縮刷版2012年2月中旬号


【2月20日】 実は秋葉原UDXでの投稿工芸大学芸術学部の卒業制作展に行く前に、はるばる府中市まで行って府中市美術館で開催中の展覧会「石子順造的世界 美術発・マンガ経由・キッチュ行」ってのを見物してて、石子順造っていう評論家の人が、いわゆる芸術といったものの観念的な価値ってものから離脱して、現在においてどれだけの意味を持っているかを感じ考えようとしていたんだな、ってな印象を持った。たとえば有名な赤瀬川原平さんの千円札裁判について、それが芸術だから無罪だと叫ぶ弁護に建った批評家芸術家から身を置いて、それは法律に反しているかもしれないけれども、権威に挑んだという意味で、犯罪と問うべきではないといった論理を繰り出し、突破して行動した覚悟を讃え芸術だから、という免罪符に頼ることをしなかった。

 そういえばしばらく前にネットから画像を集めて、それをコラージュした作品を作っていろいろ言われていた一団があったりしたけれど、それはだからアートなんだからという地平に引きこもらずに、いろいろ差し障っているかもしれないけれども表現としてのっぴきならない感情があたから作ったのであって、それがネット上に画像があふれかえっていることへの理解と対応という行為なのですと言って、理解を求めていたらあるいは、剽窃だの何だとの言われまくることはなかったかもしれない。あっても理解を示す人もいただろう。でも商売にしようとしちゃったからやっぱり拙いか。ともかく甘えずに現状を認識した上で戦い突破する意志。それを石子順造さんは尊び現代美術に潜むそうした可能性を称揚したのが、美術発のコーナーにならんだ作品ってことになるのかな。

 そして、漫画もそれをアートだっていう権威の中に引き込むんではなく、漫画という現代的な表現をそれとして理解し社会との関わりの中から認めていく、っていったスタンスだったみたい。とはえい40年が経つとそうした社会性と寄り添っていた同時代的な表現である漫画も、歴史の中に位置づけられた芸術となってしまうのも仕方がないといったところか。会場にはあのつげ義春さんの「ねじ式」が、原画そのままの形ですらりと陳列されていて、もう国宝の中にいるような気分。入れられたホワイトによる修正も、フキダシにはられた写植もくっきりと見えてどういう筆でもって描いたのかってことが間近にわかるようになっている。

 その味をカタログもしっかり出したまま全ページを収録。それで2000円なんだから安いよなあ。そんな原画が残り尊ばれるのも、つげ義春さんが芸術の文脈に絡められたからだったりもする。漫画なら印刷された漫画のそれこそが表現だから原稿はって話に行ってしまう可能性もある訳で、権威化はしたくないけど、権威化されないと残されないという矛盾にどう立ち向かうか、ってところがこれからの課題になっていきそう。ともあれ漫画の芸術化については、現在進行形なメディアであるってこともあって、いろいろと考えること多し。石子順造三が存命だたらいったい何を言ったかなあ。時代が違い過ぎるかなあ。

 そしてキッチュのコーナーには、観光地によく見るお土産のペナントと絵はがきが妙に懐かしい。それは僕等の時代には決してキッチュなものではなく、観光地に行った記念として通行手形なんかとともに尊ばれていたもの。買って貼るなりながめるなりして行った場所の思いを心に甦らせていた。写真も撮るより絵はがき買った方がやすかったし。けど今はデジカメで簡単にとれて保存も楽。ペナントはあっても邪魔なだけ。むしろそうした時代にこそアナクロな品として雰囲気を出せるんだけれど未だ現役の時代から、そうした観光地名物のキッチュさを感じていたところが先見性、なんだろうなあ。食品の模型もスーパーカー消しゴムもキッチュではなくリアルだった訳だし当時は。今なら差詰めねんどろいどとかトレカ辺りか。未来のキッチュを考えよう。

 アマゾンを作ったジェフ・ベゾスにインタビューに行って、虎屋の羊羹を差し出しこれ知ってるか何だ知らないのか、それでお前よく日本でビジネスやろうなって言ってるなって、強く突っ込んだ我が身の武勇伝を認(したた)めている記者の人がいたりして、その独善ぶりってのが何というか、薄気味悪くて落ち込んだ。だって偉い人のところに持っていくご進物といったら、他に何を置いても守口漬だろう? 薄い樽の中に細長い守口大根の漬けたものがぐるぐるっと丸められて螺旋状になって入れられた、あれ。切って食べればご飯のおかずにも、酒のつまみにもなるその森口漬こそが、名古屋では相手に最も喜ばれて受け入れられるご進物の王者なんだ。虎屋の羊羹? そんなの食べたこともなければ聞いたこともない。だから誰も喜ばない。

 何しろ重い。それを手にした陸上のアスリートが、これを投げても世界新記録を出す自信がないと投擲するのを諦めたという話が、伝わっていなかったり残っていなかったりするくらい(無いんじゃん)、重たさでは他のご進物の追随を許さない。黒光りしたって虎屋の羊羹なんて軽い軽いカステラくらいに軽いそんなものを、もらったところで「これなにい、こんな軽いもんもってきたってうれしないがね」ってなもんだ。重くて中身があってお値打ち。それこそが名古屋における価値観であってそして世界のルールなのであるかして、ジェフ・ベゾスに虎屋なんてローカル企業の羊羹なんてローカル食べ物を渡してそれが日本の代表だなんて言ってる人間こそが実は世界をまるで知らない井の中の蛙。むしろ恥じ入るべきなのに今頃になって堂々持ち出し時節を開陳しているんだからただひたすらに恥ずかしい。ベゾスだって驚いただろう。なんで守口漬じゃないんだと。

 というのは冗談としても、虎屋の羊羹云々という商慣行を知らなければ日本でビジネスができないというのがアマゾンに対してはまず間違いで、日本で誰もやっていなかったか、やろうとしていて成功があまりおぼつかなかったビジネスに対して商慣行とか無視して力で一気に押し切って、成り上がっていたのがアマゾンな訳で、もしも取引云々とかいっていたらきっと他のオンラインショッピングサイトを超えるような成功はしなかっただろう。本に関してはbk1が専攻していて本がわかるという触れ込みのエディターを揃え書評なんかを書くライターもそろえておもてなしの精神で臨んだけれど、当時の貧弱なネット環境では商売が成り立つまでに規模がふくらまないうちに、人が抜け育メンになったりしてサービスが下がってただの書籍販売サイトになってしまった。今も存在はしているけれど、アマゾンにすらない本を探して有れば買うっていった2次利用。設立当初の意気軒昂とした雰囲気はもはやない。

 アマゾンはとえばとにかくでっかい倉庫を作ってそこに集めてデリバリーを強化して、本ならすぐに集まるようにしたから利用も増えてそれに乗っかり取次も参加して出版社も持ち込むようになっていったって感じ。羊羹持って取次回って頭を下げた節はそこにはなく、ただ規模とサービスという商売の基本でもって筋を通していった。そうやって大きくなれば載っけるコンテンツも増えて当然ってことで今はDVDから玩具から衣類から家電その他まで何だって買えるサイトになっている。羊羹だって売ってたり。そんな結果からすればそれなりなアマゾンに対して楽天が圧倒的に上、って思う人はそんなに多くない。

 なるほど楽天には細かい店がいっっぱい集まりいろいろ手に入れられる利便性はあるし、宿屋のようなサービスもやってて、それで利用のし甲斐はある。証券とか金融までやってる総合スーパーな面もちがあってそりゃあ扱い高もアマゾンより大きくて当然かもしれないけれど、そんな楽天の中で書籍やソフトを扱っている部門が、いったいどれだけアマゾンに買っているのか。本とソフトに関しては誰もがやっぱりアマゾンを1位に使っているんじゃないのかなあ。本がメーンの紀伊国屋書店と、何でも扱うイトーヨーカ堂を比べて、どっちが扱いがでかいかなんて比べて何の意味があるってことで、そこを見破られ見透かされ、なおかつ羊羹の話題でもってこの独善めがと言われてしまっている。まあ仕方がない。誘導するならもっと巧みに。そして真っ当に。でないとただのえこひいきに終わってしまうから。

 朝のワイドショーに遠くロンドンから和田淳監督が出演して受賞の弁。フランス映画庁が支援しているって話に日本では支援ないんですかと聞かれ「あります」と答えていたように文化庁とか支援をしてるしNHKだっって著作権とか持っていくけど若いクリエーターを使った短編アニメーションを作らせ発表してたりする。むしろ民放なんかがまるでそうしたものに理解を示さず支援もしてないんじゃないのって、突っ込み返したくなったけれども届かず。オタクの偉いキャスターさんの1日の出演料でどれだけの作品が世に出せるのか。考えたこともきっとないだろうしこれからも考えないんだろうなあ。番組には水江未来さんと古川タクさんも登場。古川さんは東京工芸大学の卒展で捕まえたのかな。水江さんは1言2言。自信もベネチアに出品している有名クリエーターなのにただの知人にされているよ。たまらんなあ。

 そんな和田淳さんが2011年2月13日に文化庁メディア芸術祭の受賞者シンポジウムに登壇していろいろ喋っていた記録をひっくり返す。「作り始めたころから仏教の仏画が気になり始めた。かなり細い描線で繊細に描かれている。その影響が多少あるのかなあ」と話してた和田さん。昔の博物の本とか本草図説もそんな感じで「惹かれた。自分でも引いてみたかった」と話してたのが今の0・3ミリのシャーペンをつかった描線につながっている。「細いのでないと描けない。クレヨンとかコンテが嫌い。紙があってクレヨンを当てると先端がどこに当たっているかが不安」。その線への繊細なこだわりってうか、果てしない執着が細いのにくっきりとした画面を生みだしているのかもしれない。あとは使っている紙とか。「ざらばん紙のような質感の紙。パソコンの上でコントラストを上げると質感が出る。線と質感を出す。動画用紙より薄いから、6月後だとふわふわになる。アイロンを当てても直らない。そのまま受け入れた。それくら繊細な紙でやっている」。シャープだけど柔らかい画面になる理由なのかも。

 独学独学って報道なんかにあった和田淳監督だけれど「落書きをしていて納得できる絵が描けた。動かしてみたいなと思ったのがきっかけ。アニメイトではなく、時間軸に並べることで出来る緊張感、間みたいなものを描きたい」というのがきっかけで、アニメーションの分野に進んだ感じ。でもって「アニメーションでなくてもよかった。実写だとカメラに収まった物がすべて、背景とか映り込みも考えないといけない。自分ではコントロールできない。アニメーションならすべて自分でできる。自分の世界を表現するにあたり適しているなと思い始めました」。

 「アニメをみ見ていた訳でもない。そこから2、3年は他のアニメを見ることもなく、勝手に作った。ある意味ではマイナスだが、僕にとっては良かったのかもしれない。周りに惑わされず好き勝手できた。自分の作品を形作れる時期としてよかった」。そういう意味では独学で作品を作ったわけだけれども大学に行かなくたってアニメーションを作っている人はいっぱいいて、動かしたいから動かしてみて動いたって喜んでいる意味では誰もが独学。漫画なんてそういう意味ではアシスタントになる前どか、誰もが独学だったりするんだけれど、そこで和田さんは東京芸大の大学院に進むことを選ぶ。

 「山村浩二さんを出会い、それまでは知らないことの強みでやったが、作品を作り続けることに関して、基本的な作画、動画を描く力が必要だった。いろんな作品を見ることでこんなに知らないことがある」という考えからの進学。そこでいろいろ学んだ成果が乗っかって、今の作風になっているんだとしたらそれも伝えないとちょっと誤りそう。大学院を出てから独学でってのはつまりは間違いなんだけれど、独学を強調したがるんだよなあ、メディアって。独力と教育。強固な世界観と他者からの作用。その結果としての受賞と認め大学に通っている人も、負けずそこに自分の世界を載せて頑張っていって欲しいもの。そうでない人も教育を厭わず学んで進んでいって欲しいもの。


【2月19日】 目を覚ますと「わからないブタ」が去年、文化庁メディア芸術祭で優秀賞をとり、ファントーシュ国際アニメーション映画祭ではグランプリを受賞していた和田淳監督が、新しい作品の「グレートラビット」でベルリン映画祭に臨んでは銀熊賞を受賞していたって報が飛び込みあっちこっちで爆発してた。これは快挙。とてつもない快挙で心底より喜ばしいことなんだけれども過去にいくつもの作品があちらこちらの映画祭なりコンペティションで、賞を獲得していながらその存在にまるで関心を示さなかったメディアが、ベルリン映画祭ってことで大注目して大フィーチャーするというこのバリューに対する硬直的なスタンスには、やっぱりどこか忸怩たる思いが浮かんでしまう。

 なるほど伝統もあって権威もある映画祭の賞をとるってことの意味は大きく、それを紹介する価値も存分にあるんだけれど、それしか報じないっていうのはつまり新聞テレビといったメディアにとってはそうした“お墨付き”がなければ報じる価値を見出し得ないってことでもあって、作品そのものが持っている価値というものを判断し、検討して伝えることは出来ないんだって言っていることにも等しい。あれだけの大部を誇り視聴者を誇るメディアなんだから、自らひとつの“権威”となって世に遍く存在するさまざな物の価値を自ら判断し、紹介することによって彼らの価値を高め、その価値がより世間に知られた場で評価されることによって自らの価値も高めていく、という方向でどうして活動できないのか。

 加藤久仁生さんだってアカデミー賞をとった時だけは注目されたけれど、その前後になにをしていたかなんてまるで伝えようとはしなかったし、今だって伝えている節はない。欲しいのはただアカデミー賞って看板だけで、その上に何が載っていようとメディアにとっては関係ないってことなんだ。すでに有名になったもの、すでに権威化されたものにすがってその価値の上に載っているだけでは、見る目も養われないし将来だって無いのに。困ったことだけれどそれが既に体質として見に染みてしまっている以上、どうしようもなく価値の上澄みだけを舐めて舐め続ける日々が続いて気がつくと、価値ある物なんて何もない荒野に建って真っ白な頭をさらけ出しては嘲笑されることになるんだろう。困ったなあ。テレビもフットワークがあるんだったら、インディペンデント系のアニメーションが世界で賞を取ったんだったら、ちょうど秋葉原あたりでやってる東京工芸大学のアニメーション学科の展示を見て、イマドキのアニメーションの世界ってこういう風だとか、和田淳さんの受賞が彼ら彼女たちに与える影響について聞いてくれば良いのに。

 というわけで今日も今日とて秋葉原UDXへと出むいて東京学芸大学の芸術学部アニメーション学科による卒業制作を何本か。シアターの方ではいろいろな研究室からピックアップされた作品を流す一種の選抜プログラムが上映されていたけどそっちは既に昨日来てるんで、小さい方の部屋で行われていた三善和彦教授の研究室から出た作品の上映をまずは見物。してたら桃太郎が歩いていた作品の途中で部屋が揺れた。下を地下鉄が走っている訳でもないので地震だと感じたけれども割と感じるくらいには大きかったんで大丈夫かと見渡しても特に動きは無し。落ちるものも揺れる照明もなかったんでそのまま見続ける。アニメーションを見ているのに地震なんて気にしていられるか、ってアニメーションのファンなら思って当然? まあそんな感じ。

 その作品「夢」は日本昔話を接続させたような作品で1人称の視点から見えるおとぎ話的世界がなかなか愉快ではあった。あと相馬友樹さんという人の「HUNGRY PLANET」は何がデューンしてた。絵は頑張っていたかな。絵で見せていたのは李紗知さんの「新しい門出を行く君たちへ」で基本的には少女漫画的なキャラの止め絵の連続と、セリフを被せた一種のサウンドノベルというか紙芝居なんだけれども、描かれる主題が学生って何も考えてないけど考えなくちゃいけないけれど考えられないけれどそれでも年月は過ぎるんだっていう摂理に立ち向かった内容は学生らしって言えば言えそう。高校生の悩みを大学生がどう感じるかはまた別の話だけれど。田坂東乃さんの「Humptyu Dumptyu」。目玉焼きにして食べちゃった。

 三善研究室で凄いなと思ったのは佐藤晴香さんの「あいとつむぐ」で滑り台で男2人と女1人がかわりばんこに滑り降りて遊んでる、そんな向こうに1人だけ向こうを向いたまんまの女の子がいて寂しそう。やがて3人はどっかに行こうとするけどそのうちの1人が戻ってきて、寂しそうな女の子に気付いていっしょに滑って遊んで仲良しという友達作りの物語なんだけれど、寂しそうだった女の子がとっても可愛くって美少女で、そんな子が滑り降りてくるのを正面で待ち受ける男の子の羨ましさに少し嫉妬する。見ただろ。しっかり見てただろ。絵柄はふくやまけいこさんが描くような少年少女。その絵柄だけで勝負できそうな上に動きもちゃんとしてた。どこに進んでいくんだろ? 興味。岩月友香さんの「Toilet−1・28−」はトイレのウォシュレットが暴走する話。単純だけれどタイミングが良いのか見ていて楽しい。編集に才あり?

 動きでは布施侑記さんの「海へ行こうか」がなかなかに良かった。ウインドサーフィンをやってる子供がクジラと接触し海に沈んで上がりまたいく、その絵を動きことそぎくしゃくしていながらも崩さずに見せていた。アニメーター向きってことなのか。西川祐太さん「The Stamp」。椅子が飛んでた。Sプログラム入りしていた堀口聡美さん「悪魔と医者」は絵柄の良さかなあ。あと少ないけれども動きの部分これか。礼をする悪魔に振り向く少女の顔とか。これもSプログラム入りの松村優香さん「渡山」。ホルスっぽい雪の世界。溝口友恵さん「面の幸」。動く耽美の絢爛さ。山根沙織さん「アオノヒカリ」。しっかり描けけていてよく動く。流れ落ちる瀧の雰囲気が綺麗だった。お魚さんの運命はあれで幸せなのかどうなのか。食べられ食物連鎖の輪に入るてのも幸せな気も。とか。

 見て微笑んだのが若狭賢史さんという人の「BATTLE OF SCHOOL」で感じ土器手司さんやもりやまゆうじさん、西島克彦さんにやまざきかずおさんといった「うる星やつら」 的で「ダーティペア」的で「プロジェクトA子」的なビジュアルを持った学生の少女がセーラー服姿で横っ飛びしてパンツを見せつつ銃器を手にして生活指導のスナイパーたちと戦うって展開が、1980年代のOVAを彷彿とさせて妙に懐かしくなって来た。それを果たしてアナクロの面白さと感じて今に表現してみせたのか、ああいった絵柄の現代への回帰を狙って取り入れたのか、解らないけれども四半世紀が過ぎても残る“アニメ的”な表現に、あの時代のあれらがどれだけ強烈で、今なお尾を引いているかを改めて感じた次第。40過ぎて50に届こうかという人に見て欲しいなあ。

 そして古川タク教授の研究室。こちらはSプログラムへの採用が多かったんですでに見ていたのも幾つか。久保雄太郎さんの「crazy for it」はビートに載って繰り出されるイメージの本流がやっぱり凄まじい。ライアン・ラーキンにノーマン・マクラレンに水江未来にその他もろもろの表現も取り入れオリジナルもぶちこみ爆発させ疾走させたテクニシャン。見ればわかる凄さって奴。対して斉藤弘毅さん「楽しかったことを思い返すよ」はKaikaikikiあたりでデビューしてそうな雰囲気を持った絵柄の水彩画の世界で少年少女が悩み出会い別れ云々といった心像を、派手な色彩と鳴り響く音楽の中に変幻させていくって感じでグロテスクなんだけれども可愛らしくもあって引き込まれる。音楽とのタイミングもマッチさせてリズムよく見せるのはやっぱり植草航さんの「やさしいマーチ」と重なるなあ。これもSプログラム入り。期待されているってことか。

 小谷野萌さんのやっぱりSプログラムで上映されてた「OPENIT.」は分割された画面に出てくる旅人風なのとグリッドと悶える少女の絵がバラバラに進み重なり融合して見せるビジョンがこれも音楽に載ってくっきりと訴えかけてきた。ちょい長いかなって思ったけれどもクライマックスにくる変幻が凄くて畳み込まれた。さすが。日中の際を描いたチョウウエミさん「My Life」に妖怪たちを描いた永井啓太さん「平成怪奇譚ひゅ〜どろ」、テレビの情報を鵜呑みにして悶絶する鵜が描かれたある種の批判性を持った本田康明「うのみ」とSプログラム入り作品が続いてそれだけ競争も激しかったってことかと思ったけれどもそっちでない作品がむしろ凄かった。

 結城一成さんの「ドルチェ・グエラ 御菓子戦争」は絵柄よく異世界で起こる出来事よく流れよく動き良くメッセージ性もたっぷり。それ1本で勝負できる作品。とにかく美少女が可愛い。そして阿満あやこさんの「ARABESQUE」は線画でおどるバレリーナの森で踊るシーンのいびつさが、蛇の誘惑によって浸され淫靡さを増していく場面になって急に生々しさを増して表情ひとつ、それこそ口を描く線1本だけで艶めかしさを醸し出す。これは才能かもしれない。踊りの動きはまあそれなりに。あるいは中盤の生々しさとの対比を出すためわざとやっているのかも。という感じでどれ1本も見逃せないなかなかさ。そしてこうした作品が他の学校でもいっぱいいっぱい作られているんじゃあ日本のインディペンデントアニメーションが凄くなるってのもよく解る。そこに突っ込まれた和田淳さんの受賞でさらに火が着くか。燃え上がるか。追いかけたいなあメディアで。でもメディアは売れ線に乗れ主義で。もったいないなあ。


【2月18日】 せっかくだからと寒さも厳しい中を秋葉原まで出て、東京工芸大の芸術学部の卒業制作展をあれやこれや見物。ベルサール秋葉原の会場では、マンガ学科の発表があって眺めて下重拓也さんって人の「焼酎戯画」って作品のキャラクターの絵柄がなかなか気に入った。焼酎の擬人化とあと焼酎メーカーの取材なんかを混ぜたエッセイマンガっぽいのりなんだけれど、説明の部分は割に緻密で絵も丁寧、そしてキャラの部分は萌えとはちょい外れたデザインをもった可愛さを見せてくれている。銘柄紹介もいろいろあったけれども家によくあった薩摩白波とか五代は入っていたのかなあ。時間があったらまた行ってファイルを繰ろう。

 あと「こめつぶ」って名刺の名前で生徒的には中村圭介って人の漫画が、割にスタイリッシュでエネルギッシュで目に付いた。デザイン性って感じではそこまでとんがってはいないけれど、「ノブナガン」の久正人さんとかそっち系と重なる感じ。カラーの漫画もあって塗りとか良くってちょっぴりエロもはいって見せてくれる。同人誌欲しいかも。あと奥原恭平さんって人の作品があってキャラとか展開とか雰囲気が往年の少年漫画っぽかった。同人系の売れ線を狙うと出てこないような雰囲気だけれど商業に向かうんだったらやっぱりこれって感じかなあ。物語も作れているっぽかったんでそのうち何とかなるかも。そんな会場でデズカがデッドな教官の人とすれ違う。気付かれない。そういうものだ。

 それからUDXの方へと回ってとりあえずメディアアートのコーナーで映像作品を見たら3DCGによる池田輝さんの作品「マクシムの愉快な料理教室」の完成度が異様に高かった。キャラデザインは完璧な上にモデリングもしっかりしていて動きも良く、映像として見ていてひっかかるところがまるでない。ただひたすらに上手いなあって思わせる上にストーリーも青年が彼女のために頑張ってケーキを作るって話しがあって結構魅せる。これがアニメーション学科ではなくメディアアート表現学科・映像領域の方から出てくるってところに何だろう、使える道具の差ってものがあったりするのかどうなのか。

 それが証拠ってほどでもないけど、後に見たアニメーション学科の作品にいわゆるピクサー的な3DCG作品があんまりなかった。アニメーションというジャンルの定義も広がっている時に逆にアニメーション学科が伝統に縛られているんだとしたらそれは悩ましいところ。他流試合も認めつつ映像作品として勝負し合う、なんてことがあったら互いに上昇していけるのに。ああそういう場としてICAFがあるのか。東京芸大も馬車道のアニメーション専攻と本郷のデザイン専攻とでアニメーションが作られていて、それらがいっしょに上映されていたから。どっちが凄いってんじゃなくどっちも凄くて凄くない。その重ね合わせから何かを生まれる機会を。なんて思った2月。

 そんなアニメーション学科の上映は、Sプログラムっていうから卒業者でも選ばれた作品ってことになるのかな、それがUDXの大きなスクリーンに上映される栄誉ってのに、なるほど相応しい作品が並んでた。なかでも良かったのが高橋真美さんって人の「にこり」という作品で絵こそほのぼのとした絵本っぽさがあるんだけれど内容は、ちょっぴり認知に戸惑いが出てきたおばあちゃんの話とか、泰然自若としているおじいちゃんなんかと同居している世帯の孫が、そんなおばあちゃんを見ながらも近づき馴染もうとしてそれにおばあちゃんも反応を返す終わり方が、薄くなりがちな家族関係の中で繋がりの温もりって奴を感じさせてくれた。絵も上手いし話も良い。このままクリエーターとしていけるんじゃないか、なんて思ったけれども卒業後はどこに行くんだろ。

 テーマ性って意味ではモノクロ作品の本田康明さん「うのみ」がなかなか。テレビを見ている鵜がテレビから伸びてきた手が持つ魚なんかを次々に鵜呑みにしていくって展開だけれど、綺麗な魚に痛んだ魚、魚じゃないものを次々に飲み込んでは最後に河豚まで飲み込んで、まき散らされる毒に自縛する。これってつまりはテレビのようなメディアが垂れ流す情報なんかをまるまる鵜呑みにしているとんでもないことになるよ、って警句なんだろうけれども、そんな最後に痛んだはずの鵜が、またもやキリリッとしているところに人間の凝りなさってものも見えてくる。騙されたって信じたい。信じたいから信じるんだ的な。今時の風潮を表しているなあ。

 冒頭に流れた久保雄太郎さんの「crazy fo it」は線が変幻していく展開がどことなくライアン・ラーキンでありノーマン・マクラレンといったアートアニメーションの人たちのあれやこれやをいっぱい取り入れぶちこんだって感じ。少し水江未来さんも見えたかな。テクニックのあることは解ったからそれを主題に落とし込めればなお結構。テクニックって意味では佐藤哲平さん「えんぴつをもって」は商業アニメーションのアクションやらコミカルやらをいろろぶちこんだ絵柄が面白かった。書き手もいっぱいいるのかな。それを監督としてまとめたっておとなのかな。楽しめる作品ではあるか。

 「マクシムの愉快な料理教室」に並ぶような3DCGは見られなかったけえれども、アニメーションといえばなパペットアニメーションも1作。木藤理恵さんの「灯台くらし」は布っぽい素材の人形たちがしっかり動いて灯台の側に暮らす少女の日常を描いてた。ホットケーキが美味しそうだった。チョウウミエさんの「My life」は2分割の画面で日本と中国の学生の日々を描いてバスの乗り方ご飯の食べ方友達との遊び方の日中の差を見せてくれた。なるほど違うっちゃ違うけどそれでも人それぞれじゃないって気も。永井啓太さん「平成怪奇譚ひゅ〜どろ」は妖怪アニメ。赤舐めが可愛かった。女子高生は怖かった。高橋瞳さんの「コタツムリ」はニート3人の会話が愉快。親のふりみて我が振り直せってことだねつまり。

 異色な作品が斉藤弘毅さんの「楽しかったことを思い返すよ」で絵柄的には植草航さんっていうかタカノ綾さんめいたぐにゃ系の雰囲気なんだけれどもそれらが動いて出てくるシーンではキャラがふくらみ巨大になって涙を流し嘔吐したりとなかなかに壮絶。でもそれが汚さとは違って流を生んで見ている人を引きつける。不思議な映像。ちょいおかしいけどでも何かありそう。それは何だ? 調べたい。似たような水彩調では山口七実さん「forget」も良い雰囲気。学校のクラスにいる少女の懊悩というか内面が動き出しているような作品で、その結末が悲劇なのかどうか、解らないけれどもとにかく鬱屈した学生の心情って奴が割に出てる。そんな作品がほかにもあった。学校って今そんなにきゅうくつなのかなあ。大変だ学生。テイキツカンさん「D3」はサウンドが良かった。おりじなる? そんな感じに優れた作品がわりとあって楽しめるので行こう東京工芸大卒展イン秋葉原。

 なんか凄いことになっているというか、岩手県の山田町から持ってきたがれきを燃やすの燃やさないので島田市がいろいろと話題になっているけれど、現状とりたてて危険な数値も出ていない状況であるにも関わらず、それによって風評被害が生まれて静岡というブランドを損なうぜっていった主張が現れてきて頭が割れそうになる。風評ってまずそういっているのはいろいろと言っている側であって、現況が別に問題ないならそれと騒がずスルーした方が良いものを、あるのかないのかわからないけど、あるかもしれないという懸念があるからいやなんです的な見解をぶつけ、そうした見解が出ているからにはそこから懸念が他に広がるといった感じに、マッチポンプというか自家撞着めいたロジックをぐるぐると回して、とにかく危険なんだという空気を醸し出そうとしている。

 そりゃあ本当に何か出たんだったら問題だけれれど、そうでない以上はそれは論拠にならないしなるはずもない。なのにそう思う私の心が論拠であって、それによって他の人がそう思ったら拙いから私にそう思わせないでくれって言われてもねえ。信じたい心を覆すのは他の誰にも出来ません。あとがれきが運ばれることによって静岡ブランドが損なわれるっていう見解は、今まさにそこに山となったがれきを持っている岩手県のブランドは、とうに損なわれているって言っているのに等しいんじゃないのかな。

 自分たちにとって受け入れがたいものであるって表明している以上、そこに暮らしている人も作られているものも無価値って暗に言っている訳なんだけれど、そうした意識が言ってる当人たちに果たしてあるかが見えないだけに難しい。その通り、って胸を張って言えるんだったらそれはそれで勇気だけれど、自分たちの筋を通したいばかりに知らず他を傷つけていることに、気づいてないのだとしたらそれもそれでとても寂しい。どうにかならないものかなあ。ならないからこそのこの居たたまれない空気感、なんだよなあ。

 ああヤマトだなあ、という感じに見た「宇宙戦艦ヤマト2199」は、オープニングにばっちりのタイミングでタイトルロゴが上がって来たりするところにも、キャラクターの演技の雰囲気にもやっぱり前作へのリスペクトがちゃんとはっているから、オールドファンは安心して見てみられるんじゃないのかなあ。新しい人だとおいおい戦艦が戦闘機みたいに見えたりもするし、無限に広がる大宇宙なんだからあんなに近づいて艦隊くまなくって良いんじゃない的な感想も浮かばないでもないけれど、それも含めてヤマト的ってことで。森雪よりもとりあえず火星に落ちてきた美女がとってもセクシーだった。名前はまだない。4月7日から上映みたいだけれど上映会場での販売版の方がジャケットが悩ましいのでそっちをどうにかして手に入れたいものである。しかしこれだけ老若男女を問わず話題を振りまける作品に見向きもしないんだからもはや世界からズレているとしか思えないぞ目ん玉紙。乖離はやがて……いいうかもはやか。悲しいけれどこれが現実。頑張れ他紙。


【2月17日】 行くとひとり「スペランツァー、オーオー!」って大きな声を出しているサポーターの人がいて金髪で細面で無精ひげが生えていて、どことなく阿部勇樹選手に雰囲気が近いなあと思いながら日テレ・ベレーザを応援していたかつての日々。TASAKIペルーレほどではないけれども関西の名門としてそれなりに名を知られ、勝負だってしっかりやってた感があったけれども最近は、なでしこリーグの1部から下がって2部に落ちたり戻ったりを繰り返していて、ちょっと残念に思っていたら何か吉本クリエイティブエージェンシーが支援して、本格的に再始動に載りだしたみたいでスペランツァFC大阪高槻、今年はいろいろやってくれそうで東京でもまたあの応援が聞けるのか、もういなくなってしまったのか、考えるとちょっと楽しい。

 ジェフレディースから丸山桂里奈選手も移籍したみたいで、脚も怪我しているのに採ってなかなか大盤振る舞いだなあ、って当たりにスポーツとしてのサッカーの要素とはちょっとずれた、タレント性を勝っての起用って意味合いをそこに見てしまいがちになるけれど、スター選手が来ることによって取り上げられる機会が増えれば、それだけ他の選手たちにもやってやろう、やらなくちゃって意気込みが出てくる。そこでしっかり実力勝負がまかりとおれば誰も僻むことなく落ち込みもしないで、チーム全体が向上していけると思うんでそのあたり、ジェフレディースの上村崇士監督がやったように、プレーに必要なら使うしそうでないなら使わないといった線引きを、見せつつ丸山選手の持つスピードとドリブルという武器が、ロンドン五輪で最大限に発揮できるように競わせもり立てていって欲しいもの。そこに金メダルがかかってくるのだから。

 ウォクス・アウラっていうんだっけ、「輪廻のラグランジェ」でまるっな京乃まどかが載ってるあのマシンが日産自動車のカーデザイナーによってデザインされたものだって話は有名だけれど、そんな前評判に違わず送り出されてきたメカは流線がはいり膝とかにスピーカーだかジェットだかな形状が入ってこれまでのロボットデザインとはちょい違う雰囲気って奴を確かに醸しだしてくれている。

 昨日に発表があった「エウレカセブンAO」に出てくるニルヴァーシュも、7年前の「交響詩篇エウレカセブン」に始めて登場してきた頃はサーフボードにのって空中を滑空するギミックの目新しさとともに、先鋭的なスタイルとして感心したけど今こうして眺めてみると、ウォクス・アウラにくらべてやっぱりメカメカしいって印象が浮かぶ。時代はやっぱり移り変わるもの。そして次代は必ず現れるもの。どんなメカが次は出てくるのかなあ。顔に髭が生えているのかなあ。

 やっぱ奈古さんでしょうと、1話からアニメーション版「男子高校生の日常」を最新話まで一気に見て出てくる女性キャラクターの中で1番を考えたときにそう思ったけれど、他に類似する趣味の人がいるかどうかは解らないとしか言いようがない。なるほど限定的に奈古さんが髪をおろして眼鏡もはずして頭巾もとって、目を大きく見開いてそして凸面鏡に向かい微笑んだ姿なら最高で最強と強く訴える人ならいそうだけれど、でも本当のファンならそうした可能性を持っている、ってことだけで十分なんだよ本当に。

 なるほど普段は長身な上に横幅もあって眼鏡も度ありそうで、髪は縛って顔は仏頂面であっても、そこにああなる可能性があると思うだけで、心にその姿が浮んで嬉しくなる。それすらも邪念と思えるほどに、単純に強気の眼鏡に弱いってこともあったりする。「とある科学の超電磁砲」に出てきた固法美偉先輩とか。でも「女子高生は異常」のヤナギンはちょっと。スカート姿であぐらをかいて座る潔さは悪くないけど、でもやっぱり凶暴すぎる、声ともども。そんな彼女に負けず凶暴だったらしい羽原の全盛期、見てみたいような恐ろしいような。

 凶暴さでは主人公3人組みのうちのタダクニの妹も結構上に来そうで、兄の仲間達を相手に一歩も引かない力業を見せるあたりに潜むパワーが伺える。あとヨシタケの姉もジャージ姿でクリスマスを1人で凄く寂しさはあってもそれに同情したヒデノリを軽く蹴飛ばすパワーは持ってる。モトハルの姉も今は背丈は小さいけれどもモトハルをつかんで振りまわすくらいのパワーの持ち主。そんな人たちばかりが出てくる中で、いくら顔立ちとか凶暴そうでも男子高校生は影が薄くなって当然か。

 顔が見える数少ない女子の1人のりんごちゃんですら、対戦をした男子校の生徒会長に1発も打たせず、ノックアウトするくらいの強さ。土手にあらわれる文学少女……はなるほど物理的な力は出さないけれおd、中2なスピリッツを今に抱いてそれにそぐう男子を捜し求める精神が強靭。見かけの愛らしさに知り合いたいって思ったけれど、彼女の期待に答える自信がないので後はヒデノリに任せます。杉田智和さんほんと生き生きと演じているよなあ、今まででも最高の役柄かも。これ聞くだけでも価値あるアニメ。奈古さんもっと出ないかなあ。

 なんで洗濯機が並んでいるのとアミューズメントエキスポのセガブースで思案。本家が自ら洗濯機って言ってるくらいだからなるほど本当にドラム式の洗濯機って感じで四角い箱の真ん中にひらいた丸い部分がぱかりを明いて、なかに色々放り込めそうな気もしたけれども残念ながら丸い部分はモニターになってて開きません。そこに映し出されるのはAKB48をはじめとしたアーティストの映像で、プレーヤーはそこに表示されるマーカーなんかを追いつつ周囲のボタンを押したり、タッチ式の画面をなぞってタイミングなんかを競うみたい。つまりは音ゲー。けど形状の楽しさを歌の新しさでもって引きつけるのが狙いみたい。

 最初はたぶんマーカーを央のがせいいっぱいだろうけれど、慣れてくるとそれをこなしつつ間におかずなんかをいれてダンスの振りを作り上げ、周囲に見せつけることも可能になりそう。おなじようなことってコナミもユビートっていう音楽ゲームでやっていたけどあっちは四角いブロックを叩くのがメーンで画像は出ない。周囲に映像を見せつつダンスも見せられるって意味ではセガの洗濯機、じゃなかった「maimai」はゲームセンターに人を呼び込むマシンって言えるかも。一方のコナミもXbox360のキネクト対応で出してた「ダンスダンスレボリューション」をゲームセンターに戻したようなのを登場。ステップ部分はなくても振りだけでダンスを踊って楽しめる。家庭用から業務用へ。そういう時代なんだなあ。

 AKB48がフィーチャーされている、ってのも昔のゲームが主役だった時代とは大違い。「バーチャファイター」に食らいつきながらボタンとレバーを通してマシンを気持ちを一体化させ、60分の1秒を競い合っていた「トウキョウヘッド」の熱くて激しい空間はもはや、日本のゲームセンターのどこにも存在していないのかもしれない。っていうかそんな「バーチャファイター」がモバゲーの携帯ゲームだかになるとか。ダイヤルボタンを60分の1秒で叩いて技を競い合う、なんて遊びがそこにあるはずもなし、キャラクターの育成とそしてタイミングを競うゲームを「バーチャファイター」と呼んで良いのか迷うところだけれどもそれが時代、なんだろう、寂しいけど。


【2月16日】 沖縄だ夏だ海だ水着だイチカ先輩がたぷたぷだ。でもそこに偶然を装ってか本当に偶然か、海人の昔の知り合いってことらしい樹下佳織が現れなかなかの雰囲気に。いっしょに映画を撮っただけじゃなくって別に現れ茂みの中でしっとり落涙。そして脇に水着のイチカ先輩が佇み修羅場が繰り広げられるといった展開に、果たしてなるのかどうなのか。いずれにしても次回も水着は見られそうな「あの夏で待ってる」。さらにその連れのダイナマイトな肉食系の有沢千春も現れイケメン哲朗に迫るもはねとばされて合われ莉ノンが下敷きに。いったいどこの下になっているのか。なれるものならなりたやりのんに。ぎゅっとされたい彼女の尻に。

 そりゃあ放射性物質がくっつているようなものを持ち込まれちゃかなわないよなあ、なんて思いながら改めてニュースをよく見てそれが、福島県でも20キロ圏内とかいったところではなく、岩手県の山田町ってところの震災がれきだと知って、そりゃあいったいどこなんだと地図を見て、福島の隣の宮城県すらこえた向こうの岩手県はさらに青森へと近づく場所だと解って腰が砕ける。なんだろうこのもやもやとした申し訳なさ。もはやまるで原発とは無関係か、あっても東京やら千葉やら埼玉よりは関係が薄そうな場所の震災がれきを、持ってこられて騒ぐんだったら東京や千葉や埼玉あたりから頻繁にやってくる人とか物とかの方がよっぽど心配すべきじゃないの。それより一時話題になった、地元静岡でとれるお茶っ葉の方が不安んじゃないの。

 でもそうしたものに逐一反対している風はなく、震災のがれきだからっていうこのタームだけで反応している人がいっぱいそうで、いったいどうすればこういう人たちに科学への理解を得てもらえるのか、考えたけれども何も思い浮かぶなおさらもやもや感がわいて漂う。もうまるでそうしたものとは無縁と思い、そこに暮らしつつ津波で受けた被害にいまだに一喜一憂し、将来に不安をかかえて生きている人たちが、今回の一件を遠く伝え聞いていったい何を思うだろう。自分たちの存在そのものへの懐疑を覚えてもやもや感どころかもやは存在していていいんですか感を覚えやしないだろうか。ただでさへへこむ気持ちに追い打ちをかけるこの仕打ち。でもやってる方は正義の代弁者という面もち。このギャップがこの国を分断し、攪乱して崩壊へと導かないか。心配だ。

 さらに言うならそこよりさらに福島へと近い水戸とか福島とか仙台といった街に暮らしている人たちは、どうしたら良いんだろうって気持ちにならないか。毎日起きて外を歩いて食べて遊んで夜にかえって眠っている、その暮らしだけで遠く岩手の震災ごみを燃やすとかいったものとは比べ物にならないいろいろを、受けているんじゃないかと思って鬱々とした気持ちにならないか。むしろそうした人へのケアを、するのが日本人のキズナって奴だったはずなのに、今はもはやそうした意識もすっ飛び我をのみ、尊び信じる気持ちが上を行く。あまつさえ3月11日にはそんな“極地”へと出むいては、わざわざ危ないよ大変だよって言い募るイベントまでぶちあげるらしい。何しに来るんだろう感も浮かぶだろうなあ。困ったし悩ましいけどどうしようもないこの感覚。責任はひとえに爆発にあっても、それを受け止める知性も人間はもっている。穏和さを日本人は持っている。はずだったのに。なぜ。気が重い。僕は千葉にいていいのだろうか。

 あれは2005年の1月31日だったっけ、銀座にあるソニービルの上にあるSOMIDホールで開かれた新しいアニメーションの発表会に出てそこでサーフボードの上に乗っかり空中を滑空するという、世にも希なアイディアを持ったロボットが出てくるアニメーションを見せられそして、主題歌として起用されたFLOWってバンドが繰り出すサウンドのスタイリッシュさに惹かれ、これはもう絶対に面白いに違いないと思ってからだいたい2カ月とちょっと。始まったアニメーション「交響詩篇エウレカセブン」は少年が少女と出会いロボットを操り老人を置いて家を出て、自分を捜すという主題が見え、誘う奴らの格好良さにも目を奪われもう絶対に面白いに違いないと買うシンしてから数ヶ月。煮え切らないレントンというキャラクターに辟易としつつ見えない世界観にもやもやを抱きながらいったいどこへと向かうのか、悩みも抱えつつそれでもやっぱり午前7時に目を覚まし、日曜の朝をほとんどリアルタイムで1年間、つき合っていったことを居mad目尾くっきりと覚えてる。あの頃は元気があったなあ。

 それから7年。間に「ポケットは虹でいっぱい」という映画を挟んで今一度、「エウレカセブン」が新しいシリーズ「エウレカセブンAO」としてリスタートするってんでその発表会を見物に行ってだいたいの概況を聞いたけれどもかつて抱いたようなサーフボードでロボットが滑空することへの驚きも、少年が少女と出会って冒険に出るストーリーへのワクワク感も、1度は通った道としてそれほど強く惹かれるっていう感じではもはやなかった。とはいえそれは過去を見てきた人間ならではの達観であって、当時まだ小学生でそして午前7時だなんて時間に起きては、番組を見られなかった世代にとって、これが最初にしてスタンダードの「エウレカセブン」となる訳で、主演に起用された本城雄太郎さんをはじめ若い声優の人たちにとっても、かつてのスタイリッシュさはそれと受けつつ、自分たちが切りひらく「エウレカセブン」の世界を作り上げていってくれると期待して、今度は早朝ではない時間帯を寝ずに頑張りリアルタイムで見ていきたい。それに耐えうる作品になっていると信じよう。どうだろう。


【2月15日】 大江奏として机くんを相手に勝利したと思ったら、ムギナミとして兄ちゃんにビームで撃たれたりと大変な火曜日だった茅野愛衣さん。声に特質があるってタイプの声優さんではないけれど、その役にあった演技をしっかりみせてキャラクターを引き立てるところが、まだデビュー間もないのにこれだけたくさんの作品でレギュラーを獲得していられる理由かも。可愛い系とかだけじゃなくって「神様ドオルズ」の日々乃さんってああしたお姉さん系だっていけるんだから凄いよなあ。どの3人にしても胸が多きのは共通だけど。めんまは小さかったか。でもあれは子供だからで大きくなっていたらきっとグラマーになっていたに違いない茅野効果によって。うん。どんな感じか成長しためんまのイラスト見てみたい。

 頑張ったのに怒られ突き放されて落ち込んで、それでもすがってビーム撃をたれ、外れたけれどもやっぱり気にして自分に親身な少女を遮り、自分本位と罵ってみせるムギナミの心理は、何か非道そうだけれど彼女の立場になったらあれで、案外にわからないこともないような気がした「輪廻のラグランジェ」。どこまでだって信じていたいしその方が楽で、そうした考えを疎外する者はやっぱり敵だと思ってしまうよなあ。だから不義理な娘だとは思わない。むしろ微笑みオールバックの兄ちゃんの行動目的が不明なのが、敵と味方の関係や敵の目的が今ひとつ見えないなかで、誰に気持ちを寄せてみればいいのかわからない、モヤモヤ感の原因になっているような気もする。いきなりセブンスウェルとか発生するし、ってちょっと違うか。でも謎が多い方が見ていて楽しいのでまだ見よう見続けよう。鴨川シーワールドにもそのうち行こう。鴨川エナジーって飲めるのかな。

 信じ込むとなかなか否定できないってのはあるよなあ、と例の芸能人の占い師がどうしたこうしたで家賃が滞納されておくりびとが怒り人ってニュースを見て考える。でもそうなるってのも子供じゃないんだから本人の責任の範囲であって、それを家賃は銀行引き落としだからそれが滞納されているとうことは銀行引き落としができないくらいに残高が無く、それはあの仕事っぷりからおかしいのでお金がどこかに消えてしまったと、芸能人当人ではなくその背後にいるらしい占い師の人を批判する芸能リポーターの論理に、でもほら家賃って毎月銀行振り込みの場合もあるんだから、 銀行振り込みがされなくなったのはしたくないという意志であって、その意志は示唆されているとはいえ当人のものであって、そうなってしまった当人をまずもっていろいろ指摘するべきなんじゃないのとも思う。芸能人を悪く言いたくない心理って何なのかなあ。仲間意識か別の力関係か。どっちにしたって39万円の部屋なんて想像もできないや。広いのかなあ。サッカー場くらいあるのかなあ。

 「源氏パイ」というお菓子があってどーしてそういう呼び名なのかは知らないけれど、ハート形をしたパイ菓子はすみっこのやや固い部分がカリカリとしていて甘くって、そこだけ歯でとりだしてはポリポリと食べるのがひとつの食べ方になっていたっけどうだったっけ。あんまり品数を入れないディスカウントストアでも、ブルボンのエリーゼや東鳩のオールレーズン、ギンビスの食べっこどうぶつなんかと共に定番になっていたんだけれど、そんな菓子に「平家パイ」って姉妹商品がこのほど登場。それでもって源氏パイの源氏が平家と源氏の源氏ってことになっていたのかと、ようやく解ったそうだったんだ。

 いやいや本当にそうなのか、単に今は平家が流行りなんで源氏を光源氏とかではなく武士の源氏と位置づけることによって平家を持ち出しただけなのか、いずれにしてもこれでひとつの軸が決まっていずれ新田パイとか足利パイってのが出てきてそして織田パイ豊臣パイ徳川パイと続くのであったという。ちょっと興味。むしろ姉妹品ならブルボンの「ホワイトロリータ」に「ブラックショタ」ってのが出て欲しいもの。どんな菓子かを想像するとちょっと楽しい。花林糖で黒いんだけれどつまめるくらいの可愛らしさがまさしく「ブラックショタ」とかどうとか。しゃぶるように味わってくださいな。

 道玄坂プライムの上にあったシネセゾンだったっけ、そのうちの1つのスクリーンが座席付きのライブハウスに業態を変更したときに、変わったことをやるなあってことで運営にあたる会社を取材したことがあったけれど、その時にすでに開店していたすぐしたの階にあった「スペースシャワーTV ザ・ダイナー」も、同じ経営者による店だってことでそこの個室を借りて話を聞いて、上はプロが活躍するライブスペースとして活用し、下はまだ若いアーティストなんかを舞台に上げてここから巣立って貰いつつ、音楽と食事を楽しめる店にしたいとかってことを、経営者の人が確か話してた。その時はまだ経営時間前で雰囲気が解らなかったけれど、それから軽く3年は経って果たしてどうなっているかとのぞいたら、店はちゃんと続いてて週の中日にあってそれなりなお客さんで埋まってた。ああ良かった。

 意外だったのは女性客の率の高さ出、目分量でそれこそ8割が女性って感じで女子だけでやって来たりしているテーブルの多さに雰囲気の決してやかましくなく、ビールのみ放題にはしないでアルコールからソフトドリンクまで幅広く選べ、食事も撮り放題でメニューも豊富で、おまけに3時間という時間が楽しめて語れる場所として、受けているのかなあと理解した。ライブについては本当にまるで知らないNieって3人組みが登場したけど、ハイトーンの女性ボーカルをアコースティックのギターと、ジャージーな感じに叩かれるドラムが支えてなかなかの雰囲気。ギター1本でベース的な低い音を出して高い音を弾いて厚みを出したりする腕前はなかなか。オリジナル曲も良かったんで帰りがけにCDを1枚購入したんでゆっくり聞こう。なぜかAKB48のカバーもやていたけどそれは掴みかあるいは本気か。これからの活躍に、期待。


【2月14日】 その力を持っているとことを知られないまま、他の誰にも見えない妖怪たちに恐れ慌てては不審がられた過去を鑑みるなら、その力を持っていることを言って何か不審な振る舞いをしていてもそういうことだと周囲の納得を得られる方へと、向かって悪いものであないけれどもいると知られること自体を、嫌がる妖怪たちも大勢いてかつてそれで酷い目に遭ったことも考えるなら、いないものはいないと信じて一生を送らせる方がその人たちの為になる。だからやっぱり明かさないまま来たけれど、妙に勘の鋭い寺の息子は気づいてしまったからなかなかに大変だ。

 不審な行動をしていればそれを心配されて近寄られるけど、身にふりかかる火の粉を自分で払うだけの力もない普通の身で近寄られると、かえって危険を移してしまって迷惑な場合もある。だからといって心配ないと自分だけで抱え込むと、余計に心配してしまうのもまた当然の流れ。受け入れもできず邪険にもできない迷いに陥っている夏目を、だから周囲は頑張っているけど自分には何もできないんだと、理解し認めてぶた猫ニャンコ先生に、お任せするのがやっぱり正しい解なんだろー。

 でもそれをするには優しすぎる夏目は、レイコのように自分ひとりだけで生きる道も、名取さんのように人間を廃する方にも向かわず折り合いを付けようと模索する。そしていらぬ苦労をする。その狼狽える様がきっと世の女子の心をくすぐるんだろうなあ。「夏目友人帳・肆」。柊の久々の登場はやっぱりドロンといった感じに宙からわいて出た。珍しく瓜姫もいっしょだったけれども相変わらず目立てない。そしてニャンコ先生が変じたレイコも登場。勇ましいなあ。けどどうしてあれだけの実力者が早世してしまったんだろう。現世にはいないと言われているからやっぱり存命ではないんだろうけど、不思議。そして来週は七瀬の若い頃を大フィーチャー。今は婆さんの彼女がおしゃまな眼鏡っ娘だった時代。何があったか。そしてどうしてこうなったか。今明かされる、のか。

 あれれ蛍に胸がある谷間がある、って手に取って開いて思った「イブニング」掲載の石川雅之さんによる「もやしもん」。ミス農大の水着審査に登壇したけどどす黒い気をまとってあらわわれたその中身は言わずとしれた長谷川遥。美里の説得か何かで蛍のような化粧をし、衣装をまとってステージに上ったもののやっぱり不本意なその重いが、黒い気となって周辺を圧倒し、檀上の武藤葵すらも圧倒して戦意を大きく損なった。一方で高校生の西野さんは寡黙に見えた本性が現れ悪口雑言に乱暴狼藉をステージ上で披露し周辺を圧倒。それにファンも大勢生まれそうな気もしたけれども当人が莫迦騒ぎにはつきあえないといった以上はもはやそれまで。残念だけれど仕方がないけどこれでもやっぱり来年入ってくるのか農大へ。

 かくして決まったミス農大。良いんじゃない、及川葉月で。人気もあるし見た目も上々。そして武藤葵ほどにはまだ爛れてないから初々しさでもって世に喧伝していける。その名が判明して大騒ぎになったキャサリン小坂さんも、そのホットパンツ姿からのぞく腹とか脚とかなかなかにグッド。親子の親愛も見せてくれたし、棄権しなければ良いところまで行ったと思うけれどもやぱり残念。これでもしも小坂さんルートが選ばれたとして、どんな決着の付け方だったんだろう。西野さんや畜産の彼女も含めて全ルートがどう進んだかを読みたいよう。個人的にはやっぱり1押しだった蛍の優勝、ってのはなかったのか? その場合はどういう風に水着審査を乗り切ったのか。臨時にふくらませるとかVFXを使うとか。やっぱり読みたいよう。

 クリスマスの発売が2カ月伸びて世間でももはや忘れられているかと思いきや、むしろ発売までの気持ちの熟成に貢献したようで、午前10時を前にして秋葉原にあるヨドバシカメラの横には数百人の行列が登場。そして発売された「NEWラブプラス」の購入もそこそこに、イベントコーナーで寒風吹きすさび雨も滲む中を我らが内田プロデューサーと、そしてミノタローさんのトークショーを30分以上も聞き入った。偉いなあファン。その後は近所の「セブン=イレブン」前へと移動して巨大な愛花と凛子と寧々さんの登場を見物、っても手にツールをダウンロードしたニンテンドー3DSか、専用アプリを入れたスマートフォンがないと見られないARでの巨大像。映ると身の丈7メートル11センチと3回にも届くような高さから、チョコを手渡してくれるらしいんだけれど見えなかったんで3DSの再起動を期してその場を退散する。ここにも大勢のファン。「ラブプラス」人気は未だ衰えず。

 「龍が如く」の発表会でも感じたけれども、長く続いていたり爆発的に売れたりはしてなくっても、それなりな数字を確保し、社会が関心を抱くくらいのにぎわいを見せるソフトってのが割に出ていたりする昨今。それが独自性って奴で、「ラブプラス」の彼女と過ごすという他のゲームでは追随も真似も出来ない唯一性は、大きな特徴となってしっかりとしたファン層を確保している。もちろんただ同じ彼女とつき合うだけってだけなら3年も経てば飽きもでただろうけれど、今回は行った先で撮った場所にキャラクターを入れ込ませる「エクストリーム」な遊びがよりクリアに楽しくできるってことになって、かつて山の上とか海の底、はいなかったけれども各地に「ラブプラス」ユーザーを向かわせた衝動を、刺激して様々なイベントを起こしそう。

 それは、行く先を熱海、って場所に限定させてしまった「ラブプラス+」から、さらに大きく広げる可能性を持っているとも言えそう。個人の創造性を刺激して、開発側が仕組んださまざまな昨日に挑戦し、クエストをクリアしていくような感覚で突き進む楽しみを、架空の彼女と連れて行くっていう、ある意味で異色ではあっても、ある面から見ればとってもクールな行為とともに味わえるのは、他のソフトでは絶対に不可能。その唯一性を二次元彼女だなんてありきたりの言葉にまみれさせ、斜めに見下すのは絶対に間違っている。腰の重い時代に行為を呼ぶこのメソッドを、学ぶことは絶対に意味がある。それこそ観光庁がバックアップしたって不思議じゃない。さてもいったいどんな場所からデートしたって報告があるか。凛子が乗り込んだイースター島には誰が最初にたどり着くか。注目だ。マフィア梶田さんが1番乗りとかしたら楽しいなあ。

 ヨドバシカメラではユーフォーテーブルとアニプレックスが立ち上げたアニメ文庫って短編アニメーションのレーベルから初登場した3本を購入。28分の「百合星人ナオコサン」と36分の「みのりスクランブル!」と70分もある「ギョ」が同じ値段、っていう不思議はあるけれど、種類も内容も長さも多彩なのはそれだけ個々にやりたい人がいて、やりたいことをやろうとするのをやらせた結果のレーベルだから。商売を狙ってそれを作れと向かったものと、違って当然のこの結果。とはいえだからといって売れないと、次が続かないので興味のある人はせめて1本、選んでみてはいかが。長さで「ギョ」って思う人も多そうだけれど、でも短くっても「ナオコサン」はエロエロだぞ、「ギョ」のエログロさとは違ったあっけらかんとしたエロが最高だぞ。新井里美さんのあの口調を存分に耳に吸収できるぞ。さあ。さあ。さあ。


【2月13日】 忽那汐里と書いて「くつなしおり」と読むことは知っているけれど、「くつなしおり」を書けと言われた時に果たして書けるのかと考えて、靴品栞とかってのが出てきたりするATOK。いやでもまあ彼女の場合は「半分の月がのぼる空」って映画に出ていたこともあって、割と知っていて書けたりもするんだけれど、武井咲って名前をみて、これをどう読むかって言われた時にはやっぱり普通に「たけいさき」って読んでしまって、違うんだって言われて何度か教わったんだけれど、いまだに即座に思い出せない「たけいえみ」。どーして「咲」が「えみ」なんだ。「咲み」という言葉があるらしいけれど、それっていったいどういう意味なんだ。花が咲けば顔もほころび笑みが浮かぶという意味か。奥深い日本の名前と言葉。

 そんな武井さんが出てきた「龍が如く」のゲームとドラマの発表会があったんで見物。コナミの牙城でやるとはセガもなかなかやるのう。そんなコナミのお膝元にあるショップではバレンタインデー仕様の「ラブプラス」3ヒロインのバッジセットがあったんで購入、付けて明日のお迎えに行こう。そんな浮ついた気持ちを足蹴にして踏みつぶしそうな硬派なゲーム「龍が如く」は歌舞伎町でオブザデッドをやってたシリーズからこっち、あんまり状況を理解していなかったけれども「クロヒョウ」のシリーズなんかが割と人気になってるみたいで、続編とかドラマの続きなんかが作られるみたい。長くもたないコンテンツも多い中でもう5年? もっとになるのかな、ともかくしっかり続いているところに他にない、唯一の面白さって奴があるんだろう。珍しく追随もないし。

 このシリーズ、暴力めいた描写はあっても友情があって助け合いがあって勝利を目指す意志があるゲーム。その通った筋に引かれ買うファンもいれば、出る役者もいるんだろう。今回は北村一輝さんとか松方弘樹さんとか高知東生さんとかが出席。そういや劇場場「龍が如く」って北村さんが主演だったよなあ。その意味では縁のある作品ってことで。武井さんは何に出るんだったっけ、何かのゲームにたぶん声で出演しているんだとは思うけれども顔立ちすらあんまりくっきり覚えてないのに、声を聞いてもピンとくるのかどうなのか。メガシャキな北村さんはあの顔に混じって声も割に届いているからすぐわかる、かな。松方さんはもう大丈夫。そんなゲームの発売は3月。期して待とう。

 技術士官ってことは理系で情報長っていうことは肉体よりも知性で勝負ってキャラクター。眼鏡を掛けてイメージカラーはブルーで髪は襟筋をそろえた変形ボブ、そして声が久川綾さんというのだからもうこれは「宇宙戦艦ヤマト2199」の登場人物で1番でトップで最高峰でマーベラスな存在に違いないと、登場前から新見薫さんを強く讃えておしまくる。ビジュアルを見ただけでもうクラクラ。その声でその顔で「こんなこともわからないの?」って罵倒してくれたもう嬉しい。でも意外に久川さんキャラで多々ある関西弁だったりしたらちょっとイメージ変わるかな。「こんなこともわからへんの?」まあこれはこれで。

 他にも山本玲とか原田真琴とか岬百合亜とかいろいろ登場して競うな新ヤマト。けどやっぱり注目は真田士郎役の大塚芳忠さんか。あの声音で「こんなこともあろうかと」って言って出してくる装置が真っ当なものであるはずがない。どこか裏があって卑怯卑劣なキャラクターが似合うんだよ大塚さん。癖があって時々暴走して「いっひっひっ」って笑うんだ。でも「荒川アンダーザブリッジ」のシロさんとかは見た目はどうあれ優しげで頼もしげな雰囲気だし。うそして横で佐渡酒造は千葉繁さん。これも似合ってはいるんだけれど、やっぱり千葉さんだけに大声で「ぎゃははは」と笑ったあとで真面目になって哲学を語り、そしてやっぱり大暴れ、って何だ佐渡酒造そのまんまだ。つまりはなかなかのキャスティング。期待したいなあ。「宇宙戦艦ヤマト2199」。

 やっとこさミニスカで海賊になってた「ミニスカ宇宙海賊」、ではなくってアニメーション版は「モーレツ宇宙海賊」だったっけ、それでもやっぱりミニスカ姿の船長さんが、乗り込んできてはいろいろと騒ぎを起こしてくれると、オールド世代にとてはいろいろ嬉しいこともあるようで、ほら来るやれ来るって感じに待ち受けキャプテン茉莉香の登場を心待ちにしている姿が見ていて微笑ましい。ああやって金品を渡すのも一種のアトラクションってことか。でもって後でしっかり船会社から保証される、と。それは何だろう、航路を運営する会社にとっては海賊が出るかも知れないっていう期待で、大勢を引き寄せられるっていうメリットを感じてそうした保証を行っているってことなんだろうか。一種の付加価値。現実の客船でこれをやったら果たしてどこまで受けるかな。でも今は本物の海賊も出るみたいだし。命あっての物種ってことで。海賊を喜ぶのはアニメの中だけにしておきましょう。

 神武天皇は実在したとか125代の万世一系だとか言って、皇室の基盤を確たるものにしようって論調が、目ん玉ペーパーあたりから染みだしてきているけれど、これって考えようによっては、現在の敬愛されている皇室、信頼されている皇室の敬愛や信頼に、どこか不安があって、だからこそ歴史とはまるで違った神話を持ち出して、それを論拠にすごいんだぞ、こんなにすごい系譜なんだぞって補強しているだけのように見えたりもする。そうまでしないと彼らの心理にとって、今の皇室って不安に映ってしまうのかな? ちょっと解らない。

 太平洋戦争の終結から65年が経って、昭和天皇の行幸と絶対平和への思いを受け止めみんな感じ入り、そして今上の明仁様の体を張っての全国行脚に誰もが優しさを感じて敬いの意を覚えていたりする。そんな皇室が、たとえば継体の時から続いているっていうならもちろん、維新後の明治から100年以上続いているってことでも十分、積み上げた歴史の重大さは伝わってくる。そして、今の存在意義を語ることによって存分に、親愛を積み上げることができるのに、そうはしないでひたすらに、神武だ125代だ2672年だって言って神話(フィクション)にすがろうとする方が、よっぽど現在を敬っていないように思うんだけれど、そういう意識はからっきし、なんだろうなあ、あの人たちは。何かもやもや。


【2月12日】 夜に先駆けて「海賊王に俺はなる」と叫ぶアニメも横目に支度をして、午前10時過ぎに家を出て午前11時のプレス入場に間に合ってしまう幕張メッセのこの近さ。船橋に住んでいて良かったと思う瞬間であります。途中、腹を膨らませようと立ち寄りたくてもワールドビジネスガーデンにあったマクドナルドは去年の末頃に店を閉めた模様で、次世代ワールドホビーフェアで子供が群れてたのも去年の夏まで。今はうどん屋となって昼時にでもならないとあんまり人も入っていない模様。あれでなかなか繁盛してた感じなのにどーして締めたのかなあ。イベントでもなければ人は来ず、ほとんどは近所のテクノガーデンにあるもう1軒に行っているから必要ないって考えたのかなあ。そうやってスクラップを急ぎメニューもセットの高めのにシフトされてりゃなるほど、収益もでるはずだよマクドナルド。

 場内ではとりあえずフライングメガロポリスのコーナーへと行って常連のKAMATY MOONに挨拶。今回は妙な魚系が増えていた。あと兎のミリタリーっぽい奴も。そして幾つか売れていた。やっぱり人気なんだよなあ。あの世界観をもっと広めるにはどーすれば良いんだろう。アニメではないし絵本でもないし。難しいなあ展開って。そして奇譚クラブへと立ち寄って社長の人とかに挨拶。今回はピンクのベニテングタケを午前の限定で持ち込んでいたみたいでなかなかの賑わい。そして午後も順調に整理券がはけていた模様。キャラクターとかとは違うのに、なぜか人気のネイチャー系。そういうのを求めるホビーファンってのが着実に、広がってきているってことだよなあ、「チョコエッグ」の登場から早10年余。そうやって築き上げられた普通の模型の市場って奴が今、確実に花開きつつある。そこにそぐう商品を企画して出す。その腕と速さが奇譚クラブのイケイケな背景なんだろうなあ。学ばねば。

 しかし1ホールから3ホールまでの1つのブロックがまるまる企業ブースってのものちょっと考えてみたいところ。かつては7ホールと8ホールで収まっていたけど今回はグッドスマイルカンパニーの巨大なブース出展ってのもあったからか、あるいは通路を広めにとりたいってこともあったのか、1つ多い階上に点在させてみたいでその分、ディーラー参加のブースが4ホールから8ホールになってしまっていたって感じ。それでもかつての東京ビックサイト時代の、東館4ホールから6ホールの一続きに比べれば十分に広いんだけれど、合間をフィギュアの中古品売買なんかも埋めていたりする関係で、ガレージキットの祭典、っていった濃さがやや薄められて見えてしまった。もちろん数も質も前回はともかく通常に遜色ないんだけれど、そうした熱量をビビッドに感じられるほど、世の流行って奴が見えてないのも全体のボヤけて見えてしまう理由なのか。何が流行ってたんだろ。

 えっと四国だったけ、広告の仕事をしていた人が切り紙を始め、白い紙を切ってを重ねて立体の絵を作って見せる作品が、今回もあって前回に増して立体感がでていて素晴らしかった。もはやクラフトをこえたアート。そういう人がワンフェスってキャラクターフィギュア一辺倒のイベントにでて、どれだけ受け入れられるのか心配だったけれど、見て分かる良さってのがあったみたいで熱心にカレンダーに掲載された作品を見ながら関心してた。海外からも評判の様子。これを扱う絵画のディーラーさんとかいればもっと広まるんだろうけれど、それだと画廊が半分とるからもっと値段も高くなってしまうかなあ。だから関係者だけで並べて売ってる今がチャンス。次もワンフェスで会えるかな。他のイベントにも出て来るのかな。

 なんかホイットニーがどうとか情報が溢れてきたんで見たらホイットニー・ヒューストンが急死したとかどうとか。しばらく前から暮らしが荒れてドラッグが問題にもなっていたっぽいんで来るものが来てしまったかって印象もあるけれど、歌い手としてはマライ阿・キャリーと並んで当代一って印象も強かっただけにやっぱり残念というかもったいないというか。マドンナにシンディ・ローパーといったシンガーも未だ活躍はしていても、R&Bならではの歌唱力でもって叫び歌えてなおかつ目立てる人はそんなにいないだけ惜しまれる。

 当初はディオンヌ・ワーウィックの姪だの従姉妹だのって触れ込みで出てきたけれどすぐに人気でディオンヌ・ワーウィックを追い越した感。とはいえ「ハートブレイカー」で聞かせたディオンヌ・ワーウィックの歌唱力の前にはやっぱり人気が先ってイメージをずっと持ってしまっていた自分。世界でもそうだったとしたら当人もやっぱりいろいろ考えたんだろうなあ。それがこの悲劇に繋がった、ってことはないだろうけれど、ディオンヌ・ワーウィック未だ健在なだけにやっぱりもう少し頑張って、その地位を人気と売上だけでなく、実力でもって正真正銘、追い越して欲しかった。でも名付け親のアレサ・フランクリンがその先にさらに健在な訳で。アメリカのショウビズ、層が分厚すぎるよなあ。

 買ってきたら平清盛が兎丸から麦わら帽子を受け継いで海賊王に俺はなる宣言をしてた。まあいいか。ゴジラがシェーをしたことだってあったんだ、世の流行を受け入れ展開するのがエンタテインメントの習わしってことで。それはそれとして海戦とか迫力あったなあ。あの宗船ってやっぱりちゃんと作ったのかなあ。それが出来るところがNHKの底力、民放の時代劇はついえても大河ドラマがある限り時代劇は終わらない、って思っていたら次の大河は明治期か。幕末もあるけどでも。まあ良いその次に期待。つか瀬戸内海で海賊王ったら先代はやっぱり藤原純友だよなあ。「風と雲と虹と」の最後で緒形拳が縛られながら「俺の財宝か? 欲しけりゃくれてやる。探せ! この世のすべてをそこに置いてきた」って叫んでからかれこれ40年。ゴール・D・ロジャーの思いがようやく通じたよ、ってそんなことはありません。

 何か中国がいろいろ画策していて末は玉体をも除するのが目的とかいった主張を表題に連ねた本があってまあ確かに、宣伝工作とかいろいろやって親和性を高めてはいるんだけれどそこまで内政に干渉はしてこないだろう、それやってしまったら世界が黙っちゃいないっていった可能性なんかも考えてみたしたいけれど、そんな本が堂々掲載している文書があってそれが実に40年も昔に右よりのメディアに紹介された文書で第2弾って割に第1弾の欠片も見えないところが偽者くさいって評判になってたそれが、今もって引っ張り出されて論拠にされてしまうところに、嫌ナントカな勢力のそれが憎けりゃなんでもかんでもなスピリッツを、見てそういうスタンスじゃあ信者は得られても広く理解は得られないんじゃないかと思案顔。でも一部の熱狂をこそ全方位の賞賛と受けたがるのもそういった勢力の習い性なんで仕方がないか。かくして世と乖離してカルト化へ。そして先のすぼまる滅びの道へ。今まさにそうなっているメディアがあるんだけれど。神武天皇は実在した、とか社説で堂々語ったりして。127歳まで生きられたんだあの時代。凄いなあ。


【2月11日】 そろそろ店頭にならび始めた電撃大賞の大賞を受賞した九岡望さんの「エスケヱプ・スピヰド」は、その数5000をこえる応募者から選ばれただけあって、しっかりまとかり主題もあって終わりも程良いハッピーエンドの良作、っていうと物足りないかもしれないけれども無理に冒険をして突飛なものを選ぶのが、新人賞の趣旨ではないのでしっかり書けて次も書けて続きも書けていろいろ書ける、そんな才能をまずひとり、確保したって意味は大きいんじゃなかろーか。「少年漫画のような、熱いアクションを出していく」って確か去年の授賞式で話してた九岡さん。出てきた話もなるほど甦った戦闘機械の少年が、少女を守って戦うという話しだけれども面白いのはその世界観、すでにひとつの戦いが終わって、人類が復興へと向かっている最中に起こる戦闘機械どおしの決着、ってところに主題が置かれてなぜ戦う、何のために戦うっていった問いかけが行われる。

 よくわからないけれども敵ていたものとの戦いがかつてあった八洲の地でいっときシェルターに入って眠りに就いていた少女が覚醒して、今は生き残った人や甦った人たちと復興に向けていろいろと働いていたい、そんな折、戦争では武器となったものの戦争が終わった今は暴走して人間を襲うようになった機械を相手に四苦八苦しつつ入り込んだ倉庫の奥で、彼女は眠っていた少年の姿をしたとんでもない兵器を見つけてしまう。それは<鬼虫>と呼ばれるシリーズの中の9番目に当たる<蜂>。巨大なロボットみたいなものと九曜という少年がセットになって戦うそれはとんでもない力を発揮して、対戦中には敵を蹂躙したもののなぜか見方だったはずの<蜻蛉>に斬られ、そのまま沈黙して長い時間をかけて自己修復してようやく目覚めたのだった。

 とはいえ指令を下す副脳にまだ損傷があった九曜は、見つけた少女をとりあえずの指揮官として動くことが可能になった。少女はそんな九曜を連れ帰って人間らしいことをさせようとしたり、街を守って貰ったりしていたけれどもやがて九曜は、街の入り口にあってなぜかいまも存命ながら、街に出入りするものを敵味方の関係なく切り伏せている<蜻蛉>の存在を知ってそれとの決戦に赴く。どうして<蜻蛉>は人間の言うことを聞かないで向かうものをすべて斬るのか。そこにある剣豪めいたスピリッツ、あるいは戦闘機械とされてしまった身の究極を目指す心理の正しいか否かを考えさせられる展開。そして誰かを守りたいという気持ちを知った九曜との戦い。勝つのはどっちだ。大戦そのものやそこで活躍し死んでいった他の<鬼虫>の話も読みたいけれども戦後に決着をつけるエピソード、それを煮詰めて描いた物語ってことでこれはこれで良いのかも。

 なんか新宿のジュンク堂が閉店することがアマゾンによるキンドルの導入開始なんかと絡めて本屋の絶望めいた論調で語られていたりするけどそりゃあ違うととりあえず、ジュンク堂のそれなりの賑わいを見つつ閉店の経緯なんかを思い返しつつ考えてみたり。だってあれってアルコットっていう三越の建物がそのまんまビックカメラへと貸し渡されて、大改装されてしまう煽りで閉店を余儀なくされたってことでしょ、つまるところはあそこで店を構えていた三越っていう百貨店の業態転換への戦略が、まるでうまくいってなかったって現れであって、決して書店の問題じゃなくむしろ百貨店側の問題、って行った方が相応しい。あるいは三越の問題か、だって向かいにある伊勢丹はまあまあ上手く行ってるみたいだし。

 もともとはあの裏に南館もあって、上に美術館なんかも置いたりして盛大に店を構えていた三越なんだけれど、どうにも上手く運ばないのか大塚家具に建物を明け渡して本館にしてからさらに、百貨店としての運営を辞めてしまってテナントビルめいた形態にして上から下までいろんな店を入れた際にジュンク堂新宿店も入って、3フロアを使った大きな店として始まった。その品揃えの良さにバックナンバーの豊富さはもしかしたら池袋以上で、たまにいっても講談社バースなんかがバックナンバーも含めてそろっていたりするのは他になかなか見つからない。あと雑誌とか画集とか。でもそんな店が上で頑張ってもファッションの店がいろいろやってもテナント料としての実入りと、あの場で建物を維持していく大変さの相殺があるいは上手くいかなかったのか、西口に大きな店はあっても、東口のは散らばっていた店をまとめたかったビックカメラが好条件を出したかしたことに乗っかって、せっかく定着して来た客層を突き放すという挙に出たって感じ。

 より儲けられる方へ、って言えばそれは経営としては正しいんだけれどもあの場所、通りに面して向かいに伊勢丹を仰ぎ横に丸井なんかも見て紀伊国屋書店なんかも並ぶ場所に、家電量販店がひとつにはロケーションとして相応しいかどうか、っていった問題があって別に商売に上も下もないとはいえ、東京という首都にあって銀座や渋谷に並ぶ繁華街に持ち込まれるにはあまりに日常杉やしないか、といった思いも一方に浮かぶ。これが例えば銀座の三越だったら、どういった反応が近隣から起こったか。その場所に似つかわしい商売を、その場所で行ってこそ街は栄え店も栄える相乗効果が得られるのに、そこにただ集客力があるからと、日常を持ち込んで歪む街の様相ってものを考えた時に、何か釈然としないものが残る。

 まあけどすでに池袋はヤマダ電器に譲り渡した三越に、場に相応した商売を模索し、それを育てるっていった構想なんて造りようもないんだろう。だから伊勢丹の頑張りから学ぶことも成しに、安易にブランド品を揃えたテナントビルにして手っ取り早く儲けようとして、そうしたブランドのファンは来たけど三越っていうブランドのファンを育てられず、むしろ損なった挙げ句に看板すら下ろす羽目となった。10年後に戻そうたってもはや無理。その頃にはその周辺には量販店で安く買う人が集う空気が、がさっと出来上がっているから。せっかく新宿だからと伊勢丹が頑張って、ブランドを育てメンズ館を延ばしてそれなりな客層をそのあたりに集めることに成功したのに、周辺からユニクロがデカい店を出し、小さかったさくらやはビックカメラとなってそして巨大な店舗をそこに構えて、周辺から日常の空気を発散させれば、いずれ遠からず伊勢丹にも妙な風が吹いてくるかな。非日常の喜びを味わえるからこそそこに来るのに、周辺に溢れる日常の怠惰さが、せっかく伸びた背筋を丸めて財布の紐を縛っちゃうんじゃないのかな。

 あれはいつだろう、NHKの「日曜美術館」か何かで「具体」っていう美術集団の特集があって丸ばっかり書いている爺さんとか、ロープにつかまって足で絵を描くおっさんとかがいたりしてなかなかにアバンギャルドなことをしていたんだなあ、昔っていった思いを抱いた中にひとり、妙齢の女性なんかがいて電球をガラガラつけた服なんかを着て登場してたって印象が妙に残った。それが本当にその番組だったのか、そんな番組がそもそもあったのかは確かめようがないけれども、そうした電気服だけはしっかりと現存していて田中敦子さんというアーティストの人が造った傑作として、今に伝えられそして東京と現代美術館でその姿が今まさに披露されている。それもちゃんと光る形で。

 今だったらコンピュータ制御でピカピカと光らせるなんてことは簡単だろうけれども1950年代のテクノロジーでは200個近い電球を、不規則に点滅させるのにいったい何を使ったのか、リレーって呼ばれる電気を通電させたり止めたりする装置を考えてそれに搭載したんだろうけれど、ただ絵を描けば何とかなるのと違って表現のために技術をどう取り入れるのか、そして技術があったらそれをどう表現に利用するのかといった当たりは今のメディアアートにたぶんしっかり繋がっているんじゃなかろーか。ベルを順繰りにならす技術を模索し電球を光らせる技術に応用しその電球が光る順列を草案していて丸が幾つも連ねられた絵画が出てきてそしてっていった発展? 解らないけれどもそんな思考の一旦がかいま見れて、ただ驚かそうとしてあの電気服が生まれたんじゃなく、田中敦子というアーティストの首尾一貫した思索の1点としてそこに存在することが伺えた。本当にそうなのかはこれからの検討課題。ともあれ世紀に残る逸品、ご覧あれ。

 そんなこんなでこの日記も無事、17年目へと突入、16年間の今頃は「新世紀エヴァンゲリオン」が佳境に入っていよいよ盛り上がってきたけれどもそれがまさかああいった最後を迎えそして、その後にそんなことになるとはまだ誰も思っていなかった時期だったり、幕張メッセでマックワールドエキスポが開かれて今は無き「マルチメディア」のさまざまなタイトルが見られて楽しかったりといろいろ夢があった。その夢の尻尾を掴んでおけば今頃にこんな苦渋を味わうこともなかったんだろうけれども、そいした浮き沈みも含めて傍観者然として記録していくことにこの、飽きもしないで続く日記の意義もあると思って日々を怠惰に流し受け入れ、これからもいろいろと書きつづっていく所存。とはいえ現状、置かれた環境のとてつもなさにいよいよいろろ考えたいのも実際。掴み金もらって引っ込む時期なのかもしれないなあ。半年後にはそんな掴む金すら残ってないかもしれないし、あの阿呆さ加減だと。


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