縮刷版2012年5月下旬号


【5月31日】 いやあ恐れ入ったよ渋くてニヒルな声だけじゃなくって飄々としてからかうような軽い演技もやんと山田康雄さんが演じたルパン三世の物真似ではないルパン三世がそのまま発しているような雰囲気を出していた栗田寛一さんによる「LUPIN the Third 峰不二子という女」。軽いようなんだけれども腹に一物があって底冷えするような冷徹さをちゃんと保ちつつどこかに優しさも残したその声音。峰不二子が相手でも決して手を抜かずひるまず阿りもしないで真正面から相手をしてやるその行動。音声も映像もすべてがルパン三世というキャラクターを完璧以上に映し出していた。21世紀にもなって過去最高と言っても良い「ルパン三世」を見せてもらえるとは。やったなあクリエーター。

 そう、ファーストのあのニヒルでクールなアウトローといった雰囲気が史上最高に挙げられることもある「ルパン三世」だけれど今度のもそれに並ぶかあるいは場合によっては超えているかも。それは多分やっぱり峰不二子という女の描き方で、媚態でもって相手に取り入ることもするけど決して間抜けではなくしたたかで周到。にも関わらず今回ばかりは感情に任せて突っ走るところも見せたという展開の新しさによって今までにない「ルパン三世」ってものをそこに現出せしめた。ルパン三世をアニメにしつつスポットを峰不二子に当てたことがこんな効果を生むとかなあ。あと次元大介の小林清志さんも声が出てきて枯れっぱなしじゃなくなった。映像でのルパンとの相棒ぶりも最高。そして現れる石川五エ門。これでタイムマシン話に行ったら超最高、なんだけれどそれは40年前に終わってるから今回はまた新たなに。

 「芝居と動きを分けて考えられず、動きにとらわれて芝居を忘れること。そして、絵の様式に無頓着。虹色ほたるのような作画オタク的なアニメーションの失敗は、たいていこの二つが原因」と「猫の恩返し」や「ぼくらの」といった作品を持つアニメーション監督の森田宏幸さんが書いていたのを見つつまず、「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」が作画オタク的なアニメーションなのかという定義について、いろいろと考える。あのラフなキャラがうにょっと動いていくのはなるほど、昨今のかちっとしたキャラがどこまでもかちっとしながら動き続ける作品に見慣れた人の目には、奇異に映るかもしれない。あれを下手ではなくって凄いと理解できるのは、アニメーションの作画というものについて理解できるある種の“オタク”であるとするならば、そうしたオタクに向けてしか語れていないかもしれないアニメーション、という面も森田さんの指摘はなるほど正しい。

 ただ、本当にかちっとした絵ばかりが受け入れられているのか、そうでない「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」のような絵は忌避されているのかというと、そういう人もいれば、そうでない人もいるというところで、だから大きく激しく気にするポイントではないような印象もし始めている。見た人の中にも作画を気にする声がある一方で、ストーリーそのものに感慨を覚えて涙した、といった声も多数。そこでは独特な作画が壁になったといった雰囲気はない。アニメは何もテレビアニメのような漫画がきっちり動くものではなくって、例えばNHKの「みんなのうた」で使われるような簡単な線が動いて動きを醸し出すもの、テレビCMにも同様に使われている線で形作られたフォルムが自在に動いて雰囲気を醸し出すものももあって、一般の人の目に触れたそれらを一般の人は映像として、物語として受け入れる心構えを既にしているといった判断も出来なくもない。

 あとは独特な作画を気にしていた気持を、物語の流れや情感たっぷりの音楽が気にさせなくしていくといった“総合芸術”ならではの特質が、大きく働いたという可能性。または、物語や音楽といったものから醸し出される感情に、あの揺れ動く作画が逆にマッチするように見えてきたという可能性。ご都合主義的な解釈なのかもしれないけれども、そういう人は多分いる。見ていろいろと思った中から、そうかこういう絵でも表現できることがあるんだという感覚を身に覚え、あるいはこういう展開だからこそ、こういう絵が求められているのかもしれないという思考を頭にめぐらせることによって、アニメーションを観る見方を少し、広げられるといった可能性への期待を、少なからず抱いている。

 ずっと同じように無難に安全なものばかりを見せ続けて、果たして人は育つのか、目は肥えるのか。いろいろある中から見極める力を得たり、視野を広げたりするためにも「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」というアニメーション映画のあの形式は、必要だったという風に今は見たい。だからこそまずは見てもらいたいんだけれどもそういう声を響かせ、届かせられるメディアに乏しいってのも昔から続く状況で、なおかつリアルタイムに出やすい数字への対応が、以前に比べて速くなっているって事情もある。素晴らしい作品だからといって「ルパン三世 カリオストロの城」を何度も何度もリバイバル上映し、口コミでファンを広げていくって訳にはいかないんだ。

 シネコンが増えてスクリーンが増えたからといって、それでマイナーな映画が公開される機会が増えるかっていうとむしろ逆に、売れる映画ばかりがそこでかけられるようになるんだと言ったのは、10数年も昔の角川歴彦さんだったか、それは炯眼、実際にシネコンでは回転率が悪いと即座に脇へと追いやられ、1日まるまるといった公開は行われなくなってしまう。ただやっていますというだけで、アリバイ作りのような公開形態。それでは見たい人も見られない。とはいえ時は21世紀、以前はなかったツイッターのような口コミを拡散するメディアが存在していることが、今回ばかりは是と出て欲しいもの。分からないといった感想を補いそういうものだという意見を重ねていくことが出来るメディアによって、新しい視点を加えていける。そこから生まれる次代のヒット、そして定番、果ては金字塔。「虹色ほたる〜永遠の夏休み」がそうなってくれると嬉しいんだけれど、果たして。

 簡易宿所に寝泊まりしている人が昔だったら日雇いに出て稼いでいたものが、今はそういう仕事もなくまた高齢になって仕事にも出られないまま生活保護をもらっているというケースが増えているって話をちょうど愛川晶さんの書いた「ヘルたん」(中央公論新社)を読んでいて見知って、その料金がもらえる生活保護の月額を日で割った2200円だって話も載っていてなるほどそういうものかと思っていたら、そうした簡易宿所で火事があって亡くなった方も出て、そして宿泊者がみな生活保護をもらっていたってニュースがあって愛川さん、この事態を先読みしていたのかなあって感心しつつ瞠目しつつ。まさかこれほどまでに生活保護が取りざたされるとは本を出した2月のあたりでは思ってはいなかったかも。

 ただ今のどこか逆風下でのこうしたニュースでの取りざたされ方は簡易宿所になんて泊まるんだったらどうしてアパートを借りて自立しないのか、なんて話へとズレていきかねないからちょっと苦悩。だってアパート借りるのにいくらかかるの、それはいったいどこにあるの、郊外? それとも駅から遠い場所? そんなところにたったひとりで住まわされてももらえる生活保護の額からアパート代や光熱費をはらったらいくらも残らない。簡易宿所だったら光熱費もコミで滞在できてそれでかかる費用は生活保護でもらえる金額にほぼぴったり。なら無理に出ていくより場所柄もよくって知り合いもいるだろうドヤ街の簡易宿所に留まりたいって高齢者が多くいるのも流れとしては飲み込めるし、その方が出すお金だって少なく済むかもしれない。

 だから問題は伝え方であってそうした事情を鑑みつつ簡易宿所が終の棲家となっているというか、そうならざるを得ない高齢者の住宅事情へと目を向けさせるのが本当なんだろうけれども生活保護をもらっている人は怠けているだけだといった風潮が、ホテル住まいで生活保護だなんてどれだけ怠け者なんだっていった論調へと発展しかねないだけにどうにもこうにも胸苦しい。あるいは知っていながら今は生活保護を叩けば数字がとれるからって、そういう論調を無理にでもひねり出したりするからなおのこと質が悪い。実体を踏まえ現実を鑑みつつ選ばれた最善手が最低の手でしかないこのどうしようもなさを、むしろクローズアプして現代に問うて欲しいんだけれど。やるわけないか日本のテレビが。暴力団が不正受給で捕まってたって報じないのに芸能人の親類が止むに止まれず正当にもらっていたら叩く国でありテレビだから。やるせない。


【5月30日】 開けて最初にネタを振った読売が続報をしゃかりきに書いては主に農水省あたりでのもやもやを取りざたしているけれども、読むと農産物の輸出にからんでいろいろとやろうとして相手方との交渉に通じた人としていろいろ協力してもらったという感じ。そのプロジェクトの資料を先に見ていたっていってもそれで例えば関税の金額が相手側に露見するとか価格情報が洩れて足下を見られるといった実害が出る類のものではない事態ををはたして「スパイ」という言葉で読んでいいのか、それがそもそも諜報活動なのかっていった疑問は抜けきれない。だからなのか朝日も毎日も載せてはいてもどこか半信半疑といった扱い。それをスパイと断じて日本の防諜がっていった論旨には持っていかない。持って行きようもないよなあ。

 そして産経はといえばやっぱり中国への苦手意識をここでも一気に発露して大々的に展開しているけれどもやっぱり何がどれだけ洩れたのか、それが日本にとってどれだけ大変なことなのかといった具体的な指摘はなし。日本通で親切で大震災では在留中国人の支援に当たっていました、って話を持ち出しては、その末尾を「書記官が通商担当として日本企業にも人脈を築いていたことから、公安部は企業担当者から日本の安全保障などに関する情報を入手していたか関心を寄せている」と脈絡なく結んでいたりして、そうかそう書けば例えば苦労して中華料理屋を立ち上げ大繁盛して政財界からもお客さんが来た料理人をスパイといって「安全保障に関する情報が」と結べば成り立つんじゃないかとすら思わせる。シュールだなあ。

 大山鳴動して鼠の1匹すら捕らえられない一件はだから例えば外交官の名義を使って商売をしくさっている輩を権勢したい中国当局とそれからスパイ事件をここで騒ぐことによって防諜への予算を獲得したい警察なり国なりが、あれやこれやと話し合ったかそれとも阿吽の呼吸だかで一件を練り上げそれに新聞を噛ませることによって話を世間に通じさせ、双方に意見を通りやすくした出来レース、だなんて想像すら浮かばせる。乗っかったメディアはそれでしばらく飯も食えるって寸法。もちろん大切な軍事情報とか経済情報を盗むことだけがスパイじゃなくって日本に親派を作りいざというときに動かせるように道筋を作っておくのも一種の諜報活動。それがさも一大事と捕らえる針小棒大はさておいて、やっぱりこれをきっかけに一度周囲を見渡しておくのも良いのかも。ともあれこっちにはそういう気配はなし。日本人ですら知り合い少ないのに在る訳ないさ。嗚呼。

 中学生からだったっけ、ダンスが必修になったってことでそこで果たして現場ではヒップホップが踊られているのか、ソーシャルダンスなのかフォークダンスなのかは知らないけれどもともかくダンスが必修になって踊りに興味を持った人が、それを趣味にしたり仕事にできるような場が案外に狭い、って話のひとつとして、踊れる場所であるべきクラブが風営法の枠内にあって、営業の許可をとっていても深夜の0時とか午前1時までしか営業が認められておらず、朝まで踊りたい人たちの気持を凹ませているっていった感じの言葉が広がってきている。

 別に真夜中から明け方に踊らなくたって、夕方5時からだって休日の昼間だって踊れる場所がありさえすれば、学校でダンスを勉強した成果は披露できる訳で、文部科学省がダンスを称揚するのことと、警察がクラブカルチャーを敵視することは別に相反してはいないんだけれど、規制の妙さを訴えたい人にはそれが後押しの材料となっているっているのは、ちょっと何だか牽強付会気味。クラブカルチャーが文化の進展において必要ってことは、もちろんあるからそれをギュウギュウと縛るような施策を、いまだに採り続けているってことへの国の自省は必要にして不可欠だ。

 昼間の活動がピーク電力の増大を招きかねない、という心配すら起こっているこのご時世も鑑みるなら、むしろ人の行動を夜型にして、昼間は静かにしていて、夜に活動を始める人たちを人口の一定数、作るようにした方が良い。そのためにも夜から深夜を経て明け方まで営業している施設ってものを、なるべく増やすべきであって、そのひとつにクラブがあって、今は法律で堂々とは出来ない午前1時を過ぎて明け方までの営業を、行えるようにすればそこに人は集まり、文化も生まれ交流も促進されて何か新しいことが起こってやがて、日本の価値を世界に喧伝するような話へと発展していくかもしれない。獲らぬ狸過ぎるけれども始めなければ可能性はゼロ。ならやった方が良いんじゃねって気はしてる。署名運動結構そして大歓迎。でも僕には関係のない場所なんだよなあ、行ったことないし、行けそうもないし。

 一方で必修化されたことで学んだダンスをどこで披露するかという問題で、高校にダンス科なんてものを作って突出した才能や強い熱意を持った人をそこに集めてなおいっそうの精進を行わせる仕組みを国が、作っておくのがやり逃げといわれないためにも必要そう。さらに大学も作って日本ダンス大学とかって名前でヒップホップから日本舞踊から盆踊りから暗黒舞踏から、あらゆるダンスというダンスをそこで学び実戦し研究できるくらいのルートを設けないと、せっかくの必修化が無為に終わってしまう。それか国立大学にはダンス科を設けなさいって通達を出して地域でダンスを学んだ人たちに道を示してあげるとか。

 いやいやまだ足りない、それだと大学を卒業してから働く場所がダンスの教員くらいしかなくなってしまうので、国も都道府県も市町村も組織内にダンス局を設置して一定数の人材を集めて地域振興にダンスが必要ならば派遣して踊らせ、健康増進に役立つというなら老人ホームでもどこでも出むかせ踊ってみせればそれはそれで国民のサービスにかなう。あるいはコミュニケーションの手段にダンスというのを取り入れそれを、日本のみならず世界標準へと発展させることによって、言語を超えた広がりって奴を世界に生み出すきっかけになるかもしれない。

 それだけのビジョンを持ってのダンス必修化、ってことだったら尊敬するけど日本政府と文部科学省、たいてはい何か気分でそういうのあったら良いんじゃね、的な流れて生まれたものなんだろうなあ、だから後先考えてないって言われるんだ。ここはいっそだからEXILEなりAKB48なりをひとつの省庁として規定して、その活動に憧れ参加を望む人たちの最高目標となりうるようにするとかすれば現場にも学生にも励みになるかも。あの学校は今年どれだけEXILE省とかAKB48庁に人を送り込んだ、って週刊誌にランキングが出るくらいになったりして。愉快痛快。

 アイドルがみんな見た目どおりだと思うなよ、例えば清楚なお姫さま然としたアイドルでも実は深川生まれの深川育ち、弟妹も大勢いるその長姉で性格は豪快だったりする場合もあるし、外国人とのハーフに見えて実は九州からちょいいった海に浮かぶ島の育ちで外国人なんて無関係、喋れば方言もバリバリなところを髪を染めて目にコンタクトも入れればあら不思議、日本人には見えないハーフの美少女アイドルが誕生する。そして体力にあふれた活発なアイドルに見えて実は極度の虚弱体質で楽屋ではすぐに倒れ平日は家から出ずそこで何やら得体の知れない偶像にぶつぶつ祈ってる。

 そして誰よりも美しく気高そうなアイドルが実は……っていった話が佐々原史緒さんによる「バタフライ×ブレイクダウン1  君が世界を救うというなら」(ファミ通文庫)。そんなアイドルたちの裏を主人公の少年が知ることになったのは、スカイツリーみたいな塔の上に現れた謎の少女が気になって、見に行って出会った彼女が実は未来から来た一種にタイムパトロールで、200年後に世界が滅びるのを防ごうと今ある要素を改善に来たんだけれども過去に来た幾人かの先輩たちがことごとく行方不明になっていて、それを探そうとして行き当たったのが先のアイドルグループでも、特別に人気の少女。何とかして合おうとして弁当屋から警備からいろいろな仕事をしてどうにか接触に成功したものの、彼女は後輩のことをまるで知らなかった。それは……。

 といった感じにアイドルの生態に迫るような展開を入れつつ軸には歴史を大きく変えるために未来から来た少女と主人公の少年が奮闘するという話し。挙げ句に少年は悲惨な立場に陥るけれどもそこはそれ、未来のためならえんやとっとといった感じ。でもそれで変えたら未来から人が来ることもなくって歴史も変わらないんじゃないかというパラドックスはどうなった。気にしない気にしない。あと少年がかつて海岸で瞬間に見て気になって撮影したらコンテストで賞をとってしまった少女がいったい誰なんだ、そして少年のカメラへの熱情は、といった伏線も未だ回収されず仕舞い。そんな辺りを踏まえつつ未だ引き続いて腐れ縁なアイドルグループとの関わりなんかも描きながら未来を変える挑戦は続く、と。しかしアイドルの正体見たりはやっぱり気になるなあ。そういうものなのかなあ。


【5月29日】 やっとこさひっくり返すようにして見た「戦国コレクション」の第8話の豊臣秀吉が出てくる回が何というか今世紀最高すら超えてしまうような凄まじさで見ながら頭を捻転させてそれから見返し全身を痙攣させてそれでも足りず何度も見返し呆然と滂沱の狭間に身を漂わせて明日は晴れるかなって身近な話題で我を現世へと引き戻す。そうでもしないとずっと漂ってどこかへと連れて行かれそうな凄まじいエピソード。まずもって冒頭から女の子がおにぎりを頬張っている絵が繰り返されて何だこりゃって思わせそれが夢落ちだと分からせてからお米大好きな女の子のエピソードへと向かうのかな、って思わせておいて大転換。

 鬼のまな板か何か分からない岩の上で踊ると豊作になるけど、踊った子は行方不明になってしまうって伝説を危機ながら敢えてそこへと行ってしまうのは戦国武将ならではの剛胆さか後先考えない子供っぽさか。そして踊ってても何もおこらずやっぱりおにぎりを食べようとしたら1つが転がり木の根っこの穴へと落ちて秀吉もそこへと引きずり込まれて現れたのはどこかの部屋。扉が2つあって1つはすぐにでも元の場所に帰れそうになっていて、もう1つでは中で暗い奴が魚とご飯を食べていて、見ればすぐにでも元の場所へと続く扉を選びそうなものなのに、やっぱり豪傑なのか元の場所にはすぐにでも帰れるんだからとご飯の方を選んでみたらこれが正解。どうやら元の場所に続く扉は開けたら大変なことになっていたらしい。怖いよう伝説。

 でもってそこはいきなりレストランでご飯が並んでさあ食べようとしたら信長ちゃんが現れ秀吉と問答。そこでのどっちがどっちの夢なのか論争は聞いていてどっちに利があるのか混乱するような複雑さ。そこに夢なら相手を自在にできるとキスして膨らませたりする展開が交互に繰り返されてどっちがどっちの夢なんだ感を倍増しさせる。そして外に出て麦やバッタと戦うスペクタクルへと行く途中、出会った案山子が持っていた箱の中で繰り広げられていた謎の劇。タニシとドジョウとカエルが喋る話のかみ合ってないシュールさはつまる無意味の意味を知らせようとしたものなのか、無意味に意味なんてないんだと諭そうとしたのか。どっちにもとれそうでどっちでもなさそうな不穏な気分にとらわれる。

 あるいはどっちだって知ったこっちゃないと笑おうとしたものなのか、分からないけどただ何とはなしに自分を試されているような感じを味わわされて、ついつい見入り聞き入ってしまった。タニシとドジョウとカエルの会話でここまで引きつけるアニメが過去にあたか? ないよなあ。これも「戦国コレクション」という毎回違った実験を繰り返してこれはシュールが特質なんだと世間に分からせていたからこそ成り立つストーリー。でなきゃまるで不明と唖然呆然な人が続出しただろうから。そうして通り過ぎた先で麦が燃え食らったバッタが燃えるスペクタクルに堪能した後で戻った元の世界で秀吉ちゃん、お米を自在に出せるアイテムをもらて大喜びだけれど信長いったいどこ行った、そして信長のお宝集めの設定はどこいった。そんなの関係ありませーん、とばかりに独自の道を歩む「戦国コレクション」。これは「シスタープリンセス」や「セラフィムコール」といった過去の傑作群を超え、永遠に刻まれるアニメーションかもしれない。

 まだ分からないけれども印象からすれば日本の中国大使館に赴任してきた人間が、自分の金儲けのために立場を利用して企業なんかに働きかけて窓口になれるとかもちかけてお金を出させてそれを自分の口座にプールしてただけってことになるんだけれど、そんな雌伏を肥やそうとした人物が普通に勤めあげて戻って何にもおとがめなしって事は流石にないだろうから、もしもスパイじゃないと向こうが言い張るなばら勝手な商売をしたってことで詐欺なり収賄でとっつかまって裁判に掛けられ死刑とかになってしまうんだろうなあ。どっちにしたって当人にとっては大変な話。いっそ出頭して日本に保護してもらった方が命も繋がって良いんじゃないのかなあ、とてつもない日本通のようだし。

 ニコニコ生放送の方で何やらぐだぐだとした番組をやっていてパーソナリティがけん玉なんかを遊んでいたけれども、その前にはあの傑作映画「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」についてプロデューサーの人だっけ、誰か偉い人が出て解説なんかをしつつパーソナリティの人たちがそれを受けて凄さ素晴らしさを訴えかけてくれていた。何とまあ有りがたい。それがたとえキタエリ目当ての視聴者だったとしてもその直前にあれだけのインパクトでもって浸透されればきっと行きたくなるだろう。ならずとも興味だけは湧いたはず。今週はまだそれなりに見られるけれども来週になったらいったいどれだけの劇場が上映してくれているのかどうなのか。と考えるとこの瞬間を好機として、やっている劇場を調べて行くのだ「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」を観賞に。個人的には大泉学園のTジョイが遠いけど本拠地らしくていろいろ展示もあって良いけどでもやっぱり遠いかな。


【5月28日】 オリジナルの展開に賛意も多くあるような「モーレツ宇宙海賊」だけれど、白鳳女学院が5年間もヨットレースに出られなかった理由も調べず、いきなり5年ぶりの復活だからと乗り込んでいく無策ぶりにはちょっと引っかかったし、過去のレースを妨害されたことに怒り心頭な理事長が、その立場も顧みないでレースのど真ん中に突っ込んでいく直情径行っぷりにもちょっぴり愁眉。一歩外に出れば広がる無酸素の宇宙では間違いが命取りになりかねないだけに、誰もが冷静に沈着に行動してしかるべき中をあまりにもヌけた行動が多過ぎるって印象に、話を面白くしようと頑張るアニメ作りの人たちのその努力が、コミカルに見えても締めるところは締めてた原作の世界観を、ちょっと踏み越えてしまっているように映ってしまう。大事な指輪をあっさりなくす茉莉香のエピソードもあったしなあ。

 そうしたアニメならではのふくらませを気にしなければ、なかなかにスピード感もあってスペクタクルでもあったアニメーション版最新話。茉莉香を狙っている奴らのどーして狙っているんだって不思議は不思議としてあるけれども、そんな奴らが乗ってる船を、弁天丸って宇宙船が追いかけてうまく落とせない中でヨット部員の少女が風を読む才能を発揮して、弁天丸に有利なようにもっていく展開は意外性があってカタルシスもあって面白かった。あの娘ならすぐにでも弁天丸のクルーになれるんじゃないか。あと本業のお姫さまに戻ってたグリューエルのゴージャスな格好に目が眩んだ。あんな格好で毎日を過ごしていたらそりゃあ誰だって密航したくなるよ。グリュンヒルデは軍服専門? いっしょにゴージャスゴージャスしてくれないかなあ。いつの日にか。

 そして「Fate/zero」は魔術師たちのバトルロイヤルが帰結する方向へと大きく動き出す。すでに遠坂時臣は言峰綺礼によって文字通りに弾かれそしてアーチャーをのっとった綺礼によって誘い込まれた間桐雁夜は誘い出された遠坂葵に夫殺しと勘違いされ蔑まれたのに反応して首をギュウギュウ。その場面でバックが黒くなったりしたけれどもブルーレイとかだとやっぱりフルに描かれるのか、それともああいうフラッシュバックのような雰囲気を出すためにそのままいくか。血が出るシーンよりもやっぱり残酷でグロテスクな、生身の人間が素手で人を殺めようとしているシーンをそのまま描くのはやっぱり拙いのかなあ。葵の目も恐ろしかったし。

 一方で雁夜が操るバーサーカーが化けたライダーによってアイリスフォールが連れ出された姿を見たセイバーは、相手をライダーだと思いこんでバイクを騎馬スキルによって圧倒的な速度で走らせおいかけ追いつきエクスカリバーを一閃。でもそこで息を整え、アイリスフォールはどうしたとライダーに聞けばどういうことだとライダーが答えて俺がそんあ姑息な真似をすると思うかと言い、それもそうだと納得したセイバーとの間に対話が成立して、勘違いだと気付いたセイバーは引き上げ、ライダーは戦車を失わずその後の英雄王との戦いでも、敗れることなく見事に勝利を収められたかもしれないと思うとやっぱりセイバーはバカ娘。猪突猛進で考え知らずで突っ走っては迷惑をかける。けどその場で何の説明もせず言い訳もしないライダーもバカおっさんか。誰であれ言葉でコミュニケーションをとる大切さを教えられた回でした。次はさらにハードになるのかな。楽しみ。

 これは濃いなあ。そして深い。日本のアニメーションの歴史をざくっとおさらいできて、なおかつアニメーションがどうやって作られているのか、何を目的に作られているのかを学べるドキュメンタリーが7月28に銀座シネパトスなんかで公開される。そのタイトルを「アニメ師・杉井ギサブロー」という石岡正人監督の作品は、アニメーション映画「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」の監督として知られ、今また同じますむらひろしさんのキャラクター原案を持った宮沢賢治原作のアニメーション映画「グスコーブドリの伝記」の公開を控えた杉井ギサブローさんを追いかけたドキュメンタリー。日本人の多くが見知る宮崎駿監督でもなく、「機動戦士ガンダム」でテレビアニメのファンには知られた富野由悠季監督でもなく、世界が注目する押井守監督でも「エヴァ」の庵野秀明監督でもないアニメ映画監督のドキュメンタリーにいったい、どれだけのバリューがあるのって言われそうだけれども見れば分かるしファンならすでに知っている。杉井ギサブロー監督が日本のアニメーションの歴史にどれだけの足跡を刻み、業績を上げてなお今も現役で新たな金字塔を打ち立てようとしている人なのかを。だからこのドキュメンタリーも見る価値があるってことを。

 うしおそうじさんに漫画を教えてもらったりしつつ、やがてアニメーションに興味を持って高卒くらいで東映動画に入った杉井ギサブローさんが、「白蛇伝」で大塚康生さんがら水の流れをどう描くかで3回リテイクを出された上で、アニメーションはその動かし方によって水がどっちからどっちに流れているか、そして川の深さはどうなのかといったところまで表現できるしやらなくちゃいけないものだといったことを教わり、舐めてちゃいけないと背を糺し、そしてやりたいことがやれそうだと手塚治虫さんが作った虫プロダクションに行って、そこで「鉄腕アトム」とかに関わりながらもやっぱりギュウギュウで下を育てられないってことで独立してプロダクションを創設。「悟空の大冒険」とか「どろろ」をやったけれども、前者はアバンギャルド過ぎて「黄金バット」の裏番組に食われて降板、後者は暗くてハードな展開がスポンサー受けせず降板したりと、若いころはやりたい放題をしていたって杉井さんのキャリアをドキュメンタリーは振り返る。

 そんな過程で、今も多くが困っているアニメの低制作費を定着させたの手塚治虫さんの責任だって世の見解に対して、虫プロの代表の人が違うといったことを話してたりして俗な見方を否定。このあたりは手塚治虫さんっていう稀代の漫画家にしてテレビアニメーションの先駆者への敬意を改めて示しつつ、そんなビッグネームを主軸におくことによって弟子としての杉井ギサブローさんの存在感を高め、ジャンルとしてのテレビアニメーションなり長編アニメーション映画への興味を維持しようとしているのかな。やっぱり誰もが知る手塚さんがメーンになっていると分かりやすいから。何しろ最新作の「グスコーブドリの伝記」がグループタックで企画が止まったのを引き取ったのが手塚治虫さんが作った手塚プロダクション。最初の出会いから離別を経て最後に再び邂逅する、杉井さんと手塚さんの絶対に切れない師弟関係って奴を柱にすることによって、一連の流れを普通の人にも見えやすくしたのかもしれない。

 もっともメーンは手塚さんではなく杉井ギサブローさんで、ディズニーや昔の東映動画を模倣しようにもディズニーも映画の東映動画も知らない世代が既にいて、それらを引っ張りながらフルアニメーションのように動く「ジャックと豆の木」をやってしばらく放浪に出てから10年くらいして戻ってきて、そしてあだち充さんの漫画の持つ空気感に何かを感じ取ってそれをアニメにしょうとすることで業界に復帰した話なんかは、人気漫画をアニメにして儲けるんだ的発想とはまるで違う、アニメの世界に生きる人間ならではの矜持とそして挑戦意欲って奴が伺えて、何でもアニメになってはガッカリも頻発しがちな今の漫画とアニメの関係に、一石を投じているという印象。さらに「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」をアニメ化するにあたって周囲で動いた日本ヘラルドの原正人プロデューサーや、色彩設計を担当した馬郡美保子さんや、ますむらひろしさんの持つ雰囲気をたどりつつ独特のあのキャラクターを作り上げた江口摩吏介さんといった、周囲の人たちが大勢登場して、作品への関わりと通して杉井さんの凄さって奴を示してくれている。

 今にして知る映画の秘密。そこで流れる大画面での「銀河鉄道の夜」の映像が、また素ばらしくって家でDVDで見ていては味わえない圧倒されるような感覚を、また味わえる日が来て欲しいとさえ思えて来る。「グスコーブドリの伝記」の公開に会わせて再上映されないかなあ。そんな「グスコーブドリの伝記」についても、手塚プロダクションに行って絵コンテを説明しながらブドリがただ他人のために自分を捨てようと思っただけじゃなく、芯となる思いがあって喪失感を引きずっていたブドリが最後に寄り添いたい気持を発露させて自分を捨てたんじゃないかっていった解釈なんかを示してた。ストーリーにも関わりそうな部分なだけにこれがどういう映像になり、展開になっているのか映画を観るのが凄く楽しみ。といってもドキュメンタリーは映画公開後の公開だから、先に「グスコーブドリの伝記」を見てからドキュメンタリーを見て、そうかあのシーンあの行為にはそういう意味があったのかと知るのも良いかも。


【5月27日】 Kaikaikikiギャラリーで開かれているオタクな萌え絵をアートにしちゃうぞ展覧会な「AKA:悪夢のどりかむ」展ではほかに前に同じ場所で展覧会を開いていたJINTEDって人の作品もあってメカな美少女がスタイリッシュな線でもって描かれたドローイングが壁1面に飾られていてどれもこれもが良い味。眼鏡のあれは男子なのかな的作品もあればメカ少女っぽいのもいたりして、いざ買うとなったらこれもあれもと目移りしちゃいそうだけれどもきっと1枚1枚がお高いんでしょう? な感じもしたので尋ねられず。ただこうして集合として見るとてんでばらばらなフォルムに1本、通っている筋みたいなものがあるようにも感じられてそれが多分、JINTHEDというアーティストの核になってアートな方面に突き刺さっているか、これから突き刺していくとしているんだろー。

 単体の1発絵でいうなら「BLACK★ROCKSHOOTER」を描いたhukeさんの方が世に広がったという意味も含めてインパクトがあったし初音ミクを描いたkeiさんの方が広く届きそうな気もするけれどもそうしたキャラクター絵として、キャラが描かれた入らすトレーションとして世に届くのとまた違う文法が、アートにあるのだとしたらそれを多数の絵を描き散らすことによって探り掴もうとしている、そんなプロセスに今のJINTHEDさんはあるのかも。最初っから何もなかったところに自分だけの世界を開いたMr.に比べるとイラスト的なものから抜ける努力、アート的なものに紛れる苦労といろいろ大変そう。そこで俺は俺だと行ったところでだからどうしたをそっぽを向かれちゃ意味がない。村上隆さんが選んだということ以上の要素を作品から、放つことでしか輝けないのだとしたら描くしかない、徹底的に。

 もうひとり、ひるきさんという人はポップにロリータな意匠の乱舞によって目にも楽しいビジュアルを見せてくれている。それぞれのキャラはアニメ的萌えキャラなんだけれどもその乱舞によって美少女イラストレーションとしては異質の賑やかさってやつをそこに現出させている。好きを好きなだけやってみました、って雰囲気はMr.に会場で1番近いかな。そしてNaBaBaさんが巨大美少女でやってたモチーフをポップの中に見せてる感じもあって対比してみると面白い。ただポップさに突っ走ったがためなのか見てデザインとして楽しくっても物語性ではNaBaBaさんに届かず、意匠としてMr.の孤高さに届いていないといった面もあるような。それもひとつの独自性だから気にすることはないんだけれども何かあと1つ、加えるものがあるとしたら何だろうなあ、サイズかなあ。徹底的に巨大なサイズを埋め尽くすおtか。うーん違うか。その辺はきっと村上隆さんが導いてくれるでしょう。そういう親切な人かは知らないけど。

 そうかミサカはミサカはな人でそれからヒデさんな人だったんだ赤の王。まだ若いなけれどベテランの風格でもって可愛らしい妹キャラが正体バレして一変、強気で激しい性格を露わにしてはお風呂に入っているハルユキを相手にバーストリンクを仕掛けてゲームの世界に入って巨大な要塞のようなデュエルアバターを顕現させては空を飛んで自在に攻撃してくるハルユキをまるで寄せ付けないまま死のその寸前まで追い込んでいった流れはなかなかの迫力で、ここまで力を入れて描いて果たして現場は保つのかって不安すら浮かんだけれども途中にそんなにバトルもない回もあったんで、ここで無限なミサイルを飛ばしてみせてもきっと現場には余裕があるんだろうと信じたい。でないとこれからますますハードになっていく戦いの中で見た目にも疲弊感が出かねないから。しかし羨ましいぞハルユキ。小学5年生だからってもうきっとそれなりだろうな赤の王に触れて。どんな感触だったのか教えろ。そしてもげろ。爆発しろ。

 気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉が大分トリニータに勝利してJ2のランキングで2位となって今んところ自力での昇格ができる圏内に入ってきた。一時アウェーで賛嘆たる結果を残してもはやこれまでと諦めたこともあったけれども季節もよくなって選手の動きも良くなったのか戦術が浸透してきたのか、点をとれてはとられない試合でもって相手を抑えて得失点差も稼げるようになったみたい。この勢いなら連敗さえしなければどうにか上位を保って終盤の昇格争いにつなげていけそう。理想はもっと早い段階で圧倒的な勝ち点差を付けて余裕で1位抜けすることなんだけれどもそれが出来るだけの戦力かというと今はまだ。藤田選手とかの活躍で点はとれているけれども誰がいつケガをして出られなくなるか分からないし。だいたいがかつてのどん底がいま上位にあるようにすぐにひっくり返される可能性だってあるってこと。我慢して焦らず精進して奢らない試合を続けて夏が終わるころにはそれなりな差をつけ首位を突っ走っていて欲しいもの。大丈夫かなあ。オーロイ選手はどーなった。

 だから最終日の予選は同日同時刻開催が原則だってことくらいスポーツの世界に生きている人たちだったら存分に知っているだろうはずなのに、バレーボールの女子のロンドン五輪出場を決める大会は最終日もやっぱり前の3試合をこなしてから最後の試合を行いそれで星勘定が決まって出場国も決定するという流れ。そこにはやるかやらないかは別にして星勘定を操作する動きが入りやすいしやらなくたってやったかもしれないという懐疑を招きかねない。李下に冠を正さずとも痛い腹を探られたくないともいった古来より伝わる言辞を尊ぶならやっぱりここは最終日は一斉に試合を行いどこがどうとか気にしないで星をとりあい結果をご覧じろとやって欲しかった。なおかつそうしなかった結果、最終戦でそうならなければ両方がいっしょに出られなくなるという状況で両方が見事にそうなる試合を演じてしまったからまた話が難しくなった。やっぱりか。いや違う偶然だ。でもやっぱりじゃない。そんなはずはない。とはいえやっぱり……。探ればいくらだて探れる状況をもしも恥じるおとなく実力と言うならそこは本番で上位に入り実力を見せてやるしかないんだけれど果たして。


【5月26日】 4度見ても言いたいことがいっぱいあってついつい後回しになってしまうこともあるくらいにいっぱいの情報にあふれたアニメーション映画「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」。あのダムに沈んだ村での生活が幻想でユウタとさえ子の脳内に繰り広げられた光景かもしれないという見方も出来そうだけれどそれだとユウタがケンゾーに渡した帽子がほたるミーティングの時にケンゾーの子供に渡っているという理由につながらない。だから多分過去は過去であったと理解しつつそんな輪から外れてしまっているおばあちゃん、というキャラクターの実在については案外に、まだまだ検討の余地があるのかもしれないと思っていたりする。

 ラストに近い、ユウタがせつ子の家のトラックに乗って離れるシーンでおばあちゃんの家を出るユウタにおばあちゃんは、お弁当を渡したあとでトラックの所に見送りに行くことはしない。一応は孫が帰るというその姿を間近で見ないのは子供たちの挨拶に年寄りが水を差すのは遠慮したいという気持からなのかもしれないし、杖をついている姿から足が悪くて遠出が出来ないからなのかもしれない。ただ、普通だったらそこで笑顔なり、泣き顔なりを見せて見送るだろう場面でおばあちゃんの顔は、門の陰にかくれて黒くなってよく見えないようになっている。

 それは表情を曖昧にして感情のたかぶりをもうちょっと後の、ユウタとケンゾーの別れに持って行きたかったからか。それともあの世界における中陰あるいは中有としてさまよえる魂に安寧を与える場所としてのの役割を果たすための、一種象徴的な存在だったのか。後者ならあそこでユウタを送り出して役目を終えて向こう側へと戻っていく、そんな彼岸と此岸の狭間に立っている姿を、あの顔が見えず書き割りのような姿でもって指し示そうとしたのか。正しいところは分からないけれども宇田剛之介監督のことだから、絶対にその顔を陰にしたことに意味を持たせてある。そんなところをムックとか出る予定があるなら誰か、尋ねてあげて欲しいなあ。DVDが出る時にまた話を聞いて記事にするってメディアが出てくれてもいいけれど。僕には今はそれができそうもないから。

 Mr.ひとり勝ち。あるいはMr.の凄さを改めて世間に見せつけるために他の若手を集めて並べてみせたという、そんな仕組まれた展覧会かもしれないと思ったKaikaikikiギャラリーでの展覧会「AKA:悪夢のどりかむ」展はなるほどpixiveとかで話題になっていたりする20代の若いクリエーターが並んで目にも素晴らしい作品を見せてはくれていた。たとえばおぐちさんという人の作品は、安倍吉俊さんばりに目が目立つ丸めの顔をした少女たちがちょい、不思議なアクセサリーやらガジェットやらを身に着けたり纏わせたり、背景に置かれたりした中で描かれている。

 アニメーション的なキャラクターを見慣れた目にもすっきりと来た上に、そうしたキャラが持つフォルムや雰囲気ってものを大きなサイズで筆によって描かれたタッチでもって見せてくれて、これはこうやって見て良いものだし、見ると素晴らしいものなんだなあといった思いを与えてくれる。キャラ絵でありながら肖像画。あるいはポートレート。そういうアートがあったらこうなるというお手本のような作品かもしれない。

 でも、それなら安倍吉俊さんが15年も先行してやっていたんじゃなかったっけ。同じ東京藝大でもって日本画を専攻していた安倍さんの描く作品は、リアルな街のどこか錆びて廃れた雰囲気の上に今時の、というか当時はとてつもなく先行していた「serial experiments lain」のような面立ちのキャラが乗っていて、アートの文脈とも、イラストレーションの文脈とも外れあるいはどちらにも重なる立ち位置の絵、って奴を見せてくれていた。それは最近の「ですぺら」とかになっても変わってないし、「リューシカ・リーシカ」でも同じような感じの絵をより先鋭化させて見せてくれる。一方で、ガジェットについていうならレトロでも未来的だったりするものが、「青の6号」とか「LAST EXILE」でキャラデザをやってる村田蓮爾さんからいっぱいいっぱい出てたし今も出ている。

 そうした先達をどうしても感じさせてしまうタッチの作品を、それでも推す理由がるとしたら、1991年生まれで今年21才だというとてつもない若さなのに、すでに技術は抜群といった才能と、イラストレーション的なドローイングで見せている少女とガジェットの奔放な組み合わせ、そのうねるような発展性が向かい行き着く先、ってものを見たくなる点か。ただそれは、アートといった土壌で評価されるものではないんだよなあ。安倍=村田ラインの文脈を知らない海外の人に見せて、「オー!」って言ってもらえてそれで良いのかどうなのか。実は意外と海外でも「lain」は知られていて、「Is this Abe?」ってなったらそれはそれで「lain」ファンとしては嬉しいけれど。ただおぐちさん、才能はバリあって絵もメチャ巧いんで、今から買って損なく推して悔いなし。小さい横長の1枚、お金があったら欲しかったけれども任せるわ、コレクターに。

 それからSTAGさんという人は、女の子が日常にあって暮らす日々をとらえ移して見せたイラストレーション的作品でこれもなかなかにキャッチィだけれど、元がレコードジャケットというスタート地点は、決まったサイズに対象をレイアウトするという制約の中で輝く技でその味は味として良いけれども描いたいものを描きたいように自在に走らせた筆、といった面とは少しぶつかる。それもアートだというならそうなんだろうけれど、今度は対象のまとまり具合、あるいはまとめようとする意識が、どうしてもその世界をかっちりとしたものに見せてしまう。巧い。ただしイラストレーションとして。映像で流れていた他の作品群なんかも、広角や魚眼でもって部屋とか空間をぐにゃりと曲げて、そこに対象をうまく配置する技が冴えてて表紙絵とか、イラストとかで使えばとってもひとめを引きそうだった。そうした才能をもふくめてアートなのか否か。迷うところだけれども今は、やっぱりイラストとしての才能が上回っているような気がする。

 NaBaBaさんは巨大な少女のまわりに小さい少女がいて、振りまわされたり蹴られたりする残酷で可愛い絵を見せてくれていたけれども、どこかにあった既視感が、会田誠さんに一時師事していたというNaBaBaさんのキャリアから晴らされてなるほど、そうした影響も受けつつ絵画としてのオリジナリティを探求している過程が、例えば旗を持って中空に浮かぶ少女の周囲を、男共が取り囲んでいるSF的ファンタジー的な絵になったりしているんだろうと思い至る。

 その単体としてのフォルムはとっても鮮やかだし、少女の姿も凛々しくて美しいけれど、1枚ぽんと出された時に何かを表現したイラストレーションか、あるいは自身にある物語の場面を描いたものかといった印象で、例えばポール・デルヴォーのような深遠さ、ドラクロワのような荘厳さといった、アート界隈でくっつけやすい文脈にはまだ載せづらいような感じ。佐藤道明さんや加藤直之さん、武部本一郎さんといったSFアートの先人たちに迫りつつ、新しさで超えつつも次元として差異を出せていないような気がした。幻想性ではディックの「ヴァリス」に表紙が使われた藤野一友さんがいるしなあ。

 そんな周辺に対してMr.さん。なんてさん付けすると妙なのでMr.と言ってしまうそのアーティストの作品は、何かを模倣するといったものではなく、というか模倣したくてもそれをできるだけのテクニックを持たない中、それでも描きたいという念でもっていったん脳内に取り入れた絵を、その動かない腕を通して描いていったといった作風。だから他に類例はなく、これからもおそらくは類例の出ない唯一にしして絶対の作品となっている。描き出されたビジュアルはといえばひたすらにポップ。そしてオタク。どちらから眺めてどちらとも言いづらく、かといってそうではないとも言えない狭間に、塊のような存在感を放っている。

 大昔のまだレシートに描いていた初期のMr.は、「アルプスの少女ハイジ」なんかに代表される小田部洋一さん的な絵に近寄ろうとしてあがき、けれども近づけない葛藤をそこにまだ感じさせていたところがあった。それもそれで悪くはなかったけれど、ことキャラ絵として巧くなった現在は、もはや何かの真似ではなく、過去作品へのリスペクトすら超越した独自性がキャラクターのに出ている。なお且つ、そうしたキャラクターたちの背後に煌めいているのは妄念のモチーフたち。そこにはひたすらな自在さがあって、美しい構図がとか、アート的位置づけがとかいった言説や思考を押さえ込む。無駄にさせる。

 それを前にすると、他の絵がいくら巧みでもメッセージ性があってもスタイリッシュでも美しくっても、すべて吹き飛ばされてしまうMr.の凄さが、他の作品と並ぶことによって際だつ展覧会だった「AKA:悪夢のどりかむ」展。村上隆さんがこの展覧会を企画した意図がそれだったということはないんだろうし、Mr.は愛弟子として入れつつ今のオタク的ポップカルチャー的なフォルムを例えばカオスラウンジ的に切り張りすることも拝借することもなく、生にストレートに出してもらってそれをそれだと持っていって、果たしてアートとしてどうなのかを海外とかに見て貰おうとしたものなんだろうけれど、結果的にMr.ひとり勝ちになってしまったのは、15年前に見出し育てた村上隆さんの目に、間違いはなかったって現れなのだろー、きっと。食糧ビルで開かれた、竹熊健太郎さんもトーマスの絵なんかを出してた727とかいう合同展の辺りから眺めて来たMr.だけど、こんな所まで来ていたか。そしていったい何処に行く。フランスのギャラリーと合同での画集も出ていて購入。眺めて思う。やっぱ凄いはMr.は。

 広尾から東京スカイツリーに行くにはどれが早いかいろいろ考えたけれども銀座で銀座線に乗り換え浅草で東武って線が早そうと思った割には体が動かず新日本橋で都営朝癖線に乗り換え押上までってのも気がついたら通り過ぎていたんで、そのまま日比谷線で銀座まで行き銀座線に乗り換えつつ込みそうな東武は避けて都営浅草線で押上まで行ったら出口とかそんなに混んではいなかった。割と導線考えられているみたい。でもって中はやっぱりぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうでどこの店も座れそうもないくらいに混雑していたけれど、ここん家は館内も外もベンチめいたものがいっぱいあって座って眺め滞留するのには割と良さそう。都会派な場所だとベンチすらなく買ったらそのまま居座れない辛さが割と感じられるだけにさすがは下町の観光名所、お年寄りや家族連れのことをよく考えているなあと感心。でもそれならやっぱりフードコートはもっと広くして欲しかった。あとお子様ランチは用意して欲しかった。あったっけ。


【5月25日】 そうだカブトムシを捕りに行こうと、午前6時に起きて大泉学園まで行ったけれどカブトムシはいなかった。陽が当たっていない木の斜めになった裏側を探そうとしたけれど、陽が照ってなかったし斜めになった木もなかったしその裏側にもぐりこめもしなかった。午前7時過ぎではやっぱりカブトムシも家でお寝んね。まだ暗いうちに懐中電灯で探すこくらいのことをしないと見つからないんだろうなあカブトムシ、ってどっちにしたって大泉学園では無理か。

 というわけでカブトムシ探しは諦めて、ほたる見物に目的を切り替え試写も含めて4度目となる「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」をTジョイの大泉学園で見る。なんでまたはるばる練馬まで、ってことになるけどそこはほら、本拠地の東映アニメーションが真横にある聖地で観たいじゃん。なるほど聖地だけあって虫かごとか原画とかが飾られたショーウインドーがあってそれから、プリクラじゃないけど撮った顔写真を「虹色ほたる」の場面と合成して出力してくれるマシンがあって資料を眺めたあとはそのプリント機で自分をパチリして遊ぶ。

 これで夕方だと近所から子どもたちがいっぱい集まっている中で、大のおっさんがひとりでプリクラってそりゃキモがられること確実で、出来そうもないけどそこは午前8時半からちょいの静かな館内、誰にはばかることもなくダムの村の子どもたちをバックに撮ったり大人になったサエ子とユウタがダム湖のほとりで寄り添う画像をバックに撮ったりして楽しむ、って後者はあんまり楽しくないなあ、リア充爆発しろ、でもサエ子は可愛いからユウタだけもげろ。もしも映画の熱烈なファンでいっしょにフレームに収まりたいと思いつつ女子高生のエグい視線に怯えてできない大人の男子は午前8時50分とかからのTジョイ大泉学園を見るついでに誰もないロビーでパチリすると良いと思うよ。

 映画は見返してやっぱりサエ子がとっても可愛いと分かった、って今さら言う話でもないか。シーンでいうならまずは初登場の場面でのちょい堅そうな表情がつぶらなヒトミと相まってなかなか。それから芳澤さんとケンゾーが前を歩く後ろでドギマギするユウタを「あやしーっ」ってからかう場所のちょい下がふくれた顔と声。さらにその後に気持を揺らがせて倒れて深い眠りについてから、目覚めて鏡台で髪をといてもらっている時のきょとんとした顔やにかっとした笑顔がもう可愛くって可愛くって、この顔を見るためならまた通いたくなるってくらいに可愛かった。そういう部分がある映画って強いよね。声を演じている子の演技力や声質もやっぱり最高だよなあ。そんな最高の結実があの空気感につながっているんだろー。

 エキサイトレビューでは宇田鋼之介監督のインタビューも出ていて気になっていた場面がやっぱりといった感じに理解できるようになってさらに見る楽しみも増した感じ。中陰あるいは中有をたゆたう感じの立場でいたサエ子がどちらにいくかの決断を迫られ傾いた兄への思いをユウタの強引な引っ張りが引き戻したっていう解釈はやっぱり正しかったみたい。そしてそうした彼岸と此岸の間にある場所があの燈籠が立ち並ぶ細い道で、そこを走り抜けながらサエ子は彼岸にいる兄にサヨナラを言って生きる決意を固める。

 だからこそのあの絵であり、あの動き。ただものではない雰囲気をあの絵によって感じさせられ、見る人はただごとではない何かが起こっていると、分からないまでも感じ取れる。だからきっと監督も、絵コンテとはまるで違ったリアルなあの絵にOKを出したんだろー。監督のアイディアだけでなく、多のクリエーターの考えも入る集団作業によって得られるこれが効果って奴なんだろうなあ。それは杉井ギサブロー監督も「銀河鉄道の夜」であったって言ってたっけ。技術が進みツールが発達してひとりでもアニメを作れる時代になったけれども、集団には集団の良さがある。それを杉井監督は感じてもらおうと「フミ子の告白」や「rain town」で注目されてた石田祐康さんを「ブドリ」の現場に引っ張ったのかな。そうした集団でのアニメ作りを経た石田さんが、次に作るものがちょっと楽しみ。

 映画館を出てそしてちょっと歩いて東映アニメーションギャラリーの「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」に関する原画や絵コンテの展示を見物。絵コンテはAパートの1枚くらいしか見られないんで他の場面がいったいどんな感じに描かれていて、それをアニメーターがどう自分なりに料理したのかまでは分からないのが少し残念。是非に絵コンテ集は出してほしいし単著が無理でもBDやDVDにくっつけるか、映像と同じシーンを互い違いに再生できるような仕組みなんかを入れてくれたら勉強にもなるので是非に。そういうことって可能だったっけ、ジブリアニメでやってたっけ。

 展示してある原画はユウタもサエ子もケンゾーもぴたっとま止まったシーンしかなくって、崩れながらも動きまとまって見せるシーンはなかった。それも見たい見たいみたーいーっ。サエ子みたい。あの青天狗の前でぐにゃぐにゃとなるユウタの原画が見てみたい。そんな原画はありません、あれはモーフィングで作りましたってんならちょっと笑う。というわけで面白かった4度目の観賞。また行きたいけれど次はどこで見ようかな。最終日に浴衣を着て背に内輪を挟んで手にほたるの入った虫かごを持って行きたいな。映画館で光ったら迷惑か。やっぱりほたるはやめておこう。

 まずいうならそれは不正受給ではなく、当該の役所が必要だと認めて行っていた支給であって、誰はばかることなくもらって悪いはずがない。たとえ子供がそれなりに稼いでいるとはいっても、子は子であり親は親、それぞれに事情もあって金銭的な行き来が難しいというのならばやはり親は親として独立した生計をたてなうてはならずそしてそれが不可能だと判断されたからこそ支給が行われていたと、順当に見るのがここは真っ当だと思うんだけれども、世間の好奇は半ば猟奇と化して真っ当さの粗を探して誇張し騒ぎ立てては悪だと叩き誹って潰そうとする。

 むしろもっと向かうべき先はあってそれは権力や暴力を背後になにがしかの恩恵を受けている勢力だったりするんだけれども、権力や暴力が背後にあるが故にそうした方向へと矛先は向けづらい。畢竟、まろび出た誹りやすい対象へと目を向け言葉を放って痛めつけようとする。何かどうにもやりきれない。なればこそより強大な権力が、正義を遂行するべく働けば良い物を何を勘違いしたのか権力は、舌鋒と結託するかのごとくにどうでもいい案件に口を向けては何か正義を遂行したかのごとくに振る舞ってみせる。

 すでに明らかになっている一件で、それが不正でもなければ不当でもなく、道義なんてものにはなるほどひっかるかもしれないと言われているけれど、立法府に群れる人間が法律によって規定できない道義だなんて情動を口にし始めた時に何が起こるのかもわきまえないで、世間の妙な空気のそれを順風だととらえて乗ろうとみせたのが昨今のこの喧騒。挙げ句に何か正義を貫いたかの如くに堂々していたりするその姿に浮かぶ言葉は下策の一言。けど当人たちにはそれがまるで伝わっていないところに、政治と政治家の根腐れ具合立ち枯れ具合も見て取れる。

 政治が本来やるべきは、不正とはされない案件をほじくり返して道義的にどうとか言って叩くことではない。より喫緊に必要としている人たちに行き渡っていないことを問題にして急ぎ支給されるように働きかけることだろう。もらっている人たちはしばらくは大丈夫だけれど、もらえていない人は明日にも大変な事態に陥るかも知れない。ことの重大性を認識するなら多の選挙区の有権者のことなんか後回しにして自らを選んでくれた地域へと赴き、そこに暮らす人たちが必要なお金をもらえず苦労し喘いでいるのをどうにかすべき、だろー。

 一方で本当に必要なのかどうかも考え治してみて正しく制度が運用されているのかを自らの目で確かめるべき。でもどうもそうしたという話は聞かず、話題性のある案件にのっかり正義を貫いたような言説を散らして自らの正当性を世に喧伝することに、必死になっているように見える。あるいは本当に必死になっているのか。けど世間もそうした態度の醜さを当に見透かしている。安全牌に乗って騒ぎ立てているだけではないかと喝破している。というか頭の良い人たちなんだからそれがいわゆる不正受給といった類とは種類が違って、家族の問題なんだといった認識を持って手を引くべきなのに、狭い領域で盛り上がっているライティー的なアピールが世の主流だと勘違いしてそれに乗ろうとして騒ぎ立て、かえって醜態をさらしている。

 もしかしたら何か別に思惑でもあるのかもしれないし、長引く野党暮らしにここでアピールをしておかないと乗り遅れるといった焦りもあっての相乗りだったのかもしれないけれどもそれでもやっぱり見誤った間違った。もう誰もあの2人の議員の正義を信じない。愛を認めない。強きをくじいているようで傍目に勝てると見なされる戦いにしか手を伸ばさない下衆共だといった認識にまみれて、暮らしていくことになるんだろうし、なって欲しいけれどもメディアは、とりわけオールドなテレビや新聞は本当の世間の空気にそわず、政治家たちと同様の狭い空気を順風を見てそれに乗ろうとする節があるからなあ。お先まっくら。


【5月24日】 これがピンクとか花柄とか水玉だったら多分見向きもしなかったけれども、白というのがとってもポイント高くってそんな水着のビキニをまとって海岸で総勢36人の選抜メンバーが踊りくねる「真夏のSounds good!」のPVが見たくって見たくってついつい買ってしまったAKB48のニューシングル。いわゆる総選挙への投票権が封入されているってこともあって出荷が200万枚で初日の販売も100万枚突破といったとてつもない数字が出てきていたけど、そうでなくてもあのPVの衝撃は軽く前作を上回るだけの吸引力を持っていたんじゃなかろーか。だって水着だもんビキニだもん白だもん。それ以上どんな説明が必要だ。

 っていうかそんな36人の白いビキニの水着をまとった少女たち(一部それなりな年齢)が、砂浜で群舞している姿を監督の樋口真嗣さんはじっとじっとりと見つめていた訳で、同じ年齢であるにも関わらずそうした立場になっていたりするという事実にどうにも羨望とそして嫉妬が浮かんで浮かびまくって仕方がない。あの時僕が「DAICONフィルム」に関わっていたら、なんてことは東京でも大阪でもない田舎の人間には無理な話だし、そうでなくたって人生の早い段階で映像に向かい才能を発揮していれば得られたかもしれない仕事。努力しなかった自分を嘆くより他にないんだけれでもそれでもやっぱり浮かぶ羨望、唱えたくなる「もげろ」の呪詛。いったいどんな迫力だったなろうなあ。飛び散る汗から漂う匂いはかぐわしかったのかそれとも普通に汗くさかったのか。汗くさくたって良いよねAKB48なんだから。

 せっかくだからと入っていた投票権から映画「ウルトラマンサーガ」で大活躍していながらも中間発表の順位が妙に低すぎる秋元才加さんの1票をと思いやりかたを調べたら何だ携帯電話からQRコードでアクセスしないとダメだった。PHSユーザーにはまるで無関係かと思ったもののそこはそれ、スマートフォンからなら出来るとあったんで携帯でぼんやりとしたものながらもQRコードの写真をとってメールに添付しまだカメラがついていない時代の初代iPadへと送り込み、ダウンロードしたばかりのQRコード読みとりソフトを起動させてバーコードを取り込んだら何とあれだけうすぼんやりとした画像なのにしっかり素速く読みとって、投票のサイトへと案内してくれた。優秀だなあ。

 それはアプリが凄いのか処理できるiPadのCPUが凄いのか。いずれにしてもこれまで壁だったQRコードからの投票に目処が立ったんでほかにも似たケースがあったら試してみよう。しかし僕の1票じゃあ焼け石に水分子だよなあ、それくらいにデカくなり過ぎてしまったよ総選挙。100枚1000枚じゃ微動だにしないそのシステム、その規模に果たして昔の僕がどうにかしたい系のファンがついてきてくれているのか。だったら1万枚だって行くぞとなるのか違うのか。確実に変化しているビジネス規模にビジネスモデルの波をとらえて次に打ってくるだろう手も考えながらみていくとこれでAKB48、面白いかもしれないなあ。次はトラ縞のビキニで踊ってくれたら嬉しいなあ。

 これは大きい。「アンダンテモッツァレラチーズ」や「船に乗れ!」や「恋するたなだくん」や「二都」といった幅広く楽しかったり深淵だったりする作品を世に送り出し続けている作家の藤谷治さんがあの「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」を見て大激賞。「これまで見たアニメのベスト3には入る。思い出しただけで涙が出る」だなんてもうこれは最高級の誉め言葉。「ラストだけは疑問だがそれで全体の値打ちは下がらない」というラストが絵柄なのかそれとも時代を替えての奇跡なのかはわからないけれど、それを含めてもベスト級って言うんだからこれは本気。「船に乗れ!」とかで結構ファンも増えた藤谷さんの推薦はきっと大きな後押しとなって劇場へと人の足を向けさせてくれるだろう、と思いたいけどさてはて。

 うんこれなら大丈夫じゃないかな次元大介。はじまったとうしょはどこかやっぱり歳が出てしまっていた感じだったけれども今回は最初っからもごもごとせず切れ味も悪くない上に味も乗っかった次元大介を小林清志さん、ちゃんと演じてくれていた「LUPIN the Third 峰不二子という女」。なおかつルパン三世の方も栗田寛一さんが野卑てニヒルでクールでもあってそして快男児といった空気を実に完璧にだしていて、これなら次元というタフガイを相棒みたいな立場においても軽く浮かず重く沈まない絶妙な間柄を見せられる。っていうかこれからずっと2人で組んでいくのかな。さて不二子の方はといえばエンディングに出てくる少女の時代がやっと本編でぐりっと関わってきそう。それがどういう展開なのか、虐待めいたものへの反動なのかは分からないけれども夜ならではの楽しみと、そして凄みって奴を存分に味わわせてもらえそう。これは楽しみだ。本当に楽しみだ。

 はいずり回って辛酸をなめて来た地べたからすっくと立ち、えいやっと飛び上がって周囲に見せつける爽快感と痛快さに泣いた「脱兎リベンジ」(ガガガ文庫)で大勢に夢と希望と勇気を与えた秀章さんが、ほとんど1年ぶりに書いた新作は、ゲームもダメなら漫画もダメで男女交際もたぶんもってのほかっぽい、規則ですべてが雁字搦めにされた学園で、表現の自由を求めて突っ走る少年少女の物語という「空知らぬ虹の解放区」(ガガガ文庫)。読めば鬱屈を抑え扇情を排除するよりも、昂揚を昇華させ解き放つ大切さを誰もが知るだろう。男同士でもつれあう本が出てきたことと、少女のような少年が裸で男たちに蹂躙されていた事件を絡め考えようとした真面目な風棋院の少年が、BLを教わりそれを読んでいるのが男ではあり得ないと知り、そういった本を読んだことが扇情的な行為へと結びつくことを否定されている展開はまさに昨今の表現規制への風刺的見解。そこから生まれてくる解放と自由がもたらす歓喜はいったいどんな様子になるのか。続きを待ちたい。


【5月23日】 表紙がフェイクだとかいった評判ばかりが先行しているけれども、漫F画太郎さんの「罪と罰」、最新号の「@バンチ」に連載されている回を読んだら、もうどうにも泣けて泣けて仕方がないくらいに震えるエピソードで、これをただフェイクで釣るだけの話と思い敬遠しては勿体ないと意を改める。今回の連載はすっぽんぽんの女の子たちがずらり居並ぶ向こうで、巨大なペニスをおったてた爺さんが手にカマを持って襲ってくるというシチュエーション。恐怖にすくんだ女の子たちはすっぽんぽんでつるつるな股間からジャーと小便を地面に叩きつけるように漏らしまくる。

 そういった文字だけ読むといったいどんなエロティックでグロテスクな作品なんだと思うけれども、絵はあの漫☆画太郎さんと同様に巧さの対局にある絵。コピペを多様したかのように動きも表情も画一だったりするんだけれど、そんな絵だからこそエロスを抱く以上に浮かぶ状況への恐怖心が浮かんで心に突き刺さる。それは強大な暴威に立ち向かう人間の弱さであり、理不尽な暴力に蹂躙される人間の悲しさ。迫る津波を目にした人たちはそんな恐怖にとらわれたんだろうか、なんて思いも浮かんでそれが我が身に迫った可能性に思いを至らせて、ブルブルと心に震えを覚える。

 ひとり手に槍を持って立ち向かうものの爺さんによるカマの一閃で両腕が断たれ、さらなる一閃で首と胴体が断たれて少女は地面に転がる。おさえきれない恐怖を勇気にかえたところで理不尽なまでに強大な暴威に人間なんて何の反撃も加えられない。ただひたすらに浮かぶ無力感の中で、もはやこれまでと誰もが思っていた時、すでに首を断たれたエビ子先輩が「逃げろーッ!!」と叫ぶその言葉が、闇に差す光明となってすくんでいた足を動かす。犠牲になっても我が身を擲ってもふるわれた勇気に感謝。とはいえとんずらと決め込んだところで暴威は収まらず、そこからは逃げ切れそうもないという恐怖に、改めて襲われていったんの幕。そこまでの展開を繰り返し読みながら、いつ訪れるかもしれない理不尽な死への恐怖を噛みしめ、誰かを襲った理不尽な死への哀しみを思う。たったの数ページでそれだけのことを考えさせる深い漫画だった「罪と罰」。通して読むとどんな思いが浮かぶのか。買いそろえよう。

 実は良く知らないイ・ブルという人の展覧会があと少しで終わるってんで、六本木ヒルズに来たついでに森美術館で見物。ちらりと横を見ると「ONE PIECE展」にはなかなかの行列でチケットが売り切れにはなってなくてもやっぱり入るこの人気ぶりに今を代表する漫画だって現れを見る。強いよなあ。んでもって「イ・ブル展」は不思議なフォルムのオブジェというか彫刻を主体とした展示。最初の部屋にあったぐにょぐにょっと増殖していくぬいぐるみめいたオブジェは草間彌生さんっぽかったけれどもその後に出てきた女性型のサイボーグの手足が一部欠けたフォルムの彫刻はなかなかにオリジナル。どこかギリシアの甲冑を思わせつつ未来のアーマーを想起もさせるフォルムをそのまま欠損させずにキャラクターにしたら日本にはないデザインセンスで面白いものが出来るかも。ちょい前に読んだ「ミスマルカ興国物語」に出てきた女性ドロイドにも何か似てる。

 作ったのが女性アーティストってのも興味のあるところで何を求めてどういう発想からこうしたものが生まれたのか。最初のぐちょぐちょっとしたのは心の奥底にあるぬちょっとしたもんを作っていけばこうなる的なものだったけれどもサイボーグというのは超克への憧れであってそれが欠損しているというのは行き過ぎへの警戒心? 韓国っていう日本とはまた違った男社会にあって女性アーティストが思うことがあるいは現れているのか違うのか。こういうのに詳しい小谷真理さんに聞いてみたいところ。そういえばミュージアムショップにはそんな小谷さんの本が何冊か置いてあった。あと「未来のイヴ」とか。キュレーションした人にもいろいろと思うところがあったんだろうなあ。重くて高くて買えなかったカタログをいつか買って読み込めばそのあたりの意図も掴めるか。

 犬みたいなのとか動物みたいなのとかいったフォルムを持ちながらも細かいパーツで組み立てられた作品なんかもあったり増殖していくような街みたいなオブジェもあったりと多彩な活動。これに匹敵する日本のアーティストっていうと草間さんは当然としてあるいは鴻池朋子さんかなあ、動物が増殖して分裂していくようなドローイングとか何か重なるものがあったし。ただ規模としてここまでスペクタクルにいろいろと見せてくれるアーティストとなるとうーん、見渡してどうだどれだけいるか。森万里子さんか。あるいは福田美蘭さんか。でもイ・ブルさんに何か抜かれているっぽい気も。ミニマルに表現はできてもトータルに何かを作り続けられる環境に日本ってないからなあ。そこがどうにも悔しいというか。どうしたものであるか。

 サンツアースタッキーを筆頭にサイクロン、グランテック、シュパーブとサンツアー勢が並んでそれからカンパニョーロにユーレーにサンプレックスと来るリアディレーラーのコーナーから始まるセレクトぶりに、僕は白鳥和也さんの「自転車部品の美学」という本にとてつもない美学を感じてこの本を買った。この気持が分かる人ってやぱり1970年代に自転車に強く関心を持った人だろーな。今だとリアディレーラーったらカンパは当然として続くのがシマノなんだろーけどこの本だとシマノで取り上げられているのってコーナー末尾にクレーンが来てそしてXTR。いわゆる看板のデュラエースが入ってない、っていうかこの本だとジュラエースで一環されてる。かろうじて入るのはフロントディレーラーであとはなぜかラージフランジハブとかシフトレバーと来たもんだ。何かシマノに怨みがあるって訳じゃないけどあの時代、サンツアーってのが相当な地位を持ちそして魅力も放っていた裏付けだとも言えそう。あとサイドプルブレーキが1つも紹介されていないのはやっぱり謎。ロードよりランドナー派だったってことなのかな。

 ほかにもスーチャンことスーパーチャンピオンのリムがありプロダイことスギノのプロダイナミックスのクランクがありブルプロことブルックスのプロフェッショナル大銅鋲のサドルがあってと隠語で呼ばれる製品がずらり。「サイクルスポーツ」なんかを読んだりしてそこでの記事とか読んでいるうちに馴染むこうしたニックネームが格好良さとともに頭にしみいり憧れとなってそして品物への愛着を生む。雑誌ってものが持ってた力の底知れ無さって奴を改めて感じさせられるなあ。もちろん製品も良かったんだけど。ソービッツのダイナモに本所の亀甲マッドガード。ああ懐かしい。そんなのを組み上げたランドナーに乗りたいなあと思い続けて35年以上。結局今も乗れてない。いつか手に入れたいものだけれどもはや無理かもしれないなあ。しかしマファックのギドネットレバーが入ってないのはギドネット派として少し不満。あれは名器だったなあ、自転車ごとどっかいっちゃったけど。残念。


【5月22日】 だいたいが初日に東京スカイツリーに上れる権利が当選したってだけで、生きているうちに得られる運のほとんどと使い果たしている訳だから、上った先で見えるのが風景ではなく雲だけっていうのも、運の総量から考えてあるいは仕方がなかったりするのかも。でも上がった人にはちょっと残念。雲が見られただけでも貴重? その日のその雲はその瞬間にしか見えない訳だし、そう思えば気持も和んで……はやっぱり来ないか。そういやスカイツリーが東京タワーの高さを抜いた日も、雨で雲っていて東京タワーから見ていたスカイツリーはあんまりよく見えなかったっけ。きっとそういう運命でそういう不運でもって全体の幸運を保っていると思えばこれで、スカイツリーの将来にも希望が持てるかも。俗に浅草十二階と呼ばれた凌雲閣の二の舞にならないとか、ゴジラやモスラに狙われないとかいった面から。

 という訳でスカイツリーの開業を、展望台に上りはしないで下から見物。というかそこにスタジオが出来てそこからFM局のJ−WAVEとAM局のニッポン放送という普段だったら水と油なラジオ放送局が、コラボレーションして番組を流すとかってで、そういう珍しいイベントを見に行く仕事でけつけたんだけれど、あいにくの雨なんでそんなに人が取り囲んでいる風もなし。スペイン坂と違って有名人がDJやってる訳じゃないから仕方がないとはいえ、それでもそれないに人が集まったのは開業当日で人がいっぱいいたからか。普段はどんな感じになるんだろう。

 そんなスタジオから話すはニッポン放送が垣花正アナウンサーで、本人は声が割と低めなんで自分はFMに向いているかもと言われてなかなかのご様子。一方のJ−WAVEから登場したミスターDJは、割と軽めに喋るからAM局向けとった感じだったけれども、曲紹介の時に読み上げる曲の英語のタイトルが実に流ちょうなところは、さすがにAM曲のアナウンサーでは真似られない、というか真似しちゃいけない、だって聞いている人分からないから。そんな辺りのカルチャーギャップをものともしないで行われたコラボレーションが、ラジオの歴史において果たしてどういう意味を持つのか、そしてこれからの世の中にどういった影響をもたらすのか。震災を経て情報を素速く遍く伝えられるラジオっていう存在が今一度、認められている世の中だけあってちょっと観察してみたいところ。

 まあこういったコラボが実現するのは、ラジオが毎日お祭りをやっているようなメディアだからで、これがテレビだったら番組もかっちりと決まって、それぞれにスポンサーがついて放送枠も固まった中でドラマにバラエティーに報道にその他諸々を順繰りに提供していくという、とってもコンサバティブな対応を求められる。時間延長だって大変なのに多の局と相互乗り入れだなんて、よほどじゃなければあり得ない。地デジのスタートだって各局バラバラに番組やってたもんなあ。けどラジオだったら臨機応変にその場の空気をその時に伝えることの延長で、こうした乗り入れも割と楽にやってのけそう。もちろん枠とかスポンサーって問題はテレビと同様にあるんだけれど、その瞬間を伝え続けるメディアっていう特性が、相乗りという形で同じ瞬間を共有できることに、繋がっているんじゃなかろーか。

 そんな放送を見つつしっかりと歩いた東京ソラマチの中は、まあ普通にショッピングモールな訳だけれどもその充実ぶりが東東京ではナンバーワンに近いんで、これからもちょくちょくのぞこう、メディコムトイとかあるし帽子屋も2軒入っているし。4階だっけ日本のお土産めいたものが売られているフロアには、喫茶店の店頭なんかにある食品サンプルを置いてある店もあって、小さいお土産用になったサンプルなんかが並んでた。歩きながら見たんで値段も詳細も不明だけれども出来は完璧。外国の人が見て驚くその出来を、手軽に持ち歩けるとなったら、これはやっぱり買うだろうなあ。あとはだからそういうのを欲しがる外国の人がスカイツリーまで来るかっていか、だけれどそういうのってどうなんだろ、東京タワーのノスタルジックな雰囲気だったら憧れても、今まさに出来たばかりのスカイツリーまで赴くか否か。浅草見物のついでって割には歩くとまああるし。

 まあそこはツアーめいたものが組まれているうちは大丈夫だろうし、巡回バスも走っているみたいだから評判になればわざわざ足を運ぶかな、稲荷町に行ったところで買える店が有るわけでもないし。人によっては下町めいた場所にああいった近代的な巨大建築物をぶったてるのは東京の衰退につながるって憤っているけれども、そういっているフランスの人からして過去にエッフェル塔をぶったてて、モーパッサンから醜いそんな建築物を見たくないからエッフェル塔の下に行くんだと言われたくらい。そして100年が経った今ではエッフェル塔なくしてはパリじゃないって思われているくらいになっている。凱旋門だってまあそんな感じ。1972年にモンパルナス・タワーとやらが出来た時も、同じようなことが言われたみたいだし、何をどうしたって言う人は言うだけのこと。それを経て歴史は作られ景観は作られていくんだっていう、諸行無常の現れに過ぎないこの事象を、大袈裟に悪し様に言うこともないんじゃないのかなあ。

 だいたいが東京の下町ったって別に江戸自体がそこに残っている訳じゃないし、明治時代ですらない。昭和の戦後ですらすでに残っていなさそうな町にひとつ、シンボルが立つことによって周辺が活況を取り戻すことの方が東京っていう町にとって大きな意味があるんじゃなかろーか。どちらかといえば西に文化が偏り、南に商業が偏っている構造の中にぶちこんでみた新しいランドマークは、伝統の偏りだけではどうしようもなくなっていた東に新しい活力を与える。浅草があって上野があって蔵前があって両国があって日本橋もあったりするその中に立つ新たな象徴が、周辺にあって伝統の垢にまみれた各地を潰すんじゃなく盛り上げる方向で働く。そう思った方が楽しいし夢も抱ける。

 そうならない、乱開発から衰退へと至る道も考えない訳じゃないけれど、そういう時代は20年前にすでに通り過ぎて、もう嫌だって思っているから再来はないと見たい。あとは10年20年、そして30年50年をどう形作っていくのか。あれだけ盛り上がった東京タワーだって、30年後には陳腐化して蝋人形だ妙な展覧会だのが開かれては、東京都民の苦笑なんかを買っていた。そうした栄枯盛衰の中で東京スカイツリーは常にホットなスポットで在り続けられるのか。見ていきたい。東京方面にいられればだけど。

 まあいくら格好良くても、あるいは醜くっても見えなければまるで意味がないっていうか、そんなスカイツリーをバックに大勢が最初は合唱する予定だったのが、ギネスにはすでに記録があるんでそれを抜けないんで輪唱の方で挑戦ということになったイベントを見に隅田川まで行ったんだけれど、降りしきる雨はともかく立ちこめる雲で川の向こうのスカイツリーがまるで見えず。下だけならうっすら見えても上の展望台とかは見えないってことは向こうも見えるのは雲だけかい、そりゃ残念って感じで、そうした象徴が見えない場所でイベントやっても意味あるの、そもそも雨だしって気持も萎えそうなところをさすがは稀代のエンターテイナー、石井竜也さんがスタートの何十分も前からステージに上がって集まった大勢の人たちに語りかけ、歌をレッスンしていた姿にちょっと感銘を受けた。

 屋根が在る場所だったとはいっても寒さは他と変わりなし。それなのに休憩の時間があっても集まっている人が雨に濡れているならと、自分も引っ込まないでステージ上から鼓舞し続けたその優しさその情熱その場を盛り上げようとするスピリッツこそが、石井竜也さんをして長くあの世界でトップランナーとして走らせ続けている原動力なのかも。残念ながら輪唱でもギネスを抜くだけの人数は集まらなかったけれど、それでも500人以上がやって来たのはそうした石井さんの呼びかけも奏功したからなのか。大勢が歌い出す瞬間ってのはぞくっとするねえ、という石井さんの言葉もやっぱり歌が好きなんだって思わせた。良い人だ。そして相変わらず良い男。衰えないなあ。これからも衰えないんだろうなあ。


【5月21日】 そうかオデット二世号に積まれた何やらを、詐欺師と海賊ギルドと弁天丸とが奪ったり奪われたりする大長編はアニメーション版では描かれないのか「モーレツ宇宙海賊」は、ヨット部員たちがディンギーによるレースに出たいと言いだしたことからやって来ました鬼コーチ。やっぱりってことでコーチといったらな「うるるるるるぅるらぁぁあ」ってな感じの喋りを見せようとしていたみたいだけれど、ケイン・マクドゥガルにはまだ荷が重たかったようでただのヤンキー系巻き舌にすらやや届かない怒鳴り声になってしまってちょっと残念、だけれどあんまり真似しすぎても聞きづらいだけなんてここは大昔に存在した人気アニメの鬼コーチへのリスペクトが年代を経てややおとなしめになったと判断して、それでも精いっぱいに頑張ったケインに拍手を贈ろう。

   オリジナル展開になってどうやらしばらくは白鳳女学院がかつてやらかしたあれやこれやが5年ぶりとかに現れて、ヨットレースの主催者たちを驚かせつつ脅かせつつそれが今のヨット部員たちと絡んだりしてあれやこれやって展開をみせてくれそう。原作にないだけにまるで想像もつかないけれども梨理香が見下ろしたそこにいるフードを被った謎の男とか原作にないキャラまで出てきているんでそれがうまくストーリーにかみ合えば、世界観が広がって面白い世界をみせてくれそう。原作とまるで違ってしまうとあの大長編が成立しない可能性もあるからそのあたり、2クールやったんで2期はないものとみなして思いっきり想像力を爆発させていく方を選ぶのかな。茉莉香の成長が描かれてきた話から茉莉香が脇に追いやられてしまう話になるのは残念だけれど。さてはて。とりあえず自転車に立ち乗りして走る茉莉香の後ろをついて走りたい。

 朝だ朝になったので起き出してとりあえず外に出て、日食メガネを取りだし見たらちょっぴり縁が欠けていた。そのまま京成電車に乗って押上まで行きスカイツリーの下にいくとなるほどやっぱり世紀のイベントを世紀の建物といっしょに見たいって人たちが、ずらりずらりと川沿いにいて日食メガネを目に当て上を見上げてた。考えることはいっしょだなあ。3年食らい前に来た時はまだ工事中で入れなかった場所が綺麗に整備され、川も護岸がしっかり整備されてそこに降りて眺めている人たちも。なかなかに優雅。あの押上がこんなに綺麗な街になるんだったらまだ計画も始まった頃合いにマンションとか買っておけば良かったかもしれないなあ。建物1つでこうまで街が変わるとは。誘致しそこなった自治体は辛いかな、でもやっぱり押上とかから近いからこそのこの賑わいって奴だからさいたま新都心では辛いかな。などと。

 そして程なくして中心に月が来る金環日食状態に。雲がかかってはいてもやっぱり直接は見られない明るさで、月に隠れているとはいってもそれは地上からの見た目に過ぎず本当は巨大な太陽からとてつもない光が地球に真っ直ぐに降り注いでいる、そこのほんのごくごくわずかな影が出来た程度で世界は暗くも冷たくもならないのだった。太陽の偉大さを学んだよ。そして程なくして中心から外れて輪を切りそのまま月の満ち欠けみたいな感じへと移行。これでだいたい終わって次に見られるとしたら11月にオーストラリアのケアンズがあるけどさすがに行けないし朝なんで見られない可能性も多そうだし。2030ねの北海道での金環日食か2035年の能登から茨城あたりにかけての皆既日食を楽しみにして日食メガネをしまっておこう。その前に6月6日の金星の太陽面通過を見なくっちゃ。何時からだったっけ。

 ああよかった激情アニメーション映画になった「マジック・ツリーハウス」はちゃんとブルーレイディスクもDVDといっしょに発売になってくれるんだった。世界で人気の絵本を日本のクリエーターが映画にした作品で声を芦田愛菜さんがやっててこれがもう無茶苦茶に巧くって、ただ単に子役として人気なあけじゃないって理由が分かったりもしたし一緒に出ていた北川景子さんも、やっぱり巧くってそんな声を聞きに行くだけでも十分な上、妹思いで自分が上だと思っている兄だけれども意気揚々だったのが壁にぶつかり悩んだところを妹に行かれ、ちょっぴり嫌々ながらも腰を上げつつ最後はやっぱり兄らしさを見せて活躍したりといった感じに、子供ならではの感情の揺れもしっかり表現されていて見ていてなるほどと納得が出来た。

 興行が果たしてどれくらいいくのかなってジブリじゃないアニメの軒並み苦戦している様から心配したけどどうにか5億円には達したみたいでまあ成功した部類? これにDVDとかがいっぱい売れればさらに儲けも重なるんだけれどそれにはDVDの3990円はちょっと高いかな、1980円とかにすれば子ども向けには良いんだけれどそれだとやっぱり大変だから仕方がない。だから初回限定版は、とくに生フィルムがつくとかじゃないけれどもスペシャルブックレットとかが入り、映像得点として設定資料集とかスケッチ集とか予告編集なんかも入るそうで、おそらくはムックなんか出ないだろうから作画系ファンの人はここで拾っておくしかなさそう。ジャックとアニーの着せ替えシールセットってのもはいているそうだけれどそれってアニーは着せ替え前はもしかしてって期待して良い? そいういうアニメじゃありません。発売は8月3日でBDが4935円。期待して待とう。

 気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉はJ2で3位くらいまで上がっていて1位との勝ち点差も1試合分の3でうまくすればそのまま突っ走れるけど東京ヴェルディと湘南ベルマーレがほぼ同じあたりにあるだけに、いつものアウェイで勝てない病が出て連敗とか喫したらすぐに下降線をたどりそう。まだまだ安心は出来そうももない。とはいえここんとこ割と爆勝ちも増えているみたいなんであるいは新監督による選手の見定めも終わってうまい位置にうまく選手をあてはめられるようになったのかも。とはいえ決して突出した選手がいる訳じゃないんでこのまま上に上がってさてまた落ちないですむかっていうと。札幌とかエレベーターになっちゃってるもんなあ。そんなJ1では新潟が黒崎監督を解任。ガンバが代わり神戸も代わってめまぐるしいけど神戸は持ち上がりつつあるところに西野さんだから踏みとどまりそう。ガンバは1試合少ないから下なのかそれとも。いずれにしたって板子一枚下は地獄のJ2暮らし。まずはJ1に上がる。話はそれからだ。

 3度見てその度にグッと来るピークが少しづつ違う劇場アニメーション映画の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」。3度目はユーミンが作った「水の影」が流れて来て、ユウタがさえ子の手を引き燈籠の並ぶ道を駆け抜ける場面がピークになった。なるほどとてつもなく絵が凄いってことで話題にもなっているけれど、そこはさえ子にとっては中陰ともいえる場所だったダムに沈む村から、最愛の兄がいる場所へと向かおうとしていた気持をユウタが懸命に引き戻すというシーンは、現代でも過去でもない時空の狭間、あるいは生と死の間を駆け抜けるという真摯な意味合いを持っていて、だからこそああいった絵が生きてくるんじゃないかと気がついた.

 そしてそこから浮かぶのは「生きてさえいれば」という思いと願い。それらがギュッと凝縮されたように感じたからこそ、見ていて心にじんわりと来るものがあったのかもしれない。迎えに来たのかそれとも見送りに来たのか、道の脇に立つ兄を見つけながらもユウタの手を離さないまま、兄の通り過ぎ生きると決めたさえ子の思い。行っちゃだめだと訴えまた会おうと約束をしてさえ子を中陰から引き戻そうとしたユウタの願い。それらが通じ合い時空を戻して結ばれるラストシーンに、今再びの歓喜が湧いて泣かされる。凄いアニメーションだったなあ。でも次に見るとまた違う場面で泣くんだろうなあ。それとは別にさえ子がユウタを見上げて「あーやしーぃ」とニヤつくシーンでのさえ子の表情が本当に可愛かった。あと町の花火が輝くと岩だなから見ているユウタや芳澤さん、ケンゾーの体の縁がチラと光るように見える作画が地味だけど凄かった。見れば見るほど発見がある「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」。あと2回は見たいな。次は練馬のTジョイへと行くか、東映アニメーションの本拠地だし。


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