縮刷版2012年3月中旬号


【3月20日】 まだ世間を知らないままただ恐怖心から覚え慌てふためいていた少年の頃を今になってふり返り気恥ずかしさに悶えながらもやっぱり未だ慣れない他人との接し方に迷う夏目の姿って見ていてあんまり心地良いものじゃないけれど、そうした展開をヘルからこその第4期の多分エンディングになる来週の今の仲間達との再会が嬉しくて楽しいものに思えてくるんだろうなあ、アニメーション版「夏目友人帳・肆」最新話。地下鉄みたいなところから上がってきたけどあれはいったいどこの駅? そしてすっかり格好良くなっていてもやっぱり妙な夏目を嫌がる少女の勘はそれはそれで正しい。夏目もいい加減慣れないものなのかねえ、知らない顔をして慌てないふりをすることに。

 折角だからと東京国際フォーラムで開かれた福島県を応援する物産展を見物に行ったら超込んでた。入れても目的の浪江焼きそばには届かず喜多方ラーメンも長蛇の列で会津そーすカツ丼ですら行列ができていたんで、すんなりたどり着けた鳥モツ煮込みだけ食べたらこれがなかなかに美味かった。煮込んであって臭みはなくって脂身がぷりぷりとしていい噛み応え。そして味も染みててこれならご飯に載せて丼にしたって十分行けるんじゃないかと思った。辛みはラー油か何かかな。東京ドームでの「ふるさと祭り」でも見かけなかったけれどもちょっと注意して福島物産展の開催をチェックして、出るか出ないかを調べよう。浪江焼きそばもその機会に。

 っていうか福島の県産物にこれだけのおおくの人が集まり親しんで買っているというのにいったいどーして世間には福島から遠く離れた場所の物が来るというだけで大騒ぎする人が居るんだろうかが分からない。そういう人たちにとってはすべての中心地ともいえる福島の物が県境を越えて動いていることは、目くじら立てて神経尖らせてやいのやいのといってしかるべき事態なのに、集まってきて面と向かってそういう人なんていやしない、っていうか現実問題言えるはずもない。そこには問題がないわけだし、あろうとなかろうと対面で言える人なんてそうはいない。けどそうでない事態に、電話やらネットやらなら激しい言葉をぶつけられるる人たちってのが現実問題いたりするから悲しいというか難しいというか。そういう人たちのところに現地から歩み寄ったら何か進展はあるのかな。面罵できたらそれはそれで凄まじいリアクションを生みそうだなあ。

 早々に退散してまるで「ちはやふる」の千早みたいな格好の人がいっぱいいる間を抜けて今日はかるた大会か、なんて思ったというとそうでもないのはみんながめいめいに卒業証書を持っていたから。つまりは卒業式に来ていた女子たちで、一生に一度くらいしか着けない袴姿であちらこちらを闊歩していたけれどもそんな姿がかつては日常的だったと思うとどーして、今、復活しないんだろうかって気にもなってくる。もしも面接官で向こうに黒いスーツではなく地味でも仕立ての良い和服で袴のハイカラさんがいたら何か良い点数、着けたくなちゃわないか、ならないか。花村紅緒か綾瀬千早ばかりとは限らないからなあ、袴娘は。そういうものだ。でもせっかく「ちはやふる」が流行ってきたんだからここは是非にムーブメントを。卒業式じゃない場所でも着用の推進を。

 有楽町から上野へと回って上野の森美術館で「VOCA展」。もういったい何回目になるんだろう。そういや最近あんまり行ってなかったけれどもかつて第一生命なんかを相手にしていた時にそんなイベントを支援しているって教えてもらってからかれこれ20年近く経っていながら、未だ続いているところにあれでしかり腰を据えて現代美術を応援しているんだなあって姿勢が伝わってきて嬉しくなる。継続こそが命なのだから。たとえ中身がパワーダウンしていようともそこに賞が続いている限り、窓となって誰かを羽ばたかせる力を持て居るのだから。

 という訳で見たけどたしかにうーん、福田美蘭さんとかやなぎみわさんとかが展示されてた時みたくドッカーンと来るような熱量ってものにはやや足りてないような気もしないでもなかったけれども1点1点をみればそれぞれに工夫もあってメッセージ性もあるような作品ばかり。最初の1階では真っ暗な海を囲むように堤防だか街だかが伸びてる絵が大胆過ぎる構図とともに目に夜の港の美しさと寂しさってものを感じさせてくれた。誰の作品だったっけ、名前チェックしてないんで思い出せないや。そして2階では富山大学なんてアートの界隈からは割と遠く離れた場所にある国立大学の美術コースから推薦されて来た、高橋ゆりさんって人の「儚くも嘘吹く」って作品が、松井冬子さんのような女性の生々しさを伺わせつつも幻想性を持った内容になってて見ていて引きつけられた。伸びる白い化け物は鯨かそれとも龍か。そのまま幻想文学なり純文学なりの表紙絵に使ってみたくなる作品だけれど他にはどんなの描いてるんだろ。気になったんで今後を気にしよう。

 それからこれも女性で近藤智美さんって人の絵がまた巨大な顔だったり絡み合う女性や子供たちだったりして見て迫ってくるものがあって1発で気に入った。巨大な顔は加藤美佳さんもよく描いていたけれどもそれとは違ったアクリル風のキャラっぽい絵。でもリアル。そして横に接合されたコラージュ風の作品には女性がいたり子供がいたりむつみ合う男女がいたりしてと混乱と猥雑の中に喧騒の日常って奴が凝縮されている。何より全体に巧いんだけれどカタログの説明によると専門の美術系学校を出た訳ではなくって東京に来てヤマンバやってから似顔絵書きみたいなことから絵を描き初めてそして美術へと入って今に至るという、いわゆるアウトサイダーからの乱入。とはいえアウトサイダーアートのような無秩序を離れアートとして思想を込め意図を込めた作品を描くようになって去年あたりに本格的に世に出てきたという。

 つまりはまったくの新鋭なんだけれどもそんな人を送り出して展示してしまえるところに、キュレーターの思い入れを受け止めるVOCA展って場の面白さがありそう。ときに情実とかにもつながりかねないシステムだけれど、こうやって展覧会として推薦者もアーティストも作品も世にさらされている状態で、邪な意図なんてあっというまに素っ裸にされてしまうから意味がない。本気の冒険を挑める場としての機能がだから果たされるってことで、この近藤智美さんはそうした恩恵を受けて世に問われたって言えそう。そして見事にハマった僕がいる、と。ショップには簡単なフレームに入れられたポートレート風作品とコラージュ風作品がフォトプリントによって打ち出されエディションナンバーが入れられて売られていたんで2種類とも購入、各5000円が高いか安いかは知らないけれども気に入ったんだから仕方がない。いずれもっともっと世に出て爆発してくれるかな。本人キャラも結構来てそうだし。個展があったら絶対に行こう。


【3月19日】 どんどんと本格SFに入っていく「モーレツ宇宙海賊」。笹本祐一さんいよる原作の「ミニスカ宇宙海賊」を読んでいれば、それが可愛い女の子が表紙になっている体裁によらず本格スペースオペラだってことは先刻承知な訳だけれども、アニメでいきなりハードなSF設定を見せたところで、免疫のない人はちんぷんかんぷんになるのが落ち。なのでまずは可愛い女子高生が海賊にさせられさあ大変、ってコミカルっぽいところから始め、だんだんと世界のシリアスさって奴を見せ、宇宙のハードさって奴を感じさせるようにしてそして本格的な戦いへと、持っていくあたりが構成に当たった人の工夫かも。見事に当たって多くが知らずあの世界に引っ張り込まれている感じ。あるいは前評判の高かった「輪廻のラグランジェ」を上回って、このシーズンのトップに挙げる人も多いかも。

六本木は地下鉄からワンピース  緩やかなところから始めたのは、見る人だけじゃなくって出る人のことも考えてのことだったみたい。加藤茉莉香がただの女子高生から海賊となってその仕事に慣れていくようにしていく展開にすることで、演じる声優の小松未可子さんもすっかりキャプテン茉莉香になれたところで、本格的な海賊営業モードへと突入させ、慌てず怯えない冷静沈着な判断を下す様子を、声優さんの成長に重ねて演じられるようにしたみたい。今週当たりはもはや聞いててまるでキャプテンとして違和感がなく、若いのにとっても信頼できそう。だから王女さまも心を預けられるんだ。そんな展開はいよいよ黄金の宇宙船をめぐる大きな展開へ。グリューエルはいったいどうなるか。そして弁天丸は。ああ楽しみ。っていうか弁天丸って艦橋じゃないところにいっぱい人、乗ってたんだ。

 ハッピーマンデーってどーなったんだっけ、それは日曜と祝日が被った時の救済措置だったっけ、飛び石連休の谷間を埋めるようには出来てなかったんだっけ、なんて訝りつつも仕方がないので早起きをして六本木ヒルズへと向かい明日から始まる「ONE PIECE展」の内覧会を見物。前に「ドラゴンクエスト展」をやったりして、森アーツセンターギャラリーもメーンストリームの現代美術を展示する森美術館とは違った路線を歩もうって姿勢を見せていたけど、それがさらにパワーアップした形で登場。日本の国民的な漫画として、もはや数字的には行ってしまった「ONE PIECE」を題材にして、そのファンを大勢読んで盛り上がろうって意欲が迸った展覧会になっていた。

 まずは麦わら海賊団をはじめ海賊旗のマークが並んでどれがどれやら。じっと見るとゾロがモチーフになっていたりウソップがモチーフになっていたりするマークもあって、彼らはつまりその後独立していくってことなんだろーかと考えつつ、入った展望室脇にそびえる巨大なマスト。サウザンドサニー号かゴーイングメリー号か区別はつかなかったけれども、とにかくそれを見上げるだけで何かそこが「ONE PIECE」の世界のような気がして来る。でもって入ってまず見せられる映像が凄い。昔のシネラマみたく弧状になったスクリーンに、やっぱりシネラマのように3点から投射する仕組みなんだけれども、その映像がちょっぴり細工してあるスクリーン側に写った時に、向こうから本が飛び出しルフィが現れるような気にさせられる。工夫したなあ。

 映像自体は基本的には漫画のシーンを切り抜いて再構成したものだけれども、デジタルコミックよろしくフキダシなんかを動かし画面を見せる順番を工夫することによって、まるで動くアニメーションを観ているような気にさせられる。それも立体アニメーション。決してそうではないんだけれども、ぐんぐんと迫ってくる迫力のシーンにいつしか自分たちもルフィの船に乗って、大海原を突き進んでいるような気分を味わえる。そして続く部屋では、ボア・ハンコックがメロメロメローな光線を放ったりニョン婆が占いをしたりとまるで女護ヶ島。さらにインペルダウン刑務所になって捕らえられたエースが居てと、マリンフォードでの悲劇へと続く直前の緊迫した空気がそこに漂う。と思ったらイワンコフがデスウインクをかましてくれた。気がほぐれた。

 マリンフォード決戦のあたりのコマをでっかく壁一面に張り付け、擬音も書いてみせた通路はまさしく「ONE PIECE」世界の胎内めぐり。エースとルフィの今生の別れをえがいたシーンのこれはまさしく原画が展示してあって、貼られた写植に書かれた言葉に浮かぶあの感慨。そこからもう随分と来てしまったんだよなあ、連載も。魚人島だかシャボンディ諸島だかの雰囲気を味わえるコーナーやら、単行本の表紙をそのまま立体にした人形が並ぶコーナーやらも用意。人形はナミさんがとにかく谷間が凄く尻も半分見えてて、近くに寄って目にものを見ることをお勧め。ロビンも胸が凄いけれども角度的に正面から見られないんで、後ろに回ってやっぱり尻を見るのが重畳。

 そして原画が並ぶ部屋があって、そこには作者の尾田栄一郎さんの机を再現したような展示もあって、ついついどういった環境からあの作品が生まれているのかを見入ってしまう。現実には会場で配られている、朝日新聞の小原篤記者インタビューによる尾田栄一郎さんのコメントなんかが載ったペーパーに添えられた写真が、本物の尾田さんの仕事場でそこには膨大な本があり、道具があって小物もあってとプロの机っぽい。それに比べれば会場のはややエンターテインメントっぽくはなるけれども、灰皿なんかは同じものが置かれているんで雰囲気だけは味わえそう。そんな机の上に吊り下げられた絵がまた良い。沸き立つ発想が上昇気流となって吹き上がっているような雰囲気。そんなどんどんといろいろ生み出せるクリエーターになりたいなあ。

 せっかくだからとオフィシャルショップでクリアファイルと手配書ポスターを購入。手配書ポスターはランダムに入っているようで、ニコ・ロビンよ出ろ出ろと願って開けたらチョッパーだった。そりゃ可愛いけど。人気だけど。でもなあ。ウソップかバギーじゃなかったのを良しとするか。バギーって入ってたんだっけ。そこから3階へと降りた先にあるミュージアムショップも展示に合わせてワンピース色に半分くらい染まってた。フィギュアがショーケースにならびぬいぐるみが置かれトレーディングフィギュアだとかグッズだとかが山積みに。秋葉原界隈だとセット売りしかしてないフィギュアもバラで帰るんで新世界バージョンのナミとロビンを購入、愛でよう胸と尻の谷間を。


【3月18日】 「まず、あなたは、今日の朝、パンかご飯かシリアルコーンを食べたわね? それか、朝食は抜いてきたわね」って銀髪の美少女に面と向かってつきつけられた推理に答える言葉があるとしたら「なんてこった、彼女のいった通りだ!」。つまりは当たってるってことでだから彼女は名探偵ってことになるかっていうとならねーよ。でもそういう戯れ言まみれではなくって村田治「名探偵は推理しない」(創芸クリア文庫)は近隣で起こるSNSを舞台にした失踪事件に絡んだ謎をその銀髪の美少女が圧倒的に答えて解決してみせて、犯人の姿を暴いてみせる。いやあそうだったのか。

 過程をすっ飛ばしてまずは答えを感じ取りそこから理由を帰納的にくっつけていく推理が正しいかどうかは脇においても結果が正しければそれは正解ってことでそうやって解決される幾つかの事件の裏側にある、人の痛みを心に感じない人達の存在ってものに心向けさせられ、そういった面々によって現実に何か起こされるおとがあるとしたらどーいったものになるんだろーといった想像をかきたてられる。あんまり見たくないけれど。ともあれひとつ事件は終わってもそこに現れた謎の男。おそらくは主人公の少女とも、サブの少年とも関係のあるその人物が嘯き導く事態から少女は、少年は世界を守れるのか。そんなドラマがこれから見られると信じて続きをまとう。

 日本推理作家協会賞が短編賞に三上延さんの「ビブリア古書堂の事件手帖2」に収録の1編「足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)」を候補に挙げているって話を聞いて、おいおいあれはあれで連作の1冊として長編として見るべきなんじゃないか的な思いから、どーしてそこにノミネートしないんだと考えつつ一方で、そうした部分は出版社の思惑とか力関係とかが割に出やいもの、確か長編は出版社の推薦でのノミネートになっててそこに、新興アスキー・メディアワークスが入るのは至難だけれど、短編ならってことでそこに入れることで、決して見捨ててはいないし見逃してもいないんだってことを世にアピールして、作品の素晴らしさを伝えようとしているって考えることも可能だったりして、あれでなかなかクールな態度なのかもしれないと感じ取る。

 そうした融通とはまるで無縁なのがたぶん芥川賞で、基本的には「文学界」「群像」「新潮」「すばる」「文藝」といった文芸誌に載った短編じゃなければノミネートされず、たまに話題で「早稲田文学」が入っても賞に至ることはなかったりする。ましてや出版された単行本に初収録の短編なんかが候補に挙げられるなんてことは、天地が1億回ひっくり返ったってない訳で、けれどもそうしたところで発表されたりしている良作の短編ってのは確実にあったりして、そこにまるで目を向けない内輪の賞の渡し合いを、さも文学の頂点をめぐるイベントのようにとらえる文学の世界と報道の世界の妙さってものを、読む側ももっと考えた方が良いんだけれど、そういう風にはなっていないんだ世の中は。

 だからいくら凄くっても森田季節さんが「百合姫」に連載したものと、それから書き下ろしを集めた単行本「ノートより安い恋」(一迅社)が芥川賞はもとより何かの賞の候補になる、なんてことはあり得ないし、あり得るはずがない。一部の好事家に読まれてそれっきりという文壇された文学状況を何とかしたくっても、僕ではどうしうようもないこの虚しさと悔しさを、いつか晴らせる時は来るのかなあ。無理だなあ。っていうかこういう知る人ぞ知るエンターテインメントを取り上げ紹介する媒体として、「本の雑誌」なんかがあったはずなんだけれども、昨今のこの媒体でライトノベル系の作家が書いたソフトカバーの小説なんかが、紹介される可能性はほとんどない。

 同じ森田さんの「落涙戦争」も青柳碧人さんの「判決はCMのあとで」も、五代ゆうの「柚木春臣の推理」も多分スルーされて終わりそう。ライトノベルそのものに至っては、もっとも売れてる文庫だったりするにも関わらず、ここん家が出してる文庫王国では完璧スルー。そんな中にひょろっと「ビブリア古書堂」だげが入っているから妙というかつまみ食いも甚だしいというか。多分それしか読まないんだろうなあ。流行ってるってことで。でもそれがニッポンの本好きの頂点たちってことなんだ。

 昔の本好きってのはレーベルもジャンルも作家も分け隔てなく読んで、楽しめそうなものをいち早く紹介して紹介して、その作家に世間の注目を集めるようなインキュベーション的活動を楽しんでやっていた。でも今はそうじゃない。紹介して注目されそうなネームバリューを持った作家の本を取り上げることで、いっしょになって盛り上がっていくって感じが、どこもかしこも強くなっていて、そこにまるで知られていない新人なり新鋭を紛れ込ませるのはなかなかに至難。一方で読者の側ではそうした文壇的業界的な序列とは別に、勝手に読んで何十万部のベストセラーを作っていたりする。この乖離をどうにかしないと紙媒体はやっぱりいずれ離反され、衰退していくんじゃなかろーか。ってそういう筆頭な新聞の人間が何を言っても遠吠えだけど。嗚呼無情。

 せっかくだからと「ときめきメモリアルGirl’s Side」の10周年記念イベントを幕張メッセに見物にいったら99.99%が女子だった。いやもっと高濃度だったかもしれない。8000人とか来ている人で普通の客で男子なんて見かけて1人とか2人とか。嶽本野ばらさんのサイン会だって9割くらいに収まっているのと比べるとやっぱり乙女ゲームとして本気でプレーできる作品である一方で、乙女心を持っていたとしても男子はあんまり寄せ付けない底知れ無さがこのシリーズにはあるってことなのかもしれない。というか単一のタイトルで今年10年でその間にナンバリングでは3作品が出た程度のこのタイトルに、よくもまあ1万人近いファンがいるなっていうのがむしろ驚き。あれだけ隆盛を誇った本家「ときめきメモリアル」だって今、仮に2年後に20周年とかやったところでこんなに人は集まらないだろーし、6年前に向かえた10周年の時だって、何かやって盛り上がったって話は聞かない。

 寿命が短くサイクルも早いゲームの業界で、もはや恋愛シミュレーションなんて男子向きはエロゲーの世界に行くかあるいは「ラブプラス」のような新興ゲームにとって変わられていたりするのに乙女ゲームでは相変わらずに「ときメモGS」が強いというこの状況を何と見るか、女性ユーザーのゲームへの忠誠心の高さかそれともやっぱり作品としてちゃんとしたものを出し続けているということか。一時隆盛を誇ったコーエーのネオロマンスシリーズが最近、どーなっているかあんまり抑えてないんで分からないけれどもほんとど突発的に決まり開かれてそれでもしっかり1万人近くを動員するこの動員力を、コナミは大切にして守り育んでいくことで次の10年も乗りきっていけるんじゃなかろーか。決して外の人気キャラに頼らず内で作って育ててみせるあたりも評価したいところ。10年後にまた合いましょう、平均年齢が8歳くらい上がっていたとしてもあなた達は永遠に乙女だ。


【3月17日】 寝過ぎて早起きしてぼんやりとしてたら何か「はくさい君」がラジオデビューするってんでネットでNHKのラジオを流していたら長谷川祐子さんという東京都現代美術館の偉い人が山口晃さんとかと並んで未だ院生なタキタサキさんが生みだした「はくさい君」をフィーチャー。アーティスト本人も登場してはカブラみたいなキャラクターにハクサイと答えてしまってそしてそのまま定着させていった話が語られて、第一印象で誰もが抱く疑問に答えつつもその後の展開によってキャラクターは大きく成長していけるんだという可能性を垣間見せる。

 今でこそフィギュアなんかにもなってキャラクターとして扱われている感じだけれども発生は確か版画でそれも偉くリアルな風景の中にはくさい君ってポップなキャラクターがいたりする不思議な構図。見た人なら分かるけれどもビジュアルの見えないラジオで美術を紹介されてはちょっとやっぱり分からないのが悩ましいところで、そこは興味を持った人がサイトを漁るなり展覧会をのぞくなりして実物を見て判断して欲しいもの。あるいはMOTアニュアルとかで若手クリエーターとして紹介して欲しいもの。長谷川さん曰く「恐れと喜びを持って現実を見つめる目。日常に埋没している自分の心を洗ってくれる。世界と向き合ってない曖昧さを浄化させてくれる。そんな力がある」というはくさい君。満天下にお披露目されるのは果たしていつか。デザインフェスタあたりかなあ。

 流石に新潟は遠いんで同じ荒木経惟さんでも近場でやってる世田谷美術館分館宮本三郎記念美術館へと行って「荒木経惟 −人・街−」って展覧会を見物する。日曜日にIZU PHOTO MUSEUMで見た写真集の展覧会でいっしょに展示されてた「さっちんとマー坊」がしばらく前まで置いてあったみたいで、それ故にスクラップブックに大判の写真を貼り付けたものをスライドにして見せてた中にあった、女の子がスカート姿でゴムひもか何かの下をくぐろうとしているのか、リンボーダンス風にのけぞっていてしっかり奥とかが見えてしまってハッピーな1枚はもう世田谷では見られなかったけれども、代わりに同じようにスクラップブックに大判の写真を貼り付けた「動物園」ってシリーズがあってこれがとっても凄く凄まじく素晴らしかった。

 だってだよ女の子がトイレに入ってスカートだかタイツだかをずり下げてたりするんだよ。つまりだよ。そういうことだよ。あとお父さんが娘におしっこさせている場面とか。というか昔はそんなところも撮って見せても割とおおらかだったんだなあ。しばらく前の中国とかもトイレとかオープンっぽかったし東洋って割とそういうところが適当だったりしたのかも。あとこれはもうちょい年いったスカート姿の女の子が「さっちんとまー坊」に負けず足を両側に開いた格好でローアングルからとらえられていて奥まで見える見える。つまりはだからそういうことなんだけれどもこれもどーやって撮ったんだろう。今も変わらずとってるあの笑顔? でも昔の荒木さんってすっげえ痩せてて細くてまんだらけの古川社長みたいな顔してたんだよなあ。それでも受け入れられた緩い社会。住み心地も良かったんだろうなあ。

 そんな「動物園」のシリーズを女の子を見るためい3回くらい眺め続けていて思ったのは1966年当時って親子連れで行く動物園にあんまりベビーカーってなかったんだなあってこと。今だとそれこそ誰も彼もがベビーカーを押し合いへしあうように歩き回ってたりして、いったいこの子何歳だよって子供までもが大きい体をきゅうくつそうにベビーカーに入れてたりする姿に歩けよ歩かせろよとか思ったりもするけれども、まあ人それぞれなんで口では言わない。ただやっぱり圧倒的に赤ちゃんはベビーカーで連れ歩くって人が多くなっている現在に対して、1966年の写真に写った親たちはほとんどが子供をひもで背負って連れ歩いてたりする。それこそよそ行きの服を着て首にパールのネックレスをつけてたりする人までもが背負ってたりするから不思議というかそれが当時の当然だったというか。夫婦で母親が背負い父親も背負ってたりする姿にそういう時代があったんだなあと懐かしむ。

 子供とかいないし奥さんなんてとんでもない話なんでベビーカーの便利さってのは実はよく分からないんだけれど、移動の時に背負わないで済む負担の軽さはあっても、それだけのスペースを確保できる交通事情に日本が決してなってたりはしない状況も考えると、昔のそのシンプルさってのもそれなりに意味があったのかも。変わるライフスタイルに合わせて社会が変わるべきなんだろーけどそう易々とはいかないからなあ、費用もかかるし。「動物園」ではあと展示してある実物の開かれたページに写っている少女が目茶美少女だったってことか。和風の顔立ちをした娘もいたりするなかでその子だけがウエービーなミドルの髪をさっと流してクールな眼差しでもってカメラを見下ろしていたりする。着ているものはモヘアか毛糸ののカーディガン。きっと良いところのお嬢さんだったなろー。今いったい幾つかな。そして何をしているのかな。

 他の展示は1988年の「東京物語」と1990年の「冬へ」と1992年の「東京物語」という昭和から平成へと変わりバブルがピークからやや下がって弾けかけた時代ってのを映した3作品。そこに写っている東京はなるほど「動物園」の頃とは違って今と大きく変わっている訳ではないけれど、もうない渋谷駅前のビルとかがまだったり服装が当時っぽかったりして四半世紀にも満たない間に起こった変化って奴をどことなしに感じさせてくれる。当時はあれでまだまだ活気があって未来が信じられた時代。そのエネルギーって奴がたぶんそこかしこに滲んでいたりするんだろー。「冬へ」の時を経てひあすら下がり続けた現在の同じような光景を撮ってそこにいったい何が写るのか。その意味でも「冬へ」ってのは時代の大きな転換期をとらえた写真集だったのかも。タイトルも今に思えばとっても意味深。そこが炯眼なんだよなあ。アラーキーって写真家の。

 寒いんでやっぱりフクダ電子アリーナに行くのは止めて、家に戻ってまるで攻められないけど点も与えないペトロビッチな浦和レッドダイヤモンズの戦いぶりを見てまあ今年はこれでずっとしのいでいくんだろうなあと思いつつ眠り起きたらジェフユナイテッド市原・千葉が横浜FCに勝っていた。先週は京都サンガに惨敗したのに一変してのこの勝利っていったいどういうことなんだ。昔っからアウェーの勝負弱さは言われていたけどこうまでくっきりだとやっぱり明日が不安になる。アウェーはもはや力押しで一気に押し切るだけの戦術というか戦いを、見せて乗り切る覚悟じゃないといけないのかも。そういう時の兵器だったはずなんだけれどオーロイ選手どーなった。やっぱり未だ怪我なのか。


【3月16日】 「Caruta」Tシャツ欲しさに応募券がついているからと買った「BE LOVE」に掲載の「ちはやふる」を読んだらA級の決勝が行われている部屋に千早を誘って入ろうとする翠ちゃんの後ろでエロムが手をなにやらモミモミしたそーな姿をのぞかせていた。やっぱり翠ちゃんのそれをしたかったなろーか。千早と比べると一目瞭然だもんなあ。でも奏ちゃんにはかなわない。かなう人なんて「ちはやふる」世界にはたぶん存在しない。ああいた奏ちゃんの母ちゃんか。きっと凄いだろうなあ。

 そして部屋に入るといきなりザッパーンとした海の重さで圧迫される千早。綿谷新のその流法(モード)は東京まで大会に来ていた新を描いた最近のアニメで山内重保さんが絵コンテを切った回で動きを伴って表現されてて、そこのでザップーンとした重さが改めて絵になった時になお強く迫ってくる感じ。漫画からアニメと来て漫画に帰る印象の連鎖。互いに認め合い高め合っていってるだけにここでいったんアニメのクールが終わったとしても、後に描かれる分も含めて完結まで完璧に映像化してやって欲しいなあ。そのためにも買うよブルーレイディスク。

 そういやあ今週の後半録画し損なってたテレビの「ちはやふる」はコンテが今千秋さんだったんだ「のだめカンタービレ」の2期と3期をやってそして「うみねこの鳴く頃に」とか「世界一初恋」の監督もやってた、って何かジャンル多彩過ぎるけれども総じていえるのは作劇のまとまりでユルまずヌけずしっかり見せてちゃんと終わって次へと繋げる巧さ楽しさ。まだそんなに歳でもないのにこんなにいっぱい作品やっててそれもマニヤ向けではない一般性を持った作品を出来る人ってあんまりいないだけに重宝される、ってことなのか。

 「のだめ」の時に話を聞いたらやっぱりやりたがっていた「ちはやふる」。でもマッドハウスに決まって監督が浅香守さんになってJ.C.スタッフとかで仕事をしている今さんには出番ないかなあ、って思っていたらちゃんと今回絵コンテにて参加。評判も上々だったみたいで改めてその存在感を知らしめた。後半がどうなっているのか見たいなあ。ブルーレイまでしばらくかかるし。しかし川尻義昭さんといいいしづかあつこさんといい山内重保さんといい凄い人たちがいっぱい絵コンテ切ってる参加している「ちはやふる」。その多彩さを1つのアニメにまとめる監督も凄いけれどもでもいったい、どんな風にコンテが切られているかを知りたいなあ、それはきっと後継の人にとっても勉強になるから。高くても良いから出さないかなあ。2万円くらいまでならきっと出す。3万でも良いかな。

 ぼんやりと早朝のニュースを見てたら吉本隆明さんが亡くなっていた。享年87歳はかつて論争した埴谷雄高さんと同じ年齢かあ。2人とも結構長生きしたなあ。個人的にはまるで影響なんて受けてない世代で、「共同幻想論」も新社ではない河出書房の発行の物を古本屋で買って積んであるけど熟読したって記憶がないし。「マス・イメージ論」も何が書いてあったか覚えてない。同世代への影響力って意味ではやっぱり“新人類”の“神々”とされた人たちであって思想からよりポップカルチャーへと寄った層が思想による武装をした言説でもって若い人たちをちょろまかしてた。まあ僕もちょろまかされた1人だけれど。

 そんな状況にこれは吉本さんが”降りて”来たって格好になるのか、例の「アンアン」でのコム・デ・ギャルソンをまとって登場して埴谷さんから突っ込まれた「コム・デ・ギャルソン論争」だけれどなるほど当時は大流行していたDCブランドの1つをまとってあマガジンハウスだなんて商業バリバリな雑誌に出てきて何だこのおっさんとか思ったこともあったかもしれないけれどもそれから四半世紀、経ってふり返ってみると数多あったDCブランドの多くが流行に揉まれ衰退して消えていき、欧米の伝統ブランドにやっぱりあっさり駆逐された中でコム・デ・ギャルソンだけはイッセイ・ミヤケと並んで未だ健在に残り世界と互している。

 デザインとか確かに奇抜になったりすることもあるし、色も時々派手になったりするけれどもそれは別にその年限りの「モード」ではなくって人間の、何かを表現する上での手段をひとつ、示しただけで年が経てば古くなるってものじゃない、だって人間は変わらないから。そんなデザイン性に加えて使っているテキスタイルが普通じゃなくって選び抜かれている上に縫製もしっかりしていて1年2年でほつれたり破れたり崩れたりしない。そんなクオリティも含めて“本物”だったブランドをあの大洪水のようなDCブランドブームからより分け身にまとったんだとしたらある意味で炯眼だったかもしれないなあ。いや単にやっぱりその時の“頂点”を編集部が着せただけかもしれないけれど。

 ともあれ1つの時代も終わって見渡してそうした思想面でのリーダーって今いったい誰がいる? って考えるとうーん、訃報にコメントを寄せていた梅原猛さんも年齢的には吉本さんと同じ世代だし追悼番組をニコニコ生放送でやってた宮台真二さんも橋爪大三郎さんも社会学者として現在を切り取り解説してくれる有り難さはあっても何か流を作り出すような影響力とか、本質をつくなり本質めいたものを作り出すこととなるとちょっと。柄谷行人さんとか最近そういやあんまり聞かないなあ。

 期待するのはやっぱりあずまんこと東浩紀さんなんだけれども、今は自分で発信するより多くの人を誘い言説をひろってまとめあげる仕事の方が手一杯。象牙の塔にこもって呻吟するより時代の流れに乗って突っ走っている方がらしいといえばらしいんだけれどでもいつか、呻吟の果てに時代もジャンルも越えて本質を見抜くような言説を、現してくれると楽しいんだけれどさてはて。しかし結局本物を1度も見るとことなく終わった吉本隆明さん。娘のばななさんは何か展覧会で見たことあったけどやっぱり1度は歴史の1枚として見て起きたかった。そう後悔しないためにも時代の有名人に会いに行こう、って誰がいたっけ、今。そこがやっぱり混沌の時代の証明か。


【3月15日】 スピード違反をしていたかどうかは関係なしにトヨタ自動車で木村拓哉さんと北野たけしさんの2人が戦国武将の転生者って形で出演しているCMが、まるでつまらなくってつまらなくっていったいどうしてこんなにつまらないのかを考えてそうそう、信長だったり秀吉だったりする必然性が転生した2人にまるで見あたらないってことに思い至った。これが小説の「殿がくる!」とか漫画の「最後のレストラン」だったら信長は信長として破天荒に振る舞い、現代に波乱を起こしてそのうえで行きづまった社会に風穴を明ける。

 でもキムタクの信長って何かした? 車にのって喋っているだけでその存在が現在に何の風も起こしてない。秀吉だって絢爛さでも陽気さでも良いからみせてこの空気を吹き飛ばせばいいのに達観した表情でぼそぼそ。そこにどんな希望を見れば良いんだ。おまけに新しくでてきた伊達政宗は奥州筆頭だぜイエイとかって暴れるでもなく、小僧が1人でぼんやり顔。だから何なんだ。いったい何がやりたいんだ。笑いも取らず格好良さも見せず可愛らしさすら存在しないそんなCMを企画して、いったい誰が徳をしているんだ。

 そもそもがこれを読んで車にも、トヨタ自動車って会社にも何も興味を持てないことろを見ると、クライアントにすらメリットのないCMで喜んでいるのは提供してもらったテレビ局であり枠を売ってる広告代理店であり作った制作会社であり、といったところか。出演しているタレントもそりゃあ出演料をもらったけれども後世にいっさいの印象を残さない、ジャン・レノによるドラえもんどころか小川直也さんのジャイアンにもスネ夫の山下智久さんにも劣りそうな薄さでは、むしりシュリンクしている活動への助長にしかならなさそーな。せめて続きがあるならそこで登場の本田忠勝、背中に背負ったバーニア付加して家康の乗る車を抱えて世界をひとっ飛び、くらいのインパクトを残して欲しいなあ。

 なんてことを間に流れるCMを見ながら思ったサッカーのU−23日本代表によるロンドン五輪のアジア予選バーレーン戦は明けて反応はおめでとうがいっぱいだけれどでもやっぱり、無かった連携や攻撃の手段なんかが気になって、女子とは違ってとてもじゃないけどメダルがどうとか言えない言えそうもない。あれだけ中心選手として活躍していた山村選手はその鳴りを引っ込めてしまったし、スピードスターと讃えられた名古屋グランパスの永井謙祐選手も途中から使われているようで中心といった感じじゃない。清武選手とかは話題になってはいるし点も取ったけれどもまあその程度。沢選手だ川澄選手だといったネームバリューに今は隠され見えなくなってしまう。

 圧倒的な存在感を見せてトップチームの中心に、なって活躍している選手の少なさっていうか居なさがチーム全体の存在感を薄めてい。ジェフ千葉の選手が見えないってこともあるのかな。まあ五輪になれば関心は集まるだろうけれどもアテネでも北京でもまだかろうじて残っていた人気ナンバーワンの座は、もはや女子に奪われた格好でさてはてどんな戦いを見せるやら。ここで一念発起して、メダルはともかくトーナメントに出てはシドニーより上に行って意地って奴を見せてほしいけれども、無理かなあ。アテネだって北京でだって期待されつつもダメだったしなあ。期待されてない分逆に上に行けるって? だったら良いやと思ってしまうのが現代っ子って奴だしなあ。宮市宇佐見に香川酒井も混ぜたスペシャルだったらあるいはなあ。

 夜中に懐かしいコンピュータ用語を挙げる大喜利があって思いついたのが「ラムダブラー」だったり「ラムチャージャー」といったマッキントッシュ周りで使ってたソフトだったりしたマック使い。あとよく出入りしていたハイパークラフトってCD−ROMのショップを思い出してそういやあ潰れたんだなあと当時の記録を探して1996年と、マルチメディアがムーブメントになっていた最中に沈没していたことを知る。なるほどこの時期はプレイステーションとセガサターンが登場して、マルチメディアよりもゲームって空気が一気に流れてその中で、CD−ROMを作っている人は増えても使う人が少なくなっていた、そんな狭間に落っこちてしまったんだろなあ。

 でもあのショップに通ってマルチメディアタイトルという新しい表現方法に未来を感じた人たちから、今に輝くクリエーターが多分いっぱい出ているはず。そんな人にとっての孵化器となった店を作った安斎哲さんて社長はいったい、どーなったなろーと調べたら実に今年の1月に入って亡くなっていたという情報を知る。白い頭をして髭をはやした人で手にハートマンってメーカーのアタッシェを持っててこれが実に格好良くって、当時はまだそんなに悪化してなかった経営から出た賞与なんかを使って三越で自分も1つ買い求めた記憶がある。思いんで最近使ってないけど。

 会社が消えてからマルチメディア周りで見かけることもなくなって15年程。ようやく知った消息にあの人がいてマルチメディアの面白さをディストリビューターとして見せてくれたからある今の僕のマルチメディアへの思い入れ、ゲームとは違った空間を創造して未来のビジョンを見せることへの憧れが、あるんだろーとふり返る。とくに役にはたってないけどでも多分、SF周りで生きている上でちょっとは役にはたっているかもしれないなあ。

 シナジー幾何学の名作「GADGET」のような箱庭のような空間を動き回って感じる異世界の雰囲気からは、バーチャルワールドってものを感じ取ったし、「イエローブリックロード」なんかからは、「トイ・ストーリー」が映画なんかで示し始めた3DCGのワールドを、自分で“支配”する可能性を見知った。デジタローグが出した荒木経惟さんのデジタル写真集「ARAKITORONICS」ってのもあったなあ、電子出版の先駆け。それらが今普通にiPadなんかで楽しめる時代がやって来ている。早すぎたんだなあ。ハイパークラフトも、デジタローグやシナジー幾何学といったマルチメディアタイトルの会社も。改めて合掌。


【3月14日】 木村和司選手は全盛期をやや過ぎ外れていたものの井原正己選手にラモス選手に都並選手に柱谷選手に武田選手にカズ選手といった後のJリーグ草創期を引っ張るスターを取りそろえながらも情けない戦績でワールドカップにも五輪にも出られず“市場最弱”の名を恣にした横山謙三監督の時代に、たしか赤い代表ユニフォームでもって日本は戦いその船籍とともに縁起の悪さを言われて引っ込められた赤いユニフォームがなぜに復活するのか復活させようとするのか日本五輪代表。まったく訳がわからないよ。というより出るか出ないか分からないうちにそういう話をすることの方がまず間違い。せっかく馴染んだ青を棄ててしまうのも頂けない。

 もちろん本当だったら白地に赤の国旗を貴重にあらゆるナショナルチームが揃えれば、アルゼンチンの水色だとかイタリアの青だとか、フランスのレ・ブルーだとかドイツの赤だとか、イングランドの白地に赤い十字とかクロアチアの赤と白の市松模様といった統一イメージで揃った他国のように世界に存在をアピールできるんだろうけれど、サッカーが縁起の悪さを引きずりそうした色にいかない現在、そしてライバルの韓国がずっと赤を基調にした色で来ている現在、日本サッカー代表までをも赤に変えるなんてことはまず無理だろー。かといってバレーや野球やほかナショナルチームが青に揃えてくれる訳ではないし。白地に赤い丸でもって揃えるっきゃないかなあ。

 「BLEACH」で織姫を見て「ちはやふる」で大江奏ちゃんを見てそして「輪廻のラグランジェ」を見るとやっぱりアニメーションにも早く立体視の方の3Dが普及すべきだって強く著しく思え来るというかドッカーン期待というか。でも目に突き刺さりそうになってかえって引くかも。どんなんだ。残念ながら「BLEACH」は銀城&月島戦が続いて気絶させられた織姫は本編に出番がなくってエンディングでチラリの登場に留まっていたけれどもその一瞬でみせる張り出しも揺れも素晴らしすぎて3度ばかりリプレーしてスローで送って見入ってしまったよ。

 そして本編では朽木白哉が月島相手に義経千本桜ではない千本桜景厳でも勝てなさそうなところを、日頃の鍛錬すら乗り越える黒崎一護的成長をその場でみせて勝利。確かこの後で月島は、すし河原こと獅子河原にかつがれ退場していくって場面が待っててその後に、織姫からもチャドからもすっかり月島の記憶が抜け落ちているってことはやっぱり逝ってしまったってことなんだろう。銀城も遺体を一護がソウルソサエティまで受け取りに行ったところを見るとやっぱり。フルブリンガーはだから雪緒とジャッキーとリルカが残ったってことになるけど今後出番はあるのかな。連載はさらに先に進んで謎の的とかいっぱい出てきて爺さん大変そうだし。さあどうなる。

 背は小さいのに超立派な大江奏ちゃんは何だろう東日本の大会を見物しているシーンで来ているよそ行きの服がTシャツとも和服とも違って妙に胸元を強調する感じで目に刺さるというか刺さってくれたら嬉しいというか。あれならなるほどTシャツで前傾姿勢になって戦う競技かるたは当人にとっては大変で、相手にしてみれば眼福この上ない訳で、それを抑えて背筋も伸ばす和服を奏ちゃんがこよなく愛する理由もよく分かる。それこそ必需品って訳で。そんな「ちはやふる」は単行本の第16巻も出ていよいよ再び千早がクイーンとゆるキャラ対決。相手がスノー丸の小さいプリント柄のシャツで出てきて千早の姿につまらないと言ったところで千早が見せた隠し技は! 詳細は単行本で。勝ったね、試合はまた別だけど。

 しかしやっぱりひとりだけ規格外なムギナミが立ってりゃ天文喫茶も繁盛するよな「輪廻のラグランジェ」。個人的にはウエットスーツ姿でランちゃんが立ってるサーフィン部の方が絶対的に素晴らしいと思うんだけれど女子高なだけにそういった特殊な趣味の人も少なかったってことなのか。そんな2人が引っ張りだこの間で呼ばれずちょっぴり寂しい京乃まどか。でもずっとひとりでジャージ部をやってて誰とも積極的に向き合わないことで失う寂しさを逃げていたまどかに、失う悲しさをもたらす可能性が得られたことでひとつ成長があった様子。ひとり漁船で向かった基地の中で光る緑のウォクス。初号機よろしく勝手に動いて飛び出し合体、そして輪廻の大爆発が世界を滅ぼし終わりとなるか否か。さっぱり進まずひとりアレンだけが自分を発見して女装メイドとして成長を遂げただけってのも何なんで、残る話数で大決戦を見せてそして第2クールで鴨川エナジー発売、おらが丼大人気、なんてご当地ドラマを存分に発揮してくれればこれ善哉。

 いきなり大人たちがバタバタと死にはじめた僻地で子供たちと出会った伊集院・R・皇に向けられた今度は女性までをも滅ぼしかねない<サキュバス>感染の可能性。隔離された彼女にかつて彼女から告白を受けながらも男性だからという理由で遠ざけられ、今は研究所の地下でひっそりと研究に励むモグラこと安斎・Y・姫は皇の危機にいてもたってもいられなくなるものの、自身が世界でたったひとりの男性という事態、そしてかつて男性を滅ぼした<サキュバス>との接触を絶対に避けなければならない身の上故にかけつけられず逡巡する。阿仁谷ユイジさんの「テンペスト」に登場した待望の第2巻はそんな膠着状態をメーンに描きつつ姫にのめりこんでいく人々の姿も描かれる。さすがモテモテ。けどしかしいったいどうなる人類、と期待を持たせつつ巻末に眺めのおまけ漫画は本編から離れた忍者者。まるで分からないこの後やいかに。出るのを待とう単行本。

 でもってサッカーの五輪代表とバーレーンの試合は何かJ2の中位にあるチームが戦っているよーで攻めようにもサポートがないんで前へとどっかんけり出しサイドを走らせとらせて中に入れ、そこに突っ込んだ選手が蹴り込むといったキック&ラッシュをフィジカルの足りない日本なりにランで行っているって印象。中央に良いポストがいればもっと豊富な攻めてもあったんだけれど受けたボールを大きく弾くトラップミスの連発ではそこから奪われ反撃されるだけ。サイドチェンジも味方に届かないんじゃあ意味がない。そんな繰り返しでも相手がバーレーンだと点がとれてしまうようで地震の最中に1点とそしてもう1点を追加して2対0でどうにか逃げ切り五輪出場の切符を手にした。けどまるでメダルへの期待がかからない代表ぶり。そこに重なる最弱ユニフォーム。どーしろと。それともマイナスとマイナスをかけてプラスにしたいのか。ならないよ。


【3月13日】 「この娘、のりのりであった」と、小山力也さんのナレーションが被れば良かったのにと「モーレツ宇宙海賊」を録画で見つつ、チアキ・クリハラの海賊としての晴れ姿にやんやの喝采を贈る。いやあ可愛いなあ。本物よりも似合ってるんじゃないのかなあ。けどあくまでキャプテン・マリカの替え玉で、当人たちはグリューエル王女さまを弁天丸に同乗させ、乱流渦巻く空間を移動しながら幽霊船探しに邁進中。何か見つかりかけたもののそこを3隻のセレニティの船に襲われさあ大変。どうしのぐかってところで新米ながらもどうにか貫禄を付けてきた、本物のキャプテン・マリカの指示で急場を凌ぎ、なおかつ立場の曖昧なグリューエル王女を抑える聡明さもみせている。

 莫迦でおっちょこちょいでドジだけれども繰り出す手がすべて巧くいく、なんて話はコメディやファンタジーの中だけで、隔壁の外は無限に広がる真空の宇宙、欠片がぶつかっただけで沈む可能性がある宇宙船を駆って飛び回る海賊たちに、そうしたコメディやファンタジーは無縁で無用。ひたすらにリアルでシリアスな環境を感じさせつつ、その上でそれぞれのキャラクターたちが個性を発揮し、重ね合わせて急場を凌いでいくという、理性と興奮を合わせもった作品としてこの「モーレツ宇宙海賊」は、スペースオペラの歴史にもアニメーションの歴史にも、刻まれ語られることになるんだろー。未だ1クールが終わろうとしながら、何も起こっていなくてせいぜいが美少年がメイドになって女装したくらいのアニメとは違うなあ、ってクリエーターは同じ佐藤竜雄さんだった、それぞれにそれぞれの見せ場見せ方があるってことで。

 鬼畜なお兄やんのキレっぷりにも驚いたけれどもカメハメ波(違う)を受けて吹き飛んでも元通りな月火ちゃんにも吃驚だよ。この強さがあれば姉の火憐ちゃんの怪異なんて軽く吹き飛ばせたんじゃないかって思ったけれどもそこはそれ、自覚のない怪異ってことで吹き飛ばされても気にせず戻ってそのままずっと暮らしては、やがて次へと移って行くだけなんだろう。ある意味不気味だけれども気にしなければどうということはないんだけれど、そこに現れた影縫余弦とその式の斧乃木余接のダブル攻撃は結構やっかいそうだしなあ。忍野忍ではやっぱりどうしようもなさそうだ。っていうか今回よく出てきて喋るよなあ。ドーナッツも食いまくり。この声がもしも前回と同じだったら、と想像するのはありやなしや。どんな感じになたかなあ。

 趣味で見知らぬ人たちが集まるなんて光景は、SFの世界じゃ日常茶飯事でそれこそSF大会なんてものは普段から例会なんかで集まっている人もいれば、そうではなくって家でずっと本を読んだりマンガを読んだり、アニメを見たりしているSFのファンが一カ所の集まって、同じ共通のSFというものについて語り合い、愛であってそして忠誠を誓ったりする。そんな光景に普段から接していれば、Jリーグのチームを愛でようと同じ趣味の人が集まる姿を、それほど奇異には感じなかったりするんだけれど、思い直してみればJリーグのチームがそこに現れるまでは祭りでもなければ同好の士が共通のフックに群がり、集まり語り合うなんてことはあり得なかったわけで、それを20年前のあの時代に、ほとんど突発的に成し遂げて、ムーブメントにまでしてしまったJリーグの立ち上がりのドライブ感ってやつはやっぱり、相当に凄まじかったって言えるのかも。

 出たばかりの「サッカー批評」の55号で評論家の宇野常寛さんが、Jリーグの地域密着での盛り上がりのあり様を、分析して「趣味縁」という言葉によって表現してる。つまりは昨今のツイッターとかフェースブックといったソーシャルサービスが見知らぬ誰かを同じ趣味だからと繋げくっつけ、ひとかたまりのクラスターへと育てあげた実例を挙げつつ、その先駆として地域密着をリーグによって押し付けられた場合もありながら、それを好きだというひとや、好きになろうとする人を繋ぎあわせてサポーターという集団を作り上げたJリーグがあるんじゃないか的なことを言っている。だからSFがあったじゃないか、とも添えられなくもないけれども、より指向性が明確なSFとは違って、降って湧いたサッカーにこうした「趣味縁」が生まれたこと、それが20年経ってより強固で地域にとって強力なハブになっていることからやっぱり、何か学べるんじゃなかろーか。あるいは学ばなくてはいけないと。サッカーなんだからそうなって当然と考えがちなサポーターとはちがった立ち位置にある、オフサイドも知らないような人だからこその視点、か。

 だから裏声で歌えばいいんだよ。大阪で高校の校長だかが教員がちゃんと「君が代」を歌っているかどうかをチェックするため、その間中ずっと口元を観察していたとかどうとか。おいおいちょっと待てコラ、そもそも「君が代」を教員が歌うようにするってことはつまりこっかとしての「君が代」への敬意を誰もが抱き、消えにいて歌うようにしてもらいたいっていう気持ちが発露してのことだろ? だからその間は誰もが起立して背筋をのばし、まっすぐに前を向いて「君が代」を歌わなくっちゃいけないんだろ? そんな大切にして厳かな時間、心に君が代の千代に八千代に続くことを思って歌うべき時間にどうして他人が歌っているかどうかを眼玉ギョロつかせ、首をめぐらせ監視できるんだ。そもそもそんな思惑が混じった時点で「君が代」を歌っていい心理にない。あるものか。

 歌いながらだって口元くらい見られるって? 冗談じゃないよ、だって「君が代」ってめいめいが勝手な方向を向いて歌うものじゃない、掲揚された国旗を仰ぎ見て歌うのが、サッカーの国家斉唱でだって何だって、決まりごとになっている。卒業式だって同じこと。掲げられているたぶん一枚の日の丸に、みんなが向かっていと見ながら歌う時間にどーあいて他の人の口元が見られるんだ? 何のために歌うかを説いてそうさせようとしている人たちが、実は一番そうではなくって、日の丸にも「君が代」にも敬意を払っていないというこのグロテスクなまでの矛盾っぷりがすなわち、やらせたい側の純粋な気持ちの発露とは正反対の、どす黒い思惑ってものを端的に如実に表している。すなわち形式、反意を持つものをあぶり出すためだけに存在する。薄汚いなあ。そして気持ち悪いなあ。そんな場所で育まれた子供達が果たして真っ当になっていけるのか。考えた方がいいよ大阪の人たちは。


【3月12日】 ふと気がつくと我らがジェフユナイテッド市原・千葉は、京都サンガを相手に勝利を得られず勝ち点3で随分と下位に沈んでしまった様子。まだ2試合だから対して差はないとはいっても、負けずせめて引き分けておくことで最後の最後に勝ち点で相手を上まれるんだ、ってことをJ2に落ちた最初の年に存分に味わっておきながら、あっさり負けてしまうところが何というかJ2魂にもはや身も心もどっぷりというか。次は土曜日にフクアリで横浜FCとで、カズさんもそろそろ見納めかもしれないなんて考えるとやっぱり行っておきたくなるけれど、まだ残る寒さの中でお寒い試合とかみせられた日には、持ち越すダメージも大きいだけに迷うなあ。勝てばそれでも暖かい気分で夜を越せるんだけれど果たして。

 バスの運転手さんたちの給料が高いだの、議員が報酬をもらい過ぎだのといった批判がバシバシと浴びせかけられ、なんだか肩身の狭い思いをしているそうした業界。公務員であることが罪みたいな意識すら醸成されては、本来向かうべき民間の給与の低さだったり、非正規労働者の搾取のされっぷりだったりが俎上にあがらず、そして全体が沈滞していくばかりというこの状況は、それらが一部にやんやの喝采を浴びていたりすることから鑑みるに、まだしばらく続きそー。近くはロンドン五輪あたりで、国民の税金をもらい派遣されている選手たちは、メダルがとれなかったらそのお金を自ら返上すべきだなんて言う人が出てきて、それにまたしてもやんやの喝采を送る人達も出てきて、妙な空間を作るんじゃなかろーか。

 そりゃあお金をもらってスポーツができる人は羨ましいけれど、何にせよ努力して果たされた結果が、たとえどうであってもそれを讃える空気をむしろ作り上げることで、誰だって努力するんだって気概が生まれた方が、世界にとって悪くない。なのにダメなものはダメだという否定の論理ばかりが先走ったら、起こるのは何もせず従って失敗もしなければ成功もしない熱的な平衡世界。すなわちエントロピーが失われた空間は、ただ冷え切って死へとひた走るばかりだろー。どういう風に取りざたされるのかなあ。ちょうどマラソンの代表も発表されたけれど、最初っから世界と大きく離されたタイムの持ち主ばかりで、メダル云々って言われるのも辛いだろうなあ。

 一方には、メダルが期待されながらもそれがパラリンピックの方だったりする関係で、強化選手に指定されながらももらえるお金なんてたいしてなくって、競技の続行に支障が出ていたりするってケースも。陸上の短距離でなかなかの記録を残している義足のランナーの中西麻耶さんは、去年の世界選手権に資金不足で出られなかったことから今回、自分がヌードになった写真をまとめたカレンダーを作って売って費用を稼ごうとしているとか。すでにドイツとかオーストラリアのサッカーの女子代表が、強化費用の少なさを補おうとヌードに名ってカレンダーに登場して、話題にはなっていたけどそれが日本でも行われたってことにひとつ驚きつつ、けれども既にある事例だからむしろ喝采を浴びているのかと思ったらどうにもそうでもなさそうだったりする。

 家族に援助してもらえとかそこまでして出なきゃけないものなのかといった意見を浴びせられて困り顔。そりゃあプライベートで走っている人だったらそれで良いけど少なくとも世界の大会で国の代表になるような人が、費用に困っているってことの方が大事なんじゃないかって気もしないでもない。だいたいがサッカーの女子代表だって数年前までは遠征費用にもことかいて、誰もが苦労していたって話で、それすらも好きでやっているんだからという意見が出たりするこの国にスポーツを、支え讃えることで得られる国全体の活力って観点は、もはや存在し得ないのかって不安も浮かんでくる。そんな中で自分の意見を貫き通して頑張っている中西麻耶さんのカレンダーはアマゾンにて販売中。関心を抱いた人はご一考を。

 せめて鞄の中に入っていたのが「ベルセルク」でガッツが手にして振りまわすドラゴン殺しだったり、「Fate/Stay Night」でセイバーが振りまわすエクスカリバーだったら、手にした鞄から「こんなこともあろうか」と言って取り出し、持ち上げて見せた瞬間に「ををっ」って驚嘆も浴びたと思うんだけれど、チンケな折り畳みナイフでそれも刃を見せず取り出したところを奪われてしまったっていうんだから、どうにもみっともない話。なおかつ、どうしてそれを入れていたのかを説明したくないというから、まるで申し開きも立たない。次からはせめて家に伝わる重要文化財の備前長船を取り出して、文化財保護法違反に問われるくらいの剛毅さを、発揮して貰いたいものだよなあ。

 だいたいが暴れたのは酒に酔っていたせいだってのも抜けた話。もっともそんな理由で、罪一等が減じられるかねないのがこの日本って社会だったりして、醒めてトラ箱でブルブルと震える相手に対して、次からは気を付けろ、なんて諭して放免したりするからたまらない。酔ったらどうなるか、何が起こるかが、過去に数多の事件からこれほどまでに明らかになっているにも関わらず、酔って何かをしでかした人を人事不省だった判断能力が欠如していたと、言って柔らかく見つめる視線が今なおある限り、酔って何かをしでかす人はいなくならない。公務員には厳しい視線がどーして酔っぱらいには向かないのか。刺青している今は堅気な人より、酔っぱらっている莫迦の方がよほど社会には悪なのに。まったく訳が分からないよ。

 何か懐かしさすら漂う設定と雰囲気の末羽瑛さんによる「ダイヤのA」(電撃文庫)は西部劇にも似た風土を歩き酒場に入って手にしたダイヤで飯を食おうとしてもそれはありふれているからといきなりかまされる世界観に、どういうことだと思わせそこが宝石は見た目のきれいさではなくエネルギーを秘めている度合いで重要かどうかが決まるのだと知らされ目から鱗。そんな世界でかつて巨大な宝石を掘り当てカットし世界の電力を賄わせる貢献をした主人公が、相棒を殺された怨みを晴らそうと旅をしているというのがメーンストーリー。そして出会った少女に誘われ宝石を掘りに活き、宝石掘りたちと戦い知り合いかつての友人とも再会して得た情報で、仇を討ったと思いきや実はその向こうにという展開から、本当の敵を相手にしたバトルの連続が待ち受けていそう。こんなにストレートなヒーロー&巨大メカ物って最近あんまりなかったなあ。ちょっと楽しみ。エドガーはとばっちりだったねえ。


【3月11日】 枕元に積み上げた本を、寒いんで布団から出ないまま熟読する暮らしが、ここんと続いていたりして、しばらく「境界線上のホライゾン」を舐めるように読んで読み尽くして、それでもまだ読み応えがあったりする物理的な分厚さ以上の奥深さに、書いている人の頭の中をのぞいてみたい心境にかられていたけれども最近は、最新号が出たばかりの永野護さんの「ファイブスター物語」のリブート第7巻を読み始めて、これは誰だったけどう繋がるんだったけって頭の中で知識をめぐらし、話数の合間にある情報なんかを吟味する。

 そして、何度も何度も読み返してそれでもまだ足りず、前の巻なんかを掘り返して読み返してああそうかこいつはこうであいつがああだったんど理解したもののそれで良いのかどうなのか迷っていたり悩んでいたり。イエッタだかアイエッタだかを横につれた子供が現れて逃げるヘアードとマグダルたちの後を追うバッハトマの騎士をにらむと、相手がこりゃあ叶わないとすぐに退散する場面でこの子共だれだったかと悩んで、ファティマの名前からそうだログナーだったと思い至る。

 だったらどうして子供なんだと考えて、バッハトマがデルタベルンにやって来て、リイ・エックスの胴体を吹き飛ばしたりとかしてミラージュの騎士たちを散々っぱら痛めつけた話の時に、ボスヤスフォートがサリオンに向けて放った冷凍光線だかを浴びて凍り付いてそこから復活の途中にあったんだと分かってなるほどと納得。あとは連載中は妙に浮いてたちゃあの学園ラブコメディ編で出てきた眼鏡のプリンスが、やっとヨーン・バインツエルと結びつきそのプリンスが出奔した後を追ってちゃあと一緒に度に出たキルスティンがマイトのナトリウム・シング・桜子だったなと頭に入ってきていろいろと結びつく。

 その「プロムナード」編とか、ちゃあが今にして思えばバランシェの屋敷でアルバイトをしていた時に出会ったエミリィが、史上最強のどMなファティマのヒュートランだったと分かるちゃあことワスチャのデビュー戦とか連載中は妙に浮き上がってきている気もしたけれど、まとまって読み直してみるとそうした枝葉のようなエピソードが、実はそれはそれとして幹となって他の幹と絡み合って1本の巨大な樹を作り上げているんだといった構造も見えてくる。

 枝葉末節なんてだから「ファイブスター物語」には存在せず、すべてがそのために描かれた必要不可欠な物語たち。主人公がいてヒロインがいてロボットがあって戦いがあって勝利があってハッピーエンドがあるという、リニアで一方通行の物語に慣れた目にはなるほど意味不明なところもあったりするけど、こうして時間をかけてまとめて読んで読み返してみると見えてくるものがあったんだと、今さらながらに理解する。さてここからは連載のストックもなくなって、いよいよ再開という話もあるけど果たしてどこまで行くのやら。単行本を出してそれから3年くらいしてリブート、って話もあるみたいで、さらに3年後にまたリブート、なんてこともあるようなんでそれまでは生きて待って読もう。

 1年が経ったといって自分に何ができる訳でもないので、三島にある「IZU PHOTO MUSEUM」へと出かけていってアラーキーこと荒木経惟さんがこれまでに出した内外でおよそ450冊はある写真集を展示するという不思議だけれども荒木さんらしい展覧会を見物にいく。何しろ多作で10年くらい前まで頑張って著作リストなんか作っていたけどそのうち追いつかなくなって今は更新停止中。いずれは足そうかと思っているけど国内のはアマゾンなんかで把握できても海外のとなるともうこれがさっぱり分からないからどうしようもない。先日も東京都現代美術館でファッションショーのモデルをシューティングした冊子みたいなのを買ったけれど、それだって果たして書誌データに乗っているかどうなのか。多分ないよなあ。

アラーキーは健在なり  展覧会の場で飾られた写真を見るのもそりゃあ悪くないし、そうした大伸ばしに耐える写真をいっぱい出してもいたりするけど、撮ったらそれをすぐさま形にして出すってことによってあふれ出る才能を世に誇示してきた荒木さんにとって、やっぱり写真集という表現は1枚のプリントに劣らずとも優る“作品”なんだって言えるのかも。何しろ世に出たきかっけのひとつが「ゼロックス写真帖」のシリーズだからなあ、アララギとか白樺といったものではない、今風の同人誌なんてまだ世に広まっていなかった時代に写真をゼロックスで複写して冊子にしてそれを配ったりしてたくらいだから。荒れたり掠れたりするのも表現だと言い切って通して今となってはもう立派にアラキ的。その「ゼロックス写真帖」が飾られ中身をスライドで見られるのも展覧会の大きな意味か。

 展示ではあと「さっちんとマー坊」ってスクラップブックを見開きにしたサイズにまで引き延ばした子供たちの日常を撮った写真を貼り付けた作品集を、それはケースにいれて中身をスライドによってモニターで見せるコーナーがなかなかで、ぐっと迫ってくる子供の顔とか路地を走る子供とか、太陽賞をとった「さっちん」よりもさらにアレブレながらもそれが迫力となって見る人たちを感嘆させる。昔の子供って汚かったんだなあ。でも元気そうだった。そんな写真にあった1枚がゴムの下をくぐろうとしているのかどうなのか、リンボーダンス風の格好をしたスカート姿の女の子のパンツがまる見えている写真。太もものところまで挙がった長くつしたと、そんなパンツの端との間にのぞく太ももが、一種の絶対領域として目に突き刺さってくるからたまらないというか、同じ写真を何度も見るためスライドの前に何度も戻ったりずっと立っていたりしてしまったよ。また見たいなあ。全集の時には貰い損ねてしまったからなあ「さっちんとマー坊」。

 展示ではあと「’11.3.11」とゆー日付を入れた写真を何枚も飾ってあってこれがたぶん新作ってことになるんだろうけどそれらはもちろん荒木さんらしく2011年3月11日に撮られたものではなくって日付を操作して目に入るもの気になったものをその日付で撮っていったものの集大成。だから街もあれば女性の股間もあればヌードモアレ場空はあったかな、とにかくいろいろなものが写っている写真が同じ日付でもってそこに並んでいたりする。どういう意図か、っていうのはオープニングを記念して開かれた荒木さんのトークショーで出た話になるけれど、写真というのは撮った瞬間に過去になる、でも3月11日という日付だけはずっと現在のような気がしている、ってことでつまりはあの日が今なお続いてたりする気分、過去に置き去りにできずかといって未来に投げ出しもできない現在進行形の出来事として、強く刻み込まれているってことになるのかな。

 さてメーンとなる写真集の展覧会ではやっぱり目が向かう「少女世界」。箱にはいった上製の写真集をひらくとそこには少女がいっぱいで今ならいろいろ言われそうな気もしたけれどもそれが時代だった訳だし別に見てどうというものでもない、ありのままの少女たちの笑顔に澄まし顔。でもやっぱり再刊は無理なんだろうなあ。「少女物語」の方も改訂版を含めて2冊あって比べれば何がどう違うのかとか分かるかも。あとこれも出て即座に発売停止となった「遠野小説」もあって貴重な姿を見られます、って家にあるんだこれ実は。海外のは種類がいろいろあるけど総じてビブリオって感じで花に裸に空に陽子さんにチロといった感じのモチーフが集大成的に入っている。1冊有れば万全だけれどそれで語れる人でもなし、ってところもまたこの写真集ばかりの展覧会で見えてくる。とにかく種類が多いんだ。

 自費出版系で1000冊とか700冊とか限定で発行されている写真集なんかもあれば、普通に市販されてる安価な写真集もあったりしてそれらの違いがどうかというと大きく違ってないんだけれど、私家版とかだとやっぱり吟味されたアート風で、市販品だと編集者の意見も入ったエンターテインメント風。どちらが良いか悪いかってことではないようで、代表作になってしまった「センチメンタルな旅/冬の旅」は前に出した新婚旅行の写真集を再録した上で妻の陽子さんの入院から亡くなるまでの写真が入っていたりする、その構成を提案したのは編集の方だったもよう。あと添えられたコメントも。そうやって生まれたのがあのかつてとそしてその当時が並んで入って余計に涙を誘った写真集。コラボレーションってそういう融合と反応を生み出すから面白い。でもやっぱり気になる本気のアートを出した荒木さんの真骨頂。残る時間がどれだけあるかは分からないけどまだまだ元気そうなその姿を、見つつ生まれてくるものを追っていこう、最後まで。

 1年前はそう、アニメロサマーライブの発表会見を浜松町で聞いてさあ週末だのんびりするかと思ったところに大きな揺れが襲ってきて、机の上のものが落ちて積んであった本が崩れて何事かと思ってそしてテレビを着けて見えてきた光景の、凄まじさにリアルタイムで大勢が大変なことになっているなと感じて、居たたまれなさが浮かんだけれども一方で、すごいことが覆っているという妙な興奮もあったりと、複雑な心境でしばらく過ごした。被害の大きさが分かるに連れて興奮は薄れ沈痛さが浮かんだけれどもそれとて当事者とは離れた間隔で、そして今も当事者といった意識に迫れない自分がいてこの日をどう送るべきかを迷っている。きっとずっとそういう風になってさらに時間も経てば距離も開くんだろうけれどもでも、教訓として絶対の安全はないということを、刻んでいつか来る日に備えよう。来ないのが1番なんだけど、果たして。


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