縮刷版2013年8月中旬号


【8月20日】 漫画はまだ読んでないけど単行本にくっついていたOADは見た「波打際のむろみさん」。っていうかOADって言葉が今は主流でOVAなりOAVってビデオという言葉が映像そのものを指す言葉ではなくパッケージの形態を指す言葉として使われている状況ではあまり使われなくなって来てたんだなあと実感。ディスクを媒体にしているってことで略語はDなんだけれどこれをOVAみたいに並べるとODAとなって政府開発援助なのか小田裕一郎のアルバムのタイトルなのか分からなくなるからOADと。それにそてもいったいいつ頃からコミックにDVDの新作が付くようになったんだろうなあ。結構古くから持っている気がするけど決定的なところは不明。まあ誰かが調べているだろう。データ原口さんとか。

 ってことで「波打際のむろみさん」のOADはオープニングがテレビといっしょで上坂すみれさんのぶっとんだボーカルにぶっとんだ映像がくっついてまるで逆襲のシャア気分を味わえた。つまりはそういう展開。ちゃんと乙姫も出ていたけれど本編では竜宮城でぶいぶいと言わせていたころばかりで、今のうらぶれながらも可愛いところを見せてくれる乙姫じゃなかったのがちょっと残念。まあ仕方がない。リヴァイアさんはとてつもない活躍ぶりでパンゲア大陸を海に沈めてた。半端ねえ。キャラクターではあとイエティとかハーピーとか出ていたなあ、河童とツチノコも。オールスターキャストでいろいろ楽しめる1作。これがBDに入ってくれれば集めるのも楽なんだけど。まあ仕方がない。そっちはボックス化に期待しよう、って買うのかテレビシリーズ買いそろえておいて。

 中国で何と1億ドルを突破して本国のアメリカを抜いてしまった「パシフィック・リム」の興行収入。日本はといえばどうも足踏みしていてビルボード的にはまだ1週とはいえマレーシアとかイタリアとかフィリピンにまだ及んでない。初週の成績とかを見るからにドイツあたりには届きそうだけれどフランスには及ばず韓国にだって桁違いで差をつけられそうでロシアなんてはるか彼方。中国はもう2桁違ってる。中国もロシアも出てはいるけど決してメインな扱いじゃないのにこの人気なのはいったいどういう理由なんだろう。やっぱり面白いものは面白いと認める心が広いから? 怪獣映画と特撮映画とアニメで育った人が多いから? それなら日本は中国はともかく韓国の倍いかなきゃいけないのにこの体たらく、ってところに日本で長く特撮が作られなかった理由があるのかも。あるいは自業自得というか。

 いやいやそうじゃない、やっぱり盛り上げが足りないんだ、こういう時にムーブメントを作るならやっぱり「パシフィック・リム音頭」なんかが世間一般に周知されて歌われているべきだったんだ、ってことで誰か作ろうそしてニコニコあたりで展開しよう。インパクの時に桃井はるこさんが「インパク音頭」を作って一気にスターダムへとのし上がった過去を見れば、音頭の提供がどれだけ世間にアピールするかも分かるだろう。「パパンがリム、パパンがリム、ハイ、たいへいよーの海の底、怪獣あらわれれどぱぴぷぺ、たすけてぼくらのイェーガー、わかったまかせろ2人組、キックだパンチだプラズマだ、ひぎゃー怪獣海の底、世界は平和だパシフィック、世界は平和だパシフィック、ハイ、パパンがリム、パパンがリム」。売れそうもねえなあ。

 なんというか18日付けでひとつスクープを飛ばしたということはそれ単体で評価できることであって、翌日の朝にすっごいスクープだったんだぜ若手が取ってきたんだぜと編集長が自慢するのもちょっぴり顕示欲が強くって、男は黙ってサッポロビールな世代にはちょっぴり辟易させられるところかもしれないけれども後追いの通信社伝が出回っている中で、自己主張を改めてしておくってことに非難はできない。でもだ。その日の午前か午後かは分からないけどスクープの対象とされたところがそんな話はないとまるっと否定しているにも関わらず、翌日朝の社説的なコーナーとそして1面の歴史も伝統もあるコラムでもってスクープの内容をまるまる受けて何ということだと訴えるのってとってもフェアじゃないというか、明らかに間違っているというか。

 そうした反論を踏まえつつけれども取材は間違っておらず確かにそうだったんだと訴えだからこそ指摘したんだと書くならメディアの立場としてまだ分かる。このウソツキめと非難されているんだからそうじゃないんだと身の潔白を晴らす意味でもそれは必要なんだけれど、読むと一切相手の反論には一切触れず存在すら仄めかさないで社説的なところでは「被告の新日鉄住金は敗訴が確定すれば賠償に応じる意向とされる」と飛ばし、コラムでは「敗訴判決が確定すれば賠償に応じる意向だと、小紙がスクープした」とスクープのみを報じてその事実関係への反論には一切触れないで薙がしている。もしかしたらどちらも締切がとてつもなく早くって、反論を踏まえた文章を作っている暇がなかったのかもしれないけれど、それなら再び反論を受けた文章を載せて真相を訴えるのがメディアの責任というものだし、自慢するスクープの価値を損なわない態度というもの。さてどうでるか。遠い彼方から横目で動向を見守ろう。

 まあ思い付きなんだろうけれども羽田空港で移転なんかがあって開いた土地にいろいろ作ろうって政府と安倍ちゃんが言い出していたりして、すでにある大田区の中小企業なんかを集積して金銭的にも支援して海外への展開にも手を差し伸べるとかするならまだしも開いた土地があるんで何か作りましょう的な雰囲気がありありで、そこに地縁を持たない産業を気分で作って成功なんかするはずないのって意見が早速飛び交っていたりする。ま当然。なおかつクールジャパンというどこか符抜けた言葉で語られる産業も集めようとかってなってて、20メートルのガンダムを建てるって話も流れてきたけど空港のそばにそんなもの建てて邪魔じゃないのかと思ったり、20メートルならまだ大丈夫なのかと法律を見てみたり。どっちにしたってそんな所まで見に行かないし、外国人だって通過点に過ぎない空港でハリボテ見せられたって困るよなあ。

 羽田に作っていいクールジャパンの施設は、羽田の土地で営々と文化と伝統を築き上げてきたセガだけで、そこにハード全種類とソフト全種類をコンシューマもアーケードも含めすべて体験できる施設を作れば世界のゲーマーたちは大喜び。マイケル・ジャクソンだって自家用ジェットで飛んできて、入り浸って「フォー!」と叫んだことだろう。なのに政府が作ろうとしているのか、何かそうしたアニメだの漫画だのに関する施設。いったい何を作るんだ。スタジオでも作るのか。そりゃあ無理だ。そんな場所まで1社、2社スタジオがあったって他が迷惑するだけだ。地縁のない場所に作る上っ面だけのクールジャパン施設など帰りがけに買って帰るだけの土産物屋。秋葉原なら秋葉原、中野なら中野といった、そこに行ってこそ味わえる空気を求めてるんだけれど、それを感じてないんだろうなあ、やっぱり。だから無駄だと言われると。困ったねえ。

 エドワード・スミスって名前だけなら異国の紳士みたいな作家の「紳堂助教授の帝都怪異考二 才媛篇」(メディアワークス文庫)をやっと読んだ。才媛というか傑女がズラリで男性たじたじて感じ? いやいやそもそも男性って紳堂助教授しかいないけど。助手のアキヲ君は? それは秘密。脱がせてみたら分かるけど。あと匂いもどうやらそうらしい。どんな匂いなんだろう。ともあれ「紳堂助教授の帝都怪異考二 才媛篇」紳堂助教授の友人で軍人の男の妹で、病弱な美少女とアキヲが誘拐されてしまったのを突き止め奪還したり、元華族の家で当主を狙った事件をだしに家族の不破を解消して引き締めたりと、イケメンな癖に紳堂助教授が大活躍。とはいえそこにはアキヲの観察もちゃんと効いたからこそと言うあたり、とっても良いコンビぶりを見せてくれる。そうやっておだてるんだけれど女性とは意識してないんだよなあ紳堂助教授はアキヲのことを。いつか2人は結ばれる?

 いやでもアキヲの年若い叔母とかつて付き合っていた頃があったりするし、今でもその叔母が持ち込んでくる妙な案件にほいほいと乗ったりするところもあるから、決してアキヲが眼中にあるって訳ではなさそう。じゃあ本命は? それも謎。千住にあって千住になさそうな宿の謎めく女将と知り合いだったりもするから人外すらも範疇に入れていたりするのかも。っていうかそもそも何者なんだろう。現世の事件も推理を重ねて解決すれば隠世とも交流するし、帝都を脅かそうとしていた鵺による企みを暴いて帝都の崩壊を阻止もする。あれって後の関東大震災か何かの発端だったのかな? じゃあパラレルワールドとして震災のない世界へと続くのかな。あるはずのないバルナック式のカメラを使っていたりするし。そんなあたりの設定も興味津々に、これから読んでいきたい「紳堂助教授の帝都怪異考」シリーズだけれど、でも。エドワード・スミスはSFを書こう。特撮を書こう。「パシフィック・リム」を先取りしてたんだから。「侵略教師星人ユーマ」は。再会しないかなあ。余所でも良いから。


【8月19日】 でもって第1巻の著者近影が青背づくしでこいつはいったいどんなSF野郎なんだと話題になった樹常楓さんの新作というか続編となる「無限のドリフター2 世界は天使のもの」(電撃文庫)とか読んだら、出会い別れ出会い別れて出会う繰り返しが生み開く未来の物語だった。って何のこっちゃ。もうちょっと詳しく言うなら翼を持った少女と離別して青年は翼を持った少女に出会い、そして翼を持った少女は青年と別れて青年によく似た男と出会い、その男は翼を持った少女と別れながらもその翼を持った少女は青年と再会し、青年によく似た男は最も最初の翼を持った少女と再会する。やっぱりよく分からない。

 それでも感じ取れるのは、それは重なり合う生であり、連なり合う死の物語。読めば誰もが思うだろう。今をだから生き抜こうと。うん。ようするに第1巻の後を受け、世界を救うためのキーを持った翼を持った少女がいっぱい作られ、そして目的を目指すというストーリーの中に不死のテロメアを持った男自身のクローンも混じるという展開。荒涼とした世界観の中に咲き示される未来への可能性が心に響く。これで終わりみたいだけれども世界観を持った作品を描ける人なんで、きっと次も青背に近いテイストでライトなキャラクターを持った作品で勝負してくれると信じたい。パンツとメイドとお兄ちゃんでも構わないけど。構わないのか? SFなら。

 イッセーはそんなにリアス・グレモリーのおっぱいが吸いたかったのか。そしてそれを邪魔した白龍公ことヴァーリ・ルシファーを恨んでいるのか。それともヴァーリを寄越した堕天使のアザゼルを? でもあのときのイッセーではコカビエルには太刀打ちできなかった訳でそれをアザゼルは救ってくれたとも言えそう。やっぱり赤龍帝の力に興味があるのかな。そんな「ハイスクールD×D NEW」は一転してオカルト研究会で部長のリアスに並ぶ美少女の朱乃がなぜかイッセーにあれこれアプローチ。それは奥手なリアスを挑発によって燃えあがらせようとしたものか、それとも本心からイッセーに興味があるのか。分からないけれどもともあれ水着回を挟んで学園に現れたヴァーリとイッセーの邂逅、さらには学園で執り行われる天使と悪魔と堕天使の三者会談が、いったい何をもたらすか、って興味を誘って後半へ。ギャスパー・ヴラディが登場となれば爾乃美家累と人気も2分となるのかな。

 新幹線で三島駅へといってそこからクレマチスの丘へと向かう送迎バスに揺られてしばらく。三島から伊豆半島を一望できる丘陵地帯に立つ「IZU PHOTO MUSEUM」へは開館の時とそれから荒木経惟さんの写真集が勢ぞろいする展覧会の時に言ったけれども今度の10月6日からスタートする「増山たづ子 すべて写真になる日まで」も是非にのぞいてみたいと思わせられる展覧会。いやでも増山たづ子って誰? ジョージア・オキーフとかシンディ・シャーマンとか今道子とか蜷川実花なら知っているけどたづ子は知らないなあという人が多そうなのも当然で、プロフェッショナルな写真家ではなくいってしまえば村のおばあさん。手にした機材はピッカリコニカという、まるでHIROMIXさんの先駆者のよーな人だけれどもその人が撮った写真に意味があった。

 徳山村。かつて存在したその村を増山たづ子さんは何十年もの間撮り続けた。ただの村の記録写真? それは正しくてそして間違っている。かつて存在したという言葉が意味するように徳山村は今はない。あるいはあっても水の底にある。徳山ダム。2008年に完成したそのダムの下に村は沈んでいる。そして増山たづ子さんはダム建設が決まってから村がどのように移り変わり、そして工事がどのように村を削っていったのかを手にしたピッカリコニカで記録し続けた。そこにはまだ残った学校であどけない笑顔を見せる子供たちが移っている。そして咲き誇る花に向かってショベルカーがアームを向けて削り傷つけ引き倒そうとしている様子が移っている。懐かしさが詰まったシーン。切なさが満ちたシーン。時には工事をする人たちの間にも入っていっしょに撮ったその写真たちは、生々流転していく風景を印画紙に留め残して未来に存在を伝えてくれている。悲しみも怒りも切なさも諦めも含んださまざまな感情を漂わせながら。

 「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」というアニメーション映画がって、そこではダムに沈む村の最後の夏休みを精いっぱいに遊んで暮らす子供たちと、それを見守る大人や老人たちの姿が描かれていた。きっと心では理不尽な動きに憤りも怒りも虚しさも感じていたんだろうけれど、どうにかできるものではない巨大な動きを前に子供たちは自分にできる精一杯のこと、村の最後を全身に感じ味わい尽くすことを一夏かけけてやってのけた。そんなシーンに込められた、移りゆく時間の寂しさとそれでも精いっぱいに今を生きる大切さが、現実に存在してそして消えていった徳山村を移した増山たづ子さんの写真からも多分感じられるだろう。映画を観てダムに沈む村のことを知った人なら、見て絶対にいろいろと感じることがあるはず。あるいは写真を見て「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」を見れば、写真の子供たちの心象が映画のキャラクターに重なって聞こえてくるかもしれない。なので機会があれば展覧会の中で「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」の上映なんかがあると嬉しいんだけどなあ。無理かなあ。

 どうやら買った「オカザえもんのブルース」のCDは50枚限定の手作りらしくってなるほどいかにもCD−Rっぽい盤の上にプリンターか何かで出力された文字が乗っていた。これにオカザえもんのサインが載ればさらにレア度も増したところだけれど、残念にももらわるに帰ってしまったので今度岡崎に行ったら是非に会ってその手からサインを頂戴しよう。ついでに岡崎まぜめんとやらも食ってこよう。知らないうちに豊橋に豊橋カレーうどんなるB級グルメができていて驚いたけれど、岡崎も地場の名産といえる八丁味噌を使って何か名物を作ろうとしてできたのが岡崎まぜめん。おそらくは八丁味噌のトッピングなりソースなりアンコなりが乗った麺なんだろーけど和洋中華に創作まであってと何か自在。どれが果たして巧いのか。やっぱり食べてみないとなあ。行くぞ岡崎。そのうちに。


【8月18日】 イントゥ・アニメーション6で「猫の恩返し」の森田宏幸さん、中国と日本を行き来してフルCGのすっげえ映像を作っている保田克史さんの3人でトリオ漫才師を結成してた、じゃない「ボムフォー64」というユニットで作品を提供していた池田爆発郎さんといえば、今はもう大昔の1999年の東京ファンタスティック映画祭でデジタル映画を上映するプログラムがあって、そこで「PiNMeN」というとてつもなくシュールで愉快な作品を見せてくれたんだけれど当時、姿を見かけた印象は長髪のロックスターだったって記憶。間違っているかもしれないけれどもそれが今ではトリオ漫才を名乗って不思議はないビジュアルとなっているところに時の流れの速さと重さって奴を感じてみたりした、夏。

 そんな「ボムフォー64」が名がした「ただそこにある歌 〜ボムフォー64の誰にも頼まれていない ウソPV〜」って作品は歌詞も愉快ならそれにつける映像もシュールといった作品で、3人が3様の姿を見せてくれたけれどもやっぱり面白さでは池田爆発郎さんが目立ったかなあ、なるほどNASDAQ、正式名称そりゃあ訳すわ。日程的にもう見ることはなさそうだけれど別にどこかでチャンスがあったらまた見てみたい。ボムフォー64の他の活動とともに。ってかボムフォー64って何なんだ。池田爆発郎さんって今の旬は何なんだ。森田宏幸監督は監督しばらくやってないみたいだけれどまたやらないのか。気になった人たち。気にしていこう。

 あとやっぱり挙げておきたい日本アニメーション協会の森まさあき副会長。その名も撮り下ろし新作「?」って作品を引っさげての登壇だったんだけれど前回も同様だったらしく今年も映像をバックにパフォーマンス付き。妙な手作りの帽子を被って頭をふりつつ帽子についた円盤を回していたんだけれど、よくよく見ると水平になった円盤の上面に絵が描いてあってそれがその上に逆さに開いた8面とかの鏡にうつって動いているよーに見える。つまりは変形のプラキシノスコープ。いったいどういう絵が動いていたかなんて遠目じゃ分からないけれど、おそらくは手抜きもなしにしっかり描いてあっただろうそれを、間近に見る機会は果たして訪れるのか。教え子が受け継ぎICAFとかの場で演じてみせてくれたら嬉しいけれど、ちょっと場違いだものなあ。学園祭とかでやらないかな。やったら行くけど。造形大。

 薄目で見ていた「物語」シリーズで阿良々木暦が忍野忍といっしょに時間を跳躍したのを確認しつつ眠り起きてまあ行ってみるかとコミティアへ。沼田友さんのところとか見つつ伊藤伸平さんのところで薄い本を買いつつ瀬川深さんは未着らしくそれくらいにして会場を後へ。道中、瀬川さんの新作「ゲノムの国の恋人」(小学館)を読みつつなるほど、明るそうな割に深くっていろいろと考える。アジアのどこかの国で偉い人の嫁さん探しがあるってんで、最高の相性を持った遺伝子のお嫁さんを探してちょ、という依頼を留学経験もあり研究実績もありながら、うらぶれて倒産寸前のバイオ企業に勤めていた研究者が受けて会社を辞め、赴くという展開。そして7人のお嬢さんの遺伝子を調べ病気になりそうなのがあったら報告しろと言われる。

 とはいえ遺伝子なんて可能性であって絶対じゃない。そういう因子はあったとしても絶対に発病するとは限らないんだけれど、それを敢えてそうなりますと言い切ってお嫁さん候補から除外すべきか、可能性なんで選ぶのはそっちの気分だと曖昧に放り投げるか。厳密を重んじたい科学者の立場で可能性を言いたいものの、政治的な背景も絡んで投げ出せレズに主人公は右往左往。そもそも相手もある話だし、無数の組み合わせから微細な可能性をいちいち指摘していたら誰も誰とも結婚なんてできやしない。それ以前に権力の方にも絶対なんてない訳で、そんな見えない未来と遺伝子の可能性のどっちを取るか人間として。ってことを考えさせられるストーリー。最終的にはやっぱり目の前の美人ってことになるのかな。うん。

 おお。「このライトノベルがすごい!大賞」から出てきた紫藤ケイさんの「クラッキング・ウィザード 鋭奪ノ魔人と魔剣の少女」(このライトノベルがすごい!文庫)がとてもとても面白かったぞ。魔法だけれど電脳でハッキングして侵入したり戦ったりする少年と、大企業の令嬢だけれど幼い頃から家を出てあちらこちらで武者修行して今は剣豪な美少女がペアを組んで、少女の母の形見というとてつもない力を持った魔法遺物を奪還しに行くという話。何か燃える。北欧神話になぞられられた独自の神話を引きつつ、そこに魔法とそれから電脳を混ぜ込んだ世界観と、それによって繰り広げられるバトルが目新しくスリリング。どこか青木潤太朗さんの「ガリレオの魔法陣」に重なるところもありそう。

 そんな世界には主人公の少年を含むハッカー集団がいて大活躍をするんだけれど、一方にそんな一党すら上回ってとてつもない才能を持ったハッカー集団がいたりして、いったい何を目的に動いているのか本当に悪なのか単にお楽しみを探しているのか、ってあたりも今後気になりそうな予感。権力を狙っている訳でも破滅を狙っている訳でもないんだけれど、かといって正義のために動いている訳でもない。その力はいったいどこに向かうのか。1人抜け出してきて主人公の家に転がり込んだ少女とかの動勢も含めて木にしていこう。あとは武者修行していたヒロインの師匠か。覆面被っているという。出てくるのかなあ。かつて神々や巨人や人間を巻きこんだ騒乱があった果てに浮かび上がった島で、魔法とか魔術とかが発達して今は繁栄しているという設定もユニーク。一体どのくらいの規模の島なんだろう。そしてどうなるんだろう。追っていこう。

灼熱のキャラバン!  オカザえもんだオカザえもんだ、オカザえもんが東京に来るってんでコミティアもすぐに抜け出して鉄道模型の展示会もちょっとだけ舐めて向かった錦糸町の公園は風こそ吹いていて先週よりは涼しくってもやっぱり炎天下。そこでしばらく待ってそして岡崎ジャズメッセンジャーズが登場し、やゆさんという民謡歌手を交えてのセッションもあったりしてなかなかのスウィングぶりを見せてくれた後で満を持しての登場となったオカザえもんは……やっぱり不思議な動きをしていた。っていうかあの動きであのスタイルでは出演をフルにやったら保ちません。中の人がじゃなくってオカザエモン総体として。だから出し惜しみではなく最善を目指しての温存。それが効いたか現れたオカザエモンは手に楽器を持って左右に動き回り、「オカザえもんのブルース」をバックにその不思議キャラっぷりをしっかりと見せてくれた。素晴らしかった。

 やゆさんが下がって岡崎ジャズメッセンジャーズ with オカザえもんとなってラストの1曲はなんと名曲「キャラバン」で、それをテンポよく演じるんでなく変拍子から溜めたり進めたりするなかでストレスを溜め力を込めて身を固めるオカザえもんの動きが見られて面白かった。流れ始めてからも左右に動いて暑さなんてものともしないスウィングぶり。さすがは英傑を生んだ岡崎のPR大使。三河武士がまとめて移り住んで作りあげた壮大な三河ともいえる江戸でもって本家の凄さって奴を存分に見せつけたんじゃなかろーか。最後はステージから降りてタオルを投げてまだ戻るというパフォーマンスも。これはふなっしー、できないよね。あるいはジャンプして上ったりするのかな。ともあれ初めて見て楽しかったオカザえもん。次はいつ見られるんだろう。やっぱり岡崎に行かないといけないのかな。でも船橋に住んでたってふなっしー、まだ見たことないし。そういうものだ。ご当地キャラって。いそうで、いない。いなさそうで、いたりする。うん。


【8月17日】 古典的な名作を無料で読める「青空文庫」を世に送り出して、著作権切れの作品をパブリックドメイン化することの意味を可視化してくれた富田倫生さんが亡くなったという。1990年代の半ばにたぶん、ボイジャーの周辺で見知った頃から体に不調を抱えていたような記憶があって、それでいてしっかりと仕事をこなして「青空文庫」という大きな仕事を世に残したことで、いつしか体調のことは気にはならなくなっていたけれど、周辺でいっしょに仕事をしていた人にとっては相当に厳しい状況にあったことは周知だった模様。盟友であり同志として、電子書籍を共に初期から立ち上げ育んできたボイジャーの萩野正昭さんが、岐阜に見舞った追悼文によれば、末期にあって死期すら悟りつつあった様子でその姿に、20年近くを共に活動して来た萩野さんが覚えた気持ちは、ちょっと想像が付かないくらいに深く激しい悲しみに溢れていたに違いない。それくらいに2人は並び歩んで来た。

 「パソコン創世記」という本が1985年に出ながら後、絶版となってしまっていたのを1990年代半ば、勃興してきた電子出版のとりわけエキスパンドブックという、パソコン上で本を読ませるのに最良と思われるソフトが現れたのを見て、そちらで刊行することになったのが想像するに、ボイジャーであり萩野正昭さんと富田倫生さんとの出会いで、その辺りは富田さんが「青空文庫」の立ち上げまでをつづったツイッターのまとめなんかを読むとよく分かる。そして少し懐かしくなる。僕が萩野正昭さんを見かけたのもたぶんそのあたりで、パソコンのソフトウエア業界なんかを担当しつつアプリケーションよりもコンテンツ寄りのところで面白そうなのはないかと探して、見かけたのがCD−ROMを中心としたマルチメディアタイトルであり、エキスパンドブックのような電子出版だった。ゲーム的映画的なふくらみを持ったマルチメディアに未来のエンターテインメントを見た一方、本好きとして紙の本をずっと愛でてきた身として、電子書籍に未来の出版の可能性を見た。

 時を経てマルチメディアという存在はゲームの方に食われてしまって、映像と音楽とテキストとが融合したエンターテインメントってものはあまり育たないまま現在へと来てしまっている。「GADGET」とかいったインタラクティブムービーも、「アラキトロニクス」のようなデジタル写真集もこれだけメディアが大容量化したにも関わらず、むしろそうしたメディアに背を向けるように、簡易なウエブコンテンツが蔓延る中で省みられなくなってしまっている。対して電子書籍の方はやっぱり本、というどこか誰もが居住まいを正して見てしまいがちになる存在を、そして日常の生活でもまだまだ必要とされている存在をどう電子の世界へと持っていくかという意味合いから、衰えることなくずっと注目を浴び続けている。

 というかこのずっとという部分が問題で、これといった決め手を持たないまま20年近くが来てしまったという感じ。ようやくキンドルが出てきてプラットフォームの普及を軸に電子書籍の市場が拡大しつつあるようだけれど、コンテンツが本来先にあるべき出版の世界と、どうにも順序を逆にしてしまっている気がしてならない。ボイジャーは、そして富田倫生さんはそうした電子出版であり電子書籍の世界にあって、コンテンツをまずどう作り、それをどういう形で見せるかということをずっと模索して来た。エキスパンドブックという当時はまだマッキントッシュがメインで稼働していたフォーマットで、対応ハードの上でようやく本みたいなものをパソコン上で再現できるようになったことをひとつのきっかけにして、次はだったら縦書きだルビを入れようフォントも綺麗に見せよう組み方もデザイナーの意識が繁栄されるようにしたいといった可能性を盛り込んでいた。ここにウェブという存在が現れ、ネットというインフラも登場したことで様子が変わる。

 ベースとなるコンテンツがあれば、あとはそれを端末側が何であっても見られるようにすれば一気に普及する。というか変わりすぎる端末に会わせて作っていたら間に合わない。そんな発想が沸いてそしてボイジャーはT−Timeのようなブラウザを作り、やがてBinBというどの端末でもブラウザ上で閲覧可能な技術の開発へと走っていって、今に至る。富田さんの方は膨大にあるテキストをまず用意してあげることによって、それをあらゆるシーンで見る人が増えていけば、電子書籍なり電子出版の可能性は大きく広まると考えた様子。かといって出版社ががっちりと作家を囲い込み、作品を固めて自前の電子書籍を作りそれを売ろうとしている状況で、どの端末のどんなブラウザでも対応可能なテキストなんてなかなかなかった、ってところで著作権の切れたテキストを、ネットに上げることによって、一気にその辺りを解決しようとしたんだろう。

 その結果、誰もがネット上で“本”を読むことがどういうことなのかを体感できるようになった。パソコンで、スマートフォンで、携帯で、そして芸対型ゲーム機で。ありとあらゆるシーンにテキストを流し込んで読ませる仕組みを作ったことで、紙より電子といった認識を持つ人が増えて、それが今の抵抗感なく電子書籍に親しむ人たちを増やす一助になっている。まあ多くは携帯のメールを読んだり携帯小説を読んだりしたことが抵抗を減らしたのかもしれないけれど、じゃあ次となった時にそこにあった「青空文庫」は、歴史があって内容もしっかりしているという意味で浸透に大きな役割を果たしたんじゃなかろーか。

 そんなこんなで始まった電子出版であり電子書籍の市場に遅かかる著作権70年の荒波に、今は立ち向かっていた富田倫生さんだったけれども残念ながら力つきてしまった。残念だし悲しいことだけれどある意味、予定されていたことでもあってそれがむしろ大きく伸びてひとつ、この荒波に向かうときの道標としてその身を、その意識を残してくれたとも言える。後を継ぐのは誰なのか、というかそれは僕たちなんだという自覚を持って「青空文庫」から受けたさまざまな喜び、あるいはボイジャーの技術によって感じた電子出版の面白さを噛みしめながら、次なる時代の電子書籍とは、電子出版とは、そのために必要な制度とは、法律とは何かを考えていく必要があるのかもしれない。壁際どころか壁外へと追いやられ気味な僕にはもはや何の力もないけれど、小さい声でも集まれば大きくなるし、思いを継いで活動する人も見渡すと大勢いる。だから心配しないで、とまでは言えないけれど少なくとも、曲げないで進んでいく覚悟があるということを見守っていて欲しい。改めてお疲れさまでした。合掌。

 るいるい可愛いよるいるい。たとえ途中で真っ平らな胸板が見えたとしても僕の目にはそこにしっかり小さくとも柔らかそうなふくらみが見えていた。見えていたんだよ絶対に。けどやっぱり自分を含めた市井の大勢が繋がり合って認め合って譲り合ってひとつのことを成し遂げることこそが正義と思いたい爾乃美家累には、たった1人の力で不可能を可能にしてしまうガッチャマンという存在はやっぱり鬱陶しかったみたい。その正体をバラしてしまったはじめをホテルに呼びつけ、消えてくれと頼んでみせる。はじめもそういう累の言葉の意味をしっかりと認識しているあたり、天然に見えて以外に頭脳明晰なのかもしれないけれど、そこで引かない以上はぶつかり合うのは必至。そして累にはベルクカッツェがついていて、その命令に従う100人のギャラクス精鋭たちがいる。いったい何が起こるのか。興味津々。しかしはじめ、累を「くん」付けで呼び厚化粧といってのけるあたりにその正体も性別も、すべて一瞬にして理解してしまったみたい。やっぱり天才か。ただの天然か。その正体にもやっぱり興味津々。

 せっかくだからと「アメリカン・ポップアート展」でも見に行こうと国立新美術館へと向かう途中でそういえば「イントゥ・アニメーション6」って企画がいっしょに開かれているのを思い出してそっちを観る方へとシフト。入り口で見られそうな2つのプログラムの整理券を確保しつつそれでもと「アメリカン・ポップアート展」を見たら版画作品がいっぱいあった。まああの時代は作品そのものが一種の複製可能な大量生産物を取り扱っていたりしたから、そうしたものを描くこととそれを版画として何枚も作ることは全体としてひとつのアートだった訳で、コレクターとしてそうしたアーティスト側の企みに乗り、いっぱいの版画作品を買って並べておくというのもひとつのアート行為だったんだろう。でもってそれが積み重なり時間も立って相当なコレクションになっていたという。

 だったら今アーティストの版画作品を買って将来ウォーホルとかラウシェッバーグとかジャスパー・ジョーンズみたいな価値が出るかっていうと難しいかなあ、彼らは版画制作もアートだった訳で商業も含んでいたけどニュアンスとして低かった。今はそうではない。本物が買えない人に安価に作品を楽しんでもらうための複製品として売ってたりするから買って時代が変われば価値も下がりそう。どうせ高くないんだから買うなら本物をいろいろと目利きして買っていくのが良いってことで、アートショウ東京なんて場所はそうした作品を直に変えるチャンスとして行かしてみてはいかが。ゆめゆめポスターなんて買わないように。買うならせめてシルクスクリーンとかだよなあ。でもやっぱりウォーホール級になるようには思えないんだよなあ。村上隆さんであっても。どうなんだろ。

 すごい美人が歩いているのを横目で見つつ通り過ぎつつ戻って「イントゥ・アニメーション6」ではまず片渕須直さんの「花が咲く」が上映されるプログラムなんかを見物したら、すごい大御所たちの作品をブリッジ映像がつなぐような大作が出てきて驚いた。白組を率いる島村達雄さんを筆頭に古川タクさんがいたりラーメン大好き小池さんの鈴木伸一さんもいたりと超ゴージャス。そう知ってみればなかなか達者な人たちのオムバスって思えるんだけれどでも、一方で達者過ぎて例えば学生たちの卒業制作展の時のようにいったい次に何が来るのか、それはどれくらいの技量なのか、どんな思いを込めたのかがピリピリと伝わってくる上映会とは違った安心の空気が漂ってしまて目をスクリーンへと見入らせない。巧くて凄い。でも……。そんな中にあって一色あずるさんの作品はダンスする女性の変化に女性ならではの毒というか味があって面白かった。アニメーションって、人なんだ。

 もう好きで好きでネットに上がってなかった時代はそれを見るために武豊まで行ったというか帰省ついでに武豊アニメーションフェスティバルものぞいて見たという植草航さんの「やさしいマーチ」も上映されたプログラムでは、加藤隆さんの「よだかの星」がストーリーに手描きのアニメーションがマッチしてとても引きつけられた。「やさしいマーチ」も手伝っていた小谷野萌さんがスタッフに名を連ねていたのは東京芸大院だから? でもアニメーションじゃなくデザインの人っぽい。というか小谷野さんいはもっと自分の作品をガンガンと出して欲しいんだけれどそれはさておき「よだかの星」は原作の切なさそのままによだかが鷹に虐められ逃げだし星々に虐げられながらも上って星になる展開が、手描きで手塗りっぽい線と色の積み重なりによって重く表現されていた。ちょっと追いかけたいクリエーター。あとやっぱり宮沢賢治が原作の「やまなし」と手がけた鋤柄真希子さんもちょっと気になるクリエーター。川底でカニたちが生きて動く様をどういう手法か分からないけど巧く表現していた。こういう若手の賢治アニメーション集とか出ないかな。

 大御所では人形アニメーションの高橋克雄さんという人が40年くらい昔に作った「かぐや姫」が東京では初めて上映されたとか。海外向けで英語版しかなく日本ではずっと上映できなかったらしい。それが去年の広島アニメーションフェスティバルで上映されて初お披露目されて作家の人もたいそう喜んだと娘さんが話していたってことが伝わっている。今回も当人は来られず娘さんが登場。まず日本アニメーション協会の名誉会員にしてもらい御礼を述べそして合成おCGも使わないで特撮だけで作りあげたその映像を見て欲しいと呼びかけた。技術はツールであり結果がどう見えるかが重要だとは思うけれども一方で、そうしたものが乏しい時代であっても工夫と技術によって同じかそれ以上の映像はとれるのだという事実を、目の当たりにして人間怠惰はいかんと思わされる。たとえ最高の技術をぶち込んだところで魂の欠片も見えない作品ってあるからなあ、フルCGがだからどうした的な。今度いつ上映されるか分からないけれども機会があれば是非にまた見てみたい1本。


【8月16日】 2巻まで読んでこれは面白いなあと思いつつ、いったいどういう話だったけって忘れていたところを昔書いた感想文なんかも読みつつ補完しつつ、第3巻を読んだ葉月双さんの「空に欠けた旋律<メロディ>」。クッキィってもう200年弱は生きているらしい歴戦のパイロットにして美少女に憧れたレスティ・ヴァーナが、クッキィの配下となって戦いに臨む中、所属していた国と敵対していた国とを影で操る存在がわかり、それがクッキィとも関わりの深いクローンだったりしてそんな世界をぶち壊す的な行動が始まり逃避行。レスティの幼なじみのエリィって少女はけれども付いていかず敵対関係になり、逆にクッキィにとってライバルだったソフィが味方になったりといろいろあってそして、ラスボスとも言えそうなシオンという存在が現れ、さあ戦いはこれからだってところまでが第2巻。以上おさらい。

 そして第3巻では幼なじみのエリィが現れクッキィは墜とされレスティは連れて行かれてそこでエリィとのよりが戻るかというと、もうクッキィ命のレスティは話に乗らずエリィとは味方だった筈のシオンを相手に戦いを挑むことになって、それになぜかエリィものっかり2対1で挑んだもののかなわず。そして悲劇を経てシオンとの再戦というか最終戦へと突入する中でレスティは壊れけれども自分を取り戻し、敵を倒してそして大団円へとつながっていく。その後にも読んで胸がジンジンと来るエピローグ的な物語があって、けれども世界は続いていく中で果たしてレスティは何を拠り所に生きるのか? ってところで殉じなかったのはそれだけ互いに満足した日々を送れたからなんだろうなあ。そう思いたい。

 読めば納得の乾いてて、切なくて、残酷で、熱くて、そして美しい物語。百合っぽいとかセカイ入ってるとか言われてしまいがちになるくらい、状況設定が大括りな割に背景設定が薄かったりもするけれど、それは削ぎ落とされたシチュエーションの上で愛と誇りと怨みと羨望を軸に戦う者たちの全力を見せるための文法。だからこそ浮かんでくるキャラクターたちの愛への渇望があるんだと思えばむしろ歓迎できる。っていうか百合だったんだと読んでる途中に思い出した。分かって読み返すとまた新たな発見があるかも。あと隊長とにかく格好いい。ソフィも惚れるか。その割に浮気もしているけれど。レスティってそんなに魅力があるの? 太いのそれとも大きいの?

 紙には書かせてもらえない戯れ言を、極言だの言いたい放題だのといった言い訳がましいタイトルを付けて、ネット上だけで垂れ流してみせるおっさんたちの多さに辟易とさせられっぱなしな昨今。広大無辺になったとはいえ紙に比べて影響力は少ないと見えて問題化することはなく、むしろ特定の似た思考の持ち主を集めて蛸壺的に盛り上がってみせてそれを人気を勘違いして、さらに極言放言の度合いを増して収拾がつかなくなっていたりするのを、傍目でながめつつそうやって一部の人気取りに走った者を妙に持ち上げる内向きの雰囲気に、若手中堅がベキベキとやる気を削がれメリメリと心を折られて休んだり去ったりしていたりするのは、将来を考えると決して宜しくないんだけれど、盛り上がっちゃってる人たちはそんなことお構いなしに暴論を吐いては悦にいるという負のスパイラル。まったく訳が分からないよとしか言い様がない。

 今日も今日とてというか載ったのは昨日だけれど、やっぱり言いたい放題とか言って俺はちょっぴりワルだぜ言いにくいことも言ってのけるぜといったスタンスで、高校野球で炎天下の球場でプレーさせられる高校球児たちが可愛そうって意見に対してそりゃとんでもない、奴らはやりたくてやってるんだって感じの論陣を張っていたりするからたまらない。曰く「好きだから暑い日も寒い日も、甲子園を夢見て必死に球を追っている。暑いから試合はいやだ、という発想はありえない」。いや別に好きなのは野球であってそれの集大成ともいえる大会に出たいだけであって、今はたまさか真夏に開かれているからそれを目標にせざるを得ないけれど、涼しい季節に開かれるんだったらそっちでやりたいと思っているという可能性には考えが及ばないのか? 及んだらこういう文章か書かないか。

 「学生時代、炎天下で球を追っていた。暑くて苦しくて辞めたい、と思ったことが何度もあった。でも、そこに大事な試合がある以上、逃げるわけにはいかなかった」ってだから大事な試合をそんな時にやるのがいけないんであって、昔に比べて暑さも増している状況で、改善しようと思ったって別に罰は当たらない。っていうか手前んところが一押ししているバレーボールの大会は、前は3月に開いて「春高バレー」って言葉で定着もしていたけれど、3年生が出られないのは宜しくないといった意見もあって1月に前倒しにして、それでも「春高バレー」だなんて珍奇な言葉を使い回してブランドイメージにすがろうとしていたりする。「新春バレー」で良いじゃないか。まあでもそうやって、選手のことを考え対応した前例を持ちながら、甲子園は夏、それも炎天下に試合するのが当然とばかりに決めつけ、自制を求める声を誰の代弁者か知らないけれど却下する。やっぱり訳が分からない。

 「高校野球は基本的に『見せるためのスポーツ』ではない。高校のクラブ活動の大会を見物人が『暑いからもっと涼しいときにやれ』といっても、誰も相手にしないのではないか」というけれど、だったらどうして夏の話題が枯れかかった時に大々的な大会を開いて世間の耳目を集めようとするのか。「高校野球の記事が多いのは『読みたい』という読者のニーズが多いから」と書くのはすなわち高校野球がクラブ活動である以上にコンテンツとして“売れる”と分かっているからで、たかだかクラブ活動をそういう雰囲気に仕立て上げたのは当のメディア自身。それはとても恥ずかしいことなんじゃないのって非難されているのに、「読みたいニーズに答えてます」じゃあまるで説明になってない。自家撞着も甚だしい。

 だいたいがクラブ活動なら教育を目的に炎天下の競技を錦糸するべきじゃないのか。そういう可能性についてまるで及んでいない雑な言説を、読まされて呆れる人の数がきっと多いにも関わらず、アクセス稼いだと悦に入ってそうな雰囲気が見えるのがまたたまらない。ゲス化するメディア。それをネット発の新興メディアが必死でやっているんじゃなく、中立公正を看板に掲げ信用で商売しているはずの老舗メディアがやっているから嫌になる。前には安藤美姫選手の妊娠出産を取り上げ、へりくだったような文章を書いた挙げ句に「父親の名前は公表せず、プライバシーを守りたいという気持ちはよく分かりますが、隠されるとよけいに知りたくなるのも人の常です。いつまでも隠し通せるとは思いません。いつかは見つかって、おもしろおかしく書き立てられるのがおちです」と同情するフリをしつつ、書き立てられたくなかったら吐けと言わんばかりの恫喝を行っている。そんな心性が露見してなお堂々と筆を取っていられる不思議。ガラパゴスというよりギアナ高地に近い場所なんだなあ、大手メディアってもはや。

 島根県の松江市で「はだしのゲン」って漫画が小中学校の図書館で閉架の方に振り分けられて自在に読めなくなったという話で、教育委員会とかいったい何をやっているんだ的な反応がまる上がり、どうやらそうなる家庭で「はだしのゲン」という作品が左翼的なんで撤去すべしといった声が別に島根県とは関係のない集団から上がってそれがプレッシャーになったなんて話も浮かんで話がややこしくなる。教育委員会が判断したというならそれはそれで判断基準を示し対応したと言ってそしてその基準の是非について議論をしなおせば良いんだけれど、誰かの圧力があって争うのが面倒だから引っ込めたというのはもはや検閲すら通り越した弾圧に近いニュアンスを持つ。

 そこで戦わなければあとはもう小さなクレームのすべてに応えてにっちもさっちも行かなくなる。だからこそこの一件が問題視されるんだけれど、果たして当局は気づいているのかどうなのか。そんな辺りから今後どうなっていくのかを見ていきたい。個人的には小中学校の時の図書館に漫画なんて置いてなかったんで、それを置かないというのも見識だとは思うけど、こう漫画が世間に広まり文化としても定着している中で置かないという手もなかったりする。じゃあどういう基準で置けばいいのか、ってところでやっぱり浮かぶ線引き。内容で判断するべきかレーティングを適用するべきか。といってもエロ以外は出版物にレーティングはないし。第3者の判断と言っても恣意的に運用される可能性はあるし。やっぱりなかなか面倒くさい。学校はだから置かず、市中の図書館は置く、とかいった判断はあるのか否か。そんなところも検討課題になっていくんだろうなあ。


【8月15日】 渋谷のパルコの地下にあるギャラリースペースでも開田裕治さんのこちらはウルトラシリーズに関する絵が展示されているとかで見に行く。「ネオウルトラQ」のDVDとBDのボックス向けに描かれた出演者大集合的な絵がまたよくって人物がリアルになっている上に怪獣たちの質感もしっかりととらえてあってさすがは怪獣絵師、ぬかりがなない。グッズもいろいろあったけれどちょっと手が出ず。置き場所がないし。とかいいつつ上にある「ONE PIECE」のショップで小さいとはいえフィギュアのたしぎと、それからモネを買ってみる。いわゆる食玩だけれどガチャポンよりはやや大きめ。モネとほかに出てないだけに貴重かも。しかし昔は人間だったのにどうして鳥になったのか。そしてあの羽根でどうやってペンを握ったりしていたのか。謎が多い。また出てきてくれないかなあ。

 サイズが肝心なのだ、縮尺ではなく原寸という。とう訳で永島裕士さんの「フルスケール・サマー」(電撃文庫)は原寸大の模型を作って学校を、世間をアッと言わせたい人たちの物語。ずっと生徒会長とか学級委員とかやらされ真面目さと校則の扱いに妙に長けた少年が、転校した先で知り合った少女は授業中に地図帳にガンタンクを描き「ジャブロー」の場所に印をし、そして放課後には学校中に点在している巨大な模型を片づけていた。その模型というのが戦車もあれば戦闘機もあったりと実寸大で超リアル。プロの模型屋が見ても驚くようなそれらだけれど、綺麗な展示はされずむしろ学校からは邪魔者扱いされていて、生徒会からいち早い撤去が求められいてそれを少女は片づけているのだという。そうしないと模型部が廃部にされてしまうからだという。

 かつては学校中に名をとどろかせ、卒業生たちも企業に研究機関に大歓迎されるくらいに優れた活動をしていた模型部だったけれど、どこか途中から活動が惰性に代わりやがてフィギュアなどを作るマニアの瞬間の隆盛を経て誰も見向きもしなくなってしまった。それでも末期には一所懸命に再起をかけて活動していたものの、それも何か理由があって途絶え以来、ほとんど休部状態にあったのを少女は、自分がガンタンクを始めミリタリーの乗り物とかが大好きな上に、姉がそこにいたという理由もあって入部を希望。断られ派しなかったものの、休部中の部を再開させるには、校内に散らばっている今はガラクタとなってしまった模型部の残滓を撤去しなくてはならないという難題を生徒会から言いわたされる。

 なおかつ事件。模型が燃えて危険だということで、撤去が生徒会の手で一気に進みそうになってしまう。そこで主人公。少女と席が隣になって、模型部にも誘われていた少年が義理なのかしがらみか正義感からなのか分からないけれど、すっくと立ち上がってとりあえず生徒会による撤去をしのぎ、そこから模型部の再出発のために必要な条件として挙げられた活動実績を作るべく、作りかけで埋もれていたロボットの再起とそれを活躍させる大会への参加を画策する、というのがメーンとなってるストーリー。それだと別に模型部でなくてもロボット部でも良くないか? といった思いは浮かぶし、少女にしても少年にもしても真剣に模型が好きというよりは、それがうち捨てられるのが可愛そうとか少女が困っているのを見捨てられないといった理由があって、模型そのものの面白さにどっぷりと耽溺しているようにはあまり見えない。

 でもまあ、そうした方が熱中のあまりに周囲を観ないでつっぱしった挙げ句に、中途半端なガラクタばかりを残して消えていった先輩たちと同様になりかねない。客観視できる立場にあって、同情や憐情から浮かんだ模型への関心が本気の熱へと代わっていく様を楽しむというのもひとつの方法。その方が外側から観て模型って何だろうと考え、それを扱うことは面白いんだろうかと思って、対象に向き合いそしてキャラクターたちが体験を通して楽しさを感じていくのと同様に、読者自身もこれは楽しいかもしれないなあという感覚を味わえる、のかもしれない。途中でロボットの制御OSに詳しいからとネットを通じて参加してきた少女と、彼女が作った圧倒的に高度な美少女型ロボットの存在は、どこか“お客さん”だった彼と彼女たちを本気にさせる鍵。一方で高まっていく熱は、どこか膿んでいた天才少女に前を向かせる。オタクばかりでも常識人ばかりでもダメなんだなあ。そんなことを考えさせられた1冊。次はいったい何を作るんだろう。やっぱり戦車か。10式か?

 あの「僕僕先生」の仁木英之さんが、あろうことかライトノベルのレーベルからそれも「第1回キネティックノベル大賞」だなんて賞までとって刊行した「不死鬼譚きゅうこん 千年少女」(GA文庫)が、これまでの仁木さんの作品にちょっぴりと含まれていたロリバアバなり美少女先生への萌えっぷりを、さらに炸裂させた作品であるはずだと想像するのは至極当然な流れ。おまけに表紙はキャピっとした美少女たちが絡み合い、そして口絵にはすっぽんぽんになりかけた美少女がてろりと媚びなんか売っている。他にも美少女が出てきたりする展開から、これは妖異に幼なじみに下級生がくんずほぐれつして少年を奪い合うハーレム物かと思ったらとんでもなかったごめんなさい。

 それは数千年を超えて続く猟奇と異形の伝奇ホラー。ダム湖へといってカヤックを乗るのが好きな少年が湖面をわたっている途中でふと見た岸辺にあったのは整備された畑。近寄るとそこに引きずり込まれそうになって、かろうじて現れた不思議な少女に助けられ、また来るようにと命令される。そこで普通だったら何だろう興味があるなと通い始めるところを少年は鬱陶しいし胡散臭いといった感情をまず走らせ、学校での新聞部の活動にしばしのめり込むものの崩れた体調を不思議に思い迎えた週末。まあ言ってみるかと訪れたダムの畑で少女と出会ってどうやら自分に不思議なことが起きていると知る。

 なおかつ幼なじみの少女とは別に下級生から告白されて喜んでいたのもつかの間、夜に出た街で幼なじみの少女が何か得体の知れない存在となって暴威をふるっている姿を見かける。あれは何? そして自分に植えられたという「きゅうこん」の正体は。過去から営々と伝わる伝説も浮かび上がってどうやら一体には人の心を吸って育った怨みの花を喰らう存在がいるという。そしてその正体は……といたところで可愛らしい幼なじみや畑を守る少女やらの存在に不穏が混じり、彼女になった下級生との関係に危機が迫ってそして激しくも血みどろのバトルが始まるという、これのどこがいったハーレムだ、キャピキャピの青春ストーリーだ。

 もうほとんどホラー。あるいは伝奇ミステリー。そこに可愛らしいイラストが重なるものだから喚んでいて微妙なバランス具合にグラグラと目眩がしてくる。まあそういうミスディレクション的な面白さもまたライトノベルの何でもありならではの世界。読んで何処に連れて行かれるのかと思いこんなところに引っ張り込まれたと驚いて下さいな。主人公はしかしライトノベルのヒーローとは違って、決断力がなく責任感にも乏しく自己中心的だよなあ。そこがだからライトノベル的なパターンにはまらない、リアルな人間を描いてきた一般小説家としての仁木英之さんの特徴なのかも。この続きを書くのかそれとも、別のシリーズに移るのかは分からないけれども、そのレーベルにおける独自性を発揮していって欲しいもの。期待しよう。

 炎上マーケかっこ悪いと言ってりゃかっこ良いのかよ的な。売名行為みっともないと叫んで上げるのが自分が名前ってのはどうよ的な。とある有名人が例の「風立ちぬ」における喫煙シーンの多さに禁煙学会がクレームをつけたことについて、炎上マーケだの売名行為だのと書いている様を読むにつけ、例えそう見えたとしても、包含している表現と既成の問題はもはや自由万歳じゃあ通らなくなっていることにあまりに無頓着で、能天気さすら感じてちょっと気分がささくれる。現実に喫煙シーンの制限については海外を中心にギリギリとした包囲網ができていて、そこを逸脱するにはレーティングをかける必要が出ているにも関わらず、そんな動きなど存在しないかのごとくに、自由万歳を言っていったい何になる? 未来の圧力と戦えるのか? 体制に棹さして粋がるのも大勢に迎合して盛り上がるのも根は同じ。そうした上っ面のバトルの奧にある本質に、気づいて対策をたてないといずれまとめて潰されるぞ。表現が。バキボキと。


【8月14日】 なんか気がついたら和製ロナウド呼ばわりされて一世を風靡したこともあった森本貴幸選手が、ジェフユナイテッド市原・千葉に加入していてそれも完全移籍だそうで、どーして出身の東京ヴェルディへと戻らないんだろうと思ったけれどもそういれば、ジェフ千葉を出た巻生散ろう選手はロシアを経て日本に戻って東京ヴェルディに所属しているんだっけ。いわば逆の展開でなおかつまだ森本選手は25歳と本田圭佑選手なんかよりも若かったりする。怪我が多いのが気に掛かるけれども日本で半年くらいかけてリハビリして、元の動きとか取り戻せばトップで瞬間の仕事をするストライカータイプのあんまり見ないジェフ千葉で、それなりの活躍を挙げてくれるんじゃないかと思いたいけれどさてはて。っていうか最近のジェフ千葉の試合、あんまり見ていないんだ。3位にはいるんだけれど、北九州に負けたりするしなあ。来年はJ1にいるのかなあ。

 うん面白い。「月見月理解の探偵殺人」って結構異色で複雑だった作品を書いて人気を上げた明月千里さんの新シリーズ「最弱無敗の神装機竜」(GA文庫)は何ていうかライトノベルのセオリーをがっちり捕らえてそれでいて裏とか先もありそうな感じで楽しめそう。国を家臣のクーデターめいたもので滅ぼされたルクスという名の元王子が、新王家の女王のお目こぼしもあって街で雑用しながらどうにかこうにか生き延びている最中、今の国の姫リーズシャルテとお風呂で出会って最初は険悪、それでも互いに実力を認めあっていちゃいちゃしていくラブコメ展開かと思ったら、共にのっぴきならない過去あってすんなりとは愛し愛され挑み挑まれるよーな展開には向かわない。

 共に鎧みたいな古代兵器の装甲機竜をまとい戦う力も持っていたりするんだけれど、元王子の方はタイトルどおりに「最弱無敗」と呼ばれているよーに、戦って決して負けはしないんだけれど勝ちもしない。そんな戦い方を見せている。リーシャ姫の方はと言えば学園でも屈指の強さを誇って元王子を成敗のために追いつめるんだけれど、そこに現れた幻獣あり。戦って守ろうとしたリーシャはやっぱり相当な強さだったけれど、でも元王子の手助けがなくては勝てなかったことを知って彼を認めようとする。そして自分の身にあった姫でありながらも過去にはそうでなかった時期もあった秘密を話す。元王子の方はといえば隠し事をしていたけれど、元帝国の軍人が反乱を起こそうとした時にその真の力を見せて誰も彼をも驚かせる。

 基本的には弱々しく見えながらも、実はとっても強い元王子という誰もが憧れを抱かざるを得ないキャラクターを中心に、その力を認め集まるリーシャを始め女子たちも大勢いて楽しそうという王道ハーレム設定。ただ集まるキャラクターのそれぞれにそこにいる理由があり、また決して誰も彼もが元王子に靡いている訳ではなくって、兄思いの妹だったり幼なじみの少女だたりと理由があって関心を寄せている少女以外は、友人として対等に付き合っている。だから話がとっちらからず、誰も彼もにフラグをたてて回収に向かって1巻まるまる潰すような展開にはならない。ラストに明らかになる元王子の秘密。ならばどうして彼はそうした。今はなにと戦っている。そんな想像をさせてくれる物語。だから続きが楽しみ。

 これはライトノベルなのかそれとも角川ホラー文庫テイストなのかエブリスタ発だからネット小説かもしれないけれどボカロ小説ではないなあと、色々迷うTO文庫から出てきた岡田伸一さんという人の「希少物件100LDK」が妙な迫力でもって楽しませてくれるので読むように。セキュリティ会社の社員がまずは乗り付けたその家は東京ドームくらいの敷地面積がある巨大な家で、おまけにエロそうなメイドが現れ足をひらいて、いやらしい格好のまま「デカメロン」でもか朗読しましょうかという気持ちをそそられるおもてなし。でもってそんな光という名のメイドの誘いをそっけなく払い、彼女を引き連れ入った屋敷で主人公は、セキュリティの注文をとるために8人いるらしい家族のそれぞれから出される問題を解いていって4問正解を目指すことになる。

 いきなり登場の家族はまだ2歳の赤ん坊。物言わぬその子供がいったい何を恐れているのかを答えなさいという質問に迷いながらもどうにかクリアし、先へ先へと進んでは、数学やら何やらいろいろな問題を1つクリアしては次に用事があるからと足止めをくらい、けれどもそこで過ごすには屋敷内通貨を使う必要があってそれは問題をクリアした際にもらえるもので、全部なくなったらもういられないという時に、ライバル会社の女性営業担当者と虫を戦わせるというバトルがあって、企みを喰らって敗れて全部奪われけれどもどうにか踏みとどまって……といった具合に次から次へと壁が現れ乗り越えていく展開は、読んでいてとてもスリリングだしエキサイティング。なおかつそうやって解き明かされた果てにある、家族の間に漂う不穏やそこで生まれ過ごした娘たちが受けた悲惨な仕打ち、そして屋敷内で起こっていた殺人事件の真相など、いろいろとドラマも用意されていてただのパズル物ではない展開を味わえる。何よりエロいメイドの言動が可愛くも最高。続きもあるらしいけれどいったいどういう展開か。ネット上では人気らしいけど本でじっくり、読んでいこう。

 えっと自分で自分を子供だと言ってるキャラクターたちがスパスパと煙草を吸ってる兆円アニメーション映画がちょっと前にあったんだけど確か世界が注目する押井守という監督が作った「スカイ・クロラ」という映画でもう子供が煙草睡いまくりな上にマッチは投げるは吸い殻はどうしてったけな喫煙シーンが満載なんだけど、そんな映画については何も言わないの? って思ったら日本禁煙学会、ちゃんと「スカイ・クロラの喫煙シーンについて 2008 8・10」 って声明を出していてその意味では姿勢にブレはないって言えるけれどもちょっと口調が上からというか居丈高。「風立ちぬ」の喫煙シーンの多さに対して出した「映画『風たちぬ』でのタバコの扱いについて」って要望書だと、詰問するような口調はなくってどこか下手にお願いじみた文言を繰り出している。

 だって「貴社を誹謗中傷する目的は一切なく、貴社がますます繁栄し今後とも映画ファンが喜ぶ作品の制作に関わられることを心から希望しております。どうぞその旨をご理解いただき、映画制作にあたってはタバコの扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします」だよ。何月何日までの答えろって「スカイ・クロラ」には言っていたのに。やっぱりワールドな押井守監督にはあれこれ言えても国民の宮崎駿監督には強く言えないのか日本禁煙学会。ちょっと大人の政治を見た気分。とはいえ日本禁煙学会の主張には理屈もあって、実際に煙草のテレビCMは日本でだって放送時間が限られていたりするし、海外では煙草の登場シーンが映画から外されたりするし、「ONE PIECE」のサンジは海外では確か飴舐めてる。相当な配慮を行き届かせているのに対して、日本の映画界がそうした配慮に無頓着なのは間違いない。

 とはいえ一方で「風立ちぬ」における喫煙シーンは、ひとつの時代なりひとつの集団なりひとつのコミュニケーションの在り方を表現しているという意味はあって、それを外して置き換えるということは難しい。だから考えるなら映画としてそうした表現を認めながらも、現在の基準ではやはり認められない部分があるという意見を入れるなり、ゾーニングでもって未成年の非喫煙者が簡単には見られないように配慮するという解決法があって悪いものではない。ただ内容にまで踏み込んであれこれいうのはやっぱり僭越。「特に、肺結核で伏している妻の手を握りながらの喫煙描写は問題です。夫婦間の、それも 特に妻 の心理を描写する目的があるとはいえ、なぜこの場面でタバコが使われなくては ならなかったので しょうか。他の方法でも十分表現できたはずです」という意見は、あまりに内容に踏み込んでいる。

 「ガムかみたい」「ここでかんで」じゃあちょっと違うし「マスかきたい」「ここでかいて」でも違う。「パズドラやりたい」「ここでやって」でも表現できない堀越二郎ってキャラクターの心性と、妻の菜穂子の二郎に対する恋情、それらが重なった2人の関係。それがあのシーンの片手喫煙にギュッと現されていると思うとこれもやっぱり外せない。だったら見られないようにするか、注意歓喜を怠らないようにすれば良いってことで、そういう主張を毅然として訴えれば、相手も間抜けじゃないからきっと分かってくれただろう。海外へと持っていく時にもきっといろいろ工夫がされるか、ゾーニングがされるだろう映画。だったら日本で最善を目指すような話し合いが、持たれればファンとして嬉しいし、喫煙者でも嫌煙者でもないけど煙草がもたらす問題なり悲劇なりを感じている身として納得もできる。さてはて。


【8月13日】 「半沢直樹」は視聴率が30%あたりが定着して40%超えすら狙えそうな状況。一方で「パシフィック・リム」は公開第1周のウイークエンドの成績が、「ワールドウォーZ」って別に手に巨大な武器を取り付けたロートルのネオ海軍が出てくる訳ではない映画にも及ばず、6位といった状況にこの先の興行成績がちょっと懸念されていたりする。週末だけで興行収入は2億円とかいったところで、1週間だとどうなんだろう分からないけど3億円に届くか4億円に乗るかって感じかな? そして2週目に2億円を載せてトータルで6億円とか8億円とか、そんなものだったらすでに1800万ドルを稼ぎ出している韓国にも、2000万ドルのロシアにも遠く及ばない成績でロボットアニメ&怪獣映画の母国での興行を終えてしまうことになる。

 中国が7600万ドルというのは人口を考え、映画好きの国民性を考えるならあって不思議はない数字だけれど、でも舞台は香港とは言え活躍するのは中国人の3兄弟ではなく日本人のマコって女性とアメリカ人の2人組。中国にベタベタに媚びているよーな所はない。それでもやっぱり巨大なロボットと巨大な怪獣とがガチで組み合いボコり合う映像的なスペクタクルを、デカいスクリーンで存分に浴びたいと、人々がこぞって劇場へと足を運んで歓声を上げているんだろう。映画がまた娯楽の王様的なお国柄ってこともあるんだろうなあ。ロシアはチェルノが今ひとつ噛ませ犬的な扱いな割にはよく行った。やっぱり好きなんだデカい奴らのパワフルなバトルが。アメリカみたいなマーベル&DC的な等身大のヒーローにどっぷりハマった国とは違うし。

 でも韓国のそれなりな成績ってのは何なんだろう、やっぱり映画がまだ国民的な娯楽であり産業の中核として認知されてて、それで作る側も見る側も敬意といったものを持って受け止めていたりするんだろうか。「グエムル」って怪獣映画の系譜もあったりするし、見て別に違和感を感じない世代がまだまだ若い層にも結構いるってことでもあるのかな。対して日本は「ゴジラ」で育った世代は遠く老境に入り怪獣バトルとなったゴジラシリーズを見ていた世代もだいたい50歳とかそんなもん。平成ゴジラに平成ガメラあたりで40代30代をターゲットには入れても、その下となるとアニメーションはいっぱい観ていても、特撮怪獣バトルに何か特別な思い入れを持っているって訳でもなさそう。アニメーションとしての「新世紀エヴァンゲリオン」は楽しんでも、金子修介監督の「ガメラ」シリーズは別に気にも留めていないというか。

 だから上の世代がノスタルジックな気持ちから讃え、日本では終ぞ作られ得なかった壮大にして緻密な映像でもってロボットと怪獣のバトルをやってのけたということに感嘆して劇場に足を運んでも、今の若い人にはそれにいったいどんな意味があるのか、ってことがストレートには伝わりにくいのかも。決して日本人は本家として目が肥えているから中途半端なものにそっぽを向いたんだ、なんてことはない。そもそもどう楽しんだら良いのかってリテラシーを持ち合わせていない。だからスターのブラッド・ピットが何か得体の知れないZとかいう奴らと戦っている映画の方を、カッコイイかもと思って見に行ったりする。あとはやっぱりピクサーのアニメーションか。「トイ・ストーリー」以来の圧倒的に楽しくて面白い作品で育って来たものなあ、今の若い世代ってのは。そんな世代に説明もしないで「パシフィック・リム」を見てもらおうとしても、やっぱりどこか足りてない。

 ブラッド・ピットに匹敵するスターは出ておらず、PRにはオタク世代の歓喜ばかりが並んでいては、やっぱり素直に足を運ぼうって気にはならないのかも。だいたいがキレルモ・デル・トロ監督がオタクの代表然として、あの容姿でもって面白さを訴えていたりしたら普通の人はいったい何だと思ってしまうよ、全員が全員やってくれたと諸手を挙げて歓迎する訳じゃないよ、うん。じゃあどうするか、って言うなら今さらだけれど夏休みの午前に東宝でも東映でも松竹でも大映でも日活でも良いから、怪獣映画に特撮映画なんかを放送してそこへのリテラシーを醸成しつつ観客の興味を煽りつつ、過去に作られた映像にリスペクトをしつつより凄いものを持ってきた外国人がいるんだと訴え、劇場へと足を運ばせるしかなかったかもなあ。その意味でも事前の“教育”が足りなかった。まあでも幸いにして韓国中国ロシアにメキシコに、英国も加えてまずまずの動き。日本は及ばなくてもそういった国々に向けて次回作が作られてくれれば、「パシフィック・リム」のファンとして嬉しいので頑張って欲しいと臥して他国にお願い。中国で100億円とか載せればあり得そうだよなあ。

 2011年頃だったっけ、幕張メッセで開かれていた食品関係の展示会に並んでいるのを見ていったいこれは何だと50年近く生きて来ながらまるで存在を知らなかった「キリンラーメン」を愛知県の西三河あたりでソウルフードなラーメンなんだと認知したけど、でも周囲に訪ね歩いてみたら岡崎市民は知らず豊田市民も知ってなさそうで半田市民もやっぱり認知していなかったあたり、相当にローカルなラーメンなんだということも同時に感じたっけ。それから3年ほど。天下の読売新聞が西三河で人気のラーメンで全国区すら目指しているってニュースを書いてきたりして、その存在はもはや周知のものとなった模様。聞くと岡崎ではコンビニにすら並び東三河を超えて遠州は浜松あたりでも見かけるようになっているとはちょっと驚き。寿がきやの味噌煮込みなんて東京では滅多に見かけないのに。そこはやっぱりパッケージのレトロモダンな雰囲気と、「キリンラーメン」というネーミングの可愛らしさが受けていたりするんだろうなあ。どんな味なんだろう。今度帰ったら買ってみよう。

 こちらも“かくし球”ってことで宝島社の「このミステリがすごい! 大賞」の落選作から刊行された、あいま祐樹さんの「残留思念操作 オレ様先生と女子高生・莉音の事件ファイル」(宝島社)も読んだら割とラノベだった。あるいはメディアワークス文庫的な? サイコメトラーな女子高生を声でトランスさせられる27歳くらいの臨時教師で研究者が使い事件に挑む過程で女子高生自身の過去にも迫るという展開。ミステリーってこれを言ってしまうと超能力が絡んで、それが万能然としてすべてを解き明かしてしまうため、推理する要素がまるでなくってちょっと引っかかるという人がいそう。ライトノベルの賞だったら逆によくある題材ってことで落とされていた可能性もあるから難しい。ただミステリの側で最近は日常とかお店とか超能力とかを取り入れ楽しく読ませる作品が増えていたりする。そんな中で引っかかってきたと言えば言えるのかもしれないなあ。

 サザンオールスターズの新曲「ピースとハイライト」が歌詞的にとてつもないってことをさっき知る。ちょっと遅すぎ。でもサザンってそんなに興味ないんだよなあ、音楽的に凄い事はやっていると分かっていても、周囲に熱中する人が多すぎて逆に引いたというか、天の邪鬼的に人気者にはのれなかったというか。でもやっぱり凄いサザン。今の隣国を相手にした喧嘩腰なスタンスについていろいろと諌め道を示している。ただ一方的に自虐めいたことを言っているかというとそうではなく、こちら側の突出を諌めているけどあっち側の執着も同様に示唆して対話しようぜって言ってる気がしないでもない。つまりはどっちもどっちな訳で。それが応酬となって燃えあがってしまっているのが今な訳で。そこに切り込み醒ます歌。だからやっぱり凄いんだ。


【8月12日】 やっぱりおっさん、ただ者ではなかったかと最後に明らかになった「ハイスクールD×D NEW」は、堕天使のコカビエルを相手に一誠たちが戦ってみたものの、ブーステッドな果てに力を分けてもらったリアス・グレモリーですらギリギリの戦いを強いられるかなあ、と心配したその時、現れた白い鎧の何かっていうかヴァーリがあっさりコカビエルを締め上げ連れて行って一件落着。グレモリーの兄もまだ来ないうちの解決に、辿り着いてから呼ばれたものの見せ場はなかったと彼が歯噛み仕方どうか。妹に会えずに地団駄踏んだかどうか。分からないけれどもともかく木場も戻ってオカルト研も再開された学校に、やって来たのが意外な人物。

 それはゼノヴィア。神様に命をかけるほどに尽くしていたのに、その神の不在を知って迷い衝撃から悪魔に転生したというから、よっぽど信仰が強かったんだなあ、神そのものへの。とはいえ昔からの癖なのか、悩んで「主よ」ととなえて悪魔である身とがちあって、激しい頭痛に苛まれるという始末。それを誰かに似ていると微笑ましく想いながら一誠が、夜に召喚されていった先で、ここしばらくお得意さまとなっていたおっさんが自分は何者かと明かす。「アザゼル」だと。堕天使のリーダー。コカビエルよりも偉い奴。当然に強い相手を間近にいったい何をする? ってところは来週のお楽しみとしてこれでしばらく支取蒼那が出て来なくなったら貴重な眼鏡が足りなくなるので来週以降もご贔屓に。パンツはいっぱいあるけど眼鏡が足りないんだよ。

 亡くなられてから1年後に新宿家老で開かれた展覧会で発売さっるや、初日に完売となってしまった「今敏 画集BOX」は頑張って初日に並んで買ったけど、その豪華さに中身を見る気を臆して未だ倉庫にしまったままだったりするからちょっと勿体ないというか、それも仕方がないというか。だからもっと多くのイラストなんかを集めた「今敏 画集 KON’S WORKS 1982−2010」ってのが出ると分かったからにはもうこれは、買って部屋において眺めてその絵の巧みさって奴を存分に味わうしかないと現在、思っているけどいったどれくらいのクオリティで収録されているかだなあ、つまりは印刷の技術。くすんでいたりドットが見えてしまっているよーな印刷ではあの今敏監督の精緻さは出ない。高度な印刷技術でもってしっかりと刷られていることを願いたいけれどもさて。「PERFECT BLUE」のトレーディングカードが全部載っているとさらに嬉しいな。展覧会で見たくらいで絵として見ること、まずないからなあ。

 二毛作甘柿、って何ですかそれは的な名前も名前なら、そんな乙女っぽさとは無縁過ぎる名前だけあって牛丼たらふく食べたいと、強化ガラスがはまった窓に向かって蹴りを放ち、襲ってくる敵を相手に拳をふるって立ちふさがるライバルの女共を蹴散らしていくという、気絶怪絶また壮絶なストーリーもストーリー。これを構成に端正さが必定なミステリーの賞に応募して、どこまで進めるのかと思った気持ちがどうにも無謀に思えるけれど、これが最終選考あたりまで残っていたってところに、「『このミステリがすごい!』大賞」の選考委員なり下読みの人の度量の意広さって奴が見て取れる。なおかつ改稿なりがあったとしても、その爆裂なテイストをまんま残して刊行へと至らせた版元も勇気凛々。それはいったいどれくらいの勇気なのかが知りたければ、柊サナカさんという人の「婚活島戦記」(宝島社)を手に取って読めばいい。なるほどこれは勇気だと理解できるはずだから。

 とあるIT長者の男性が嫁を取ると宣言し、大々的に募集したのがすべての始まり。玉の輿を狙って大勢が応募したものの、厳正な審査を経て最終段階ではとてつもない身体検査も行われた果てに選ばれた女性たちが、船で孤島へと運ばれてそこで最終試験を受けることになる。当然、相手との面談程度と思った女性が大半だっただろうけれど、出迎えたスタッフが言うことには、まずその場所に閉じこめられ、脱出できなければ失格でそして逃げ出しても水や食料を確保して4日間を生き延びられなければ失格で、指にはめられた特殊な指輪を外されたり奪われたりしてもやっぱり失格という過酷なもの。数も全員分が用意されていない水や食料を奪い合い、特殊なアイテムを探しながら襲ってくるライバルの相手もしなくてはいけないそれは、殺し合いこそないものの、過酷なバトルロイヤルに他ならない。

 だから素敵な婚活を夢みていた普通の女性は冒頭でまず脱落。そして靴を即座にスチールキャップのブーツに履き替え、格闘の技術で強化ガラスを蹴り割ってそして窓を出てパイプをつたって下に降り、森へと逃げた二毛作甘柿という女性は最初の試練をくぐりぬけ、続く展開へと進む権利を得る。とはいえそこはIT長者が、自分に相応しい相手を捜そうと選りすぐった女性たちだけあって、開いた窓からカーテンを結んで降りたりして脱出に成功する女性が多数。そこから出会った女性を相手に戦ったり、最後まで生き延びるために共闘したり、そうやって味方になたっと思った相手が裏切ったりして戦いになったりする展開が繰り返されては、ラストの対決へと進んでいく。

 もう個性なき者は去れと言わんばかりに過去があり、経歴があり謎があり不思議があり裏があり企みがあるような女ばかりが残って、ひとつの椅子をかけてしのぎを削る様が圧巻。天才子役ともてはやされた女性もいれば、若いのに子が5人もいたり、お嬢さまだったり過去の記憶を失っていたりとバラエティーに富んでいる。それを思えば二毛作甘柿なんて計算が苦手な実直な女の子で、それで真っ当な職にも就けないでいて生き延びるために格闘を始めて強くなっただけの、割と普通な女性に思えてくる。まあ格闘の経歴とかそれで稼いだ額とか見ればやっぱり普通ではないけれど、貯めた金を奪われ食べていくために、目の前に転がってきた婚活のチャンスを捕らえようとしたところは、動機としてはやっぱり普通かもしれないなあ。婚活という言葉に含まれる色恋のニュアンスがまるで感じられないのは難だけど。

 ともあれそんな二毛作甘柿が、クールに見えて人情味も見せながら勝ち抜いていく横で、誰もが必死になって戦っていく展開を楽しめる「婚活島戦記」。どうやれば限られた資源なりを分け合い、相手が味方かそれとも裏切り者かも含めて考えながら、生き残れるのかをパズル的に解くなら、やっぱり孤島が舞台になって、集められた学生たちが脱出ゲームを繰り広げる土橋真二郎の「楽園島からの脱出」の方が巧妙かもしれないけれど、そこは婚活という一生がかかったファクトに群がる乙女たちの必死さと、そのために正当化すらされる残虐さが「婚活島戦記」には満ちていて楽しめる。ライトノベルのレーベルで出ていたって不思議はないくらいの突拍子のなさと、キャラクターたちの強烈さ、というか表紙のポップさからすればライトノベルと言ってすら良さそう。「このミス」系の時に暴走しても残虐な方向に走りがちな展開とは違い、荒唐無稽の中にエンターテインメント性を入れて最後まで面白がらせてくれる作品として、ライトノベル読みでも存分に堪能できるだろう。ご一読あれ。

 気象庁の予測を超えた天候の変化に気を付けようと指摘したとある新聞の伝統ある1面コラムの最終段落が、「一方、自然の脅威と違い国際情勢の激震はある程度、予測できる。そ れなのに中国の横暴も北朝鮮の跳ね上がりも全く予測しようとはせず、 憲法改正や集団的自衛権の容認阻止に躍起になってきた。そんな一部 政治家やマスコミは責められて当然だ」と結ばれていたのを読んででんぐり返った。なんだそりゃ。起承転結にピリリとスパイスを載せて感嘆させるのがコラムニストの手腕だろうに、「一方」という言葉でまるで無関係な方へと話を転がし、それまでの言葉を無意味にしてしまうのが許されるのか。そんな無様な言葉が1面を飾って良いのか。良いからこそ載っているんだろうなあその新聞には。何を論じても最後に「それにつけても中国韓国北朝鮮と朝日は云々」と書けば書くほど偉くなれるという仕組み。でも読者はどう思う? 何か思う読者なんて残ってないからこその惨状なんだけど。笑うしかない。虚ろに。


【8月11日】 そして夜の池袋へと向かい「新文芸坐」でもって開かれるオールナイトの上映会へ。アニメスタイルが企画したもので何と2012年に世界を沸かせた「おおかみこどもの雨と雪」と「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」と「ものへの手紙」がまとめて上映。おまけに「虹色ほたる」で爆裂な作画を披露してみせたアニメーターの大平晋也さんが、カリスマであり神とすら崇められるアニメーターで「おおかみおども」ではCMなんかにも使われた、雪原を雨と雪のおおかみこどもと母親の花が元気に駆け回るシーンを手がけた井上俊之さとともにが登壇し、トークを繰り広げるとあってこれは絶対に行くべきだと確信して、チケットぴあで早々と前売りを確保して今日という日を待ち望んだ。

 午前にコミックマーケットがあって、それが炎天下で体力を大きく削られることになったのは予想外だったけれど、でもだからといって諦めて家で寝ているという選択肢はあり得ない。いったん眠り体力ゲージを少しだけ戻してそして起きてむかった池袋の「新文芸坐」で席を確保し待つことしばらく。登壇した井上俊之さんは風貌も大人で職人といった感じだったけれど、大平さんはどこか土着的な絵を描く人な割にポップなお兄さんといった雰囲気で、もっとアーティスト気質な人かと思ったらそうでもなかった。とはいえ喋り始めるとその中身はとってもアーティスト。職人肌の井上さんとは実に対称的でそのぶつかり合いというかすれ違いというか、共に互いの才能を買っているからこそ浮かぶ相手が才能をどこか間違った方向に走らせていないか、それは勿体なくないかという気持ち、だけれども自分としてはそれをやり抜きたいという思いが渦巻き、ぶつかり合う様を見て取れた。

 具体的にどういうことかは、トークの内容があまりにガチンコでセメントでシュートだったんで、とてもじゃないけどここには書けず、現場で見た人だけがその胸にしまっておきつつ、聞かれたらこっそりと教える程度に止めておくけれど、ひとつ言えることは商業アニメーションという枠組みを個人個人がアニメーターたちがどうとらえ、そこでどう振る舞うことによって自分が活かされるのか、といったことをプロは考える必要があるってことか。そして井上さんは枠の中にきっちりと収めることを答えとし、大平さんは自分に求められているであろう全力をぶつけることが答えといった感じ。結果は共に参加した沖浦啓之監督の「ももへの手紙」だったら、主人公のももが水に飛び込むシーンの決して崩れない丁寧さと、妖怪たちがうじゃうじゃと現れ絡み合って走り出すシーンの生々しさという対比に現れているってことになる。どっちがどっちかは言うまでもないよね。前者が井上さんで後者が大平さん。

 とはいえ「ものへの手紙」では、両者の絵が1本の映画の中で何か違和感を醸し出すということはなく、映画が醸し出すトーンの中に収まっているから良いとして、「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」の場合は明らかに違うテイストの絵として、大平さんの作画部分が登場してくることが映画を観た人の感想や、プロとしてアニメに関わる人たちの反応の中でいろいろと言われていたりする。きっちり派の井上さんはだからやり過ぎといった印象を持ったらしいけど、一方であれを超絶作画を見られたということで嬉しいという人もいたりして迷うところ。そういう流れを無視して作画サイコーと褒め称え、暴走を許すことの是非ってのはアニメーターの名前が注目され始めた1980年代から言われて来たことだけれど、TVのよーに各話ごとにテイストが違うってのと、1本の同じ映画でテイストがガラッと変わってしまうのは話が別。そこがだから議論の的になるんだろー。

 ただ、僕個人としてはあれはアリだというのがひとつ前提で、それも作画的に凄いから何が何でも誉めているという訳ではない。あのシーンに必然の絵だったということからとても高く評価している。どういうことかというと、例えばあそこが普通に最後のお別れとして蛍を見せてあげようと、水辺まで走るシーンだったら絵が違いすぎると違和感を持ったかもしれない。けれどもあそこは、過去から隠り世をくぐり抜け、黄泉路を抜けて現世へと戻る場面であって、とてもとても特別なシーン。走り抜けているさえ子とユウタの脇にふっと立ち現れるさえ子の兄が、微笑むのを見てそっちに行きたいとという思いから泣き悲しみ、けれども行かず通り過ぎては前を走るユウタの手をギュッと握り、さえ子は走り続ける。

 そんな少女の中に渦巻き迸っては収斂する懊悩と毅然を、あの絵は実に適切に現している。だから暴走ではないしやり過ぎでもない。そう思うともう何も不思議ではなくなって、むしろあの絵だからこそ浮かぶ涙ってものも滲んでくるんだけれど、それって贔屓の引き倒しかなあ。まあいずれ世界がその必然を評価すると信じたい。ただし。昼過ぎに行ったコミックマーケットで買った、まさにそのシーンの原画が抜き出され収録された大平晋也さんの資料集「走れっ!」では、駆け上がる坂の脇に立つお兄ちゃんを横目に見ながら、さえ子とユウタが走り去るカットが採録されていなくって、別にさえ子がお兄ちゃんの腰にまとわり付く絵が入っていた。

 でも例の坂道を疾走する映像には、そういう絵は出てこない。ってことは演出の方でここはこういう意味合いを込めたいから、さえ子がお兄ちゃんに見せる未練のような絵は外したってことなのか、そして振り返りつつ前を走るユウタの手をギュッと握るさえ子の絵を足したのか、それは採録されていないだけで、大平さんが手がけたカットにはまだ前後があるのか。ここで絵を動かすアニメーターだけでなく、その絵をどう意味づけるかを判断し、つなぐ演出なり編集というものの存在も大きく関わっているのかもしれないという思いが浮かんできた。そういう意味で実に奥深いアニメなのかもしれない「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」。もう10回は見ているけれどもまた、劇場でかかる機会があったら見に行こう。そして考えよう。その意味を。

 そして上映はまず「おおかみこどもの雨と雪」から始まったけれども劇場で1回、見てそのあと見ていなかった割にはちゃんとストーリーも覚えいていて、だからこそ花がまだ幼い雪と雨を抱えながらも悲惨なことにはならないで、ちゃんとどうにか子供を育てきるんだっていう安心感を抱いて見られたけれどもそれはつまり保険が利きすぎているということでもあって、ともするとふわっと絵空事めいた空気感が漂って作品への没入を妨げる。もちろんそういう展開は嫌いじゃないし、現実もそうあって欲しいという気持ちが無茶苦茶強いんだけれどでも、社会ってのは厳しく人生ってのはままならないもの。そこに割と気持ちで突っ走っていった人間が、すんなりとクリアできて良いのかという疑問は浮かぶ。まああれで花って衝動の底に計算を持ち、必要と判断すれば地道な努力は怠らない性格っぽいんで巧く切り抜けられて不思議はないって思うことも可能だけれど。

 あと気になったのはやっぱり最後で雨を追いかけ雪を放り出して山へと入っていった衝動と、そんな母親を危険な目に合わせてまでも山に行くことにこだわった雨の本能がスッとは入って来なかったことかなあ。雪も雪で全然来ない母親を訝っていたり心配していたりする様子がない。そして少年との間に恋情を交わしていたりする。それとも小学6年生っていうのは目の前のタスクが気になるとそれにこだわり周囲が見えなくなってしまうものなのか。雪に執着して追いかけ挙げ句に爪ビンタをくらう少年の性格とかまるで子供だし、っていうか子供なんだけれど、そこだけが妙にリアル過ぎて誰もが良い子な作品の中で揺らいでいるような気がしてしまった。幼い雨が行方不明になったのをどう切り抜けたのか、ってあたりもやっぱり誰もが気になるところで、前半で児童相談所がやって来たりするのをかわしてたりする描写があるだけになおのこと、疑われたんじゃないかなんて気になって仕方がない。「山に帰りました」で通じる田舎なんて日本にある訳ないしなあ。どうしたなろ。年に2回だけ戻ってきてたりしたのかな。うーん。

 続いて「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」は散々っぱら書いたから「21世紀の傑作!」とだけ書いて、そして午前4時からの上映で見ようか始発で帰ろうか迷った「ものへの手紙」をこれも劇場で1回見ただけだったんでもう1度くらいは見てみようと見たものの、1回目でだいたい見知ったストーリーから大きく上ぶれするような“発見”はやっぱりあんまりなかったというか、トークショーを聞いたあとってことで沖浦さんのこだわりっぷりは改めて存分に伝わって来たけれど、それが映画の面白味をどこまで増しているかという部分で判断に迷った。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」がキャラの線とかきっちり描かず揺らしズレさせてもその動きをちゃんと見せていたいだけに、きっちり感がそこまで必要かって思ってしまったのも実際のところ。まあでもあの精緻な絵だからこそ島のリアルな空気感って奴が生まれ漂い、そこにいる気分にさせてくれたってのもあるからなあ。要は好きずきってことで。

 こちらも小学6年生のももちゃんが、見かけは絵柄もあって割と大人っぽさを見せつつ性格はちゃんと小学6年生相応で、物わかりが良く小利口には描かれていないところがリアルだったと言えばリアルだった。自分が父親に酷いことをいってしまったという後悔を少し引きずり、そして母親がさっさと田舎に引っ込んでしまったことに不満を覚え、悶々としながらも外には爆発させられないでいる屈託。理路整然としておらず理屈になっておらず感情だけが先走るような年相応の性格を、きっちり表現できていたんじゃなかろーか。それが時にガキだなあと大人に思わせてしまう要素にもなったんだけれど、子供は見てちゃんと感じたんじゃなかろーか。子供って「ももへの手紙」をちゃんと見に行ったのかな。

 そう思うと「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」のケンゾーが、小学6年生としては立派で明るくて前向きで1番格好良かったかも。女子ではやっぱり「虹色ほたる」の芳澤さんで、初恋に悶々とし離別に悲しむその姿は、ある種の小学生の理想像。そして昭和52年の小学生の像でもある。奇しくも同じ年に公開された3本の長編アニメーション映画から、設定的には父を亡くし母子家庭となった少年少女が、田舎に行って経験するあれやこれやという共通項と共に、時代における小学6年生像って奴を、分析してみるのも面白いかも。あとは絵をどう描くのか、それが映画でどういう効果を発揮しているのかといった分析も。誰かやらないかなあ。やらないよなあ。宮崎アニメじゃない作品を取り上げたって売れないし。それもまた悲しい話。


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