縮刷版2013年月上旬号


【1月10日】 現役時代は厳しい監督のしたで表情も変えず黙々と走ってどこか僧侶とも求道者とも思えるような印象を残したけれど、引退をしていろいろな番組に出演するようになるとその快活で明るい性格がいっぺんにひろまって誰だこれって思った記憶もあったりする瀬古利彦さん。何しろあの明るさでは頂点をさらに突き抜けている中畑清さんを相手にしても動ぜず臆せずかみ合った会話を披露しては場を面白がらせるんだからなかなかのもの。それが現役時代にどうしてあんな風に思われていたのかは、マラソンという競技に求める人々の印象なりメディアの要望なりに応えていたのか、メディアがそういう部分だけを切り取って伝えていたのか。もしも当時から今のような明るくはっきりと物を言う人だったら中山竹通さんの挑発にだって真正面から笑って答えてみせたに違いない。それともそう言っていたのを周囲やメディアが隠していたのかなあ。

 なんてことを考えながら見たDeNAによるヱスビー食品陸上部を引き取って新たに陸上部を創設するという会見。まずは本当に陸上部が存続することが嬉しそうで、引き取って売れたDeNAへの感謝の言葉を述べて深々と頭を下げていたのが強く印象に残った。腰の低くてとても良い人。それがあってか中村清監督の時代の早稲田なりヱスビー食品のようには選手を追い込めず勝てなかったのかな、それともやっぱりそういう風にされて実力を肝心なところで発揮できなかった自分への半生から楽しくてそれでいて強いチームにしようと考えているのかな。

 ただ行くからにはニューイヤー駅伝での3年以内だっけ、それくらいでの優勝を、なんて話していたのは冗談めかしていてもやっぱり本気。それは恩に報いて宣伝に勤しむということも一方にありながら、やっぱり走りで頂点を極めないことにはその先はないっていう信念から来るものなんだろー。駅伝でも勝ちマラソンでも勝つ。昔はそういう人がゴロゴロいたけど今は……。瀬古さんなら、そして潤沢な資金があればそんな望みこ適うかも。とはいえ同じ潤沢な資金を得ながら横浜DeNAベイスターズが昨年どうだったかというと……。中畑監督も頭が回るのかオーナーの前で優勝しますと言わないようにしているそうで、それで首はつながているけど2年目はさすがに見る目も厳しくなるだろう。急に優勝とは言わないだろうけど瀬古さんの頑張りが一方にあれば当然、野球に向く目は厳しくなる。それにどう答えるか。そもそも答えられるのか。見てみたいなあ今年のベイスターズ。

 そんな会見と同時にDeNA、あの美輪明宏さんと吉高由里子さんを呼んだ発表会まで開いてしまうんだからスポーツ新聞とかテレビ局とか超大変。何でも囲み取材でDeNAの社長と瀬古さんとそして美輪さんらを同じホールの別々の場所で同時に開くっていうんだから、全部を取材したいところはカメラを3台持ってこなくちゃいけなかった。流石に社長はいらなくっても瀬古さんはスポーツ的に、美輪さん吉高さんは芸能的に絶対に落とせない相手。それを抑える必要があったからなのか、フォトセッションの時にはいつもの倍くらいだと思わせられるテレビカメラがズラリと並んでた。メディアにとっては迷惑だったかもしれないけれどDeNAにしたらどっちにしたって取り上げられることは確実。実際に瀬古さんの件は夜のNHKニュースまで報じてた。一方の雄が課金の問題でしょぼしょぼになっている間隙を縫って一気に露出を図り印象度を高めたDeNA。その思惑は果たされ商売は巧く行きベイスターズは勝利するのか。やっぱりベイスターズが心配だあ。別にファンじゃないけどね。

 スポーツといえば文藝春秋の「Number」が最新の820号で大リーグ入りを宣言しながらドラフト1位に選んだ札幌日本ハムファイターズの説得を受けて翻意しファイターズに入団した大谷祥平選手と、そして高校からノンプロの日石に入ってそこから日本の球界を経ないで大リーグのボストン・レッドソックスに入団し、3年目の昨シーズンはセットアッパーとして大活躍した田澤純一選手を並べるように紹介していてどっちもどっちの事情が垣間見えて面白かった。大谷選手は口でこそメジャーに行きたいといいながらも行動の端々に不安が見えていたと感じたファイターズが、そうした不安に答えつついつかの希望としてのメジャー行きを叶えるようなプレゼンをしたことが奏功した様子。そう聞くとやっぱりメジャーって不安だらけの場所なんだなあと思わせられるけれど、直後に田澤選手の記事を置くことでバランスを取っている。

 田澤選手はプロから誘われず高卒でノンプロ入りして頭角を現し、今度は日本球界からも指名を受ける可能性があったにも関わらず、自分をノンプロ出の即戦力と見がちな日本球界のスタンスに疑問を感じ、まだまだ練習が足りていない自分を育ててくれる場所としてメジャー行きを選んだとう。ってことはメジャーの方が育成をちゃんとやってくれるか、っていうとそこは日本も球団次第で、大谷選手が行ったファイターズは12球団でも屈指の育成力を持っていると田澤選手の記事でも紹介されている。ただそれが全てでないところが悩んだ点で、プロレベルと思われ投げさせられダメだと見放され引退へ……ってんじゃあ自分に納得できない田澤選手は、時間はかかってもじっくり見てくれるメジャーを選んだらしい。移動も食事も慣れているからと一蹴。そんな言動に触れたらあるいは大谷選手もメジャー行きを選んだかな、いやでもノンプロを経験しているのと高卒ルーキーではさすがに違うかな。見たかったなあ高卒から即メジャー、そしてデビュー初年度で大活躍ってその姿を。

 六本木の事件に関して起こった元リーダーの逮捕という動きで分からないのは、8月22日に著書を出すといって大々的に会見を開いて俳優になることも決まっていると宣言してからわずか10日ほどの後にその人が、とてつもない事件に関わっていたらしいってことになったことで、目の前に公然とした場所でいろいろと活躍できる道が見えていたにも関わらず、露見したらとてもシビアな状況のおかれるだろうことに関与するのって生半可な精神ではなかなかできない、っていうか普通だったらまずやらない。あるいは露見しないという確信があったのか、何か法律を振り切ってでも遂げなくてはいけない理由があったのか。分からないけれどもともかくそうしたことをしでかしたと目されている人物を、少し前に大手のスポーツ新聞がこぞって結構大きなスペースで取り上げていたってことも同様に分かりづらいこと。それだけのバリューがあると判断したのか、何か別の理由でもあったのか。そっちの方から週刊誌とかに迫ってもらいたいなあ。

 「いじめをやめない30人の児童のほおを平手打ちにするという、『事件』を取り上げた」「保護者の多くも教諭を支持した」「そんな『熱血先生』の情熱が、生かされる教育現場にするためにも、今回の事件の徹底解明が必要だ。『体罰禁止』のかけ声だけで、終わらせてはならない」。某紙に掲載された伝統ある1面コラムを呼んで唖然呆然。まあいつものことではあるんだけれど、その自己陶酔にも似た言説に書いてていったい恥ずかしさは覚えないんだろうかと興味がわく。恥ずかしかったら書かないか。そりゃそうだ。思うのはいじりといじめ、指導と体罰の間に明確な差異などないし、壁などないってこと。いくらそれが正義だからと許容してしまうと、そういうものなんだという心理がじわじわと広がり、そして自分は正義なんだと正当化する心境だけが走って、いじりというなのいじめ、指導という名の体罰を受ける側の怯えや恐れを煽り、追いつめ追いやっていく。顔に傷なんて残らなくたって心に傷は残るのだ。それを分からず分かろうともしないで「『体罰禁止』のかけ声だけで終わらせてはならない」なんてよく書けたものだけれど、分かっていたら書かないか。そういうことだ。参ったなあ。参ってばかりだ。


【1月9日】 東京大神宮かどこかで製作発表会があった様子で、14日からフジテレビ系の月曜夜9時、すなわち人気ドラマの中心的な枠とも言える“月9”として始まるドラマ版「ビブリア古書堂の事件手帖」に主演する剛力彩芽さんの記事が、あちらこちらのスポーツ新聞に登場しては篠川栞子さんという古書店の店主を演じることにあたっていろいろ思いも募ったのか、泣いてしまった話を伝えている。ドラマ化が発表となって乱舞した気持ちが剛力さんの主演ということで複雑に変化しそれが巷にあふれ出して毀誉褒貶、いろいろあっただけに当人も気にしていたのかどうなのか、分からないけれどそうでなくても大看板の月9主演。慣れない役に緊張もあってそれがいよいよ始まるってことで、ゆるみ涙へと繋がったのかもしれない。

 泣いて同情を誘う? それで許すネット民でもあるまいし、剛力さんが出来ることはドラマの中で篠川栞子という役を演じきってみせることだけ。その意味で言うなら専用サイトに出てくる画像とか映像とかの雰囲気は、どこかクラシカルな雰囲気を持った鎌倉にある古書店にひっそりと棲む女性といった感じがあってこれはこれで悪くなさそう。EXILEのパフォーマーにしてグレートティーチャーなAKIRAさんも落ち着いた恰好でもって本が苦手な青年といった風体を醸し出している。志田役の高橋克実さんはどういった方向で来るのかなあ、優しいおじさんがいろいろ厳しいところもあるおっさんか。安田成実さんは栞子さんのお母さん役? それはそれでなかなかぴったり。若かったら栞子さんも安田さんだったのかな。

 今週発売で壇蜜さんのグラビアン魂がこれまた凄まじいばかりのエロスを放っている「週刊SPA!」なんかが、広告で小説版の表紙とそれからドラマ版のカットを見開きで掲載していたりして、そのビジュアルの違いっぷりが一目瞭然になっていて、さあ比べてごらんと言わんばかりのページ構成になっていたりするけれど、今だとそれらを見比べても小説は小説、ドラマはドラマで世界観が出ているんじゃないの、って思えるようになって来た。これでドラマが始まれば、そしてその演技がちゃんとしたものだったら、以後の印象として篠川栞子というキャラは、剛力彩芽さんという女優とイコールのイメージになってしまうかも。それはそれで悩むところだけれど、演じきった役者の力なんだから仕方がないってことで。ドラマには「嬢王」の北川弘美さんも甘味処の店員さんとして出演。本にない役だけにどんな演技を見せてくれるのか。いろいろ楽しみになって来た。

 えっと「戦勇。」、もっと長いのかとおもったらあっという間に終わってしまった。そうか5分番組だったんだ、「うーさーのその日暮らし」と同じ。なんか弱い勇者がいて後ろの戦士からあれこれ突っ込まれるっていった展開は面白いことは面白いんだけれどそれが後に残る面白さかというと1度みて面白いなと思ってあとはもう見なくても良くなる面白さ。つまりは普通ってことだけれどもそうした普通を創り出すことがどれだけ大変なことなのか、考えれば監督の山本寛さんはよくやっているってことになるのかな、どうなのかな。ばかばかしさを濃密につめこんで30分アニメの「イクシオンサーガDT」に仕立て上げてしまう高松伸司監督もそれはそれで凄いんだけれど。新作アニメの多くがTOKYO MXに言ってしまって見られなくなっている中で、テレビ東京系とチバテレビ系でやってくれるアニメに感謝。

 それは「幕末義人伝 浪漫」も同様で、何か始まったなあって録画をしておき1晩寝かせて見たら何か面白かった。それこそ普通に夕方6時代とかにやってお茶の間にいる人が見ても楽しめるようなストーリー。義賊であり仕事人であり桃太郎侍でもある主人公が普段はのんびり何でも屋なんかをしながら失敗続きを見せているけど、これが皆に被害が及ぶような事態になると頼みを聞きれ金をもらって悪人成敗に出かけていく。日常生活に絡む人たちが仲間なのもパターンだけれどまさか巫女さんまでもが重要な仲間だったとは。幻惑籠絡いろいろ使うのに汚れないのが峰不二子とは違うところ。そして不二子みたいなのも登場してはいろいろ画策しているみたい。中井和哉さんの声はルパン三世とは違うけれどもこのハスキーな軽さでルパンを演じてみたら案外にはまるかも、って思えたのもひとつの収穫か。いろいろな人がいろいろやって良いんじゃないのかなあ、ルパン。

 部活動の顧問による体罰でもってキャプテンが自殺したという大阪の市立高校での一件、規律正しくスポーツマンシップに則り指導する人材がいれば生徒だって導かれて荒れたり迷ったりするようなことはないとか言ってそうな輩にとって耳を塞ぎたくなるような事態だけれどもそれでもきっと学校を管理したい人たちは、行き過ぎたことが問題であって適性な範囲内なら暴力を伴う指導であっても効果があるんだといって言い抜けるんだろうなあ。自衛隊で偉かった人なんてさっそく体に傷が残る体罰はいけないけれども残らなければ良いんだとかほざいているし。でもねえ、子供はたとえ痣とか残らなくたって叩かれたこと、それだけで心に思い衝撃を受けるんだよ、なんでだろうどうしてだろうって悩んで考えて迷って、それが人生に大きく影響を与えた時に傷つけてないからって言えるんだろうか。言えるから言うんだろうなあ、ああいう人たちは。体罰と教育の問題はほんと、根が深い。

 ドットアニメのサイトで買ったナメゴンとカネゴンのフィギュアがついたカラー化された「ウルトラQ」のブルーレイディスクボックスを届いた箱から開けもしないで積み上げておいてそれで場所が足りなくなったからと見もしないで倉庫に運んだ不届き者ではあるけれど、それでもやっぱり心に引っかかる作品だってことで新しく始まるらし「ネオ・ウルトラQ」の第1話が見られる機会に潜り込んで見たら都市が爆裂もしていなかれば家族が逆噴射もしていなかった。そりゃあ石井總互監督じゃなく石井岳龍監督だから違って当然だろうって言われるけれども実はこの2人、同一人物だったりするのだ、って割と有名な話しなのかな、最近まで実は知らなかったから驚いた。そうか参画しているのか、「ネオ・ウルトラQ」に。

 ストーリーは放送を見て貰うとして現代の危険かどうか分からないものに危険だからと調べもしないでつっかかる阿呆と危険じゃないからと保護しようとする間抜けが双方いぶつかりあって見ていてどっちもどっち感。かといって中庸をいっていたら何かあったときに困るだろうから人間、どこかで何かを判断しなくちゃいけないってことを教えられるかと思ったら、何もしないのが正解だったとは。見守ることが正義だなんてそれ、良いのかなあ。何故か作家の島田雅彦さんが割とメインに近い役で出ていて実にいい雰囲気を見せていた。役者の経験豊富だったっけ。田辺誠一さんは相変わらずな田辺誠一さんぶり。代わらないなあこの人も。第2話は田口清隆さんの監督。4人いる監督では1番若いけど特撮におけるキャリアは十分。どんな映像を見せてくれるのか。楽しみdかえれどWOWOWだから見られないのでありました。BDボックス出たら買おう、怪獣は今度はガラモンが良いなあ(つきません)。


【1月8日】 なんだサバイバルキットって。普通に考えれば幾つもの機能がついたアーミーナイフかあるいは、どんな強敵も一刀両断できるマタギの鉈が入って永久マッチなり火打ち石も入って何にでも利用可能な中華鍋が1つ入って、それから捕まえたり採取した食材の調理の仕方が書かれたレシピ本なり皮の剥ぎ方血の抜き方まで丁寧に図解された「冒険手帳」とか入って、暑さよりもしのぐのた大変な寒さに対応した毛布とかがあって、切り傷にマキロン虫さされにムヒ腹痛に正露丸あかぎれひび割れにオロナインといった救急セットが詰め込まれているなら、それはサバイバルキットって言葉も成り立ちそうだけれども、時代の最先端を行くノマドワーカーが繰り出すサバイバルキットが、そんな単純なものであるはずがない。

 腹が空いても前を向けるように自己啓発のための言葉が書かれた本が1冊と、そして寒い冬でもこれだけ身につけていれば背筋はしゃっきりとする骨盤矯正ベルト、電気が使えるとか契約が済んでいるとかは2の次に世界と連絡を取るために必要なスマートフォンとあと、そこに行けば何かしている気分になれるシアトル系コーヒーチェーン店の雰囲気を作り出せる看板が一式、さらには読めば何か励まされている気分になって涙が出てくる直筆(のコピーの)お手紙が入って5000円。それが手元にあれば頑張って生きていこうって気になって、次のが届く1カ月先までどうにかこうにかサバイブできるんじゃなかろーか。なんて。

 一説には誰かがサバイブするためのキットではなく、売り出した本人が食べていけるためのキットって意味でのサバイバルキットだなんて言われ始めているけれども、そこまで自己陶酔の著しい人でもなし、誰かをもてなすのではなくって自分をもてなすための注文の多い料理店でもないだろう。だからきっと真剣に誰かのためを真剣に大まじめに考えて揃えた生き残るための教訓と、そして導きの言葉がダンボール箱いっぱいに詰め込まれているんだろう。開けてびっくりスカスカおせちとかいったことには絶対になっていないだろう、と思うんだけれど果たして。自分で買って試す勇気はないなあ、それならカップラーメンなり袋ラーメンを箱で買って置いておいた方がよっぽどサバイバルにつながるし。

 まあネットの方では誰かがそれで生き延びるんだと購入を決意し注文をしたみたいなんで、何が届くかはそのリポートを参考にして、そして生き残れそうな品々が揃っていたら自分でも注文してみよう。なんて。しかしいろいろあ商売が出てくるなあ。自分でも売るか部屋に積まれたダンボール箱を1箱5000円くらいで。箱によっては未読のハードカバーが詰め込まれているけれど、そうじゃないとエロ漫画とカバーのない文庫がぎゅうぎゅう詰めになっていたりするからなあ。こないだ倉庫に運んだ箱にはボイスラッガーのフィギュアとBOMEさん原型のマルチのガレージキットと馬越さんの画集とタツノコプロ展のカタログと涼宮ハルヒの限定版ゲームが2種類とほか雑貨を詰め込んだっけ。これなら5000円の価値はある? まあ何か分からず開けてびっくり玉手箱みたいなのが良いかも。自分では絶対買いたくないけど。

 東京五輪2020の招致活動もいよいよもって本格化しはじめて、ネットには招致のための詳細な資料も上がって東京ビッグサイトがレスリングとあと何だっけかの会場に使われることも判明。でも広さはあっても体育館とは違ったホールに仮設のスタンドを組んでレスリングを見せるのって世界のレスリング選手の人にとっていったいどんな気持ちなのかがちょっと気になる。お家芸とはいえ世界的とはいえレスリングよりは新しい柔道が晴れて日本武道館を使って開かれるのに最古の格闘技はビッグサイト送りとは。まあやっぱり原始的なスポーツの重量挙げの会場が、今はロックの殿堂な渋谷公会堂だったことを思えば広さと良いメディアセンターから近いロケーションと良い、ビッグサイトで悪くはないのかもしれないけれど。日本人も活躍してくれそうだし。くれるかな。

 しかし一方でいろいろと種々な規制とか抑圧とかもかかりそうで鬱陶しさも増す感じ。とあるソーシャルゲームの会社が未成年の上限規制を怠って後から穴埋めに走った話を書いた新聞があったんだけれど、その記事の文末でなぜか「だが例えば、きわどい水着姿の少女に、挑発的なポーズをとるコスプレ女性。ソーシャルゲームには過激なイラストが氾濫している。起業家支援やオリンピック誘致もいいが、本業の健全化について、まだやるべきことは多い」って書かれてた。何だそりゃ。美少女イラストを使ってサービスしているソーシャルゲームを提供するのは健全ではないってことは。つまりは美少女イラストは不健全な物って見解なのか。ネットにまつわる良い記事を書いてる記者なんだけれどこいうところで不用意な思考を見せるのは何でだろう。もともとそういう意識の持ち主なのかなあ。それとも誰かが書き足した? 署名だからそれはないからやっぱりそうなんだろうなあ、エロ御法度的な。それはメディアの多くに巣くった意識でもあるんだろうなあ。厄介だなあ。

 喪ったことのない人なんて多分いないし、喪わないでいられる人は絶対にいない。生きている限り。そんな喪ってしまう悲しみを、人はいくつもいくつも経験しては、そのたびに埋めたり忘れたりして生きてきたし、これからだって生きていく。そうしなければ喪っていく多さに悲しみがいっぱいになってあふれ出し、心をしばり体をしばって動けなくしてしまうから。でも、それでも残ってしまう喪ったことによって開いた穴を、不思議な力で埋めてくれる人たちがいたとしたら。それはとっても嬉しいことで、そしてとっても優しいこと。村山早紀の「花咲家の人々」(徳間書店、629円)はそんな、花や木と会話する力を持った家族によって多くの人が救われる物語。読めば誰もが嬉しい気持ちになって、優しい気持ちを思い出す。

 次女の力で薔薇をかき分け入った家で、かつて怪盗をしていたという今は玩具屋を営んでいる老人が泥棒市で買った肖像画を渡した女性は、死んでしまった母親の面影を思い出して生きる力を取り戻す。母が出奔して取り残された少年は、長男がコスモスから教えられた危険で火事に巻きこまれそうだったところを助けられ、祖母の元へと預けられて生きていく決心をする。長女がコミュニティFMの放送を通して行った呼びかけは町内の花々を美しく咲かせて人々に微笑みを与える。そんな力で大勢の人たちを優しい気持ちにさせた家族にも、喪った母親の再来という魔法が訪れ悲しみをぬぐって喜びを与える。頑張れば報われる。微笑めば優しくなれる。そんな気持ちを与えてくれる物語を、このどこか行き場のない気持ちに沈みがちな今、読んで前を向き、歩きだそう、未来へと。


【1月7日】 全部を見た訳じゃないけれども大河ドラマの「八重の桜」で冒頭に、アメリカのリンカーン大統領が出て来て有名なゲティスバーグでの人民は人民のために人民しろとかいった演説が流れて、もしかしたらこのままリンカーンの生涯を描く大河ドラマ初の試みが行われるかと期待したらそうは向かわず、南北戦争で使われたライフルが集められてはそれがどういう経緯か日本に渡って、巨大な胸量を誇る綾瀬はるかさんにかき抱かれたという。幸せだったかなあライフル。構えられるたびに銃床が当たるんだから、その大きくて柔らかそうなクッションに。なりないなあライフル。なれないよ。

 けど後に新島襄と結婚して同志社を作り教育に邁進する一方で、薩長を嫌い徳富蘇峰から嫌味を言われたりする頑固な婆さんになっていくことが決まっている八重が、鉄砲娘として活躍するのはその生涯のごくごく一部、まだ会津にいたころの短期間にしか過ぎない訳で、それを最初っから見せてしまってそしていずれ描くとしても、残りはいったいどう楽しめば良いのかが悩みどころ。小田原攻めの場に引っ張り出されて秀吉の横で天下取りを観念させられて以降、戦国の表舞台から姿を消した伊達政宗を取り上げた大河ドラマでも思ったことで、意半ばでの暗殺に倒れた織田信長なり、仇討ちを遂げて満足のうちに切腹していく赤穂浪士のような劇的さはそこには描けない。

 八重の場合もだからおそらくは最初に鉄砲娘を見せつつまずはそこへと至る過程を描きつつ、幕末の会津や江戸、そして新選組が跋扈する京都なんかを描くことによって話をつなぎ、そうした中から出てきた倒幕の動きが戊辰戦争となって政府軍の会津への進行へと繋がって、そこで八重が迎え撃つシーンを年の半ばあたりに持ってきて興味を引っ張ることになるのかな、それはちょっと引っ張り過ぎか、残る60年とかの人生を半年で描かなくちゃいけななるから。でも正直言って残り後半生は興味ないんだ、同志社なんて出身大学でもないし思い入れもないし。どんな案配になることやら。しかし西田敏行さんが西郷頼母とはなあ、会津藩家老の。前は西郷隆盛を演じ、その前は山県有朋と薩長の重鎮を描いて福島出身の身を引き裂かれていたのが、ようやく得たその役は、結果的に藩を追い出されて幕末明治と生き残るんだ。やっぱり数奇な役者人生、だなあ。

 うちの学校の有名人といったら日本画家の平松礼二さんとそして写真家の東松照明さん、そしてミュージシャンでDJのツぼいのりおさんがおそらくは筆頭御三家に来るんだろうけれどもその一角が遂に墜つ。長崎の被爆者を撮影したシリーズや、九十九里だかの海岸に流れ着くプラスチックの漂流物を撮影したプラスチックスなんかを経て、最近は沖縄なんかを撮り続けていた写真家の東松照明さんが亡くなったようでニュースなんかが伝えてる。やっぱり昨今だと被曝への悲しみとそれをもたらしたことへの憤りなんかが盛り上がっている関係で、長崎での仕事が強く評価されているようだけれども個人的には「朝日ジャーナル」で一時、表紙に使われていた「プラスチックス」のシリーズが、その無機的な割に有機的なフォルムをもった曖昧さで強く心に残ってた。熱線で焼けて曲がったガラス瓶と海に揉まれて歪んだプラスチック。強引と緩慢の差こそあれ世界は滅びへと向かっているのかもしれないなあ。

 「みなみけ」が無印から「おかわり」と来て「ただいま」となって3度のテレビアニメ化。爆発的なムーブメントを起こしてどこかが聖地となって巡礼がおしかけている訳でなく、いったい誰が得しているんだろうって気にもなるけど、個人的にはケイコの役で後藤紗緒里が出演していて、夏奈の無茶ぶりをどうにかしてかわし逃げ切ろうかと模索しては逃げられず、必ずとっつかまって引きずり込まれてやれやれとなる様が可愛いから、何度アニメになっても嬉しいのであった。あとは南冬馬の出演がいっぱいあるかだなあ。前の「おかわり」が冬を舞台に深々とした雰囲気の中でシュールさを感じさせつつほっこりとした温かさも見せてくれた作品で割と好きだったけれど、「ただいま」は普通に無印の能天気な雰囲気に戻って莫迦いっぱいやってくれそでこれはこれで好き。春香の胸元がゆるんだ寝姿とかサービスもあるし。でも夏奈はあいかわらずに非道いなあ。というか今いったい何年生なんだ、千秋も夏奈も春香もほかの面々も。

 おお来た。やっと来た。すでにCSちゃんねるなんかでも来てはいたけどニコニコ動画の方に来たってことは広く存在が世に知られ、そして再評価からブルーレイディスク化なんて夢も描いて良いんだろうかと期待もふくらむ「ジェネレイターガウル」の配信スタート。1997年だかの時代にあってタツノコプロがタツノコらしさを発揮し笑いをとりつつシリアスなバトルも見せてくれたこのアニメーション。途中に挟まれた学園祭の賑やかさ、エンディングのほのぼのとした雰囲気をすべてひっくり返すようなストーリーにテレビで見ていた当時、愕然として呆然としてしばらく何も考えられなかったような記憶がある。悲しかったなあ。そして寂しかった。それだけにすぐにでも評判になると思ったけれども当時は今ほどネットも発達しておらず、好事家の間で盛り上がった程度でその後DVDボックスは出たけれどもあっという間に品切れ絶版となって今に至る。見れば納得のクオリティ、そしてストーリー。「カウボーイビバップ」もBDとなって再発された今こそこの「ガウル」もお願いしたいところ。無理なら廉価版のDVDボックスでも。どうだろう。


【1月6日】 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見たついでにシネプレックス幕張で買ってきた「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」のパンフレットをぱらぱらと見て、展覧会が相当に面白そうだと分かってこりゃあ行かないとあかんがねと思ったものの、開催期間の2月17日までに実家の名古屋に戻る時間を作れるかどうかがまずは鍵。開催場所は岡崎だから帰る途中に豊橋で降りて名鉄で東岡崎まで行けばすぐなんだけれど、そもそも名古屋に行く機会がなあ。今度の終末は成人の日が入って3連休になるし「宇宙戦艦ヤマト2199 第四章」の公開は前日のイベント上映のチケットを抑えてそこで限定版ブルーレイディスクを買えるから12日の早朝に並んで借ってそして名古屋へ、ってやらなくても大丈夫。ただその日から角川シネマ新宿で「ねらわれた学園」の再上映をやるんで行ってみたいという気がむくむく。これを逃すと関東ではしばらく上映なさそうなんだよなあ。2月16日からの豊橋での上映を見るついでに岡崎回って実家へ、というルートも考えるか。うーん。

 そんな「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」の目玉はたぶん、表紙にもなっている「ロンギヌスの槍」で長さ3メートル32ンセンチはもちろん実物大ではあり得ないけれどもその柄の部分のぐりぐりっと捻れた感じが固いはずの鋼でしっかりと表現されているから凄い。刀身の部分はダマスカス鋼が使われていて積層された素材の紋様が細かい波の模様となって見えていて、きらりと輝く鋭さとは違ったどこか呪術的で重厚感があって意味ありげな雰囲気って奴を醸し出している。つまりはこれで指されたら穴が空くとか切れるとかいった普通な感じではおさまらないという。重さは22キロくらいあって1人ではとうてい持てそうもないけれど、それをいったい刀鍛冶がどうやって作ったのかに興味。展覧会に行くとそういったメイキングの映像とかも流れているのかなあ。何よりその大きさと、写真の見た目では伝わってこない鋭さって奴を感じたいもの。やっぱり行こうか週末に。

 初号機カラーに鞘と柄がついたマゴロクソードもエヴァグッズっぽい感じだけれど日本刀としての凄みと美しさが出ているってあたりでは、弐号機仕様の短刀<式波・プラグスーツ>が良さげでぜひにレプリカをつくって欲しい出来。柄もなにもない剥き身だと確かに短刀なんだけれども刀身の根本に穴があいてそこにアスカの姿が立体的に透かし彫りになっている。もちろんあとから張り付けたんじゃなさそうで、そうした技術の粋って奴を確かめることができそう。それだけに刀身潰したレプリカであっても高くなりそうだよなあ。鞘は弐号機色の赤。でも付いているマークがネルフなのは「Q」を見た今だとちょっと違和感、覚えるかも。同じく短刀では真希波マリの直刀が伝統工芸っぽさを感じさせる出来。柄がなく白木の入れ子の鞘が付いているけれど展示ではどうなっているんだろう。見てみたい見に行きたい。

 正月明けの秋葉原をうろうろ。とくに福袋とかはもうなかったけれども買って出てくるフィギュアとかTシャツとかのことごとくがどうせ倉庫行きになると思うと、買って何が出るかがお楽しみとも言ってられないのであった。そのくせ一番くじとかは出たら買ってしまう阿呆者。それはそれこれはこれ、なんだよなあ。あきばおーで大塚ギチさんの「TOKYOHEAD RE:MASTERED19931995」を探したら黄色くてすぐわかった。リマスタードだけあってマスタード色、ってことらしい。「THE END OF ARCADIA」が赤いのは「アルカディア」だからなのか、って意味不明。ペッパーランチではらみとハンバーグの盛り合わせを食らい店頭なんかをざっと眺めて離脱。洋盤のブルーレイディスクを売ってるsaleに行けば面白いのもあったんだろうけど、もう家には何であれ置く場所がないのだよ。もう2箱3箱、倉庫に運んでおきたいなあ。3月までには。

 「週刊SPA!」で簡単にレビューしたのは2000年に出た美術出版社版の方でそれは「東京ヘッド NEW EDITION」の方でそこにはちょっと前に盛り上がっては過ぎ去った「バーチャファイター」という格闘ゲームにのめりこんだ男たちの戦いの模様が等身大の目線から描かれ、ムーブメントというものが持っていた熱さって奴を感じさせつつ、少し退潮した場所からそれらをふり返ってあれは何だったんだろうと思わせそして、願わくばまた1度、あるいは何度でもああいったゲームに多くがのめりこんで盛り上がり、熱くなれる時間と場所が戻って来たら面白いと思わせた。けれども。アーケードゲームの退潮はさらに進んでゲーセンはクレーンゲームとメダルゲーム機とあとは太鼓の達人くらいが遊ばれる場所となって格闘ゲームのジャンルは続いていたとしても、テレビにそのプレーヤーが取り上げられ持ち上げられるような時間は来なかった。これから来るという気配もない。

 それはひとつにはアーケードゲームというものが持っていたビジュアル的な先鋭性がコンピュータ技術の発達によって家庭用でも遊ばれるようになってゲームセンターに行く意味の結構な部分が殺がれてしまったことで、加えてジャンルとしての格闘ゲームが始めの頃は、スティックを使いボタンを押してキャラを動かせばそのとおりに動いて誰かと戦い勝てる時には勝てるといった具合に、自分では戦えない人でも拡張された身体を得てそこで存分に戦えるという快楽を味わわせてくれるものだったのに、次第にそうした快楽を越えて勝利することが目的となり、そのために瞬間を極める操作を要求されるようになって拡張された身体という快楽とはかけ離れた存在になってしまったことがある、そんな気がしている。

 操作を覚えそのとおりに動かすことで思い通りに動かせるという意味では、究極に拡張された身体といった味方もできないことはないけれど、そうなるまでにいったいどれだけの鍛錬を求められるのか、って思った時に町に出てゲームセンターで格闘ゲームを遊ぶのはさすがに勘弁となって、せいぜいが家で楽しんでみる程度となってそれも、要求される操作の高度化であり、最終的には勝利してすべてのアイテムなりキャラなりステージなりを出して終わりという閉じられたビジョンの檻に絶望し、コントローラーから手が放れていってしまい、今に至る。まあ胸がぼよんぼよんと揺れたり蹴り上げた裾からパンツが見えたりといった楽しさを味わえる格闘ゲームもあってそれはそれで需要がなかった訳じゃないけれど、健全化の進んだ業界であんまりそうした方向への発展もなくなってしまった模様。結果。誰がなにをどこでやっているのか。まるで見えないジャンルになってしまった。

 大塚ギチさんが最初に「TOKYOHEAD19931995」を発表した1995年はまさに、新宿ジャッキーであり池袋サラであり柏ジェフリーでありブンブン丸といった“バーチャ四天王”なんてメディアにも呼ばれ取り上げられるプレーヤーがいたりして、格闘ゲームが最強に盛り上がっていた時代で折良くセガサターンという家庭用ゲーム機が出てそれで「バーチャファイター」とか「バーチャファイター2」がゲーセンの雰囲気そのままに遊べるようにもなって、双方が共存関係からお互いを盛り上げるような関係にもあって空前ともいえる賑わいを見せていた。傍目には。でもプレーしている人たちにはそうした熱さの奥に商業としての煽りを感じ、プレーヤーとしての行き詰まりも覚えていたんだろう。本にはそこまで踏み込んだ描写はないけれど、今となってはフレアのような熱の後に漂う虚無ってものをどうしてもそこに見てしまう。

 それから17年。大塚ギチさんがどうして今になって「TOKYOHEAD RE:MASTERED 19931995」として「TOKYOHEAD」を再編集して出したのかってことになるならやっぱりあの刻まれた夏の暑さを今に語り継いでおく必要があったって感じたからなんだろう。現実にあったそれらは絶対になかったことに出来ないし、今もなお進化した「バーチャファイター」を楽しむ人たちがいて、夏の炎天下に屋外で開かれたばかばかしさも突き抜けたイベントに現れ、深夜までそのプレーを披露しては敵と戦い己と戦っている。それは遠からず消えてしまう残り火なのかもしれないし、細く続く篝火なのかもしれないけれど、燃えているならそこに思いを抱いた人たちが今もいる。そうした人たちに向けた過去からの言葉であり、未来へとつなげる言葉としての「TOKYOHEAD RE:MASTERDE」なのかもしれない。

 これは完結ではなく新宿で燃え上がった人が町田へと移り続いた有り様も書かれることになっている。すでにテレビのようなメディアでは取り上げられなくなっていたムーブメントだけれど、しっかりと燃えてそして今へといたるポイントがいったいどうなっていたのかが、今ようやく言葉になって伝えられる。読むしかない。過去を知って今を知る者ならば。そして見定めよう。何がアーケードに、格ゲーに、バーチャに起こったのか。噛みしめて乗り越えた場所に広がるのはさらなる不毛のアーケード界か、それとも新しいテクノロジーを得て甦るバーチャルリアリティでありオーグメンテッドリアリティのワールドに現れる格闘ゲーム界なのか。見せておくれよそのビジョン。感じさせておくれよその熱量を。


【1月5日】 寒さの中をせめて1箱くらい倉庫に運んで部屋の中の質量を減らそうとスペースを漁って、アマゾンから届いたまんまの涼宮ハルヒ関連のゲームとかをダンボールに詰めていたら現れたのが海洋堂のリボルテックの綾波レイ。まだ白いプラグスーツ姿で昔の面影を残している様に昨今の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」で見せる豊満ながらも黒いプラグスーツ姿での無表情っぷりとの対比を覚えて頬ずりしたくなる。しないけど。あと「マジンガーZ」の超合金魂とか出てきたけれどこれは何で買ったんだっけ。たしかまだ建っていたラジオ会館2階のコトブキヤで初回は手袋がもらえるからって釣り文句に引っかかって買ったんだっけ。そんなんばっか。それで部屋を狭くしてりゃ世話ないけれども仕方がない、それがコレクターって奴なんだから。

 とはいえ流石にあの巨大な超・超合金のマジンガーはまだ買ってない自分。値段も値段だけれどそれ以上に問題はあのデカさで、買ったところで家にはまず入らず入れても置き場所がないものだけに逡巡中。でも何か貴重な品のような気もするしなあ、新宿のアニメイトで2割引になっていたんで買ってみるか、どうやって家まで持って帰るか。スペースからは他に「機動新撰組 萌えよ剣 TVプレミアムDVD−BOX」とか出てきたりしていったい何を買っていたのやら。まあこれは当時アマゾンで半値以下だかでたたき売りされていたのを多分買ったものだけれども原作ではないただのキャラクター設定だけなのに、高橋留美子さんのキャラの雰囲気が実によく出ていたのがちょっと気に入ったのだった。そのうち見よう。どうせそろそろまとめておじゃんとなって時間もたっぷり出るだろうから。

 だってさあ、「韓国では、いまだに地上波で日本のテレビドラマをみることができない。日本でもかの国が反省するまで韓流ドラマは衛星放送だけにしてはどうか。紅白で英断を下したNHKならできる」と伝統ある1面コラムに書いちゃっているんだよ、自分のところが韓国タレントの週刊新聞を出しているってのに。そしてグループの親玉で目ん玉な会社も韓流ドラマを結構放送してたりするんだよ。そうした身内の振るまいに言及しないで余所へと口舌を向けて嘲り誹るんだからもう及び腰としか言い様がない。まずはだったら韓流スターで稼いでいる身内にこそ鉄槌を下して、韓流スターの儲けに繋がるような言説を満載した媒体は早々に廃刊にすべきと解き、それで視聴率を稼いでいるテレビ局には恥知らずと言葉をぶつけてみれば良いのに。それとも言ったのかな。そして無視されたとか。

 「オジサンにはどこがいいんだかわからない『韓流スター』は一組も呼ばれなかったが、視聴率は前回よりアップした」ってそれ、自分がエンターテインメントを分からない人間だって自白しているようなものじゃないか。まあ何が好きで何が嫌いかは人それぞれではあるけれど、だったら「視聴率は前回よりアップした」は余計な一言。だってそれは自分のような韓流スターを分からない者と見ている目が正しいって主張を支える理屈で、それは韓流スターを愛して新聞を購読している人たちを愚弄している意味に繋がる。普通に考えれば分かることで、周囲の気配りがあるなら書かないだろうことなのに、それを平気で書いてしまえるのは何なんだろうか、ポン酢ぶりをさらしたいだけなんだろうか。さっぱり訳が分からない。まあ今に始まったことではなし、そうしたポン酢で変態な様は着実に信頼と品質に影響を与えて数字にも陰を落とし始めているんで遠からず、結果も出てくることだろう。困ったなあ。

 ってことで今日も今日とて「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」でも見ようと今度はシネプレックス幕張へと出かけて行く。連日は初めてか。狭い劇場だけれども3列目あたりで前に人がおらず画面も左右が視野におさまる頃良さはマイシアターにいるかのごとく。あらゆるコンテンツをそうした環境で見たいけれどもそれにはお金がいるからなあ。でもお金持ちならそれくらいの規模のミニシアターを作ってDLPの設備を入れて上映用のデータを借りうけて来られるんだろうなあ。お金持ちになりたい。見る前に売店に寄ったら何故か今は岡崎で絶賛開催中の「ヱヴァンゲリヲンと日本刀展」のパンフレットがあったんで購入。まだ見てないけどロンギヌスの槍とか飾ってあるんだっけ。カシウスの槍はないんだろうなあ。ってそもそもどんな形なんかカシウスの槍って。カヲルくんはどうやら形を知っているみたいだけれどもそれがどういうものか、言わずに首から上を吹き飛ばしてしまったし。

 そうカヲルくん。映画では絶妙にその瞬間を飛び散る血糊で隠して映らないようにしているけれどもブルーレイディスクとか買ってコマ送りで見たら1コマだけ、首から上が吹き飛ぶ絵とか入っていたりするんだろうかどうなんだろうか。シンジくんの眼前に飛び散る血糊には妙にぷよぷよとした塊があってそれがずるっと下がったりするんだけれどあれってやぱっり脳みそとかだったりするのかなあ。想像するとチゲ豆腐とか食べられなくなっちゃうかというとそういうことはありません。豆腐は豆腐。脳みそは脳みそ。どっちも柔らか。いや脳みそはまだ食べたことがないけれど。あとシンジくんが自分のしでかしたことを知ってフラフラ歩いている時にミサトの「何もしないで」とアスカの「あんたには関係ない」とサクラの「エヴァにだけは乗らんでください」とゲンドウの「エヴァにのれ」がリフレインして響くシーンがあるんだけれど1言だけ、サクラの言葉が「エヴァにだけは乗らないでください」と標準語になるのは何か理由があるんだろうか。いわゆるサービスサービスゥって奴? あり得る話だ。

 8度目ともなると展開も見どころもだいたい分かって途中でトイレに行くのも大丈夫になってしまうのはちょっと慣れが非道いか。ちなみにポイントはアスカ中心で考えるなら宇宙からシンジくんを連れ帰るまでは当然出られず、ヘルメットを脱ぎ捨て歌い続けるマリに「鬱陶し」いと憤り、マリから「お・ひ・め・さ・まっ」と揶揄されつつ援護を受けてそして地上に戻ってからもまだ出てはダメ。そこではジャンパーを着込んでシンジくんにパンチをかましてカウンターに上るアスカを前から後ろから真下から堪能でき、あとエヴァ弐号機に乗って手にチャッカマン(違う)を持ち主機に点火に向かうシーンで腕をつけかえ「あーらよっと」とか言ったりする可愛らしさを見る必要がある。だからハッチから首を出して「ガキね」といってタイトルが出るまでひとまず我慢。もっともその直後に目覚めたシンジをネルフ本部の地下へと連れて行く道中、黒いプラグスーツを着た綾波レイの胸が手前に来るからこれも見逃したくない。最初のタイミングで行くならそこ。でもあんまり長引くと綾波の住処を尋ねていったシンジがすっぽんぽんの綾波を見るシーンを見逃すから手早くすませて席へと戻ろう。何のこっちゃ。


【1月4日】 君のために戦う。それがたぶん根源なんだろう。家族のため子供のため恋人のため尊敬するあの人のため……。対象にはさまざまあれども誰かがいるから守りたいと思う気持ちが生まれるし、そのために戦わなければという思いが育まれる。もしも自分だけだったら。生き延びたい、生き残りたいという生存本能は確かに強くて人を戦いの渦に引っ張り込み派するけれど、それだけで果たしていつまで保つか。限界を知った時にそれでも越えようと思えるか。身ひとり果てることへの抵抗感は誰かを残して逝くことよりもはるかに少ない。そんな気がする。

 葉月双さんの「空に欠けた旋律」(GA文庫)シリーズはそんな、誰かのために戦い続ける者たちの物語。世界の9割がたが滅んで残り1割もサムリエとアギスという2つの国に別れて長い戦争を続けている地上でアギスに生まれたレイことレスティ・ヴァーナとエレナ・ランズベリーの2人はかつて自分たちの住んでいたアギスにある町が空爆をうけ、家族を失った時にかけつけ助けてくれた銀色の魔女に憧れ、彼女のようにメロディと呼ばれる一種のロボットに乗り込み戦う戦士を目指し、適性もあって採用されて銀色の魔女ことクッキィが所属するチームに配属される。挨拶もそこそこに隊長のブラッド・ホークスという男性も含めた4人は戦場へと赴くものの、現れたサムリエのエースにクッキィが撃墜され、それをレスティが救助する。

 失った家族の仇がうちたい。もちろんそんな気持ちがレスティにはあったけれどもメロディ乗りを目指した最大の理由はクッキィのため。彼女のために戦い彼女と共に戦えるのが何よりも大切だからレイは戦場を掘り出してでもクッキィを助けに向かった。それを咎められてもエレナから罵倒されても変えることのない信念は、やがてアギスという国の中枢を握る存在が企む戦争の永久化への反意となってクーデーターを狙うも失敗し、クッキィとレイ、そしてブラッドの3人がアギスから追われる身になっても変わらず続き、ひとり部隊に残った幼なじみのエレナを敵に回しても揺らぐことはなかった。

 クッキィのために戦う。それこそが、それだけを原動力にして戦うレイのふるまいは時として残酷で、容赦なくなることもあるけれど、それを時に咎め止めるクッキィとのコンビネーションが2人とそしていっしょに行動している隊長を生き延びさせている。第2巻では仇敵だったはずのサムリエのエース、フレイとの共闘も起こって世界を裏から操る存在、それはクッキィを生みだし彼女と同じクローンたちを生みだしては争わせ、支配させた存在との戦い。いったい何を目指してメロディの生みの親がそうしたのかという謎と、そんなメロディの手のひらで踊らされる人々がどうやって抜けだし、羽ばたいて世界を平穏へと導くのか。先が気になる。打開する道筋はやっぱりレイのクッキィを思う気持ちになるのかな、それがたとえヘテロなものではないとしても。好きは好き。それで良いのだ。それだから強いのだ。

 まあそりゃそうだよな。前に総理大臣をやっていた時に、いろいろと言ったら問題が起こったんでアメリカの議会に呼びつけられ、そこでごめんなさいと堂々謝ってしまったことを今になってひっくり返そうとしたら、あれは何だったんだってアメリカの人から驚かれるのは当然のこと。いったん言ったことには筋を通す契約社会に暮らしている人たちからすれば、いったい何だって思われるだろうし、ひいてはそれが日本人すべての性向だと思われかねない。これは拙い。とてつもなく拙いんだけれど当人にそういう自覚がなさそうなのがさらに拙い。

 想像するならたとえ真意はほかにあったんだけれど、それを国のため世界のためと飲み込んで、ひとつの形にして決着をつけたこと。それなのに、政権を離れている間に、一部の積極的な人気を取り入れようと過去の発言を、なかったかのようにして振る舞ってしまったのが運の尽き。脇が甘いというか、人間として歪んでいるというか。その延長で、政権を取ってなお同じような振る舞いをしたら、やっぱり整合性がとれないぞってお叱りが飛んできた。そこでいやいや前の謝罪は大嘘だ、心にもなかったんだと言えば日本はアメリカを、そして世界を愚弄したとしてさらなる攻撃を受けるだろう。

 かといって、それを書いた新聞社のインタビューは、記者の勝手な解釈で自分の真意はそうではないと言ったらそれもみっともない逃避になる。というより実にお友だちな記者を相手に胸襟を開いて本音を語りまくった結果でしかない訳で、それを今さら違いますと言えるはずがない。そうなると予測しないでやったとしたらただの阿呆だし、そうなると分かってやってしまったとしたらこれはとてつもない間抜け。どっちにしたって針の筵に乗せられそう。そんな人間が総理大臣だなんて、やっぱり向いてないんだよなあ。これは後に尾を引くかな。

 上映も11日までって感じになって来たんでもう何度か見ておこうかと聖地みたいな感じになってる新宿バルト9で「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を見る。えっと7度目くらい? 見どころがガラスをぶんなぐる時のアスカのお尻とその時にカウンターで仁王立ちになるアスカの見上げるポーズとあと、エントリープラグの中でうずくまるシンジを見下ろすアスカとぐだぐだになったシンジを引っ張って歩くアスカのお尻であることに間違いはなくってあとは宇宙で働くアスカの頑張るセリフとか、そんなアスカを助けろとすでにショックから落ち込んだシンジに向かって怒鳴り彼のエントリープラグを輩出する時のマリの積極性が出た行動なんだけれども、そうしたビジュアル的な見どころを除けばやっぱりシンジくんがいきなりおかれた浦島的な状況で、14歳なりの自己主張をして空回りする傍目から見た痛さであり、当人になって感じる苦しさだろう。

 既に2度目の観賞でシンジくんのウザさは引っ込み客観主観の両方からシンジくんの辛さを感じつつ、それを見守る周囲のいかんともしがたい感情に同意を覚えて見ていけるようになったから、今もって初見の人たちが上映を終わった後にうわーっとした辟易とした気持ちにまみれて映画館を出ていく様を横目に冷静に受け止めつつ、もう1度見たら良いんじゃないと心の中で言うことはできる。でも公開から2カ月近く経ってなお、初見の人が多いのは何度も観てシンジくんの気持ち、アスカやミサトさんの気持ちを多方面から感じたいというよりも、話題になってるそれを見ておくか的な人が多い現れで、それが果たして次の興行につながるかどうか。そこがちょと心配でもあり、興味を覚える点でもある。まあでもエースの死で盛り上がった「ONE PIECE」がストーリー的にヘビーな魚人島編、そして入り組んだパンクハザード編になっても部数が落ちないところを観ると、話題性ってのがまずは重要で中身は後からついてくるものなのかもしれない。そういやモネ、大変なことになっていたなあ最新号で。

 あとはシンジくんとカヲルがいったいどこにいたんだろうって空間的な問題について理解が進んだようなそうでないような。おそらくは円柱の上に乗っかって地上から遙か彼方の空に置かれた逆ピラミッドの中に今のネルフがあって、その底に近いところでシンジはカヲルとピアノを弾いたり空を見上げて星を見たりしたんじゃなかろーか。世界がどうなっているか疑問を抱いたシンジくんがカヲルに連れて行かれたのは、そんなピラミッドの外壁部分で、そこから見下ろした世界はまっ赤になていて、そして月はグリッドに取り囲まれていたという。13号機はそんな天空のネルフ本部から、筒の中を下って地の下にあるセントラルドグマの底へとたどり着く。いったいどこから吊していたかは不明。あとアスカとマリがどうやって侵入してきたかも。はるか天空からネルフ本部を突っ切って来たのかな。

 そしてそこでいろいろあって、再び円柱の中を一気に駆け上がってピラミッドの上に出て、その下から黒い月か何かが浮かび上がってそれといっしょにアスカとマリも天空に上ってアスカは接触して来たブンダーの上でアダムの器と戦い爆発。マリはその上から地表へと落下していくシンジの13号機に飛びつきシンジを追い出し地表に激突した、と。だから何だってことになるけど、位置関係が分かるとみんなに何が起こってそして、完結編でアスカとシンジくんとレイがどこを歩いてどこに向かっているかも理解できるんじゃなかろーか。もう1度くらい見ればもっと分かるかな。明日また行くか今度はシネプレックス幕張あたりに。


【1月3日】 茉建寺とかいて「まつけんじ」と読むらしい榊一郎さんの「茉建寺エリノアの非主流科学研究室」(ファミ通文庫)は天才だけれどコミュニケーション能力に乏しい天才美少女科学者の研究材料にとっつかまった少年が、改造されて下僕いされて大変な目に遭いながらもジタバタすることによってエリノアに人間的な感情なり、友達を持つことの素晴らしさって奴を教えていくというストーリー。科学によって友達は出来ないけれども魔法によって友達は出来るんだというその教え。素晴らしいけど科学も魔法もない僕にはだから友達は出来ないって断じられたようでいささか辛いひとりぼっちの三が日。教師として入り込んでエリノアを監視する女性が普段は奥手なのに性格が変わると服を脱いで下着になって戦闘服を引き寄せる様はぜひにこの目で見たいなあ。

 「箱根の山は天下の嶮」というだけあって、今年も箱根駅伝は箱根の山まで来ながらそれを越えて静岡愛知と走り抜けることなく、引き返しては東京へと戻っていった模様。関東の大学生たちはあれしきの山も越えられない軟弱者揃いかと西日本の大学生たちもきっと思っているに違いないので誹られたと思ったのなら来年は、箱根くらい軽々と越してはたすきをはるばる京都まで繋いで走り抜いて欲しいものである。とかどうとか。

 まあそれは冗談としても、愛知県に生まれ育って愛知県で卒業を迎えた者にとって箱根駅伝なんてまるで感動もしなければ関心も抱けない関東ローカルの大学生の駆けっこ。そこに未来の五輪を、世界選手権をうかがうスーパースターでも出ているってんなら見る気も浮かぶけれどあの一瞬で輝き燃え尽きる選手たちに、若さへの羨望なんてものも抱けない身ではやっぱり興味を向けられない。これが例えば走っているのが女子だったら。ゆっさゆっささせながらだったら。ちょっぴり嬉しい気分が起こらないでもないけれど、それは本質ではないかならあ。

 それ単体で完結しているドラマとして味わう分には箱根駅伝はとても美味しいコンテンツで、はるばる繋がれるたすきへの感動もあれば、途中で途切れながらもただひたすらに走り抜いて、成績ではなく結果を求める人への同情なんかもあって、一喜一憂できないこともない。とはいえ、スポーツというものが世界規模で行われていてヒ、そのエラルキーの頂点として五輪があり世界選手権がある中で、そうした場所から結果的に大きく断絶してしまっているローカルでドメスティックな競技といった捉え方で箱根駅伝を見た場合に、やっぱりどこか物足りなさを感じしてしまい、にも関わらずさも素晴らしく凄まじい競技であるかのような喧伝のされ方がなされている状況に、どこか虚ろな気分を覚えてしまう。

 世界とつながっていなくたって漫画は、アニメは、小説はそれ単体で面白いんだから箱根駅伝という“作品”を味わえば良い、って言えば言えるんだけれどでもね、世界に繋がれる機会をそれが奪っているんだとしたらやっぱり勿体ない。これが高校サッカーだとそれ単体で盛り上がれたりもするけれど、その先にJリーグがあったり世界各国のリーグがあったりして、さらに代表があってワールドカップという頂点があったりして、そこへのステップアップを感じながら見ることができる。未来が開かれているんだと実感できるから、そこで未来が潰えてしまうことへの悲しみや、そこまでたどり着いたことへの喜びなんかも伝わってくる。

 高校野球も同様。プロがあってメジャーがあって。そんな未来のビジョンを感じて楽しめる。高校ラグビーは……大学ラグビーが東日本偏重でそれも世界につながっているかというと日本代表はあの惨状。ワールドカップにこそ連続して出られてはいてもそこで世界と互して戦っているというより参加させてもらっているといった風情が強くて、未来への希望を含んだビジョンを抱きながら見ていけない。日本の大学に入らず海外へ雄飛する学生がいるのも分かるような気が。でもそうしたスポーツ全体の観点から箱根駅伝や大学ラグビーを俎上に乗せて語るメディアってないんだよなあ、むしろよくやった大学生、頑張った大学生って感じでスポーツ新聞がはやしたてる。

 それも今に始まったことではないし、それで売れているんだから悪い視点ではないんだろうけれど、世界における日本の居場所ってものを思った時、それが昔に比べて見えやすくなっている今、いささかなりとも改めた方が未来に展望も開けると思うんだけれど、違うかなあ。まあ箱根駅伝には年に1度のイベントとして屹立してもらい、そこに物語って奴を感じ取ってもらい、なければ作り出すことによってドメスティックであってもローカルであってもエンターテインメントとして昇華していけば喜ぶ人も多いから良いってことで。世界でマラソンに挑んだところで世界最高なんてかないっこないところまで水準が上がってしまった今はなおさら。ラグビーはなあ、出身校への妙な偏愛を抱いて大人になった奴らの玩具にされているうちは、多くを喜ばせるエンターテインメントにはならず、世界を驚かせるスポーツにもならないなあ。ワールドカップ大丈夫かなあ。

 例年だと3日は東京ドームにライスボウルを見に行くんだけれども去年と同じ関西学院とオービックシーガルズとの対戦ではちょっと興も殺がれ、関西学院のチアリーダーもだいたい傾向が把握できていたんで見送って上野あたりを散策。弁天様に並んでお参りして美人になりたいと願い、東京都国立博物館へと回ってリニューアルが済んだ東洋館を見てインドの石仏とかのアーリア人種的風貌に感じ入り、アンコールから出た女性像の胸の形の良さについつい触れたくなったけれども、触ったところで石なんで固いだけだからと断念しつつ中国の水墨画とかエジプトのミイラなんかを見物する。近所の国立科学博物館とはまた違ったミイラ。いつ頃のだろう。

 東洋館ってそういえばずっと閉まっていてもしかしたら閉鎖でもされたんだろうかと思っていたら、最近になってリニューアルの広告があちらこちらに張り出されて改装中だったんだと知った。ふり返っていつから休館になっていたのか記憶になくって、最後に入ったのがいつで何を見たかも覚えてないんだけれど、改めて見て分かった中国からインドから東南アジアに中東にエジプトに朝鮮半島と広範囲の品揃えぶりに、これだけあれば本館の日本美術、平成館の古代遺物なんかをまとめて眺めてアジアの美術と博物をだいたいおさらいできそう。外国人には1ヶ所でまとめて見られる好スポット。って訳でもないけど妙に西洋人系の外国人が多かった。正月を日本でってツアーでもあったんだろうか。


【1月2日】 朝も早くに起きられたので新宿へと劇場版「青の祓魔師」を見に行ったら予告編で宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」と高畑勲監督の新作「かぐや姫の物語」の予告映像が流れてた。宮崎監督のは太平洋戦争に前後して零戦を作った堀越二郎って男の物語になるって話は聞いていたけど、映像に出てきたのはなぜかラムダかロボット兵あたりからもいできたような羽根をつけた飛行機で空を飛ぶ若者と、そして丘の上でセザンヌの「日傘の女」よろしく筆をとる女性の映像。女性の風にはためく衣装や髪の作画のうねうね感は流石に宮崎監督だと期待させる一方で、得体の知れない飛行機のビジュアルにやっぱり宮崎駿監督だとも思わせる。まあ映像としてはとても良いものになりそうな予感。お話的にはまるでさっぱり。どうなるかなあ。

 でもって高畑勲監督の方はといえば、流石に「ホーホケキョ となりの山田くん」みたいではないけれども、どこか水彩画を思わせるようなタッチのアニメーション。まだ幼いかぐや姫が下半身丸出しではいはいしてた。そこんところはちょっとした見どころ。あるいは大昔の東映アニメーション的とも言えるのか。でもそれだと最近も宇田鋼之助監督の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」があったからなあ、あれで1960年代70年代の東映動画的映画を現在的に甦らせた訳で今さら昔に回帰してもって感じ。アニメーションとしての興味深さはあってもエンターテインメントとしての楽しさはあるのかどうか。そこが気になる。だから極楽エンターテインメントに説教混じる宮崎監督の新作と同時上映するのが1番良いんだよなあ。でもそうならないって話だし。それが鈴木敏夫プロデューサーの戦略なのかなあ。何か観客の気持ちとズレてるなあ。

 もしも徳間康快さんが存命だった果たしてどうしたか、ってあたりも関心事で出版の世界と同時に大ばくちが常道の興行の世界に長く生きて来た人だけあって同時に公開してまとめて楽しんでもらったような気もするなあ。別々に公開してちょぼちょぼ稼ぐなんて小さい小さいとかいって。そんな康快さんが亡くなってもう12年。スタジオジブリも徳間書店から離れ、資本的にも遠くなったこともあるのか、文藝春秋社から「文春ジブリ文庫」なんてものが創刊されるって告知が、正月早々から新聞とかで成されてた。徳間版のフィルムブックはそのまま続くらしいけれど、新しく出る作品のフィルムブックとか、あるいは小説版なんかが文春から登場することになるのかな。あと絵コンテ集とかも。前はそのあたり、親会社でもある徳間が前面に立っていたけれど、最近の作品では資本面で徳間が参加していることもなく、無理に立てることもなくなったってことなんだろう。徳間康快さんあっての宮崎駿監督でありスタジオジブリ。その恩も十分に果たしたって鈴木プロデューサーなりの解釈か。寂しいけれも、しゃあなしだ。

 さて劇常磐「青の祓魔師」は90分ほどとまとまった時間の話の中に出合いがあって深まる関係があって、それが裏切られ断ち切られそうになってもどうにか友情は続き、離別はあっても喜びの中に終えられるという王道を行くストーリーが繰り広げられる。「鋼の錬金術師」とか「ONE PIECE Z」の映画みたく本編に組み入れられることによってひとつの厚みを増すものとは違って、青エク本編と直接絡まなくてもどうにかなってしまいそうな、というよりむしろ最後をそうしたところもあった番外編的ストーリーだったけれどもその方が次に本編が映像化されることがあっても、あれこれ矛盾を考えなくても良いって判断があったのか、って続かないよなあテレビ版。それとも再開の動きとかあるんだろうか、このタイミングで劇場版なんかが公開されたってことは。

 ビジュアル的にはシュラさんの下乳がとても最高。あんなに下乳出していて形、大丈夫なんだろうか、垂れないんだろうか。あと釘宮ボイス炸裂で聞く人には超嬉しかったかも。その声につくビジュアルが超ショタで、ちっちゃいのもぶらさがっててついつい引っ張りたくなってくる。痛いがな。クオリティはともかくとして映画として映画館で上映するに足るボリュームであり尺かというと、どこか夏のテレビスペシャル的な印象は拭えないのはその話の閉じ方故か。とはいえ今時こうした映像をテレビで流したところで、つくスポンサーはパッケージを売りたいメーカーであって、別にテレビ局がスポンサーをかき集めてそこから制作費を出してくれる訳じゃない。それなら劇場で公開してパッケージに持っていった方が、むしろお金がかかずよりクオリティの高いものを届けたい範囲に届けられるってことなんだろうか。ちょっとそのあたりのビジネス的な意図は分からないなあ。ともあれ昔だったらテレビスペシャルで出来たことが、今はあんまりやられないようなビジネスの構造になっている。それが良いのか悪いのか。「ルパン三世」みたく録画して見ないってことはなく、劇場へと足を運び能動的主体的に見ようって気になる分、劇場版にしてくれる方のが僕的には有り難いかな。つまりはそういうことなのかも。

 優しさと憎しみと。愛しさと悲しさと。そんな気持ちが綯い交ぜになって浮かび上がってくるのが泉和良の「おやすみムートン」という物語。どこかの工房で目覚めたそれ羊のようなもこもことした毛並みをもっていて、そこにいたsという名らしい男から「ムートン」という名をつけられる。辿々しく拙いけれども喋る機能を持っていて、そして2本の足で立って歩くこともできて、sからは子供のように世話をされそして部屋の外へと冒険に出るように促される。出たそこは廊下があって女性がいてムートンに優しくしてくれて、さらに歩くと背の高い男性と太った男性がいてこちらはムートンに厳しくて、そこを助けてくれたゴスいけれどもうまくしゃべれない女性がいて、別の場所には両足のない禿頭の男性がいた。

 そこは宇宙船の中。人々は多くなくそしてずっと部屋から出てこない女性や、眠ったままの女性もいてさらに奇妙な体をもったニケという名の存在がいて、ムートンを作ったことで責められて閉じこめられたsに早く会いたいというムートンの願いをかなえる代わりにムートンの左手を持っていってしまった。やがてムートンは眠ったままの女性を世話する活動や、畑で野菜を育て収穫する活動を通じて宇宙船の中に知り合いを増やしていき、そして植え付けられた知識ではない、自分の心や考えというものを持っていくようになる。けれども終わりは近づく。ムートンの手をもっていった宇宙人が過去に叶えた約束。その対価が支払われようとした時に、ムートンは覚えた悲しみを爆発させ、憤りに身を焦がす。

 これは育まれる感情の物語。広がる友情の物語。それを叶えるために犠牲にしたものの大きさが果たして釣り合っているのか悩むところではあるけれど、命に等価なものなどないと考えると、それは釣り合っているというよりもむしろ繋がれた命と見る方が正しいのかもしれない。あと誰かを救うために犠牲になることの悲しさと痛ましさにも触れて心が震えるけれど、それを彼ら彼女たちが望んだのならそれは彼ら彼女たちの決断。尊重しつつ託された思いを受け取って前に進むしかないのかもしれない。だからムートンは生きるしかない。生きて育ちそしてつないでいくしかない。その物語は描かれていないけれど、きっとそうなったと信じてページを閉じよう。


【1月1日】 「ももいろクローバー」から早見あかりさんが抜け、そして「ももいろクローバーZ」になってしばらくして、いよいよもって人気となってブレイクし始め、ついに念願だった紅白出場も成し遂げたけれども、そんな路上パフォーマンス時代から見てきた夢を叶えた現場で、堂々と「ももいろクローバー」時代のバージョンで楽曲をやっては、そこにもういない早見あかりさんの名前を歌詞に入れ、映し出された像をバックにカメラに向かってアピールしてのけるところを見ると結構、固まった6人で活動していた時代の結束って相当にあって、何か事情があって早見あかりさんが抜けざるを得なくなって、それでもやっぱりずっと繋がっていたんだなってことが特にファンをやっていなくても見えて来て、人を思いやる心の嬉しさに涙が出てきた。喧嘩別れしてもうずっと会ってないとか、2度と同じメンバーでやるものかとか言ってるバンドやグループって多いからなあ。見習ってくれよリアム・ギャラガーとノエル・ギャラガー兄弟も。

 そして登場したごりーぱみゅぱみゅがきゃりーぱみゅぱみゅと2度にわたって発音できずカミカミだった中を現れたきゃりーぱみゅぱみゅさんが別に大きく広がりもせず高い場所に上がりもしなかったけれどもインパクトのある衣装でもって「ファッションモンスター」と「つけまつける」の2曲を披露し初紅白を達成。ピルエットありエビ反りありのももクロの賑やかさとはまた違ってビジュアルの華やかさとか、スピーディなバックのダンスとのコラボぶりとかを見せてくれた。声が心配だったけれどもちゃんと出ていた模様だけれどちゃんと出していたかは未確認。あるいはごりーぱみゅぱみゅが乱入して一緒に「CANDY CANDY」もやってくれるかと思ったけれどもそれは流石になかったか。NHKだし。そっちは生を前に武道館で見たからいいや。その武道館のライブもDVDとブルーレイディスクが間もなく発売になる模様。DVDにだけフォトブック付きの限定版があるけど画質はBDだしどっちを買うか迷うところ。多分両方買うんだろうけれど。そういうものだ。100枚同じシングル買うより安いしね。

 もう見たいものはだいたい見たからと紅白歌合戦を止めて「戦国鍋TV」とそれから「戦国鍋TVライブ」を見てやっぱりすごいな大月俊倫さん、自前のスターチャイルドレーベルで「ももクロ」をやったり同じキングレコードで「AKB48」を扱いつつアニメで「AKB0048」を動かしてアイドル戦線のど真ん中を行きながらもそれよりずっと以前から、「戦国鍋TV」を立ち上げそこで男性たちをメインとしたアイドルのパロディ的な要素を持ったグループを多々生みだし、しかけてはそれを見に来る女子を何千人、何万人も生みだして来た訳だから。一昨年に明治座で「戦国鍋TV」の舞台を見たときも観客席を埋め尽くす女子の多さに圧倒されたけれども「戦国鍋TVライブ」に集まったほとんどが女子の9000人もの観衆が、舞台上のグループの振りに会わせて手を動かし、コールに答えて叫んだりしてた。いつも舞台があるアイドルって訳じゃないのにそうやってしっかり繋がっている状況を、あと1段上げれば日本中が踊るコンテンツになるんだけれどそこは密やかな楽しみとしての戦国パロディであり、アイドルパロディと割り切って演じさせているところが凄いし面白い。消費されず忘れられもしないこの粘着質の人気ぶり。あと5年は「戦国鍋TV」、戦えます。

 そしてろくに寝ないで午前6時に目を覚まし、はるばる電車を乗り継いで到着した埼玉県は久喜市にある鷲宮神社。午前8時をちょっと前にした段階でたいてい鳥居の外まで伸びている参拝客の行列も、鳥居から拝殿にぐっと近づいた場所に最後尾があってそこからだいたい20分ほどで参拝できたのは有り難い。ここで3時間とか並ぶと体力的にキツいから。すぐ後ろには巫女服姿のかがみとつかさもいたけれど、顔がこわばっていてずっと笑ったままだった。ただのドーラーでした。しかしそういう服装で参拝していいものなのか、見渡すと境内でもそこかしこでコスプレイヤーさんがいて撮影とかしていたみたいだけれどもどうやら地元とのコラボでそういうイベントが開かれることになっていた模様。何とオープンな。見て別に誰も文句をいわず遠巻きにもせず受け入れるといった感情の起動すらなしに日常にとけ込んでいる感じ。これが5年だっけ6年だっけ、お互いに磨いてきた関係性って奴なんだろうなあ。っていうか三が日に鷲宮神社に行くのってこれで何回目になるんだろう、自分。

 お札も買ってたこ焼き食べてフランクフルトも囓ってセガの1番くじをひいてクッションが当たって今年の運の大半を使い果たしたような気分。ざっと見たらまだ出店のブースは閉まっていたところが大半だったんで早々に引き上げてそのまま東武スカイツリー線とやらをスカイツリーまでは行かず手前の牛田で降りて京成に乗り換え中山まで行ってそこで中山法華経寺と鬼子母神に詣でてとりあえず今年の初詣は完了。鬼子母神は前に厄年が来たときに前厄本厄後厄と3年続けて通ってお祓いをしてもらったら健康に影響が出ることなしに過ごせたのだった。会社は傾きボーナスは減ったけれども人間万事塞翁が馬だっけ無事これ名馬だったっけ、ともかく体が健康であることが1番なんでその意味では実に霊験もあらたかな鬼子母神なんじゃなかろーか。ここでもたこ焼きを囓って屋台も完了。山門脇に巨大な日蓮さまの像が出来ていたけどいったい誰が建立したんだろう。それより大仏様の修繕を先にするべきなんじゃあとか。周辺に公明党のポスターもあったけれど中山法華寺は日蓮宗であって正宗じゃないしその正宗だって喧嘩してたんじゃなかっけ。神仏と共に祭り祈る日本だからまあ、何でもありかってことで。

 せっかくだからと西武百貨店でFOXFIREの福袋を買って中身を見たら黒かった。もっとカラフルなのが良かったなあ。まあ福袋は買って開けるまでが楽しみなんで見たらあとは田舎に贈ろう。体型の近い弟かその子供が着るだろうきっと。いい加減。山の神が平地を走っても普通だと分かったり、ガンバ大阪がJ2に落ちてもなおAFCのチャンピオンズリーグを戦う気なのかどうなのかを見守ったらやっぱり負けて今年をともにJ2で過ごし切ることが分かって、疲れ果てた相手に連勝を重ねるジェフユナイテッド市原・千葉の目論見が崩れて若干気落ちしつつ正月が終わる。はやっ。今年こそは何かまとまって外に出せる仕事をしたいものだけれどもそういう才能はなく声もかからず静かに窓際で余勢を送る日々が続きそう。大学を出てから25年になるからそろそろ年金とかもらえたりしないのかなあ、しないかそれは。年男で50歳にも近づいてきていい加減、何か形にしておかないとその後の余生がちょっと心配。レビュー仕事だけで人に存在を認められる訳ではないことは足かけ15年ほどやって来て身に深く感じているし、かといって政治絡みの仕事なんてしてないから国会議員になれる訳でもないし。せめて誘われ新年会なり忘年会なり結婚式に顔を出しても誰これと思われないようにしたいなあ、その前にそもそもにおいてそういう場に誘われるくらいの存在感を出したいなあ。


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