縮刷版2013年10月上旬号


【10月10日】 訳があって映画「いとしのグランパ」を見たら石原さとみさんが凄かった。実質的にこれがデビュー作となる出演なのに最初のシーンから平田満さん宮崎美子さんといったベテラン勢を相手にひるまず自然体の演技でもって家に祖父が刑務所から帰ってきてそれを嫌がって祖母が出ていこうとしているのを止めようとして入れられず困っている心情って奴を見事に表現していた。もちろん1発OKって訳ではなさそうだけれど、テストの段階から変わらず憮然としている雰囲気の声でそこにぎこちなさはまるでなく、心境って奴をピタリ現しているような感じでちょっと驚いた。

 そしてもっと驚いたのがあの菅原文太さんを目の前にしてもまるで臆さず、おひけえなすってと仁義も切らずに最初は初めて接した異人として扱い敬語で接しながらもだんだんと、正義を貫こうとしつつ飄々とすべてを収めようとするグランパの格好良さを知り、親しみを増していった果てに直面した事態に心底から号泣する変化って奴を、見事に演じきっていた。ストーリーに合わせて最初から撮っていく順撮りに近い現場が演技に向かう自分の心を段々と役に慣れさせ、相手との距離感を埋めさせていったんだとしても、やっぱりこれが初出演とは思えない慣れっぷり。今のナチュラルでいながら存在感のある女優ってものを想起させる演技だった。出来る人ってのはやっぱり最初から出来るんだなあ。

 そして訳があって映画「カラスの親指」も見たら石原さとみさんがやっぱり凄かった、といっても映画ではカットされてしまった洗面所での阿部寛さんを相手にした演技で割と長く延々と喋っていたりするシーンを切らず止めずにずっと撮っているにも関わらず間合いも完璧なら喋りもばっちり。何テイクかでそこに辿り着いたのかは分からないけれども見ていて緊張感のある場面になっていた。けど本番ではカット。どーしてなんだろう。あの姉妹も決して一筋縄ではいかない性格の持ち主なんだってことを示すという意味合いはあったのに。160分もある映画なんだから他にカットできる場所もあっただろうに。とは思うけどなくても成立してしまうシーンってところが多分、判断の基準にあったんだろうなあ。でもってそんな映画で親子の物語を実は演じていた村上ショージさんに実の娘がいてそれが吉本興業でもって芸人をやっていたという報が伝わり何を言う早見優。それはちょっと無理筋だけれどでもちょっと驚き。シンクロニシティってあるんだなあ。

 そしてようやく泉和良「猫と彼女とESP3」(星海社FICTIONS)を読み終えたら話が国際的になっていた。そりゃあ日本が超能力を発揮して暴れる猫のルナたちを相手にやっぱり超能力を発揮した猫をパートナーにして力を振るわせる猫殺し士たちを組織して立ち向かっている様を、海外は注視してどうやればそういう異能の存在を確保できるのかを考えいろいろと裏で暗躍しているってことがあっても不思議はないけど、でもその方策としてとられた事柄がどうにもこうにも心を滅入らせる。そこまでやるのか人間は。やったからこその状況であり主人公が巻きこまれてしまった国際的な謀略だったりするだろう。

 結果、今までのただエグエリっていう最強で最悪のルナを捕まえようとする話に米国やら日本やら他の国が絡んでルナについての研究や存在の奪い合いが始まって物語をサスペンスでスペクタクルな物へと広げていきそう。帰結はあるのか。エグエリはそもそも確保可能なのか。新しくでてきたルナのポン太とそれを使う女性の存在がなかなかに強烈。まさか……って思わせられる。主人公が相棒をまず守ろうとせずパートナーを失った少女を救おうと突っ走る子供っぽさに対するカウンター。そうやって浮かび上がる何が正解なのかという思索から、自分だったらどういう行動をとるのかを考えてみるのも一興。優先順位って瞬間瞬間にはなかなか付けられないものなのだよなあ。でもそうしなければ生き延びられないとしたら、さてどうする。どうするんだろうなあ。

 すでに今もなお存命の要人を鬼籍に入らせて全世界からなんだこれくしょんと思われているから別に、今回のノーベル文学賞が受賞者ではない他の誰かの受賞に決まったと伝えて取り消してみせた一件も、「ああまたか」と思われてしまいがちなところがあるんだけれど、そういう状況自体がすでに1個の報道機関としてどうなのよっていった感じがあるにも関わらず、過激であったり権力に阿っていたりする論調だけがそうした方面を好む層に支持されていることをのみ認め、そこに縋って大丈夫だと思い込んでいる節があるから何というか始末に負えないというか。大本営発表よろしく連戦連勝を喧伝して、気がつくと全てを失って敗北の瀬戸際に追いつめられているって状況も予測の範囲内に入ってきたかもしれないなあ。とっくに入っていたって? まあごもっとも。

 気がついたら東アジア競技大会のU−23女子日本代表の2戦目が行われて中国相手に敗れていた。あちらはフル代表の経験もある選手が混じっていたりしたそーで、元より自力もあるだけに2点を奪っての勝利は半ば当然といえるかも。そこを果たしてなでしこジャパンはフル代表なら守りきる力があったかどうか、ってのを考え今回召集されたメンバーの底上げと見極めをやって欲しいもの。菅澤選手とかフル代表入りとかしないかなあ。2点を奪われた山根恵里奈選手にどこかで責任があるかはちょっと不明だけれど、取られないなら取られないに越したことはないからやっぱり責任はあるんだろうなあ。これに負けず次も起用してもらえたら本物。船田麻衣選手が出場するようならそっちが本命。でも案外に山根選手をここから鍛えようとしているのかも。その辺りも含めて残り試合を見ていこう。


【10月9日】 最初はスポーツ新聞お得意の飛ばし記事かとも思ったけれども、中日ドラゴンズの谷繁元信捕手の選手兼務での監督就任話は、落合博満前監督のゼネラルマネジャー就任というさらにでっかい話を載っけて真実味をくっきりとさせては、お膝元というかオーナー企業の中日新聞で堂々と報じられていてどうやら120%決定の様相。最初は落合前監督の復帰でもって再びきっちりを野球を見せてくれるチームが出来上がるんだと想定していたけれど、谷繁捕手の監督兼務で落合采配とはまた違った展開って奴が見えて来るかもしれない。GMとして監督の上にいるからといって、そこで直接の采配を下す越権を行うような人では落合さん、絶対にないのは投手の起用もコーチだった森繁和さんに任せていたことからもよく分かる。GMならGMとしてチーム編成には口を出す、でも采配は現場に任せるという分担をしっかりとしてくれるだろー。

 そうなった時にだったら落合GMの色はどういったところに出るんだろうか。チーム編成とはいってもこれから行うだろうコーチ人事とそれからドラフト会議での新人の採用、さらにはトレードによる補強なんかがGMとしての大きなお仕事。そこでひとまず体制を整えたらあとは現場がどう使いどう動かすか、そしてそこに穴があると分かれば埋めに入るってことになるくらいでシーズン通して何か落合色が濃く出るってことはなさそう。それが見ていてどう感じられるのか、やっぱり落合監督下で怜悧に完璧な采配って奴を観たいって気持ちになるのかどうかはひとまず谷繁新監督の采配ぶりって奴を観てからになるんだろう。そこで自分を出すのか森繁和コーチなり他のコーチの意見を採り入れる落合方式で臨むのか。それが出来る人だからこそ谷繁監督体制のGM就任を決断したのかな。いずれにしても面白そう。落合さん自信のコメントが待ち遠しい。

 なんかとってもやり切れない。過去がどうあれ経緯がどうあれ現時点においてストーカー的な被害を受けていることが確実で、そのことについて警察に相談に行ったその夜に相手に襲われ殺害されてしまったというこの状況の、どこをどう改めればひとつの命が失われずに済んだのか、って考えてしまう。現実は既に命が失われてしまった後で、何を言っても虚しいだけではあるんだけれど、これから同じような事が起こる可能性なんかも想定するなら即日、即座に相手を把握し安全を確保するのが第一で、それが出来ないならばきっちりと警護して目を離さないようにするような段取りが、整えられることが必要になってくるんだろー。そこに恋愛のもつれとかいった要素はいっさい無関係、たとえそれが原因であっても現下において命が危険にさらされていることは間違いないんだから。でもそうはうまく回らないんだよなあ、警察には人がおらずそして尾籠な話題に関心が向かって自業自得といった言葉で我慢を強いられる。そこを突破するために幾人もの命が奪われてはたまらない。だから。動いて欲しい。動きがあって欲しいと切に願う。

 何か夜にかけて週刊誌の編集長が更迭されたって話がニュースで流れてきて、見て帰りがけに地下鉄の中吊りに出ていたあれが原因での更迭なんだろうと理解したけど当該の週刊誌を刊行しているグループではそうした理由をプライバシーに関わることだからと未公表。普段はあれやこれやと理由を聞いたり暴いたりして出そうとしないところには喧嘩腰すら辞さないところが、身内の恥にはだんまり決め込むっていうのは傍目にも美しくはないんだけれど、魚心あれば水心、って意味が違うか、ともあれ隠しても嘘は露見するってことで中吊りでそうした更迭につながる事実を指摘していた週刊誌が、出て読んだらなるほどこれは更迭もやむなし、それどころか処分にあった懲戒解雇だって手ぬるいんじゃないかと思わせるような屑っぷりだった。こりゃあ相手のことも考えるなら大っぴらには言えないよなあ。そこがセクハラの難しいところ。

 転職の採用面接に来た中からめぼしい人を見つけては、採用はしなかったものの契約で雇うといった誘いをかけて支配下に収めてあれやこれやと要求するのは、立場を利用した強要であり脅迫であってもはやセクハラだとかいったレベルすら超えている。それこそ逮捕されたって不思議のない案件。共同通信でも似たようなことがあったけれどそっちでは当該の部長のみならず社長の首だってすっとんだ。それにも比して劣らずむしろ過去に似たようなことが沢山あったと週刊誌に書かれたこの編集長の場合はさらに卑劣で卑怯で卑猥で卑俗。それを許していた体制にもどこか問題があったと言わざるを得ないにも関わらず、プライバシーに関わるという言い抜けでもって隠蔽してしまっては中にも外にも示しがつかないんじゃなかろーか、って言えるほど正義にあふれた業界でもないんだけれど。部下を何人病院送りにしたかを誇り、勲章にするようなゲスが上に蔓延ってより高みに登っていくことすら日常な世界。それを糺さず明らかにしないで他社を誹れないってことも探求が、止まってしまうことにつながっているんだろうなあ。つまらないなあ。

 中に入って落ち葉を踏みしめながら歩けない森なんて森じゃないよなあ、なんて思いながらも大手町のど真ん中にそんな森が出来たのはやっぱり嬉しいOOTEMORI。崖っぽいのも作ってあってそこにも落ち葉が積もっているけどその隙間から春に土筆とか生えてきたりはしないのかな、やっぱり胞子がなければ無理なら夜中に撒いたりしたらやっぱり犯罪になるのかな、キノコとかならでも生えてきそうな感じ、日当たりが完璧って訳ではないし。おんなOOTEMORIの地下にタイ料理のジャスミンタイって店ができたんでのぞいて買って食べたガパオの弁当が意外なおいしさ。近所にもタイ料理のチェーン店はあるんだけれどそこのガパオが屋台の感じを出しているのにタイしてジャスミンタイは鶏肉のそぼろの粒が大きく噛みしめて食べることができる。味もどこかまったり。どちらが上って訳ではないけどこういうのも悪くないなあ。ガパオならネオ屋台村にも1軒あってそこでも暖かくってパクチーが乗ったのを食べられる。いろいろ食べ比べて楽しめそう。いつかイートインにも入ってみたいなジャスミンタイ。

 1回目からずっと見てきた「東京国際アニメフェア」が様変わりするというか、内容も主体もぐるっと変わって「アニメジャパン」とかいうイベントとなってリスタート。東京都のあれやこれやでたもとを分かったパッケージメーカーが立ち上げたアニメコンテンツエキスポが、従来からのアニメフェアに再合流しつつも同じではやっぱり収まらないと考えたのか、それとも経済産業省が別に呼びかけていた日本のコンテンツを世界にアピールする事業に乗るために大同団結を決めたのか、はたまたそうした団結を誘うために経済産業省が事業を策定したのか分からないけれどもともあれ、来年3月にアニメ関係のイベントがひとつにまとまって開催されることだけは決定した。問題はだからトレードショウとして「東京国際アニメフェア」が担っていた機能を「アニメジャパン」が肩代わりできるのか、って辺りで2日間しかない会期でイベントだの展示だの物販をやりながら商談なんて出来るのか、それとも元からそんなにトレードショウとしての意味合いは薄かったのか、そのあたりが問われそう。あと若手にチャンスを与えていたクリエイターズワールドの継続があるかどうかも。いずれにしても混みそうだよなあ。


【10月8日】 遂に来たやっと来たとうとう来たこの時が来た。今敏監督の作品ではたぶん1番好きな「千年女優」がようやくにしてブルーレイディスク化されて来年2月に発売とか。上映の後の2003年に出たDVDの限定ボックスを当然のよーに購入しては部屋の片隅に積み上げていたりするけれど、その他の作品が「PERFECT BLUE」も「東京ゴッドファーザーズ」も「パプリカ」もテレビシリーズの「妄想代理人」までもがブルーレイ化されたのにこの「千年女優」だけはなかなかブルーレイディスクが出なかった。あるいはバンダイビジュアルの景気が悪くて、アップコンバートとかにかけるお金がなくって出せない状況だったとしたら、クラウドファウンディングでも何でもして実現したいとすら考えていた矢先のこの報を、喜んでいるファンもきっと少なくないだろー。

 おまけに単なるアップコンバートとは違って本気で取り組んでいるらしーブルーレイディスク化。映像的にもニュープリントの上にHDリマスターされ音質も向上されているらしいそのクオリティを、本気で楽しむなら何だっけ、パナソニックの特別な技術を再生可能なプレーヤーを買わなくちゃいけなさそうだけれどそれを映し出すモニターがアナログ時代のままなんでそっちも買い換えないとダメっぽい。いずれ部屋が広くなった時に機材は揃えて存分に見よう。もしかしたらこれだけのクオリティを実現するために、ブルーレイディスク化を待っていたのだとしたらそれはバンダイビジュアル、好判断。今まで出ているものもも同じ品質で再度ブルーレイディスク化をして欲しいくらいだけれどそれは無理だろうなあ、やっぱり。

 ふと気がついたらポニーキャニオンからもライトノベルが創刊されるそーで12月3日に一挙6冊、出る中には「世代を超えた愛が少女たちの運命を紡ぎ、人類の進むべき道を切り開く、壮大な近未来ラブストーリー」って煽りが乗ったSFっぽい作品もあれば、「人の頼みを断らない性格のため学院中の人気者、七瀬の意外な秘密とは!? 願いと奇跡が織りなす教導学院異能バトル、開幕!」といった感じに流行を抑えたものもあって読めばそれなりに楽しめそうだけれども問題は、創刊されまくって増えまくっているライトノベルを買うのにもうお小遣いが限界を超えているってところか。ジャンルをほぼほぼ限定してはSFとファンタジーをメインに新人を強化しつつ読んではいてもそれだけでも月に何十冊となってしまう。おまけに新レーベル。いったいどうすりゃ良いの。もしも完璧なライトノベルレビュアーってのが存在するとしたらそれはもう、働かず暇はたっぷりとあってお金も持ってる高等遊民意外にあり得ない。そんなレビュアー、いるのかねえ、いて欲しいけどねえ、でないと中身すら分からずスルーしてしまうから。

 田舎といっても程度に差はあって例えば愛知県だったら豊田市をちょい山の方へと入っていった藤岡町とか小原村は電車で行くにも駅がなくバスはあってもそれほど走っておらず店もなく書店も見えずコンビニもあんまりなさそうな辺りは田舎と言えばいえなくもない。でも車で1時間も走れば名古屋や豊田市には出られて都市の恩恵を受けられる。これが足助になるともうちょっと便利さの度合いが下がってさらに稲武まで入ってそこからさらに山上へと分け入るともう店もなく学校も小さくバスは2時間に1本とかそんなもんになって「のんのんびより」で描かれている雰囲気って奴を存分に味わえる、ような気がするけれど足助も稲武も行ったのはもう20年とか昔だから今はもっと繁栄していてコンビニだってTSUTAYAだってあるかもしれない。ないかもしれない。どうなんだろう。

 でもネットがあるから昔ほど情報に接してないって訳ではなくって言葉だって話題あって街とタイムラグなんかはあんまりなさそう。その意味では「のんのんびより」に描かれた、バスは2時間に1本で歩けば山があり川があり牛が歩いていて呼べば狸が出てくるような田舎でありながらも、喋れば街の子供たちと変わらず普通に日常を満喫していたりするって光景は案外にあったりするのかも。それはもう見ていてのんびりしていてそれでいて充実してそうで、ついつい混じりたくなってしまうけれども子供は子供として勉強と生活に勤しんでいればそれで済む。けど親たちは働いて稼いで食わせなくちゃならないのに、はたして田舎でそうした稼ぎは得られるか、食うためのお金は入ってくるのか、ってあたりで切実な問題があったりするんだろう。

 そういう本当の意味での日常を出さずのんびりまったりの田舎暮らしを見せて憧れさせる「のんのんびより」の狙いやいかに? 田舎への回帰を誘って限界集落の解消を狙おうとする政府の陰謀? 逆に呼び込んだ人の現実を知っての挫折を描いてさらなる限界集落化を招き行政の負担を減らす? 分からないけどでも暮らすに楽しそうな場所であり、人々であることは確かかな。きっとそうした親たちの日常って奴も、これからの展開の中に描かれて来ることになるんだろう。ところで面々が集っていた教室ってあと1人、男子がいたはずなんだけれども画面にちゃんと出てたっけ、見切れ気味に何かいたような気がするんだけれどそれって本当に生徒だったっけ、霊とかそんな類ではなかったっけ、といった辺りにも興味を置いて見ていこう。これはそうか吉田玲子さんのシリーズ構成なんだなあ、直前の「弱虫ペダル」と合わせて吉田玲子アワー。どんな特徴があるかは判然としないけれども派手さより丁寧な心情描写を見せてくれる人って気はしてるんで、その意味ではどちらもしっかりとまとめてくれるだろう。このクール、結構楽しめるかも。

 それが何を意味するのかは分からないけれども凄いものらしいとは分かるヒッグス粒子を発明じゃなく発見でもなく予言とかしたっぽいヒッグスさんって人がノーベル物理学賞を受賞。当然と言われていた割に随分と長くかかったけれどもここへ来て、理論上ではなく実際にヒッグス粒子が発見されたりしていたりしたこも空論ではないって証明になって後押しになったりしたのかな。これで明日からはジューススタンドでミックスジュースがヒッグスジュースって名前になって大売れしたり、抹茶と同じ粒子だからきっと点てればお茶になるって茶道の家元がヒッグスさんの家を訪ねてヒッグス粒子を下さいと言って回って「無理です」と拒絶されて「でも先生」と食い下がる光景が見られるよーになるだろー、ってそれはどこの「野崎まど劇場」だ。あの頃にヒッグス粒子で1本書いてしまうあたりに先見の明ってのがあるのかなあ、野崎さん。一流の証。


【10月7日】 やっぱり倉庫の引っ越し作業を手伝ったことによる筋肉痛は残っているみたいで腕がところどころ痛ければ脚も踏ん張った時に内股あたりの筋肉を使っていたらしくやっぱり痛い。普段あんまりつかっていない筋肉がそれでもこーやって使われるってのは悪い話ではないんで、これからも重たい荷物を持ったり運んだりするよーな作業をしてみるか、ってどこかで引っ越しがスーパーの食品搬入のバイトでもする気なのか。ううんそれくらいやればこの世知辛い世の中に財布も暖かくなるけれど、こんどは体が保たなくなりそうなんで今は遠慮。いずれその時が来れば大学生時代の4年間をディスカウントストアでひたすらに荷物の上げ下ろしをしていた時代を思い起こして手に軍手をはめ重たい段ボールのリレーに勤しむことにしよー。たぶんそう遠くはない日にやって来そう。何のこっちゃ。

 えっと魔王が倒されたんで就職しただっけ、勇者になれなかった俺は就職を決意だったっけ、思い出しても1発では当然書けない「勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。」がいよいよテレビアニメーション化されたんで見たらパンツがいっぱいだった。台の上に乗って仕事をしている少女のが下から見えたりすれば、椅子に座った店長さんがなぜか膝頭をゆるめて脚を開いて見せたりするその奧に見えたりもしてもう目に刺さる刺さるピンク色。そして現れた魔王の娘とやらもやっぱり見せてはくれたんだけれど、そうやって見せられて得る快楽以上の感動が、ストーリーから得られるかどうかっていうと今のところはちょっと保留。

 目標を棚上げされて迷った人間がうだうだしながらも頑張る誰かの姿に引っ張られて自分の頑張っていくストーリーはきっと前向きで楽しいに違いないけれど、そうした日常の上なり奧に世界を揺るがす謎があり、いつかそれに対峙するよーな展開があってこそ先も期待したくなるっていうもの。原作となっている小説も随分と出ているからその辺りについては既に結論も出ているんだろーけれど、なぜか未読で押しているんで気にせずアニメがどう進んでいくかだけに注目していよう。パンツはやっぱり毎週いっぱい見られるのかな。でもって来週からはその続きで「俺の脳内選択肢が、学園ラブコメを全力で邪魔している」の放送が始まるのか。さらに何が何だか分からなくなるなあ。「俺の勇者になれなかった脳内選択肢が学園ラブコメにしぶしぶ就職を全力で邪魔している」ってついつい行ってしまいそうになるなあ。言えるかよ。

 そして見た「ぎんぎつね」ってのも神主の血を引いて神様の使いのぎんぎつねが見える少女がその力を頼まれればへいへいと使って占いなんかをしてあげて、でも相手の勢いに押されて大事なことを伝えきれなかったらそれが原因で怒られてぴいぴいと凹んでそして真っ当に少女を諭そうとしたぎんぎつねに文句を言って飛び出してしまう展開に何てガキっぽいんだと辟易としたけど、そこはやっぱりガキなんだから仕方がないっていうか、そうやっていろいろと経験しながら成長していく姿を描いていってくれるんだと信じたい。でないと毎週少女の未熟っぷりを見せられぎんぎつね以上にやれやれって思いそうになるから。

 何回も見ているっぽい佐倉にあるDIC川村記念美術館にあったバーネット・ニューマンの「アンナの光」って巨大で真っ赤な絵画が、100億円ちょいってとてつもない値段でどこかの誰かに売却されていたみたいで、その値段に驚くとともにニューマン部屋まで作ってそこのメーンに末で大々的に公開していた作品を、どーして手放したりするんだろーかってな疑問も浮かんで首をひねる。だって川村記念美術館にはほかにもシャガールとかピカソとかって有名そうな作品があって、売れば結構な値段になるじゃん。お金に困っているならそーゆー他のどこにでもありそーな絵を売る一方で、ここに行かなければ見られないってことからみんなそこに行こうって気にさせる作品を、売ってしまって果たして良いのか。良くないよなあ、絶対に。

 マーク・ロスコとかフランク・ステラとかも含めて現代美術の新しいコレクションを持った美術館として、21世紀を通して屹立して行けたのに勿体ない話。でも今この瞬間だとピカソだモネだシャガールだってところに人は目を引かれてしまう。だから残して他を売る。そうして日本は成金の応接室と成り下がって未来の可能性を失うのだった。そこんところは未来の読者に繋がり未来のクリエイティブにもつながるポップカルチャーに権威を認めず、紙面い一切載せようとしないまま衰退の一途を辿っているどこかの新聞とかと何か似ている。もっとも美術館には成金趣味であってもちゃんとした作品はあってその価値は下がるどころか上がるだろう一方。対して新聞は未来を拓かなければ時代遅れになっていくだけ。だからこそ今をどうにかしなきゃいけないのに。でもしない。ピカソだシャガールだと持てはやしてそして置いて行かれるんだ、時代に、人に。参ったなあ。

 ヘイトスピーチはヘイトスピーチ以外の何物でもなくってそれは罵倒であり侮蔑であり差別であり言葉による暴力であって受ければ誰だって傷つき痛み畏れ戦く。そうした言動をだから言論と言い募って自由だからと言うのなら、裸で街を歩くのだって表現だから自由なんだと言うに等しいけれどそうした行為は周囲に忌避感やら嫌悪感を与えひるませては、ままならない事態だと指摘され取り締まられて罰せられる。だからヘイトスピーチも当然のように取り締まられるべきだったのに、そうでなかったから誰もが切歯扼腕していた。ここに来てようやくひとつの結論が出たけれども、それは一方で何かを非難する言動に一定の基準があるんだと示されたことでもあってカウンターと称して相手がやるならこちらだってとやり返すことも、同様に言葉の暴力として取り締まられる。だからこそ考えていく必要がある。何が適切で適法で、何より大勢に支持される言動なのかを。そうした思索の積み重ねだけが世の中から貧しい言葉を無くして富んだ言説の空間を生み出すのだか。などと。


【10月6日】 「不愉快です」って決めぜりふが少なかった栗山未来ちゃんにちょっと落胆したけ鳥居なごむさんの「境界の彼方3」だったけれどもまあ、眼鏡をかけたりかけたりかけたりしてくれたんでそれはそれで神原秋人的には良かったんじゃなかろーか。基本的には秋人と未来ちゃんとそして名瀬美月って美少女だけれどツンが激しい同級生やそんな美月をこよなく愛し過ぎる兄の博臣、そして新しくメンバーに加わった凄腕ガンマンでスナイパーの峰岸舞耶が部室とか旅行先とかで駄弁を繰り広げている展開だけれどその合間に美月が張り切って妖夢を倒そうとしてシスコンな割に仕事には厳しい兄がたしなめようとしたりするシーンが挟まって、決して異界士が優しい仕事でも正義の味方でもないってことを確認させる。

 相手が凶暴ならそれを確実に仕留めることを異界士としては尊ばなくてはならず、そのために少しの被害が周囲に出ることを是認できるかどうか、って判断も迫られたりして博臣なんかは割と着実にこなしそうだけれど、美月は血気にはやっているのかそれとも別に理由があるのかなかなか割り切った行動がとれずにいるし、未来も危機にある子供を助けて逃げていく妖夢を追えなかったりする。そうした行動の根っこにあるいは半妖夢の秋人って存在がいたりするのかどうなのか、ってあたりで今は仲良くやっているように見える関係に、いつか亀裂が入るかもしれない可能性が仄めかされる。そんな果てに来る第4巻では逃亡している秋人の巨乳の母親が姿を見せて何かしでかしたりするんだろうか。期待したいしこの巻では飲んだくれているニノさんの復活も見てみたい。大きく展開しそうな次巻を待ちたいけれど、ちゃんと出るのかな?

   真っ先に思ったのはスケバンみたいなセーラー服は着ていたんだろうか、ってことで、それだけテレビなんかで見せていたスケバン服で竹刀を持って喋るあのビジュアルが、強く印象として植え付けられていたんだろう桜塚やっくんが、熊本へと向かう途中の自動車道で事故に遭い車外に出たところを跳ねられて死亡。いっしょに乗っていたマネジャーの砂守孝多郎さんって方も亡くなったそうで、どんな方かと名前で調べたらサンアールって会社でハリウッドなんかの映画会社が持ってる版権を取り扱う仕事をずっとしていた方らしい。

 その縁もあってかスタートレックファンクラブの主催もしていたみたいだけれどもハリウッド映画の沈滞もあってか何か理由があってか会社は締めていた様子。そしてライセンス関係のプロフェッショナルとして仕事を続けてながら、桜塚やっくんが率いる形になってた「美女♂menZ」の海外展開を見ることになったらしいって、フェイスブックのページに書いてあった。そういう経歴から推察するなら多分ご本人で、長いライセンス事業経験が生かされて9月にフランスで行われたライブも大好評みたいだったけれどもそんな矢先でのこの事故は、当人にとっても周辺で動いていた関係者にとっても無念極まりないといったところだろう。桜塚やっくんにとってもテレビでのああいったマスイメージがようやく抜けかけたところで、新たに始めた活動がだんだんと軌道に乗り始めて手応えも感じていたところだったと想像できるだけに、その無念さは想像するに余りある。

 日本ではとかくイロモノめいて見られがちだろうけれど、世界では逆に特徴となって受け入れられるってのは今回の事故が、すばやく海外でも話題になっていたことが証明している。先入観なく見て楽しいと思えば盛り上がれる海外での成功が、見えていただけに勿体ないというか、残念というか。とはいえ不幸中の幸いとでも言うべきか、他のメンバーは無事だそうでメインボーカルでありリーダーでありトップバリューを持った人を欠いてまで、続けてくれるかは定かではないけれども可能ならばその雄飛を、見せてもらえれば無念も少しは晴れるかもしれない。今は瞑目しつつ、可能性を模索しよう。

 西船橋から徒歩で10分くらいの所に借りている倉庫が何か閉鎖だそーで移転先を紹介してくれたんでそこへの引っ越しが急に決まってトラックが来るまでちょい時間があったんで、秋葉原に出てONE UPってショップがクリエーターを集めて月例開催している「パンデモニウム」ってののテーマ「ゴースト2」に、くずしまきんさんが「憑きいちご」ってのを出していてそれの売れ行きなんかを見ようとしたら電話がかかって来て予定より随分と早く引っ越しが出来そうだってんで西船橋へととって返す。「憑きいちご」は土曜日に5個出したら4個まで売れてしまったそーでいつもんだったら僕とあとひとり、常連さんが買って残り3つが通販に出ていた感じだからすごい出世ぶり。そのうち当日に並ばないと買えなくなったりするのかな、そうなってくれば応援している身としては本意だけれど一方で手に入りづらくなるという悩み。その時はその時、次を担う人を探してマークしていくだけさ、ってことで。

 そして西船橋で引っ越しの手伝い。別に荷主が作業員の真似をする必要なんてないんだろうけれども中身がギッシリの本で1箱が凄い重たい上に遠目で見ているってことが出来ない性分でもあったんで、近所のコンビニでいぼ付きの軍手を買ってはめて箱を手渡し積み上げそして、引っ越し先では下ろされたものを受け取り積み上げ作業は予定開始だった時刻より随分と早く完了した。これで一段落。問題は次にその倉庫へと持っていく時にどういうルートを使えば重たい荷物でも運べるか、ってことだけれど移動の時にトラックには多分道路運送車両法か何かの関係で同乗させてもらえなかったんで、電車とバスを乗り継いで現地へと向かうシミュレーションをしたらすぐ裏手あたりまでバスで行けることが判明したんで次はそれを使って運んでみよう。ってか早急にどうにかしないと玄関がもう本でいっぱいで、座るところすらなくなりかけているんで、急ぎ準備をしなくっちゃ。せめて年末までにはガスレンジが使えるくらいに空けたいなあ。そんな状態なのか。

 倉庫では随分と前に新宿眼科ギャラリーで開かれた今敏さんの展覧会「千年の土産」でもらった「PERFECT BLUE」のセル画がカット袋に入って置いてあったんで折角だからを引き上げてきた。立ててあったんで下が丸まってしまってちょっと勿体ないけど持ち帰って寝押ししたら治るかな、治らないかな。当時は本当に在庫処分って感じで展覧会に来た人で一定額以上を買った人に箱の中から1袋、持っていってって状況でそれならと連日通いつつ、一定額を超えるあたりまでDVDとかブルーレイディスクとかを買っては1袋づつ、貰って帰っていったっけ。その結果が4袋。いわゆるスーパーアニメーターって言われる人がそこに混じっているかも気にせずに、もらえた順番でもらっていたんで今敏監督が苦笑いしつつマッドハウスにまだあるよ、取りに来るとか言ってくれたけれどもそれは流石に遠慮したのが今となっては残念。でも一期一会の中で触れた物だけに、誰が手がけたどんな場面かってのは気にせずずっと持っていたい。だったら曲げるなって? ごもっとも。もうちょっと良い部屋に暮らしてお宝を鎮座させておける場所を作りたいなあ。そのためには稼がないんと。でも今は稼げないし。どうしてか? そいういう場所だけに。困ったなあ。

 なんというか間合いが足りてないというか、とある新聞の1面コラムがロシアのプーチン大統領にノーベル平和賞が贈られるかもしれない、あるいはプーチン大統領がノーベル平和賞を取りにかかっているらしいといった話を振りつつ、けれどもプーチン大統領はシリアへのアメリカの空爆なんかを阻止して平和を装ったように見せて、その実内戦でシリアに流れる血は止まってないじゃないかと非難してやぱり平和賞は相応しくないんじゃないかと指摘している。それはそれとして真っ当なんだけれども、それに付け足す文言が何か妙。だって北方領土を返してくれたら平和賞はバッチリだって言うんだもん。でもねえ、今北方領土が返ってきたところでシリアで内戦が止まるわけではなく血は流れ続けている。そういう事態を作った人間が日本に得することをしたら平和賞に値するだなんてロジック、シリアの人でなくても日本人でもどこか間合いが足りてないって思うんじゃなかろーか。言いたいことのためにロジックを歪め段取りを無視する癖がここでも。書いている方はバッチリ決まったと思って鉛筆舐め舐めしているんだろーけど、世間はちゃんと分かっているから。とはいえ分かってないのもいるんだよなあ。主に周辺に。参ったなあ。


【10月5日】 熱いなあ。でもってスピーディ。そしてハイテンション。冒頭から終わりまでユルむところなく突っ走っては、番長ならぬ女生徒会長を相手に挑む少女の戦いと挫折、そして再起から反撃といった展開が、30分弱という短い時間の中にギュッと濃縮されて詰め込まれていて、見ているだけで手に汗握り目にすら汗が浮かぶような気持ちにさせられた。朝に録画を見てこれなんだから夜に呆然とした頭で見たら、きっと1日の疲れで膨らみかけた脳味噌が吹っ飛ぶんじゃないかと思ったほど。それを第1話でやってしまって一体、これからどういう日常を展開させていくんだろうかと余計な心配すら浮かんでしまう、今石洋之監督による新作テレビアニメーション「キルラキル」。こいつは本当に楽しみだ。

 仕草なんかに割と近めの既視感があったのは、同じトリガーってアニメーションスタジオが今年のアニメミライ2013のために作った「リトルウィッチアカデミア」があったからで、そこで繰り広げられていた飛んだり跳ねたりする少女たちの姿態とか、変化の激しい表情なんかが「キルラキル」の映像に重なって見えた。でもって魔法少女物というフォーマットをしっかりと抑えていた「リトルウィッチアカデミア」とは違って、こちらは学園バトル物で熱血番長物っぽさすら漂う「キルラキル」は、今石監督の出世作ともなった「天元突破グレンラガン」にあった暑苦しさが、より濃くより激しく出ていた感じ。最近まで再放送されていた中でちょろっと見たあの熱血を、思い出してしまった人も少ない苦ないんじゃんかあろーか。あれも毎週のように熱血が繰り出されていたものなあ。

 ただ、2クールの中で「グレンラガン」の場合は時にひやっとさせるようなシリアスがあって、そして壮大無比なSF的設定もあってキャラクターたちの心情を探り、設定の裏を探りスケールアップしてく展開を喜ぶことが出来たけれどもこっちはいったい何クールになるんだろう「キルラキル」は、短い中にバトルを詰め込み倒しながらラスボスへと進んでいくという段取りを繰り返していかなくては成らなさそう。ひたすらに突っ走っていく上に、そこにスケールアップが入って毎週毎週驚かされそうだけれど、それも度を過ぎれば醒めてしまうもの。そこに設定上の意外性と、そしてキャラクターが持つ心情なんかを見せて興味をひたすらなあスケールアップからそらし、考える間ってのを与えてくれたら良いんだけれど、果たしてどーなるものか。なるたけリアルタイムで見ていこう。

 そんな直後に放送された「ANGEL Beats!」の特別編とやらが、「キルラキル」に負けずハイテンションぶりで絵柄の最初っから燃えさせることが狙いな「キルラキル」とは違った、どちらかと言えば萌えに寄せていたものが、ひたすらに暴れまくり突っ走りまくる展開がむしろ意外性を醸し出していて面白かった。元よりそーした暴れっぷりも含んではいたアニメだけれど、設定が設定だけにシリアスな部分も多分にあって死の畏れから離別の哀しみなんてのも含んでいた作品だけあって、そことの落差というか差異から浮かび上がる、仮初めであっても生を存分に謳歌する有り難みって奴を感じることが出来た気がする。まあこれも終わっている作品だから言えること。1話1話を作りながらバランスもとりながらどこまで行けるかを試している最中の「キルラキル」にはだから、熱血最高という声にばかり押されないで出し入れを考え抑揚を付けて、よりいっそうの感動って奴を観ている人から引きずり出して欲しいなあ。中島かずきさんだから大丈夫とは思うけど。

 いやあ面白い。とってもとっても面白くって、読み始めたら最後まで一気に読んでしまった丈武琉さんって人の「セオイ」(ハヤカワ文庫JA)。アガサ・クリスティー賞の最終候補に残っていた作品らしくて、受賞はしなかったそーゆー作品を拾い上げて刊行へと至らせるったってのがハヤカワとしてはちょっと珍しいかなどうなのかな。電撃小説大賞あたりだと最終選考にすら残らなくても3次あたりで気になった作品を広い上げ、書き直させて刊行へと至らせるケースが多々あったりするし、「このミステリがすごい!大賞」なんかからも「タレーランの珈琲店」ってヒット作が生まれてきていたりする。マス媒体では情報の取捨選択が限られる関係もあって、受賞作こそがが至上って雰囲気がどうしてもあったし、そこで紹介されることでセールスも稼いでいたけれど、マス媒体の影響力も落ちている中で、今は口コミでの評判が物を言う状況になっている。フックがあって面白さがあれば、口コミに載って広がる可能性が出ているからこそ、こうして前だったら出ていなかった作品に、触れられるようになったのかもしれない。

 じゃあいったい「セオイ」はどこまで広がる可能性があるかっていうと、まず読んでいてとっても読みやすい。すいすいっと入ってきては不思議な世界へと連れて行かれる感じがする。そもそも「セオイ」とは他人の人生を“背負って”あげて間違いを軌道修正させるような能力を持った人であり、その行為を指す言葉。鏡山零二もそんな「セオイ」を生業にしている1人で、例えばカーナビのソフトを開発して一時は大きく業績を伸ばしながらも、ネットで情報がとれるような時代になってカーナビソフトが売れなくなって業績が傾いた会社の社長が、家庭を顧みず友人を裏切って歩んできた人生を“背負って”あげては、彼が現在を自省し過去を悔い改めてやり直す道を選べるようにしてあげる。

 彼が助手のように使っている美優という女性も「セオイ」の力を持っていて、結婚に何度も失敗して来た女性経営者が過去に経験した辛いこと、その反動で母親を恨んでいたこと、それが自分の人生に少なからず影を落としていたことを聞いて“背負って”あげて、彼女の心に積もった澱をはらい縛っていた鎖を断ち切って、新しい方向へと導いてあげようとする。面白いのは決して過去へと戻って選択肢を踏み間違えないようにして、快適な人生を選ばせるようにするってことではない部分。会社が傾いたり母親との確執が最後まで続いていたりした経験そのものは残しながらもそこから自暴自棄とかへと至らせず、自死とかへも向かわせないで最善へと向かわせよーとする。そこが読んでいて嬉しかったんだけれどなかなかどーして、小説としての「セオイ」には全体を覆うよーな大仕掛けがあって、より悲惨な結末を迎えた過去そのものに干渉するよーな展開があって、ラストに嬉しさ半分、寂しさ半分の余韻を抱かせる。

 それがどーゆー意味かは読んでみれば分かるかな、なるほど過去に1人の青年に疑いの眼差しを向け、その母親を落胆からの自殺へと至らせた刑事の後悔、娘を殺人鬼によって殺されてしまった男の哀しみ、自分が撮った写真が父親の暴力から逃げていた母親と少年の所在を知らせる結果となって、そして少年の殺害を招いた写真家の絶望、元彼だった男がストーカー行為の挙げ句に自分の親族を殺害して自殺した女性の疑問、交通事故で妻子を亡くした男の慟哭といった、人の死が関わるシリアスな問題をこそなかったことにできれば気持ち的にはホッとするかもしれない。けれどもその結果、失われてしまった幸せがあるかもしれないと考えると、どっちを選べば良かったのか、どっちも選べなかったのかといろいろ考えてみたくなる。それともやっぱり自分でやってしまったことは自分で受け止めるしかないのかなあ、社長も女経営者も。

 ともあれ「セオイ」という仕事があって、それが成す人間のあり得たかもしれない人生をあり得たものにすることの価値を感じさせ、翻って自分の人生を選び間違えていないかを考えさせる設定は面白く、そんな「セオイ」に対抗するかのよーに悪意を持って人の人生に干渉する存在があって、真っ向から対決するという展開と、そこから浮かぶ誰のどの人生が本物でどれが偽物なのかが分からなくなって迷い、惑わされるシチュエーションがなかなかに特異。本当の人生とバイパスの人生がSFで言うところの多元世界的なものなのか、別の心理的な物なのか、考え出すといろいろと設定についても探求できそう。1人1人の人生について背負い背負われる連作短編としても成立し得ただけに、1巻で完結させてしまうのは勿体ない気もしないでもないんで、ここは設定を残しつつ別口でシリーズ化、なんてことも考えてみては、いかが。


【10月4日】 いやあ、まあ何というか女の子5人とのいちゃいちゃが全体のだいたい9割を締めていて、それを5人に5等分して描いてみせてはそれぞれの思いを示し、けれども応えない唐変木っぷりを見せてすれ違いを演じさせ、そして残りの1割を激しい戦闘にあてて5人プラス1人の活躍を描こうとしたものの、そこに謎を振って次へと繋げならいったん引いてみせてそしてまた、5人とのいちゃいちゃを9割で戦闘が1割という展開を繰り返すよーになったらしい原作の法則を、ほぼ完璧に採用し再現してたいという意味でこのアニメーションの第2期はひとつの原作付きアニメの究極であると言えるかもしれないなあ。ファンはきっと嬉しいだろうなあ。とりあえずラウラ可愛いよラウラ。執事姿のシャルも格好良かったよ。

 地本草子さんの「黒猫の水曜日」をやっとこさ4巻まで読んだら終わってた。えーっ! だってそれだとタイトルになってる十河正臣こと黒猫って少年の過去も現在も未来もあんまりよく分からないじゃん、何かいろいろあって生み出されたらしー存在で、似たよーな立場で生み出された少女が関与する軍事産業会社を相手に戦いを挑み、それなりに追いつめていたりする黒猫がいったいどうやってその地を得て財産を築き、今を守ってそして将来どこまで攻めていくのかがないと、やっぱり気分として完結したって感慨を味わえない。でも作者的にはこれは篠原禊っていう正臣に負けず数奇な出生の秘密を持った少女が自分の過去を知り、今を得て未来の場所を掴み話だからまとまったってことらしー。本当にそうなの? それで良いの? ちょっと聞いてみたくなる。

 だってそれほどまでに黒猫こと十河正臣って少年が、少年の割に超然として泰然として悠然とし過ぎている。心情にとてつもない炎を燃やしながらも表に出さず着実に敵を追いつめていくその凄み、そして周囲に集う彼を支える凄腕の者たちのそれぞれにドラマもあってそうした集合体が禊っていう新たな存在を迎えたことによって、終幕へ向かい走り出して大きく爆発しそうな可能性を存分に店ながら、クライマックスへと至る途中で一段落がついてしまって、黒猫の凄みがよく伝わらないままになってしまった。ライバルとも言える少女の凄みも。まあそれを突き詰めていくと第三次世界大戦すら起こりかねないんで決着を付け対峙を維持させるような方向に流れざるを得ないもの仕方がないのか。いやでもなあ。戦闘シーンの迫力とそしてやるときはやる残酷さはピカイチ。なんでそうした腕前をもっと存分に活かせる作品を次には描いて欲しいもの。待ってます。期待して。

   参ったなあ、児童虐待を告発したい気持ちは分かるけれどもそれが法律で論議されている「児童ポルノ」かというと曖昧なところでその曖昧さを厳密にして実被害があるものは取り締まり、そうでない絵とかについては除外するような理解をちゃんと毎回つめていかないと、そういうものはすべてまとめて所持禁止という流れになってそしていずれ表現を規制する方向へと流れてしまう。なのに表現している側の人間が曖昧さを許容している状況がまず納得しづらい上に、そうやって児童虐待を告発する材料としてメインに持ってきたものの信憑性に疑義が挟み込まれているという部分が、なおのこと媒体としての健全さを揺るがしかねない事態となっている。

 つまりは本当にそうした虐待があったかどうなのか、って部分ですでにネットでは過去から検証なんかも行われていて、相当に面倒くさい背景がありそうってことになっているけどそこはそれ、情動に働きかけるタブロイド夕刊紙という場ならまだ、人間の情欲を誘うような下卑た言葉のために背景を多少歪ませることも、あって良いとは言わないまでもあり得ることではある。けれども一般紙という土俵でそれが果たして真っ当か、ってことはやっぱり議論の対象で、とりわけ日頃から海外における慰安婦の問題で本当にそうした経験をしているのか、年齢が合わないじゃないかといった主張をぶつけて信憑性を揺るがせ、ひいては主題そのものを否定しようと動いている媒体なだけに自前の告発の主材料の信憑性には徹底的にこだわって欲しかったし、今だって即座に厳密な調査を求めたくなる。

 それが大丈夫だったとしても今度は主材料が別口ですでに現場から離れ一線は退いている旨、主張していながらも実際はそうした主張が紙面を飾ったまさにその瞬間に、最新のとてつもなく18歳未満は見ては行けないカテゴリーの映像作品を世に送り出していたりするという、これは紛れもない事実に対していったいどういう説明ができるのか。職業に貴賤はない。ごもっとも。そして過去に虐待されていたことと今、快楽に奉仕していることとは別である。なるほど確かに。でもやっぱりそこは一般紙という天下国家を論じる土俵、社会の木鐸を自称し世に不可欠なものだからと軽減是立を求めているような媒体が、取り上げて果たして良いかどうかというとそこには迷いが招じざるを得ない。だからこそ厳密にして迅速な釈明が求められているんだろうけれども、どこ吹く風といったところ、あるいは気づいてすらいないかもしれない状況は、やっぱりどうにも悩ましい。どうするんだろうなあ。どうもしないんだろうなあ。そして多くの物が失われ、未来を狭めてしまう繰り返し。どうしたものかなあ。知ったことではないけれど。

 おおこれは面白い。夜の歌謡番組で様々な時代の1位の楽曲を歌って貰う企画の中でアルバムが週間で1位になったきゃりーぱみゅぱみゅが登場してまず「ファッションモンスター」を歌った後に新曲となる「もったいないとらんど」を歌ったんだけれどこれがまた冒頭か心に残る歌詞とメロディーが繰り出され、そしてちょっぴり難しい感じの旋律を刻んで歌いたいなあと思っている人を振り落とす。そんなどこかディストーション入ったような旋律が2番あたりに入るとまとまり揃って耳障りの良い曲になってそして気持ちを高揚へと導くあたりに作っただろう中田ヤスタカさんの冴えを感じ、物にしてしっかりと歌ってみせるきゃりーぱみゅぱみゅの鋭さを感じた夜。随分と涼しくなったなあ。あと久々に浜田麻里さんを見たけれども声が出る出るとても出る。ポップなチューンなのにメタルのよーな高音でシャウトをかますあたりに未だ現役のロックシンガーだって矜持が見て取れた。ライブ行きたいなあ、売り切れらしいけど追加とか年明けとか入らないかなあ。

 嫌いな政党から出た嫌いな元総理のやることなすことすべて嫌い、っていうスタンスは人間らしさが炸裂していてそれをつきつめればひとつの芸にはなるけれど、少なくとも公共の一翼を担っている社会の木鐸とやらを看板に背負ってあからさまに特定勢力ばかりを何年も執拗に罵倒し続けるのってどこかスピリチュアルな部分に見ていてグロテスクなものを感じざるを得ないんだけれどそれを当人が気づいているかどうか、ってところとそれ以上に周囲が認識しているか、ってあたりが現状のそうした界隈に対する世間のどこか半目がちな反応につながっていたりするんだろう。これ以上やり素切れは瞠目が反目となって瞑目へと繋がりかねないんだけど、でもやっちゃいそう。大好きな政党から出ていた大好きだったはずの元総理が嫌いな方と変わらない大嫌いな内容の主張なんかをしているのに、それをぶっ叩くふりを見せないところも半目から瞑目への進化を後押ししていそう。さてもどうなることやら。どうにもならないか。


【10月3日】 そうかピクシー退団か。監督としてえっと6年くらいやってたんだっけ、その間に天皇杯で準優勝してそしてリーグを初制覇もしたってことは名古屋グランパスエイトにとって決して小さくない勲章な訳だけれども、それくらいしか実績がないってのはやっぱり名前とおそらくはそれなりな年俸の割に物足りないといったところ。何よりトヨタ自動車ってバックを誇り名古屋という大都市圏を持ちながらも優勝争いに常時名前を連ねられないってのはやっぱり問題。ビッグクラブが日本にはまだないとはいっても浦和レッドダイヤモンズだって鹿島アントラーズだってそれなりにカップ戦リーグ戦を含めて上位に名前を連ねてくる。それと比べるといかにも貧弱な成績。これまでに解任されたって文句はいえなかったかもしれない。

 それでもやっぱり居続けられたのは名前が醸し出す雰囲気ってのに誘われ通うファンも少なからずいたってことなんだろうなあ、ピクシーなら何かやってくれるかもしれないという幻想、それは決してけり出されたボールをベンチからダイレクトで相手ゴールに叩き込むなんてことではなく、ピクシーならではの采配なり起用なりってのを見せてチームを常勝へと導いてくれるとゆー期待ってことになる。けどダメだった。やっぱり中位力は中位力、ニッポンどまん中祭を開催する地域に相応しくリーグの中段に沈みつつ下位には落ちない浮力でもってふわふわと漂ってきた。それも終わる。西野朗監督といわれる次期監督はそんなふわふわを決して許してくれないだろー。

 使えなければ干す。使えても言うことを聞かなければ干す。そしてチームを固め持ち上げていくその手腕は確かだけれど楽しいチームになるのかどうか。そこはだから成績との見合いってことになるのかな。あと次期監督に期待したいのは若手の抜擢と育成か。見ていてどうもピクシーのチームって前と変わらない面々がずっといるよーな。ゴールキーパーの楢崎選手は仕方がないとしても、小川佳純選手とか中村直志選手とか玉田圭司選手とか田中マルクス闘莉王選手とか何かずっといるものなあ、主力として。そりゃあ吉田麻也選手が外に出たり本田圭祐選手が外に出たりと大変だったことは分かるけれど、それでもセレッソ大阪なんかは次から次へと若手が出てきて埋めている。名古屋は……代表に潜り込む選手すらいない。それではやっぱりこれからが大変かも、って思いが監督交代を急がせたかも。いずれにしてもピクシーにはお疲れさま。本気で監督業を勉強できる場所で鍛え直してもう1度、やって来てくれると嬉しいかなあ。それはジェフユナイテッド市原・千葉でも構わないんだけれど。無理かなあ。

 騙された。それも嬉しい方向に騙された。岡仁志太郎さんって人の「ヒガンバナの女王」(小学館)って漫画が店頭に並んでいて煽りに“犯され屋”なんて文字が見えて何だろうこれは昔あった漫画の「レイプマン」の逆を行く話かなあそれとも援光系のドロドロとしてヌトヌトとした話なのかなあ、なんて下卑た期待なんかも抱きつつ買って読んだらこれがどうして。なるほど10万円で10分間、自分を自由にして良いよという少女をメインにそんな彼女を見つめる少年を描いたストーリーなんだけれども少女がラブホテルへとお客を連れ込んで申し出るのはその間、自分はどれだけだって抵抗しますよという話。

 でも見た目細そうなのっぽの少女に抵抗する余地なんてと誰もが思ったらこれがこれが。あとは読んでのお楽しみってことだけれどもそういう展開から少女に憐れみ見下すような視線を向けて自分の小ささを誤魔化していた少年が、奮いたつという話へと向かって面白いフィナーレを迎える。ぶっちゃけるならこれは「バキ」あたりと並び比べ読まれる漫画。繰り広げられる描写の数々からはスリリングでエキサイティングな体と体のぶつかり合う様って奴を堪能できる。極めた者だけがたどり着ける境地とか、感じられるかもしれないけれどもそこまで至った経緯、そして動機ってものがまるまる抜けているのはちょっと残念。

 あるいはこれが人気となって続編を書いてもいいよって話になれば、改めて前日話みたなものが描かれたりするんだろうか。ちょっと期待してみたくなる。そうしたテクニカルな部分への興味とは別に、自分に自身がなかなかもてず前向きになれず勇気も出せない少年ってのが、そんな自分の気持ちのはけ口としてクラスメートでもどこか鈍くさいと思われている少女に対して、可愛そうという気持ちを抱きつつその実自分なら手の届くところにいるんじゃないか、なんて優越感やら下心やらを抱いている様が暴かれあからさまにされて、弱い方ばかり下ばかり向いている身を鋭く刺す。起きろ、前を向け。上を見ろ。戦え。貫け、突き抜けろ。それでこそ得られる場所がある。得られる人がいるんだと知る漫画、ってことなのかも。読んでいろいろ感じよう。自分だったら10分間をどう挑むかとかも。せめて三角締めで落ちたいなあ。

 なんだしまった「王立宇宙軍 オネアミスの翼」のドリパス上映会があったのかと後になって思い出しながらも、人数が少ないという評判を漏れ伝え聞いてそれならのぞいてみないとと思いうかがった「ゲンロンカフェ」での八谷和彦さんと猪谷千香さんによる「ナウシカの飛行具、作ってみました」刊行記念トークイベント。ゲンロン友の会に入りながらもずっと寄りつかなかっただけにいったい、どんな場所かとのぞいたらこれがオシャレというか高級すぎるというかフロアのチェアはイームズのオープンシェルだし檀上のゲスト用チェアはやっぱりイームズのチェア。それが本物かどうかってのは分からないまでもレプリカだとしてもそんじょそこらの椅子とは違った座り心地を保証してくれるそれらを、硬いとかオシャレ過ぎるとかいう人がいるらしいと東浩紀さんに聞いて人ってやっぱり色々だなあと感じたり。あれはだから良いものなんだって。ロフトプラスワンのスツールとは違うんだって。

 まあそれは人それぞれなんで良いとして、始まったトークイベントは津田大介さんを司会に八谷さんがどんな感じにメーヴェを空に飛ばすかってことを振り返り語りつつ、途中でロケットに関する話なんかもまじえた2時間ちょっと。おおよその流れをほぼリアルタイムで遠目ながらも観察し、本も読んでいる身にはだいたい見知っていたことではあったけれども、プロジェクトの当人から語られるお金集めの大変さであり、それを乗り越えてでもやりたいという気持ちがあることであり、そして実際に空を飛んだ時の感触でありといったものはやっぱり心に響く、胸の届く、そして応援したくなる。

 自分だって頑張ればそりゃあやれないことはない、だって飛行機に素人だった八谷さんが思いだけでここまでやったんだから、でもそうした思いを形にしようと動きリスクも背負うってことはやっぱり普通の大勢の人には難しい。だから期待したくなる。迷惑かもしれないけれどでも、やっぱり声をかけたくなる。そうした思いを引きだし形にしていくモチベーターでありアジテーターであり何よりクリエーターの存在ってものが、今の時代にはやっぱり必要だなあと思った夜だった。イベントに顔を出していた主宰の東浩紀さんだって司会をやってた津田大介さんだって、その意味では会社を作り大勢を動かしながらフクシマ観光地計画っていう理解されづらく実現しづらいプロジェクトに真剣に取り組んでいる。そのモチベーション、そのアジテーション、そのクリエーションをだからやっぱり応援したい。何か11月半ばに本も出るみたいなんで買おう、そして考えよう、未来を、そのために僕たちが出来ることを。


【10月2日】 スズキが「ジェンマ」ってスクーターを出した当時はもう、マカロニウェスタンなんてとりたてて全盛ではなかったし、そういうのに親しんでいた世代でもなかったんで、どこかのスターらしい人が珍しく日本のスクーターのCMに出るんだなあ、なんてことを思いつつそこからジュリアーノ・ジェンマという人を知り、マカロニウェスタンというカテゴリーを知りジョン・ウェインが活躍していた西部劇とは違う存在があったことを知ってそして、クリント・イーストウッドというスターが生まれ「ダーティーハリー」に出てその人気がよく読んでいた「ドーベルマン刑事」みたいな漫画に現れていっただなあ、なんてことを振り返ったかどうだったか。

 そんなイタリア人俳優のジュリアーノ・ジェンマが死去。最後は事故死だったというからまだまだ老いてはいなかったということで、世が世なら能年令奈さんと共演して「じぇじぇじぇジェンマ!」とかいうCMに出ていたかもしれないなあ、なんてことも思ったり。いや流石ににそれは。ただジュリアーノ・ジェンマに限っていえば比較的、外国人への憧れを滲ませた起用だった覚えがあって今のジャン・レノをドラえもんにしたり、トミー・リー・ジョーンズを宇宙人ジョーンズとしてSMAPよろしく踊らせてみたりといったCMとはちょっと違ってた。この2つもまだ盟友の意外性を見せるって部分があっただけマシで、ディカプリオを刑事プリオにしたりとかマイケル・J・フォックスに「カッコインテグラ!」と言わせるようCMになると見ていて誇らしさの前に申し訳なさが出てしまったなあ。だから今あんまりやらないのか、やっても昔ほど有り難みもないのか。シュワちゃんがヤカンを振りまわしていた時代が懐かしい。あれはあれでパワフルでコミカルでシュワちゃんにとっても日本でのイメージを大きく好転させるきっかけになったとは思うけど。

 克美しげるさんが亡くなったそうで、たぶん物心ついた頃に放送されていた「エイトマン」の主題歌は克美さんの声のものを聞いていたんだと思うけれど、その後にテレビ番組の懐かしのあの歌とかで放送されていたのは違う別の誰かのを、もしかしたら聞いていたのかもしれない。たいらいさおさんのかな。いろいろあって復活してまたいろいろあってそれでも持ち直した当人にとって果たして「エイトマン」の主題歌の人と言われ続けることにどれだけ忸怩たる思いがあったのか、想像するしかないけれども最後の方では割に受け入れていた様子でもあるし、何より時代を越えてその人と密接に結び付いて歌があり、その歌が同時に時代そのものをも現すなんてことは今どきなかなかない。そんな1曲として確実に数え上げられる歌を、持っていたってことは傍目にはやっぱり幸せに見える。波瀾万丈の人生だったろう。被害者の側には遺恨もろうけどでも、今は棺を覆いて瞑目したい。合掌。

 殺されかけさえしたのに絶対城阿良耶先輩、織口乃理子に甘いというか優しいというか、まあその“正体”を掴んでしまった以上は、あんまり悪さもしないだろうという認識もあって敵ではないと認めたのかもしれない。そんな峰守かずひろさんのシリーズ第2作となる「絶対城先輩の妖怪学講座2」(メディアワークス文庫)は、覚(さとり)の力を見込まれたというか見とがめられたというか、そんな理由から無理矢理に助手として引っ張り込まれた湯ノ山礼音を今日もひきつれ、絶対城先輩があちらこちらで妖怪退治。といっても他人が困っている状況を妖怪として説明して金を稼ぐ一方で、その実体を解明していくといった展開で、礼音が合気道を教えている少年が見た海辺にたくさん現れた手のひらはいったい何だったのか、そして織口が巻きこまれた大百足と大蛇とが争うような事件に挑み解き明かす。

 独立した短編として描かれながらも、例えば絶対城が着衣のままで泳げることを書いておいたり、彼の友人で演劇部で活動している杵松明人が作った演劇の小道具について触れておいたりと、いろいろと伏線を仕込んでおいて後の事件で活用してみせるあたりから立派に1本の長編小説として仕上がっているところが見事。最初の「舟幽霊」で出会った女子学生の知見とか持ってた車とかも活用されるし。そして絶対城自身が未だ直面できない過去について触れて次に繋げる引きも見せていて、今後に多いに期待を持たせる。一方で湯ノ山礼音は相変わらずの強さ炸裂。元より合気道を鍛錬している身に加えてその能力をフルに発揮した日には、どんな屈強な男だってかなわないということか。そんな活躍の向こう側で長く祭られていた妖怪のとんでもない正体とかも明らかになったりして、スペクタクルも楽しめた第2作。映像化したら楽しそうだけれど、そういう企画、どっかで進んでいないかなあ。礼音に能年ちゃんとか使いたいけど合気道を極めている風じゃないのが難かなあ。

 なんというか。別に教科書に採用された訳でも副読本として全国で親しまれている訳でもない「はだしのゲン」を取り上げて、栄えある創刊40周年でトップに取り上げぶったたくとかするのって、一体どうなのよといった感じというか。文藝春秋が先鞭を付けて両翼を張っていた「諸君」も売れ行き不振から潰えてしまった今、ライトサイドから天下国家を論じ政治経済社会文化を論じて人心を彼らの認める真っ当な方向へと導いていけるオピニオン誌は、もう自分たちだけなんだという気概で大上段から振りかぶり、それこそ岩波書店の「世界」と向こうを張るくらいに知能指数の高そうなオピニオン誌を作って欲しいんだけれど、無理かなあ。無理なんだろうなあ、「正論」だしなあ、参ったなあ。

 伊勢神宮が式年遷宮だそうで、名古屋にいたころだったら見に行ったかもしれないけれどもすでに前のでこっちに来てしまっていて、その前は8歳くらいだからちょっと行けず。でも20年ごとにしっかりと社殿を建て替えつつ、それを作る人たちの技術を承継しているってのは興味深いし、そうやって神様の居場所を新たにすることで汚れをはらって、綺麗な場所に座してもらうといった着想もなんか独特。他の神社じゃやってないのにどーして伊勢神宮だけが、って不思議に思うけれども逆にいうなら伊勢神宮だからこそ、ってことになるのかな、それだけ日本の神道における中心的な場所であって、単純に長く崇め奉るんじゃなく、定期的な行事を入れて信仰をより深めていこうって意図が仕組みを作った側にあったのかも。いずれにしても次にあるのは20年後で、その時はいったい幾つになっているだろう。そもそも生きていられるか。分からないけど今度の機会があったら是非にながめに行こう。伊勢うどんとかもついでに食べに。赤福は……名古屋で食べられるからまあいいや。


【10月1日】 「月曜ドラマランド」ってのが大昔のフジテレビにあってその当時、テレビなんて超高級な世界からは下に下に遥かな下に見られていたアニメーションだとか漫画なんかを原作にして、ドラマを放送してくれてこれを取り上げてくれたんだと漫画ファン的、アニメファン的に嬉しく思ったことがあったけれども、それがいつの頃からテレビが下がったか漫画やアニメが上に上がったかして、それらを原作にすることが当たり前になってしまったその結果、イメージと違うんじゃないかとかストーリーを都合良く変えすぎだとかいった意見が、大勢を占めるようになってしまった。原作を愛する気持ちからすればそれも当然だけれど、取り上げてもらえなかった時代を思えば有り難いなあという気持ちも半分。これで評判になって原作に注目が集まってくれれば、それはそれで良いじゃんって鷹揚な気持ちを今も持っていたりする。

 だから「ハクション大魔王」が関ジャニの村上君とかいった人によってドラマ化されるって聞いたときも、ジャニーズってな細面の面々がいっぱいいる集団で、どーやったらあのでぶちんの大魔王を演じられるんだって疑問を抱きつつ、でもそういう世界観もあって悪くはないかもなあ、なんて思って新聞に載っていた写真をみたらこれが割とハマっていたからむしろ楽しみになって来た。どこか怪しいアラブににしか見えないところもあるんだけれど、それはそれとして風体も人相も立派にハクション大魔王。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんと言ってくれそーな雰囲気にあふれてる。アクビちゃんとか可愛いし。そういう面々が見せてくれるちょっとコミカルで、どこかペーソスの漂うストーリーが繰り広げられれば今あんまり「ハクション大魔王」を知らない層が、思い出してくれるんじゃないかなあ、なんて期待も浮かぶ。でも映画化だけは勘弁な。それはさすがに見ていてツラくなるから。

 朝日新聞の10月1日付け夕刊に、チャーリーこと関西学院大学准教授の鈴木謙介さんが登場して「ネットが変える現実の世界」って記事にコメントなんかを寄せていて、昨今のバカッター系な炎上はそれを悪いと知らないなんじゃなく悪いと知っていても身内にみせびらかして身内から感嘆される欲求が上回ってやってしまう的な意見にはなるほどと思った。ただ「聖地巡礼」に関する部分はううん。「例えば最近では、アニメの舞台になった場所がネット上で話題になり、物理的には何も変わらないのに、観光資源化していくケースがある。いわゆるファンによる『聖地巡礼』だ」。これは鈴木さんの意見じゃなく書いた高久潤って記者の見解なんだけれど、別に聖地巡礼とネットとはイコールで重なり合うものではない。

 場所とか特定してくれて生き方なんかも案内してくれていたりして、ネットでの情報がそうした聖地巡礼の隆盛に一役買っていることは確かだけれど、ネットがなくても行きたい人はそこに行き、詣で嗜んで来た訳でそれをネットの隆盛と共に語られると聖地巡礼という行為にある心情をどこか見誤ってしまわないかと心配になる。ネットという何でもフラットに表現して提示してしまう世界で、「聖地巡礼」がただ概念としての「聖地巡礼」ととらえられてしまって、アニメに出てくる場所ならどこだって訪ね詣でて賑やかすような行為が生まれ広がってしまわないか、なんて心配が浮かぶ。聖地巡礼とはその作品への思い入れを行動によって示すものであって、そうしたフラットな概念とされてしまって良いものかというとちょっと迷う。

 そういう“誤解”は多分に記事を書いた側にあるんだろうとは思いたいけど、一方でそうした記者の思うようにネットにあふれる刻々とアップデートされる情報が、人を誘い染めてしまって敬意も情念も欠いた行動として定着していかないとも限らないからなあ。だからこそ「聖地巡礼」とは何か、ってことを考えたいのだけれどそれによって気楽さが削がれてしまうのもまた楽しくない訳で。誰もが楽しめてそして作品にも現地の人にも敬意が払われて騒動とならず長く愛されるための聖地巡礼の作法、って奴を書き記してくれる人がいたら助かるなあ、それがメディアを通じて世の中に広まっていけば誤解も消えて理解も広まると思うんだけれど。難しいなあ。

 やあ8%だ。消費税の引き上げだ。安倍総理なら大丈夫、僕たちの見方で日本のために頑張ってくれている人だから、このご時世に民主党みたく消費税を引き上げるなんて言わないし、TPPにだって絶対参加はしないって言ってくれるってずっと言い続けていた人たちにとって、もう次から次へと嘘が明らかになっていながらこの期に及んで安倍総理は、財務省に誑かされているだけだ、企業に踊らされているだけなんだ、本当は僕たちの見方なんだから最後の最後でけっ飛ばしてくれるはずだなんて信じていたりする人もいたりするから、何というかたまらないというか。信じた人を信じ続けたいから周囲を嘘つきにしてしまうというその論法。でも結果は何も変わらない。だってトップが嘘つきだったんだから。そんなトップを信じ仰いで持ち上げ続けた先に来るものは? 誰も彼もが裏切られ疲弊して埋没していく寂しい世界なんだろう。せめて生き延びたいなあ、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」が完結するくらいまでは。何時なんだろ。

 参ったなあ。前も若い人が現場に行って亡くなった人の顔写真をもらおうとして怒られ怒鳴られ、それでももらって載せたらデスクに誉められましたって話を書いていて、おいおいそれが読者の好奇心に応えるためだとはいっても、載せたくない側の心境ってのをもっと汲みつつそれでも載せなきゃいけない理由、あるいは主張ってのを言っておかないとただ自分たちの商売のためだけに、もしくは自分の上司を喜ばせるためだけに仕事をしているんじゃないかって思われるぞって心配したのに、それに対して何か自省めいたことを見せる気構えもまるでないまままたぞろ現場に行って、今度はあらかじめ撮っちゃいけませんよと言われた子供の顔を撮って載っけて指摘され、そうかそういうこともあるんだと気づいた風なことを書いては四方八方から袋叩きにあっていながらやっぱり自省してみせる雰囲気がない。

 本当に現場でそう言われていたことを忘れて載せてしまったのか、そう言われて帰ったら上から顔が見えないんじゃあ記事ならない、なあに載せてしまえばこっちのもの、あとで抗議が来たらごめんなさいを謝っておけば良いから載せてしまえと押しきられて、それでやっぱり抗議が来たら自分が忘れてましたすいませんてへぺろと言いつつ、その話を失敗談として書いているのかは分からないけれど、本当に忘れてしまっていたならそれは仕方がないとして、どうして顔写真を載せて欲しくないのかを自分でまるで分かっていなかったという部分。そういうものなのか。少なくとも報道を目指すならそういう部分への認識ってのをあらかじめ持っているものじゃないのか。新人ですから仕方がないって言われる水準の大きく手前から、問題が持ち上がっているよーな気がする。

 良い写真じゃなければ使わないとプレッシャーをかけつつ、現場がどうやったら良い写真をとれるのかを教えず諭さず送り出しては文句を言ってやり直させるようなOJTっぷりも、今の果たして状況に合致しているのかといった認識があればこうした内幕を堂々とよそに向かって開陳するよーなことはしない。つまりはそこに前近代的なシチュエーションがあるってことを、今なお誰も認識していないって現れで、それが前の顔写真を取ってきて誉められましたといった自慢にしかならない文章が出てくる状況も生んでいる。そしてそうした前近代的っぷりを世間は感じ同業者は強く理解して呆れかえっているんだけれど、当人たちはどこ吹く風と変わらぬ内輪にしか通じない言葉で自慢話を繰り返す。その先に来るものは……って言うのも虚しくなって来た。明日は晴れると良いけれど。


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