縮刷版2013年12月下旬号


【12月31日】 夜にかけて「輝け日本レコード大賞」を見て、ああやっぱりきゃりーぱみゅぱみゅは大賞は取れなかったなあと思いつつ、新人賞に輝いた新里宏太さんの歌をどっかで聴いたことがあったなあと記憶を探って思い出した。「ONE PIECE」の主題歌じゃん、ってことはつまりアニソンがレコード大賞の最優秀新人賞をとったってことで、こういうことって過去にあっただろうかと記憶をサルベージしたけど、ちょっと思い出せない。「ちびまる子ちゃん」の主題歌だった「おどるポンポコリン」が日本レコード大賞でポップス・ロック部門が演歌部門と並立していた時代に大賞を受賞したことがあったけれど、従来のような、そして今みたいな1本だけとなった時に堀内孝雄さんの「恋唄綴り」と競って勝てたかどうかというと分からない。

 それでも大賞に関しては受賞の過去があったってことは分かった。じゃあ新人賞は? って記憶を探ってもすぐに出てこないところを考えるなら、やっぱり初めてくらいの快挙なんだろう。そもそもがひとつの社会現象にまでなった「おどるポンポコリン」と、アニメを観ている人は知っていても他ではあまり聞かない新里さんの「HANDS UP!」をいっしょに並べる方が無理。音楽が誰にも共通のものではなくなって、聞く人にしか聞かれない時代にあって多様化している中で、ピックアップされてそして選ばれたということは過去にも増して意義深いことなんじゃなかろーか。あとはここからいったい何を唄っていってくれるかってことで、まだ18歳のハイトーンボイスがアニソンを重ねるかポップスに向かうか、分からないけれどもフックという意味ならアニメのように毎週見てもらえる場所でかかる方が、今は人に親しまれやすいからなあ。

 その意味でもアニソンって今、音楽の普及とか浸透とかビジネスにとってものすごく重要な場所になっている感じ。このレコード大賞では別に作詞賞というのがあって、そこでJUJUさんの「Distance」が受賞したんだけれど、これも実は「宇宙戦艦ヤマト2199」のテレビ放送版のエンディングに使われていた楽曲。オープニングの毀誉褒貶とは違って第4期、ヤマトがガミラスとの戦いを終えて地球へと向かっていくクライマックスのエンディングとして使われて、しんみりとした気分にさせてくれたっけ。最終回の例の沖田艦長のエピソードを経て流れてきた時も、実はまるで違和感を感じず、劇場版の水樹奈々さんの楽曲比べても遜色ないマッチぶりだと思ったほどだった。

 このままパッケージ出してくれたら嬉しかったけど、どうもそういう動きはないらしい。録画分がだから貴重になっているんだけれど、ともあれそこでも一定期間を一定時間に流されるアニソンという舞台が、楽曲の浸透に一役かった。そんな状況を見てさらにタイアップの動きとか増えていくかもしれないけれど、まるでそぐわない楽曲をレコード会社とかアーティストの事務所の力で押しつけても、結果は悲惨なものになる。そのあたりを勘案して双方がハッピーになれるようなマッチングが、増えていってくれれば有り難いけれど。アニソン歌手だってまだまだ頑張っている訳だし、そうした人が一般にアピールしていく機会も増えればなおハッピー。May’nさんとかJUJUさん西野カナさん家入レオさんといったシンガーに負けずむしろよりパワフルな歌声を聴かせてくれるアーティストとしてクローズアップされても良いんだけれど。そこが今のテレビの視野狭窄ってことなのか。Kalafinaだってまるで出ないし、NHKとめざまし以外では。

 書店ではもうあんまり見られなくなった文庫を探して街へ。せっかくだからと地下鉄の鶴舞線を大須観音駅で降りて大須観音にお参りし、ついでに近所にあるという大須演芸場の前を通ってこの立地をどうして活かして大繁盛に出来ないんだろう? ってちょっとだけ思ったり。大晦日から元旦にかけて快楽亭ブラックさんが登場していろいろ喋ってくれそうで、興味はあったけれども紅白歌合戦を見なきゃいけないから遠慮しそのまま歩いて名古屋パルコへ。前はそこにいけばだいたいの本があったリブロだったけれど今は規模も縮小されたかごくごく普通の本屋さんになったなあという印象。むしろ近所に新しくできたジュンク堂の方がよっぽど品揃えが良かったところに名古屋って場所で文化を相手に商売する難しさってのを感じる。平針にも前は本屋が何軒もあったんだけれど皆、なくなってしまったし。郊外の過疎化と都心部の空虚化。一方で本を読む習慣の交代が本屋さんという最前線にもいろいろと影響を与えている、ってことなんだろう。これでネット書店に電子書籍まで衰退したら本ってどーなっちゃうんだろう。見守りたい。

 目指していた本も見つかったんで、チャオであんかけスパを食べてさてどこへ以降かと考えて、朝にチラシで見たナゴヤドームのイオンモールにあるというドアラ神社にお参りでもしていこうと地下鉄にのった所でネットにアクセスして大瀧詠一さんの訃報を見る。なぜだ? なぜなんだ? という驚きと残念さに身が震える。情報だと最初はリンゴが喉に詰まったという話でそれもまあ大瀧さんらしいとか感じたけれど、後でレコード会社が乖離性大動脈瘤だと発表して本当の病気だったんだと分かって、そこへと至るまでにどうにか出来なかったんだろうかという気持がさらに増す。それともむせたところで破裂してしまったんだろうか。そんなに高齢でもない65歳でそうなってしまうとなると、自分とか、不健康の極みを行く身は突発的な事態にいろいろ備えておかないといけないかも。見られたくない物を始末しておくとか。書きかけの漫画の原稿……はないけど。

 ただ醒めた目で見るなら、もうほとんど表立っての音楽活動から身を退き気味で、作曲とかしていてもやっぱり間が空いてしまっていて、現役感といったものはちょっと乏しかった。ラジオで喋ってくれたりはしても、やっぱり聞きたいのはその音楽。でももうそれもないんだろうなあ、という気分をこの10年ばかり抱えいたところでの訃報は、だから残念ではあってもポッカリと大穴があいたという喪失感とはちょっと違う。それとも来年に発売されるとい「EACH TIME」の30周年記念盤で新しい物が送り出される可能性といったものを示してくれていたんだろうか。そうだとしたらやっぱり悔しいけれど、ただただ音質とかを追求し、トラックを変えてみたりするだけの“誤差”の範囲だったとしたらそれはミュージシャンへの期待というより、エンジニアへの興味に留まってしまう。もうそんなアーティストになってしまっていたんだなあ、という思いを訃報によって改めて感じたというのも、ひとつの発見だったかも。ちょっと申し訳ないけれど。

 もちろんこれまでに生み出してきた楽曲への敬意はバリバリにあって、とりわけ「A LONG VACATION」が巻き起こした旋風のどまん中で高校生あたりを迎えた身として、あらゆる場所から流れてくるその音楽はもはや体の隅々にまで染みいっていて一生、拭うことはできない。「EACH TIME」も多分同様だしバンドのはっぴいえんどとして作り出した音楽も、ほとんどが身に染みいって血肉の一部を形成している。そんな音楽家が他にどれだけいるかというと、山下達郎さんとかYMOとかいったあたりを核に何十人もいやしない。それだけのミュージシャンの訃報にだから、今言いたいのは素晴らしい音楽を送り届けてありがとうという感謝の言葉。もう新しい楽曲は聴けないけれども、これまでに積み重ねてきてくれた楽曲を、より濃く血に混ぜ肉に刻んで生きていこう。改めて。安らかに。

 んで紅白歌合戦は……「進撃の巨人」の人って声量が足りていないのかミキシングを間違えたのかどっちなんだろう。続いたのが水樹奈々さんにT.M.Revolutionだっただけに差が目立ちすぎてしまったよ。そんな水樹さんの迫力有るボイスにTMもちゃんと食いついていくところが凄いなあ、やっぱり男性で最高のシンガーの1にんだよ。あとSKE48に眼鏡がいて昨日もそういえばAKB48に眼鏡がいて誰だと思ったら松井珠理奈さんだったよ看板の、でも眼鏡キャラじゃなかったのに、どーしたんだと調べたら目を病んでコンタクトが入れられないらしい。でも良いじゃんこの方が、目立っているし可愛いし。だからずっと眼鏡っ娘で。決して背が伸びて顔が四角くなって来たんで眼鏡をかけてアクセントをそっちに持っていったとか委員長系にして緩和したんだとかは思わないから、ね。

 ゴールデンボンバーは出てきた時から樽美酒のあの肉体がちょっと違いすぎて誰なんだこんなに鍛えたのかと不思議に思ったらまるで偽物だったという。リードボーカルの人以外は全部偽物だったというからよく集めたもんだと、それを紅白でやってしまうとは、もうネタ合戦に成ってきているなあ、ふなっしーとか出まくっているし。鉄拳さんもちらっと出たけど2001年の12月31日は東京ドーム横のジオポリスで鳥肌実さんの前座だったんだぜ、よくここまで保ったなあ、そして出世したもんだ。続けるって凄い。そしてきゃりーぱみゅぱみゅは脚立の上で服来て唄っているかと思ったらムキムキマンが肩車してた。羨ましいなあ肩車男。そして「もったいないとらんど」を唄っていたけどあれはピンクのうんちかソフトクリームか。どっちもだなあ。多分。Perfumeはあーちゃんの抜けっぷりが良いなあ。ライブであれが何十分も続くんだ。楽しいぞ。


【12月30日】 そうか天皇杯は横浜F・マリノスとそしてサンフレッチェ広島に決まったか。微睡みながらも見ていた中継では広島が、FC東京にPK戦で1人失敗すれば終わりのところに追いつめられながらもしのぎそしてキーパーの西川が2本を止めてどうにか広島が並び6人目からのサドンデス。そこで勝ち抜き見事に決勝行きを決めてこれで我らが国王・中島浩司選手の引退も最終の1月1日まで延びた。試合にはたぶん出られないかもしれないけれど、サブとしてベンチに入ることは多分確実。最後の舞台を天皇杯というジェフ時代仙台時代にも届かなかった場所で、それも参加者として迎えられるのってやっぱり最高のサッカー人生だろうなあ、一時はトライアウトで引退の瀬戸際にあっただけに。それを甦らせたオシム監督、答えて走り続けた中島選手に改めて喝采。ジェフ千葉には残らなかった魂がこうして広島で結ばれた。寂しくもあり嬉しくもあり。頑張って。

 親睦団体として発足してそれで巧く運営がなされて来たのだったら、大きく変えることもしないでそのままつらつらを運営されて行けば良い、という意見も多分に正解なんだろうけれど、そんな団体が親睦という間柄では、ちょっと荷が勝ちすぎる文学賞とかを運営し、そして50周年という節目の年にあれやこれやイベントを繰り広げたいとなった時に、その主軸となる人たちに権限が与えられ、責任も課せられる中でしっかりとした組織運営が必要となっていったんだろー。けれども、そこへの以降がスムースにいかず、あるいは部分だけかっちりしたくても全体がふわふわとした中では右に左に引っ張られてまとまらない。それがやって欲しいと求められた事業の遂行の支障となっては、やる側はもうやってられねえとなってしまう。そんな感じだったのかなあ、瀬名秀明さんの日本SF作家クラブ会長辞任、そして退会へと至る道筋は。

 単著がなければ入会はできないという不文律めいたものがあるらしく、それでいったんは認められなかった作家がいるけれど、でも単著がない人でも入会しているケースは皆無ではなかったりするし、SF関係の評論賞とか新人賞を受賞した人には、まだ著書がなくてもそのまま入会しているケースは数多に及んだりする。だったらどうして新人賞を受賞したその作家の人は認められなかったのかというと、クラブが関わっているものではないから、という理由が瀬名さんの指摘どおりにあるのだとしたら、それはそれで親睦団体として範疇として正解ではあるけれど、ことSFに対する貢献の度合いという意味では横並び。なのに一方はOKで一方はNGという曖昧さを、すんなりと受け入れられるようには出来ないポリシーの人もいるってことなんだろう。外部から見たらやっぱり訳分からないし。

 でも内部からなら分かる、というところが親睦団体たる所以。それでこれからも行くなら行く、となるならそれはそれで良いんだけれども一方で、日本SF大賞の開催が改めて決まってその運営には内部だけではない、外部との折衝なんてことも必要になって来そうでそこで親睦の曖昧さとビジネスの厳密さをすりあわせることが出来るのか、ってあたりが気になるけれども全部内部で運営して、決定するというならそれもひとつの見識。あとはだからどういうプロセスで候補作が決まって、そこからどういう話し合いで受賞作が決まるのか、といった辺りを見ればなお作家クラブが親睦を旨とするか、厳密さを尊ぶかといった方向性も見えてくるんじゃなかろーか。とりあえず「野崎まど劇場」を最終候補作に送り込むべく推薦文を書くか、無視されるかなあ。

 2015年か、といっても3月28日と29日だからほとんど1年とちょっと先。割と早くめぐって来そうな「コミケットスペシャル6 〜OTAKUサミット2015〜」が正式に発表されたそうで、幕張メッセという開催場所が将来の東京五輪時の緊急避難場所としてのシミュレーションを兼ねたものになるのかどうか、それは運営側の腹づもりとして一方で、首都圏に近い場所でやるということでそこに世界から大勢の漫画やアニメーション、ゲームといったコンテンツの関係者を招いておそらくはシンポジウムとか、トークショーとかを開いて国際化をアピールできるのがなかなか意義深そう。いつかの横浜での世界SF大会も世界から作家とか集まったけれど、やっぱりジャンルが限られてしまったからなあ。今回はあからコミコンとかアニメエキスポみたいな賑わいが、幕張で起こってくれるとちょっと嬉しい。そしてそれがムーブメントとして定着してくれれば。

 2010年の時は水戸での開催で、衰退する地域をオタクコンテンツを盛り上げようって意義があってそれはそれで面白かったけれど、今回も同じ地域興しではコミケあっての物になってしまう。そうでなくても水戸のメソッドを各地が学んで独自に何かを立ち上げる方が大切で、その後にわき上がった聖地巡礼ブームなんかも加わって自主的な街おこしが行われるようになった。水戸でのコミケットがそうした状況へのひとつの呼び水になったのだとしたら、今度の幕張でのコミケットスペシャルがなかなか日本に生まれないコミコン的、アニメエキスポ的な総合的エンターテインメントイベントのスタートになって欲しいもの。世界最大規模と自称するゲームの展示会をやっていて、そして世界に冠たる日本のアニメーションの展示会をやっていて、それらが重ならず独自に盛り上がっては細り、企業が物販と宣伝をするだけのイベントに成り下がっているのが実状だからなあ。応援したいコミケットスペシャル。窓外なんで言葉は紡げないけど心の中で声援を。

 アパートにいても寒いからと午前6時に起きて荷物をまとめて実家に避難。でもやっぱり名古屋も寒い。帰宅してテレビを付けたら市川昆さん総監督による記録映画「東京オリンピック」がやっていてその斬新すぎる映像演出についつい見入ってしまった。重量挙げで上げた手とバーベルではなく踏ん張る下半身を横から撮るってどういう了見? でもその力の入れ具合ってのが伝わってくる。だから凄い。あと音楽も斬新。こんな映画が昭和40年前後に作られそして、ポスターといい代々木の建築といい案内表示を図案かしたピクトグラムといい、1964年の東京オリンピックは文化芸術建築等々の叡智が最高の仕事をして、それを世間もお上も許す風土があったんだ。

 でもたぶん2020年は商業にまみれ欲得に左右された無様な物が出て来そう。映画だって可能性を考えるならタレントがリポーターとなって上っ面だけの感動を叫びで伝えるとかそんな感じ。オープニングやクロージングもそれこそ賑やかな宴会が延々と繰り広げられるとか。そこからは未来に繋がるクリエーターは生まれてこないし、世界をアッと言わせるデザインも建築も出てこないんだろう。例の国立競技場だってアイディアをデチューンしたものになり果てるんだ。後に残るのはガラクタと虚ろな気持ちだけ。せめて映画だけは1964年を超えるものにして欲しいけれど、それだってレニ・リーフェンシュタールの1936年のベルリン五輪を超えるものにはならないか。いっそ蜷川実花さんに極彩色の映像でも撮ってもらうか。虚勢でも虚仮威しでも歴史に残るものにしたいねえ。


【12月29日】 移転してから新しい倉庫へといったいどれくらいの時間がかかって途中にどんな難所があるか分からず、荷物を持っていくのを遠慮していたけれども部屋が、というより玄関がもう本でいっぱいいっぱいになってしまって身動きできなくなって来たんで、朝に段ボール箱に何冊か本を詰め込んでキャリーに乗せて運ぶことに。前は総武線で1駅戻って西船から徒歩10分だったけれど新しい場所は近くアーバンなんとかラインになる東武野田線で船橋から2駅、塚田ってところで降りて少し歩く様子で道順とか分からずエレベーターの設置状況も不明。引っ越しの時はバスで行ったから途中がどんな坂になっているかも分からない。

 なので比較的小さめの箱を2つばかり積んで移動しまずは野田線、改札へ上がる時にもホームに上がるときにもエレベーターが利用できてそして休日だからか乗っている人も少なく荷物の上げ下ろしは楽だった。そして塚田駅でもホームから改札に上がる時もそこから降りるときもエレベーターの利用ができておまけに空いていた。総武線だとご老体からベビーカーから荷物持ちからいっぱい利用者がいてなかなか乗れないんだ年末年始でも。そのあたりが野田線ならではだけれどそれをアーバンパークラインだっけ、都会の公園が線だなんて名前にして果たして良いのか。畑と森と住宅地が続く路線のどこがアーバンだと。

 そう思わないでもないけどでも、周辺の宅地開発とか凄いからなあ、塚田の手前の新船橋なんて巨大なマンション群ができはじめた。イオンモールもできた。これで路線がさらに活性化すればスカイツリー線みたいに東京スカイツリーを中心にんした路線という意味を持った名前に雰囲気が追いついてくるかもしれないけれど、それにはスカイツリー並に目玉となる施設が必要かもしれないなあ。野田線。というか野田がアーバンになる日なんて来るのかなあ。銚子とは違った意味で千葉の奥地だもんなあ。大宮に出るにしても柏に出るにしても30分はかかりそうな地域を冠した路線をアーバンとは。とはいえ伊勢崎を冠した路線をスカイツリーにしてしまった東武だけに柏あたりにアーバンなパークでも作って名に体を合わせてくるのかも。どんな施設だそれ。

 まあいい塚田は新船橋ほど開発もされておらず乗り降りも楽にできてそこから道なりに歩いて倉庫までだいたい10分くらい。急な坂もなくちょい下がりちょい登ってそれから下がる感じで荷物を運ぶ腕にも負担がかからず。車も人もいないから奇異な目でみられもせずに倉庫へと辿り着いて荷物を放り込み、そして午後にもう1回、小さい箱を運んでとりあえず終わり。前よりも遠いという感じはしなかったんでまた時間を見て運ぼう。場所的に宅地造成とか始まりそうもないんでいきなり移転するとかなさそうだし。2度目の帰りはそこから徒歩で船橋市街地まで。だいたい20分くらいか。とはいえ家からキャリーを引っ張っていくにはちょっと遠そうなんでやっぱり鉄道利用か。そのころにはもう名前変わっているのかな、アーバンパークラインに。

 そんな合間をぬってコミックマーケットへと出むいてアニメミライが出していた「アニメノミライ」という冊子を購入、これまでにアニメミライが送り出してきた作品に関わったクリエーターの人がイラストとかを寄せていて「たんすわらし」とかでキャラクターデザインをした人のイラストとかがあって作品に出てきた面々に今一度、出会えてちょっと懐かしかった。今は「攻殻機動隊ARISE」のシリーズで総監督をしている黄瀬和哉さんがたぶん始めて監督というものに手を染めた作品なんだけれど、「攻殻」では超ハードな雰囲気を出しているし他の作品でもスタイリッシュな絵を描く人がこの「たんすわらし」では童話風で寓話風な優しく暖かい絵を出してきて、どういうことだと驚いた人も結構いた。

 ただやっていたことは相当に高度なことらしく、関節がない漫画風の腕をどうやって動かすか、そんなキャラクターをどうやって走らせるか、リアルじゃない顔にどうやって表情付けを行うか、なんてことを実験して若いアニメーターに勉強してもらったようなことが前に何かに書かれていた。その成果が今いったいどこの作品でどんな感じに出ているのか、ってのは分からないけれどもそういうのが表に出てこなくっても、内部的にはしっかりと息づいているからこそ文化庁もプロジェクトの価値を認めて3度にわたり実施し今、4度目の作品が作られ来年にも公開されようとしているんだろう。

 なるほど凄い作品ができて話題になり、大人気となって海外からも評価され、それでシリーズ化が取りざたされることもアピールになるから重要だけれど、そのために少ないリソースをぶち込み現場を疲弊させては本末転倒。そういう修羅場をくぐらせることもひとつの意味とは考えつつ、やっぱりアニメーター自身の成長に繋がるようなプロジェクトにしていって欲しいもの。本来の目的とはちょっとズレたところで作品そのものの出来不出来が語られ、リポーターが現場の様子を伝えたり有名人が応援したりといったことを通じた存在のアピールがちょっと目立っているなあ、って感じていたところにこうして、原点を振り返る冊子が出てきたことにひとつ、意味を見いだし何がプロジェクトの根幹なのかを考え直し、その上でアピールとのバランスをとって進めていってくれれば、誰にとっても嬉しい結果を呼べるんじゃなかろーか。「たんすわらし」のように派手じゃないけど凄い作品がまた見たいなあ。

 「2013年の終わりに際して」と銘打って瀬名秀明さんが日本SF作家クラブの会長時代を振り返っていてなるほど過去か半世紀近くに渡って続いてきたその情動も入り混じった良く言うなら家族的な運営状況を、理系かどうかはともかく理詰めで運営できるソリッドなものへと持っていくのは相当に大変だった様相。というか大変過ぎて結局どうにもこうにもならず瀬名さんは退く形になってしまった訳だけれどもその後、どういう運営がなされていいるのかはクラブ員でも何でもないんでまるで分からない。たとえ中がどうであっても、外部に向けてSFの存在をアピールする最大の機会だった日本SF大賞くらいは早々に復活させて欲しとSF好きとしては思うし、実際、動いてはいるようだけれど果たしてこのやり方で良いのかどうか、誰でもエントリーが可能となる中で星雲賞と何か違いが出るのか、といった辺りが気になるところ。早速いろいろ出ては来ているけれど、人気投票めいて来ている感がある。それとも事務局的に修正が入るのか。その上で相応しい賞が決まるのか。遠目に成り行きを見守っていこう。


【12月28日】 もう何度目かになる「風の谷のナウシカ」を見ながらやっぱりいろいろと発見があるなあというか、ストーリーが分かっていても食いつかせる何かがあるなあと考えてしまうのは多分、その絵の良さもあればちょっとした動きの楽しさもあるし分かっていてもやっぱりストーリーから感じられる熱のよーなものが目をそらさせないから、なんだろー。絵でいうならやっぱり胸なんだけれど筆頭に掲げられるナウシカの、前へとせり出した大きさはさておいてもペジテの避難船の中でナウシカの身代わりになる女の子も服を脱いで下着姿になった時の胸が結構大きそう。もちろんクシャナ様も。あの世界では何かの影響で年頃の女の子は胸が大きくなる“病”にでも冒されるんだろうか、腐海か何かの影響で。だとしたらちょっと良い世界かも。生きるのは大変そうだけれど。

 あと目を引いたのは腐海の底へと落ちたときに飛んでいってしまったメーヴェをナウシカと一緒に落ちたアスベルがひょいっと掲げて回収してきたシーンでそうかあんなに軽いのかと驚くと同時に今、メディアアーティストの八谷和彦さんが作っているメーヴェがそんな軽さを持ち得る日は来るんだろうかと想像した。たとえば今はグラスファイバー製だろうFRPのボディを炭素繊維強化プラスティックにしたら強度を維持しつつ軽くできるかもしれないし、エンジンを鉄とか金属ではない素材で熱に強く軽さもあって強度も耐久性も持ったもので作れれば、そして出力を倍に上げられればさらに小型軽量にできるかもしれない。そうなればギリギリの体重の人ではないナウシカばりの巨乳な人だって乗せて飛べるかも、って考えると夢もふくらむけれどそれが実現するのは何年後? そうなった時に世界がメーヴェだけでなく、火の七日間も腐海も含めてナウシカの世界を再現していたら嫌だなあ。そうなり得る状況が今、蠢いているだけに悩みも深い。

 みんなだから「風の谷のナウシカ」を見れば良いのに。見ればとてもじゃないけど戦うとか、危険な科学にすがるとかいった真似なんてできなくなるのに。って思うんだけれど偉い人はアカデミー賞受賞監督といった名声を自分に寄り添わせる気はあっても、その思想や作品のメッセージまでをも自分の物とはしたくなさそう。それですり寄られたって蹴っ飛ばすのがあのおっさん、な筈だけれど周辺にいるプロデューサーとか、金儲けが好きそうだからなあ、というか好きじゃなければ作品自体が作れなくなるというジレンマと戦っているからなあ。折り合いの中で名声ばかりが利用されるような状況に陥らないように祈るだけ。そしてナウシカの世界がやって来るなら、メーヴェとそして巨乳と可愛いクシャナ姫くらいの範囲に留まって欲しいと願うだけ。でも……。止めたいなあ、何とかして。

 寒いけど起き出して新宿はバルト9へ行って「魔女っ子姉妹のヨヨとネネ」の封切りを舞台挨拶付きで観る。映画自体はこれが2回目だからもうだいたいの内容は分かっていて、どういうところに落ち着くのか、そこへと至る過程で何が起こるのかといったことを見知った上で登場人物の関係性なんかも掴んだ上で観たから細かいところの表情だとか感情の流れだとかに気を配って深く噛みしめることができたけれど、これが初見だとやっぱりいろいろ戸惑う人もいるのかなあ、というのがひとつの感想。ウエブサイトとか原作とかを知らなければそもそも小さいヨヨさんがどーして大きくて胸もちゃんとあるネネちゃんのお姉さんなのかが分からない。何か理由でもあるのか? あるんだけれどそういうのは映画の中では一切説明されないからちょっと戸惑うし、そんなヨヨさんが途中でちょい、大きめになってしまうからさらに分からなくなってしまう。そんなヨヨさん観ても別にネネちゃん驚かないし。

 まあそれはサイトを見るなり原作を読んでくれれば良いとして、もうひとつ、ヨヨさんが病院へ行った時にそこでベッドに並ぶ新生児を観て、そして分娩室で生まれたばかりの赤ちゃんを抱きしめる母親を観て、そこで何が行われているのかをまるで分かってなさそうなのが気になった。ちょっと前に道路で車に跳ねられそうになった子供をヨヨさんが魔法で象を呼びだし助けた時も、母親がどうしてあんなに感謝しているのかが分からなかった感じ。母親から向ける子への愛。あるいは子から抱く母親への愛。それらがすっぽりとヨヨさんから抜け落ちているっぽいのは何故なのか。映画では分からないんだよなあ、おばあちゃんがいるから母親がいなかった訳ではなさそうなんだけれど、その辺り何か理由があるんだろうか。原作を読んで確かめるしかないかなあ。

 そんな原作は書店ではめっきり見かけなくなったけれども新宿のバルト9には3冊とも置いてあったんでパンフレットとともに購入。そして聞いた舞台挨拶ではヨヨさんを演じた諸星すみれさんが最初は作中に出てくる女の子の役でオーディションを受けたんだけれど、その巧さ器用さから平尾隆之監督と近藤光プロデューサーが主役に起用することにしたんだとか。とはいえいったいどれだけ演技ができるか分からなかったんで、ちょうど吹き替えをやっていた「シュガーラッシュ」を観たらこれがバッチリ。どんな役でもしっかり演じきる力量の持ち主だと分かったというからやっぱり相当な巧さなんだろう。一方のネネちゃんを演じた加隅亜衣さんも最初はヨヨさんと女の子も含めて受けてそしてネネちゃんに決まったとか。落ち着いて冷静でそれでいて姉思いな女の子をしっかり演じてくれた感じ。何より声質が良い。耳に澄んで響くその声は今後いろいろな場面でヒロインとして輝いていってくれそう。諸星さんともども追いかけたい声優かな。

 魔の国の総司令役は我らが蒼崎橙子さん、ではなくその中の人の本田貴子さんだったけれどもどこか投げやりな燈子さんとは違ってむしろアグレッシブに売られた喧嘩は買うぞといった荒っぽさを聞かせてくれたけれど、あれでなかなか孫娘思いなところもあるみたい。その妹で死霊使いのヨミさんは氷上恭子さんだったっけか、可愛かったなあ眼鏡っ娘でそれでいてグラマラスで。お近づきになりたいけれどもその御年はいったいどれくらい? 聞かないのが花ってことで。そんな声優陣によって繰り広げられるドラマは最後に信じる気持ち、頼られる嬉しさを全身に浴びて立ち上がるって感動が待っているから涙腺が緩むのを覚悟で観ていこう。ある意味で「サマーウォーズ」でのラストバトルに近い雰囲気もあるけれど、どの作品で観ても誰もが他人を思いやる気持ちを持って接することで、繋がり合って広がっていけるんだってことを教えられた。世界もそうなると良いんだけれど。だからみんな観れば良いんだ「風の谷のナウシカ」を、そしてこの「魔女っ子姉妹のヨヨとネネ」を。

 戦争だ戦争だ。これまでも戦いとかあるにはあったけれども教団の異端審問騎士団が勇者たちを追いつめていく戦いとか、新型魔法を使って10万を一気に消し去るとか、ミスマルカの城下町で黒騎士たちが近衛騎士団を一気に蹴散らすとかいったおおざっぱだっり限定されたものが中心で、こと戦場で刃と刃が交わるよーな血で血を洗う戦いってのはあんまり描かれてこなかた。それが林トモアキさんの「ミスマルカ興国物語11」(角川スニーカー文庫)ではもう戦争に次ぐ戦争で、パリエルの顔は血でそまって戦場で出会ったルナス姫でもそれが誰かが分からない。そして2人が真っ向から剣を交えそこに長谷部沙耶香が絡みキャスティア・フルバレットも絡みレイナー・ラングバルドも絡んで混戦状態になるなんてかつての平和をこそ1番と訴えるマヒロ王子が前線に立っていた時代には考えられなかった。それだけ事態が切迫しているってことなんだろう。そして動き始めたシステムの亡霊たち。その狙いは。魔物たちの擾乱に理由は。面白くなって来たんだけれどでも、次に出るのは1年後とかなんだろうなあ。頑張れ林トモアキさん。書いてから寝ろ。


【12月27日】 例の人工知能学会の会誌について差別云々の論議はさておき、仮にそれが今流行っている初音ミクだったらどうだという意見がこぞって出てきたのが意外というか、現代的というか。だって僕ら1990年代をどっぷりとアニメーションやらゲームやら漫画に浸って過ごしてきた人間にとっては、お掃除する女性型のロボットといったらもう「To Heart」のHMX−12ことマルチしか考えられない訳で、箒だかモップだかを手にしたマルチがせっせとお掃除している姿を思い出すだけであの、未来を感じてウキウキとした1990年代が浮かんできて、その願望と今とのギャップを感じて涙が出てくる。どうしてこうなった。

 ってのはまあ個人的な愚痴だけれども、それにしてもあれだけ世間にマスイメージとして定着した筈のお掃除ロボット=マルチという図式が、10余年でこうも薄れてしまうとは世代交代って怖いなあとも思った次第。それは「ヨコハマ買い出し紀行」の初瀬野アルファさんでも同様か。どっちも絶頂を極め、そして今はきれいさっぱり。何でもかんでも初音ミクな今をうち破る凄い人工知性的な美少女キャラってのは出てこないものなのか。期待が持てるとしたら長谷敏司さんの「BEATLESS」に登場するレイシアほかのアンドロイドたちか。でもモップとか持ってお掃除しているイメージはないもんなあ、勿体なくてやらせられないよ、何せ人間を超えたアンドロイドたちなんだから。させたらどんな完璧な掃除をしてくれるのか見たいけど。

 一部に自民党の機関紙とも言われ始めている自称全国紙は当然のように全面肯定をしているけれど、それ以外の真っ当さを未だ保った新聞各紙は安倍総理の靖国神社参拝に対して非難する社説を掲げていて、中でも割と保守寄りで自民党寄りだと思われていた読売新聞が、外交関係をグチャグチャにするような行為はやっぱりダメなんじゃないと言い、アメリカが大使館を通して「がっかりだよ!」と桜塚やっくんばりのコメントを出したことも受けて日米関係にも亀裂が入りかねないことを憂慮している。可能性としてこうして米政府が非難めいたコメントを出すことで、中国にお前らこれ以上騒ぐなと牽制なり懐柔してみせたのかもという想像もあったけれど、読売の書き方だと割と真剣に米政府は事態を憤っている様子。だから日本の政府関係者もそれを意外と受け止め異例と感じて慌てふためき、安倍総理が説明しなくちゃいけない事態に追い込まれているんだろう。

 だったらそんな事態を最初から招くような行為は控えれば良かったのに、自分のプライドを外交に優先させたいお坊ちゃんの我が侭が相手では、政府の有力者たちであっても止められなかった様子。それは自分の地位を最善としてそれを阻害する要因は、すべて機関銃で蜂の巣にしているどっかの国のお坊ちゃんと重なって見えたりも。独裁って面では程度の差はあれ似たようなものか。かくして日本には米政府のみならずEUからももっと仲良くしようよっていったステートメントを出される始末。その言葉が強烈じゃないとはいえ、遠く離れた日本に対してもめ事を起こすなと釘を差すのは余程のこと。そうしたもめ事の原因が靖国神社の参拝にあるなら、それも含めて遠慮を求めたものと解釈するのが正しいんじゃなかろーか。

 読売の社説で意外というか真っ当だったのは、戦没者の慰霊に勤しむこと、それ事態は別にいけないことではないけれど、A級戦犯が祭られて海外のとりわけアジアからの反発もあるだろう場所にわざわざ出かけていって参拝して、波風を立てることがはたして政治かとして正しいのかと問うていること。国益として最優先すべきは外交であるにも関わらず、それを自分の思い入れだけでぶち壊した総理の行為はやっぱり拙いという判断なんだろう。戦没者を参りたいなら靖国ではなく千鳥ヶ淵にある無名戦没者の慰霊碑もあるわけで、そういう思いを果たしたんだと今回の行為を正当化するなら、どうして同時にそっちには行かないのかという真っ当な指摘も。つまりは穴だらけのロジックを通して当然の非難を受けて右往左往しているのが今ってことで、それでも自分を通していくのが安倍総理。結果として何が起こるのか。考えるだけでウンザリしてくる。10年後から振り返って今年がどういう年になったのかを見た時に、すべての転換点だったと思いたくないよう2014年をどうにかしたいものだけど。無理かなあ。

 恋人以上に密接に繋がっている兄と妹が、元よりのとてつもない能力を発揮してゲーム周りで大活躍する話っていうと、榎宮祐さんの「ノーゲー・ノーライフ」がまず浮かぶけれども上智一麻さんの「仮想領域のエリュシオン 001 シンクロ・インフィニティ」(MF文庫J)に出てくる大河と冬姫の兄と妹は、別にゲームだけが取り柄の引きこもりではない。兄は武道の名門に養子として引き取られては日々の鍛錬からその一門の門弟に留まらず師範まで倒してしまう凄腕を身に着け、そして妹はコンピュータ産業の有力企業を経営する一家に養子として引き取られ、そこでとてつもないハッキングの腕前を身に着け企業のセキュリティすら突破し、グチャグチャにしてしまえる存在となる。

 そんな2人がある意味で恵まれた養子の環境を捨ててまた、一緒に暮らすことになって始まったストーリー。行きがけの駄賃に妹は会社のセキュリティを数日は使えないくらいに壊してしまい、兄は道場の門弟から師匠までをうち破って逃走。そして天凌という名字に戻して2人で暮らしはじめ、電子に関する授業を学べる学校に通いながら電子ネットワークの世界に生まれるバグなんかを退治する仕事で生計を立てようとする。ネット内のアバターに自分を写し、得意技を道具に変えてバグ退治をするって辺りは内田美奈子さんの「BOOMTOWN」にもある描写。誰かは靴の裏にワクチンめいたものを仕込んでバグを踏みつぶしていたっけか。

 大河は剣術が得意で長刀をネットの世界に顕在化させそれを振るってバグを倒す。いきなり最強クラスの腕前。けれどもそれが通じない相手が現れた。通い始めた学校で清楚な生徒会長として知られる少女が、裏では抑圧された感情をぶちまけ悪口を吐く性格で、それを知ったこともあって彼女が偽装で作った授業に引っ張り込まれて人工知性の少女の話し相手にさせられる。成長し、感情を持った人工知性。あり得ないそれに驚いていたのもつかの間、その人工知性に仕込まれたウイルスが発動して周囲にいた者たちの意識を吸い取り始めた。退治に向かった大河や冬姫、そして冬姫の友達の涙だったけれどもちょっとした慢心と油断から敵の反撃を受け、涙が連れ去られてしまう。

 後悔。かつてトラックに両親が跳ねられた時も、その頃から発達していた運動能力を活かして妹だけは救えたものの、力が足りず両親を見捨てる結果となった。そのトラウマもあって誰も見捨てたくないと頑張る大河は果たして強敵を倒して涙を取り戻すことができるのか。そんなストーリーの先にはそもそもどうして消し去ったはずのそうしたウイルスが発生し、それも生徒会長がこっそりと作っていた人工知性の中に入り込んでいたのか? という謎が現れ解明への興味を誘う。何者かが生徒会長の実家の財閥を狙っているのか。死んだといわれている共同開発者だった女性の何か執念が残っているのか。追いかけて来ない冬姫と大河、それぞれの養家の動勢も気になるところ。そして涙と大河との仲に不満げな冬姫の爆発も。続きがあるなら読んでみたい。あるだろうなあ001って書いてあるから002が。


【12月26日】 どうにも使っているノートパソコンのThink PadX61のキーボードの調子が良くないんで、バックアップ機を揃えておくかと秋葉原を散策。XPのサポート停止を前にしてWindows7へと乗り換える動きも加速しているみたいで、Think PadのX201iだかがメーカーリフレッシュによる完動品として4万4800円で売られていたけど、持っているソフトウェアが64bitのWin7上で使えるとはちょっと思えなかったんで、やっぱり同じXPが搭載されたX61にしたいと幾つか店をのぞいて、ソフマップのリユース館に割と品が揃っていたんでそこで適当なのを見繕って持ち帰る。

 バッテリーは弱っているしセキュリティーチップに登録された情報が消せずアラートが出たりして鬱陶しかったけど、後者はネットから情報を引き出し解消したし、バッテリーもバルク品の8セル版が安くネットに回っていたんでそれを発注。ソフトもだいたい入れたんで、あとはデータなんかを移せばすぐにも使えるけれどもまあ、今のこのマシンが動くうちは使わないまま仕舞っておこう。しばらく前にはまだ結構出回っていたX61も、今ではネット通販でもほとんど見なくなったようで、使いたいなら今のうちに1台仕入れておいて悪いことはない。遠くない将来に筆1本で立たなくちゃいけなくなった時にやっぱり、使い慣れてキーボードも打ちやすいマシンが何台もあると、便利だからねえ、というより死活に関わる問題か。そんな日来るのか? 来そうなんだよ。

 「日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」とはまたはっきりとした口調でがっかり感を表明したなあ、駐日アメリカ大使館。昼前に突如起こった安倍晋三総理の靖国神社の参拝は、もちろん中国や韓国の政府とか国民とかを刺激して反意を喚起し、これから後の行動も予測される事態となっているけれど、これまではそうしたアジアの国における歴史的な背景を持った諍いを静観して来たアメリカが、大使館という日本におけるアメリカ政府と同等の位置づけを持った組織から、「失望した」というステートメントを出させたのは余程、事態を重く見ているって現れなんだろう。

 続けてステートメントでは「米国は、日本と近隣諸国が過去からの微妙な問題に対応する建設的な方策を見いだし、関係を改善させ、地域の平和と安定という共通の目標を発展させるための協力を推進することを希望する」とまで言ったりして、ともすれば内政干渉と見られかねない言葉でもって一種の口先介入を行っている。もっとも半歩下がってみれば直接的ではなく、「お前らよく話し合って仲良くしろや」といった客観的でやや上から目線の言葉ととれないこともなく、主体は日本政府にあるといった認識を見せているとも言えるそう。それでもやっぱり厳しい姿勢。「米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する」と締めて今後の成り行きに目を光らせていると忠告する。

 考えようによっては、敢えてこうして米国が上から目線のステートメントを出すことで、日本に肩入れしている訳じゃないよってことを中国と韓国にも感じてもらって、だからそう事を荒立てないでいるようにといったメッセージをそこに込めているのかもしれないし、日本が強行に靖国参拝を進めることのガス抜き役を、頼んで米国政府に果たしてもらったという見方もできない訳ではない。バランス調整の一種で、それが日本へのあくまで失望であって、非難ではないことに繋がっているのかもしれないけれども、そういう配慮を忖度して口をすぼめることができる国情では、韓国も中国もないからなあ。前にも増して非難が浴びせられ行動もとられそう。

 そうした口撃なり本格的な攻勢を受けてエスカレートしていく対立が、もたらすものが有用であるはずがない。下からの突き上げもあって、それを入れないのはやっぱり体面が悪いなあといった下らないプライドを抑えて、今はひっそり鎮まっているという最善の方策を、だからどうして安倍総理は取れなかったと思うけれど、それができないからこそのこの国のこの惨状。どうせならTPPへの反対も靖国参拝並の強固な信念で通せば良いんだけれど、あれは元より米国様の言うなりにTPPを通すことを信念としていたから、その意味では揺るぎはないと言えるのか。どうしようもない国になっていく。

 陸上競技の選手だった為末大さんが、ツイッターでアスリートについてはやっぱり天性の才能あるいは肉体的な要素が9割とかどうとか話して、いろいろ叩かれていたけれど、実際問題いくら努力したって100メートルで誰もが10秒に迫ることはできないし、11秒台で走ることだって難しい。それは水泳でも柔道でも他の競技でも同様で、強くなる人は強くなるだけの肉体的なアドバンテージを最初から持ち、その上に努力を重ねてあそこまでの成績を上げる。それが現実。絶対に揺るぎない。

 だからといって、100メートルを12秒台で走る人が劣っているかというとそういうことはない。陸上競技の選手にはなれなくても、走る楽しさをその人自身が味わっているならそれで十分。ほかにいろいろな才能があったりするかもしれないし、そうでなくてもその人がその人なりに生きているなら、他の誰が何を言って蔑むなんてことはできない。人それぞれ。だから誰もが敬意を抱いて生きていけるし、そうやって世界は丸くなる。楽しくなる。でも。

 こと競技の世界となるそうした天才かどうかというのは、やっぱり大きな分かれ目になる。そして乾ルカさんの小説「向かい風で飛べ!」(中央公論新社)もそんな、天性の才能の有無をめぐって、スキージャンプに挑む少女たちが迷い悩みながらも成長していくストーリーになっている。農業試験場で小麦の開発を成し遂げた父親が、祖父母の耕している農地を手伝いたいといって職場をやめて田舎に引っ込んだ関係で、札幌から祖父母のいる土地へと引っ越したさつきという小学生の少女。周りに知っている人は誰も折らず、人も少ないからすっかり人間関係が出来上がっている場所で疎外感を味わっていたところに、クラスメートですらりとした美少女の理子から、ジャンプを見に来ないかと誘われる。

 その時は、直前に理子が同級生の圭太と「ワンピース」という言葉を交わしていたこともあって、すっかり漫画の「ONEPIECE」のことかと思い単行本を買い込んで理子の誘いに応じて出かけたけれどもその先で行われていたのはジャンプはジャンプでもスキージャンプ。そこにはジャンプ用のワンピースのスーツを着た理子がいて、シニアに交じってテストジャンパーとしてとてつもないジャンプを見せていた。聞くと将来有望で五輪すら可能性があると言われている逸材。そんな彼女にいっしょにやらないかと誘われて、さつきはスキージャンプを始めることにする。

 その時はまだ、凡才が天才に惹かれそして引っ張っていかれるという構図。剣道でごくごく普通だった少女が全国レベルの腕前を持った少女と出会いいっしょに練習しながら強くなり、やがて別れてライバルになるという誉田哲也さんの「武士道シックスティーン」と思わせるシチュエーション。理子はさつきの憧れとして先を行くけど、存外にさつきも才能があって理子が驚くくらいに成績を伸ばしていく。追いつかれるという恐怖があり、ぐんぐんと少女らしさを増していく体型もあって思い悩む理子は、成績もあがらずジャンプを続けて良いのかと悩む。それを傍目で見ていて気づけないでいたさつき。密かに努力を重ねて成績も、モチベーションも維持していた理子と何もしないでも体型は整い成績も伸びていたさつきの、いったいどちらが天才なんだろう?

 そんな、天才と凡才が入れ替わったかのように見える展開が、才能というのはいったい何なんだろう、それは永遠なんだろうかといった問いを投げかけてくる。神童と呼ばれても大人になったらただの人なのはよくある事。理子もそれだけのことだったのか? 先輩ジャンパーのどこか嘲るような、けれども叱咤も含んだ言葉に大いに迷う理子の姿は、自分に悩む少年少女に同感の思いを抱かせそう。もっとも、理子は追い抜かれる恐怖が体を縛っていただけだし、さつきも未だ挫折を知らないだけ。それらを乗り越え友情を確認し共にライバルとして立つ気持ちを強めた天才と天才が並び立つ。目覚めた2人が次にどんなジャンプを見せるのか。続きがあれば、読みたいなあ。

 人工知能学会が会誌のデザインをリニューアルして、タイトルを「人工知能」と改めたまでは良かったものの、表紙に漫画風なイラストの美少女が背中にコードを付けた姿で立っていて、手に箒を持っていたりする姿に、やっぱりいろいろ異論が出た様子。日本だとアニメとか漫画にそうした美少女型のおそうじロボットはたくさんあるし、擬人化なんてタームもあって割と普通に行われてしまうことなんだけれど、性差に厳しい目から見るならまずなぜロボットが少女で、それが掃除をさせられる立場におかれているのか? といったところから懐疑が入って、そこに少女は掃除をする存在だといった認識があるのではといった指摘が現れ批判される。

 アーティストのスプツニ子さんはそれが例えば黒人なり黄色人種だったら欧米でいったいどれだけの反響を受けるかといった問いかけをして、事態の深刻さを訴えている。何でそこで黒人が、黄色人種がといってポカンとする人もいそうだけれども解放されたとはいえ差別的な視線が未だ残るアメリカあたりでは過去の経緯もあってそれを未だ引きずるような感じで、黒人女性の掃除夫だとか黄色人種の掃除夫といったものを持ち出し、未だ役割を限定されていると感じさせるようなことをしたら、明らかに差別だと指摘されそう。それに匹敵することを実はやっているんだけれど、そうと気づかない無邪気さが日本にはあってそれが分かる人にはどうにも居たたまれないといったところらしい。

 だったら来月はジュード・ロウばりの美形な男子がヒーターよろしく体で誰かを温めているような耽美な絵ならバランスもとれてオッケーかというと、それもまた美醜という価値観を持ち込み女子はそういうものが好きだという先入観に依ったものと言われそう。別にエンターテインメントの世界でそうした卑近な扇情を行うのは構わないけれど、学会がフラットな立場で、それも性差とかいったものを越えた知性を目指している身でありながら、刊行する会誌にあからさまな差別を持ち込むのはやっぱり拙い、ってことなんだろう。対応に注目。


【12月25日】 ひとりきりのクリスマスイブを過ごして目覚めても雨は降っておらず雪にも変わっていなかった。そんなクリスマスをおめでとう。日記を書き始めて18回目のそんなクリスマスイブとクリスマスになったけれど、読み返す気もおこらないほどに過去を探ってもきっと何にもなさそう。ファンレターとかも来ないしなあ、クリスマスイブの素敵な夜を益体もないお話を聞いて過ごしたいわ、なんてコメントが添えられていたりするような。まあでも仕方がない、それが自分の甲斐性って奴だから。せめて20回目を迎える再来年くらいには何かハッピーな話でもあれば良いんだけれど。路頭に迷って大きな荷物を背負い町中をとぼとぼと歩くリアルサンタクロースとなっていたりするとかいった。

 そんな自分とは違って何やら麗しげな噂も伝わってくるアーティストのスプツニ子!さんだけれど、それが本当かどうかはもはや自分には縁遠すぎることなので雲上の出来事と受け流しつつ、朝日新聞出版の「アエラ」最新号に掲載されていた向井理さんとの対談なんかを読んで美男美女が居並ぶ光景に目を眩ませる。どう頑張ったってその列に加わることなんてできないものなあ、今からでは、生まれ直しでもしない限り。まあ仕方がない。そんな対談でスプツニ子さんは名前の由来を長身でロシア人っぽいからと話している。スプートニクからなんだけれどもし、それがソユーズからだったら「ソユズッ子!」になったんだろうかとしばしの思案。ロケットだし。でもスリムじゃないからなあ。「ボストー子」。何が何やら。どうやら4回続くみたいなんでイケメンが美女から何を聞き出すか、読み継いでいこう。

 南スーダンでPKOに出ている自衛隊が、韓国軍に銃弾を国連経由で譲ったということについて左の方からは武器輸出三原則に違反して居るんじゃないかという話が出て、そして右の方からは貰ったのに韓国がいろいろ言い繕って御礼のひとつも言わないといった話が出ていたりするけれど、根本にあるのは韓国軍がそれなりの装備で出むいたにも関わらず、銃弾の不足が心配されるくらいに南スーダンの情勢が悪化しているっていう状況出、そんな場所に自衛隊を派遣して果たして大丈夫なのかといった根源へと戻って左の人たちは議論した方がいいのに、目先の問題にとらわれて踏み込もうとしない。いやいや博愛で鳴る左の人たちなんだから、これほどまでに情勢が悪化している南スーダンの人たちを心配して、救出のために何かすべきだとか叫んでも良いんだけれどそういう方向へは話は流れない。騒ぐことのために騒ぐ。そんな性質が染みこんでしまっているんだろう。

 こなた右の人たちだって五族共和だとかいって世界の人たちと手を取り合おうと煽りそんな言葉を受けて満州を作り、大東亜共栄圏と言ってその実現のための戦争だったんだと太平洋戦争を正当化しようとしているくらいなんだから、遠くアフリカだって救いに参じるべきなのに、そうした意見はまるで出さずに韓国の無礼ぶりをのみ言い募る。これだって何かを施すなり供与して、たとえ相手が礼を失した行動をとってもそこをぐっと飲み込み、相手がそれで幸せになるなら自分たちは満足だといってそっと背を向けるのが日本人的大和魂って奴。あるいは武士道とか? それを相手に礼を強要するようにがなりたてるのってあんまり日本人的な美学にかなってない。そして不思議なことにそうがなりたてる勢力ほど道徳教育が必要だとか訴える。他人に礼を強要するのが道徳ねえ。結局は嫌韓が喧伝できればあとは整合性がとれていなくたって構わないという、狭窄した視野のなせる技。それで日本は変わらないよ。右にも左にも。ただ下へ。落ちていくだけ。ダメじゃんそれ。

 俺は東京ドームに最先端のエレクトロ二カなポップミュージックを聴きに行ったと思ったら、広島弁で語られるトリオ漫才を聴かされていた。何を言っているか分からないだろうが俺にもさっぱり分からない。何か凄まじい多芸ぶりを見せられたぜPerfumeの東京ドームライブでは。実際にロッキングオンの偉い人も見てそのパフォーマンスの合間に繰り広げられる長い長いトークを持ってトリオ漫才と評するくらいに息があい、そして面白くさらには感動させせてくれる喋りだったから楽しめたけれど、完成されたひとつのステージとして考える場合にああした喋りを減らしてもっと、徹底的に音楽とダンスでもってつなぎ続けてのせ続け、ライブ会場をダンスホールに変えるくらいの演出があっても良いかなあ、とは思った。あるいは日本語が通じない海外での公演ではそうしたアクトを中心としたステージを繰り広げているんだろうか。海外ツアーのDVDとか出ていたんでちょっと見てみたいかも。

 とはいえ日本向けには長く培ってきたステージスタイルがダンスと歌があってそして長いトークといった構成だからこれはこれでファンの期待に答えつつ自分たちのスタイルを貫いたものとも言えるかも。そんなPerfumeを見たのは実は始めてだけれど音楽については中田ヤスタカさんが手がけてきたポップなサウンドが3人の巧妙なダンスと相まって実に目に刺さってくる。ステージを正面に見るような席ではなくって広い東京ドームの2階席1塁側のほとんど外野より、ステージの斜め前横といった位置からだと3人が並んでシンクロしつつダンスをする場面は背後のモニターを通してしか見られず、生の迫力といったものとはちょっと遠かった。それでも斜め上からでもしっかりと踊り演じて見せていたそのパフォーマンスは、これだけの観衆を集めてその前で披露するに相応しいもの。「チョコレートディスコ」とか「ポリリズム」といった懐かしのヒットチューンも含めて繰り出される楽曲を浴びダンスを目の当たりにすることで得られる一体感といったものを、味わえるライブだってことが分かってちょっと面白かった。

 喋りについてはもう随分と東京にいるにも関わらず、しっかりと広島弁を使って喋ってそれもやわらかな感じで喋ってくれるから和む和む。関西弁女子ともまた違った可愛らしさが醸し出されるそれがないとやっぱりPerfumeのライブに来た感じがしないって、誰もが思って当然かも。みんなで一斉にいろいろな振り付けをやる場面でサンタからトナカイときて雪だるまへといきなり移るタイミングの振りとか、あーちゃんの天然入ったかけ声だからこそみんな楽しめて乗れる。命令ではなく哀願でもなくふんわりと誘うその声が良いんだろうなあ。でも雪だるまの格好はちょっと凄かった。ツアーのDVDとか出たら正面の映像を見て楽しみたいけど出るのかな。ともあれなかなかのパフォーマンス。でもやっぱりあの3人が揃いダンスする場面を見てこそって意味だと、東京ドームはちょっと広すぎる気がしないでもない。ファンの多さを考えるならあのキャパだけれどパフォーマンスを考えるならもうちょっと狭い場所が良い。そんな矛盾をさて、どう解消していくことになるんだろう。それも含めて見守っていきたい。また行けたら行こう。


【12月24日】 代々木でのファミマプレゼンツなライブではチラリとチームちゃしほこが出ていて唄っていてこれがなかなかのノリ。そりゃあまだ見た目はももいろクローバーZの横スライドめいてるし、アグレッシブさとかでももクロを越えるような部分は見せられていないけれども名古屋発というローカル性とそれからパフォーマンスの高さによって、これからどんどんと世に出ていくって可能性はありそう。日本武道館ので公演も決まったみたいだし、これを前後にいろいろとパブリシティも増えて一気にブレイク、ってことになるのかな。なって欲しいな名古屋だし。ファンクラブ入ろうかな。

 あとBACK−ONってバンドが見た目はロックなんだけれども歌っているのが「機動戦士ガンダムビルドファイターズ」の主題歌だと分かると途端に生き生きとして見えてくるアニソン脳、というかアニソン耳目か。きっとアニソン系のフェスに出れば大盛り上がりの中で迎え入れられたんだろうけれど、きゃりーぱみゅぱみゅとか2PMを見に来たお客さんがメインの会場では総立ちとまではいかなかった模様。それでも聞けばボーカルにラップが交じって盛り上げていく感じが往年のFLOWみたいで、彼らが「交響詩篇エウレカセブン」の主題歌「DAYS」で感じさせてくれたメジャー感をまんま、感じさせてくれる気もしたからきっと、1月以降も務める「ガンダムビルドファイターズ」の主題歌なんかを通して、ジワジワと人気を広げていくことだろー。注目して見ていこう。

 あと気になったのはケラケラって3人組みか。サポートにギターとキーボードがついていたけどメインはボーカルのMEMEちゃんにベースとドラムの2人がついた3人組み。mixiで知り合ってユニットを組んだって数年前なら話題の作られ方だけれども今どきSNSとかmixiとかって割とありふれているからそれだけではトピックにならない。でもそれを上回ってケラケラにはボーカルのMEMEちゃんに華があるからライブとかで見たりテレビで唄っているところを見た人が、取り込まれファンになっていきそう。ステージの上でクルクルと回転するとスカートがふわっとまくれてグレーのあれはスパッツかそれともアンダーウェアが見えたりしてなかなかに眼福。たとえ見せパンでも見えないより良いのだ。何もはいてないのと比べると……比べられないよ見たことないし。

 そして六本木に回ってちょっとだけ見た神聖かまってちゃんは、もう凄まじいまでの神聖かまってちゃんぶりで歌の合間のMCでもって煽り煽られる中で後ろからドラムのみさこがちょちょっと突っ込むんだけれど通らず我関せずと喋りを続け煽りを喰らわせそして演奏に入るとこれがもうエネルギッシュ。でも叫んだりわめいたりして音楽を聴かせずノイズを浴びせるという感じはなくってちゃんとした音楽の上に迫力を乗せて迫ってくるといった感じ。そこにみさこのパワフルなドラミングが重なりmonoのかがみ込むようにして引くキーボードの旋律も乗って時にメロディアスさも持った音楽空間をそこに現出させる。これは凄いなあ。煽り煽られる中でエスカレーションしていった時期もあったんだろうけど、今は音楽を土台にパンクしているっていった感じ? だからライブを観たいけれども観るとやっぱり凄まじいうねりに飲み込まれてしまうんだろうなあ。

 そして気がつくとフィギュアスケートのソチ五輪代表選考が終わって男子は当然のように羽生結弦選手とそれから町田樹選手が選ばれそして、3人目の代表として全日本選手権では5位に終わったもののそれまでの実績を評価されて高橋大輔選手が選ばれていた。全日本3位に入った小塚崇彦選手も可能性はあったけれども事前に申し渡されていた基準では果たしてどっちがどっちかといったところ。そして過去の実績と今の怪我が治った時のコンディションなんかを考えて高橋選手に落ち着いたっていった選考そのものにそんなに違和感はないけれど、今の勢いってものをそのままダイレクトにぶつけるんだとしたら、全日本の上位3人でも良かったかなあという気がしないでもない。ただそれだと全日本3位に終わった女子の浅田真央選手とか、勢いが落ちているんじゃないのっていった眼を向けられかねないだけも難しいところ。すでに代表を確定させて調整中で臨んだ大会で完璧を期すっていうのも難しいからなあ。つまりは人それぞれ。それを見極め異論がないように選んだ結果がこれだと思おう。女子はそうか3人とも愛知県勢か。スケート王国になったんだなあ。

 そして気がついたら女子サッカーの皇后杯でINAC神戸レオネッサがPK戦で新潟アルビレックスレディースを退け皇后杯としては2連覇で全日本女子サッカー選手権大会としては確か4連覇を果たしていた。強いなあ、強いけどでも決勝でPK戦になってしまうところに戦力的な他の底上げもあるってことが伺えて、それが女子サッカー全体の底上げに繋がっているなら今はちょい、低迷期にあるけれどもワールドカップから五輪へと向けて再び強いなでしこジャパンが戻ってくる、そんな布石になっているのかも。主力選手が軒並み海外に移籍したりしている状況で、全体的に水準がダウンしているんじゃないのと言われないためにも、今いる選手たちで最高のサッカーを繰り広げていって欲しいもの。次のシーズンまでちょっと間があくけれど、その間に選手の移籍や補強も含めて新しい動きがあってそして、迎えたシーズンにより拮抗した戦いが繰り広げられると嬉しいかな、そこにジェフ千葉レディースが食い込んで上位を狙うような戦いが繰り広げられればなおのこと。

 さらに気がついたら将棋で女流の里見香奈さんがいわゆるプロ棋士と呼ばれる人たちになるための最終段階ともいえる奨励会3段となって来期からのリーグ戦に名を連ねることになったとか。ここで上位2人に入れば晴れて女性では初のプロ棋士が誕生するってことで長い将棋の歴史も大きく変わりそう。でもでも女流でも里見さんってプロなんでしょ? って聞かれそうだから説明しておくと女性の将棋指しはいるけどそれはあくまで女流という枠組みのなかであってそこで将棋を指してはお金をもらい一種プロ的な扱いは受けている。でも正式のプロ棋士というのは今はもっぱら3段リーグを勝ち上がって4段となった人を言う。年に4人しか誕生しない狭き門。年齢制限が過ぎればいかな強豪でも退会を余儀なくされて道をとりあえず閉ざされる。実に厳しい。

 そしてそんな4段以上になれない人はプロではなくって、将棋連盟でも発言権とかはなくって、もちろん女流にも発言権はないんだけれど、それでもスポンサーがついて棋戦とかが行われてそれで稼げる人たちっていう、曖昧な存在に女流は置かれていたし今も置かれている。それはそれでひとつのシステムとして悪いものではないんだけれど、誰1人として女性のプロ棋士が誕生していなかったことが女流への微温的な扱いとなってその命運をあれやこれや左右されていた。今回もし里見さんがプロ棋士となれば弱さを情で嵩上げされているような皆され方はされなくなる、って思いたいけどだったら堂々、同じ土俵で並べよと言われ他の女流の立場が余計に不安定になったらちょっといやかも。そんなあたりの案配を谷川浩二会長にはしっかりと考えて欲しいもの。ついでに揉めている別団体との収拾も図ってくれれば気持ちは良いんだけれど。


【12月23日】 なんか「小説現代」に野崎まどさんのコラムが載っているって聞いたんで読んだら野崎まど劇場だった。って訳ではないんだけれども、本を数冊絡めて紹介するはずのコーナーでいきなり紹介しているのが「アイカツ」のコミカライズで、それだけならまだ良いものの、何か漫画の描き方って本を持ち出してきてはその教えだかに則った漫画を描いて堂々と載せているからもう吃驚。そのあからさまに初心者です的な絵柄とそして展開は、ぐるりと回ってパターンを通り越した一種のメタフィクション的な雰囲気を醸し出す。つまるところこれは書評エッセイの名を借りたひとつの短編、すなわち独創短編シリーズ「野崎まど劇場」の出張版なんだと思うと理解も出来た。いや理解出来ないところが野崎まどさんなんだけれど。この勢いでどしどしと中間小説あたりを席巻しては文芸誌へと向かい、そこもタイポグラフィと少女漫画で埋め尽くしてやって欲しいもの。野崎まどさんなら出来る。それも面白く。

 「ウは宇宙ヤバいのウ!」でも少年が冒頭で隕石から地球を救ってたけど、ヒーローならやっぱり隕石のひとつくらいは退けないと、ってことで八薙玉造さんの「オレのリベンジがヒロインを全員倒す!」(集英社スーパーダッシュ文庫)でも、やっぱりヒーローは隕石から地球を救う。【星のオリジン】なんて地球全部を司るようなすんごい力を持った伊原迅って少年がいて、4年前に仲間たちと集い地球に隕石を落として滅ぼそうとした【破滅のオリジン】を持った少女を退けたんだけれど、帰投して疲れ果てたところをボコられでもしたか、肝心のオリジンを奪われてしまって今は普通の少年に。それでも幼なじみの小山神那はお菓子とか作ってくれて、今も普通に接してくれるけれども当人だけは過去の栄光が心に引っかかっていたのか、あるいは仲間に裏切られたショックが大きかったのか、、今もそのオリジンを奪った誰かを追って取り換えそうと策を巡らせている。

 そして遂に出会った【星のオリジン】の保有者。街で発生するオリジンを使った犯罪にオリジン持ちばかりを集めた学園から派遣されてくる者たちがいると聞いて、待ち伏せをしていたところに現れたのが【風のオリジン】を持った品津樹だけど、狙いはむしろそのオリジン持ちが連れていた美少女のサラ・戒奈。かつて迅の側にいてサポートに役立つ補佐のオリジンを使い、彼の力をコピーして奮っていたものの、事件の後に他の面々とともに姿を消していた。遂に見つけたと迅は腐って濁った目をして策を巡らし、【風のオリジン】使いの樹をかつて得たオリジンに関する知識を駆使して退け、その配下にいたサラを自分の配下にしてまずは【星のオリジン】を取り返そうとしたらちょっと違う。何この力。どうやら一部分だけしかそこには入っていなかったらしい。他はでは? やっぱり迅が倒れたときに側にいた、今は学園の会長として君臨している武速咲楽という少女が怪しいと考え、迅はサラや【風のオリジン】使いに先導させて学園へと潜り込む。

 かつて華々しいヒーローであったにも関わらず今は躍起になって自分の力を取り返そうとし、そのためならどんな悪辣な手段でも、卑猥な攻めでも平気で行うダークな存在になってしまった迅の言動がなかなかにクリティカル。ただ嫌らしさを感じないのは幼なじみの神那がいちいちそれは卑怯だと突っ込んでくれることと、逆にそんな迅にかつて憧れ同じ詰め襟姿でいる樹がいちいちが流石だと褒め称えて、迅居たたまれなさを倍加することが良いバランスになっているからか。そして学園では、持てるオリジンの知識を駆使してどういう場面なら相手が何を企みそれをどうやれば防げるのかを実行していく策略家的なところを見せていて、それが異能バトルにおけるひとつの戦略ゲーム的な楽しみを感じさせてくれる。卑怯極まりないけれど。ともあれひとつ片づいた先にあるのはさらなる謎。どうして彼は裏切られ、今その裏切った面々は何をしてるのか。そんな展開を次の巻では楽しめそう。シリアスさも増して偽悪的なだけでは立ち向かえなくなって来たところで、迅はどんな本意を見せるのか。善意かそれとも功名心か。そこにも注目。

 温める力と冷やす力のいったいどちらが生活に便利か、ってあたりを考えさせてくれるのが真慈真雄さんの「ファナティック・ブレイクスルー」(一迅社文庫)。何かストレスが異能の力へと繋がるようになった世界で、穂村陽という少年が手にしたものを熱する力が覚醒し、一方で氷上静音という少女は冷ます力が覚醒しては小学生の頃からいろいろ問題を起こしてしまっていたらしい。激しく発動すれば自分すらも凍らせてしまうような能力。そこを幼なじみの陽がうまく抑え導き、今は同じ学校で何でも味が分かってしまうという能力を持った少女とか、気配を消すことができる少女だけれといつも詰め襟姿の忍とかといっしょにグダグダと学園生活を送っている。

 静音がコンビニで買ってきた弁当を陽が温め逆に陽が買ってきたペットボトルを静音が冷やすと言った具合。とはいえ力の下限を謝れば弁当は焼け落ちペットボトルは粉々に。そんなやりとりもまた日常になっていた学園での日々がストーリーとして綴られる。力は持たないけれども威圧感が凄い生徒会査察部の水戸仁美なんかも加えて描かれるドタバタ劇は味の分かる少女が料理部の先輩たちと部長の座をかけ対決しようとしてそこに陽や静音が絡んで滅茶苦茶にしかけるけれどもどうにか収めてみたり、勉強があまり追いついていなかった静音のためにみんなで集まって勉強会を開いたりといったエピソードが重ねられていく。

 そんな中で静音の素直ではないけれども陽への思いってものが見え隠れして、それに気づいているようで気づいていない陽に静音がやきおきとする場面なんかが描かれる。孤独感に苛まれてひとりでぽつねんとしているところに現れ慰める陽の、それはルーティンなのかそれとも恋心なのか。そんな辺りも展開の鍵。いよいよせっぱ詰まって発動し過ぎてしまった静音の能力を前に、命の危険を冒してまで陽が向かっていく場面を見れば彼の気持ちも瞭然かとういうと、やっぱり曖昧なところがあるからなあ、妹的な感情でだってそういう行動をとるものだし。はたしてどっち? それより陽と静音が本当にくっついたらいったい溶けるのかそれとも凍るのか。雨女と晴男の対決にも似た「ほこ=たて」的なシチュエーション。その行方とかちょっと知りたいなあ。続き出ないかなあ。

 元ネタの拙さはそれとして、こと写真に関するあれやこれやを知り尽くしているはずの写真報道局あたりが率先して構築しているサイトで、放射線がフィルムを感光させて幻想的な色彩を写真の上に定着させたんだ、なんてニュースを何の疑問符もつけずむしろ積極的に肯定するような文字面でもって紹介しているところが、どうにもこうにも恥ずかしいであります。つまりは写真のドシロウト集団がカメラマンでございと写真を撮って載せていることを、満天下に広く喧伝してしまっているからであります。どうすんだろ。誰か責任を取るんだろうか? しないよなあ、今に至るまでまるで軌道修正する気もなさそうだし。そもそもそれがどれだけポン酢なのか木津亭亡かったりして。いつかの永久機関に関する報道並だよなあ。いやいやそれ以下か。専門家の集団がやらかしている分。なんだか本当に泣けてきた。

 代々木から六本木ときゃりーぱみゅぱみゅの梯子。どちらでも「もったいないとらんど」を聞いたけれどもやっぱり凄いというか、とんでもない変調でおまけに転調もあって難しい歌なのに聞くほどに耳に馴染んで染みついてしっかりと展開を追えるようになっていく。作った人が凄いのかこれを唄っているきゃりーぱみゅぱみゅが凄いのか、それらのトータルでもってひとつのアート的な存在となって大勢の耳に強烈な印象を与えているのか、はっきりとしたことは分からないけれども2013年に残る、というか2010年代に残る傑作ソングって言って良いんじゃなかろーか。ライブでも一気呵成に盛り上がるってことがないけれど何となくジワジワと来るって雰囲気が会場にありあり。それだけ当たり前っぽさを飛び越えてしまっているんだろう。しかし左足が痛くて歩けないくらいなのによくまあ舞台に立って踊っていたなあきゃりーぱみゅぱみゅ。それがプロって奴なのか。ドーパミンだかアドレナリンだかドバドバって奴なのか。明日健康であって下さいな。


【12月22日】 コードウェイナー菫と州谷州わふれむという名の美少女が登場し、主人公の少年は元々は宇宙でも屈指のスーパーヒーローで本当は宇宙船なんだけれど今は美少女の姿になった引き連れ世界線を渡り歩いて隕石が落下してきて滅びるはずの地球をどうにか救おうとし、家に入り込んでいた妹型宇宙生物を退け元々はこじゃれたカフェにいそうな風体だったのに今は世界線をいじった影響でゴリラのような凶悪な顔立ちになっつぃまった宇宙人を破壊し、血まみれになるのは見苦しいからとテクスチャで花模様でいっぱいにし、そして幼なじみの腹中にあったブラックホールを解消して隕石をたこ焼きのように飲み込ませ軌道エレベーターをスパゲッティのように食わせて地球を救うというライトノベルが実在する、そんな21世紀ひゃっはー。宮澤伊織さん「ウは宇宙ヤバイのウ! セカイが滅ぶ5秒前」(一迅社文庫)をさあ諸君、お楽しみあれ。

 天気もいいから昼寝でもしようと東京国立近代美術館へ、って何でそこで昼寝が出るかというとこの美術館の4階にある眺めの良い部屋が実に日当たりが良くって昼寝に最高だから、ってことでとりあえずまずはジョセフ・クーデルカって人の写真展を見物、1960年あたりからなんだろうか、チェコスロヴァキアを中心に活動を始めて最初のころはアレブレな森山大道さんを思わせるスナップなんだけれど構築的っていった感じの陰影の強い作品を撮っていたのが途中から、ジプシー(ロマ族)ってタイトルでそうした民族の人たちをどっぷり撮った写真とか、チェコスロヴァキアにある劇場で撮った写真なんかを発表し始めた。

 だからジャーナリストではないけれど、コマーシャルではなくフォトジャーナリスティックな雰囲気を持った写真家の人。ロマ族なんてもう生活にみっちりと入り込んでは日々の暮らしや儀式なんかも撮っていたりして、その暮らしぶりはとっても貧困の中にあるようなんだけれどだれもがしっかりと生きているって感じが伝わってきた。もちろんこれが全部ではないし、正確でもなくあくまでも作品として切り取られたロマ族な訳だけれどそれでもまるで見知らぬ、妙な噂ばかりが流れてくる存在に対して斬り込みここまで見せてくれているっていうのは貴重。とはいえ今も時代が変わって文明化された中でいったいどういう扱いを受けているか。10数年前にそういえばロマの集落に言って音楽を学ぼうとした青年の挫折を描いた「ガッジョ・ディーロ」って映画もあったなあ。あれはどころのロマだったなろう。切なくて良い映画だった。

 そんなクールデカ、じゃなかったクーデルカを一躍知られる存在にしたのが「プラハの春」と呼ばれるチェコスロヴァキアの解放運動とそれを潰したワルシャワ条約機構の軍事介入を撮った写真でその時刻、そこにいて撮影されたそれには民衆が立ちふさがりながらも戦車が進んですべてを制圧する様子が撮られている、といってもいつかの天安門事件のような騒乱といった雰囲気はなく、血気は盛んだけれどもやっぱり強圧な相手の前には折れるしかない雰囲気がにじんでいる感じ。より東欧よりのハンガリーとかとは違ってまだ、中欧としての自由的な空気もあったチェコスロヴァキアならではの振り子の振れ幅の小ささって奴がそこにあったのかも。ハンガリー動乱とかはもっときっと凄かったんだろうなあ。

 とはいえ誰が撮ったかも露見したんだろう、チェコスロヴァキアに居られなくなったクーデルカは脱出してマグナムに所属し各地を撮り歩く。それもパノラマという変わったサイズで撮った写真はギリシアの移籍だっったりフランスの何か廃墟めいたものだったりと、横長だからこそ出せる空虚感って奴をそこに見せてくれてちょっと心が引っ張り込まれた。人間の眼も左右についているから見える景色はそんな感じ。でも普通の写真は風景を四角に切り取ってしまう。そうじゃないワイドだからこそ迫れる人間の視野ってもの、そして人間の視野だからこそ感じられる風景からの圧倒的なプレッシャーってものをそこに定着させている。凄いなあ。

 中には縦長の写真を3枚、並べたものもあってこれも秀逸。縦長だからこそ描ける向こう側へと抜ける風景を、並べることで得られる様々な視点。切り替わる感覚。そこにまぶされた戦争とか文明とかへの批判的眼差し。構築的だけれどジャーナリスティックという視座はだからずっと続いていたんだなあ。また見たい展覧会。ってことで見終わって流石にグッズも作れないのかロビーに出店のないのを横目に常設展へと入って4階まで上がって眺めの良い部屋でしばし日光浴。下をはしる皇居ランナーがいつバターになるんだろうとか、そんな想像もしながら太陽を目一杯に浴びる。ビタミンとか取れたかな。前は2階にあったカフェで高速道路を走る車の種類とかを見るのが好きだったんだけれど、改装でなくなってしまった。でも今はこのながめの良い部屋があるから好きな美術館。人もあんまりいないし。いなくて良いのか? 良いんだよ。

   ただただ非道いなあ、としか。とあるコラムが大東亜戦争っていう言葉について「大東亜共栄圏の樹立を目指すという日本人の歴史観や、戦争の大義が込められていた」って書いて、ラジオに出演した人にその言葉を使わせなかったNHKなんかを非難していたけれど、でもそんな大義なんかを掲げた戦争が行われたの結果、アジアに日本に何が起こりどれだけ死んでどれだけの人が塗炭の苦しみを味わったのか、ってことの方がむしろ事後となっては重要なはず。その結果というものを一切心に刻もうとせず、忘却の彼方へ、否むしろ存在そのものを抹消してただ大義をのみ語り、肯定しようとする態度が見え見えで何とも居心地が悪い。

 これってつまり、諸々をしでかした過去からのひたすらな逃避であり、無責任の極みに他ならないんだけれど、そうした逃避的な態度を自覚せず、考えようとすらしないで逆に誇りにすら思おうとする態度から、いったいどんな未来が開けるというのか。どれだけの災禍がまたしてもふりかかることになるというのか。昭和天皇でも今上陛下でも公の場では「先の大戦」等々を用いて、決して使わない言葉がまさしくそんな大東亜戦争という言葉をなぜ敢えて持ち出すのか。正当化しようとするのか。それは他だな責任を自覚することによって生まれる自重と自省に耐えられず、自虐だと言い換えては抹消しようとする軟弱な心根の持ち主だから。それで一瞬、良い気分に浸ったところで世界は許さないと知れ、なんてことを宮城の見える国立近代美術館の眺めの良い部屋で漠然と思った師走。良い陽気だなあ。

 過ちを過ちと認めたくない心理はひたひたとあちらこちらに蔓延っているようで、埼玉県の県議会の文教委員会とやらが朝霞の高校が行った修学旅行に問題があるとかで難癖を付けて生徒が書いた作文まで見せろとか言い出したらしい。おそらくは台湾に行って空襲に遭い父親を失った人の話を聞いた、ってあたりが戦争を起こした日本を非難する気持ちを無理矢理生徒に教えようとしたものだから、これはイケナイことあと非難したんじゃないかと思うけれどもちょっとまて、戦争中の台湾は日本の一部でそこで死んだ人は日本人として死んだことになる訳で別に台湾でなくても今の日本国内の空襲で親類を亡くした人に話を聞いても内容的には同じになる。それを日本への非難というなら原爆によって家族を失った人に話を聞くのも日本への非難となるのかどうか。「贖罪意識を植え付ける」ってお前ら贖罪意識はいけないのか? 罪など犯してないというのか。それを世界に向かって言えるのか。大東亜なんとかともども言葉使いに恥じらいが見られない国になって来たなあ。トップが恥知らずだからしゃあないか。

 遊歩新夢、という名前の人が、楽器のユーフォニアムを吹く女子中学生がヒロインのライトノベルを書いた。何の不思議もない……のかな。オーバーラップ文庫より登場の「きんいろカルテット!1」は、ユーフォニアムにコルネット2本にテナーホーンの4人という、一般にはどうやらブリティッシュ・カルテットと呼ばれる編成の女子中学生たちが、やっぱりユーフォ吹きながらも大学の合奏ではいらん子扱いされている音大生の教えで巧くなるという話。っていうとちょい年齢は高めだけれど、ブラス版「ロウきゅーぶ」って感じなるのかもしれない。体操着に着替えたりはしないからそういう描写はないけれど。

 良く知らないんだけれど中学とか高校の吹奏楽の編成だと、ユーフォニアムとかコルネットといった楽器はコンテストに向いてないって事で他に持ち直されるらしい。けれどもそれを拒んだヒロインたちは、それならいらないと追い出されて独自に練習しようとしていたところに、見かねた小学校時代の恩師がはやり教え子だった大学生でユーフォ吹きの主人公に連絡を取って面倒を見に行かせたという展開。もとより腕は良かったからそれなりの演奏は聞かせてくれるんだけれど、度胸が足りないのとあとは部活の顧問の嫌がらせなんかもあって道程はデコボコ。それでも情熱で乗りきり技術で押しきり目指せ勝利! それより感動! って展開はなかなかの好感度。音楽が分からなくてもその頑張りを応援したくなる。

 個人的にはユーフォニアムって中学校の吹奏楽部で弟が任されて吹いていたからそれほど珍しい楽器とは思わなかったけど、ブランスバンドだと音域でトロンボーンに持って行かれるのかな。コルネットもトランペットとかに持って行かれるみたいだし。けどブリティッシュ・カルテットでは主役のひとつ。たぶんトロンボーンやトランペットにくらべて柔らかくて繊細な音が出せるんだろう。それはでもやっぱり大編成のバンドでは埋もれてしまう。そんな金管楽器の色々を教えてくれる上に、ただ鳴り響くだけでなく静かに奏でられる金管楽器もあるだよって教えてくれる作品。書いているのはどうやらユーフォニアムのプロの演奏家らしいけど、その割には女子中学生とかの描写が巧いなあ、ひょっとして中学生好きとか、いや単に教え子がいるだけか、知らないけど。ともあれユーフォニアムマニアには楽しい「きんいろカルテット!1」。1ってことは続きもあるのか。待ち遠しい。


【12月21日】 ああそうか、2クールなら学園という場所を飛び出して日本から世界へと広がり、果ては宇宙へと舞台が向かうこともあってあるかもしれない「キルラキル」だけれど、ここまでは狭い学園を舞台に父親が殺された謎を探って娘が喋る制服を身に着け、共に戦いようやく真相のひとつへと辿り着いたってところ。そこに鬼龍院皐月様とは違ったルートから有力な人物が現れ送り込まれて、何か蠢いているって構図が見えたことが、将来の話のエスカレーションに繋がってくれればどんどんと面白くなってくだろー。今だとやっぱり学園ドラマの枠内に収まってしまいそうだから。

 でもって纏流子と戦って敗れて三つ星極星服を失ってしまった割には四天王、相変わらずに皐月様の周辺に侍っては彼女の世話とかしたり、生徒たちを避難誘導したりと大活躍。他に並び立つ者がいないくらい、制服を着ていなくてもそれだけの実力者ってことなんだろう。でもって戦いを経てさらに精緻な生命繊維に関するデータを得て作られてくる極星服を着たら、四天王とかいったいどれだけ強くなるのかな。やっぱり神衣にはかなわないんだろうけれど、直情径行の流子相手では勝てるチャンスだって出てくるかも。そんな辺りも楽しみにしつつ見ていこう。次は1月10日だっけ。もうすぐ出るBD、どうしようかなあ。

 土曜日で天気も良いんで街に出ようと思ったけど、火曜日あたりから崩れた心身の不調がなかなか抜けきらないんで、地下鉄東西線を木場で降りて東京都現代美術館へと周り、前に見たけどどこか気合いが乗らず駆け足だった「うさぎスマッシュ展」を今度はゆったりと見る。とりあえずスプツニ子!さんのの 「ムーンウォーク☆マシン、セレナの一歩」をじっくり。宇宙に憧れる少女が月面に女性の足跡がないことに気づいて、月探査船を送り込んでそこにローバーを走らせるとともに女性のハイヒール型の足跡を残すことは出来るかどうか、ってことをシミュレートしてそして使えそうなローバーを作ってしまう、というストーリーを映像とそれから一部セットで表現した作品。PVとして見ても面白いし、少女が自分の夢を方にするストーリーとして見ても面白い。

 けれどもやっぱりユニークなのは、そうした映像を作り出す上で問い入れられたさまざまな学術的な検証と、そして映像が放とうとしているメッセージ。まず月面を走るローバーを実際に走行可能なものとするため、アーティストのスプツニ子!さんはNASAとかからデータを集めて軽さとか走行性とな動力なんかを考え、それをローバーに搭載しているらしい。見てもだから全然キュートじゃないけれど、それだけに信憑性も高い形をしている。ただ作るだけじゃなくそこに知性を組み入れることによって、作品としての強度を増す。あるいは実際に可能なプロジェクトの中に夢を入れて、前へと進める意欲をかき立てる。両方面からのアプローチが結実したそれはアート作品として屹立しているのと同時に、学術的なプロジェクトとしても立派にひとつの可能性として存在している。そこが面白い。

 あとはやっぱり女性の足跡が存在しない、ということへのひとつの警句って部分か。今までアポロ計画で月面へと辿り着いたのはアメリカ人だけで、それも全員が男性でそして白人。もちろん当時の情勢を考えればそれも仕方がなかったことなのかもしれないけれど、、資金面からすべての月面への有人飛行計画が閉ざされてしまった今、人類からアメリカ人で男性で白人以外がもはや月面に立つことはないのか? って思いも募る。ならばそこにせめて意識だけでも向けさせたい、ってなった時にこうしてアートでありPVといった形の中に、女性が自分の足跡だけでも月面に残すんだという意志を込めて発信するということは大いに意味がある。

 これを見て最近、月面に探査船を送り込んだ中国あたりが面白いと感じ取って何か起こしてくれたら楽しいんだけれど。何しろ天の半分を支えているのは女性だとあの毛沢東も言った国。ならばと日本のアーティストが作りNASAのお墨付きも得た、ハイヒール型の足跡を付ける装置を積み込み打ち上げてくれたらちょっと、面白いんだけれどなあ。見て日本人も負けてられないと、今度はピカチュウの足跡でも付けようとするとか。そんな楽しくも激しい競争が起これば未来もハッピーになれるのに。そうした可能性を感じさせてくれる作品。だから何度でも見たくなる。会場にはそうはいけないからYoutubeでも見ていようっと。でも目が行ってしまうのは銀色の服に身を固め日本刀を持った美女のくぱっと開いた胸元なんだよなあ。益体もない。

 そんな「うさぎスマッシュ」では、偶然にも人類学者の竹村真一さんが作品として提供している「触れる地球儀」を横に、自らレクチャーをしてくれていりう場面の遭遇。タートルネックに黒いズボンのダンディーなおじさまが、次から次へと様々なデータをその地球儀の上に映し出して、地球の今と過去を話していく。その姿にも惚れる人多数だったかもしれないけれど、話している内容がまた感動というか感銘を起こすことばかり。海流がどう動いているかってことからプランクトンがどのあたりで大量発生しているってことから、アホウドリとかアジサシといった渡り鳥がどこからどこを経由して移動しているかってことから人口がどんな感じに増えているってことから、船舶がどこを通って港から港へと移動しているかってことからもう諸々。そんな多彩なデータを眼前の球体に瞬時に表示していくことで、見えて来る何かがあるってことがひとつ、レクチャーを聴いて浮かんできた。

 それは、地球というものの上にあるあらゆるものがすべて繋がっているってこと。日本なりアジアなりの狭い範囲を平面の地図で見ても感じられない海で、空で、陸地で、経済で諸々で繋がった地球というものを、この「触れる地球儀」ではデータを投影し、ぐるぐると回していくことで誰でも体感に近い形で実感できる。日本ではもう台風なんて来ていないけれども赤道に近いどころでは今も大きな台風が発生して、それが時にタイとかに洪水を起こしたりする。それは経済活動を疎外して日本を脅かす。温暖化によってヒマラヤの氷河が減ったりして水の貯金がなくなっている。やがて黄河とか揚子江とかに流れる水も減るだろう。そして中国が干上がればきっと世界の食糧事情が変わる。それを地球というスケールから知れる。

 変化する気候を見せたり、発せする自信の頻度を見せたりと、時間を追って状況を表示していくこともこの「触れる地球儀」なら可能。なおかつその球体の上わずか1ミリ上までしか大気はなく、月はその地球儀から38メートルだか離れた場所にあるというスケール感を地球儀を実際に置くことで話し、実感してもらえる。人類は小さいけど地球は狭く宇宙は広い。そんなことを例えば平面の地図とかを示しながら語って聞かせてもなかなか理解が及ばない。地球スケールで、あるいは宇宙スケールで物事を図れる人材を育てるには、「触れる地球儀」を教育の現場に置くべきだ。竹村真一さんはそんなことを何度も訴えていたし、なるほど見ればそれだけの意味と価値を持った物だと分かる。

 見た目も高級そうだしデータも集めなくちゃいけないし、それをアップデートしていかなくちゃ意味がない。だからきっと高いだんだろうけれど、あればとっても楽しいことは確実。注目されているライフフデータにビッグデータをぶち込むことによってそこにフェッセンデンばりの仮想の地球を構築しては、地球や人類の未来をもシミュレートできようになるかもしれない。それを見せることによって子供たちは今に何を思い未来に何を馳せるのか? そんな期待も浮かんでくる。織田信長が地図を見て世界を認識し、地球儀を見て日本の小ささ遠さを認識した。それを500年後の今も繰り返したって意味はない。もっとビッグスケールであらゆることを体感できるようにしなければ。ごもっとも。ただやっぱりお金がない。教育の現場には。

 地球にはこれだけの地震が発生しているんだと、頻度から世界でも屈指の地域と見せ、オホーツクのプランクトンの豊穣さを見せるこによって極東にあるこの弧状列島を中心と地域は世界でも特別な地域なんだよ、ってことを分からせそれを日本という国への敬意へとすり替えさせて愛国心を煽ることに、効果があるかもと今の政府を焚きつけて導入を急がせる、なんてシナリオも思い浮かんだけれど、それでは日本だけじゃなく世界を、宇宙を意識して生きて行かなくちゃいけない、そのためにこの「触れる地球儀」が有効なんだと訴えている竹村さんの本意から外れるからなあ。だから今は地図からでも小さい地球儀からでもニュースをそこに載せ、情報をそこに重ね、世界を想像して自分たちの立ち位置を考え直すだけの情報処理の力と想像の力を養ってあげるほうが先なのかも。数が増え良も増えた情報に薙がされ何が大事で未来にどうなるかを考えるに至らない、停滞してしまっている思考力の方が問題なのだから。


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