縮刷版2012年6月上旬号


【6月10日】 しまった、起きたときにはすでにドイツが1点を奪ってしまっていて、どんな風に得点が入ったのか分からなかったけれども、そのまま見ていたかというと微睡んでしまって、どうやって終わったのか分からないまま気がつくと朝になっていて、ニュースを見たらその1点を守りきったドイツがポルトガルに買っていたという「EURO2012」。えっとどこでやってたんだっけ。エジル選手とかポドルフスキ選手とかクリスチアーノ・ロナウド選手とかビッグネームが出ていた試合な割に派手さが見えず目を釘付けにするような戦いになってなかったのはドイツが堅守を通したからか、それともレアル・マドリードとは違ってクリスチアーノ・ロナウド選手がその華麗なドリブルにフリーキックなんかを披露するような場面にたどり着けていなかったからなのか。

 ちょっと前ならポルトガルもフィーゴ選手にルイ・コスタ選手にヌーノ・ゴメス選手にデコ選手にペドロ・パウレタ選手って感じに、世間に広く知られた選手たちがわんさかといて、その活躍ぶりを見るのが楽しみってところもあったけれども、今だとそれこそロナウド選手とあとはナニ選手くらいか、ポルトガルを出て隣のスペインも抜けてイタリアやドイツやイングランドやフランスといった国々のトップチームで活躍する選手が昔ほどいないなあって感じがしてしまって、そうした選手の巣窟になっているブンデスリーガに多くが所属しているっぽいドイツとの見ばえの差って奴がまずしてしまう。それはやっぱりプレーにも現れているよーで、ルイ・コスタ選手にフィーゴ選手といった黄金世代の残滓すら消えてしまった今、見るに何を見れば良いのかナニ選手を見るしかないのかってな感じになってしまって目を引きつけない。2004年に準優勝した時はまだちょっとの華があったものなあ。それでもEUROに出られるだけまだましか。ブラジルには行けるかな。ロナウド選手1人ではキツいよな。

 そういやあ最近あんまりサッカーを見てないと、調べたら国立霞ヶ丘競技場でもってなでしこリーグの「日テレ・ベレーザvsINAC神戸レオネッサ」の試合が開かれるってんで見に行くことに。国立でサッカー女子日本代表の試合が行われたことは何度もあるし、女子サッカー選手権の決勝も前は単独で、そしてしばらく前からは元日の天皇杯といっしょに開かれていたから女子の試合が行われるのが珍しいって訳ではないけれど、シーズン中のリーグ戦の試合が国立で行われたことって、昔の日本女子サッカーリーグのころとかL・リーグになってからとかなでしこリーグと名前を変えた後とかを探して果たしてあったっけ、って考えると大昔は知らないけれども2002年ごろからこっち、そんなになかったような気がする。つまりは相当に珍しいってことであるいは歴史的な一戦になるかもしれないという予感。これはやっぱり見ておくしかないよなあ。

 ってことで近くのファミマのeプラスを見たら何と当日券のS席が大人3000円とか。自由席だって2000円もしてちょっとした男子の試合並の値段にこれでいったいどれだけ人が来るのかって不安が浮かぶ。数年前から浦和レッズレディースなんかを筆頭に、女子でも有料化を進めるところがあったけれどもそれでもだいたいが大人で1000円。その2倍から3倍という値段ではやっぱり少ないかもなあと心配したらまるで杞憂だった。というかむしろ多すぎるくらいの人が国立競技場を埋め尽くしていてこれはいったい代表の試合かを思わせてくれるくらいの混雑ぶり。自由席のバックスタンドは開いてない上段をのぞけばほとんどが埋まり、S席のメインスタンドもこれまたほとんどが埋まっているという。ゴール裏のゾーンにも人が入ってベレーザ側には去年、駒沢で同じカードを見たときにはなくなっていた応援も戻ってきていて、今のなでしこリーグを代表する強豪同士の1戦って奴をおおいに盛り上げていた。何で去年はいなかったんだろう。

 というか去年の同じカードだって、澤選手をはじめベレーザからの大量移籍後の初の顔合わせってことで話題性はたっぷりだったんだけれど、それでも駒沢のメインスタンドを埋めるくらいには人は集まらず見た目だいたい1000人くらいだったっけ、もうちょっといたっけ、それでも5000人には達していなかった。今回は1万6640人とかそんなもん。これってフクダ電子アリーナだったら満席になるくらいの人数で、前週に味の素スタジアムで行われたJ2の東京ヴェルディと大分トリニータの試合の楽に5倍近くに達してる。なるほどスポンサー筋とかベレーザをもり立てている練馬区とかの関係者が招待もされていたみたいだけれど、それは男子の試合でもあったりすること。むしろ有料でそれも通常の3倍とかの料金でも、人が見に来てくれるくらいの存在感って奴を、女子サッカーが持ち得たってことがはっきりとくっきりと示された。

 これは歓喜。思えば2002年ごろに見始めた時はまだ試合場もベレーザが本拠地にしている読売ランドのグラウンドだったこともあったりして、みんなが柵に顔を近づけて中をのぞくように見ていたこともあったっけ。それがワールドカップの試合を決め、アテネ五輪の出場を決めて一気に大きく盛り上がり、北京を経て去年のワールドカップでもって優勝という栄冠を掴んで一気にブレイク。それはアテネ五輪後のように一旦収束することもなく、むしろさらに盛り上がるように膨らんではロンドン五輪出場への大きな後押しとなっている。その多くが選手たちの頑張りによって広く世間に認めさせたってことによるもので、選手の誰それが綺麗だとか男性と使っているとかいった話題もなるほど口にはされているけれど、そうした付属の話題ではなく、サッカーの強さ、そして面白さという本質でもって認めさせ、多くの注目を引きつけた。

 これはちょっとやそっとじゃ揺るがない。だから未来への期待もできる。憧れてサッカーを始めて選手になって鮮烈に加わる子どもたちも増えてくれば、さらに強くなって人気もさらに膨らむという好循環に、このまま入っていってくれると嬉しいなあ。大丈夫だとは思うけど、持ち上げてもすぐに余所へと目を移す癖がメディアにああるんでそうしたものに左右されない認知を得るとどうじに、メディアの移り気なんてお構いなしに世間にアピールする回路って奴を、今の内に作って置いてくれると嬉しいかも。ネットでの試合の中継も始まっているし。そんなあたりからじわじわと、着実に広がって育っていって欲しい女子サッカーへの感心と支援。まずはロンドン五輪でなおいっそうの名を馳せこれからの10年を盤石にしてもらえればとエール。でも岩渕選手が怪我っぽかったからなあ、大丈夫かなあ。

 そして気がつくとフランスで開かれていたアヌシーのアニメーションフェスティバルで水江未来さんが短編アニメーション部門の音楽賞って奴を「MODERN.NO2」でもって受賞していた。これは僥倖。これは善哉。過去に数多の作品を4大アニメーション映画祭に出品してきて世界的に実力があると認められてはいたし、ヴェネチアにだって作品を出していたくらいの高い実績を持ったアニメーション作家なんだけれどもトロフィーとなると4大アニメーションではまだ手が届いていなかった。グランプリとかいったものではないけれどもそうした部門に入るってことだけでも凄いこと。音楽賞っていってもアニメーションの映画祭なだけに、バックグラウンドの音楽だけを評価するものではなくって、おそらくはアニメーションとのマッチングなんかも含めて音楽性を持った作品だってことで選ばれるものだとするならば、あの音楽に合わせて描きでオブジェクトがリズミカルに動き伸び縮みするアニメーションを作った水江さんの実力への評価に間違いない。その凄さって奴を今度は、まるで不勉強でベルリンにベネチアにカンヌにアカデミー賞しか知らない日本のメディアにも、分かる形で発揮してやっていただきたいもの。期待してます。次は何が飛び出すかな。細胞マネキンの大量生産かな。


【6月9日】 見たらなるほど本田圭祐選手は遠藤選手がそこにパスを出してくるのを予見したかのように、相手ディフェンスの隙間に駆け込んでは、放り込まれたボールを受けてそのままシュートしまず1点。そして左側をずずずずっと走っていって、右から放り込まれたボールが流れてきたのをドンピシャで合わせてもう1点。そのいずれもが、球のないころで球を受けよう、あるいは受けられる場所に行こうと考えての動きであって、動いてから止まって足下にボールをもらおうなんて昨今のサッカーによくある動きではなかった。それって迫られると止まって戻してって繰り返しになるんだよ。翻っていうなら、この試合での本田選手のような動きが出来る選手が現れたことが、過去の点を奪おうとして奪えず苦しんできたことから一変しての、何得点も奪っていけるサッカー日本代表の今の強さにつながっている様子。

 でもこういう走りながら受けるのって、欧州のとりわけイングランドあたりじゃあわりと普通に見られるプレーで、プレミアリーグなんかもう持ったらさあ行けとばかりにみんな走って、ボールをもらい出してはすぐに攻撃。奪われればすぐに戻って守り奪ってさあ攻撃といった感じに、メリハリのついたゲームでもって楽しませてくれる。ボールを持ってゴリゴリとドリブルしては、相手をひきつけ誰かに出すなり自分で持っていく攻撃が、相手の分厚い守りに遮られっぱなしになってストレスを溜めてしまうようなサッカーばかりやってる傾向が、最近どうにも見えたりする日本なだけに、本田選手のこの動きとそして実行できてしまう力はやっぱり貴重だろー。

 メディアがしきりにエースと呼びたがる香川慎司選手もなるほどすごいけど、ボールを持ったところを囲まれたらもうそこから何も出来ない。本田選手は違う。持っていないところから受けに来る。だから止められない。あとはそうした本田選手の動きを活かせる選手がいるかってところで、遠藤選手しかり、香川選手の視野の広さや突破力が生きてくるってことになるのかな。なんだそう見るとエースは本田選手で香川選手は司令塔じゃん、っていうか背番号10は元来司令塔的なものだっていった気分が日本には強かったのに、どうしてそれを受け継いだ香川選手を野球の呼称でしかないエースと呼ぶかなあ。目立てさせたいんだろうなあ。三本線的に。

 日本レコード協会なんてものはメーカーとしてのレコード会社が加盟している団体だから、つまりどれだけレコードが売れたかといった認定においては、純粋に売れた枚数だけを勘定していればそれで足りるってことで、たとえ公然と1人が何百枚も買ったといった話が世に出回っていたり、情報として何十枚となく箱に入れて捨てられていたり、現実として中古商品が大量に町中の店に出回っていたりしたところで、それが聴かれたかどうかなんって話は無問題。売れた枚数をこそ純粋に数えてAKB48の「真夏のSounds Good」が2ミリオンに達したって認定したってどこにも不思議はない。不思議はね。

 でもきっと認定した側には、不安と不満があるんだろうし、なければレコード作りなんてやっている意味がない。それはレコード会社がメーカーであると同時に文化としての音楽を作り出し送り出す会社でもあったりするからで、そうやって生みだしたものがすべてを届けられないまま捨てられ、埋もれていってしまうことに、感情としてやっぱり釈然としない思いがあるだろうし、そうやって音楽そのものを蔑ろにしているスタンスが、やがて音楽そのものを細らせ市場全体を暗黒へと、導いて行きかねないと感じているだろう。本当に売れてそして本当に聴かれた過去のミリオン2ミリオンの作品たちと比べてどうだ、って話も出てきそう。比べてくれるな、並べてくれるなってアーティストたちの声なき声とかも。真実と虚実。その後者が勝利の凱歌を挙げるような場に未来はないはずだから。

 音楽とはお皿なのか、音楽そのものなのかという本質への見誤りが招いたこうした事態が居心地悪いと感じさせるのもいたしかたないことだけれど、こっちもこっちで何が就職難を呼んで、大勢の学生たちを戸惑わせているのかという本質への視野を欠いていることが、やっぱりどうにも居心地悪いと感じさせて止まない、ユニクロによる大学1年生2年生への内定出し。そんなに早くから学生たちが就職先を決めておきたいのは、この景況の先行き不透明感で大学3年次から、ってのも僕等の時代からすれば異常なんだけれども、現実はだいたいそれくらいから大学4年次に内定がとれる補償がない、ならば今、もらえるものをもらっておきたいという気持が働いたものなんだろー。けれども、それで将来本当にそれが一生の仕事になるのかどうか、自分がいったい何をしたいのか分からないまま、もらえる内定に飛びついた学生がいたとしたら、やっぱり何かが違っている。

 本当に一生をその仕事で行きたいんだと、口ではいうかもしれないけれども、考えてごあらんよ、ユニクロという服屋チェーンの店長ってのがとりあえずの目標だよ、そこには今いる場所へのオペレーションは必要であっても、現場監督の域を出ることのおそらくはない限定された仕事。何かを生み出すとかいった場所ではない。何かを作り出せる場所でもない。同じ服屋さんの店長さんを目指すんだったら、自分で見つけてきた格好いいものを並べてそれが認められるとか、いっそ自分で作ってしまうとかいった夢を描いた方がいいし、大学1年2年といった早い時期で将来を決めたがる思考があるんだったら、むしろそっちに挑戦する方が多分自分のためになる。失敗したってやり直しのきく年代なんだし。

 けど、そういう着想よりも今を、というか数年後の安定と安寧を得体がために内定をもとめる人たちの心理と、そうした人たちの気持をつかんで内定を出して引きつけつつ、世の中に存在をアピールするユニクロという会社の作戦が、今の世の中は求められてしまっているんだろう。でもやっぱりどうにも真っ当で真っ直ぐなものといったものを覚えにくい。むしろ一代であれだけの帝国を気付き上げてしまったユニクロの創業者だったら、大学1年2年なんて早い時期に将来を決めるなんて人生の無駄だと罵倒した挙げ句、そうした意欲はむしろ新しいビジネスの発掘に向けてくれって形で、自社への内定を出すより奨学金を出して世界に送り出すくらいのことをしたら、もっと格好いいし会社にだって為になるかもしれない。けどそうはならない現実。誰も彼もが保守的になって内省的になっている、この国に未来は? そんなものとっくになくなっているさ。

 大昔にバーゲンで買ったブルックス・ブラザースのコットンジャケットにこれも丸善の日本橋店が改装の時にバーゲンで出ていたボルサリーノの何故か紙製のハットを被ってそれなりに身なりを整えて、ミッドタウンにあるビルボード東京へと出むいてラスマス・フェイバーが贈るプラチナジャズオーケストラの東京での何年被りのライブを観る。すなわちアニソンをジャズにアレンジして聴かせる「プラチナジャズ」シリーズのライブ盤って奴でその昔にまだ1枚目が出てちょっと経ったころにこれを世に広めたいってことで、ラスマス・フェイバー本人に話を聴いて記事にしたこともあったけれども当時と今では知名度も各段に違ってアルバムが出れば次は何がアレンジされるかと話題になり、ライブになればどの曲がかかるかと大騒ぎ。おまけに今回は東京の9日分に限ってあの中島愛さんが出演するってことで、早めに抑えておかないとってことで予約初日にチケットを確保してまった当日。久々のビルボード東京はやっり飯が高かった。味もまあそれなり。でもエールビールが美味しかったから良しとしよう。

 そしてライブは「ヒ、フ、ミツゴ!」のかけ声が有名になった「みつどもえ」の主題歌「わが名は小学生」から始まって聴けば涙も滲む「CLANNAD」のテーマ「小さなてのひら」がかかり、ボーカルのニクラス・ガブリエルソンさんを迎えての小粋なアクションも目に楽しい「はじめてのチュウ」ときて「ルパン三世 愛のテーマ」と流れる選曲は、楽しませて和ませて喜ばせていっきに会場を盛り上げる。やっぱりガブリエルソンさんは愉快だなあ。そしてこれは「神のみぞ知るセカイ」かな、長大な曲をほとんどプログレッシブって感じにストーリー性を持たせて演奏してくれて実に良かった。もしもライブDVDが発売されるならこれは聞き物。出るかなあ。それから「るろうに剣心」の主題歌でも名曲の「そばかす」がはいってピアノとベースとドラムのトリオに女性ボーカリストのエイミー・マクワイアンガ加わってのこれは何だろう。凄い曲が聴けた。

 それから「創聖のアクエリオン」に「けいおん!」と流れていよいよ登場の中島愛さんによる「輪廻のラグランジェ」の主題歌「TRY UNITE」とそしてプラチナジャズオーケストラにとってネットを介して広くしられている「星間飛行」を唄っている当人の歌つきで披露、これは良かった、ポップな調子の曲がジャズにアレンジされて、それでいて中島愛さんの粒立ちがしっかりした可愛い声が響く曲はジャズとかポップスとかいった枠を超えた新しい歌ってのを聴かせてくれた。これがアニソンというなら日本のアニソンはもはや世界標準、というか世界だって楽々に突破しているよなあ。まさしく“星間音楽”。これをただ浸透させていくだけで、クールジャパンだ何だってお題目を載っけてお金を突っ込んで役人も突っ込んで成果のあがらないことをする必要なんてないのになあ。でもそれが日本って国だ。しょうもない。

 3枚目のアルバムに入っている「風の谷のナウシカ」と「銀河鉄道999」なんて英語になってラスマス・フェイバーのプロデュースでジャズにアレンジされたことによって聴けば世界の誰もが耳に響く楽曲になっている。もちろん「ナウシカ」はあの細野晴臣さんの曲だし「999」はゴダイゴだから元からグローバルに通用するミュージシャンの曲なんだけれど、それをジャズって形にすることによってもうひとつ広がりを見せられた。これがこのアレンジで向こうで広がりボーカル曲として人気になれば、それこそ「スキヤキ」に続くくらいの賑わいを見せたって不思議はない。そう思うと国から予算ももらってない、ただ好き日本のアニソンを聴いてジャズにしてレコーディングして売り出してみせるラスマス・フェイバーさんが、ひとりでクールジャパンをやってくれているようでとても頭が下がる思い。これをフィーチャーして世界各地でライブをさせるだけで日本のアニソンが世界に広まるのに。簡単なことなのに。気付かれてないのかなあまだまだ。


【6月8日】 伊勢新九郎こと後の北条早雲が亡くなったのがおそらく1519年で、そして同じ年に生まれたのが今川義元で、その義元を桶狭間で討つ織田信長の生年が1534年だとするならば早雲が信長のことを知っているはずもなければ義元のことすら知るはずもないんだけれど、そんな細けえことはいいんだよ。それを言ったら平賀源内がどうして戦国なのかといった疑問に真っ向から答えなくっちゃいけなくならるから気にせず先に進んで「戦国コレクション」で前週から続いた伊勢新九郎ことシンクちゃんによる番長連合との対決は、でっち上げられたはずの裏番長連合がなぜか現れ新九郎たちに接触してきてはまずは風魔小太郎が背中のでっかい手裏剣を投げてはかわされ迫られ追われ、やってきた体育館にてシンクちゃんが対面したのは仮面を被った巨大な女。こりゃなんだ。ロボットか。

 違うどうやら水か何かの術で動いている巨大な人形らしいけれども水だけあってシンクちゃんが得意とする炎の技も消されてしまう。それでもいっきにコスモを燃やしてエナジーチャージで望んだバトルは水をも吹き飛ばし蒸発させて敵の正体を暴き立てる、それは! って誰もがご存じ今川義元。そこでだからどうして既知の相手として頭を下げる? だから細けえことはいいんだよ。連れていた雪斎先生とだったら新九郎として面識もあったかな。そんな重なるようで重ならない出会いを経て結集した駿河同盟が挑むは織田信長、なんだけれども秀吉の回に夢として現れた程度であんまり出てこないし暴れてもないんだよなあ。それで主人公か。というか「戦国コレクション」の主人公って誰なんだ。

 何話か見逃しているんで徳川家康ちゃんとかどんな可愛さか分からないんだけれども、出てきた武将をズラリと並べるとビジュアル性格声等々では伊勢新九郎こと北条早雲がぐっと抜け出ている感じだなあ、眼鏡っ娘で憮然としていて強くておまけに胸が巨大。バレーボールで体操服来て飛び上がった姿を下から俯瞰したレイアウトではもうどうしたものかと目を食いつかせたよ。そんなに揺れ動きはしなかったけど、めだかちゃんみたいにのべつまくなし動いている方が異常なのか、うん。あとは上杉謙信に献身的な(駄洒落じゃない)直江兼嗣さんかなあ、過去にもう戻れなくなってもモデルだかで活躍し始めた謙信さまにお仕えしたいと見せる健気さ。可愛かった。

 物語では秀吉のお米の回が秀逸、シュールで舞台的で意味不明度は過去数多ある類例をも上回る。それでいてどの回も作画は最高水準、声優も超絶人気声優を使い放題出し放題。広橋涼さんの「バンブーブレード」時とは大きく違っているシンクちゃんの憮然声とかよく出したなあ、「大正野球娘。」の環ちゃんにちょっと近いか。豊臣秀吉の名塚香織さんも凄かった、ナナリーとはまるで思えない剽軽ぶりだった。そして来週はカジノで戯れる松永弾正久秀が登場で声は誰がやるんだろう。伊達政宗以来のオトナな「戦国コレクション」が楽しめそう。元ネタが映画になっているらしいし今度は何がモデルとなるのかな。シンクちゃんのシリーズで「火山高」って言われたって今時知っている人がいったいどれだけいるのかな。

 載せてる媒体が媒体だから、言ったことのどこまで真意を伝えているかは判断に苦しむところではあるけれど、紙面になった部分を見る限りにおいて何だこりゃ的印象。『浜野智史さんは「欧米は大人と子供を峻別(しゅんべつ)し、アーティストに完成品を求める。その中間にいる少女たちの成長過程を見守るのがAKB」とし、「日本では1970年代から大人が漫画やアニメを見るようになり“未完成なもの”を許容する文化が定着している」と、「完成品」ではないAKBが人気を得る背景を説明する』。なるほど日本では確かにアイドルは歌が下手でもオッケーなところがあったりするけれど、こと漫画やアニメについていうなら、成長過程なんぞを楽しむ文化も気分も日本にはない。あり得ない。「未完成なもの」なんて示されようものなら、アニメだったらまず「ヤシガニ」だのと叩かれて誰もかわず消滅への奇跡をたどるだろーし、漫画はそもそも未完成なものを載せるほど雑誌もヤワではない。

 敢えて補足しつつAKB的なアイドルと、漫画やアニメを重ねるならば漫画やアニメといった本来なら子供たちが楽しむ文化といったものに、今は大人も接するようになっている環境がひとつあって、それがいわゆるエンタティナーとしては“未完成”なアイドルといった子供たちのための文化であっても、認められ受け入れられるようになっているといった感じか。いやそれもやっぱり無理がある。何かそこに言葉の短絡、思考の欠如があるような気がして仕方がないんだけれども、果たして当人は何を言いたかったんだろう。ちなみにアメリカとか欧州にだって、へたくそなティーン向けのアイドルを楽しむ層ってのがあって、そうした中からレイフ・ギャレットもベイ・シティ・ローラーズも出て来たし、最近も「アメリカン・アイドル」っていうアイドル発掘番組が人気を集めてたりする。日本の特異さを日本が得意な漫画やアニメから引っ張ろうとしたロジックも、こうなるとちょっと情報不足。向こうの実状に鑑みた再考って奴があれば、是非に読みたいものだなあ。

 そして4年が経って秋葉原では、事件のあったソフマップの前に花が添えられメディアがやって来て囲んだりする光景が積み重なっていく。あの当時はまだ近所で講演しているご当地アイドルとして、ベタで反響が取り上げられていた程度だったAKB48が今やスポーツ新聞のトップを飾るビッグネームに。今の状態であのような事態が起こった来いったい世間はどんな反応をしたのか、事件そっちのけでAKB48の反響を取り上げたんじゃないのかなんて夢想も浮かぶけれども、流石にそこまでメディアも腐ってはいないか、いや腐ったか、この4年で確実に、果てしなく。ゴビンダさんの再審決定とそして釈放という歴史的なニュースを脇にやり、誰かの揚げ足を取るような話を堂々にトップで引っ張り、それに虚偽を書いたと訴えられた人間が平然と論陣を添えていたりするメディアが現実に存在している訳だしなあ。どうしたものか。どうしようもないか。ただ腐って堕ちるだけだから。どこに? 地獄に。

 事件の度に思い出すのが、あの時に多分跳ねられたことで亡くなった若い人たちの中に、新宿で「空の境界」の第何章だかを見てから秋葉原へと回ってきた人たちがいたってこと。それを見て、まだ続くだろうその後を楽しみにしていながらも、見られなかったというこの事実が、命の絶たれてしまう残念さを妙に僕に感じさせる。見たい物があってやりたいことがあって聞きたいこともあって会いたい人もいる。あるいは会えたかもしれないさまざまがあったのに……。それはだから今を精いっぱいに生きなくちゃって警告でもあるんだけれど、果たして僕は、精いっぱいに今を生きているのだろうか。妥協してないか。逃避してないか。沈滞してないか。腐敗していないか。考えるほどに思い当たる節の多さに改めて悔いて立ち直ろうと思わせる。でも明日には忘れて怠惰な日々に耽溺しているんだろうなあ。そういうものだ、人間って。


【6月7日】 18人だ。それもほとんどが女性と子供だ。結婚式の準備のために集まっていたというから、気持は祝福の嬉しさに溢れていただろう。晴れの場に臨むために、ありったけに着飾っていた人もいたかもしれない、そんな上から国連支援治安部隊(ISAF)は爆弾を落として18人もの命を奪った。一瞬の事態に何を思うこともなく亡くなった人が大半だったにしても、その瞬間に何が起こったのか、どうして自分たちがといった驚きと、そしてこれで逝かなくてはならない悲しみと、何よりも爆撃された痛みに怯え苦しんでいった人もいただろう。その思いを、その叫びを知ってなお平然としていられる人など、世界のどこにもいない、日本のメディアの中枢を除いて。

 なるほど、三笠宮家の寛仁親王殿下がお亡くなりになったことはひとつのニュースかもしれないけれど、それは1面のトップとしてどうなのかと考えた時に、以前に心筋梗塞で亡くなられた、高円宮憲仁親王殿下の扱いがそれなりだったことと比べると、長年のご公務で世間に広くお顔が知られた寛仁さまとして、大きく扱われるのは当然なんだろうとは理解するものの、中面から地域面から社会面から文化面から駆使してあれやこれやと大展開してみせるのは、バランスとしてどうなんだろうといった気もしないでもない。唯一朝日新聞だけが1面の肩で扱っていたのが冷静さの現れか。毎日新聞がトップだったのはちょっと意外。それだけ“ヒゲの殿下”って知られた存在だったんだよなあと改めて。

 それはそれとして続くのが、一般紙なら政局で、スポーツ紙にいたってはトップから後ろから中まで「AKB48」の総選挙一色ってのがまたどうにも現代的というか。そんなに世間って総選挙に感心を持っていたのか、その割には集まった138万4122票と前回から2割増程度で、世の中を巻きこんでおおいに盛り上がっているっていう感じでもないんだけれど、メディアの狭いフレームを通すとピンホールカメラの如くにクローズアップされて、それが世界の重大事って感じに取り上げられて、メディアを見ている人はそう思ってしまうから困ったもの。でもあんまりメディアも見られてないんだけれど。

 そんな感じのメディアからは、当然ながらアフガニスタンで起こった悲惨な出来事なんて見えて来ない。忌むべき事態への嘆きもやっぱり伝わってこない。朝の5時30分からチバテレビで放送されているBBCのワールドニュースではちゃんと、それもトップ級で報じられていたのに、日本はどこもかしこもベタ扱いで、自爆テロのニュースを合わせていつもどおりの日常といった感じで流されている。それもまた恐ろしい話だけれど、こうまで世界で起こっている異常で非道な事態から目を背けて、AKB48だの政局だのと内輪の論理で盛り上がるメディアと、そこからしか情報を得ない日本人の行く末って奴を、想像するのも悩ましい。とはいえ現実、既にこの国では世界の論理から外れてしまった結果、衰退してしまった産業が幾つもある。

 台湾の自転車メーカーで、今や世界屈指の規模になったジャイアントについて書かれた「銀輪の巨人」(野嶋剛、東洋経済新報社、1600円)で取り上げられている自転車産業なんかがまさにそう。読むとあれだけ賑わっていた日本の自転車産業の今置かれた現状に唖然とし、頑張って学んで世界のトップに躍り出た台湾の自転車産業の凄さに陶然としてくるけれども、それは自転車に限ったことではなくって、現在の家電であり、未来のカメラであり、そしてテレビや新聞といったメディアであるのかもしれない。自転車の本を侮らずに産業に携わる者なら誰でも手に取り考えの一助にすべき本だとまずは断じる。

 翻って漫画とか、アニメーションとかの分野はどうなんだろうと考えて、国内にいっぱい読む人がいるから、今はまだ存分に回っているって感じだけれど一方で、韓国とか中国の漫画家さんたちの腕の上がりっぷりは、「誰も知らない−子不語−」の夏達さんとか「ウエストウッドビブラート」の尹仁完さん金宣希さんのコンビとか、見ればもう存分に見えてくる。その筋立てで日本の編集の人たちが果たした役割ってのもあるかもしれないけれど、それも日本が絶対のノウハウって訳ではなく、今は市場が日本をメーンとしているからそちらにチューニングをしているけれど、やがて中国から中国語圏へと広がったり、韓国やアジアの各国や欧米へと広がっていった時に果たして、日本こそが一番だと認めてもらえるかどうなのか。その恐怖はやっぱり抱いておいた方が良さそう。

 アニメーションもCGだったら、もはやピクサーをトップに米国が主流で、その足を掴もうとして韓国が技術力を高め人材を集めていたりして、日本なんて市場はまるで無関係に事が進んでいる。2D的な漫画映画の世界に限っていうならやっぱり日本の技術は凄いし、漫画大国っている背景があるから原作の調達に関しても世界で一頭抜けている。でも、そうして作られたものが世界市場で果たしてどれだけ受け入れられているかっていうと、とてもじゃないけどピクサー系のワールドワイドな作品にはかなわない。もちろんそうした内輪で完結できて市場も存分に回っているなら問題はないんだけれど、燃料になっていた情熱が薄れてしまった時に、いったいどれだけの作品が作られるのか、そして見られるのか。そんなことも考えてみたくなる。

 まあ世界共通の形をした自転車と違ってアニメも漫画もそれぞれに好みがあるから一緒に考えるのは難しいんだけれども内にこもってガラパゴスをした結果がどなるか、ってことはやっぱり視野のどこかに引っかけておいた方が良いんだろう。だからそうしたアニメや漫画の業界の人にも、読んでみてもらいたい「銀輪の巨人」。読んだアニメのクリエーターからジャイアントのブームが起こったりして。スタジオジブリがツールなんかをやってからどうにも自転車乗りのアニメーターって多そうな印象だし、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の宇田鋼之介監督もランドナーやロードなんかを所持して乗っていたりする模様。クラブパンターになんてのもあったっけ。乗ってみたいなジャイアント。でも僕は丸石のエンペラーを買う。


 スウェーデンで家具職人になって返ってきた須藤生さんが数年前から家具とは違って手がけているオーディオ製品が並んでいるってんでインテリアライフスタイルに行って製品を見物、高松にあるAZISってブランドが産地の御影石をメーンにつかいながらあれやこれやと格好いいプロダクツを作っていた延長で、オーディオも始めたらしくて製品もそんな御影石を土台に使いながら金属のコンポーネントでミニアンプとか作ってそれにiPadやMP3なんかのオーディオプレーヤーを繋げ、これも御影石とそして須藤さんが手がけた木工が合わさったスピーカから流して聞くような感じになっていた。シンプルでそしてスタイリッシュ。日本ではなく欧米の、って言われても信じてしまいそう。

 中でも驚いたのが「CUE360」っていうスピーカシステムで、円柱になったそれのてっぺんにスピーカユニットがのぞいている、その上から御影石の球が吊り下げられているのがデザイン的な大きな特徴。一応はスピーカ全体から音が漂い出すようにはなっているんだけれど、上向きにむき出しとなったスピーカーから出た音は上の球にはねかえって音を四方に広げて柔らかくてそして全体を充たすように流れるらしい。静かな環境で視聴した訳じゃないから分からないけれども、形として何より偉容を誇っているのが楽しい。かつて見て憧れたJBLのパラゴンとか、タンノイのオートグラフといった超弩級スピーカの系譜に連なっていけるかな。誰か買って聞かせてくれないかな。


【6月6日】 録画分を順に潰していく作業がようやく追いついて「エウレカセブンAO」の最新話を見たけどうーん、あれだけの設備で世界をだまくらかすような紛争の映像を捏造できるものなんだろうかという疑問がまずあって、今時のテクノロジーを使えばそんなの迫真に迫ったものを合成できてしまうよっていうならなおのこと、そんなテクノロジーによる解析を跳ね返すだけの映像を短時間に作り出してしまえるものなのかっていう疑問も浮かんで頭を悩ませる。

 超大国にとってみればその国を支援するのはあんまり好ましいことではないというプレッシャーを、受けつつも逃れるために考え出したのが紛争地帯で起こっている非情な出来事を世界に知らしめるという方法。そのために映像を捏造して流したら世界も黙ってはいられなくなって晴れて出動が認められたというのは、展開として美しいけれどもリアルのレベルに落とした時にどうなのか、ってことをちょっと考えてみたくなる。

 あとあそこまで出動しながらも、途中で止まっていたりしたらそれこそ世界の監視の目がそんなんでいいのかってことになって、ゲネラシオン・ブルへの違和感を読んでそこに介入する超大国の姿も浮かび上がって双方ともに拙いことになる。それを避けるためには元より出動なんかしないことなんだけれども一旦、出動させないと物語も作れないからなあ。ってところが展開の書き割り的な美しさへと繋がってしまているのかな。まあ仕方がない。とはいえリアルな世界の構造を描こうとしている「エウレカセブンAO」ではあんまりやって欲しくなかったかも。BR>
 一方でキッズ向けのアニメーションならそういう義侠を端的に見せる上で効果的な展開だった。そうした案配を言ったり期待するのはセンターに張っている人が揺らいでいるからなのか、未だリアルのレベルを固め切れていないからなのか。まあそのあたりも気にして見ていこう。先週に出てきた人がパカパカと入れ替わる謎の人物の正体だとか、さらわれたホットパンツのナマケモノ使い娘の行方とか、説明されないままに過ぎていることも多すぎるんで、何がどうなるかって楽しみだけは存分。いろいろ言いたいことはあっても見させてしまう力を持った作品なんだなあ。そういや前の「交響詩篇エウレカセブン」も文句良いながら毎朝7時に起きて生で見てたっけ、それだけの作品だってことで。

 折角買ったあの日食メガネを日本でもう1度使う時がやってきたのにお日さまは分厚い雲の上。目を凝らしても入ってくるのは陽光ならぬ降りしきりる雨では、太陽面を金星が通過していく様なんざ拝める訳もない。昼時にちょっぴりと雲間から太陽がのぞいたもののようやく輪郭が浮かぶ程度でその前を覆った雲が多分邪魔しているのか、光量が足りないのか日食メガネをかざしても、あの時みたいに太陽がそこに見えることはなくって真っ暗なまま。なるほどこれなら太陽光に目がやられる心配もないけれども、見られなければ意味がない。

 そうこうしているうちに雲の後ろの下がった太陽を眺めながら、今回ばかりは無理だと諦め退散、次に期待だ、って105年後か。そりゃあ無理だ、さすがに生きてはみられない。死んだらもっと見られない。多分きっとこれは11月の日食を見にケアンズまで来いって、太陽神ラー様かアマテラス様のご配慮に違いない。そのころにはあれこれ傾き方もついて晴れて放免とかなっていたら身辺の小銭をかきあつめ、ケアンズまで逃げて見よう日食。そしてきっと日食メガネを日本に忘れていくんだ。

 高橋容疑者が2人いてややこしいけれども内縁で出頭した方ではなくって逃げている方の高橋容疑者をめぐる動きがなにやら風雲急を告げている感じで、信用金庫から預金を引っ張り出してはそのまま逃亡って様がばっちりとカメラに映っていたりして、最近のカメラって凄い解像度だなあ、本当にバッチリとくっきりと映っているなあと感心。悪いことは出来ないものだ。することはまずないけれどもこの不景気だし。うーん。いやそれはそれとして高橋容疑者、捜査員が向かう3時間前に出たっきりっていった話にそれでどうしてもっとはやく迫れなかったんだって疑問も浮かぶ。

 調べてないんであの辺の時間軸がどうなっていたのか分からないけれど、菊地直子容疑者が捕まって居場所をつきとめたんだったら、あるいはもうひとりの高橋容疑者が何か連絡をしていたのかって興味も出てくる。昔の男に今の男が。あり得ないか。それともひっそりと迫りながらも別口から菊地容疑者の逮捕が飛び込んできて、慌てて捜査員が向かったらすでにもぬけの殻だったのか。いずれにしても菊地容疑者逮捕後の動きだったとしたらそりゃあ失態、慌てて成果を発表して相手に気付かせてしまった訳でそんな辺りに昨今の世間のゆるみって奴も出てしまっていたりするのかも。逮捕前だったとしたらきっと勘の良い奴だったんだなあ。さてもどうなる。

 AKB48の選挙が日本のこの国体を変えるなんてことはまずぜったいにないけれども、ひとつの縮図として見ておく分には為になった盛り上がり、って見ていて途中で寝てしまったんだけれども1位は盤石の大島優子さんで2位に躍進のまゆゆだっけ、渡辺麻友さんが入って3位は柏木由紀さんか、このあたりは順当として4位に指原莉乃さんがいっきに突っ込んできたところに当人のパーソナリティの強さ、それを目当てにしたメディアでの露出の多さってものの効果を垣間見る。何だかんだ言ったってやっぱり多く出てれば多く知られて多く集まるってことでなんだ。そうなってしまうともういくら自分がCD買ったって応援できない規模な訳で、それを自分たちが育てるアイドルって思いで応援していけるのかどうなのか。分水嶺に来ているなあ。

 でもって我らが篠田麻里子さまは5位と順位的には良くてもやっぱりもうちょっと上に行ってほしい人。当人も上を見て下を見て来るなら来い、潰してやる、とは言ってないけど私の屍を超えて行け、とも行ってないけどともあれひとつの関門として屹立する意志を表明して挑発して何か順当に卒業といった空気をかき乱してくれていた。そうでなくっちゃ麻里子さま。上から順抜けなんて穏当なことをちゃってちゃAKB48が馴れ合いに出してパワーが下がってそこからステップアップしていく時の燃料がまるで足りなくなる。あそこを出たら終わりにならないためにもあそこが強くなくっちゃいけない、という意識でもって揉んで鍛えて踏みつぶす、ことはしないけれども共に頑張り成長していく場としてありたい、ってな意識を見せてくれたんだろう。がんばれ麻里子さま。でも今回は秋元才加さんに投票したんだけど。ウルトラマンでのスタイルが抜群だったから。そういうものだ。


【6月5日】 やっとこさ見たアニメーション版「モーレツ宇宙海賊」はヨットレース編が終わっていよいよ加藤茉莉香の本業というべき海賊をめぐってのエピソード。ってもテレビのオリジナルで進むんで展開はまるで分からないまま、見たことのない海賊たちが現れては得体の知れない海賊狩りなんてものに遭遇してやられていくという悲惨な展開。宇宙であれをやれて生き残れるなんて甘いことは考えないのが、あれで設定面はハードでシリアスだったりする「ミニスカ宇宙海賊」の世界観。なのでアニメ版でも宇宙服を着て宇宙にふわふわ漂い助けを待つなんて生ぬるい描写はさすがにない。やっぱり死んだってことだよなあ。

 そして間違えれば茉莉香と弁天丸の面々も宇宙の藻屑と消えていた可能性。それを外してはあの世界観は成り立たない。その案配を知りつつもああやってコミカルな雰囲気を混ぜてしまったことが果たして良いのか悪いのか。アニメが作られていただろう当時にはまだ、海賊ギルドとオデット二世号をめぐっての丁々発止の物語が書かれてはいなかっただろうから、それを元にしたアニメが作れなかったってことになるんだろうけれど、それでもやっぱり世界観がズレてしまっては前半の楽しげで、それでいてピリピリとしたところもあった雰囲気に親しんでいた身に違和感がつきまとう。三面六臂の八艘飛びなんていったいどこのガミラス船か、ってな挙動を見せた巨大な宇宙船の登場といい、まだまだ妙さが付きまとってちょっと話に入り込めない。

 なおかつ現れた2つの巨大な宇宙船のそれぞれに、因縁めいた人物が乗っていそうなところがどうにも本編と絡まない。あるいはサイドストーリー的な位置づけとしてアニメに先行させつつ本編へも絡めていくことになったりするなら、それはそれで見ておかないと行けないんだけれど、実用面をさておいて外連味たっぷりに現れる謎の人物ってのは再選スフィクションからファンタジーへと足を踏み入れているような気もしてもやもや。だから是非ともあの挙動にはこういう理由があるんだと示し、見かけが妖しげな2人にもこういう過去があるんだといった納得のいく説明をしてもらって、そして本編のコミカルだけれどリアルでシリアスな「ミニスカ宇宙海賊」のワールドに、組み入れて不思議でない展開を期待したいけど果たして。あそこで対決しているのが茉莉香の母ちゃんと父ちゃんってんならそれはそれで笑う。

 ようやくもって香川慎司選手のマンチェスター・ユナイテッド行きが決まりそうで宇佐美選手のバイエルン・ミュンヘン入りとか長友選手のインテルでのスクデット獲得とか、トップリーグのトップチームにおける日本人の活躍ってものには既に慣れっこになってはいたものの、あのサッカーネーションのイングランドにあるチームでも、伝統があって歴史もあって強さもあってとすべてが揃ったマンチェスター・ユナイテッドに日本人が所属するというのはやっぱりなかなかに感慨深い。既にしてパク・チソン選手というアジアから行った選手が活躍しているのを見ると日本はサッカーでやっぱりアジアナンバーワンとは限らないんだなって思い知らされるけれど、そこにようやく追いつけたってことで後は、パク選手の存在感に劣らず勝るくらいの物を見せてくれれば善哉。果たして試合に出られるかな。

 ときわ書房の船橋本店にサイン本がいつも山積みになっているところを見ると、もしかしたら何か地縁でもあるのかと思っていた深見真さんが遂に千葉県船橋市を舞台にした小説を書いた模様。その題名も「シークレット・ハニ−1 船橋から愛をこめて」は舞台が千歳船橋ではなく千葉県船橋市。海岸の方ではオートレースをやってて昔はそこにザウスがあって、今はスウェーデンか来た家具屋のイケアがあってららぽーと船橋店があってそして何よりときわ書房船橋本店がある船橋。それはもう応援するより他にない。22年間住んで来たものの、海岸に近い場所にあるボクシングジムが出てくる小説くらいしかお目にかかれなかった船橋の小説。これはもう応援するより他にない。

 中身についてはまるでわからず、どうやらスパイたちが集まる小説らしいんだけれどそれでライトノベルだといったどんな設定になるんだろう。船橋の小説だったら橋の欄干にある泉重千代さんの手形が出てくるはずだと思っているし、船橋の小説から西武船橋店の屋上に佇む羊たちの大活躍もはずせない。巨大なダイソーの中でどれだけ有意義に1万円を使い切るかといったエピソードとか、船橋大神宮のおみくじでカメが出るか他の何かかで運が左右されるエピソードとかも入れられてしかるべき。そこから想像できるストーリーとはいったい何だ。ってちょっと先入観が強すぎるか。でも他に船橋が絡みそうな場所ってないからなあ。

 あるいは若松劇場で美少女スパイたちがゼンラー対決とかしてくれたら、もう絶対に泣いちゃうかもしれない「シークレット・ハニー 船橋から愛をこめて」。一時営業停止だったけど再開したのかな。ほかにあるとしたらあれか、ポポ君とシャポーちゃんが「おもちゃのチャチャチャ」に合わせて並んで踊るあの人形をめぐるエピソードか。近寄るたびに止まっていたら押して踊らせたくなる不思議な人形。あのボタンを押すことが船橋の命運を変えるとかいった設定があったら全船橋市民が滂沱する。それだけのアイテムなんだあれは。ほかはえっと何だろう、ショッカーvs長崎屋? ってそれはもう古すぎる、今ではドンキにTSUTAYAだし。まあでも何が出たって楽しめるだろうから発売を待とう。これでツマヌダ格闘街に負けない聖地としていっぱい巡礼者も来てくれるかな。


【6月4日】 あれだけの枚数で顔をあちらこちらにさらされてなお17年もの間、正体を隠して逃げ延びて生き抜くことが可能なんだなあこの国は、って思わせてくれた菊地直子容疑者の発見から逮捕へと届く事件。住んでいた場所こそギリギリ感が漂うものの仕事は普通に介護ヘルパーとして働き月々15万円とかを確保していたっていうからよほどの働き者。当然大勢の人と出会い会話もしていただろうけれどもそれでもすぐに誰だって気付かないとしたならいったい、似顔絵とか手配書といったものにどんな意味があるんだろうかって気にもなってくる。痩身になっていて眼鏡もかけて髪型も違えばそうそう同じ人だとは人間気付かないものだろう。

 でも逮捕のきっかけは確か通報があったってことで、それとなく似ていたんだろうかそれとも別の事情があったりするんだろうか。去年の終わりに通報したっていう人もいるけれど、痩身ぶりからしたら同一人物とすぐに気付くとは思えないし、それが手配書の横にいて同じ人だと気付いたというからさらにどこか妙な話。そっくりな人をそういえば見たのよあそこにいたのよ警察に教えたけれど取り合ってもらえなかったのよ、ってな具合に話が大きくなってしまったって可能性もあるのかな。残るは1人だけれど、ある意味女性ってことで象徴めいた存在になっていた菊地容疑者の逮捕でまたひとつ、1995年の地下鉄サリン事件が過去へと押し流されたような気もしてる。忘れ去られるにはまだかかるけど。連合赤軍くらいの薄れた記憶になっていくんだろうなああと10年もしたら。

 「『漫画家になることを目標としている人』の漫画よりも、『漫画を描きたい人』の作品のほうがより多くの人を楽しませられると思っています」とは確かにいている。けれどもそこでは、金をもらっている人よりもらっていない人の方が情熱があるとは全然言っていない。「商業誌で活動している作家の方は漫画を描いてお金を稼いでるわけですが、WEB作家の方たちは無料で漫画を描いて公開している」とは言っているけれど、「驚いたのと同時に『漫画を描きたい』という情熱だけで何百ページ、何千ページと作品をつくり続ける純粋な気持ちに惹かれるものがありました」と続けているだけだったりする。

 そこには、商業作家は金を稼いでいているし、WEB作家には情熱があるといったロジックが存在するだけ。けれどもこの文言のあちらこちらを切り張りし、金をもらっている商業作家には情熱が足りず、金をもらっていないWEB作家には情熱があるといた趣旨に持っていいってこれを発言した出版者の編集者を貶めようとしたんだから、それが捏造だって反論されるのも当然だろー。問題はそれを受けて誤ることなくとんずらしてしまったことで、それはつまり趣旨をねじ曲げ短絡を図ったことを認めたってことになる。これはもうやっぱり問題だってことで閉め出される流れになったのも当然ってことになるんだろー。あそこまでして曲解を作れる才能は才能だったけれどもやり過ぎた。これがいったいどういう展開に向かうのか。まとめサイトなくして人は情報をどうやって知るようになるのか。新しいサービスなり手法が生まれる様を見守りたい。

 サッカー日本代表の生中継からチャンネルを時々戻しつつ、HDDドライブを整理しようと撮り溜めてあった「ギルティクラウン」をまとめて一気に見る。なるほど平凡に暮らしていたはずの少年が偶然にも異能の力を得て、不思議な力を持った少女もそこに乗っかり、国を脅かす勢力を相手にしたテロリストの戦いに巻きこまれていくという初頭の展開が、平凡な日常に飽き飽きしていた人たちとか、鬱屈した状況を打破したい人たちなんかの共感を誘って、人気になったってのもよく分かる。

 なるほど映像は綺麗でキャラクターはよく動き、声優さんたちも人気者が揃っていては、もう売れない方がおかしいよ、「コードギアス 反逆のルルーシュ」の再来だってあり得るよ、って誰もが考えたって不思議はない。というかどうしてそうはならなかったんだろう? という結果から浮かぶ疑問が見続けるうちにだんだんと明らかになって来た。異能の力を得る桜満集が、これで「コードギアス」のルルーシュ・ランペルージのように、隠していた過去があっていつか思っていた復讐への欲求があって、それがか叶うと分かって一気に、けれども素姓は隠すように慎重に事を進めていったんだとしたら、その悪漢ぶり、天才ぶりにファンもついたかもしれないし、見ていて楽しかったかもしれない。

 けれども集は、そんな剛胆な性格ではなくってむしろ正反対の性格で、せっかく得た力をふるうかと思えば逆に鬱陶しく思ったりもしたりと、どうしたいのかはっきりしない優柔不断さの中で周囲を苛立たせ、そればかりか死地へとすら送り込んでしまう。何も彼に「葬儀社」たちと共に戦い日本を解放する義務が生じていた訳ではないけれど、そうしなくちゃいけないだろうなあって状況にあっても、自分を通して逃げ回る軟弱ぶり、我が儘ぶりに共感を覚えられる人はなかなかいない。それが自分に近い等身大の人間であっても、というか等身大であるからこそ、何かを仮託して溜飲を下げるような見方が出来ず、むしろ反発を抱いて番組から離反していったのかもしれない。

 まあそれはそれで「機動戦士ガンダム」のアムロ・レイの頃から受け継がれた、日本のアニメーションにおける主人公像のひとつでもあるんで、大きく間違ってはいない。問題はだからその成長過程がどれだけ大勢を引きつけられるのか、ってところでアムロは幾つかの出会いを経て、仲間の死も経験して自分がやらないといっていう気になっていった。「ギルティクラウン」の桜満集は他人との出会いこそあっても、それから何かを学ぶというより、むしろ引きずられてあっちに迷い。こっちに惑って流されていくだけといった雰囲気。ようやく対面した死が彼を大きく変えて非道の中に何かを見出す鬼へと変えるかと思ったら、それを上回る敵が現れ雑魚扱いされて沈黙に沈む。ひょいっと取り上げられたような気分にさせられ誰に感情を沿わせればいいのって気になってくる。

 キャラクターに意を沿わせるのが大変な上に、設定の面でもどこを掴んで良いのか迷わせたところがあった感じ。もはや日本に限らずアポカリプスウイルスの発症によるキャンサー化が、日本に迫る洋上の艦隊でも、パリなどの異国でも起こっているというのに、それが日本限定の症状のように見なされていて、日本を封じれば世界は救われるのだということになっていたりして、アポカリプスウイルスというものが持つ特殊性が見えにくくなっている上に、ヴォイドという人間の心にある思いのようなものが王の力によって引っ張り出された上で、そのヴォイドが破壊された人間がキャンサー化して崩壊するという現象が、どういう理屈で起こっているのかあんまり見えにくいところも、見る人の感心を浮つかせてしまった要因か。

 例えば基本的にアポカリプスウイルスのキャリアからしかヴォイドは取り出せず、それは遺伝子を改変して人間の進化する可能性、能力の拡張性って奴を示してはいるんだけれど、取り出され破壊されることによって超人となる道をふさがれ、結晶となって崩れてしまうとかいった話になっているのかどうなのか。解説書とかスピンオフ小説とか読めば少しは見えやすくなるのかなあ。あと集以外のキャラクターたちが、恙神涯を別にしたらどうにも存在する理由を希薄にされているなあというのも悩みどころ。冒頭からプラグスーツ然とした格好をして踊りながらハッキングとかを繰り返していたツグミというキャラクターのビジュアルも存在感も抜群だった割には、どうして彼女が葬儀社に参加しているのか、何が彼女をそこまでかきたてたのかというドラマがなくって書き割り以上の重みが伝わってこない。

 敵のダリルって青年からいろいろと感心が持たれている割には現場での対決もなく学園祭場面でのやりとりも少なく、ダリルがどうしてツグミにそこまで執着するのかが分からない。そんなダリル自身もやられながら立ち直り挑みかかってくる「ガンダム」に良くいるキャラ、あるいは「コードギアス」のジェレミー的なキャラな割にはそれらほど物語の展開に絡まないし、集やツグミとの因縁も繰り返されない。足の悪い篠宮綾瀬についてもツグミと同じようにそこにいる理由が示されなくって、そうした過去を持たない面々の集りである「葬儀社」の存在感を薄くしてしまている。

 ある意味、涯というキャラクターを立たせる足場以上のものではないとも言えそうだけれどそれすらも、涯のいったんの退場によって対立軸としての立場を失って物語のプレーヤーリストから後退していく。いろいろと出してはみたもののそれらの連関があまりとれず、どこか場当たりに事が進んでいっただけって印象を見ている人に与えてしまったかもしれない、そんなところが主人公の成長物とか群像劇とかいった軸を作品に与えず、そこにすがって見ていく人の手を離させてしまったのかもしれない。

 それでも最後の涯を相手にしたバトルで、いのりが甦って集に手を貸し涯を打ち倒して事態を治めたその後、友人たちと集が再開して平穏な日常が戻っている描写があったところは好感。役立たずの爽太とか眼鏡要因の花音とか、参謀という程には明晰でもない谷尋が生き残って祭ひとりが退場させられたことには憤るし、それへの屈託を集が捨ててしまったことにも苦みがあるけど、あらゆることを飲み込み浄化して得られる平穏をこそ、愛すべきだというメッセージとそこは理解しよう。これで途中を縮めて再構築したら、あるいは面白くってストレートな成長とアクションたっぷりのバトル、そして進化と再生の物語になるかもしれないなあ。やらないかなあ、これだけのクオリティとそれから設定の多彩さを持った作品が、このまま忘れ去られてしまうのはやっぱり勿体ないよなあ。


【6月3日】 ささしまライブとやらには生きはうまなみ線だったっけ、あおなみ線か、そんな感じの列車に乗って向かおうとしたんだけれども乗り場を探していたら歩いても歩いてもなかな着かず、名古屋駅の桜通口から延々と歩いて駅西の方まで出てそこで左に曲がってようやく奥に見つけた小さな改札口を抜けて上がったらそこが駅だった。おまけに列車も15分に1本だけという何処のローカル線かってな始末。これを利用して行くとしたらささしまライブに移転した愛知大学の学生もなかなか大変だけれども、考えて見れば愛知大学前駅まで行くための豊橋鉄道渥美線だって20分に1本とかそんなもんだった。おまけに単線。豊橋駅から近いのはあおなみ線よりはまら利便だったけれどもどっちにしたって似たようなものか。

 いやでもささしまライブだったら名鉄なんかで名古屋に来た人にとっってはそこで降りてナナちゃん人形の又をくぐり抜けてレジャックの前を通り過ぎ、東洋一と唄われた名鉄バスセンターを横に身ながらちょこっとあるけばそこがZeppの名古屋でその隣の109シネマズを通り過ぎればすぐに大学棟。あるいは多くは名古屋駅からあれやこれや眺めながら歩いて通っているのかも。ナナちゃん人形は見られるし地下には寿がきやだってあるしレジャックのビルにはあんかけスパの店だって入ってる。探せば味噌カツだって弼まぶしだって食べられるだろう。名古屋の名物銘菓を味わいながら通える大学、って打ち出せばあるいは名古屋飯に憧れた人たちを集められるかも。食堂で出せ? そういや豊橋時代に豊橋あたりで名物の菜めし田楽も豊橋カレーうどんも出なかったなあ、って1980年代にはまだ豊橋カレーうどんは存在してなかったけど。今回も食べそびれたよ。

 そういえば名古屋に帰っていた間に愛知県美術館で平野啓一郎さんの講演を聞いたんだった。あの芥川賞を「日蝕」で受賞して話題になった人だけれどもどこか鬱屈してナイーブなところがあって触ると手とか切れそうな感じの人かと思っていたら登壇してまずは蒲郡出身で2歳で北九州に移住したけど奥さんが豊田市出身でよく帰省するようになって愛知県民度が増してますってニコニコしながら話して集まった愛知県民のおばさまおばあさまたちのハートを鷲掴み。語る口調は柔らかくおまけに声も実に良くって聞いているだけでだんだんと心を融かされるような気持に多分なってくるんじゃなかろーか。なおかつ中身もボードレールからマラルメからパラケルススからクロウリーと知ってる名前もあれば普通の人には耳慣れない名前もあったりと実に多彩。それらを歴史や文化の流の中でどういう位置づけの人かをちゃんと説明しながら話すから、聞いているうちにどこか1つ2つ知識を得られたような気持になれる。

 知っていて当然といった押しつけではなくそういう人もいたんですよと分かりやすく語って聞かせてくれるから、1時間半の講演でまるで置いてきぼりになったといった感覚は誰も味わわなかっただろー。それくらいにまとまった講演を若干37歳とかって人がやってのける姿になるほど芥川賞も強大も伊達ではないし、瀬戸内寂聴さんに愛される理由も見えてくる。こういう知識人に誰もが憧れるんだよなあ。同じようなポジションをかつてだったら東浩紀さんに期待してた感じもあるんだけれど先鋭的で尖端的で攻撃的なトークが定番となってしまってちょっと想像とは外れてしまった。あるいは健やかにまっすぐに進んでくれた東浩紀さんの鏡表の姿が平野啓一郎さんだったりするのかもしれないなあ。ってあずまんは裏か。いや裏すら超越した異次元の存在になってしまったんだけれど。それはそれで貴重なのでがんばれあずまん、海猫沢めろんさんの連載を完結までちゃんと続けろ。

 例えば石原慎太郎さんにしても大江健三郎さんにしても村上龍さんにしても村上春樹さんにしても時代の空気を背負ってそうした世代を代表するかのような雰囲気でもってデビューし人気なっていったのと比べると、平野啓一郎さんは過去を舞台にした歴史小説的な話ばかりを書いていて、ちっとも世代を代表していないんじゃないかと言われることがあるらしけれど、ヨットがどうとか死体洗いのバイトがどうとか福生のアメリカ文化を漂わせた生活がどうとかってのも当時の全国の若者の暮らしを代表もしていなければ代弁もしえいなかった。そうしたものを見知った世代の共感を受け感じ入った大人達の感心を集めただけなんだけれどそれが全国的な現象として受け入れられたのは、メディアもまた首都圏にあってそうした文化を感じ取ることができたから。それが窓口となって発信して広めた結果、さも世代を代表したものであるかのように捏造されただけで、もしも当時にインターネットとかあったら世代なんて代表していないって叩きがあっただろうって、平野さんは言っていた。なるほど至言。

 対して平野さんはなるほど中世のキリスト教やら異端なんかを書いてはいるけれどもそれこそが1990年代末の、バブルも終わりオウム事件とかがあって就職難に喘ぐ人とかいっぱい出たりして未来に希望なんか抱けない若者がわんさかといた中、厭世観とかオカルトとか、そんなものに傾注したくなる鬱屈が若い世代に割と共通の意識だったりして、それを自らも感じていた平野さんは、閉塞感や厭世観なんかを中世キリスト教社会とかに見てそれを「日蝕」に書いたってことらしい。だからむしろ風俗ではないけれど、世代の気分を代表しているのは平野さんの方。そうした思いがあって今は今で歴史とかにこだわることではなく、ネットワークや携帯が存在するリアルタイムな現在と向き合い描くことによって自分自身をアップデートしようとしているらしい。1984年に戻ったりして書きやすいところを書いたってそれは逃げにしかならいとも話してた。つまりは真面目で真摯な作家だったってことが分かった平野啓一郎さんの講演会。やっぱり印象だけで語るもんじゃなあいなあ。でも本当にあんなに良い人なんだろうか。見知った人がいたら聴いてみたい。

 ふと気がついたら日本代表が3対0でオマーンに圧勝していた。相手が圧倒的なパスワークも高速の放り込みもせずに攻めあぐねている中で日本は中盤からサイドへとボールを回してそれを走って受け取る動きがちゃんと出来ていたのが大きい感じ。シーズンが終わって顔合わせして始めた割にはちゃんとあっているのは五輪代表時代の積み重ねも効いているのかな、特に本田圭祐選手と香川慎司選手。1点目はあそこに飛び込める本田選手の判断力の高さがものをいったんだけれど、2点目は香川選手にボールを渡した後にすっと前に出てディフェンスを2枚引き連れた本田選手を見つつ香川選手が自分でボールを持って中に切れ込み得点につなげた。これは2人の呼吸があっていなけりゃできないプレー。それをやってしまえるんだからこれは強い。とはいえ片方が抜けた時に替えが利かないってのもまた事実なだけにそこは宮市選手とかがサイドを付きまくるようなオプションを、用意しておいて欲しいもの。


【6月2日】 刈谷で買ってきた加藤久仁生さんの展覧会用に作られている1分間のアニメーションの連作「情景」のDVDなんかを見てやっぱり「ポタージュ」はとっても好きな作品だなあと実感。寝っ転がっている双子っぽい女の子たちのワンピースからのぞく足とかニーソックスを履こうとする際にのぞくその足の付け根とか、実によくしっかりと柔らかそうでぷにぷにしてそうに描かれていたりするところにどうしてあんな簡単な線でそれを表現できてしまうのか、さすがはアカデミー賞短編アニメーション賞受賞監督と感心するものの一方で単に絵として凄いって訳じゃなく、前後の流れとかちょっとした仕草なんかがそういう柔らかさって奴を底に感じさせるようにしているんだとも想像。アニメーションというのはだから凄い絵が並んでいれば成り立つものじゃないんだよな。その動きを必然とする物語があり音楽があって浮かび上がる良さってものがあるんだよな。

 ついでに自宅から持ってきていたDVDの「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」なんかも改めて一気に最後まで見通す。杉井ギサブロー監督の直筆サイン入り、って別にそれが映画に何か跳ね返る訳ではないけれど。ただPS3で再生したためかアップコンが効いたか何か理由があるのかもともとそういう仕様なのか、暗い場面が多い映画であるにも関わらず黒い部分が潰れないでしっかりと階調で見えてあのどこか不気味でどこか幻想的な夜の街から暗い銀河鉄道の中なんかのテイストをたっぷりと味わえた。猫で表現されたジョバンニやカムパネルラたちも何かいつもに増してモフモフとしているような印象。タイタニックから来た子供がしがみつきたくなる気持もよく分かる。モフモフ。

 改めてみてしかし1985年だからもう27年も前によくこんなに難解な映画を作ったものだなあと驚嘆。いくら原作がよく知られている「銀河鉄道の夜」だからといってもその原作自体が何度も書き直されて抽象化が進んで幻想性以上に難解さも併せ持った文学になっていたのをまんま、映像に置き換えて見せたなから分からなくって当然か。それをまた杉井ギサブロー監督以下、それぞれのパートを受け持った演出家たちが独自の解釈なんかも重ねて映像化していったそれは、今ちまたで話題の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」の作画的なチャレンジとはまた少し違った、演出的な模索のさまざまを楽しめる。

 これは杉井監督に聞いた話だけれど銀河鉄道の中で少年の靴が後で水の中を沈むように落ちてくるシーンはパートを監督した小林治さんが自分で描いてそれを見て杉井監督は感動したらしい。そう小林監督に言うと小林さんは杉井監督が指示したからやったとか。奇妙だけれどもそういった何人かの才能とアイディアが絡み合うから生まれる驚きと意外性を、杉井監督は商業アニメーション映画が持つ集団作業の必然の中から生みだしていこうとしている。果たしてそれがうまくいっているのかどうかは、まだまだ「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」を見たりないから分からないけど「グスコーブドリの伝記」も公開されて「アニメ師・杉井ギサブロー」も続いて公開となって高まる杉井ギサブローへの感心の中、あの傑作がどう生まれたのか、そしてどう作られているのかを今一度、探求してもらえるとうれしいなあ。それより速くブルーレイディスクで出ないかなあ。「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」。

 さても夜のSCANDALのライブがZEPP Nagoyaであるんでそれに行く前にいろいろ見ておこうとまずは白川公園まで行ってプラネタリウムを見学しようとしたらすでにだいたいいっぱいで見られず。しゃあなしだと隣の名古屋市美術館で今日から始まった、近隣の注目アーティストを取り上げる「ポジション2012」という展覧会を見物、いったいどんな人が並んでいるかと眺めてまあまあこれならそこそかなあ、なんて思いつつ警備員さんの姿で歩いている女性がなかなかに痩身でスタイリッシュだなあなんて感じつつ、通り抜けた最後の部屋でもって見た設楽陸さんという人が凄かった。ペインティングについていうならサイケな極彩色が大きなカンバスいっぱいに鏤められている系で横尾忠則さんであったり立石タイガーさんであったりと、まあ類例もあったりするからそれとして、驚いたのがキャンバスノートに綴られていたファンタジーな世界設定を作品としたもの。それはたとえるなら中学二年生が密かに夢をノートに綴っていったもの。妄想と空想の狭間を行き来するような得体の知れないパッションがみっしりと書かれたものが何冊もあっていったいこれは生き様として本気なのかそれともアートとしての本気なのか、判断にちょっと迷った.

 アートだと言うには絵も字もちょっと子供っぽ過ぎる。かといってそれを綴り続けるには例えばヘンリー・ダーガーのような本気の本気が必要で、けれどもアートとして描かれている絵画なんかをみるとそうしたアウトサイダーアート的な不気味さ底知れ無さとはちょっと違う真っ当さって奴がのぞいて見える。だったらアートとしての本気を出してノートを綴ったのだとするならば、いったいそれにかけた労力と精神力と集中力たるやいかばかりのものなのか。巧く下手を描き想定して妄想を綴るなんてことを普通の人間がやったらどこかで精神が壊れて本気に妄想を綴るはめとなる。そのギリギリのところを綱渡りのように行ってそして向こう側に落ちなかったとしたらこれはもう立派にアート。統合された意識でもって無意識の妄念を差配し作られた不思議ノートの世界にさあ、君もはまりたまえ。

 それを1番としてあとは坂本夏子さんという人が描く絵がどこか諸星大二郎さんが描く世界観に通じるものがあって不気味に不思議で楽しかった。あと大崎のぶゆきさんという人のこれはどうやって作っているんだろうか、ロウかなにか融ける素材でもってアルプスみたいな山とか作ってそこに山登りやウインタースポーツやそういったものとはまるで無関係の格好をした小さいフィギュアなんかを置いてそしてそれを投影か何かして平面にして見せた上で融けだしていく様をとらえると、張り付いていた登山者とかスキーヤーが突然にずるりと落ちていって何か大変なことが起きているような不思議さと、ああまた落ちよったてな感じの苦笑を覚えさせる。目的が冬山への安易な侵入への警鐘なのか単に動きの面白さを見せようとしたものか、分からないけれどもこれはこれで面白さを持った作品だった。どうやって作っているのかなあ。

 そして名古屋に週末帰った目的のこれも1つのNagoya Zeppでの「SCANDAL」ライブを見物、1300番ではもう後ろから頭越しにかろうじて4人を見るしかなかったけれども近い会場で音は良く聞こえてそれぞれに、ベースもギターもしっかりと弾いていてそしてドラムもしっかりと叩いている様がよく分かった。こいつらやっぱりすごいバンドだ。もしも1990年代前半だったらテレビに歌番組にひっぱりだこでプリンセスプリンセスくらいの超ビッグなバンドとして扱われていただろうに今という時代はそういうスターを創りづらくなっている。そんな中でも武道館をソールドアウトさせてライブツアーも全部売れてと人気は上々。すぐに横浜アリーナでも大坂城ホールでも満杯のライブを開いて5大ドームツアーを成功させる超ビッグネームになるだろう。でもドームではやって欲しくないなあ。良さが消えるから。ホールツアーの充実、それを是非に。


女神としかいうよりない。ついていたって。生えていたって。 【6月1日】 購入して届いたものをそのまま配送所から転送したんで、展覧会場以外では実物をまだ見ていなかった、江口寿史さんの原画展にてなぜか見事に落札してしまった、「ストップ! ひばりくん!!」のポスターか何かに使われたらしい原画とようやく実家にて対面。ああやっぱり可愛いなあ。なるほどあの「tone」と題された展覧会では、カラートーンを使って隅々まできっちりと色分けられた中にシンプルな線で、女の子たちが描かれていたり情景が描かれている、1980年代半ばのイラストレーター的活動から生まれた傑作群にこそ着目すべきだったんだろうけれど、デビュー時から見知って神と仰いで讃えそしてそんな作品群でも最もすきな「ひばりくん」のメインヒロイン(?)にして女神(??)なひばりくんが描かれている作品に、僕と同じくらいの世代だったらやっぱり目が引きつけられてしまう。それは仕方がない、運命なのだから。

 そう考える人もきっと大勢いただろうから、ひばりくんが描かれた3点でも全身がスラリと描かれていてそして男装(???)しているひばりくんを見られる唯一の作品だったこれがとてつもなく値上がりするだろうって想像して、そこには届かないけれどもあるいはといった入札金額を書いたらなぜか落札してしまって実は意外というか、あるいは案外に「ストップ! ひばりくん!!」ってマイナーな作品だったというか。うーん、やっぱりPANTONEの展覧会ならそういった方面の絵に目が向いてしまうのかもしれないなあ。

 でも漫画家が描いた漫画らしい絵って実はこれくらいしかなかったのも事実。ホワイトの集成も入ったりして江口さんの筆の跡が見える作品に価値がないはずがない。他人になくても僕にはある。ってことでだからこれはこれで良かった。むしろ良すぎるくらいだ。アパートには狭くて飾れないのは悲しいけれども家なら拾い場所で日陰に飾れてそれでいてちゃんと光もあたる。輝くひばりくんの表情を年に何回かは拝めると思えばこれも僥倖。だからずっと持ち続ける。そのうちに1000万円くらいになっても持ち続ける……と思う。いや思うぞ思うだけなら思い続けるぞ。

 帰省した用件を済ませてから折角だからと刈谷市にある美術館で開催中の「加藤久仁生展」を見に行く。既に八王子での展示を見ていたけれどもそこで上映されていた「情景」って短編に新しい1本が加わっているって聞いたんでこれはやっぱり見ておきたかったし前のも見ておきたいのがあったんで僥倖。どれくらいかかるかなって思ったけれども金山経由でJRを使ったら案外に速く到着した。考えてみれば同じ県内、千葉から八王子に行くより近くって当然か。んで展覧会は何だか人がひっきりなし。閉幕間近とはいえ平日でこれだけ入っているのに対して八王子は休日でもしんみりしていた。どういうことなんだろー。そりゃあ愛知県はあの山村浩二さんが出身とはいえ有名にになったのは大学行こうだからなあ。短編アニメーションへの理解がどこかで増したということか。近所の半田出身の英雄、新海岳人が贈る「かよえ!チュー学」が東海テレビで放送されて短編アニメって面白いってみんな知っていたからか。そんな訳ないな。

 そんな加藤久仁生展では展示はだいたい見ているんでやっぱり向かった「情景」の上映コーナーで見た新作「昼寝」は、変幻するビジョンによって子供が見る夢の移り変わっていく様をいろいろと見せてくれる作品。風船もった麦藁帽子の女の子とか可愛いかったし。スカートのお尻がぱっと出るのも興味深かった。それは寝ていた子供の夢かもしれないけれど、あるいは加藤久仁生さんが見たかった夢なのかも。でもやっぱり隙なのは3本目に上映される「ポタージュ」かなあ、双子の女の子がニーソ姿で魚をかっさばくという話。嘘じゃないってそういうワイルドでバイオレンスな話なんだって。ちょっと嘘かな。たぶん喧嘩し離婚した両親の狭間にあってあの楽しかった食卓を甦らせようとする少女たちの話。一所懸命に作ったけれど集まってきたあの人たちは誰なんだ、って感じ。それを是として自転車で帰っていくのかそれとも逃げていくのか。作った人に聞いてみたい。

 会場では「情景」の5作目まで入ったDVDが売っていたので買う。八王子でも売ってたみたいだけれども目に入らず手にも入らず。しかし改めて「あいつ」とか見ると実に簡単な塗りだけで、女の子が何かと歩き戯れ男の子が走り探し叩く動きをしっかと描き出しているのに驚くというか感動するというか。いわゆるアニメみたいにリアルでかっちりした描線でなくても描ける”情景”ってものがあるんだってことを示してる。それをご高齢な方々も若い母親も中学生もそれと理解して楽しんでいるから分からないってことはない。そういうもなんじゃないかなあ、アニメーションって。

 これも決して美麗ではない「つみきのいえ」を見て、50絡みのご夫婦がその絵本とかを売店で買って帰っていくんだ。もはやアカデミー賞が云々といった情報も薄れた昨今に、絵本を買わせるほどに放たれる作品の良さ。短編アニメーションだからといって何回でもなく見れば与えられる感慨ってものが絶対にある。加藤久仁生さんが開いたワークショップでも、子供たちが本当に自在にアニメーションを作ってみせている。おにぎりが池に落っこちる話が可愛かった。あとバスケのボールが左のゴールに跳ね返ってノートの上の枠線に辺り右の枠線に跳ね返って投げた子のところに戻ってくる話の、枠線を壁と見立てるセンスにしびれた。子供って凄い。だから見られる機会をもっともっといっぱいに増やせれば、そして作って試せる機会がもっといっぱいあれば、日本人のアニメーションへの理解ももっと膨らむんだけれど……。加藤久仁生展がそんな転換点になればなあ。

 成田良悟による小説版「BLEACH Spirits Are Forever With You」を読む。上巻が290ページで下巻が390ページってどんなバランスだというのはさて置き、噂通りにドン観音寺が最強だった。確かに更木剣八も強かったけどやっぱりドン観音寺は最高に最強だった。ザエルアポロって懐かしい名前のエスパーダと関わりがあるらしい破面の美女にも、女の子も含む破面の少年少女軍団もドン観音寺にめろめろだった。そんな奴らを従え、死神たちの間にも凄い素晴らしいといった噂を残して最強伝説を刻んだドン観音寺に果たして最終章での出番はあるのだろうか。つか最終章って誰が何を目的に戦っているのかまだ見えないんだよなあ。小説版キャラとか出てくる可能性ってあるのかな。是非に出てきて活躍してはすべての頂点に立ってくれるだろう。信じたい。だから叫ぼう。「スピリッツ、アー、オールウェイ、ウイズ、ユー」と。


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