも。

 レディースは「シェアパーク」のロゴでもってほとんど統一されたファッションが並んでいるけど、メンズはいろいろセレクト品もあってカナダの新興ブランドのリュックとか、イタリア発の日本人が履いてもスリムに見えるパンツとかあって、ブランドに弱い男心を引きつけそう。注目はジャラン スリウェアってブランドのシューズかなあ。知らなかったけど結構注目されているブランドらしく、高級ブランドのシューズと同じ皮革素材でもってしっかり作られたシューズが、3万円くらいとそのクオリティにしてはリーズナブルな価格でろそろっているとか。「シェアパーク」」の店頭ではローファーをみかけたけれど、他にも置いてくれるのかな。機会があれば履いてみたい。そんな機会はなさそうだけれど。窓際から追い出された窓外の身だけに。

 せっかくだからと味の素スタジアムで開かれたJ2の東京ヴェルディ1969vsジェフユナイテッド市原・千葉の試合を見に行く。味スタっていつ以来になるんだろう。ちょっとしばらく記憶にない。駅からスタジアムまで歩いていく途中、前だったらヴェルディの試合がある時には、緑の垂れ幕が街頭から下がっていたのが無くなって、調布市が応援しているといった感じに赤と青のFC東京カラーの垂れ幕がかかって、そこにFC東京とアメリカンフットボールの旧鹿島ディアーズで、今はリクシルディアーズのロゴがプリントされていて、ヴェルディのロゴの欠片も緑のチームカラーもまるで露出していなかった。通りにあるコンビニに下がったフラッグも、FC東京のみになっていた。

 せいぜいがスタジアム前にあるサッカーショップのウィンドウに、その日の試合ってことでヴェルディのユニフォームがマネキンに着せられていたくらい。そんなに地元からパージされていたのか。それとも調布がもはや地元ではなくなってしまったのか。Jリーグ発足時の賑わいを肌身に感じている者には信じられない低落ぶり。それこもれもJ2暮らしが長いせいなのか。凋落したからJ2暮らしが長くなってしまったのか。情けないというか泣けてくるというか。でもそれは明日のジェフ千葉でもあったりするからなあ。すっかりJ2暮らしが板について蒲鉾になりつつあるけれど、幸いにして千葉市市原市には他に応援するプロサッカーチームがないのが救いとなって応援が続いている。でも果たしていつまで続くか。そこをそろそろ考え本気のJ1昇格体制に入って欲しいんだけれど……。

 でも始まった試合は何というかJ2らしいというか、ボールを持ってサイドに振ってもそこから追い越し前へと送って切れ込み走り込んで受けて中央へ、そしてサイドを変えてそこからクロスに何人も飛び込んで来るといった、大勢が一生懸命に端って連動していくような動きがあんまりなくって、ところどころで囲まれ途切れて戻すなり、無理に送ってカットされて反撃を喰らうという繰り返し。それは対戦相手のヴェルディにも言えることで、一進一退というのもはばかれるくらいに送っては跳ね返されせめては奪われるプレーが繰り返されていた。

 トップチームでもあり得る話だけれど、トップの場合はぎりぎりの打開策がちょっとの差で届かず落胆と感嘆が入り交じるといった感じ。ここんちはむしろ落胆ばかり。どうしてもう少し走らないんだ、動かないんだ、止めないんだ、周りを見ないんだって声が口を衝いて出て来そうになる。それがJ2に集う選手たちのクオリティーの限界というなら、このままでは例えJ1に昇格したところで戦えるはずもない。

 というか現にそうしたクオリティのぎりぎり上限を行ってJ1に上がった徳島が、毎試合こてんぱんにされているのを見るにつけ、今のジェフ千葉では、あるいは東京ヴェルディでもJ1に昇格したところで相当な苦労を強いられそう。エレベータークラブ化確実というか。だからガンバ大阪でも柏レイソルでもサンフレッチェ広島でも、落ちたら戦力を維持してすばやく上がってそこで建て直すことを選んだんだ。ジェフ千葉はそこで躓いてそしてもう何年も躓きっぱなし。その間に躓く石も巨大になって格差が広がってしまった。どうするんだろう。どうすれば良いんだろう。監督かなあ。そして1人のスター選手。欲しいなあ。

 試合はといえばヴェルディがフリーキックからの1点を決め、1点リードのまま終盤へと行ったところでどうにかこうにかジェフ千葉が追いついて引き分けに。ヴェルディはまた勝てずなかなか重傷の度合いが高いけれど、ジェフ千葉だって1勝1敗1分だから大差はない。むしろ上位との差は広がるばかり。出だしこそ躓いたジュビロ磐田はさすがJ1でなおかつ日本代表といったクオリティを選手たちが発揮しはじめている感じだし、湘南ベルマーレは、曲がりなりにもJ1を戦った選手たちがその底力を見せて、J2の上に君臨し始めている。

 ジェフ千葉もケンペス選手に谷澤選手兵藤選手と上のカテゴリーでも通用する選手たちを入れて、後半も途中からどうにかこうにかそれなりのプレーを見せられたけれど、それが最初から出来ないところにひとつ問題があるんだろう。年齢なりスタミナなり。そこを徹底的に作り込んでいけたら後半、ググッと上がっていけるかもしれないけれど、そう悠長なことが出きるチームでもないからなあ。だから虻蜂取らずでまたしても上位の下位に終わってプレーオフに敗れて残留、と。凄い監督がやって来てブレイクスルーとか起こらないかなあ。

 今だからこそ読まれるべき本として静かな話題になっている加藤直樹さん「九月、東京の路上で」(ころから、1800円)を丸の内オアゾの丸善で購入、アマゾンでは入荷待ちになっていたりして変えず版元のページから行けば通販出来そうだったけれど店頭で見つけられて幸い。そして読んで作者が過去に記された証言を積み重ね、さまざまな記録を精査して浮かび上がらせた関東大震災直後の狂気と悲劇の惨状に戦慄し慟哭して瞑目する。恐怖したのは中西伊之介というプロレタリア作家が関東大震災に至る数年の間に新聞等で“不逞鮮人の陰謀”をかき立て世間の不安を煽り感情を高ぶらせていたことで、それが危急の際に流言飛語を生みそれに乗せられる大勢の人を生んだという話。

 そして見渡せば今、新聞に雑誌に書店にテレビにネットとあらゆる場所で嫌韓嫌中が叫ばれている。それが金になると感じてよりあおり立てる風潮すらある中でもしも災害が発生したらいったい何が起こるのか。考えるだけで気が重くなる。せめてだからこうした本が読まれ中にあって落ち着き行動した人たちに倣いたいところだけれど、メディアもネットもそして政治すらも、そうした過去を無かったことにして、いたずらに反感ばかりを燃え上がらせようとしていからなあ。自分はその時に戦えるだろうか。それとも芥川龍之介の言う「善良なる市民」として流されてしまうのだろうか。震えながらその時が来ないことをただ祈る。


【3月15日】 そして「キルラキル」は神衣純潔を血まみれになりながらも縫いだ纏流子が、懐かしの神衣鮮血をまとって元の鞘へ。全身から伸びた生命繊維を引きちぎるとはいったいどれだけの痛みをその身に受けたのか、想像するだけで全身が赤剥けになったところに塩水を擦り込まれたような気分になるけど、そこは負けず嫌いの流子だからか、お姉ちゃんこと鬼流院皐月の前で弱いところは見せられないと気張ったか、痛みこそ口にすれ臆することはなく鮮血と人衣一体となって針目縫へと立ち向かう。手にした片太刀鋏を縫に向かって放り投げ、壁に縫い止めてしまって手にした武器を無くしてしまったにも関わらず、すぐに取り戻してはあっさり縫の両腕を切断。ぶわっと吹き出る血飛沫に、これテレビでやって良いのかを不安になったけど、やっているからには大丈夫なんだろうなあTBS。パンツだってその下だって見せまくってるもんなあ。心が広い。

 あと、やっぱりどこかコミカルな絵柄が、グロテスクな感じの減殺に役立っているところがあるのかも。ハイパーリアルを追求する作品だったら、その腕が吹き飛ぶシーンももっと肉が裂け骨が断たれて血飛沫が舞って、見るも迫力のスペクタクルになっただろうけれど、「キルラキル」だとそれこそまな板の上のたこでも切るようにストンと両腕を落として、そして「ぎょえー」といった感じの絵を入れて、シリアスさって奴から印象を遠ざけている。もちろん切れたものが次の場面でくっつくようなことはなくって切れたまま。だけど元々がどこか異常な出生の持ち主で、肉体も普通じゃないってところを見せてあるから、驚きはあってもおののきは感じないで済む。どこまでも過激なはずの描写が笑いとおかしみの中に収まってしまうこのフォーマット。考え出した人は凄いなあ。コミカルだけどギャグじゃない。その塩梅の絶妙さ。今後のアニメでひとつのスタイルになっていくのかな。

 もっとも、両腕を無くしても針目縫はグランクチュリエだけあって、鳳凰丸礼にツインテールをひっつかまれて、戦いの場から連れ出されたのを逆に怒りつつ、歯でも口でも使って生命戦維を大量に使った服とか作り出している様子。最後の決戦へと投入しようってことなんだろうけどそれを阻止するべく本能寺学園へと向かう流子と皐月の前に現れるカバーズたちを次々と元通りにしていったら中から、懐かしいテニス部部長とかボクシング部長とかが現れた。流子に負けて放校されたあとに、満艦飾の一家なんかといっしょに本能寺学園の大文化体育祭に言って服ごと吸収されていたのかな、あの場は皐月が裏切ったけれどその後に吸収されていたのかな、でもまあひとつ回収としてさらに現れた戦闘に特化したカバーズを相手にいったいどう戦い、そして鬼流院羅暁と縫と鳳凰丸をどう倒す、っていうか鳳凰丸って強いのか? そんな辺りもお楽しみしつつ残り話数はどれだけだ。2回か。3回ってことはないよなあ。ちゃんと終わるかな。終わらず劇場版かな。

 これは何を書いても話の面白さを減殺してしまいそうで、うかつに内容なんかを書けない矢部嵩さんの「〔少女庭国〕」(ハヤカワJコレクション)は、中学校の卒業式に向かっていた少女が目覚めると白い石造りの部屋に寝かされていて、そして片方にはノブがない扉があって反対側にはノブがある扉があってそこには張り紙があったという。少女はノブを開けて隣の部屋に入るとそこには少女が寝ていて今し方といった感じで目覚めてそして少女たちは張り紙について検討を始めるという、どこか密室物のミステリーといった感じの導入なんだけれどそこからがまるで違っている。というか他に類を見ない展開へと向かって、読む人たちを恐怖と混乱と妄想の彼方へと引きずり込む。結末とか条件とかまるで違うんだけれど、なぜかフレッド・セイバーヘイゲンのSFマガジンに大昔に掲載された短編を思い出した。イラストが坂口尚さんによる。

 もっともセイバーヘイゲンの短編にはちゃんと解決編があって、そこに意味がもうけられていて感心したけれど、この「〔少女庭国〕」にはそうした驚きの中に開明を得られるといった感じのカタルシスはあまりない。一種、人類と文明の歴史についての考察として読めないこともないけれど、その割にはどこまで行っても行き止まりな感じがあって、終わりもふいっと取り上げられるような所がある。もっとも、この世界だって無限ではなく現実問題、人口増加に伴ういろいろな不足に直面していたりして、それを解消するために格差をつけたり略奪や収奪を行ったりしていたりする。なあんだつまりは世界の縮図か、って言えば言えるんだけれど、それが少女たちという単位で行われているところがひとつ、読んで不思議なテイストを感じられる要因か。少女といっても妙に物わかりが良かったり、落ち着き払っていたりするんだよなあ。その意味でもシミュレーション的で思弁的な小説って言えそう。読んであなたは何を思うか。そして何をどうするか。

 この期に及んでというか、今になってなおというか。例の河野談話について安倍晋三総理が、国会という場で政府として見直さないと答弁したことを取り上げて、とりあえず全国紙らしい新聞の看板コラムが「珍しく下を向いたままお役人が書いた紙を棒読みしていた」「顔に『痛恨の極み』と書いてあった」と書いて、その言葉が本心から出たものではく、アメリカなんかに言われて渋々言ったことなんだって訴えている。でも、いやしくも一国の総理大臣が、国会という場でそれも同じ党の質問者を相手に答弁したことについて、実は嘘なんだ本心からの言葉じゃないんだと擁護するのって、当人を二心のある人間だってあからさまに指摘していることでもあって、とても失礼なことのような気がするし、国会で嘘を総理大臣が答弁しているんだと言って、国会という場をひどく愚弄しているような気もする。それがまかりとおる立場であり、場だってことでしょ、総理とか国会が。

 というか、実際にはそんな言葉は顔に書いていなかったにも関わらず、全国紙を標榜する新聞が1面のコラムで堂々「書いてあった」って事実のように書くのは、やっぱり拙いんじゃないのかなあ、自分にはそう見えた、そう感じられたんだと書くならまだしも。まさか願望があたかも真実のように思えてしまって、そう筆も走ってしまった、なんてことはないだろうけれど、それくらいに入れ込んで走っている筆は、主観と客観を分けて書く冷静さを失っているようにも見える。そんなドリーミーな筆が堂々、論陣を張っていられるこの不思議さ。世間は圧倒的にそう感じているんだけれど、内輪ではまるでそう感じていないところに生まれる乖離がつまり、危機となって現れているんだろう。大変だこれから。すでに大変だろうけど。それにしても総理もそんな風に媚びられへつらわれ、内心を見透かされて嬉しいんだろうか。本当の気持ちを分かってくれていると感謝するんだろうか。それをまたオフレコで記者とかに言って、受けた記者が自慢げにバラして言った総理は国会軽視だと突っ込まれ、そんなことは言ってないと否定する可能性に100ホシヅル。どんな単位だそれ。

 公開まで20日とかになって来た「THE NEXT GENERATION パトレイバー」の撮影の様子なんかを紹介しているブログにエピソード0を監督した田口清隆さんの話が載っていて、時間がある限りパトレイバーに色を塗るとかって話しているとあって、そういう細かいところへの情熱的なこだわりがあったからこそ、この実写版パトレイバーは面白い作品になっているのかも、って考えた。どこまでもリアルさを追求した大道具に小道具の上で、どこまでもまじめに繰り広げられているからこそ、そのドタバタぶりがおかしく思えて引きつけられるんだ。ドリフターズでも欽ちゃんでもダウンタウンでもウッチャンナンチャンでも、コントの時にはしっかりセットを作り込んでいて、それが真剣に莫迦をする面白さに繋がっていた。昨今のコストダウンが進むテレビでは、それだけのセットが組めず彼らのコントも見られなくなってしまったのが残念。その代わりといた感じに、映画で「パトレイバー」という題材を借りて繰り広げられる真剣勝負の社会派コント。それが「THE NEXT GENERATION パトレイバー」ってことなのかも。笑えて泣けて面白がれること請負。4月5日は何を置いても劇場へと駆けつけろ。


【3月14日】 世間はすっかり「アイカツ」へと傾いていて、もはや「プリティーリズム」なんか見向きもされていないんじゃないか、なんて思っていたらなかなかどうして、タカラトミーアーツが「プリティーリズム」シリーズに続く新しい筐体ゲーム機「プリパラ」を発表したら、現れる現れる「プリティーリズム」がなくなってしまうのは困るというファンの人たちが。アイドル育成という割と他にあるフォーマットに乗った「アイカツ」とは違って、フィギュアスケートなんかの要素も持っていろいろ楽しめる上に、カードとは違った「プリズムストーン」というギミックがあることも、他との差別化になってコレクションして楽しんでいる人がいた様子。

 それだけに新型の筐体となって、これまでのゲーム性も資産もまとめて使えなくなってしまうのか? かつて「おしゃれ魔女ラブandベリー」でも味わった、サービスが終了をなって集めたカードがすべて紙切れと化してしまう悲しさをまたしても味わうことになるのか、なんて不安も起こったようだけれど、どうやらストーンの利用は可能なようで、それがどう「プリパラ」というゲームの中に組み込まれていくのか? そこがこれまでのファンの興味の向かう先となりそう。それにしても「ラブandベリー」のカードって今いったいどこで何をしているんだろう? ニンテンドーDSで遊べる装置も出したからそっちでひっそり、遊んでいたりする人もいたりするのかな。

 別の興味は「アイカツ」に群がっている大人の男の人たちが、果たしてこの「プリパラ」にも入ってくる可能性があるか、ってあたりでそもそもどうして「アイカツ」におじさんたちが群がるのか、ゲームをやっていないからちょっと分からないんだけれど、いわゆる「アイマス」的な育成の楽しさとかカードを集めるコレクションの面白さなんかを、自分たちも味わいたいと考えせっせと「アイカツ」通いをしていたりするんだろうか。そうだとしたら同じようなアイドル育成の要素を持っていそうな「プリパラ」にも、興味を示しそうな気がするけれどもここでひとつ、壁になるのが「プリパラ」ならではの写真の要素だ。

 そう「プリパラ」は筐体にカメラがついていて、自分の写真を出てくるカードというかチケットの中に印刷できてしまうのだ。プレーの度に1枚づつ、出てくるカードを集めてプレーの幅を広げていくのがこうした筐体型カードゲームの特徴だったけれど、それではもう勝てないと考えたのかタカラトミーアーツはオンデマンド印刷機を筐体の中に仕込んで、その場で1枚1枚が違った部分を持ったカードを印刷して吐き出せるようにしたのだった。

 つまりは一種の「プリクラ」で、その要素を取り入れた「プリパラ」はプレーした人の顔写真をチケットの片方にプリントしてくれる上に、その部分をチケットの半券みたいに切り離して、誰か別のプレーヤーに渡すことができるようになっているという。一種のプリクラの交換で、そうすることによって渡した相手は自分が育てたキャラクターといっしょにチームを編成できるようになるんだとか。リアルな友達関係をゲームの中で踊る分身のキャラクターたちでも再現できるという、この新しい要素で「アイカツ」に群がっているこれは本当のターゲットともいえる女の子たちを、一気に取り戻そうという考えらしい。

明かりを消すと白い陶器。着けると透けてうす明かり  それは良い、女の子どうしならそれは可能だけれど、そこに紛れ込む「プリパラ」おじさんは、果たして自分の顔写真が入ったカードを作ることに耐えられるか? そしてその半券部分を誰かと交換できるのか? さすがに周囲で並んでいる女の子を相手に交換してくれとは言えないだろう。かといって同じおじさんどうして交換しても虚しいだけ……。そんな空気を作ってターゲット的にはイレギュラーな層の参入を防ごうとしたのかどうなのか。いやそれでもプレーする人は出てくるだろうなあ、イケメンになればもらってくれる女の子もいそうだからと、エステに通いダイエットをする人も出たりして。まあせいぜいがお面でガードするくらい? いずれにしてもちょっと不思議な光景がそこに生まれそう。早く稼働し始めないかなあ。

 デザインフェスタでよく見かける陶芸家の 勝村飛顕さんが、新宿にある京王百貨店で個展を始めたので見に行く。上薬をかけない白い器が特徴で、前はアメリカにあるグッゲンハイム美術館の外側みたいに段差がついた円錐といった感じの器とか作って強い見た目の印象を醸し出していたけれど、今は表面に文様を入れた器を作ってその中に電球をいれるとほらこのとおり、透けて見えて灯りになるといった具合に、生活の中に陶器をとけ込ませるような作品をよく作っている。床の間とかベッドサイドにおけばルームランプになるし、つり下げるタイプのものは部屋に間接照明的な彩りをもたらす。なかなかに神秘的。そして静謐。そんな空間を作りたい人に受け入れられそうな作品かも。

 白地に線で文様を描いたり、線を引いた作品もあってどことなく縄文的というかエジプト的というか地中海的というかプリミティブな面立ち。それでいてモダンな印象も醸し出すところが不思議というか。ちなみに線は筆に絵の具を付けて描いているだけじゃなく、細く引っ掻いたところに墨を入れるように線を入れているというからなかなかの手間。いわゆる線象嵌という技法でこれなら使っていても線がとぎれたりするようなことはない。上薬を使っていないからツルツルって感じじゃないけど肌合いは結構なめらか。そして使っているうちにだんだんとツルツル感が出てくるという。生活にとけ込む陶器。それでいて生活にちょっとしたアクセントを与える陶器かも。料亭の器とかで使うと面白そう。京王百貨店6階茶室で3月18日まで開催中。

 なんという奇蹟か。なんという僥倖か。押井守監督が手がけた実写作品が面白いなんて。押井守総監督でもって4月5日、世に送り出される「THE NEXT GENERATION パトレイバー」がとてつもなく素晴らしいなんて。世にこの話が出始めた時は、またしても、辛気くさい世の中語りを誰かのキャラクターに乗せて延々と行うという、まるでひとり舞台のような展開でもってお茶を濁すんじゃないか、なんて思ってた。あるいはしゃべりはあっても、小劇場の弾丸トークのように掛け合いばかりが延々と続いて、何も話が進まないうちに終わってしまうんじゃないか、なんて予想してた。そりゃそうだろう、過去に数多作られた実写作品のたいていが、そんな感じのものばかりだったから。現実が虚構に寝取られ、無為の中に雲散していく実のない枝葉ばかりの作品だったから。

 でも違った。「THE NEXT GENERATION パトレイバー」にはちゃんと話があった。セリフの間合いもしっかりしていた。引きずり込んで突き放し、迫ってきてはくいっと引いて見ている人たちを離さない芸があった。だから見ていて楽しかった。いろいろ笑えた。そして驚けた。これぞ押井守さん。それも「うる星やつら」の演出なんかをやっていた頃の、ギャグと哲学を渾然とさせてスラップスティックへと引きずり込んでいた押井守さん。何か懐かしかったし、そして新しかった。これなら安心だ。昔ながらのオシイストたちは歓喜で迎え、讃えるだろう。この奇蹟を。この僥倖を。だからみんな駆けつけるんだ、4月5日は劇場に。そして確かめるんだ、その素晴らしい内容を。あとは真野恵里菜さんのかわいいお尻を。見終わったら昼食は炒飯だ。それも五目炒飯だ。これは決まりだ。そうなっているから。

 そして世紀の発見は世紀の没ネタとなってしまうのかどうなのか。例のSTAP細胞について諸々発生した疑惑についての理化学研究所による会見があったけれども、今もってはっきりしたところは分からない感じ。論文にいろいろ不備があるってことは確定したみたいだけれど、そもそもSTAP細胞は存在したのか、あるいは存在し得るのかといったあたりがもんわりとしているんで、そういう世紀の発見への期待を未だ引きずっているところに、この問題の判断の難しさがある。真っ向から嘘でしたよー、って否定してくれれば楽なんだけれど、それはないしそもそもそんなすぐバレるような嘘を、堂々とマスコミを集めて開くなんてことが当人にも理研にもあったのか? ないよなあ、普通。だから信じたい気持ちも残る。そして真実だったことで受ける恩恵の多さにも期待したくなる。それだけに……。調査を待とう。増産された割烹着はどうなるんだろう。


【3月13日】 守られているのだろうか。それとも捕らわれているのだろうか。鷹野新さんによる「軋む楽園(エデン)の葬花少女(グリムリーパー)」(電撃文庫)はそんな風に囲われた我が身への懐疑をもたらす物語。レギオンと呼ばれる謎の生命体によって侵略された人類は、地球のそこかしこにクリサリスというドーム都市を築いてそこに閉じこもりつつ、葬花少女とよばれる異能の力を持った少女たちによって守られて暮らしている。葬花少女は街でもちょっとしたアイドルで、個々に名前があってそれぞれにファンもいて、レギオンと戦えばその姿に観ている人たちから喝采が飛ぶくらい。その日も葛見という高校生の少年が、街に現れたレギオンに襲われそうになっていたところに、葬花少女の中でもトップクラスの人気を誇るアイリスが現れレギオンを退け葛見を助ける。

 そして向かった学校で、葛見はなぜか学校に現れたアイリスに誘われクリサリスに侵入したレギオンを倒すために協力を求められる。誰もがあこがれるアイドルからの頼みとあって誇らしげに思う葛見。幼なじみらしく、いつも葛見にお弁当を作って持ってくる春野という同級生の少女はそんな葛見に感じるところがあったようだけれど、それでも世界のためと思いやがて現れたレギオンに銃を向ける葛見。そして正義は遂行された。ように思った。けれどもそれは違っていた。世界を救うための戦いではなかった。ではいったい? そこがこの話の面白さ。足下をひっくり返されるような驚きから、困難に向かい進んでいく少年と、それを助け導こうとする少女の壮絶な戦いが幕を開ける。レギオンの正体やその目的など、まだまだ謎めいたところもあって今後話が続くなら、そのあたりもっと語って欲しいところ。アイリスの純情にも答えてあげたいけれど、それは果たしてかなうのか。

 声を出すから差別の言葉も発せられるのだとしたら、声を出さないようにすればいい。歌を唄うからそこに差別の歌も乗せられるのだから、歌を唄わせないようにするしかない。そんなことすらいずれ言いかねないような気もしてきた、浦和レッドダイヤモンズの応援において差別的な横断幕が掲示されたことに対する会社側の対応策。決定されたものではないけれど、報道ではとりあえず目先の試合でいっさいの横断幕を掲げないよう求めるってことで、なるほどそれなら差別的な言葉は絶対に掲げられない一方で、ストレートな応援の言葉も掲げられなくなってしまう。選手の名前が書かれた横断幕すら出せないことになる。何という理不尽。

 でも本質は、あくまで差別的な横断幕が掲げられなくなることであって、それには何が差別的な言葉になるのかを掲げる側が考え、理解し再発を防ごうと動くこと、そして運営の側も、これは差別的だと判断したなら、即座に排除する意識を持つことが求められる。だからチームもサポーターも、そういう方向へと向かう努力をまずは見せるべきなのに、そちらは脇において何もさせないことによって、何も起こらないようにする道を選ぼうとしている。簡単で安易で、そして最低の対策はやがて歌が差別を歌うなら、歌のすべてを歌わせず、言葉が差別を紡ぐなら、一切の言葉を発せさせない沈黙の場へとスタジアムを変えていくだろう。それはやがて日本全体に広がり、間違った言葉ともども正しい言葉を封じ込めようとする。ここが分かれ目。それくらいの覚悟と態度で当事者たちには事の解決に臨んで欲しかったけれど……。

 チームとから発表された対応はやっぱり一切の横断幕やフラッグ類の持ち込み禁止。そしてリーグからは1試合の無観客試合実姉。後者はJリーグとしての処分で重大な事案に対する処分としてはきわめて妥当な処置で、これによってサポーターの人たちが自分たちがやったことではなくても、自分たちが結果的に許容してしまった差別的な言説のスタジアムへの持ち込みが、どれだけ重大なことだったのかを理解することにつながる。問題はチームが決めた横断幕やフラッグ類の持ち込み禁止で、そこには中身について議論し判断していくべき運営責任者側の判断の放棄があり、そしてサポーターの側がこれは妥当なのかそれとも違うのかを考え実行に移す機会の奪取がある。

 考えずして進歩はなく、理解なくして行動はない。にも関わらず考えさせず理解させない処置にいったいどれだけの意味がある? どれだけの効果がある? それはいつかこの社会やこの国に思考の停止をもたらしかねない。言われたことだけを是として他を否とし、諾々と従っていくだけの人間を生みかねない。差別なり弾圧と戦う気持ちも育まれない。差別や弾圧があることにすら気づかない。そんな社会でありそんな国になっていく予感が浮かんで頭から消えない。拙いなあ。本当に拙いんだけれど、そういうことに気づいている人が、横断幕やフラッグの掲出禁止に対する異論なんかを見る限りにおいて、この国にはまだまだ大勢いるように見えることが救いか。

 だから早くチームにも気づいて、より真っ当な対応をとって欲しいけれど、この期に及んでフラッグの意味が、ゴール裏に日本人以外を入れたくなかった、ゴール裏は聖地で、日本人以外が入ると統制が取れなくなるという掲出者の言い訳を信じ込んでいるからなあ。どうして日本人じゃないと統制がとれなくなるんだろう? 同じチームを愛する心に日本人とか外国人とか新参者とか古参とか、関係ないんじゃないのか。そしてそういう新参者にチームへの愛し方を教えていくのもゴール裏。そうやって栄え繋がってきたものを、外国人だからという理由で排除しようとするのは何かおかしいんじゃないのか。もっと別の意図があったんじゃないか。そう考えてみたくなる。

 言い訳が本当だったとしてもそれ自体が明白な差別であることには変わりがないし、そういう言い訳の中には広く外国人というより、特定の民族に対するいわれなき反感なんかも潜んでいそう。チームが出しているオフィシャルマガジンのサポーター対談で堂々、そうした民族への嫌悪感を示す意識があることを喋っているチームだし。頑張れば認めてやるとも言っているけど、それは民族とは関係ない。誰だって公平に認めるべき目が最初から色眼鏡になっている状況を、オフィシャルマガジンで世に喧伝してしまえる雰囲気をこそ、真っ先にどうにかしないといけないんだけれど、そこに気づいている風はないからなあ。どうなることやら。どうしていくことやら。

 ぼんやりと見ていたアルガルベカップの女子サッカー日本代表とドイツ代表の試合は、前半を0対0で折り返してこれはなかなか好勝負、アメリカ戦と違ってサイドからの攻撃なんかもいっぱい出来ていて得点のチャンスも結構あって、あとは決めるだけだと思って見はじめた後半に、いきなり点を奪われそれからさらに失点を重ねて、結果的には0対3で敗戦してしまった。点が取れなかったことがまず問題で、決めるべきところできっちりと決めるようにしていくことが、来るワールドカップ予選での勝利に繋がるんだと改めて自覚したんじゃなかろーか。それから前半と同様に後半も守りきる体力か。そこはまだシーズンが始まってもいない日本の女子にはキツいところ。予選までには快復してくることだろう。

 ゴールキーパーとして初戦のアメリカ戦でもゴール前に立った山根恵里奈選手を、この大切なドイツ戦でも起用したことに、佐々木則夫監督の期待の高さも伺えて、その期待に応えきったかどうかがこれからの代表でのポジション確保に繋がりそうだけれど、ドイツ戦ではうーん、3失点はやっぱりキツいか。ただサイドからのクロスとかゴール前でのボールの処理はきちんとしていたようで、失点はやや遠目から放たれた女子代表にあるまじき激しいスピードのシュートに間に合わなかったことが要因。なでしこリーグの試合に慣れていると、ああいった女子にはなかなかないシュートにはやっぱり追いつけなくなってしまうんだとしたら、これからの練習で男子を相手に本気の守備を体験させるようなことをしても良いんじゃなかろーか。高さは申し分ないだけにあとは反応の速度。それさえ身に付けば世界だってねらえる逸材なんだから。応援していこう、ジェフレディースの選手でもあることだし。


【3月12日】 時雨沢恵一さんのライトノベル界をテーマにしつつ間に魅力的な作中作なんかも挟んで読ませる一風変わった、そしてとてつもな面白いライトノベルという「男子高校生で売れっ子ライトノベル作家をしているけれど、年下のクラスメイトで声優の女の子に首を絞められている。1 −Time to Pkay−<上>」(電撃文庫)の続きにあたる「男子高校生で売れっ子ライトノベル作家をしているけれど、年下のクラスメイトで声優の女の子に首を絞められている。2 ―Time to Play―<下>」が出たんで呼んだらなるほど、男子高校生で売れっ子ライトノベル作家そている少年が年下のクラスメイトで声優の女の子に首を絞められるのも当然だと思った。しかし長いなあタイトル。書いているだけで疲れてきた。

 そんな「男子高校生(以下略)」は、相変わらず列車内で声優と彼女が出演しているアニメの原作ライトノベルを書いた少年とが会話をしながらライトノベル業界のあれこれについて明かしていくという展開。印税がいくらくらい入るのか、ってのは興味の向かうところだけれど、人によって様々なのであんまりあてにはできないかも。1000万部売れる人もいれば1万部がやっとの人もいる訳だし。それよりやっぱり売れっ子ライトノベル作家の男子高校生が首を絞められる理由か。首を絞めたクラスメイトの声優は作家が嫌いだったのかな。憎かったのかな。それはつまり作品のファンでありキャラクターのファンでしかなかったってことなのかな。そういうのって作家にとってどうなんだろう、○○のファンです、っていうファンは作家個人のファンではないってことなのかな。なるほどだからキャラを粗末に扱うといろいろ送りつけられることもあるのか。作家も大変。でもなりたいなあ、書評家では尊敬もされなければ関心すらもたれないからこの界隈。頑張ろうそのうち。

 声優のあきやまるなさん死去の報。まだ名古屋にいた時代の、世間でもあんまりアニメ関係のラジオなんてなかった1981年に東海ラジオが何を考えたのか、「週刊ラジオアニメック」という番組を始めてそれに出演しては、甲高い声でもって「週刊ラジオアニメックはただいま放送中でーす」と叫んで、聴いてる僕たちの耳を貫いてくれたのが当時の秋山るなさんだった。調べると編集長という名のメインパーソナリティはあの肝付兼太さんで、そういえばそうだったと思い出すこともあるし、岡本りん子さんというリポーターの人も出演していたことを覚えている。でもやっぱり強くどこまでも印象に残ったのは、秋山さんのスピーカーを振るえさせる雄叫びだったりする。それこそ星の数ほど声優さんはいるけれど、雄叫び1発で30年以上経った今も大勢の思い出の中に自分を定着させた秋山さんの凄さは、その後の順調な仕事ぶりにも反映されたんじゃなかろーか。声優さんには巧さも必要だけれど、かけがえの無さもやっぱり必要なんだなあ。謹んでご冥福をお祈りします。

 今でこそラジオをつければ声優さんが登場して、アニメの宣伝をするラジオ番組なんてそれこそ帯であるけれど、1970年末から80年代ではまだアニメなんて取り上げてくれる番組はほとんどなく、せいぜいニッポン放送の「オールナイトニッポン」の中で「宇宙戦艦ヤマト」が特集されるくらいだったっけ。そんな中でラジオ大阪は比較的早い1970年代末に「アニメトピア」という番組を放送していて、それが名古屋にもネットされるようになって、今は「ONE PIECE」のルフィの役で超売れっ子になった田中真弓さんが、ようやくいろいろなアニメに出演しはじめた頃合いでパーソナリティを努めていて、ちょうどアニメ化された「さすがの猿飛」の忍豚の真似とかやってくれていたのを何となく覚えている。相方は美少女声で鳴る島津冴子さん。その可愛らしさと田中さんの破天荒さが強く印象に残っているんだけれど、その後あんまり聴かなくなって5代目パーソナリティとして川村万梨阿さんが出演していた、ってのはちょっと記憶にない。大学に入って忙しくって聴かなくなっていたのかも。

 そんな名古屋におけるアニメ関連ラジオ番組として、わずか10回という短命ながらも「アニメステーション」というのがCBCラジオで放送されていたことがあって、そこには「超時空要塞マクロス」の一条輝役で大人気となった長谷有洋さんが登場して、ちょっぴり気弱だけれど優しさを含んだ声を聴かせてくれていたっけか。出演していたゲストも調べると小山茉美さんに平野文さん佐々木るんさん戸田恵子さんといった具合に、今は重鎮で当時も人気のあった人たち。「マクロス」のリン・ミンメイを演じた飯島真理さんとそれからマクシミリアン・ジーナスことマックスの速水奨さんも出演していて、これは聴いた記憶があったりして、結構人気かなあと思っていたらあっという間に終わってしまった。やっぱりCBCにアニメって相性が悪かったんだろうか。選択が当時としてはマニアック過ぎたんだろうか。今ならとてつもない大御所たちのそろい踏み。聞き直したいけど録音なんて残ってないんだろうなあ。録っておけば良かった。そんな長谷さんは1996年に没。こんなにもマクロスシリーズが長く人気になっている、その原点とも言える人だけに惜しまれる。改めて合掌。

 やっと見た映画「赤×ピンク」はおいおい「R−15」で良いのか「R−18」じゃないと拙いんじゃないかってくらいに過激な描写がいっぱいあって眼福。同じ少女というか女性たちの間に通う感情の複雑で入り組んだ様って意味だと、金子修介監督による「ジェリー・フィッシュ」という映画もあって、まるでノンケに見えた少女が同じ学校の少女の誘いで自分自身に気づいていくけれど、誘った少女にはそうした主体的な意思はなくって流されていくばかり。そして離れていった後、未来の街角ですれ違った2人の対照的な姿ってのが結構心に残った。自分を貫いていこうとする気持ちの大変だけれど素晴らしく、そして主体を持たず状況に流されていくことの悲しいけれどそれが現実だという切なさが感じられたっけ。また見たいなあ、DVDとか出ないのかな。

 そんな2人の少女のすっぽんぽんでの絡み合いとかがあって、だからR−18になったんだろうなあと思った「ジェリー・フィッシュ」以上にすっぽんぽんが出てきて、それもくっきりと下のもじゃもじゃなんかも映ったりする「赤×ピンク」がR−15なのは何だろう、男女の営みあたりに直裁的な表現がなかったりするからか、ヤってはいるけどその部分は映してないからか。ちょっと分からない。ただ裸の量は圧倒的に「赤×ピンク」が多くって、主役の皐月を演じた芳賀優里亜さんとその相手として登場した千夏役の多田あさみさんは、ともに全裸の背中を見せ、そして胸もさらけだしてもじゃもじゃも見せてはベッドの上で絡み合ったりするし、そんな2人といっしょに地下格闘イベント「ガールズブラッド」に参加しつつ、昼間はSMの女王様の仕事をしているミーコを演じる水崎綾女さんが相手にする女性の客とかも、豊満な胸とかさらして見せたりする。

 一方で格闘シーンでは誰もがコスプレはしているけれど、蹴ったり泥んこになってとっくみあったりする中で、下半身とか大きくみせるは下に身につけているものをのぞかせるはと大盤振る舞い。加えて本気の殴り合い。そこはスタントも入っているのかもしれないけれど、アップになるような場面では役者たちがその身でもって蹴りあい殴りあって締めあう。暴力の多さって意味でも「ジェリー・フィッシュ」以上なんだけれど、それでもR−15ってのは何だろうなあ、製作した側がせめてそのくらいじゃないとお客さんが入らないって希望を持って映倫に臨んだから? それはないだろうけれど、そう考えたくなるくらいに裸も格闘も超過激。流石はアクションが得意な坂本浩一監督だけのことはある。「009ノ1 THE END OF THE BEGININNGS」もアクションいっぱいあったし。

 そんな「赤×ピンク」のストーリーは、非合法格闘イベントに登場する少女というよりもはや女性といった面々が、それぞれに抱えている悩みをぶつけ合うといったもの。そこに空手道場の跡取り娘ながらも夫の暴力に耐えかね逃げ出した千夏という女性が絡んできて、格闘イベントの存亡をかけた戦いにまで向かっていく。格闘シーンがあって裸の絡み合いがあって最後の戦いに向けた訓練があって、それぞれが自分をつかむドラマがあってとステップを踏んで見ていけるから、2時間近くの長さは気にならない。ちょい格闘シーンとか長いかな、そんなに鍛錬シーンを撮る必要があるのかなと思わないでもないけれど、女性たちが戦い鍛える姿って見ていて決して悪いものではないからね、これが男だったらちょっと辟易するかもしれないけれど。

 それぞれに抱えた悩みが戦いと交流の中で解きほぐされていくという展開で、気になったのが皐月の属性か。決してほかのメンバーとはいっしょに着替えないし、シャワーを浴びている姿を千夏に見られることも嫌がる皐月は、単なる恥ずかしがり屋かというとそうでもない。自分のそうした姿態を理由があって気にしているからなのかもしれないけれど、そういう態度として現れるものなのかどうなのか。強い自覚はあるようで、それで親とも喧嘩をしている状況だけれど見た目はまるで変えていないし言葉づかいだって……。そういう属性にあるならまずすべきことをしていないのは、置いて逃げ出して来た親への申し訳なさがあるのかもしれない。

 そんな皐月が千夏をどういう目で見ているか、そして自分として千夏をどうしたいのか、なんて部分でも「ジェリー・フィッシュ」的な耽美さをうかがわせる絡み合いであって良いのに迷う。でもだからこそ、観客にとってはスレンダーだけれどちゃんと出るところは出ている皐月こと芳賀優里亜さんの姿態と、そして多田あさみさんのこっちはとってもグラマラスな姿態が絡み合いむつみ合う様を耽美的な観点から楽しめる訳で、そんな2人の間に通う心情がどういったものなのか、ってことはあんまり考えさせない。そこに踏み込むと本当に繊細な描写が必要になるだろうから、これはこれで良いのかな、どうなのかな。

 役者では「ガールズブラッド」を運営しているオーナーを演じた山口祥行さんの存在感も強かったけれどやっぱり千夏の旦那として登場した榊英雄さんのニヤっちゃけてそれでいて強さも持った演技が最高。「VERSUS」の頃から本当に存在感のある役者だったけど、歳を重ねても代わらずむしろ演技の幅を広げて他に代え難い役者になって来た。こうした人が主役を張って悪玉でもアウトローでも演じる作品があれば日本映画ももっと面白くなるんだけれど、そういう役はタレントやアイドルに回ってしまうんだよなあ、興行的に。だからずっとバイプレーヤー。勿体ない。同じように脇で光っていた北村一輝さんが主役を射止めた「猫侍」のような作品が、榊さんにもあればなあ。


【3月11日】 セクハラする意図なんてなかったんだよと言ったところで、職場にヌードのカレンダーを飾ったり、疲れただろうと言って女性社員の肩に手を置いて揉んだりして、それをセクハラと感じる人がいたらやっぱりセクハラだし、そう感じる人がいなかったとしても、そういうことをやっている会社だという認識が、外に広まった時にセクハラを許しているとみなされ、いろいろと問題になるだろう。そこにどんな意図があったかはこの際関係なくって、結果としてどう見えたか、そして世間がどう受け止めたかといったことが重要。ドメスティックバイオレンスのように、暴力をふるわれている当事者にそれが暴力だという認識がなかったり、抱けない心理状態に追い込まれていたとしても、傍目には絶対的なドメスティックバイオレンスだったりする例もある。

 それにも関わらず、Jリーグは「JAPANESE ONLY」なんていう横断幕をサポーターがスタジアムに張り出したことについて、どういう意図があったかをチームに調べてもらってそういう意図があったら厳正に処分すると言い、そして調べたチームはそういう意図はなかったらしいと発表。つまりはそこに差別的な意図はなかったということでめでたしめでたしと言って終わりにしようというストーリーが見え隠れするんだけれど、すでに事態は世界に報じられて、傍目には差別的にしか見えない言辞が日常的に繰り出されていると見なされている。当人たちに意図があろうとなかろうと、結果を重く見て厳正に対処しないと将来にとんでもない禍根を残すことなのに、動こうとしない彼らはいったいどこを見ているのか。自分の足下なんだろう。滅びるかもなあ、遠からずこの国ごと。

 せっかくだから、もうちょっとだけ東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻第五期生修了制作展、って始めてフルネームで書いたアニメーションの発表会で見た作品について。岡本典子さんの「WARRIORS」って作品は、ただ身に筋肉だけをまとった男どもがぶつかり合ってラグビーをするという話で、とにかくアクションアクションアクションアクション筋肉アクション汗筋肉アクショントライといった作品。よく動くしなによりパワフルで画面から飛び出してくるような迫力がある。たぶん「キルラキル」的に極端なパースをつけ省略なんかも混ぜつつ動かせば、スピード感と迫力は十分に出せるんだろうけど、そういう風にはしないで最初から最後までしっかりと描きつつ、途中でプレーヤーどうしが混ざり合うような動きもいれて渾然としてくんずほぐれつの男共による肉弾戦って奴を描いてみせる。きっと筋肉が好きなんだろうなあ。いやそれはどうだか知らないけれど。

 川上彩穂さんという人の「おでかけ」という作品は粘土がぐにょぐにょと動いていたけれど、その背景がしっかり描き込んであったからこそ無機的な粘土のぐにょぐにょも映えたって感じか。中野咲さんの「花芽」という作品は、情念が静かに揺らいでたといった雰囲気。「なまずは海に還る」の岩瀬夏緒里さんはそうか「婆ちゃの金魚」の人か。人間の日常芝居とか表情芝居が巧いなあ。老いて朽ちていく人と飼われている魚類というのは何か主題として気にかけているところがあるんだろうか。「なまずは海に還る」は社会に壁を感じていない子供の無邪気が見ていて嬉しくも残酷。廃墟から掘り出され子供に抱えられたなまずがぷくぷくして可愛かった。なまずって海でも大丈夫だったっけ。

 若井麻奈美さんの「ひとりぼっちのヒーロー」は、イラストとして見ても完成度が高い暖かくて柔らかそうな小学校の描写で、子供の孤独めいたものが滲んできて不思議な感覚を味わった、かな。子供の髪の毛の付け方がなんというかすだれ満月というか、独特。でもちゃんと子供に見えるんだ。不思議な味付け。絵としての完成度というなら1年次の米谷聡美さんの「The Closet」も。母親に新しい赤ん坊ができてあんまり構ってもらえなくなったお姉ちゃんが、拗ねて赤ちゃんをクローゼットに閉じこめてしまうアニメーションのビジュアルが可愛らしくてとても良くって、そのまま絵本になっても人気が出るんじゃないかと思ったほど。共感を得られそうな内容はEテレで放送されても十分に受け入れられるんじゃないかなあ。たぶん東京工芸大での卒展でも見ている人だけど、この腕前ならさらに凄いのを作ってくれそう。修了展に出る時は行かなきゃ。

 飛び道具的だなあ、と思ったのが幸洋子さんの「黄色い気球とばんの先生」で、畳みかけるようなナレーションでもって小学校時代の日々とか出来事とかが語られ、それにあわせて絵が流れていく展開は、去年のICAFで見た菅沼花絵さんの「オンリーマイマドンナ」をちょっとだけ思い出した。あれは超飛び道具だった。とはいえあそこまで突拍子もない展開と反則技のような紙芝居展開ではなく、記憶が勝手に上書きされ捏造されてしまう小学校時代の思い出って奴について考えさせてくれる、不思議だけれどしんみりしたところもある作品だった。岩石園って言葉が出てきたけれど、そういえばあったなあ、うちの小学校にもそんなものが校舎の裏に。でもって誰も立ち寄らず授業にも使われていなかった。あれは誰が何のために作ったんだろう。力も尽きてきたのであと1人。山下理沙さん「形而上の無限思考」は、CGによるレトロでメカニカルな世界観とキャラクター造形が魅力。その腕にどんなストーリーをこれから乗せて作品を送り出して来るか。修了作品を見たい人かも。

 鬼灯ならぬ「えんまさまの冷徹」といった感じだった久世千歳さんの「えんまと希望の星 幽霊少女と地獄の詐欺師」(C☆NOVELS)は、地獄でなぜかえんまさまが激しい責め苦を受けていて、それで合間に地獄に来た亡者を裁いているといった設定からして何か曰くありげ。でもってそんな地獄から詐欺師の口車に乗せられ、30人近い亡者が逃げ出したのをなぜかわざわざえんまさま自らが追いかけ地獄にたたき落とす役目を買って出る。どうやら亡者たち、先にえまさまが地上に転生させた「彼」という人物に何か力があって、それを喰らえば転生できると詐欺師によって焚きつけられたから地上へ逃げた様子だけれど、当の「彼」らしき公弘という名の少年はそんな自覚はなく、施設で育って今は大学に行く資金を貯めようとコンビニエンスストアでアルバイトをしている。そこに来る謎の客。スーパーで買ったような適当な服装をして、いつもおでんのこんにゃくとしらたきばかりをあるだけ全部買っていく。

 その時はただの妙な客としか思わなかった公弘だけれど、前後して寝ているときに幽霊の女性が現れたりして妙だと怯え、そしてバイト帰りに歩いているところを亡者に襲われ、何かが起こっていると気づき驚く。そこに現れたおでんさん。自分を地獄のえんまさまだと言い「彼」こと公弘に関心があり襲ってくる亡者たちを返り討ちにするけれど、それで守ってもらったと感謝されるどころか、奇妙なことに巻き込んだなと公弘から怒られる。何か浮かばれない。なおかつ公弘を狙う詐欺師によって焚きつけられた、つい先だってさらわれ殺され近所に捨てられていた女の子の幽霊が公弘に抱きつき、その精気を吸い取るようなことをしてえんまさまに咎められ、そのまま地獄送りにされる。なんて残酷な可愛そうなと公弘は言うけれど、彼が弱ると知って抱きついたのは彼を殺す意図があったからだとえんまさまは言って地獄送りは当然という顔をして噛み合わない。

 それはえんまさまの「彼」への思いの発露でもあったんだけれど、そんな過去を知らず女の子の不幸を自分の境遇にも重ねて同情する公弘には通じない、そのすれ違いぶりがどこか悲しい。とはいえそれで怒らず嘆かず静かに淡々としているところがえんまさま。きっと何か考えがあるんだろう。そんなストーリーに平行して、地獄での獄卒の日々なんかも挟まれているところは、どこかやっぱり「鬼灯の冷徹」風。サラリーマン化してオートメーション化なんかしているところも。そして話はまだ何も明かになっておらず、「彼」はどうして地獄に来てそして無理にも転生させられたのか、そんな「彼」とえんまさまとの間にいったい何があったのか、それに気づいた時に公弘は何を思うのか、なんてことが次の巻で明らかにされるのかな。えんまさまが地獄で煮え湯を飲まされ続けていることも含め、楽しみにして待とう。

 今日、という日は誰かを祈る日であり何かに捧げる日であって、誰かを奉ったり何かを讃える日ではない。あるいはひとりひとりが誓う日であり決意する日であって、国体への報恩を感じ結束するよう求める日ではない。だからたいていの新聞は1面で祈る人や再起を決意する人をとりあげ、写真や言葉で報じていたにも関わらず、どこかの1紙だけはなぜか夜の神社を撮影した写真を載せ、その背後に長時間露光でもって北極星を中心に円を描く星々の写真を合成して、どこか深淵な雰囲気を出そうとしていたんだけれど、それのいったいどこがあの日に起こった出来事と、それによって失われた命に対する鎮魂なのか。なるほど写っているのは福島県にある神社だけれど、そこに誰もが何かを祈っている訳ではないし、そもそも神道だけが祈りの対象ではない。にも関わらずそんな写真を合成までして載せて、いったい何を訴えたいんだろう。

 想像するなら、神によって統べられたこの日本という国に生かされている国民だという自覚をそこに持たせ、そんな神に国体というものを重ねて感じさせるようにして、この国への関心から忠誠といったものを抱かせ、国がすることに対しては常に賛意を示すように導いて行こうっていうひとつの魂胆が、そんな写真に込められていたりするんだろうか。東北への思いを今だれもが抱くことは当然だという文章は、なるほど至極真っ当だけれど、それを国柄として国民はあまねくひとつの思想に倣うべきだといった押しつけも、そこに込められていたりする感じがあるから注意が必要。それは誰かによって押しつけられるものではなく、ひとりひとりが考え行動すべきもの。国とか神とかいったものの下で動かされるものではなく、国も宗教も超えてひとりひとりが取り組むべきもの。だから神社の空を動く星になんて感動しないし、その呼びかけも受け止めない。そしてひとり祈ろう。ひとり決意しよう。その重なりが、その広がりが世界をぜんたい幸福にする。


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