縮刷版2012年9月上旬号


【9月10日】 明けて日テレ・ベレーザになでしこカップで敗れたINAC神戸レオネッサの星川敬監督が、その1敗を「勝って当然の試合を負けた」からといって責任をとるために退任もあり得るとか発言したって報道が、あちらこちらの新聞に出ていてそりゃあなるほど敗れた責任を自分に求める潔さは感じたものの、勝った日テレ・ベレーザがそこまでに積み上げてきた努力や、相手のミスを引っ張り出すような強い意志をもった試合ぶりへのリスペクトがまるでなくって、本来だったら強い自分たちがミスしたからだといった態度でいるのは、同じカップ戦にファイナリストとして臨んだ相手への敬意がちょっと足りていないような気がしてモヤモヤ。カップ戦は決勝に並んだ段階で共に同じ栄誉を味わい裁く審判も含めて讃えられるべき位置。その一方が相手の力を認めようとしないのって聞いていてどうにもやりきれない。

 U−20の大会で優勝したサッカーのアメリカ女子代表が、2位になったドイツや3位の日本が表彰台に向かうのを行列を着くって送り出し、それにドイツも日本も応えていたのとはまるで違った風景。そんなトップの心情が下に響いているのかINAC神戸レオネッサのキャプテンが、受け取った準優勝の賞状を地面に置いてしまってそれを別の選手が拾おうとしたって話が1紙のみならず数紙のスポーツ新聞の記事になってしまっているのはつまり、見ていてそれほどまでに気になる所作だったってことに他ならない。ただ手に持っていられなくて地面に置いただけならこうも書かれなかったはずだろうから、見かねるような態度がそこにあったんだろうなあ。その選手は試合で途中後退を言われた時も戻ってきて挨拶したり、交替選手を激励しながら送り出すより、交替させられたことを憤るような雰囲気を見せることが少なからずあった。

 もとより負けん気が強い性格なのかもしれないけれど、もう子供でもない年齢で相手へのリスペクトを欠く行為を上も下もやっていると、今は人気でもやがて手痛いしっぺ返しを食らうんじゃないかなあ。ちょっと心配。そのあたり、日テレ・ベレーザは勝利は勝利として受け止めながらも、迷わず奢らないで次ぎに臨む態度を見せている。そこの最高のOBで日本が誇るプレーヤーの沢穂希選手もINACにあって自らの不甲斐なさを嘆きつつ、全てに勝てるはずがないとサッカーというスポーツの妙味を良い、残る試合に勝ってリーグ戦、全日本女子の勝利を誓う前向きさを見せている。一部の不心得が全体ではないだけに、そうした態度を今のうちに引っ込めて、ひたむきさと前向きさに溢れたなでしこリーグの雰囲気を、取り戻し広めていって欲しいなあ。それができないんあら去るのも致し方ないよなあ。

 飛ばし気味に見ているアニメーション版<古典部シリーズ>の「氷菓」は、伊原と福部の間で起こった、バレンタインデーのチョコレートをもらうのもらわないのといったやりとりに絡み突っ込む千短田えるの空回りっぷりが見ていて哀れというか。それを可愛いと思う段階で折木も相当に毒されているぞ。自分の立場を鑑みつつ相手に自分が相応しいかを迷い、伊原の手作りチョコレートを受け取ろうとしない福部のスタンスは、自虐と自尊の狭間に揺れる若い男子の気持ちを表しているって感じだけれど、考えすぎた挙げ句に相手に逃げられるってのが現実な訳で、そこを分かっていないところに高校生の若さ故の過ちって奴も見て取れる。気になるんだったらくっついちゃってそれから考えれば良いんだよ、ってそういうことを言える人生でもないけれど。逃げてばっかりだものなあ。そして今も逃げている。傷つくのが怖くって。そいういうものだよ男って。

 ロンドン五輪で史上初めて義足の身で出場を果たして陸上競技のレースを走った南アフリカのアスリート、オスカー・ピストリウスのことを考える。本来なら自らの肉体をのみ使い薬物での支援すら許されない世界に1人、人工物を介在させて走るランナーの登場は陸上競技やオリンピックのみならず、あらゆる人間的営みへの挑戦とも言える行為ではあるけれども同時に、その行為は人間的営みを超える高みへとは絶対的に至れない、複雑で曖昧な立場にあるものとして、どう向かえば良いのかを迷わせる。今の時代なら人間より速く走れる構造を持った義足くらいすぐに作れる。けれどもそれは人間の力を試すオリンピックの理念にもとる。ならば人間と同等の義足を使えば良いとなる。とはいえそこで言う人間とは誰のことなのか。世界最速のウサイン・ボルトと同等のパワーを持ったものなのか。世間一般の人と同じ力しか持たない義足なのか。

 一般と同じなら五輪へとは出られない。かといってそれたピストリウスという人間の限界と同じとは限らない。もっと生まれてずっと両足がなかったピスリウスにもしも足があったらどれくらいだったかという仮定は通じない。それでもボルトと同等にする訳にはいかない。きっと様々な議論があってピストリウスは“最適解”を持った義足を身につけ、五輪に出場することを許されたのだろう。その解はおそらくボルトを超える事もなければ迫ることもない。もしも突出すればそれは義足のせいにされかねない。可能性がありながらも、可能性を試せない曖昧さの中に生きるならいっそ、限界を超える力を発揮できる場所を堂々と作り、そこであらゆるテクノロジーを使い、人間を高見へと押し上げるような競技を続ければ良いのに。そんな思いすら浮かぶ。

 もっとも、それを見て楽しいかどうか。それを見て感動できるかどうか。当人のどこまでも高みを目指したいという意志とは別に、多くの目は不幸だが幸福を目指す人たちの頑張りを美談と受け止めようと期待する。限界を突破し究極に達する姿を求めてはない。パラリンピックに感動できる理由、それが決して健常者の限界を超えていないからだとしたら、人とは何と残酷な存在なのだろう。人の作り出す道具が人を限界まで幸せにできないことへのもやもやとした感情が、どうやれば解消されるのかをこれからもずっと考え続けることになるのだろう。なんてことを読みながら思った、松山剛による「雪の翼のフリージア」(電撃文庫)という小説は、トップ飛翔士として空を飛ぶレースに参加していながらも、翼を傷めて落下しレースすらできなくなった少女が一年発起し、人工的な翼を着けてレースに復帰し再びトップを目指そうとする話だ。

 人工の翼をつけても天然の翼に匹敵する性能が出せるかどうかがギリギリの世界。それが自然を超えるものだという議論より先に、天然と違って醜いものだといった思考がフリージアという少女を襲う。それでも諦めず、ひとり奮闘しつち影で名のある飛翔士だった過去を持つ男性のバックアップもあってレースへの復帰を成し遂げ、そこで活躍もしてかつての自信を取り戻す。そう、飛べるんだという事実、そして誰に憚ることもないんだという自負がハンディキャップにある身を屹立させて上を向かせ、前へと歩を進ませる。人を超えるとか人に劣るとかは関係なく、自身が何を望みどうしたいのか。それがだから天然を失いながらも人工を受け入れ、生きようとする者たちに必要なマインドってことななろう。ピストリウスもきっとただ走りたかっただけに違いない。その結果、おこった騒動も実はどうでも良い話。過程として五輪に出てパラリンピックにも出て負けたりもしつつそれでも今を楽しむ。そんな精神をむしろ感じて喜びたいものだけれど、果たしてピストリウス自身は何を思っているのか。その辺り、機会があれば聞いてみたいものだ。


【9月9日】 81の日。って何の日だ。家の中に埋もれてしまっていた至道流星さんの「大日本サムライガール」(星海社FICTIONS)が発掘されたんで読み始めたらもう面白くって一気に読んでしまってそしで2巻も一気呵成という面白さ。これは今年の事件かも。大手広告代理店の若い手社員2人が防衛省に仕事の打ち合わせに行く途中で見たのは手に拡声器を持って右翼思想を等々と述べる1人の美少女。日本に真の右翼は自分1人だと訴えるその大言壮語っぷりに、こいつは電波ちゃんかと思ったら案外に筋が通ったことを言っている。態度も筋が通っていて、ちゃんと政治団体として自分1人だけれども登録をして活動しているんだけれど、あれこれ取りざたされている右翼はやっぱり気味が悪いんでって学校なんかでは女子はともかく男子からも敬遠されているらしい。

 そんな少女が路上で何か屈強な男たちに引っ張られようとしている姿を見て、何だこれはと驚き止めようとして男たちを殴ってしまった広告代理店の2人連れの1人で先輩にあたる青年は、助けた神楽日毬という名の少女と話をしながら彼女の現代的には突飛であっても決して曲がっておらず歪んでもいない思想を決して嫌わず、その筋の通りっぷりを評価してカンパもして彼女から喜ばれる。そして政治家になって日本を変えたいと願う日毬の希望を手っ取り早くかなえるんだったら、その美貌とスタイルでまずはアイドルを目指してはどうかと提案して、臆する彼女を引っ張り出して防衛省のPRに出し、やがて親との諍いもあって自分自身を試したいと広告代理店を辞めてしまった青年は、引っ張り込んだ手前もあって日毬をタレントとして擁する事務所を作って活動を始める。

 普通だったらそこで突拍子もないことを言うアイドル右翼か右翼アイドルかは分からないけれども、そんな斬新なキャラクターが、芸能界で脚光を浴びて一気にスターダムへとのし上がり、さらに政治にまでたどり着いて果ては国家転覆まで成し遂げてしまうようなスケールアップへと向かいそうなところをこの「大日本サムライガール」は、そうした無理は一切遠そうとしないで、道理の中に展開を押さえ込んで着実に日毬という少女のステップアップを図ろうとしている。最初は臆するようにアイドルを務め言動も抑えていた日毬だったけれども少しづつ、人気が出るにしたがって本来の政治団体としての活動にも関心が向かってやがてそちらの言説が世間に漏れ伝わるようになり、その美貌とのギャップからテレビや雑誌の寵児となって引っ張りだこになる。そこに入った大手事務所の横やり。引き抜くのどうするのといった騒動を経て日毬に仕事が廻らないようになり、バッシングも始まって窮地に追い込まれたところで日毬の純真で一直線な言動が飛び出し一気の逆転劇へと持っていこうとする。

 実際にあるかというと難しいけれども、決してあり得なくはない展開の範囲に抑えながら進めているところが巧妙で絶妙。逆転劇からさらに1枚のステップアップが乗っかっていく展開にも無理がなくってそういうこともあるかもしれないし、むしろあって欲しいとすら思わせるようなエピソードで読む人を話に引きつけ日毬に引きつけファンにする。そこで大きく話を膨らませることもなくまずは地固めといった感じに新しいアイドルを作らせその彼女には日毬とは違った属性を持たせ、背景を持たせるおとで日毬が主題とする政治や芸能界のおかしさとはまた違った、経済方面での昨今日本がぶち当たっている難しさを描いてそちらへの関心も誘ってみせる。

 そこでも神風は吹かさず裏で経済を牛耳るような類型的な悪人は出さず、社会のシステムの中でそうせざるを得ない悪を見せつつそれを行動と善意で乗り越えてみせようとするから読んでいて、呆れず驚かずに感動できる。これもいい塩梅。技術もあって品質も高い日本の中小企業を育てれば決して損はないのに、今だけ良ければ、自分たちさえ良ければと銀行は金の回収に走りベンチャーキャピタルは上場して利益を得てあとは野となれといった態度で臨んで結果として未来の目を摘む。そんな腐った状況に一徹を食らわせ未来に希望を持たせる展開。それもこれも日毬の筋の通った言動があったから、という当たりで関わるものの、全体としてはちょっぴり日毬が引っ込んでしまっている感じ。それも次あたりでは大きな展開なんかを作って、念願の方向へと物語を引っ張っていくのかそれとも、被選挙権という法律の枠内で収めながらリアルのちょい外を狙っていくのか。その筆さばきに興味津々。

 せっかくだからとなでしこリーグのオールスターとカップ戦の決勝を見に大宮はNACK5スタジアムへ。大宮公園の中にあるスタジアムで名前が変わって改修されてから行くのはこれが初めてだったっけどうだっけ。前ならJRで大宮駅へと出てそこからテクテクと歩いていたけれど、そういう歳でもないし暑さもあったんでJRよりは近い野田線の駅から歩こう、それならいっそ船橋から大宮へと続いている路線を使って行こうと思ってまずは柏へと出てそこから大宮行きに乗り換える路線を使ったら案外に速かった。JRの方が最寄りの駅には時間的にはちょい速く着くかもしれないけれどそこからの歩きを考えると、東武野田線の利用の方が逆に速いのかもしれないなあ、ひとつ勉強になった。次も使おう、ジェフ千葉が大宮アルディージャと戦うような機会があれば、あるのかJ1行き、あるいは大宮のJ2落ち。

 そして到着したスタジアムでまずは席を確保してそれからホルモン焼きとか食べて腹ごしらえ、オールスターに恒例の各チームのブースには今年も、というか前はマリーゼにいて大きさを見せつけていた山根恵里奈選手が今年はジェフレディースのブースにいてやっぱりな大きさを見せていた。座っていても頭が天井を突き抜けているというか、そんな感じ。一時に比べて細くなったような印象だけれど気のせいか。他のブースにも有名選手がいたようで行列とかできてていい感じ。西が丘で開かれていた時はそこに地元の商店街のブースも加わり夏祭りのような雰囲気があってあれも楽しかったよなあ、そうした支えがあって今のなでしこリーグがあるんだということは忘れないようにしないと。急な人気に過去を知らない人たちが持ち上げられるのを当然とか、思っていたらやっぱりそれは違うと言ってあげたいな、声なんてかけられないけどさ。

 さてまずはオールスター。その後にINAC神戸レオネッサと日テレ・ベレーザという強さでも人気でもリーグを2分するチームが戦うためそこからの選手がいないという両手両足をもがれたようなチーム事情だったけれどもなかなかどうして、それぞれのチームにいるトップ選手たちが逆に揃ってなかなかの戦いぶりを見せてくれた。何より湯の郷Belleにいて日本代表ではキャプテンを務めている宮間あや選手がいてジェフレディースから来ていた選手とアテナってチームを組んでいたし、相手のミネルヴァにはボンバーな荒川恵理子選手がいて相変わらずなボンバーぶりを見せていてとなかなかな豪華さ。山郷のぞみ選手の安定感に福元美穂選手の躍動感というGK対決もあって見物だった戦いは、ジェフレディースから来ていた保坂のどか選手が1点を決め荒川選手のゴールで追いつかれながらも追加点を奪ってアテナ側が勝利。宮間選手がやっぱりMVPを持っていったけれども細川元代選手をはじめジェフから出た選手も存在感を見せていた。あとはそれが成績となれば。山根選手の復活も待ちたい。怪我多いよなあ。

 さて本番、すっかり満席となったメーンスタジアムから見ていたINACレオネッサとベレーザとの試合はなるほど高い力を持ったメンバーで固めるINACが圧勝するかと思ったら意外にベレーザが先制。大儀見となった優季選手の妹の亜沙乃選手がまずは決めて逃げ切るかと思いきや、やっぱり許さずすかさずINACが追いつきさらに逆転までされ蹂躙かなんて不安も浮かんだものの、トップ下的な位置でもって小林弥生選手がもう結構なベテランなのに走りボールを持ってはけり出す縦横無尽の活躍でもってINACの跋扈を許さない。そして亜沙乃選手がゴール前に迫ったところについていって出たパスをきっちり決めて同点に。ふかさず外さず流し込む冷静さはやっぱりベテラン。もとより高いテクニックを持っていながら怪我になき、代表からも遠ざかっていた小林弥生選手の今の復活ぶりはそのまま代表への復帰なんてことすら期待させたけれど、それはやっぱりないかなあ。最後に一花とはいかんかな。

 そこで諦めるINACでもないんだけれどもゴール前に迫ったところを必死の守りで跳ね返され、沢選手のヘディングとかも外れて入らずそのままゲームセット。公式戦ではずっとずっと勝ち続けていたらしいINACに土をつけてベレーザがなでしこリーグの盟主の座を取り戻したというか改めて見せつけたというか。INACだって主力のベレーザっぷりを考えれば紅白戦に例えられそうだけれど今は違うチームということでそれはなし。ただ主力をINACに出しても、経営状態が思わしくなくてもしっかりと強さを維持し続けている、ベレーザというチームの底力って奴には改めて感嘆し感心した。もしもベレーザがなかったら日本のワールドカップでの優勝も、それどころか五輪への出場もなかったかもなあ。もっと評価されても良いんだけれど、今のメディアはINAC一辺倒。それも仕方のない話なんだけれども過去を見つめないと今を踏み間違えて未来を失う。なぜ負けたのかをINACも自省しメディアもベレーザの凄みを体感し、そこから次の時代の女子サッカーのあり方って奴を探り提案していって頂ければ幸い。あとベレーザとかつて並び立っていたTASAKIペルーレってチームがあったことも忘れないで。絶対に。


【9月8日】 トゥルースもシークレットだったんだあ。なんだってー。って驚くべきところのはずなのにあれだけ超人やってりゃ人間じゃないからそうであっても不思議はないてき気分が既に蔓延してたんで、あんまり驚きもなく淡々と過ごされていった感じの「エウレカセブンAO」。ゲネラシオン・ブルの代表は自爆をしかけてトゥルースを潰そうとしたけれど、次回予告で笑っているあの顔はきっと生き延びたんだな、ってことは無駄死にか、眼鏡おやじ、勿体ない。そしてシークレットは善玉でスカブコーラルが悪玉的な構図にシフトしかかって存立の基盤をぶち壊されるアオたち。宇宙ではママたちが軽くあっさり粉砕されて何か容赦ねえっていうか。相変わらず見えない落としどころに向かってもやもやと進んだ果て、何か得られるカタルシスはあるんだろうか。それだけが心配。だから続きは映画でって? まあそれもありかなあ。せめて2年以内に。もう忘れちゃったよ「STAR DRIVER 輝きのタクト」とかって。

 そしてやって来た国立霞ヶ丘陸上競技場は、見上げると積乱雲なんか立ち上っていて遠目に雷なんかも見えたけれどもとりあえず、メーンスタンドの最上段の席だったんで屋根もあって日も当たらなくって午後の2時あたりでもまあ快適。ピッチは遠くても横浜国際の2階席みたいな遠さはなくってこれでなかなか見やすい。トラックの周囲が割とすぐに観客席になっている良さって奴だよなあ、これが改装で横浜国際みたいにトラックの周囲にスペースが作られたら遠くて見づらくなってしまうなあ、いっそフットボール専用にすればいいのに、どうせ東京五輪ではお台場方面にスタジアムを作ることになっているんだから。

 もしもフットボール専用になったら2019年に開催しても良いかもねってFIFAのブラッター会長にほのめかされた年代別じゃない女子のサッカーのワールドカップの誘致にとっても有利になる。今のところ都内でそうした大会に使えそうなスタジアムって味の素スタジアムくらいしかなくって、そこもFC東京と東京ヴェルディが使っているから大会のために何十日も空けるなんてことは難しい。おまけに2019年にはすでにラグビーのワールドカップを日本でやるおとが決定していて、多分味の素スタジアムも試合会場に入っているんじゃなかろーか。それを考えると倍の期間を女子サッカーとラグビーのワールドカップに貸し出すのは……ってなるとやっぱり国立の改装と充実は必要だ。いくら聖地だからって秩父宮でワールドカップは失礼だもん。

 っていうかどうして秩父宮がラグビーの聖地めいたスタジアムになっているのかがちょっと不思議。設備は旧態依然としていて入れる人数も少ないのに、そこでどうして世界に顔向けできる試合ができるのか。イギリスだってサッカーの聖地のウェンブリーがあれだけの設備を整えながらも、古くなったからとさっさと改装したのに、ラグビーの聖地はとくにどうこうするって話がないのはつまりそのキャパシティで日本にとっては重要な試合ができてしまうから、ってことになるのかな。それはその程度の人数が集まっても凄いと思われるような試合ってことなのかな。大学ラグビーとか。トップリーグとか。それはとってもドメスティック。大学とか企業の関係者しか来ないんだからそれで良いってことなんだろう。

 でもワールドカップを開催する国がそれで良いのか、出身大学とか関係している企業とかのチームが出ている試合以外には行かないようなラグビーファンの気質が、全世界からやってくる素晴らしいチームの応援に果たして向かってくれるのか。せいぜいが日本代表ってところだろうけど、その代表すらもいったい誰が出ているのかが分からない。そのレギュレーションから半分くらいが日本じゃないところの出身だったりもするし。そうしたチームに対してどういう感情を持てば良いのか、ってことを今から順々と育てていかないと、いざ大会が始まってもこりゃ何だ的な肩すかし感を食らってポカンとして、とてもじゃないけど見に行こうって気分にならないんじゃなかろーか。

 じゃあ女子のワールドカップでいったいどれだけの観客が来るんだよ? って話になるけれど、準備が半年くらいしかなかったヤングなでしこが出場するU−20のワールドカップで各会場に1万人、とまではいかなくても数千人のアベレージで人が集まり応援をした。もっともっと告知期間があれば五輪での活躍も受けてさらに人も集まったんじゃなかろーか。それもこれも2003年あたりを堺に上向きかけた女子サッカーの実力を捉え、2004年に川淵三郎キャプテンが女子サッカーの強化を日本サッカー協会の重点施策として打ち出し、そしてアテネ五輪出場をバックアップしプロモーションして徐々にだけれど露出を増やし、北京五輪での4位、そしてワールドカップでの優勝にロンドン五輪での銀メダルと、実力を世界の頂点にまで押し上げたからに他ならない。それこそ10年掛かりの運動が実を結んでのこれだけの認知ぶり。そして次のワールドカップに五輪といったステップを踏んで、まだまだ広がっていくだろう。

 そうした取り組みを何かラグビーってやっている? ってのが偽らざる心情。いったい誰が今のスター選手なの? まるでまったく分からない。スポーツ新聞を見るとなるほどシーズンになればラグビーが大きく取り上げられることもあるけれど、大学ラグビーがメーンでそれは大学のOBあたりが新聞を買ってくれるだろうといった損得勘定か、あるいは新聞を作っている人間の出身校へのノスタルジックな感情から、そうした作りになっているだけなんじゃないか、ってな雰囲気がもう随分と感じられる。それは一部には受けても「なでしこジャパン」とか「ヤングなでしこ」みたいにトレンドに挙がるようなことあない。今のところはないしきっとこれからもないだろう。だってそういうプレゼンテーションに大学も企業も無関係な人間は、まるで興味が向かないから。

 だからもしも2019年のラグビーのワールドカップを成功させたいんだったら、チームが人気だとか不人気だとかは関係なく、世界から選りすぐられたチームたちがぶち当たる最高峰の試合が見られる場所だという認識を植え付け、そうした最高峰の試合のどこがどう凄いのかを誰もがそれなりに知っているように、徐々にだけれど知識を広めていくことが必要だろー。あるいは最高峰ではなくてもラグビーのゲームその物が持つ原始的なバッションと情熱に溢れたものだという認識を広め、見ているだけで嬉しくなってくるような知識を誰もが持つようにするとか。それにはどこそこの大学のだれそれが頑張ったとか伝えているだけではダメ。あるいは協会がお金を出して地上波で世界の最高峰のラグビーを30分でも良いから見せる「ダイヤモンドラグビー」みたいな番組を流して世界がやってくるんだって期待を植え付けていくとかしないと広まらない、たとえ半世紀かかっても、ってそれじゃあ遅いよワールドカップの開催に。

 でもそんなことあやらないだろうなあ、やれていたらとっくにやっているだろうから。協会のトップが出身校のラグビーにしか興味がないような、そんな世界だもんなあ。その癖にもしも本当に2019年の女子のワールドカップが決まりそうになった暁には、興味がそっちにもっていかれるからといろいろ横やりを入れて、開催させないようにしたりするなんて揣摩憶測も乱れ飛んでいたりする。というかすでに協会のトップがあれこれ言ってくれちゃったりする。むしろ女子のサッカーで盛り上げた興味を男子のラグビーにも引っ張り込んで、世界最高峰の戦いはサッカーもラグビーもどっちも最高に面白いんだって思わせるとかすればいいのに。それだと偉大なラグビーがサッカーのそれも女子の後塵を拝することになるから絶対に嫌だって? 言われそうだなあ。まあ頑張って。蜃気楼元総理閣下。

 さあて試合だ我らがU−20サッカー女子日本代表とナイジェリア代表との3位決定戦は準決勝のドイツ代表との試合のようには開始早々に攻め立てられることはなく、守り攻める感じで互角以上の戦いをしてまず1点を奪いそ前半を折り返す。途中、先発の横山久美選手が交代したのは怪我の影響もあったのかもしれないけれど、まるで走らずドリブルも止められるようであやはりちょっと使いづらい。残念だけれど今の代表に残れるレベルに来てなかったってことで次ぎの機会を狙って再起を願いたいところだけれど、そういうマインドを持てる環境にあるかだなあ、宮間あや選手が叱咤したところでチームで王様やれちゃうと、そこに安住してしまうものなあ。INACレオネッサで田中陽子選手が試合に出られないのとまるで正反対。そして結果は。そう考えるとチーム選びって重要かもなあ。

まさしくノーサイドって感じ  後半に日本代表はさらに得点を奪ったものの、ナイジェリアも強さを増して攻め立ては1点を返してさらに追いかける。ハイボールを手に当てながらも後ろにこぼす感じだったキーパーは不運だけれども、ちょっと残念でもあるかなあ、あそこあ確実に上に弾くべきだった。あるいは遠くに。そこを鍛え直していかないと海掘選手、福元選手の壁は抜けない、山郷のぞみ選手すらも。とはいえどうにか凌ぎきって見事に3位の座を確保。この世代では初の快挙を割とやすやすと成し遂げてしまった感もあるけど、ここまで来るのにそれこそ10年、かかっていることを思うとやっぱり不断の努力というものが必要だってことがよく分かる。千里の道も1歩から。そしてこれからも同様に1歩1歩、確実に登っていく気構えをみせないとすぐに追い越されてしまうから要注意。誇っていいけど奢らないで、明日のために精進を。そして2015年のカナダでの連覇を、リオデジャネイロ五輪での金メダルの獲得を。頑張れ日本、頑張れ女子サッカー。

 そして続く決勝はアメリカが強くて速くて同じように強かったし速かったはずのドイツ代表をだいたい圧倒した感じ。紙一重ではあるんだけれどアメリカのサイドの選手のスピードが勝った一方で、ドイツのフィニッシュがちょっとバタバタとしてエレガントさにかけてしまって得点機会を作り出せなかったって感じ。遠目に売っても入らないし結構なシュートもキーパーの正面に行ってしまうし。とはいえアメリカを相手に1点しか与えなかったのはやっぱり守備の頑健さ、プレスもあれば最終ラインもしっかりしているその強さを、3年後のなでしこジャパンはもし出られればカナダでのワールドカップで相手にしなくちゃいけなくなる。これは大変だなあ。もちろんアメリカも。ただでさえパワーがある上にスピードまで加わってそして守備もしっかり。突き放されないためにもなでしこジャパンとしてはやっぱり攻撃のパターンを増やし厚みをましていかないと。それができるはずだから。誰の下で? それはちょっと悩みどころかなあ。

 終わった途端に歓喜を見せるアメリカと、座り込んでなかなか立てないでいるドイツの対比は決勝という場で勝者と敗者が生まれるという現実の前には仕方がないこと。とはいえカップ戦の場合は同じファイナルに進んだチームは共に讃えられるものであってだからそれを裁く審判もメダルを授与されるという栄誉に浴する。たとえ敗れて銀メダルであってもそれは讃えられて当然だし、自ら誇っても何に恥じることがない。だからなのかアメリカ代表は表彰台へと先に向かうドイツ代表を挟むように2列に立ってその間を通り抜けさせ、見当を讃えて送り出した。直前には3位の日本代表も同じように送り出してくれたあたりに試合が終われば同じサッカーピープル、そして女子サッカーの仲間と思ってくれているんだろう。有り難い。そして嬉しい。これが世界共通の基盤となってサッカーを支えているんだろう。こんな光景を次ぎに見られるとしたら速くても2019年ってことになるのか。まだ分からないけれども開いて欲しいなあ、女子のワールドカップを。そして先に見せて欲しいなあ、世界と繋がる素晴らしさを。何に? 蜃気楼に。


【9月7日】 売れすぎて売れすぎて、販売休止になったからしばらく食べられないかと思ったら、近くのコンビニに売ってたんで買って食べた「ガリガリ君 リッチ コーンポタージュ味」は、なるほどまさしくコーンポタージュ味だった。そりゃ当たり前。匂いも粒々のコーンを噛むような感じもコーンポタージュなんだけれど、その一方でしっかりアイスでもあるその複合的な食感を例えるならば、夏場に全部「冷」となった自動販売機に取り残された缶入りのコーンスープを飲んだ時に広がるだろう味わいって感じ。それよりはキンキンに冷えてちょい凍ったらこういう感じの食べ物になるんじゃなかろーか。不味くはないので機会があるならお試しあれ。次は「ガリガリ君 リッチ ミネストローネ味」とか出るのかなあ。それとも「ガリガリ君 超リッチ フカヒレスープ味」とか。

 民主党の代表選に立候補するて記事と立候補を見送るって記事とが読売と朝日でぶつかりあった朝に流れたNHKのニュースは見送りで朝日の勝ちとなた細野豪志環境相・原子力相。これで読売の記者にはどんなペナルティがあるんだろうかとドキドキだけれどナベツネがそう言ってたって理由だったら誰もお咎めなしになるんだろうなあ、そういうものだよ、そし他でもてそういうものだったよ。しかしこれだけ人物として話題になっているのに、その出たばかりの著書の評判があんまり聞こえて来ないのは、大量に出る本の中に埋没してしまっているからなのか、今を持ち上げるのあ得策ではないといった気分がメディアなんかにあるのか。橋下さん安倍さんの著書とかはバンバン取り上げるのになあ。不思議。

 あるいは虐める対象にメディア的になっている菅前首相への味方がとっても優しいからなのか。「証言 細野豪志 『原発危機500日』の真実に鳥越俊太郎が迫る」(講談社)は、あの東日本大震災の時に補佐官として菅総理の傍らにいて、状況をつぶさに見ていた細野さんが他の調査報告書でも、記者なんかによる取材にもほとんど開かなかった口を開いてつぶさに当時の状況を語った書。言うなれば歴史の証言とも言える本だけれどそれを出すに当たって細野さん的には、古来より残る政治家とかの証言が、たいていは自分の都合のよいような話ばかりに埋め尽くされていて、歴史を語る上でまるで使い物にならないという認識があって、それならちゃんと正しい証言というものを、言葉として語り本として残しておきたいちという思いがあって、それを可能にしてくれる相手を捜していたらしい。

 そうして選ばれたのがジャーナリストの鳥越俊太郎さんで、ただ相手の言い分を書き流すだけじゃなくって疑問があれば追求し、異論があればそれも聞かせた上で細野さんが見たもの、聞いたことを記録して、未曾有の災害が起こった時にいったい官邸でどんなことが繰り広げられていたのかを、世に真っ直ぐに伝えようとしたみたい。しばらく前に聞いてそれがようやく刊行になったのが、代表選だの総選挙だのといった時期になって対策だどうだと言われているけれど、そういった打算は企画された当時はまるでなくって、ただ純粋に歴史に正直でありたいという思いが細野さん、鳥越さんにはあったって、そう鳥越さんが話してたのを聞いたっけ。でも世間はそうは思わないんだよなあ。かくして違反され、あるいは埋もれていく貴重な証言。菅総理への前向きな感情がそもそも世間で受けるはずがないんだろうなあ。そういう気分で動かされる世界の行く末がちょっと怖い。

 凄い話を書く人だとはデビュー作の「[映]アムリタ」の頃から分かっていたけど、これほどまでに凄まじい作品を書いてしまえる人だったとは流石に予想していなかった。そんな「2」(メディアワークス文庫)という作品は、野崎まどという作家の集大成とも言える総合的な内容を持った作品で、そして次のステージへと向かわせる革新的な設定を持った作品。冒頭こそどこにでもいそうな演劇青年が一念発起しして人気劇団のオーディションを受けて合格し、集まった先で先輩たちの稽古をみせられその真摯さに新人の大半が脱落していいった中でかろうじて残った3人が、正式にメンバーとなっていよいよこれから演劇の世界に革命を起こすんだといった、芸術の難しさと青春の輝かしさを描くストーリーに見せておいて、いきなりギロチンを落とすかのように予想を断ち切ってとてつもない方向へと物語を持っていく。

 ほとんど冒頭で示された、そんな転換の場面も読めば驚きだけれど、その先に演劇青年が天才と目されている女性の映画監督に出演しないかと誘われて、1本の映画を撮り始めてからの展開がまた驚きの連続。確実に面白くなる映画だと主張する最原最早という名の女性監督が見せる態度は、退屈している大金持ちを動かして3億円もの製作資金を引っ張り出し、最も面白い作品を書けるという小説家を捜し出してはその小説家を動かしシナリオを書かせてしまい、どんな演技も楽々とこなす1人の女優を呼び寄せそして、取り柄のなかった青年にも彼女に並ぶ演技をさせる。

 ある面では、芸術にかける女たち男たちの諸相を描く群像劇のようでもあるけれど、「[映]アムリタ」で人の記憶のみならず、人格までをも操作して別人にしてしまえる映像の存在を示唆してみせた野崎まど。また「小説の書き方」では、人間ならぬ存在にも小説を書ける可能性を、それも人間以上の小説を作り出せる可能性を示唆してみせ、「死なない生徒殺人事件」では、永遠に生きる存在の謎を描き出した野崎まどだけあって、あっけらかんとした青春映画ストーリーには落ちるはずもなく、作り出される映画がいったい誰のためのもので、どんな内容で、そしてどれだけの影響力を持っているのかが問われ、その謎に演劇青年と出資者が迫るミステリー的な展開がそこに組み込まれる。

 青年が高校で生物についての授業を聞かされたこと、彼女の過去の言動などからそうした目的が何かを探り出せれば勝てたかもしれないその勝負。けれども、青年の思惑も聡明な出資者の想像も越えた仕掛けを最早は用意して、当初からの目的を果たす。これも驚天動地の仕掛けっぷり。過去にそうした設定を用意して、小説を1本書いてしまったことがまさかこの長編の前振りだったとは。これは他の過去の全作品についても言えることで、天才映画監督に天才小説家に、人の心を読む狐面の女に聡明な少女といった登場人物が組み合わさり、折り重なって描かれたタペストリーとして「2」という小説は形作られ、なおかつ「[映]アムリタ」によって示された主題をも超える人間の、生命の未来の姿を示唆するようなクライマックスが打ち出される。とんでもない作品を書いたものだ。だからこそこの先がどうなるかが心配だけれど、そこはアイディアの宝庫、キャラクター造形の天才。恐れず臆さずに新たなアイデアとキャラクターを持った作品を送り出してくれるに違いない。野崎まど3.0なのかそれすら超えるバージョンなのか。期待して待とう。そして驚こう。


【9月6日】 ワールドベースボールクラシックへの日本の出場が決まってまずは善哉。アメリカのMLBが主体となって運営しては全世界のとりわけ日本から多く集まるスポンサー収入をかっぱぎ、その上で大くをMLBへと分配して、日本にははるかに少ない金額しか分配されないといった不平等条約では、選手たちもやってられないなって気にもなるかもしれないけれども一方で、全世界的に広がりをまるで見せないどころかオリンピックから閉め出され、クラブチームの交流もほとんどないような野球が未来、どういった末路をたどるか想像した時に、未だ人気と実力を保っているアメリカが主体となって野球を盛り上げようと開くイベントに、日本が参加してその人気の分け前を与るってだけでも意味がある。

 人気があるのは男子ばかりだったサッカーで、女子がどうにかこうにか知名度を保ててきたのも、アテネ五輪という場になでしこジャパンとして出場を果たすというドラマがあり、北京五輪でメダルを狙うところまで行ったという成長があって、そしてワールドカップでの優勝を挟み、ロンドン五輪で初の銀メダル獲得という栄誉を成し遂げ全国的な認知度を得たから。それを同じことを今、野球はする必要のないくらいにそれなりな人気を保ってはいるけれど、未来、同じような人気を獲得していけるという補償はなくって、むしろテレビ放送がなくなって野球に触れる機会が減っている状況で、どんどんと衰退していくだろうといった懸念すら浮かぶ。それも実現性の割と高い懸念として。

 そんな状況下で開かれるWBCは、野球が世界を相手に戦う場としてほとんど唯一であって、五輪から削られた今そこしかない舞台に集まる注目は計り知れない。そうした舞台での活躍は、ドメスティックには衰退しつつある野球への認知を高め、さらに大舞台が容易されているという認識を与えて多くのファンを、そして選手を野球の場に呼び込む効果を果たすだろー。日本のプロ野球だけでは、あるいは甲子園だけではもはや夢とか希望とかを、そこに見出しづらくなっているだけに、WBCの存在と、そこへの参加は大きな意味を持つんじゃなかろーか。だから参加するべきだったし、参加を決めたのは本当に良かった。別に野球ファンではないけれど、1つの文化が途切れ衰退するのはあんまり嬉しい話じゃないからね。

 現時点で不平等なのは仕方がない、国内でいくら活躍してもそこに栄誉は与えられないと分かって、日本の頂点に立つ選手たちが世界最高峰の舞台ともいえるMLBに進んでいく状況が、野球というスポーツに置けるMLBのブランド価値の高さを示している。そこにすがるなら相応の手数料を支払うのも仕方がないこと。嫌なら日本のプロ野球が世界から憧れられるリーグとなって君臨し、多くの夢を吸い上げお金も集められるようにならないと。そうなれば韓国や台湾といった国々からも参加があって、そしてまずは東南アジアから、そしてオセアニアや中央アジアやユーラシアといった感じに野球を広げていける。やがてFIFAのような組織も立ち上がって、真の意味でのワールドカップ的な大会を開けるようになるけれど、今はまだ荷が重い。役者が不足している。だから未だ過渡期なんだと認め、偲びつつWBCに出て勝ち続けるしかない。世界が認めてくれるその時まで。来るかなあ、そんな未来。日本の野球が企業スポーツとして広告塔の役目を果たす方に意識を傾けている状況が続く限りは、やっぱり無理かなあ。

 四半世紀前だったらそう、決して嬉しい話ではないにしてもそうした犯罪に走る人間の心性に、創作物が何らかの影響を与えたんじゃないかという推察からそうした創作物を叩き、それらを嗜んでいる者たちを叩く記事なんかが、新聞紙面やテレビ番組を飾ることは仕方がなかった。けど、長い年月が経ってそうした状況下で叩かれた者たちも大人になって違うってことを、身をもって証明できるようになり、また、そうした創作物がむしろ昨今の日本のコンテンツパワーを支える力にもなっているんだという認識も広まって、真正面からぶっ叩くような頓狂な意見が出るなんてことはあるはずがないと思っていたし、やったらむしろ恥ずかしいとすら感じていたんだけれども、オレンジ色の憎々しげな新聞ばかりは四半世紀が半世紀であっても、凝り固まった観念を変えず構図をいじらず旧態依然とした論法を見せては、満天下に恥をさらしている。

 「都内の繁華街を歩くだけでも、小学生ぐらいの女児にきわどい水着を着せるわいせつなDVDが書店の商品棚に並んでいるのが目につく」っていったい、どこの町を歩いているんだろう、そんなあからさまな陳列を行っている場所なんて、秋葉原にだって歌舞伎町にだって存在しない。もしかしたらローティーンのメンバーがフィーチャーされたAKB48の広告か何かか。そうしたアイドルの低年齢化を誹らないで、特殊な方面だけを論い批判する口がどうにも見苦しい。「幼女を模したアニメキャラクターを『監禁調教』するパソコンゲームも少なくない」ってそんなゲームがどれだけある? 具体的な名を挙げてみろってんだ。粗雑な論旨に多くが呆れて声も出ないみたいだけれど、それを沈黙と思いやっつけたと感じてさらに暴れるようなら、オレンジ色の憎たらしい新聞に明日は来ないだろう。トレンドの埒外を彼岸へと突っ走る存在として、記憶から消去されていくだろう。そこで気づけば良いんだけれど、気づければそもそもそんな無茶を書いてない。だからいずれにしてもやっぱりダメだこりゃ。

 水本裕貴選手が出場した、ってことでまずは良かったサッカーの新善試合の日本代表対UAE戦。アフロな彼とかいたりする上にパスも正確でその上にスピーディなUAEの攻撃をどうしのぐかって苦労もあったけれどもそこはちゃんと人をマークしカバーにもはいって相手の突出を許さず0点に抑えて役目を果たした。その俊敏な動きを見ればザッケローニ監督も、今は出場停止選手の“代役”扱いだけれども遠からずレギュラーとしてセンターバックの座を吉田麻也選手とともに並べ置くようになると思いたい。思えば紆余曲折あったなあ。そして攻撃陣の方はといえばトップに巨大なハーフナー・マイク選手を置いているのにそこにボールを放り込むってことがあんまりないような。本田圭佑選手とか動きも良くて強さもあってシュートも放ってと大活躍だったけれどそれでも無得点。知恵がある割には運がないいつものパターンをさらけ出してた。シンプルに、そして確実に。それができないと上はキツいぞ。ザッケローニ監督もパターンがないよなあ。まあ誰もそうだけど。オシム監督以外。信者なんで。


【9月5日】 しゃあなしだ、相手は体格も大きい上に攻撃もスピーディーで正確。それを初っぱなにやられて体制の整っていないヤングなでしこたちが対応できるはずもない。まず1分で1点を奪われそして2点目をとられて3点目をヘディングで叩き込まれて前半だけで3対0。ここで横山久美選手をいれたけれどもドリブル突破が持ち味の横山選手なだけに守備を固めたドイツはさすがに抜けないみたい。パス出しとかでは冴えた動きを見せていたっぽけれどもそういう方向に進みたいならいざしらず、女メッシとも呼ばれかねない才能がそこで止まっては勿体ないので次のナイジェリアの試合では、守備のユル目なところを切り裂くドリブルを見せてもらえれば重畳、それで自信を取り戻し、かつての体重も取り戻して一気に頂点へと行って欲しいけれども、さてはて。決勝と3位決定戦、見に行くぜ。

 モイドって何者、って以上にアステリアたんの何者っぷりも明らかになった「輪廻のラグランジェ2」。2万10歳とかってどこの悪魔だよって突っ込みたくなるけれどもあの外見で2万年前からずっと生きていたのかそれとも途中で眠り起きて時代をたどってきたのか。謎めくなあ。そしてきっとその秘訣を知りたい人も多くいそうだなあ。一方のモイドはディセルマインを使って悪巧み。ビラジュリオがもう彼を裏切りたくない、疑いたくないって言っているのにディセルマインと来たらもう相手を疑ってばっかり。良いところのお坊ちゃんはそのあたりが弱いのか。でもそれが大規模な戦闘を引き起こして鴨川は大変そう。キリウスとアレイは帰っちゃったけれどもその先があんななんでやっぱり戻ってくるのかな。そしてもう戦わないと決めたウォクス・アウラをまどかはまた動かすのかな。一向に進まない「エウレカセブンAO」と違って毎回ギャグも交えながらちゃんと話が進むなあ。そこは感心。

 せっかくだからとインターナショナルギフトショーをのぞいたらタカラトミーから「ファービー」が復活してた。前に出た時は確か博品館に行列して買ったなあ、取材がてら。あれから干支がひとめぐりくらいしてそうな期間に技術も相当に進歩した模様で、目がシャッターの下がるような感じではなくなり液晶になっていろいろな表情を自在に見せられるようになっていたし、動きも前は耳が動いたくらいだったのが身を曲げたり、底に板を出し入れして方向を変えたりするような動作を行えるようになっていた。

 その分動きも派手になって静かな環境で眺めるのはちょっと大変かも。前のはあれで結構、モーター音とかしてうるさかったんだけれど今回はどうだろう、そのあたり改善が進んでいるんだったら置いておいてもいいかな。2つを近づけると会話したりするのは上等として、iPadとかからデータをワイヤレスで入れると反応を返す仕組みなんかもあって現代的。そうした遊びの幅が広がった分、値段も上がっていたけど今の玩具って効果だから気にせず買う人も多いかな。「ももいろクローバーZ」のPRも効果あるかな。どうして1人寝坊したんだろ。それは謎。

 あとタカラトミーアーツでは「夜空におえかき」ってものを出していて、手にしたペンライトみたいなものを動かしてその姿をiPadとかiPhoneで撮影していくと、夜空に光で絵を描いているような簡単なアニメーションが作れるというもの。そのプレゼンテーション的な映像を見て前に文化庁メディア芸術祭とかで見た、神戸に拠点を置いて活動している「トーチカ」ってアーティストユニットの作品に似ているなあ、なんて思っていたら映像にその「トーチカ」のナガタタカシさんが出たりしていてつまりはオフィシャルに「トーチカ」のアドバイスか何かを受けた玩具だと分かって一安心。先見をそのまま見まねで作ったものじゃなかったんだ。

 ちょっとづつ動かしたものを撮り重ねていって描き出される文字や模様の美しさ。「トーチカ」の作品は見れば感じられる楽しさがあって好きだし、震災のあとは電気を使わず太陽光だけで文字や模様を描こうとする試みもやっていて、ひじょうに前向きで高感度の持てるアートユニットだったりする。もっとも「夜空におえかき」ではやっぱり「トーチカ」が作っているような映像はiPadとかのアプリを使って作り出すのは難しそう。とりあえずはこれでタイミングとか図っていった上で、やがてデジタル一眼とか使って自分自身の「トーチカ」的な作品を、作り出していくためのステップにしていければ、って感じかな。アートと玩具の結節点的な品物。こういう進取のアグレッシブさが玩具って業界の強さなんだろうなあ。

 コントロールベア、ってTシャツ屋さんがデザインをしてじわじわと流行を始めている首を取り外して持ち上げたクマのキャラクターがグッズ化されてあちらこちらに展開され始めていたり、なめこのグッズがこれもあちらこちらにあったりとして昨今のトレンドが見えたインターナショナルギフトショー。あとは電通が「豆しば」に続くオリジナルキャラクターとして展開し始めた「はこいりねこ」がちょっと面白かったかな、マトリューシカよろしく大きな猫の中に小さい猫が入っている、という設定でそれにいろいろなキャラクター属性が着けられている、といった感じ。

 アメリカナイズされていたりイギリス生まれだったり引っ込み思案だったりと多種多様。「豆しば」の「ねえ知ってる」のようなインパクトと笑いを含んだ問いかけでもって周知をはかれるかっていうと謎だけれどもこれはこれで別のアプローチでもって、広がっていくことになるんだろう。何しろ電通、持ってるアニメのCM枠にぶっこんで知らず認知させていくことができるから。「豆しば」もこれで何年も続けてここまでのキャラクターになったんだし。でも地道っちゃあ地道だよね。それもまた縁の下を支える電通らしい取り組み方、なのかも。

 ギフトショーで意外だったいとつはGAINAXの出展でなるほど手塚プロダクションがずっと出展していることを考えるなら、アニメーションスタジオが出ていて不思議はないんだけれども基本、手塚キャラを使ってビジネスをしているハウススタジオ的な手塚プロダクションならともかく、外部の作品を依頼されアニメーション化するビジネスが多いアニメスタジオが自前でハンドリングできるキャラをいっぱい持ち寄り商品化の商談をする、ってことはなかなかない。というかできないんだけれどGAINAXの場合、過去から自前で作ってきたキャラが割とあったりするからそれが可能だったりする。あとはタツノコプロとかも可能かな、オリジナルの宝庫だからあのスタジオは。

 7月のライセンシングジャパンだっけ、GAINAXはそこにも出ていたけれど今回は桁違いに人の集まる義父とショーの場で、過去からあるキャラを並べて本格的に展開する模様で懐かしい「DAICON4」のキャラから始まり「天元突破グレンラガン」や「フリクリ」といった傑作オリジナル作品も並んでた。あと「ネギマン」ね。どれも映像は終わってしまっているけれど、留め置くには勿体ない良作ばかり。ライセンス展開とともに映像のHD化とかBD化とか、動くと良いなあ。GAINAXのブースではダイコンフィルム時代からの映像なんかも流れててなつかしの「愛國戦隊大日本」とかもチラと紹介。ほかフェンス・オブ・ディフェンスのPVとかも流れていたけど、知らないなあ、いろいろな仕事をして来たんだなあ。行かれるかたは是非にお立ち寄りを。


【9月4日】 「足りない本部」はいったい何が足りていないのかを、考えるととっても思考がネガティブな方向に行きそうだから考えないようにしたいけれども目の前に、あのアデーレ・バルフェット従士の足りていない姿を見せられるともう不憫で涙が流れ出す。なおかつそこに加わる鈴さんというこれも足りてない美少女の存在が、一方でマルガ・ナルゼを相手にハイパービンタを食らわした葵・喜美の足り過ぎているっぷりを際だたせてなおのこと「足りない本部」への同情を醸し出す。本当、あの一党は両極端ばかりで間がいない。敢えて挙げるとしたら誰だろう、ナルゼあたりかそれともオリオトライか。いや先生も存分に足りてるし。

 そんな喜美のハイパービンタは本で読むならその場でクルクルと帯を抜かれる女郎さんみたいに回るだけかと思ったら、余りに強い回転でもって宙へと浮かんで彼方へと飛んでいこうとしてそれをジャンプして喜美が引きずり降ろすというスーパー展開。本編だと逆に張り手を食らわせるんじゃなかったっけ違ったっけ。喜美は喜美で「LOVEなめてんの!」という名セリフ。いやああの人の前でラブを舐めてははり倒されます飛ばされます。あの程度で住んだのは同じ教導院のクラスメートだったから、なのかな。ところでナルゼのお父さんって何やった人なんだ。それを言おうとした時のマルゴット・ナイトの顔がマジだった。目が開いてた。よっぽどの人なのか。いろいろ鏤められているなあ、伏線が。果たして最後にまとめて回収されるんだろうか、「境界線上のホライゾン」って作品は。見守るしかないなあ。

 もったいないなあ谷垣禎一自民党総裁。この人は国会議員の中でも希にみる自転車乗りで超党派で作る「自転車推進議員連盟」の会長を務める一方で、自身もロードレーサーに乗ったり今は無き神田はアルプスのパスハンターって優れた峠越えの自転車をオーダーしたりと実践にも優れた人。そんな人が総理となれば日本中に自転車専用道路ができて車とか、走る人とかと共存するような生活圏ができる上に町中とか自動車よりも自転車を優先させては排気ガスの抑制なんかに資する政策をバンバンと打ち出してくれたに違いない。一方で日本中をツーリングするような風潮も醸し出しては観光を振興し、なおかつそうしたツーリングに耐える自転車を持とう作ろうという動きから日本の自転車産業そのものも、復活へと向かったかもしれないんだけれどここに来ての谷垣降ろし。いったい何が不満なんだろう自民党の長老たちは。

 維新の会を引っさげ出てくるだろう橋下徹氏に勝てない? まあ知名度とか人気ではそうかもしれないなああ。でも個人的に橋下氏が大阪府知事、大阪市長のいずれの時代に何か府民市民の暮らしの向上に役立つことをしたって記憶がない。何とかセンターとか何とかオーケストラとかいった団体への支援を減らし教育へと振り向けていたお金を削って市民の負担は増しつつ一方でそうした支出を減らした分だけほら財政がこんなに健全になりましたとか言っていったい何になる。家系で支出を減らせば食えなくなって死ぬ人が続出する、それを府とか市とかの規模でやってどうしてあんなに未だ支持があるんだろう。労組を虐めてそれに喝采を贈っている若い人とかいるけれど、いずれ自分が働く立場になって誰からも守ってもらえなくなるって分かってないのかなあ、分かってないんだろうなあ。なので自民党には谷垣総裁ではなくてもせめて石原幹事長か、町村元外相に勝ってもらって安倍ちゃんの復活だけは阻止してもらいたいもの。世界が真っ当ならそうなるはずなんだけれど真っ当じゃない世界は3年まえにやらかしているんだ、民主党政権の誕生という事態でもって。

 ちょっと目を離している隙に日本に進出していたネットで映画とかドラマを定額で配信しちゃうサービス「Hulu」のカンファレンスがあったんでどんなものかを思っていったらパートナーを招いて握手をしたり派手なプレゼンテーションがあったりするようなものでは全然なくって日本の代表の人が来て20分ばかり喋って終わるとってもシンプルなものだった。それでいてちゃんと要点は伝わるから別にこれで良いのだ。偉い人が来たって本当のことを言わなければ意味がないのだ。電子書籍がすぐに何万点になるとかね。んでもってHulu、これまでも映画とかドラマとか日本のタツノコのアニメとかを流していたんだけれどそこにGAGAの映画とそれからウルトラマンシリーズの6作品が加わるとか。

 いやもうそれを見てバンダイチャンネルを見てワーナー・オン・デマンドを見てそれからニコニコチャンネルとか見ていれば民放なんか見なくてもよほど楽しい時間を過ごせそう。ニュースは流石に見なくちゃいけないけれどもそれもNHKがあれば十分だし。スポーツも見たいものってそうはないし。って聞くと大多亮専務が朝日新聞紙上でいくら3人とか優れたクリエーターがいれば簡単に巻き返せるといったって、世間はとっくにそれを優れた作品ものとは思わなくなっているんじゃないかって思えてきた。記事ではあれやこれや確信めいたことを言っているけれど、この人が現場にいた時代からすでに凋落は見えていた訳で。映画も残滓として当たっているけどそれもクライマックスだからこそ。その先に育つだろう芽がまるで見えない中を、いったいどうするんだろう日本の民放。かくしてアニメと海外ドラマと映画と過去の優れたアーカイブが席巻するという映像メディア。反対に廃れていく民放テレビ。そのおこぼれを与っている紙メディアの未来は。まあダメだろうね。既にダメなんだけど。うん。

 なんかエレベーターのCMにスカイツリーが出てきてそのバックに流れている曲が山下達郎っぽかったんで聞いてみたら出だしの声に絞りつつ吹き出す感じが達郎っぽいなあと思ったりサウンドが全体に達郎っぽいなあと思ったりサックスが鳴り響く感じが達郎っぽいなあと思ったりした「あの空のむこうがわへ」。ただやっぱり達郎さんの場合は歌そのものにメロディがあってサビだけじゃないんだけれども「あの空のむこうがわへ」はそのあたり、サビのイメージが強い割にメロディがなかなか強くは伝わってこないという印象。それを声質とか歌い方が達郎さん方向に引っ張っているって感じかなあ。過去で言うなら村田和人さんとか山本達彦さんとか歌声的に近い人がいたしサウンドなら角松敏生さんがそのものだった。なんでそうした偉大な先人たちへと近づき超えるにはやっぱりメロディを持った歌を作ってその声で歌いサウンドで鳴り響かせる必要がありそう。って別に達郎さんをやろうとしている訳じゃないから良いのか。ジャンクフジヤマさん。頑張れ。


【9月3日】 ふと気がついたらなでしこリーグで始まっていたカップ戦がいよいよ準決勝まで来てINAC神戸と伊賀FCが戦って神戸が勝ち、それから日テレ・ベレーザと新潟レディースが戦ってベレーザが勝って9日の決勝はINAC神戸と日テレ・ベレーザというある意味での現時点での黄金カードになった模様。場所はNACK5スタジアムだから昔の大宮スタジアムってことで歩くと多いなあどうしようかなあ、なて思っていたらチケットぴあからメールが来てチケットを引き取れってことだった。買ってたんだった忘れてた。そういうことって最近あるよね歳だしね。

 問題はそんな頂上決戦とは別にお祭りのオールスターも一緒に行われるってことでワールドカップやロンドン五輪の代表メンバーがズラリと並ぶ神戸とベレーザがカップ戦に抜けて、オールスターも何もないんじゃねえかって思ってしまうのもまあ当然。そこに頂上決戦とはまた違った華やかさを見たかった人にはちょっぴり寂しい話だけれども考えようによっては超人気者たちがチームの試合に専念することによってそこに入りきれなかった選手たちに、ひとつのチャンスが巡ってきたとも言えるかも。湯の郷Belleの宮間あや選手や浦和レッズレディースの荒川恵理子選手といった人気者たちに混じって若いこれからの、でもU−20には外れている選手たちを見られるチャンスが増えたと思えばこれはこれで見物かも。天候は不順だけれどこれは行こう。でもやっぱ国立でやって欲しかったなあ。晴れ舞台なんだから。

 経緯も情勢もさらっと上っ面を撫でた程度ではっきりしたことは言えないけれども例の「ココロコネクト」の偽オーディションの一件とか、何でこんなに騒ぎになっているんだろうとうのがまずは所感でそりゃああんまり上品とは言えないけれども、中堅の声優さんをここで起用して偽オーディションから騙してましたご免なさい宣伝してもらいます云々って流れから1人、大きな枠組みの中に入れ込んで仕事が増えました的な帰結でもって、普通に収まるんじゃないかってのが外野的な印象だったけれどもその過程で妙な正義が沸き立って、騙しは良くないとか声優に失礼だとかいった憤りばかりが濃縮されては拡散されて、話が大事になってしまって引っ込みがつかなくなってしまった様子。

 そこでご免ちょっとやりすぎたとか言って話をスルーしてれば良かったんだけれども、どうにも内輪の不穏を指摘されたのが悩みの種だったのか、火消しをしようとしてそれがまた現場に責任をおっかぶせるようなものだとか言われてさらに炎上中。現場で声優さんたちが謝りスタッフが謝るといった事態に発展してしまったけれどもこれってそんなに騒ぎ立てることなんだろうか。どこまでがアングルでギミックなのか分からない状況で、外野がガチャガチャと騒ぎ立てて良い話でもないし、ちゃんと落としどころもあって万々歳な状況になっているのに何故か酷い迫害があったような印象でもって語られている。作品の評判にまで影響が及びかねないと慌てていろいろ善後策を打ち出してきたのが昨今の相次ぐ謝罪なんだろう。

 でもなあ。本当に全部が全部、シークレットに進んだのか。そして誰かを貶めようなんて意図があったのか。そもそもが市来弘光さんてそんなに振りまわされて嘆き悲しむ若手でもなくって、それなりな仕事もして来た人でそしてこれからぐんぐんと延びていく人。だから、たとえ知らされてなくても要点はつかんでここからひとつと思ったものが妙な騒ぎで悲劇の主に祭りあげられ、結果他の人との溝が深まってしまったかのように思えてしまう。全部ぶちまけたらアングルもギミックもつまらなくなるのにそれを求めて高らかに叫ばれる正義。というかきっと正義を言って自分が良い側に立ちたいって思いもきっと糾弾している人にはあるんだろう。ほっときゃいいのに。騒ぎに乗じて騒ぎ立てたくなる心理。それがあちらこちらで起こって妙に息苦しい世の中になっている。いよいよ首が絞まってきたなあ。市来さんにはむしろあっけらかんと突き抜けていって欲しいなあ。

 語り手の視点がコロコロと変わる小説が新人賞に応募されてきたとしたら多分、よほど巧みに切り替えがなされていなければそれは、綴り方を会得していない証だと感じて却下するんじゃないかとまあ、思ってみたりしているんだけれど、十階堂一系ってまるで知らない新鋭の「不完全ナックル」(メディアワークス文庫)視点が2人どころか登場する人物たちの数くらいに切り替わってもこれは誰が何をしているんだといった疑問はあんまり抱かず、彼女たちと一部に彼がそれぞれに出会い感じた事柄が順繰りに綴られて行ってひとつの流れを作り出すような展開が、むしろ全体像を受け止めやすくして物語に気持ちをのめり込ませる。それは巧みというより大勢のそれぞれを語ろうとして生まれた必然のスタイルだからなのかもしれないなあ。

 小学校では空手をやって山梨県のチャンピオンにもなったという雅野京歌だったけど、高校は女子校でそこでも空手なんか当然やらずに文科系の部活をやろうと考えていたら、同じ学年の森友子という女子がなにを考えたか高校に空手部を作りたいといって、経験者だと聞いた京歌に入部を誘いかけてきた。断る京歌だったけれども入ろうとした文芸部にはどうにも居場所が得られそうもなく、一方で空手部創設に邁進して町道場を見に行くことになった森友子に付き添うような形で京歌が引っ張り出され、そこで山梨時代に対戦して破った少女を見たりもしつつやがてなし崩し的に空手の指導をするようになり、そしてかつてのライバルとの対戦へと向かって行く。

 これを完全に京歌視点で描けば挫折というかリタイアしていた空手少女が昔とった杵柄を、周囲の働きかけから蘇らせて行く回復の話に収まってしまうんだけれど、「不完全ナックル」はそこで視点を散らすことによって、様々な形の青春があってそれぞれがそれに向き合っているんだってことを教えられる。中には京歌の体育会的雰囲気をように嫌って文芸部に入ろうとした京歌を半ば騙して遠ざけるように空手部へと向かわせた陽子というやや性悪な少女の視点もあって、その毒を食らう京歌への同情めいた感情と、陽子へのネガティブな感情が浮かんで全編をスッキリとは読み通させてくれないけれども、それだって一方の思い入れや思い込みが、他方には迷惑で鬱陶しいこともあるんだという、多彩な感情を示す意味を持った構成と言えるかも。

 他にも小学校の時に京歌に敗れ続けた少女の思いとか、京歌を見続ける弟の思いと言ったものがあって、それらが絡み合って行くことで、空手部を中心とした少女たちの青春のタペストリーが織り上がる。一人の肖像画では決してないない大勢の描かれたタペストリー。それがこの物語であり、書き方が持つ意味なのかも。ちょっと森友子の存在や動機が脇に追いやられて目立ってこないところもあるし、喜多山という万能な少女の謎めいたところも気になるけれど、とりあえうは京歌が過去に決着をつけ、自分自身の気持ちを優先させることが見えて始まる新たな高校生活。その先にある勝利なり感動を、これからの展開で見せてくれれば嬉しいと言っておこう。


【9月2日】 やっとこさ見た「エウレカセブンAO」は何かちっとも話が進んでいなかった様子。連合軍にクオーツの銃といっしょにとっつかまったレントン、じゃなかったアオを相手に味方になれと契約書を突きつける軍人さん。一方でゲネラシオンブルでは美少女2人がもやもやとしつつもやっぱり助けに行かなくっちゃと動き出しては味方の制止をぶっちぎって連合軍の空母まで行きそこで脅しをかけるとアオくん、僕には帰れるところがあるんだと行ってそのまま振り切りニルヴァーシュとクオーツガンをともに担いですたこらさっさ、へいさっさ。

 結局居場所を確認しただけで展開はまるで進まなかったけれどもこれできっちり世界の敵と認識されたゲネラシオンブルを相手に向かう世界の軍事力。果たして。っていうのもしかしやっぱりストーリーの本筋から離れてしまっているなあ。スカブコーラルっていったいだったら何なのさ。消えてしまったゴルディロックスはもう帰って来ないのかい。クオーツとシークレットの関係は。全部ぜんぶ置き去りにしてうじうじとしたアオの懊悩と覚醒とそれから懊悩ばかりが繰り返されてそれでいったいどうやって話を終わらせるのか。世界を語るのか。繰り出される必殺技。「続きは映画で」。うーん。それもありだけどそれはイヤかな。残る話数でのまとめに期待。

 やっと見た「うぽって!!」が妙にユニークでシリアスだった。冒頭でバスに載って「丘を越え行こうよ」と歌っている楽しげなテンプレート的雰囲気に今回もいつもどおりの擬人化銃少女たちによるメタ的な日常が繰り広げられるのかと思ったら夜中に戦闘が始まりそこで3人がまず打ち倒されるという事態に。急所を狙っての攻撃は本気モードでそれによっていちろくやふんこたちも本気モードの戦闘を始めようとしたところであちらこちがで大爆発。熱海からもう出られないような状態になって果たしていったい何が起こるのか、ってところで終わって次が楽しみだけれどそれよりもふじこ先生の眼帯はずして髪を下ろした姿がとっても美人だった胸もデカいし。そっちに目も奪われるってものだ。なあおい。

 人権委員会とやらが作られそうでそれが何か恣意的に特定集団に対する批判を表現の自由に保障された言論的行為と受け取らず、排除から弾圧へと乗り出さないかという不安はやっぱりあって、その運営に対する厳格さ、あるいは救済への道筋をちゃんと作っておいて戴きたいとこれでも表現に関する仕事をしていたりする身として、思っていたりはするけれども一方で、言論の自由を超えてただひたすらに悪口雑言をぶつけ誹謗中傷を連ねてもなお言論は自由だと言い募る面々の多さにも辟易としていて、こうした層を取り締まる上で今の法律が機能していないんだったら、あるいはといった思いすら浮かんであれやこれやと思い悩む。

 本来なら言論が居住まいを正して正統なる批判を行い、対象もそれに応じて議論し合うのが1番なんだけれども、共にそうも言ってられない切迫さ、あるいは偏った思考なんかからただいたずらに感情をぶつけあっては、議論にならない泥仕合へと向かいかねない。実際、とある新聞が1面の歴史と伝統のあるコラムでもってこの人権委員会への反意を書き連ねていたりするんだけれど、その結語で「民主党やどこかの国の悪口を書いて牢屋にほうり込まれるのはまっぴら御免である」とか書いていたりするところに、人権委員会がなければいったいどんな酷い言論空間、というよりそれは言論とすら呼べない音声による暴力的な空間が生まれるんじゃないか、といった心配が浮かぶ。

 正統な批判なら何を言おうがそれはそれとして認められる。相手が認めなくても世間が認めて批判を相手へと向けてくれる。でも悪口は違う。悪口には論理はなく正義もない。ただいたずらに相手を誹謗中傷し悪口雑言をぶつけることをやれば当然にして反撃され、方に乗っ取って処罰されて牢屋へ入れられて当然なのに、このコラムの筆者はそうした悪口を言って牢屋に入れられるのなんてご免と言い抜ける、いけしゃあしゃあと。言葉による暴力。それが人権委員会の有無に関わらず、悪いことだという自覚もなければ自省もない輩が、堂々と論説のトップを張って1面コラムに悪口言わせろと書いて恥じないそのスタンスが、いったい世間に認められると思うのか。思っているんだろうなあ。それは言論の感覚が麻痺しているというより、もはや言論のバランス感覚なんてものが存在していないに等しい。だからいろいろと問題を起こす。起こしまくる。

 正統な批判ではなく、ただ誹謗のためにミュージシャンを嘲って、それも当該のメディアに連載を持っているミュージシャンを嘲って一切の反省も見せないまま、ミュージシャンから呆れられ、もうこれはどうしようもないとそっぽを向かれてしまいそうになっているとか。これが危険な法案なり制度なり、異論がある対象なりに対して真正面から堂々と、論陣を張ってみせようとしたものなら、それはそれで真っ当なものとして、誰だって正義と認めるかはともかく正統と認める。議論の行方を見守ろうとする。でも悪口雑言は違う。誹謗中傷は違う。それは暴力に他ならない。だから普通のまともな言論人はやろうとしないところを、ここは何度も繰り返す。そして、いくら世間の非難を浴びようとも動じない。だってそれが悪いことだと思ってないのだから。かくして悪口雑言と誹謗中傷は、コラムに限らず全面を埋め尽くしては、呆れと落胆を生み、離反を呼ぶ。その先にあるものは。見えているだけに、つらいなあ。

 やっと見た「輪廻のラグランジェ2」はジャージ部が潰れそうになったけどどうにか立ち直る間に少女がひとり自分の道を見つけてロボット作りに邁進していったとう。その彼女が生みだしたロボットが後に来る世紀末を救うかどうかは知りません。一方で新たに発見されたレリーフを手に飲み込んだオールバックの兄ちゃんが何やら不穏な言動を。若作りしているアリステリアちゃんも実はなお歳みたいだけれどそれに勝るとも劣らない謎が浮かび上がってはまどかたちを苦しめそう。ウォクス・アウラは今再びの機動をして戦うのか、それは何のためなのか。こっちはちゃんと話が進んでいるなあ。のんびにに見えても。そこがやっぱり巧さかなあ。


【9月1日】 ヒデオすげえなマックルにまで惚れられて。これでウィル子にノアレにエルシアにエリーゼと来てマックルと総勢5人の神様やら精霊やらから惚れられて、なおかつ美奈子に花果菜に彼女の親戚のアカネちゃんからもぞっこんで千影からも好きかはともかくOKが出て水蓮には心配されなおかつ今度は鈴蘭からも。林トモアキさんの「レイセン File.5」はそんなヒデオの乙女籠絡パワーが炸裂してたりするんだけれども本人だけが自覚なくってエルシアによりかかられてもエリーゼに心配されてもマックルに告白されそうになっても、泰然自若というか茫然自失に日々を過ごしている、それがまた格好いい。そういう男に私もなりたいけれども見渡して精霊も同僚も誰1人としていやがらねえ。そういう風にできている。人生は。

 しかし今ひとつ強さに度合いが分からないというか、ミスリル銀の精霊で信仰もまだ暑いエリーゼの放った武器を簡単に破壊して見せた精霊の庭から来たあの少女。すでにして進行を失いかけていたマックルくらいなら閉じこめられるし、お上のリミッター解除を受けていない水蓮なら退けられてもエリーゼを簡単に扱えるとは思えなかった。向こうはノアレもターゲットとはいっているけど原始の闇が本気で暴れたらエリーゼだってエルシアだって適わないからこれはやっぱり若さ故の強がりか。いずれにしても新展開。フォースにも見られた亀裂が果たしてどうなるか、ってところでぶった切って鈴蘭とヒデオの修行日記を挟んでくるとは林トモアキさん、どこまで出し惜しみをするんだ。ついていきます完結まで。完結させる気、あるよね?

 関東大震災の日で、防災の日、でもあってテレビとか新聞なんかは昨日あたりから防災関連の記事がいっぱい載っていたりするんだけれども、そのだいたいが2011年の3月11日に発生した東日本大震災に関する話ばかりで、なるほど直近におこった未曾有の大災害の未だ言えぬ傷を慰撫しつつ、得られた教訓を開陳することによって今再びの震災を防ぎたいという熱意は伝わってくるんだけれど、10万人とか亡くなった関東大震災の立場がちょっと無いかもなあ、とも思えてそんなところにもトレンドに靡きたがるメディアの性格めいたものを感じてしまったり。

 東日本大震災のような海で起こって、津波によって被害を受ける地震も怖いことは怖いけれども、それは油断といったものを埋めることによって随分と被害を減らせるものだということを「釜石の奇跡」なんかから人は存分に思い知った。まず逃げる。高台に逃げる。自動車なんてほっぽって逃げる。家もほっぽって家族はきっと逃げてると信じて逃げる逃げる逃げる。そうやって命だけでも助かった人の多さを聞くにつけ、常日頃からの心構えが必要だって教えられ、いざという時に決断する力が必要だって教えられた。あとは守るだけ。それでだいたいが助かる。

 でも関東大震災のような大都市での直下型地震はそうはいかない。いきなり来る。そしてぶっ壊れる。火が出る。煽られる。逃げてもその先で家が崩れる。食べ物もなくなる。トイレとかどうしよう。等々。東日本大震災とはまた違った方法が求められているんだけれどテレビとかでそういうのってあんまりやってない。東日本大震災を主にとらえて大変だったが頑張った的な話になってしまっている。あるいは南海トラフがどうしたで津波がすげえ押し寄せるとか。そんなに遠くない、関東大震災と同じような都市型の直下型地震だった阪神・淡路大震災の話もそんなに出てこない、というかまるで目にしない。でも、そういうのだけじゃないってことを、ここで改めて教えておかないといずれ来るだろうその時の備えにならない。

 そんなこともあろうかと、ってな感じにフジテレビなんかが昔『東京マグニチュード8.0』ってアニメーションを作って放送しては、巨大地震に襲われた都市部をどうしのぎそしてどう進むのかを、ドラマとして描いて相当の評判をとっていて、これを省みるだけで相当な啓蒙が世間にできるんだけれどフジテレビ、まるで存在を忘れたかのように3・11のあとでこの作品を持ってくるようなことをしないんだよなあ、っていうかそれ以前からあんまり熱意を見せてないような。アニマックスだっけ、震災を挟んで放送していたらしいけれど、それが中止になって移行はメディアにすら載らなくなった。せいぜいが東京臨海広域防災公園にある施設で20分弱の編集版が上映されているだけ。これは勿体ない。勿体ないんだけれど省みられていないのは何か力学が働いているのかなあ。60分とか90分の再編集版を見せるだけでも良いのになあ。分からないなあテレビの世界。

 なんか噂では名古屋の丸栄は人がぐるりと取り囲んで何かの魔術的な儀式が行われているようだとかどうとか。確かに中では魔術的な儀式が行われていたんだけれども初日の平日は昼過ぎという時間帯で並びもせずすんなりと入れたことを思うと、夏休み中とはいえ大勢が宿題の追い込みにかかって平日は出られなかったとか、それとも夏休みとか関係ない世代にファンが多くて休日にようやく家を出られたってことになるんだろうか「Fate/Zero第四次聖杯戦争展」。そんなに会場も広いわけではないし、出演者たちの等身大パネルとかセイバーにアーチャーことギルガメッシュの等身大フィギュア、あとセイバーがまたがるバイクといったあたりでその当たりでたむろし写真とか撮っているだけで、結構な滞留ができてしまうんだろうなあ。それでも昼過ぎには普通に流れていたのかな。ってことは出演声優さん目当てか。名古屋でそういう機会ってあんまりなさそうだもんなあ。行った記憶ないもんなあ、って時代が違いすぎるか30年前。

 残るは最終巻、ってことで1歩手前の「鉄腕バーディーEVOLUTION」の第12巻を買ったらクリステラ・レビがエロかった。このエロいレビが次の巻ではああなってしまうと思うと心の底からガッカリだけれどどうせ行ったり来たりしているんだからいずれそのうちにって可能性もあると思えば勇気も湧いてくる。永遠くんだって絶対にそ方がいいんじゃないかなあ、でも変化してもあんなに素敵だとそっちの方面に目覚めてしまったりするのかなあ。しかしここで地球対宇宙の一触即発な空気がようやく漂い始め、そして中杉さんの謎なんかも鏤められていったいあとどれだけのクライマックスが続くんだって、知らなかったら思っていたかもしれないけれども残り1巻で全部詰め込みガラガラポン。そして宇宙人はまだ2階にいるのです落ち。収まったけれどもやっぱり気持は収まらないのでいずれどこかで外伝でもいいからその後って奴を、ようやく自称した「鉄腕バーディー」の活躍を、見せてくれたら嬉しいんだけれどそんな機会、ないよなあ、あったらゆうきまさみさん的に大変だよなあ。


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