縮刷版2013年7月中旬号


【7月20日】 ふと気がつくとアメリカはミシガン州にあるデトロイト市が破産していて、自治体が破産するってどーゆーこと? ってつまりは税収がなく支出ばかり増えてもうお金が回りませんって状態なことなんだろーけれど、そのことによって住んでいる人が被る不便ってのが、どんあものかは将来において例えば日本がもうダメですって破産した時なんかに供えて、調べ認識しておくと良いのかな。でも市だったら余所に移り住めば逃げられるけど国ではなあ。ギリシアとかスペインとか破綻しかかったり破綻に向けてまっしぐらだったりする国なんかで、人はいったいどー振る舞っているんだろ。それを思えばまだまだ心配するのは先か。なんて言ってたら明日にも。ヤバい国作りが始まってるし。

 しかしあの湖岸に摩天楼が並びそびえ立っていて、主要自動車メーカーが近隣に拠点を構えていたりするアメリカでも有数であり、世界でも有数の工業都市があっさり傾くとは。そりゃあ昔に比べればアメリカの自動車産業も衰えては来ているけれど、依然としてGMにフォードにクライスラーといったビッグスリーは一部に破綻しながらも未だ解散はせず、その生産台数でトップクラスに位置しているし、経営の方だって徐々に改善も進んでる。なのに市の財政は傾く、ってのはつまり企業が業績を回復したところでそれが市とは関わらない部分へと移っていたりする可能性を、考慮しておく必要があるってことなんだろー。グローバル化にタックスヘイブン等々で、そこに拠点があるその場所にまるまる税収が入るなんてこともなく、雇用が生じる訳でもないかといって地元に再び誘致したくても人はおらず賃金は高く市場は遠くでは商売にならない。だからもう戻らない。昔みたいには。

 代わりに例えばロボット産業を発達させようとするとロボコップみたいなことになるし、映画産業を誘致しようとしたって一部のロケ地にはなってもスタジオが移ってくる訳じゃない。観光……って何があったっけデトロイト、ミシガン湖? 大きいのは分かるけれどもそれ以上じゃないものなあ。「デトロイト・メタル・シティ」? それは漫画でおまけに日本のだ。「デトロイト・ロック・シティ」だってもはや死語なのに。いやもーすぐ日本に来るけれど、KISS。いずれにしたって内陸にあって日本からじゃあ遠すぎるし、ニューヨークとかボストンとかワシントンといった場所からも遠そうなそんな地域をいったい何で盛り上げる? ってなるとなかなか考えも及ばない。

 及ぶなら誰かもっと頭の良い人が絶好の対策を考えだして手を打ってるし、実際に打ってたんだろーけどひっくり返せなかったってことは、やっぱり根深い問題があるんだろー。さてどうなるか。豊田市とか刈谷市安城市岡崎市あたりに密集している自動車産業がこれからどーなるか、ってこととも含めて見守っていきたい状況。けどなあ、デトロイトってあの摩天楼が並ぶイメージが、豊田市の摩天楼ったって20階建て高層マンションが最高なくらいで、矢作川のすぐ向こうには山が迫り田んぼが続く風景と、まるで重ならないんだよなあ。それでいて工場は回り人は働き生産台数は衰えず税収だって維持されている。高望みはせず最低には落ちない中庸を誰もが望み守ろうとした風景、ってことなのかなあ。デトロイトの人に豊田とか見せて「これが日本のデトロイト」って言ったらいったいどう思うだろ? 自分たちだってまだまだやれると思うかな。

 遠く広島で日本SF大会が始まったのを遠目に見ながら、こちらは朝から新宿ピカデリーで今日から公開が始まった宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」を観る。窓際でもってマッサージチェアの企画特集とか炊飯器の紹介記事を書いている、もはや記者とゆーよりライターに映画の試写状なんて回って来ないし、試写会が当たるほど運も良くなくただ聞こえてくるクリエーターな人たちの絶賛と、そして試写で観た親子が退屈していたとゆー情報、さらには鈴木敏夫プロデューサらしい本編とはまるで無関係なモノクロ音声がどうした、アナログ盤の使用がこうした、素人声優の起用が何だといった話題作りバリバリな“雑音”によって、観る前からどうしたものか観が漂っていたけれども、それもこれも今日で終わり。観ればもう言うしかない。これは傑作だと。日本映画市場にも残る傑作であり、また宮崎駿監督における最高傑作であると。採点するなら100点満天で390点とか2兆9800億点とか、もう桁なんて着けられないくらいの傑作ぶり。日本の他のクリエーターが追いつこうったって30年どころか3万年先を行っていた。そりゃあ観たクリエーターのことごとくが脱帽するのもよく分かる。

 未見の人も多いだろーから詳細は省くけれども、冒頭から始まる予告編でも流れる先っぽに鳥の羽毛みたいなのが生えた飛行機での滑空が、そのあり得なさでやっぱり夢だということが分かってそして、飛行を夢みる堀越二郎という少年が、イタリアで飛行機を作っていたカプローニ伯爵の思いや熱意や企みと重なり合い、影響し合って自分の想いを形にしていく展開がまずあって、そのシームレスにつながっていく幻想性とそこで描かれる破天荒にして絢爛とした飛行機の描写にまず感嘆。空を飛ぶ物でしかない機械がそこでは実に魅力的に描かれ、誰も彼も男に限らず女性たちですらも引きつけて楽しませる存在として登場する。その描かれっぷりが実に壮快。アニメーションとしての変化し変形して動く楽しみって奴も味わえる。

 でも後半になって堀越二郎が作る飛行機ってのは基本的に軍用で、そこにカプローニ伯爵の思想なり思いめいたものはまるで反映されない。多分忸怩たるものを内心に抱えていたんだろーと思うけれど、そーした思いは戦闘機から機関銃を外せば軽くできるよと軽口を叩きつつ、喝采を浴びつつ引っ込め“お仕事”モードに切り替える辺りの描写に多分、込められているよーな気がする。彼が自在に飛べるのはやっぱり夢の中だけだった。そんな時代のそんな国に生まれ育ったエンジニアの悲哀めいたものがちょっぴり漂う。そんな飛行機と向き合う人生の一方で、田舎から東京へと戻る列車の中で出会った菜穂子とゆー少女との関係が、もっぱら後半の軸へとなっていって飛行機に情熱を傾けながらもしっかりと、愛して愛しい女性へのひたむきさってものも見せているところに、二郎が決して1つにかまけてほかを捨て、あるいは省みないオタク的な人間じゃなかったことが伺える。そーいう人間を描こーとした映画じゃなかったんじゃないってことも。

 二郎と菜穂子の関係については、人によってはやっぱり仕事が優先でそれに付き従う女性ってイメージなんかを見てしまいがちになるけれど、その関係は決して一方向のものじゃなくって双方向で、時には菜穂子の方が積極的て前向きな印象すら受けた。その身に起こっていることを誰よりもよく理解した上で、自分にとっての最善を追求した結果がプロポーズの了解であり、儚くも濃密な時間を共に送ることであり、そして先を感じ取って自分を抱え込んで去るあの行為だったんじゃなかろーか。それは、決して健康的な場所ではない所に菜穂子を引っ張り込んでしまった二郎のエゴイズムよりも、よほど強烈な自己主張ぶり。そーなると分かっていながら1人の男性に生涯に残る思いを植え付け、心配をかけ最期に悲しみを与えてもなお、寄り添いたいと思い行動したのだから。そう観ると、決して男の理想がそこに反映されているとは言えない気がするんだけれど、過去の作品からそーゆー描写がデフォルトだと信じている目には、とくに男性の目にはやっぱり“男にとって都合の良い女”としか映らないんだろうなあ。まあいずれ女性の観客の喝采がその誤謬を正してくれるだろー。

 従前から話題となり宮崎監督の発言によって問題にすらなっていた庵野秀明監督による声優ぶりだけれど、見始めてまるで気にならなかったというか、むしろピッタリだったというか、事前にあれだけ騒がれて自分の中のハードルがまあそんなものだろうといったレベルに下げられていたところに、その上を遙か跳躍してベストな演技が来たからむしろ驚いた。カプローニ伯爵が野村萬斎さんで潜みと企みがそこに込められた声でもっておどけつつ巫山戯つつ喋るのに対して、庵野さんの二郎は淡々として木訥に喋ってその立場に対比って奴をくっきり示す。仕事を始めてからも西島秀俊さんに西村雅彦さんに役國村隼さん大竹しのぶさんとやっぱり揃った芸達者な人たちが、同期のイケメンからサラリーマン的上司から理解のある重役から上司の出来た夫人からそれぞれに特徴を持った声を発する中で、淡々とし続ける二郎は沈まずむしろ引き立ってその人となりって奴を観る人に感じさせる。

 そんな効果をあらかじめ読んでのキャスティングだったとしたら、選んだ人も凄いし、そんな音像を作りあげた音響監督の人の巧みもやっぱり凄い。誰もが張り合い競い合う作品が多い中で何が自然か、不自然でもあってどうすれば自然に聞こえるかってことを勉強できる作品ともいえそう。モノラルだってことは観ている途中に思い出したくらいで、まるで気にならなかったしアナログレコードだってことも、言われなければ気にもしないあろうなあ、っていくか映画の中で鳴るSPの蓄音機の音がそもそもモノラルでアナログなんだから、それを使った本編はある意味で整合性が取れているし、ベストな選択だとも言える。淡々として語り継いでいくナチュラルな描写にモノラルでアナログな音響。昭和な雰囲気がふっと漂ったのもそんなところにあったのかな。今日はまあ、そんなところで。あと10回は観るんでその都度、思いついたことを書いていこう。

   そして気がつくと広島では星雲賞が決まっていてまあ星雲賞らしいというか、SFマガジンと東京創元社あたりを中心としたSF界隈なら誰もがそうなるだろーと予想するラインアップというか。かつて水樹和佳さんの「樹魔・伝説」が大友克洋さんの「童夢」とかを押しのけ受賞したよーな新進気鋭の大抜擢めいたことが起こらなくなっているんだけれど投票する人たちが半ば純化されてさらに年齢もアップし世代が交代っしてはいても上の血筋をより濃く受け継いでその後を追っているよーな観じだから仕方がない。日本SF大賞もまあそんな傾向が強くなってて他のカテゴリーで生まれているSF的な諸々を、埒外に置いていたりするけれどもそれももそれでひとつの流れ。ならばこっちは異論を放って混ぜっ返してみたいけれども、影響力も発言力も存在感もないんで何の力にもならないのであったという、哀しい話。しかしなあ、ips細胞は凄いけども現実にされたものにSFの賞を与えてどーすんだ。なあおい。


【7月19日】 そうそう、昨晩にニッポン放送で開かれた中森明夫さんと吉田尚記アナウンサーによる場外ラジオ。今の東京編へと来てアイドルドラマを展開している「あまちゃん」を、脚本の宮藤官九郎さんは東京での苦闘を経て再び田舎が良いねドラマへと戻しそうと考えているのかもと、「あまちゃニスト」とすら名乗って「あまちゃん」好きを公言している中森明夫さんが話してた。確かに考えればそういう展開がスムースだものなあ、OPは未だに東北だし、おそらくは震災というトピックも控えているし、そーゆーのから再生を目指す東北で頑張るってのが、日本国民の誰もが納得をして大団円と思える展開だろー。

 もちろん中森明夫さんだって、そーゆー予定を感じ取ってはいるんだろーけれど、今の東京でのアイドルドラマ展開が好きで「あまちゃん」を応援していることと、あとアイドル評論家として地方から東京へと来て大成功していったアイドルたちの頑張りなんかを目の当たりにして来て、そーした東京での苦労と成功といったドラマ性をバッサリと否定するよーに、尾羽を枯らして田舎に戻ってそこで温かさを経験し、やっぱり田舎が1番と喧伝するよーな展開には、どこか違和感を覚えていたりするのかも。だから脚本家が、あるいは演出とか製作しているNHKとかいった作り手たちが、そーゆー結末を望もうと、そうじゃないアイドルドラマとしての展開で進み、東京でのアイドル暮らしを素晴らしいものとする結末に至るよー、言葉で訴え続けて「あまちゃん」を自分の見たいものにするんだと話してた。

 つまりは作家から“「あまちゃん」を取り戻す”ってこと。そこにはクリエーターへの敬意とがないよーにとられかねないニュアンスがあるけれど、そんなことはもちろん中森さんも理解していて、そうなればそーなったで「あまちゃん」が描こうとしたことへの賞賛をきっと語ってくれるだろー。ただ一方で、自分がそれを好きであることが何より批評で大事とゆー中森さんなだけに、状況からそれが妥当と思えても、自分の好きのためには遠慮しないで訴えるってことを曲げない考えなんだろー。そうしない批評ではなくって単に解説者になってしまうから。作家がいくら望もうと、ファンがそれを望まず世間が求める方へと進み広がり展開していった作品ってのは過去に実際にあるものだから、訴え続ければそういう展開へと向かうかも、って無理かやっぱり。どうなるのかなあ。今さらだけれど見てみるか「あまちゃん」。

 東京新聞の7月19日付朝刊のトップに例のスタジオジブリが「熱風」って小冊子の最新号で憲法九条の改正についていろいろと言っているって話が記事になっていてそこに1人、その「熱風」を持っている人の写真が出ていたんだけれどどこかで見たことあるかもなあ、と近づいて記事とか読んだら額田久徳さんだった、昔「フィギュア王」って雑誌の編集長をしていた。村上隆さんのフィギュアをおまけにつけたりと、なかなかにアグレッシブな編集を見せてオタクからサブカルへと枠をとっぱらいいろいろ試みていた編集者。それがどーしてジブリに、って思わないでもないけれどそこは流動の著しい業界なだけあって、伝もあって異動したんだろー、きっと。元より人脈もあって企画力もある人だから、媒体を持っていろいろとやってみせたし、これからもやってくれるんじゃなかろーか。宮崎駿監督のフィギュア付き……はさすがに無理か、無料配布の小冊子だもんん「熱風」って。

 そんな憲法改正特集で、宮崎駿監督が繰り広げている持論は極めて真っ当というか突飛さのカケラもないというか、ゴリゴリに保守的でもなければバリバリなラディカルでもなく、現状を認めそれを維持していくことが大切って観点からそれを脅かす事柄の問題って奴を話してくれている。よく大陸への進出なんかが欧米列強の進出に対抗したものでアジアの共和共栄を願ってものだとか正当化されることがあるけれど、宮崎さんは「そういう歴史を人間が踏んできた、ということを抜きにして、日本だけが悪人ということではないと思います」と言いつつ「そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい。『おまえは強盗だったんだよ」ということですから」と指摘している。「何でよその国に行ってそんな戦争をしたのか」。つまりはそういうこと。他のあらゆる言い訳も、結果としての、そして本質としての「強盗」論に帰結する。

 そんな過去の再来をもたらす可能性がある憲法改正について「反対に決まっています」とにべもない。自衛隊について、その法律上の立場が曖昧なことは認識しながらも「そのほうがいい」といってのける宮崎監督。「今、自衛隊があちらこちらの災害に出動しているのを見ると、やっぱりこれはいいものだと思います」と話してその活動を評価しつつ「とにかく自衛のために活動しようということにすればいい」と、現行の立場でできることをすれば良いんだと訴える。一時スイスなんかに憧れたことも明かしつつ、「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない」と現実に即した意見を出し、「それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しい」と何が何でも拡大といった野心を否定する。

 「だから、馬鹿げているけど最新式の戦車ぐらいは多少造っておけばいいんですよ。本当はガンダムでも造って行進させりゃいいんじゃないかと思っているんだけど(笑)」ってお茶目さを見せたその奥に、やれる範囲でやれることをやるのが良いんだと諭す動きに、乗れれば楽なんだけれどでも、範囲を飛び出したい人は世間にいっぱいいて、軍があった過去を正当化しようとする。これは何なんだろうなあ、海外からあれやこれや言われるのが自尊心を傷つけいてもたってもいられなくなってしまうからなのかなあ。そこに宮崎監督。「整合性を求める人たちはそうすることで『戦前の日本は悪くなかった』と言いたいのかもしれないけれど、悪かったんですよ」。

 もう一言でもって過去を否定し、自尊心を見たそうとする動きをけっ飛ばす。日本の宝と讃えられ世界に誇る才能と持ち上げられる監督から、そう言われてなお拘るんだろうかどうだろうか。拘るんだろうなあ、それが生きる拠り所になっているから。あと面白かったのが「ちょっと本音を漏らして大騒ぎをおこすと、うやむやに誤魔化して『いや、そういう意味じゃないんだ』みたいなことを言っている。それを見るにつけ、政府のトップや政党のトップたちの歴史感覚のなさや定見のなさには、呆れるばかりです」と話していた部分。発言をつままれたとか誤報だとかきゃんきゃんと吠える党首とかいたものなあ、でも文脈はメディアが報じたとーりでいささかもズレていない。本質は確かにそーなっている。

 批判されるとそうじゃないと言いつつ、別の場所では同じことを言ってやっぱり反発を喰らう繰り返し。そんな自分の言葉に責任を持たず自信も持てない人たちが、この国の上に立っていたりする薄気味悪さ。「考えの足りない人間が憲法なんかいじらない方がいい。本当に勉強しないで、ちょこちょとこっと考えて思いついたことや、耳に心地よいことしか言わない奴の話だけを聞いて方針を決めているんですから」。まさしく。問題はそんな宮崎監督の見識が、一般論として世間に周知されていないことか。だからこそその立場を省みず、発言力を活かしてこの言葉を寄せたんだろー。届くか日本中に、そして世界に。届かせる気があるならそれこそ日本テレビで特番組めば良いのに。無理かなあテレビじゃ。だからこそ「熱風」って媒体が意味を持つ。額田さんにはそんな、しがらみなんてぶっ飛ばすような企画をどんどんと立てて展開して行って欲しいもの。これからの特集も注目して見ていこう。

 手代木正太郎さんが書いた小学館ライトノベル大賞優秀賞の「王子降臨」(ガガガ文庫)を読んだ。凄かった。時は戦国、将軍家は弱体化し台頭する織田を討つべく勢力を結集している間隙を縫って、主君を殺して成り上がった弾正という男がいた。近隣に重税を課し逆らうものは容赦なく殺戮し反攻するならどこからともなく用意した巨大な兵器で焼き尽くすという暴虐三昧。そん弾正の圧制に喘ぐ村人は死ぬか一揆を起こして蹂躙されるしかなく、そして一方に盗賊が跋扈し病気も流行って誰にも未来が見えない状況にあった、そんな世界にアンドロメダより王子が降臨し、その美貌と愛の力で敵を退け人々を導びくとゆー話だった。嘘だろうって? 本当だって。つまりはそういう設定。そしてとことんの愛と正義がすべてを乗り越え突き進んでいく様を楽しめる。まあでも世界はそうも巧くはいかず誰もがハッピーになれる訳じゃないけれど、王子のためだったら仕方がないよね、そして相手も王子だったら仕方がないよね、って考えるともしかしてすべての混乱の根源は王子ってことになる? そんな裏表の関係も考えるといろいろ深そう。ともあれ怪作。ヘンなのばかりが出る年だなあ。


【7月18日】 とある元総理による現職総理提訴の話。前代未聞の話であるにも関わらず、「なのに大手メディアは、ほとんど報じない」ということを、昨今のネットを中心としたメディアの界隈でとっても影響力のある偉い人が言っていたので、きっとその通りなんだろう、けしからんなあ大手メディアめと思いつつ、提訴のあった翌日の朝刊なんかを開いてみたら、読売東京毎日産経朝日日経にはその話がしっかり出ていた。ベタで流したところもあったけれど、大きく図表なんかも付けて対立点を明示していた新聞もあったりして、何だ出ているじゃんとその時は思ったものの、ネットメディアの界隈でとてつもない影響力を持っている偉い人がそう言うからには、やっぱり“大手メディア”はほとんど報じていないと理解するのが良さそうで、つまり読売東京毎日産経朝日日経は大手メディアではないということになるんだろー。だったら大手メディアってどこなんだ、って話になるけどそれは知らない、感性は人それぞれだから、うん。

 真面目に言うなら「大手メディアはなぜ」と前説することで既存メディアは欺瞞に満ちた存在と感じさせ、自らが運営するメディアこそが真実を世の中にアピールできているんだという自己主張の現れなんだろーけれど、結果としてはデマに近い言説であっても、それを信じる人が現れ集い、叫ぶメディア批判の会を結成するくらいに今、既存メディアは“肝心なことを報じない”といった印象を、一部ではあっても世間に持たれてしまっている。あるいはそうやって報じられる内容にもどこかバイアスがかかって公平ではないという印象。中にはそーいった報道のされ方もあるんだろーけれど、ほとんどは普通に淡々と状況を報じていたりする訳で、それを一概に否定して存立を揺るがした時に起こるのは、逆方向にバイアスがかかって「大手メディアは報じないと言われていることを報じる」方針のメディアの台頭と浸透。それが普通になってしまった時に何が起こるのか。気持ち悪いなあ、ということだけは確かか。参ったなあ。

 ピエール瀧さんがジョジョ立ちしたとか言って騒いで、俺たちの興味がメジャーな場所で承認されたんだって喜ぶ気持ちが分からないでもない一方で、そーやって引っかけられてしまうことへの釈然としなさって奴もあったりして、ストレートに楽しめないし実はあんまり見ていなかったりする「あまちゃん」だけど、そこで小泉今日子さんが演じている元アイドルの女性が、かつてアイドルを目指した時に聞いていただろー1980年代の楽曲を集めたとゆー設定のコンピュレーションアルバムが出るって話になると、釣られることになったとはしても、そこに集められた楽曲を同時代的に聴いてきた身として、懐かしくも嬉しい気分を味わえそうだってことになってしまうのは仕方がないっていうか、当然というか。だってKYON2だよ。薬師丸ひろ子さんだよ。2人とも「あまちゃん」出演しては今の風体を晒してはいてもその容姿からはやっぱりあの、全盛だった頃を誰にでも思い出させるグレートな存在。そんな2人を筆頭に、原田知世さんがいて斉藤由貴さんがいてゴダイゴもいて松本伊代さん吉川晃司さんセイント・フォーに少女隊と来れば、もう聴くしかないって気にさせられる。

 なおかつそれはビクター盤の方で、別にソニー盤ってのもあってそっちには松田聖子さんがいて近藤真彦さんがいて村下孝蔵さんもいたりして早見優さん大沢逸美さん佐野元春さんスターボーと、アイドルからニューミュージックからフォークからと意味が不明に思えるけれども共通する80年代って空気だけはしっかりとある楽曲が並んでいる。現在はポニーキャニオンに流れが続く田原俊彦さんも、日本コロムビアの河合奈保子さんもいないのはちょい残念だけれど、それはだからそーしたレコード会社もこのビッグウェーブに乗ってコンピレーションを出せば良いだけのこと。おニャン子クラブなんて出せばそれ1枚でポニーキャニオン枠が埋まってしまいそうだけれど、考えてみれば斉藤由貴さんはキャニオン・レコードな訳でそれがビクター盤に入っているってことは頼めば貸してくれたりもしたのかな。だとしたらやっぱり俊ちゃんは欲しかった。あと少年隊か。期待しようこれからの発展を。

 「よっぴー」ということに決まった。かつて「おたく」が意味していた知識のエキスパートであり行為のマイスターであり言説のトップランナーといった存在が、「おたく」という言葉のちょっとだけ知識が偏向していてそこに熱中していくという存在すらも超えて、誰もがこだわりを持って生きていたりする感じに一般化して、一億総おたく化してしまったよーな現状を鑑みつつ、だったらより発展性のあること、ただ情報を受け取るだけでなくアウトプットもして広め啓発していくよーな存在をどう呼ぶかという質問に対して、中森明夫さんが答えて総称として「よっぴー」と言い、そうしたことを実践することを「よぴる」と呼ぶことに決まった。だから明日から散々っぱら「よっぴー」なあいつが「よぴってる」と話し、使い書き広めていくことにしよー。出来る限り。

 それはニッポン放送のアナウンサーで、生粋のおたくとしても知られ音楽からアニメーションから漫画からネットからあれやこれや取り上げては、世の中に発信していく吉田尚記アナウンサーが、本業を持ちながらもそちらでは対話できず、できても長時間ではあり得ない人たちを招いてみっちり2時間、喋り通すとゆー「場外ラジオ」の第5回目における一幕。過去に桃井はるこさんとか茂木健一郎さんも招いたその場に今回は、アイドル評論家として長く活動し、最近は「あまちゃん」を語る「あまちゃニスト」としても大注目されていて、そして僕たちには「おたく」という言葉を雑誌で使い定義して世に伝えた功労者として知られている中森明夫さんが登場して、みっちり2時間、アイドルとは何で批評することとは何でそして信念を持つとはどういう態度なのかを吉田アナと語り継いだ。

 いやもう勉強になる2時間で、間違ったこととか曖昧なこととか言おうものなら聞き返されたり反論を喰らったり黙りを決め込まれたりしそうな論客の中森明夫さんを相手に、オウム返しにもならず自分語りにもしないでその興味を誘い、言葉を引っ張り出し、次へと繋げていく吉田アナの話芸ってものが素晴らしかった。まるで規模は違うけれども、似たよーな仕事を時々していたりする身として参考になった。相手が喋らないなら代わって喋って場をつなごうってしがちだけれど、聞き返すとそれって相手は全然何も言ってなかったりして、原稿にまとめようとしてもまとまらない。そこは我慢し、相手の気持ちを勝手に忖度するとゆーよりは、相手がこう返してきそうな質問を投げかけ時間を見るとゆー手法を取る。相手は喋らなずを得ないし、そこに自分を表さざるを得ない。じゃあ自分に真似ができるかとゆーと、すぐには無理でも、感じをつかんで実践していくことによって少しでも近づけるんじゃなかろーか。問題はそーゆー時間が僕にはもうないってことなんだけれど。ロートルの窓際だし。

 そんな対話から引っ張り出された中森明夫さんの言葉では、やっぱり面白かったのは「批評は説得」って部分かも。なにかを当たり障りなく紹介したって相手は存在は認知してもそれを前向きに受け止めよーとは思わないし、反発しよーってことにもならない。だから説得。自分の意見なり自分なりの視点なりをそこに乗せ、そうなんだと言い切ってしまって超然とするその態度こそが批評の言葉を相手に届かせ、賛意なり反意といったリアクションを呼ぶ。それが広がり関心を読んで世の中にひとつのムーブメントを作り出す。正解かどうかはこの際関係ない。作り手の真意にハマっているかも知ったことではない。自分はそう感じた。だからそう言った。お前はどう思う? おれより面白い話ができる? そういうスタンスで、高飛車にではなく誘い促すよーなスタンスで言葉を発することが、批評家として世の中に存在を認めさせ、長い活動へと導いてくれるのだ。ってことは僕も、今の当たり障りのない言葉遣いを改めないといけないんだろうなあ、まあまだ残る長い期間をどーにか食いつないでいくためにも。

 批判は別にしなくても、言葉に工夫はして関心を呼び込む。それが大事。ただなあ、そこまで自分に自信がないんだよなあ、だから説得の言葉に逃げが生まれて力が弱まってしまうし、作り手こそが至上といったスタンスもあって、それが真実でなくても真相かもしれないと思わせるよーな言葉をなかなか紡げない。だから中森さんのよーな超一流と泡沫なわが身の極五流ぶりとの差となって、現在に至らしめているんだろー。暗示でもかけるか、僕は正しい、僕は素晴らしい、ぼくは「よっぴー」なんだ、これをもってして「よぴる」んだと。まあそこまでの境地に至るには、もーちょっと頑張っていろいろ吸収しないといけないんだけど。とりあえずこの夏に始まったアニメーションは観られるだけ見ておくか。ってそーゆー平板な勤勉が、とても届かない境地へと至らなければ「よっぴー」とは呼ばれないんだよなあ。難しい。


 ただひとつ、及ばないまでにしても中森明夫さんに重なるところが自分にもあるとすればそれは、妙なポジションゲームからあれが良いとかこれが凄いとか言わず、自分の好悪でもって好きかどうかをまず判断して、それが好きなら徹底して貫いて好きだと言って広めようとする“本気”さか。そりゃあ長くやっていれば中森明夫さんもいろいろなしがらみも出て来ているかもしれないけれど、そうした関係性にまるで依拠せず自分が好きなら好きだと言ってのける。「あまちゃん」だって最初こそ次代のアイドル市場がどうなるかって話で、AKB48のよーなグループアイドル全盛の次は、1980年代に薬師丸ひろ子さんが体現してたいよーな映画なりドラマで女優として活躍している中からアイドルが出る、その先陣を能年玲奈さんが切るんじゃないかと年の始めに書いたことを証明する意味もあって見始めたそーだけれど、その直観が本当だったことを受けて、今は確信を持ってその強さその凄さを訴えているし、書いている。

 半歩ズレれば単なるミーハーに過ぎないそのスタンス。ただやっぱりプロなんで抑えるところは抑え、好きが基本でもその理由を言語化し、次につながる可能性を示唆している。僕も女子サッカーが好きなのは2000年代の始めからで、ずっと見続けていたから今も興味を持って書いているし、ライトノベルだってSFが割と沈み駆けていた1990年代後半に、SF的な感性を満たしてくれるジャンルとして気になり気に入ってから、ずっと応援し続けている。その中身もやっぱり自分の趣味が基本。ラブコメが流行っているからとかハーレム物が中心だって考えはあんまりない。というか苦手な口。だって面倒じゃないか、興味もないものをしっかりと押さえて位置づけていくのって。もちろん概説的なことをするために、押さえておいてバランス良く並べたりもするけれど、本質はやっぱり好きかどうか。それが極大化したところに中森明夫さんのよーな長くとして強い存在があるんだろー。近づけるか。無理なのか。頑張ってみるけど、無理かなあ、あそこまで自分を貫けないよ、僕には。

 あと面白かったのはアイドルとゆー存在の空想性、仮想性か。実際にアイドルが嫁に来てくれれば嬉しいか否か、ってあたりでどこかにためらいを持ってそれはないと話す中森明夫さんはだから、ミーハーではあってもアイドルとゆー存在の意味なり意義がどこにあるかをちゃんとわきまえている。とはいえ完全なる絵空事では近寄りがたい印象を醸し出すところを、人気になるアイドルはそーではなく、例えば松田聖子さんがO脚なのを隠さずミニスカートで登場して脚光を浴びたよーに、どこか抜けて見えたりする部分が重要だってこともあるらしー。見渡せばなるほどAKB48なんて……ってそれはちょっと危ないので遠慮。

 ただ完璧美女軍団の韓国系アイドルグループにそれなりな人気は出ても、AKB48の寄せ集め大集団を結果として超えられなかったところに日本人のアイドル観があり、そしてエンターテイナーではないアイドルという存在の真理があるよーな気がする。ってな話を2時間みっちり、語り尽くしたイベントに招かれ見られてとても良かった。さすがは「よっぴー」たる存在の総本山とも言える吉田尚記アナ。これからもどんどんと「よぴって」いって欲しいなあ。そんなひとつが「場外ラジオ」の次のゲスト、サンキュータツオさんとの対談でも実現しそー。学生落語会時代での対決から研究者的なロジックによるアニメ論、さらにはエンターテインメントの未来なんかを2人してたっぷり聴かせてくれることだろー。今度は普通に見に行くか。


【7月17日】 ふなっしーが好きなんかーい、って髭男爵みたな突っ込みをふと入れたくなった「TV BROS」の26周年&1億冊突破記念号におけるきゃりーぱみゅぱみゅインタビュー。ロックアップとかゆー監獄レストランでお化け役の人が着ぐるみ着てるんですよって話から、「あ、そうそう」とずれてふなっしーへと流れるその思考の展開力が独特とゆーか、相手構わず自分を訴える性格とゆーか、それを修正しないで続けさせるインタビューもなかなかにユニーク。まとめずとっちらかったまんまの姿を見せることによって、そのパーソナリティって奴がちゃんと見える感じになっている。ちょっと面白い。

 でもってそんなふなっしートークを膨らませるのかと思ったら、「真剣な話していいですか?」と言いだしそこから「さっきから私、変わりたくないって言ってますけど進化はしたいんです」と決意表明みたいなものをぶつけて、インタビューのラスト近くを盛り上げにかかる。あれもこれもひととおりやってみたいという希望。そして「そうだ、ホスト、行こう」と持っていくところの八艘飛びっぷりは、何かやっぱりとってもきゃりーぱみゅぱみゅっぽい。行ったことはないんだろーか、見渡せば周囲に格好いいクリエーターだっていっぱいいそうなんだけれど、それとは違ったプロフェッショナルなイケメンが、そこにいる環境って奴を体験できる場所なんだから。

 何しろ「まだ出待ちがいない!」と自身、憤るくらいにあんまり持てはやされていない感じで、そんな心理を巧みに衝いてくすぐりにかかるプロのホストの手練手管にかかっていったいどーなるか。心配もあるけどいろいろ吹っ飛ぶ展開に、相手も匙を投げるかも。そんなきゃりーぱみゅぱみゅが注目するのが名古屋。握手会とかして「キャラが濃い人は名古屋に集中的。」って話してる。そんなに名古屋人って自己主張する人種じゃないとは重うんだけれど、そんな風土にあってきゃりーぱみゅぱみゅを見たいと思う人はそれなりに、キャラを強く持っていないと最初っから行かないってことなのかも。名古屋のライブは行くつもりだけれど、どんな人が周囲にいるのか観察してこよう。金のしゃちほことか頭に被っていたりするのかな。

 そんな名古屋について、名古屋を拠点に活動する「SKE48」へのインタビューが同じ「TV BROS」に載っていて、そこでAKB48から兼任が決まった大場美奈さんが、名古屋の印象として「風来坊の手羽先が美味しい!」と話している。うんうん「世界の山ちゃん」ではなく地元に根ざしてファンを広げる「風来坊」を、こーやって全国区にしてくれるのは有り難い。あとコメダ珈琲店に通う人にはお馴染みの「シロノワール」も挙げていた。どこだって食べれると言われて「名古屋発ですから。名古屋で食べることに意味があるんです」とは実に有り難いお言葉。確かAKBでチーム4にいて休業から復活とあれこれ苦労もしていた人だけに、今も名古屋へと回って活動していたりするその苦労を、苦労と見せない感じにに未来を期待したくなる。美味しいものをいっぱい食べて頑張って。いつか見たいな劇場で。

 そして他のメンバーも名古屋自慢なんかをあれやこれや。白川にあるプラネタリウムに昭和区の喫茶マウンテンと、名古屋人なら知ってる名所名物がまず登場。マウンテンでは甘口抹茶小倉スパといった“定番”メニューではなく、「イタリアントマトパフェ」って生クリームに生トマトが乗ったメニューを挙げていたりするところに、こだわり心がほの見える。流石だ松井玲奈さん。あと大分から着たとゆー矢方美紀さんは名古屋に栄に大須といった繁華街がだいたいかたまっていて歩いて観光できるって話しているところに好感。確かに歩いて回れない距離じゃなく、そんなあちらこちらを歩いて見ている矢方さんに会えるかってふと思うと、自分も歩いてみてみたくなる。いるのかな。

 といった具合に楽しいインタビューを行って、突っ込みから引きからさまざまな芸を見せて彼女たちの本音を引き出していたライターのアボンヌ安田さんとゆー人が、7月7日に亡くなっていたとゆー話がアボンヌさんの連載コラムに知人の中村うさぎさんと、それから担当編集の人の言葉で掲載されていてしばし沈黙。まるで名前も知らなかった人だけれど、過去から現在に至るまで多士済々を輩出して来た「TV BROS」にコラムを連載している人なだけに、将来を大きく期待された書き手だったに違いない。そんな人がまだ若いのに道を断たれるというのは、想像でしかないけれどもやっぱり哀しい話。楽しげな「SKE48」のインタビューも読んでその才の片鱗も覚えただけに、なおのこと残念さも浮かぶ。追悼文集とかにまとまらないかなあ、最近のお仕事とか。ちょっと読んでみたくなった。

 川口オートレースで森且行選手がG1のキューポラ杯の決勝に残っていて、割と久々になってしまうG1制覇はなるんだろーかと注目された今日の最終レース、直前に雨が降ったみたいでコンディションも変わる中を、実は雨が得意らしー森選手があっという間に先頭へと出てはあとはゆうゆうと周回を重ねてぶっちぎりの1位でゴール。4年ぶりくらいにるらしーG1制覇を達成した。何かすごいなあ。もちろんずっとS級とゆーオートレースではトップのグレードに居続け、川口でも何番手かの選手ではあり続けていたんだけれど、タイトルとなると最高グレードのSGにはまだ届かず過去にG1が1度とあとG2だっけも幾度かあった程度。その意味では強いけれども突出してない選手という位置づけにあった。今回もSGではなくG1ではあるけれど、39歳とゆー年齢に来ての勝利はやっぱり相当なもの。条件が整えば勝てる選手であることを証明してくれて、これからの活躍ってのがちょっと楽しみになって来る。でもやっぱりSG、取って欲しいよなあ。

 ずっと言っていたことみらいだけれど、改めて寄稿してそれが朝日新聞に載ったということは、その問題意識が相当に本気で、そして掲載する朝日新聞の側もそうした認識を受け止め得るだけの感触を得ているってことなんだろうなあ。2013年7月16日付け夕刊、橋本紡さんが「夢の国に住めますか」ってタイトルで寄稿しているんだけれど、そこには「ライトノベルの売れ筋は『ハーレムもの』と呼ばれる。なんの特徴もない少年が、なんの理由もなく、次々と美少女に言い寄られる。一方的な好意だけ。完全に自己充足された世界。まさしく夢の国だ」って書かれてる。体感を言うならそーいった作品を僕はほとんど買ってなくって、見渡して30代40代も買ってないような気がするんだけれど、アニメ化されたり漫画化されて目立つのはやっぱりハーレム物。だからなのか目立っているよーな印象は確かにある。

 ただ、そーしたメディアミックスってのは小説と同時に行われるものじゃなくって数年のスパンをおいて始まったりするもの。数年前のやたらと長いタイトルでもってハーレム状況を描く作品が大量に溢れた時代からしばらく経って、現在はもーちょっと世界観なりを打ち出した作品が増えているよーな気がしないでもない。あるいはドラマ性か。キャラクターは立っているけどその経験に自分を仮託し、モテたい願望を充足するよーな作品ってのは以前に比べて退行しているんじゃなかろーか。いやそれも僕がSFやファンタジーを専門にしていて、そっち方面に疎いだけなのかもしれないけれど。さてはて。ただそーしたライトノベル状況への指摘とは別に、橋本さんが「僕たち作家は、ずいぶんと長く、見ないふりをしてきたのに−」と書き、「売れているエンタメ小説 愛国心くすぐる」と題された少し前の記事に触れた部分には、なかなかの鋭さがあるよーな気がする。

 曰く「結果として愛国になっているだけである。その実は逃避なのだ」。続けて橋本さんは「戦前、戦中の日本や、自衛隊が舞台になるのには、理由がある。強大な戦闘力を保持しつつ、軍隊と公言されない自衛隊。夢の国を作るとき、これ以上の舞台装置があるだろうか」と語る。そして橋本さんが描き追った家族と家庭と恋愛が描かれる「家族小説」は滅び、性と成長の痛みは嫌われる。一般小説も。ライトノベルも。思うならエンターテインメントは夢に溺れたい者たちの逃避先であって、それがハーレムでも愛国でも良いんじゃないのとは思うけど、それだけではやっぱり務まらない現実の人間の社会があり生活があって、それらを問う物語はやはり必要、なんだろー。それが受け入れられない先に、何がある? そんな橋本紡の危機感を、受け止め噛みしめた日本の文芸の先ってのをちょっと眺めていこう。橋本さんが半ば“降りて”しまっているのは残念だけれど、それも決めるのは当人なんで仕方がない。続く世界で何が起こる?


【7月16日】 やっと2話まで続けて見た「ハイスクール D×D NEW」は一誠のエロっぷりはともかくとして、リアス・グレモリーのアーシア・アルジェントまでもが同居して同衾したりして一誠にはただただ羨ましい限り。なのに手には触れられず舐められもしないその日々ってのは果たして健康によろしいんだろーか。溜まるだろうなあ、いろいろと。でもって木場の過去が絡んで聖剣エクスカリバーをめぐるバトルへと突入して一誠の幼なじみとかエクスカリバー使いの美少女とかがわんさか出てきて楽しそう。なおかつ今はまだ見ぬギャスパー・ヴラディなるキャラクターの正体。それを知って一誠は驚き嘆くとあるけれどもどーして美少女に一誠が涙するのか。それも含めて期待の作品。しかしパンツいっぱい見られるなあ。

 20日の公開を前にして「風立ちぬ」の宮崎駿監督へのインタビューなんかも新聞に出始めたりして、まあやっぱりというか何というか、既存の手法を否定してみせる言説の方ばっかりが前に出てくる感じに、どーして作品の面白さそのものでアピールしてくれないのって懐疑も浮かぶけれど、そこは記事にする上で普通に普通の面白さだけを語ってもらっては平板になってしまうから、メリハリというかトピックを散りばめる上で本筋とはちょっと離れた部分へと目をやり、そこで試みたことなんかを紹介して、ちょっと違うんだ感を振りまきたいメディア側の事情もあったりするんだろーと斟酌する。よく動きそしてよく語られよく泣ける。アニメーションが売りとしたい、そーゆー部分だけ書いても読者って食いつかないんだよ最近は。それが宮崎アニメであっても。

 とはいえ耳に突然飛び込んで来るような音が嫌だからと、ステレオでもサラウンドでもないモノラル音声を選んだり、ナチュラルな声が良いからと言う自己感覚だけを拠り所に声優を素人にしたり、どうせ本物にはかなわないんだからとエンジン音か震災の音なんかを人間による口三味線にしたり、荒井由実さんが歌う「ひこうき雲」を昔のアナログにして針が落ちてヂヂヂヂヂッて鳴る音まで入れたりしたことを誇られてもなあ、それって単なるノスタルジーじゃん、だったら次はデジタルのあのピキャッとした感じがいやだからと上映をフィルムにして、制作も塗りの濃淡が感じられるようセル画にして、そして色調もその濃淡だけですべてを表せるはずだとモノクロにして、さらに音声無声で楽団と弁士を付けて上映すれば、より昔ながらの雰囲気を出せるんじゃないの、って思わないでもない。劇場はもちろん喫煙可。その方が宮崎監督だって嬉しいだろうし。

 それは行き過ぎとしても、根拠のない感覚だけのノスタルジーを作り手が標榜すること、それ自体に異論はなく、作りたい側がそう思って作ったんだねえと受け止めれば良いけれど、受けるメディアにしてもあるいは観客にしても、なんだやっぱりそうなんだ、って思うのはちょっと違う。ステレオになって何年だ。5・1Chとかドルビーサラウンドとかが導入されてどれくらい経つ。3D立体視だって普通になっているこのご時世に劇場での視覚聴覚をより拡張するよーな試みを全否定して来た相手を、諸手で歓迎するのはつまり自分自信のこの何年かの映画による快楽をも否定することになってしまう。評価するならモノラルだからなるほどと思い、アナログだからそうだと感じ、そして素人声優だからこそ浮かんだ思いってものを、言語化して他と比較して、優劣とは言わないだめも差異を指し示すべき、なんじゃないのかなあ。昔は良かったじゃあ、何も生まれないのは宮崎監督だって知っているはずなんだから。

 「海外ドラマの声優たちの、手慣れたしゃべり方は聞くに堪えない。二郎の声には角が取れていない人がいいと思いました。庵野の声は人を信用させるところがあるんです」ってインタビューでは宮崎監督は話しているけれど、これがインタビューとして切り取られた言説であることは想像しつつ、それでも過去から続いているプロの声優さんたちへの懐疑と、それに基づくよーなキャスティングのあれこれを思うとやっぱり、そーゆー認識が宮崎監督にはあるんだろーと思うよりほかにない。とはえいいわゆるアクションあり萌えありのアニメに特化してそれにマッチした声を出す人だって、普通にやろうと思えばやれたりする訳なのに、そーした演技も聞かず知らないふりをしてアニメ声優をまず否定。その上で、一般性を出しつつフックとなる声を聞かせ画面へと人をいざなう海外ドラマや洋画の吹き替えの人たちをも、手慣れていると言い切ってしまっていったい誰が宮崎監督の作品に出たいと思うのか。思うのかなあ宮崎アニメだし。そこがどうにも釈然としない。

 手慣れていると感じるのは裏返せば巧みの技を見せているとも言えるんだけれど、そうした技を真っ向否定してみせる監督は、手慣れた仕事で絵を描き動かしてみせる既存のアニメーターたちをも否定しないのかどうなのか。誰もが上を目指し頑張り育んで来たものへの敬意、ってものを示さないのかあるいはメディアが拾い上げようとしないのか、分からないけれどもそーした言説をふりまいて、世間の反感を煽るやり口にはちょっとウンザリしてしまう。それとも誰かがやらせているのか。うーん。分からないけれどもいずれにしても20日には公開されて一般の目に供される「風立ちぬ」。そこでの様々な取り組みというか後退が、果たしてどーゆー印象を与えるのか、注目したいし自分でも確かめに行きたい。さすが宮崎、と喝采を贈れれば良いけれど。やっぱり宮崎、だなんて手慣れた応援だけはしたくない。しちゃいけないと思う。それが宮崎駿監督が育み、そして否定した過去への敬意なのだから。

 「輪るピングドラム」の小説なんかを手がけたらしい高橋慶さんって人の初のオリジナル作品「暗闇に咲く」(幻冬舎コミックス)が巧すぎてそして切なすぎる。表参道で美容師をしていた小夏という男性が母親の経営していた美容室を引き継ぎ店を再開したところにやって来たのが従姉妹の芙美。昔は毅然としたOLだったのが今は髪を長く伸ばして手入れもしないで日々を漫然と過ごしている。なおかつ会社も辞め家を出て小夏の美容室に転がり込んで来る。といっても別に彼が好きな訳じゃなく、別れた恋人がいてずっとその人のことが忘れられずにひとり悶々として生きている。

 小夏は彼女にだんだんと気を引かれているけれど、そんな所に届いた元彼からの手紙。そして芙美は流した涙に包まれて動かなくなってしまう。彼女が心配で愛しい小夏は驚き、焦り元彼という男にも連絡を取って飛び寄せたところ、とんでもない事実が明らかになる。いったいどうしてそうなった。それは悲しみが招いたこと。そして悲しみは1つに留まらず、連鎖して奇妙な現象が起こり続ける。なぜ断ち切れないのか? 戸惑う一方で、それも仕方のないこと、悲しみは悲しみを招くものだからとも思えてくる。あるいは悲しみを抱いてもらえるその身らを、羨ましいとも思えてくる。

 奇妙な現象はなぜ起こるのか? なおかつ世界中で起こり続けるのか? それはだから人がつながっている証。孤独でないことの現れ。引きずり込むような悲劇の波及も裏返せば思われている有り難さなんだろー。世界が満たされればそれは、世界が愛おしさの連なりだということの現れなのかもしれない。だからもし仮に。すべてが止まり生い茂った中で自分ひとりがまだ人として立っていられたとしたら、それは幸せなのだろうか。寂しいことなのだろうか。高橋慶さんの「暗闇に咲く」が問いかけるのは、己が身の孤独と連なりへの渇望だ。とても初の小説とは思えない淡々として的確な描写と、感情が見える会話で紡がれた想愛の物語。皆様是非に御一読を。

 ろくすっぽアクセスもなくそれ故にリアクションをか気にせず淡々と少しづつ日々を積み上げていくだけのこの日記とは違って、とてつもないアクセス数を稼いで万民の関心を誘う中でネタを探してネットは広大だわな海をさまよいさすらって、そーやって得た情報を並べリンクし発信していくのって結構大変だし面倒だし、誰の何をどう取り上げるのかっていった注目もあってプレッシャーにもなっていただろー中を、12年間途絶えずにえっちらおっちら更新し続けたんだから素晴らしい。そんなニュースサイトの老舗にしてトップランナーの「カトユー家断絶」が更新を停止。その足下にも及ばない極マイナーな日記サイトながらもネットで何かを書く身として、その偉業を讃えてここよりありがとう御座いましたと感謝の言葉を贈りたい。アフェリエイトとかで稼げる訳でもないのに続けるのって、よほどの好き者じゃないと出来ないものなあ。意地とか。根性とか。それも萎えがちになる昨今のアフェリ万歳な風潮を、我関せずと続けていけるだけの根性を頑張って僕も育もう。


【7月15日】 こないだ7月に入ったと思ったらもう半分が過ぎてしまってどうしたものかと月日の過ぎる速さを思う。暑くて暑くてひいひい言いながら日中を過ごして夜になり、眠り迎える朝をただ繰り返している感じだけれどそれでも時間は過ぎていき、残る時間は少なくなっていく。困ったものだけれど仕方がない、それが人生という奴だから、後はその限られた時間の中で何をするか、何をすべきかを順位付けして今やるべきことをしっかりと、淡々とこなしていくことしかないんだろう。その暁に掴める何かがあると信じて。まあたいしたものは掴めないんだろうけれど。それもまた人生という奴だから。

 早朝に目覚めて新宿三丁目へと出むき、テアトル新宿で前にチケットを買ってあった「劇場版 空の境界 俯瞰風景3D」を見る。到着するとすでにロビーにはなかなかの人数。もちろん今日の3回分はすべて完売。すごいねえ。でもって明日も完売みたいでその後も夕方とかの回は早くに売り切れになっている様子。もう前に2Dながらも上映されてはDVDも出たりブルーレイボックスも出たりして、誰もが気軽に見られる作品なのにどーしてこんなにも集まるんだ、ってのはだからやっぱり作品自体が持つ魅力と、それを劇場で楽しむというイベントに参加することへの欲求と、あとは3Dというものがどれくらいの効果を発揮しているのかを確かめたい好奇心から、なのかもしれな、僕の場合は。

 その3D効果はというと、2D作品をよくもまあここまで自然な感じの立体視にしたよなあという印象。無理に飛び出すってことはないけれど、見てなるほど肉眼で見ればそう見えるかもしれないという感じの3Dっぽさを、ちゃんと出している。いったいどーやって作ったんだろう。最初から三次元CGでもってモデリングしたものを撮影する際に少しづつ角度をずらしておく方式だった「009 RE:CYBORG」とは違って、「劇場版 空の境界」は純然たる2Dの作画アニメーション。元になるモデリングなんてないんだけれど、それを撮影によって少しづつ、角度を付けたりして重ねていったんだろう。なおかつ自然な感じに止めておく。巧みの技と言うよりほかにない。

 そんな効果を1番感じたのは、両儀式が巫条ビルへと近づいていって見上げた空に9体の浮遊者たちが映し出された場面で、奥行きがあってそして浮かんでいる位置ってのがちゃんと分かるようになっていた。手前へとせり出している浮遊者はちゃんとそう見えるという感じ。戦闘シーンに関しては激しいアクションへとまず目が行ってしまって、手前とか奥行きといった感じはあんまり迫ってこなかったけれど、2D版と比べるとそこは多分大きな違いってものがあるんだろう。でも比べて見る訳にはいかないのが3D映像の難しいところ。つまりは感じるしかないってことで、行けたらまた行って見てこよう、式のパンツとかが大きなスクリーンで見られる機会はそうないし。飛び出て来ないけどね。

 同時上映の「Fateカフェゼロ」の方はといえば、ゆるいキャラになった「Fate/Zeroのキャラクターたちがカフェで戯れながら大袈裟に魔法を使ったり戦ったりしているような日常系コメディ。あるいは「カーニバル・ファンタズム」の岸誠二監督が手がければもっとエキサイティングにドタバタとした作品になったかもしれないけれど、まあ、これはこれで和める作品って言えそう。問題はだから本編前に流れた「Fate/stay night」の再アニメ化の方か。既にスタジオディーンによって2クール分のテレビシリーズが作られ、そして劇場版も公開されていたりして、ひとつ終わった感もあったりする「stay night」が何でまた、ってなるとそれはやっぱり「Fate/Zero」がufotableの手によって作られ、時流にも乗って大層評判を得たから、なんだろうなあ、やっぱり。

 もちろん凄かったし素晴らしかったし面白かったけれどもでも、そんな「Fate/Zero」を讃えるあまりに前の「Fate/stay night」を良く言わない風潮があるってのはちょっと気になる所でもあったり。というのも僕は案外にこの「stay night」が好きで、テレビはずっと見ていたし、DVDも全巻揃えて箱に入れて並べてあって劇場版も見に行って、長さに辟易とはしつつも楽しみブルーレイディスクも買ったりした。つまりはこれはこれでひとつ完成した作品として認めていたりするんだけれど、当時を知らない人たちの中に渦巻く今を神と崇めたい心理が勢い余って過去を悪と誹りたい気持ちを呼んで、その実体以上に評判を下げているような感じ。ちょっと勿体ない。オープニングのタイナカサチさんによる「disillusion」と、そしてそのバックの映像の美しさは、テレビアニメでも屈指の物だと思っているのに。

 でも決まってしまったからには仕方がない、僕の思い出を壊すような言説が飛び交わないことを願いつつ、それでいて驚きこれこそがマスターピースと呼べるような「Fate/stay night」を作ってくれればそれで満足、「Zero」だと巨体をゆっさゆっささせるおっさんなライダーも、「stay night」では顔を隠して髪を振り乱して短くタイトなスカートをものともしないで激しいアクションを見せてくれるお姉さん。むしろこちらを支持したい身にとって、その活躍ぶりを再び高画質で拝めるってのは有り難い。あと賑やかな藤村大河の日常とか、間桐桜の健気で悲惨な日常とか。アイリスはどういう扱いを受けるのかなあ、劇場版の「stay night」だと割と酷いことになってただけに、ちょっと心配。

 まあイリヤの場合は、テレビシリーズが始まった「Fate/kaleid linerプリズマ☆イリヤ」でもってその可愛らしい姿を存分に拝めるから良しとするか、ってしかしいったい何なんだろうなあ、このシリーズ。同じキャラクターを使い魔法という要素は残しながらも世界観はまるで違って、魔法少女が戦うというありがちな設定に落とし込まれている。いわばFateによるコスプレ的な作品って訳でパロディとして楽しめはしても、それ以上の面白さとなるとはて、どこにあるんだろうかと考え込んでしまう。そーゆーのって既に「天地無用!」から「魔法少女プリティ・サミー」がスピンオフして経験しているだけに。まあでも監督が大沼心さんだったり、映像が極めてハイクオリティだったりする所に楽しみもありそう。一足早く遠坂凛が出てきてニーハイ姿を拝ましてくれたりもするし。楽しみつつ待とう「Fate/stay night」の再アニメ化を。何時なんだ?

 劇場を出ると朝方は涼しかったのがすっかりと暑くなっていて茹だりそう。それでもと市ヶ谷まで出て歩いて靖国神社を眺め、みたままつりの灯籠に松本零士センセイが沖田艦長を描いていたりしたのを確認。参道を降りて両脇の縁日を眺めたけれども焼きそばにたこ焼きにお好み焼き牛串にフランクフルトに焼き鳥と焼いたものばっかりなのが並んでいて、このくそ暑いのに誰がそんなもの食べるんだ的な印象を抱く。まあ夜ならそれでも涼みがてら食べたかもなあ、日中に食べるんものじゃもともとないしなあ、ってな感じ。でも暑くなければ焼きそばくらいは食べたかったかも。

 さらに徒歩で神保町へと出て、本屋で筒井康隆さんの最新の日記「偽文士日碌」なんかを買ってペラペラ。今なお売れっ子の筒井さん本人はともかく、売れてないと言われる文芸誌の関係者とかいっぱい出てきては、筒井さんを連れてレストランに行ったりタクシーで送り迎えしたりと大盤振る舞いなのは何だろう、売れることの価値とは違った価値観がそこにある現れなんだろうか、文学の良心というか文学の権威というか。幾ら稼いでもライトノベルの作家がそういう上に下にの接遇を受けるかっていうのも考え会わせて、日本における文学の状況を垣間見たような1冊。昔の筒井さんの日記はSF関係者との交流がいっぱい描かれていて、読むだけでSF状況が分かったんだけれど最新の日記にはあんまり出てこないのは、そういう立ち位置に行ってしまったからなんだろう。そんなハイブロウな交流に混じり登場して、「太田が悪い」と言わせる太田克史さんはやっぱり凄い人なのかも。最近姿、見てないけど。


【7月14日】 やっと見たけど「銀河機攻隊マジェスティックプリンス」の最新エピソードで、クロキ・アンジュはやっぱり男の子なのか女の子なのか分からず仕舞い。まあでも可愛いなら正義ではあるんだけれど、ヒタチ・イズルと格納庫で会話している時はおどおどとして大人しそうな性格なのにいざ、戦場へと飛び出しイズルを狙う敵ウルガルのジアートを相手に戦い始めると豹変して悪口雑言まき散らし、突っかかっていく姿にはちょっと引くかも。とはいえ相手は歴戦の戦士でとてもかなわず、もはやこれまでとなったところでバーサーカーすら超えて彼女のために良い所見せたいと張り切ったイズルのアッシュの魔人バンダー化によって、ジアートも攻めらなくなりかといって引きもせず、戦場は一気にヒートアップしていく。

 そこでイズルのアッシュがマグネット・コーティングされていないのかイズルの動きに付いていけず、あちらこちらがヘタりかけてそこをジアートに衝かれかけたその時、我らがチームドーベルマンが復活して射撃を加えてジアートを退かせて一件落着。やっぱりアンジュは男の子か女の子だが分からないまま次回へと続くのであった。ずっとトップで突っ走ってきたアンジュが、チームラビッツではリーダーとは言え個性皆無なイズルの豹変と圧倒的な強さを見ていったいどう変わるのか、やっぱりそこは惚れるのか、だとしたらいよいよ明らかになるかもしれないその身体、だけどあれだけ可愛いならどっちだって良いような気すらして来た。でもイズルはテオーリアが好きそうだしなあ。告白しても自分にはと言われ、降るか血の雨、そこにクギミヤ・ケイはどう絡む?

 明日で終わってしまうそうなんで、ビスト財団へと伝わることになっている「貴婦人と一角獣」のタペストリーを見に国立新美術館へ。同じ館内で開かれているアンドレアス・グルスキーの展覧会をいっしょに見ても、割引がたったの100円だけとはまた吝嗇なとは思ったけれど、どうせあそこは国営巨大貸画廊、上でやっている展覧会と下でやっている展覧会に連動性なんかなくって、それぞれが違う主催の元で開かれているのを一緒に見るからといって、割引してはいったい誰が損を被るんだって話になってしまうから、100円ですら割り引くのでも大盤振る舞いってことなのかも。相互に連携して人が見に来る内容の展覧会でもないしねえ。

 いやそれが案外に通じるところがあるかもしれない「貴婦人と一角獣」展と「アンドレアス・グルスキー」展。まず「貴婦人と一角獣」で見せているのはひとつひとつが微細な糸を織り上げていくタペストリー。それは作っている過程ではまるで見えない絵でもあり、完成したものでも目を近づけて細部を見れば、そこにあるのは様々な色をした糸が縦横に重なり合っているだけ。けれどもぐっと目を引くと浮かび上がる美しい中世のビジョンたち。ミクロでは無名の集合体が、マクロ的な視点からは意味あるものとして映るというその構造は、例えばシカゴの商品取引所で働く人たちであったり、マドンナのライブに来ている人たちであったり、香港上海銀行の部屋で働く人たちであったりとそれぞれに人生があり、家庭があり運命があって生命がある者たちが、ぐっと引かれた視点では単なるパターンを構成する因子へと塗り込められてしまうアンドレアスグルスキーの写真たちと真逆で面白い。

 無を有へと昇華させるタペストリー。有を無へと還元するアンドレアス・グルスキー。さらにぐっとひいて宇宙全体を見渡した時、そこには何か絵画的なビジョンが見いだされるのか、それとも単なるドットの集まりに過ぎないのか。なんてことを相互の展覧会から見て感じることもできるんだけれど、そういう面倒くさいことを考えたところで世の中的には何の意味もないからなあ。つまらないものだよ想像って。んでまずは「貴婦人と一角獣」。フランスで19世紀になって発見されたというタペストリーを、作家のジョルジュ・サンドは想像の仲でオスマン・トルコだっけかの王子様が求婚のために作らせた品だとか書いていたそうだけれど、実際はビスト財団ならぬ貴族のヴィスト家が作らせたもだとか。何のために? それは秘密、じゃなくってやっぱりあんまり分かってないようだけれど。

 長く埋もれていて突然発見されるなんてどこか怪しい、新しく作らせたのをエイジングによって古く見せかけ持ち主の来歴を格上げしようとしたんじゃないの、なんてギャラリーフェイクな妄想も浮かぶけれど、そこは19世紀にフランスの政府も買い上げる以上はちゃんと調べたはずだから、少なくとも1500年代に作られたってことは本当なんだろう。でもってその内容も乙女には従うユニコーンをかたわらにおいた貴婦人の持つ純粋で純潔な生を称揚して語ったもの、だって思うけれども本当のところは誰にも分からない。だから想像の余地を生んで大勢の人を引きつけるんだろうなあ、福井晴敏さんとか。あとは会場に見られた長身で眼鏡なナードっぽい風体の女性たちとか。キュンキュンくるもん見ているとその乙女回路に。

 しかし他の部屋に並べられた同時代の作品に比べて、貴婦人の顔が現代風な美女ってところがやっぱり気になる。もっと図式化されてたっておかしくないのに妙に写実的。ルネッサンスを経ているとはいえ中世のフランスで描かれ得る絵か、って思った時にやっぱり浮かぶさまざまな妄想。まあでもやっぱり普通に1500年頃に作られたんだろう。それはそれとして、だったらどーして19世紀になるまで埋もれていたのか、ってのは気にかかるけど、いずれにしても傑作であることには違いない。それが見られた数カ月、日本は幸せだった。貸してくれてありがとう、フランス様。御礼は「機動戦士ガンダムUC」のアニメーションの完結で。いつ完成するんだっけ最終巻。

 そしてアンドレアス・グルスキー展。いやあ面白い。小柴正俊さんがニュートリノを発見したという岐阜県にある実験施設、カミオカンデに並ぶ丸い装置を俯瞰して大写しにしたキービジュアルなんかが表しているように、ひとつひとつは装置としてちゃんと意味を持っていても、それが連続して置かれ並べられているマクロ的な視点では、どこか構築的で無機的なパターンと化して混沌の中へと埋没してしまう、そんな作品が幾つも並べられていて面白かった。例えば北朝鮮でのマスゲームとか、1人1人の少年少女に大人たちが作り出すパターンの壮麗さはそれとして、1人1人が部品とされてそこに参加者とは無縁のおそらくは国を讃え権力者を讃えるビジョンとメッセージが描かれる。この理不尽。けれどもそういう集合が世界を作り出しているのだという警句。いろいろと思い浮かんでくる。

 興味深いのはグルスキーが決して平壌でもってそうしたビジョンを会得したんじゃなく、1990年に来日した時に見た東京証券取引所の立会場で忙しく動き回っては、謎の手サインをして株式を取り引きする証券会社の市場部の人たちを見て撮ってそこから始まったのだということ。折しも日本はバブルが崩壊しかかってはいても、経済的には絶好調だった時期にあって、立会場に渦巻く熱気は半端ではなく、見ればいったいそこで何が行われているのか、分からなくても何かが行われているような感じだけは伝わってきた。けれどもグルスキーは、そうした1人1人の熱量も、人数が重なり群衆となってそしてドットのレベルへと還元された時に、ただのパターンとして繰り返しの中に還元されていってしまうと感じたたしい。

 そこではまだ寄り気味で人の表情も伺えた写真は、シカゴの商品取引所へと移った時にぐっと引き気味になって、個人よりも群衆であり、その集合体が醸し出すパターンがより際だって写し出されている。大勢が働く銀行に大勢が暮らすアパートか何か、あるいはマドンナのライブに集まった観衆とかメーデーに集う労働者といったものを遠景としてとらえるなり、大きく引き延ばした写真も同様に、細かく見れば命であっても群衆となればただのドットという、その警句とも諦念とも似た思考って奴が感じ取れる。

 かつては峠だとか風景だとかを大きく撮ってその自然が生み出すパターンへの関心を示していたアーティストを、東京証券取引所の群衆の姿が変えたとしたらいったい、何がそこにあってアーティストは何をそこから感じ取ったんだろう。熱気の裏側にある不安か。血気を持ってもしょせんは駒に過ぎないという人々の諦念か。いつか聞いてみたい。自分がまさに1990年から2年間、その東京証券取引所で毎日のように忙しく立ち回る場立ちの人たちの姿を上から眺め、路上に溢れる姿とすれ違って来ただけに。僕には見えず感じず、アーティストに見えてそして感じたこと。そこがだから差なんだろうなあ、羽ばたく人と、はいずり回り続けるだけの人間の。

 他の写真ではあれはいつのグランプリだろう、F1のピットで右にホンダ、左にトヨタがそれぞれピット作業をしている上には貴賓席があってお偉いさんたちが家族も含めて見下ろしていたりする横長の写真が上に個々の人の表情とか期待感がわき上がり、下にピット作業に気を抜けず取り組む作業員たちの真剣が滲んでそんな対比が1枚に収められていて面白かった。どっちも相手のことなんて知っちゃいないだろうその断絶。けれども同じ場にいて同じF1というものに取り組んでいるというその融合。それはたぶん、階層化されて互いに絡み合うことのないままに、ひとつの社会を形成して転がっていく人間たちの姿をも現しているんだろうなあ。でもってそんなピット作業の真ん中にあって1人はこちらを向き、もう1人は後ろを向いたグラマラスな美女は分断される世界を見つめる女神たち、と。どっちの世界からも手の届かない。不思議な構図。よく撮ったものだよ。

 会場を出て吉祥寺へと向かい30TでもってTシャツ漁り。最初にどえりゃあ(名古屋弁でとてつもないの意)行列ができていて入場制限でもかかっているのかと並んでいたら、どーやら江口寿史さんのTシャツを買うための整理券をもらう行列だったみたいで、見れば人数的に間に合った気もしたけれども「ストップ! ひばりくん」なら前に1枚、真筆の絵を買ったんでもういいという気もあってそこは遠慮し、場内に入って立花満さんが忙しくシャツ整理をする姿を見つつ、今日は中田舞子さんという、イラストレーターらしい人が描いた絵が前面にフルグラフィックされたTシャツを購入する。何かゴージャス。有名漫画家のシャツも悪くはないけれど、それなりに知られながら世間にはまだ一般的じゃない人のシャツもいっしょに並べられて変えるのがこの30Tの面白いところ。むしろそういう人を積極的に買っていきたい気分もあって通い詰めていて、今年はこの1枚を選んだ。期間はまだあるけれど枚数も減ってきているし、また行けたら行ってなにかあったら買うかなあ、といったところ。帰りがけに路地にあるカツ丼屋でソースカツ丼を食べる。美味かった。


【7月13日】 あっちに飛んだりこっちに戻ったりしながら川上稔さんの「境界線上のホライゾン6(中)」(電撃文庫)を読みつつ眠りつつ、巨乳防御の真髄について思考を廻らせつつやっぱり謎は解けずしている中でふっと目をあけると、予約録画になっていたテレビがついて何やら目新しいビジュアルのアニメーションをやっていた。それは「輪るピングドラム」みたいに図式的でそして少女漫画のようにポップで、派手に動く訳じゃなくポイントポイントで動くだけなんだけれど紙芝居というにはカラフルな感じにいった何だろうと見ていたら「ガッチャマン」だった。そんな莫迦な。

 「ガッチャマン」といえばアメコミタッチに暑苦しく、SFタッチにスタイリッシュでアクションシーンはスピード感があって昨今のアニメとはちょっと違うし、見ているアニメとは正反対くらいに違うビジュアルとストーリーを持った作品。それがどうして「ガッチャマン」? きっとどこかに「ガッチャマン」の魂が込められているからだろう。どこ? それが分かったらきっと1本、論文が書けるんじゃなかろーか。うん。まあそれはそれとして、いよいよ始まった「ガッチャマンクラウズ」は過去にタツノコ作品のリメイクってのが結構されて、それでも元ネタとなった「キャシャーン」や「テッカマン」なんかのスタイルを維持しつつ現代的にブラッシュアップされていたのとは正反対というかまるで路線を違えるかのように、タイトルだけが「ガッチャマン」を受け継ぎ共通するのはプロテクトスーツみたいなのを着るといったところくらいで、あとは空も飛ばなければ科学忍法火の鳥も使わずただスーツ姿でバトルするといった感じ。

 立川をご当地にしてそこから大きく逸脱することもなさそうで、時には世界の命運をかけてギャラクターと戦ったガッチャマンたちからすればお前ら何を引きこもっているんだって言いたくなりそうだけれど、今は世界なんて救う前に地域の問題を解決する方が全然先。それくらいに地域には難しい問題が山積みで、それを晴らし導くことが支持に繋がり、アニメ全体の評価にもつながるんだろう、ってそれはないか。まあいいや。ともあれ始まった以上はどういう展開でどこに帰結するか、見守るだけは見守ろう。八王子を征服から守る「黒いチューリップ」とは共闘しないのかなあ。

 家にいても蒸し焼きになるだけなんで宅配便を受け取り郵便局で荷物を受け取った後は電車で越谷レイクタウンまで行ってそこに来るらしい「TEMPURA KIDZ」ってののパフォーマンスを見に行く。あのきゃりーぱみゅぱみゅのバックでキレのあるダンスを踊っていた子たちが独立しつつ同じまいこさんという振り付け師の振り付けでもってダンスを踊るユニットで、きゃりーのステージ上と変わらぬ切れ味の鋭さに加えてコミカルさ、シュールさも持った雰囲気が何か独特で、そのいかにもなネーミングとも会わせて国内のみならず海外でのヒットなんかも狙っていそうな雰囲気があったりする。でも単独でのその活動はまだ見たことがなかったんで良い機会だと赴いた越谷にイオンが作ったレイクタウンはとにかく巨大。船橋にあるららぽーともまあ巨大だと思ったけれどそれが4つ5つかたまって連なったような巨大さがあって、駅から降りてエスカレーターに乗って中に入ってから、目的とする広場まで辿り着くのに軽く1キロは歩いたんじゃんかろーか。

 それは大袈裟だって? いやいやmoriと呼ばれる奥のモールだけで縦に500メートルはありそうだし、その手前にたっているkazeと呼ばれる建物も斜めに横切れば400メートルとかはありそう。間の通路なんかも足して途中をフラフラすればやっぱり奥まで約1キロ。そんな建物の1番奥にある店の人はたぶん、1番手前にある人よりも15分ははやく入らないと同じ開店時刻だとしたら間に合わないかもしれない。きっと理不尽だと思っているだろうなあ、同じ建物に勤めていてそんなに違うんだから。徒歩手当とか出して欲しいとすら思っているかも。まあでもその分、ダイエットにもなると思えば良いんじゃないか、っていうかそうでも思わないととてもじゃないけど毎日毎日歩いていられないかも。それくらいに凄い建物の中をまずうろうろし、佐野実さんが店長らしいラーメン屋で塩ワンタン麺を食べてそして時間を潰してから始まったTEMPURA KIDZを見たら1人足りなかった。

 普通は5人。だけど4人。どうやらKARINって娘が前日の連取で腕を痛めたそうでダンスには参加せずトークイベントと握手会には並んでた。吊ってたくらいだから結構ダメージはあったのかな。まあでもこれからのユニットだけに早く直して参戦して、5人が揃ってダンスするところを見せて欲しい物。しかし新曲の「はっぴぃ夏祭り」って曲はそれ自体もお祭り気分だけれど着ている衣装が法被をベースに褌、じゃなかったお相撲さんがつける化粧回しのミニチュアみたいなのを前に垂らしてそこには天麩羅の刺繍がしてあって、そして背中にも土俵入りの横綱が腰から伸ばしているようなループをたすきの後ろから延ばしていたりして、もう和風に絢爛としたイメージが全開になっていた。このいかにもさも海外受けを狙っているんだろうか。日本人の目にはちょいキッチュ過ぎるって思えなくもないけれど、子どもはそうした大袈裟なくらいがちょうど良いみたいで小さい子とかがいっぱい来て見てた。やっぱり憧れるところがあるんだろうなあ、ダンサーに、あるいはきゃりーぱみゅぱみゅに。

 なんかテレビCMにも曲が使われたそうで、何かと思って見たらピザハットのCMにキッチュな恰好で出演してはあの牧原敬之さんの名曲「どんなときも。」をちょい替えた歌詞でもって宣伝の歌を歌い踊ってた。インパクトだけは十分。ピザハットだっけピザーラだっけ、カニの恰好をした子どもが踊っていたCMがあったけれどもそれを幾倍か濃くして賑やかにした感じ。つまりは相当に記憶に残りそう。その上にマッキーの名曲だから。なお舞台で見せたパフォーマスではちゃんとした歌詞でもって歌われていたので聞いて世代によっては懐かしさを感じることだろー。「就職戦線異状なし」の展開を思い出しバブル時の入社の楽しく厳しいさまとか思い出して。どーしてこの映画、DVDとかでパッケージ化されないんだろーなー。それが不思議。

 会場を出て1キロくらい戻って電車を乗り継ぎ秋葉原へと回ってアーツ千代田3331で今日から始まった八谷和彦さんの自主製作飛行機プロジェクト「Open Sky3.0」の展覧会をのぞいたら八谷さんが自分でレクチャーしていた場面に行き当たる。ラッキー。過去に何度もプロジェクトの経過は見てきているんでそれがどこまで進んだか、ってのを確認するためにのぞいたようなものだったけれど、どーやらジェットを積んで数メートルだけ浮きつつほぼ地表を滑空するような感じにまでは来たみたい。さすがに大空を自由に飛び回るところまでは達しておらずそれには安全性の面もそして資金の面もいろいろ壁はありそーだけれど、昨今キックスターターで「リトルウィッチアカデミア」の続編の資金を募ったら15万ドルの予定が30万ドルも集まりまだ増えているとかで、世界を相手に面白さをアピールできたらお金も集まりそうなそんな気がして来た。アラブの王子様とか出してくれないかなあ。自家用飛行機よりこっち乗りたいとか行って。

 そして会場では八谷さんも参加し空に心を奪われた者たちが自分たちの手でロケットを飛ばしたいと集まった「なつのロケット団」によるプロジェクトの軌跡を紹介する「すすめ!なつのロケット団」という展覧会も開かれていて会場手間で盲導犬への賛意を訴える加藤茉莉香さんのポスターを眺めつつ入ったそこにはカラフルなロケットが立ち並び、そして上がらないまま地上で燃えた「ひなまつり」というロケットの残骸、とまではいかないまでもその名誉ある負傷姿が展示されていたり、そんな爆発的燃焼か何かで燃えたあさりよしとおさんのデジタルカメラが展示されていたりして個人が集まりロケットを作る苦労ってものが偲ばれる。

 でも素人が遊んでいるって肝心じゃなく誰もが真剣でそして本気。なおかつ前向きに宇宙へとロケットを飛ばす日を夢みて勉強の成果を競い技術の進歩を確かめ合っている。何と格好いい。僕にとっては誰もが見知った名前の人たちでそこにホリエモンというお財布と頭脳を両方持った人員も加わって有望さも確実さも感じられるプロジェクトなだけに、もっと世に知られお金も注目も集まる中で、空へと飛ばして欲しいけれどもでも、失敗するのもまた楽しい。それも経験。ひなまつりがひ●まつりになった3月の失敗を受けて次に作るのは本気に本当なロケットになってくれると信じて待とう、その打ち上げを。今度は誰のカメラが燃えるのか。燃えないってば。


【7月12日】 昨日にREBECCAの懐かしいライブの様子が収録されたDVDが再プレスされるって知って注文したソニー・ミュージックエンタテインメント系のオンラインショップ上にあるオーダーメードファクトリーってCDとかの復刻の希望を集めて、それが一定数量に達すれば復刻するサイトでしばらく前から復刻の希望が上がって、その投票が結構な数に達していた「てつ100%」ってバンドのファーストアルバム「てつ100%」が遂に復刻までの最終ステージへと上がってきた。システムだとまずそこへと上がるだけでも結構な数の投票を要求される訳で、そこをどうにかクリアしての予約スタートに世界の菅野よう子さんファンはもう何も言わずに応募するしかないんじゃなかろーか。えっ何でそこで菅野よう子さん? ってそれは菅野さんが「てつ100%」のメンバーでありだいたいの作っていたから。それがいったい今の楽曲とどう重なっているかは実は当時あんまり聞いてなかったんでよく知らないんだけれど、だからこそ聞いてみたいって気持ちもあるんで是非に皆さん予約して、復刻を決めてやって下さいな。セカンドアルバムの復刻に向けた投票もスタートしているんで是非に。

 唖然とするしかないなあ、やっぱり。夏の甲子園大会に向けて各地区で予選とかが始まっていたりするんだけれど、この歴史に残るような炎天下ではやっぱり起こる熱中症。内陸部でいろいろと暑さも激しい埼玉県の大会なんかでも11日に投手が倒れ外野手に内野手も熱中症から交代していたりするんだけれどそれを受けた監督のコメントがもう酷い。「筒井一成監督は『試合で倒れるなんて初めてです。何をやっているのか』とあきれ顔だった」。(日刊スポーツより)。何をやっているかじゃないだろう、何をやらせているんだお前はって声がもう全国から浴びせられても不思議じゃないくらいに、身勝手で選手のことなんてまるで考えていない暴言なんだけれど、それに対して一切の不思議も付かず非難めいた言葉も入れないで、選手がただたるんでいるだけだってなトーンを垂れ流している。

 監督も不思議なら新聞も不思議。普通だったら世界の健全は俺たちが背負っているんだって感じで筆を振るう朝日新聞とかも、こういう所では何も言わないし言うはずがない。だって主催者なんだから。別の球場でも何人かが倒れたようだけれど、それに対して埼玉県の高校野球連盟の専務理事とか言う人は「ちょうど期末試験が終わり、体が慣れていないんじゃないかな。対策を考えないと。毎日これでは困る」と話したとか。おいおい困るってお前がそういう態度だから選手たちが困っているんじゃないか。どうして炎天下で試合なんかしなきゃいけないんだって言いたい人だっているに違いないんだけれど、そーゆー声を新聞が拾うことはないし、テレビが伝えることもない。だって運命共同体なんだから。これでもし亡くなる子とか出たらいったい、誰が責任をとるのか。「何をやっているんだ」と遺体に向かって雑言を放つのか。「これでは困る」とむち打つのか。やりかねないから困ったもの。春の大会での1人の投手による多投連投もそうだけれど、どこかで誰かが何かしないと動きそうもなさそうで、そして誰も何もしなさそう。いつか来るその日。それでも動かなかったらこの国は……。頭が痛くなってきた。

 サッカーも夏に試合がない訳じゃないし、昼間にだってやっていたりすることもあるし実際、女子サッカーだと一頃は8月の日曜日の午後1時からとかにやっていたりしたから高校野球のことを言えはしないんだけれどただ、毎日試合がある訳じゃないし試合の途中にピッチの周囲に置かれた水筒から水を飲んだりしてしのいでいたりする。2002年の日韓ワールドカップ大会の時にいっしょに開かれた知的障害者の代表選手たちが集う「もうひとつのワールドカップ」では、そんな給水をうまくできない選手たちも中にはいるだろうって配慮から、試合の途中に給水タイムってのが儲けられて審判が試合を中断して、選手たちに給水するように求めていたっけ。見てなるほどなあと思ったけれど、この給水タイムってのが最近は、プロとか代表の試合なんかでも認められて来ているようで、ドーハで開かれる2018年のワールドカップの時にはそれが大会として正式に導入されるんじゃないかって話も出ていたりする。その意味ではちゃんと配慮はされている。根性で勝てる相手じゃないから、熱中症は。けど勝とうとするなり見ない振りをしている高校野球。どうなってしまうのか。どうもならないんだろう。どうにかならない限り。怖いこわい。

 せっかくだからと吉祥寺で11日から始まった「30T」というプロのイラストレーターとか漫画家の人が作ったTシャツを売るイベントをのぞいてみたら、割と人がいっぱいいて、そしていしかわじゅんさんが普通に立っていた。驚いた。いやあいるものだ。何でも江口寿史さんが「ストップ! ひばりくん」が描かれたTシャツを出すとかでそれを目当てに結構な人がつめかけ整理券まで出たようだけれど、そんな時間にいられるはずもなく、とりあえず一昨年の1回目から見てこれはと思った、何か不思議な画材でTシャツに直接絵を描く立花満さんの作品から1枚、たぶん星座のうお座か何かが描かれたものを手に取りそれからぐるっと見渡して、どれを買ったらいいか分からなかった中でちょっと目立った空山基さんのシャツを1枚、手にとってレジへと運んだらたぶんそこには偉い漫画かイラストの人がいたはずなんだけれど、分からないからそのまま会計をして外に出る。今年はこれで終わりかなあ。でも見渡すと山田雨月さんの細かい絵が描かれた物とか後藤晶さんってエロ漫画がメインの人の格好いいのが出てたんでまた行って買うかも。混雑する時間は割けないとなあ。でも今年は例年以上に人が多そうなんだよなあ。

 居場所ってどうやって見つけるんだろう、って迷っている人は結構いたりする物で、そこが自分の居場所なんだからと堂々として誰の目も気にせずいられる神経の太い人ならいざしらず、昔から自分ってここにいても良いんだろうかと思い続けて来たりすると、たとえ親切にされてそこにいても良いんだと言われても、やっぱり本当に心からそう言ってもらえているんだろうか、もしかしたら気の毒がって同情してくれているだけで本当はいない方がいんじゃないんだろうかという迷いに陥ってしまう。それは裏返せば自分が誰かにそこにいて欲しいと思ったことがない現れでもあったりして、必要としているから必要とされているんだという相互の関係に気づけないまま、迷い悩み佇んでは孤高に喘ぐ。

 英アタルさんの「ドラゴンチーズ・グラタン2 幻のレシピと救済の歌姫」でアイソティアって竜との混血だったっけ、そんな属性を持った少女のアトラが陥っている立場がまさにそんな感じ。前の巻でレミオって少年と知り合い、彼が勤めるレストランでウエートレスとして働くことになってもやっぱり、自分で壁を作ってしまって馴染めない。そこに現れたのがどうやら彼女と昔友人だったけれどもいつの間にか消えてしまったネフィスって少女。とうか本当にネフィスなのかも分からず彼女も記憶が曖昧になっているその後ろに、仮面を被った怪しげな人物のギルバルトがいてレミオやアトラたちの暮らす街に奇妙な病気をもたらす。これをどうにかしないと街が大変なことになってしまうと、レミオは持ち前の食に関する知識を総動員して病気を抑える薬を作り出そうとするけれど、そこに裏で暗躍してそうなギルバルトが介入してきてバトルが始まってしまう。

 レミオはエリクサーという薬を手に入れられるのか。アトラはネフィスの心を取り戻せるのか。彼女に手を差し伸べたいけれど、それには自分の居場所がなければだめで、だから迷って延ばした手を引っ込めてしまったアトラに周りが憤り、嘆き哀しみそして真底から言葉を向けて居場所を作って上げる展開が心に染みる。誰かに言って欲しい言葉。そして誰かに言ってあげたい言葉。そんな相互の関係から世界面取り計画も成就へと向かい進むんだろう。ラストに意外な展開もあって新たな冒険が始まりそうだけれど、そこにあるのは平穏? それとも更なる危機? ますます続きが楽しみだ。


【7月11日】 何の気無しにソニーミュージックダイレクトの「OTONANO」って名前の、文字通りにもう大人になってしまった世代が見て聞いて喜びそうなアーティストたちのCDを復刻とかしてボックスなんかにもして販売するサイトを見ていたら、あのREBECCAが1985年って割に早い時期に演ったライブを収録したアルバム「REBECCA LIVE’85 〜MAYBE TOMORROW TOUR〜」ってのが出るって告知が出ていて、買おうかどうしようかちょっと迷う。この時代のNOKKOはデビュー当時から聞かせてくれていた、パンチがあってストレートに声を出す歌い方が確かまだ残っていて、そこに表現力なんかも加わってもう全盛の勢いって奴を感じさせてくれていたんだった。

 つまりは僕が大好きなNOKKO。東名商事がスポンサーになっていた名古屋のローカル歌番組に出て「ウェラムボートクラブ」をスタジオで歌った姿に惚れて即座にファンになった、あの稀代の女性シンガーの姿にもう一度お目にかかれるっていうか、CDだからお耳にかかるっていうのか、ともかくまた出会えるアルバムになっていそうで買うべきなんじゃないか、って声が脳内に響き渡る。これがもうちょっと後期になると歌い方に癖が入って囁くような謡かも混じって、ちょっぴり今のNOKKOに近い感じになって来て、それもそれで嫌いじゃないんだけれどやっぱりね、初期のあのパワフルさって奴が忘れられないんだ。そーゆーREBECCAファンって少なくないと思う。ただやっぱりCDってところがネックで、ライブはどうしても映像で見たいっていうのが本音。LPレコードの頃ならそれでも音だけでライブの雰囲気を体感できたけど、映像が発達してしまった今、音だけのライブアルバムってものをどこまで聞き込めるかっていったところで気持ちに迷いが生まれる。

 だからどうしようかと迷いつつページをスクロールしたら何と! 2011年だかにオリジナルの企画として発売されて話題になってすぐに売り切れてしまったらしー「REBECCA ARCHIVES」ってのが再発されるとあった。148ページもあるカラーのブックレットも凄いけれど、それ以上にメインコンテンツとなるDVDが凄過ぎる。「FROM THEFAR EAST」という1987年の横須賀新港埠頭であったライブに、音楽番組の「LIVE TOMATO」に関連して1989年のクラブチッタ川崎で行われた公開録画、そして1989年にあった早稲田大学学園祭のライブの模様を2枚のDVDに収録してあって、中期から後期にかけてのREBECCAのビッグスケールではないけれど、その分だけそれぞれのパワーが遺憾なく発揮された映像って奴を目の当たりにできる。この頃はどんな歌い方だっけ、そこの記憶はないけれどでも見ればきっと思い出すし、映像があればさらにそのパワフルさと美しさも際だってくる。もう買うしかない、って注文したけど果たしてどんな姿が見られるか。良ければ勢いでCDも買っちゃうかな。どうしようかな。

 絶望するというか戦慄するというか、女性向けの雑誌が女子大生をカテゴライズしてその属性なんかを語る記事を作った上で、そうした属性を「女子大生カースト」といった言葉で定義していたりするらしい。これで世間も無反応だとさすがに怖いけれど、記事なりそうした記事があるって紹介なんかを読んで、いろいろと異論を感じている人が割といたりするのはまだ救いか。元よりカーストというのはインドのヒンドゥー教における身分制度みたいなもので、詳細を分けるとカーストが本来意味するヴァルナという4種類の姓があって、さらにジャーティというもっと細分化された区別があってそれらが縦軸横軸的に絡み合って複雑な階層というか分布なんかを形成しているとか。卒論をインド史で書くときにいろいろな本を読んでそういうもんだと教わった。中国史が中心の学校で何でインド史なんだ、ってのはまあ、昔からへそ曲がりだったってことだ。

 でもってそんあヴァルナ=ジャーティ制度が現在においても差別をもたらす区分となって、インドの人たちを縛り付けていて、どうにかしたいと政府が思っていろいろやってもやっぱり生活に長く根ざした慣習なり認識として、払拭できずそして差別がもたらす攻撃なんかも招いていたりするという。つまりは現在進行形で差別を意味していて、なおかつ弾圧から人死にまで読んでいるようなカーストという制度であり言葉を、日本人が安易に日々の暮らしの中に持ち込んで使うのはどうなんだ、ってのが議論の中心。単に区別の言葉として借りているだけだとしても、そうした言葉が本来意味しているインドの状況を知ればやっぱり使えるものじゃないし、逆にインドの厳然とした差別を認識して使っているんだとしたら問題はもっと根深くなる。

 というか日本にだってかつて「士農工商」という言葉でもって意味される身分の区別があって、差別もあってそれが明治に入って解消されてもやっぱり残った差別が、長く大勢の人を苦しめた。それへの反攻であり反省から今、表向きは職業的な区分けに過ぎない言葉であっても、それに付随して語られた差別を意識して「士農工商」を階層的な区分に用いることはないし、やろうとしたら止める人も大勢いるだろう、そういうのに敏感な出版業界なら。でありながら「カースト」は平気で使う。相手が何も言ってこないからなんだとしたら、つまりは「士農工商」は相手が言ってきたから使わなかっただけって話になって、それによってもたられた様々な苦悩への配慮なんかじゃなかったってことになる。そうなのか。そうじゃないと信じたいからやっぱり出版の世界に暮らす人、そしてあらゆる人には安易に「カースト」なんて言葉を使って欲しくない。

 多用することでそうした状況への啓発になるんだという意見もあるかもしれないけれど、一方で濫用されることで現実の苦悩への想像力が失われ、且つ流用された現場での苦悩が軽く見られてしまう可能性もある。それはライトノベルでひとつのジャンルを指し示しつつある「スクールカースト」という言葉の多用に現れているような気がする、ってのはまだ少数派かもしれないけれど、僕はそう思えてならない。だから僕自身がレビューなんかをする時は、ライトノベルでもそうしたカテゴライズは極力避けて紹介しているんだけれど、でもなあ、多勢に無勢でかなわない。どうしたものか。せめてだから「女子大生カースト」って言葉へのリアクションが、大きくなって想像力を喚起して、多方面へと波及して欲しいもの。どうにかなるか。

 窓際なんで言われたことはしなくちゃいけないんでホテルで開かれた炊飯器の新製品発表会に行ってそこで14万7000円とかする炊飯器の最高峰を見せられて目眩がする。そんな値段になっていたんだ炊飯器。何しろ実家じゃながくお釜みたいなのをガスレンジにかけて炊いていたし、その後もパッチンをスイッチを動かしてあとはバネ仕掛けみたいな感じに戻る間に炊ききるようなガス炊飯器を使っていたから電子炊飯器というものの凄さもおいしさも分からない。それこそ飯ごう1つあればご飯くらい炊けてしまう人間にとって、なんで10万超えるような機会がたかだかご飯を炊くのに必要なんだ、って思ってしまうけれども実際に食べるとこれがベストな炊き加減になっているから凄いもの。薪を割る必要も竈を番する必要もわらをくべて蒸らす必要もなく長ける最高のご飯。そのためには14万7000円を払っても惜しくないって人がいて不思議はないのかもしれないなあ。勉強になった。世界は進んでいる。僕の懐が追いついていないだけで。


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