縮刷版2014年12月中旬号


【12月20日】 次こそは万城目学さん。ってな感じに来年1月に発表になる直木賞の候補作が出そろっていて、そこで万城学さんの連作的短編集「悟浄出立」が候補になっていた。あの「週刊文春」で連載してそして文藝春秋から満を持して送り出した「とっぴんぱらりの風太郎」で獲れず、もうこれで打ち止めかなあ、なんて心配していたけれどもやっぱり、エンターテインメント小説の世界に多いマキメー(万城目ファン)のプッシュもあったか、最終候補へと入りこんできた。「鹿男あをによし」に「プリンセス・トヨトミ」「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」ときて「とっぴんぱらりの風太郎」といった具合に、出した7冊の小説うちの4冊が直木賞候補。それだけでもすごかったけれど、こうやって8冊目が5度目の候補となったからにはもう、確実と思いたいけれども果たして。

 ライバルになりそうなのはううん、読んでないから分からないけれど旬っぽさで西加奈子さんが「サラバ!」で2度目の候補になっていて、勢いから可能性がありそうだし、大島真寿美さんも「あなたの本当の人生は」で初の候補だけれど、最近よく見る名前だからやっぱりありそう。あと女性作家ってこともあるし。青山文平さんの「鬼はもとより」と木下昌輝さん「宇喜多の捨て嫁」はともに時代小説だけれど、獲るとしたらどっちかの作品だろうか。ってそれを言うなら万城目さんも一種の時代小説的? それともエンターテインメント? ってことで想像するなら万城目さんと西さんのW受賞になるのかな、なって欲しいけれども果たして。芥川賞は……分からないから小谷野敦さんってことで。

 そういえば次の日本SF大賞の候補作も決まっていて、藤井太洋さんの「オービタル・クラウド」が去年の「Gean Mapper」に続いて候補作になっていた。これが可能性として1番高そうで次いで、菅浩江さん「誰にみしょとて」が入ってきそうな印象。そして長谷敏司さん「My Humanity」が候補になったけれども、これは短編集なんで個々の作品が持つ味を選考委員がどう評価しつつ、それらのまとまり具合を見日ってあたりになるのかな。ベテランでは谷甲州さんが「星を創る者たち」で名前を連ねているけれど谷さん、前に獲っているから2度目かと思ったら、星雲賞には縁はあっても日本SF大賞には縁がなかったみたいで獲れば初。これは意外。ならば今回こそって思ったけれど谷さん、選考委員は今回やっていたんだっけ? 前回は入ってたけど。そのあたりどうなるんだろう。評論から岡和田晃編「『北の想像力≪北海道文学≫と≪北海道SF≫をめぐる思索の旅」も入っていたけど、読んでないんで評価不能。さてもどうなる? そして待ち会は? 発表が楽しみ。

 ど寒いけれども、これは見て置かなくちゃとテアトル新宿まで行って、武正明監督の「百円の恋」を舞台挨拶付きで見る。いやもう弁当屋の2階で何もしないで食っちゃ寝している一子って女子というか30過ぎた女の怠惰っぷりがすごいすごい。その肥えた体を隠しもしないでさらけだしては、姉の子供とゲームに興じるか寝るか食うか寝るか寝るかという日々。でも離婚して戻ってきていた姉との折り合いもあまりよくなく喧嘩の絶えない日々に母親もキレて叩き出される。当然だよなあ。

 そしてとりあえず、近所のアパートに落ち着き常連客として通っていた100円コンビニでアルバイトを始めながらも、それまで行き帰りに見ていた近所にあるボクシングジムが気になってのぞいていたら、そこに通ってきていたプロボクサーに誘われ、試合を見に行って何か目覚める。女に。いやそっちは半ば乱暴狼藉の果てに奪われたんだけれど、それで落ち込むメンタリティでもないのかあるいは内になにかを秘めていたのか、ボクシングを倣い始めてやがて狩野って一子をさそった元ボクサーも転がり込んできては、豆腐屋の美女に靡いて出ていったりしながらも、ボクシングは辞めずにひたすら鍛えてそしてプロになって試合までして……っていうストーリーは、ともすればサクセスなスポーツ物って思われるかもしれない。

   でも、出てくる奴らはコンビニの店長から本部の人間から同僚から後輩から元同僚で今はホームレスか何かの女から、みんなぐうたらばかりで見ていて人間、そこまで行くんだろうかと不気味になりつつ、自分だってあと半歩でそこだろうなあという自覚もあって戦慄する。だからといって一念発起、始めたボクシングで勝っても負けてもそれほどの地位にいくわけでもないというこぢんまりとした世界。やりきれなさはあるけれど、それでもというよりだからこそ、ちょっとだけでも前に進みたい、上には行ってみたいという気持ちが一子の中に浮かんだんだろう。負けて泣き出すその仕草。始めて露わになった感情のその先に、どんな日々があるのかがちょっと知りたくなって来たし、自分もそんな境地に辿り着いて見たいと思えてきた。

 怠惰で低体温でぐうたらで口下手でコミュニケーション不全だけれどボクシングには熱を示す斉藤一子を演じた安藤サクラさんがとにかくすごい。そのぶゆぶよな体からボクサーとしてしまった体までをちゃんと演じてみせている。デ・ニーロみたいだ。でもそれを10日でやってしまったというからさらに驚き。やれば自分も出来るかな。でもって一子という女性、口調も怠惰さにあふれて口下手で感情を内にこめてようやく吐き出すような辛そうな人間だけれど、そんな中に精一杯に生きているって感じが滲みでてくる。それを演じきった安藤さん。すごい女優だ。そして元ボクサーの狩野を演じた新井浩文さんは、舞台挨拶なんかで喋れば「ヘルタースケルター」のオカマのメイクみたいに饒舌なんだけれど、演じると寡黙でストイックで、それでいてどこかヘンな人間っぷりを見事に表現していた。「ゲルマニウムの夜」の主人公もそういえばそんな感じだったなあ。巧い役者。

 そんな2人を脇を固める面々の達者ぶりに支えられ、飽きずに見て行けたストーリーから、平凡で怠惰でやりきれない日常の中であっても、目標を持ち勇気を持ち怒りを得ることで、ちょっとづつ変わっていく姿と心が見えてくる映画だった。ああやって生きていて良いんだって思えた。でもちょっとは頑張ろうって思った。そして愚痴らず前を向いて何かをつかみ取ろうと思った。そんな風にこれから生きていけるかなあ。年をとってから自分に自信がないと辛いと一子の父親が言っていたけど、そんな風にならないために今、なにをするべきなのかを考えよう、この年末年始に。とりあえずジャンボが当たることを願いつつ。怠惰だなあ。

 わははははのは。理化学研究所におけるSTAP細胞の再現実験がすべて失敗に終わって、結果的にSTAP細胞の存在が立証されなかった件について、報道機関の誤報っぷりを調べて伝えているサイトがあの発見の騒動の後、持ち上がった疑いに対して異論wお指し挟むように成功を伝えた新聞があったことを取りあげて、「小保方氏が行った再現実験で、論文と同じ手法でSTAP細胞の作製に成功したとする一部報道があったが、その主要部分は誤報だったことが確定した」って書いてきた。だって出来なかったし出来てなかったんだから誤報に間違いはない。でもそれが訂正された後はなくってむしろ未だ燦然と輝いていたりするから話がややこしい。

 なおかつ結果としての誤報をやらかした新聞が小保方さんによる再現失敗を受けて歴史ある1面コラムでもって思いっきり、理研を非難しているからたまらない。まあそのこと自体は「ただし、問題は、終わったわけではない。反省しているようには、とても見えないご仁もいる。『前途ある若者なので、前向きに新しい人生を歩まれることを期待しています』と、彼女について人ごとのようなコメントをした野依良治理事長である」って感じに責任者の無責任ぶりを非難するものだからあながち外れてはいないんだけれど、ただ非難のし方が「そもそも未熟な研究者の論文をろくに検証もせず、大々的に発表した責任の過半は、理化学研究所にある」って言うんだから言われた方もたまらないだろう。

 未熟な研究者の論文をろくに検証もしないで大々的に発表した組織の発表を、ろくに検証もしないで掲載して、あまつさえありもしなかったことを掲載したのはどこの新聞だったか。そんな自省があるならとても言えないんだけれど、これに続けて「あの朝日新聞でさえ、慰安婦報道をめぐる問題や福島第1原発事故の『吉田調書』誤報の責任をとって社長が辞任した」って書いてしまっているからもう吹き出すしかない。他社のことを言ってる場合じゃないだろう? それを言うなら自分のところはどうなるんだ? ってすぐさま突っ込み返されるのは確実なのに。

 なんてことは、生きていくだけの頭があるなら考えれば分かることなんだけれど、それはそれと割り切っているのか、もしかしたら頭というものが空前絶後な状態になっていてまるで気づいていなかったりするのか。いずれにしてもこうやって我が身を見ずして人の振りばかり誹る態度の真っ直ぐぶりには、呆れとか怒りといった感情なんてものも超越した感嘆しか覚えない。「野依氏は偉い学者さんではあるが、トップリーダーとしての身の処し方は、ノーベル賞をとっても身につかないようである」。トップリーダーとしての身の処し方ねえ、だったら見せて欲しいって言われるんじゃないのかなあ。己らが頂くトップリーダーとやらに率先して。さてもどうする? どうもしないか。やれやれだ。


【12月19日】 ちょっと前に近所を歩いて署名を集めていたベイビーレイズが、その署名の結果どうにか日本武道館の公演を成し遂げたみたいで、それはそれで目出度いんだけれど何か、満員じゃなかったからもっと日本で上を目指すんだとか言い出して、名前をベイビーレイズJAPANに変えるって発表をしたらいし。プロレス的だなあ。あるいはASAYAN的というか。ハードルを与えてそれを超えるドラマ性って奴で認知を誘い、情動を刺激するって戦略はまあ、よくある話だけれどもそれをどこかあからさまに繰り返し、成し遂げた武道館公演にすらケチを付けるようにして、新たなハードルを設けてはやってる方も面倒だし、見ている方もどこか応援しづらくなる。偉い人たちのタクラミに荷担しているみたいで。

 例えばAKB48とかのシャッフルとかトレードなんかがうまいのは、そうやって関心を交わせつつそれを成し遂げることによって確実に、何か得られる物があるって当人たちに思わせているし、応援する方もそういう彼女たちに付いていくことで、得られる感慨があるってことを分かっている。あるいはモーニング娘。の初期のハードルもそうやって、どこの者ともしれない存在が上に行くために必要なことだと当人たちに思わせそして、応援する側も青田買い的な感情を抱くことが出来た。ベイビーレイズはなあ、普通に売ってあげれば頑張るだろうものを、無理に何かハードルを与えてドラマを乗せているようで、押しつけっぽさがあって逆に引いてしまいそうになる。

 ももいろクローバーにZがついた時は、メンバーがひとり抜けてさあ心機一転、ここから新たなスタートって感じがあって、そして改名を境にキャラ性も打ち出して上を目指していった結果が今の成功へとつなあった。JAPANとつけただけのベイビーレイズにそういうドラマ性はあるんだろうか。というかJAPANって付けたことによってどこか存在あ矮小化され限定化されてしまったような気すらする。これがもうちょっとデカい名前だったら良かったのに。ベイビーレイズUSAとか、ってそれだとアメリカ進出か。ベイビーレイズPARIS。シャンソンかよ。ベイビーレイズGALAXYとかベイビーレイズANDROMEDAとか、そんな遠大な名前をつけてより高みを目指してくれるって大ボラ吹いてくれたら付いていったかもしれないなあ。まあでもとりあえず次に向かって動き出した彼女たちに、喝采を。

 詳細も発表になって盛り上がってきたニコニコが仕掛けるゲームの祭典「闘会議2015」だけど、その発表会に行って驚いたのはスクリーンとかにいわゆるゲーム実況の主たちが映し出されると、来場していた観客から黄色い歓声が飛び出したこと。それはもうジャニーズさんとか人気声優さんとかが登場した時に発せられるような歓声だったりして、それほどまでに若い層の男性に限らず女性にも、ニコニコでのゲーム実況ってカルチャーが浸透しているのかってことを見せつけられた。自分は最近ゲームをやらないし、人がやっているゲームを見るのもしないんで、そう騒ぎ立てる感覚は分からないし、仮に実況を見てもそれを演じている人たちをスターと思うかというとどうだろう? 巧い人でありある種のオタクであって尊敬はするけれど、持ち上げて讃えるような気分は多分起こらない。

 でも今の人たちは違うようで、楽しくゲームを実況できる人たちはスターで、その姿その声そのプレーを見るのは素晴らしいことだと思っている。すごい世の中になったなあ。そういう実況の隆盛が、ひとつ新しいゲームファンの育成に繋がってゲーム市場を新たに膨らませるって期待を抱いている人もいたけれど、プレーを見て喜ぶ人たちがゲームに向かっているって感じがあんまりないのは何だろう。共有という双方向ではなくスタートファンという一方向に止まってしまう感じ。あるいは自分でも実況でスターになるっていうモチベーションでゲームに向かう人がいるかもしれないけれど、実際は無料で見られて何か楽しげでそれを見ている体験自体を“共有”する方向にしか行かないような気もするなあ。果たして。ゲームはちゃんと人気なのか。売れていくのか。「闘会議2015」に行かねば。「Splatoon」のリアルゲームって奴も見たいし。水鉄砲で色インクをかけ合うのかな。

 そんな「闘会議2015」も仕掛ければカラーと組んでアニメーションの新作を送り届けるドワンゴの「日本アニメ(ーター)見本市」から登場した新作「until You come to me.」に誰もが仰天。エヴァじゃん。あるいはヱヴァ? 音楽を鷺巣詩郎さんが手掛け美術を串田達也さんが手掛けた作品は、庵野秀明さん平松禎史さん串田達也さんがレイアウトを行い平松さんが作画監督という「ヱヴァンゲリオン新劇場版」の面々が揃っただけに止まらず、キャラクターもシンジくんがいればアスカもレイもいたりして、そして崩壊した街に闊歩する巨人といった具合に、エヴァに登場したモチーフが乱舞する。それは「Q」の後のようでもあり「Q」の直前でもあるような雰囲気。次回作につながるものなのか、それとも没になったモチーフを改めて映像にしただけなのかは分からないけれど、しばらく新作に飢えていた身を潤してくれることだけは確かだろう。

 いったい何を狙ってこの映像が作られたのか、それを教えてくれるのが毎週月曜日に生放送で配信されている「同トレス」だった訳だけれども、この作品については解説生放送がないとかで残念至極。どいういう美術的要点があるのか、レイアウトにどんな工夫ああるのか、音楽とのマッチングはってあたりを解説してくれると役に立ったんだけれど聞きたい人はこれがエヴァの新作とどう結びつくのか、ってところになってしまいがちだからなあ。それで言わなければ文句を言われるし、言えばいろいろ差し障りが出る。だから解説はなしってなったか、それとも年末の忙しい時にやってれいられないってなったのか。事情は不明ながらもその分想像はさせてもらえそうなんで、環境の良いところでじっくりと見返してはアスカのまくれあがったスカートの下に見えるパンツや、片目を覆った眼帯に萌えよう、ってそこかよやっぱりポイントは。

 そして明けてのアギーレ監督続投に対するメディアの反応。「現実問題として既に日本サッカーはかなりのイメージダウンを被っている」ってサッカー記者として有名な武智幸徳さんが日本経済新聞の朝刊に書いていてまず「そうなん?」って思った。そもそも誰も気にしている風がないんだけれど。スポーツ紙だけが騒いでいるような感じだけれど。それとも世界では日本を悪と見なしているのか。それもなさそう。つまりは騒ぎたい人たちだけが騒いでいるって感じ。でもって武智さん、「どこかのタイミングで最悪の事態が発生したら、日本は八百長に絡んだ監督を頂いて試合をしていたことになる」からアギーレは辞めさせるべきだって書いているけど、でもそれを認めるのが推定無罪って奴じゃないの?

 「そんな危ない橋をこの監督を一緒に渡る義理がどこにあるだろうか」って武智幸徳さんは日経朝刊に書いてるけど、そういう疑いだけで排除して失職し放逐され苦しむ冤罪者がわんさか出ている悲しい現実を、率先して煽るようなことを書くのってどうなんだって思ったりする。「八百長の疑いからではなく、代表の監督業と法廷闘争を同時進行させるのは無理があると思う。お引き取り願う。アギーレ監督にはそちらの闘いに専念していただき、無罪を勝ち取った暁には復職を検討する」と武智さんは提案するけど、それってつまりは冤罪者は社会から一旦であっても排除されることを是認しているって話になりかねない。サッカー記者だからサッカー界だけの話をしているつもりでも、事はサッカーだけの話に止まらないって自覚がないのがどうにも辛い。

 そりゃあ疑惑を抱えている人あ上にいることを、親が子供に説明しづらいってことは分かるし、雰囲気だってあまり良いものにはならない。だからアギーレ監督自身が自らの出処進退を明らかにして、その信念として疑惑のある身で上に立つのは教育的にもスポーツ的にも潔しとしないと退任するなられはそれで仕方がない。でも周辺が「起訴=有罪」というイメージをここぞと煽って良いものか。そうした状況への配慮があまり見られない筆遣いがどうにも悲しい。もし僕にとっての分水嶺があるとしたら、現実に起こり得る冤罪或いは疑惑を被った者への社会的抹殺に配慮の筆を向けつつ、サッカー日本代表監督というポジションにおいて求められる潔癖さを論理として明示し、だから今任せる訳にはいかないというロジックを組み上げられるかどうか、って辺りか。告発受理だけではまだ早いし起訴だって同様。巧い道ってのを双方あ作ってあげるのに、今は期待するしかないんだろうなあ。さてもどうなる。


【12月18日】 日本バスケットボール界の混乱に、世界のバスケットボール界を仕切る国際連盟の事務総長がやって来て、解決を任せられそうな人間として白羽の矢を立てたのが元日本サッカー協会会長で元Jリーグチェアマンの川淵三郎さんという、またどうしてという気持ちと川淵さんならという気持ちが入り混じる展開となって、果たしてどんな答えが出るんだろうかと今から胸ドキ。ちょっと前から日本トップリーグ連携機構っていう、日本のスポーツリーグについて考える組織で副会長とかやっていて、バスケットボールで問題になっているナショナルリーグとbjリーグの代表者を同じテーブルに付かせた、って実績もあるみたいだからそれを買われてのことらしい。あとJリーグの立ち上げとか。

 けれどそれで何も進展しなかった、ってことはつまり意味がなかったってことでもあってその手腕なり権限に疑問も生まれていりする。今またFIBAから特別チームに入って何かやってくれって言われているらしいけれど、Jリーグというひとつの権限の下に権力も持って所属チームを仕切って反対するところは叩き出さんばかりの勢いで臨めたサッカーの時とは違って、バスケットボール界の問題をこじらせている企業の名前、運営の規模といった問題に対して、何かスパッと叩き切るような権限もそして土地勘も川淵さんがもっている感じがしない。Jリーグ誕生の立て役者、剛腕の持ち主だなんって褒めそやすスポーツメディアもあったりするけど、Jリーグは何も川淵さん1人で全部をまとめあげた訳じゃない。上に偉大な先輩もいて仲間たちもいた中で、チェアマンとして前面に出ていたのが川淵さんであって、すべてを決済して反対はを説得して誕生へと導いた訳じゃない。

 あと、あれはサッカー界がワールドカップ出場という1つの方向を向いていたから成し遂げられたことでもあって、同じように五輪への出場という目標を掲げながらも分裂状態を長く解消できなかった日本のバスケットボール界に、統合へのモチベーションなり目的意識を起こさせるのはいくら剛腕でも難しいんじゃなかろうか。必要なのはだからもはや誰か現場が責任をとらなくちゃいけなくなるようは話し合いではなく、誰に対しても説明ができてそれに従わざるを得ないような公権力の発動。だから文部科学省あたりが出ていって雷を落とすしかないんだろうけど、それができたらやっぱりここまでこじれてないよなあ。だいたい川淵さんも余所のスポーツに顔を出している余裕はないんじゃないか。アギーレ監督の八百長問題で揺れる日本サッカー協会で、自分の存在感を今一度見せられるチャンスに身を引いている場合じゃない。そっちを先にしていろいろと口を挟んで来そう。どっちもいったいどうなるか? 気になるねえ。

 とか言っていたらどうやら原博実専務理事と大仁邦弥会長の腰の据わった対応があったみたいでアギーレ監督の当面の続投が決定した模様。もちろん急転直下の新事実とか明らかになったり、スポンサーサイドの強硬な声があったらどうなるか分からないけど少なくとも、日本サッカー協会サイドは推定無罪の原則を貫き通してくれるみたい。それはそれで結構な話。もしも疑惑の段階で疑わしいからというだけで罰するようなことが起こったら、世間の空気はどんな事件にもただ逮捕された、あるいは検挙されただけでわんさか黒だ犯人だ極悪人だとレッテルを貼って責め立て、そして官権もそうした声に乗って無茶を通すようになる。

 そうならないためにもここで疑わしきは罰せずの理念を満天下に示して欲しかったんで、その意味ではありがたい。ただ拳を振り上げ背伸びまでしてパンチを繰り出そうとしていたスポーツメディアとか夕刊紙あたりはこれからもドンドンと書きたてて来るだろうなあ。「日本協会関係者によれば、“総辞職”を求める声もあり、早くも『後任人事の指揮は誰が執るのか?』との声まで上がっている」だなんて朝の段階で書いてたスポーツ紙もあったくらいで、いったい誰だよ関係者、でもって完全な誤報じゃないか、朝日だったら社長の首だって飛ぶぜってなことを平気でやらかしていたりする。その半生もせず絵空事の正義を繰り出し不安を煽って責め立てるんだろうなあ。それで「選手に動揺が」なんて書く。動揺させているのは誰だよ? まあそれも含めて日本のお寒いメディア事情。やれやれだ。

 自身で再現できなければもうどうしようもないなあ、STAP細胞。あると信じて命を絶った笹井さんの思いを受けながら、それでも作り出せなかったならこれはひとまず白紙に戻してどこに問題があったのかを、検証して公表するしか次に進めないような気がする。といっても公表すべき部分が例えば不正だったりしたらそれは命取りになる訳で絶対に言わないだろうし、それなら何か見せるはずの疚しさがまるでないのは当人が不正なんてまるで信じてなかったりする訳で言いたくても言えないだろうからやっぱり前には進めない。つまりはここで終わり、と。いったいその才知がどれだけのものだったか、もはや計り知れないけれども少なくとも、その手法はともかく博士号を取り、ハーバード大学にも留学していた才知のカケラを拾い集めればまた、何か新しいことをやってのけると思いたい。ここはこれまで。そしてここからこれから。そうなるかなあ。日本では無理か。やっぱり流出か。

 普段はあんまり読まないけれどもたまに面白い作品があるから探すのだけは止められない少女小説の分野。エンターブレインから出た群竹くれはさんという人による「城と天才と私 初恋の価格は国家予算!?」(ビーズログ文庫)がもう面白くって一気に呼んでしまったよ。現代ではないけれどもルネッサンス的で近世的でもある都市を実質的に仕切っている銀行家のひとり娘・サラには、政略結婚を望む男たちが群がるもののそういう男の熱気にサラは辟易。現実の男が大キライになってしまって図書室にこもっては空想の男性から愛を告白されるようなビジョンを妄想して過ごしていた。

 そんな彼女の秘密を知ってしまったのが天才建築家として名を轟かせるレオ。サラは他人に言えばイタい人間だと思われかねない秘密を取り戻そうとして、レオが望む城を建て街を作りたいという望みに協力することになってしまう。実力者で切れ者だけれど実は親バカのサラの父から大金を引き出し、さあ城作り街作り……にはなるかというとそうは簡単に進まないのが都市計画であり城作り。海辺に水路をつかって人や物をを運ぶような、つまりは現実のヴェネチアのような街を新たに作りそこに城を建てようとするレオの計画に賛成する勢力もいれば反対する勢力もいて先あ思いやられる。それらをどう説得していくかで、銀行家の娘で乙女的妄想家のイタい少女にしか見えなかったサラの才知と度胸が露わになっていく。

 少女小説ならではのガール・ミーツ・ボーイあるいはミーツ・プリンスといった物語であると同時に、大建築であり大規模都市計画という空前のプロジェクトを、お嬢様と若き建築家が成し遂げようと奔走する経済ドラマでもあったという、それがこの「城と天才と私 初恋の価格は国家予算!?」。経済を扱ったライトノベルは他にない訳ではないけれど、女性向けのビーズログ文庫から出てくるとはちょっと意外だった。しがらみがあってなかなか計画を聞いてくれない地域の人たちに、どうやって話を聞いて貰うかで有力者に直談判に行くだけに止まらず、そこから穴を開けて広げていく策略がなかなかすごかった。そんな才覚を持ちながらもどこかぞんざいでお嬢様らしくないサラのキャラクター、天才だけれどふんわかしていて、それでいて考えも深い建築家のレオにその可愛い助手といったキャラクターもたってて引きつける。なによりお父さん。親ばかっぷりが可愛いなあ。そんな感じに多方面から楽しめる物語。ビーズログって守備範囲じゃないって人もぜひ。


【12月17日】 浅野健一さんによる「犯罪報道の犯罪」って本が昔あって、警察なり検察なりが黒と疑って捜査にかかればそれはもはや有罪であって、犯罪者であって社会の穀潰しであって非難されて当然といった報道が相次ぎ、対象となった人はたとえ無罪であっても潔白であってもそのダメージが一生ついてまわって復活できないという、そんな指摘がなされてた。そして現実に多くの冤罪が明かとなって長い時間を牢屋で過ごしながらも解放された人が出始めたり、取り調べを受けて犯罪者呼ばわりされたにも関わらず別に真犯人がいたと分かった人が相次いだりしたにも関わらず、そうした権力によって黒と認定された者を徹底的に糾弾する報道スタイルは変わっていない。

 権力を監視すべきメディアが権力と一体になって弱者を追いつめ追い込む風潮は、戻って権力に力をあたえてまずは引っぱり叩いて吐かせるような古いスタイルの捜査を認めてしまっていて、それがまたメディアに戻ってというサイクルが、出来上がっているのを崩すのはやっぱり難しかったということなんだろうか。ハビエル・アギーレ監督がスペインリーグの試合で八百長に関与していたという疑惑。スペイン検察庁が裁判所に告発をしたという段階で、それが受理され捜査が始まった段階でもないのにスポーツ新聞あたりが「灰色」と書いてその疑いを濃厚なものとして認めている。

 っていうか灰色っていうのはつまり黒なんだけれどまだ確定していない状態を示すニュアンスが濃くって、どちらかといけば権力側に荷担して当事者を糾弾する言葉って感じがする。事件にも裁判にもそんな混沌なんて存在しない。やったか、やってないかに間なんてない。黒か白であって灰色なんて存在しない。でもそうは書かずに灰色と書いて罪の存在をほのめかす。それでもって解任論なんてものをぶち上げる。これじゃあ報道被害なんてなくなるはずはないよなあ。権力に対峙すべきメディアが率先して権力のお先棒を担いで喧伝して回っているんだから。この一件でそういうことをしている自覚があるか、ってのもちょっと怪しいけれど。一般紙が慎重なのは多少、そうした疑わしきは罰せず、容疑者は犯罪者にあらずといった原則を踏まえているからなんだろうけれど、スポーツ紙はそこまで考えているか怪しいなあ。

 せめてサッカー専門紙ならもうちょっと冷静になってくれているかと期待したけど「エル・ゴラッソ」の2014年12月17日・18日号はアギーレ監督告発の件について「職務停止処分が下された場合もかなり先になるため1月のアジア杯式に問題はなさそうだ。しかし、もはや焦点はそこにはない」と嫌疑がかけられたこと、それ自体を問題視してる感じ。「国家権力から重大な嫌疑をかけられた人間が、優勝を狙うチームを束ねられるのか。答えは、限りなく”NO”に近いだろう」。そうか国家権力に疑われるともはやそれは犯罪者か、って言わんばかりのこの記事は、スポーツ紙や夕刊紙と変わらない。もうちょっと冷静に、どういう采配ならアギーレが八百長に関わっていたかをサッカー専門紙的に分析すれば良いのに。

 これは八百長とは関係ないけれど、「優勝を狙うチーム」ってこともちょい気になる。それは日本サッカー協会としてのミッションなのか「エル・ゴラッソ」としての見解なのか。すべての大会において優勝を狙うのは必然だ、って言い方もできるけどこのアジア杯で優勝する意味は2017年のコンフェデレーションズカップに出場できる権利が得られることで、でお過去にジーコ監督もザッケローニ監督もアジア杯で優勝してコンフェデ杯に出て戦った結果を、本戦のワールドカップで活かせずともにグループリーグ敗退を喫した。強化に役だってないじゃん。まあスポンサー獲得の意味はあるんだろうからそれも大事なんだけれど、そういうことも含めて考察してくれるのが専門紙なのにやってくれない隔靴掻痒感。サッカー人気の停滞を受けてサッカーのジャーナリズムもセンセーショナリズムに傾いているのかなあ。嫌な世の中だ、まったく。

 なんか国立新美術館で高畑勲監督の「かぐや姫の物語」に関する展覧会が始まるってんで朝1番、開館と同時に入ったら長蛇の列はいなかった。っていうか聞いていたようにホールなんて使わず通路というかロビーにとってつけたようにパーティションを立ててそこに原画といっても背景を12枚並べるといったもの。アニメーションから感じられたあの壮大な自然でもってキャラクターが自在に動く感動って奴を、味わえるかというとそうでもないし背景美術の緻密さを目の当たりにして感動できるって感じでもない。いったい何がしたかったんだろう? って部分でもとってつけた感が大きい。もちろんそれぞれの美術は細かく描かれその上でならキャラクターも存在感を発揮できるなあ、って分かるけど映画を見てない人にはただの森や林の絵に過ぎない。キャラを1部重ねてある絵もあったけどでも、そこに動きはない。

 かろうじて天井から横長のタペストリーというか中吊りみたいなのを何枚も重ねて下げてそこにかぐや姫が筍から現れるような絵を順繰りに並べることによって、下を歩くとアニメーション的な動きをパラパラ漫画的に感じられるようになっている。それはそれで面白い展示で、これをもっと長く伸ばすとかすればその下を走るだけでアニメが楽しめる、なんてこともできるかもしれない。でも上を向きながら走るのは危険だからちょっと無理か。1通路に1人だけ入ってダッシュ! ってんならありか。まあそんな感じ。そもそも国立新美術館が開いている「文化庁メディア芸術祭」にジブリ作品なんて出てない訳で、エントリー制なんで応募しなかったってことなんだけれど出せば確実に通ってそして展示もされただろう作品を、こうやって別に展示するのはちょっと不思議な感じ。客を呼べる展示でもないし……。まあでも好きな人には嬉しいものなんで見に行くと良いと思うよ。コーナーの壁に描かれたかぐやは可愛いし。

 小説版「デストロ246」といった感じの築地俊彦さん「ブラッディ・ウェポンズ」(ダッシュエックス文庫)は武器商人だった父親の後を継いだ少年がやるのは武器の販売ではなく父親が売った武器の回収。資金はたっぷりあるんで不自由はしないけれどそれを邪魔しようとする腹違いの弟がいていろいろと邪魔してくる。通っている学校にはいかにも中に何か入っていそうなギターケースを持った少女が転校して来るし、尋ねてきたお嬢様は人がいなくなると関西弁になって恫喝してくる。なぜって関西でヤクザを仕切っている少女だから。そんな若い見かけによらない悪漢どもがくんずほぐれつする撃ち合い騙し合い。手は吹き飛び命も奪われたりする凄惨な展開の中を少年は生きのびることができるのか。そんなストーリー。美少女ばかりじゃないのが小説の良さかな。

 さすがにイスラム世界でも学校を襲い子供たちを狙って命を奪う行為に批判が出始めているようだけれども当人たちには当人たちの論理があって目には目をの心構えでやってたりするから話が終わらない。パキスタンで起こった学校襲撃によって亡くなった子供たちは100人以上。それぞれに人生があり家族があって未来が広がっていたと思うとやりきれない気持ちでいっぱいだし、ここから生まれる憎しみが相手の悲しみを喚起してさらなる悲しみを呼ぶ可能性も低くはないだけに、どうにもならず地団駄を踏んでしまう。せめて今のこの状態で終わることはできないか。そのために世界が何をできるのか。1人にノーベル平和賞を与えたところで何も解決されない状況を、変えるために必要なことは何なのか。真剣に考えたい。答えは出ないとしても。


【12月16日】 夜にかけて聞こえ始めた、いさましいちびのイラストレーターこと水玉螢之丞さんが亡くなられたとの報が、ご当人のツイッターアカウントでご家族によるツイートがあり、そしてお兄さんで軍事評論家の岡部いさくさんによるツイートもあって決定的なものとなって浮かぶ残念無念という気持ち。女性を描けば格好良く少女を描けば可愛らしい上に、パソコンからサブカルから漫画からSFから、何から何まで濃い情報を盛り込んで、それらが趣味な人にありそうなことをぐさっと捉えて貫く言葉が加わった作品は、どれも見れば感嘆を誘い感動を呼んで感涙を招いた。たった1枚のイラストですらそこにビジョンを、そして情愛を感じさせるものばかり。偉大な才能がこの段階でこんなに早く世を去ってしまうことは、ただひたすらに悔しくて惜しい。そうとしか言いようがない。

 知ったのはたぶん「SFマガジン」で、大森望さんの訃報を受けたツイートによれば、パソコン誌なんかで活動している水玉さんの作品を見て、これは相当なSF好きに違いないと会いに行ってそうだと分かって、SF関係のイベントとかに呼んでそして「SFマガジン」にも引っぱったって感じらしい。あるいはパソコン誌の方で先に見ていた可能性もあるけれど、僕にとっては水玉さんはやっぱりSFの人であり、アニメについても詳しい人、そんな感じだった。お目にかかって喋ったという明確な記憶は、いつかのワンダーフェスティバル帰り、混雑していた会場を抜ける際に大森さんと連れだって、たしかご主人も一緒にタクシーで葛西か新木場へと出たんじゃなかっただろうか。よく覚えてないけど当時はまだ、タクシー券とか自由に使えた時代だったって話した覚えがある。まあ使わなかったけど。

 以後、おそらくはSF関係のイベントなんかでも見かけていたんだろうけれど、面前とその名前を意識して正面から喋ったという記憶はない。何かもったいないような気もするけれど、濃い人間でもなく話して呆れられるのも嫌だった、なんて感情が働く以前に近づいて良い人間でもないって思いがあって、遠巻きに憧れていたという、そんなスタンス。同じ「SFマガジン」誌上で水玉さんはたぶん20年くらい、僕は13年くらいずっとコーナーを持って書いてきたけど、それでどこかで会うということもなかったなあ。それを言うならやっぱり連載を持っている池澤春奈さんとSF関係で話したことも実はない。ライトノベル関係の受賞パーティでSFのバッジを着けていたら、これSFだあって話しかけられたことはあったけれど、こっちが「SFマガジン」に何か書いているとは知らなかっただろうし、今だって知られてないだろう。これもちょっと残念な話。でも仕方がない、ロートルなんで。

 ともあれ水玉さん、最後の方はもうほとんど堺三保さんの専属似顔絵描きみたいな感じに、ツイッター向けのアイコンなんかを描いてはアップし、それを堺さんが使って披露する循環になっていた。最後にツイッターに上げていたのも、堺さんのアイコンが8点ほど。そのどれもに原点がありながら、オリジナルでもあるアイデアが乗ってパロディだけれどフレッシュな印象を与えてくれた。この才能をなぜ、出版という形で残さなかったのかあ不思議だけれど、これもずいぶんと前に何かで書いているのを読んで、雑誌の連載はそれがひとつの形であって本にまとめるのは違うってことを言ってたような記憶がある。似たことを、訃報を受けて岡部いさくさんも改めて書いていた。そういうポリシーの潔さに感嘆する一方で、今になってその画業の全貌をとらえきれない残念さはつきまとう。せめてその美女画集、美少女画集は見たいけれどまとめられるものでもないのかなあ。堺さんアイコンは展覧会を開いて欲しいけれど、やっぱりパロディで版権が壁になるんだろうか。力があればくるりとまとめて展覧会に並べたいけど……。せめて誰かが何かをしようとしたならそれに最大限、協力していきたいとここに書いて、追悼の意を表そう。合掌。

 そして深夜にかけて、サッカー日本代表のハビエル・アギーレ監督がスペインの検察当局によって八百長疑惑で告発されたとの報が。関連する話とか書いていたりしたんで、あわてて情勢を見ながら手を入れたりしたけれど、でもやっぱり分からないのはすぐに辞めるのか、それとも起訴されて有罪になるまで辞めないのか、ってあたり。疑わしき葉罰せずというか判決あ降りるまでは容疑者ですというか、そんな情勢で自分から辞めることはないだろうし、日本サッカー協会だって辞めさせづらい。何より近くアジアカップも始まるというこの情勢で、辞めさせて別の誰かを据えて大事な優勝を逃す度胸は協会にだってないだろう。だから当面はアギーレ監督に采配させて、アジアカップを制させて、それからゆっくりと次を考える、ってことになるんじゃないか。それが今のところの僕の見通し。根拠は別にないけど。

 ただ、相撲でも本来だったらそれも文化だと、普通に見逃された八百長に、社会から厳しい声が飛んだくらいの今の日本で、くじなんかも絡んでいるサッカーの八百長はそれに本当に関わっていたかどうかに関わらず、名前が取りざたされただけで相当なダメージを被る。スポンサーサイドだって、監督をCMなんかに起用しようにもダーティなイメージがついていてはちょっと扱いづらい。だったらとここで日本サッカー協会に圧力をかけつつ、違約金の面倒も見つつ辞任を勧告して応じなければ解任し、新しい監督を即座に据えるといった挙に出る可能性もあったりしそう。まだ間がある今ならそれでも可能。ならばいったい誰ってところで、下の世代を見ている手倉森監督あたりがいっしょに面倒を見ることになるのかなあ。外国人を呼んでいる余裕は今はまだないんで、それはアジアカップを過ぎて本格的にワールドカップを目指す段になってから、ってことになるのかなあ、やっぱり。

 その時には責任問題ってのも取りざたされることになるんだろう。そもそもが2011年の試合で、何か八百長めいたことがあったってのは、当時からささやかれていたらしい。いつかそれが火を噴く可能性を知っていながら、敢えてアギーレ監督を選んで来た。その後の戦績はやっぱり芳しくなく、将来性もあまり見えない現状で、何でアギーレ監督を呼んだのかって話が浮かんでは、責任のなすりつけあいを演じそう。呼んだ原さんか会長の大仁さんか。誰であっても誰かに責任のお鉢は回ってきそう。その時にどんな態度を見せるかで、日本のサッカー界に向けられている不審がより濃くなるか、それとも払拭されるかが決まる。その意味で分水嶺にさしかかっている日本サッカー界。とはいえそんな自覚があんまりあるようにも見えないんだよなあ。どうなるものか。

 いつのまにか新宿から移転していた富士重工業、すなわちスバルのビルがある恵比寿で行われたアニメーション「放課後のプレアデス」の製作発表会をのぞく。ワーナーが手掛けるけれども、制作はガイナックスでそれにスバルがコラボレーション。以前にすでにYoutubeなんかで配信されていたオリジナルのアニメーションが、いよいよテレビ向けになるってことで登壇したガイナックスの山賀博之さんは「アニメって表に出ていくまでに時間がかかるんですよ」ってことをしきりに話してた。この作品なんか前にYoutube向けがあるからまだ良いけれど、それでもオリジナルで設定を考えストーリーを練り上げキャラクターを作り上げていくのは相当な苦労。それをテレビ版ではまた少し、いじってあるみたいでそうやって練り上げた作品がいよいよお披露目とあって、集まった声優さんたちもみな嬉しそうだった。

 もう4年とかそんな昔がYoutube向けだった訳で、デビュー間もないころに声を担当した人たちも、今ではすっかりそれなりに名の知れた人気声優さんに。そうやって成長した証を想いとともに作品に込めて演じられるキャラクターはいったいどんな感じになるんだろう? 気になるけれどもこれ、関東地域での放送がTOKYO MXなんだよなあ。でもまあそのころには地デジのアナログ変換も終了して買い換えているから何とか見られるようになっているかな。生きていられれば。会社がだけど。不思議なのは群馬と栃木でもローカルの放送があるってところだけど、どうやらスバルのお膝元らしい。それならしゃあない。見る人も多そうだし。

 作品には作り手の方の想いなんかも結構入っているようで山賀さん、「パッと見には簡単に言えば萌えアニメっていうジャンルに入るけれど、女の子が可愛い! に終わらないように、どういうところで骨太にいくかが脚本と絵作りの上で鍵だった」って話してた。「短い映像では感じていただけたか分からないけれど、背景も重厚。女の子たちの生活している舞台背景をどこまで充実して描き分けるか」ってところにも注力したというから、美少女たちが変身してはバトルしているようないかにもな見てくれに惑わされず、じっくりと追っていくことで結構深いドラマを楽しめるんじゃなかろうか。気になるのはコラボレーションしているスバルとの関係だけれど、何か持ってるステッキの先に車のフロントグリルみたいなのがついていて、これが結構大きそう。あの差きっぽを向けると何かなるのかどうなのか。風が吹き出すとか。でもあれは吸い込むものだし……。ちょっと興味。

 あと機動の時めいたシーンで成るのが車のエンジン音でこれがスバルならではの水平対向4気筒エンジンならではの音なのか、それともマフラーを通したエグゾーストなのかは最近あんまり車に乗ってないから分からないけれど、でも聞けば車好きとか楽しめそう。そういうこと以外のコラボもあるのかな。スバルが画面に輝き続けることが重要なコラボレーションってことなのかな。発表会で真正面に座っていた山賀さんはなんか大きかったなあ。武田さんとどっちが大きいんだろう。声優さんはみな綺麗だった。あとブリーズっていうアイドル? の人たちが来ていて可愛かった。スカートが短かったけれど中が見えることはないのが残念というか、見えたらそれは大変というか。なあおい。


【12月15日】 午前3時くらいまで西日本の当選情勢を見守る簡単なお仕事をして弁当とか食べながら見ていた衆議院選挙は結果として自民党はほぼ横這いで民主党も少し持ち直して共産党は大躍進、そして公明党が伸ばして維新も意外や検討してこれで円く収まるかと誰もが思っている傍らで、次世代の塔が粉々に粉砕されていたというそんな情勢で幕を閉じた。これを自民党の勝利と見るか牽制が入ったと見るかはさまざまだけれど、あれで自民党自体は極右的なところから中道ややリベラルよりなところまで包含しているだけに、その勝利を単純に一党の勝利として見ると何か見誤るような気はしてる。

 つまり安倍さんは勝ったけれどもその極右的性質はパートナーとして擦り寄りたがった次世代の党の粉砕によって大いに牽制されて立ち寄れず、改憲のような重要案件も公明党というパートナーが平和の党として上からプレッシャーをかけられ支持者の人たちもその思いを信じているだけに、そう安易には動けない。政権与党だからこそできる活動に制約を受けてまで敵に寝返る訳にはいかないけれど、くっつきならが脚を引っぱるような活動でもって平和に世の中を引っぱっていってくれるのでは、なんて期待も膨らんでいたりする。一方で民主党の復活に共産党の躍進といった勢力に向かうには、右よりばかりでは反発を食らうだけでそっち方面の考え方をアピールしていく必要はありそう。

 つまりは総裁の極端に右よりな性質を中央に戻そうとする動きがあって、あんまり派手な言動は見られなくなるんじゃないのかなあ、なんて期待があるけれども果たして。むしろあれだけの勢力とそして勢いを持ったまま、しばらくを過ごしてただ増税だけをやり過ごして、改憲へと持っていけば良かったのにどうして解散なんかしたんだろう。結果は変わらないとはいえ、この次の参議院選挙とそれと同時に行われるだろう衆議院選挙のダブル選挙に向けて身動きがとれなくなっただけ、って見方もあるけど逆にレームダック前の大盤振る舞いを一気にやってしまうといった見方もできなくはない。どっちに転ぶか安倍政権、そしてこの日本。どっちにしたって景気は良く成らず会社は潰れて新聞社も先はなくそして……ってところか。宝くじ当たらないかなあ。

 劇団四季の面白さや素晴らしさに、ネットを通して触れられるサービスが始まるらしい。いわゆる「niconico」を運営するドワンゴとニワンゴと、「キャッツ」をはじめ大人気のミュージカル作品を劇団四季として提供し続けている四季が、「ニコニコチャンネル」上に新しいチャンネルとして「劇団四季プラス」を15日にオープンしたとかで、東京・六本木にある「ニコファーレ」で開かれた発表会に行くと、四季を率いる浅利慶太さん、ではなくて吉田智誉樹社長が出席して「ネットとリアルには相互性あります」と話してそして、リアルの演劇とネット上でのサービスが融合して生まれる「劇団四季プラス」の可能性を高く評価していた。

 「生で舞台をごらんになられたお客さんが、舞台の裏側に興味を持たれた時に、プラットフォームを通して発信していけます」。そんな思いを反映するかのうように、「劇団四季プラス」では劇団四季のファンが喜びそうなコンテンツや、これを通して劇団四季に興味を持ってくれそうな人に向けたコンテンツを発信していくそうな。ブログサービスのブロマガでは、俳優の近況や公演の舞台裏、新しい公演を製作していく様子などを発信して、劇団四季のミュージカルが好きで好きでたまらない人の情報ニーズに応ていく。そんな発表会に同席したドワンゴの夏野剛取締役によると、「舞台の感動を思い起こすきっかけを、ネットの放送で見ていただけます」。公演を見た人により長く感動を味わってもらうための役割を「劇団四季プラス」が持っているってことをアピールしてた。加えて「これを見ると、また舞台を見に行きたくなって、見たら思いだしてネットに戻るという“ポジティブフィードバック”が起こります」とも。直接的に公演をネット配信しなくても、相互に意味があるってことなんだろう。

 「劇団四季プラス」ではほかにも、公演中の作品をフィーチャーした生放送や、舞台の裏側に迫るような企画も展開していくとのこと。本格的なコンテンツの提供は年明けからになりそうですが、15日にはすでにチャンネルは立ち上がっていて、会員を募っていくことにしているそうで、料金は540円。そんなサービスの具体的な内容のあと、百聞は一見に如かずとばかりに、劇団四季の人気ミュージカル作品から選りすぐりの場面を「ニコファーレ」の舞台を使って繰り広げてくれてこれがまた圧巻。演目は「劇団四季 FESTIVAL! 扉の向こうへ」として劇団四季が公演し、「劇団四季プラス」の情報発信でもメインに据えていこうとしているものらしい。

 つまりは「劇団四季」のショウケース的な意味合いも持っていて、それだけにディズニーの長編アニメーション映画としても知られる「リトルマーメイド」から「キス・ザ・ガール」、劇団四季にとって絶対に欠かすことは出来ない歴史的な演目「キャッツ」から名曲中の名曲「メモリー」、醜い野獣が自分の振る舞いを悔いなあら女性を愛する気持ちを歌う「美女と野獣」の「愛せぬならば」、そして「ライオンキング」の「サークル・オブ・ライフ」と劇団四季を見たことがない人でも、聞いたり口ずさんだりする歌がダンスなどともに繰り広げられた。

 現場で目の前で歌われ踊られてはもう迫力の一言で、これが群舞としてステージの上でストーリーの中で繰り出された時に感じる感動たるやとも思ったのは当然として、ネットで発表会の中継を見た人もきっとその歌声を聞いて、前に見た舞台の感動を思い出してまた行きたいと思ったんじゃんかあろうか。或いは今まで興味がなかった人も、圧倒的な歌唱力を見せる劇団四季の俳優たちの素晴らしさに始めて触れて、これは是非見てみいと感じただろう。そんな食い愛にネットを通してリアルへと誘い、リアルの感動をネットへと誘う循環が持つ可能性って奴を、「劇団四季プラス」というサービスが示していけばあるいは、次に続くコンテンツがここから生まれてきそう。それはいったい何だろうなあ。ちょっと楽しみ。

 ううん、ちょっと経緯が分からないけど漫画家の東村アキコさんが、コミックナタリーの上にある「an」とタイアップしてアルバイト経験を語るといったコンテンツについて、それが「an」の広告的なものだとは知らなかったといって異論を書いて話題にあっている件、そもそもが「an」とのコラボレーション企画に登場する、ということで「an」が目的としている効果に活用されているという理解はなかったんだろうかという思いがひとまず募りつつ、そうでなければ依頼の際にナタリーの側でそういう企画なんだと説明することはしなかったんだろうかという不思議も募りつつ、でもってそういう場合に出演者に幾ばくかの出演料なりは支払われるんじゃないのか、まさかそれすら自著の宣伝とのバーターにされるのか、って謎がわさわさと膨らんだりした師走。知らず出てしまって広告だったと知って憤ること自体は分かるけど、過程において気づかせる努力を誰かが怠ったのか、わざと気づかせまいとしたのかで話もずいぶんと変わってきそう。でもそれで50万円もらえるのかナタリー。東村さんにいったいどれだけのメリットデメリットがあったんだろうか。そこが気になる選挙明け。


【12月14日】 美少女剣士の無駄使いっぷりも著しかった第1巻から次第に状況も整理されてきたというか、より混沌として来た感じもあったりする松山剛さんのシリーズ第3弾「白銀のソードブレイカー3 −剣の遺志−」(電撃文庫)は、まだ見ぬ剣聖ルピナスが現れてはその巨大なんてものじゃない、超乳でもって傭兵レベンスを籠絡にかかる! すでに娘もいながらその母性とその媚態に初な青年剣士は耐えられるのか? なんて展開を一部に挟みながらも、メインは最強の剣聖が巡らせる謀略にレベンスと剣聖殺しのエリザが巻き込まれつつ一方で、剣聖ハヅキ・ユキノシタの娘が燃やす復讐の炎がレベンスやエリザ一行を焼こうとする。

 村を焼き家族を殺し妹を奪った剣魔の正体を見極めるために旅を続けていたレベンスの目的も、剣聖ルピナスがどうも違うと分かって最強の剣聖こそがといった目算が立ったのもつかの間、現れた剣魔のその数たるや実に8体! いったい誰が剣聖から剣魔となってレベンスの村を襲ったのか? そもそも剣魔は聖剣を使ったものだけがなるものなのか? ふくらむ謎に増える登場人物、そしてふくらむルピナスの超乳の向こうに答えはあるか? って別に乳はふくらんでないか。いやまあ、あれは良いものだけれど。できれば不幸なくすべてが円く平穏に収まって欲しいけれど。続きは何時だ?

 ついに出たか、素粒子の擬人化ライトノベルが。というかもともと存在した人物が世界の滅亡とともに雲散霧消となっていたものが、観測され発見されることによって元の姿を取り戻したというのが正しいのかもしれないという、そんな話が弘前龍さんという人の「17番目のヒッグス 異次元世界の若き王」(電撃文庫)。岐阜県にあるカミオカンデみたいな施設で何か実験をしていたら、現れたが記憶を失った少年と少女。実験に立ち会っていた若い研究者が2人を引き取り、太郎と花子というぞんざいすぎる名前をつけて育て始めて2年が経ったころ、再開された実験とともにまた1人、少女が現れそして記憶を失っているふりをしながら太郎に近づき、太郎はヒッグスという名の異世界の王で、そして自分は婚約者のニュートリノだと告げる。

 そして始まる素粒子達のバトル&サバイバル。かつて存在した異世界でボソン族とレプトン族は魔法を使えるクォーク族に狩られ、奴隷にされていたけどボソンに生まれた王ことヒッグスの力で敵は退けられ、世界までもが崩壊してそして138億年だっけ、経ってようやく観測されることによって蘇ったような異世界では、またクォーク属がボソンにレプトンを虐げてたけれど、そんな中に地球で観測され蘇っていた太郎がニュートリノによって異世界へと連れ帰られ、そして記憶と力を取り戻してクォークの襲撃に対峙する。そこに参戦して欲しいはずの花子ことグルーオンだけれどど、うやらヒッグスを裏切っていた様子。でも本当は……ってあたりに擬人化された素粒子たちの間に通う恋情心情なんてものが浮かび上がる。

 人間による観測によって存在が固定されるという、量子論的な設定を持ちつつ素粒子たちがそれぞれの特性を活かし、属性にも分けられて異能を発揮し戦うという展開は、読みようによっては物理学とか素粒子学の世界を物語によって読ませ、理解させるといった科学小説的なニュアンスも含む。それが例えば小学生向けの科学漫画的なものだったら、あるいは中学生向けの科学物語だったらマッチしたかもしれないけれど、ライトノベルという高校生も手に取り大学生まで読むカテゴリーで果たして出してどうだったかって気分はある。まあ主人公を中学生に設定しているあたりで意識は小学生中学生へと向いているのかも。そういう層にしっかりと届くと嬉しいし、出た意味もあったかなあ。あと言うならフォトンは眼鏡っ娘。実体化して活躍する姿をもっともっと見たかった。続きがあれば見られるかな。

 こちらも素粒子とか量子論が主題だけれど、真面目にそしてシリアスに探求しようとしたのがアーティストの高松次郎さん。東京国立近代美術館で開かれている「高松次郎ミステリーズ」にはそんな、世界を素粒子でもってとらえつつ物質を見つめ、反物質を想定して実在非実在を概念化して可視化しようとしたアーティストの思考の痕跡ってものがいっぱいに溢れてた。影でもって世界をとらえるシリーズは、そこに映し出されない物体を影という非実在の形象でもって浮かび上がらせようとした手法。いないけど、いるというその不思議が目にしっかりと見えてくる。そして点のシリーズ。狭いポイントにすぎないそれは、存在しないものと存在するものとの極大的な分かれ目で、それを探求することによって此方を彼方の違いを想定できる。

 紐のシリーズはそんな点から現実へとはみ出した実在の軌跡。さらには波動や形象といったものをとらえ形にして映していくプロセスでいったい、高松次郎さんの目に世界はどう写っていたんだろう? いわゆる「ハイ・レッド・センター」の「ハイ」として赤瀬川原平さん中西夏之さんとどこか面白くユニークなハプニングを行い世を諧謔で煽っている人っぽいイメージもあったけれども、そんな中にあって理論と実践で筋を通しつつ、ひとりのアーティストとして思考し続け貫き通した人だったってことが、この個人を取りあげた個展によって見えてきた。というか今まであんまり気にしなかった「ハイ」の凄さが見えてきた。

 「レッド」こと赤瀬川原平さんの、世に沿い裏をえぐるアーティスティックでジャーナリスティックでもある活動、「センター」こと中西夏之さんの、カンバスから溢れたり戻ったりうごめいたりする物共のフォルムに目を向けさせるビジュアリスト的な活動と比較して、アカデミックでフィロソフィックな「ハイ」こと高松次郎さん。三者三様にしてそれぞれがこの国に大きな軌跡を残してくれたことを今に喜びつつ、そのうちの2人を喪ってしまったこの国のアートシーンの寂しさを嘆きつつ、残る中西さんには静謐な中にも目を見張る色彩を見せるような作品を、もっともっと作り出していって欲しいと願おう。それにしても赤瀬川原平さんと高松次郎さんを、それぞれに同時期に見られる今週いっぱいはひとつの奇跡。年末で忙しくても足を運ぶ価値ありと断じよう。

 花の写真ならロバート・メイプルソープとそれから荒木経惟さんで十分っちゃあ僕には十分なんだけれどもでも、誰が撮ってもそれは素晴らしいし撮り方によっては美しくもグロテスクにもなるモチーフはやっぱり面白い。そんな花を撮っている金城真喜子さんとネイキッドを率いてプロジェクションマッピングを展開している村松亮太郎さんのコラボレーションした展覧会「Light&Nature〜Photography and the Art of Projection」ってのを見に行ってなるほどフレームから外に出て自由になるビジョンっていうのはこういうことかと理解する。そこにあるのは花の写真だけれども上に文字が被ったり、枝に鶏をとまらせて羽ばたかせたりと切り取られた風景に新しいビジョンを加えて平面から空間へと対象を膨らませる。

 色が抜かれた花の写真に色を付けたりフレームの外へと切り取られた部分を広げたり。1枚の写真はそれで完成された作品だけれどその外側に、あるいは前や億や上や下にある何かもあって良いんじゃないかという説得を、写真家の泣く泣く削り取った作品への思いが受け入れ世界を広げてみせたもの、って言えばこれは言えるんだろうか。完成された平面作品への冒涜とも言われかねない挑戦を、それでも何か新しく生まれるビジョンにかけて挑んでみせたこの作品展が、次に何を生み出すのかに今は興味。昔だったらモニターの中、CGでモーフィングさせたりパノラマにしたり動画にしてマルチビジョン化していたものを、3次元の空間で行えるようにしたテクノロジーの進化がこれから、どんな芸術を生み出していくのかにも。

 サッカーの皇后杯はジェフユナイテッド市原・千葉レディースが登場して藤枝順心高校を相手に勝利を収めて無事に3回戦を突破して次はINAC神戸レオネッサとベスト4進出をかけて対戦する様子。勝てるかな? って疑問もあるけど今シーズンに関しては勝てそうな感じもあってそこで勝ち抜いて、おそらくは出てくるだろう浦和レッドダイヤモンズレディースを相手に勝利をもぎ取り決勝の舞台へと歩を進めて欲しいもの。男子が立てなかった天皇杯の決勝の舞台、そして今シーズンに関してはどこのチームも立てない元日の決勝という晴れ舞台を、女子でありながら味の素スタジアムで迎えられたらこんなに嬉しいことはないだろうし。そのためには2つ、勝って欲しいなあ。強豪でも今年のジェフレディースならできる、と思う。乞うご期待。


【12月13日】 気が付いたらKADOKAWAの方で始まるらしい角川文庫キャラクター小説大賞ってのの概要が発表になっていた。そうか連作短編での募集だったのかを読んでようやく気がついた。っていうかそもそもキャラクター小説って何だって話になるけどいわゆるライトノベルで顕著なキャラクター性って奴をひとつ切り出しつつ、それでいてライトノベル的なティーンが読んで自分を主人公に投影してムフフとなるような内容から、ちょっぴりと大人びてハイティーンから20代から30代でも読んで楽しめる小説、ってことになるんだろうか。

 例えるなら角川文庫で出ている神永学さんの「心霊探偵八雲」シリーズとか、やっぱり角川文庫から出ている太田紫織さんの「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」ってことになるのかな。あるいはメディアワーク文庫で出ている「ビブリア古書堂の事件手帖」をはじめとした一連の著作物とか。つまりは大人のライトノベルってことになるんだけれど、ここで気になるのが連作短編を2作以上という構成はつまり読んで1話でまず完結した話があってキャラクターも登場して活躍しつつ、それで終わらず次の事件もあってといった具合に進んでいくというものになる。

 そのメリットはというと、多分結末とかに一気にページを飛んで見ないとイライラするような途中を気にしないで、キャラクターの際だちっぷりをサッと見極められてそして1つのエピソードをサクッと読めて楽しめるのとがまずはありそう。大長編を読むだけの時間も気力もない人でも、短い話なら読んで面白がれるし、それでこれはちょっと先が読んでみたいかも、このキャラの活躍ぶりが気になるかもと思ったら、次の章へ、そして次の巻へと行ってくれるかもしれない。そいいう小説が今、読者から求められているなら集めよう、ってことなんだろう。「ビブリア古書堂の事件手帖」とか「浜村渚の計算ノート」もそんな感じの短編による連作だし。

 ただ短編でも全体にやっぱり1本の筋があって大きな謎なり秘密なり因縁が仕掛けられていないと、ただダラダラと続いてくだけのサザエさんがドラえもん的繰り返しになってしまう。そういうのが欲しいのか違うのか、分からないところもあるけれどもやっぱり1冊の本なり、1つのシリーズにしていくんだったら主人公には出生の秘密がありヒロインには人に言えない秘密があり敵には主人公たちとの深い因縁があってそして複数に見える事件にも1つの伏線あ張られていて完結すると大きな絵が浮かび上がる、といった具合。

 そういう塩梅をちゃんとできるとなるとやっぱり相当な手練れではないと難しいかも。短編だからと軽く書けてしまうと思ったら大間違い。ただそういうノリの描き手も必要で、それで延々と書き継いでいったら「キノの旅」みたいな大部になっていたってこともある。つまりは何でも面白ければオッケーってことで、果たしてどんな仕掛けで応募してくるか。お店物ミステリか退魔伝奇ストーリーか。SFってのもありだけれどどんな作品ならあるんだろうなあ、東野司さんのミルキーピア的な話? 火浦功さんのみのりちゃんシリーズ? これらはあるかも。この機会にくるっと混ぜて復活とかさせたら面白いけど、果たして。とうか火浦さん、今なにやってるんだろう。そこあ知りたい。

 来週までらしいんで電車に乗って千葉市美術館へと向かって「赤瀬川原平と芸術原論展 1960年代から現在まで」をやっと見る。直前に当事者の赤瀬川原平さんが亡くなるという悲しい出来事があったけれども、ずっと体を悪くしておられたらしいご当人が会期中にイベントに現れるという予定もなかったみたいで、ある意味生前葬的な回顧展として意識されていたものが、本当の回顧展になってしまったとでも言えるのかも。そんな展覧会だけあって、初期のシュールレアリスムからダダへと向かってアンデパンダン展でネオダダで活躍していた時代なんかの作品から、有名な「千円札裁判」でもって芸術とは何かを衆人環視の公の場で争ったというかアピールした活動を経て、現在へと至る作品が2つのフロアにずらりと並んでいてなかなかに壮観だった。

 とりわけ「千円札裁判」から梱包芸術とか「ハイ・レッド・センター」「東京ミキサー計画」といったあたりの不思議でユニークな活動は、それを通して社会にその存在を見せつつ笑わせつつ、それでいて社会に見え始めた矛盾とか不正義とか不可思議なんかを抽出しては理解させ、視認させ知覚させる効果なんかを放っていた。面前と高所から批判されるよりもそうやって、これどうなの? って感じに提示されるとなるほどそうかも、って人は思うもの。そんなあたりから社会に切り込みを入れて、腐ったはらわたを引きずり出してみせる手法に長けていた。今、そんな感じに芸術でもって世のへんちくりんと対峙して、おかしみの中に不可思議を問うアーティストっているのかなあ、村上隆さんがそれに近いけれど、世間は村上さんを妙に嫌って賛同しないし……。せっかく「スモール・ヴィレッジ・センター」を名乗って活動をしていたのに。勿体ないったりゃありゃしない。

 目を見張ったのが漫画家としての赤瀬川原平さんの力量で、「ガロ」あたりに通じる画風でもって「櫻画報」なんかを手掛けた漫画原稿がいっぱい展示してあって、その巧さあけでなく主張の面白さにこれれが今、必要なんじゃないかと思ったけれど、そういうのが売れる時代でもないから仕方がない。「滑稽新聞」みたいなのが本気で出されないといけないけれど、せいぜいが「虚構新聞」だから。あれはユニークだけれどでも、パロディから先に行かないんだ、規模的に。そして地位的に。作品ではつげ義春さんの「ねじ式」のパロディとかもうそっくり。でも違うストーリーで面白いんだこれがまた。サザエさんのリアリズム探求イラストは、後に竹熊健太郎さんが村上隆さんに誘われて描いた「きかんしゃトーマス」のリアリズム絵画に似ているかも。やっぱり共通する不思議への探求心と超越したい心理があるんだ。

 ほかにはやっぱり「トマソン」から出た「路上観察学会」か。でもただ街角にある勿体ないとか必要ないとかそんな物を撮るだけじゃなく、そこに哲学的な言い訳を付与して面白がってる節が見えた。時にそれあエラぶって韜晦的で苦々しくて鬱陶しく思えることもあるけれど、どうしてそうなのと考えて捻る思考を失っては、すべてが単純に走ってしまう。それは危険。なんてことをことを教えてくれるアーティスト、だったのかもしれない赤瀬川原平さんは。今はもう何もかもがストレートな感情のぶつけ合いで、勝つかまけるしかない。そういうのを相対化して、高みから揶揄するのもまたナンセンスな話かもしれないけれど、半ば引いて本質へと向かうのには必要な思考。そのことを思い出させてくれる展覧会として誰もが見て置いた方が良いんだけれど、もう終わってしまうんだよなあ。行けたらあと1回、行ってみたい。

 何気なく手に取った多宇部貞人さんの「ラグナロク・トライアル −新・封神裁判−」(電撃文庫)が続編みたいで前の巻を読んだか失念していたけれどもまあ、これ1冊でも面白いからちゃんと読めた。神様の庭を舞台に繰り広げられる裁判で、弁護士をする男子と女子を主人公にして進んでいく話はテレビ局の社長が殺され居合わせたアルテミスとオーディンに嫌疑がかかるというもの。捜査とか検挙とかすっ飛ばしていきなりその場で裁判とかまあ、展開がダイナミックだけれどそれもライトノベルの面白さ。でもって誰かアック実にヤってそうなのにそれを弁護するにあたって全身全霊、無実を信じて突っ走る主人公の性格が素直で明るくて良かった。犯罪を擁護するんじゃなく人を弁護する。その思いが心を動かすのだ、って感じ。甘いかもしれないけれど、信じる心の嬉しさが得られrうから僕はこれで良いと思う。次はどんな事件に出会うんだろう? 続きが楽しみ。


【12月12日】 イニイニの日、って何の日だ。いや良く分からないけど師走の忙しさに紛れてあんまりゾロ目の日として尊ばれていないような気がする。可哀想な12月12日。高倉健さんの最後の手記というものを読みたくて「文藝春秋」の2015年1月号を買って読んだけれどもこんなにリベラルだったのか、というかこれが世間からリベラルで左よりだと思われてしまうくらいに今の言論状況の偏り具合ってのが身に迫ってくる。だって「文藝春秋」といったら時の田中角栄政権に楯突いて金脈問題を追求してその命脈を断った雑誌だよ。左翼ではないけど権力からは自由だった訳だし。

 でもそれが一時、保守の巣窟みたいに思われていたのは世間がレフトに偏りその無茶っぷりが目に余ったから。いずれ反発が出るだろうなあって小林よしのりさんの台頭して来た1990年代に思っていたら案の定、左側のあまりに教条的な考えに異論が起こってそれでも改めない態度に非難が起こって右旋回が始まって、「文藝春秋」はそんな中央に屹立する位置を占めるようになって来た。けど今はさらに右へと世間が寄って、愛国無罪的な誹謗中傷大変結構な状況へと至って「文藝春秋」の立ち位置が左へと寄ってしまった格好。そして右側から非難されこき下ろされているというから何だか不思議な気分。

 でも「文藝春秋」は変わっていなくて権力と対峙し当然を当然と良い横暴を横暴と斬って捨てる気骨をちゃんと持っている。文壇権力に妙に配慮している「週刊文春」とはそこが違うというか、お互いにそれぞれが触手を伸ばして世間を探って状況を見つつスタンスを決めているだけとも言えるけれども、ともかく面白かった「文藝春秋」2015年1月号は、従軍慰安婦の記事を書いたとして非難囂々の元朝日新聞記者が寄せた手記をしっかりと掲載し、その言い分にもちろん問題はあると釘は差しながらも言論に暴力でもって圧力をかける世間に毅然として立ち向かおうっていう筋を通している。今なお朝日新聞を非難し続ける「WILL」辺りとは腰の据わり方が違うけれど、それで売れるのはどっちかというと……。だからこそ「文藝春秋」には頑張って欲しいんだけれどなあ。

 さてそんな「文藝春秋」の2015年1月号は、高倉健さんの手記もさることながら、沢木耕太郎さんが寄せた追悼の文が面白かった。まだ全然若い沢木さんが20歳くらい年の離れた健さんとそれなりに親しくしていたことが意外だったし、そのきっかけが席を譲ってもらったモハメド・アリとラリー・ホームズ戦の観戦記を書いて送ったあたりから始まっていて、以来北海道で会ってラジオ番組に出て貰ったり、欧州を2人で歩くテレビ番組が成立しそうになったのを沢木さんがテレビには出ない主義だと断りそれを健さんが受け止めたりと、分かり合って信頼し合った仲が続いていたことが書かれている。というか互いにそういう筋を通す人たちだからこそ、ずっと信頼が続いたんだろうなあ。夜に健さんが尋ねてきて、革の鞄を置いて帰るあたりなんか健さんらしいエピソード。そういう実直さで多くの人を好きにさせ、自分も好きになっていったんだろう。羨ましいなあそんな関係。

 そんな沢木さんがいつか健さんのためにと書いていた小説があったけれども、刊行の予告が出てそして死去を知る。すれ違いだったというのがどうにも悲しいけれどでも、聞かずとも読まずとも自分のために何かしてくれていると感じてきっと、健さんも嬉しかったんじゃないのかなあ。あと健さんをラジオ番組に出した時に東宝からついていった若手社員が、今の社長だという下りには驚いたというか、時の流れる様を感じたというか。今は若手でも未来は分からない訳でだから若造とバカにせず虐げもせず1人の人間として付き合いともに成長していく気構えを、得たいものだけれども問題はもはやそういう人と出会う機会がないことか。窓際どころか窓外でゴミ掃除の人生では。それもまた一興、そこで未だつき合ってくれている人にやがて恩返しができる時を願い書き続けよう、言葉を。

 少し前から朝のワイドショーにノーベル物理学賞を受賞した天野浩教授の娘さんが息子さんといっしょに頻繁に登場していてその姿がオタク受けする眼鏡っ娘で頓狂な感じで快活そうで惚れる男もいっぱい出そうだなあ、なんて思ってしらべたらあれでもう年齢が24歳で、京都大学の大学院生だっていうから2度びっくり。頭良すぎ。いやそれも含めてインテリ眼鏡っ娘ってジャンルはなくもないけれど、どこか子供っぽさも漂うその雰囲気でてっきり高校生ぐらいだと思ってみていた人には何だこれはといった落胆も招きそう。あるいは今のまんまで28歳くらいまで言ってくれたら今度はインテリ眼鏡っ娘でなおかつ若作りという属性が乗って大勢のファンを集めるかも知れない。今はだからちょっと曖昧なお年頃という意味で。息子の方はどうでもいいや。

 国政がつまむ秋葉原もAKB48が借景してのし上がった秋葉原も通り魔事件あ起こった秋葉原も、僕の望む秋葉原とは違うけれどでも、誰かの秋葉原でもあってそんなことにいちいちこれは違うと叫ぶ気持ちはない。80年代の秋葉原と90年代の秋葉原とゼロ年代の秋葉原と今の秋葉原と違っていることはあるし同じこともある。街は自分の物ではないしましてや誰のものでもない。僕は僕の秋葉原を探して楽しみ、誰かは誰かの秋葉原を利用すれば良い。そのせめぎ合いの果てに俺の秋葉原が生き残るなら僕は嬉しい。負けるのならそれは俺の居場所がどこかに移ったか引っ込んだからでそれを探して、僕は各地を歩き秋葉原も歩く。それだけだ。

 2010年9月25日付の日記に「一緒に決戦を戦った1人は伊藤彩さんといって雑誌で読者モデルとして大活躍している人で、さらには『機動戦士ガンダムSEED』の大ファンでレイ・ザ・バレルのコスプレをして登場して歌い2曲目もSEEDで3曲目はWingといった感じにガンダムづくりで攻めたけれどもすでにある強い個性と圧倒的な歌唱力が、逆にのびしろという面での可能性なりアニソンというアニメの主題歌といった立ち位置を求められる歌をどう歌うのかといった辺りでの懐疑を審査員に招いてしまったようであえなく落選となってしまった。ちょっと残念」と書いてから4年と少し。その伊藤彩がやってのけた。

 たった1人で渋谷公会堂のステージに立って、集まった観衆を前に2時間近いステージを勤めきった。春奈るな。かつて伊藤彩としてアニマックスが主催した全日本アニソングランプリの決勝大会に臨み、最後の3人に入ってラストバトルを繰り広げながらも優勝した河野マリナに及ばなかった女の子が、それでも諦めないで歌い続けてここまで来た。聞けば耳に覚えのある曲も少なくなく、それはつまりテレビでしっかりとアニメの音楽を歌い続けてきたという現れででもあって、途切れず機会を逃さず頑張り続けた成果を引っさげ口から紡いで、1000人を超えるキャパシティを持つ渋谷公会堂の会場に”るなティックワード”を伝え広めて会場の歓声を誘った。

 優勝者だって絶対に立ち続けられるとは限らないステージ。才能があっても心が弱ければ追われ奪われてしまうその居場所にデビューして2年半、居続けられたこと自体がひとつの才能であり努力の結果でありそして賛同の現れでもある。そのことにまず拍手。なおかつここがまだまだ始まりに過ぎず、ここからさらに大きくなっていくだろう可能性を見せてくれたことにも。薄い膜の降りたステージの裏で歌う「snowdrop」に重なる雪模様のプロジェクション。あるいは「終焉の魔法、終天の真意。」の歌に被るファンタスティックなプロジェクション。そんな演出で見せる神秘的でドラマティックな春奈るなも良かったけれど、着替えてから見せたセーラー服美少女戦士がさらにアイドルになったような衣装で歌うポップでキュートなチューンも良かった。「恋の戦士」とか実に可愛い。

 ゴスロリな衣装で神秘性で売っていくのかと思ったけれどもむしろその歌声の愛らしくて転がるような雰囲気を活かした曲も混ぜて幅の広さってのを見せてくれた感じ。でも静かなバラードも巧くビートの利いたロックサウンドでも歌える器用さは、ともすれば特徴を分散させてこれぞ!っていう印象を散らしかねない心配はある。巧いってのも大変だ。 でもそれもらも含めて「春奈るな」というひとつの存在が持つ”個性”なのだと印象づけていくことができれば、何を歌っても何を着てもファンを、そして知らない人でも引きつけられるようになるんじゃないのかなあ。願うなら誰もが知っているあの作品のあの楽曲を歌いあああの人はこの声だこの歌声なんだと分かってもらいたい。

 それを経たらもうそこに立ち上がった「春奈るな」という個が、あらゆるジャンルもカテゴリーも関係なしに関心を引きつけ存在を広めていけるようになる。そう思ったしそれだけの可能性を持っているとも思った。そんなこんなで渋谷公会堂の春奈るなのワンマンライブ「春奈るな ライブ2014 WINTER」は何かのきっかけになるライブだったんじゃなかろうか。量産型みなみとか買えたし、良かったよかった。あとはやっぱり優勝者たちに単独でもっともっと大きくなっていってもらいたいなあ。実力と才能はあるんだから。あとは運と努力と頑張りか。特にHIMEKAさん。その歌声その震えるようなビブラートはもう誰も真似のできない境地だった訳で、そんな才能がメンタルの弱さから表舞台に立てず疎まれ避けられてしまうのは勿体ない。誰か何か、じゃなく自分でどうにか。そこからまた、新しい人生が始まるのだと信じて、立ち上がって、お願いだから。


【12月11日】 お目にかかったのは1度だけ、洋泉社から自伝ともいえる「特撮魂 東宝特撮奮闘記」が刊行された時にインタビューに行ったもので、赴いた都内にある事務所に入ると、そこには「ウルトラマン」のビートルや初代「ゴジラ」に出てきた「オキシジェンデストロイヤー」の模型が机の上にあり、そして我らが「ゴジラ」の大きな模型が立っていて、その道にかけて来た日本が誇る特技監督っていった雰囲気を醸し出していた。川北紘一さん。円谷英二さんの抜けた後の東宝で、長く特技監督を務めて平成ゴジラシリーズを始め数々の作品を担当。僕らの世代が目にした特撮映像の少なくない本数が、その手から生み出された訳で、ある意味円谷英二さん以上に僕たちの血肉を作った人ってことになるかもしれない。

 そんな偉大な人であるにも関わらず、登場した川北さんはやさしそうで、それでいてやっぱり特撮に関しては強い思いを語ってくれた。2010年の当時、世界はすでに特撮からCGへと移っていて、あまり面前と特撮を立てた作品は少なくなっていた。庵野秀明監督が樋口慎嗣さんといっしょに手掛けた「巨神兵 東京に現る」もまだ生まれておらず、古き良き特撮へのオマージュすら浮かんでなかった時期だっただけに、やっぱり聞きたかったのはどうして特撮がないの、ってこと。答えて川北さんは「画期的なアイデアがないんだろうなあ、今は特撮でるなんてってバカにされちゃう。経済的にも高いし。だから、そこをアナログでやるならアナログでやる意味を出さないと意味がないんだ」なんて話してくれた。

 CGでたいていのことはやれてしまうのに、どうして特撮なのか。それをただノスタルジーだけで、あるいは技術の継承だけで使っても世間も納得させられないし、会社だって首を縦には振らない。当たり前の話。だったらアナログでやる意味とは。「作るそれぞれの人たちの熱気、スタッフの熱気が出るようなことを考えないとダメだと思うよ」。作られた映像は同じに見えて、その奥からわき上がってくる何かがあるかないか。それを表現できなければ、特撮だCGだなんて言うのはあんまり意味がないってことなんだろう。というか表現が目的ならツールなんて何だって良い。そういう割り切りも必要だってことも話してた。

 「円谷さんはあれだけのアイデアマンだから、今の技術を使っていろいろな映画にチャレンジしたら、どんなコンテンツができるのか、興味があるねえ」。師匠でもある円谷英二さんは、特撮の神様でありアナログの権化みたいな位置にいるけれど、その目的は別にミニチュアで撮ることにあった訳じゃない。凄い映像をつくることにあった。だから今、もしもご存命だったら「CGも使っていたんじゃないかなあ」。そんな映像がどれだけの驚きを持ったものになていたんか。見たい気はする。いずれにしても特撮の良さを探り極めて来た人の言葉は重く、そして楽しかった。12月5日に死去。瞑目して合掌したい。そして今、映像の世界ではそんな川北さんの背中を見て育った人たちが、あらゆる分野で最先端にいて活動している。

 樋口さんももちろんそうだし、「寄生獣」で評判をとっている山崎貴さんだって、川北さんの特撮を見て育ってビジュアルへの関心を喚起させれ来た世代。そしてツールとして選んだCGを使って驚きの映像を作り出している。「パトレイバー」の実写版に名前を連ねている田口清隆さんは、特撮の意味を多分今、もっとも探って突き詰めようとしている若いクリエーターだろう。そんな人たちが、今の技術を使い作り出す映像がどれだけ川北さんを満足させていたいのか。それが聞けなかったのは残念だけれどでも、面白ければそれで良しって思ってくれていたんじゃないのかなあ。「 CGでやるかアナログでミニチュアを組むのか、選択肢はあるけれど、いろいろなことに格好付けないで、どんどんと自分がその中にはいっていこう。ボランティアでもいいからやらせてもらうのが大事」。さらに次代を目指す人へのメッセージ。受けて後進たちよ、歩み始めよう、特撮への道へ、特技監督の名を継ぐために。

 アニメを見るならアニマックスだけれど、アニメとか声優とかイベントとか飲食とかを楽しみたいなら行くのは秋葉原の「アニマックスCAFE」。ってことで「アニマックスCAFE」のオープンをちょっとだけ見物、大手声優事務所の81プロデュースが協力していて、声優さんの卵とかが働いていてショーとか見せてくれるのは面白い上に、そんなキャストさんたちに投票できる仕組みもあるという。いわゆる”推しメン”を持ち上げることによって、アニマックスの番組宣伝とかに使ってもらえるようになるらしい。そこからさらに這い上がれるかは運次第だけれど、年に5000人とかが応募する中で選ばれたメンバーですら、その上に行くのは超大変。少しでもきっかけが得体と模索する中で道が開けるとあれば誰だって、縋りたくなるだろう。そんな情熱が「アニマックスCAFE」でのパフォーマンスに現れる。これは見ておくしかないんじゃないかなあ。

 コラボメニューもあるようで、今は「少年ジャンプ+」に掲載の漫画なんかとコラボしたメニューが揃ってる。弁当もあればガパオもありおにぎりプレートもあったりと多彩。値段はまあそれなりにするけれど、入るには注文が必要なんでどうせ食べるならそうしたコラボメニューから選んで食べてみるのも良いんじゃなかろうか。お弁当とかタコさんウインナーにミートボールが美味しそうだったし。グッズの売り場もあるし電源コードも使えるみたいでちょっとした滞在に良いかも。場所は中央通りの西側を平行して走る通りの割と来たより。隣が和菓子屋さんだったっけ。駅は地下鉄銀座線の末広町が近いかも。今度はちゃんと会員登録をしてメンバーズカードももらって行ってポイントためて「アニー」とかと引き替えて、投票しようあのキャストに。「こば」ってネームプレートがついてた、ひ弱な男子の声とか出してた青年に。

 なんか大変なことになったなあ、ってチクった人が思っているか、自分は正義を貫いただけで何ら臆する所はないって思っているか。分からないけれども至極当然の権利を主張しただけだとしても、起こった影響のデカさにはやっぱいちょっと憶しているかも、それでどれだけの人が大変な目に合い、失業したりする人も出るかもしれない訳だし。なんて思った焼きそばの「ペヤング」をめぐるひと騒動。ついに出荷する製品をすべて回収して生産体制の見直しを行うようになったようで、それを受けるならつまりは会社にミスがあった訳だけれども、億に1つの可能性が起こってしまっただけかもしれない事態を、クローズアップして伝えて全量回収なんて事態に追い込んでしまったことを、経済的に妥当と見るかどうかって問題もちょっと浮かんでくる。いろいろと難しいけどでも、応援しているファンもいるから、製造元のまるか食品には立ち直って来て欲しいもの。その時は食べるよ、何パックでも。

 税より支援を受け取っている者は国に対して一切の反意を認められないとでも言うんだろうか。自民党滋賀県連が民主党公認候補をびわこ成蹊スポーツ大学の嘉田由紀子学長が応援したことについて異論を述べて理事長に辞めさせるよう要請したって話。私学は国から助成金をもらって教育を行っているんだから中立公正であるべきだ、なんて言うけどそれは学校の運営が中立公正であれば良いだけのことであって、そこに務める個人個人がどういう思想信条で動いても咎め立てられることはない。それに公務員と違って全額あ税って訳でもあにのにそういうのはつまり税という財布を握って脅しをかけているのに他ならないことなんだけれど、言ってる側にそういう自覚があるのかないのか、あっても当然とすら思っている節があってどうにもきな臭い。これが行き過ぎると教員は公立のみならず私立も助成の恩恵を受けているんだから政治活動はままならない、なんて声も飛び出しそう。そしてそれを当然と思う心性も蔓延しそう。ここで正しく反論しておかないといけないんだけれど、あんまり動く風もないんだよなあ、困ったものだ。そして自民党は圧勝の様相。やりたい放題言いたい放題の果てにこの国が辿り着く岸辺の景色は果たして。やれやれだ。


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