縮刷版2012年8月下旬号


【8月31日】 だって全銀河だよ、もうその名前だけで放たれるシュートは「アルティメットギャラクシアンボンバー!」とかって叫びとともに輝き煌めいてはすべてのディフェンスをなぎ倒し、ゴールキーパーすら宇宙の彼方へと吹き飛ばしてゴールインするくらいの迫力を持っているんじゃないかと思わせる凄さだけれどそんな全銀河(チョン・ウナ)選手の素晴らしいヘディングが、その直前の中盤のすり抜けからサイドへと渡されゴールライン際から出されたクロスによって生まれ韓国女子代表がまず1点をリードしたU−20女子ワールドカップの日本対韓国戦。17歳以下の時に戦って敗れた世代なだけに、ちょっぴりヤバげな雰囲気が漂い始める。

 けどそこは日本もぐんぐんと成長があったか、しっかり前戦からチェックし奪い攻め立ててはまず柴田華絵選手の1点が生まれ、さらにゴール前での絶妙なタッチからすぐさま放たれた柴田選手のボールがサイドポストをとらえてそのままゴールイン。そして田中陽子選手が1人ゴール前で待って入ってきたクロスを急にボールが来たとか言わず、待ちかまえたかのようにしっかりと決めて3点をリードし、そのまま後半も逃げ切って見事に準決勝への進出を成し遂げる。U−20の世代はずっとここで負けていただけに初の快挙。そこで敗れても3位決定戦まであと2試合を戦えるのは嬉しいし、最終日に日本代表が国立に登場する姿を見られるのもとっても嬉しい。韓国戦を見られなかっただけに。

 聞くと余計な旗とか振られず、敢えて振ろうとする不埒も起こらない中をともに互いが未来をうかがうような攻守を見せてぶつかりあって、最高に近い戦いを演じたとのこと。大会をこれで去ることになる韓国代表にも拍手が贈られ喧噪とは正反対の空気の中で行われた素晴らしい試合を、やっぱり目にしておくべきだったかもしれないと思ったけれども帰省中なので仕方がない。あとはあの暑さの中で韓国が白いユニフォームで臨んでくれたからこそ見えたかもしれないそれらか。炎天下の埼玉駒場スタジアムでイタリア代表が真っ白なユニフォームを選んだおとで覆ったその現象。夏には気を付けなくてはいけないことだけれど、それを考えて色を選んでいる訳じゃないからなあ。んじゃ日本が白だったらどうかというとどうなんだろう、それはそれで中身次第、ってことで。うんまったく。

登り降り考えると住みたくねえ  田中陽子選手は世間的なビジュアルへの評判を超えてクレバーでなおかつテクニシャンなところを見せていて、そのまま素直に延びていけば遠からずINACレオネッサの分厚い選手層を突破してレギュラーの座を掴みトップ下とかのポジションからシュートにパスに大活躍をしてくれそう。その辺で早く大儀見優希選手と組ませてみたいけれどもそういうチャンスがないんだよなあ、しばらく。しかしサイドバックまでやらせたのには驚いた。それはあるいはサイドハーフにはいった横山久美選手との連携なんかを図り攻撃の芽を作ることが求められたのかもしれないけれど、技に定評のある横山選手は保つとサイドに出すとかしないで割に中へと持っては行っては、奪われたりするのが目立ってちょっと点数が辛くなる。その積極性をのばす意味ってのはあるけれど、これだけやって抜けられない時にどうするかも考えるのが自由の意味。それを突破できないと上の世代で出番はないかなあ、同じタイプの岩渕真奈選手もつっかえている感じだしなあ。

 そうだ岐阜城へ行こう、と思い立って電車を乗り継ぎ岐阜へ。ポケモン映画15周年記念列車で前にエンブレムとかついていた。子供大喜び。そしてバスで岐阜公園まで行ってそこからロープウェイで金華山を上へと上がる。実はもしかしたらはじめてだったりするのか中部地方に四半世紀近く暮らしながら行ったことがなかったらしい岐阜城には。そういうものだ。そんなロープウエイの中で回っていたのは扇風機ではなくダイソンの羽根無し送風機。値段も結構張る奴だけれどもしかしたら室内用の上でぐるぐる回る専用の扇風機に比べると安くて取り付けやすいのかもしれない。いずれにしても珍しい。数分で到着した駅からさらに歩いて歩いて歩いて歩いて天守へ。ああ疲れた。これくらいで疲れていたらきっと富士山なんてとてもじゃないけど登れそうもないけれど、登ることなんてないから別に良いのだ。

 そして織田信奈になった気分で天守閣の上から京都方面を臨みつつ天下布武を発令する。信長じゃなくって? なにをおっしゃる今や岐阜は、というより美濃は織田は織田でも織田信奈の大活躍によってすっかりその領地におさまっている。アニメイト岐阜店だってすでに信奈に占領されてアニメイト美濃店になっているのだから。本当だって。まあでもそこは専門ショップだからで、さすがに金華山ロープウェイのショップにも天守にもその影はまだ見えなかったけれど、遠からず美貌の信奈におでこの大きな明智光秀にいたいけな竹中半兵衛ちゃんといった岐阜の絡んだ面々が、大きくフィーチャーされたグッズができては岐阜城を飾るに違いない。だってその方が絶対に岐阜城的に華やかだから。どうっすか。岐阜。

 しかし堅牢な山の上に作られたものだ岐阜城。あるいは稲葉山城。でもあんな山頂な割に何度も攻め落とされていたりするのは狭いが故に籠城には向いていないってことなのか、兵隊だってあんまり配置できないし、食糧だって水だって運び上げるのは大変だし。それを繁栄してかロープウェイの麓駅の脇では何か発掘作業が行われていて、聞くとそこに織田信奈、ではなくって信長の居宅があったとか。やや段々になって背後に絶壁を臨むそこにどんな家を建ててくらしていたんだろう。なるほど尾張からでは山の端に入った向こうだけれども長良川を側に見て、はるか京を臨む場所でもあるその居宅から、ずっとうかがっていたんだろうな、上洛を、そして天下布武を。そんな歴史のホットポイントとも言えそうな場所が中部にはまだまだいっぱいある。廻りたいけど今は暮らしていないというハンディ。いずれ隠居して籠もったら廻ってみようか清洲を、桶狭間を。

格好いい異形なものども  バスでJR岐阜駅まで行ってそこで「MORE THAN HOMAN」って店をのぞいて店長な人とかにご挨拶。人形を改造して異形のオブジェに仕上げた作品を去年のキャラホビで初めて見てこりゃいったいなんだと調べたらファッションなんかを先にやってて既存の衣服にペイントして改造したアバンギャルド過ぎるものを売って評判になっているクリエーターの人がいて、そのファッションの方が展示してあるってことで去年の年末にのぞいたのに続いて2回目。実は先だってのワンフェスにも出ていたらしいんだけれどその時は気づかず見逃してしまってた。そのワンフェスには「異形市民プロジェクト」って名前でフィギュア系を中心に展示。クトゥルーにも勝る異形っぷりが評判になっていたけれど、それもJR岐阜のショップの側に展示してあって見るとなるほど前にも増してコンセプトが際だって世に訴えるものになっていた。

 6輪のティレルを改造して前を8輪にして後ろを重ねた4輪にした12輪のフォーミュラカーっぽい車に腰掛ける異形なフィギュアの存在感とか、こちらも派手なバイクに異形なフィギュアの組み合わせとか、見れば見るほど退廃と先鋭のビジョンが浮かんで物語なんかが漂ってきそう。ワンフェスに来た人の目にも留まったってのはよく分かる。とはいえすべてが1点物の作品であって一種のアートに近くって、売ると相当な値段になるのは必定。それをワンフェスという場にあてはめるとあのBOMEさんのガレージキットのそれこそ5倍とか10倍とかの値段になってしまうかもしれず、ちょっと買おうという人は現れそうにない。かといってレプリカを売るとそれはやっぱり違ったものになってしまう。カミロボとかバンダイがフィギュアにしたけど紙じゃないカミロボではやっぱりな、って感じだったし。

 アートというジャンルに行けばそこでギャラリーが作品として売ってくれるだろうし、50万円が100万円という値段だって付けられるけれどそういう方面に抜けるにはまた別の文脈と回路が必要。岐阜の地からすごい胎動が起こっていてもそれを世界に広める術、ってのをどうにか見つけたいけれど。メディアが頑張らないといけないんだけれど今、そういう回路がメディアにはないんだよ、無名を有名へと押し上げるような。まあそれでも次のワンフェスにも出てくれるみたいだし、雑誌なんかが取り合えげていけばきっといろいろと道も開けそう。それこそ奇譚クラブみたいなところが小さいバージョンをガチャポン化して売るとかすれば資金にもなるし告知にもなるんだけれど、そういうことってやるのかな、やっても良いのかな、やって欲しいな、やらないかな。フィギュアでなくてもファッションも凄いんでそっちから行く、ってのも手かも。話題のスターが愛用とか。いずれにしてもそう遠くない時に世間が驚く姿を見られるものと期待。


【8月30日】 栄ちゃんだ真紀ちゃんだ「ヤングキングアワーズ」の2012年10月号に登場の伊藤明弘さんによるカラーイラストは蘭堂栄子に梅崎真紀がそろって登場しては栄子ちゃんが短いスカートでもってその奥なんかをしっかりと見せてくれていてとってもハッピー。真紀ちゃんはスラックス姿だからそれはないけどでもあれでムッチリとした体の線が割と出ているスラックス。後ろから見たらきっと目にグッと来るものがあるんだろうなあ。でもどっちにしたって原作の方では撃たれ焼かれて共に退場という有り様。あるいは何か仕掛けがあって再び登場なんてこともあるのかどうなのか。リハビリっぽい描き方でもって「神楽総合警備」の面々をずっと描いてきているってことは、つまり再び登場させるって意気込みの現れだと信じたいけど、でも現役だと高見ちゃんと成沢と社長だけになるから場がもたないから過去の面々に登場してもらっているだけってこともあるのかも。うーん。いずれにしても再開に期待。遠くない将来にあり得るのかな。あり得て欲しいな。

 せっかくだからと名古屋とは正反対の東にある豊田市まで出むいて評判の豊田市美術館を見に行く。前に名古屋に来たときに平野啓一郎さんがシンポジウムに出ていてそこで好きな美術館としてあげていたけどなるほど確かに良い美術館。山上にあって構築的な建物の中にはギャラリーがしつらえられてて作品を展示室めいた感じだったり吹き抜けの広い空間だったり外光が得られるような場所だったりと様々なシチュエーションで見せられる。暗幕で暗くして映像の上映なんかも可。そんな展示室に加えて建物の上に上がればそこは山頂めいた場所になってて池のようなものが広がっている。一方から見れば天井の水たまりであり他方から見れば足下に広がる池という不思議で複雑な構図。そんな水面を映す鏡なんかも立てられていてどこかに迷い込んだような気分を味わえる。櫓もあったり日本家屋もあったりと和の要素も抑えた庭園ともども、1日いたって堪能できそうな雰囲気。岐阜市にある岐阜県立美術館といい東海の自治体は本当に良いものを建てるなあ。名古屋市美術館は何でああななんだろう。まあ不思議な建物ではあるけれど。

 そして何より企画展が凝っている。花に関連した作品を集めた「カペル・ディエム 花として今日を生きる」って今回の展覧会も聞くと独自のキュレーションによるものだそうで図録もこおでしか扱わないらしんで予約してしまった。東京とかに巡回するものならそっちで買えば良いんだけれどそうやってリスクを分散するんじゃなしに自前でリスクをとってキュレーションも行い展覧会を実施する。これこそが美術館の役割って奴なんだけれども昨今はどこも貸画廊と化して幾つかの美術館が新聞社とかテレビ局とかと企画したものを、順繰りに回しているだけだもんなあ。そして客が来なければ稼げないっていった理由から客の入りやすいものばかりが火rかれる。印象派だの何だのと。そんなものばかり見せられている首都圏に比べてむしろ痴呆の方が今、意欲のある展覧会を観られるような気がするなあ、秋田とかもいろいろやっているもんなあ。

 話がそれた、展覧会は例えばウィリアム・モリスやクリムトといった原点的に花がモチーフとなっている差烏品を冒頭に起きつつも内容は大体が現代アートの人たちを見せるといった感じ。まずは福田美蘭さんがいてモリスばりのパターンを平面にしたものとか、それをソファに張り付けたものなんかを起きつつ画面にっぱいに花が飛んだものとか、涅槃図ってお釈迦様の死を現す題材の絵に病気で死のうとしてる布団の老人を中心に、金太郎やら桃太郎といった民話のキャラを鏤めた楽しい作品とかを出していて昨今の福田さんの活動をかいま見れる。VOCA展とかとって売り出していたころはキッチュさも混じった独特さで世に評判だった福田さんだけれど、最近はそうしたキッチュさを根底に抱きつつ表層は見て楽しい作品ってものを作っているみたい。まだまだ現役で古くからのファンとしては嬉しいけれど、東京じゃああんまり見ないんだよなあ。やってくれないあなあ大回顧展とか。

 それから伊島薫さん。女優を死体にして山野に転がした写真なんかが好きだった人だけれどもそうした野に美人をおく作品の究極めいたものがあって目にも美しかった。どこかの田舎の桜や花が咲いた遠景の木に垂れ下がる美女。どうやって撮ったのかなあ。少ないチャンスを物にしたのかなあ。さらには花が敷き詰められた室内に転がる美女。これは前の死体シリーズになんか雰囲気近いかも。そしてアラーキーこと荒木経惟さんは「センチメンタルな旅」と「冬の旅」を起きつつアラーキー独特の極彩色な花のスライドをまず見せそして、別室へと案内してそこで壁に大きく貼り付けるサイズに花と人形と怪獣を配置したグロテスクだけれど美しく、騒がしいけど静謐な世界って奴を見せてくれた。どの構図のもの1枚とっても完璧なのに、それが幾つも並んでいる。どうしてこんなに撮れるんだろう。どうしてあんな世界を作り上げられるんだろう。アラーキーだから、ってのが多分正解に近い答えなんだろうけれど、その真髄に誰も迫れないところがやっぱり凄い。作品自体はどうだっけ、3月くらいに新潟で展示したものだっけ。貴重なものが見られて行ってよかった。まあアラーキーも出てるって知って行ったところもあるんだけれど。そういうものだよ“行く動機”なんて。

 宮島達男さんの作品で自分の顔写真の上で死ぬ時までの秒だかがカウントダウンされていくインスタレーションに参加してから山を下りて遠くに空飛ぶ円盤のような豊田スタジアムを見つつ豊田新線で名古屋へと戻って平針を過ぎて栄まで行って丸栄で「Fate/Zero 第四次聖杯戦争展」なんてものを見る。まあファンイベントでキャラクター好きのファンがいくとパネルがあって人形があって画像が飾ってあって映像も見られるといった具合に作品の世界に入り込める気分を味わえる、って意味では楽しいかも。原画とかもまあ飾ってあって作画監督の修正もあって凄さってのが分かるけれどそういうのを本格的に楽しむための展覧会というとちょっと違ったかな。でも見られるんでそれは嬉しい。ブックレット付きってチケットで入ってもらったそれはスタッフとキャストが作品に関する質問に答えた反対側にサインとか、イラストを寄せたもので画集的な楽しみはできないけれども、これはこれで楽しめそう。展覧会ででしか手に入らないものなら手に入れておいて損はないかも。MARS16とのコラボTシャツを買って退散してヨコイでミラカン。住吉の店は始めて入ったけど錦とはずいぶん雰囲気、違うなあ。味もちょっと上品? 気のせいか。明日はそーれに行くか。

 ヌードで背中とお尻を見せたバーディーのポストカードに引かれて「月刊スピリッツ」を買ってゆうきまさみさんの「鉄腕バーディー EVOLUTION 〜Purologue」を読んだら次ぎから「鉄腕バーディー REVOLUTION」が始まって宇宙人が公然と地球人の間を跋扈するようになった地球で、犯罪を犯したりするそうした宇宙人を捕まえ戦い倒す正義の味方として、変身ヒロインが現れ大活躍しては「誰だお前は?」「人呼んで、鉄腕バーディーっ!」って叫んで大暴れする漫画が始まりそうな予感がした。っていうか始まるよねきっと。始まらないとバーディーの中身を知ってるのか知らないのか、分からないけどバーディーの惚れてて登場するとその目がバーディーのお尻に向かう千明の立場が浮かばれない。だからお願いしますゆうきさん。月に1回で良いから。ってそりゃサンデー増刊の時と同じだ。やってくれないかなあ。本当に。


【8月29日】 早起きして名古屋まで遠征とうか帰省してまずはミッドランドシネマで「山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE1984〜2012」を見に行ったら満席だった。けどご安心、すでにチケットは前日に抑えてあったのだったという。その席は新宿バルト9で見たときとは逆にスクリーンに向かって左側。あっぱり前の方の席だけれども見上げるような山下達郎さんを見られる機会なんてこんな時しかないんだからわざわざどうして後ろの方へと下がるのかが分からない。最前列しか空いてないっていう人もいるけどむしろ絶好じゃん。映画じゃないんだから。ライブなんだから。前列最高って意気込みで。是非に。

 まあ2回目なんで曲目曲順は頭すでに入っていたのでむしろどんな動きをしていたかとかどの曲がとりわけ印象に残ったかをじっくりと。サウンドの重厚さではやっぱり「メリー・ゴー・ラウンド」かなあ、あの食卓のようなセットはシアター・ライヴを通じても1曲にしか登場しないんでそれをじっくり見られるってのとやっぱり伊藤広規さんのベースがズンズンと響いて来る曲ってことで目にも耳にも印象に残った。あとは「DOWN TOWN」でいきなり走り込んで来る竹内まりやさんか。他の3人にプラスしてのコーラス隊として登場。既に慣れた3人が見せる動きとちょいズレしているんだけれどそこが可愛い。そして終わったらそそくさと帰っていくところとか。ずっといて目立とうとしないし、紹介して目立たせようとしない夫婦愛、愛なのか?

 あと何曲かで見せるカッティングの凄さを改めて。本当に指が10本に見えるんだよ残像で。ライブ会場だと遠くからだからそこまではっきりとは見えなかったけれども普段の何倍もの巨体でスクリーンに映し出されるその手元は、撮られた映像ってこともあるのか残像がくっきりと出て本当に指が10本に見える。それだけ高速で動かしていながらどうしてあんな風に平然と高らかに歌えるんだ。半端じゃない。あとはやっぱり「希望という名の光」かなあ、神奈川県民ホールで見た演奏とトークがまさに上映をされている。って既にその時のことなんて記憶の彼方だけれど改めて聞いてそして音楽として聴き込んで、以前は桑田圭祐さんとか岡村隆史を励ましていた歌が震災を経て、ぐっと重みを増して多くの人を励ます歌になって来たってことを実感する。世は歌に連れないけれども歌は世に連れ世に染みていく。そして歌い継がれて行く。希望という名の光とともに。

 せっかくだからと中日新聞の朝刊を開いて「をとめ模様、スパイ日和」でデビューし「片桐酒店の副業」が出た徳永圭さんのエッセー「心のしおり」を読む。個々に指導してくれる先生がいることとそれから受験に全人生を傾けろ的なことを言ってプレッシャーをかけるようなことを言わない先生の存在って有り難い。でもそれだけで普通は京大とかには行けません。そんなコーナーの下に掲載されていたのが「週刊読書かいわい」というコラムで筆者はトヨザキ社長こと豊崎由美さん。まず清水良典さんの「あらゆる小説は模倣である」って本を引き合いにしてすでに書かれた古今東西の小説から「パターンや構造を利用し、そのテクニックを盗」んでベストを紡ぎ出せれば「万々歳だと分かって書いている自己批評的眼差しを有する小説家」を讃えつつ「『自分の小説は唯一無二』と思って書いている無知で無邪気な小説家」を上げその間にある差に読者は敏感だよって語ってる。

 その上で、江戸川乱歩賞を受賞した高野史緒さんの「カラマーゾフの妹」の素晴らしさを誉めつつこれを乱歩賞の選評で東野圭吾さんが<原典『カラマーゾフの兄弟』も、きっと面白いに違いない!>と言い、帯とかにもそんな言葉を寄せていたことに触れつつ「無邪気にもほどがある、恥ずかしい推薦文を寄せている」と書いてみせるあたりにトヨザキ社長の東野さんに対するある視線ってのが見えてくるんだけれどそうした視線を知ってか知らずかコラムの見出しは「東野圭吾も太鼓判押す面白さ」。まあ確かに高野さんの小説に限ってはそういう風なことが言えるんだけれど、本分中にある東野さんへの視線を読めば読者は気づくし作家当人だって読めば無邪気過ぎなければ気づきそう。それを少しでもフォローしようとして立てた見出しなのかどうなのか。整理の人の気苦労が忍ばれる。いずれにしても読めば「先行作品を読みたくなるような、絶妙な“模倣”によって成立している」作品とか。ああでも「能天気タイプの作家は、この小説を読んで少しは恥じるがいいですよ」って最後の最後で言っちゃってる。強いなあ。そしてそれをそのまま載せる新聞も。

 そんな中日新聞は夕刊コラムの「大波小波」でも高野史緒さんの「カラマーゾフの妹」を取り上げては「歴史改変SFの要素を加えた遊びも楽しく、選考委員の絶賛も納得できる」と讃えている。一方で「心配もある」といって「高野のように、実力が本の売り上げに結びついていない作家は多い。彼女の成功は、乱歩賞が不遇な実力派の草刈り場になる危険性も秘めているのだ」と純粋な乱歩賞に”プロ”が入って新鋭の芽が潰されることを懸念してる。でもなあ、そういうプロもオッケーなレギュレーションをとってやっている以上はいつだって起こり得ることで、「長く新人の登竜門として機能してきた」って言われても巧い人が取るのは仕方がないこと。それが嫌なら制約をつけるしかないけどでも野沢尚さんだって脚本のプロだったし藤原伊織さんだって新人賞の受賞経験者だった。過去にもあったことが繰り返せると思えば良いだけだし、そんな合間をちゃんと新人が埋めてきた。仮にプロが来たってそれを蹴散らす凄い新人が凄い作品を書いて出せばいいだけのことでもある。心配する必要なんてないんじゃなかろうか。

 むしろ高野さんのような実力のある人が「本の売り上げに結びついていない」状況がなぜ起こっているのかを、当該のコラムを載せた新聞とかも含めたメディアがちゃんと考える方が先なんじゃなかろうか。過去にどれだけの傑作を出したか分からない高野さんが、それでも苦衷をかこっていたものが、江戸川乱歩賞って知名度抜群な賞をとった途端にあっちこっちで取り上げられて、持ち上げられる。だったらどうして過去に営々と出してきた作品群で持ち上げようとしなかったのか。取り上げ紹介しようとしなかったのか。乱歩賞という権威にすがってそれを紹介することで新聞にも権威があるように思わせたいという意識。あるいは直木賞なり芥川賞なりの知名度を借りてそれを取り上げることで新聞も世間の注目を集めたいという意識。それらが突出し過ぎて作品を純粋に作品として紹介し、評価するマインドもなければ力量もなくなっていることの方が問題なんじゃないかなあ。

 それは芸能とか他の文化にもいえることで、世間の誰もが知ってる有名な人なりを紹介することでそうした人のファンに売ろうとする傾向が最近とみに強くなっている。有名人を出せば注目してもらえるから出すとそうした有名人ばかりがさらに有名になっていく。その影で取り上げられるべきだった人は日陰の道を歩んで知られずひっそりと消えていく。何か自ら門を狭くしているような所業。気づいて改めれば良いんだけれど目先の結果を欲しいのか、それとも有名人を出してる俺たち最高ってミーハー意識が蔓延しているのか、マイナーへと目が向かわない。これじゃあいつまでたっても新しい人は出てこないよ。新聞なんて本来のニュースで安定した部数を稼げるんだからそれを土台にしてもっと新しい人を紹介していけば良いんだよ。でもやらない。やれないんだ意気地がないから。そしてやせ衰えていく新聞であり、文化。未来よ。


【8月28日】 そして一夜明けた秋葉原の駅からも街頭からも前田敦子さんの画像は撤去されてまるで何もなかったかのよう。1日だけのお祭りにあれだけかけるってことの凄さに驚きつつ、それだけかける価値ってものが今のAKB48にはあるって証明でもあって、それだけのビジネス規模へと7年で持ち上げてみせた関係者の働きには、ただただ頭が下がる。とはいえしかしやっぱりいろいろ混乱もあった様子で、まあそれもアイドルには付き物ではるとはいっても、限度ってものも一方にはあって、それを超えていたのかどうなのか、直接には見ていないから判断はできないけれども少なくとも、我らがアイドルと崇める人間が感謝のために登場して拡声器で喋ろうとしている時には、全員が沈黙して声を聞こうとするのが礼儀であり、それ以前にファンとしての当然の振る舞い。そこに思い至れないというか、それすらも妨げとなるような状況を作り出してしまう人が紛れ込む余地、ってものがあるって点でどこか急成長の過程で、踏み間違えたステップがあったのかも、なんて思えてしまう。

 それもAKB48に限らず声優さんのライブなんかでも起こり得ることだったりして、俺たちが盛り上げてやるという意志のもとで、統率されて行われてきたサイリウムでの応援なり身振り手振りでの応援が、いつしかそうした行為をすることをのみ楽しもうとライブ会場に足を運んで、誰が歌っていようと無関係に踊り巨大なサイリウムの束を振りまわしてしまう人が生まれてしまい、誰とか関係なしにライブ会場に紛れ込んでははた迷惑を繰り返している状況を見るにつけ、どこかでそういったのをとどめるなり諭すなりするような方向へと、動かなかった運営の至らなさってのを思うと同時に、そういうのを内輪でもってとどめる空気を醸成できないファンたちの気持のバラバラ加減って奴も思ってしまう。いくらそれが自分にとって楽しいからって、結果としてそういうのをできる場を無くしてしまうってことに、思い至らないんだろうなあ、やってしまう人たちは。

 よくコミックマーケットの整列が整然として凄いとかって言われるけれども、これは過去に例えば列が乱れて事故が起こったとかいったことから何かあってはいけないと、参加する人たちが共通に認識していて、その場をちゃんと収めようと動いているからであって、長い歴史の中で情勢られたそうした認識は、時代を越えてもちゃんと受け継がれて来ていて、今もそれほど大きな混乱というものを起こさないで済んでいる。でも巨大になってしまい、来場者の人数も増える中で、ちょっとづつ綻び始めているといった話も。参加者というよりお客さんといった感じでやって来ては、自在に振る舞いやりたいことをやり尽くしていくという動きの中に世間一般の良識を超えたものが多々、見られるようになった時にはその場へのいろいろと制約が課せられかねない。

 あるいは日韓戦で日章旗ではなく旭日旗を出して振るといった振る舞いも、それが相手にどう思われるかといったことへの配慮がなく、いつかどんな影響をもたらすかという想像力を欠いたものだという認識にどこか欠けたもので、相手が先にやってきたからとか法律的に問題がないからといった理由がたとえあったとしても、トータルで見た時に場の縮小につながりそうなら自重するのが大人なんだけれど、それができないのかしようとしないのか、まるで思い当たらないのか、実際に起ころうとしているから面倒くさい。そんな多方面で見られる自分たちが楽しければという振る舞いが、咎められないままあらゆる方面に波及していくようなことを起こさないためにも、どこかで誰かが言わないといけないんだけれど、言って聞くようなら止まっているよなあ、やっぱり。神がおらず中心を欠いた社会は雲散し自壊するという、現象の進んだ果てにある物は?

 ゴールデンタマへの愛が示されなかったのは残念だった「境界線上のホライゾン2」だけれど前田利家が現れまつが伏せ字でヤバいことを口走ったり、ゴトンと落ちてきた大罪武装を浅間・智が「抱き枕です」といってごまかそうとして場を冷やしたり、エリザベスが本多・正純をアバロンに入れるため十字架でペチペチしたりするシーンはあったんでまあ良しとしよう。あと点蔵が持っていた地図を見て麿なヨシナオ教頭がそれを屋台の場所だと偽りつつしっかり場所を記入してみせるシーンとかあって、あれで堅物どころかなかなかの好漢だってことを満天下に示してくれて麿ファンとしてはちょっと嬉しい。後に源・義経の宣言でもって真田十勇士たちが自由になって武蔵の破壊工作に載りだした時、逃げる三品・大と走っている途中でしっかりと迫る十勇士の気配を感じて手に懐剣を持ったりするくらいに実は鋭敏で強靱な人物だって分かるけど、そうでないと単なる頑迷な年寄りに思われてしまうからなあ、あの多士済々な若者たちの中では。って麿って今いったい何歳だ。

 っていうか絵として実ははじめて見たような印象すら覚えた三科・大。だって本編ではずっと出てきているのにその絵が掲載されたのっていつだろう、第4巻の途中で葵・トーリが全員に呼びかけた時のイラストの1枚にこれ誰だって女性らしい横顔が描かれていたのを見てあるいはって思ったのが実は正解だった模様。それを受けての今回のデザインってことになるのかな。同じ事はトーリと喜美の母親にも言えることでテレビアニメでは早々に登場してその姿をさらしていたけど小説の方ではっきりと描かれたのってやっぱり第4巻だったからなあ。アニメってだから大変。まあ原作者がびっちりとのめりこんでキャラクターやその衣装までデザインしているからテレビはすなわち小説と同様のオフィシャルってことになるから分かりやすいんだけど。あと絵が未だにない主要キャラクターって誰かいたっけ。いないか。それはそれとしてフアナさんもっと出せ。次は出せ。乳を出せ。出るはずだとは思うけれどもさてはて。

 アニサマで見てそのガールズロックバンドっぷりが気に入って川田まみさんのライブに行くことにしてチケットを確保したんで、8日に発売になっていた4枚目のアルバムなんかも買って聞いたら聞き覚えのある曲があったってそれは「とある魔術の禁書目録2」の主題歌だ。いや知ってはいたけど改めて聞くとやっぱり強く耳に残っているものだ。最近は録画したのを見るからオープニングを飛ばしてしまう傾向があるんだけれど、「禁書目録2」はアニエーゼちゃんの大股ひらいて錫杖だかを振り下ろす場面とかあったりオリアナの巨大なバストが震えたり吹寄のこれも巨大なバストが揺れ落ちたりする映像に引かれ毎回しっかり何度も見直してしまったんだよ。そういうオープニングがもっとあれば誰もがオープニングを見て音楽を聴くようになるのになあ。その意味では「ホライゾン」は所々にスタイリッシュな絵があるからオープニングは見て音楽も覚えたりする。これからアニメを作って主題歌を売りたいところはいろいろと考えよう、絵を、乳を、揺らすかを。


【8月27日】 そして決まったサッカーのU−20女子ワールドカップの準々決勝で日本が対戦する相手は韓国に。日本とスイスの試合の直前に見ていた試合ではブラジルのそれほど組織的でもない守備を突破しあぐねブラジルの攻撃にもさらされ割と大変そうだったけれども個々人が持つスキルはそれほど低いって訳ではないのであとは戦術なり、カバーの意識なりをしっかりと持たせることによって強くなっていくかもしれないし、そうでないかもしれない。同じ事は日本のU−20女子代表ことヤングなでしこにも言えて、ゴール前まではどうにか攻め立ていけるんだけれどその先の、決定的な崩しとかが足りず今ひとつ完璧な抜けだしとか決められない。

 田中陽子選手のフリーキック2本は素晴らしかったけれどもこれもドイツやアメリカのフル代表相手に決められるかというとどうも。そんな飛び道具よりも今はだからゴール前の工夫をどうするか、ってあたりの意識を試合の中から掴んでいって欲しいもの。ゴール前でドリブルでかわして4人5人抜こうたって年齢があがり背丈が大きくなっていく相手の足下なんてそう簡単には抜けないことはフル代表に回った岩渕真奈選手の今ひとつ活躍できていない様が示している訳でそこと運動量とオーバーラップとかによる補い合いによって抜けだし優位を作っていくという“なでしこさらしさ”ってのを、どれだけ必要かを学んでくれたら未来も明るい。それは韓国代表にも言えるかな。

 しかし日韓戦となったことでいろいろと鬱陶しいことが起こりそうで今から気分がどんより。さすがにサッカーピープルだから相手の国歌にブーイングとかするなんてあり得ないとは思うんだけれど、界隈では国立を旭日旗で埋め尽くせといった話なんかも流れはじめているだけに少なくない人間が、当日の国立で旭日旗を振りまわしては一悶着を起こしそう。そりゃあ持ち込むなとは言ってないけど、それを振りまわすことによって相手を嫌な気持にして、それで勝ったとして本当に嬉しいのか。日本の選手だってまったくの公平はホームである以上無理にしても、できる限りフラットな環境でもって堂々の勝負をして、、それで勝ってこその意味ある勝利だし未来につながる勝利。それを外野が鬱憤晴らしのような行動でもって応援しているようで、実は足を引っ張るような振る舞いを喜んでうれるとは思えない。サッカーの味方ならそんな、相手もこちらも悲しませるような破廉恥な真似はしない。できるはずがない。でもやってしまう人が出るんだろうなあ、嫌だなあ。むしろ国立を青で埋め尽くせって言えば良いのになあ。

 ふらりと秋葉原によると前田敦子さんだらけだったという。まずは秋葉原駅から改札へと降りるエスカレーターの両脇に、これは多分過去に前田さんが登場した表紙だとか広告だとかグラビアだとかいろいろなものから抜いてきた写真がポスターのように飾られていて、それは改札を出て秋葉原のAKBシアター前を通ってUDXへと向かう通路の脇にも張られていたりしてとなかなかの大盤振る舞い。そして見上げれば街頭から吊り下げる垂れ幕も軒並み前田敦子さん。すげえなあと見上げた秋葉原駅の壁面にもでっかく2枚も前田敦子さんの写真が飾られていた。まさに前田敦子による秋葉原ジャック。これをあっという間に仕立て上げた人たちの苦労ってのも想像されるけれどもこれが秋葉原の風景にとけ込んでしまっていることにすこし驚くというかあるいは当然なのかもというか。

 アニメーションが好きで漫画やライトノベルを愛してゲームも時々やって声優さんも嫌いじゃない人間にとって秋葉原はそうした情報と、そして商品が集まる場所として首都圏では随一の場所だったし今も池袋とかに行くより確実に品が入る場所として重宝してる。そんな種類の人間にとって同じく秋葉原をフィールドにしているAKB48はまるで無関係な存在でむしろ途中からぐいぐいっと出てきては秋葉原のマスイメージをメディアを通じてそれ一色に塗り替えてしまった迷惑な存在とすら思っていた節があった。今も全然思っていない訳じゃないけれども考えてみればアニメやゲームがはびこる以前の秋葉原は、コンピュータの町であり家電の町でありAV機器の町であってそれに付随する映像ソフトや音楽ソフトを買いに来る町だったのがそうしたソフトパワーが突出して、ゲームとも重なって町のイメージを塗り替えてしまったのが90年代半ばのこと。その前後を見ていた人にはだからゲームやアニメがAKB48といったアイドルに変わっただけのことって捉えられるだろう。

 そしてそれもいったいいつまで続くことやら。すでに秋葉原という場所のキャパシティを超えて産業となってしまたAKB48は、当初あった、そこに集まるコアな層の少数の支えを地道に守り育んでそれなりな位置へと登るというストーリー性を完全に覆って、単純な人気のバロメーターになってしまった感がある。次ぎに来るのはだからそんな人気の浮き沈みであってそしていくら天下を一時とっても、栄枯盛衰は必須であって盛者必衰の理もまたしかり。やがて衰退して離れていった時に何が残りそしてどんな町になっているのか、なんて想像もしてみたくなるけれどもこれだけ集まった人間が、1人引退しようとするだけで目分量で万単位の人が秋葉原へとやって来る。次もあるだろうしその次もと考えた時にあと数年は、少なくとも秋葉原のマスイメージを引っ張っていくことになるんだろう。その脇では変わらぬアニメでゲームで漫画でライトノベルで声優なオタクたちが、我関せずと通い買って騒ぐという多重のレイヤーに縁取られた町。まだまだ秋葉原は楽しめそう。

 行った! 見た! 良かった! 「山下達郎 シアター・ライヴ「PERFORMANCE 1984−2012』」ってのが新宿バルト9でやってて内容はつまり映画館で見るライブ。1984年ごろからの山下達郎さんのライブから名曲注目曲をピックアップしては編集して映像として流すイベントで他のアーティストなんかではよくやられているけれど、テレビに出なくってライブはチケットが取りづらくなっている達郎さんの演奏している姿を目の当たりにできるって意味ではとてつもなく貴重な機会なだけに劇場も連日の満席が続いている様子。何より新宿高校と新宿御苑を見下ろす場所で、そこから生まれたあの名曲を聞けるんだからこれはもう貴重を通り越して奇跡といって良いくらい。ファンなら行くしかないし、ファンならずともその演奏を、その歌声を目の当たり(スクリーンだけれど)にできる機会として見逃す手はない。絶対に。

 まず演奏が凄い。最前列で見上げるように見ただけあって達郎さんが奏でるフェンダーのテレキャスターをかきならすカッティングの技がもう巨大な姿でもって見て取れる。いやあ凄い凄まじい。ライブで遠くから見ていちゃ味わえない迫力だ。そしてシアターだからといってライブに負けない音質と音量が鳴り響く。伊藤広規さんのベースがドンドンと響き青山純さんや小笠原拓海さんのドラムがズンズンと響いた横でいろいろなミュージシャンたちによるギターが、キーボードが、サックスが奏でられて作られるアンサンブルの冴えを目の当たりにするだけで、音楽に携わっている人たちの心に何かを与えるだろう。もっと上に行かなくちゃ、もっとと高みを目指さなくっちゃ。彼らにできて自分たちにできないはずがない。そんな思いを多くが抱けば日本の音楽シーンもとても豊穣なものになるだろう。期待したい。するしかない。

 そしてやっぱり歌声が凄い。最初は1980年代に名古屋とかで聞いたライブとそれからアルバム「JOY」に入っているライブから、まだ30代とか40ちょっとの脂ののりきった時代に放たれた声の方が良いなあやっぱりと思ったけれども1990年代の数本を経て2008年から本格的に始まったツアーの映像を見て、まるで衰えずむしろ声量は増しているようにすら思えるその歌声を、聞けば口先だけで呟くような歌なんてものは歌じゃないって思えてくる。歌とはなにか。人を振るわせる歌声とはなにか。毎回のライブで披露されるご愛敬も含めて声を出し、音楽を奏でることの意味とそして素晴らしさって奴を存分に味わわせてくれる。すべてのミュージシャンと、すべてのシンガーと、すべての音楽好きが見るべきシアターライブ。期間は1週間と数日しかないけどそれでも時間を作ってみておこう。いや違う見ておけ絶対。


【8月26日】 24時間テレビとか始まったけれども、まるで見る気が起きないのは手塚アニメがないことと、それから感動がきっとぎっしりと詰まって胸焼けがしそうだからだろうけれど、かといって裏で放送されていた「ONE PIECE」でもってナミとベルメールさんのアーロン一味をめぐるエピソードを見ていても、人が理不尽に殺されてしまう話を感動のエピソードとかいって、再度作り直させて放送させるフジテレビのスタンスも、感動を押しつけたがる24時間テレビとそんなに違わないのかもと思って暗くなる。そんなに自己犠牲って美しいか。そんなに自己犠牲って感動するか。誰かが自分のために死ぬのなんてはっきりいって重たいし、逆に自分が誰かのために死ぬのなんて怖くてちょっとできそうにもない。そういうものだよ死ぬってことは。

 何が何でも生きる道をあがいて探し、それでも無理でも無理をぶち抜く覚悟で突っ走る。そんなスタンスがなければ誰もが安易に自己犠牲に走って、いい気分に浸って終わってその後に、何も残らないなんて事態ばかりが発生する。過去にそんな自己犠牲が特攻という形で山ほど起こったけれども、果たして何か残ったか。そう考えた時に安易に死を感動といって描くのは勘弁して欲しいけれども、見ているとやっぱり感動してしまうんだよなあ、ベルメールさんのその態度。夜に大人が見ればその意味も存分にくみ取れるし、自己責任で自己犠牲に向かう覚悟も持てる。問題はだから少年少女が見る「ONE PIECE」という題材で、自己犠牲を美しいものと覚え、それがベストだと感じてしまった子供たちの未来を考えるとちょっと気分が重くなる。さらに言うなら漫画よりも低い年齢の子供も見るだろうアニメで放送してしまったこともちょっと。尾田栄一郎さんはどういう考えを持ってこれの再制作にゴーサインを出したのかなあ。気になります。

 藤田嗣治と戦争画についての「新日曜美術館」にも興味があったけれども、時間になったんで起きだして幕張メッセへと向かったら途中の幕張本郷駅で母親に連れられた2人の娘さんがともに24時間テレビの奈良美智さんデザインによるTシャツを着ていた。チャリティの意義を組んで買ったのかそれともキャラクターとして可愛かったから買ったのか。キャラクターとして子供が欲しがる絵、ってことは確かにあってこれが例えば前の村上隆さんの絵だった場合に果たして子供は欲しがって買ったのかどうなのか。アートとしての世界的な伝播では村上隆さんの凄さは存分に分かるけれども女子に、子供に愛される作品としての浸透では奈良さんの方に軍配があがる。それがアートの価値を意味するものとは限らないけれど、何かちょっと考えてみたくなる。アートって何だろう?

 そして到着した幕張メッセの「キャラホビ」ではとりあえず「宇宙戦艦ヤマト2199」のブースに寄ってヤマトガールの美しいボディラインをしっかと目に焼き付ける。後ろから撮ってはいけないのでそのヒップラインとかとくに。顔は……どうせキャラを思い浮かべるんだから似てなくたって。そういうものだ。そうなのか? そんなヤマトのブースでは加藤直之さんが壁にライブでヤマトを描いてた。最初に平板に塗ってその上にディテールを加えていくのは前にSF大会とかで見たようにパワードスーツやグインと描いたのと同じだなあ。パワードスーツより細かいディテールが必須でなおかつ細部にも手を入れなくてはいけないヤマトはちょっと大変か。いったいどんな完成図になったのかなあ。それはそれとして加藤さんは幕張メッセまで自転車で来たのかなあ。

 すっかりと名物になった自衛隊のブースでは神奈川県にあるキャンプから米軍の音楽隊がやって来てジャズなんかを演奏していて楽しそう。自衛隊にだって軍楽隊はあるんだろうけれどもそこは人を楽しませることにかけては日本より巧みなヤンキーたち。スイングする曲を流して周辺に集まった人たちを浮き立たせつつ米軍への、そして自衛隊への気持を前向きにしてくれていた。最前線で人と人とが向かい合えば理念を超えて情でつながりあえるし、そんな情が理念を作り出す。もっとみんな解けあえば良いんだけれどもそうもいかないからなあ、その意味ではキャラホビってちょっと凄いイベントかも。そんな自衛隊のブースに女性自衛官の雰囲気を出した着ぐるみがあったけれどもその中身もやっぱり美しい女性自衛官なんだろうか、それとも習志野空挺団のマッチョな口ひげの兄貴なんだろうか。気になります。

 通りがかるとラジ大阪のブースで「サエキトモがきておりますご存じでしょうかサエキトモです」といった呼び声に近づいて聞くとサエキトモさんが何かのお渡し回をやっていて立ち止まって聞いているとさらに凄まじいことを言っていた。「サエキトモです覚えておりますでしょうかPKOというユニットで歌っておりました『ブシロード』という歌を歌っておりました皆さん今をときめくブシロードですがこれはカードゲームの会社の名前ではありません元々はコンテンツだったのですそれをサエキトモが歌っておりましたブシロードが今日あるのはサエキトモのお陰だとも言えるのです」とまあそんな感じ。サエキトモさん本人が聞いたら恥ずかしくなるような言葉だったけれどもおおむね当たってないこともないから別に良いのか。

 それにしても懐かしいなあ「熱風海陸ブシロード」。まだブロッコリーを経営していた木谷高明社長が次ぎに立ち上げようとしていたファンタジーで、今はもうない「東京キャラクターショー」の会場にブースができてテーマソングまで流れいていたんだよブシロードの歌が。でも「コンプティーク」に小説版が少しだけ載ったものの書いていた吉田直さんが急逝して止まってしまいアニメーションの方もなかなか進まないままサエキトモさんの病気療養もあっていつしか話は収束へ。でもしかしそんな「ブシロード」という名前を敢えて会社の名前に選んだってことは木谷高明さんには未だきっとこの「熱風海陸ブシロード」を作品として仕上げる熱意があるに違いない。なるほど今はカードゲームに邁進して「ヴァンガード」を盛り上げ「ミルキィホームズ」にかまけているけどいつか絶対に実現してはサエキトモさんが完全復活してその名を作品に刻み、その声を作品で響かせてくれると信じたい。けどしかし。吉田直さんの代わりをやると聞いてたあの人が有名に成りすぎた今、それもないだろうしなあ。気にまります。

 そして「宇宙戦艦ヤマト2199」のステージイベントへ。見目麗しい男性声優がズラリと並ぶイベントだったら見た目もきゃぴきゃぴな若い女性がずらりと観客席に並ぶんだろうけど見目麗しい男性クリエーターが並ぶ場合はなぜかキャピキャピが消えかけた男共が観客席を埋め尽くすというこのギャップを、いったいどう考えたらいいんだろう、世界が認める才能がそこにいるのに、うーん、まあ女性には分からないということで出渕裕さんと樋口真嗣さんの魅力という奴が、うん。イベントでは今度公開になる第3章に入る第7話から第10話までの予告編PVが流れてバックに「真紅なスカーフ」が流れて実に昭和。そしてガミラス側から美女が登場して何かやりそうで他にロボットもやってきてアナライザーと「コノカンジョウハイッタイナンダ リカイフノウリカイフノウ」と片言でやってくれるかというとやってくれそうもない。樋口さんが絵コンテ切ってたらやってたらしいけど。

 樋口さんが担当したワープの場面で水面に落ちるような描写があってこれは会心と思っていたら「銀河英雄伝説」を見て同じようなシーンがあって「先に真似するとは」と思ったというエピソードに笑う。ちなみに「銀英伝」の監督は石黒昇さん。そりゃあ先に何でも真似するわ。この人の描写が後世に与えた影響って無茶苦茶大きいんだよなあ。あとヤマトがドリフトして止まるシーンは映画「バトルシップ」にも出てきてこれまた「先に真似するとは」。いや別に見て描いた訳ではないから決して「ヤマト」が「バトルシップ」を参考にしたわけじゃないけれど「バトルシップ」だってずっと作っていた訳で別に「ヤマト」を真似した訳じゃない。きっと何かがきかっけで同時代的に生まれた表現なんだろう、戦艦ドリフト。ちなみに第1話の雪風艦橋での歌は「妖星ゴラス」が入ってるとかどうとか。そうなのか。特撮弱いんであんまり知らないんだ。気になります。

 その足で東京は国立競技場へと回ってサッカーのU−20女子ワールドカップを見る。夜にスイスと日本の試合があってその前に韓国とブラジルの試合があったんだけれどそれが始まるかどうかって時にスタンドに1人なぜか旭日旗を取り出し振ろうとしていた人がいて、速攻に周囲から人が集まり注意を受けて引っ込めさせられていた。当たり前だ。日本が出ていない試合でどうして旭日旗を振る意味がある? 当該の試合と無関係な旗を振るっておとがまずはマナーに反しているし、なおかつその旗が当該の試合に参加している人にとって決してポジティブには捉えられないものだってさている状況で、取り出すのは倫理に反している。例えば湾岸戦争なりイラク紛争あたりでイラクが出てきてどっかと戦う試合に星条旗が踊ったらやっぱり妙だろ? そして気分に波風が立つだろう? それと同じ事。良識を持った教養の人間だったらやらない所業。それをやって平気なサッカーファミリーがいることが信じられない。まあ引っ込めたから話せば分かってくれたんだろう。例え社会は面倒くさくてもスタジアムでは良好に。友好を。それがサッカー愛。


【8月25日】 流れ始めた噂がニュースとなって駆けめぐり、そして事実として提示された上に最後の言葉が「さよなら」として公開されて、本当に今敏監督は亡くなってしまったんだと分かったのは、命日の8月24日ではなく明けて25日のこと。だから気持としては、昨日よりもむしろ今日の方が3年目なんだなあという印象があって、そのズレをもてあましつつ両日にかけて今敏監督のことをいろいろと考えてみたりする。ふり返れば長編では最後の作品となってしまった「パプリカ」が公開されたのが2006年の11月のことで、それよりさかのぼること4カ月前に細田守監督の「時をかける少女」が同じ筒井康隆さんの小説を原作に、同じマッドハウス制作で公開されている。凄い年だったんだなあ2006年。

 扱いとしてはソニー・ピクチャーズエンタテインメントが「東京ゴッドファーザーズ」に続いて面倒を見た「パプリカ」の方が、公開規模も大きかったけれども世間のいわゆるアニメファンと呼ばれる人たちの目は、貞本義行さんというエヴァンゲリオンのキャラクターデザインを手がけた人が参加して、小規模で公開されながらもその面白さでじわじわっと評判を広げてロングランを成し遂げた「時をかける少女」の方へと向いて、「パプリカ」自体のアニメシーンに与えたインパクトも、実際の興行的なインパクトも「時をかける少女」の影にかくれてしまったような印象があったし、その後のアニメ関連の賞レースなんか見ても、「時をかける少女」の方がいろいろと受賞を果たしてた。

 その余勢をかって作られそして完成した2009年の「サマーウォーズ」でも、細田監督は多くのファンを集めていろいろと賞もとって宮崎駿監督に続きそうなアニメーション監督というポジションに、真っ先にたどり着きそうな位置を占めてそして2012年夏。「おおかみこどもの雨と雪」という作品でもって大きな興行成績を上げてジブリ的な、万人が見て喜び楽しめる映画を送り出せる監督としての地位を、ほとんど確実なものとした。この勢いで次も作られそしてとった具合に、作品を重ねて宮崎駿監督の後継者として、さらにそれを超えるような日本のアニメーション映画のフラッグシップとして細田監督は高みへと登っていくことになるなろう。その間。

 今敏監督は「夢みる機械」の構想を練り、作品作りに取りかかりながらも2010年8月24日に世を去った。たった1本「オハヨウ」という1分程度の作品を残したくらいで、当然ながら興行成績とか賞とかを世にアピールできる作品ではなく、そしてもう二度と自身から生み出される作品はないため細田監督との差は開くばかり。それはどうにも残念なことだけれども、思うに果たして今敏監督が存命で、映画を作り続けていたとして宮崎駿監督や、昨今の細田監督のように万人が見てエンターテインメントとして楽しく感じ、何度も観に通っては日本の映画興行史を塗り替えるような作品を、仕上げただろうか。その癖の強さ、その独特な映像表現からするに平凡ではありえず、一般的でもない作品を世に問うてはまた訳が分からないものをと思われつつ、脇道を歩き続けたんじゃなかろーか。

 だったら極めてドメスティックでマイナーな道を歩んだかというと、むしろそうではなくって映画に関わる人たち、映画を作る人たちにとって深く刺さって強い影響を与え、そんな彼ら彼女たちの表現活動を通じて今敏監督の表現へのアプローチが、様々な形で受け継がれ広がっていったんじゃないかと確信している。実際にたった4作しか作られなかった長編アニメーション映画のいずれもが、強いインパクトでもって世界の映画人たちの間に、あるいは映画ファンの間に影響を与えてそして、さまざまな作品にそんな影響の端々が見て取れる。先鋭にして尖端の表現。それがさらに新しい作品で生み出されては広がっていかなかったのは残念だけれど、現時点でもそれなりに残っているこの影響を、そして4作品がさらに生み出す新しい影響を思うとそれはそれで嬉しくなる。

 あるいはそうした先鋭の中に娯楽性も織り込んで、とてつもないものを作り上げた可能性もあったりするのかも。死後2年という節目に新宿バルト9で行われた「パプリカ」の上映会で改めて作品を見てみると、なるほど初見なり2回目ではまだつかめなかったシーンシーンの繋がりや広がり、意味なんかが見えて来てこれは隅々まで完璧に考え抜かれた作品だってことが分かってくる。冒頭の粉川が犯人逮捕に訪れる夢のサーカスシーンから、最後の粉川が映画館でチケットを1枚求めるシーンまで、切って捨てられるシーンがまるでない上に積み重ねて長くすばより良くなるといった感じでもないところに、完璧なまでの監督の技ってものを感じてしまう。

 あんな密度とあんなスリルとあんな面白さがあってたったの90分。それでたっぷりと見た気にさせてくれるところが今敏監督、やっぱり凄い。そして、そんな才能が娯楽の方面へと向いた時に生まれただろう充足を、味わえないのが少し悲しい。「夢みる機械」とか子供たちの方も向いている作品っぽかったしなあ。そんな「夢みる機械」だろう次作を、「パプリカ」の上映後にトークショーに登場した林原めぐみさんは、是非に作って欲しいと話していて個人的にも応援したくなったけれども現実は果たして。それでも林原さんは既存の作品を1人がまだ観ていない1人に進めるだけで倍になって広がっていく、その広がりをもっといっぱい作っていこうといったようなことを話してた。そのとおり。こうして上映されれば大勢の観客があつまり、オールナイトで全作品が上映されるイベントはチケットが完売するという人気ぶり。そこには観ると最初のロードショーの時には見ていない世代の人たちが少なからず含まれている。

 欲を言うならそうした上映時にもっともっといっぱいの人が観て盛り上がっていれば、あと1作くらいは何か、残してくれていかもしれないけれどもそれも詮無い話。今はだからひたすらに「PERFECT BLUE」と「千年女優」と「東京ゴッドファーザーズ」と「パプリカ」と、あとテレビシリーズ「妄想代理人」の喧伝をして今敏監督という才能がいたという事実を定着させ、そして後世に伝えて忘れられないようにしていくことで、楽しませてくれた10年弱の期間に報いたい。しかし「PERFECT BLUE」で松本梨香さんが演じたマネージャのルミちゃん役を、林原めぐみさんが演じる可能性もあったとは。役は松本さんに行ったけれどもそのときの印象があって「パプリカ」で林原さんを選んだのかも。そしてその役を大切に思ってイベントにこうして出てきて話してくれる林原さん。良い出合いだったんだろうなあ。そういう出合いが自分にはどれだけあるかなあ。どれほどもないよなあ。うーん。

 さいたまスーパーアリーナ方面へと出かける用事があったんで、埼玉県立近代美術館で「ウルトラマン・アート展」ってのを観る。東京では東京都現代美術館で「ウルトラマン」シリーズも含めた特撮関連のプロップとかが並べられた展覧会が開かれ盛況だけれど、こっちもこっちでウルトラセブンのマスクだとかウルトラマンの立像だとかが、レプリカだったりもするけれども並んでいてなかなかの充実ぶり。ウルトラホーク2号は実際に撮影に使われた模型があって空飛ぶウルトラセブンの模型もあってああこれがテレビに映っていた物たちかといった感慨に浸る。見てくれはいかにも模型だけれど映像だと本物に、そして本当に飛んでいるように見えるんだよなあ、そこが特撮の面白さ。そんな工夫が現代にどれだけ受け継がれているかと考えると少しばかり悲しくもなる。それが時代か? そはさせじと庵野秀明さんや樋口慎嗣さんたちが頑張っているんだ。応援せねば。

 多分前にサンシャインでのイベントで見た桜井浩子さんが「ウルトラマン」で着ていたという制服が展示してあったけれども小さいし細いよなあ、それを着ていた桜井さんって細くて小さかったんだよなあ、今は……それは秘密。「ウルトラセブン」からはアンヌ隊員の着た制服、ではなくキリヤマ隊長が着た制服とヘルメットが登場、ヘルメットはやっぱり格好いいよなあ、よくあんなデザインを考えたものだ。他には撮影後に作られたっぽいアイスラッガーには森次晃嗣さんのサインが入れてあったしその森次さんが直筆サインを入れて地球防衛軍のユニフォームを着たブロマイドなんかも売っていた。見どころはそうしたプロップとは別に並んでいた成田亨さんによる怪獣やウルトラマン、ウルトラセブンのデザイン画か。バルタン星人やレッドキング、ゴモラのように最初っから完成度の高いデザインもあってこれを良く考えたものだなあと感心しつつ、よく着ぐるみにしたものだとも感嘆。凄い才能が集まって作られていたんだと分かる。物量で迫る「特撮博物館」も良いけどポイントで考えられる「ウルトラマン・アート展」にも是非。9月2日まで。

 せっかくだからとさいたまスーパーアリーナで「アニメロサマーライブ」を見る。8回目ってことで8を横倒ししたインフィニティってのがテーマになっているとかで無限にアニソンを流して夜中まで朝まで演奏し続けるってのはさすがに無理だけれどもパワー無限大でぶちかます今年もトップに田村ゆかりさんとMay’nさんがペアで登場してはそれぞれの持ち歌を1曲づつ、デュエットして場を盛り上げてそして川田まみさんへと繋がったらこれがレディースロックバンドだった。そんなんだった川田さん。あれはポールリードスミスかなあ、手にして奏でてバックにレスポール持った女子もいてベースにドラムも女性ばかりで「シャナ」とか「禁書目録」を唄ってくれた格好良かった。ライブ見てみたくなった。行こうかな。

 それからあれやこれや登場して「STEINS:GATE」のゲームとアニメの楽曲もあって「PERSONA4 MUSIC BAND」ってのが登場してとてつもなくスタイリッシュでライブDVDを見てみたくなってそして「Fate/Zero」から何曲か。最初の藍井エイルさんの「memoria」とか春奈るなさんの「空は高く風は歌う」とか流れてブルーレイディスクボックスの発売がぐっと楽しみに。春奈さんはアニソングランプリで優勝はできなかったけれどもその実力が高く評価されてのデビュー。やっぱり巧い。そして鈴木このみさんは若干14歳とかでの優勝だったけれど15歳になってなおいっそう巧くなっていた。どこまでいくんだか。実力のある人をピックアップしてくるアニソングランプリだけれどその後、作品を担当し続けられるかどうかってのは別の話でいつしか消えかかってしまいそうになるのがちょっと残念。鈴木さん春奈さんには是非に頑張って欲しいけれども果たして。

 そんな鈴木さんと黒雪姫とハルナちゃんの3人による「ふしぎの海のナディア」の主題歌を聞いた後、前半戦のトリとしてあの森口博子さんが登場しては「水の星に愛を込めて」と「ETERNAL WIND」という「ガンダム」絡みでも屈指の名曲2曲を並べて歌ってくれた。いやあ素晴らしい。そそて驚くべきことにまったく変わっていない声質。むしろ純度が上がってより澄み切った感じすらするその声を、いったいどうやって保っているんだろう。決して歌手としての活動がおおい訳ではないのに。それがだから才能って奴なんだろう。そんな才能を存分に活用しきれていないメディアという場所の悩ましい部分。アメリカとかエンターテインメントの国なら一生、歌い続けて喝采を浴び続けられるんだろうに。ともあれ最高の曲を聴けて夏から今年いっぱいを乗りきる力をもらえた。写真集に注目が集まったほどのそのボディも遠目ながらちゃんと見られた。良い夏だ。この幸せが続きますように。せめて今日くらいは。


【8月24日】 親書を受け取らないなんていうのは外交上、言語道断な振る舞いであることは間違いないとして、それを届ける側にもこれは絶対に読ませるんだという覚悟があったかということについてふと考え、例えば聖徳太子のコスプレをして、「日出づる処の総理」で始まる親書を福岡から釜山へと渡って後、徒歩でソウルまで持っていったら果たして見てもらえたかというとそれは無茶か。あるいは使者を韓国でも人気らしいチョナン・カンな草ナギ君にして、向こうが断れないような空気を作って勢いで手渡してしまうとか。っていうかチョナン・カンって本当に韓国で人気なの?

 それを言うなら読まずに食べた、訳ではないし仕方がないので「そっちの親書のご用時なあに」とも書いてもなくって、普通に受け取らず突き返そうとした相手も工夫がないっていうか、大使館の参事官なんて下っ端(ではないよな本当は)に持たせて外務省で門前払いを食らうくらいなら、大使が太子のコスプレを……は立場上無理だから大使が大使として持参すれば、向こうだってアポがないとか言わずに受け取らざるを得なかっただろう。あるいはケビン・コスナーを呼んで「ポストマン」として届けてもらうとか、室伏広治選手に頼んでDHLの配達員としてあの門を突破してもらうとか、彼には返信されて来た親書をハンマーにくくりつけて、外相の部屋なり総理の執務室にぶち込んでもらうとか。

 それを何を考えたか普通に国内の大使館から、日本郵便を使って書留郵便で送るんだかみっともないというか、なりふり構ってないというか。これも前代未聞だよなあ、そして言語道断。でもそれをやって平気だという国内世論を作ってしまって、言論もそれ一辺倒になっていたりするところに、あの国のどうにかならんか的もやもや感が浮かんで仕方がない。あり得ないことをやってそれを正当化する理論を、ここまで幾つ重ねたか。もはや引っ込みがつかないところに追い込まれていると、国交断絶を言われてもそれならこっちから絶縁だと良い、資金を絞られればそんなもの最初っからいらないとやせ我慢を見せ、挙げ句は孤立から暴発へ。彼らが敵対する国でいつか起こって、そして壊滅へと至った道を、なぜかなぞって突き進んだ果てに起こる喧噪が気になるなあ。あんま関係ないと良いなあ。

 何かよく分からないけれども手塚治虫さんづいている宝くじ。前に手塚キャラ総動員めいた普通のくじを買ったし、最近では「リボンの騎士」のスクラッチも出て削って500円が当たってまずまずと思いながらも、20枚買って900円だから結果的には効率は悪し。まあ宝くじみたいなんて一種の寄付だから、それはそれで良いんだけれどもそれに加えて手塚キャラってのが乗っかると、もっと何かに貢献しているような気がするのは手塚ヒューマニズムのなせる業か。でも本当は手塚プロダクションに貢献していたりするだけなんだろうなあ。それも一種の社会貢献か。あそこが頑張ってくれないと「グスコーブドリの伝記」の次の杉井ギサブロー作品が作れなくなっちゃうから。またあそこで作るのかな。

 そして今日は今日とて「三つ目がとおる」のスクラッチを10枚ばかり購入。1枚100円で最高賞金が5万円だからあんまり嬉しくはないんだけれども、そのぶん当たる確率が多いかなあと思ったら甘くて100円しか当たらなかった。そういうものだ。3マス削るタイプなだけに全部が目になっていて、三つ目が揃えば100万円とかってことになっていたら楽しかったんだけれどそういう工夫はなし。全部が和登さんだったら逆に100エンむしり取られるなんてこともあったら面白かったかな、和登さん怖いし写楽には。でも個人的には手塚ヒロインではサファイアと並んで好きだなあ、和登さん。その中身がゴダルになっているとなお格好いいんだけれど。次はどんな手塚キャラがくじになるんだろう。「アラバスター」か。「日本発狂」か。

 鬱々とした青春を過ごしていた高校生が、どいう理由からか大戦末期の日本へとタイムスリップして、そこでどういう理由からか飛行機の操縦を教わることになって、軍隊に組み入れられてそして出撃しては空襲に来るB29なんかと戦っていたり、特攻に向かう桜花なんかを護衛していたらやがて自身も特攻させられるという自体になって、おおいに迷い悩んだけれどもそうしているうちに仲間とかができ、彼らがどういう思いで死にに行くかが分かってそして自身もそうした刹那に身を置き、考え方がずいぶんと変わったところでなぜか現代へと戻ってしまってそこで見た、ダラダラとして平和な日常にこりゃあ違うだろうと特攻崩れならではの憤りが爆発して、叫び暴れるというライティーな話にありがちな展開かとも思ったけれども、管野ユウキさんも「昨日の蒼空、明日の銀翼」(講談社BOX)はなるほど現代の曖昧さを少年に憤らせつつ、それが成り立つ平和の良さってのも仄めかす。

 過去には過去で現代の価値観を持ってそこへと向かった当初の少年の意見と、当時の世界に生きている少年たちの見解をぶつけては、国のために死ぬとか誰かのために死ぬとかいった行為の是非を考えさせる。ともすれば自己犠牲の素晴らしさに傾きがちになるのが人間の情動って奴でもあるけれども、そうした思想に染まって戻ってきた少年の暴れっぷりを見せつつ、現代は現代で生きづらい世界なんだということも示してみせては決してライト方面に心を流させないよう配慮はある。それがなければ石原慎太郎さんの「俺は、君のためにこそ死ににいく」とそれほど変わらない映画になってしまうから。ラストもありがちな自己犠牲へとは流さないで、この今を生きていく大切さ、って奴を分からせようとしていたりするし。1人の少年に2つの時代で2つの思考を持たせて双方からアプローチさせて、それぞれの是非を浮かび上がらせる作品、っていったところか。でもやっぱり若者が離別を経て命を散らす場面は泣けるなあ、そういう風に人ってできているんだよなあ。


【8月23日】 最初は大部由美さんかと思ったら東明有美さんという人で、なでしこジャパンという名前なんてまだなかった1990年代におそらくは、高倉麻子さんとか野田朱美さん、小野寺志保さんあたりといっしょにプレーして日本で世界で戦っていた人なんだけれども、今はそれほど記憶には残っていないその東明さんによる解説が実に的確でクレバーで、いっしょに解説していた清水秀彦さんのこちらも論理的に状況を分析してポイントを伝える解説と相まって、今のU−20サッカー女子日本代表ことヤングなでしこに何が足りていないのかが分かって面白かったU−20女子W杯の日本対ニュージーランド戦。

 体格に勝りパワーに勝り経験にも勝っているニュージーランドの選手たちによって押し込まれ、たちどころに2点を奪われながらもずっと攻めていたのに日本の攻撃が得点に繋がらないのは何故なのか。トップに張った道上選手をあんまり使わずサイドへと開く、それは良いんだけれども1人が持って右往左往しているだけではすぐに2人くらいのディフェンスがついて動けなくなり戻すか奪われるかしてシュートへと結びつかない。得意なコースとかいったって相手に囲まれた不利な体勢で撃ったところでふかすだけ。あるいは弱いシュートがいくだけ。それを繰り返し挑む選手を豪傑と見るのも良いんだけれども、通じないと分かったら切り替えることも必要なのに多分それがまだ若いからあんまりできてない。

 清水さんも東明さんもオーバーラップをしかけることで中にいて道上彩花選手を見ているディフェンダーを引っ張り出すなりすれば、ゴール前に道も開けてクロスを上げても跳ね返されなくなると言っていて、後半にそれが本当になったのを見てやっぱりサッカーを経験して来た人、長く指導して来た人は違うなあと感心すること仕切り。どこの生まれて震災がどうとかいったドラマなんてものはピッチにはいれば無関係。そしてもちろんそのルックスも。だから誰を持ち上げるということもなく、逆に貶めることもなしに淡々と戦況を語り前半途中という選手としては屈辱的な時間帯に交代させられる選手がいたらやっぱりその選手の至らなかった部分を指摘する。

 なるほど当の選手にとっては悔しいけれども聴けば自分の進歩につながるだろう解説を、覆い隠すようにドラマでもってアナウンサーが悲劇のヒロインに仕立て上げ、ハーフタイムのどんちゃかでもって冷静な判断を曇らせさらに、翌日のワイドショーでも悲劇のヒロインに祭りあげては何にもならないなけれどもそれを応援と勘違いしているメディアの何と多いことか。あるいは現場の解説に清水さんと東明さんを持ってきて辛辣でシリアスなコメントを発せさせたあたりにスポーツをスポーツとして伝えたい部署の意地ってものがあったのかもしれないなあ。それをバラエティにして数を稼ごうとする編成のズレっぷりがなるほど、今のフジテレビって局が置かれた状況を示していたりするのかも。トップランナーからズレてさらにズリ落ち気味という。

 けど選手の方もそうした状況にどこか腰が定まっていないというかあるいはトップ選手ならではの王様気質というか折角の才能があって世代別の大会で無双を見せていながらも、そのパワーやテクニックが体格が大きくなっていく外国人選手相手にはまるで出せずそれをぶち破ろうとしては跳ね返されてもやぱり改めないままいつしか使われなくなって、自信をなくしていくことになりかねないのがちょっと心配。岩渕真奈選手しかり横山久美選手しかり、あれだけ下の世代の大会で輝いていたのにその力が今ひとつ発揮されていないんだよなあ。

 そんな中で上の世代に入ってさらなる成長を見せた永里から大儀見となった優希選手は本当に凄い。W杯での待遇に自省し精進したんだろう。またメディアスターになりながらもしっかりと自分の居場所を守り続けている川澄奈穂美選手も。ロンドン五輪ではちょっと調子が出ていなかったみたいだけれどもヤングなでしこに抜かれるようなことはまずなさそうだし。田中陽子選手はでもちょと期待。そんなような変化なり心構えを横山選手、岩渕選手にも期待したいけど日テレ・ベレーザって油断していれば追い越されるチームに所属している岩渕選手はまだしも、ベレーザやINAC頭ほど選手層が分厚くない湯郷Belleにいる横山選手はどうなんだろう。宮間あや選手がちゃんと引っ張っていいところをのばしていってあげるかな。見守ろう、この大会で化けるかもしれない訳だし。

 何か国書刊行会が北海道で地熱発電に参入とかてニュースが世間をにぎわしているけれども、あの国書刊行会が普通にエコだ全量買い取りだ何だといった理由から地熱発電に乗り出すなんて考えられない。きっと北海道の山中にわけいってそこに眠るクトゥルー的な何か異神たちを、地熱によって暖め甦らせては北海道に異形の帝国を築き上げようとしているに違いない。あるいはアレイスター・クロウリーが残した予言に従って北海道の彼の地に満ちた地脈を魔術的な方法によって集め高めて強大なエネルギーとして発射できるような施設を作っては、遠く極東の地からクロウリーを虐げた西洋文明への反攻を始めようとしているに違いない。これが早川書房だったら小川一水さんと野尻抱介さんの叡智を結集して地に天に海にと新しいエネルギー源を求めて技術開発に乗り出すんだろうって思えるけれども国書だもんああ、オカルトな。何がいったい始まっているなか。

 朝の5時半からチバテレビではBBCワールドニュースを同時通訳でもって放送していてそこではやっぱりシリア情勢がトップに来てはいたけれど、日本のワイドショーが一昨日あたりから連日繰り返しているような山本美香さんのこれまでの活動だったり娘を失って嘆く父親だったりを伝えて情動を動かすドラマなんてものはまるで見せず、今なお起こっていることを伝えては当地の大変さってものを見せてくれる。今日はといえばすでにNYタイムズが映像ニュースか何かで伝えたように撮影していた映像に偶然映っていたという、爆弾を後ろに積んだ軽トラックが、実は反政府側の人間爆弾計画に使われそうだっていう恐ろしい事実が明らかに。反政府側に与して戦う武装集団が、捉えた政府側の人間をとりあえず慰撫して英気を取り戻させ、政府側の方へと軽トラックで帰ってもらおうと表面上はしながらも、それが検問所に近づいたら、内緒で積んであった爆弾を遠隔操作によって爆破させようと考えていたらしい。

 もちろん戦争犯罪。そして類い希なる卑怯ぶり。日本だと政府軍の横暴によって反政府側にいた山本さんが射殺されたって構図から、反政府側に同意が集まりやすい状況になっているけれど、そんな反政府側だって中身はいろいろな寄せ集め、この武装集団のように会計士かだれかがリーダーとなって仲間を集め、それで政府側の使節なんかを占拠してはなみなみと讃えられたプールに飛び込み遊んだりするフリーダムっぷりを見せている。どちらが正義とかどちらが悪とかいった2分からはもはや考えられない状況をそれでもどちらに与することもなく伝える海外メディアの冷静さ、なおかつ昨日も今日も明日も毎日が凄まじいシリア情勢を、悲劇の物語なんかに埋没させず過去送りにもしないで伝え続ける覚悟って奴を改めて見た思い。それを見た後でワイドショーを見るとこれがまた。ワイドショーならそれで良いけど報道は。何かどうにかならないか。ならないな。


【8月22日】 スキマスイッチかサンボマスターかで当時新進気鋭の作家と言葉をやりとりしたのも遠い昔で、新進気鋭の作家は文学界でも最高の権威を持った賞をとってエンターテインメントの旗手となってはこちらのことなどまるで覚えていないし、別に覚える必要もない高みへと昇ってしまってもはや仰ぎ見てもつま先すら見えない一方で、こちらは窓際化が進んでは穀潰しへの道をまっしぐら。せめて意地でも見せたいとサイン会に並んだところで、顔すら見てもらえない悲しみに打ち震えながら岐路に就く可能性を考慮して出かけないでいたりするんだけれどそんな彼我の圧倒的な格差はともかくとしてスキマスイッチの方は未だ健在にポップスの覇道を突き進んでいる様子。かつての名曲を新アレンジでセルフカバーしたアルバムが出たんで聴いたらこれがまたなかなか良かった。

 「DOUBLES BEST」ってそのアルバムではまず「夏雲ノイズ」っていうファーストアルバムのトップにテンポよく始まる楽曲で、今は改装中のラジオ会館にあるヘッドホン屋か何かをさまよっていた時にラジオから流れてきてこれはいったいどういうミュージシャンだ、何て格好いいんだと即座に石丸電器あたりでCDを探して買って聴いたくらいの名曲「螺旋」がややメロウに、それでいて強い主張を持ったアレンジになっていて、前のアップテンポなバージョンに感じられた呟きとはまた違った魂から出る叫びめいたものがそこに感じられて面白かった。あとやっぱり「夏雲ノイズ」に入っててスキマスイッチの全曲でもきっと誰もがトップにあげる「奏」がよりフォークな感じになっていて、荘厳さのあった前とはやっぱり違ったふわんりと優しくそれでいて切ない気持にさせてくれた。巧いなあアレンジ。

 本来はロックな「全力少年」もフォークな感じにして大橋卓也さんの声をよりくっきりと聴かせるようなアレンジになっててこれならギター1本あれば街頭で演じられそうな気になったけれどもギター弾けないんでちょっと無理。「ガラナ」も面白いアレンジだなあ。そんな改変をやっているのは多分常田慎太郎さんなんだろうけれども一時、喧嘩じゃないけど別々に活動していた時期に頭がアフロから普通になっていたのがこの「DOUBLES BEST」のジャケットでは前にも増してでっかいアフロになっていたのは心機一転からの先祖帰りを画策したのかそれともただのカツラか。腕突っ込んでぐりぐりしてみたい。ほか「ふれて未来を」とか「view」とか割りに初期の作品がおおいのはやっぱり傑作が集まっていたってことを噛みしめつつ6枚目7枚目と新譜を作っていって欲しいなあ、スキマスイッチが凄いと大声で叫んでも誰に憚ることなんてないように。

 CDでベストアルバムといったら遂に山下達郎さんの新しいベストアルバムのラインアップが明らかになっててそのアルバム「OPUS」には実に49曲もの楽曲が3枚のCDに収められるんだけれどざっと見て「MUSIC BOOK」がないのと「マーマレード・グッドバイ」がないのが気になった。いや好きなんだよこれらの曲。特に「MUSIC BOOK」は「FOR YOU」で「SPARKLE」で燃え立った心をいったん落ちつかせつつ夢の世界へと誘ってくれる楽曲としてとっても心に響いてた。何かとっても気持ちよくさせてくれる楽曲なんだよなあ。でもあんまりライブでもやらないところを見るとお気に入りの順番では下の方に入っているのかな。「マーマレード・グッドバイ」もまあそんな感じか。

 でも「メリー・ゴー・ラウンド」は欲しかった。まだLPだった頃の「MELODIES」のB面の最初でズンズンと響くベースから始まりそして突き抜けるボーカルが入る楽曲はひとつの世界を示してた。まあそれもアルバムっていう形態の曲順という中から浮かび上がるひとつの章のような役割であって単体としてそれを抜き出した場合に残るインパクトって意味では世間一般の人には「クリスマス・イヴ」でありCMに使われた「高気圧ガール」であり「悲しみのJODY」になってしまうんだろうなあ。仕方がないけどそういうところで妙なこだわりも見せてほしかった気が。「サーカスタウン」から「WINDy LADY」を入れるんじゃなくって「夏の日」を入れるとか。これを今聴くと本当に世界が灼熱の中に放り込まれるんだ。でもどこか心地良いんだ。そんな曲。でもまあそれはアルバムを聴けば良いってことか。おまけのCDにはレア音源も入るみたいでそっちも楽しみ。

 これはちょっと面白い作品だなあ、川添枯美さんって新人らしい人の「踏んだり蹴ったり! あの娘の笑顔を守ったり」(集英社スーパーダッシュ文庫)はお嬢さまばかりが集まっていた名門女子高が男子の編入も認めるようになったということで猛勉強した少年が、幼なじみらしい少女ともども見事に合格して晴れがましく学校へと行ったものの胡乱な奴と見られマーシャルアーツで叩きのめされ、それでも校内に入ったところで泣いている少女に出合う。聴くと学校の何でも相談所みたいな「こども会」という団体に所属していてそこで鼻からうどんをいれて口から出せるかという質問を寄せられ挑戦していたというから少年は、代わってやってあげようとしてそれがうどんではなくきしめんでとても難しかったと気づく。

 妙なズレ具合があって楽しいんだけれど設定だけなら名門女子高の男女共学で入った男子が1人だけ、なんて話しもあったりして珍しいことではない。それがこの「踏んだり蹴ったり!」ではむしろそうした境遇に男子を追いやりあたふたしつつも引っかき回し、ひっくり返す展開を楽しむっていう風にはいかないで、むしろ学校にあって缶蹴りとか鬼ごっこといった子供の遊びを競技用のスポーツにして競い合っているという設定が乗っかって、「こども会」は一方で本業としてそうした児童遊戯を楽しむ部活をやっていてそこに少年や幼なじみの少女は引っ張り込まれていく。途中、缶蹴りの様子が出てくるけれども実にハードでスピーディ。これを本気でやったらオリンピックでだって注目を集めるかもしれないなあ。

 じゃあ物語では少年が、先輩たちに引っ張り込まれて缶蹴りで全国を共に目指すかというとそこまでは至らず、親の目もあって児童遊戯部=こども会を抜けて生徒会に移ったある少女が、それでも本当にやりたいことを見つけようとあがく姿を見出し、助け共に再び缶蹴りで汗を流し、そして厄介な親の説得に回るという青春ストーリーがまずは描かれる。その親であるとか生徒会の一派への説得の仕方が堂々としていて生徒の夢や希望に優しく読んでいてスッキリ。それが結果として是か否かは分からないけど未来なんて誰にも分からない。だったら、今はやりたいことをやり、それから考えても遅くないと思えば好きなだけ突き進めば良いのかも。


【8月21日】 てっきりテーブルについて話し合っているかと思ったら、「境界線上のホライゾン2」の武蔵アリアダスト教導院と英国はオックスフォード教導院との話し合いは、広間でエリザベスを檀上に仰ぎ見ながら足下で本多・正純がホライゾン・アリアダストと浅間・智を引き連れ対峙する形で話し合いつつ、片側にトランプが並び向かいに極東の生徒会と総長連合が並ぶって構図で行われていたとは、放送されたテレビアニメーションで見て知る事実。全員が前に表示枠を展開しつつチャットとかしていたりするのはどこのSNSだよとか思ったりもしたけれど、その裏で激しい情報戦なんかもきっと繰り広げられていたんだろうなあ、それができてこその総長連合であり、生徒会だろうから。

 話し合いが中心でバトルはなかったけれども変わりにネイト・ミトツダイラの削れてしまって平たくなった胸板をお目にかかれたのがとってもハッピー。それでも三日月状の陰がつくくらいにはちょっぴりのふくらみはあるなな、それがなければ本多・正純だしな、って正純そんなに平たいの? そんなミトツダイラを最初は深刻そうに表現してそして扉を開いたとたんに狂人の異名もそのままに素っ頓狂な表現になる葵・喜美とかとっても最高、演技している斎藤千和さんもやっぱり最高。いろいろと見どころもあったけれどもここでいよいよ前田利家とまつも現れ、続く話はまずは英国、そしてエスパニアを相手にした決戦へと向かって進みそう。残る1カ月くらいでいったいどれだけのバトルが繰り広げられるか。最近あんまり出てないフアナさんは胸を揺らしてくれるのか。楽しみだあ。

 朝からシリアで女性ジャーナリストが撃たれたとか死亡したとかいったニュースが入ってきて、急にシリア情勢への日本の感心が高まったけれども、もう結構な月数をシリアって政府軍と反政府勢力とが戦っていて相当に酷い状況になっていて、そんな場所ではジャーナリストも何人か巻き添えをくらって倒れていたから、昨日今日で別に急に情勢が変化したって訳ではない。ひとつの通過点的な現象としてそこにいたジャーナリストがまた撃たれ、それが見知った日本人だったということなんだけれども、日本人って航空機事故とかで「日本人乗客は含まれておりません」とかニュースで流すと、「日本人だけ心配するなんて」と文句を言う癖に、こういう時は日本人が被害にあって何かことがとてつもない重大事なんじゃないかと思っては、「なぜテレビはこの事件をもっと取り上げない」とか騒ぎたてるから妙というか、ずれているというか。

 もちろん家族の人や知人の人には、見知った人が撃たれ亡くなったことはとてつもない衝撃で、悲しむべきことでそれへの同情もたっぷりしたいけれども一方で、状況的には日本人ジャーナリストが撃たれたことはあくまでも通過点で、あるいは表層的な現象であって、根源にあるシリアで内戦状況がずっと続いているってことの方がはるかにニュースで、そして報じる意味がある。そうしたことが例えば朝のワイドショーではまるで報じられることはなく、NHKでも解説なんかで報じられはしてもそれほど積極的には取り上げられてこなかったことの方をまず真っ先に、訝りどうしてなんだと悩むべきなんじゃなかろーか。加えて言うなら朝のワイドショーはワイドショーであって、シリア情勢もそこで日本人ジャーナリストが撃たれたことも、別に報じる必要はない。ニュースじゃなくワイドショーでその主たる視聴者が知りたいことのバリューを満たすのが彼らの役割なんだから。

 一方でニュースと名乗るメディアはこれまでに、シリア情勢をどれくらい後回しにしていたかを噛みしめつつ、遅れて日本人ジャーナリストが撃たれなくなったことをきっかけに報じるようになったことを恥じつつ、ここからシリア情勢というものがどういうところから始まって、そしていったい世界にどれだけの影響があるのかってことを考え伝えていく必要があるんだけれど、それができそうなはNHKくらいってのがなあ、あるいはニュースステーションか。「番キシャ!」の依頼あたりでどうやらシリアにいっていたから、日本テレビ放送網はやる気があるんだろうけれど、その番組名を聞くとそこで率先して前に出て良い映像を撮れ撮れ撮れとか言ってたんじゃないかって疑念すら浮かんでしまうのは、彼らの過去の振る舞いから仕方がないこと。それも含めてより詳細に、そして継続的にシリアの問題を伝えそれがいつ身の回りでも起こりかねないかを想起させるような番組を、作っていって欲しいけれどもあの番組がそんな殊勝なことをするかなあ。最後の映像を感動的にお涙頂戴で伝えて、視聴率とか稼ぎに出るんじゃないかなあ。

 書くとしたら上陸してくる香港の活動家も悪いけれども、そうなるくらいまで問題をこじらせた日本が悪くふり返っては日中戦争なんてものを起こして中国の日本への悪感情を根元的に作った日本が悪いんだからお互い様だってな主張だと思っていたら朝日新聞、あの「天声人語」でこんなことを書いてきたから驚いた。曰く「香港の活動家に続いて、日本の地方議員ら10人が魚釣島に上がった。純然たる日本の領土で、日本人が日の丸を振る。『何が悪い』と言いたいところだが……」。何が悪いってそりゃあ悪いだろう、入っちゃいけないって政府の通達を破り或いは他人の土地に勝手にあがって日の丸なんた振ってるんだから。普通にそんなことを議員さんがやれば住居不法侵入の咎で検挙され議員辞職とかになりかねない罪を、「何が悪い」と前後の説明もなくあの朝日新聞が書いて来てしまったところに昨今の何でもかんでも右に傾き書けている空気の拙さって奴が感じられて仕方がない。

 「豊かな海底資源を知った中国が、尖閣の領有権を言いだして約40年。日本政府は先方を刺激せぬよう、島に触らず触らせずできた。少しでも領有の実績を重ねていたら、と思う」っておいおい、妙に開発をしようものならご大層にも中国でもって記者会見で向こうの報道官にどうですかと聞いて、いかがなものかという返事をもらって刺激するなとかき立てて来たのはどこの新聞だ。いわゆるご注進ジャーナリズムって奴をもうずっとそれこそ靖国参拝から従軍慰安婦からずっとやって来ている新聞が、いったい何をって思う人もきっと相当いるんじゃなかろーか。続けてさらに「韓国は頼まれもしないのに、わが竹島を『開発』している」って。「わが竹島」。そんな言葉をここに来て朝日新聞が使うとは。過去の問題があって言うに言えないマージナルな場所だという認識に立って、解決に向かい思考を重ねることがスタンスだと思っていたら一足飛びに「竹島はわが領土」とやってきた、1面コラムで、それはスタジアムで看板を掲げることに勝らずとも劣らない強烈な政治的メッセージ。それを朝日新聞が発しはじめて来たことに漂う空気の重さを感じる。どうなってしまうんだろうなあ、この国は。

 太田が悪い。なぜって「ビアンカ・オーバースタディ」なんかと同時に発売してしまったお陰で紅玉いづきさんの「サエズリ図書館のワルツさん1」(星海社FICTIONS)が目立たなくなってしまったからだけれども、読むとこれが近未来SF、30時間とかに及ぶ世界大戦めいたものがあってあれは何だろう、地震兵器か気象兵器か何かが使われ主要都市とかテクノロジーとかが損害を受けてしばらく。人は文明は維持してくらしていたけれども昔みたいに石油資源をバンバン使える訳じゃなく、紙資源も使うのに大変ってことで本はだいたいが電子になってしまって紙の本はとても貴重になっていたという、そんな世界にあって何故か紙の本をいっぱい収容しては普通に貸し出している図書館があった。それがサエズリ図書館。そしてワルツさんは親から受け継いだ本を守り貸し出す司書をしていた。

 何でもすべての本がどこにあるかを把握する権限を持っていて、貴重な本を持って逃げようものなら地の果てまで追いかけて取り戻すというからなかなかのコワモテなワルツさん。でも普段は普通に優しい女性で本なんてあんまり読んでいそうもなかったドジっ娘のOLが、図書館の駐車場に車を止めようとして接触事故を起こし、仕方なく図書館に謝りに行ったところで本を貸し与えては本好きにさせたり、収納している本に寄贈者が何か書き込んであるのをその子孫が知って、どうにかそれを読みとろうとして本を切り取ったらそれを咎めて諭したりと、本を愛する姿を見せて本を愛したくさせる。そういう意味では本に綴られた物語を人生と重ねるというよりは、本という形式そのものをフェティッシュとしてとらえ描いたストーリー。それが妥当かどうかは分からないけれども、電子書籍がこれだけ言われてもやっぱり紙の本を買ってしまう人間には何とはなしにその意味が感じられる。やっぱり良いよね紙の本って。抱きしめられるし。持ち運べるし。

 戦争で壊滅した都市部の不穏といった状況は示唆的で、ネットワークが時折寸断されるような状況も遠くない未来に起こり得ること。衰退へと向かう中でそれでも人は本にすがり物語を楽しむものだと考えるならそうした未来もどうにか過ごして行けそうな気持にさせてくれる。ただ、ワルツさんという人の本への執着はとてつもなく厳しくって祖母だか叔母だかが残して心の思い出になっていた絵本があって、それを子供に読んで聞かせてあげたいと願う母親が、ただ1冊だけ残っていたサエズリ図書館から本を持ち出したことを諌め咎めて本を取り返す。その行為自体は間違ってないんだけれども、そこに一切の酌量も同情も見せないところがちょっと怖い。でもそれくらいしてこそ守れる財産ってことでもあるんだろうなあ。優しさだけが全能ではないという。そんなことも思わせてくれる物語がやっぱりあんまり評判になってない。太田が悪い。


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