縮刷版2014年11月中旬号


【11月20日】 そして気が付いたら年末の日本レコード大賞の候補になる優秀賞が発表になっていたんだけれどもやっぱり今年もAAAが入っていて、毎年のように送りこまれては来るんだけれどいったいそれがどういう歌なのかがやっぱり今年も分からないのだった。どこで流行っているんだろう。そういうクラスタ化が今の音楽状況って奴なのかなあ。とはいえ珍しく入ったサザンオールスターズ「東京VICTORY」はテレビでPVとか見た記憶があるし、きゃりーぱみゅぱみゅ「ファミリーパーティー」はCDを買ったから分かるし歌えるし踊りも少しは真似できる。SEKAI NO OWARIの「炎と森のカーニバル」も聞いたっけ。だから決して音楽が世の中に漂っていない訳じゃない。

 とはいえおそらくはこれが本命って言われている西野カナさん「Darling」をすぐに歌えと言われても思い出せないし、AKB48「ラブラドール・レトリーバー」なんてサビすらも思い出せない。これがそれだと聞かされればああそうかと思い出せるかもしれないけれど、国民の半分が口ずさめるかっていうとちょっと無理。それは三代目J Soul Brothers from EXILE TRIBEの「R.Y.U.S.E.I」も同様で、やっぱり音楽と音楽の間にエアカーテンみたいなものがあって届かない層には届かない状況が生まれているのかもしれない。

 それを言うなら国民的歌謡になっていると言われていたりする「妖怪ウォッチ」の主題歌「ゲラゲラボーのうた」ですらサビがやっと耳に付き始めたくらい。これじゃあ音楽が昔のようにCDだけで何十万枚から果てはミリオンだなんて行くはずもないよなあ。配信だってそれに興味を持った層が集中するって意味合いで、漂い空気のように広まっていく世界とは対局にあるし。そんな時代に音楽を流行らせ音楽でご飯を食べるにはいったい何が必要なのか、って考えると狭い範囲でも着実に届いて支持をしてくれる層を掴み、ライブを行いグッズを買ってもらいCDもグッズの一環として聞いてもらうとか、そんな感じになるのかなあ。グッズ化が行き過ぎてしまったAKB48はこの先どうするんだろう。それも心配。しかし誰が取るかなレコード大賞。事件がなければ氷川きよしさんが本命だったんだろうなあ。ゆず。居たか今年も。

 一難去ってまた百難というか、地球もいろいろと大変だけれどそれ以上に大変なのは渦中に放り込まれた有坂恵一たちか。鷹見一幸さんの「宇宙軍士官学校 −前哨−6」(ハヤカワ文庫JA)は出現した粛清者の先遣隊をどうにか撃退したものの、やっぱり上位にいる者たちの援軍を得ないと勝てないってことで有坂恵一をはじめ宇宙軍の精鋭たちが、連れだってケイローンっていう上位に位置する者たちのところへ行って支援してとお願いすることに。とはいえはいそうですかと支援できるものでもないのが宇宙の真理って奴で、そこで地球からの一行は同じように支援を求める者たちと競争させられることになる。すなわち試練を与えられ、それで好成績をおさめるおとが求められる。

 勝てば良いのか負けてもしつこかったら受け入れられるのか。条件も分からなければ闘う方法すら我からない中で条件を考え勝つための方法を考えていくその段取りは、何かプロジェクトに向かう時にどう段取りを組みリスクも勘案しながら勝利条件を導くかってことへの参考になりそう。でもってまずは一戦を勝ち抜きもう一戦をしのいだ先で有坂恵一たちが直面したのが、安穏とはしていられそうもない大事件。いきなり実戦の最前線へと投入されてしまうような事態にいったいどう振る舞うのか。下級の民だから何もしなくてそこで見ていろ、ってことにはならないよなあ、あるいはなってもそこで出ていって強さを見せて驚きを誘い、全宇宙の支援を取り付け地球勝利へと向かっていくとか。それも都合が良すぎるか。いずれにしても見えない先が今は気になる。次は何時だろう。

 ベストチームオブザイヤーに登場する妖怪ウォッチの制作チームも気になったけれど、Oculus Riftを使って360度全天球のライブ映像をお届けしたドワンゴとNTTの技術発表も気になったんでそっちを選んで歌舞伎座にあるドワンゴへと言って会見を見て記事も書く。動画の配信がきれいになったりする仕組みとかは分からない訳じゃないけれど、説明していると長くなるし読んでも訳が分からなくなるんで図解に任せてとりあえず、見た印象からいくとこれはいろいろと使えそう。まだ解像度が低かったりフォーカスが甘かったり画面がライブってこともあって暗かったりして、見て驚きは出来ても楽しむ所までは辿り着いていない気がするけれど、いずれ時が解決する問題だと考えるとこの上に、何を乗せたら面白いだろうかと想像していろいろと浮かんでくる。

 例えばアメリカンフットボールとかラグビーなんかの試合で、フィールドのあちらこちらにカメラを置いてその上で繰り広げられるプレーを例えば真ん中付近からぐるりと見渡しぶつかり合いを楽しみ、そして攻撃が進んでいったところでその側にあるカメラに切り替えてそこからまた見渡すようなことが出来たら楽しいけれど、地上にカメラを建てる訳にもかず地中に埋めて周囲が見渡せるだけの視野を確保できるかどうかも難しいだけに、今はそうなったら楽しいなあと想像するに止め置く。むしろ空中からぶら下げてそこから見下ろすような映像を作る方が実現は早いかもしれない。野球だってサッカーだって水泳だって何だって使えそうな中継技術。2020年の東京五輪なんかに向けていろいろと開発が進んでいきそう。集音についてはNTTがすでにフィールド内から音を集められる技術を開発しているし、組み合わればいろいろ出来そうだし。期待しよう。生きていられるかなあそれまで。

 羽生善治名人が将棋で1300勝を達成したそうで大山康晴十五世名人に中原誠永世棋聖に加藤一二三九段に続く達成だけれど44歳という年齢は圧倒的に若すぎて、これからいったいどれだけの勝ち星を積み重ねていくかを想像するのが楽しくなってくる。勝率だって7割を超えているようだし、この勢いで年間30勝から40勝をコンスタントに積み上げていけば1400勝はもとより1500勝だって遠くない将来に達成してしまいそう。羽生さんの時代は対局数も増えたから比べられないよって意見もあるだろうけれど、タイトル数での比較はともかく勝ち星は例えば中原さんからさらに下、谷川さん塚田さん島さん神谷さんといった世代から羽生さんをかチャイルドブランドを経てその下に至る世代なら、同じくらいの条件だったりする訳でそんな中で突出した勝ち星を積み重ねているのはやっぱり凄いとしか言いようがない。これに勝る棋士が果たして出てくるか、ってところも将棋界にとって未来を想像する上で楽しみな部分かなあ。絶対の記録などないのだからって、それを羽生さん自身が証明している分けだしね。うん。


【11月19日】 せっかくだからと丸ノ内東映の前にしつらえられた高倉健さんを偲ぶ献花台へと赴くと、テレビカメラや新聞のカメラが並んでメディアの人がぎっしり。ただし献花の人の行列はそれほど長くなくって、東映会館前に収まっていたその最後部につくと、すぐ前にいた親子連れがどこかのテレビ局から取材を受けていた。でもって見ると「スッキリ!」の阿部祐二リポーターだった。背が高くてスリムで物腰が柔らかくて、カメラが回っていても止まっていても静かに語るその口調に、人は怯えず自分をちゃんと語れるんだろうなあと思った。良い勉強になった。

 そんな献花台もすぐに順番が来て、東映さんが用意していた花を頂き台へ置いて脱帽して合掌。いろいろとありがとう御座いました。花を持参して来ている人が結構いたのはやっぱりそれだけ思いが深かったからなんだろう。白い百合の花とかが多かったけれどやっぱりそれが葬儀では普通だからなんだろうか。歩いていてすれ違った人は赤い薔薇を持っていたけどどういう意味があるんだろう。花以外の供物とかは見かけなかったけれど、それはやっぱりみなさん遠慮したのかな。アニキ! とか言われて長ドスとか備えられても困るものなあ。これからどれだけの人が訪れるか。内田裕也さんが来たって噂も流れたけれど有名人もやっぱり献花に行くのかな。他にやってないからここか大泉に行くしかないものな。ちょっと気になる。

 そんな丸ノ内東映では、ショーウィンドウで健さんゆかりのポスターなんかを飾っていてちょっとした記念館。台本とかも並んでいて韓国で何かが公開された時のポスターなんかもあったみたいだけれど、それが何の映画化は分からなかった。ハングル読めないんで。「鉄道員(ぽっぽや)」ほか最近の作品が多いように見えたけれども、健さんで東映といえばやっぱりヤクザ映画。その頃のポスターとか台本とかスチルとかがあったらやっぱり見てみたいけれど、東映本社に保存とかあるんだろうか。そういうのをまとめて保管して展示している記念館なり博物館なり美術館が、あるってあんまり聞かないものなあ。アニメーションでは東映アニメーションミュージアムを作ったけれど、大泉撮影所で実写の記念館が開かれているって感じでもないし。それも気になる。

 しかし渥美清さんはとうに亡くなり、勝新太郎さんも逝き高倉健さんも亡くなって昭和の、というより映画界の大スターと呼べるような人たちがどんどんとい亡くなっていく感じ。これでたとえば20年後に今の50歳代60歳代の俳優で、亡くなって高倉健さん級に悲しがられ悼まれる俳優さんがいるんだろうか、30年後に同じような感じて献花台が置かれるような30歳代40歳代のスターがいるんだろうかと考えた時に、どこか暗澹とした気持ちになるのは、それだけ世間に名実伴う大スターが生まれて来ていない証なのかもしれない。

 もしも松田優作さんが存命だったら、その死を悼んで大勢が嘆いたかもしれないけれど、早世したからこその伝説って部分もあるだけに20年後もやっぱり大スターであり続けたかどうかは分からない。原節子さんという方が今もなおも存命ではあるけれど、もう表舞台から離れてかれこれ半世紀が経って、覚えている人も少ないだろうから、やっぱり健さんのような感じにはならないだろう。ずっと現役で、それもトップを走り続けて人格も見識も広く認められた人にだけ与えられるひとつの栄誉。それを得られる人が今の映画界を見渡してどれくらいいるのだろうか、って思った時にやっぱり一抹の不安を感じてしまう。渡辺謙さん真田広之さん佐藤浩市さんが頑張ってたどり着ける境地、でもないしなあ。

 考えようによってはそれが時代なのかもしれない。映画という権威をはずれテレビでもない別のメディアから知る人ぞ知るスターが生まれ、知っている人たちの間で大いに盛り上がる。そんなクラスタがいくつもいくつも生まれては営まれながら消えてそして次のクラスタが生まれては消えるという繰り返しが、絶対的なスター不在のこれからのエンターテインメントを支えていくのかもしれない。あるいは映画「THE CONGRESS」のようにスキャンされデジタルアーカイブ化されたスターのデータが、自在に使われ永遠に若さを保ったまま演じ続けるのを見て楽しむ時代が来るのかも。そこには老いも死もなく離別もないスターがいつまでも存在し続ける。そういうことが可能な時代に生きている。

 そうでなくても僕たちにとって、スターはリアルな俳優ではなく「鉄腕アトム」であり「ドラえもん」であり「機動戦士ガンダム」であり「ウルトラマン」であり「仮面ライダー」だったりする。作者は亡くなっても作品としては永遠に近く描き続けられているものもあれば、作品単体としては終わってもシリーズとして受け継がれ、キャラクターとして愛され続けているものもある。そんな存在をスターとして見て育ち、成長してもなお眺め続けている僕たちにとって、スターに死はないし終わりもない。高倉健さんの死はだから、リアルなスターがスターでいられた時代の最後の名残のようなもので、あと数十年を経て、僕たちはスターなき世に永遠のモラトリアムを生き続けることになるのかもしれない。音楽はせめてリアルなスターの実在を讃えつつ悲しみたいけれど、それも今の状況ではなあ。どうなるんだろう。大いに気になる。

ひとつで十分だけれどもう1杯  デッカ丼だデッカ丼だ、早川書房の1階にあるカフェクリスティがデッカ丼だなんてものを新しくメニューに加えたってんで、見物ついでに食べに行ったらこれがまた美味かった。何のことか分からない人に説明するなら、フィリップ・K・ディックというSF作家が書いた小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を原作にした映画「ブレードランナー」で、主人公のデッカードという一種の刑事が屋台で食べようとして4つ注文したら2つでじゅうぶんですよと返され、それでも4つだと訴えカンベンしてくださいよと言われた謎の食べ物が存在する。

 映画ではそれがいったい何かが分からないままだったけれど、メイキングか何かで、どうやら黒い得体の知れないものが載った丼だと分かって来た。だったらそれが何かはやっぱり分からないままだったけれど、ディックにちなんだ料理やお酒を出しているPKD酒場では、とりあえず見た目だけでもと真っ黒な何かが乗ったそれをデッカ丼として投入した。ここには開店時からPKD風焼きうどんというのがあって、4つと頼むと2つでじゅうぶんとばかりに2つの鉢に入って焼きうどんがでてくるメニューがあったけれど、それはどうやら「ブレードランナー」でデッカードが頼んでいるものとは違うという指摘もあって、だったらと答えて作り出したメニューってことになる。頑張るなあ。

 ともあれそんな謂われを持って登場した丼の、肝心の味の方はといえばこれまた美味かった。「PKD風焼きうどん」も「ヴァリス」という名の春巻きも、「火星のミートボール」も美味しいんだけれど「デッカ丼」もエスニック風なトッピングといっしょに得体の知れない真っ黒な何かが乗って、それらが口中にサッパリとしながらもピリリとした味わいを残してくれる。だからいったい何なんだと聞かれれば、行って食べろとだけ言っておく。自分で試してこそのPKDワールド。そして言うのだ。「ひとつでじゅうぶんだけれどもう1杯」。それくらい食べても平気だから。


【11月18日】 納谷六朗さんという人の声を納谷六朗さんという人が喋って居るんだと意識したのは多分テレビアニメーションではなく、NHKでやっていたラジオドラマの何かであって地上波のラジオSFコーナーか何かの朗読か、それともFMの青春アドベンチャーかは記憶にないけれどもそのどこか柔らかくて優しげな声を喋っているのが納谷六朗という人だと知って、「ルパン三世」の銭形警部を演じていたりする納谷吾朗さんとはどういう関係なんだろうかと思ったような記憶もある。当時ってネットですぐに調べて兄弟かなんて分からなかったんだよ。でもって声優さんが出てくる雑誌も今ほどはない。そんな中から少しずつ、拾い集めていって得た情報は貴重なものだったし、強く記憶にも残った。そんな時代。

 先にその兄の納谷吾朗さんがなくなられて、銭形警部にチャールトン・ヘストンの声が逝ってしまったと嘆いてからまだ間をおかないまま納谷六朗さん死去。振り返ってみると「侍ジャイアンツ」で捕手の八幡太郎を演じていたり「未来少年コナン」でテリットを演じていたりと接する機会も結構あったなあという印象。して「エウレカセブンAO」でクリストフ・ブランを演じた声を聞いて恒例なのに変わらないその若さ、その艶っぷりに晩年はちょっと声が衰えていた兄の吾朗さんとは違った現役ぶりを感じたばかりなんだけれど、年齢にはやはり勝てなかったということなんだろう。82歳で没。本当にありがとうございました。

 こちらは83歳で没。そんな高倉健さんの訃報を聞いて、ご本人を見たのはいつだったろうかと日記をひっくり返したら、1998年12月18日に映画「鉄道員(ぽっぽや)」の製作発表会見に出たのを見たって記録があった。その時はもう気分は広末涼子さんに会える方で盛り上がっていて、健さんはおまけみたいなものだったけれど、その後に出た映画は数本で表舞台に出てくるのも数えるほどだったことを思うと結構、貴重な機会だったんだなあと今になって思えてくる。どんな顔をしていただろう。どんなしゃべりを聞かせてくれただろう。映像も画像も記録してないから分からないけど、でも健さんがそこにいたってことだけは確かだ。その記録から思い出を引っぱり出してこれからの人生、生きていこう。僕は高倉健さんを見たんだ。

 劇場版のBDに続いてパンフレットも品切れ続出とかでこれは印刷し直せばすぐに再販できるから嬉しい悲鳴だろう「楽園追放 Expelled from Paradise」を見に行った時に、予告編として何か観客がえらく泣いた泣いた泣いた泣いたと言っている映画があって、何だろうと家に帰って調べたら「想いのこし」という映画だったんだけれどその設定を聞いて引っ掛かった。何でも事故でいっぱい死んでしまったけれどたった1人だけ残った人に事故で死んだ人の声が聞こえたりして、その残した思いをかなえるために奔走するというストーリー。これって滝川廉治さんの「テルミー きみがやろうとしている事は」にとっても似ている。学校で言ったバス旅行で起こった事故で死んでしまったクラスの中で、ただ1人生き残った少女が、クラスメートの思いをかなえるために動いているのを、旅行に参加せず生き残った少年が手助けする。そんなストーリー。

 死者が残した思いをかなえるために現世へと戻る話ならもういっぱいあって珍しくもないように、こういう残された想いをかなえるために生き残りが動く話ってのも珍しいものではないのかもしれないけれど、自分が見知っている範囲では過去にライトノベルが1本あって、それとよく似た映画が目の前に来るとどうしても何か関連性って奴を見てしまう。偶然だってことだと思ってもどうしてもそれは避けられないけどでも、こうやって映画というメジャーな媒体が前に出てしまうと傑作だったライトノベルも埋もれてしまって忘れ去られていくんだろう。それはちょっぴり寂しい話なんでこっちはこっちでリブートをかけてクラスメート全員の思いのこしをちゃんと叶えであげて欲しいなあ。2巻でどこまで進んだっけ。ちょっと気になる。掘り出すか。

 そうか解散か。だったらあの内閣改造は何だったんだって話になるけどほんの数カ月前ですら、景気がこれほどまでに減速傾向を見せるとは思っていたなかったんだろうか安倍総理。それともそういう徴候は出ていたんだけれど当人の耳には届いていなかったとか。いずれ出てくる指標を見ればそれが相当に悪い数字になっていて、消費税の10%への引き揚げなんて言い出せる状況ではなくなりそれについて信を問うだのどうだのといった話になると予想も出来たはずなのに、しないで内閣改造をやって新しい人を持ち上げようとしては大失敗。ああつまりは足下の議員のことすら分からないまま内閣改造に突っ走ってしまう無定見ぶりが、経済政策でも出てしまっていただけのことか。

 そんなのに総理をやらせていて良いんだろうかと思っていたら自公で過半数をとれなかったら退陣とか。って公明党に頼るのか、何かしら意見が合わない公明党を批判する取り巻きメディアがいるのにそれでも頼るってことはメディアの口を塞ぐのかな。黙っていられればいいけどメディアもメディアで空気読めないからなあ。大変だ。財務省こそが悪玉だなんて言い出して安倍総理を何としてでも守ろうって論陣を張りだしているけれど、圧倒的な議席数をもってすれば消費税の引き上げ阻止だって何だって出来たのに、何もしないで推進しては壁にブチ当たったんだから同罪も同罪。なにに切り分けワルモノを作ろうとしているメディアに財務省が怒って国税とか差し向けたらいったいどうなるか。ただではすまないだろうなあ。軽減税率の話だってあるし。それでもやっぱり突っ走るのかな、空気読めないし。やれやれだ。

 ツアーファイナルってことでZepp Tokyoで行われた森高千里さんの「LOVE」を見に行く。ツアーの開幕を同じ場所で見てからだいたい3週間、あちらこちらで行われてこなれて来たのかトークも愉快に自虐も交えつつそれでも変わらない自分をしっかりと見せてはこれもまるで変わらない歌声をたっぷりと聞かせてくれた。それはもう凄いの一言。喋り声こそ甲高さはとれているもののそれでもやっぱり相当に若いし、歌いはじめれば昔と変わらない高さでもって声が響いてライブ会場に鳴り渡る。そしてスタイル。これも変わらずに美しい。それで40代というんだから恐ろしいやら怖いやら。今でも存分にアイドルとして通用するんじゃなかろうか。

 曲目は初日に見たのにあとクリスマスってことで「ジン ジン ジングルベル」をアンコールに混ぜて歌ってくれてファイナルらしさを出していたっけ。どの曲も素晴らしいけれどもやっぱりtofubeatsさんが手掛けている「Don’t Stop The Music」が最新で最近っぽさを見せていて好きかなあ、元より良いメロディの楽曲に森高さんをフィーチャーしたことで澄んで響きながらも切なさを漂わせる不思議な音楽になっている。派手じゃないけど確かなビートに甘くないけど厳しくもないその声で奏でられる不思議な世界。良いミックスだ。「LA LA SUNSHINE」も同じtofubeatsさんのリミックスでアイドル歌謡とはまるで違ったポップなチューンになってるし、この組み合わせで1枚アルバム、作れるんじゃないのかなあ。やらないかなあ。でもやっぱりライブで見たいそのチューン。ブルーノートはどういう感じになるんだろう。頑張ってチケットとろう。


【11月17日】 文藝春秋から出ている小説誌の「別冊文藝春秋」が紙の出版をやめて電子版に移行するそうで、これも時代かなあと思いつつ理由としてまず中間小説誌として歴史が長く、直木賞の受賞作なんかを掲載する「オール読物」に比べて伝統が薄いのと、そして総合誌として今なお君臨する「文藝春秋」とは毛色が違うことがあって、電子化への移行にそれほど思い入れ的な抵抗がないこと、そして連載小説を書き溜めて単行本化する媒体としての価値も、最近はネットに移行して光文社とかイースト・プレスなんかが頑張ってたりして、作家の方にもあまり抵抗感がないことなんかが挙げられそう。

 これが純文学の方だったら、媒体への掲載が芥川賞の候補作になる条件に、明文化されているかは分からないけど慣例的にそうなっていたりすることもあって、「文学界」にしても他誌の「新潮」「群像」「すばる」「文藝」「早稲田文学」等々にしても電子化は難しかったと言わざるを得なさそう。っていうかすでに季刊となっている「文藝」なんて、今すぐにだってなくなって不思議はないんだけれど、それでも「文藝賞」を営む媒体であり芥川賞受賞作を出す媒体としての矜持なんかもあって、未だに続いているといった感じがある。福武書店の「海燕」とかはなくなったけれど、あそこは文芸出版社じゃなかったし、思い入れも薄かったと言えば言えるかな。

 エンターテインメントなら別に連載が電子版であっても、それが単行本となって店頭に並んでおもしろければ、あるいは選ぶ人の目にとまればちゃんと文学賞の候補作としてあげられる。勿体ないのは文庫書き下ろしとして出される面白いエンターテインメント小説の数々だけれど、そういうのを目ざとくみつけて候補に並べて賞を与える度量って奴を、どうやら文壇界隈って奴は持ち合わせてなさそうだから仕方がない。ドラマ化なり映画化なりといった別の窓口を得てヒットしていけば良い話なんだけれど、そういう映像界隈の人たちがまた、自分たちで面白い小説を文庫からでも拾って見つける度量を本当に持っているか見えないからなあ。「神林長平トリビュート」から虚淵玄さんを見つけて「楽園追放」に引っ張り込んだ東映アニメーション、ちょっと凄いかも。

 あと心配なのは、雑誌という単位でもってあれも載っているけどこれも載っていて読んだら面白かったからその作家の他の作品もという連鎖が、電子出版化されても起こり得るかということで、そこはパッケージングして雑誌として様々な作品を乗せることで解消されるかとうと、せっかくの電子雑誌なのに作品単位で読めないのは面倒だし意味がないとかいった声も浮かんだりするから難しい。それは利便だけれど他の作品の未来を詰み、文学界の未来を狭めることにも繋がりかねないからなあ。どういう塩梅を見せるのか。そのあたりイースト・プレスの電子雑誌で実績積んだ人とかが参画して巧く回していくのかな。見守ろう。しかし文学界、続く動きとかもあるのかなあ、だとしたら大変だなあ。

 HDDレコーダーがいっぱいになって何かを消さないといけなくなったんで、録画が成功したり失敗したりしてとびとびになっている「甘城ブリリアントパーク」の見返して消したりする寒い夜。1巻あたりの落ちぶれたテーマパークを元天才子役が救うという設定とそのテーマパークが魔法の国の生命エネルギーを集める役目を果たしているという設定、そしてテーマパークを率いるお姫さまの記憶がリセットされてしまうという条件なんかも絡めながら、主人公がどれだけの手を打って事態を乗り切るかと、というハイテンションで高密度な展開が、2巻あたりからおかしい日常とおかしなキャラクターを紹介しつつ少しずつ、事件を忍ばせ描いていく展開になったんで小説として読むにはどうかなあと思っていたんだけれど、アニメは毎回しっかり事件を描いて解決を描き、そんな中にうち解けていく騎士少女を描いてみせてなかなかに見せる。

 映像の方もさすがに京都アニメーションだけあってよく動きよく揺れる。主に胸とか。そんな映像とストーリーを眺めているうちにこれはパッケージ買ってもいいかなあと思い始めたけれどでも、完結していないライトノベルのアニメーションはそのまま描くか途中までにするかで展開も大きく変わってくる。そこは原作者の賀東招二さんがシリーズ構成で参加しているということで、彼の手になる物はそれもそれでオリジナルという理解でアニメだけの終わり方でも満足するのが正しい受け止め方なのかも。さてもどんな終わりを迎えるか。それはお姫さまにもキャストにも可児江星也にとっても幸せな終わり方なのか。終わりまでまずは見ていこう、これからは極力録画に失敗しないように頑張って。

 第6回目の開催が未だに明らかにされていなくって、最近どうもそっち方面からの関心が向けられていないみたいで何も伺わせてもらっていないまま、もう消えてしまったんだろうかと不安に思っていたりする「このライトノベルがすごい! 大賞」の第5回の最優秀賞受賞作品が出てたりして、これもまた過去の4回とは違って選考にまるで関われなかったので、どういう話かまるで知らないまま読んだらなかなか面白かった。はまだ語録さんという人の「着ぐるみ最強魔術士の隠遁生活」は、魔法を使える人種がいてそれは髪の毛の色が薄かったりするのが特徴で、段階もあって透明に近ければそれだけ強いってことになっているんだけれど、登場する少年は見た目真っ黒でまるで魔法の才能があるようには見えない。ただその父親は魔法界の名門の家の出で、結構な使い手だったにも関わらずテロにあって後妻に迎えた女性ともども死んでしまい、あとに女性の連れ子だった双子の少女が残された。

 その2人は結構な使い手で、それだけに早くに家を出されていた黒髪の持ち主の義兄にあたる少年のことが疎ましくて仕方がない。ところが名門の家の祖父はまだ生きていて、その命令によって2人の少女は義兄が暮らす街へといって、魔術士であることを隠して暮らすことになる。嫌々ながらもその街へと行って、兄と暮らし学校で平凡な暮らしをするうちに学んでいく魔術士という立場の重さであり、普通の人間達が抱く感情。そういう成長の物語がある一方で、なぜか着ぐるみに魂を移して少女たちの面倒を見ていた兄の周辺で父親を殺め今また少女たちを狙う謎の一味が跋扈し始める。いったい何者か。そんな探索の果てに明かされた少年のとてつもない秘密。そこで少女たちとはまた違った、才能がありながらも決して誇らずむしろ恐れつつ優しさをもって生きることの意味ってものが描かれていく。

 最近出た「アルティメット・アンチヒーロー 常勝無双の反逆者」とかも確か、俺TUEEEEの極地にいそうな青年が決して奢らず他人を恨まないまま闘い続け守り続けている姿を描いていたりして、強さと優しさを合わせもったキャラクターに今は波が来ているんだろうかなんてことも考えたり。あと「着ぐるみ最強魔術士」だと髪の薄さが魔力の強さになるなら外国人とかどうなんだ、って思ったりもするけれどもそこは日本人限定とかっていった設定でもあったのかな、詳しくは読んでないんでそのあたりを振り返りながらもう1回読んでみよう。最後にモテモテな状況が訪れ、そして新たな展開もあったりして続きが出そうな気もするけれど、でももう着ぐるみじゃないしなあ、そこはそれ、またぞろ乗り移ったりするのかも、丹八って猫もきっとその方が嬉しいだろうし。それにしてもどうなるんだろうなあ「このラノ大賞」。立ち上がりから眺めていただけに何も分からないのは遠ざけられているようで寂しいなあ。

 「闘劇」復活? って一瞬思ってしまったけれども違って「闘会議2015」だったドワンゴの発表会。エンターブレインも参加に含むKADOKAWAが、ドワンゴとの経営統合を決めた時に成田での炎天下での開催を最後に途絶えてしまったゲームの祭典が、ドワンゴのニコニコパワーで復活すれば良いかもと考えていただけに一瞬、そんな夢の実現を想像してしまったけれど「闘劇」を仕切っていた猿渡さんは今は違うプロジェクトに関わっているみたいだし、そもそもが格闘ゲームを中心とした祭典になっていないところに「闘会議2015」はまるで別の系譜を持って立ち上がるゲーム関連イベントだって理解を持つ必要がありそう。寂しいけれども仕方がないし、格闘ゲームだって含まれるんだからそれはそれで。でも協賛企業はバンダイナムコゲームスとセガだからバーチャと鉄拳くらいでストリートファイターは含まれないのかなあ、やっぱり。


【11月16日】 そして向かったPerfumeのライブビューイングは新宿ピカデリーにて鑑賞。前から3列目という席でずっと座って見ていたけれど、それより前であんまり立たず、そして5列目あたりからセンター席の人はだいたい立って応援してた。さすがに前から3列目となると座席から立つと正面にでっかいスクリーンに映し出されたメンバーの脚しか見えないんで、全体を見るにはずっと座ってないと無理だったりするのだった。でもって見上げるとライブ会場では絶対に拝めないアングルから、かしゆかのっちあーちゃんの脚が、もう脚が、にょきにょきにょきと、立っていた。素晴らしい。本当に素晴らしい。

 もちろん見せて構わないものなんだろうけど、それでもライブ会場でもテレビ中継でも見えないものが見えたりするのもライブビューイングならでは。ありがとうライブ・ビューイング・ジャパンの人。しかし初ニューヨークだってのに物怖じしないでいつものあーちゃん節を聞かせてくれたPerfumeたち。MCも英語混じりだったり近場にいたバイリンギャルに同時通訳を頼んで場内に聞かせたりする機転を利かせてた。これが仕込みじゃなければちょっと凄いし、会場で選ばれた眼鏡っ娘の人ちょっと羨ましい。胸毛丸見えのVネック衣装を着ていたおっさんをあーちゃんが「K点越え」と評した時には訳すの困っていたけれど。でもそれで場内に言葉が通って意識もまとまる。日本語だけでもまとまるけれど英語混じりで呼びかけられて嬉しくないはずがないってことでもう後半は大盛り上がり。鬱陶しいケミカルライトも消されてパフォーマンスに目をやり手拍子して跳ね上がる。

 後半はもう本当に素晴らしかった。楽曲の畳みかけとダンスパフォーマンス。この規模この密度を日本でやって欲しいけれどもう、無理なんだよなあファンの数からしたキャパシティ的に。ドーム2daysだって埋められるグループをZepp10Daysでやるのはやっぱり勿体ない。今さら国内ライブハウスをライブビューイングするって英断もない訳じゃないだろうけれど、それは収益的にも効率的にもやっぱりどこかに無理がある。だから海外でもって国内ではもはや実現不可能な箱の大きさで、構成を練りつつじっくりと見られる距離でもってライブを演って、国内に送って全国の映画館で数万人に見せるのが今はベストな形なのかも。それで稼げる入場料&グッズ代。見た人も満足できるし、かしゆかの脚とかその奥とかに。そんなライブビューイングの醍醐味が伝われば、これからもっと流行っていくだろうなあ。

 さてPerfume。歌詞はだいたい日本語でもサビとか英語の単語だしビートは中田ヤスタカだしで海外でもしかり乗れてる感じ。場内は日本人もちらちら見えたけれどだいたい外国人。24時間とか前からテント貼って待ってたというから本気モードの客がロンドンに限らずNYにもいるという現実をまずは受けつつここから先、日本みたいな規模へと拡大していくのか、それともきゃりーぱみゅぱみゅのように2000人規模のライブハウスで1Daysでシカゴロスシアトル当たりを回るのか。そんなあたりの展開にも興味。シカゴあたりでも追いかけるファンはいるかな。そこがKAWAIIなきゃりーとクールでダンスフルなPerfumeとのファン層市場性の違いでもある。だからこそ見てみたい気もする。

 ともあれそんな熱気が日本にも伝わるライブビューイングだったという印象。ツイートされる評判も上々。立つか座るかといった辺りはまだ迷いがあるみたい。せっかく椅子も豪華な映画館で何で立つんだという人もいるけど多くはライブのあの感覚を味わいに来ているので立つ人もいるし止められないなら立つシアター立たないシアターを分けるとかするのもありかも。それが出来るのもシネコンでのライブビューイングな訳だから。拍手喝采タオル投げ。何でもありのシアターにした方がそりゃあ楽しいだろうけど、年輩者にはきつい場面もあるのだし。音響も劇場によって毀誉褒貶、小さいってところもあったみたいだしピカデリーみたく重低音が鳴ってライブ会場より音が聞こえた所もあった。

 施設も新旧あるし上映施設も更新が進む。衛星か光ケーブルかって違いもある中で施設に合わせてベストな映像と音響を提供できるかって辺りでライブ・ビューイング・ジャパンの手腕も問われるんだろう。あるいはそうした評判を聞いて今度はシネコン側がライブビューイングに適した形にシアターを作り替えていくとか。専用劇場? それはライブ・ビューイング・ジャパンの社長の人も聞かれていたけど空きシアターを使うから、そしてフレキシブルにキャパを調整できるからシネコンが良いんであって専用劇場にするとやっぱりない時は困るだろうし。それか常に何かのライブビューイングを”上映”しているとか……ってそれも同じか昼間の平日の閑散とした劇場と。さてもどうなるライブビューイング。矢沢永吉とか見たいけどやっぱりタオル投げるのかな。はーは。

 1年生の延長を微温的な空気の中で繰り返しかねない2年生という時期。そこを少し驚かせながら面白がらせて切り抜けたのが「あずまんが大王」の2年生編で、進級したメンバーの中でひとり大阪弁の春日歩だけがクラス分けで他の面々と同じ紙に乗っていない。まさかの別クラス? そう思わせておいて「大阪」という名前が載っていることを伝えて実は同じクラスだったんだと分からせ、なおかつ春日歩という名ではなく大阪というニックネームが界隈では定着していることをギャグにする。そして始まる去年と同じ賑やかな日々。なおかつそこに榊さんとい運動神経抜群で寡黙で強面に見えながら実は口べたなだけで猫が好きで猫を触りに言って猫に噛まれる悲しい体質を持った女の子を、ずっとライバルと勝手に目している神楽という少女もクラスに加えて榊さんと絡ませ話に変化をつける。そうやって始まった1年は前の関係性を受け継ぎ前のエピソードの変奏で楽しませながらもも新たな関係性を乗せて目新しさも感じさせる。2年生ものの極地。それが「あずまんが大王」2年生編だと突然に思ったりした、晩秋。

 見に行ってないけど女子サッカーのなでしこリーグはエキサイティングシリーズの終戦1つ前で日テレ・ベレーザがジェフユナイテッド市原・千葉レディースを破って勝ち点を積み上げ21として、浦和レッドダイヤモンズ・レディースとの差を3にした。これで次の試合でベレーザが湯郷ベルに勝ち浦和が新潟アルビレックスレディースに破れれば24点で並ぶんだけれど得失点差が大きいんで浦和が逃げ切る可能性が大。とはいえ一時はずいぶんと立場に違いもあったように見えただけに、2強として屹立した感じになるのは女子サッカーにとっても悪い話じゃない。あとはINAC神戸レオネッサが復活してくれるかなんだけれど、浦和相手に引き分けを演じて今ひとつ乗り切れないからなあ。次はでもジェフレディースとの対戦なんでここで語れるとジェフの順位が下がってしまうんでお手柔らかに。来年はどうなるのかなあ。そしていよいよ始まるワールドカップに向けたメンバー選考は。その前に皇后杯もあったか。今年こそジェフレディースに栄冠を。男子は……プレーオフ頑張れとしか。

 そしてバルト9へと出向いて「楽園追放 Expelled from Paradise」を見終わる。1人3枚まで売って劇場限定BDを早くも欠品させる戦略は芋だと思ったけどこれは劇場ででっかいスクリーンで観る映画だと思えばBDなんざあグッズに過ぎんと思い手に入らなくたって兵器だと思い直すことにする。いや業腹だけど。チケット1枚にBD1枚じゃなけりゃ劇場で売る意味ねえじゃんと思うけど。でもって映画はこれは良いものだ。3Dで作られたとか言われなければ気づかない。それはつまり将来においてもはや3Dは自在さを手に入れたということで何が出てくるかどんな表情どんなアクションが生まれてくるかが楽しみ。それが制作のフロー的に言えそうなこと。

 物語的には電脳世界から地上へと舞台を移すことによって迫力あるアクションなりロボットバトルなりを表現できた。手代木正太郎さんによる前日譚は舞台がオール電脳でそこでのやりとりがメインでサイバーパンクミステリとして傑作なんだけれどこれを映像でやってもマトリックス以上のものにはならない。だから小説としては正解。一方の映画はノベライズも出ているけれど読むと電脳空間ならではのスリリングさがなくどうかなあと思ったけど映像になったらリアルなバトルのど迫力って奴をたっぷりと見せてくれた。つまりは映像としてこれが正解。そいういう棲み分けがあるんだと分かった。

 そしてテーマも重い。電脳の檻という楽園に止まりひたすらの上昇志向で生きるか肉体の牢獄という地獄に止まり生きることを楽しむか。どっちもどっちだけれど自分ならどっちだろうと考えさせるだけのメッセージがある。あと高度に電脳化された人間と高度に知性化されたコンピュータの間に差異はあるのかといった部分。パーソナリティもネットの海でメモリの中を動く情報に変えられてそれは人間と言えるのか。逆に知性を持ったコンピュータは人間でないと言えるのか。突き詰めれば難しい問題だけれどそれをあっさりと(あるいは巧妙に)乗り越えさせて物語の中で対比させる。そしてどちらかといえば肉体の牢獄に魅力を持たせてみたり。ロボットの知性に暖かみを感じさせてみたり。そんな可能性への優しい眼差しが見終わって幸せな気持ちにさせてくれる。

   そこが巧い脚本であり設定であり展開でありストーリーだった「楽園追放 Expelled from Paradise」。捜査官のアンジェラが味方を出し抜いてでも手柄にこだわり、メモリにこだわるのか、そして地上に降りて初対面なはずの肉体を持った人間をはなっから見くだすような高慢な態度に出ないで、その人格その性向に有る程度の理解を示すのか、ってあたりは手代木さんの前日譚を読んで、アンジェラの上司として登場する1人の女性捜査官との邂逅を経るとさらによく分かるから是非にご一読を。ともあれSF映画として傑作中の傑作でアクション映画としても一級品。このまま行けばそれこそ来年の日本SF大賞にだって堂々ノミネートされたって不思議はないけど世間はそこまで記憶を持続できるのか。忘れ去られないためにももっと劇場が盛り上がらないと。だからまた見に行こう。そして目に焼き付けよう。そうすればBDとかいらないし。うん。やっぱり根に持っている。


【11月15日】 ダムタイプの見ておきたいと東京都現代美術館で開かれている「新たな系譜学を求めて 跳躍/痕跡/身体」へ。そのパフォーマンスそのものは見たことがないんだけれどもメディアアート的なインスタレーションとなったものを青山スパイラルで見たり初台のインターコミュニケーションセンターで見たりはしていて静謐な中に人の肉体の動きを見せつつ連続と停滞のもたらす差異を感じさせてくれる不思議な集団、なんてイメージを持っていたりもしたしあと、亡くなられた古橋悌二さんの人となりその思考なりが作品にどう写されているのかって興味でも見ていたからやっぱり新作となるどそれらがどう、写されているのか、それとも違う方向へと向かっているかが知りたかったという。

 そして会場に入ると今日明日で展示が終わるという割に「ダムタイプ」作品の前に置かれたベンチに人がぎっしりって感じでもなく、また展覧会そのものに人が群がっているといった感じでもないのが現代美術というか東京都現代美術館らしいというか。ジブリ関連とか特撮とかをやるともう、入場列が出来て待機列まで出来てしまう状況も悪い訳ではないけれど、広い空間に悠然とおかれあるいは暗がりで上映されている映像作品に数人が見て食らいついているシチュエーションの方がやっぱり現代美術らしい。それで良いのかって言われればううん、経営的には問題なんだろうけれども今、この瞬間の評価は分からないけど未来、そこから何かが生み出されるなり誰かに影響を与えるなりすることの方が、現在進行形の美術にとって重要なんじゃないかとも思うのだった。ゴッホだってルソーだって生前は誰にも見向きもされなかった訳だし。

 さてダムタイプ。「MEMORANDUM OR VOYAGE」ってタイトルからも分かるように過去にあった作品を再編してそれを4Kの巨大に横長のモニターでもって上映するといった感じで寝転がる人たちがいれば踊る人たちもいてあふれ出る文字とあれは何かの地図らしきものが現れ消える映像も出てといった感じに、いくつかの映像がつながって上映されていく。そこに被さる8・何チャンネルとかいう音声が眼前を覆い時に激しく明滅する映像とともに網膜を刺激し鼓膜を突っつき脳をゆるやかに染めていってくれる、なんて感じだろうか。

 昔見た人にはああこれはって懐かしさもあるかもしれないし、今なら映像のインスタレーションとして見て浸れるかもしれないけれど、それが何を言いたいか、何を言いたかったのか、って辺りはううん、ちょっと分からないかなあ、肉体を見せきっている訳でもないしメッセージを乗せ切っているって感じでもないから。あるいは解説でもあればそこにもっといろいろな言葉を、言語を、思いを感じ取れたかもしれないけれどそういうのがなくても味わえた、感じられた、浴びられた作品群とはまた違った、ビジュアルインパクトでまずは押す作品を試行しているのだとしたら、会場の冒頭にこれを置いてまずは来館者にぶつけ、頭をリセットして他の展示へと向かわせるという効果はあったかもしれない。いずれにしても16日で撤収。どこに持っていくんだろう。ここ限りだとするならそれはそこ限りの作品だってことになるけど、果たして。

 そんなダムタイプを離れてぐにゃぐにゃと曲がって接続されたピースの両脇をストッキングみたいに柔らかい布で覆ってトンネルみたいんした作品の中をだいたい100メートルくらいぐにゃぐにゃしながら歩いたり、電気刺激でもって人の筋肉を動かす装置によって過去の土方巽さんとかピナ・バウシュウの踊りを再現させる実験的アートの映像なんかを見たりして楽しんだ展覧会。あの吹き抜けに置かれた巨大な投影装置で見る野村萬斎さんの「三番曳」は超迫力で稟として張りつめた空気がはじけて爆発するその舞その声を全身で味わえるのはなかなかの機会。冒頭のダムタイプでたっぷり時間をとられてそっちを全部見てはいられなかったけれど、これはまだ続くみたいなんでまたいって前半後半の差異なんてものをじっくり味わってこよう。

 そしてついでだからと同じ現代美術館で行われている「ミシェル・ゴンドリーの世界一周」へ。パッと聞いて思い浮かぶ名前ではなかったけれど、展示されていた過去に手掛けたミュージックビデオなんかを見てあああの曲のあの映像をやっていた人なんだと思い出したかというと曲は浮かんでも映像は。MTVを見ていた時代からズレて1990年代から2000年代のMVを手掛けている人なんでそれを見る機会もずっと減ってしまっているのだった。それでもケミカルブラザーズの「Let Forever Be」のMVとか見てしまうと巧いなあと思うからやっぱり凄い人なんだろう。MTV全盛の時代に活躍していれば名声もさらに巨大になっていたかなあ。今でも十分だろうけど。

 面白かったのはその展示方法で、ワイヤレスのヘッドフォンをつけてモニターの前に立つとその映像に対応する音楽が流れるんだけれど映像は15秒で終わってしまってそして別の映像が15秒流れる。前の映像はというと続きは隣のモニターでもって15秒だけ上映。その時にはその映像にあった音楽がヘッドフォンから聞こえてくるけれど、15秒後にはその次の映像の続きが流れていくといった感じに15秒づつずらして15秒だけ切り取られた映像がつなぎ合わされているモニターが連続して置かれているという、そんな感じ。だから1つの映像、ケミカルブラザーズならそれ、チボマットならそれ、ダフトパンクならそれといったものをずっと見たければ、15秒見て隣のモニターに移動しなくてはいけない。

 ずっと同じ場所にたって切り替わる映像を見ていることも可能だし、別の映像を探しに先へ、あるいは逆へと戻ってザッピングしてああこの映像のこの部分が好きだと感じたらそこからその映像を追っていったりといった楽しみ方ができる。人が少なければもう行ったりきたりもできるけれど、これで人が多くなるぞ流れ作業的に最初に見た映像を15秒経って次のモニターへと映っておいかけていって、結局1つしか見られなかったなんてことも起こり得る。じゃあとそこから別の映像をまた流れ作業的に見て最後までいって戻り別の映像を、なんてこともやってやれない訳じゃないし、それもひとつの楽しみ方。混雑ぶりも含めて映像をどう楽しむか、どこを楽しむかって体験をさせてくれる装置だった。誰が考えたんだろう。ミッシェル・ゴンドリー本人? だとしたら人間が映像の何をどう楽しむかってことを知り抜いた人なのかもしれない。

 実際の撮影体験も行われる映画のセットを間近に見る展示なんかを眺めつつ会場を後にして、土曜日のPKD酒場へといったら人も少なくメニューも限定されていたんで火星のミートボールでお昼ご飯にし、ユービック・コーヒーにスプレーのクリームを乗せて味わっていたら早川書房のパーティでみかけたおじさんと若者が入ってきた、って社長さんとジュニアじゃん、何か会合があったらしく身内らしい人友人らしき人たちを伴って喫茶店でお茶をしながら会談してた。パーティだといつもどこか静かなジュニアが英国滞在時の話を年輩の人たちと楽しそうに話していたのを見て彼、趣味も広そうで関心も深そうだと思ったけれどそういう会話を社内でするには同世代は立場が違いすぎるし同じ関心を持ち合わせているかも分からないしなあ。立場って難しい。

 勤め先の役場に行こうと家を出ると、回りで何がデモらしきものをやっていたので歩くのを止めて駅へと向かい、地下鉄のようなものに乗ったけれど家から歩いて目と鼻の先にある役場へと向かうには少し乗りすぎてしまった気がして、次の駅で降りようと思ったけれどそこから先、どの路線で行けば役場のある駅に行くのかを思い出せない。というよりそもそも役場のあるのはどの駅だったのか。分からないまま乗っていると地下鉄は地上をはする鉄道になっていて中空を滑りつつ狭い狭い路地へとすっと入っては、低い家並みを両脇に身ながら正面に青の濃い海を覗かせるようになる。

 そんな海えと近づきながらも駅はまだ見えず、そして鉄道は海の上をすっと滑りながらだんだんと島へと近づいていく。キャット○○。そんな名前だったけれど1度聞いたそれが思い出せず周囲の乗客に尋ねても笑顔を返されるばかりでやっぱり誰も教えてくれない。そんな島の箸に辿り着いて鉄道は止まってそこに見えたのは「シネマ」といった文字を掲げる古い印象の映画館。でもどうやら船着き場らしくそこから船でいくということになって皆は降り、そして改札の前を舞っていたらサッカーの中山選手とそっくりの人が背広姿で降りてきて、こんにちあと挨拶をしたら笑顔を返されたところで目が覚めたという、そんな夢の意味はいったい何だろう。脳のどこにも置いてなかったイメージ。そして近況と重ならないモチーフ。深層から引っ張り出されたのかなあ。どこにしまい込んであったのかなあ。


【11月14日】 見てなかったけれども錦織圭選手が、ATPのワールド・ツアー・ファイナルズでもってグループの2位に入って準決勝に進出したとか。直前に相手選手が代わってランキング的には下の選手が出てきたけれど、相手に会わせてプランも考えていただろうところに急な変化ではやっぱり大変だったみたい。感覚が狂わされて戸惑っただろうけれど、それでも1セットを奪われただけで建て直し、続く2つのセットを連取して逆転勝利するとはやっぱり相当に、神経が太くなっているって現れなんだろう、これもマイケル・チャンという名コーチの指導の賜か、松岡修造さんでは叱咤し鼓舞はしても状況に合わせてメンタルを調整する技はあんまり持ってなさそうだし。うん。

 そして進む準決勝で当たる相手は誰になるんだろう。いずれにしてもロジャー・フェデラー選手はすでに進出をノバク・ジョコビッチ選手だって残ってくる。この2人で過去の4年間を優勝し続けている訳でそこに割ってはいるのは難しそうだけれどでも、上位に残ってこのツアー・ファイナルズに出場しただけでも奇跡のような出来事。ずっと出続けているフェでラー選手やジョコビッチ選手、そして今回は虫垂炎で事態したラファエロ・ナダル選手といったそうそうたる面々に、迫れただけでもまずは良しって考えておくのが良いのかな。あとはその列にずっと居続けること。そしてやっぱり4大大会での優勝を。それがあって初めて世界の頂点に、足をかけたって言えるから。うん。

 そして短編アニメーションのオリジナル作品の第2弾となる「HILL CIMB GIRL」が配信された「日本アニメ(ーター)見本市」。学校までの坂道を男子生徒と女子生徒が競争するって設定は、漫画の「並木橋通りアオバ自転車店」にもあったシチュエーションだけれど、記憶だとアオバの方はとっても早い女子がいて、それに挑む男子がまるでかなわないという設定。それも実に痛快だけれどこっちのアニメはそのあたりは体力差に配慮したのか、それがデフォルトと考えたのか、男子に挑んでかなわない女子の話になっている。まあ分かりやすい。そして走っても走ってもかなわない彼女をテレビで見たツール・ド・フランスの出場選手が応援してくれるっていう展開も、実にストレートで見ていてほっこりする。そんな彼女が惚れるならやっぱり強い山岳スペシャリストで、敗った相手の男子ではない気もするけれど、そこで声をかけられるのもまあやっぱり、お約束って奴で。

 すごいのは技術の方で、キャラクターなんかを見ても自転車の質感を見てもこれが3DCGのアニメーションだとはちょっと見えない。セル的な雰囲気の中にしっかりと構築された自転車が走っている。本物そっくり。でもちゃんとアニメ的で浮いてないこのマッチング具合がとってもすごい。キャラクターの表情や仕草も同様で、いったいどういうモデリングをしたのかちょっと知りたくなる。モーションアクターを使ったのか、想像の中で動かす仕組みができあがっているのか。そういう話を月曜日の「同トレス」でもって話してくれるのかな、今回は人となり以上に技術的な話を聞きたいぞ。あとはそう、あそこで女の子が口にするのがマイヨ・ジョーヌではなくマイヨ・ブラン・ア・ポア・ルージュだったら、分かってる感がなお出たかも。画面いも出てくる水玉のジャージ。あれこそが山岳スペシャリストが目指す賞だから。うん。

 「電波女と青春男」はどこかまだ現実に踏みとどまっていた感じがあったけれど、それでも漂う異星人とか地球外といった香りとそして平穏で平凡な日常との接触を、もっとくっきりと浮かび上がらせた物語、って感じがした入間人間さんの「虹色エイリアン」(電撃文庫)。ある日隕石が落ちてきて周辺が騒ぎになっているなかで大学に通っていたカナエという名の女子大生。食べるひやむぎにも開き始めていたけどそれでも食べていたある日、家に何者かが忍び込んで冷蔵庫のひやむぎを食べていると感じて狸寝入りをして待ち受けていたらそこに何者かが現れた。タオルケットで取り押さえて見るとそれは女の子で、泥だらけになっていた上にどこか弱っていたところもあって、仕方がないかとそのままアパートの部屋において洗ってあげてひやむぎを食べさせてそして面倒を見ることになる。

 いったい誰なんだろう。って答えはカナエの一人称と交互に出てくるその謎の少女の一人称でもって語られている。宇宙人。どうやら故郷の星を追われて流刑の途中にあったのが、地球に落下しそこで修理しようと画策していたもののどうにもならず、食べ物も付き体調にも異変が出始めていたところにカナエと出会ったらしい。言語は通じず簡単なコミュニケーションの中でそれぞれに相手を理解しようとしていく2人。育まれる感情もあったけれど居続ければ死ぬ宇宙人は直らないはずだったのが不思議と直っていた宇宙船に乗って地球を出る。そこに離別の哀しさってものを漂わせつつ第2話は、隣の部屋に住んでいる男性のお腹に寄生した宇宙人がいて、女性の姿でにょっきり生えてはあれやこれやと指図する。

 別に女性って訳ではなく、以前に寄生していた人間の形を多分真似たものらしく、知性も男性の方から吸収していて会話がちゃんと成り立っている。ただその宇宙人は地球にとんでもないものを呼び寄せようとしているらしく、あと2年で地球はそれに当たって壊れてしまう状況にあるという。大変だ。さらに大変なことが起こってバトルなんかもあった先、ひとつの出会いがあったらしくてそれで地球は救われたものの、ちょっぴりの惜別を覚えながら男性は生きていくことになったその次のエピソード、カナエとは大学の同級生という猿子って変わった名前の少女の家に、ロブスターそっくりの宇宙人がやって来ては地球が滅びるに当たって救うべき人間を調査していると告げてそのまま居座る。

 別にエビではないのに猿子にエビを買ってもらって愛でているのは不思議だけれど、そんなひょうきんさを持っていたボストンという名の宇宙人の姿がなぜか見えてしまった猿子の不思議。そしてカナエの家に居候していた宇宙人が乗っていた宇宙船の修理の仕方が、なぜか分かってしまった猿子の不思議。その裏側にあった事情が最後でひとつに繋がって、地球は大変なことになっていたけど、でもそんな偶然に近い重なり合いが地球を救ってそして友情も育んだという、そんな奇跡の詰まった物語。読むとそりゃあ偶然だけれど、でもそういう繋がりがあって欲しいと願いたくなるし、あるだろうという希望も浮かんでくる。いずれにしても宇宙人だからと邪険にしないで親切にしてあげると、何か良いことがあるってことで。自分だったらどの宇宙人に来て欲しいかなあ。見かけだけでも女性が寄生するあの宇宙人? どんな気分なんだろうそれが生えているって。うん。

 1年間を過ごした慣れとそして受験とか就職とかいった現実からまだ間がある高校2年生という時期を、モラトリアムとも停滞とも微温的とも温泉気分とも言って例えて人生において無駄な時間と見ようとして見られないこともないなあという気が一方にしながらも、そんな狭間の時間だからこそ実はとっても充実して濃くそして奥深い時間なのかもしれないなあと思ったりもしたのは「いとみち 二の糸」なんかを改めて読み直したから。なるほど1年間を過ごした仲間が学校にいて1年間を務めたアルバイト先のメイド喫茶があって、そのまま惰性で学校では仲良く過ごしアルバイト先でも成長をしたとは決して言えないけれども慣れた環境の中で見知った同僚たちとルーティンの仕事をしていれば、大過なく楽しく過ごしていける。

 その三味線の腕前に対する評判も次第に広がって見てもらえるようになって鼻高々。これで「いらっしゃいませご主人様」が完璧に言えれば言うことなしなんだけれどそれは贅沢というもの。今まで通りの津軽弁がまるだしであっても可愛い子だと評判になってもてはやされちやほやされながら1年間を過ごして行けただろう。けれども相馬いともその周囲も決して立ち止まることを許さないし自分自身にも許さない。学校では新たに友人が始めた写真同好会に参加して同級生達と新しい部活みたいなことも始めてみせる。メイド喫茶の常連だった男が担任として赴任してきて写真同好会の顧問にもおさまって、どういったら言いものかと緊張感の中で暮らしたりもする。

 そして友人との初めての大喧嘩。カメラが足りないってことでいとが別の友人に買うためのお金を貸そうかと親切で言ったことが、親友の心にちょっぴりのささくれを生み出した。自分自身が進学できるかどうかで費用が気になっているところに、自分のお金を気軽に貸そうかと言ってしまういとの言葉が突き刺さった。悪気も嫌みもなにもないけど自分にとっては突き刺さる言動。そう思った態度がいとに対して出てしまい、それを見知ってそうなんだと知って糸は迷い悩んで落ち込んだりもする。自分にだって悪気はなかったけれど人を傷つけていたことくらいは分かる。でもどうすれば良かったの。2年生だからといっていつまでも2年生ではなく3年生が来て卒業が来て進学が来るという現実が、そこに浮かび上がっていとを絡め取る。2年生は決して永遠じゃないんだってことを何か思い知らされる。

 周囲も動く。メイド長の幸子さんは店長との付き合いが深まって恋人同士の仲へと進んでいく。先輩メイドの福士智美は滞っていた漫画でついにコンテストの大賞を取って東京へと出る決断をする。大きく動いてしまった職場環境。そこで自分自身はどうしたいのか、どこに行きたいのかを考える。高校2年生はたしかにその当事者にとっては狭間の時期だけれど、世界の全員が高校2年生ではない。そんな中で時間的に余裕がある自分としていったい何をどうするのかを、じっくりと考えそして準備に向かって動き始めることが出来る好機こそが、高校2年生なんじゃないかって思えてきた。それは進路とか友情とかに限らない。恋もだ。

 そう、恋。駄洒落じゃないけど鯉太郎という名の大きな少年が入学してきて、相撲部に入らず写真同好会に入ってくる。別に知り合いでもなく好みでもないはずなのにいとは彼が気になって仕方がない。後輩としてだったかもしれないのが、合宿に言った先で溺れた彼女を川に飛び込んで助けたことでぐっつ関係が近づく。幸子さんの元夫が職場に来て暴れたのを抱えて外に放り出した強さにぐっと来る。強さと優しさ。それを間近で見せられるとやっぱり女の子は引かれるものなのか。それで良いなら自分だって、という下心すらない純朴さが、鯉太郎の魅力となって純粋な少女を引きつけたのかもしれない。

 そんな恋。それも初恋が2年生の怠惰で変化のない時間を動きもあって変化もあるものに変えてしまう。そうやって1年近くが過ぎて今、いとは3年生を控えて未来のことを考え始める。何になろう。何になりたいんだろう。鯉太郎のことはどうしよう。そして三味線は。ジワジワと盛り上がり煮えていた諸々がいっきに煮立って吹きこぼれる「いとみち 三の糸」へと繋がっていく大事な巻。そこに描かれたちょっぴりに見えて実はとてつもなく大きな成長が、決断を迫られるいとに何をもたらすのだろうかを想像する楽しみを味わおう。三の糸には別にとんでもないサプライズがあるんだけれどそれは読んでのお楽しみ。続けていれば、良いことあるさってことで。うん。


【11月13日】 いつ以来だろう「東京ジョイポリス」に行くのって。オープンした時に見物に行ったし、チュンソフトが手掛けたホラーハウスが出来てAKB48の誰かが来た時にも行った記憶があるけれど、最近はとんとご無沙汰してたっけ。それがアトラスの人気ゲーム「ペルソナ」シリーズとのコラボレーションが開かれるって案内をもらって、見物に行って入った中は前とそれほど大きくは変わってなくって、アトラクションも稼働していた上に平日であるにも関わらず結構なお客さんに溢れていた。日本の人なのか海外の人なのかは不明だけれど、東京ディズニーリゾートへと行くまでもなく手近で遊べるテーマパークって意味で、それなりに需要があるってことなんだろう。

 そんな「東京ジョイポリス」での「ペルソナ」とのコラボレーション、といってもゲームの「ペルソナ」を遊んだことがなく、かろうじてテレビアニメーションでキャラクターとか雰囲気を知っているだけなんだけれど、それでも作品が持つスタイリッシュなキャラクターとか音楽とか映像なんかは、ああいった場所とコラボレーションするのにベストって印象。プロモーション映像をつないで編集した特別ムービーとかは見ていて格好良かったし、振り子のように揺れる装置に乗って楽しむ「ハーフパイプ トーキョー」の上に流れる映像と、かかる音楽ともマッチしていたような気がした。グッズは可愛いクマがいっぱい。これは欲しいけどどうやったら手に入れられるんだろう。

 そしてこれが真打ちとかいう謎解き型の体感ゲーム「ペルソナQ〜サイバーラビリンスからの脱出〜」は所要時間100分とちょっと軽々しく挑むには、そして謎解き初心者が挑むには無理だろうと断念したけど、やり始めたら結構あちらこちらを回って楽しめそう。どんな謎があるのかなあ。という以前にどこに謎があるのかなあってところから考えるのが大変そう。1度2度と挑戦すると良いのかな。他にもドリンクとかグッズとかに「ペルソナ」オリジナルのものが登場していて、ファンなら行けば楽しめそう。そうでなくても行けば雰囲気からファンになりそう。アニメも格好いいもんなあ。「ペルソナ5」をやっていたくなってきたけど「プレイステーション3」向けには出してくれるかな。「PS4」買わないとやっぱりダメかな。

 そんなお台場を後にして、中野へと向かって「劇団スタジオライフ」の30周年を記念する公演の製作発表なんかを見物する。っていうか中野サンプラザの向こうってあんなに綺麗になっていたんだ。通路があって芝生が植わってオフィスビルが並んでその先には大学なんかもあってと、喧騒に満ちたサブカルチックな街がすっかりモダンになっている。これで「中野ブロードウェイ」の方面まで一気に開発されてしまったら中野感が大きく薄れそうだけれど、そういう話ってあるんだろうか。今のところは中野サンプラザの建て替えなんかが課題か。どうなってしまうのかなあ、中野。

 さてスタジオライフは平日の午後という時間帯なのに、400人とかのファンがそれも女性ばっかりが集まってなかなか賑やかに。そんなゲストを記者として迎え入れて会見も発表も写真撮り放題にしたのはひとつ、アイディアかもしれない。口コミでもって広がっていく関心が招き寄せる新しいファン。声優とかアニメ関係のイベントが撮影も録音もすべて禁止で、カメラすらオフィシャルに限定するような動きにあるのと対極的なその展開が、もたらす効果がブレイクスルーを招いてくれれば嬉しいんだけれど、果たして。

 さて発表ではまず英国はウエストエンドで2013年に上演されて話題になったチャールズ・ディッケンズの「大いなる遺産」が日本で初めて舞台化されるそうで、あの長大な作品を2時間ちょっとに収めたジョー・クリフォードの脚本の技を倉田淳さんがどんな演出で舞台にするかに今は注目。そして「アドルフに告ぐ」の再演があったり「ファントム」の2部連続公演があったりして、そのたびに沸いた観客が1番沸いたのがあの「トーマの心臓」のDVD化決定の報。今までいろいろな公演がDVDになって売られているけど、萩尾望都さん原作の「トーマの心臓」はスタジオライフにとって看板とも言える公演であるにも関わらず、パッケージ化が行われていなかった。

 それだけ大切な作品だったというこだろうし、原作者にとっても大切すぎてDVDには出来なかったのかもしれないけれど、30周年という記念の年を迎えつつ、長く劇団を支えた河内喜一朗さんの訃報から再起を目指す劇団を応援したいという気持ちもあったのだろうか、許可が得られて待望のDVD化となったという次第。これは楽しみ、というかいったいいつのどの公演がDVDになるんだろう。見たのは最新のものくらいだけれど過去に演じられた数々の「トーマの心臓」で今はベテランとなった役者が初々しい姿を見せてくれていたり、河内さんがその姿をのぞかせてくれていたりするのをDVDによって確認できる。見て面白がり泣いてそして喜びそう。何時だろう。幾らだろう。気にしないで出たら買う。その覚悟は出来ている。

 モラトリアムというか微温的というか、間に挟まれ繰り返し気分を味わいつつ将来にまだ切迫感を持てずにいる“二年生的”な境遇にいるときっと、毎日が進歩の繰り返しでとにかく前に向かって動き続けなければ止まってしまうどころか、落っこちてしまう社会人の日々はやっぱり、分からないし分かりたくないものなのかもしれない。「いとみち」で主人公の糸の側を離れて東京へと出て、プロの漫画家を目指し始めた福士智美の毎日は、漫画のためにネームを切っては没をくらって次のアイディアに詰まりつつ、それでも連載のためにネームを切りながら生活のために漫画家の所にアシスタントへと出向くという繰り返し。

 コンテストで良い賞をもらって読み切りだて掲載された自分の実力を、それなりに自信に持っていたはずなんだけれどプロの下ではひよっこもひよっこ。ダメ出しをされ続け怒鳴られ続けてそれでも逃げずはいつくばって頑張って、どうにかべた塗りだけのアシ生活からあ抜けていろいろと描かせてもらっているけど、それでもやっぱりアシスタントに行く時には緊張する。ある意味でそれはアシスタントのプロを目指す気はなくて、漫画家として巧くなりたいけれども及んでいないことへの忸怩たる思いがある現れだけれど、いくらそう考えても連載がもらえなければ意味がない。だから描き続ける武蔵小金井のアパートで、って外伝的な話が、新潮文庫nexから出たアンソロジー「この部屋で君と」に「ジャンピングニー」というタイトルで収録されている。

 ジャンピングニーってプロレスの技? それがどうしてタイトルに? って思うのも当然だけれどどうやら智美は青森にいた頃に大学プロレスの現場で知り合ったらしい若手のプロレスラーと同居しているみたいで、その面倒を見て食事を作ったりするのが結構嬉しかったりするというからなかなかの惚れっぷり。そしてその若手のレスラーも所属する団体でそれなりな期待を負っているらしく当人もそれを自慢するんだけれど、どうも地味な練習が嫌いらしくて受け身が苦手でいつかケガをするんじゃないかとも言われている。だから練習をしろと智美がいっても受け流して聞かないプロレスラー。そこで三行半を叩き付けなかったけれどもある試合を経てケガをした彼が、もらした言葉に智美あ反応して彼をジャンピングニーで叩き出す。

 「生活キツいけど、この境遇にはカネで替えない価値があるよ。熱心に応援してくれる人たちがいるし、おれのリングネームもお前のペンネームもネットで検索するとけっこうヒットするし、わりと満足度高いよな」「うまく言えないけど、二人で励まし合って、いつまでも夢を追いかけていきたいよな」。それはそうかもしれないけれど、でもそれは現状に甘んじる態度であって、そこに向上心はない。プロになって連載を持って売れっ子になって多くに漫画を読んでもらいたい智美にとって、今をモラトリアムで生きる彼氏につき合う気はなかった。だから叩き出した。それで彼にも動き始めて欲しかった。二年生じゃない社会人の大変さ。けれども二年生では得られない未来を掴める可能性。そのことを見せてくれるからこそ、二年生をたゆたう糸たちにばかり感情を添えていられないと分かる。今を楽しみつつ未来を考える。そのことが「いとみち 三の糸」でくっきりと浮かび上がるという寸法なのかもしれないなあ。シリーズの意味と外伝の価値、改めて考えてみた次第。もうちょっと黙考して突き詰めよう、二年生という時代の価値と意味を。


【11月12日】 PKD酒場では先着50人に毎日あの「強力わかもと」をくれることになていて、もらったそれは確かに「強力わかもと」だったけれども読むと英文の商品名もあってしっかり「STRONG WAKAMOTO」になっていた。実にストレート。でも他に言いようがないものなあ。この例にならうなら「救心」は「SAVE HEART」になるんだろうか。「改源」は「CHANGE ROOTS」なんだろうか。ちょっといろいろ考えたけど、それらが海外で売られているとも思えないだけに英語の商品名はやっぱり考えられてないのかな。正露丸が「CONQUEST OF RUSSIA’S DRUG」では流石に売れないものなあ。

 そういやPKD酒場では入った時に「ブレードランナー最終版」でプリスがデッカードの顔面を股で抱え込むようにしてチョップしている場面が流れてて、そのまま見続けてロイ・バッティが現れてデッカードを追いかけ追いつめた果てに力つきて逝きそして、デッカードがレイチェルを伴い去ろうとするシーンで終わってその後に、ディスクを入れ替え流れ始めたたぶん「完全版」がラストシーンで森林の上を飛ぶシーンで終わったあたりまでをずっと観ていたけれど、その「完全版」を家で見た記憶がなくっていったい、自分の家には何があるんだろうと思いを巡らす。

 確実にあるのは何度も見返したVHSの「最終版」で、これで観た後でプレイステーション2のリージョンがフリーになってしまっているのを確認するため、秋葉原の輸入DVD屋さんで多分「最終版」の海外版を買って観たのが2枚目で、ほかに2001年宇宙の旅だとかいったSF映画がセットになった中に入っているのを買ったような買ってないような記憶があって、そしてアタッシェケースみたいなのに入った5種類だかがセットになったのを買ったけれどもこれは開けてないから「完全版」は見ていない。ブルーレイディスクはアルティメットも30周年版も見送ったんで自分にとっての「ブレードランナー」」はどうやら「最終版」ってことになりそう。でもせっかくだからこれを機会に他のを見てみるかなあ。全部まとめて上映かとかやらないかなあ。やったら死ぬけど確実に。

 上映会といえば12月に入って池袋の「新文芸坐」でもって押井守監督のトークイベントがついた「機動警察パトレイバー」の上映会があるみたいなで早速1枚チケットを確保。上映されるのは劇場版の「機動警察パトレイバー THE MOVIE」に続編「機動警察」パトレイバー2 THE MOVIE」とそして「ミニパト」に「天使のたまご」といった感じで、どうしてそこに「アーリーデイズ」とかじゃなく「天たま」が挟まるのかが分からないけどでも、劇場でかかる機会もそんなにないだけにこれはチャンスかもしれない。とはいえ家でレーザーディスクを見ていても眠る映像をオールナイトの劇場でしっかり見通せるか。「イノセンス」以上の苦行難行が舞っていそう。上映の順番も気になるしなあ。ともあれ期待。押井監督が何を喋るかも含めて。

 せっかくだからと久々に誉田哲也さんの「武士道セブンティーン」を読み返してなるほど高校2年生という狭間の世代、そしてモラトリアムになりがちなふわふわとした世代を、そんな微温的な空気には止めない仕掛けを入れてきているなあと感じ取る。まず転校。剣道部で出会って正反対の性格だった磯山香織と西荻早苗が互いに影響試合ながら強くなっていく物語だった「武士道シックスティーン」を早苗の父親が復活して、九州で再起すするってことにしてエンディングで2人を別れさせたことで続く「武士道セブンティーン」では別々の場所からそれぞれが新しい経験をしていくことになって、目にも新しい展開って奴が繰り広げられることになる。

 とくに西荻早苗、というかここでは名字が戻って甲本になった早苗は福岡で入った剣道の名門校で新しい仲間を得るけれど、その学校が早苗の求め香織が追い求めていた武士道としての剣道とははまた違った、強さであり勝利を求める競技としての剣道で勝利にこだわるあまりに先輩をおしのけオーダーに入れさせられたりしてこれで良いのかと戸惑う上に、同級生になったレナという少女がスポーツとしての剣道を求めて早苗とは違う戦いかたをするものだから、ここに自分の居場所はないと悩みつつ大会なんかで香織と再会して、彼女が求めていた剣道の味を思い出しては戻りたいかもと考えるようになっていく。離別があって出会いがあって反目があって逃避があってと実に紆余曲折。もしも早苗があのまま香織と同じ学校の同じ剣道部にいたら起こり得なかった事態だろう。

 そんな早苗がいたから元の場所に残ったままの香織も日常に変化が生まれ、悩む早苗を通して剣道というものを改めて考える機会を得る。武士道であっても武者と武士の剣道はまた違うのだと師匠に教わり少しづつ自分を改めるようにんなる。知人が巻き込まれた喧嘩に参加させられたり、下級生から先輩先輩と慕われたりするのは2年生ならではのちょっとした変化。でもそれだけでは生まれなかった動きが早苗との離別によって現れたって言えそう。そこに対立と再会、理解とそして超越って物語が作られる。延長にあって腐れ縁が続いて微温的な空気の中で怠惰な毎日が続きがちな2年生物に対するひとつの答え、ってことになるのかな。こういうやり方を踏まえつつ「いとみち 二の糸」がどんな変化を、そして成長をそこに描いたのかをもう一度考えてみよう。「あずまんが大王」の2年生編も読んでみるか。微温の極地みたいな中にどんな変化があるのかに気をつけて。

 氷高悠さんの「今すぐ辞めたいアルスマギカ」(ファンタジア文庫)はラノベ文芸賞なんてものも出てくるファンタジア大賞にあって銀賞を受賞しただけあってライトノベル的に楽しく読めてちょっぴりの目新しさもあるといった感じ。日本に魔法少女が出現して悪の組織と戦うようになったんだけれどそれを全国区ではなく地域に分けたものだから、関東では23区内を受け持つ華やかな魔法少女が居る一方で、23区外と千葉埼玉神奈川の南関東は「キューティクルチャーム」が受け持っては交通費自腹で23区を横切り事件が起こった場所へと出向くことになるという。何てブラック。

 おまけにまあ幼かったころから実に9年も魔法少女をやっているためすでにメインヒロインは高校生。そして一緒にやっているのは綺麗だけれども実は男とそして20歳のヤンキー娘。その20歳はなかなか出てこなくなって、ひとりヒロインは苦労をしてすぐ辞めたい辞めたいちうけれど、その割には面倒見もよくて抜けられないままズルズルと魔法少女を続けている。辞めたくっても辞められない事情があってそれは次の妖精が現れ新しい魔法少女を見つけなくては引き継げないという事情。自分たちも実は母親たちが20歳を超えてやっていた魔法少女を引き継いで始めたんだけれどその次がなかなか現れないまま腐れ縁を続けていた矢先、弟が連れてきた女の子が魔法少女に憧れていただけにとどまらず、妖精によって指名を受けて魔法少女への道を歩み始めた。

 これで抜けられる、って思ったけれどどこか中二病気質があった女の子は強さに振り回されてなかなか巧く戦えない。3人組の残り2人も見つからないで仲間2人が残る形になったメンバーもギクシャクとしている戦いを見て、少女は自分の本当の気持ちに気づくという、そんな展開。責任感が強いって大変だなあと思わされる、そんなストーリーだけれどでも、そういう性格って嫌いじゃない。だからせめてもうちょっと、楽をさせてあげたいし華やかな場所にも立たせてあげたいけれど、南関東ではなあ。まあとりあえず頑張れ、相方の男の娘は大金持ちらしいから玉の輿だって確約されている訳だし。それで良いかは別にして。


【11月11日】 つらつらと見ていたネットの上でPSY・Sって1980年代から90年代にかけて活躍していた音楽ユニットでボーカルを務めていた安則まみさんことCHAKAが今、PSY・Sの曲を歌いたくても歌えない状況にあるよってことを喋っていて驚いた。だってCHAKAさんのあの甲高く響き渡ってよく伸びる声があってこそのPSY・Sな訳でそれが他のボーカルに変わったらPSY・Sじゃない。

 言い換えるならCHAKAさんが歌えばそこにPSY・Sが存在するくらいの重要度なのに、そのCHAKAさんがPYS・Sを封印されたらもはやこの世にPSY・Sは存在しないに等しい。それくらいの需要度。でもどういう事情か歌ってはいけないというのは何だろう、やっぱり音楽を作ってきた側がPSY・Sという名前を持っていてそのコントロール権も有していて自分の音楽がそこにあればそこれこがPSY・Sだっていう認識を持っているからなんだろうか。

 でも別に他にボーカルを入れて活動を再開している訳じゃないからなあ。その名前は使えなくっても歌ってもらって過去を知ってもらうことくらい良いのにそれも認めないってのはううん、あるいはやっぱりCHAKAのボーカルあってのPSY・Sではあっても自分のサウンドがあってのPSY・Sであってそれが分かたれた状況ではPSY・Sは存在しないという認識なのかもしれないなあ。それはそれで潔いのかもしれない。リンゴ・スターが誰か別のボーカルを入れてもそこにTHE BEATLESは存在しないのと同様に。

 ただそういう状況が長く続いてPSY・Sっていう存在が忘れ去られてしまってCHAKAも自分のPSY・Sとしての活動を封印される中で、PSY・Sの音楽を今になって演じてみせたりしているしょこたん中川翔子さんを相手にCHAKAさんが大スターだからなあとつぶやくのはやっぱりちょっともやもやする。いえいえCHAKAの方が全然スターじゃないですか、って言いたくなる。それこそ向こうが偉大なシンガーと讃え崇めていて不思議はないっていうか。実際にカバーもしている訳だし、しょこたんの方にもそういう意識はちゃんとあるんだろう。

 けど、そういう認識に往事を知らない世間がなっていても不思議がないのもまた現実。だからこそ今一度のCHAKAさんなりPYS・Sの復活が欲しいんだけれど、やっぱり無理なのかなあ。しょこたんはそんなCHAKAの思いに気づき中川勝彦さんとCHAKAさんが親しかったことも知ったみたいでここから新たな交流が、生まれれば良いんだけれどその先で、2人で「ANGELE NIGHE 〜天使のいる場所〜」を歌うことはないんだというのも寂しい話。封印が解かれ歌うことが認められる時が来るのを願おう。それがどんな事情であっても。

 ちゃんと盛り上がってそしてまとまって幸せに終わった九岡望さんの「エスケヱプ・スピヰド 七」(電撃文庫)。鬼虫と甲虫とががっぷりと組んであちらこちらでつばぜり合いを繰り広げる中に、甲虫たちがどうしてそんな道を選んで戦い続けているのか、って話が過去の回想なんかと共に語られていて、その戦う理由ってのが見えてきた一方で鬼虫たちもまた戦いのために生み出された兵器でありながらも、それは永遠の戦闘ではなく戦いを終わらせるための戦いという“大義”があったことで、甲虫とは同じ道を歩まずその大望の前に立ちふさがる。

 そして始まる各個撃破のつばぜり合い。あちらこちらで因縁のある者どうしが戦っては相撃ちとなったりもしたけれど、最終巻ではだいたいが“正義”に与する鬼虫側が甲虫側を激闘の末に倒していってそして残った最後の闘いは、叶葉にとっての戦前戦中の時代の恩人ともいえる伍長とそして、眠りから覚めて出会った面倒をみてあげなくてはいけない相手で、そして助けてもらった恩人ともいえる九曜とが真っ向からぶつかり合う。大技を仕掛け合っては周囲を巻き込み鬼虫もボロボロになった挙げ句、最後は拳と拳で決着をつけていくところが何というか男の戦いというか。そんな中で浮かび上がってくる戦う理由のやっぱり無茶は沈んで道理が残ったところに物語の真っ当さを見る。そうでなくっちゃ。

 とはいえやっぱり気になる世界の情勢。だいたいが荒れ果てた中でもとりわけ衰えた国力を、どうにかしたいという思いから動いていた面々もいた訳でその策謀がくじかれては、帝国からの停戦要請を身に緒って戻ってきた蜘蛛と蟷螂が鬼虫たちをまとめ上げてどうにか国を停戦へと持っていったものの、そこで相手に必殺兵器を奪われ日本の国は簒奪される可能性すら浮かんでくる。たとえそうはしないと相手がいったところで本当に守られるかどうなのか。だから疑心暗鬼の中に黒塚組を指示した者たちも居たわけで、そこが解消されないまま迎えた停戦の果て、日本がどうなるかが気になって仕方がなかったら、そこをどうにかくぐり抜けたのに一安心。やっぱりそうでなくっちゃね。

 これで戦力こそ相手が一気に高まることもなくなって、そして日本の衰退もどこかに残っているかもしれないという疑心があいてに有る限りはつけ込まれることもない。そして鬼虫たち甲虫たちは自由となって追われる身ながらも自分たちの欲するままに動き始める。そこについていく叶葉。大変だろうけれど幸せになって欲しいよなあ。そんな叶葉を迎えに来た九曜がまた格好良かったなあ。いやもう九曜ではない本当の名前を取り戻した慎一が、叶葉をさらって連れて行き、叶葉もさらわれいっしょに付いて行く、その先がどこであっても2人の未来に悲しみはない。不幸はない。そう信じて送り出そう、2人と、仲間と、日本の未来を。九岡望さんの未来は……きっと大丈夫だろう、これだけの作品を完結させた力があれば、次も絶対に大丈夫。何を書いてくれるかなあ。

 レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」にアーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」をテーマにした酒場を展開して来た早川書房の1階にある喫茶店「クリスティー」が今度は映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を書いたSF作家、フィリップ・K・ディックをテーマにした「PKD酒場」を始めたので行ってみた。入り口からして「わかもと」の光る看板が置かれて映画「ブレードランナー」を思い出させ、そして店内に入ると壁1面に日本や海外で観光されたディックの書籍の表紙がパネルとなって並べられて、ディック的な世界観へと一気に引っ張り込まれる。

 そんな酒場で出されるメニューもディックづくしで、映画「ブレードランナー」でハリソン・フォード演じるデッカードが屋台で何か「2+2」と4つ頼もうとしたら、親父から日本語で「2つでじゅうぶんですよ」と言われそれでも4つ、頼もうとして「カンベンしてくださいよ」と言われたことにちなんで、最初から2つに分けられた焼きうどんがまず登場。エスニック風な味付けで食べればぴりりと辛くそして鶏肉も灰って歯ごたえもあって、言葉どおりに2つで十分お腹を満たせる。もっとも、そこで引き返してはディックの世界を楽しめない。

 だからとお腹に余裕を持たせて、さらにサイケデリックな内容で世間を騒然とさせた「ヴァリス」にちなんだ春巻きを頼むと、出てきたのは肉がたっぷりとつまった春巻きでこれもしっかり味付けされて実に美味しい。サイバーパンクな世界観にどこか重なる中国のtンタオビールといっしょに食べるとディックの映画に出てくる東洋風の屋台村で食べているような気分を味わえる。飲めない人にもちゃんとノンアルコールのドリンクが用意されているからご安心。ユービックにちなんだコーヒーもあるから早い時間はこれで喫茶として過ごしても良さそう。

 ほかにも電気羊にちなんだ肉や火星のこれは何でか分からないミートボールなどもあって食事にドリンクにと楽しめる。そんな合間にフォークト=カンプフというレプリカントすなわちアンドロイドかどうかを見分けるテストも受けることができて、チェックするとそこから自分がレプリカントか人間かを判定してもらえる。判別不能と出るケースもあるからその時は自分がどっちか悩みつつ、ブレードランナーに追われる心配をしよう。そういう人生の方が何もないより楽しいじゃないか。

 あと1000円ごとにスタンプがもらえるカードがあって1万円文たまると何かもらえるらしい。ほかに折り紙があり、ディックの文庫の表紙がデザインされたTシャツもあってと本当にディック尽くしの店内。持ち込んでもそこで買っても良いからディックの文庫を1冊持って、読みながらお酒と料理を楽しむもよし、さっと来て平らげ買える繰り返しからスタンプを溜めるも良し。12月の終わり頃までやっているので神田あたりに出た人で、ディックのファンなり映画「ブレードランナー」のファンは寄ってみるのがよさそう。高橋良平さんが持っていた映画に使われたというコートとか、デッカードが持っていた銃の模型なども置いてあるから。また行こう。今度は肉食うぞ。


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