縮刷版2013年4月下旬号


【4月30日】 相当にデリケートな話で、間違えたらそれで食らうリアクションも相当ありそうな話を掲載する時に、ありもしない話をでっちあげたり、パッチワークのように言葉を継ぎ接ぎしてストーリーを作って掲載するなんてことを、日本のメディアだったら割と平気でやってしまって、それで起こった被害者によるリアクションも、大手メディアの壁の前に跳ね返されて泣き寝入り、なんてこともあったりするけれど、そんなことは言ってないって裁判を起こされて、本当にそうだったってことになって敗訴した日には、会社がつぶれかねない訴訟大国アメリカでは、デリケートな問題については慎重に内容を吟味し、言葉を精査し、法務にだって問い合わせて、掲載に至るってのが割と普通だって聞いたことがある。

 だから、アメリカの新聞のニューヨークタイムズが猪瀬直樹東京都知事の五輪招致に関して、イスタンブールが立候補しているトルコとかイスラムの国とかを対象に、いろいろ言ったってことを載せた記事が出回り始めた時に、これはやっぱり本当に言ったんだろうなあと受け止めていたけれど、世のそれなりに立場も知性もある人たちが、あれはニューヨークタイムズの反日気質が猪瀬知事をハメようとして作りあげたストーリーだとか、日本を貶めようとする陰謀だとかいった反響を見せていたりして、やれやれって困ったものだと感じていたりしたら当の猪瀬知事までもが、そういう話はいってないんだ勝手にストーリーを作られただけなんだって、ニューヨークタイムズの非難に回ったから驚いた。

 でも、そこは流石のニューヨークタイムズ、盤石の態勢でもって掲載に臨んだことを宣言したら、国内のメディアに対しては捏造するな勝手なこと書くなと言って通じる話もさすがに通用しないと感じたか猪瀬知事、一転してすいません言葉足らずでしたごめんなさいと謝ってみせた。だったら最初っからそうすればいいのに、逃げ切れると思ってしまったところに自身の持てる資質の範囲ってものが見え隠れ。やっぱり無理なんじゃないのかなあ、招致活動もそして都知事という要職も。一方で日ごろから付き合っている日本のメディアが、そうやって捏造牽強付会何でもありの報道をしていて、怒られて謝ってあとは誰も責任をとらないなあさを見せているってことが、浮かび上がってしまったとも言えそう。

 実際にありもしない話を書いて名誉毀損で訴えられて敗れた人間が、時の最高権力者にインタビューしてその言葉を伝えているんだから何をかいわんや。言葉も軽けりゃ紡ぐ人間も軽いというか、舐められているとうか安く見られているというか。そんな人間ばかりを周囲にはべらせ悦にいってる時の最高権力者が、いろいろ立ち回って見せているけど見てくれだけを気にしてぶち上げそして、周囲の子飼いを使って情報を良い方に持っていこうとしたって、本当に見ている海外なんかのメディアは本質を掴んで、悪い部分を引っ張り出してくるだけ。その結果起こることはいったい何? 国益を損ないかねないそんな状態を、けれども国内では国益の守護者として持ち上げる。支離滅裂。未来は明るくなさそうだなあ。

 終わってしまった「ヤングキングアワーズ」連載の近藤るるるさんの「アリョーシャ」は、すべてが片づいてこれで平和な暮らしができるかと思い、誰もがそういう生活へと誘ったにも関わらず、アリョーシャは故郷へと帰ってしまってそこで最高指導者の暗殺事件に巻きこまれる形で命を落としたって話が伝わってくる。それから幾年月、FBIのケイティは背丈も伸びてグラマラスになって胸も巨大さを増して、やっぱり成長したもののそっち方面はあんまりな未留の顔が埋まってしまうほど。そんな2人が仕事も兼ねてアリョーシャの故郷を訪ねたそこには……って展開は、優しくて嬉しくて微笑ましいものだった。大変な日々をよくぞここまで来たものだなあ。これで終わりは寂しいけれども足かけ何年だっけ、しっかり描かれて来た作品の無事な完結を喜びつつ、近藤さんの次なる作品を待とう。「ヤングキングアワーズ」の編集部が舞台の「天からトルテ!」とかでも良いけれど、ちょっと無理か、人もいないし豪傑揃いだし。

 「ドリフターズ」はちゃんと掲載されていて、オルミーヌが馬車に詰め込まれて誰かに尻とか胸とか触られていた。そりゃあ誰だって触るって。そしていよいよ始まるクーデター。その先に待つ物は。未だ見えない全体像。楽しみだけれど完結まであと何年? 「それでも町は廻っている」は連載が100回だそうでこれって相当な記録なんだろうかどうなんだろうか。ちょっと前の高校だかに歩鳥が入学してたっつんとかに出会ったりする懐古編。けどそんな展開の後半は誰かがなくしたアタッシェケースを探してあげたら、中から得体の知れないものが出てきたって感じにメイドでミステリーでSFという、得意な技をハイブリッドに混ぜ込んだ不思議な味わいのエピソードになっていた。多彩ではあるけれどちょっとまとまらないかなあ、それも石黒正数さんの取り柄だし。「天からひびき」はドイツから来たヴァイオリニストが嫌な奴だけど才能たっぷり。やっぱりそういう奴に音楽家って惹かれるものなのか。貴重な眼鏡枠が。「球場ラヴァーズ」は男前田が登場。まさかあんなことになるなんて……。次号くらいで描かれるかなその話。リアルタイムなんだねえ。

 秋葉原を通りがかったんでCOMIC ZINで坂上秋成さん責任編集の「ヱヴァンゲリヲンのすべて」を購入、超文学フリマに行けなかったんでこういう時には有り難い。でもって冒頭で栗山千明さま様さまが結構な長さのインタビューに答えてた。超有名人を起用しながらもその分量はわずかって感じであとは一般人の評論なんかで埋めたりする同人誌もあったりするなかで、この長さこの密度は特筆もの。いったいどれだけの時間をもらったなろう坂上さん。まあ栗山さんだってこれくらい語れなければ意味がないってことで双方にとって嬉しい出会いになったんじゃなかろーか。内容はやっぱり結構な濃さ、っていうか11歳とかそんなんであのテレビシリーズとしての「新世紀エヴァンゲリオン」を見ていたのか、ちょっとすごいなあ、意味分からなかったんじゃないのかなあ、でもスタイリッシュなことは伝わったか。新作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」でもマリについての考察なんかをしていて当たっているのかどうなのかと興味津々。完結の暁には是非に語り尽くして欲しいなあ、そんなことを許し載せる媒体なんてあるのかなあ、なければまた坂上さんに、お願い。


【4月29日】 この世には不思議なことなんて無いのですって言ったのは、指ぬきの黒い手袋をした着流しのおっさんだったか誰かだったけれども実際、不思議なことの大半は不思議に思いたい人の頭がそう思ったかあるいは、不思議に思わせたい誰かの企みだったりする様子。だからその真相を、合理的に物理的に科学的に究明すれば出来てしまうってことから始まって、だったらどうやって説明をつけるのかって当たりに推理の余地があるって意味では、これは立派にミステリーだった峰守ひろかずさんの「絶対城先輩の妖怪学講座」(メディアワークス文庫)。

 主役とも言える絶対城阿頼耶って男性は、もう恰好からしてスーツ姿のジャケットだけが黒い羽織りっていう妙さ加減を爆発させながら、大学の一角に資料室を置いてそこに半ば暮らし、訪ねてくる人たちの怪奇現象を究明して欲しいって依頼を受けては、解決に走り回っている。といっても別に親切心からやっているんじゃなくって、半分くらいは商売っ気もたっぷりに、お金をもらって相談をうけたりしていてなおかつそんな怪奇現象とやらの究明の途中で発見した“原因”を、相手に沈黙の対価めいたものまで要求していたりするからなかなかのやり手だったりする。

 妖怪変化の類が対価なんか出したりするはずがないから、つまりはそういうことなんだけれど、面白いのはそれを沈黙の中におしこめることで、相談をして来た相手にはあくまでも怪奇現象だったと認識させ、それを祓うなり癒すなりして抑えたからもう安心だと言ってあげること。例えば冒頭では「べとべとさん」という後をつけてくる妖怪が出ると怯えた女性を大学の廊下に誘い込んでは、装置を使って「べとべとさん」を再現しつつそれを「先にお行き」と言わせて通り過ぎさせ、これでもう出ないと安心させる。

 実は単にストーカー気味の相手につきまとわれていただけだったその女性に、真相を告げれば相手は自業自得とはいえ罪の問われかねないし、それが逆切れを生んで女性に向かいかねない恐れもある。そこを妖怪だったと言っておくことで解決さえすれば、もう大丈夫と女性には思わせ、ストーカーの男にはその首根っこをおさえて二度とさせないと誓わせ、対価もしっかりもらいつつ、罪に問われ一生を棒にふることを避けさせることができるという具合。実に合理的。

 そんな手管で幾つもの相談事を解決してみせる絶対城阿頼耶のところに、酒を飲んだりすると幻聴めいたものが聞こえて混乱する“持病”に悩まされていた新入生の湯ノ山礼音が相談に行ったのが運の尽き。首から竹の輪っかで作られたペンダントを下げることで症状は抑えられたものの、それを理由に助手をするよう命じられ、あっちにこっちに動いては種も仕掛けもある相談事の解決に、協力させられる羽目となる。

 そんな「べとべとさん」に始まって、幽霊が出るからと女子大生を誘う軟派男をこらしめる「幽霊」やら、湯ノ山礼音の実家がある温泉街の温泉宿に、得体の何かが出るから祓ってほしいと依頼されて赴く「付喪神」やら、馬術部の愛馬が化けて出るらしいという話を解決しに赴いたら別に事件がおこって絶対城阿頼耶の過去と、そして学園一体を持つ地主の一族との間にあった確執めいたものが浮かび上がる「馬鬼」やらを経て、至る「ぬらりひょん」。その驚くべき“真実”がどこまでリアルかは別にして、そこから日本に古来から伝えられる異形や異能をもった人々の正体と、そして現代に脈々と伝わるそうした血筋の持ち主の今が浮かび上がってくる。

 湯ノ山礼音の病状とかについての説明なんかに、なるほどちょっぴりのあり得なさも含んではいるけれど、伝承にあるなら実在しても不思議はないと、幽霊なり付喪神やらのエピソードを通じて絶対城阿良耶は訴えてきた訳で、だからそれもあって良いのかもと思えてくる。なおかつその解決方法が実にユニークで且つ実際的。聞けばなるほどそれはありかもって思わせてくれるけど、そんなものを身につけながらも毎日を平然と生きている湯ノ山礼音も、大概に剛胆な性格なのかもなあ。ともあれ伝奇を科学し真相に迫るミステリー。ほとんどが解決してしまったけれども、絶対城阿良耶と実家との確執めいたものは残っているから、そっち方面への発展はあったりするのかな。まずは本作をお楽しみあれ。

 寝ていたかったけれどもそれだと脳が固くなるので、起きて浅草へと回って「GEISAI」を見物、何回目だっけ。今回は浅草の展示場が会場になっていて、2フロアが使われていたんだけれど、どちらもだいたいゆったりめなのは参加希望が少なかったのか、それとも選考とかを厳密に行ったからなのか。にも関わらずポツポツとブースに穴が空いていたのは休みだったのか、それとも開幕ダッシュのためのダミー出展だったのか。後者はあり得ないから前者かあるいは遅刻して出展を認められなかった口かな、そういうのに村上隆さん、厳しそうだし。

 会場ではブリキ人形に入れ墨ペイントを施している久助屋さんとか、中学生で「ぼくのかんがえたみらいとし」めいたものを執着的にそれでいて楽観的に描いていく内山航さんとかを見たり、肉体がアートめいてるうしじまいい肉さんのほとんど全裸というか、限界ギリギリの布きれだを身に着けた姿で佇んでいるいい肉ぶりを見たり、男の娘としてあちらこちらに出没しているめぐみちゃんがロボットみたいなスーツの中に入って突っ立っているのを見たりといろいろ楽しめた。めぐみちゃんは写真集も出ていたんで購入。あの姿でSF大会に立っていたら大受けしそうだけれど、まる1日入りっぱなしでどうするんだろういろいろと。

 村上隆さんとか海洋堂の社長な人とかグッスマの安藝さんとかがいたりするのを横目で眺めつつ、会場を出て浅草松屋の地下でポケットシウマイを買って貪り食らいながら、地下鉄で六本木へとまわり、居並ぶ赤い麒麟なんかも眼下に見下ろしながらTOHOシネマズ六本木へと入って、村上隆監督による「めめめのくらげ」を見るというコンボ。先に映画を観る手もあったけれど、見たらちょっとげんなりしてGEISAIに行く気も失せるかもって不安もあってGEISAIを先にしたのが杞憂に終わるくらい、見終わってまずは良いんじゃないかと思える作品だった。こんな映画を撮れてしまうんだ。観客もまばらかと心配したら、ARTシアターって100人規模の劇場に半分くらいの観客。そりゃあ多いとは言えないけれど、映画では新人の監督に酔狂な大人だけじゃなく、子供も含めてこれだけ入るんだから立派なもの。見て欲しい層にちゃんと届いているて言って、決して言い過ぎじゃない。

 肝心の中身はといえば、まずはつり目気味なツン系の美少女がスクール水着姿を見せてくれる映画が傑作じゃないはずがないし、そんな美少女とショタ系の少年がプールで戯れ合う姿を水中カメラでスローも混ぜてしつこく映した映画が傑作じゃないはずがない。そんな小学生の女の子たちがプールを終えて着替えている女子更衣室が映る映画が傑作じゃないはずがないし、女性教師がハイレグ気味の水着姿でプールサイドにすっくと立つ姿を下から煽って映した映画が傑作じゃないはずがない。そして何よりあのKO2ちゃんがCG合成で登場しては格闘を見せてくれる映画が傑作じゃないはずがない。すなわち「めめめのくらげ」が傑作じゃないはずがない。

 本当だってば。まあ、こうして挙げたシーンのキャッチィさが響いてきたのは確かだけれど、それを脇に置いても、VFXの“ふれんど”と呼ばれる異形なキャラクターたちと人間の少年少女たちとの絡みも良く合成できていたし、“ふれんど”たちが見せるアクションもスピーディでなかなか決まっていて、それらを映しとらえたカメラワークもテンポ良くって退屈せず飽きずに見ていられた。大学にいる研究者なはずなのに、黒マントなんかを羽織って悪巧みをしている連中のやってることの見かけも内容もショボい点は大人には辟易だけれど、子供が見たら戦隊物の悪の組織めいてて楽しめたんじゃなかろーか。そんな4人組いる黒マント組の紅一点も不敵さぶりがいつかの菅野美穂さんっぽかったし。こいつをボスにしたいなあ、次回作では。

 そう次回作。どうやらそれがあるらしいけれども果たしていつ公開か。そもそもが少年少女が社会とか親とか虐めてくる同級生たちとかに対して抱くネガティブなパワーを吸収して、形にして現出させる“ふれんど”って存在が、とりあえずすべてが解決されて大団円となってもなお、どうして存在できるだって謎もあったりするけれど、そこは天才少年ハッカーのKO2ちゃん使いが何かちゃんと仕組んでくれたんだと思うことにしよう。ネガティブさが強さじゃなくなって友情が強さに変わるとか、そんな仕掛けもあったりするのかな。ともあれあと3回は劇場へと足を運んで巨大なスクリーンでたっぷりと、スクール水着が水中を乱舞する場面を見たいもの。ブルーレイディスク版にはスクール水着姿の水中撮影シーンがメイキングもふくめてたっぷり入ってくれると信じてる。あとはカットされたという特撮がどういうものだったかも。なぜCGIのキャラにしたのか、それが特撮とどうニュアンスが違うのかを明かしてくれることで、村上隆監督が映画に求める美意識ってものも伺えるから。


【4月28日】 弱すぎるって訳ではなくって、それなりに実力はあるんだけれど人が英雄の息子だと期待するほどの力はない。母親が別の男性との間につくった子で、英雄の実子ではないんだから仕方がないって言えば言えるんだけれど、周囲はそうは思わず、期待外れだと呆れ諦める中で本当に英雄の娘で実力も桁違いの勇者な妹が、どうして内心では兄を慕い尊敬しているんだろうかといったあたりに秘密があり、同時に読む人の羨望もかきたてるあやめゆうさんの「ブレイブレイド」シリーズに待望の第3巻「ブレイブレイド3 惨下の都」(C☆NOVELSファンタジア)が登場しては、やっぱり兄のジン・アークロストが妹のローズマリー・アークロストから慕われ、恋すらされているような感じに思われていた。羨ましすぎ。

 アニス・ギネスという剣士の少女と連れだって、遺跡調査に行った時に手に何か前時代の異物めいた魔剣が宿ってしまったことで、通っていた学園から終われる身となってしまったジンは、その遺跡で目覚めさせてしまったマキナって虚人の少女ともに逃避行する途中、山間部にあった村をどうにか立て直し、悪巧みしていた奴らをなぎ倒し、そして都へとやってきてはロンデニオって宰相の企みを暴こうとする下準備もかねて、誘ってきた反政府組織めいたところに荷担する。一方で妹のローズマリーたちは学園長ともども帝都に来て、学園長とは旧知らしいロンデニオに会いに行っては地下にある虚工物の調査を命じられ、迷宮へと降りていってそこでジンたちと鉢合わせしてしまう。

 敵も味方も少人数に分断され、閉じこめられてしまった迷宮から抜け出すために組んだり休戦したりして歩き詰めた果てに、ロンデニオってのが100年戦争の時代に何をしでかし、それをジンとローズマリーの父親にあたる英雄が学園長とどう組んでどう戦いどう倒したかなんて話が明らかにされて、評判となっている英雄物語の真実という奴を知らされる兄と妹。英雄の凄まじいばかりの強さと、そして凄まじいばかりの何も考えてないだろぶりが浮かび上がって2人の頭を痛くさせる。薄々は気がついていたんだろうけれど。でもって甦って悪事を始めた1人の虚人に対して、戦っていくストーリーがこれから繰り広げられそうな予感。兄を慕うローズマリーには幸せになって欲しいけれど、一緒に行動するアニス・ギネスって異国の剣士から、おっぱいが小さいさだのと悪意はまるでない言葉で言われまくって可愛そう。誰か大きくしてあげて。それこそ兄に大きくしてもらいたのか。そういうものなのか、兄妹って。

 そういうものなのかもなあ、ってことを八街歩さんの「騎士の国の最弱英雄 バーガント反英雄譚1」 (富士見ファンタジア文庫)を読んでさらに強く思ったり。こっちも見かけはやっぱり冴えない少年で、騎士になる学校に通いながらも成績は学問も実技も常に最低レベルで、このままでは退学の危機にすらあってなおかつ、騒動を起こして本当に退学させられそうになったんだけれど、そこに通りかかったまだ若いのに騎士となった少女と、異国から来た剣聖と呼ばれる少女がなぜか手助けをするように手柄を立てされされ、退学を免れ、あまつさえ一足飛びで騎士になることが確約されてしまった。なんだその八艘飛び。実は少年と2人の少女たちには秘密があったというのが、分かり切ったことだけれどもひとつの意外性。そしてどうしてそこまで慕われるんだって興味と羨望に囚われることになる。

 その2人だけでなくって他にも幾人かの同じような少女たちがいて、やっぱり少年を慕いまくっていて、中には意見の相違からたもとを分かって、敵として向かってくる少女たちもいて、やっぱり少年を慕っていたりするから何というハーレム、何という酒池肉林。とはいえそういう関係には流石に至らず、慕われ守られているっていう程度の関係なんだけれど、それでも羨ましいことには変わりない。あまつさえ国の王女さまからもどういう訳か慕われてたりするからもうたまらない。会えばぶん殴ってやりたくなるけどそんな少年にも秘密があって、これがまた最弱にして最強という矛盾したものだったから手出しをするには注意が必要。ゆめゆめ少年を慕う王女以外の少女たちを人質になんて考えないように。そんなことしたらドラゴンみたく粉砕されてしまうから。そんな意外な力の発露と慕う少女たちの心理、それでいて対立する関係をどう繕い元通りへと持っていくのか。連続刊行される次巻が楽しみ。

 2日目のニコニコ超会議へとは行かず超文学フリマも超SF大会も見ないで、秋葉原で始まった「絵師100人展」を見物する作業をしこしこと。なるほど「日本の一景」という題材にそぐう、四季折々の風景なんかにとけ込んだ美少女たちが描かれていて、エロかったり凛々しかったりして良かったんだけれど、そんな中にひときわ気になる1枚があって足が止まる。大型漁船が岡に打ち上げられているその前に、少女が立って凛とした顔をしている有馬啓太郎さんの作品は、「負けない」というそのタイトルが現すように東日本大震災で被害を受けた地域にありながら、そこからの復興に向けて進む覚悟ってものを現していて、見る人たちをそういう気持ちに誘ってくれる。

 決して見たかった訳ではない風景だけれど、起こってしまって今はそういう景色があちらこちらにある。そこからどう立ち直り、元の景色を取り戻していけるのか。改めて覚悟させ決意させてくれる絵だった。あとは「BLACK LAGOON」でお馴染みの広江礼威さんの1枚で、商店街にあるパチンコ屋の店頭にジャージと制服がハイブリッドになった少女がすっくと仁王立ちしてにらみつけてくる作品は、パチンコ屋とショッピングモールとカラオケ屋とレンタルショップがあってそれで終わりみたいな郊外の、あるいは地域のファストフード的風景をとらえつつも、そんな停滞と硬直につかまるもんかと決意した少女の姿を捉えているようで、とっても格好良かった。このあと彼女は警察を襲撃して捕まり逃げ出し東南アジアへと流れ着き、二挺拳銃を持った海賊へと成長していくのであったという、そんな話はありません。

 言いたいことを言うために前のめりになった挙げ句に、使えそうなエピソードを吟味もせずに引っ張り出して張り合わせたりすると、どうしても矛盾とか綻びとかが見えておかしなことになるんだけれど、そこで気付けいて引っ込めればまだ良い物を、構わず突っ走っているのかそれとも本当に気付いていないのか、出来上がったものにどこか奇妙な部分が生まれて見る人たちを唖然とさせてしまうという、その繰り返し。「パネッタ米国防長官(当時)は昨年10月の講演で、サイバー攻撃を伴う物理的な奇襲を『サイバー真珠湾』と呼び、『脅威はすでに存在する』と強調した」という文章が入った記事が載った新聞があったんだけれど、その新聞が日ごろから旨としてうるスタンスが愛国にして保守だったりするからたまらない。

 「サイバー真珠湾」って言葉は、太平洋戦争の開戦を告げる真珠湾攻撃を、卑怯な奇襲だったとネガティブに捉えた上で、それに類する奇襲って奴をそう呼んだアメリカならではの立場にあるタームと言えそう。それを、真珠湾攻撃は決して奇襲などではなく、アメリカ側の陰謀によってそうさせられただけであったし、そもそもが戦争をせずにいられないよう、アメリカ側に仕組まれただけなんだという立場を訴え正当化しようとする論調を、日ごろから掲げていたりする新聞が、どうして臆面もなく1面トップ原稿の見出しに使ってしまえるのかがちょっとよく分からない。日本の政府高官が都市にある軍事民間を問わずあらゆる施設と存在に壊滅的な被害を与えるサイバーアタックを「サイバーヒロシマ」と読んで、そうした攻撃をする国を非難しようとしたとしてアメリカはそんな言葉をポジティブに引いて警鐘を呼びかけるかっていうとそんな言葉を使うとなと大目玉だろうし、アメリカのメディだって怒るだろう。

 あらゆる攻撃に備えるためには憲法を改正する必要があるんだという論調を、世に起こしたいがために作られた記事だけれど、そうした大目的のためには真珠湾攻撃を卑怯な奇襲呼ばわりするタームでも使って平気ということか。愛国で保守でも親米だからアメリカの言うことはすべて正しい、彼らが「サイバー真珠湾」といえばそれは「サイバー真珠湾」なんだということなのか。どっちにしたって不思議を感じさせる話。そんな不思議に気付いて身を退く人たちが出ているだろうにも関わらず、まるで気付かないで突っ走ってしまうところに、将来の恐さって奴があるんだけれど、大丈夫かなあ、本当に。


【4月27日】 出てきたガキんちょが1発退場となったのに続いて露出の覆い眼鏡っ娘までもが、って驚いた「デビルサバイバー2」。どうやら命に別状はないっぽかったけれどもオープニングにも出ているキャラをこうも簡単に使い捨てていって、最後に残るのは手前勝手に動いては周囲に被害を出しまくった少年と、その少年にくっついてきた少年少女の計3人だけなんてご都合で進んではやっぱり面白くないので、とりあえず眼鏡っ娘には復活を期待し、そして沢城さん声のおねえさんにも出場願ってそして最後は全滅というバッドエンドからのリスタートを、果たして2期へと繋ごうとして果たせない残酷を、見せてくれたら現代的。「ちはやふる2」はここに来ての総集編だったけれどスケジュールに何かあったのかな。でも逢坂恵夢のジャージ姿を見られたんでこれはこれで良し、と。

 せっかくだからと幕張メッセの「ニコニコ超会議2」へ。何を見るって感じでもなくこれが見たいってものもなく、漫然と場内をうろついていただけなんだけれども、それでもあっちで「踊ってみた」なんてことをやっていて、何百人とかがいっせいに踊っている風景を眺めると、そういうのって楽しいかもって思えてくるし、こっちで楽器を作ったり蟻の飼育セットを作ったりして並べている人たちをみて、そうかこういうことをやっている人たちもいるんだとその積極性に関心を抱き、自分でも何かできるかもしれないなあと感じたりすることもあったりと、クロスオーバーするジャンルの渦に巻きこまれながら、新しいジャンルへの関心なんてものを喚起されてちょっとだけ視野が広くなる。遠くへと向く。

 ネットもそりゃあ不特定多数に向かっていっせいに何かを発信できるパワーを持っているけれど、だからといって不特定多数に届いているとは限らないのが昨今のネット事情。むしろ大量にあって細分化されたジャンルの中で、自分が好きな分野だけを見たりして他に関心を広げないままずっと行ってしまうって状況が生まれていたりする。ポータル的にリンクを張り巡らせてはさまざまな方向へと興味を誘導するようなことをしたところで、やっぱり興味がない人にそっちへと目を向けさせるのは至難の業。ところが「ニコニコ超会議2」みたいな場所だと、会場に来さえすればそうした自分とは無関係のジャンルの様々が、否応なしに目に飛び込んできてはそれに何らかの関心を向けざるを得なくなる。やっぱりつまらないでも良いし、これは面白いでも良い、そんな生まれた関心が、繋がり広がっていくことで新しい層を呼び込み、あるいは連携を生んで大きくなったり、何かを生み出したりする道ができる。

 その意味でも年に1度、こういった場が作られ提供されるってことはとても大きな意味があることなんだけれど、一方でそうやって用意された場に集い騒ぐことが目的になってしまって、本来はプラットフォームこそ与えられはしても、その上で自主的に何かを作り、見せ合って繋がり合ってきた人たちが、年に1度のお祭りという場のためにのみ動くようになってしまって普段からの連携に、消極的になってしまわないかという心配なんかも一方では浮かんだり。まあ現実には踊ってみたり演奏してみたり生主ってみたりする人はそこらじゅうにいて勝手にやってたりつながっていたりするから大丈夫なんだろうけれど、用意された場が絢爛豪華になればなるほど、そこでの輝きこそが全てと思ってしまいかねない。

 他に同人誌即売会とかいくらだってあるにも関わらず、コミケこそが唯一の場なんだと思われがちなように。決してそうではなく、長くやって来た結果として多くが集まりやって来てくれるからこそのコミケであるように、「ニコニコ超会議」も経過としてそこに集い見せる場として活用しても、それが目的にならないように普段をもっと盛り上げて、年がら年中“お祭り”をやっているような空間を、バーチャルに作りそれでリアルを染め上げていって欲しいもの。なんだけれどもこれだけ大勢が集まると、やっぱり特別な場所だって思ってしまうよなあ、そうではなくって交流を深める場として利用し活用するくらいの気持ちでいた方が、効果もあがるんじゃなかろーか。

 なんてことを思った超自民党ブース。行く前はネットでライトにのめり込んでいる人たちが、集まって日の丸の旗でも振りまわしていつかの秋葉原での選挙演説みたいな雰囲気を作り出しているんじゃないか、なんて思っていたけど実際の会場はとてつもなくカジュアルでとてつもなくフラワーな雰囲気。遊説のときに使う上に人が立って演説できる車を持ち込み、たすきをつけた人をそこに挙げて何か演説させてみたりするイベントを開いていたその裏には、自民党本部にある総裁室を再現して机を椅子を持ち込み、座って総裁になった気分を体験できるコーナーをつくって行列ができるくらいに大勢の人を集めてた。物販ブースでは若い事務方の人たちがバッジやらゆるキャラグッズやら色紙やらを並べつつ、声を出して明るく楽しげにグッズを売っては買った人がいたら拍手したり万歳したりと大盛り上がり。そんな雰囲気に自民党って話が分かりそうだって思わせることに成功してた。誰が考えたか知らないけれそ世耕さんかもしれないけれど、やっぱり巧いなあ、そういうところが自民党。

 一方でまるで閑古鳥だったのが隣の民主党ブースで、はっきりいって誰もいない。とうか何をやっているのか分からなくって近寄る意味を感じさせない。1人檀上で座りカメラにむかって「マブラヴが」とか「トータルイクリプスが」とか喋っている人がいたけれども脈絡が見えない一人語りの薄気味悪さにさらに人が引くといった悪循環。その隣の共産党ブースがとりあえず人を読んであれやこれやとテーマごとにトークを繰り広げてはそれなりに、座っている人たちを集めていたのとも対称的で、そこに来る意味を見いだせさせない企画をいったいどういう目的で、誰が立てたのかって訪ねて回りたくなって来た。とはいえ1点、何かゲームめいた物を作りたいとかいった企画があって、そのキャラ絵が使われたポスターとかがあったんで、それを眺めて楽しむことだけはできた。上官らしいお姉さんとかなかなかの巨乳っぷり。せっかくだからと出力されたポスターとか買ってしまったけど、それでゲームが作られるほどにお金が貯まるとは思えないからなあ。まあ頑張れとしいか。

 1日だって自作の憲法案を作ってみましたっていう話だけで紙面を何ページもぶっつぶし、他の多くが必要としているだろうニュースを弾き出しては、自分たちの言いたいことだけを喧伝して回ることに何か臆面のなさを覚え、気恥ずかしさを感じないものかって周囲の冷えた目も出ていたりしたし、中立はともかくとて公正を旨とすべき報道機関としてそれはどうなのよって反応が出て至極当然だったにも関わらず、2日目も同じような話題を1面のトップに持ってきて、それも作ってみせた憲法をお披露目するシンポジウムを開いては、何百人かが聞いてくれましたって自画自賛を堂々と並べ立ててみせるぶっちゃけぶりに、いったいどれだけの人がどんな感情を抱いたのか、ってところが目下の興味の向かう点。

 なおかつ脇にはそんな憲法案を通さないと、中国が攻めて来たって対応できないかもしれませんよって感じに、40機超もの戦闘機がやって来ていたなんて話を添えているけれど、ほかの新聞雑誌がまるで話題にしていないそれは、つまり多くがニュースとして必然性を感じていなかったかもしれない事柄って可能性もあって、それを敢えて載せてみせたりするところに何か、ひとつ方向に向かわせようとする運動めいた意志を感じてそうした強引なまでの雰囲気作りに対し、違和感を覚えてしまう人もいないとは限らないだけに悩ましい。なおかつ出されてきたものがあんな感じだった訳で、いくらなんでもこれは教養と知性に関わってくる問題だと、身を引くだけでなくって背中を向ける人だって出てきそうでちょっと心配。まあ心配したってこっちがどうなるものでもないんだけれど。なるんだっけ。

 改憲をして軍隊の保有を進めたい人たちもそりゃあいて、今の政権にだってそういう意識を持った人たちがいたりするけれど、そういう人たちにとってもここまでラディカルで前代未聞の憲法案なんてものを持ち出されては、逆に迷惑かもしれない。人権を制限し表現の自由を押さえつけ、義務を果たさないものには生きる資格なんてないんだと言わんばかりそそんな憲法案を引っさげて、僕たちは政権の味方ですよなんてすり寄って来られると、同じ仲間だと思われて、カジュアルにちょっとだけシリアスに国防とか、愛国とかを思って支持をしてくれている人たちが、いくらなんでもそこまではやり過ぎなんじゃないのって、驚いて逃げ出しかねないと心配になって、お話は分かりましたが自分たちは自分たちでやりますからと、お引き取りを願うことになったりして。無能な味方が真に恐ろしいというアレが地でいく展開。そうなった時に宙ぶらりんとなった身体をどこに着地させるのか。それとも着地なんかせずに落下して粉砕となってしまうのか。おそるおそる眺めて行こう。


【4月26日】 早稲田文学で小説を書いているとかって話だけれどどんな小説を書いているのか露知らないままライトノベルのレーベルっぽいところから出た仙田学さんの「ツルツルちゃん」を読んだらなるほど美少女だけれど性格がやや強引な先斗町未来娘がいて、彼女に下僕のように付き従っては勉強のまとめとかを手伝っていたりする僕がいて、そして2人の同級生で性格は素直で明るいこれも美人の兎実さんという少女がいてといった具合にほどよい三角関係めいたものがまず呈示されて、そこで何か繰り広げられるドタバタめいたものへの予感を誘う。

 けれども既にしてタイトルが「ツルツルちゃん」という意外性を通り過ぎた不可思議なものになっている上に、冒頭から保健室で寝ている兎実さんの髪に先斗町未来がカミソリを当てて剃るぞそり始めるとぞいった展開を見せている。これはただのライトノベルじゃない。というかライトノベルなのかも怪しいと持ったら案の定、展開は真面目そうに見える兎実さんが、犬や猫の里親探しに勤しんでいるという表向きのボランティアのその裏側で、何か誰かと付き合うようなことをやっていると拾った彼女の手帖から分かって、僕と先斗町未来の2人は事情を追い始める。とかいいつつ動機が拾った手帖の書き文字があまりにも汚いといったことに、強引な性格ながらも潔癖性の先斗町未来が怒り、全部内容を書き写せと命じたりしたところから始まっていたりと普通じゃない。

 なおかつそんな兎実さんへの親近感が裏返ったかのような反発が、未来に彼女の髪をそり落とさせるという方向へと走る動機がまるで不明。けれどもそんな展開の見え無さが、予定調和に陥りがちなライトノベルにあって異様さを醸し出して読む人の目を離さない。さらにそうやって髪を剃られたはずの兎実さんが、表向きは怒りもせず剃られたことも明かさないまま学校に来て平気でつき合いをしているから手を下した2人は訝る。そうこうしているうちに街ではスキンヘッドの女性が増え始め、ウイッグをつけて歩いているのではといった噂も立ち始め、僕と先斗町未来は何が起こっているのかと兎実さんの様子を探り、そしてとんでもない事態に行き合わせてしまう。

 自己主張の激しさを持って世界を睥睨していた少女が、悪意すらも天然で発揮してしまう少女に人間味を持たせようとして逆に引っ張り込まれ、尖った人間らしさをすべて丸められツルツルにされるようなストーリー、とでも言うべきなんだろうかこの話。萌えに見えてサイコ、ハーレムに見えてサスペンス、そして屹立していた心のぽっきりと折られてしまう様を描く純文学とも言えそう。表層とは違った奥底に流れる人間の情動って奴を、もっと読み込んで探りたいもの。登場うるキャラクターでは、御殿場なたねって女教師がなかなか。パンツスーツ姿でいるけど時々前のチャックが開いているんだとか。女性ってそのあたり気遣いを見せるものだと思ったら、世間的にも割と開いていたりするものらしい。ということは見られるのだろうか、豹柄とか赤いレースのとかがそこから。街を歩くときも注意したい。

 前に話も聞いたことがある元マンバで今はアーティストの近藤智美さんが描いた「のこそうヒトプラネスト」が、六本木ヒルズの森美術館に堂々と展示されているんってんで今日から始まった「LOVE展」をのぞく。赤いキリンがいっぱい立っていた。そして展覧会は、西新宿だったかに飾ってあるパブリックアートの「LOVE」って置物を叩いて歪めたような品があったり、ジェフ・クーンズってイタリアのアーティストが作った巨大な金色の袋みたいな置物があったりと、絢爛な部屋を抜けた奥に近藤さんの絵もあってなかなかの存在感。見れば巧みな上にモチーフの不思議さ構成の面白さが目に入って、誰なんだろうこの人はって気にさせられる。2012年春のVOCA展で見ていっぺんで気に入った僕のような感じに、ほかのシャガールやら岡本太郎やらを見に来る人たちの目に入って、そこから広がっていく可能性なんかを想像してみたくなるけれど、どうだろう。

 しかしいろいろな“愛”があった展覧会。写真ではナン・ゴールデンの日常に荒木経惟さんの陽子さんを映した「センチメンタルな旅」を向かい合わせで並べたりと、20年くらい前に見たような感じの組み合わせではあっても、それ以上でそれ以外の組み合わせも思いつかない展示があったりして両者のファンには嬉しい限り。キリコにマグリットといった世間の人も知っている画家のそれなりな作品もあって、絵の好きな人も見て楽しめそう。オノ・ヨーコさんと草間彌生さんという、いつかのニューヨークをハプニングで埋めた日本生まれの女性アーティスト2人が、ともに出展しているってのもひとつの成果か。草間さんのは前に会田誠さんの展示で18禁の絵が並んでいた一室を鏡で覆い、巨大な突起を水玉で飾って並べてどこかに迷い込んだような感じを与えてくれる。響く草間さんの詩の朗読がまたクるんだよ、心に。しばらく踏みとどまっていたい部屋。朝なら人も少ないし独り占め出来そう。

 浮世絵の春画は棒もあれば溝もあったりと生々しさが炸裂。それをあの浮世絵の画風にあてはめ描いてしまう腕ってのがきっと流れ受け継がれて、横長のモニターの中で少年少女が絡み合うシーンを見せるエロゲーの絵につながった、って思って良いのかな。西洋のヌードとは違ったエロく思わせるという目的意識を持ちつつ、芸術性もしっかりと保った絵だからねえ、どちらも。あとの見物はChim↑Pomの「気合い100連発」か、清澄の展覧会でも見たけどこれ、ずっと見ていたくなるんだよ、元気が出てくるから。まだ震災から間も明いていない時期にこれをよくやった。だからこそのアートであり行為なんだろうなあ、そういうところのアクティブさはChim↑Pom、凄いし見習いたい。

 驚いたのはあのダリの絵の横に、梅ラボさんの絵が飾ってあったってことで、宗教画みたいなモチーフに異形を混ぜて構築したダリの絵と、様々なモチーフをかきあつめ色とフォルムからパッチワークして全体を作りあげていく梅ラボさんの作品の、間に通う共通点みたいなものを感じて並べてみせたのかな、分からないけど。梅ラボさんの方は展示期間中にいろいろ進化していくみたいなんでそっちにも注目。いろいろなところから材料を集め過ぎて前みたく問題にならないことをとりあえず祈念。そして噂の初音ミクは展覧会の出口付近でいつもは新人アーティストの作品を紹介するコーナーをつかって東京ドームシティホールかどこかでのライブ映像を流し、あとコンシューマージェネレイテッドな動きを解説する映像を流してた。

 知っている人が見れば舞台でCGのミクが唄い踊る凄さってのも分かるんだけれど、ダリとか太郎とか見に来た人がこれを見て、その凄さを感じるんだろうか、あるいはユーザーがキャラを讃えそこに群れるという行為、VOCALOIDというソフトを使い作曲して唄わせているという技術的な特徴も。それを含めて理解した方が良いコンテンツなんだけれど、外国から来た人とかに説明するのも大変そう。まあ昨日の桃井はるこさんと吉田尚記アナウンサーのトークじゃないけど、誰彼無く面白さを広めるよりは分かる人だけが分かるという、そのちょっとづつの広がりが、大きくなっていく方が本質も含めて理解されやすい。美術展という権威の中にそれを置いて何が何だか分からないけど凄いかもっていったアプローチでは、よほど勘の鋭い人じゃなければついてけないだろう。親切な説明もあったけれど、それでどうなるかってことじゃなく、ユーザーの1人ひとりが使い楽しみ広めていくこと。それが初音ミクを愛すること、なんじゃないかな、なんつって。

 まあ良いけどね、憲法改正の提案でも何でも、やりたいならやれば。でもそれは自分たちの創刊80周年というどこか落ち着かない年数を盛り上げるために行ったことで、加えて自分たちの日ごろの思いを世の中に伝えたいっていう利己的な都合であって、そんなことより世の中の動きを広く知りたい、身の回りに関係することを知って役に立てたいから新聞を取っている読者にとっては、まるで無関係なこと。そんなもので何面も潰された新聞のいったいどこに買う価値があるんだって言われたら、もうグウの音も出ないんだけれどすでに諦められているのかそういうものだと思われているのか、グウの音を出す人がもはや世間には存在していないのか、あんまり騒がれず話題にもならないところが切ないというか、虚しいというか。

 そんな周辺の冷めた目を知ってか知らずか、大騒ぎしまくっている姿にどこか滑稽さも漂っていたりするからなおのこと切なさも募ったり。パスティーシュとかパロディで知られる作家の清水義範さんの小説「騙し絵日本国憲法」を引き合いに出しては「美しい言葉が並んでいるようで、実は何を言いたいのかよくわからない。その最たる例が、翻訳調丸出しの悪文で名高い日本国憲法の前文だろう。作家の清水義範さんによれば、前文は『高度なボケ』なんだそうだ」と歴史や伝統のある1面コラムに書いている。別に清水さんは憲法を茶化すとか逆に讃えるとかいった意図を脇に、とかく議論の的になりがちな日本国憲法の前文を題材にして、いろいろと試し書いてみせただけなのに。

 けど新聞は、そんなパスティーシュ作家の披露した技のひとつを挙げて「こんな具合にいちいちツッコミを入れて、初めて笑えるギャグになる」と日本国憲法の前文を批判する。何か大人としてとっても恥ずかしい行為のような気がする。「そんな前文と、小紙がきょう発表した『国民の憲法』要綱の前文とを、ぜひ読み比べていただきたい。日本の誇るべき国柄と、日本国民がめざす理想について、わかりやすく格調高く書いてある」と結んでしまうあたりは恥ずかしさを通り越してみっともなさすら感じさせる身内誉め。「格調高く」だなんて主観的な印象を身内が喧伝して、誰がそうだと素直に信じるだろう。日本的な美徳からすれば、前に出過ぎるのってどうにも信用され辛い。

 格調が高いかどうかは読んだ誰かがそう認めてこそ意味をもつもの。けど臆面もなくそう喧伝してしまえる態度がなければ、歴史や伝統のある場に筆はおろせないってことなんだろう。そんな筆は、荒木とよひささんが歌詞に込めた思いもくみ取らず、「四季」という歌のハイネは男なのに僕の恋人って唄うのは変だとか言ってみてもいる。僕の恋人とは心深き人であって、mそれは愛を語るハイネという詩人のような繊細さを持った人だと、そう読めば不思議はないのに敢えて誤読を持ち出し嘲笑した上で、それを嫌いな現行憲法の前文批判の枕にする。荒木とよひささんにこれほど失礼な話もないんじゃないのかなあ。なんてことを気付いてもやっぱり華々しい場所に筆は置けない。剛胆に。上だけ見て。それが生きる道なのさ。嗚呼。


【4月25日】 どこで買ったら何がつくかをあんまり考えてはいなかったけれども、とりあえず立ち寄った秋葉原の「ゲーマーズ」ではもう品切れだったみたいで、そこで出していたらしいメアリとそしてエリザベスという英国金髪巨乳姉妹が、すっぽんぽんで向かい合ったタペストリーは拝めず。とはいえそういうものが特典として付いていたことすら気付かないまま、なんだ売ってないのかと外に出て、角を曲がってメディアランドに寄ったら何かタペストリーの特典がついてくるらしいと分かって、そこで買ったPSP版「境界線上のホライゾン PORTABLE」というゲームには、あのダ娘こと本多・二代が起き抜けの裸身をシャツで包んだセミ姿って奴が描かれたタペストリーがついて来て、これを毎朝眺めて起きれば気分もしゃっきり、いろいろにょっきりとなりそうだと、思ったけれどもそいういう歳でもなかったのだった。若者は大変そうだなあ。

 調べたらほかでは浅間・智のもうこれはといった感じなすっぽんぽんなタペストリーとか、葵・喜美のやっぱりすっぽんぽに近いタペストリーなんかが特典に付く店もあった様子。ほかはテレホンカードとか図書カードだったことを考えると、タペストリーで二代なら上々の口ではないかとむしろ喜び、出会えたことを感謝する。そりゃあ気分的には「境界線上のホライゾン」きってのヒロインで、本多は本多でも正純の方が描かれたタペストリーとか欲しかったけれど、それだとやっぱり趣味な人が限られゲームの売り上げにも影響が出るから、なくてここは正解だったのかも。そういうファンはだから前に出た抱き枕カバーを探すなり、これから出る葵・トーリによって確認されているところのフィギュアを買って愛でるのが正解。苦労したって揉んだって大きくならなない悩みを憂いつつ健気に生きるその姿を楽しもう。しかしどこに飾るか二代のタペストリー。シーツに縫い込むか。

 集英社から出ている「スーパーダッシュ&ゴー」の2013年6月号で「R.O.D」の倉田英之さんとそれから「ビブリア古書堂の事件手帖」の三上延さんが対談していて本好きで眼鏡をかけていて巨乳な美女たちによるコラボレーションでも始まるのかって期待も浮かびつつそれは流石に版元が違いすぎるからないだろうと諦めつつ、それでも倉田さんがアニメーション版「ビブリア古書堂の事件手帖」なんてものの脚本を書いたとしたら、そこにこっそり読子さんを出してくれたりしてくれそうな予感なんてものを感じてみたり。というかそもそも「R.O.D」の文庫の完結がどーなっているかってことが重要なんだけれども新版の帯によればシリーズ完結へのリハビリも完了したし、対談では展開も思いついたと話してた。ならば期待だこの先に。だから待つぞいつまでも。いつまでもじゃあいけないか。

 結局のところ自分にはカラム肩って耳の穴に突っ込むタイプのイヤホンは、耳穴が小さいせいかすぐに押し出されてしまって外れてしまってあんまり合わないと分かったんで、買ったはずのアルティメットイヤーのイヤホンがどこかに埋もれてしまったのを機会と見て、ヘッドホンにしようかと思ったもののモンスターなんとかとかシュアなんとかといった高いヘッドホンなんて買う余裕も使う解消もない中で、見つけたAKGの404って奴が5000円もしない値段でありながら手持ちのiPadから再生してみると実に良く鳴る。良く響く。低音がしっかりしていて高音も抜ける感じでこれは良いとしばらく迷った(迷うんだ)挙げ句に購入していろいろと聞いている最中。ステンレスか何かのバネがむき出しになったヘッド部分がキツいけれどもいずれ慣れるだろうし、そんな長時間も填めないから大丈夫と思いたい。あとは何を聞くかだなあ。聞かないもんなあアニソン以外は。

 「Steins:Gate」のアイリス・ニャンニャンな桃井はるこさんが現れるってんで千代田区は有楽町にあるニッポン放送のイマジンスタジオへ。2000円払ってラジオ番組みたいなトークを聞くって奇妙なイベントだけれどラジオでは多分聞けないような話がいっぱい聞けるとあって割と大勢が来ていた感じ。桃井さんのファンなのか司会の吉田尚記アナウンサーのファンなのかは不明ながらも一介の局アナが有料でトークイベントを開いてこれだけの人数を集めてしまうのって凄く貴重かも。テレビの局アナが同じ事をしたとして女子アナだったら知名度で人は来るだろうけど男性アナでいったい誰がやってどれだけ来るか。ゲストの力に頼りっきりになってしまうところを吉田アナは当人の知名度とトーク術も加味して桃井はるこさんというゲストの持ち味を十二分に引きだし場を作り盛り上げて対価以上の時間にした。そのパワーをどうしてテレビの世界はもっと使おうとしないのか。分かってないんだろうなあ、あるいは見下しているとか。だから今、どん底なんだよ目ん玉テレビは。

 そしてそんなトークに登壇した桃井はるこさんのトークがやっぱり激面白かった。2時間半近くに渡ってもう喋り詰めだったその内容は逐一語るには広範囲すぎて抑えきれないけれどもひとつ、面白かったのはアバンギャルドというか他にやっていないことをやろうとしてアキバに萌えを導入して広めたものの、それがスタンダードになってしまい表層的になってしまった状況では、むしろ「MOE IS DEAD」を感じていたりするという。それは「PUNK IS DEAD」と同じ心理でシド・ビシャスみたく髪を逆立て秒がついた革ジャン来てれば俺パンク的な、スタイルになってしまったおたくはそれがたとえ現代的であっても、自身にとっては違和感があってそれが「MOE IS DEAD」というタームにつながっているという。

 とはいえ当人の萌え心は死んでないし対象としての萌えも存分に生きている。だから己が感性を信じ繰り出される萌えの良さを味わい尽していけば良いのだ、なんてことになるんだろー。他がどうかじゃない。自分がどうするかなんだ。自身を容姿やポジションも含めてどう捉えているか、なんて話はなかなかにシリアスで辛辣でもあって、ああいった場でしか聞けないもの。それを桃井さんの口からあの声で聞けただけでも貴重な時間を過ごせて得した気分。声優だって胸を張って良い活躍をみせているしアニソン歌手だって言ってもロックシンガーだって言っても通用するのに、それらに届いていないんじゃないかと臆してしまう心理にも納得。だからこそジャンルとしての、存在としての「モモーイ」というものが出てくる。他に類をみないカテゴリー、あるいは種族、というよりもはや「モモーイ」としか言い様がないものなのだ、桃井はるこさんって人は。

 「海月姫」に使われた様々な映画のシーンがまるで分からないという世代に吉田アナが愕然としたといった話を受けてか、おたくが下にいろいろと教養を求めその欠如を嘆くって言動は、それこそ大昔からあったりすることで、それを繰り返しても仕方がないからもうちょっと上は下に優しくなってくれませんか、なんて声も出ていたイベントだったけれど、そうやって下は上からいろいろ教わり、浅薄を咎められて反発し憤り見返してやろうと切磋琢磨したことで、また下にそうした言動をとって同じように切磋琢磨の連鎖を計ってきたことを思うと、ここで優しくされるのは逆に恥だと下の世代には思って欲しいなあ、というのが当方の考え方だし、桃井さんもやっぱりそう感じていたような気がしないでもない。表層だけを真似てそれを繰り返したところで上澄みの上澄みが残って希薄化するだけ。未来を考えるなら何かもっと貪欲に、物好きになって欲しいんだけれどそういう時代でもないのかなあ。世代論に帰結してしまいがちなんだけれど、そこに加わるマインドの変化ってのも考え合わせつつ、どうすれば良いのかってことを探っていきたいもの。未来のためにも。自分がずっと楽しんでいけるためにも。

 なんというか当然過ぎる反応というか、安倍総理が国会で閣僚の靖国参拝についてアジアの国々からあった反発に対して「脅かしには屈しない」と答弁したことを1面トップに掲載して、社説だの解説だのコラムだのも総動員して持ち上げていたりする新聞が一方にあったりしたんだけれど、同じ事柄を朝日も読売も毎日も2面とか3面で40行とか45行とかそんなもんで流してたりするこの格差は、つまり世間一般におけるその事柄の必要性なり重要度をまるで鑑みず、ひたすらに己が主張をのみ訴えたいがために新聞という“公器”を使い喧伝している現れに過ぎなかったりするんだろう。朝日毎日はともかく読売までもがそういった扱いなんだから。

 けれども、そういったバランス感覚をすでに失い世間から乖離していることにまるで気付かず、それとも気付いていながら気付いてないフリをして、より多くの読者が知りたい情報を載せず、より広い読者が喜ぶ情報も拾わないまま突っ走っていった先に何があるのか。これに限らず中国だの北朝鮮だの自衛隊だのが、このところ連日1面トップに掲げられ、読者であるところの国民が日々の暮らしに役立つ情報って奴が脇に追いやられ、果てに落とされたりして一体どこに行こうとしているのか。それは明々白々で、あとはだからそこに向かって突き進むだけというブレーキも終着点もないジェットコースターに、乗っている人たちの感想をちょっと聞いてみたい今日この頃。悲鳴すら上げられないのかな。恐ろしすぎて。


【4月24日】 清水崇監督で魔女で宅急便なんだからもちろん全身黒ずくめの魔女が出てきて、手に罪という名の荷物を持って悪事を成したまま黙って世に暮らす人々の家を訪ねては、「お届け物です」と置いて回って歩くという設定で、荷物を開いた人はそこに収められた例えば殺して埋めた相手の足首だとか、騙して追い込んで自殺させた相手の呪詛が録音されたテープだとかを見て罪を思い出し、罪悪感にまみれてのたうち回るという展開がまずあって、それでも一向に自省しようとしないふてぶてしい悪人がいて、魔女はあらゆる手を駆使して追いつめていくという丁々発止のストーリーが繰り広げられるんだと思うけれども、それだと角野栄子さんによる原作と違ってしまうから、やっぱり普通に少女が魔女になって宅急便屋を開くストーリーになるんだろうなあ、ただし場所は日本になるか訳だから、届けるのはニシンと南瓜のパイではなくって筑前煮の入った鍋になるんだろうけれど。

 もちろんこの「魔女の宅急便」はスタジオジブリの宮崎駿監督がアニメーション映画にした「魔女の宅急便」の映画化ではなく原作の童話を元にして映画にするって話だから、あんな風な飛翔感とか躍動感とか落ち込んだりしたけれど私は元気だと示してみせるようなストーリーからは離れて、実は読んだことがないけれどももうちょっと地に足を着けて努力していく少女の姿を描いた童話をなぞったストーリーになるんだろう。とはいえやっぱり強烈に残っているあの映画のビジュアル。そこにどう頑張っても飛翔感で「ハリーポッター」とかに届かないだろう日本の特撮がどう挑むのか、挑まずにこれも地に足のついたストーリーにしてもうアニメ映画を知らない人たちの関心を誘うようにするのか。漫画を原作にしながらもアニメのビジュアルを取り入れ実写化した映画「あしたのジョー」の例に倣うのか。そんなところも含めて興味を誘いそう。ジジはやっぱり剛力さんが演じるのかな。

 細かいことは気にしない豪毅な職人肌の老人だっていうから結城蛍のおじいさん、女装しまくっている蛍のことなんてスルーするかと一瞬思わせておいて、いったいなんだその恰好はと捕まえめくって握り確かめようとしたりする姿にやっぱり昔気質の人だったんだと安心したというか、ついているのかどうなのかを確かめたくなるくらに蛍が可愛らしいというか、そんな「もやしもん」だけれどいったい本当に蛍はふだん、何をはいているのか気にもなった。何枚もびらびらとしたものって何なんだろ。見てみたい。けど漫画では無理。ならばやっぱり実写版を買って見るしかないのかなあ。そんな「イブニング」では「CAPTAINアリス」がさらなるクライマックスへ。着水寸前に雷に打たれてもそこで折れずに水平を保って第七艦隊が作った花道をすべっていく。実写映画で見たい場面dなああ。でも日本のCGI技術ではどこまでリアルを保てるか。「オールラウンダー廻」は延岡薫の真の実力が明らかに。なるほどこれでは神谷真希もかなわないなあ。大きさは正義。なのかやっぱり。

 強いのか弱いのか分からないけど有坂恵一、信頼だけは抜群だと思ったしそんな信頼を得ている人でも偶然の前には何の助けもないのだと分かって戦争と戦闘の大変さを知った鷹見一幸さんによる「宇宙軍士官学校 −前哨2−」(ハヤカワ文庫JA)。宇宙から来て地球人類に文明を伝え水準を引き上げ宇宙を自在に行き来できるようにした代わりに、そんな人類を狙う強敵を相手に戦いことも元めら得た人類が、15才くらいの少年少女を集めた精鋭部隊を作って宇宙軍に放り込むことになって、その前段としてそんな少年少女を教える教官が必要ってことで宇宙軍に集められた40人の士官候補生たちが、切磋琢磨しながら試練を乗り越えていく話がこれまで。局面も最終段階となって1隻に全員が乗るんでなく40人がそれぞれ1隻を任される艦隊戦の試験となってやっぱり艦長だった有坂恵一が艦隊司令を務めて挑むのが最初の試練。そこで有坂恵一への信頼が絶大だってことが分かっる。

 けれども続いていよいよ始まった15才くらいの少年少女を鍛える戦いではトラブルもあって結構大変そうで、それで果たして前みたいな信頼を得られるの? って心配なんかも浮かんでしまう。まあそういったところも含めてこれからの成長って奴が描かれていくことになるんだろうなあ、もともとが平凡過ぎて目立たなかったところに潜む優秀さを発揮して、支持され慕われるようになっていった訳だし。配下に入った2人の優秀そうな少年ではやっぱり戦略オタクっぽいウィリアムが抜きんでてくるのかなあ、そして見えてきたとてつもない敵を相手に人類が戦うことになるかもしれない将来を、ソルジャーブルーの後をついだジョミー・マーキス・シンみたく少年少女だった仲間を率いて戦うことになるんだ。そんな壮大無比なストーリーになっていくことを期待して続きを待とう。しかし有坂恵一といっしょに暮らすことになった異星人、なんか可愛いなあ、昔持ってたぬいぐるみが見つかって喜ぶところとか。絵にしたらどんな美少女なんだろう、って両性体なんだけど。やっぱりついてるのかな? 結城蛍みたく。

 京都で開かれる漫画とアニメのフェアについての発表会があるってんで銀座の歌舞伎座へ。普通にオフィスビルの会議室か何かでやるのかと思ったら新しくできた歌舞伎ミュージアムか何かの奥にあるちょっとしたスペースでの発表会で、見渡すと歌舞伎の衣装があったり髷があったり笛や太鼓といった楽器があってとなるほど歌舞伎ミュージアム。見に来る人も結構いたりして歌舞伎が古典に留まらない現役の演劇のひとつなんだなあってことを改めて了解する。いやただオープンしたばかりで混雑していただけかもしれないけれど、それでもあそこで歌舞伎が続く限り見に来る人はなくならない。現役であり続けること。それしかないんだろうなあ、そして文楽にはそうした現役感よりもどこか伝統感が強くなってしまっている。両者のバランスをうまくとれるようにできるか否か。文楽的なスターを世に出し知らしめていくことが必要なんだろうなあ。文楽のスターって何だろう、動かす人か人形か。そこが少し難しい。

 んで京都でのイベントは去年に続いて2回目で企業を読んでの見本市もあればアニメ関連の展示や上映もあったりと賑やかそう。去年は平安神宮で水樹奈々さんのライブもあって話題になったんだっけか。今年も誰か平安神宮でやるのかな、田村ゆかりさんが来て平安神宮でライブをやってピンク色の法被が会場を埋め尽くすとか観てみたいような怖いような。京都が舞台に関わるアニメの紹介もあるようでとりあえず「ちはやふる2」とか「有頂天家族」が取り上げられるみたい。「ちはやふる2」って近江神宮だから滋賀じゃないのと思わないでもないけれど、クイーンがイケズな京女だし和歌の都だからまあ入って当然か。「有頂天家族」は森見登美彦さんの長編でそうかアニメになるのってこれのことかと最近ようやく結び付いた。本は読んでたんだった。結構入り組んでいたりもしたけれどどう表現するんだろう。楽しみだけれど千葉で普通に見られるかな。細かいイベントは分からないけど漫画の縦書き右綴じを捨てて横書き左綴じにすべきって意見をめぐるシンポジウムとか開かれたら話題になるかも。それまで話題は引っ張られるんだろうか。うーん。


【4月23日】 すごいなあ「リトルウィッチアカデミア」、例の「アニメミライ2013」の1本としてガイナックスから離れた人たちとかが作ったトリガーってアニメスタジオが作った作品だけれど、それがYoutubeとかに公開されるや世界中から絶賛の嵐。英語の字幕をファンサブじゃなくってちゃんと付けての公開だったことも奏功してか、全世界の津々浦々にまで浸透しては「このフルシリーズを作れ」といった意見を全世界から集めている。中には「ヱヴァンゲリヲンのリメイクをやめてこっちを作れ」とかって、スタジオ違いではあっても日本のアニメ力(あにめ・ちから)を結集させろって意味合いではクリティカルな意見も並んでたりして、実に日本の観客たちの意見を世界レベルで普遍化した感じ。そりゃそう思う人もいて当然だよなあ、この出来なら。この素晴らしい出来なら。

 それは「アニメミライ2013」として劇場で上映された時から分かっていたけれども、たったの2週間の上映で、それも地域や上映館が限られた中での公開では多くに浸透はしていなかった模様。というかこれで3年目を迎える「アニメミライ」すなわち若手アニメーター育成プロジェクトなんだけれどもこうやって、存在を広く知られることによって参加するアニメスタジオにも、そこに参画する若手アニメーターにも大きな励みとなる事態なんじゃなかろーか。ブルーレイディスクも発売はされたけれども「アニメコンテンツエキスポ」の会場で1000枚限定で完売では行き渡った層も限られてしまう。かといって上映館を増やすわけにもいかない状況で、テレビ放送も行われたもののやっぱり地域が限られた中で、こうしてネットを介して日本のみならず世界へと作品が届けられ、知れ渡ることの意味ってはやっぱり、少なくないものがある。

 もちろん一方にはこうやって世界で評価されることが第一義となってしまって、テクニックに走ったキャッチーな作品を作ろうとしてしまい、本来的な目的である若手アニメーターがベテランの演出家やアニメーターたちといっしょに何ヶ月か仕事をして、そこから技量を学び技量を高めて早く独り立ちできるように後押しをするということが、おろそかになってはちょっと問題。地味でもしっかりと技量の向上に役立っている作品、たとえば1回目の「おぢいさんのランプ」みたいな日常芝居の積み重ねを学び技量を高めていった作品がなくなってしまうのはちょっと寂しい。これも1回目の「たんすわらし」も淡々とした日常の積み重ねを感動まで持っていく演出力、そして関節のないデフォルメされた絵本のようなイラストのようなキャラクターを動かし雰囲気を出すテクニックなんかを現場の人は学んだだろう。そういう目的を外さずに、且つ面白い作品を作れればこれは学ぶ若手にとってもお金を持ち出すこともあるスタジオにもメリットがある。

 このままうまくシリーズ化にいくか、ってのはまた別の話でトリガーって会社がうまくそうした作品作りに乗れるリソースを持ち合わせていて、そしてお金を出してくれるパッケージメーカーなりテレビ局があったりして、ようやく成り立つこと、それが商業アニメーションってもので、そのレベルにたどり着けるかどうかはこれからの展開次第ってことになるんだろー。とはいえこうまで受けた作品をなおざりにしてパイロットのまま放り出すのも勿体ない。いっそ世界がお金を出して……なんて期待もかかるけれどそれだとあれこれ手直しとかして元の雰囲気が欠片も奪われてしまいかねないからなあ、今のテイストを維持しつつテレビなり映画なりの尺でも崩れないクオリティを維持してくれるという道。かなえらればこれは日本のアニメーション界にとっても決して小さくない1歩になるんじゃなかろーか。なって欲しいというか。しかしやっぱりシャイニィシャリオのショーを見に来た子どもたちの中にいる、体を左右に振ってるお嬢さんが後のダイアナに見えて仕方がない。嫌っているフリして実は好きだった、なんて原点がそこに、ある。

 見終わると金麦が飲みたくなる。そして明治のチョコレートを食べたくなる。ビールにチョコレートってそりゃあ行き過ぎだろうって思われそうだけれどもヤクザ映画を観た男が肩で風を切って歩きたくなるように、新海誠監督の「言の葉の庭」を見終われば誰だって金麦を飲みながらチョコレートを囓って、ひとり空を見上げたくなる。そこには漂う新海雲があって、時折のぞく新海空があって、そして夕暮れ時の地平に新海太陽光が差し込むといった風景。なんか憧れるなあ。ストーリーはそんな憧れを素直には受け止められないくらいに結構シビアでシリアスだけれど、見終われば他人を慕い誰かを信じそこから道を見つけ直して立ち上がり、歩んでいくための方法が浮かんでくる。何かに迷い何かにぶつかり何かに悲しんでいる人に、道を開き未来を指し示すストーリーが、そこにはある。だから行くんだ劇場へ。そして掴むんだ今を精一杯に生きようとする気持ちを。5月31日の公開から後、梅雨に入って映画を観た人がその足で新宿御苑へと向かい、雨の中をあずまやに佇みそう。ただし新宿御苑では飲酒は禁止。高校生も飲酒は駄目。だから飲むならオールフリーにしておきな。

 予告編でも流れていた秦基博さんいよる「Rain」は、やっぱり元の歌の良さもあって「言の葉の庭」にとってもマッチ。別れるのかどうするのかを戸惑い悩む2人を歌っているらしい歌詞も、映画の内容にピッタリなら降りしきる雨ってモチーフも、これまたバッチリ。あるいは人によったらこの「Rain」って曲を膨らませて、1本の映画に仕立て上げたんじゃないのかなって思う人も出てきそうだれどそのあたり、どうなんだろうかと新海誠さんに誰か聞いてくださいな。しかし今に聞いてもすごく染みるこの曲でありこの詞を作った大江千里さんが、シンガーソングライターの場から離れてジャズに行ってしまっているってのは少し寂しいというか、残念というか。ほかにも「YOU」とか「GLORY DAYS」とか「REAL」とか、染みる歌詞と流れるメロディに耳が奪われ心も誘われる曲をいっぱい作ってきた人なのに、シンガーとしてはともかくソングライティングとしても活動できないこの世界って、ちょっとやっぱりおかいしんでこの映画のヒットをきっかけにして、大江千里ってクリエーターへの注目を世間が取り戻してくれると昔からのファンとして嬉しい限り。槇原敬之さんの歌う「Rain」ってのもあってこれも良いぞ。秦さんのはCD、いつ出るのかな。

 明日発売なんだけれども今日から手に入る「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のブルーレイディスクを買ったら、生フィルムがはいっていなかった。もうだからそういうのが作られない時代に来てしまったんだなあ、最初の新劇場版からだっていったい何年経ってるんだってことで。代わりにサウンドトラックが入っていたけどこれって普通に売られていた奴といっしょなんだろうか、だとしたらそっちを買った人にメリットは? ちょっとよく分からない。「桜流し」がフルバージョンで聞けるのは有り難いか、いやでも別にシングルをネットで買っていたしなあ、なんてあたりに謎も浮かぶけれど、本編は3.33となっていて、きっとそこには劇場で観たときに比べて格段にアップしたクオリティの映像なんかが収録されていたりするんだろう。どう観てもCGのモニター内にしか見えなかったブンダーと敵との戦うシーンとか、どう修正されているんだろう。アスカの可愛らしさは何倍くらいにアップしているんだろう、ってそっちは変わらないか。マリの胸はさらに揺れるようになっているかな。ミサトさんに皺は描き加えられているかな。なんてことを想像しながら今回ばかりは観よう、珍しく。


【4月22日】 やっと見た「デビルサバイバー2」は眼鏡の関西弁なお姉さんが出てきた段階ですでにオッケー、あとはやんちゃなガキが独りよがりに突っ走っては運命どおりに死に顔を見せたりしてと、キャラクター的な類例に沿って話が進んで辟易としつつも収まるところに収まっていく感じでその意味では安心と安定が漂う。東京からかけつけた3人はその力の強弱を問わず命に別状がないのはやっぱり主役級だからか。まあそれも一種の類例、ならばそのままそれずに行って欲しいものだけれどだからといってせめて眼鏡の関西弁なお姉さんだけは生き残らせて欲しいもの。眼鏡は貴重。眼鏡は正義。そういうものだろ、なあおい。

 そのとおり、って神原秋人なら言うだろうなあ、この究極的な眼鏡フェチは。誰それ? って人は鳥居なごむさんって人が書いた「境界の彼方」(KAエスマ文庫)を読めばいい。KAエスマ文庫っていったい何それ、って言う人の方が多いかな、あの「けいおん」で「たまこまーけっと」の京都アニメーションがひっそりと創刊させたライトノベルのレーベルだけれど「中二病でも恋がしたい」なんてアニメーション化作品を出した割には原作とまるで違ってど派手な異能(妄想)バトルにしてしまったりと不思議な展開をみせていたりして、なおかつ新しい本がなかなか出ていなかったりしてその存在と存続が疑われていたりもした。

 それがここに来て2冊も刊行。1冊は「お屋敷とコッペリア」って本をKAエスマ文庫から出した一之瀬六樹さんによる「たまこまーけっと」のノベライズだったけれどももう1冊が去年に第1巻が出ていた「境界の彼方」の第2巻で、その帯に堂々「アニメ化企画進行中」なんて書かれてあったから「中二病でも恋がしたい」のあれやこれやを見ていた層もそうではない京アニファンも今はいったいどうなるかってのを鋭意観察中。やっぱり違ってくるのかなあ、髪に分銅をつけて振ります連獅子女とか出てきたら嫌だなあ、って「境界の彼方」にはそんなキャラクターは出てこないから安心、できないよなあ、「中二病でも恋がしたい」にだってそんな連獅子女は出て来なかった分けだし。ううん。

 そんな不安は脇においてとりあえず小説としての「境界の彼方」は面白い。もうとてつもなく面白いので日本を読む人は全員が読んだ方が良いとすら思ったけれど、売っている場所が限られるのもKAエスマ文庫なだけあって最初の巻が出て結構経つのに評判にもなっていないし2巻が出てもやっぱり評判になっていないのも仕方がない。「中二病でも恋がしたい」だって原作があることを知らない人も少なくなさそうだし、手に取って読んで何このノベライズまるでアニメと違うじゃんとか怒る人だっていたりして。ううん。だから「境界の彼方」だ。こちらは半人半妖の神原秋人って少年が主人公。半分が妖夢なんでとりあえず不死身。子供の頃は妖夢を狩ることが生業の異界士から追われて傷つけられていたけれど、最近は名瀬って異界士を仕切る名家と関わりが出来て、そのテリトリー内に囲われる感じになって、とりあえず狩られずに済む立場を得て今は学生をやっている。

 名瀬はその地域を仕切るだけの強い力を持っていて、余所から半人半妖の秋人を狩りにくるような存在を退けることができる。そして秋人が通う高校には名瀬の次女の美月という美少女gあいて、秋人と同じ文芸部に所属しているんだけどこの美月がとてつもない超毒舌で、秋人を口先で虐げては秋人がそれに反論を返して突っ込むものの、美月がさらに上を行って秋人をゼエゼエと喘がせている。さらに同じ学校には美月の兄の博臣もいて、これも超絶美形名上に異界士として壁を作り防御する腕前に長けていながらも重度のシスコンで、妹の美月を持てはやしては美月からやっぱり鬱陶しがられている。毒舌にシスコンとはどういう変態揃いかと思いきや、秋人の方は眼鏡の美少女というか美少女の眼鏡にしか興味を持たないフェチ男。つまりは誰も彼も変態揃いでそんな奴らの会話だけを聞いていても面白い。アニメじゃ秋人の声は神谷浩史さんとして聞そうなんだよなあ。

 そんな秋人が学校の屋上に見つけたのが赤い眼鏡の少女というか少女の赤い眼鏡というか、それが飛び降りるんじゃないかと思いかけつけるとその少女が腕に剣を出して斬りつけてきた。とはいえ不死身の秋人は命に別状はなく、そこで秋人は栗山未来という名の少女が異界士で、そして秋人が不死身の半人半妖だとお互いに理解する。そして栗山未来は口癖のように「不愉快です」を連発して秋人を拒絶する頑なさをまずは見せつつ、学校のある界隈を仕切る名瀬の兄と妹がいる場に連れてこられると小動物のようなところも見せてなかなの可愛らしさ。そのまま文芸部に引っ張り込まれて仲良く学校生活が繰り広げられると思いきや、栗山未来には隠していた秘密があった。

 結界が張られて普通なら入り込めないその学校に、入り込んで来た謎の敵。いったい誰が送り込んできたのか。それはどうして栗山未来を狙っていたのか。彼女は誰かに送り込まれてきたのではという疑い。あるいはかつて親しかったものの、今は逃げている異界士をかくまっているのではないかという疑い。そんな疑惑を持った栗山未来と神原秋人との「不愉快です」と虐げられ、一方でなつかれる関係に、毒舌の美月、シスコンの博臣の名瀬兄妹が絡んで進んでいく。さらに名瀬の長姉で、、とてつもない異界士としての能力を持った泉も絡んで蠢くさまざまな策動。一筋縄ではいかない敵と味方の関係を描きつつ、あざやかにストーリーを紡ぎなおかつ特徴ありまくりなキャラも押し出して崩れないその構成力が素晴らしい。

 そして第2巻では拳銃使いの異界士が追われていて、それを異界士の査問会が追っているという構図に巻きこまれることになった秋人と名瀬の美月に博臣、そして栗山未来。ストレートな追跡物に見えて策謀が渦巻きその先に意外な真犯人が浮かぶ展開は、伝奇でありサスペンスでありミステリー。それでいてキャラの界隈にはコミカルさがあって飽きさせない。決して正義ばかりではないけれど、正義というものを極力貫こうとして訴え、外れても元に戻れるんだと信じて諭す秋人の真っ直ぐさが気持ち良い。それに引かれ毒舌でも美月は彼を慕い、妹第一でも博臣は彼を弟のようにかわいがっているんだろう。眼鏡にこだわる秋人の変態に、妹を絶対とする博臣の変態を楽しむも良し、そんな2人が戦う際の熱さ強さを味わうも良し、毒舌の美月の可愛さに酔うも良し、栗山未来の純朴さに惚れるも良し、そして泉のイケズっぷりに憧れるも良しとキャラ読みも楽しい鳥居なごむ「境界の彼方」シリーズ。君は誰が好き?

 なんかよく分からないけれど新潮社がやっている「女による女のためのR−18文学賞」の贈賞式があって三浦しをんさが選考委員として来場するってんで見物にいく。あああの人が「船を編む」を書いた人なんだあと思いつつそうした傑作を書いて映画化もされる一方でBL漫画のレビューをひっそり黙々と書き続けているという顔もあっていったいどこからがBLで出来ていてどこからが文芸なんだろうかと眺めてみたけど分からない。表面の薄皮が文芸で中身はだいたいがBLなんだろうかそれともその逆か。世に大勢いるBL好きの女性というのの日常を僕はまだよく知らない。知らない方が良いのかもしれない。会場には映画化された「ゼリー・フィッシュ」の主演の女性2人も来ていて会場にずっと美少女がいるなあと思っていたらやっぱり女優の人だった。そういう風に出来ているんだなあ。ともあれ今まではあんまり興味がなかったけれど来場していた過去や今回の受賞作家の雰囲気と、そして受賞作の内容を聞いてちょっと興味が出てきたので、掲載されるyomyomをちょっと読んでみよう。


【4月21日】 しかし負けて棋士って実は大したことないんじゃない的な印象を世間に持たせてしまって、これからの棋戦とかあるいは将棋教室の運営とかに差し障りも与えてしまったかもしれないコンピューターとプロ棋士との対戦という電王戦。そこで1勝3敗1分けという対戦成績、それもA級在位の8段と、タイトルもとったことがある現役9段の棋士が負けたり無理矢理な持将棋へと持ち込みかろうじて引き分けたという“醜態”を見せてしまったことは、結果として将棋界に何かメリットがあったのかと終わっていろいろ論議を呼んでいるようだけれどでも、一方であれだけ大勢の人が将棋というゲームに対してネットを通して着目し、駒を並べて動かしていくけにみえて、その裏側に多大な思考があり、そして局面を見る目があって、何より指す人の人間性ってやつもあったと理解したってのは割と大きいことのように思う。

 そこには、何か将棋とは無関係のタレントが広告塔となって大勢の人を呼び集めては、幕間に芸を見せて喜ばせたっていうことはないし、若いアイドルが歌や踊りを見せて間をつないだってこともない。純粋に将棋というゲームそのものの盤面におけるやりとりを楽しみ、盤外における丁々発止を味わって、長い時間をつき合い過ごしてそして少なくない感動を得た。テレビがスポーツ放送をしてもそういう風にはなかなかいかない状況。タレントを呼んで絶対に負けられない戦いだの、勝利の女神だのともてはやし、その表情や仕草で視聴者を集めてあとは淡々と試合を伝えては、勝った負けたという結果にのみこだわってみせる。そこにスポーツそのものを解説し、理解してもらってファンを増やし、引きつけようとする動きはない。思考もない。

 電王戦はどうだったか。コンピューターという謎めく存在の指し手を得て、それを受けた人間の棋士が指すというこれまでになかった楽しみ方が加わっていたとはいえ、そこで繰り広げられていたのは紛れもなく将棋というゲームそのものであり、見ていた人が楽しんでいたのはどう駒が動き、それがどういう結果をもたらすのかという、将棋というゲームの本質だ。サッカーに例えるなら、誰がどこにいてそのボールをどう受け取り、どう蹴ったから次の選手にボールがつながり、その周囲でサポートが動き、敵の方でも守備が動いたりするという丁々発止のやりとりを、あまねくその場その場で解説してはサッカーをプレーしている選手そのものになった気に、させてくれたようなものだった。そんな将棋のネット中継を見た人は、次に将棋を見る時があったらそれが例え人対人であっても、どういう思考で駒が動き、それがどういう結果をもたらすのかを考えてみたくなる。あるいは考えたくて将棋を見るようになる。

 凄い選手がいて凄いパスを出した、あるいは凄いシュートを打ったとだけ伝えるサッカーの競技を見て、その選手に憧れるなりその選手を見たいと試合会場に行く人もいるだろう。それはけれども選手個人の動きにすべて頼ってしまう。その選手がいなくなったら誰も行かなくなる。行っても意味がないと思ってしまう。これがサッカーというものの楽しみを教えられた後だったら? そこに凄い選手がいなくても、サッカーがあるというそれだけのためにサッカー場に通い、あるいは自分でサッカーをプレーしてみたくなる。それを将棋は電王戦という史上希なるイベントを使い、ネット中継を通して世間に対して行った。これは大きい。とてつもなく大きい。ネット上という相互コミュニケーションが可能で、長時間にわたって同じコンテンツを伝え続けられるというインフラを利用して、将棋は世間に強い印象を与えられた。それは勝ち負け以上に大きなメリットを将来にわたってもたらすんじゃんかろーか。

 そりゃあ負け越してしまって後も大変だろうけれど、1度負けて引っ込んでいるほど棋士たちも緩くはないだろう。こうやって集まった注目がただの一過性に終わらず、長きにわたって将棋界に人を呼び込み興味をもたせ、広くアピールしていく材料になると思えばこれで終わりになんかできない。できるはずがない。だから次もあるだろうし、そこでは最高峰による戦いがあるかもしれない。コンピューターが今回は勝ったなら次は人間がその超人的な思考力を駆使して戦い、勝ち抜ける場面を想像すればとても楽しい。それはF1マシーンにウサイン・ボルトが勝つことよりも案外にたやすいかもしれない。超思考するマシーンにこれも超思考する人間が挑み、その逆もあってと丁々発止のその彼方、生まれる人とコンピューターとの融合がもたらす可能性、なんてものも想像するとほら、人間の仕事を奪うからとコンピューターが虐げられ、排斥される未来よりも楽しいビジョンが浮かんでくる。だから続けてもらいたい。そして勝ってもらいたい。次こそは。期して待ちたい。

 やっとこさ見たテレビアニメーションの「ちはやふる2」は、富士崎高校のかるた部顧問を務める桜沢翠先生の醸し出している雰囲気と、声を担当している林原めぐみさんの演技とが重なってきた。最初の登場の時はほんの1言くらいで、そこには林原さんらしいキャピっとした感じがまだあったけれど、3年生の部員を相手にして非情にも1人をレギュラーから外してみせる時の声とか、それから外した強さを誉められて彼には個人戦があるからと言ってのけ、来年再来年のことも考えているところを仄めかしたりする時の声には、ただひたすらに強くて凛とした桜沢先生ならではの声が発せられていた。ちゃんとそこにチューニングしてくる林原さんも凄ければ、林原さんを起用して桜沢先生を任せる音響監督の三間雅文さんも凄い。分かっていたからこその起用、なんだろうなあ、でなければこれだけの大所をこういう役では使わないから。出番が増えてくるこれからが楽しみ。かつて挑戦した猪熊元クイーンの頑張りを見て、自分を取り戻し涙ぐみシーンまで行くかなあ。

 声ではあと、富士崎の長髪な美形キャラの山井真琴の声が斎賀みつきさんだったんだと改めて納得しつついささかの驚き。女性みたいな顔をして実は男な山井真琴の雰囲気が、男声にして喋ってるところにちょっぴり女声が滲む感じがあのビジュアルと相まって、実に曖昧で妙な空気感を漂わせる。「イクシオンサーガDT」での女性だけど男装だったキャラの声も演じたりと、そういうのが最近多いなあ、斎賀さん。山井りおんはそうか高垣彩陽さんか。ああいう能面で無表情なタイプの声も出せるのか。歌うと迫力なのに。見た目では綿谷新が謹慎している部屋でのクイーンの生着替えは、あれは見て嬉しいものなのかちょっと迷ったけれど、もしも実写ドラマ化してそれを生身の女優さんが演じてくれていたとしたら……だめかスノウマンのキャミソールにちょうちんパンツでは。うーん。演じる人によるか。うーん。

 そして6回目となる大学読書人大賞へ。1回目から見続けているけれどもやっぱり本が好きな人たちが好きな本について喋るのって聞いていても楽しいし、どれがとっても結局は嬉しいものなのだ。意見発表では立教大学の才媛(個人の印象です)が推していた神林長平さんの「いま集合的無意識へ、」とかに気分は傾いたし、明治大学の文学少女(これも個人の印象です)が推していた皆川博子さんお「倒立する塔の殺人」なんかはプレゼンも巧みで説得されてこれに票が集まるんじゃないかと思ったけれど、最終的には野尻抱介さんの「南極点のピアピア動画」が集めた票の多さで1位に輝いてSFとしては去年の伊藤計劃さん「ハーモニー」に続けて連覇を達成した。1回目のクラーク「幼年期の終わり」も入れれば3回目かあ、いっそほとんどSFの賞って印象すら見えてきた。あれだけマーケットの大きなミステリが入ってこないのはそれだけ票がばらけてしまうからかなあ、それともネタを割れない難しさから推薦が付いてこないとか。いずれにしても嬉しい結果。授賞式には行って野尻さんにパンツを飛ばしてもらおうっと。

 とある新聞が京都駅に居座っているホームレスに関する話を書いていて、わりと匂いを漂わせているホームレスを救済しようとしない京都市なり、社会の態度を怒り、ホームレスの人権にもっと関心を持ってこれを守っていこう、いずれ社会復帰へと繋がるよう後押ししようと訴える前向きな記事かと思ったら、ホームレスに人権を認めるとなかなか手出しを出来ないんだと説明する自治体を怒る筆先で、異臭をまき散らすようなホームレスにはそんな人権など認められないといわんばかりの論旨を展開する記事だった。要約すればどこかのオヤジが近所にホームレスがいて臭ってかなわんから、市役所区役所になんとかしてくれと苦情の電話を入れているような内容。それをオヤジが言うならまだしも、新聞の題字の下に何の衒いもなく、不幸な人がいる状況の改善に向けた提言を含めることもなく、どうにかしてくれとだけ書いてしまえる神経の太さに、言論というものが持つ幅の広さを感じて茫洋とする今日この頃。

 そういえばちょっと前には生活保護の問題を取り上げ、税金で生活している弱者がそこにすがって物を言うのはケシカラン、弱者にはNOを突きつけろとも書いてあったその新聞。これもまた近所のオヤジ的なロジックにまみれた“正論”で、そこを抜けだし何かを提案してこそのメディアという近代的な思考は捨てて、今を泥臭く訴えることで世間の一部に吹き黙っている鬱憤を代弁する古典的な手法を、敢えて選んでみせたってことなのかもしれない。誰かの名誉なんてものを傷つけて訴えられて裁判の場で法律的に敗れても、自省や自重を見せることなくこの国の基本を成す法律中の法とも言える憲法を論じてみせるという剛胆さも持ち合わせていたりするし。そんな慈愛や救済といった甘さを決然と憤然と排除した言葉の集合体をいったい、世間はこれからどう受け止めていくのか。その先は。気になるけれども想像するのはなかなかに大変そう。だから他人事じゃないんだってば。


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