縮刷版2012年9月中旬号


【9月20日】 海の向こうでは「オタワ国際アニメーションフェスティバル」が始まっていて日本からも結構な人数の日本のクリエーターが行っているみたいだけれども、ヴェネチアに北野武さんが乗り込んだとかちょっと前のカンヌにジャニーズの誰かが乗り込んだとかいった話に比べることすら不可能なくらいに世間でまるで話題になっていないのは残念というかそれが現実というか。モントリオール国際映画祭ならまだ少しは話題にもなるんだけれど行けば必ず誰かが賞を取るような雰囲気での報道が続いて、挙げ句に誰も何も取らない状況を何度も経験していると、その映画祭にノミネートされることすら凄いことなんだっていう基準が揺らいで、単なる賞レースのための映画祭で取れば天国取らなきゃ地獄といった二元論でしか物の価値が計れない人ばかりが世の中に増えて行きそう。問題だなあ。

 ましてや存在も伝わっていないアニメーションの映画祭なんてって話になってしまうんだけれど、オタワ国際アニメーションフェスティバルの場合はアメリカに近いってこともあって短編アニメーションがよくアカデミー賞にノミネートされたりするし何よりカナダ国立映画庁が80年とかに渡ってアニメーションを国策として作り続けてそこからアカデミー賞の受賞作もいっぱい出ている関係で、カナダで認められることは世界に認められることに繋がっていたりする。それだけに今回、ノミネートされた水江未来さんには頑張って欲しいし、学生部門から行った久保雄太郎さんいは前に東京工芸大学の卒業制作展で見た「crazy  for it」って作品でライアン・ラーキンの再来だとか言われて大受けしてもらいたいもの。そうなれば終わってすぐの開催になるICAF2012での上映にも弾みがつくから。他にも何人も登場の日本人に幸運あれ。すでに実力は十分なんだから。

 体力が落ちたのか意欲が萎えたのか、デジタル一眼レフをかついでいってはレンズを広角やら望遠やらとっかえひっかえして写真を撮ることに疲れてしまって最近はもっぱら4年前くらいに買ったキャノンのコンパクトデジカメ「パワーショットG10」を持ち歩いているんだけれど実際、これで撮れない写真はあんまりなくって敷いてあげるならフラッシュを焚くときのフォーカスが今ひとつ定まらず連射が聞かずポートレートとかの時にタイミングを逃したり、相手を待たせてしまったりするのがちょっと難。でも光の加減とかマクロへの切り替えとか手軽にできるし感度の調整も自在。なによりモニターを見ながら上に掲げて頭越しに撮れるのが良い。最前列に無理矢理出なくて済むから。

 ってことでしばらくはデジタル一眼を脇において、余程の時でないと持ち出さないようにして、普段はこれを使おうかと思っていたら新型の「G15」が出るって話で春先だかにそういえば「G1X」ってGシリーズの後継機みたいのが出てそっちへと行くのかと思ったら、従来型の後継機をちゃんと用意してきたのは、それだけ要望が強かったからなのか。だって「G1X」重たいんだもん。「G15」は100はそれより100グラム以上も軽くておまけに明るさも1・8からと夜間に強そう。なおかつオートフォーカスの速度が過去最高ってあるからきっと、「G10」よりも快適なカメラ環境を約束してくれるに違いない。それこそ1台あれば世界旅行の写真だって撮れそうな。値段次第では考えたいなあ。というかしかし「G12」の次が「G15」というのは何の演技を担いだんだろう。「13」は分かるけど「14」もやっぱり何かの不吉さを含んでる? ちょっと気になる。

 残念とかいったレベルではなくむしろ世界的な損失ではないかとすら思えるみなみケントさん原作で環望さん漫画による「エンジェルパラベラム」シリーズの連載打ち切り。掲載誌が統合される煽りで連載が続かなくなるってことだけれどもそれはつまり取捨選択に乗らなかったってことでそこでまず何故? って不思議な気分いんなる。だって面白かったんだから。天使と悪魔の戦争に少年が巻きこまれたような感じの展開には美女がいっぱい出てきていろいろ肉体の凄い部分を見せてくれていたりもするし、銃器もいっぱい出てきてミリタリーファンにも読んでいろいろ楽しい部分が多かった。

 何よりそのストーリーがスタイリッシュでスピーディ。いったい何が起こるのかって先を期待させていて、そして出たばかりの第3巻では死んでいたはずの妹が現れ悪魔の側につき、なおかつラストでは謎の美女が出てきて天使をまとめてなぎ倒し、主人公の少年を連れ去ろうという大きな転換と引きがあって第4巻への期待を否が応でも高めてくれた。それなのに。この先にどうなるかっていう続きが読めない。連載として続けることは可能だったかもしれないけれども、それで単行本が出ないといった漫画家として何で食えるのか、といった部分できっといろいろ逡巡する部分もあったのか、連載もないままにフェードアウトしていくことになってしまった。

 たとえ持ち出してでも連載を、そして完結を図るのが作り手の義務であり責任とかっていった言葉をぶつけて煽りたい人もきっといるだろうし、そういう気持をまったく抱いていないかというとそうでもない。でも一方で未来にリターンがないものを作り続けるのは経済的にも、そして倫理的にもやっぱりキツい。自分が作り手に回ったときに未来に勝利を得られないものを、それでも作り続けられるのか、見せたいという思いだけで何かを作っている人はいたとしても、その先に得られる成功を夢みてこそ成り立つ思い。だからやっぱり単行本が出ないものを連載させるわけにはいかない。でもなあ。やっぱり読みたい。第3巻の引きを見るとなおのことそういう思いは募るし、この終わり方を見て続きを連載させない、あるいは単行本を出さないなんて判断ができる人がいることが信じられない。だからきっと意ある人が立ち上がって過去を出し直し続きを描かせ完結させる日が来ると信じよう。そうでなければこの国が、コンテンツ立国だなんて名乗れるはずなんてないんだから。

 そんでもって「東京ゲームショウ」を見に幕張メッセへ。恐竜博がまだやってたよ。とりあえず基調講演は知らないうちにCESAの会長になっていた鵜之澤伸さんなんで突拍子もない話が出るとは考えられなかったんでパス。あるいはバンダイの映像事業部でもってアニメーションを作り始めてエモーションレーベルで「攻殻機動隊」とかに関わっていた時の話とか、バンダイでピピンを作ってとてつもない損を出して大変だったけれどもその時の経験が生きて今に至ったとかいった失敗談に絡めた成功ストーリーを話してくれれば苦境にあえぎ視界も不良なゲーム業界に生きている人たちにとって大きな糧になったかもしれないけれど、そういう話が出きる場所でもないんだよなあ、あういう講演って。でも実際どうだったんだろう。バンダイでワンダースワンを手がけた大下聡さんとタッグで語ればなおのこと凄い話になったのに。

 会場ではこれといったビッグコンテンツはなくまあそれなりに各社が取り組んでいるメインタイトルが並んで昔ながらの地味ではないけど派手でもないゲームの見本市といった感じ。新製品もないし、って思ったら一部にWii Uが出ていたとか。なるほどとそのブースを眺めにいってもゲームギアはあるのにWii Uなんてないからどこなんだって近づいたらゲームギアが巨大だったんでそれがWii Uのタッチパッドだと気づいた。嘘じゃないってそういう人がいっぱいいるんだって。あれで遊べるのは良いけれどあれだけで持ち出して遊べる感じでもない曖昧さが果たしてどういった評価を受けるのか。そこが分かれ目になるんだろうなあ。あとなぜかカードゲームのブロッコリーが巨大なブースを出していて、そこにリングを持ち込んでプロレスの興業を打っていた。新日本プロレスの胴元だからってよくやるなあ。なんてこと以上に衝撃だったのが木谷高明物語とかいう漫画が連載されるって告知。原作があかほりさとるさん。いったいどんな話になるんだ。イントロは新日本プロレスの買収か。中盤の山場は自己破産的な状況に陥ってデ・ジ・キャラットを捨てて家を出て彷徨った哀愁の物語か。見てみたいけど見るのが怖い。


【9月19日】 ウォクス・アウラって結局誰が何のために作って、そしてどうなってこうなって京乃まどかたちの所に現れたんだ? という基本的な設定に迫るドラマなんかをすっ飛ばして、前にもあって今もあってそして宇宙の混乱の原因になりそうな輪廻とやらが発動しそうになっていて、そこでウォクス・アウラに何故か乗れたまどかとランとムギナミが頑張って、どうにか宇宙の安寧が保たれそうだって表層のストーリーだけが繰り広げられては、暴れるヴィラジュリオをまどかとランとムギナミが説得して大団円が訪れる一方で、世界の謎は放り出されたまんまとなるのか「輪廻のラグランジェ2」。

 昔の姿が結構グラマラスだったのを見て、今のどうしたって子供にしか見えない姿を確認して、本当の歳とか聞いてみたいけど聞いたら殺されそうな気もするアステリアちゃんの過去とかもでてきたんだけれど、そもそも彼女がどこの誰で、どうしてといった辺りもやっぱりすっ飛ばされている感じ。ほのめかされてはいてもストーリーの中で分かるようにはしてくれなかった。それともしてたっけ。シーズン1から見返してみないと拙いかな。いずれにしてもどうやったらあんなに若作りでいられるのかが知りたかったアステリアちゃん。経験はあるのかな。やっぱり殺されそうだ。まあそれでもストーリーすらどこに向かっているのか掴みづらい「エウレカセブンAO」よりは楽しみどころは多いかも。さてもどうなるかって辺りで来週を刮目して待とう。

 ふと本屋で見たら朝日新聞出版からでている「小説トリッパー」って文芸誌がライトノベルを特集していた。まあ「文學界」だの「群像」だとのいったバリバリな純文学系雑誌でもないんで、エンターテインメントが特集されるのは不思議でもないんだけれどもそうやって取り上げられた割には、果たしてライトノベルというエッジの尖ったジャンルを包括して紹介しているの? といったあたりで読む人たちのもやもや感を引き出しそう。冒頭でインタビューを受けているのが新城カズマさんで、確かにライトノベルの本を書いてはいるんだけれど実作者というより批評の面が最近は目立つ新城さんを巻頭に置くんだったら、むしろ2番目に取り上げられている、「ソードアートオンライン」とそして「アクセルワールド」の2つのシリーズがともに人気でアニメーションも放映されている川原礫さんをフィーチャーした方が、ライトノベルとは何ぞやって声にこれがライトノベルだと提示できたんじゃなかろーか。

 まあ川原さんはSF的でゲーム的なライトノベルでは強いんだけれどラブコメがメーンとなった“ラノベ”の中心線かというと迷うところ。多様で多彩なジャンルを語るにはだからもうちょっと実作者の声が欲しかったんだけれど、他に寄せていたのが「ビブリア古書堂の事件手帖」の作者としての三上延さんくらいだったからなあ、それもちょっと違うというか。宇佐美尚哉さんによるライトノベルというものの外観を語った文章は、「すべてがライトノベルになる」という、大袈裟に見えるけれども昨今の出版事情を鑑みるにそういう傾向もなきにしにあらずな状況を、ふんわりとつかんでいるとは言えそう。双葉社や光文社あたりが出してくる四六のソフトカバーの単行本が昨今、アニメっぽかったり漫画っぽかったりイラストレーションのテイストが濃くでた絵柄を表紙に使ってそっち方面に関心を抱く人にダイレクトに訴えかけているからなあ。

 その方が売れるんだろうかそれとも違うんだろうかと考えるけれども、より売れそうな線を狙う上で必要だってことなんだろう。三浦しをんさんだってデビュー作から藤原薫さんだった訳だし。いや彼女は漫画にまるで忌避感がなくむしろ愛していた人だから、12年も前にそれが実現したんだけれど。あと「トリッパー」の編集部が8作品を選んだりしているみたいだけれども、手元に雑誌がないんで誰が誰だかを即答するのは不可能。ただネット系からでてきた書き手の本とか多かったようで、逆に講談社BOXとか星海社FICTIONSから続々とでてきているゼロ年代すら超えた現代の書き手はあんまりいなかったような。メディアワークス文庫を推しながらも三上さん止まりで、野崎まどさん、美奈川護さんといったスペシャルな書き手も紹介されていなかったのは何かちょっと残念。凄いのに。

 だからといってバリバリのラブコメも見あたらないところが隔靴掻痒。そんな気がしたところに誰を狙ってそのライトノベルを押そうとしているのか、「トリッパー」の趣旨をちょっと探りづらい企画だった。そういう傾向もまああって不思議はないところがライトノベルの多様さを現しているとも言えるんだけれど。不思議だったのは同じ版元が刊行している朝日ノベルズの作品がまるで見あたらなかったことなんだよなあ、「ヤマモト・ヨーコ」や「タイラー」はなるほど過去の再販かもしれないけれども「ミニスカ宇宙海賊」は現役バリバリの新シリーズでおまけに「モーレツ宇宙海賊」としてアニメにもなって大好評。ライトノベルの中でも売れてたりするシリーズなのに何故かオミットされていたのは、自社のレーベルは避けようとする矜持かあるいは何か含むところがあったのか。まあいいや、誰が何をどう言おうとも自分が面白いと思ったものを読めばいいだけなんだから。読むぞ読むぞ読むぞ読むぞ。

 ゲームの会社の発表会だったなあ、という印象だったソニー・コンピュータエンタテインメントジャパンによる東京ゲームショウを前にしたプレスカンファレンス。昨今のデジタルエンターテインメント事情を鑑みるなら、ソーシャルだのネットワークだのといった面との連携を打ち出しカジュアルなマーケットに向かうんだ的上昇志向を見せたり、映画やテレビといった映像エンターテインメントとの融合を図って、セットトップボックス的な位置づけ、あるいはモバイル映像プレーヤー的位置づけをそこに与えて、ゲームに特化するというスタイルから抜け出し、新しいライフスタイルをそこに作り上げようとする意志を見せたりするのが常道。でも、そういったことはなく、普通に新型プレイステーション3を発表し、新色のPS Vitaを発表してそしてその上で動く新しいゲームを見せてこんなに面白いゲームがあるんだから買ってね遊んでね、といったプレゼンテーションに徹してた。

 それは確かに正論で、どこまでいってもプレイステーション3はすごいゲーム機であって、PS VitaやPSPは持ち運べるゲーム機であってそこを外すといったい何のために持てば良いのか分からなくなって、それなら他に使えるものがあるからいいやって話になる。つまりiPhoneとかには勝てないってことで、だったらそれで遊べるこんなゲームがあるんだと見せる方がより健全で且つダイレクト。「みんなのゴルフ6」をPS3で遊べたらい嬉しいし、「ガンダム」とか「ONE PIECE」の新しいゲームを携帯型ゲームで遊べたら楽しいって思ってもらえるんじゃなかろーか。

 ニコニコ生放送がPS Vitaで簡単に中継できるようになるってのも悪くはないけどそれなら他のでもできるから、プラスアルファとして考える方がやっぱり健全。本を読むのは……ちょっと嬉しいかな、PS Vitaの解像度と操作性なら。あとSONY Readerという大枠があるし。決して派手ではなくかといって地味でもなく、静かに淡々とゲームプラットフォームとしての存在感を固めようとしているPSファミリー。んじゃその次は? となるとそれはまだ見えないのが迷いどころ。そこはやっぱりソニー本体も含めた話じゃないと見えて来ないものがあるのかも。リッジィィィィと叫びならが平井社長が打ち出す戦略、待ってみるか赤いPS Vitaでも遊びながら。


【9月18日】 川田まみさんのライブに行ったんでのぞけなかったニコニコ生放送での川上量生さんと鈴木敏夫さんに押井守監督を交えた鼎談で何か、「機動警察パトレイバー」の実写化がどうとかって話が出たらしいけど実際問題、企画の根源にいたりする漫画家のゆうきまさみさんがそういった映像化はアニメーションも含めてなさそうだって呟いていたんでとりあえず言われ答えてみせただけって受け止め方で良いのかな。原作陣が関知していないところで何がが具体的に進むってことはないだろうから信じて良さそうだけれども一方で、企画の前段階的な物ととしてそうしたものを構想中ななのを囁いただけってこともあったりするんだろうか。固まった段階で企画としてだしてオッケーもらえれば動き出すといった。それでもやっぱり企画を転がそうとするならば、それが実現するかどうかは別にして、事前に仁義は切るだろうからこれは突っ込んだ鈴木敏夫さんの勇み足に、押井監督が適当に受け答えしただけなのか。

 いやいやそうはいっても押井守さんには「番狂わせ 警視庁警備部特別車輛二課」って小説があるからなあ、警備方面に仕事に従事している隊員がかつてやってたサッカーの技術を使いサッカーの国際試合で行われようとしているテロに立ち向かうって話で、そこには例の二足歩行ロボットなんかがでてきてたりするし、主人公の名前が泉野明(いずみの・あきら)だったりするし。これって別にどこに断って書かれたものじゃないんだよなあ。だからやろうと思えばできるのか。ビジュアルにするならやっぱりいろいろ支障がでるのか。うーん。どっちにしたって「鉄人28号」の舞台の後に作られた「鉄人28号」の実写めいたものにならないで頂ければ。いやあれはあれで画期的だったらしいんだけど。らしいってのはDVDだけ買ってまだ見てないからなんだけど。だって怖いじゃん。見るの。

 やっぱり少しづつ尺が足りてない気がしてパッケージ化の時にはもうちょっと隙間を埋めて欲しいって要望が滲むアニメーション版「境界線上のホライゾン2」。ダッドリーを相手にしたマルガ・ナルゼの戦いはペンで空中に線を描いて絵を描いて飛んでくる矢を撃ち返すシーンを原作以上にグラフィカルに説明していてむしろ良かったし、そんな延長で描いていた模様が1枚の絵となり術式となって大量の矢をダッドリー相手に跳ね返しつつ自身は「入稿ーっ!」と達成感たっぷりの満足げな表情を浮かべて後ろに倒れるシーンも小説で読むより分かりやすくて可愛らしかった。でもセシルと葵・喜美との戦いは喜美のステップが術式となってセシルを落下させている描写も説明もなくって耐えられ困っているだけじゃなく、セシルがどうして敗れそうになっているのかが案外に分かりにくかったかもしれない。ダッドリーに撃ち返された矢を沈めて自身が落下しそうになるシーンも。

 あと点蔵・クロスユナイトがメアリ・スチュワートを相手に告白するシーンで「すりれるっ」って噛んでまた噛むところで誰かが「噛んだ」「噛んだ」とガヤ入れるだけでその失敗がくっきり浮かび上がったんだけれどそうでなかったから何を言い間違えて居るんだろうって流した人もきっといそう。最初の方なんて「睡蓮」へと話を振っていってしまったし。エクスカリバーを抜くシーンもなあ、何で3人そろってようやく抜けたとかがあれで分かったら相当なもの。原作でも何度か読んでやっと分かった。そんな交互の行き来を促進するって意味では説明不足もありなのか。フアナとセグンドが抱き合うシーンは原作以上。まさかあのフアナの長身に総長が抱きつくような形になるとは。いったいどんな感触だったんだろう、あの双球は。ぼよんぼよんか。ぶわんぶわんか。「吃驚して分からなかったよ」「そういうことにしておきましょう」。次はいよいよノリキとバルデス兄妹の戦いに、本多・二代と立花嫁との戦いか。ガリレオ戦以来の真っ当なノリキを見られる機会。刮目せよ。

 超絶技巧っていうキーワードでもって「美術手帖」がクリエーターを紹介している中に近藤智美さんがあったんで購入、BTを買うのっていったい何時以来だろう? 近藤さんはVOCA展でその作品を見ていっぺんにファンになって会場の上野の森美術館で売られてたポートレートとコラージュのプリント作品を買ってミニ図録も買ってそれから夏前に秋葉原というかほとんど浅草橋で開かれていた展覧会も見に行ったくらいのファンなんだけれど純粋に作品の凄さだけでなく、自分らしい人物が描かれているそのモチーフの独特さといい、元マンバで美大とかに行ってないのに巧い絵が描けてしまうプロフィルといい、さまざまな面でひっかかるところがあって気にしていたらだんだんと露出が始まった模様。今度新聞にも紹介されるみたいだし一気にブレイクといってくれれば買ったポートレートにも値がつくか。そいういうのじゃなく本当の作品を買っておかなきゃ意味がないんだけれどもそれには財産が足りなさ過ぎる。あと置き場所。60万円あれば双の衝立か何かに細かく桜と女性が確か描かれていた作品が買えるんだけれどなあ。まさに超絶技巧の極みだった作品。しかしどうしてあんなにしっかり描けてしまうんだろう。そこがやっぱり才能か。聞いてみたい。だから聞いたんだって。詳細はいずれ。

 やっぱりというか上海で開かれる予定だったアニサマが開催延期になったそうで日本から行く予定だったファンはもちろん、現地で待ち望んでいたファンが受けた衝撃たるや想像するに余りあるものがある。2年前にも上海では万博に絡めてアニソン関連のイベントが開かれる予定だったんだけれどこの時は尖閣ビデオの関連で盛り上がった反日デモを受けてやっぱり中止に。よほど上海とアニソンは相性が悪いのかそれとも何かの偶然か。偶然だったらやっぱりお祓いした方がいいようなあ、って誰に祈れば良いんだ、日本の神様か中国の太山府君か誰かか。反応とか見るとこうした日本のコンテンツに気持を傾けている層は確かに中国国内で暴れている層へのネガティブな印象を持っているように伺えるけれど、その原因となった尖閣の領有権についてどういった認識を持っているのかにちょっと興味。それはそれとしてやっぱり暴れて文化交流が中止になるのは嫌なのか、1990年代の教育によって教え込まれた認識にはやっぱり問題があって1970年代以前の状況から領有権は日本にあるらしいといった所までさかのぼっているのか。そこをきっちりしないと棚上げにされるだけでいつまたカードが切られるか分からず、中止に追い込まれる可能性も残ってしまう。とはいえきっちりとはしづらい分野。どうするのかなあ、これから。


【9月17日】 最終回らしいんだけれど「氷菓」を見るのは後回しにしてだらだらと「はぐれ勇者の鬼畜美学」を見て敵になっている奴の強いんだけれど華のなさっぷりに同情する。もう噛ませ犬感がばりばりなんだけれど当人はそれで強いつもりなんだから可愛そうというか。おそらくは次あたりで主人公に粉砕されてそしてより強い敵が出てくるとか、すでに現世に戻ってきている中から強いのが現れてバトルが始まるとか、そんな感じなんだろうと予想はしているけれども原作は遠い昔に最初の方を読んだだけなんでまるで覚えていなかったり。父親とかっていったい何やってるんだろう。あと兄貴とか。それからそもそもこれって何クールの予定で放送されているんだっけ。来週でいったん終わりになってもかまわなそうだけれど最終回とか出てなかったような来もするし。まあ展開とか気にせずだらだらと見るには良いアニメなんて続いてくれたらそれはそれで。

 こっちは1クールで最終回っぽいけどそれで終わっては困るんだよなあ「織田信奈の野望」は織田信長が浅井・浅倉連合軍の挟み撃ちから逃げろ逃げろの「金ヶ崎の退き口」で終わってはまだまだ織田信奈の天下布武って奴は見えてこない。とりあえず京に今川義元を将軍として置いてきたから天下統一への道は引かれたけれどもこのストーリーで重要なのはそれではなくって、歴史的に来ないはずがない本能寺の変を信奈とサルがどうやって乗り切るのか、そして日本をどうするのかって部分。それを描こうと今も文庫の方は違ってしまった歴史を元に戻そうとする力に抗い、何やら得体の知れない外国人の介入も受けながらどうにかこうにか頑張ってる。せめてそこまでは行ってもらわないとただのタイムスリップ戦国女体化アニメに終わってしまう。まあそれが受けてるんだからそれはそれで良いんだけれどもそれだけじゃないところって奴を、みせてこそのこのシリーズ。だからこそ2期を是非に。評判も良いんでありそうな気はするんだけれ、果たして。

 今日こそははるかぜちゃんこと春名風花さんを目撃するんだと北区は王子で開かれているルービックキューブの日本大会に行ったらちゃんといたんで逆にちょぴり驚いた。弟さんが出場する3×3×3という花形な競技の応援に来ていたみたいで始まるまでの間にメガハウスが実施していた1面をばっちり揃えられたら顔のシールを作ってあげちゃいますコーナーでしっかり1面を作り上げて、自分のシールを作ってもらっていた。弟はずっと競技に勤しんでいるから作れるのは当然としてお姉ちゃんも1面くらいは作れるってことなのか、それともあんちょこみんがら仕上げたのか。そんな当たりはいずれ当人からのリポートも出ることだろう。でもって競技の方では弟さんは3分以内で仕上げてはみせるものの最高タイムが8秒88で平均で13秒とか15秒とかそんな辺りを叩き出してくる人たちにはちょっとまだまだ及ばなかった模様。だからたぶん予選で敗退だけれどいずれ鍛えれば伸びるものだけに頑張って来年も出て欲しいもの。期待しよう。

 とはいえ5才の女の子が1分とか切ってたりするのを見るとなんか凄い世界かもしれないルービックキューブ。インドの人で日本に住んでいるってことで参加していた子供なんて18秒とか出しているんだからもう吃驚、日本から参加している大学生クラスよりも速いかも。それで果たして準決勝には残れたんだろうか。残れなかったらそれはそれで凄いレベル。後で結果をさらってみよう。一方で目隠しでもって複数個をそろえていく競技もやられていて、7個のキューブをたぶん全問正解してみせた女性がいたようで見ていてちょっと凄かった。始めにガン見してパターンを覚えたあとは手にして順繰りに動かすだけなんだけれど、パターンの認識が間違っていたらいつまで経っても揃わないし、覚えたキューブがズレてもやっぱり揃わない。それを完璧に揃えてみせたってことは抜群の記憶力。何をどうやったらそうなられるんだろう。最近物覚えが悪くなって指先も動かなくなって来たんで教えを乞うて鍛えてみたいものだなあ。

 見ていると手がムズムズとしてやってみたくなるのも道理だけれど、会場に展示してあった10月発売らしいメガハウスの新製品「ルービックキューブブッロクス」って奴を1面、横の色も含めて揃えてみせてそれでとりあえず満足する。2段目も揃えられそうな気がするんだけれどもやりだすとパターンを覚えてないから揃わなさそうなんで遠慮。それにしてもこの新製品は普通に3×3×3×なんだけれどもそれぞれのパターンをパコっと外して付け替えれるのが特徴で、1つの面の4マス分を多う四角い板とか2マス分をつなぐ細長い板を置くことも可能。これだと普通のと違った動きしかできなくなるため揃え直すのが面倒になるとか、あるいは簡単になるとか、どっちかだけれどパターンに落ちない楽しみを味わえそう。あと回転がとってもよくってスタンダードの3×3×3を買って慣らすよりも手に良さそう。2500円とかそんな前後だけれど高くもないんで出たら買ってみるか。でもってパターンが外れて部屋のどこかに埋もれてしまって悲しい歯抜けのキューブなるという。それもまあお約束。

 渋谷へと回ってやんばるでポーク玉子定食とか食べつつ改装なったパルコのサブカルフロアを眺めたけれどもうーん、吉祥寺のパルコと比べて大きく突出もしてなければ劣ってもないといった感じ? とりあえずヴィレッジヴァンガードが入っていたのは面白いけどあそこまで挙がるのって大変なんだよなあ、あとノイタミナショップは何というか作品力がかつてほど裾野として広がってなかったりするんで果たしてどこまで引っかけられるのやら。「ギルティクラウン」をもっと流行らせ女子に男子を引きつけておくはずだったんだけれど、って気もしないでもない。見た目もスタイリッシュな男子とか、可愛らしい女の子とかいっぱい出ていた感じなんだけれど、終わってしまうと覚えてないんだ、誰1人として。

 ストーリーの起伏と設定の深みから物語として悪くなかった気がするんで、いずれBDボックスになったら買ってみたいけどキャラとして誰かのグッズが欲しいって気がしないんだよなあ、それならむしろ「P4」の眼鏡娘とかの方が。「つり球」もあるけどそれも同様。「あの日見た花のは前を僕たちはまだ知らない」もそんなにグッズがある訳じゃないし、映画化まで先なんでどうつなぐかも見えないし。次の虚淵玄さんが関わる作品に起爆剤としての期待がかかるってことかな。それもやっぱりキャラ次第、か。むしろ「ガールズポップ」のコーナーの方が“好き”を集めた感じでファンとかいそう。いずれにしても「ONE PIECE」のショップができたら吹っ飛ばされるかなあ。どうしてあそこに作るかなあ。そういう時代なんだろうなあ。

 アニメロサマーライブに立った時にみせてくれたバンドサウンドが気になってリキッドルームで開かれた川田まみさんのライブをのぞいてみる。リキッドルームなんて恵比寿のおしゃれなライブハウスでアニメ系のアーティストってこのマッチングが果たしてどんな感じと思ったけれども、来ている人たちはなるほどやっぱりアニソンのファンといった大持ち。とはいえ手に何本もサイリウムを挟んで振りまわしたり奇声を挙げたりするような人はおらずに真面目に純粋に川田まみさんというアーティストを応援している人がいっぱいだったってのがとりあえずの印象。良い客層。ここからさらにオリジナル路線に端ってガールズロック系の雰囲気をだしていっても着いていってはそれなりに入ってくるだろう新しい人と融合して盛り上げていくんじゃなかろーか。アニソンだけにとどめておくには勿体ないすばらしさがあっても、それを世に感じてもらう時にぶつかる壁のようなものがあるのは周知。そこをやんわりと超えて混ざっていって欲しいし行けそうな感じ。期待しよう。

 というかアニソンだった曲ってどれかけあったんだろう、「とある魔術の禁書目録2」の第1期OPとか「灼眼のシャナFINAL」のOPとか「ヨルムンガンド」のOPとかあったようだけれど、その他は多くが最新アルバムとかに入っているオリジナルの楽曲だった模様でそれをあの抜けるようなボイスで歌ってそこに重なるバンドサウンドがライブハウスって空間にとってもマッチして新しい女性シンガー、あるいはガールズロックバンドの誕生って奴を感じさせてくれた。なるほど聴く方としては耳に馴染みがる「とある禁書」に「シャナ」関連では盛り上がるけれど、それ意外の曲もちゃんと聴いては声を挙げ手を振りサイリウムを輝かせる。着いて行っている。それだけ曲が良く歌声が良くサウンドが良いってことの現れで、まんまカウントダウンTVとかに新人バンドですって出たって馴染みそうな気がしたけれどもそういう風には行かないものなんだよなあ、こっちは押しても向こうが気づかないという。KOTOKOさんとか本当に凄いシンガーなのにそういう場所に出ているのって見たことないもん。どうしたものかなあ。サウンド的にはドラムが無茶苦茶巧くて美人だったけど、誰だろう? ちょっと気になる。


【9月16日】 なんかいろいろ凄いことになっているように見える中国での反日暴動。これが例えば反日ブードゥーだったら襲ってくる奴らは人間ではなくゾンビで撃っても刺しても生き返っては追いかけてきて暴れ回るからどうしようもなくなってしまうなあ、なんて愉快な想像もできないくらいにリアルでシリアスな問題になっているけれども、これって工場とか完全破壊してそこで働いている中国の人なんかが何万人も臨時に職に失い、あまつさえ工場が閉鎖から移転となれば永久に何万人もが職を失った状態になってしまう訳で、そんなことへの中国の人の想像力が、どうしてまるで働かないんだろうと心配になってしまう。

 暴れている中心が、よく言われている「蟻族」の若い人たちだとしたら、大学は出たけれど職がなくってさあ大変って層なんで、決して頭が悪い訳じゃない。でも理性を超えて自分たちに跳ね返ってしまうように暴れてしまうというその衝動が、いったいどこから来ているのか。そうした内在する歪みとともに、諭して聞かせる人もおらず抑えてやめさせる力もない外部の状況も含めて、いろいろと大変な国になってしまって来ているんだなあ、あの国は。これでまとまって団結して高みを目指せばその技術力、その労働力、その経済力でもって相当な地平まで行けるのに、いつもいつもどこかで引っかかって世界に頂点に立てないという、そんな宿業でもかかえているのだろうかあの大地。唐の時代がだからピークだったってことなのかな、エジプトとかがピラミッドの時代にピークを迎えていたように。勿体ないなあ。

 なんかはるかぜちゃんも見物に来るらしいという噂を聞いて北区は王子にある北とぴあってところまでルービックキューブの日本大会を見物に行く。何せあれだけ流行した玩具の大会ってことでいったい、どれくらいの人が来ているんだろうと思ったけれどもそれほど広い訳でもないフロアで集まっていたのも100人いたかどうだったか。まあそれも初日なんでいわゆる3×3×3のメーンなキューブの大会がなく、ルービックマジックと呼ばれる平たい板を動かしてパターンをそろえたり、ピラミッドみたいな三角形のキューブをそろえたりする大会がメーンで参加者もそれなりだった模様で明日は明日で日本中から指先に覚えのあるキュビスト、だけえキュービアン、だっけ知らないけれども一流が、集まり競い合うことなんでそちらも時間があったら見に行こう。

 んで今日の大会の方はといえばルービックマジックって2008年くらいに発売された時に取材して記事にもした製品が、いよいよもって日本での競技が行われなくなるってことでこれが最後の盛り上がり、なのか分からないけれどもそれなりな人材が集まって妙技って奴をみせてくれた。聞くと世界での記録が0秒71だそうてなんだそりゃ1秒切ってるぞ一体どうやるんだ的な疑問もふくらんだけれど、会場で見ているとパターンがクズされた平たい板を手にしてくるりとひねる一瞬で、決まったパターンを出すことができるみたい。それは運動神経なのかそこに思考も加わっているのか。分からないけれども平均で1秒73とか1秒94とか、そんなあたりの数字が多く出ているのを見つつ最高で0秒93とかって数字が出たのをみると、やっぱりいろいろそこに瞬間の判断って奴が入り込んでいるんだろう。

 いくら3×3×3でも子供が持つには手に余るルービックキューブの種類にあって、子供でも簡単にできるのが喜ばれているのか低年齢の女の子ととか男の子もいて面白かったルービックマジック。お父さんに連れられてきていた女の子も第一線に比べれば遅いけれども3秒フラットとか出していたもんなあ、僕らじゃとても出せやしない。そんなルービックマジックの結果一覧を見たら春名って名字の男の子がいたんで彼がはるかぜちゃんこと春名風花さんの弟だったのかも。残念ながら予選ラインは通過していなかったけれども彼も本番は3×3×3みたいなんでそっちでどれだけ活躍できるかを見に行こう。はるかぜちゃんも来るのかな。しかし日本で発売されてから32年とか経つけれど、しっかりと子供たちにもファンはいるみたいなルービックキューブ。会場を見ても高校生とか大学生っぽい人が結構いたし、何かをきっかけにとりつかれるとハマって極めたくなる魅力がそこにあるんだろう。はるかぜちゃんの弟はどうしてハマったんだろう。聞いてみたいけど人見知りなんで誰かどこかインタビューとかしてちょうだいな。

 今日はあと7×7×7ってバケモノみたいなキューブの大会もあって細かく割られたあのキューブをいったいどうやって揃えるんだ的な興味があってみていたけれどもいやあさすがに日本大会、あれだけ崩されたキューブを早い人で3分26秒くらいで揃えてしまうんだから恐れ入る。遅い人でも5分とか6分とか。普通の3×3×3だって1面そろえるのにそれくらいかかる凡人には及びもつかない思考と鍛錬がそこにはあるんだろう。大塚ギチさんが「THE END OF ARCADIA」って小説のなかで、アーケードゲームのボタン操作の鍛錬に昔とった杵柄としてルービックキューブを取り出しカチャカチャっとやる兄さんのエピソードを出していたけどそれもわかるくらいの指使い。これが3×3×3になるとさらに速く動くんだから恐れ入る。トップで8秒とかそんなもの? 会場で練習している姿を見ていても15秒くらいで揃えてしまうんだからいかに凄い世界か。そこではるかぜちゃんの弟はどれくらいを出すんだろう。それも興味。やっぱり見に行くしかないかな明日も。

 SF的な設定で書かれたミステリーが時として陥る困難があるとしたら、そうしたSF的な設定が極端で現実にあり得ないことはSFなんだから当然としてもミステリー的な謎解きにあまりにも奉仕し過ぎていて、そうした設定自体が一種の手がかりになってしまっていて折角のアイディアをひどく幅の狭いものにしてしまっていることで、それでもそうした設定の妙味を、パズルのように使って複雑化になっていく展開を面白おかしく描いてしまえる西澤保彦さんのような書き手もいるから、一概に悪いとは言えないんだけれど、でもやっぱりSFとして魅力的な世界観は、それを材料の域に留めおかないで存分に味わえるようにして欲しいもの。その点について芦辺拓さんの新「スチームオペラ 蒸気都市探偵譚」(東京創元社)はミステリーとして描かれながらもその世界観が謎解きのためにのみ奉仕している訳ではなくって、魅力的なビジョンを持って読む人を楽しませつつ、そうした世界観だからこそ起こり得る事件を描き、そうした世界観だからこそ成り立つ謎解きを描いて世界観そのものを際だたせる。

 ヴィクトリア女王が健在で清国には光緒帝がいたりするような時代でありながらも世界には蒸気の力を使ったさまざまな機器が実在しては街を走り通信もして空も飛んだりするというスチームパンクな世界観。なおかつエーテル科学も発達したりしていてそれを使って宇宙にまで進出してはワープ航法にも似た技術すら活用していたりするような設定は見聞きするだけでいったいどんなビジュアルがそこに繰り広げられているんだろうって想像を喚起する。そして物語はそうした世界に生きるエマ・ハートリーという名の少女が、宇宙の探索から帰還してきた船を港に出迎えに行ってそこで父親が船長をしている船だからということもあって潜り込み、船室でカプセルに入った1人の少年と出合うところから幕を明ける。どうやらこの星の人間ではないらしい少年の正体は。彼をカプセルから引っ張り出そうと呼ばれた名探偵、バルサック・ムーリエと出合ったエマは、就職活動にも近い社会勉強の一環として探偵の事務所で見習いのようなことを始め、そこで幾つもの不思議な事件に巻きこまれる。

 密室で科学者が顔面を巨大な石のようなもので叩きつぶされて死んだ事件に、新・水晶宮と呼ばれる植物園で別の科学者が胸をどこからともなく飛んできたナイフで刺されて殺された事件。それらの謎をさすがは名探偵のバルサック・ムーリエ、エーテル科学が存在する世界観ならではの解決方法でもって解き明かしてみせるけれどもそれは本当にそうなのか。取材していた新聞記者が投げかけてきた問いかけに疑心暗鬼を生んで迷うエマの前に、友人というかライバルに近い富豪令嬢の少女の誘拐事件が絡んできて、話は一気にクライマックスへと向かう。そこではこの世界の謎というより宇宙全体の全貌が示され、だからこそ起こり得た事件なんだと示される。それはトリックではあるけれど、同時にSF的な想像力から生まれたビジョンの提示。だからああやられたという感じよりも、これは凄いといった驚きと喜びに満ちてページを閉じられる。芦辺さん自身は世界観が謎解きに奉仕して狭くなってないかって心配しているけれどもそうした懸念はいっさい不要。これはSFだ。未知を既知にして楽しませる文学の楽しさに溢れた小説だ。

 現実世界で起こった資源と利権をめぐる争いが植民地を生み富むものと富まざる者を生み、支配する者と虐げられる者を生んで世界を混沌の渦へと叩き込んで、結果大勢の命が失われ大勢の自然が破壊されてしまったことへの警鐘として、叡智を持った君主たちが聡明な思想のもとに結集し、世界を幸福へと導こうとする態度を見せていることは、ある種の風刺でもありある種の啓発でもあって心に刺さる。原点に野田昌宏さんが「SF英雄群像」とか「SF考古館」なんかで紹介し、あの名調子で抄訳なんかも載せていた「エジソンの火星征服」にあった、往時の世界各国のリーダーが明治天皇も含め登場して演説する場面にあるってあとがきにあって、是非に読んでみたいと思ったけれども野田さんはすでにおらず、そうしたコラムも本にはなってないものが多数。「エジソンの火星征服」の扱いがどうなっているかは不明だけれど、誰かあの名調子をパスティーシュして翻訳を出してくれたらなあ、って願ただ願う。

 「スチームオペラ 蒸気都市探偵譚」ではあと、エンディングの部分にさらに凄まじい世界観の種明かしがあるんだけれどこれはいったいどうしたものかとまあいろいろ。ある意味で芦辺拓さんのファンにはニヤリとするところだけれどそこまでしちゃって無理はないか、なんて思ったら塩野干支郎次さんの「ブロッケンブラッド」にそういえばと思い出してまあ納得、っていやあれはパロディだから、こっちはリアルだから。でもまあ西欧化を進めた日本で一種西欧のパロディみたいなものだったからありなのかも。いかにもパルプフィクション的な宇宙規模での大仕掛けをみせてしまった後だけに、その大団円を超えてこの世界観で物語が紡げるのかは分からないけれど、この魅力的な世界を1話で終わらせるのは勿体ないので是非にライフワークとして、この世界ならではのミステリを紡いでいってもらいたいもの。出番の少なかったサリー・ファニーホウ嬢が彼女ならではの才覚を活かして大活躍をする話とか。読みたいなあ。読ませて欲しいなあ。


【9月15日】 1年くらい前に立ち寄ったこともある大正大学のそばにこんな場所もあったという「にしすがも創造舎」はたぶん小学校か何かの跡地を利用して美術とか工作とかに使えるようにしたスペースで、肯定にはあれは原始の家か何かが立っててちょっとした草地もあって、割と都会なのにポコッとした癒しの空気を醸し出している。同じようなのだと秋葉原の外あたりにも学校の跡地をアートギャラリーにした千代田アーツ3331があるけれど、そちらほど施設としてのお手入れが行き届いているって感じじゃないところが、小学校に通っていた時代の雰囲気をありのままに思い出させてくれてちょっと良いかも。生徒が減った学校を今度は、高齢者なんかが増えつつある地域のコミュニティとかに役立てるのって悪くない。吉本興業の東京の拠点も元は小学校だったんだけれど、あそこは今行っても入り口にこわそうな警備員がいて入れないもんなあ、それも金銭的には友好な使い方だけれど、気持的にはどうなんだろう。まああれだけの都心部、ゴールデン街やら歌舞伎町やら花園神社の側を無為に使うのももったいなんで仕方がないか。

 そんなにしすがも創造舎では水江未来さんというアニメーション作家の「WONDER 365 PROJECT」とゆー1日1秒のアニメーションを1年にわたって公開していくプロジェクトの中間報告みたいな「水江未来の細胞ワンダーランド!!」って展覧会を見物。行くとまずは入り口の土間から紙が貼られてそれが水江さんによるアニメーションの原画。ヴェネチア映画祭に出品したりアヌシー国際アニメーションフェスティバルで賞をとったり今度のオタワ国際アニメーションフェスティバルに出品していたりする国際的なクリエーターが手で描いた原画をこんなところに張っちゃって、って驚きもしたけれどもそういやあ水江さん、去年の京橋での個展では確か原画、売っちゃってたよなあ、それがポリシーなのか財政事情からなのか。いずれにしても貴重なものを見られる貴重な機会。それが13日から16日までの4日間だけの開催なんてもったいなさ過ぎる。とはいえずっとはってあると落ちたり消えたりしちゃうか。せっかくだから見てない人は見ておくこと。

 おもしろいのは1階から廊下の壁面を経て階段の横を登り、3階へとたどり着いて廊下を走ってそして1階へと戻っていく続きの原画をずっと見ていると、細胞が膨らんだり伸びたりうごめいたりして動く雰囲気が何とはなしに見えてくるから不思議というか、それが人間の目の凄さというか。スピードを上げてそれらを見ていけば残る残像も増えてアニメーションになってくる。なるほどこうやってアニメーションというものが作られているんだということが、並べた原画から分かるってのがこうした展示の効用なのかもしれないなあ。あと細胞が増殖したり消滅したり線がうごめいたりする様の法則性というか無法則性なんかも見える感じ。いったいなにをふくらませ、どう動かしてそして消すのか。それを描いている水江さんが自覚しながら先を見通し描いているのか、あるいは描きながら気分で変えていたりするのか、その辺を知りたかったけれども1階に降りて1の1のクラスで原画を描いていた水江さんには畏れ多くて聞けなかったのでまたいつか。載せる場所があれば書くんだけれど窓際なんで何もできないのがつらいなあ。

 っていうか世界的なアニメーション作家の水江未来さんがそこにいて、何かを描いている姿をどうして大手マスコミは報道しようとしないのか。ってメディア批判の紋切り型な言葉も口をついて出るくらいに静かでのんびりとし過ぎた光景。しばらくいた時間で訪ねてきたのはベビーカーを押して子供2人を連れてきた男性くらいでほとんど貸し切りの中を貴重な原画を見たり、半分くらいまでつながった映像を見たり、去年から作っていた細胞マネキンがどこまでできているのかを見たりできたのは嬉しくもあり、寂しくもあり。これが宮崎駿さんの原画展だったらどれだけの人が来たんだろうか、とか考えるとやっぱり彼我のおける差異って奴に愕然としてしまう。有名なものだけが取り上げられてさらに有名になっていくというこのスパイラルを、ぶちこわしたいんだけれどぶちこわせる力をもったメディアが、逆に有名なものにすがって有名なものだけを取り上げて稼ごうとしている情けなさ。どうにかしたいけれどもまだしばらく、あるいは永久にできそうもないなあ、今の居場所では。まあこうして個人で叫ぶくらいはできるんで、勘付いた人だけでも口コミで盛り上げて差し上げてくださいな。

 神保町へと回って変わったとかいう書泉をグランデとブックマートの両方のぞいたけれど、1階の雰囲気はとくに大きくは変わってなかったような。グランデはそれでも漫画が進出していて、ブックマートはライトノベルの並びが増えていたといった感じ。そうしったサブカルチャーなりポップカルチャー方面を充実させていこうって考えか。秋葉原の人気ショップですらストックが弱かったりする中で、書泉はいつもぎっしりバックナンバーをそろえているからすぐに欲しいときにとっても役にたつ。川上稔さんの「境界線上のホライゾン」はもとより「終わりのクロニクル」も「都市シリーズ」もまとめて手に入る店なんてそうもそうもないからね。とはいえすでに満杯の部屋というか玄関にこれ以上本を持ち込む訳にもいかないんで、買ったのは「ONE PIECE」の総集編のシャボンディ諸島辺。トビウオライダーズとの出合いから天竜人との対決、そしてバーソロミューくまに追われ女護ガ島へとルフィが飛ばされボア・ハンコックたちと戦い和解するまでが一気に読めるのは有り難い。単行本だと2巻とか3巻とかそんなもん? 次のインペルダウン編も全部一気に行くのかな、2分冊くらいになるのかな、来月発売、買おう。

 行く場所もないんでTURRYSでもって芝村裕吏さんの小説「マージナル・オペレーション02」(星海社FICTIONS)を読む。半ばニートが30位になって600万円稼げるからと応募した会社が民間軍事会社でそこで、オペレーターオペレータという現実にはないらしいんだけれど、未来の情報が発達した時代にならありそうな、戦闘を現場ではなく遠く離れた場所からモニター身ながら指揮する職業についたらこれが実に適職で、まるでゲームの盤面のような戦況をもとにゲームの駒のように兵士を動かし最適解を出す仕事を淡々とこなしていたけれど、そうやって得た戦果の中に村を1つ、全滅させていたことを知って愕然として呆然とした果てにいろいろあって会社を辞め、現地にいて既に戦っていた子どもたちをまとめて引き取りさあ民間軍事会社でも設立するかどうかってところで続いていた第1巻の続きは、日本にやって来たもののそこで既に警戒されていた様子で、宗教団体の教祖と信者の間の諍いに巻きこまれ、腕試しをされた後で接触して来た日本のどこかの機関に誘われて、教祖を守る仕事を請け負わされる。

 本当は子供たちに学校へと通って平和に暮らしてもらいたい、なんて思いながらも命じればユニットを組んで戦闘に必要な行動をみせ、手に銃を持たせれば撃って人を殺しナイフを持たせれば喉を切り裂いて人を殺せる心を技術ともども持ち合わせている子どもたち、破砕音が響けば即座に地に伏せ危険がないかを確認する習性が身についた、そんな戦場に生まれ戦場に生きて来た子供たちが平和という場に馴染むかというとどうなんだろう。むしろ主人公をリーダーにしていっしょに戦って生きていく方を選ぶんじゃないかって気がするし、主人公自身も平和な暮らしを口で言いながらもそうした子供たちの心情とうか、そういう風に作られてしまった身を感じてそういう風に生きていくしかないのかもって感じてる。熱血とは反対の冷静であるいは冷酷な計算が見えて、やりきれなさと同時にそうやってでしか生きられない世界がある現実を感じて立ちすくむ。天麩羅を手づかみで食べ刺身をガムのようによく噛んで食べジェットコースターに辟易とする可愛い子供たちなんだけどなあ。

 一方で日本側も最初っから当たりを付けて巻きこむようにして自分たちの作戦に引っ張り込んでは、日本に有害な組織をぶつけあわせるようにしてそこに主人公たちのチームを介在させ、みんなまとめて放り出すようなイケズな作戦をとってくる。子供たちだからと受け入れるそぶりもなければ日本人だからと同情する雰囲気もなし。敵性は敵性でしかなく潰すか叩き出すか。そうやって日本の安寧を意地する態度はなるほど国としては正解だけれど、でも一方で優しさも慈しみもないみせかけの平和を守っていったいどこにいく、多くの無関心を誘いその埒外にあるものを排除して平穏を保っていったい何がしたい、なんて思いも浮かぶ。ドジっ娘にしか見えないエージェントの存外にしたたかで悪辣かもしれないそのスタイル。彼女がいるだけで日本はあるいは安全かもって思えるけれど、そうした彼女たちの安全の外に少しでもはみ出たらもはや一切の同情もなく消され潰され放り出されるとも知れる。怖いなあ。そんな中で同情でも悔恨でも優越でもいいから感情をみせて子供たちを連れ歩く主人公に親近感。ずっとみんなが生きていられたらと望む。それがかなう安楽な場所でもないんだけれど、戦場は、あるいはこの世界は。


【9月14日】 すごくよくできているなあという印象の一方で、突き抜けているかなあという点で迷い最後まで迷ってしまったアニメーション版「もやしもんリターンズ」は、もっぱらフランス編となって長谷川遥が自分の居場所を見つけ直し、直保も白い蛍ことマリーに出合っていろいろと波乱が始まりそうな予感といったところで、原作的にひとつのクライマックスでもあったんだけれどあの、朝日が昇るブドウ畑に白ロリのマリーが向かって歩いていく圧巻のシーンが、アニメーション版だとただ父親や祖父に呼ばれ、近寄っていくだけってな印象になってしまっていたような。小さいコマの連続から見開きズドンとインパクトを作れる漫画と違って、ずっと同じ画面が続く映像作品は、そういうインパクトは作れないからなあ、むしろ逆に引きで小さくとってからクローズアップでインパクト、といった風になってしまうし。

 絵柄も良い意味では原作の石川雅之さんに近づけたって感じだけれどその分、アニメーションならではのダイナミックさって奴が薄れてしまったかもしれない。あの漫画の雰囲気が心地良いのは漫画で読むからであって、アニメとなて動いた時にどうかとうとどうというか。いかにも漫画漫画した池田理代子さんの「ベルサイユのばら」がアニメーションになって荒木伸吾さん姫野美智さんの耽美で流麗なキャラとなって出崎統さんによって演出された時に生まれた華やかで凄絶な空気ってものを、思うとやっぱりアニメにはアニメならではの表現があっても良い、それは原作に準拠してなくっても良いって気持も浮かんでしまう。その意味では1期とか見ていて嬉しかったかも。今にして思えばむしろドラマ版の方が破天荒で無茶苦茶で漫画では読めない面白さって奴があったかも。ブルーレイディスクでボックス化とかしてくれたら買うのになあ。DVDの初回限定版とかまだ普通に売ってるし買ってみるかなあ。

 という訳でってもなしに銀座は松屋で始まった「ベルサイユのばら」の展覧会を見に行ったらこれがなかなかにお姉さま方に溢れた展覧会だった。まあ作品が作品だから当然だけれど、面白かったのは漫画としての「ベルサイユのばら」のファンもいれば、宝塚の舞台としての「ベルサイユのばら」のファンもいて、そしてアニメーションの「ベルサイユのばら」が好きそうな人もいたりとその内訳は複合的。あるいは重なっている部分もあるかもしれないけれど、アニメのファンとして出崎演出で荒木さん姫野さんキャラにキャーといっていた人たちが、宝塚の演目として「ベルばら」を好きかというとなかなか曖昧だったりするところ。そんな多様なファン層をも1箇所に集めてしまって楽しませるくらい「ベルばら」という作品は裾野がひろいんだってことを改めて感じさせてくれる。これもそれも3つをまとめて展示してしまえ、って考えた企画の人の勝利か。去年の「ルパン三世展」も漫画とアニメがあったけれども舞台はなかったもんなあ、実写映画もあんまり。まあ仕方がない。

 そんな展示はまずは漫画の原稿の量がけっこうあって吹きだしの写植も貼られた原稿が 並んでホワイトの修正具合とかペンの運ばれ具合とかベタの塗られ具合なんかを間近に確かめられる。オスカルが撃たれたりアントワネットが落とされたり。そんなシーンのこれが大元だって味わえる機会は滅多にないんじゃなかろーか。これが単行本になってしまうと平面に落ちてしまうんだけれどそうではない原稿ってあるいはひとつの彫刻作品に近い気がいつもする。描いて塗って張って消して削りもしてからまた重ね。もちろん漫画は雑誌なり単行本なりとして読まれる平面のエンターテインメントなんだけれども、その原型作りに込められたパッションとしての工程を、見ておくのにはやっぱり意味があるし、見せるこうした展覧会にも価値がある、ってことなんだろう。そうだろうか。うーん。分からないけれども捨ててはいけないことは確か。でもどうやって保存すれば良いんだろう。アーカイブってものの重要さがますます浮かび上がってくる。

 宝塚については歴代のポスターが並んでああこの人がやっていたんだ、この人もやっていたんだというのを当時の扮装も含めて確かめられるのが面白いというか、ファンなら嬉しいというか。ゴージャスな衣装も飾られ映像も流されて、モニターの前には見入って動こうとしないご婦人たち。そういうファンがやっぱり結構来ているってことなんだろうなあ、昔のポスターを見てそのチケットの値段に今との差を思っていたりする人も見かけたし。アニメについては場面のセル画があってあとは荒木プロの文字がおされたキャラクターの設定画が並んでいて、これは荒木伸吾さんだろうか姫野美智さんだろうかってなことを考えながら見て楽しめる。さらには漫画界の著名な人とかそれ意外の有名人が描いたオスカルの色紙とか。松苗あけみさんはやっぱり松苗さんだし川原泉さんもそのまんま。けどオスカルなんだよなあ、どれもが絶対に。そこがやっぱり凄いキャラだって証明で。

 図録はどうするか迷ったけれど、そんな色紙が収録されていたのとあと、姫野美智さんがたぶんそうとうに珍しくインタビューに登場していたんで購入。読むとアニメ版「ベルサイユのばら」のキャラクターデザインについて話してた。それによると、当初のメインキャラはオスカルとアンドレは主に荒木伸吾さんがデザインしていて姫野さんはマリー・アントワネットとフェルゼンを主に担当。それから前半のゲストキャラは姫野さんデザインが多く後半は姫野さんが原画に入ったため荒木さんのデザインが多くなっているらしい。まあでも昔の荒木伸吾さんとは違うテイストを姫野さんが持ち込んで引っ張っていった、ってこともあるかもしれないからトータルとしては「ベルばら」のキャラクターは姫野さんってことになるのかな、それとも演出の出崎統さんのテイストが混じっていたりするのかな。

 出崎さんのテイストってことではアランが原作とアニメーションではまるで違った雰囲気になっていて、それは出崎さんのイメージが出たから。骨太で面長な雰囲気は後の「宝島」のジョン・シルバーに似ているとかどうとか。なるほど確かにそうかも四角い顎あたり。あと姫野さんが自作の「ベルばら」画で好きだと挙げているのがDVD−BOXの1のディスク4に使われたマリー・アントワネットとフェルゼンとか。セピア色になったもの。それからBOX2のディスク2のオスカルのドレス姿と黒い騎士。あとBOX2ではディスク4のアンドレが待つ天国で再開するオスカルというイメージで構成されたもの。どれも図録に入ってるので見たらなるほどドレス姿のオスカル様が美しすぎて目が焼けた。同時代的に見てきた人にはやっぱり突き刺さるビジュアルたち、なんだろうなあ。そんな意味でも買って損のない図録かも。


【9月13日】 リゼルマインがイっちゃってて大変な事態になった「輪廻のラグランジェ2」は実直に約束を守ろうとして手を出さなかったビラジュリオに対して何か過去のトラウマをほじくり返され止まらなくなって仕掛けたリゼルマインの攻撃で、ビラジュリオの乗機は破壊されあまつされコックピットを踏みつぶされてジ・エンドに。これで生きていられたらちょっと凄いけれども多分だけめだけれども、見て怒りに暴走した京乃まどかあたりがイデの力を発動させては輪廻の歯車を回してすべてなかったことにしちゃうんじゃないか、なんて想像も、いや知らないけれど。艦船の落下とかで鴨川の町にも結構被害が出ているみたいだけれど大丈夫かなあ、それもまとめて輪廻の渦へ。なんてことになるのかな。どっちにしても何とはなしにそんな状況を想像させるくらい、設定とキャラクターを覚えさせてしまった辺りは巧いかも。「エウレカセブンAO」なんて未だに誰が何をしたいか分からないから、もう終わりだっていうのに、まったく。

 朝のワイドショーで大阪市の橋下徹市長が総帥だっけ党首だっけ、リーダーとなって立ち会える日本維新の会とやらの結党パーティーの模様が流されていたんだけれどそのニュースで、いったい橋下市長が前の大阪府知事の時を会わせて府民なり、市民にどれだけのメリットを供与したのかって話がまるでまったく流れなくって、果たして日本の国政を委ねて良い物なのかどうなのか、ってあたりがまるで分からなくって判断に迷ってしまった。聞こえてくるのは組合を締め上げたとか、図書館を潰そうとしたとか文楽を虐めているとかいったそんな話。それらもなるほど行政の支出削減には必要なことかもしれないけれど、効果としてどれだけあるかっていうと微々たるもので、悪い言葉でいうなら懲罰というか見せしめ以上の効果ってものがあまり感じられない。

 これで国政を委ねたところで、やるのはどこそへの特殊法人なり文化事業なりの支出を削るとか、自治労あたりを締め上げてみせるといった今までの活動がスケールアップした程度のことで、それをやって果たして何十兆円とかある国の借金がどれくらい減るのか、あるいは歳入を増やす方向として日本の産業がどれくらい活性化するのか、といった部分は見えてこない。それはわざと隠しているのか、それとも見せるだけの思案がないのか。大阪市なり大阪府での活動をちょっとふり返ってくれるだけで、予想もつくんだけれどそれがないってことはあるいは、ふり返るだけのものがないってことの現れなのかもしれない。それで任せられるのか否か、ってあたりがこれからの逡巡の種になっていくんだろうなあ。どっちにしたってうちの選挙区は野田総理と対抗馬の一騎打ちが楽しみになるだけなんだけど。

 あと分からなかったのが、日本維新の会から立候補する人に対して党として別に資金を援助する気がないってことで、だったらどうやって1000万円だの何千万円もかかる選挙費用を確保するかというと、自分の貯金を崩すなり借金をすれば良いらしい。いやまあこれまでの選挙だってそうやって、資金がある人や借金ができる人が立候補してきたケースもあるんだけれどそういう人って果たして高い理念を持って、この国政を変えようと意欲を燃やす志士といった人たちと重なるの? お金持ちが高い理念がないって訳じゃないけれど、逆に高い理念を持ちながらもお金がない人が出られないって制約がそこに生まれてしまう。借金すれば良いじゃないか、議員になればその給料で返せるんだからって、党首の人が言ったって話も伝わってくるけれど、それもまた不思議な話。だって国会議員の歳費って、国のために働いてもらう資金として支給されるものだから。過去の借金に返してもらってはちょっと困る。その分だけ国のために働ける範囲が減ってしまう訳だから。

 歳費とは別に収入源を得ようとしたら、起こるのは当然ながら賄賂の類といったものになってしまう。地元に権益を誘導するとか、許認可の立場を利用して企業から見返りを得るとか。それは大概にして汚職と呼ばれて摘発されて糾弾されている。それと同じ事をやらなくってはとてもじゃないけど国のために働けないような立場へと、候補者たちを追い込んでいいのか、って疑問がやっぱりつきまとって離れない。なおかつ執行部の人たちは、候補者たちには禁じられていて、それから党の方針としても拒否していた企業からの年金を、政党助成金が出ない今の段階ではもらって当然とかって言い出しているらしい。それってどういう事なの? 矛盾はしてないの? しているから誰もが突っ込むんだけれど、当人たちはそうは思っていないところが何というか。自分たちの決めた正義を貫くためなら道なんて曲げても大丈夫、ていった判断が国政レベルで行われた時に、いったいどんな状況が生まれるのか。見てみたい気もあるけれど、見たら終わりのような気もするし。困ったなあ。困ったよ。

 毛糸のパンツが縞模様でそして化繊が混じっていてなおかつ男女兼用だからって、それを履いている子たちが例えばマイクロキュートだったり長身だったりグラマラスだったりしたらやっぱり良いんじぇね、とは傍目には思うもののその中身が破天荒でイカサマ込みでギャンブルが大好きだったり要求が我が侭だったり食い意地がはってたりするとやっぱりちょっと臆すというか。それでもそんな彼女たちに付き従わなくてはいけない奴隷の少年に同情したくもなるけれど、これでなかなかしたたかに会計という才能を活かして3人の修道女たちの手綱を握っていたりするからお互い様。そんな関係を持った計4人が国の存亡をかけた戦いのために、かつて女王によって放逐された英雄を女王の求めて捜しに行くってのが吉田親司さんの「ペニンシュラの修羅」(電撃文庫)のストーリー。すると次は「アンバサラの婆娑羅」か。そんなことない。ないと思うけど。

 まあそれなりに戦闘能力を持った3人の修道女たちだけれども、行く先々で騒動は起こした上に、やっとのことで出会えた英雄を相手にした戦いではまるで相手にかなわず、窓から順繰りに逆さ吊りにされてしまう。そうやって見えるのはだから縞の化繊混じりの男女兼用パンツなんだけれど、それを見て楽しいかというと見る分には楽しいかな。そして始まった戦闘で英雄は切り落とされた腕の変わりにつけた義腕でもって圧倒的な戦闘力を見せる。そのテクノロジーはファンタジーの世界とはちょっと違ってそう、というか缶詰とかAEDっぽいのとかいろいろロストテクノロジーが登場しては現代との繋がりなんかを示している。そんな世界で起こるバトルの行く先は。3人の修道女の暴れっぷりは。続きがあったら読みたいなあ。


【9月12日】 「オタク大賞」ってのがあって、オタクとかサブカルの偉い人たちがオタクとかサブカルの大変な事柄を選んで表彰したりしているんだけれど、オタクとしてもサブカルとしても偉くないんでどういった関係で繰り広げられているのか、実体も内情もよく知らない。ただ最近は、月1でもってマンスリーといったものをやっていて、オタクとかサブカルの偉い人たちが登場しては、オタクとかサブカルで面白かったことなんかを話していて、どんな人が話しているのかを見るのもまあ悪くないと出むいていっては、じっと見物していたりする。ここんところは浅草は田原町にある模型塾ってところが会場で、ニコニコ生放送もされていたりするんだけれど場所が下町の路地裏って感じのところにあって、会場からアルミサッシの扉越しに外をながめていたら、前の狭い路地を猫が1匹走っていく姿が見えて、サブカルだオタクだといった肩に力の入った気分が抜けてホッとした。路地を走る猫には絶大な癒し効果があるのです。

 さてオタク大賞マンスリー、その月に起こったことなんかを喋るメインのコーナーが終わったあとで、最近美術館なんかでオタクとかサブカルなんかをテーマにした展覧会が多いよねって話題になって、実際、そういう展覧会を見たり取材に行ったりしている身として、何がそうした事象を読んでいるのか興味があって聞いていたら、結構ためになる話が聞けて良かった。かつて東京都写真美術館で開かれた「レベルX」って展覧会は、ファミコンの誕生から20年だっけ、そんなものを記念してゲームソフトをずらりと並べる展覧会だったんだけれど、企画を担当したライターの人が、そこですべてのファミコンソフトを展示しようとしたことで、どこにあるのか曖昧になった権利関係が整理され、後のアーカイブ事業につながっていったって話してた。

 よく日本は漫画もアニメもゲームも含めてポップカルチャーのコンテンツが豊富だって言われるけれど、いくら資産はあってもそれを自在にハンドリングできなければ宝の持ち腐れで、1銭にもなりはしない。だから散逸した権利関係をたぐり寄せ、綺麗に整えるのってことが必要になるんだけれど、それはとてつもない体力と気力も必要な作業。個人でも企業でもなかなか取り組みづらいところを、公設の美術館が主体となって開かれた展覧会という立場もあって、「レベルX」の開催を通してそうした面倒な権利関係の整理ができたらしい。ゲームをアートとして展示するという価値付けとはまた違った、大きな意味が展覧会を開くことにはあったったんだ。個人的には「レベルX」は今は亡きバーチャルボーイの実機に触れてプレーできたことが収穫。意外な奥深さに驚いたっけ。あれが進化していればなあ。未来のゲームも変わっていたよなあ。横井軍平さんも任天堂を辞めず残って何かを作っていたかも。見たかったなあ、そんな未来。

 アーカイブの重要性って意味では、ちょっと前に麻生太郎元総理が、国立メディア芸術総合センターを作ってアーカイブを整えようって訴えたけれど、箱物行政なんか意味がないとか、国営漫画図書館なんか作ってどうなるよといった反発が各方面から出て散々っぱら叩かれた。さらに政権交代もあって、民主党政権になって構想は完膚無きまでに叩き潰されてしまった。確かに漫画を展示し読ませるという意味では、“漫画喫茶”的な側面はあるけれど、それは図書館が本を読ませるのと同じ行為であって、決して珍しい話ではない。一方では公設でコンテンツの収拾・保存とアーカイブ化を進める業務が行おうとしていて、それは100年の資産となり得るものだった。未来を考えるならやっておくべきことだったのに、面白おかしく叩きたい声に埋もれて飛んでしまって、今やまるで目処が立たない。血気にはやらず冷静に政治を見ようという反省を、政局が紆余曲折しているこの時期に、この一件から抱いて欲しいけれども、世間は相変わらずに叩き放題やり放題、だもなあ。そして日本はどんどんと悪くなる。拙いよなあ。

 もっとも現在の、各方面で行われていたりする展覧会のすべてにそうした、未来へと繋げる意志があるかどうかっていうと分からないところで、ただ人気のコンテンツを並べれば大勢が来てくれるよって、商売っ気たっぷりの意識から開かれているだけなのかもしれず、それを美術館みたいな場でやることに、どれだけ正当性があるのか、といった議論もこれからは出てきそう。並べるだけでも意味はないこともなくって、まさに今やっている「特撮博物館」には散逸していたプロップの所在を確かめ、修復も行い展示できるようにすることで、未来にそうしたものを収拾することがやりやすくなる。映像作りも技術の承継なり記録に役立つ。だから無駄ではないんだけれども一方で、アートといった文脈においてそうしたプロップ類が何を果たしたか、どういう位置づけにあるのかって視点は、あんまりなかったような印象。まあ「博物館」なんだから仕方がないことなんだけれど。

 だったら漫画の原画展のようなものに意味はあるのかどうなのか、ってところでそれも1枚1枚がアートで国宝だという認識はあっても、それを解説して歴史の中に位置づける作業がなされているかというと、なかなか難しいところ。人気漫画家の絵だから見に行くってだけの動機に流され、並べておくだけでも大丈夫、あとはグッズでひと儲け、って意識が先行しては、美術館が美術展としてやる意味がない。いやいや、それが一般に開かれた美術展だという言い分もあるのか、うーん、いずれにしても難しい。かつて様々な漫画表現を集め、キュレーションして展示したイベントもあって、漫画の表現を研究して評価し一般に知らしめる機会になっていたけど、最近は単独コンテンツを並べその人気で集める傾向が強まっているといった赴き。そこにどういったキュレーションを行うか、それとももはや必要はないのか。いろいろと考えさせられるイベントだったけれどもやっぱり目についたのは、路地を走っていった猫が2匹と天井をかけまわっていた1匹の鼠。動物は強い。サブカルよりもオタクよりも。

 「週刊文春」の最新号で世間の注目は前田敦子さんが泥酔してお姫さまだっこされたって話に向いたようだけれど、見た写真は酔っぱらってぐだぐだになって伸びきった娘さんをどうにかこうにか持ち上げて、運んでいるってだけの雰囲気。そこにお姫さまを慈しんでいるような感情とかは見えずどちらかといえば運んでいる俳優さんへの同情が向かう。書いた側も熱愛が発覚とかいった感じを世間にあたえるよりは、ヤレ大変だといった雰囲気を醸し出しているようで、読み終えてどっちが大きく傷つくといった感じにはならなさそう。実に絶妙のバランス。だから文藝春秋としてAKB48の仕事を続けていけるんだろうなあ。連載しているアーティストを真後ろから斬りつけて平気な新聞コラムとは大人度が違うってことで。

 そんな週刊文春の記事でもう1つ、興味を引いていたのがサブカルと鬱の関係についての話で、すでに刊行されている吉田豪さんの「サブカルスーパースター鬱伝」って「プロレススーパースター列伝」に似たタイトルの本を元ネタに、サブカルの有名人たちが最近続々と鬱になったりかつてなっていたりしたって話が書かれている。まあ世間一般でも、人生の半ばで今と未来への不安を抱いた中高年に鬱が現れ、自殺してしまう人までいたりするから珍しい話ではないんだけれど、サブカルの場合はネットの登場もあって趣味がどんどんと細分化され蛸壺化していく中で、どちらかといえば広範な知識とこだわりが売りだったサブカルの価値が拡散して沈滞に向かいがちな中で、仕事が途絶えたり壁にぶち当たったりして先行き不安を抱いて鬱になる、ってこともあったりするのかも。一般性と固有性の両面から攻められりゃあそりゃあ落ち込みもする、ってことなのかも。


【9月11日】 巨大ロボットアニメで艦隊戦アニメで空戦アニメで美少女格闘アニメで貧乳アクションアニメであとは足りない人たちの起死回生アニメって、1話にいったいどれだけぶち込むんだよアニメーション版「境界線上のホライゾン2」。先週だって葵・喜美によるマルガ・ナルゼへのトルネードビンタが炸裂したりして、派手なアクションに溢れていたけど今回はそんなもんじゃあ効かない感じに、あっちでもこっちでも派手にバトルが繰り広げられては、見る目を必死のストップモーションへと送り込む。あれそこどういう動きしたんだよ、的な。それくらいに密度の濃い時間がそれこそ頭から尻尾まで。クリアな大画面で見るとさらにいろいろ見えてくるものがあるかもしれないなあ。ブルーレイディスクが出揃ったら実家に持ち帰って見直そう。

 まずは凄まじかったリア王と道真のロボットバトル、ってロボットじゃないけど巨大な質量がぶつかり合っては火花を散らすシーンを巨大感だけじゃなく、その質量も含めて描ききったあたりにサンライズの底力って奴を見る。そしてシェイクスピアを演じる斉藤桃子さんの冷徹からやや揺れ戸惑いそして自分を取り戻していくような演技にも。そんな一国どころか世界を背負うような文豪に勝ちきるってネシンバラ・トゥーサン、いったいどんなモノカキななろう、ってなるほど中二病的なインパクトに勝る古典はないってだけなのかもしれないけれど。あるいは愛か。あれでシェイクスピア、ネシンバラにぞっこんだし、危機にわざわざやって来ては布団を鼻血で汚すくらいに。

 そしてネイト・ミトツダイラとウォルシンガムのバトルは柱の上に立って月光をバックにウォルシンガムを睥睨しては手にした銀鎖を再生させ、パワーをこめてぶつけ自らも端ってウォルシンガムに迫るそのスピード感、その迫力。ともに現代の最高峰を行ってるんじゃなかろーか。それだけでももっと見ていたかったけれどもウォルシンガムの首からちっこいウォルシンガムが出てきて降参してはさすがにネイトもこれ以上は。一件落着。しかし可愛かったなちびウォルシンガム。一方で武蔵の艦橋ではアデーレ・バルフェットが大ピンチに。相手の自爆で撒かれたチャフに自動人形たちがやられて動けず操艦が不能に。そこに迫る敵の攻撃。でも現れた葵・トーリの気楽な言葉で自分を取り戻してはできることをやろうとする。「助けてください」。ああそうだよ、自分で何でもできるなんて思わないこと。廻りに人はいっぱいいるなから。それを分からせるのって簡単じゃないのに簡単にやってしまうから葵・トーリは総長であり生徒会長なんだろう。ただの莫迦って説も。実はそっちが有力。

 けどでもやっぱり見ばえがあったのは葵・喜美とダッドリーやセシルたちのと対決かなあ、先にマルガ・ナルゼが点蔵をロンドン塔へと向かわせ自分はセシルの加重に潰されそうになっていたところに飄々と現れた喜美。なんでセシルの加重の影響を受けないのって聞かれて「教えない」って言ったその口で足下にいるナルゼには全部明かしてしまうというその適当さ。だからといってどうしようもないのがその強さ。実は総長連合と生徒会を足しても武蔵アリアダスト教導院で1番強いのは葵・喜美なんじゃないかとすら思わせる。オリオトライ・真喜子はでもその上を行きそうだけど。そして喜美はあの居丈高に尊大なセリフをきっちり。歓喜と怒りと超然とが入り混じったニュアンスをあれだけ言えるんだから声優さん、わけても斎藤千和さんって凄いなあ、このキャスティングで大成功したようなものだよなあ、アニメーション版「境界線上のホライゾン」は。あとトーリの福山潤さんか。これからどんどんキャラも増えるけど声優さん、まだ残っているかなあ。それだけが心配。

 なんか名古屋方面で朝日新聞が土曜日の夕刊を休むことになったって話が飛び込んできて、名古屋じゃ中日新聞が圧倒的に幅を利かせながらもその後に続く部数を出している朝日であってもやはり厳しい状況へと追いつめられているのか、それとも新聞全体がライフスタイルの変化で夕刊を欲しなくなっていることの現れなのか、どっちなんだろうかと状況から考える。どっちもなんだろうなあ。でも中日は地元でセット販売が定着しているからまだ大丈夫、一方で朝日はセット販売が減退している上に土曜日は夕刊を読むことがなくなっているためここで打ち切り夕方の配達員も確保せずにすむようにしたかった、ってことなのかも。配ってくれる人がいないと新聞は配られないものだから。

 ただその代わりに別刷りを月に2回出して日曜版に挟んで配るようにしたってあたりが、情報があってどれだけって新聞屋の意地を見るようでまだ有り難い。まったくなくなってしまえば完全に情報量は減って媒体価値が減じてしまうから。どっかの新聞がそれやってなおかつ夕刊をフルに廃止して、情報量の少なさにさされた嫌気をカバーしようと受け狙いに走った結果、一部にしか受けないメディアになって先細りも甚だしかったりするし。何しろただでさえ狭くなった紙面に踊る言葉が「特定の政治家を叩き、おとしめることが社是である新聞社とはどんな存在だろうか。それは、むしろ政治的意図をあらわにしたプロパガンダ機関というべきだ」って安倍晋三元総理を批判する朝日への苦言を満載した書籍の評。けれどもその書評の書き手と、載せている新聞が日ごろからやっているのは菅前総理を激しく貶め罵倒する記事の連続的掲載。それを省みず自らの主張ばかりを叫ぶスタンスに呆れる声も多々なんだけれど、届いてないよなあ、届いていたらそもそもやらないし。

 実際のところ、夕刊というのはなくても良いように見えてあれで結構な情報の宝庫だったりして朝刊が喫緊としないような文化だったり生活だったりする記事を、夕刊に載せることでそれを読んだ人が身近に文化にどちらかといえば受動的に触れて感化され、文化への理解を深めていくような装置になっていたりする。夕刊から覚えた文化って結構あるだろうから。そうしたものが夕刊が廃止されることで一部はなるほど朝刊に回されることもあるかもしれないけれど、当然ながら限られるスペースに向けて取捨選択が図られた結果、既得権益的に昔っから続く文芸だとか芸術だとかいったものとの関係だけが残って、新進のアートだのポップカルチャーといったものは脇においやられていってしまい、あるいは完全に排除されてしまうことになる。

 現実の社会がそうしたものをトップに扱っていても、新聞的な世界ではそれらは未だ知らず関知もしないマイナーな文化。載せていったいどれだけ意味があるといった理解すら及ばないし理解しようとすらしないものだったりする。そうしたものが除外されてしまった結果、新聞を彩る文化は紙面作りに携わっているおっさんおばさんたちの認識の範囲内にあって高級だったり魅力的だったりするものばかりになってしまう。一方で若い層から果ては30代あたりの中間層までもが認め望む最先端のポップカルチャーに関する情報は不必要と判断されて、よほどの権威化したものしか取り上げられないという乖離が起こってその結果、新聞は若いそうから見放されてますます高齢者のメディアとなっていってしまい売れず夕刊の廃止範囲を平日にまで広げてますます文化や生活といった情報が排除されていく。

 まさに悪循環。それを断つにはだから意地でも夕刊を刊行し続けるなり、朝刊だけでも、あるいはネットを使ってでも新しい文化にも目配りを欠かさないことなんだけれども、朝日ではそのあたり、どうするんだろうなあ、ライトノベルや漫画やアニメやゲームの紹介がレギュラーで載ってた土曜夕刊のポップ文化がまるっと消えてしまう訳だし。トップ記事だけ残されたってそれは一般も分かる流行の範囲内。むしろ革新を伝えていた最新コンテンツの紹介をなくすことの方が未来の目をつみ取ることになりかねないなけれど。って平日にまだ夕刊が残っているだけマシか、平日も含め全廃した挙げ句に衰退から衰滅をたどっている例もあるだけに、どことは言わないけれど。


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