縮刷版2012年4月下旬号


【4月30日】 まあ未来だし宇宙だし人間どうしの関係が大きく変わってたって不思議はないんだけれども、やっぱりどうにも前部長と現部長の会うなりキス、そしてまたキスってのは世間様に刺激がちょっと強いよなあ。という「モーレツ宇宙海賊」。相変わらずクルーは隔離されたまんまで、サイボーグなのにやぱりそんなに隔離されなきゃいけないんだとか約1人についても思ったのはさておいて、逃げ出してきた前部長を無事に大学まで送り届けるって仕事を請け負った弁天丸に迫る叔父の魔手。艦隊戦なんてやったことないのに果たしてどーする加藤茉莉香。そこは天才の前部長と現部長にチアキちゃんも加えた面々と、そして権力だけなら谷追随を許さないセレニティのお姫さまコンビがきっとどうにかするんだろう。妹は笑顔がなかなかに悪辣。そうやってこなした後にヨットを巡る攻防戦か。あと2カ月。充実させてくれそうだ。

 まるで麻雀が出来ないんで玄ちゃんがどーして8索切ってそれで上がって何だ? って他の人から不思議がられたりしたのか、つかめなかったけれどもそういうゲームの機微はおいておいても女の子たちが何かをかけて闘う姿、そして持ったさまざまなスキルのバリエーションを楽しむ分には「咲 阿知賀編」はこれでやっぱりなかなか楽しい。大阪から来たというインターハイ常連とか、どんなスキル使いが揃って居るんだろうか。それから和ちゃんの胸は、さらにやっぱり大きくなって居るんだろうか。初登場では不気味さが立ってたけれども実はおとなし咲との戦いは。まあでもそんな1人1つのスキルなんて、安心院ちゃんにかかれば軽く吹き飛ばされてしまうんだけれど。凄かったなあ発売中の「少年ジャンプ」の「めだかボックス」。アニメでどうやって表現するんだろう。全部喋るのか1人で600ものスキルを。1つ2秒で1200秒。20分間そればっかりか。ありそうだな。

 靖子靖史さんの「そよかぜキャットナップ」(講談社BOX)を読んだら大学に入った男子がひとりで「きのこの山」だか「たけのこの里」だかを脇に置きつつ読書していたら、同じ語学だか必修のクラスにいたらしい同郷の、といっても高校が同じって訳ではない割と可愛い女子が、接近して来て声をかけては「きのこの山」だったかを横取りして貪り食った挙げ句に仲良くなって、夏に帰省した折にはもう1人のこちらは男子とは古い知り合いの男子も含めた3人で、同じ町内にある自動車教習所へと通うにようなったという、これをミステリーとして分類するのは多分絶対に間違っている。ファンタジーだ。魔法のような夢のようなおとぎ話のような出来事が描かれたファンタジーに違いない。さもなくばリア充爆発しろ。

 おまけに本好きで女子にはとんと疎いその男子が、田舎では近所に住んでいては野菜やら果物やらを育て上げ、お裾分けに来るついでの5時間6時間と喋り混んでいくご婦人の中学3年生の孫娘に、慕われながらも勉強を教えるようになったなんて事態がミステリで起こるはずがない。それはだから空想科学小説だ。というわけで「そよかぜキャットナップ」をミステリということにはやや抵抗もあるのだけれどもトータルとしては消えてしまった黒い猫を探して3人で田舎のさらに奥へと向かい、それらしい猫を見附はするものの別の猫かもしれないという可能性を残していた状況から、どうにかこうにか謎の解明まで持っていくって部分はミステリとしてちゃんと読める。

 そうかあれはああだったんだ。それはそういうことだったんだ。言われてみれば他愛のないことでも気付かなければ謎のまま。そんな日常の不思議の発生から解決までを、夏の遊びに混ぜ込んで描いてみせた青春ミステリーとしての「そよかぜキッドナップ」。他人を思って口をつぐんでいたら相手もそういう感じだったという、優しさの行き交うシーンなんかも見られてジンと来た。でもやっぱり盗んじゃダメかな。ああいや増やしたからそれはそれでありなのか。しかしやっぱり不思議なのは唯一のヒロインで、他人に興味が成さそうな男子に迫る理由がまず掴めない。そんなに寂しかったのか。かといって深い恋愛になるでもない。不思議な関係。バランス。それが是とされるのもあるいは、他人行儀差よりも剥き身につき合う田舎の関係って奴なのか。なるほどなあ。でもやっぱりリア充もげろ。

 9万2000人だったそうで「ニコニコ超会議」、目標としていた10万人にほぼかなう数字を第1回目からとれたってのは、これはこれでやっぱり大成功だったんじゃなかろうか。そもそもが誰が来るんだ何しに来るんだ的イベント。そこには新作ゲームの発表会もなければオリコンランクのトップに並ぶタレントが来て握手をしてくれるような場もない。ユーザー達の間から生まれユーザー達によって盛り上がったスターであったり絵師であったり学者であったり技術者といった面々が、それぞれに店を構えているだけで、それぞれのスターとしての規模はそれこそ一般的なメディアのスターから見れば太陽と芥子粒、否それ以上の格差があるんだけれどそういう小さいスターでも、集合体となることによって大勢のファンをそこに集めきって見せた。

 さらにはそういうスターが少しづつ大きくなっているってこともあって、いわゆるランキング番組には出てこずテレビにもまるで登場しないんだけれど、ネットを介してテレビスター以上のファン層を得ている人たちが、来てくれるイベントとして普段はネットの向こう側にいて、ランキングなり視聴率という数字に載らない人たちが、リアルな姿として可視化されてこれだけの規模にふくれあがったって気がしてる。運営も1回目にしてはまあよくやったんじゃないかなあ。行った人が見られないイベントがあってもさっさと帰らず、夕方まで残ってあっちの島、こっちの島って感じに渡り歩く姿は何かとっても面白かった。同人誌即売会だとやっぱり目当てのサークルで並んで買って終わりになりがちだし、物販イベントも買って終わり。けどニコニコ超会議なら、お金を使わなくっても色々眺めて回って楽しめるんだ。ある意味学園祭的。そこでの誤配的な出会いが興味を膨らませて何かを作る可能性。それを考えるとやっぱりやった意味があった。

 開場から入場まで2時間、なんてイベントは他にない訳でもなくって、もちろんスムーズに入れるにこしたことはないけれど、それもやってみなければ分からないこと。2日目はたぶん解消されただろうし、次回があればきっとさらにうまくいく、と良いんだけれどもその2回目があるのはいつなのか。来年は流石にきついかもしれないけれど、終わってみるとまたやりたくなるのが祭りの楽しさ。アニメロサマーライブだって大変だったのを頑張って8回目までやって来たのがドワンゴな訳で、テレビCMとか新聞広告とかに使うお金の少しを宣伝広告費と思い、イベントに回せばむしろ効果的に大勢を、振り向かせることが出来るんじゃないのかなあ、なんておだててみたらやったりして。それがノリってものだから。


【4月29日】 そうかいくら太っていたって虐められてたって昼休みにはトイレにこもるような青春だって食堂で食べるのが山盛りのカレーだからって、ゲームがとてつもなく強ければそれで中学校きっての美少女から関心を持ってもらえてあまつさえ、好きになってもらえるのかと感動を覚えて希望を抱いた「アクセル・ワールド」のアニメーション版第4話、だけれどもよくよく考えてみたら自分はまるでゲームは得意ではなかったのだというオチ。いったいどうしたものかなあ。というかしかし本当に寂しかったのか黒雪姫。あれだけ完璧に自分を作り上げながらも本当の自分を見せられる相手がなかなかいなかった中で、やっと出会えたハルユキのイジけてはいても芯はもってるその姿に、クラリって来てしまったとうことか。まあ確かに抱きしめると心地よさそうだもんなあ。夏じゃなければ。

 けどそうやってようやくかなった両思いが、突発的な事故によって寸断の危機に。突っ込んでくる車からブレインバーストの加速をフルに発揮させては肉体までをも動かしそれでハルユキを助けて黒雪姫自身ははねられ瀕死に。まあ一命は取り留めるんだけれど(でないと話が続かないから)病院で院内ネットに接続されてしまったところに現れるシアンパイルという名の敵。99%削られ残り1%のポイントを奪われたらも加速世界から出て行かなくてはいけない(記憶がすべて消えてしまうという設定は生きているのかな)事態に陥ることを、防ぐ為にはシアンパイルがブラックロータスに挑む直前じ自ら相手にならなくてはいけない。

 そして現れたその顔に驚きつつも冷静にそうだと即断したハルユキの思考力、そして一気に自分との対戦へと持っていった行動力。これが黒雪姫をも驚かせた加速の力って奴なのか。けど相手は確かレベル4か。そして自身はレベル1。勝てっこないのに挑んでそして。いよいよ初期エピソードのクライマックス。シルバークロウの必殺のスキルが明らかになってそして加速世界に驚きが走る、次週エピソードを刮目して待て。それにしてもハルユキが黒雪姫の手帳を受け取りつつ落としたページにあった血染めのその写真に涙と殺意が湧いたなあ、こんなに思ってくれている相手が今はっていうことへの悲しみと、そしてこんなのがこんなに思われているということへの殺意。羨ましいなあ。悔しいなあ。

 とぅっとぅるー。ラジ館ですー。ってことで秋葉原のラジオ会館が建て直しのために更地にされたところで行われた地鎮祭に関連して、一瞬だけその地を解放して大勢に見て貰おうってイベントが開かれたんで秋葉原へと出むいて行列に並んでそして入ったラジ館の跡地は広かった。あれだけのスペースにあれだけの店が詰まっていただけの建物。駅前でも屈指の一等地をこれから開発するんだからいったいどんな絵図面が引かれるのか。楽しみもあるけどしかし今時の駅前って秋葉原も含めて一気に近代的なビルばかりになっているから、ラジオ会館もいったいどんな風になってしまうのか。おしゃれなカフェとかはいって美少女Tシャツでは上がれない場所になってしまうのか。完成のその時を待とう。

 跡地では白い石をもらってそこに名前を書いて桶に奉納。きっと地鎮のために埋められそしてその上に建物が建つのだろう。我が名を踏みつけて伸びよ世界へ。とか。売店では地鎮祭関連グッズもあったけれどもやっぱり人が群がるのが「STEINS:Gate」関連のグッズ売り場でとりあえずラジオ会館との合同ネームになってるTシャツを1枚買い、それからガチャを回してメタルうーぱを狙ったけれども出なかった。これで僕がタイムマシンの設計図を持ってロシアに亡命しようとして金属探知器でひっかかってそれが結果として論文を助けて世界を変えてしまうような事態を起こすことはなさそうだ。けど他の誰かが。その前に誰か阻止するのだ。エル・プサイ・コングルゥ。しかし2回回して2回とも青うーぱとは。せめて緑が欲しかった。まあいいそれでもこれでもまゆしーの好物だから愛でて思おうあの笑顔。とぅっとぅるー。

 ぐるりと新橋から日比谷公園に行ってゴールデンウィークにニッポン放送がやるイベントをちょっとだけ見物して声優さんが出演しているらしい「ミューコミ+」のDVDを買って吉田尚記アナウンサーに挨拶をしてから銀座を歩いて久々にペッパーランチでハンバーグを食らいそれからようやく昨日買った「necomimi」のテストに入る。1日だけで3000個とか売れたらしい逸品だけれど初日も午後にはそんなに混んでなかったからコンスタントに売れたのかそれとも午前中に大行列が出来たのか。とにかくピコピコとよく動くってことだけは、周囲を歩いていた人たちが頭に付けている姿を見て知っていたけどいざ、自分で付けてみるとこれがなかなかに動くと同時に駆動するモーターの音も割と響く。もうちょっ静音仕様にしないと授業とかでは使えないよなあ、集中しているかどかがすぐ分かるって代物だし。授業には付けないってば。

 リラックスをすると両脇に垂れたようになるとか、ゾーンにはいるとピンと立つとか説明書には書いてあるけどそれがどういう状態なのかを、自分でまるで確認できないのが辛いというか当たり前というか。つまりはネコミミの状態を見て自分がいま、どんな常態化を知るってことが出来ない訳で、それはつまらないとは思うけれども逆に自分をそういう状態へと追い込んでみて、そして鏡で見てまるで違っている状態に何がいけないのかを考えるという効果はあるかも。怒ると両方がぐりぐりと交互に動くとかってないのかな。ともあれ楽しめる逸品ではあるのでこれからの季節、帽子代わりに頭につけてお出かけなんてしゃれ込み……ませんてば。


【4月28日】 そして朝に見た「これはゾンビですか? オブ・ザ・デッド」は、サラスのライブがハルナとトモノリの謎ダンスによって悪魔的になった前週に続くかのように、今週もサラスがいっぱい出てきてどSな言葉によって罵倒されたいどMな人には嬉しかった回。世をまるで忍んでいない吸血忍者が経営するメイド喫茶のその奥にある、ツンしかない喫茶に挑んだ歩たちに5人のツンをデレさせたら無料という挑戦が向けられ挑んだものの一緒にいった織戸は即座に死亡。そして残った歩だけれどもトモノリにハルナにセラにユーといつものメンバーはどうにか出来ても、最後に現れた敵がまた強敵だった。

 って別に本筋に絡む訳じゃないから半分、これ誰だった的なところもあったクラスメートの三原かなみを、もうどうしようもないと思われた所に復活した織戸の一言があっさり粉砕。なるほど人は見かけによらないというか。しかしこういう間をつなぐインターミッション的な話を書かせると、やっぱり上江洲誠さんは巧いなあ、キャラの特徴をしっかり出しつつ次への展開もしっかり仕込んで興味を失わせない。そんなこんなで1カ月。時々出てきては酔っぱらってるだけの美少女とか、いったい誰だとか、大先生に縛られ嬲られながらも虎視眈々な京子ちゃんは何がしたいんだとか、そんな興味を残しつつ残る2カ月をどう突っ走る。とりあえずサラスがいっぱい出てくれれば嬉しいんで是非に。DVD付き文庫は買って置いた方が良いんだろうか。

 そして家を出て強風も吹かず京葉線もとまらない天気の中を、幕張メッセで開かれたニコニコ超会議へ。降りた幕張本郷駅のバス停に大行列も出来てなかったんで果たして予想していたような人が来るのか心配したけど、到着した海浜幕張駅から連なる人の数はなかなかで、受付をして眺めていたらさらに大勢が続々と歩いて行列を作り始めてたんで、これはやっぱり東京ゲームショウ並には人が入ってくるなあと想像。そして開場となった後は、最初こそボーカロイド関連の同人コーナーにいっぱい向かう人がいたりして、そこに人気が集中するのかな、なんて思ったりもしたけれど、時間が経つにつれてそれぞれにコーナーに適度に人がばかれて程良い混み具合に。

 というか目当てのコーナーが混みすぎていたら、そこに居続けなくても他に回った新しい発見を出来るくらい、メニューが揃っているのが良かったのかもしれない。そこがジャンル不問、ニコニコ動画発ってだけを軸にして集まったコンテンツの集合体なニコニコ超会議の素晴らしさ。ザッピングして面白そうなところに食いつきそこから興味を広げていけるネットの特質を、ひとつ場所にこれだけ寄せ集めることによってリアルに体験できてしまえるようにしたところに、無理をしてでもこれだけの規模のイベントを、開催したひとつの、そして大きな意味があったんじゃなかろーか。だって「踊ってみた」とか評判は聞いてても、ネット上で見るだけだとやっぱり引いてしまうところがあったのが、現場に来てあの大勢がいっせいに踊っている楽しそうな姿を見れば、もういっぺんでファンになっちゃうよ。そういう力がリアルにはやっぱりあるんだよ。

 言論コロシアムで枝野大臣が来て喋るところとか、見たいかもって思っても混雑で近寄れないとなると、じゃあ他でも見るかってことになって、学会の方で八谷和彦さんがモデレーターをやってた「燃える男の未来の乗り物」なんてものを見物してしまうとか。すでにニコニコ技術部の方で、その偉容が話題になってた人力パワードスーツというか、パワーは増幅されないけれども人間の体の動きを拡張できる沖縄高専出身の人たちが作ってたスケルトニクスってマシンが実際に来て、立って、動いて、掴む様なんかを見るともうこれはって興奮がわいてくる。「こいつ動くぞ」なんて言ってみたりして。

 そりゃあ今は高いところの蛍光灯を取り換えたり、遠くにあるものを掴んでたぐり寄せるくらいのそれは脚立かマジックハンドか、って使い道くらいしかないけれど、お金をかけて動力を入れたりすれば何かいろいろ使えそうだし、そうでなくても身体を拡張するのってやっぱり男の子の憧れ、ロボットへの憧憬を満たしてくれる。それを作った人たちがいる。それだけで嬉しくなるじゃないですか。あとはボトムズを作った人が新しく作ってる警備ロボットとか。六連装のペットボトルランチャーとか、こんにゃく玉発射装置とか。エコで安全。な訳ないぞ。1億円。宝くじが当たったら注文してみたくなった。

 別の方では軽音楽部がバンド演奏し、別の方面ではスポーツチャンバラに興じる人たちがいて、さらにはカラオケだけを楽しんでいたり格闘ゲームにハマっていたり。そんなさまざまな思索や試作や施策、さらには詩作が渾然として同じフロアにあって楽しめるニコニコ超会議。昔だったらこういうのって、割と何でもありなSF大会くらいしか受容する場がなかったような気もしないでもないでもないし、実際に同じ幕張メッセで2001年に開かれた、ガイナックスが指揮して作り上げた「SF2001」なんかだと東浩紀さんが来て喋ったり幾原邦彦監督が来て喋ったり小松左京さんが来て喋ったりポインター号が置いてあったり映画が上映されたりともう様々な出し物があっていろいろと見て楽しめた。

 去年の静岡でのSF大会もロケットがあり模型があってと技術部系に近い出し物もあればダンスとか、ぬいぐるみとかあってそういう方面への興味も広げてもらえた。ボカロ系はあったかな。ディーラーズにあったかもしれないけれどもまあ数では。何しろやっぱり参加者がSFに限られたりするし、参加人数もコンベンション形式で多くて2000人、合宿形式だと数百人の単位になってしまって出せる出し物も見られる人もやっぱり限られてしまう。そういった制約を完全に吹き飛ばしてそれこそ10倍20倍といった規模でもっていろいろなものを集めてしまう。

 ジャンル無用でワンダーフェスティバルにもデザインフェスタにもコミックマーケットにも受け入れられ辛いものを持って来ては並べてしまえるこのイベントは、それまでひっそりとしていたセクターへを白日の下へと引っ張り出してスポットを当ててしまえるという意味でやっぱり凄い。というかその前段として、そういう人たちが存在することを可視化してみせたニコニコ動画っていうメディアの存在が、やっぱり大きな意味を持つんだけれど。起こっているのはだからやっぱり革命なんだ。それもとてつもなく大きくて、重要な。維新クラス? 創世記クラスかも。そんなとてつもない動きがまさに今、始まり起こって広がろうとしているニコニコ超会議は、やっぱり誰もがのぞいてもるなり、無理なら動画の中継でもってながめてみたりするのが良い。ネットで見られる、ってのもまた現代的で未来的だなあ、こりゃあ普通のメディアは置いて行かれる訳だよ、過去に、永遠に。

 だってさ、現行憲法には欠陥があるってことを言いたいがために自衛隊の戦車にはウインカーが着いているってことを、堂々と書いてしまえるんだから今の新聞って奴は。なるほど言い分としちゃあ自衛隊が憲法下では日陰の身なんで道路を走る時は道路交通法にせめて従わなくっちゃねってことになったってことなんだろうけど、そういう憶測は別にして普通に公道を走るんだったら周囲への安全の意味から必要な装置だろ。だから着いているし日本に限らず欧州の戦車にはそうした装置がついている。軍隊が堂々認められていたってそれと安全性の確保は別。なのにそうした話を知ってか知らずか、軍への批判が戦車にウインカーを付けさせたなんてロジックを捻りだすから失笑を買う。

 いやこれはもはや爆笑を買っている。知らずにやているんなら間抜けだし、知らずにやっているならこれは不勉強。そんな口が大事な憲法について語るなんてと言われそうだし、知っててやっているなら嘘を平気で放つ口から語られる法にどうして信頼を抱けるかって話になる。慎重に、そして丁寧にやらなくちゃいけないところを突っ走ってすっころぶ。普通だったら立ち上がれないくらいのダメージなのに平気で今も突っ走る。まったく訳がわからないよ。


【4月27日】 えっとずっとこのサイズだったっけ、気のせいか細身なったような印象すら受けたけれども謀ってないからわからないJコレクションから登場した法条遥さんの新刊「リライト」(早川書房)を読んだら何だから後味が……。いっそスプラッタを極めてくれていればそういうものだと割り切れたんだけれど、時をかけるちからを前向きではなく後ろ向きに、人助けというより自分助けのために使う心理から吹き出す鬱屈した想いが、読む人の心を毒して萎えさせる。そして至る閉塞的な展開を、受け止めるのは純粋無垢な本読みにはちょっと辛い。けどそういうことだって起こり得るという実際を、ここで噛みしめることができないと常に世界は自分にハッピーって思うようになるからなあ。その意味で必要な書なのかも。

 えっとどうしたらいいんだろうか「戦国コレクション」、すでに前週の上杉謙信と直江兼嗣による萌え萌えな展開でもってこれは過去にあった「センチメンタルジャーニー」なり、「セラフィムコール」といったそれぞれに美少女キャラを立てつつも、原作のゲームとか漫画めいたものとかとはお構いなしに単体でもって物語を作って楽しませるオムニバス形式のアニメーションに類するものだって意識は持っていたから驚きこそしなかったけれど、イカの塩辛をツマミに日本酒をぐいぐいやっては現世イイネってやってる謙信とか兼嗣のほのぼのストーリーから一変して、あの伊達政宗が女囚として収監されては看守によるイジメにも等しい懲罰なんかを受けていたりする展開に、今時の純真無垢なアニメファンは憤るより以前に理解不能に陥ったんじゃなかろーか。

 まあそんな初な人が見ているものでもなし。ただあのビジュアルでもって楽しませてくれるアニメーターの後藤圭二さんが、監督としてこーゆーのを作ってみせるところが少し以外というかどうしたものかというか。前週のあのほんわかとしてちょっぴり切なさも入れつつそれでも頑張っていきまっしょい的展開だったら、見終わってああ面白かったと言えるんだけれど純粋馬鹿の戦国武将が現世で騙され半ば逆恨みにちかい感情をぶつけては信長に乱入されてそして決着をつけないまま以下次号、って感じでは残るフラストレーションも小さくない。つまりはまた出てくるってことか政宗。でも第1話の信長とは物語の雰囲気がまるで違っているからなあ。違う絵に立つキャラを同じフィールドに無理に乗せても大丈夫かなあ。まあそれでもあのバディ、見たいことは見たいんで次は明るいコメディのなかでその姿態をぶるんぶるんと言わせて頂けれれば僥倖。

 吉祥寺で江口寿史さんの原画展があるってんで様子を見に行ったら全国紙の地域版の記者の人が取材していた。まだ若そうできっと江口寿史さんの全盛期とか知らないなろうなあ、なんて思ったけれども漫画家としての江口さんの全盛期ったら「ストップ!ひばりくん」あたりまでだっけ、それとも「江口寿史のなんとかなるでしょ」あたりまでだったっけ、ともあれ漫画家としては「エリカの星」あたりをラストに記憶が薄れていくんだけれども、ことイラストの分野でいうなら美少女を決して萌え系な漫画絵ではなく、けれども漫画家ならではの線で描いてみせてくれる上にスタイリッシュなカラーなり、背景なりを重ねて見せて1個の作品として強い印象を残すクリエーターとして80年代半ばから活躍し、今もそうした分野での活躍ぶりが目立ってる。それが良いのか悪いのかはさておいて。

 よく言われるのがファミリーレストランのデニーズなんかでよく使われていた美少女系のいらすとなんだけれども、そういった絵をよく描く際に使っていたというPANTONEってもう廃止されてしまった画材なんかが使われた、見た目にも美しくってそれでいて歴とした肉筆のイラストが、つまりはあの江口寿史さんの原画がただ並べられているだけじゃなくて、値段がつけられ売られているから驚いたというか、それ1枚が国宝とまでは言わないけれども漫画界的な天然記念物として指定されても良いくらいの品々。であるにも関わらず、たったの31万円とか、41万円とかで売られているからさらに吃驚仰天した。

 もしこれが、アートフェアなんかの会場でアートの列に混じって売られていたら50万円が100万円だって付けられる逸品。20年先の世界において北斎歌麿広重国芳といった浮世絵師たちに並び劣らず、むしろ肉筆画ってことでより重要な価値を持ちそうなそれらが本当にこれだけの値段で買えてしまうんだったらもうまとめて一気に全部、それこそ画廊ごと買ってしまったって美術館的には、あるいは画商的には損のない取引だったんじゃなかろーか。けどそこまでの熱狂をもってこの展覧会が捕らえられていないところに、漫画家のイラストということへの限定めいたコンテクストでは、世界を動かすにはいたらないって現実がそこにあったりするんだろーなー。

 並んでいるものでは「コミックアレ!」の表紙なんかがイラストとしては最高で、「11:00AM」って作品なんかは下着姿で口に歯ブラシくわえた美少女がとってもエロティックだったし、「−4℃」って作品は同じ会場で去年開かれた漫画家さんたちのTシャツ祭りで採用されていた図案。それが原画として登場してたから驚いたけれどもこれらはすでに売約済み。まあ仕方がない。やっぱり下着なんだけれどもキャラが小さめな「やつあたり」とか、ちょっぴりパンツが見えてたりする赤いブーツの女の子の絵なんかは売れ残っていたけどまあこのあたりも、おいおい売れていくだろう。だって良い物だもの。

 個人的にはデニーズのメニューに使われていたらしい「Terasse de cafe」ってタイトルの2枚がなかなかで、オープンカフェに集う人たちの絵なんだけれども1枚は中央の椅子がからっぽになってて、もう1枚はそこにジーンズ姿の女性が座ってギャルソンが注文を取りに来ている。時間差のある同じ場所同じ構図の2枚を並べて置けばそこに動きが生まれ、流れが生まれて何度でも何時間でも楽しめるんだけれど、それには41万円のを2枚買うしかないのがなあ、辛いなあ。だからこれは買う人には2枚揃えて買ってとお願いしたいもの。そうはいかないんだろうけど。

 ほかに「Weekly漫画アクション増刊 エリカの星」の表紙に使われたイラストと、それからアニメ「老人Z」のDVDのジャケットに使われたイラストなんかもあってちょっと驚き。江口さん個人だけでなく北久保弘之さんが監督として今敏さんや沖浦啓之さんといった錚々たる面々が参加したアニメーションに関連すりイラストという点で、歴史的な価値すら持つこれらが普通に売られてしまって良いのか、どっかの美術館に収蔵されるべきなんじゃないか、って思いも浮かばないでもないけれど、最初においてアートってのはそうやって売られコレクターの手に渡って散逸した後で、その価値が形作られ歴史の上に名が刻まれ、そして再びの集約が謀られていくもの。そうなっていくだろう江口寿史さんというアーティストの、今はだからこうしてばらまかれて広い世界において価値付けられた後に、改めて美術のカテゴリーで評価されていくってことになればそれはそれで良いのかも。そういう意味では今が買い時なんだけどなあ、お金がなあ、まったくなあ。


【4月26日】 もちろん双房の先端を飾る突起は見て悪いものではないし、双房そのものも眺めれば心に様々な官能と感動をもたらしてくれる。なおかつ第4話の「LUPIN the Third 峰不二子という女」では、原作者のモンキーパンチさんが頻繁に使う○に↑の融合によるその行為の象徴が、画面にもしっかりと描き出されては明確にその行為であることを示唆。おまけにそれが不倶戴天の敵どうしであり、一方がこれまでのアニメーションで描かれる場合、インターポールの公僕にして純真熱血の銭形警部であったという点において、これはやっぱり並のアニメーションではないぞと思わせた。

 けれども。そんな物語がしょせんはセル画に、というか今はセル画は使われていないだろうから紙に描かれスキャンされ、モニター内で彩色されては編集され、動く映像となって作り上げられたものでしかないのだということを、直前に放送されたあれはビオレさらさらパウダーシートだろうか、そんな制汗剤のCMが真っ向から突きつけてくれた。踊っている美少女が、周囲とはちょっと違った動きをしていることに気づいて動きを止める、その瞬間に体とともに躍動していた双房が、慣性によって上へ下へと数度跳ねてからようやく落ちきを見せるのだ。

 リアルな双房のリアルな揺れ。映像によってとらえられたその瞬間は、現実にそれが存在しているのだという理解をもたらし、そして例え大人の立派過ぎるそれらであっても、やっぱり絵でしかない峰不二子の突起なり、双房への興味を減殺し、関心をリアル方面へと引き戻す。何と罪な連続よ。なるほど決して巨大ではなく、激しく出っ張ってもいないリアルなそれらをまだ幼いと断じ退けることは可能かもしれない。けれども、現実に上下には揺れる程度に存在しているそれらをどうして見逃すことができるか。できるはずがないではないか。惜しむらくはCMの前半が録画されておらず、ほかに揺れていただろう場面を見られなかったおとだけれど、幸いにしてネットに全容が上がっていたのでそちらを眺めて目をこらし、リアルとはこういうことなんだという思いを刻んで、心を今につなぎ止めよう。いくら見たって触れもできやしなけれや、生で眺めることもできないんだけれど。なんだやっぱりバーチャルじゃないか。ううむ。

 流れて別のあれはワコールか、双房を包み込む下着のCMなんかも流れていたけれども、その商品の特質を伝えるキャッチフレーズが「マイナス5歳」。人によってはキャリアを経るにしたがって重力と筋力とのバランスが崩れ、下へと下がり傾斜も傾くのだというけれども、それを防いで5歳若めに見せることができるのだというから、これは現実に街で出会って立派だと感嘆したあとで、着用を解いた姿に唖然呆然とするのかそれともこちらがより好みだったと歓喜するのか、分からないけれどもいろいろと喧騒が起こりそうだ。15歳が着けたら10歳になって何とイノセント! って喜ぶ輩もいたりするのか。それってただのサラシじゃね? って言うのはなしな。

 さても「LUPIN the Third 峰不二子という女」の方はといえば、世界的名声を得ながらも事故によって顔に醜い傷を負ってから、高い宝石を鏤めた仮面を被るようになったオペラ歌手の、その仮面をめぐるルパン三世と銭形の攻防ってやつがメーンになってて、最後になかなかのドンデンを見せてはくれたけれどもそうやってすべてをそろそろぶちまけようって決めてたんなら、別に不二子の首をか絞めようとしなくて良かったんじゃね? なんて思ったりもしたり。それを気にしなければストーリーとしてもスリリングで展開も小粋。誰も損せず。得もしなかったってのは少し残念か、不二子的には。いやこそはきっと既に本物と偽物をすり替えていたとかいうのか。

 声については栗田寛一さんが演じるルパン三世が第1話以来の登場となって、あの時はシリアスによって深いところを聞かせてくれたけれども今回、ギャグもいっぱいあってそれが山田康雄さんのパロディにしかなってないんじゃないかという心配を、蹴散らすように軽妙な声をクリカンさんは聞かせてくれて、これは立派にルパン三世、それもニヒルでクールでスタイリッシュなルパン三世だってことを強く印象づけてくれた。もう大丈夫。全然大丈夫。つまりはきっとギャグを大袈裟に演じさせようする絵と演出と録音に、課題があったってことなんだろうなあ。不二子は不二子で可愛らしい。銭形に尻を触られ上げた悲鳴と、そして入れ替わりを提案されて上げた驚きの声。ともに媚態をにじませつつしたたかさも感じさせる声。銭形はいわずもがなの渋さ。あとはだから……ってことになるのか。誰かいないかなあ。あの方のをあの雰囲気をひきつつ今に演じられる声優さん。

 ああやっぱり無罪だったよ小沢一郎代議士。どうにも偽りの証言なんかを交えて無理矢理に強制起訴へと持っていったけれども、やっぱりそこを衝かれての無罪判決は、もうずいぶんとそうなると言われながらも、起訴を引っ込めず裁判から撤退しないで突っ走ってしまった側に、問題があるってことになるんだろう。ではその主体がどこなのかというと今ひとつ、不可解なのがこの一件でそもそもが普通の裁判では無理筋だからって起訴されなかったものを、検察審査会という制度を通して強制起訴へと持っていってしまったから起こった事態、だとするならその検察審査会を動かす発端となった申し立てが、まずひとつの関門になる。これがなければ動かなかったし2年もの間、国難ともいえる大事を挟んでひとの政治家を身動きとれなくした事態は、あるいは国賊と呼ばれ糾弾されかねない罪深さをはらんでいる。表に出てこない申立人にはやっぱり、いろいろと言われてしかるべき、なんだろー。

 もちろん、頑ななお上の晴らしてくれない恨みを、誰か晴らして欲しいという願いに対して、それならばと立ち上がる大いなる意志として、検察審査会のような仕組みがあって悪いわけではない。厚生労働省の一件で権力側が決していつも公明正大ではないってことは世に広まって、冤罪に引っ張り込むのと反対に罪を見逃すということも起こって、それは違うと申し立て、正義を遂行するって機能はやっぱりなくちゃいけない。そんな時には申し立てた人が、権力に逆らっているってことでその身辺に危険を感じて、覆面を貫くってのは当然だけれど、ことが重大過ぎる場合、それが相手のそれこそ一生を左右しかねない案件の場合、陰から黙って刺すのはやっぱり違和感が付きまとう。

 それからこういう仕組みでは、罪のない人をそうやって陥れようとすることだってできない訳じゃない。裁判にしばられる数年間を活動不能にしたいと考える一味があってそれが申し立てることによって、利益を得るようならやっぱり問題だろう。もちろんそういった理不尽な申し立てを見抜いて却下する機能が、検察審査会の中で働ければ何も問題はなかったんだけれどこの一件、そこで審査される資料にいろいろと含みがあったって話が伝わっている。すなわちいかにも悪そうだって印象を持たせる資料ばかりを寄り集め、出せばそれを見た人たちはこれは起訴されないのは仕方がないって思わざるを得ない。

 ってことはつまりすべてが検察の思惑しだい? そのあたりの案配がどうなっているか、詳しい仕組みを調べてないから分からないけれどもやっぱりどこかに欠陥があったから、こういう事態が起こってしまったんだろう。とはいえ民間からの申し立てがオッケーになって以降、頻繁におこっている強制起訴の案件の無罪判決。ならやっぱり問題は入り口部分にもあったりしそう。そういった部分の改善が、この一件を景気にして大きく果たして進むのかそれとも。これから始まる巻き返しの一方で、仕組みへの議論も行われることになれば僥倖。そうでないとこの国の未来って奴はまったくもってお先まっくら。そんあ分水嶺に来ているなあ。この20年くらいずっと分水嶺って気もしないでもないけれど。

 ニャンニャンニャンニャンニーハオニャン。でお馴染みの娘娘が出来たってんで渋谷に行っては銀河ラーメンなるものを食す。黒ごまいっぱいのラーメンにタマゴが落とされただけっていっちゃそうだけれどもデカい器にたなびくタマゴの白身はまさしく銀河ってことにしておこう。味はとってもゴージャスデリシャスデカルチャー。んで近所でやってる「超時空要塞マクロス」の展示はキャラ表とかあったりして懐かしい想いがわいてきたけど物量的にはまあそれなり。デカいサンショウウオとたいやきのクッションが売っていたけど4200円ではちょっと買えないし置く場所もない。とかいいつつ6000円の原画集は買うのであった。まあ資料だし。スタンプラリーは残る3つをもらいに池袋に行かないと。混むかなサンシャインのイベントは。


【4月25日】 行儀良く真面目なんて糞くらえだと思った時代も確かにあったけれども、それを置き去りにして卒業してから聞いた「卒業」はだから、決して強く身に直に沿うようなものではなかった。むしろ忘れ去りたい苦みすら含んでいた楽曲として、既に進学して新しい環境に期待を抱いていた耳には響いてきこえた。同じ年に生まれたということはつまり、同じ時代感覚を持っていたということではあるけれど、その主張は同じ空間の中で会話をしていさえすれば共感を得られても、音楽という形に仕上げて世に送り出した時には、すでに過去の思い出となっている。だからだろう、同じ年に生まれた尾崎豊さんというミュージシャンへの評価は、同意はしても共感へとは向かわず、愛着や賞賛といったものとも離れた、少しばかり冷ややかで苦笑混じりのものだった。

 ほんの少し下の世代、すなわち同時代的にうんざりしながら、それでも過ごして、そしてこの支配からの卒業への憧憬を募らせていた人たちにとって、それを代弁してくれる尾崎豊さんの音楽は、とてつもなく輝いてきこえたことだろう。だからこそあれだけのヒットとなり、人気となって世の中を席巻した。けれども。同じように人は育って卒業していく。成長して達観していく。いくら一瞬、その世代の旗手として輝いていても、やがて同じように苦笑まじりの思いを抱くようになっていってしまう。だから置いていかれ、浮き上がってしまい、沈み込んでしまった尾崎豊さんはそこから“卒業”しようとしてあがき続け、けれどもやっぱり這い上がれないまま逝く。1992年4月25日。それから20年。

 時代のカリスマとして伝説と化し、反抗の象徴として奉られて今にその名を残し、月刊誌や週刊誌が生前に語った言葉、綴った言葉を今に伝えてなおのこと、カリスマ化を押し進めようとしている感じが強まっているように見える昨今。少なくない若い世代が、尾崎豊さんというアーティストへの関心を示していると伝えられているけれど、いったいどういう風に感じ入っているのかを考えると、確とした芯をそこに見出しづらくて評価に迷う。歌の内容が共感を得られる時代でもない。醒めて虚ろな感覚が蔓延る世代に、すべてを擲ち突破していこうとした熱さが受け入れられていると思えない。反抗、というキーワードでのみ括られ象徴とされているのかもしれないけれど、反抗とは対象があって意味を持つものであり、輝く言葉だ。あらゆることから背を向けるのとはまるでニュアンスが違う。.

 同じ世代には生きず、少し下の世代としても浴びなかった若い人たちがだから、尾崎豊さんを讃えるのはあるいは、“尾崎豊”という概念の借用なのかそれとも。青山学院高校からの帰途に、おそらくは裏通りをまっすぐ抜けて真正面に見える東邦生命ビルのテラスに立ち、今はセルリアンタワーが建って遮られ見えなくなってしまった、高速道路によって切り開かれた渋谷の空に沈む夕陽を見ていたという尾崎豊さんを偲んで作られた、レリーフの横にしゃがみ込んでギターをめいめいに持ちながらも、歌うではなく喋るでもなく憮然とした顔を見せていた、どう見ても20年前に尾崎豊さんに聞き入っていたり、心酔していたようには感じられない世代の人たちから浮かぶ、スタイルとしての“尾崎豊”、現象としての“尾崎豊”、風景としての”尾崎豊”がたぶんもはや、現代の尾崎豊さんなのかもしれない。

 午前にのぞいた、千住大橋から少し歩いた市場の前にある尾崎ハウスの跡地には、誰も慟哭する人はおらず花も手向けられてはおらず、側にある朝市の小屋でカレイが一尾200円と安値で売られて、下町の居心地といったものを醸し出していた。19年も頑張って維持されていた場所が消えてしまった時、そこには風景としての“尾崎豊”すら残れないのかと思うと、少し悲しくなってくる。もしかしたら夕方にかけて大勢が集い、20年の時を思ったのかもしれない。それでもやっぱり何かが欠けている。シンガーとしての尾崎豊。ロックミュージシャンとしての尾崎豊。何を書きそして歌って来たのかという、アーティストとしての本質がぽっかりと抜けてしまったまま迎えた20年目というこの日を、20年前からどんな気持で見つめているのだろう。

 それとも20年があったら今、積み重ねた年月を経験を乗せた歌を唄っていたのだろうか。同じ年に生まれて、シンガーからアクターから活動の幅を広げ、スタイリッシュさを一向に失わない吉川晃司さんのように、時代の最先端を格好良く走るスターとして君臨してくれていたのだろうか。それも考えるに詮無きこと。起こらなかったのだから。これからも絶対の起こらないのだから。だから、同じ年に生まれた者として出来るのはせめて、苦笑しながらも感じたその熱を忘れずに今を生き、これからを生きて、あの時代に存在し、あの時代を引っ張った尾崎豊さんを単なるスタイルではなく、奉られたカリスマでもなく一個の人間として、いつまでもいつまでも身に覚えてあげ続けることだけだなのだろう。合唱。

 そんな旧東邦生命、今のクロスタワーから少し歩いた場所にできた渋谷ヒカリエって大型の商業施設が、どうにも醜く映ってて仕方がない。あれで周囲に似たような大きさのビルが並んでいれば調和もとれたんだろうけれど、1棟だけがにょっきりと経っている上に、直方体を適当に重ねたような統一感のない外面のデザインが、周辺との調和をひとり拒絶して浮き足立っているように見える。例えるならその形は巨大合体ロボットの足。2つ並んでがちゃんがちゃんと胴体が乗っかり、手足がついて頭が生えれば、そこにはゴッドなシグマがマーズな巨大合体ロボが屹立する。

 のっしのっしと歩いて辺り一面を踏みつぶし、そして一気に開発へと迎えば渋谷もヒルズができて、ミッドタウンができて雰囲気が一気にすっっきりとなった六本木のように、セレブでスタイリッシュな雰囲気を得られるのかも知れないけれど、そういう地域開発のビジョンが東急にあるとは思えないしなあ。あったらパンテオンくらいは復活させているよなあ、あるいはプラネタリウムとか。そういう郷愁を誘いつつ文化の香りを流しつつ商業を反映させるのが得意だったのに。このままじゃあ魅力に欠けると思われ、東横線と副都心線の直通と同時に新宿へ池袋へと客を持って行かれるだけだぞ。今からでも遅くないからもう1棟、建てて色を赤や黄色や青に塗ってロボットの脚だと世界にアピールせよ。

 ゴヤってったらちょっと前に国立西洋美術館であれはプラド美術館からいっぱい来ていた服を着やがっているマハとかいっぱい見たけれども、そこにあった絢爛としていたり市井に踏み込んでいたりするような作品とはちょっと違った肖像画が、五反田にあるルーヴル−DNP ミュージアムラボにパリのルーヴル美術館から来ているってんで見物に行く。ゴヤにしては珍しくプラドではなくルーヴルに入ったのはコレクターの手を経てあのイヴ・サンローランがずっと所有していたものが2009年に同じフランスってことでルーヴルに分かったから。それでようやく一般の衆目に浴した作品が早くも日本で半年くらいのご奉公に出て来たとあってパリに行けない身ではやっぱり行くしかないと行った次第。回りくどい。

 背景は壁土のようで子供は直立で犬は向こうを向いていて、服は蒼くてレースはついているけど派手じゃない。いいところの坊ちゃんだけれど華美さとは離れたそんな普通っぽさをだいたい200年を経て目の当たりに出来るのが、絵画ってものの良いところ。なおかつ今回は外に装置があって肖像画の背景とそして少年の服装、手にしたペットを道具に変えてそれを映像として映しプリントアウトして持ち帰れるというから面白い。オフィスにいたり野原にいたり。ボールを持ったり魚を持ったり。そんなイタズラを国宝級の絵画を素材にやってしまって良いのかって気にもなるけれど、どうしてあのシンプルさなのかというのを逆説的に探求する方法として意味もあるんだろー。だから認めたってことで。やっぱり持たせるなら魚かなあ。野球のユニフォームを着せるのも良いなあ。メイド服はないのかなあ。


【4月24日】 統計をとってる訳じゃないから感覚でしかなくって実際には昔の方がもっと陰惨な事件が始終起こっていたのかもしれないけれども情報に浴する機会が増えてそれを理解するだけの歳もとってる身の上には、18歳が無謀にも夜通し無免許運転をしては狭い路地をぶっとばして人に突っ込み何人かの命を奪ってしまうとか、14歳が学校でからかわれたからといって手にしたナイフで実際に人を刺して殺人未遂に問われるとか、知り合いが最近寄りつかなくなったから仲間たちで集まりリンチを加えて命を奪ってしまうとか、そんな激しく理不尽でどうしてそんなことをするのか意味不明な事件が多く感じられてしまって何か、今この社会に、あるいは人の心に起こっているのかって不安が浮かんで不穏に思う。

 無免許での運転がいけないことで狭い路地をぶっとばすのもいけないことだと分かる脳みそがないのか。からかわれたからといって無関係の誰かを刺すことがどれくらい罪なことかを理解する脳みそが足りないのか。大勢で殴り蹴りすればあるいは人が死んでしまうのだと考える脳みそが欠けているのか。たぶん教えればそう考えそう思い足るだけの脳の量は誰だって持っているはずなんだけれど、そういう教えが広まらず染みこまないうちに世に出て動いてしまうようになってしまったのかもしれないなあ、現代は。教育で雁字搦めにすれうば良いか、って訳じゃなくって教条的に善だ悪だと切り分け覚えさせるんじゃなく、痛みを感じる心と体が誰にだってあって自分にだってあることを知らしめること。そんな導きを増やし満たすために何ができるか。ううん。難しいなあやっぱり。

 うー! にゃー! れっつにゃー! という訳で普通に見た「這いよれ!ニャル子さん」のアニメーションはクトゥグァがいよいよ到来してはニャル子に迫り迫って迫りまくるけれどもニャル子は真尋ひとすじなために受け入れられずここに立派な三角関係が……できないか、まだ真尋はニャル子にもクトゥグァにも靡いてないし。シャンタッ君はすっかり小さくなって登場してはお腹を撫でられると喜ぶそうでいったいどんな手触りか、毛が生えているのかぬめぬめしているのか高いのか柔らかいのか、試してみたいけれども近所にシャンタク鳥がいない。それをいうならニャルラトホテプだって。いたら怖いよそっちの方が。

 現れたニャル子の兄貴のニャル夫は頭の悪さを露呈しては飛ばされ弾かれて哀れな末路に。兄より優秀な妹がいてはいけないのかはともかくとして、あのニャル子より出来ないという事実の方が相当にニャル夫の生きていて良いんですか状況を表しているような。もしかしてそれとも「これはゾンビですか?オブ・ザ・デッド」のハルナちゃんの様に言動はともかくあれで天才魔装少女、じゃなかったクトゥルーの邪神なのかニャル子は? それはそれとしてハルナの作る卵焼きとニャル子が作るシャンタッ君の卵焼きとどっちが美味しいんだろう。ライトノベル2大美味しいかもしれない卵焼き。決着着けてくれないかなあ。そしていよいよ真尋の母親登場でいったいどんな風にムスコニウムを吸収するのかちょっと見物。来週も見よう。

 「イブニング」を買ったら「もやしもん」で西野円ちゃんが直保にいきなり告白してた。というか結婚を迫っていたけどいったいどういう境遇なんだ円ちゃんは。喋ればコワモテですぐに手も出る武闘派なんだけれども家はどうやら醸造関連で体に酵母をつけてて直保がそれを目で見て何かを見抜いてた。そんな目を必要としてるんだとしたら家業の建て直しなのか、けどそういう家業が酒造りだとしたら日本酒なんで大嫌いだって言うのは矛盾しているし。うーん。あるいは傾いた家業に口では反攻しながらも内心では立て直したいと思う親思い家思いの優しい子? どっちにしたってすでに蛍という嫁がいる直保には二股になってしまうなあ。蛍。嫁だろ? もうそれ以外にあり得ません。

 売り切れるかもしれないと早めに「偽物語」のBD第1巻を確保。テレビで放送時に見てはいるけどやっぱりこういうのは綺麗な画像で見たいのだ、何で未だアナログチューナーしかないDVDレコーダーにCATVのデジアナ変換を流し込んで見ているから画像が粗くて。普通に見ている分には気にならないんだけれどすでに大型テレビのハイビジョン向けに多くのアニメのクレジットの文字が小さくなっていくなかで、家のアナログテレビでアナログ映像を流すとまるで読めなかったりするのだった。良いテレビが欲しい。それが置ける部屋が欲しい。どっちも無理だ。ならせめてBDでくっきりに近づきたいということで。

 そんな「偽物語」のBDを買って店でくじをひいたらなぜかTシャツが当たってしまったキャンペーン用が何かの。描かれているのはあれは阿良々木火憐ちゃんとそれから神原駿河か。駿河はもうちょい露出の激しい方が良かったかな。キャラではそりゃあ戦場ヶ原ひたぎが1番なんだけれども家で文房具が描かれた下着オンリーになってたりするひたぎじゃなきゃって気もするんでここは火憐ちゃんと駿河で良しとしよう、どっとみ好みの強くて大きな少女たちだし。でもってBDは何巻まで出るんだ、全5巻か、今買っているのが「境界線上のホライゾン」でこれがあと2巻で終わり「ちはやふる」は4本くらいd絵終わるんだっけ、そんな間隙を縫っての購入タイトル。これくらいしか買わないのってやっぱり不景気だからかなあ、懐的に。昔はもっと買ってたよなあ。


【4月23日】 あれは去年の7月に開かれた芥川賞と直木賞の受賞作発表会でのことだったっけ、その前の三島賞と山本周五郎賞の発表のときのことだったっけ、質問する記者の人たちが候補になった作品を、これらは東日本震災以前に書かれたものだけれどもそれを未曾有の震災を経た後において判断するのって、どうだったって感じのことを説明に出た選考員なり、登壇した選考員なりに聞いていたのをネット中継か何かで耳にした。なるほどその時点において、既にとてつもない震災の衝撃を経験している感情が、それ以前に書かれたフィクションに何か足りなさを覚えても不思議はないけれども、そうした感覚が、こと文学の真価を判断する上で必要なものかそうでないのか、って不思議を当時ぼんやりと、抱いた記憶があったようななかったような。

 だってほら、東日本大震災は確かに日本にとっては未曾有の出来事だったかもしれないけれども、世界においてはそれ以上の衝撃をもたらす事態は、近い過去もずっと昔も繰り返し幾らだって起こってるわけで、それより以前と以後で文学の価値が変わってしまったのだったら僕たちは、第二次世界大戦より前の文学なんて読めなくなってしまうし文化大革命より前の中国の文学だってベトナム戦争以前のアメリカ文学だって911以前の欧米やイスラムの文学だって、無意味と思わなくっちゃいけなくなる。でもそんなことはない。大きな事件が起きたからといって、それ以前の文学が無効になるなんてことはないから僕たちは、江戸時代の文学も明治大正昭和の文学も19世紀20世紀の海外文学も読んで凄いと感嘆できるし、いろいろなことをそこから得られる。

 22日に日比谷図書館で開かれた大学読書人大賞という、大学生たちが討論して学生に読んで欲しい本を選ぶ賞が行われて、中央大学文学研究会が推した伊藤計劃さんの「ハーモニー」が受賞したんだけれども、その討論の時に、絶対に素晴らしいと「ハーモニー」を推す中央大学の推薦者が、けれどもそういう「ハーモニー」に対して既に作者は2009年3月に没し、作品自体も震災以前に書かれたものだから、この変質してしまった世界においては既に耐用年数を迎えているのではないか、とう意見が散見される旨を報告していた。つまりはもう古いんじゃないか、って意見が世間にはあったりすることなんだけれども、この推薦者は「ねばり強い視点は普遍的。そしてその視点に自覚的な作品。5年後6年度にもっと重要になっているかもしれない、先を見据えた作品だ。今、読まれるべき作品だと思う」と強く訴え耐用年数論を退けていた。

 まさしく同意。文学にはその時々を活写し告発するジャーナリスティックなものもあるけれど、ルポルタージュではない以上、ただ状況をさらうよりも深い場所にある、普遍的で根元的な問題について言及して次に世界に同じことが起こっても、それに向かって人間はどう生きていけばいいのかなんてことを教えてくれていたりする。あるいは達観した視座を読む人へと与えて、さらに未来をどう作っていけばいいのかを考えさせたりする。古川日出男さんの本屋大賞候補になった「馬たちよ、それでも光は無垢で」なんかはまさしくそんな1冊で、著者が震災後の現地を見た話ではありながらも、巨大な出来事に向き合う一個人の心理、という“普遍”をそこからくみ取れる。対象への脅威ではなく実存への探求。それを描いてみせているからこそルポとしてのみではなく文学としての意味を、古川さんの作品は持ち得ているんじゃなかろーか。

 想像して創造するのが文学の力。だとしたら耐用年数など存在するはずがない。増してや「ハーモニー」はSFであって、根源の底に見える普遍性の上に洞察力を載せて未来を示唆し、翻って今を問うてみせるジャンルの文学に、震災というなるほど事態はとてつもなく大きな出来事であっても、人類史において幾度も繰り返されているひとつの事態をのみ、問うているか否かが大きな問題になるとは思えない。そうした事態すら視野にいれて咀嚼し、飲み込んだ上で未来を探求するSFに、耐用年数という概念はそぐわない。震災以前か以後かで何かを切り分けることは、間違っているとは言えないけれどもそれがすべてというわけではない。むしろ何かによって劇的に変化するような思考ではなく、何がおきても揺るがない思考というものを味わえれば、それは読み手にとって永遠の銘となり得る。そういうものを探していきたい。書ければ良いけどこればっかりは才能が。

 70万人くらいが落っこちる飛行機に巻きこまれて死ぬかもしれないけれどもどうするよ? って問われてヨナはココに拳銃を向けてから逃げ出して2年。その間にヨルムンガンド計画は塩漬けとなって紛争が起こり戦争が起こりテロが起こってやっぱり70万人くらいが死んでしまったというから果たしてヨナのとった行動は正しかったのか否か。そこで正義の味方だったら紛争での70万人も死なせないしヨルムンガンド計画でも70万人は死なせず世界を安寧に導くと言うんだろうけど世界はそんなに優しくない。だから選ぶしかないことをクールに選ばせてしまうところにこの高橋慶太郎の「ヨルムンガンド」という漫画が漂わせるシリアスな虚ろさって奴の根源があるんだろー。第11巻でそして戻ってきたヨナを引き受けココが推した携帯電話のボタンの結果は。読んでみたいけど描かれはしないだろうなあ。中国が北と南に分裂しているその経緯とか別の漫画で描かれると良いなあ。

 えっとあれで良いのか海賊行為。確かにキャプテン・マリカは海賊の服も鮮やかに乗り込んだけれども他の面々は自由勝手なコスプレ衣装でパーティーの会場に割り入りあれやこれやと大騒動。でもまあそこは新しい趣向と認めてもらえたみたいで船員さんから美味しい食材をもらってご満悦。でもその傍らで新しい部長のリン・ランブレッタが何やらよからなぬ企みを。そして始まる前部長のジェニー・ドリトル救出劇っていうか誘拐劇。楽しそう。その後に来るのかオデット二世号をめぐる争奪戦。あれやると長いからなあ。でもやって欲しいな6月までかけて。辛いカプサイシンいっぱいのカレーを食べて叫んだチアキ・クリハラの叫び声が痛快。まるで日笠陽子さんのようだったけどこっちは花澤香菜さん。いろいろできる声優さんになったなあ。

 同じ年に学園小説大賞を受賞した「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」もだったらテレビアニメ化はちょっと尺がたならいから、劇場アニメーション映画化してくれても悪くないんじゃないかと思ってみたりもする米澤穂信さんの「氷菓」のテレビアニメの放送スタート。林ともあきさんの「ばいおれんす☆まじかる」は? とも言われそうだけれどもそれは実写化が嬉しいのでそっちへ回す。リアルにステッキ振りまわすヒロイン見たいなあ、血みどろの。もとい「氷菓」は京都アニメーションが手がけているだけあってよく動くし展開も丁寧、表情とかもしっかり描けているけれども、展開としてやっぱり「だから、何?」ってところが生まれ得るのは元が無関心を標榜する少年の物語だから仕方がない。積極的に関わり突っ込んでいくキャラの方が動かし安くて見ばえも良いのがアニメの世界。「SKET DANCE」なんてまさしくそう。その逆を行く展開も小説なら虚無を味わい噛みしめられるけれど、アニメは何を楽しめば良いのか。その可能性を探るような作品としてちょっと追っていこう。退屈はさせないで。


【4月22日】 千葉県内にヨナの知り合いたちが住んでいるにも関わらず、チバテレビでは放送がない「ヨルムンガンド」をネットで見たらなるほどこりゃあ「BLACK LAGOON」よりも強烈だった。あっちは悪党が悪党として銃を手に持ち喧嘩の延長線でドンパチやるようなものだけれども「ヨルムンガンド」は武器商人とその私兵たちがお仕事として銃を向けては撃ち抜き命を平然と奪う。そこには葛藤も逡巡も優越感も恐怖心も何も無し。局面を制圧するため、あるいは自らの命を守るために奪う命もないでもないけれど、そうしたことは些末な理由で全体的な戦略のなかでそれが必要だからと判断すれば、すでに圧倒的な優位を保っていても相手を殺して平然と立ち去る。

 見ていったい人は何をそこから学ぶのか。と、考えるとなるほど健全さとは反対の虚無しか与えそうもなさそうなアニメとして、見せるに二の足を踏む世代ってのがあっても不思議はない。まあチバテレビはそうした判断というよりも枠の問題あたりから放送が外れてしまったんだろうけれども、高橋慶太郎さんの画く漫画の絵の決して無茶苦茶巧い訳ではないけれども、全体に漂う軽くて乾いて虚ろな雰囲気ってものがアニメーションになっても絵として、動きとして、演技としてしっかり出ているんでこれはなかなかに傑作と言えそう。2話以降をどう見るか考えてないけれど、そうでなくてもブルーレイが出たら買ってじっくりと見よう、バルメの胸とか尻とか。やっぱりそこか。そこだろ普通。

 「約束の方舟」でSF方面へと名前が抜けた瀬尾つかささんが本家古巣な富士見ファンタジア文庫から出した「スカイ・ワールド」はMMORPGの世界になぜか取り込まれてしまった人々の物語。気がつくとそこはちょっと前まで遊んでいたゲーム世界がリアルになった感じで、キャラクターは選んだスキルを持ったまま、戦いの中へと放り出されてしまう。別に何もしないでそこにいたって普通には暮らして行けそうな感じ。下手に戦って手元のタブレットの充電が整わないうちに負け続けると、それはつまり3回続けてまけると残量がゼロになってゲーム世界から消えてしまうってルールがあって、それが現実世界への帰還を意味するのか、現実世界での肉体の死を意味するのかどうかとなると、川原礫さんの「ソードアートオンライン」みたいなゲーム内での死は現実世界でゲーム機器を頭につけて意識不明になったプレーヤーの死に直結するような、シリアスな設定はまだ見えない。

 主人公は少年で割と強くてあちらこちらを旅していて、目指すは何層かある世界のトップへと行ってゲームをクリアして誰かがこうしてしまった理由を探ることだけれども、途中で寄った島で旅の途中にそこに落とされたまま、いつかくる飛行艇を待つあいだ、地元の女子ばかりのギルドにはいっていろいろと戦いをさせられながらもどこか居心地の定まっていない少女と出会い彼女が目指す脱出を助け、彼女と同じギルドにいて実は百戦錬磨のMMORPGのゲーマーらしい少女とも仲間になって、脱出に必要な飛行艇奪取の戦いに身を投じる。とはいえ既にあったギルドでは力もないのに年上だからと君臨していたリーダーが、配下の自立に不興を覚えてあれこれ画策。ゲームでも現実でもよくある人の狭量さが招く悲劇って奴を見せつつ、それをどういなしどう進んでいくのか、なんてことを教えてくれる。MMORPGのチュートリアル的設定。それでいて謎も含んだ展開の向こうにあるのはどんな世界? 主人公が探し少女がすがるキャラの目的ともども先に興味。

 そんな「スカイ・ワールド」を読んでいたらファンタジア大賞にラノベ文芸部門なんてのが出来たってことが巻末に書いてあって腰が砕ける。なんだラノベ文芸って。ラノベってそれそのものが新しくって新鮮で同時代的で画期的でスタイリッシュでスーペルな文芸の一形態だと思っていたから、敢えてそこに旧時代的な文芸を求めるような動きをすることにまずはどうにも不思議感を覚えてしまった。「“いまのファンタジア文庫”にはないものを書きたい方」に対して「一般文芸と呼ぶには元気なエンタテインメント小説」を求めるというこの部門の趣旨。でもなあ、そうした一般にカテゴリーエラーって呼ばれ排されるものも含めてファンタジア文庫として抱え込み、可能ならそのレーベルで出していけば、豊穣さはより強まるのにそこで敢えて「ラノベ」という枠組みを規定してしまって、当てはまらないものを「ラノベ文芸」という枠組みに放り込むのは、何か勿体ない気がしないでもない。

 まあ読者の方で「これこそがラノベ」的規定が出来てしまって、それに外れるものを忌避するような空気が出来てしまっている状況で、カテゴリーエラーに挑むのは商業出版社として難しいという理屈も分かる。ただ読者の要求に応えすぎてより先鋭化を進める共存関係、共犯意識がさらにカテゴリーの条件を厳密化してしまってエラーを許さない認めないって空気を出しているんだとしたら、それは本末転倒。その打破をレーベル内でファンタジア大賞として模索し挑み、結果はすぐ出ずともしばらくのプレゼンを経て地均しをしていけば、結果としてレーベルとしての豊穣さも大きく深まると思うんだけどなあ。かつて桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」を出して一般文芸の読者にその存在感を見せつけた富士見なんだから、やって出来るはずなんだけれど。それすら世間が許さなくなって、枠組み設定にレッテル化をしないと、注目されない時代になってしまったのかなあ。

 まあこうした動きの背景には、おそらくは「ビブリア古書堂の事件手帖」が200万部だなんて大ヒットをしてしまったメディアワークス文庫への意識があるんだろうけれども、あれの元になった電撃文庫ってところは後発レーベルとしての特色からか、無理にライトノベルっていう規定をせずにさまざまなものを貪欲に取り入れ、出し続けてきた経緯がある。あそこじゃなければ「バッカーノ!」だって「狼と香辛料」だってきっと出ず、「デュラララ!」なんてシリーズが大人気なるような今を招くこともなかっただろう。なるほど萌えもあれば妹もあってそれが売れている洋に見えるけれども、看板は「ブギーポップ」であったり「シャナ」であったり「禁書目録」であったりと、異能バトル系ではありながらも文体や世界観に味があったり設定が複雑だったり展開が独特なもの。有り体のテンプレートを当てはめたものでは決してない。

 なおかつそうしたものに交えて「半分の月がのぼる空」のような一般文芸にもありそうなフツーの小説を電撃文庫で出してみたり、「図書館戦争」をハードカバーで出してみたりといろいろな挑戦をやって来た。そうした模索の果てにカテゴリーにそぐわなくても、意欲的なら集めて出すという風土が生まれ、そしてそうした作品をより相応しい層へと届けやすい形で出すためメディアワークス文庫ってのを創刊して1年2年と挑戦を続けてきた。つまりは積み上げの中から自然発生的に生まれてきた文芸系ライトノベルのようやくのヒットを、見てラノベに文芸的要素を交えれば今行けると考えるとちょっと間違えそう。主人公が中高生じゃなければメディアワークス文庫ってて訳ではないんだ決して。多分曖昧なレーベルの振り分け。そこに意味性をもとめて分析なんかすると、かえって制約を作って自由度を狭めてしまう。

 あと富士見は過去にStyale−fとしてソフトカバーでライトノベル作家の作品を一般向けに出す挑戦をやってた経緯があるんだけれど、その時の内容は伴っていたのに届く範囲に届いたか否かを考え合わせていかないと、ラノベ文芸ってのを作ってもラノベの人は読まず文芸の人は気づかないという虻蜂取らずな状況で終わってしまいそう。本当、一般の読者も一般層に影響力を持つ書評の人も、ラノベレーベルの挑戦やラノベ作家の進出にとんと目を向けないんだ。あれだけいろいろ世に出ているのに、書評誌とか作品や名前が載ったためしがない。せいぜいが高殿円さんの「トッカン」だけれどラノベ出身というプロフィールを知った途端に文体やキャラがラノベ的、なんて言うんだもんなあ。何でかなあ。まあしかしいろいろと面白げなものが集まって世に出るきっかけが増えるというのは良いことなので、書く人はいろいろ書いて応募して読む人は既成概念にとらわれず読んで世に出してくださいファンタジア大賞ラノベ文芸部門。僕も何か書こうかな。告発本とか。今の身上ののっぴきならない閉塞感に対しての。

 久々に本当に久々に日比谷図書館に行ったけれども前の作りを忘れていたのでどう変わったのかがさっぱり不明。いずれにしても綺麗になた館内のホールへと入って5回目を迎える「大学読書人大賞2012」の討論会を聞き入る。その論旨の明晰さと他の候補作を牽制する巧さでもってこれが来るかなあと思った中央大学推薦の伊藤計劃さん「ハーモニー」がやっぱりの受賞。早川書房はこれが初の受賞か。伊藤さんは去年にも「虐殺器官」が候補になっていたけど2位に留まり残念だっただけに雪辱。といっても当人は既に亡く喜んでもらえたかは不明。贈賞式では誰が受け取ることになるのかな。


【4月21日】 まあトトロだったね。田舎に来たらそこにいた怪物が味方してくれて家族のピンチを救ってくれるという、「となりのトトロ」に重なるフォーマット。とはいえ子供には感じられる自然の畏敬をトトロという不思議な生き物に仮託して描いた「となりのトトロ」と比べて、沖浦啓之監督による「ももへの手紙」は、分別もつきかけた小学6年生くらいのももと少女が、重たくのしかかって来た父親の死という現実、それに伴う瀬戸内海の島への転居という現実を、どうやって受け入れて良いのか分からないと逡巡し、困惑しながらも乗り越えていくって成長を、妖怪たちの存在を挟むことによって楽しさの中に描こうとしたストーリーって言えるのか。

 野菜を盗ったり子供の品々を盗んだりと、悪さもする妖怪たちは決してももの見方って訳ではない。ただ見守っているだけという本来のスタンスがそれを表していて、ももはだから悩んでも怯えても自分ひとりで何とかするしか道はない。母親の笑顔の裏にある不安にも、自分自身で気づいてそれに答えなくちゃいけない訳で、妖怪たちはそれにまるで手を貸そうとしない。ただほんのちょとだけ、気を紛らわせ気をそらしてくれる存在として妖怪たちは友好でそれによってベクトルが後ろを向いていたももの気持が前へと向いて足を踏み出し世界を受け入れ理解の果てに進み出す。トトロも猫バスももやって来ないけれども、その分、自分で進むことは出来るんだ。そう子供たちに聡し導く物語なのかもしれない。

 絵はさすがに細かくってよく動く。船から島へ、そして家へとつながっていく展開はともすればゆったりとして迂遠に思えるかもしれないけれど、そうやって刻まれた話のテンポに慣らされた体は最後までそうした展開についていき、時折のアクションとかコミカルな展開によって刺激を受けてそしてクライマックスへと連れて行かれる。切れば30分だって切れて今敏監督が目指していた90分前後の作品に治められたかもしれないけれども、それではあのゆったりとして流れる瀬戸内海の空気感、そこでももという少女が父親の死を飲み込み理解し昇華していく心の様子を、描けなかったかもしれない。だから正解、と見ておこう、うみちゃんが妖怪を見られたというエピソードがあんまり効力を発揮していなかったとしても。これでもうしばらく沖浦監督は作らないのかな、次はだから絵の凄みを活かした活劇を、見てみたいんだけどなあ。期待しつつ。

 前クールちゃあなるほど前クールだけれども、日曜午後5時からやってた番組として比べるんなら次のクールは「青の祓魔師」であって、こちらは制作会社こそA−1 Picturesながらもパッケージの販売はアニプレックスということで、前クールに放送されてた「STAR DRIVER 輝きのタクト」と同じところ。制作会社との組み合わせで言うなら、「スタドラ」はBONESとアニプレックスな訳で、時間帯的には「鋼の錬金術師 FLUMETAL ALCEMEST」と比べてどうこう言うならまだわかる。

 それが同じMBSが扱っていながら時間帯は深夜でまったく違う上に、TBSでは放送がなくってネットとか、ローカルとかBS11とかでひっそりと放送されていた「TIGER&BUNNY」のヒットの引き合いに、どーして「スタドラ」が持ち出されて来なくちゃいけないのか。「タイバニ」はだいたいがサンライズ制作でパッケージはバンダイビジュアル。同じ組み合わせなら「境界線上のホライゾン」があるしMBSって意味なら「機動戦士ガンダムAGE」があったりする訳で、そうしたものと「タイバニ」を比べてどうこう言うならまだ分からないでもないけれども、ネットのメディアは「スタドラ」と「タイバニ」を同列に並べる記事を書いて来た。

 もちろん純粋にヒットしたか否か、ってことだけでその内容を比較しているんだったら良い。確かに「スタドラ」は綺羅星十字団の女性幹部の露出がとってもぷりぷりだったり、美少年どうしの妙な関係なんかを描いてみたりといった、昨今の流行りを取り入れ受けを取りながらも、謎をちりばめるだけちりばめた物語が、大きくふくらみきらないところで収束してしまって隔靴掻痒、寸足らずの印象を残してしまって、ブルーレイディスクの購入意欲を大きく殺いだ。ニチ・ケイトのカラオケでの歌と踊りだけでは頑張れないくらいの落ち込みを僕には与えた。うんそうだった。まあそのあたりはきっと劇場版で補完されるんだろうけれども、スカッとした印象を残せなかったのは紛うことなき事実。それが「魔法少女まどか☆マギカ」のようなムーブメントを起こすに至らなかった原因かもしれない。

 問題はそうした「スタドラ」が力を入れて失敗したから、「タイバニ」にはまるで期待がかかっていなかった、というロジックのもって生き方。そんあ訳あるかいな。確かに放送枠は狭かったけれどもそれは日5という看板として作られていた「スタドラ」に対して、「タイバニ」はタイトル的にも絵柄的にも新機軸ということでいろいろと模索をしていただけのこと。大きく広げるよりも小さく狙って探りを入れる段階の作品として、看板作品とは違った意味合いの期待をかけて送り出したんじゃなかろーか。だいたいが期待の主体はどこなんだ。テレビ局か。すでに決まっている日5の枠に入ってないんだから期待をかけるも何もない、日曜9時の「南極大陸」級ドラマと火曜深夜とかの「荒川アンダーザブリッジ」的ドラマに同質の期待をかけて送り出す心理ってのがそもそもないのに、「タイバニ」には期待してなかったと分析するのがどうにも分からない。

 一方で制作会社としてはやっぱりそれなりの期待というか、野心は抱いて作り出したってことが専務の宮河恭夫さんが去年のアニメ関係イベントで語った内容なんかからも見て取れる。キャラの設定からスポンサー企業への解放、そしてキズナを盛り込んだ内容によってそれなりに、ファンを得て浸透させていくって戦略が見事に当たって口コミによってヒットを得た。ネットを使ったのはテレビ局が使えなかったというよりおそらく、全国へと展開できる利点も考慮してのもの。ローカル5局でそっと放送してはい終わり、ではない伝播力でもって全国区の人気を得た結果は、予想を上回ってはいても計算外だったってことではない。そもそもこれだけの人気を当人たちはまだまだだって思っているからニの矢、三の矢をつがえて映画にイベントに邁進してる。そういった作り手の頑張りを、見ないで最初は期待してなかったなんて断じるのはちょっとズレている。

 つまるところは「タイバニ」は期待よりも受けた、という話を作りたいがために期待されながら今ひとつだった、というレッテルを貼るに相応しい作品を探して「スタドラ」を引っ張り上げたといった感じか、「まどマギ」じゃあ比べようがないし「青エク」では人気要素をぶちこみながらも大袈裟すぎて外してしまったという「スタドラ」に対するような見解を使えない。言ってみたいことのために頑張ってでもいろいろと材料を集め時に曲げてでもくっつけてしまって組み立てられた論旨は、けれどもやっぱりどこかに隙間が出るようで案の定、いろいろといわれてしまっているんだけれど、そこはインパクトでもってアクセスを集めたら勝ち的なネットメディアの開き直り、ってことでもあるんだろうなあ。最初っから煽り上等で来るところもあるし。それでいったい紙のメディアに勝てるのか。ピューリッツァー賞を取るようなネットメディアは生まれるのか。ちょっぴり寂しくも思う今日このごろ。

 でもまあ紙のメディアの最低サイアクな訳でありまして。任天堂が「ファイアーエムブレム」の新作でもってついに“ネット課金”とやらを始めたって朝日新聞が書いて大問題に。つかそれ、追加シナリオの販売とかであってそれを装備しなくちゃ強くなれず勝てもしないから見栄っ張りが買うようなアイテム課金とも、集めれば嬉しい気持になってついやり過ぎてしまうガチャともまるで違うもの。ラブプラスで言うAR機能の拡張ソフトにも似たものであって、楽しんだあとに幅を増やす材料を、改めて追加販売しているそれが、世間で問題になっているソーシャル系の課金とどーして同列線上に並ぶのか。並ぶ訳ないじゃん。

 むしろそうした記事をネットでは、先っちょだけ見せて後は課金して読んでねって繰り出す朝日新聞のスタンスの方が、よっぽど“ネット課金”の問題を体現している。まあ読みたいって思わせないから良いけれど。そこは「ファイアーエムブレム」以下。もちろんおそらく書いた記者はそれがどういう意味合いのもので、ソーシャル系の課金で起こっている子供たちが買いすぎて請求が膨らみすぎて困るといった問題とは、まるで違った次元の話だってことは分かっているだろう。分かっていなけりゃただの間抜けだ。むしろ問題なのは、そうした材料を引っ張り出しては、世間で問題になっているネット課金云々とくっつけ問題視しようぜ、ってストーリーを作り上げてしまうデスクとかいったレベルの方だったりする。

 なおかつ任天堂は3DSが売れずに大赤字だから遂に禁断の果実に手を出したんだ、なんてストーリーもくっつけはい出来ました的なドヤ顔を見せているけれども3DSって去年も今も世界でもっとも売れているゲームハードだし、日本で去年出たミリオンヒットのタイトルはどれもニンテンドー3DSに対応したもの。それで売れてないなら世界のゲームがもはやどれひとつとして売れてないってことになる。それは大袈裟か、アメリカではミリオンは割と出ているみたいだし。ただ任天堂が大赤字なのには急激な円高の影響もあって、昨今の円安で多少なりとも回復してるんじゃなかろーか。にも関わらずそうした要因は見ないふり。だってストーリーにそぐわないから。牽強付会はネットメディアにお得意だと思っていたら慎重であるべき新聞までがこの体たらくではもはや一体、何を信じて良いのやら。


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