縮刷版2013年2月上旬号


【2月10日】 ようやくやっとアニメーション版の「問題児たちが異世界から来るようですよ?」を放送された分、まとめて見終わってなかなかによくできたアニメだと了解、すでにしてチートな破壊力を持った十六夜って少年が異世界に召還されるとそこには同時に絶対命令が可能な少女と動物と会話できたりその能力を身につけたりできる少女がいてそして黒ウサギってキャラから異世界でゲームに参加しませんかと誘われる。それは実は弱小コミュニティへの誘いであってかつて隆盛を誇りながらも魔王のちょっかいで壊滅してしまったコミュニティで普通だったらとても誘われても儲かりそうもないところだれこどそこは異世界から来た問題児。逆におもしれーじゃんやったろーじゃんと加わっては、目の前に立ちふさがるコミュニティを1つまた1つと撃破して徐々に勢力を伸ばしていく。

 逆境からの成り上がりってストーリーはやっぱりそそるし、絶対的な力を持って相手をねじ伏せていく展開もやっぱり燃える。とはいえ上には上がまだいそうな雰囲気を醸し出して、チートな十六夜であってもなかなか本気を出させないところでバランスをとっていたりするのも巧妙。まあそこが完全無欠な奴らばかりだとあっというまに世界制服しちゃうから、1歩づつ見せていくことによって読者にもいっしょに壁を突破していく感覚を味わってもらおうって配慮なんだろー。とりあえず4話まで放送されて文庫本の第1巻すら終わってないから5話あたりまで使うのかな、それでも書かれてあることを全部見せきっている訳じゃないところに原作の持つ設定の深みって奴も見えてくる。これが5巻6巻と出ていて全部はアニメ化出来そうもないってことは2期とか決まっているのかな。ともあれ今、放送されてすぐに見るアニメの1つに加えよう。他は「絶園のテンペスト」と「イクシオンサーガDT」と「戦勇。」と「ちはやふる」あたり。増えないなあ。アニメへの気持ちが弱まって来ているなあ。いかんなあ。

みっくみっくにしてやろうか?  そして「ちはやふる」の方はといえば高校選手権への出場が決まったあとの決勝で両校とも出られると分かっているから北央は新キャプテンの甘糟が気楽に勝てる相手を選ぼうとしたけれど、そこは熱血な千早がいてそしてライバルの太一もいる瑞沢を相手に逃げたくないとひょろが仕組んだガチンコ対決で千早も太一もそれぞれに苦しい戦いを強いられる。ひとりボインちゃんは着物というボインが1番動きやすい服装で相手をなんとか押してる様子。西田は負けたけし確か最終的にはトータルでも負けるんだけれどそんな中でそれぞれが大切にしていることと、欠けている物を見つけ向き合うストーリーが描かれることになるんだろう。これが終われば次はいよいよ全国大会、そこではあのクイーンも登場して再びイケズな京都弁を聞かせてくれるに違いない。そこまで行くかなあ。行って欲しいな放送分。今回全何話なんだろ?

映画泥棒はビームで滅殺  せっかくだからと幕張メッセまで出むいて「ワンダーフェスティバル」。まずはくずしまきんってデザインフェスタでよく見かける、はらわたが飛び出た苺みたいな頭をした女の子のフィギュアを作っている人が今回は初音ミクを出すってんで見にいったらなるほど初音ミクだった。そしてちゃんとオリジナルのいちごちゃんだった。ちょっと面白い。こういう展開にマッチしてしまうミクってキャラの懐の広さ深さも凄いけれどもそうした造形に落とし込んでしまう腕前もなかなかのもの。こうしたコラボでいろいろなキャラを展開していくってことが可能なら、商業の世界でガチャとかいった方面で起用とかあったりするのかも。でもやっぱりオリジナルのはらわた飛び出た女の子人形が好き。去年のデザインフェスタで1つ買ったけど今度のデザフェスでもまた買おう、次はやっぱりネジが飛び出ている奴かなあ。

 それから岐阜に拠点を構えてファッションとか、フィギュアなんかを提供しているMORE THAN HOMANさんによる「異形市民プロジェクト」へと回って観察、いやあ格好いいなあ、そしてとってもクール。見る人が近寄って立ち止まり写真に撮りたくなる気もすごく分かる。今回は値段もつけて売っていたけどメインのドールを加工して布製の衣装を着せたフィギュアは2万5000円でちょっと手が出ず、それでもプラスティックモデルの玩具とかいろいろなものを寄り集めて練ったような素敵デザインの異形フィギュアは1万円を切ったものも多くって、その中から顔がどことなくカメラのようでノーモア映画泥棒をスタイリッシュにしたらこんな感じかなあ、ってのがあったんで購入する。これとくずしまきんさん家のミクとで今回のワンフェスの買い物は終わり。あとは海洋堂のガチャでクワガタとか、村上隆さんのブースで「めめめのくらげ」の前売りチケットとか。山と抱えて買って帰ってももはや家には置く場所なければ作る場所もないのだった。それでも少しは買うところが人間、諦められない存在ってことを思わせる。将来売れっ子になると良いなあ異形市民プロジェクトもくずしまきんさんも。村上隆さんはもう有名だから良いや。

 そんな村上隆さんはしきりにアウェーだアウェーだってワンフェスでのトークイベントでの状況を話していたけどもう10年くらい昔に既にワンフェスで巨大なフィギュアを展示しては話題になりまくっていた時代があって、その時はアウェーって感じもあんまりなくって大勢の観客を集めそしてフィギュアもいっぱい売れたりして、村上さんの進む道とワンフェスって造形のイベントが進む道がクロスした瞬間って奴を多いに感じさせてくれた。決してガレージキットを簡単に塗ってはいとか置いたりしないでしっかりとガレージキットの文法に乗せて大勢のアドバイザーも絵ながら商品にしたその活動は、むしろメインストリームにあったと思うんだけれどその後、あんまり重なってはおらず10余年たって再び戻ってきて、妙にアウェー感を訴えるのはその方がプロレス的な対立軸を見せられて、双方にアピールできるからなのか。それとも作っているものが珍奇過ぎるのか。イベントでの話をきくと音楽にダメが出されたり特撮がカットされCGに変更されたりと紆余曲折ありまくり。本当に4月末の公開に間に合うか、って気もしてきたけれどそこはアーティストならではのこだわりと理解しつつ、その上で商業に乗るべき作品になっているか、見に行こう、前売り買ったし、行くしかないじゃん、なあおい。


【2月9日】 24年かあ、手塚治虫さんが亡くなったのが1989年の2月9日でその頃はもう仕事に出ていて1カ月ほど前に昭和天皇が崩御されて元号が平成に変わってはいたけれども、どこか引きずっていた昭和がこれでスコンと切れたなあ、という印象を強く抱いたっけ。それはどうやら僕だけではなかったみたいで、同じようなことをあちらこちらで命日に合わせていろいろな人が語っている。それでもまだ美空ひばりさんのような偉大な人も存命ではあったけれども同じ年の6月に亡くなられてこれで、昭和の終わりを強く感じ取った人もいたんじゃなかろうか。

 もちろん今もまだ存命の昭和を感じさせる人もいっぱいいるけれども、巨人と卵焼きに並び称させた横綱大鵬も先ごろ亡くなられたりして、昭和もどんどんと遠くなる感じ。これで王貞治選手に長島茂雄選手といった面々の訃報なんかが聞こえて来ると心からどんどんと昭和も抜けていくことになるんだろうなあ、幸いにして2人方とも大病を患いながらも健在。何より平成を象徴する今上天皇陛下ご自身が、昭和の時代にご成婚を経て皇太子として世にその姿を大きく訴え印象づけてこられた方だから、今の御代はある意味で昭和の空気をそのまま受け継ぎ感じさせる物でもある。それが次へと移るときにいよいよ昭和も遠くなりにけり、って感じることになるのかもなあ。でもなるたけ長く平成を。これでなかなか楽しい時代だ、アニメも漫画もゲームもいっぱい楽しめて。

 明けて届く「スタードライバー THE MOVIE」の先行上映会の報に掲載された9nineが観客席をバックに「綺羅星っ!」ってやってる写真のだいたいほとんどに僕が写ってたラッキー。後方から数えた方が早い場所にいたんだけれども中央からちょいズレてた関係もあってメンバーに隠れずその端っこにいるメンバーの頭の上くらいにちょろりと顔がのぞいてた、もちろん「綺羅星っ!」ポーズで。これは僥倖、あるいはこの映画そのものがそうやって僕の存在が9nineとともに「綺羅星っ!」ポーズで記録されるために作られた映画なんじゃないか、って気がしてきた。または副部長のグッズが作られ大人気になるための。昨日の時点ですでに売り切れ気味だったし、封切られた今日もだいたい売り切れになってたみたいだし、大人気だなあ、副部長、その割に映画の中ではただのキツネだったぞ、ってキツネじゃないのか副部長?

 そして聞こえてくる「スタードライバー THE MOVIE」そのものの評判。ましょうがないって感じの物が多数。冒頭に大きく掴みと笑いをとって期待させながらも本編はだいたいが総集編でそれが2時間半も続くと流石に誰もがトイレを我慢できなくなるだろうなあ、先行上映会なんて前に9nineのライブと舞台挨拶もあったからそれを含めると3時間以上。耐えられる膀胱なんて存在しないっ! て訳でもないけど結構な人が上映中に外に出ては戻ってきていた。僕はといえば舞台挨拶の直後に1回、抜けて用足しを済ませて置いたから良かったけれど、それがなかったら大変だったかも。まあおさらいしてあの長かったテレビの要点を、Wikipediaで読むんじゃなくって映像として見られ理解できたって意味では有り難かったし、動くプロフェッサー・グリーンや頭取やスカーレットキスを拝めたのも嬉しかった。あとタイガー&ジャガーも。そういう魅力を備えた作品。だから今度はそっちメインの映像を、見たいなあ、見せて欲しいなあ。

 自分のしていることに意味なんかあるの? なんて思いこんでしまって前へと進む足が止まってしまった時には、英アタルさんって人が書いた「ドラゴンチーズ・グラタン」(このライトノベルがすごい!文庫)を読むと良い。無理だと諦めないことでもたらされた1つの素晴らしい笑顔を思えば、自然と足は動き出し、体は前へと進んでいくはずだから。ある理由があって、料理と医術の融合を目指しているけれど、不器用なのか失敗ばかりしている少年のレミオが主人公。でも彼は諦めない。名コックの下で働きながら、怒られて悩んでもそれでも自分で立てた目標に進む。なぜなら彼には過去があった。そして救われた経験があった。その経験を糧に多くを喜ばせたいと思い励むレミオの前に、竜と人間の血を引く難病の少女が現れる。

 混血であるが故にエネルギーを作り出す器官がうまく働かず、かといって普通の食事もとれない少女のためにレミオは、彼女が生きてもっと食べたいと思ってもらえる料理を作ろうと食材となるマンドラゴラを探す旅に出て、そこで凶暴なはずの竜を手なずけ歩く、アイソティアという竜に近い種族の少女と出会う。ちょっと前に村を襲っていたはずの竜をどうして、アトラという名のアイソティアの少女は手なずけていて、そしてどこかに匿おうとしていたのか? 人間からはあまり良く思われていないらしいアイソティアでありながら、「世界を丸くしたい」と願いそれを訴えながら正義のために戦おうとするアトラの目的は? 彼女にも過去があって、それで誰も争わない世界を目指し、けどうまくいかないで悩みながら、やっぱり諦めようとしてないアトラと出会って、レミオはかつての自分を思い出す。

 そしてレミオとアトラは協力して、お産のための場所を探していた竜を倒そうと目論む元司祭の青年に立ち向かう。彼も同じように壁にぶつかり立ち止まった過去を持っていて、そんな3人がぶつかりあった先に起こることは? 面白いのは悪人がだからといって正義の味方に敗れても、善人にはならずに元司祭の青年は、彼なりの信念をやっぱり貫こうとする。それには理由があり、レミオたちに留め立てすることはできない。そんな、正義の美名にくるまずやれることをやり、且つその果てに得られる結果に責任を取る行き方も、あるんだと感じさせる。「ドラゴンチーズ・グラタン」は前を向き未来を見て、生きる気構えをくれる物語。エンディングに提供される料理は美味しかっただろうなあ、それはアイソティアと人間の混血のクレアだけでなく、大勢の心を奮いたたせただろうなあ。なんて散々書いたけれども要点は1つ、竜の子供が可愛すぎる。あとアトラ。その笑顔の裏に抱えた葛藤は、なかなか壮絶なものがあったんだなあ。よくがんばった! そしてこれからもがんばれ、世界を丸くするために。

 えっとほとのどラブコメで、これからもラブコメでいくかもって思わせたけれどもいよいよ明らかにされた吉野の恋人の正体に、起こるだろう混乱は安易なラブコメ展開なんか吹き飛ばしてしまいそうな「絶園のテンペスト」。エヴァンジェリンはどうして行く先々でナッツを買うのか、っていうか欧州でもやっぱりナッツは土産物の王様なのか、分からないけど出番も増えた彼女がシリアス展開で引っ込まないかと心配。それからやっぱり気になる真広の反応。最愛の妹を彼女にされてそれで殺害されて。その犯人が絶園の魔法使いしかあり得なくってそれが吉野かもしれないとあっていったいどう思うか。いやいやあるいははじまりの魔法使いの葉風が吉野を思ったせいで過去に理(ことわり)が作用して愛花が死んだとか? それなら犯人はやっぱり葉風? 過去からだって来られるんだから過去に戻るくらい分けないというか未来すら見通すはじまりの樹にはたやすいことというか。そんな想像合戦がまた始まりそう。せっかくいい感じにコメディだったのになあ。まあ最後まで付き合おう。


【2月8日】 「ソードアートオンライン」っぽいかもなあ、って最初思った山口優さんの「アルヴ・レズル 機械仕掛けの妖精たち」(講談社BOX、1200円)はネットに耽溺できる環境が整いそれに浸っていた人たちの心が30万人ほど一気に持っていかれるという事件発生。それに巻きこまれた少女の兄が真相究明もかねて事件の発端となったメガフロートへと乗り込んでいったらなぜか病院で眠り続けているはずの妹が生き返って現れた。なんだ治ったのか? どうも違う。一人称がボクは明らかに妹ではないし、当人も自分が誰か分からないという。何より火を恐れない。彼女の本当の両親が事故した時に受けたはずのトラウマが消えている。これは誰? 誰なんだ?

 なおかつ復活した妹は、突然現れた軍用のロボット犬を操る少女と相手にハッキングめいたことをして戦い強敵なはずの相手を退かせる。あらゆる電子回路に侵入して操る能力があるらしい。ますますもって誰なんだ。そんな会話をしつつ最初は憤り出て行けと思うものの、相手も自分の体を失い心だけでさまよっているかもしれない存在。そして真相に近いところにもいるらしいと分かって少年は彼女と共同で事件の調査に向かうことにする。そして襲ってくる敵は扇子を動かし空気を自在に操り暴風だって平気で起こすバタフライ効果の権化のような少女だったり、街の外れで人を襲って金を巻き上げたりしている少女だったりと様々。そしていずれも共通して例の事件の後でどうにかこうにか体へと戻って来れたと同時に不思議な能力を身につけていた。

 そんな彼女たちと出会い戦い勝利し仲間に加えて真相に迫っていく、というのがひとつのストーリーで、風使いだったりムチ使いだったりとテクノロジーの粋を集めて生み出される科学的な論拠を持った異能を相手に、少年とその妹が持てる力をどう使い、挑み倒していくかという部分がひとつの読みどころ。そして妹の中に入っている存在がいったい何者で、そして30万人の心が奪われた事件の中心にいるらしいというのは本当か、それ以前にそもそも妹という存在はいったい何だったのかといった新しい問題が立ち上がっては兄の少年を悩ませる。

 いったい誰が本当の妹なのか。それはそもそも本当に妹だったのか。問われる人間性とは何かという問題。さらには人間を超える知性が存在する可能性。そんな様々なテーマを含んで描かれながらも読めば実に分かりやすい美少女たちによる異能バトル。一部美少女なの? って思わせる人物も出てくるけれども小さいけれどもちゃんとあるならそれは美少女なのだってことで。範野秋晴さんの「特異領域の特異点」シリーズにも相通じるシンギュラリティの問題を含んだSFアクション。SF新人賞出身だから読まれるんだろうなあ。「特異領域の特異点」も読んで欲しいなあ。

 ふと気がついたら「デ・ジ・キャラット」が15周年を迎えていた。もうそんなに経ったのか。ほとんど最初の頃から見ていてそしてテレビCMのバックに使われた最初の「Wellcom」のCDも買って部屋のどこかに転がしてあるくらいのファンだしTBSの5分番組でアニメになったのも全部みたしDVDも買ったくらいのファンだしでじこの帽子と手袋がセットになったのも買ったくらいのファンだしぷちこの等身大まではいかないけれども大きなぬいぐるみを買ったくらいのファンだしアロハも持ってるし湘南ベルマーレのプラクティスシャツも持ってるくらいのファンだけれども最近の動向にはちょっとご無沙汰で、フロムゲーマーズの片隅に乗ってる漫画を読んでああまだ頑張っているんだと思う程度になっていた。申し訳ない。

 でもこうやって15周年ってことでちゃんと盛り上げてくれるところはブロッコリー、その会社が発展していった過程にあったコンテンツにその生みの親ともいえる創業者別のところでヴァンガっていても気にせず取り上げるくらいに愛着のあるキャラクターって認識なんだろうなあ。こげどんぼさんも早速記念の漫画を寄せてその謎めいたものを露見させていた。株価は安定しているからひとつ障害はないけれども声優さんたちが果たして戻ってきてくれるか、って前にだから新しい声優陣を入れたじゃないか、ああでも明阪聡美さんはともかくぷちこの人が休養中だったりするのかな、新宿で開かれたオーディションを見たけど可愛くて頭の良さそうな人だっただけにちょっと心配。オリジナルメンバーでの復活、なんてことになったら乱舞する狂気もありそうだけれどそこはひとつ、ダブルキャストで本物偽物入り混じっての大乱闘って奴を見せてほしい。もちろんピョコラとP・K・Oも一緒にだ。

 アプリポワゼったぜ。明日から上映がスタートする「スタードライバー THE MOVIE」の先行上映会のチケットが抽選で申し込んだら当たったので颯爽登場タウバーン、いそいそと劇場へとかけつけたらボンズの南雅彦社長らしき人からこんにちわと言われ僕に言われたのか僕に良く似た人に言われたのかちょっと迷う。僕はもちろん南社長をよく知っているけど向こうがどれだけ知ってくれているかというのがこれは南社長に限らずいつも不安になるのだった。1回2回取材したくらいで顔を覚えてもらえるとも思えないのがこの稼業だしなあ。まあそれでもご挨拶しつつ上映開始を待っていたら9nineというグループが現れ歌って踊って喋ってた。5人しかいなかったけど。5人で良いんだよ。そうなのか。

 テレビ版の時もエンディングとかオープニングを担当していた9nineには「私の優しくない先輩」で主演していた川島海荷さんも入っていたけどあの時の顔立ちと今回のメンバーに混じった顔立ちが一致せず誰が誰だか。あと当時はどこかつたない印象もあったけれども今回は劇場って場で広くもないところで歌い踊りながらもスピーディーなダンスを見せ、そしてしっかりした歌声を聴かせてくれたところに一日の長というか進歩が感じられてなかなか良かった。アイドルユニットな割には早期に解散もしないでちゃんと同じメンバーで2年くらい続けている。それだけ愛着がメンバーにもあるし、支持しているファンも多いってことなんだろうなあ、会場も今日はそうしたファンが多かったみたいだし。でも出演が終わっても返らずちゃんと映画を観ていくところはなかなか。やっぱり好きなんだな、9nineのファンは「スタドラ」が。

 さて映画はといえば放送で全部を見てそしてブルーレイディスクも揃えた身にはなかなかに懐かしくって本編を思い出す良い機会になったと言っておこう。帰ってまたブルーレイディスクを見返したくなって来たよ。全体にしっかりとした総集編で某マクロスななみたいなアクロバティックな手法も使ってなければガラリと味付けを変えたり敵味方設定を根底からいじることもしないで、本編のストーリーを本編の順列に沿ってしっかり流し見せてくれた。だいたい長さで2時間半? 結構な長さなんだけれどもテレビの時にだいたいストーリーは把握してたキャラクターにも特徴があったから飽きずに最後まで見て行けた。その辺も良い仕事ぶり。

 もちろんあれだけの分量を全部とらえるのは無理だから、例えば頭取とかあるいはプロフェッサー・グリーンとかいった面々を相手にしたロマンスもバトルもダイジェストにされてしまってはいたけれど、封印の鍵となる巫女たちを相手にしたドラマはしっかり描いてあの島が、あの世界がどういうルールに縛られていて、それをどう打破していくかって奴をしっかり見せてくれた。その後、って部分もちゃんとあってみんな頑張っている様子。なによりサラリと消えたさかなちゃんがちゃんと加わってくれたのは嬉しいところ。そしていよいよ始まるタクトとスガタとワコとそして巫女たちのバトルの行方や如何に、って続編なんかも期待したくなってきたけど、やらないかなあ、「エウレカ」だって続編が出来たくらいだし。


【2月7日】 それで結局のところ橋本聖子議員は告発した15人の女子柔道家の名前を出すべきって言ったの言わないの。共同通信が流した最初の記事ではそう言ったってことになっててそれでスポーツ新聞各紙も掲載してこりゃ大事って感じに伝えてたんだけれど、夜になって会見ではなくFAXでそんなことは言ってないと全否定。でも翌日になってほかの新聞各紙を見ると最初はどうやらそう言って、けれども後になって否定したって感じのニュアンスになってて共同も前のを取り消さず、軌道修正したって感じの記事を流してる。

 ってことはやっぱりそう取られておかしくない言説があって、けれども反響の大きさにそうではないと否定するしかなかった、って見て取るのが普通の感覚。表面において取り繕いはしても、内心においてどこまで選手達の保護をしつつ真相を究明する気構えがあるのか、ってところで疑問符がついたままJOCの理事として対応していけるのか。ここはだからやっぱり別の機関を設けて調査した方が良いんじゃないのかなあ、もはやJOCも全日本柔道連盟と“結託”して事態を表沙汰にしなかった当事者として含めて、解決能力に欠けていると判断して。でもできないか、それができるならとっくに事態は進んでいるはずだし。

 朝に起きて東京ビッグサイトにでも行こうと地下鉄に乗る途中でスポーツ誌の「Number」を見たら表紙がフィギュアスケート選手の羽生結弦さんだった。高橋大輔選手とか世に知られたスケーターもわんさかいるこの世界で、浅田真央選手でもなく羽生選手をトップに持ってくるところに今、フィギュアでは羽生選手がやっぱり注目の1人であり将来性が高い1人であり、何より部数を稼げるビジュアルプリンスの筆頭だってことを強く印象づけられる。確かに可愛いものなあ、そして巧いし、何より強い。だからこそファンもいっぱいついて大阪である四大陸選手権をはるばる見に行こうって人も大勢あらわれる。しばらく前は男子のショートプログラムなんて客も入らないプログラムだったんだよなあ。それも様変わり。きっと会場はすさまじく絢爛豪華な場として盛り上がるんだろうなあ。ちょっと見てみたいかも。

 きっとそれは投げ入れられるぬいぐるみになんかも現れそうで、あれやこれやと放り込まれてそれを抱える羽生選手も大変そうだけれども、やっぱり今なら投げ入れるなら「アイリン」かなあ、アイスリンク仙台のキャラクターで、今はカナダで練習する羽生選手がずっと利用していながらも、東日本大震災で大きなダメージを受けてしまったリンクの復興支援のために作られた。グッズも結構作られていて羽生選手が出場した大会なんかでも売られていたらしくって早くから追っかけしてた人の間では大人気に。売り切れになっていた品もあったけれども四大陸選手権の会場にはブースも作られ復活販売もされるとか。気がつくと後ろに本人が立っていた、なんてことはないだろうけどでもすっごい行列ができそう。それもちょと見てみたい。

 そんな「アイリン」のキャラクター化に協力しているスタジオフェイクのブースも出ていた東京ビッグサイトのギフトショー。セバタンは来てなかったけれどもセバタンを案内キャラクターなんかに使って児童書なんかを売るコーナーが、書籍流通大手の一角を占めるトーハンとのコラボレーションで作られるそうでいったいどんな感じのコーナーになるのかちょっと楽しみ。書店もただ本を並べるだけじゃなくって滞留できる場を作らないとなかなか子供やその親たちに来てもらえない。そうなると本も売れないってことで流通側が書店に提案するサービスの1つとして、そんなコーナーを始めるんだとか。グッズも売られるそうで今はなかなかお目にかかれないセバタンに、出会える機会もこれでちょっとは増えるかな。あの蝶野選手が出ていた「エコエコセバタン」の再評価とかもあると嬉しいな。

 そんなギフトショーではしばらく前から日本での普及を目指してたチェコアニメ「アマールカ」のブースがあっていろいろグッズが増えていた。原宿のキディランドにもコーナーがお目見えしたそうでこれでヒットしてくれればテレビでの放送なんてこともあるのかな、「チェブラーシカ」とかみたく人気再来から新作の登場なんて行ってくれたら面白いんだけれど。あと「OJADESIGN」っていう革細工のブランドがあってそこが出してた革をパッチワークして作るiPhoneケースとか財布とかストラップとかがメチャ格好良くってちょっと欲しくなったけれども残念、iPhoneとか持っていないのだった。切り張りして重ねたような革のそれぞれに色合い風合いが違って1つとして同じものがないのだ。キャラっぽいデザインのとかあの田宮模型とのコラボとかもあってクール。持って歩けば人気者間違いなし。買うかiPhoneじゃなくiPod touchの方を。

 そうそう「Number」の方は各選手のインタビューとか面白かったし、突発的な柔道界の問題について1ページだけど書いてあってそこに五輪で世界を知り他の競技の師弟関係を知った女子柔道選手たちが自分たちのところは何か妙じゃないかと気付いたんじゃないかってことが書いてあって、五輪っていうあらゆる競技がそこに集う場、世界から競技者が集う場の持つ意味合いってものを改めて知った感じだったけれど、それよりやっぱり最高だったのがマツコ・デラックスさんと伊藤みどりさんの対談。マツコさんがもう滅茶苦茶にフィギュアを詳しくってそして懐かしさもあって読んでいて何度も「うんうん」と頷いてしまった。ありがちな男子選手萌えー、って感じでもないんだよなあ、女子選手のこの20年をサラサラとふり返ってみせるとこなんか。

 それは伊藤みどりさんも驚くくらいで、世界選手権で優勝した1989年の滑りよりも翌年の、最初に出遅れたのを一気に挽回して2位までたどりついた1990年の滑りの方が素晴らしいって言うって伊藤みどりさんが「詳しい」って答えていたくらいだから。それほどまでに知識が豊富なのにテレビとかでフィギュアスケートについてコメントしないのは基準が「伊藤みどり」だから。あの時代にあのジャンプを見て来た人間にとって高さも速さも強烈過ぎて、すべてが「対みどり」となってしまって今の競技の評価基準から判断できないかららしい。もちろん今だって見ているだろうからその基準でどうこう言えば言えるんだろうけれど、そこがマツコさんならではのこだわりって奴なんだろう。でもホント、あの高さ速さは今も誰もできないんじゃないのかなあ、男子以外、っていうか男子だってあの高さで飛ぶ人っているのかなあ。高精細の映像ソフトで出ないかなあ、伊藤みどり伝説。


【2月6日】 「ロリ魂」とは爺さんなかなか勇者だな、勇者だってば「戦勇。」は可愛い魔王を可愛いからと助けようとする甲冑爺さんが現れては、魔王を狙う別の勇者を相手に立ち向かって丁々発止。そしてそこにようやく現れた戦士が相手の必殺技をその技名が言い終わられないうちに自分の武器をぶつけてはね飛ばしてこれにて一件落着、戦いに油断は禁物ってことで、ええ。

 そんな感じにズラしズラしていくのがたぶんこのアニメーションの面白さ、それを5分番組の実質どうなんだろ3分半くらい? の中にぶちこみテンポ良く見せる技ってのが必要なのを監督はちゃんとやっているって言えるのかな、言えるんだろうな、本当は緩急の緩だけで10分持たせる「らき☆すた」の1話のチョココロネ話みたいな技が見たいんだけれど、でもいいや、何かやっているのを見られるだけ。魔王ちゃんもっと喋ってくれないかな。

 なんとうか真っ当が失われていく社会というか、普通に考えれば非難囂々となるだろうと想像すれば分かることを、まるで想像しないでやってしまってそれで突っ込まれてもなお自分が何か間違っていることをしたという自覚もなしに、突っ走っていこうとする人が少なからずわらわらと現れている状況にこの国の、未来のどうしようもないかもしれない症候群を思って嘆息する。息が白い。外は雪……じゃねえじゃん。

 まあそれは気象庁の責任であって、責任者が丸刈りにして「太陽でーす」と笑いをとれば済む話だけど(済むんだ)、政令指定都市の区長が区の行う事業のチラシだのポスターだのホームページのデザインを、誰かタダでやってくれませんかねえ、ここで仕事してるってちゃんと名前は載せるから宣伝になって良いでしょ、ああでもそのデザインとかめちゃ人気になっても権利はこっちだから、って呼びかけてタダって何だよデザインなめてんのと突っ込まれて大炎上。

 するとボノボノだっけ、プロポリスだっけ、そんな用語を持ち出して来ては、お金があって仕事もある人がボランティア気分で区に協力してくれたって良いんじゃね? そうでなくてもアマチュアとか学生とかには、タダでもいいから名前を出してもらいたいって人はいっぱいるんだから、そういう人にやってもらえるならやってもらいたいって言ってるだけで、こっちに責任はないんんじゃね? ってなことを言い出して来たからたまらない。

 何であれ公共機関が誰かに仕事してもらったことに、対価を払わないなんてあって良いのかこの唐変木、それはブラックな企業がブラックな賃金で労働者をこきつかってそれで働きたいんでしょ働くところないんでしょ? だから働かせてあげているんだよ何か問題あるの? って言っているのと同じなんだと突っ込まれても、どこ吹く風と知らん顔して今なおアイディアを貫き通す構えでいる。それをナイスと讃える周辺もわらわらと現れとっても気持ち悪い状態。

 ボランティアでできるところはボランティアに回しましょうよ、この不景気な時代には、って基本的なスタンスから始まったことだとするなら、それはそれ、政府なり自治体のスモール化ってものにそぐう施策ではあるんだけれど、そうする事がこれまでは誰か近所の印刷会社あたりにコンペして、作ってもらていたような仕事を学生とかアマチュアが、タダでもやりたそうだからやらせてみますと振って、それで1つの雇用を奪いそれによって回っていた経済を止める可能性があるって、想像してなさそうなのがどうにもこうにも薄っぺらい。

 もうそういうのにお金を回している余裕がないんです、でもこの素晴らしい区を済んでいる人たちで盛り上げて活性化していきませんか、そのためにお知恵を拝借したいといって呼びかけるんならまだしも、そんな仕事に金なんて払ってられないよ、って意識をのぞかせてしまっているところに、食らう反発の大きさもあるんだろうけれどもボクなにか間違ったこといった? って面構えで今もいるのどうにもこうにも。本気で心底から思っているんだろうなあ、自分は素晴らしいことやっているって。

 だったらそもそもが未来の国政とかを狙って、今は区長って場所に公募で入って腰を落ち着けている自分が、一種のボランティアとして無償で仕事をすればいいのに。だって政治にはまるでアマチュアな訳でそれでお金とっちゃ悪いでしょ、でもそうした場所にいるってことで世に名前が伝わるんなら、それはそれでひとつの報酬、だから給料はいりませんって言えば何か、そういうものかと理解してあげようとする人は出るかもしれない。

 そういうところでボランティア精神を見せないで、下にボランティアを押しつけるのってどうよってな話。っていうかボランティアってボランティアでやってよと押しつけられるものじゃないでしょ、そうしてあげたいって思った人が集まって、何かしてくれるのがボランティアでしょ。そういう誘いもなしにやってよタダだけど名前は売れるよってな態度だから誰もが怒る。背を向ける。そこに気付かないうちはもう、何をやってもダメだし何かをやらせようという気にもならない。いったいどうするか。変わらないんだろうなあ。

 むしろ自分の報酬は棚に上げてボランティアで出来そうなセクターをどんどんと削ってボランティアという名の無償労働に頼るのかも。システム開発みたいなものは電子専門学校に頼んで宣伝になるから良いでしょ、とかいってそこの学生をつかって組ませて仕上げさせるとか。学校の先生は免許持っていても採用されていない人を雇って教えたいんでしょ教えさせてあげるから給料なくても良いよね、とかいって集めるとか。なんかトンデモな教師とか混じってきそうだなあ。

 いっそだったら管内にある動物園なんかもボランティアにしたらどうだ、ご近所で飼われている動物か、あるいは住居を持たない野良の動物に呼びかけて観客に見てもらえるから集まってって言ったりするかも。でもって夜は街でくらしているワニが、朝になると出勤していっては檻にあいって観客に愛想を振りまき、夜には帰ってきてチェブラーシカと遊ぶんだ、ってワニのゲーナかよ。そうか「チェブラーシカ」って革新的な話だったんだ。

 真っ当さが通用しないのはこっちも同じか、例の柔道女子日本代表の監督による体罰をめぐる騒動で、名前を隠している15人の告発者の名前を公表しろよって声なんかがもわもわと起こっている。最初は元スピードスケート選手でJOCの人間でもある橋本聖子議員が公表を求めたって話があって、本人いわくそれは違うってことらしいけれど、そう“誤解”され得る言説なり風潮があったってことだけは伝わってくる。

 次に15人から告発を与った弁護士の人がそういうこともあるかもね、なんて言っておいおいクライアントを守るべき弁護士がそんなこと言っていいのかよ、って思わせたりもして、元柔道選手の山口香さんがそれはダメだあり得ないとコメントしたりして丁々発止。あるいは公表がどれくらいヤバいことなのかを、ロールモデル的に敵味方に別れて演じて見せただけとすら思えるけれども、そうやって公表がひとつの選択肢としてあり得るかも、なんて世間に思わせてしまったことには代わりがない。

 けれども、内部告発ってのは自分の弱い立場では、名前を言えばいろいろと内外から圧力をかけられ押しとどめられ握りつぶされ非難されるる可能性もあるから、名前とかは非公表にして、その身の安全が確保された状態で行われなければ意味がない。それが企業の世界でも、他の世界でも共通のルールとして尊ばれている。にも関わらず、相手を辞めさせるだけ辞めさせておいて名乗らないのは卑怯だ、ってな感じの論調をぶつけて来たりするところがあっていったいそれで、内部告発なんてことが行われるようになるのかって問い直したくなってくる。

 とりわけ悲惨なのが、そうした内部告発者の名前の公表を新聞社の記者が必要だと訴えていることで、そうしなければ告発者の痛みが伝わって来ないとか言っていたりするから阿呆というかど阿呆というか。日常的に暴力がふるわれプレッシャーがかけられ辱められ、それでも怖くて言えなかったことをどうにかようやく勇気を振り絞り、告発に至った選手たちが抱える恐さも痛みも想像できないのか。どれくらい大変な日常だったのかを感じ取れないのか。出来ないとしたらそれは余程の鈍感か、あるいはより強い刺激に相手の顔が歪むのを見たいサディストでしかない。そういう風に思われるかも、って想像するなら、いや少なくともメディアの人間だったら告発者は名を名乗れ、でなければただの卑怯者だと言わんばかりの論調なんて放てない。
 だってメディアって告発者から告発を受けてそれを記事にして、権力なりと戦う役割を持っているんだよ、そこに話を持ち込んだら、名前を出すよだって相手に失礼じゃんと言われる可能性があるかもしれないかったら、いったい誰が話を持ち込むのか。そうすることが世間にあなたの痛みを伝えられるんだからと懐柔にかかりそうだけれど、それで返ってくるのは裏切り者だの輪を乱すだのといった非難。だったら告発なんてしたくない、って思ってしまうだろう。

 それともそうした内部告発を、しづらくして潰してしまおうって魂胆でもあるのかあの記事には。だったら大成功、どう見たってあの記事が与しているように見える側が望んでいるのは、内部告発なんてものが起こらないようなプレッシャーをかけることだから。そんな公平性のかけらもなければ公共性への意識も足りない記事が堂々と書かれ、乗り、広められてしまう体たらく。案の定、集まるのは囂々の非難なんだけれどそれすらも炎上上等と受け止めているっぽいからなあ、失われている物の大きさに気付いてないんだろうなあ。困ったなあ。ハラキリ歓迎、体罰上等とぶち上げる人もいたりするし。本当に困ったなあ。


【2月5日】 「夜のベルセルク」、って書くと何か淫靡な空気が漂うけれども、そもそもが「ベルセルク」はセクシャルでバイオレンスな描写が満載なハード漫画で、それをアニメーション化した映画「ベルセルク 黄金時代篇」も2あたりからそうした描写が増えて3の「ベルセルク 黄金時代篇3 降臨」ではもう何度も何度もそうした描写が出たりするから、普通版でも15歳以上しか見ちゃいけないって指定が。さらにオリジナル版はもっと過激な描写もあるから18禁になっていて、それが東京では新宿バルト9の夜にだけ、上映されるってんで「夜のベルセルク」はやっぱり淫靡さ満載か、って期待して見たらううん、とりたてて量が増えてるって感じはなかったなあ、明るくされて少しは見えていた、ってくらいだけれど、それだって実写じゃないからくっきり奥までって訳でもないしねえ。描かれていないものは見えません。それがアニメの真実。

 あるいはフェムトにされまくった挙げ句に倒れたキャスカの、お尻方向からの絵は通常版にはなかったか、覚えてないけど今さら見に行くてのも面倒な話、ガッツがドラゴンころしを持って旅立つエンディングの後に、どうでも良い歌がくっついてきて長いから。誰が望んだ訳でもないのにそんなところにくっつけられて余計扱いされるアーティストが何か可愛そう。せめて普通にエンディングに使ってあげれば良かったのに。原作の漫画だとキャスカがあの後魔物を生んでそれが来て、そしてフェムトなり新生・鷹の団との戦いという“本筋”に突入していくことになる訳だけれどそれが映像化される時ってのはやっぱり来ないんだろうなあ、やりだすと終わらないし、漫画だって終わってない訳で。そうした作品を映像化する意味、って何だろう、やっぱり原作の販促? 単体としての映像作品として見て面白いか、って処に帰結するなら「ベルセルク」3部作のとりわけ「降臨」は、余韻が大きすぎるかなあ、だからこそ期待もするんだけれど、続きに。

 テレビアニメーション「UNLIMITED 兵部京介」はパンドラご一行の浅草見物回。しかしあれほどまでに超能力が疎まれているとは過去にいろいろあったんだなあ、バベルがいくら頑張ったところで超能力を使って悪いことを起こす人間がいれば、それを防ぐためのバベルだって正義の味方というより同じ穴の狢が内輪でけじめを付けたりつけられたりしているだけ、一般人はそれに巻きこまれている可愛そうな人、っていう意識しか情勢されないんだろう。そりゃ兵部だって怒るよな。政府がだったらもっとアピールすればってなるんだろうけど、その政府が超能力を武器としてのみ、使おうとしてたんだから兵部のような存在も生まれ使われ怒り暴れて今に至ったってことで、便利でちょっと違うだけ、って意識が人間に育まれるなら宗教とか、人種とか部族が違うってことでこれだけの戦いは起こらない、か。なかなか大変。しかし蕾見不二子ちゃん、あのサイズあの弾力なのにいったい何歳なんだろう。

 それでいうなら中維さんの「斉藤アリスは有害です。 〜世界の行方を握る少女〜」(電撃文庫)も異質な存在への足りない優しさが生む不幸をどうにかしようと少年があがく物語。。身の回りに災厄ばかり起こり、遂に世界で唯一にして始めて「有害者」認定されたアリスという少女の物語。幼い頃からそれは起こり、次第に彼女に原因があると分かって隔離され、かといって殺害する訳にもいかないからそのまま生かされ、やがて学校にも通って良いとのお達しが出たものの、髑髏のマークが描かれたケブラー繊維の傘をさしたアリスが出歩く際には街に警報が鳴り、誰もが身を隠して通り過ぎるのを待つ。下校の際も同様で、警報がなるまでアリスは家にも帰れない。自由に振る舞えば起こる災厄。両親だってそれで亡くした。だからアリスも無理して動かない。

 学校ででは世話係がつくけれども人によっては担当したその日に病気になって休んでしまう。近寄るだけで怪我をし病気にもなると忌避されるアリスに1人、挑む少年がいた。順番に回ってくるアリス世話係になったのを幸いと、少年はアリスに近づき災厄など迷信だ偶然だと押し通してコミュニケーションを深めようとする。むしろ観察したいという好奇心が先に立っただけなのか。すぐに災厄に見舞われ退散するかと思われたものの、どういう訳か少年にはそれほど災厄が向かわない。なぜなのか。そんな辺りから、アリスの振るう力の方向性が見えてきて、それをどうにか癒そうとするみんなの頑張りへと話が向かっていく。

 外からの敵意に繊細過ぎる少女のこぼれる力を、優しさで癒す物語、ってことなのか。なるほど少しでも適意を見せた者たちへと地球の裏側まで迫るアリスの災厄は凄まじいけど、そこから憎しみを連鎖させて何になる? 持って生まれた異能を受け入れ包み込む優しさが少女を救い世界を救うのだと知る。それが中維さんの「斉藤アリスは有害です。 〜世界の行方を握る少女〜」だって言えるかも。しかしラヴちゃん先生もユニークだけれど同級生で委員長の長谷川もユニークだなあ、何か組織だって大々的にオカルティックな集団が裏でアリスを操ろうとしているかと思ったら、ただのネットでアリスをそう祭り上げる集団でしかなかったとは。そうなるとアリスの力はどう生まれ、どう及びそれでいてどう抑えられるのか。そんな辺りに迫る続編はあるのかな。良い結末なのでドタバタがエスカレートしていく展開にしないでこれで終わりってことでも良いのかな。

 一定数のプロを入れなくちゃいけないとか、疲れ果てる夜間練習は禁止した方が良いという日本女子サッカーリーグの田口禎則専務理事の言葉は確かに、女子サッカーの実力アップのためには必要かもしれないことで、それを最大の目的とした場合において導入が求められることもあるだろうし、そうなった場合には資金面の手当てだとか制度面の整備といったことも当然、行われることになるんだろうと信じたいけれども一方で、現実的にプロを奥には観客という裏付けが必要で、それには観客に見せて恥ずかしくない試合、あるいは見てみたい選手の登場が欠かせないんだけれど、そうなるには選手の実力アップが必要で、それにはだから資金がいるといった堂々巡りに陥ってしまう。

 協会なり企業なり、誰かがリスクをとって選手やチームに投資する環境が整って来るならならまだしも、そうした裏付けを提示できない間はやっぱりどこまでも絵に描いた餅でしかない。そういうことは自身も女子サッカーチームを監督し、今も団体で関わる田口さんなら分かっていることだと思うけれど、そういうニュアンスをすっ飛ばしてただ高みから語っているのだとしたら、それはやっぱり通用しないだろうなあ。そもそも女子サッカーが世界の頂点に立った現在においても、プロは決して多くなく、夜間練習に日曜日の試合と月曜日からの勤務を繰り返している。それでいてこれだけの実力を誇っている訳で、これ以上どこまで高みを目指すのか、って問われて答えるのはなかなかに難しい。

 海外を見渡しても、本当にプロとしてやっていけてる女子サッカー選手がどれだけいるだろう。日本から海外に行った選手には協会から助成が出ていて、働かなくても選手生活を続けられるようになっている。チームがお金を出している訳じゃないんだ全部が全部。もちろん現状維持すべきだってことではない。ただ現状でどこまで不満なのかって意見を覆すために必要なメリットを、やっぱり打ち出す必要もありそう。そもそも世界で1番にならなければ無価値というマインドを、植え付けて良いのかっていうのもひとつの意見。勝ちたいという意識は当然あっても、勝たなければ無意味というのとはちょっと違う。そこのニュアンスをどうくみ取り、育成でありレクリエーションとしてのスポーツを残しつつ、プロフェッショナルとしての競技を高めていくのか。そんな辺りをつきつめて考えないと、どこかの武道連盟みたいにただ勝つことが必定とされ、そのために体罰も辞さないような組織が出来上がってしまうぞ。


【2月4日】 妹の力で侵略してくる敵を相手に、妹の力で立ち向かうという、まったくもって何を言っているのかサッパリ分からない設定ながらも、読めば「妹」という存在が持つ情愛を吸収して止まない力の強さ、守りたいと思わせる意識の激しさって奴が伝わってきて、それはなるほど地球を侵略する力にもなるし、守る可能性にもつながるなあと思わせてくれる日下一郎さんの「妹戦記デバイシス」(PHPスマッシュ文庫)。あるいは何かに頼り生命を育んでいくことに特化した宇宙の生命体が、それを地球では「妹」という存在に置き換え威力を発揮したってことも考えられ、別の星では「弟」として兄から姉からすべてを巻きこんでいったりしたのかもしれなかったり。たまたま地球では、そして「妹」という存在が醸し出す得も言われぬ力が勝っていたというだけで。

 まあ、そう大きい設定を考えることも可能だし、単純に「妹」っていう可愛らしくてかわいがってあげたくなる対象としてもてはやされる「妹」を、メタレベルで力に置き換え描いたギャグなんだと捉えることも可能だけれど、そういった表層での設定づくりを超えて、本編では妹が世界を侵蝕して起こるすさまじい戦いと、そんな敵に立ち向かうために、例えばアメリカなんかが開発した「妹」をより機能的にしてしまおうとする動きの残酷さ、それでも戦い勝利するためには必要不可欠な方法なのかもしれないと思わせるやるせなさってものが滲んできて、戦いというものが持つ厳しさってものを感じさせる。とりあえずいったんの決着はついたものの本格的な反攻はまだこれから。そこに至る道筋を続編を重ねることでつけるのか、それともこういう形を定義して「妹」をもてはやす風潮を物語に設定として取り組む試みを見せたといって終わるのか。いずれにしても観念としての「妹」を描きつつ人間の弱さ、残酷さを示したSFストーリー。読んで損なし、SF者たち。

 夜半過ぎから歌舞伎役者の十二代目市川團十郎さんが亡くなったという報が回って、スポーツ新聞とかのサイトを見るとやっぱり亡くなっていた。しばらく前に肺炎で舞台を休演したという話があって、その頃すでに、白血病の治療で免疫力が低下した身に肺炎はキツいんだろうなあと感じていただけに、流れとしての驚きはそれほどないものの、歌舞伎界における「市川團十郎」という看板の大きさは、他の誰に比することもできないもので、4月にこけら落としを迎える新しい歌舞伎座の“いの一番”にも出演することが決まっていたというか、他に誰を置けるはずもないって了解が歌舞伎の中にあったんだろうけれど、それが失われてしまったということを、他に例えることもちょっと難しい。

 将棋でいうなら名人が在位のまま亡くなるといったことになるんだろうけれど、実力があればその位置に行ける名人とは違って、歌舞伎の大名跡はそこに相応しい家系に生まれ芸を仕込まれ、長い時間をかけてお家芸として自分のものにした者しか受け継げないし、名乗れない。実子でなくても養子でだってその場には行けるとはいえ、それだって歌舞伎の名門から宗家に相応しい子を連れてきて、名を継がせるといった経緯があってのもの。それだけの大看板が1枚、失われてしまっていったい何で埋めればいいのか。誰も思いつかないだろう。活躍の面では團十郎さんを上回っていた感じの中村勘三郎さんが先だって亡くなっているだけに、なおのこと空虚感は募る。それ以上に現実的な興業に穴が空く。

 亡くなったからとって、すぐに息子の市川海老蔵さんに「市川團十郎」という名跡を継がせる訳にもいかないのもあの世界。というかしばらく前に海老蔵をついでその襲名披露がずっと続いていたような状況だけに、親が亡くなったのですぐ後を継げでは海老蔵って名前の格が揺らいでしまう。十一代目團十郎が亡くなってから20年経ってようやく十二代目團十郎を襲名したのもそんな、名前の格を考え継がせるに相応しい時期になったって判断が、あの界隈にあたのかも。じゃあやっぱり十三代目が誕生するのは20年後か、っていうとそれも長すぎるから、当世市川海老蔵さんが先代と同じ團十郎を襲名した40歳近くになる5年後あたりを目処に、考えていくってことになるのかな。でも十一代目團十郎の襲名は53歳だった訳で、それくらい、継ぐのに大変な名前だってことでしばらく間をあけるのかな。後押しする人がいるかどうかってことになるんだろうなあ、あと松竹的な事情とか。

 しかし歌舞伎に普段まるで興味を持たない人間が、中村勘三郎さんの訃報とそして市川団十郎さんの訃報を聞いて、にわかに歌舞伎について関心を抱き、これはこの時期にどうにかして見ておかないといけないって気にさせられたのも、どこか皮肉な話。日常的に歌舞伎が芸能のネタ、あるいは芸そのものを語るものとして話題になっていれば、もっと別に見ておこうって気にもなるんだろうけれど、息子がどうしたってゴシップと、それから大名跡の襲名とその訃報といった、芸とは無関係なところばかりが話題になって芸そのものへと関心を寄せるような動きはあまりないない。

 伝統芸能として分かる人が分かれば良い、って判断が興業の側にあって、それに乗っかり書き手もそうした報道ばかりをして、一般層との乖離が生まれてしまってる、ってことなのか。そうしたギャップを気にして、大衆に歌舞伎を取り戻そうとして、亡くなった勘三郎さんは平成中村座なんかを立ち上げたりして頑張っていたし、かつて市川猿之助さんもスーパー歌舞伎というジャンルを立ち上げ、その絢爛さでもって話題性を稼いで世の中の目を向けさせてきた。その流れを今一度、呼び起こしていくことが新たにファンを歌舞伎に付け、そして21世紀を生き延びていく力になるといった印象。悲しい話が続いたけれど、これをきっかけに興味を持った人を引きつけ離さないよう、芸がそこにあるってことを見せて欲しいし、語って欲しい。やっぱり1度くらいは見に行くか、歌舞伎座でなくても演舞場でもシアターでも。

 宇佐美渉さんの漫画によるゆずはらとしゆきさん原作の「ペンデルトーンズ」って漫画があって、刊行時には読んでなかったけれどもそれと同じストーリーを改めてゆずはらとしゆきさんが小説化した「咎人の星」(ハヤカワ文庫JA)が刊行されたんで、せっかくだからとアマゾンあたりから探して上下巻とも取り寄せて、読んだらだいたい小説版と同じだった。とはいえ受ける感じは宇佐美さんの絵柄もあっていわゆる美少女&エロといったもの。小説版の方はといえば宗教にハマった祖母がいてその祖母から逃げ出した母親がいてその娘ながらも母親に疎まれ祖母に預けられ、そこで宗教に感じがらめにされながらきゅうくつに生きてきた少女が、宇宙から来た存在と出会いだんだんと愛を確かめ合うようになりながらもそこには犯罪者を処罰するという目的もあって幸せにはなれず、なおかつ仕組まれた犯罪集団のボスの企みもあって凄惨な方向へと向かう展開が、エロありバイオレンスありで描かれる。

 宇宙で仲間を集め暴れた太郎字、って女ボスがいてその配下で殺人ばかりしていたハヤタという少年ソルジャーが捕縛され、罪人とされ咎人たちの流刑地となっていた地球に送り込まれて、そこで少女と出会いその下僕となって生きた果てに絶望を与えられることが死刑よりも重い罰、ってことにされたんだけれど、そんなハヤタが出会った少女に仕えるうちに育んでいった思慕の情。それが断ち切られそうになった時に自らを破壊して死のうとして、そして改造される前の本体だけが残って、それがやがて少女と再開するといったあたりまでが、漫画でも描かれたストーリーで、小説版ではその後もあって少女が成長して小説家となって、人気が出たり出なかったりする苦闘みたいなものが描かれていて、物書き稼業の難しさって奴が伝わってくる。どうしてこれが加えられたのかにちょっと興味。単に最愛の2人が立場は違うものの再会できたという良い話で終わらせたくなかったのかな。

 ハヤタの太郎氏に対する愛と憎しみとが入り混じった複雑な感情は、そのまま地球の少女の母親への愛を抱けず憎しみを募らせ無関心にすらなった感情に連なり重なって見える。あんまり子供を利用するな、道具としてだけ考えるなってメッセージ? 少女の母親がたどった運命みたいなものを見るとなおのこと、あんまり自分を過大評価するなって思いも浮かんでくる。復刊されるらしい漫画版でだいたいを知って小説版を読むのも悪くはないけれど、ここはまずは小説版だけを頼りに遠く宇宙で繰り広げられていた戦闘の様子を感じそこにいた者たちがどうなったのかを理解しつつ、言葉だけで綴られるエロスにまみれた描写ってものからビジュアルを脳内に浮かべて、妄想の快楽に励むってのも良いのかも。そして浮かんでくる異星人との恋とその結末、さらに描かれるその後の運命って奴から自分の行き方って奴を考えてみるのも悪くないかも。


【2月3日】 うわあ。例の丸刈り謝罪映像が何やら運営側によって削除されたそうで説明ではファンから公開を止めて欲しいという声があったとか、謝罪の意図は伝わったとかってあったけれども客観的な情勢から見ればやっぱり海外での余りの反響の大きさと、その捉えられ方に運営側が恐れおののきこれはヤバいと感じたって風に捉えられそうにもなるよなあ。っていうかあれは自主的に丸刈りにして自発的に映像にして自覚的に流したものじゃなかったっけ。だったら全世界にどう捉えられようと当人的には覚悟の上の嘘偽りのない心底から世に謝罪をしたい思いが籠もった映像で、それを削除するってのは当人の意志を蔑ろにするものなんじゃないのか。なんて印象も浮かんで拭えない。

 けれどもたったの3日間で映像は削除されてしまった訳で、もしもそうすべきだと運営が判断したのなら、やっぱり運営が何としてでも最初から丸刈りを止めるなり、それは抑えられずとも映像を流すことを止めるべきだった。最初に掛け違えてしまったボタン、つまりはそれで流れを引き寄せられると思った運営側の判断が、外れ世界を震撼させてしまって、それに運営側も怯え今後を恐れて削除に至ったって感じ。だったら反省して丸刈りにすべきは運営側なんだけれど、そうした責任について一切、触れてないところが何というか流石というか。削除した理由だってファンがそれを望まない、ってことでそこには自分たちが判断を誤った、って理由は入ってない。

 出すも止めるも責任はファンの側にある、ってことなのか? でもファンにしてみたら、自分たちの一種のAKB48対する“信仰”が、結果的にメンバーを追い込み“自発的”という名目でのプレッシャーの中で丸刈りへと追い込んで、けれどもそれはやりすぎだったと自省してもう止めてくれと頼んだって言われているようで、責任のすべてをおっ被せられているようでもあって、釈然としないだろう。そもそもが本当にファンがそういう圧力を望んでいたのかどうなのか。そういう外圧を言い訳にして内部でそういう行為こそが正統にして順当な謝罪の在り方だという決めつけをして、それに従い乗った挙げ句の丸刈りではなかったのか。真実は分からないし想像でしかないけれど、でもやっぱりどこかズレてる一部始終。何にせよあれだけのインパクトを世界に与えた映像が、削除されたことは日本にとっても当人にとっても良かったこと。その責任の所在云々はきっとこれからのAKB48の展開の中で明らかになっていくだろう。そうしないと誰も浮かばれないから。

 たった1箱だけだけれども部屋からダンボールに本を詰めて倉庫へと運んだついでに、キャリーを手に提げたまんまで東京ビッグサイトへと行き「コミティア」を見物する。しばらくぶりかなあ。でもとくに風景は変わってない。奥の方では出版社の編集部が来て持ち込みとかを受け付けていて集英社スーパーダッシュ文庫も出ていて編集長の人が誰かと体面しているのを遠巻きに眺め、ジュンク堂の出張販売コーナーで何か買おうかと思いつつ荷物になるからを諦め、電脳マヴォで「同人王」の上下巻を拾いあびゅきょさん粟岳さんのブースを遠巻きにしつつ、多分一本木蛮さんだと思われる人がいつものど派手なコスプレではなく自転車のジャージ姿で諏訪ているのを眺めつつ文芸のコーナーでライトノベル系の人がいないかと探しつつも目を合わせるのが怖くて見られず見つからず。誰かいたのかなあ、ライトノベルのプロの人。

 そんな感じで特に何も買わない中で「15時30分の拍手喝采」という作品でコミティアを描いた沼田友さんのブースへ行ってご挨拶。この映像に描かれているキャラクターたちの視線とか眼の演技とかが素晴らしいですねえと話す。シチュエーションなり心情にマッチした視線をちゃんと出してるんだよ、横見たり脇見たり上見たり遠くを見たり。細やかな演出。作画のレベルをどうこう言うよりそこに描かれたテーマ、そして表情とか仕草といった物へのこだわりが素晴らしい。聞くと5月には新作にもお目にかかれそうとかで今からどんな物がくるのか楽しみ。文化庁メディア芸術祭でのゲリラ的映像見てくださいパフォーマンスは流石に今年はやれないか。アート的パフォーマンスが通じるくらいに砕けた場所じゃないものなあ。他では「irodori」って3DCGを使いながらも2Dっぽいアニメを創っているスタジオに寄って作品を買ったり。前に買ったか覚えてないのが弱いところだけれどまあ良いや。ちなみに東京国際アニメフェアにはクリエーターズワールドにアドバンスとして出展とか。楽しみ。

 ようやくやっと特装版を買ってあったタカハシヨウさん著で竜宮ツカサさん絵の「クワガタにチョップしたらタイムスリップした」(講談社BOX)を読み終える。ボーカロイド向けの楽曲として作られたものを、その作者の「家の裏でマンボウが死んでるP」たちが自分たちで小説にしてイラストも付け漫画まで付けた、って展開は昨今流行りの流れだけれども、楽曲として優れていたってイラストとして素晴らしかったって、小説となった時にいったいどうかってのは別の話。でもって「クワガタにチョップしたらタイムスリップした」はSF小説として、タイムトラベル小説として、そして青春真っ直中にある少女が自分を決意する小説としてとってもとっても素晴らしく、読み応えがあって読み心地の良い話だった。

 もう文字通りに17歳の女子高生が飼ってるクワガタにチョップしたらタイムスリップして未来に行ってしまった、って話でそこへと至る過程で学校でドジっ娘しながら頑張っていたけどいろいろあって落ち込んで、どうしようっかなあと悩んでいたところに起こった不思議な現象。そうやって赴いた未来で少女は、親切な警官に導かれ未来に生きる人たちと出会ってそしてそこから過去を知りつつ、かといって未来から何かを押しつけられもせずに混沌の今を精いっぱいに生き、そして未来へと生きていこうと決意する。描かれた60年余年後の未来的なビジョンはなかなかに楽しく、ガジェットもちょっとした未来っぽさを感じさせて想像力の豊かさを感じさせる。タイムトラベルがもたらす過去改変なり未来の変更といった問題についても考察しつつ、それでも選ぶのは過去の君だと未来の警官の口を借りて少女に説いて諭すところから、懸命に今を生きる大切さが浮かんでくる。ヒラタクワガタが持つその秘密もなかなか楽しげ。そんな「クワガタにチョップしたらタイムスリップした」を読み得よう、自分の意志で生きる強さを。


【2月2日】 すごいなあ、全世界的だよ峯岸みなみさんの丸刈り騒動はフランスのリベラシオンってあのジャン・ポール・サルトルが創刊に携わり、今は中道左派に支持されているフランスでも屈指の高級メディアのウエブサイトにAFP電という形で掲載されてそれから英国ではデイリー・ミラーって割と大衆向けの新聞からガーディアンってこれは高級紙のサイトに掲載。さらには英国国営放送のBBCがサイトに載せインデペンデントって独立系の高級紙のサイトにも掲載されてといった具合に、英国じゃあ上から下までが峯岸みなみさんってタレントについての情報を見られる状況になった。こんなアイドル過去にいたっけ。柔道の女子代表のコーチを辞めた園田さんよりも掲載された率も量も多いんじゃなかろーか。

 エンターテインメントの中心的な場所とも言えるアメリカの方であんまり出ていないなあ、と思ったらあの3大ネットワークの1つ、ABCがサイトに日本に駐在のリポーターからの記事を載っけてた。英国の新聞がだいたい同じ情報を載せていたのと比べるとこれはちょっと大きな扱い。英語なんで中身読みこなせないのが辛いけれどもわざわざ日本にリポートを依頼するってことはそれだけ大きく問題をとらえているってこと。いずれの記事についても論評が状態にネガティブでフェミニズムに寄っているのか、読めないんで確かめようがないけれども、あのインパクトあるビジュアル、つまりは丸刈りにされて涙を流す女の子というビジュアルを初っぱなから突きつけられれば、そこに何か得体の知れないプレッシャーがあるんだろうと誰だって想像できる。

 そこから発して調べてたどり着く今のAKB48が置かれた状況、それを許容する日本という国の心性に、世界はいったい何を思うだろう。もはや1アイドルの決意を離れた問題を、それでも1アイドルの決意でありそれを見守るのがファンだといった認識でかかると、いろいろと失ってしまうものもありそうなんでちょっと経過観察が必要かも。逆にこれが日本だ、これこそが日本の心性なんだどアピールし、そこでは女性だフェミニズムだといった考え方など通用しない体育会系心性が尊ばれているんだと知ってもらえばあるいは、世界に稀なる国として注目を浴びる……訳ないか、やっぱり。それだけあまりにキツ過ぎるんだよあのビジュアル、そしてそのシチュエーション。やっぱり要経過観察、気が向く範囲で。

 いや普通にラブコメだろ、予告編で葉風がそうかもしれないと言うまでもなく「絶園のテンペスト」ははじまりの樹が現れてからすっかりとラブコメ路線が定着して、絶園の魔法使いかもと思っている少年が2人の魔法使いに連れられ空を飛んでやって来てははじまりの樹を見事に消し去って世界は大騒ぎ、あれは誰だ、誰だ、誰だ、ってその正体が疲れてお風呂に入りたいって騒ぐ恋人にふられて慌てるような弱気の少年だと誰も想像しないよなあ、本人だて未だ半信半疑。一方で本当の絶園の魔法使いは彼かもと注目される吉野。自ら窮地に突っ込んでいっては葉風に魔法を使わせそこに魔法使いがいるって分からせてしまった。やっぱり絶園の魔法使い? そしてはじまりの樹に主語された葉風を混乱させている? かもなあ、そんな彼を踊らせる愛花はさらに悪者? あるいはなあ。

 先生が脇に侍らしている同じかるた会の美女2人もカナちゃんのお母さんも花澤菫さんもそして顧問の先生も含めたあれだけの女性から一斉にタオルを投げられて、それなのに使うのは横から差し出された千早のタオルか、ダディベアのワンポイントが入った。きっと試合中の千早の汗が拭われていて染みていて、良い感じ湿って香りも高くなってるそのタオルを、僕だったらその上に自分の汗なんてつけずに着物の懐へといれて持ち帰り、家で広げて眠ろうとする自分の顔にかけてスーハースーハーと息を吸い吸い吸い吸い吸い続けただろうなあ、死なない程度に。いったいどんな香りがするんだろう、酸っぱくて苦いような香りがするんだろうなあ、ってそれは汗の匂いそのままだ。まあそれでも良いんだけれど、千早のあの美貌から吹き出した汗がなら。カナちゃんの豊満な胸元に滲んだ汗でもいいかな。

 そんな描写も楽しかったアニメーション版「ちはやふる」は、真島も相手が実にカルタに執心で、そこに良い指導が入って真島を追い詰めるくらいになってたけれど、やっぱり地力に差があって、読まれた札を覚えきれずに何を出るのか読めずに真島に奪われ終わり。そこを鍛えれば強くなりそうな逸材だけど、今のところ漫画の方には再登場はしてないなあ、あれどうだったっけ、出てきてたっけ。そんな感じに自分は弱いし才能は無いけど努力は誰にも負けていないからカルタで負けるはずもないって向かう真島の自覚の回だったアニメーション。一方で花沢菫が自分の真島への恋心を自覚しながら、絶対に届かないだろうことも理解するという残酷な回。でもそれでも自分にできることをやろうとする、その強さがいじらしくも勇ましい。彼女も強くなる、きっと絶対に強くなる。

 天気も良くなってきたんで映画でも観ようとスカイツリーに寄ったついでに錦糸町まで歩いてTOHOシネマズ錦糸町で「ベルセルク 黄金時代篇3 降臨」を見たら川畑要さんという人を嫌いになった、って別に川畑さんに責任がある訳じゃなくってその歌はとっってもとっても素晴らしいんだけれど、流れる場所が本編が終わりエンディングテーマが流れそしてガッツがドラゴンころしを手に入れ片腕も作りあげてそしてゴッドハンドを、グリフィスを捜し倒す旅に発つ決意を示したその後に、まるで本編とはリンクしないし展開とも関係ない、過去のビジュアルなんかをバックに映した歌を流されたって感動もしなければ関心もしない。むしろ何これ余韻をぶち壊す歌はって反感を覚える。それが結果として歌っている人に向く。

 考えるならプロモーション。それがどうしてワーナーブラザーズ配給の映画でソニー系のデフスターの川畑さんの音楽が取り上げられることになるのか分からないけどきっといろいろあったんだろう、それがこうしたタイアップ楽曲の提供となったんだろうけど、それをエンディングという名目で流すのはやっぱり間違っている、本編に無関係で聞けば18歳未満は見てはいけないバージョンでは、まるっと外されているとか。つまりは不必要な歌だったってことでそれを敢えてくっつけ流すのは、歌手の人にも冒涜なら映画にも冒涜、どっちに対しても失礼極まりないことなんじゃなかろーか。だったら「風の谷のナウシカ」みたいにイメージソング的な扱いにして、劇場で幕間に流せば良いのに。今はそういう仕組みもないのかなあ、順繰りに入っては出ていくシネコンシステムでは流す暇なんてないものなあ。

 そんな愚劣なタイアップで余韻をぶち壊されたけれども本編はなるほど壮絶なバイオレンスとエロスにあふれた回。探索とか冒険とかいった要素は少なくなってしまったけれど、とっつかまったグリフィスを助け連れだしたものの自分が弱々しくなってしまったグリフィスが最後にすがりベフェリットを発動させてそして蝕へといたる展開は、人間にとって生きるとはどういうことか、石にかじりついてでも自分を守りやりたいことをやり遂げることってどういうことなのかを教えられる。それがたとえ仲間達を全員、生け贄として捧げたとしても。そんな決断をそれでも信じられないガッツの純真さも逆に眩しい。グリフィスはそれから目を背けたかったんだろうなあ、だから最後にとどめをさせずに逃したと。でもやっぱり対決は必要でそれがこの後に描かれるとして果たして映画にはなるのか否か。端折って走って名場面も落としての映画だったらしいから、それを埋めるエピソードを追加してテレビシリーズ化して「黄金時代篇」をまたやって、その後に最初からとそして途中からの“本編”に戻り映画化、なんてことを期待しちゃっていいのかな。あんまりドラマティックではないから漫画で我慢すべきなのかな。とりあえず18禁バージョンを見て再びのガッツの決断をぶち壊されない余韻の中に感じ取りに行こう。

 せっかくだからと「久谷女子」とやらが開いたイベントを見に阿佐谷ロフトへ。気になっていたミート屋でミートソーススパを食べ、ボロネーゼ的に煮詰められたミートとそしてリングィーネに近い平型パスタの組み合わせを堪能してから、ロフトへと入りいろいろと聞く。最初は履歴書を辿り過去を暴き暴かれた展開。その後はそれぞれが気になるニュースを話すって内容で、まずはゆかたんこと岡田有花さんがしゃべってネットがリア充化していると糾弾、誰かリアルに知り合いがいないと始められず使えず楽しめないサービスの続々登場に疎外感を味わっている模様、分かるねえ、そして居場所をmixiに求めるゆかたん。潰れないでいてあげて。

 それから同人誌即売会での黒バス中止問題とか、ドラクエ10での“辻ザオ”話とかいろいろと繰り出されるネット話。ってか辻ザオってなんだと言われれば知らないというしかないけれど、どうやらそれは「愛」という言葉に収斂されるらしい。プレーヤーキラーならぬ辻ザオを、これからのネットの風潮に。あとは「政権をとれもろす」やらネット討論会とかニュース屋らしいセレクトとか、衆院選でのネット活用が夏にはさらに強まりウォッチ甲斐がありそうって話とか、有料メルマガが台頭してきている話とか、ウェブに欲望が氾濫し始めている話なんかを紹介。エロ系が規制もされずに染み出してくるのはやっぱり不思議で不安だねえ、隙を見せれば突っ込まれるんだ官憲に。なんだしかし匿名性コミュニティって。昔はダイヤルQ2なんかで集団で会話されていて、それが2chへと移って今はソーシャルメディアか。まあいいけど。どうせ見ないし、見てもリアルでどうなる訳でもないし、なあおい。


【2月1日】 パシフィコ横浜で「CP+」をざっと眺めた帰りがけに、パシフィコからシャトルバスが出ていたんで乗っかって横浜美術館まで行って、そこで「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」という写真展を見物する。ロバート・キャパとはいわずとしれた報道写真家の代表的存在で、スペイン内戦で「崩れ落ちる兵士」を撮影し、第二次世界大戦でノルマディー上陸作戦こと「D−デイ」を撮影し、そして第一次インドシナへ戦争へと赴いてそこで地雷を踏んでサヨウナラしたって生涯は、写真に関心がそれほどない人でも知っている。「ちょっとピンぼけ」って本のタイトルも有名だけれど、ノルマディ上陸作戦の写真がピンぼけなのは助手が現像に失敗したってこともあるらしいから、キャパの腕前が悪かったって訳ではないので悪しからず。「崩れ落ちる兵士」とか本当にくっきり写ってるし。

 その「崩れ落ちる兵士」を、本当にロバート・キャパが撮影したのか、ってところに実は最近、沢木耕太郎さんから疑問が投げかけられた。いや、キャパが撮ったことには間違いなんだけれどもそのキャパが、アンドレ・フリードマンという男性と、そしてゲルダ・タローという女性が当初2人で使っていた一種のペンネームであることをとっかかりにして、ではいったいその2人のどちらが撮影したのかってところで検討を重ねてた。初期はゲルダはローライで撮影していて、フリードマンはライカを使っていたから正方形に近いならゲルダ、横長ならフリードマンが撮ったって分かったとか。けど途中からだんだんとゲルダもライカを使うようになって、それで2人の区別がつかなくなった、そんな中で出てきた「崩れ落ちる兵士」はだから、誰が撮ったか分からないんだそうだけれどもとりあえず、男性のキャパが撮ったんじゃないかって話になっている。

 沢木さんは「崩れ落ちる兵士」にはトリミングされていないバージョンがあって、それが四角形だからゲルダが撮ったかも、なんて話を確か「文藝春秋」に書いていたんだけどうだっけ、そのあたりも検討の上に検討を重ねた感じで正解は出されていなかったけれどもとりあえず、キャパは最初2人いて、それぞれに活動していたってことが今回の展覧会で改めて世に強く訴えられていて、そしてゲルダ・タローという女性が、ローライを使いどんな写真を撮っていたかが、並べられた作品から伝わるようになっている。なるほど戦場で横たわる戦死者を撮ったいかにも戦場といった写真もあるけれど、そうでない駐屯地とか待ちにいるおだやかな兵士の日常なんかを撮った写真は、そこに生命感があって生活感もあってあの時代の生まれ育った人の営みって奴が感じられた。報道というよりスナップに近いその作法。たぶんそれはライカに移ってからも滲んでいるんだと思うけれど、そういうモチーフなり構図からこれはゲルダ、これはフリードマンって分かるんだろうか、やっぱり無理なんだろうか。自分の目でずっと見ていれば分かるかな。難しいんだろうなあ。でもちょっと挑戦してみたい。

 下半身を丸出しして横たわる戦災に遭ったか何かした少女の写真なんかに眼を奪われつつ、ゲルダ・タローのコーナーを出てから進んだロバート・キャパ、つまりは一般的にあのキャパとして知られる人物の写真が並ぶコーナーでは、スペイン内戦の前にキャパがその名を売ったトロツキーの演説をとらえた写真に始まって、数々の歴史のシーンに居合わせ撮影した写真なんかが並んでいる。スペイン内戦がありノルマンディー上陸がありインドシナ戦争があり。地雷を踏む直前の写真なんかはそのフィルムが次に何も撮っていない事を示すように、黒い枠線も含めてプリントされていて、その“最後の写真”っぷりを演出している。説明によればこれとは別にカラーの写真を撮っているから、最後はそっちらしいんだけれど、まあ知らずに観た方が感動できるってことで、その“最後”っぷりを黒い枠とともに楽しみたい。もしもそこで生き延びていたらベトナム戦争まで撮っていたんだろうなあ、その中でどんな写真を残したか、沢田教一なんかと競い合ったんだろうか、2人して戦場の最前線に行って背に銃弾を浴びながら進む兵士たちを撮ったんだろうか。気になるなあ。

 そんなキャパの写真の中に、第二次世界大戦でナチスドイツの占領から解放されたフランスを撮ったものがあって、そこにはナチに協力した、あるいはドイツ軍兵士とねんごろになったからということで、解放後に国の裏切り者として糾弾され、髪を丸刈りにされた女性が通りを群衆にこづき回されながら歩く写真ってのがあったりする。抱えているのはまだ乳飲み子。つまりはおそらくはドイツ軍兵士なりの子なんだろうけれどもたとえ国を裏切っていたのだとしても、それは生きるに必死だった現れでもありあるいは恋といった気持ちの発露であって、それを糾弾することは人間として果たして正しかったのか、さらには髪の毛という女性にとってのひとつの尊厳を大きく損なうような攻撃を加えたのが本当に正しかったのか、今に引きずる問題としてしばしば語られたりする。なるほどあの空気の中ではそうせざるをえない気持ちでいっぱいだったかもしれないけれど、平穏になった後からふり返ればやりすぎの面もあった、そんな自省があの国の現在における人権への配慮につながっているのかもしれない。

 だから、AKB48の峯岸みなみさんという人が、週刊誌で恋人とのツーショットを撮られたからといって、その反省のために髪を丸刈りにして、ネット上の動画サイトから涙ながらに許しを乞うた映像を見ていったい、これはいつの時代の所業なんだという驚きと、そして過去に行われそれが宜しくないことだとして認められてなお、現代においてこうしたことが行われるこの国なり、AKB48なりといった集団をとりまく状況は、いったい何なんだという訝りが、浮かんでまっとうに見ていられなかった。なるほど、それは反省を現したいという自主的で自発的な行為だったのかもしれないけれど、そうせざるを得ないと思うに至った背景は当然いろいろある訳で、それが結果として彼女の尊厳を大きく抑圧してしまったことを、ここで改めて強く考え直してみるのが大人の、そして世界に向けてアピールしていこうとするエンターテインメントに携わる者たちとしての、正しい振る舞いなんじゃなかろうか。

 それに本人がいかに自主的だと訴えようと、そしてAKB48が恋愛禁止という条件の下に活動している集団で、それに違反すればどうなるかが問われ、だから対応をしたんだといった経緯があろうとも、世界があの映像を見たときに感じるのは、1人の女声が髪を刈られ、そして涙を流しながら謝罪をしているらしいという事実。許しを乞うための涙なのか、髪を失ったことへの悲しみなのか、それは判然としなくても、傍目にはそうした状況に追い込まれた1にの人間がいて、そこにはなにがしかの圧力があったと見なされるだろう。そんな団体が、例えばジャパンエキスポのゲストとして日本からやって来たとして、フランスの人たちは真っ当に素晴らしい存在として見られるものなのか、それとも柔道と同じで同調圧力の中に人権が抑圧された集団がそこから生まれた強さのようなものを外にアピールしているだけで、中身は恐ろしく前近代的なんじゃないかと感じて忌避するのか。これからの世界的な展開に、ネックとなっていろいろと関わってきそうな予感がある。

 漫画の偉い人なんかは、女性の髪を神聖視し過ぎて本人が反省のために覚悟を決めたてやったことだから、大きなチャレンジであってここから新しい神話が作られるんだと訴えていて、個人というミクロの視点でみればそういうこともあるかもしれないけれど、集団において掟という一種の架空のドラマに違反したものは、現実として何がしらの肉体的な損傷を被るという状況がひとつ、認められてしまったこの先に来るかもしれない、エスカレーションした反省の様がちょっと怖い。それは確実にマクロとしての日本への印象を悪くするし、多くの生きている人に失敗と逸脱を許さず、そうすれば何かしらの制裁を外部から受けるのではなく、自発的に行うようになる社会って奴がやって来そう。それを考えずに喜び讃えているのは何かどこか恐ろしい。

 漫画の偉い人は前に少年がメンバーの女性の胸を押さえている写真が問題になった時も、それが児童ポルノであるはずはないと訴えたけれどもこの問題はモデルがどう見えるってことじゃなく、そこに未成年の少年が連れて来られて、女性に性的な意味合いを持っていると見なされかねない行為をさせられていることが、児童虐待に当たるのではないかと世界から見られかねないこと。可能性の問題ではあるけれど、それを指摘された時に反論のしようがない事実であってだから版元は載った雑誌を回収し、出版すらもどうするか検討を始めた。単に1人の女性が自分をさらけ出して挑戦したから応援しようといった文脈じゃないんだけれど、それを理解していないのか、理解しても触れようとしないのかしてひたすらに応援団に徹してる。それもひとつの態度であって個人として共感出きる部分もある。でもそういう場合じゃもうないんだ、一線を越えてしまったんだということも抑えておく必要がある。対応を謝ると世界が厳しい眼を向けてくる。社会が歪んでいく。その可能性を踏まえ感じ取りすべきことは何か。考えるべきなんだけれど、考えないんだよなあ、彼らも、そしていて怖気がわく写真を堂々1面に掲載した日本のメディアたちも。

 そんな騒動が進行するなか夕べは新宿バルト9(ばると・きゅう)でもって「機動警察パトレイバー2 THE MOVIE」がスクリーンで上映されるというイベントを見物、基本的にしのぶさんが可愛らしくしのぶさんが愛おしく、しのぶさんがちょっぴり怖くてそれだからこそしのぶさんが美しい、そんなしのぶさんを見るための映画なんで冒頭からもういっぱい出まくっているしのぶさんに視線を集中させてそのいじらしい心、その実直な心ってやつを噛みしめ身悶える。どうして横にいるあのカミソリ昼行灯に目を向けてあげないんだろう、って思いもしたけどそれはそれで勿体ない話、やっぱり世界をひっくり返そうと企む柘植こそが相応しい相手だと思ったら最後の最後で自決もしないでヘタれやがった。しのぶさんはそれでもついていくのかなあ。しかしやっぱり深い話。起こっていることから乖離して権力争いと言葉遊びに出す政治とメディア。その間隙を縫って何かが起こる、かもしれないし起こらないかもしれない。どうなるかなあ、この国は。


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