縮刷版2012年1月下旬号


【1月31日】 今年も残すところ11カ月。そして年が終わるころにいったいどうなっていることやら。それはともかく前に「絵師100人展」で見てその絵柄そのモチーフが気に入ったバーニア600さんって絵師さんが、イラストを寄せている、豊田巧さんが書いた「RAIL WARS!−日本國有鉄道公安隊」ってライトノベルの文庫があって手に取ったら 創芸社クリア文庫ってまるで知らないレーベル。どうやら立ち上がったばっかりみたいで、出ているのもそれと別の1冊程度。あの大講談社までもがライトノベルのレーベルを立ち上げ、ガンガンと宣伝を打っているご時世に言葉は悪いけれどもあまり知られていない版元が、まるで知られていない作家さんの作品を出してどうなることやらって心配はあるけれど、読みさえすれば面白いかどうかで判断する自分にとって、目に入って手に取った段階で講談社だろーが角川書店だろーがレース上では横一線。そして読んだ感想は。面白かったよ。

 国鉄ならに國鉄ってのがまだあって分割も民営化もされていない日本。その親方日の丸体質を批判して、線路を塞いだりとテロを画策する勢力もあったりするなかで、國鉄では公安官ならぬ公安機動隊を組織して武装を固めて対抗するくらいになっていた。主人公はそんな國鉄に入りたいと希望している高校生。学校も鉄道を専門に学ぶところでそこからインターン的に企業で勉強する機会が与えられて、1も2もなく希望を出したのが國鉄。といっても公安のようなハードな組織ではなく、いずれなりたい運転士に近づけるような仕事だったけれども時勢が果たしてそうだったのか、國鉄をインターンの場に希望した人はみんなまとめて公安部隊に入れられることになってしまった。断ろうとしたけれども断れば一生、國鉄とは縁がなくなる、それこそ関連会社のそば屋ですら関われなくなるとあって主人公は指示を受け入れ、公安の場で研修を行うことになる。

 物語はハードな訓練を経て東京駅の現場に出た主人公が、何かと銃を振り回したがる少女とか、体格が良い少年とか、おっとりしているようで鉄道の知識は抜群で、祖父が東京駅の駅長と知り合いらしい少女の3人といっしょになって与えられた職務に向かうといったストーリー。まだ学生だからハードな現場に送り込まれることはなかったはずなのに、鉄砲好きな少女がひったくり犯を見つけたからといって追いかけ大宮まで行っては大捕物を演じたり、東京駅に仕掛けられているという爆弾をめぐって犯人と丁々発止のやりとりをしたりと大活躍。そんな仕事を通して少年は、自分には何も取り柄がないはずで、そして向いてないはずの公安という仕事が、実はあっているんじゃないかと思うようになっていく。

 そのまま果たして就職するのか、それとも別の道を進むのか。研修中だけでシリーズにするのかその後を描くのかといった部分もあるけれど、読んでみたくなる1冊ではある。鉄道のことが学べて鉄道の未来について考えられるライトノベル。寝台特急としてのはやぶさが、復活しているのもかつて西鹿児島まではやぶさで、2度ばかり行ったことがある人間には嬉しい限り。そしてそれが鉄道好きらしいバーニア600さんの筆でもって表紙に描かれているのも、見ていると気持ちがあくわくしてくる。あのヘッドマークに憧れたんだよなあ、また乗りたいなあ、でも今ははやぶさは秋田新幹線だかに使われてしまっているんだよなあ、もったいないことをしているなあ、JR。それが分割民営化されて残念だった点。かつてゲーム会社で鉄道を運転するゲームを宣伝してたらしい豊田巧さんにもきっと、思うところがおおかったんだろうなあ。そんな気持ちに溢れた小説、読んで鉄道好きはむせび泣け。

 現場を遠く離れると楽観主義が蔓延るって後藤隊長も言っていたんで書く書けないはともかく時間があれば現場を見ておこうとタカラトミーが開いてた商品の商談会なんかを見物。とくに大きく新しいって感じのものはなかったけれども劇場版「トランスフォーマー」をモデルにした玩具の「トランスフォーマー」が多分新しい形で並んでいたりと楽しそう。あと巨大なリカちゃんハウスもあったり。あの背丈でハウスだとホント、巨大になるだよなあ。トイズフィールドでは12月に注文したEDWINとのコラボバージョンも飾ってあったけれども我が家に届くのはいったいいつ。届いたら担いで歩いて写真を撮ってあげたいなあ。あと気になったのはエステー化学から出る放射線量計。安くてコンパクトなのにちゃんと測れるんだ。これは売れそう。バウリンガルといいアイソボットといい、科学なマインドが息づく品を出してくるところがバンダイとは違う特徴、かなタカラトミーグループは。

 とはいえマスなマーケットを狙おうとするとやっぱり必要なのは少年少女を狙った商品。そこをバンダイは戦隊ヒーローがあり仮面ライダーがありプリキュアがあってとがっちり固めているけれど、タカラトミーアーツでもそんな市場のとりわけ女子を狙おうと、数年前から「プリティーリズム」って商品を出してそれに連動させてアパレルなんかも展開。テレビアニメーションも放送して広く引っ張り込もうとして実際に、結構な人気になっていたりする。今はまだそのシリーズが続いていて、かつてLISPといったグループに所属していた面々(元プリンスみたいな感じ)が出ていたりするけれど、いよいよ4月からは新しいシリーズがスタート。何と3年後を舞台に、実写パートで出演しているプリズミーを4人に増やしてアニメキャラとして登場させ、ついでに当人たちもアイドルユニットとして活動をすることになるらしい。

 加えてライバルメカ、じゃなかったライバルユニットも登場。流行のK−POPからあのKARAの後輩として5人の少女たちが韓国からやってきては、アニメに登場することになる、韓国からの留学生5人のユニットと連動してバーチャルとリアルの両面から活動することになるらしい。そんな5人が登場して繰り広げたステージは、KARAの楽曲なんかを演じてこれがまたなかなかに巧いダンスをみせてくれて、脚の長くて委抜群なスタイルの少女たちを目の当たりにしてそうかこれがK−POPのスタイルなのかと感動したり。対する日本側のプリズミーはまだ幼くってそして胸とか真っ平ら。それはそれでってことでもあるけれど、世にアピールするにはそうした特殊性よりやっぱり抜群のスタイルってことになるからなあ。やっぱり凄いやK−POP。デビュー時期とか決まってないけど活動を始めたらちょっと見てみよう。

 昔っから木谷高明さんのことを知っててその趣味が格闘技だって分かっているならブシロードが新日本プロレスを買収したってことにもあんまり驚かないけどこれが、ブシロードなんて知らずカードゲームも遊ばない根っからの格闘技ファンだといったい何事だってことになるんだろうなあ、長島自演乙雄一郎さんを支えて「ミルキィホームズ」を送り込んで入場行進させたってことくらいはあるいは知っているかもしれないけれど、信者の多い新日本プロレスとなるとそうした“遊び”が即受け入れられるかはなかなか難しいところ。けどまあ木谷さんは新日本というブランドについても信者みたいなんで、崩さず歪めないでちゃんとやっていってくれるだろう。

 問題はだから本業のカードゲーム事業の波がちょっとズレてしまった時に起こる経営面での動きか。ブロッコリー時代なら店舗があってそこで商品を売っているうちは日銭も入って来たけれど、カードゲームは売れなければ在庫の山。幾ら利益率が高くたって意味がない。そうならないためにも目を凝らしていろいろとプロパティを集めリスクを分散しつつ「ヴァンガード」を育て広めようとしているんだけれども、いまだに強い「遊戯王」があり「デュエルマスターズ」があり「バトルスピリッツ」もある中で、どれだけ市場を掴んでそして下をキャッチアップして安定した実績を出していけるか。「ヴァイス・シュヴァルツ」を脇にやってもその成功を目指さなくちゃいけないってプレッシャーをこれで得て、本業にも良い影響を出そうとしているのかな。それなら良いけど。「デ・ジ・キャラット」がすっかり止まり「ギャラクシー・エンジェル」も埋もれつつあるような悲しいことをもう「ミルキィホームズ」では誰も味わいたくないんだから。


【1月30日】 76歳といったらもう枯れて枯れ果てて世の中の何にも興味を示さなさそうな老人が山といそうな中でこの76歳は半端じゃない。だって「魔法少女まどか☆マギカ」を全部見て、その凄さに感動して感激して改心までしそうになってその原因を作った脚本家の虚淵玄さんを自分がネット番組のニコニコ生放送でやっている番組に読んで、いろいろと創作の秘密を聞き出そうっていうんだからもう唖然。山と抱える弟子にそのまた弟子の孫弟子から御輿に担がれ左うちわで人生歩んでいけそうなのに、そうはせずに今なお創作の最前線に立ち続けたいと意欲を燃やす漫画原作者、小池一夫さんの凄さをそこに改めて見た。

 Kalafinaのライブの途中に寄って眺めたそんな小池さんと虚淵さんとの対談は、アニメ関連誌とか新聞屋なんかが表層的に、いわゆる魔法少女的なお約束をすべてひっくり返してみせようとした発想は、今時のデータベース処理人間の意表をつくっていうよりはそんなDBの当然を逆手に取って感心させようとしたものなんだねってしたり顔で聞きそうなところを、小池さんはいきなりそのネーミングから入って、分かりやすくなくってひねりも効いてる名前をどうしてつけたのか、ってあたりから斬り込んでそこにキャラクターというものをどう立てようとしたのか、って感じで話を引き出していく。

 キャラクターを立てる、っていうのは小池一夫さんの持論で信念でもあって、悪役をつくり欠点を持たせ善玉を立てて弱点を持たせ間に進行役みたいなものも立てていくことによって作られる構造が、物語を動かしていくんだ的なスタンスで創作に臨んでいるらしいんだけれども虚淵さんはそうしたキャラから入るタイプではなくって、物語の結末ってものをまず考えてその上でキャラクターを配置し性格を決めて関係性を作り転がしていくって感じのアプローチ。だから採取回では関係性がすべて清算されて物語にも落ちがついて、それ以上は作れなくなってしまうっていう状況が生まれる。それを自分の特徴だって虚淵さんは話してた。

 そんな虚淵さんも予想外の「まどマギ」人気が続編の制作という方向に向かった時、どうすれば続きが書けるのかを悩んだみたいだけれども脚本は1人の作業でも、アニメは決して1人の手から生まれるものではない。蒼樹うめさんというキャラクターデザインの人がいて、新房昭之監督っていうアニメのクリエーターがいて絵コンテ演出の人もいて声を当てた人もいる。美術を作ったイヌカレーというクリエータも加わったチームがそれぞれに脚本を土台にして何かを盛り上げていった結果、生まれた世界のすべてが虚淵さんの指示にあったものではない。気が付かなかったこともあれば予想もしなかったおともある。それらを受け、拠り所にすることによって続きを書くことが出来たって話した虚淵さんの言葉はつまり、アニメっていう集団作業の成果を1人のクリエーターに帰結させる難しさを感じさせ、また集団の意識がつまったアニメの持つ面白さを感じさせてくれた。

 そんな共同作業の妙、そしてクリエーティブに対する意識の持ちようなんかを語ってクリエーター志望者には大いに参考になっただろう深い対談も、まとめメディアに乗っかる時は最終回でほむらの羽根が黒かった理由はいったい何で、その謎が映画でもって明かされる、なんてトーンになってしまうんだから難というか興味深いというか。なるほど世の「まど☆マギ」ファンが興味を惹かれるトピックなのかもしれないけれどもそれは決してトークの本質でもなければ、続編の真実でもない。あくまで自分の指示とは違うものが出てきてしまったことの一例として、イヌカレーさんか誰かがそう描いたものを受けつつそうやって示された他者の創作を、拠り所にすることが続編作りに役だったと言ったまでだったりする。

 番組では虚淵玄さんから、本当に続編で黒い翼の秘密が明かされるかは明言されてなかったようだし、そうだったとしてもそれがメーンではないとおろをゴシップ的にひっかけ喧伝し、それに喜ぶ人がいるといった関係が、積み重なっていった果てにいったいどんな創作の空間が生まれるのか。まあ空気がゴシップに走っても、作りたい人は考え練り上げ作るだろうけれど、それを真剣に受け止める側の縮小は、いずれ創作への跳ね返る。そうならないための歯止めとなる言説を、育み乗せて伝えるメディアが必要なんだけれども今のアニメ雑誌に果たしてそういう役割は担えるか、ってことになるとますます「アニメスタイル」の必要性が高まってくるんだけれど、次の6号でとりあえず終了ってことらしいからなあ、困ったなあ、復活はあるのかなあ。

 新聞がとって代われれば良いんだけれどもどうやら目下、新聞はそうしたサブカル的な記事からは鋭意後退中な模様で世界最大の新聞で健筆を揮っていた人が異動でいなくなりそうで、後をつぐ人にいったいどこまでマインドがあるのかが見えなかったりするのが迷いどころ。それでも紙面があるだけましで、そんな世界最大の新聞が社屋を建て直している横にいる新聞なんかはそうした紙面をぶっつぶしてしまったんだから何というか。幾つも媒体は出しているけど他のどれにもそうした傾向の記事はなくって、もはや唯一だったそんなコーナーが消滅したら、関連媒体の記事を集めて提供しているサイトにそうした記事が一切挙がらなくなってしまって、ネットの向こうに多くいるだろうユーザーを完全に手放してしまう畏れがある。

 なのにネットでいくらファンがいようと、新聞のカラーと合ってなくちゃ意味がないとかいいつつ、だったらどんなカラーかといえば50代がすごした80年代のバブル的感性を、今こそ体現してみせようぞってな感じのブランド志向。そこに今はあても未来はあるのかどうなのか。分からないけれどもともかくサブカルチャーの記事が今後一切消滅してしまうことは確実だったりするだけに、その用語の是非はともかくとして国を挙げてクールジャパンとか言ってたりするこのご時世、政府や役所が賢明になってソフト産業、コンテンツ産業を育てクリエーターを育てようとしている時代にあって、そうしたジャンルから目を離し、背を向けるメディアコングロマリットに、どんな未来があるのかを新宿の母に尋ねてみたい。つかそんなことやっててクールジャパンを柱にした事業をやりたい? もうポン酢かと。ミツカンの柚ポンかと。76歳にして38歳の虚淵玄さんに頭を垂れて高説を賜る小池一夫さんを見習えと。そんな気概もなく未だ高所から思い入れと思い込みを垂れ流して、いったい何が出来るのか。お手並み拝見と行こうじゃないか、なあ、おい。

 戦闘はまだ先だった「モーレツ宇宙海賊」は、あれでやっぱり癖ありまくりだったほかのヨット部員たちが大活躍して加藤茉莉香を支えていく模様。チアキ・クリハラに出番はあるのか。そして「偽物語」はついに影の中から無口だたはずの幼女があらわれペラペラペラペラ。前は喋らないのにちゃんと声優さんがついていたからその活躍が遂に見られるのかと思ったら前と違う人だったりする不思議さも噛みしめつつ、素っ裸の幼女が頭を現れ風呂に入れられていたいるす映像を、デジタルのアナログ変換で見ている自分に悔やみつつ、いずれ出るBDを買って巨大な画面でくっきりと見るんだと慰めたいけどそんなでかいテレビもありません。どうしたものか。収入は増えそうもないし。なぜって今の状況じゃあ未来はないし。いかんまたそっちに行きそうだ。


【1月29日】 なるほど不思議なアイテムがその島にいっぱい集まっていてる理由はちゃんと説明されてて、そんんなアイテムによって発揮される奇跡が、島内に限定されるようになってて世界を大きく動かしたりしないあたりの配慮が、きらりと光るファミ通えんため大賞受賞作の鳳乃一真さんによる「龍ヶ嬢七々々の埋蔵金1」(エンターブレイン)。正体不明の家業を継ぎたくないって訴えた主人公の少年が、無理矢理転校されられたその島は、勉強優先でアルバイトはあくまで生活を補う範囲にとどめられてる一種理想の世界。そこで少年が入ったアパートの部屋には、何と美少女の自縛霊がいて、そんな理想の世界を立ち上げようとした7人の若い面々の1人だったけれども、殺害されてしまってそれ以来、部屋に留まり続けてはプリンばかりを食べている。幽霊って物、食べるんだ。

 何しろ天才たちの頂点に君臨していた彼女。世界中からマジックアイテムを集めては島内のそこかしこに隠したってことなんだけれど、完成前に殺された彼女がどうやっていった隠したの? そして誰が何のために彼女を手伝ったの? なんて謎の余韻も残しつつ、そんなアイテムを探す羽目となった主人公、どっかから来た自称探偵の美少女と、その助手で見た目は可愛いメイドさん、でもしっかりついてたりする子とそれから、アイテムを探す冒険部の部長と向かった先で起こった事件のその先で、少年の正体が明らかとなって来るんだけれど、そんな家業に生きてた少年だったらどーして来る前に島のこと、そして自縛霊の彼女のことを調べておかない? って気もしないでもなかったり。実は、って正体を明かした場面で全部ピースがはまるどころかあれれ? って思ってすまうところがちょっぴりギクシャクしているかも。

 ただ島内に限定したアイテム探しを、これからも連続していけそうな展開だし、探偵にメイドっ子に冒険部の部員で眼鏡で剛腕な少女なんかもいたりして、さらにやっぱり自縛霊の七々々さんが何を目的にアイテムを集めてそれを隠したか、そしてかつての仲間は骨董集めに隠れてどうしてそれを集めようとしているのか、七々々を殺したのは誰でそれはもしかしてすごく身近にいるあの人なのか等々の、残された謎をどう解決するかに興味津々。組織めいたものが暗躍しているその裏に、あいつがいてそれを動かしているのが七々々を思う女性の心だったりもして、そんな対決の構図の中でひとり少年はどう振る舞う? そこに探偵たちはどう絡む? そんなところを気にしながら続刊、読んで行こう続く限りは。

 行き倒れていたソラという名の少女は、何やら喋り方が尊大な上に謎のデバイスを持っていて、それが壊れた壊したのは服ごと洗濯したお前のせいだと言って主人公の大学生のアパートに居座ってしまう。岩関昂道さんって新人らしい人の「ソラの星」(メディアワークス文庫)はそうやって始まった同居の果てに、ソラが実は異星のお姫さまで、逃げ出したところを星から追っ手がやって来て云々、といった展開には向かわず、大学生の同窓の女性の実家という病院で、猫がなついた患者がほどなくして亡くなってしまう事態が勃発していることを知らされたソラが、興味をもって突っ込んでいっては不思議な事態の真相を暴く方向へと向かっていくことになる。

 難病重病で余命のそれほどない人が猫に懐かれてから、ほどなくして亡くなったのは分かる。亡くなる時に発せられる何かを猫が勘付いた、って可能性があるから。でもそんな予兆のまるで見えなかった病院の医師が、病院の前で自動車事故に遭って亡くなってしまったのはなぜなのか。そしてやがて猫が大学生のところにやってきて、まとわりつくようになった結果さまざまな危ないできごとが、大学生を襲うようになったのはなぜなのか。そこには、難病による余命わずかといった事態はない。にも関わらず起こった不思議の解明が、ソラという存在とそして地球という星に来ているさまざまな存在を示唆し、そんな存在が思い描くコミュニケーションへの渇望を浮かび上がらせる。みんな寂しいんだ。そしていっしょにいられるのは嬉しいんだ。ソラが病院の息子と知り合いだったりした謎、そしてソラがやって来た目的、ソラの今後なんかも気にかかるえkれど続刊とかあるのかなあ、あったら読みたいその続き。待とう。

 せっかくだからと起き出して、寒いなかを西へと向かい稲城市は若葉台ってところで開かれている大河原邦男さんの展覧会を見物する。いわずとしれた「機動戦士ガンダム」のメカデザインの人で階上にはそんなガンダムのためにえがかれたポスターの原画とか、「太陽の牙ダグラム」「戦闘メカザブングル」「装甲騎兵ボトムズ」「無敵ロボトライダーG7」「蒼き流星 SPTレイズナー」等々のイラストが飾られ、大河原ファンとか80年代アニメのファンにはなかなかの見物。劇場版「機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙」編だったかに使われた、首を吹っ飛ばされたガンダムが壊れたジオングをバックにビームライフルを振り上げている図案のポスター原画もあって、当時にそれ見て顔のない主人公メカを容赦なく使うんだって驚いた記憶を甦らせる。たとえガンダムだからって普通はあんまりやんないよなあ。

 ボトムズとかあのミリタリー色をどうやって出しているんだろうって間近に寄って、目を凝らして緑とか青とかの塗り重ねによってミリタリーならではの艶のない質感を出しているんだなあと感じたり、レイズナーの頭部の透き通っているキャノピーみたいなものもちゃんとその色で塗りつつ後ろに座席とその上に置かれたヘルメットも、ちゃんと描いて透き通っている感を出しているんだなあと理解したり。ただ平面の印刷物となって出てきたものでは分からない色使いに筆さばきってやつを、実物(なのかな)を目の当たりにすることによって味わえた。やっぱりアナログの絵描きって凄いや。そんな技術ってやっぱりちゃんと今も継承されているのかなあ。全部の色づけをデジタルにした時、その質感を塗り重ねによって出すなんてことをやる人、いなくなっちゃうんじゃないのかなあ。勉強になる展覧会。まだやっているんで気になる人は是非に。

 文学の未来像、ってよりは今回は物作りの真意、ってあたりがメーンになってたたじいたかしさんの「僕の妹は漢字が読める3」(HJ文庫)。突然に連絡を寄越した主人公の実妹は、かつての文化が保護された地域に住んでいて、そして兄に会いにやって来ては彼が書いている文学こそが未来の文学だと讃えて、出版しようと持ちかける。それは記号が並んでその機動によって意味を語るようなもので普通の人、っていってもそれはすでに未来の萌えが普通になった世界なんだんだけれども、そんな世界の人ですら読めないようなものだったりして、いつも一緒にいる漢字が読める妹のクロハ、は、分かりやすさを求めて今のヒットを狙うんだと諭す。未来のために難解さを貫くべきか今の流行を求めて迎合するべきか。芸術にありがちな論争がそこでもって繰り広げられるけれどもどっちに行こうかってあたりで実妹義妹のどっちを選ぶなんて話が来るのがやっぱり「僕の妹は漢字が読める」ならではか。ともあれ博士の正体も得体が知れず、さらに新たな謎まで降ってきて展開やいかに。次こそは未来の文学そのものを見せてくれちゃって欲しいもの。

 吉祥寺あたりで時間を潰してから中野サンプラザでKalafina。ああやっぱり音が良い。達っつぁんこと山下達郎さんがツアーから絶対に外さないだけあってキャパはそんなに大きくないのの音がこもらず高音が抜けてボーカルがしっかりと隅々まで届きそれをバックのバンドサウンドがしっかりくっきり支えてみせる。来週の渋谷公会堂でも果たしで同じクオリティの音を作れるか、全開がやや籠もり気味の音だっただけにそのリベンジ的な意味もこめてちょっと注目したいけれどもまずはサンプラザ。割と静かめの曲が多くて冒頭から総立ちってことにはならずずっとずと座りが続いて時々立ってまた座り、「Magia」みたいな曲で立ってまた座りといった感じにアニソン的ライブとはもはや趣を変えた大人と趣味人のライブって雰囲気が醸し出されてきた。女性の普通の人も多くいたりともはやアニソンの枠組みに収まらないそのジャンルを言うならやっぱりKalafinaか。うん。

 3枚目の「After Eden」からが中心であと2枚目があったりといった具合で最近聞き始めた人でも存分についていける内容。アンコール前の本編には「空の境界」からの曲はなくって、1枚目からだと後半にかけて畳みかけるように「音楽」を入れて盛り上げるって感じは「空の境界」ファンには寂しさもあるけれども、これが今のKalafinaなんだってことで。珍しかったのは「うつくしさ」を歌ったことかなあ、もうずっと前、それこそ2年くらい前にO−EASTでもって開かれたライブで歌ってくれたのが最後くらい? あの時の深淵な歌いっぷりでもってこの3人組みのコーラスワークの凄さってやつを実は噛みしめたんだった。久々に聴いた「うつくしさ」もやっぱり完璧な歌声。そしてやっぱり詞が深淵。この傑作がシングルのB面のみってのも寂しいのでいつかそれらも含めたアルバムを、作って欲しいなあ。


【1月28日】 船橋あたりに住んでいるとおしゃれな吉祥寺とかに出かけるには不向きだけれど新宿渋谷池袋なら1時間もあればたどり着けるし秋葉原なら30分とかからない。そして千葉方面へと向かう時には幕張メッセなら40分、蘇我のフクダ電子アリーナだって1時間とかからず到着できる利便性はあってこれで住むには良いところなんじゃないかと思って居続けて22年が経ってしまったよ。ときわ書房船橋本店なら漫画もライトノベルも小説も新刊がどっちゃり積まれて中にはサイン入りだてある。映画館がやや離れているのは難だけれどもそれでもワーナー・マイカル市川妙典とかTOHOシネマズ市川とかなら1時間とかからないしシネプレックス幕張だって同様。あとは京成ローザか。それらで封切りはだいたい抑えられる。やっぱり住むには良いところ。でも部屋だけはそろそろ変わりたい。無理かなあ。

 そんな船橋の良いところは佐倉方面にあって屈指の美術品が揃っているDIC川村記念美術館にだって割と手っ取り早くいけるところ。そりゃあ1時間は無理だけれども京成でもJRでも船橋から佐倉まで行けばそこからシャトルバスが出ていて乗り合わせが避ければ1時間と20分もあれば到着できる。これを例えば吉祥寺からなら佐倉までだって2時間だ。なら横浜美術館ならどうかというと吉祥寺からだと新宿まで出てそこから湘南新宿ラインで横浜方面に行くなり品川で乗り換えるなりするか、京王井の頭線で渋谷まで出て東横線に乗り換えるかしないとたどり着けないところを船橋なら総武線から横須賀線へと繋がり横浜からみなとみらい線で1発。むしろ吉祥寺三鷹より近いかも。やっぱり住むには良いところ。そればっか。

 でもって久々に行ってみようと思い立って出かけたDIC川村記念美術館。目当ては「抽象と形態:何処までも顕れないもの」って企画展だったんだけれどそこにたどり着くまでには収蔵作品の部屋を通らないといけない、訳ではないけれども久々に来たんでやっぱり散策、ルノワールだのマティスだのシャガールだの横山大観だのとすっげえ絵が揃っていたのは相変わらずだったけれども今回、マーク・ロスコの専用の部屋があったことに気が付いた。前からあったっけ、何か変形の6角形っぽい部屋に6枚とか、ロスコの絵があって1つの部屋には自分の絵しか置いてくれるなって言ってたロスコの言葉に従った展示はなるほど絵を大事にする川村記念美術館らしい措置。東京都現代美術館でもとりあえず言い訳はしつつ他の絵と並べていたからなあ、この間。

 その現代美術館で大々的な個展があった時に見て気に入ったのが実はロスコ。前はただ平面を少ない色で塗りたくってるだけの画家、ってイメージがあったんだけれど実物を見ると同じような色調でべたーっと塗られているようで、だんだんと違う風景が浮かび上がってきたりする。それは画面に目が慣れ陰影が見えてくるだけのことなのかもしれないけれど、同じような色調でも微妙に変えてある色が作るツートンだったり四角いサークルだったりして、深淵の中にも差異があってそれがわき上がって見えてきて、そこから世界はたったひとつではないんだと教えられるような気がする。そういうことを意図してロスコが何かを描いていたのか、単に少ない色でも立体感を付けようとしていただけなのか、分からないけれどもそういう気持ちで見れば視られる作品が、何枚も同じ部屋にあってしばらく出られなくなった。居れば居るほど浮かんでくるビジョン。地続きのようでそこにある細かな差異。あるいは凹凸。それらが醸し出す世界の姿。それをいつか物語にして言葉にしたいけど、できないそれをだからロスコは絵に描いた訳でもあり。いつか挑もうその言語化に。

 そんなロスコと対比するようにすぐ上の階にある部屋にはバーネット・ニューマンの真っ赤な壁のような作品<アンナの光>が飾られてあって、カーブのつけられた階段を上ってたどりついた階上の真正面に、置いてあってその赤さに目をまず貫かれる。ただこれもやっぱり見ている内に同じような赤の陰影がだんだんと見えてきて、ただひたすらにフラットに赤いだけではない、感情の起伏めいたものが浮かんできてそこに何か物語を見出してみたくなる。よくよく見ると両端が白くなっていて、片方は狭くもう片方はやや広めの白があってそれが巨大な赤に対して何を意味するのか、単に赤を際だたせるためなのかそれとも、なんて考えるとやっぱりいろいろと浮かんでくる。抽象画を言葉に置き換える。そんなことが出来たら愉快だけどなあ。音楽家なら抽象画のパウル・クレーをピアノの演奏に変えた加古隆さんのようなことも出来るんだけれど。だから絵で描く? それも言葉の敗北。だからこそ挑めれば。

 やっぱり巨大なフランク・ステラの間を抜けそしてたどり着いた目的の展覧会「抽象と形態:何処までも顕れないもの」をそもそもどうして見たかったかというと、JRなんかに貼ってあったポスターに描かれていたモノクロの何か機械人形めいた像に興味を惹かれたからで、それがいったい何を描いたものなのか、誰が描いたものなのかをあんまり気にせず入った部屋の扉の脇に、いきなりパブロ・ピカソの「シルヴェット」があったから驚いた。だってピカソだよ。その絵が1枚でいったい何億円何十億円かって人の絵が、ポンとあってそれがむしろ引き立て役となって向かいの五木田智央さんって人が描いた人物像を照らしてた。黒地というかグレーに白を重ねるなりして描かれたそれは少ない色数なのにどこか重厚。そして顔の削られた向こうに何が描かれている訳ではないけれどもどこか遠くの世界なんかを感じさせて目を離させない。

 ピカソの「シルヴェット」もやっぱり白と黒とグレーのモノトーンで描かれた少女像なんだけれどもそこはピカソだけあって変形はさせてあっても調和の見えるフォルムでもってまだ若い少女の裸体をそこに現出させている。エロティックでありみずみずしくもあり。比べて五木田さんの「Scor」って作品はどこか緩んだフォルムに見えない顔の異形がかっちりとあしない世界の揺らぎめいたものを感じさせ、見る者の居場所を危うくされる。そんな五木田さんの作品は、他にもたくさん飾ってあってやっぱりモノトーン。黒地に歯みたいなのが並んだり人間が人間を引っ張るようなフォルムがあったりする絵は、単純さの奥に深淵さもあって世界への想像を喚起する。ポスターに使われていた「acapulco」も同様。シュールっぽいフォルムと少ない色数がかえって喧騒と饒舌さを脳髄に直接叩き込む。

 それを見られただけでも良かったけれども青い色がうごめくサム・フランシスって画家の絵があって、その正面に息子さんらしいフランシス慎吾さんの作品があるって構図を見られたのも良かった。まるで違うんだけれどつながる何か。別の部屋には海底に重たい水がのしかかるような中に一筋の光明を見出すような作品や、深淵の青に白い筋が入ってそこから何かを沸き立たせる、あるいは逆に光が深淵に飲み込まれるような不思議な感覚を覚えさせてくれる作品もあってフランシス慎吾さんというアーティストの面白さってものを教えてくれた。比較ではクロード・モネの有名な「睡蓮」があって水面に陽光を跳ね返しながら睡蓮が漂う絵のその横に、ただ色を塗り重ねただけなのになぜか水面に見える野沢二郎さんの作品があって、抽象と具象という“壁”を挟んで対峙する2人の近さ、というか本質をとらえて感じた思いを形にした絵に抽象だの具象だのという見た目の区別なんて必要ないのかもって思わされた。そういう解釈って良いのかな。でも面白い絵。野沢二郎さん。ほかにどんな絵を描いて居るんだろう。

 そんなこんなで1時間以上も滞在したDIC川村記念美術館を抜け出して行きの京成とは違ってJRで戻る途中に読んだライトノベルの新人賞受賞作にうーん。主人公がイソノカツオでそれでその主人公の人生を笑いつつ、一方でその名が決め手となって美少女の先輩に部活にさそわれるという導入部の設定に、どうして人様の誰もが知っている作品を使って簡単に笑いをとりにいこう、そして導入に使おうって思うんだろうとか少し悩む。それが手練れのベテランだったらそういうこともありかもしれない。火浦功さんがクレイジーキャッツとか植木等のキャラとかギャグを使ってそういう雰囲気を出そうとしていたこともある。

 でも世代がまるっと違って誰も知ってるわけじゃないクレイジーを取り入れるのと、今なお続く国民的な漫画を共通認識の土台として取り入れるのとは意味が違う。後者はある意味で安易であって新人が、世界をゼロから作って笑いでも感動でも呼び起こそうと苦闘してこそ世に出て多くに支持される作家になっていくプロセスを、するりと抜けてしまっているような気がしてしまう。そういう創作スタンスも不思議だし、それを認めて賞を出し刊行までしてしまうレーベルのスタンスもやっぱり不思議。ストーリーそのものは苦闘の挙げ句に戦いそれでも得られぬ難しさ、って奴にあふれてて面白いだけにどうして、すべてを自分の言葉とアイデアで作り出せなかったのか。そうさせようとしなかったのか。文中に既存の漫画やキャラやラノベが当然の文化背景として使われているだけでも苦手なのに、それを設定にまで持って来てしまうことの悩ましさ。果たして未来は。見続けたい。


【1月27日】 ずっと撮り溜めてあって前に1度、取材する関係で何話か前後して見てだいたいの世界観は了解したけれど、撮り逃していたのもあって話がつながらなかったりして、また見ないで撮り溜めの方向に入っていた「ギルティクラウン」を、今日ばかりは撮って朝にすぐ見てみて、ああ出てるちゃんと出てるしっかり出てると確認したのは、面白法人カヤックが「こえ部」の部員を相手に募った一言声優オーディションに通った2人が、この回に出演していてその収録を見物したからだったりする。

 何しろ現場で部員の2人がスタジオに入ってから、サブで音響監督と監督の人が「世界を壊したくないから」と言って、それが使えないようなら使わない、って訳にはいかないなら、ガヤに紛れさせて使いましたという形で、スルーするってな感じのことも話していたのを耳にして、それだけプロとして作品を大事にしているクリエーターの耳に、かなって晴れてしっかり使われていたのかを、すぐにでも確認したかった。でも流石にリアルタイムは無理だ歳だぐっすりだ。

 そして見た登場シーンは体育館に集められた少女が支えられすすり泣いている姿がまずは手始め。泣くって演技をじゃああなたやってみなさいって言われてすぐにできるかっていうととっても難しいその演技を、オーディションで合格したくろかぜさんっていう女性はまず演って、それに「押し殺すように」といった音響監督からの言葉にすぐさま合わせてチューニングしていって、「もっと強く泣いて」「頑張るのは押し殺すところ」「ぐっとこらえる感じで」等々の注文に即座に反応。そうやって数回のテイクでちゃんとオッケーまでたどり着いてしまってこの人、もしかしたら凄いかも、って思ったらさらに長いセリフでも凄かった。

 「お願いです、なんとかしてください。パパとママに会いたいんです」という少女がステージ上に上がって訴えるシーンでも、まず言って、そこにどの部分に重きを置いて言うかを問われて「パパとママに会いたいんです」と即答して「正解です」と言われてた。まず分かっていること。その上で向こうが欲しい演技をすること。それができなければオッケーは永久に出ないし次も呼んでもらえない。プロとして当然のことをオーディションで選ばれた、たとえ練習はしていてもまだアマチュアに過ぎない人たちが、それでもやってしまったってところに当人たちの、プロを目指して居るんだという真剣さが見えて勉強になった。

 男性の声を演じたたぶたぶさんも、叫び声とかに注文をつけられそれに即座にチューニング。しっかりオッケーをもらっていったし、2人ともその意味でプロだった。この後どうなるか、分からないけれどもその意欲があれば、そして実力もあるならたぶんきっと出てきてくれるだろう。じっと待って見ていよう。それはそれとして「ギルティクラウン」って何だか異能バトル物っぽくなって来た感じでそれを当人が出すんじゃなくって人から引っ張り出しては役立てる桜満修って主人公を中心に、周辺で大勢が固まって東京を取り囲む敵に向かっていく、って展開にこれからなっていくのかな。

 同じ脚本家が前に書いてた「コードギアス 反逆のルルーシュ」でもやっぱり外国勢力に抑圧される日本って構図が出てきたけれどもそれに対して反逆したのは当該の外国勢力を放逐された廃王子、でもって仮面を被りどんな非道な手でもつかって相手を叩きのめそうと暗躍したそのピカレスクが格好良かったのと比べると、知恵やら人心掌握といったプロセスのないまま少年が中心に祭りあげられ敵と対峙させられているような構図になっててあんまりもわっとして来ない。出口をどこらへんに置いているのか、それは日本にとって、主人公にとってどんな意味を持つのか、理解のためにやっぱり前の録画を見直すしかないのかなあ。頑張ろう。

 「リッチでないのにリッチな世界などわかりません。ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません。『夢』がないのに『夢』をうることなどは…とても。嘘をついてもばれるものです」と書き残して自殺したCMディレクターがいた、という話を呼んだのはおお昔に出た新書の何かだったけれども今ひとつ覚えていない。ただ亡くなった当時は話題になっただろうこの一節も、今ではいったいどれだけの人が知っているんだろう。何しろ時代は40年近くも昔のこと。最近も評伝めいたドラマが作られているけれど、それで話題になったということはなかった。

 というより無理だろう、今のリッチでないのにリッチな世界をさも存在するかのように虚飾して作りだすことだけが仕事のメディア業界で、その生涯を追うなんて。だから川村蘭太さんという多分、杉山さんの弟子筋に当たる人が書いた「伝説のCM作家 杉山登志 30秒に燃えつきた生涯」(新潮社)が出たのは、そのメッセージを世に広める絶好のチャンス。CMの歴史に残っている数々のヒットCMを作って天才の名を欲しいままにした杉山さんが、わずか37歳で世を去ったその物語は、本質を伝え共感を得ることでなく、目を欺き空気を塗り替え気を導くことでしか数を稼げない世界への警句にきっと、溢れているだろう。

 金をもらいさえすれば嘘でも書き、記事やフラットなコメントに商売の言葉を紛れさせて平気なメディアは、この本を読んで省みて、その恥ずかしさから崩れ落ちるが良い、みたいな。ただ本当にそうした時代への、あるいは状況への警句に満ちているかは本分を細緻に噛みしめていかないとちょっと分からないかもしれない。何しろ絶頂期にあって何だって自在に出来た人、そして金だって稼げたその人物が、リッチな世界を描けないとかハッピーでないと言うことに、スポンサー筋からの虚飾の強要とは違った意味がもしかしたらあるかもしれない。

 それはどこまで上を見ても届かない、サラリーマンでは結局のところ夢でしかない超上流というクラスを見知って諦観したからかもしれないし、私生活における荒廃が世界をアンハッピーに見せていたかもしれない。つまるところは対社会といった大きなものではなく、個人の力量が及ばず意志が貫けないでプレッシャーに押し潰されたことを、詩的に書いただけの言葉なのかもしれないけれどもそうした個々の理由などもはや不問、その存在、その言葉が一人歩きして世の虚栄に挑むものになっている。だからやはりメディアには、今を恥じて省みて欲しいけれどもそんな気、さらさらなさそうだしなあ。

 SFの殿堂が会議で赴けないというので、SFの端っこからでも色を着けようと荻窪にあるジャズ系のライブスポットで、真っ昼間から開かれた漫画家でDJまほうつかいの西島大介さん、バリトンサックス奏者の吉田隆一さんによる「魔法少女まどか☆マギカ」のトークイベントに行ったら、これが濃かった充実してた。本当は夜にリブロで開かれる「ユリイカ」の特集号に執筆している面々が、集まって話すトークイベントの前座というか前説みたいなものだったんだけれど、哲学的に学術的な言葉が連なっている「ユリイカ」の出演者が来て喋ることって、何となく見当はついてそういう捻り方でもってそう語るんだねえ的な、居場所を取り合うようなトークになるんだろうなあっていう想像があった。

 けれども、荻窪の方はまるで想像が付かなかった上に、実際に始まってからのトークもまるで予想外から予定外へと突き進んで、2時間半をまるで飽きさせない濃密さだった。それであの値段で良いのか良かったのか? そんな思いすら浮かんだトークイベント、まずは「日本SF大賞」にノミネートされたことを受けてのSF度チェック。脚本を書いた虚淵玄さんが最後に奇跡が起こることを理由にSFではないのではといったコメントをしたことを受けて、世間にこれはSFじゃないんだぜSFって言う奴は変だぜって言説が蔓延っていたりするけれども、でもそういう切り分けを虚淵さんがやったってことは、つまり虚淵さんには虚淵さんなりに、SFというジャンルを区切る根拠、あるいは知識がちゃんとあるってことの現れだって指摘がされた。

 SFじゃない、って意見はそれに照らしたからそうだったんであって、別の人のSFというジャンルへの考え方に合わせれば、それはSFといっても言いんじゃないかといった見方もできるとかどうとかいった、そんな話になったかな。うん、それは納得。線をどこに奥かに明確な応えはなくって人それぞれ、固く見る人もいれば緩く見る人もいて、そんな基準の有無を知ってSFか否かを語るならまだしも、原作者がそう言ってるんだからって意見はだからあんまり気にしなくても良いとかどうとか、そんな見方も出来そう。まあどっちだって良いんだけれど。

 そんな厳密さでもって書かれた脚本に、絵がついたりキャラが載ったり音楽がついていくことによって、イメージが膨らみ変質して生まれたのがアニメーションとしての「魔法少女まどか☆マギカ」。そんな積み重なりを音楽のセッションに例えてフリージャズ的な渾然としつつ統率された感じもある作品、ってことで「渋さ知らズ」ってあれもこれも加えて肥大してくバンドと「まどか」を同一視して第1部は終了。なるほどそいつは目新しい。あとイヌカレーの美術っぽいビジュアルが話題になっていたけどそうではない、アニメに出てくる家や学校や街並みなんかも先鋭的で構築的。そのデザインセンスの理由なり、源なりを考えてみたいって意見もあった。どっかから出てた豪華本に書いてあったかな。買ったけど分厚いけど部屋に埋もれて出てこない。どんな部屋だ。

 これは西島大介さんが指摘してた、見返して見てほのぼのとした日常話に見えた1話でも、夢でビルにビルが突っ込むような夢の描写があったことが後に意味を持ってくるのは、見返すと分かるひとつのポイント。あと吉田隆一さんがジャズメンとして梶浦由記さんが作った音楽を分析して、日常にかかる音楽から契約の時の不気味な音楽、そしてマミさんの主題なんかを分せきつつ楽しげな日常が変奏によって暗い契約の音楽になったりマミさんの音楽になっていると指摘してた。

 「新世紀エヴァンゲリオン」みたいに、個々のシチュエーションに明確にそれと分かる音楽を付けるんじゃんなく、主題を変奏し編曲してシチュエーションの変化を音楽から支え、暗示するような企みが、このアニメには用いられていたんだってことを教えられた。そう知ってまた見ると、きっと違う世界が見え、そしてそうかそういう意味だったんだろうと絵なり音楽から展開を読み、そうした変奏が心境をどう動かして、この作品から目を離させないもの、気になるのにしていたかを、改めて知ることが出来そう。時間があったらやってみたいなあ。作ろうかなあ時間、永遠の夏休みって奴を。


【1月26日】 まあしかし「逆転裁判」が大特集されているだけでも大概だなあと思った「ミステリマガジン」が、次号では何とあの「探偵オペラ ミルキィホームズ」と大特集するってことらしく界隈では上を下への大騒ぎ。なるほど探偵とはついているけど推理を働かせるってよりは4人の女の子たちが猪突猛進しては壁にぶつかり跳ね返されて踏みにじられる惨状を、大笑いしながら見て楽しむようなアニメーション。それのいったいどこに日本でも歴史と伝統と格式を持ったミステリ雑誌が注目して、どう取り上げるのかってのが今からもっぱらの話題になっている様子。まあそりゃそうだ。

 とはいえ既に前のテレビシリーズとゲームの登場時に、日下三蔵さんがコラムで取り上げミステリファンにその存在を知らしめ、リアクションの多さで「ミステリマガジン」編集部をも驚かせたという「ミルキィホームズ」。すでにミステリであるという認識が深くオーソライズされているだろうことを考えるなら、取り上げること自体に不思議はない。そして登場しているキャラクターのそれぞれが、シャーロック・ホームズでありネロ・ウルフでありエルキュール・ポアロでありコーデリア・グレイを御先祖に持っている上に、周りもアルセーヌ・ルパンだったり鼠小僧だったり怪人二十面相だったり石川五右衛門だったりと怪盗を御先祖に持つ面々や、明智小五郎だったり銭形平次だったりと日本代表の名探偵やら名岡っ引きやらを御先祖に抱く面々が揃ってる。その系譜をたどるだけでひとつの歴史年表が作れそう。

 とはいえそれが「探偵オペラ ミルキィホームズ」の面白さの本質を伝えることになるか、というと難しいところであっていったいどういう感じにその破天荒で素っ頓狂な展開が持つ面白さを伝え、バリツというものの凄さを伝え、蒲鉾という存在の愛らしさを伝えるのか。お手並み拝見乞うご期待。けど見られないんだよなあ、第2期が千葉では。「Another」の方は見られるんでこっちの特集なら大歓迎。でも恐くて恐くて実はまだ2話以降の放送を見ていません。1話で誰も死んでいないのに霊安室へと向かう鳴ちゃんの不気味さ、学校にいるはずの鳴ちゃんをいないように扱うクラスメートの仮面っぷりが恐かった。それに加えてグロテスクな展開があるストーリーを、真夜中に直視できるのか。トイレいけなくなっちゃいそうだけれども仕方がないからこれから見よう。明日布団が濡れてなきゃ良いけど。

 そういや最近軽井沢ってあんまり聞かないなあ、ってのはプリンスホテルが全盛バリバリだった時代、軽井沢を日本でも有数のリゾート地って感じでプレゼンテーションしては大勢の人を集めたりして賑わって、そこにブランド品の店も出たりして東京の原宿だか表参道がそのまま引っ越したような雰囲気を醸しだしていたけれど、プリンスホテルがボスのあれやこれやとともにイメージを低落させてアピール力も前ほどにはなくしてしまった現在、軽井沢をそうしたメディアに乗せてイメージアップするような装置が見えなくなってしまった。結果、メディアに軽井沢の今が紹介される機会も減り、マスイメージも薄まってしまっていった先に、来るのはいったいどんな軽井沢なんだろう。新幹線で長野へと向かう途中にある別荘地、あるいはただの田舎、なのかなあ、ううん。

 けど1980年代から90年代にかけて、軽井沢のゴージャスでリッチでハイソサエティなイメージを存分に浴びせされた身にとって、未だ軽井沢はオシャレでビューティフルな町って印象。「あの夏で待ってる」に出てきたそんな軽井沢の風景も、1990年代のたぶん末頃ってことでいつかの余韻をまだ引きずって、オシャレな人がいっぱい歩いて美味しそうな店もいっぱいあってと、軽井沢の喧騒をそのまま見せてくれていた。あるいはこれがひとつの呼び水となって軽井沢への観光が増えるのか、それとも大本の小諸の方へと牽引されるのか。それはこれからの登場具合次第か。しかしイチカ先輩と海人とのすれ違い、妄想が先走りすぎてて本当の会話がどんなんだったかまるで想像が付かないなあ、告ろうとしてせず、聞こうとしてしなかっただけの状況の向こうに、ふくらみ爆発した妄想ってことなのか。塩梅が難しいアニメ。でも面白いので見続ける。檸檬先輩やっぱり謎だ。

 「マンガ大賞2012」の最終候補にはいった押見修造さんの「悪の華」(講談社)も中学生の鬱屈と暴発が描かれていて同世代的にはいろいろ考えさせられるだろう物語。これがちゃんと入ってくるところが現場を見て、売れ筋を見てそれなりにマーケットを考えている書店員さんたちが選考員の大半を占めているこの賞の特徴なのかもしれないなあ、だってサブカルな漫画読みって僕なんかを含めてこういう漫画、なかなか手を出しづらいから。けどそうした漫画もこうやって候補に入ってくることで読んですっげえと思っていろいろ語りたくなってくる。賞に推すかどうかはまた別の話だけれど言葉の端々に上り、候補としてメディアなんかで語られることによって広がるファン層が、作品を持ち上げ世間に知らしめそして物語の濃さを振りまいて世間に影響を与える。そんな流れが作られるだけでもこうした「マンガ大賞」のシステムには意義がある。多数決って決して人気投票じゃないんだね。

 いいなあ北海道民、というか札幌人たちか。学生たちが作ったアニメーションを上映する「ICAF」ってイベントが、めぐりめぐって2月4日にいよいよ北海道へと歩を進める。「ICAF2012札幌」は、東京みたいにすべての作品が上映されるって訳ではないけれど、それだけ選りすぐられた作品が並んで今の学生のトップクラスを見られそう。とりわけ植草航さんの「やさしいマーチ」は、卒制のDVDなんかに入っているのと違って相対性理論による「ミス・パラレルワールド」がバックに入った“完全版”できっと上映されるから、もとより一種のPVとして作られたその映像が、音楽とシンクロしてそのパワーを最大限に発揮している様を拝めるだろー。僕はそれを見に武豊まで行ったんだ、帰省ついでに。あと白井孝奈さんって人の「トリップ・トラップ・マップ」も注目の1作。京都精華大だと「フミ子の告白」ともども「rain town」が上映される石田祐康さんに衆目があつまっているけれど、白井さんも確かSTUDIO 4℃に入社した凄腕で、上映作では巧い絵がすごく動いて自在に変化する様を拝ませてくれる。見て損なしのプログラム。行きたいなあ。無理だって。


【1月25日】 「マギノガンナーの白と黒、墜天と堕天のアンサンブルぅー」。って感じにマルゴット・ナイトとマルガ・ナルゼが羽根を羽ばたかせて中を舞い、走る真喜子・オリオトライの上へと降臨しては日給の硬貨を箒から放つシーンに使われていたエレクトリックなサウンドが、もう耳について離れずあの瞬間にアニメーション版「境界線上のホライゾン」のサウンドトラックが出たら買うぞと決めていたら本当に出ると決まったものの、予定には出ず1カ月延びてようやく出たので買ったものの、普段持ち歩いているDVD−ROMのプレーヤーを忘れて聞けずリッピングもできない体たらく。最近どうも抜けている。

 まあそれもこれも3年4カ月とか続けた割には世間にもあんまり評判にならず、内にはむしろお荷物扱いされていたコーナーが、月末30日分の掲載をもって終幕することで頭が惚けているから、なのかもしれないけれどもそれで気落ちする歳でもないんでそういう記事がたとえ目ん玉系新聞から消え去ったとしても、見たものと感じたこと聞いた音について前のとおりにここでもって書きつづっていくだけのこと。始まりだってそうだった。1995年とか96年の頃に新聞でアニメとか、漫画とか声優とかを紹介するところなんてまるでなかったのを産業と絡めて無理矢理にでも載っけた結果が今のこの盛況ぶり、超大全国紙にだってレギュラーで漫画とアニメを紹介するコーナーが出来る時代にむしろ逆行している目ん玉だけれど、だからこそあんな状況になっているんだと4万キロの彼方に思いを馳せる、ってだから他人事じゃあないんだけれど。参ったねえ。

 アニメっていえば我らが千葉県が舞台になっている「輪廻のラグランジェ」にいよいよもって大きな動きあり。激しいバトルがあってそして載れはしても変形させられなかった「わん」なお姫さまが、遂に本気出してロボットを変形させては海中から現れた敵を簡単に蹴散らして見せた。なんだあの力。でも散々っぱら言われながらもこれまで出来なかった理由として、恐怖めいたものがあるようでそれがいったい何を示すのか、ロボットから逃げられなくなるのか世界の命運を握ることなのか命を削られることなのか、分からないけどまあいろいろあるらしく、今は能天気な「まるっ」の嬢ちゃんが、それを知ってどんな顔を見せるのかが知りたいけれどもあれ、天然だから案外に「でもだからってやらなきゃいけないんならやるっ」って言ってジャージ部魂を見せては特攻、していくんじゃなかろうか。うん。

 それにしても海の方から何か得体の知れないものが飛んできたとおもったら、市街地の上空に居座って、その威容を見せた上に迫ってきた見方のロボットをはじき飛ばして落花生畑を壊滅させ、空き家になってた商店を損壊させ、さらにはそんなバトルの最中にはじき飛ばされた自動販売機が待避の列に突っ込もうとしている寸前、見方のロボットがジャージ部魂を発揮して、かけよってきては手にした棒っきれで自販機をどこかに撃ち返してみせた様を、見ながらも恐怖に怯え泣き叫び、身動きとれずにへたりこんだりはしないところはやっぱり安房鴨川、温暖で穏和な南房総に生きる人たちってことなのか、なるほど実に千葉県らしい。鴨川にまで落花生畑が侵蝕しているかはともかくとしてそんな千葉っ子気質をもっと見せてくれればヒットするぞこのアニメ、千葉県で。チーバくん出ないかな。

 おさらいなのか窮余の策なのか、分からないけれども総集編だった「ちはやふる」は総集編だからといって手抜きはなくって単行本の巻末についているような4コマ漫画風のショートストーリーが新たに作られていたんでこれはこれでオッケー。滅多にどころかまるでほとんど出てこない千早の姉が出てきては、お年玉をがめつく横取りして服を買い、それでも自分が綺麗だと誉められ千早に服をプレゼントするエピソードとか実に良い話、っていえるのかどうなのか、あんなぶかぶかの服を来て。まあ良い話ではあるのかな。んで肉まんくんのお姉さんも登場して好みのタイプが今のところは机くんだけれど、途中からこれが原作では藤崎のヒョロくんに変わるんだ。相変わらず不思議な好み。そんな藤崎の先輩さん。百人一首を覚えてない奴は虫か虫以下だって。そういわれると覚えたくなってきた。藤崎が強いのも道理で。でもあの口調で誹られるのもそれはそれで。いつまで経っても覚えない部員もいたりしそう。

 なるほど「日々ロック」、絵はどうにもうまくないし音楽をやってる感じもあんまり漂ってこないなあ、ただただ暑苦しいなあと最初は思ったけれども読んでいくうちに歌っている兄ちゃんの割と本気な歌いっぷりと、それに巻きこまれて周囲がどんどんと変わって言う爽快さがあって、他のいっぱいある傑作な音楽漫画バンド漫画にこれは負けない作品だって気もしてきた。「デトロイトメタルシティー」のギャグを交えた世界とも違う、笑いはあってもそれはがむしゃらさが滑って笑いに見えているだけ、常に本気の主人公たちに知らず惹かれてしまうんだ、自分も、そして暴力団の組長までも。でもこれが受けるのはあの絵柄だからで人気になって実写化されたらいたいどうだ? ってことにもなるのが迷いどころ。「デトロイトメタルシティー」みたいな松雪泰子さんの1発チラ見せみたいな技があったら受けるけど、女っ気がまるでないからなあ「日々ロック」。さて「マンガ大賞2012」での結果やいかに。


【1月24日】 「大東京トイボックス」からさかのぼって読んだ「東京トイボックス」はなるほどまだゲームでも良い物を作れば認められるかもしれない、って期待が一方にはあった時代の漫画なんだなあという印象。それを声高に主張して、突破していくことで周りも納得しゲームには素人の美女も振り向かせるだけの結果が付いてきていたけれど、それでも零細ディベロッパーが金に恵まれずパブリッシャーに振り回され、メガソフトパブリッシャーに粉砕されかかる展開は今を暗示していた。

 そして「大東京トイボックス」となるとパブリッシャーですら出すのが大変になっていて、メガソフトパブリッシャーと連携してはタイトルを出していかないと回っていかない厳しい状況が垣間見える。良いものよりも続編で、あるいはすでにあるフォーマットの上にキャラだけ変えたものをのっけて突破する。それが赤字を最小限にしてあわよくば利益を狙うための方法論。そこに魂は? って言うだけ虚しい状況に、けれども立ち向かっていく太陽たちに明日はあるのか、ってところが見えないのが何とも読んでいて息苦しい。規制の問題まで乗っかってきてさらに混迷を深める展開の、たどり着くべき地平はどこなんだ。すべてがフリーでオープン、ってのがあり得ないだけに読むのが恐いけれどもそれが見えてこそたどり着ける地平まる。描くんだうめさん、その身を削っても、ついていくから、きっとたぶん。

 スタイル抜群でスタイリッシュな美少女のアンヌに迫られたんなら味吉陽太、すぐにでもかしずき跪いては、永遠の愛を誓ったって罰は当たらないと思うんだけれど、残念ながら日本の法律で11歳の少女を相手にあれこれするとそれこれ言われてしまうから、アンヌとのあれしたりこれしたりすることはもうちょっとお預け。っていくかあれで11歳っていったいフランス人はいったいどれくらい成長が早いんだ。20歳超えれば大変になってしまて30過ぎたらもはやってなってしまうのか。いやいや一方に鈴鈴さんのとっても可愛らしい姿態で32歳だなんて例もあるから女性の年齢は分からない。かといって確かめられないもどかしさを、後は直感でクリアしていくしかないんだろう。「ミスター味っ子2」終了を祝いつつ、そんなシーンがわが身にも訪れることを希(こいねが)い。

 もしもアニメーション化されることがあってもそのシーンだけは実写でやって欲しいかもと思った、小野洋一郎さんによる「ブッシメン!」の最新話。田舎の活性化のためにと記念館の材料を元に像をつくってみんなで騒ごうってイベントに、参加した美少女仏師の偲がその美貌にダメを押すように、作ってきた仏像に目を入れるシーンで見せたのは例の上半身をさらして胸にはさらしだけ巻いて、ノミをふるって開眼するという技。決して大きいとはいえないそれをギュッとしばったさらしの上下にはみでる丸みは、絵で見てもとっても柔らかそうでこれを実際の人間で見たら、いったいどれだけの人が悩殺されるのか、って思ったけれども大きからず小さからずの美少女を連れてきて、さらしだけで撮るのも難儀な話だろうから、完璧な作画によるアニメでもってその柔らかさをも含めて、醸しだしてくれたらこれ幸い。三蔵は縛っていると平たいけれども外れると案外にもっこり。

 椹野道流さん、って書こうにも漢字の出し方が分からないから四苦八苦してコピー&ペースとして書いたその人が、三笠書房のf−caln文庫から出した「若き検死官の肖像」を読んだら面白かった。年寄りの検死官のもとで修行して、ようやく資格をとれた新米検死官が、その街では仕事がないため派遣されて意気軒昂と赴いた土地には、何とネクロマンサーがいて死体の声を聞いていたから検死官はたまらない。だって死体から整然の状況とか死んだときの様子を探るのが検死官な訳だけど、ネクロマンサーが死体を甦らせて言葉を聞いたら1発で、死んだときの状況が分かってしまう。検死官の出る幕なんて全然ない。

 そんな理不尽はあるかと怒った検死官。不要と言われるもそこは直情傾向をいかんなく発揮して、街に居座ってはネクロマンサーの所業を見ようと赴いて、本当に死体を甦らせている様を見て戦くもやっぱり帰らず、検死官の仕事を見ていたその時。ネクロマンサーの喋らせた死体が、検死官や彼が親切な人と知り合って借りることになった部屋の家主で、薬草を育てている人の知り合いだったからちょっと大変。おまけに検死官が事前に見聞した死体は、その知り合いが犯人ではありえないないと物語っていたけれど、そこはネクロマンサーを長く尊ぶ街だけ合って、そうした異論が受け入れられる予知はなく、知人はそのまま犯人として裁かれるかもしれない事態になってしまった。

 どうにかしたい。そう思って検死官は走る。科学的な証明を目の当たりにして、いくら自分の仕事に誇りがあっても、死体が嘘を言ってしまっていることを、改められない自分の過ちに落ち込んで引きこもってしまったネクロマンサーを家まで行ってたたき起こし、ネクロマンサーにしかできない方法をとらせようと叱咤しつつ、自分たちも犯人を捜して街を駆け回る。腐ってしまってはもう喋らせられない死体を、損壊させようと画策する署長らの企みも阻止し、いずれ来るだろうネクロマンサーを待ってそして。そこに未来を開くような共同作業による解決がもたらされる。

 郷に入っては郷に従えの風習を守ろうとしない直情径行の検死官の、猪突猛進ぶりにちょっと苛立つけれども、そんな真っ直ぐさがあってこそ、崇められ奉られていたネクロマンサーを刺激して、共に手を組み新しい検視のあり方を模索する方策を導き出せた。突っ走っても引っ込んでも、偉そうでも卑屈でもいけないのだ。検死官とネクロマンサーという、相矛盾する要素をぶつけつつ、互いの良さを認め合うまでを描いた作品。シリーズ化されるのか。されてほしいなあ。貧困でご飯も食べられない生活から抜け出そうとネクロマンサーになり、今は料理をするのが趣味みたいなネクロマンサー、ヴィンセントの純粋さが可愛い。しかしやっぱりカッカしすぎだよなあ検死官。ちょっとは落ち着きを得るのかな。それともやっぱり突っ走って突っかかってはどうにかしてしまうのかな。

 年をとるならそれなりに、ってことなんだろうなあ「カーネーション」での演じる女優さんの交代劇。見てないからそれがどれだけマッチしていてどれだけ惜しまれるのかが今ひとつ、理解できないんだけれども騒がれるからにはきっとそれなりな実力を見せているんだろう。けどでも若い頃を演じていても年をとった姿まで、演じきれるかというとこれはまた不明なところ、なので経過をみつつそれならと演じさせる役者を変えてみるのもひとつの手だったのかも。そして始まればやっぱりこれで良かったとなるのかそれともならないのか。夏木マリさんでダメなら夏木陽子さん、そして最後は夏木陽介さんと夏木続きで治めてみせればこれ完璧、って陽介だけはちょっと拙いぞ。


【1月23日】 イチニイサン。だから何なんだ。「モーレツ宇宙海賊」はさあ始まるぞ電子戦って期待させた割にはブレーカーが落ちたか何かして一気に終了、そしてヨットは宇宙へと出たものの帆が出ないのを部員の6人の女の子たちが宇宙に出てえいこらしょっと持ち上げ開いてさあ航海に出発だ、ってところで次回に続く。まだ加藤茉莉香はモーレツもやってなければ宇宙海賊もしていない、っていうか海賊がだいたいほとんど出てきてないのはタイトル倒れだ。せめてミニスカが一杯でてれば。それが無理だからこのタイトル? 知らないけれど。

 まあでも宇宙って場所の大変さをこうやってさまざまなシークエンスを積み重ねることによって分からせてくれてはいるから良いのかな。同じ佐藤竜雄さんが関連していながらいきなりドンパチが始まった「輪廻のラグランジェ」とは違ってゆったりとした進行なのも、それだけ原作の持ち味をちゃんと活かそうとしているからなのか。とはいえ次回からいよいよ始まるドンパチか何かで試される加藤茉莉香の運命やいかに。それはそれとしてマミ役の小見川千明さんは相変わらずに良い声を出しているよなあ。

 やはり千石撫子の無意識のアピールが最終兵器になるのかと女の勘で勘付いたらしい神原駿河。すっぽんぽんではなかったけれどもそれなりに露出のたっぷりな格好で迫っても人生ゲームでは相手をクラクラさせられない。対して撫子がいっしょにやってみせたのツイスター。それもあんな格好やそんな格好を見せつけて脳内に刻まれたその艶姿が、ひょんなことから甦った時に阿良々木暦はその悩殺さに脳殺されるんだ。おそろしいなあ。個人的には中身は同じで周りがチアキ・クリハラだったらさらに嬉しいんだけれど。蹴られるか。

 けどでもそんなことをしたら、もっと恐ろしいものが迫ってくるんだ、戦場ヶ原いひたぎさん。カッターナイフにコンパスに三角定規に消しゴム、ってそれ恐いのか、使いように寄っては、1万個も落とされれば埋もれて死にます。そんながはらさんこと戦場ヶ原ひたぎの恐ろしさについては神原駿河も、暦でさえも熟知していたみたいだけれどもしょせんはやっぱりたたの人間、妹のために本気だした暦が相手では叶わないというのかそれとも。ちょっとだけ前進した「偽物語」の次回やいかに。また戯れ言がいっぱい繰り広げられる中に悩殺ポーズが満載なんだろうなあ。そんなアニメでも人は買う。そんなアニメだからこそ人は買う。アニメビジネスって難しい。

 「マンガ大賞2012」も最終候補のノミネートが出たんであれやこれやと読んでみる日々。とりあえず石井あゆみ「信長協奏曲」を読んだけれどもやっぱり面白いなあ、それは織田信長の下克上な生涯ってものがもとから圧倒的に面白いんだけれど、そんな世界に落っこちてしまった少年が飄々としながら信長をやってのけてしまっているところが、気楽で楽しくって共感できてしまうんだろう。これが熱血で苦心惨憺の上に信長であろうとしたらやっぱり息苦しくって仕方がないし、歴史に逆らおうとして訳の分からない方向に行ってしまってもやっぱり信長らしさを失ってしまってついてけなくなってしまうから。

 あと出てくる女性キャストの描かれ方も言いのかな、濃姫って呼ばれてた帰蝶とか、妹のお市とか。それなりに人間性が出ていてとっても愉快。朽木の砦で出会った妹もなかなかの可愛らしさ。そんなキャラの魅力もこれあってついつい引き込まれてしまう。じゃあ「マンガ大賞」かっていうとそれもありそうだけれどでも、ひっかかるのややっぱり他に類例が幾つもあるってことかなあ、古くは「戦国自衛隊」があったしライトノベルでも「織田信奈の野望」って少年がタイムスリップして女性の信長に出会うって話しがる。それはただ性別を変更しただけじゃなくって第六天魔王と畏れられた信長が、弟を殺害して誰も彼も虐げそして魔王として君臨していくんじゃなく、別の生き方を模索しながらそれでいて信長であり続けるにはどうすればいいかって疑問への手探りながらの回答を見せてくれている。ちょっと目新しい。

 たぶん「信長協奏曲」はこのまま歴史をなぞるように進んでは、その過程で未来から来た男らしい判断が世に残る事件の裏にあったってことにされていくんだろうけれど、でもやっぱり本能寺の変は超えられない。そして秀吉の天下取りも。そこをどういう理屈で見せるのか。あるいは違う顛末を考えているのか。そんなあたりの結末の付け方で、評価もいろいろ代わってきそう。まずは仕上げをご覧じろ。それから判断したいけれども8巻までの規約を超えてしまうかなあ。あと2冊は見てみたいなあ。

 丸の内の丸善ではずっと前からオススメマンガに挙がっていた新川直司さんの「四月は君の嘘」も読んでなるほどこれも受けそうな話だと納得。今はもう引けなくなったかつての天才ピアノ少年が、天才バイオリン少女と出会って変わるかどうかってストーリーで相手のバイオリン少女が見かけによらず毒舌で豪快なところが多くの人の目に受けそう。ピアノ少年の引けない理由が単純に母親を失ったことなのか、そんな母親に強制されていたことが枷を外され目標を失ってしまったからなのか、分からないところがあるけれどもまあ天才に引っ張られ、立ち直っていくんだろう。けど気になるバイオリン少女の体調。音楽物なら指揮者の女の子の天才ぶりが炸裂する「天にひびき」があるし、声が凄い少年が主人好悪「少年ノート」もあって戦国模様。そこから突出しているかっていうと迷うところ。やっぱり続きを読んでみたいなあ。どこが目標になるのかな。

 それはだから極めて意識的で、とてもじゃないけれども全国紙を標榜する新聞が1面の頭に持っていって良い話ではないんだけれどもそれを平気でやってしまうところが、恣意性をのみ拠り所にして狭い範囲からの熱い支持を得て、それを狭いのぞき穴から見て大きな支持だと思いたがってる人たちが、作っている新聞らしいといったところか。外から来た人が集まってにぎわいが大変だというなら、原宿の竹下通りの方が日本のみならず海外からも大勢の人が着て大変な混雑を連日引き起こしていたりするし、危険性だったら一時の渋谷とか六本木といった繁華街、あるいは秋葉原のちょっと閑散とした場所なんてのも、危険がいっぱい満ちていた。

 アンダーグラウンドとの繋がりだったらすぐそばに東洋一の歌舞伎町がありながら、なぜに敢えて新大久保なのか。つまるところはそうした傾向への反意をのみ、尊び喜びたがる面々への顔見せ的な態度であって決して日本の多くの国民が、知りたいと思っていることでも憤っていることでもない。にもかかわらずやってしまう。それを書いてしまう方も方なら乗せてしまう方も方。互いに狭いのぞき穴をのぞきあって見えるコップの中の絶賛を、得て良かった良かったと言いたいだろう。けどしょせんはコップの中。体勢ではだから見逃され見飽きられていった結果が既に。困ったものだけれどもでもしょうがない、それが選んだ道なんだから。


【1月22日】 東洋史を専攻した割には唐の王朝がどんな感じに立ち上がっては誰が皇帝になったかって記憶があんまりなくって、後で李淵ってのがいて王朝を作りその次を李世民が継いだって言われてああそうだったかなと思い出したものの、その李世民がどうやって後を継いだかってことまでは覚えていなかったというか習ったかどうかも定かじゃない。歴史によればどうやら李世民は長兄ではなくって立太子はされてなくって遠くの王様に報じられていたみたいだけれども、そこからいろいろと画策して、兄の李健成を殺してその一族も皆殺しにして自分が後を継いだってことになっている様子。長い歴史を見ればそんなことはよくあって、戦国時代の織田信長だって母親の覚えが目出度い弟を排除して自分の地位を確かなものにした。それが権力を握るということだ。

 とはいえやっぱり怨みを買うのも当然で、兄を殺したんじゃないかと言われた鎌倉幕府の3代将軍、源実朝は兄の源頼家の息子、公暁によって鎌倉にある鶴ヶ丘八幡宮の階段の下で暗殺されて命を落とした。そのまま源氏の血筋は途絶えて後は執権の北条氏が実験を握って幕府を差配していったところからどうやら、簒奪を狙っていらぬことを吹き込んだんじゃないかって、そんな話も伝わっているけれどもともあれそうしたことが日常茶飯事な世の歴史。李世民だってあるいはそうした怨みを誰かに買っていた可能性もある。もちろん一族郎党皆殺しにされたってのが本当の歴史だれどもイフが付き物なのもやっぱり歴史。兄に娘がいたら。それが逃げ出したら。そして復讐を誓っていたら。夏達の「長歌行」(集英社)とはだからそんなイフを形にして描いた漫画だ。

 幼い頃から聡明な上にお転婆で、歴史に学び軍学を修めつつ体術の類にも長けていたという姫は、父親が李世民に討たれた際に馬車に乗せられ落ち延びさせようと送り出されたものの追っ手は厳しくすぐそこに迫ったその時、馬車から馬だけを放ち駆っては谷を越えて見事に逃げ延び追っ手の将軍、かつての師を感嘆させる。そして将軍は戻り姫は死んだと報告するものの、そうやってただ逃げ出しただけではなかった姫は身を男の姿に変え、長安へと舞い戻っては父母に参り、家宰に生存を見せて復讐を誓った上で都を離れ、遠方にある太守の下に軍師として潜り込んでは特窟を相手に戦果を挙げてその身をひとまず安泰に置く。いずれ始まる復讐の物語。その前にまだあった紆余曲折が彼女をどうかえるのか。そして瞬間のイフはあっても結果は厳然としてある李世民から続く歴史の中に、どんな存在の跡を刻んでいくのか。「誰も知らない 子不語」で山間の伝承を端正に描いた夏達が、一変して描く血と知の混じり合った壮大な絵巻。展開が楽しみ。アニメ化とかしないかなあ。

 「マンガ大賞2012」の最終ノミネートも発表になってさあ読まなきゃを本屋に買いに走る日々。去年は「花のズボラ飯」とかヤマシタトモコさんのとかが品切れになってて手に入りづらかったけれども今年のは割にまだ書店の店頭に並んでいそうで揃えてどうにかサブカル系コーナー最後の掲載に間に合わせて紹介できそうな感じ。とはいえ書店によっては漫画の品揃えも偏っていて揃わないところも結構ありそう。石黒正数さんの「外天楼」とか実際あんまり見かけないしなあ、ちなみに船橋にあるときわ書房船橋本店はなぜか漫画売り場ではなくミステリーの書籍売り場に山積み。そんなミステリーかと思ったら冒頭は確かにミステリーで、エロ本の束をめぐる誰が読んでどうしてそうなったか、なんて推理を小学生の子どもたちがめぐらせるちょっとエロスでコミカルでシニカルな話だったけれどもそれがそうなるとは驚いた。いやあ驚いた。ロボットの、人工生命の倫理と論理に行くんだもなあ。その意味ではSFでもありミステリでもある「外天楼」。最有力候補か。

 読んだらカツ丼が食べたくなったんで本の買い出しに行った池袋の地下にあるスタンドでかっこんでから渋谷へと向かって「和装侍系音楽集団MYST.」のワンマンライブを見る。デザインフェスタで見かけてファンになって筑波のショッピングモールでの演奏も見に行ったりもしたけれどもギターと簡単なパーカッションだけで聞かせてもそれなりに響いて格好いいサウンドが、バンドになってギター2本にドラム2台にベースも加わりお庭番まで参加したライブは煌びやかで重厚で、そこにスタイリッシュでメロディアスなサウンドが奏でられた上にボーカルのハイトーンボイスが乗ったライブはただいひたすらに最強。これでどーしてインディーズな活動をしてるんだ、昔だったらイカ天に出てそれこそグランドチャンピオンに輝き氏神一番さん率いるカブキロックスみたいなスタアとなって世に大きく広まったはずなんだけれど今の音楽状況、そしてテレビの状況はそういうことを許さない。代わって登場したのはyoutubeなりニコニコ動画。そこでのヒットがスタアへと繋がるかは微妙だけれどそれでも出て広まって欲しいなあ。とうわけで最新ライブの様子を見て感じて。

 お庭番って何のことかって言ったらそれはお庭番としか言い様がないくらいにお庭番したお庭番がライブの前説としてまず登場。忍者みたいな装束な割におへそとか、腕とか脚とか出した姿で笑顔でもって観客を煽りそして本番に牌ってからもステージ上で腕を振り上げ両手を打ってみせたその挙がった腕の付け根に丸出しになった両脇が、どうにもセクシーだったりして目がそっちに一瞬向かってしまたけれども始まったライブの迫力のサウンドにすぐ圧倒され2曲でお庭番ちゃんも下がったこともあってあとは一気呵成の前半後半。最初にちらっとだけ聞かせてこれで終わりかと思った「夢を見る間に抱きしめて」も本番のラストにしっかりと演じて聞かせてくれてやっぱり素晴らしかった最高だった。その切ないメロディー、そして印象深いサビをかは例えば「るろうに剣心」とか、「BLEACH」といった侍系なアニメのエンディングとかに絶対向いているって思うんだけれどあそこはソニーしか使わないからなあ、でもそういうところに使われて広まって欲しいなあ。当人たちが1番だけれどカバーでも、そして当人たちにスポットも、なんて手はないかなあ、ないなあ僕では何も出来ないもう何も。

 一所懸命にライブやってるMYST.の面々とか、名前を伊藤友里恵さんといって殺陣とかをするらしくって時代関連のイベントなんかにも出ているらしいお庭番ちゃんとかを見ていると、やりたいことをやってやれている姿がとってもとっても羨ましい。そしてそれが認められて世に出ていく姿を見るのがとっても嬉しい。やりたことはやったけれどもそれがまったく世に、じゃなかった世には受けても内には厄介者扱いされてあしらわれ、内にばっかり大受けする大見得切ったような中身すっからかんで穴だらけの言説ばかりが蔓延る空間で、他人がそれをすれば激しく誹る癖に自分たちは治外法権にあるかのごとくにやって平気な顔をして、良心すら炒めない輩の合間にいるのはなかなかに神経が摩耗する。というよりすでに切れかかっている中で果たして保つのかその時までに。保たせるけど。というか真っ当に転じてくれれば問題ないんだけれどむしろ脳天逆落とし、ひたすらに滝壺に向かって進んでいる感じだからなあ。あとはどうどうと流れ落ちる水の底、見えるのは屍ばかりなり。


【1月21日】 ちゃりこちんぷい、っていったいどういうフレーズだって思ったけれども、どうやらブルーズを究めると、そんな音だかリズムだかが耳に響いてくるようになるらしいって玉置勉強さんが漫画を描いて、坂井音太さんが原作をやってる「ちゃりこちんぷい」(集英社)を読んで教えられた。高校で軽音楽部みたいなところに所属している黒田ことチョコだったけれど、先輩たちは音楽を究めようってよりは、学園祭でどれだけうけるかが重要みたいであんまり音楽熱を燃やしてくれない。当人がいったいどれだけ凄いのかは分からないけど、そんな空気に嫌気を感じて部室を飛び出したチョコが、ふと通りかかった第二音楽室の前で流れてくる激しいギターの音を聞いた。

 それがブルーズ。聞き惚れたチョコは部活を止める宣言し、そして第二音楽室の前に戻って中に飛び込むと、そこには女子高生が3人いて、1人がピアノを弾いて1人がギターを弾いていたけど演奏がぴたっと止まってしまった。まれ、っていう名のギター少女はとっても人見知りが激しくて、いっしょにつるんでいるチョコとは幼なじみのマキミキと、それからピアノを弾いてた本当は委員長じゃないけれどそう見えるインチョーの前でしか、自分の音楽を奏でられないという。だから部活にして人前で演奏することもなく時間のある時に集まってダベって演奏してた。セッションしたいと飛び込んだチョコの申し出は当然即却下。それでも食い下がるチョコの熱意か、そこに居ることは認められてそして3人の少女とチョコのブルーズをめぐる物語は幕を明ける。

 普通に学生やていそうに見えてまれもマキミキもインチョーも、どこかクラスに居場所を感じられずにいて、だからそこから飛び出て3人でつるんでいる。普通だったらいじめられたりいじられたり、落ち込んだりひきこもったり不良になったりするような3人なのに、そうはならないのは音楽が、ブルーズがあったから。心底から抑圧された人たちの心からわき上がったブルーズに、たかだか学校生活のモヤモヤとした日常に嫌気が差したからといてすがっていいのかってところは迷うけれども学生にとって学校だけが日常のすべて、あるいは世界のすべて。そこに居場所がないのはすなわち生きている今に明日がないのと同じかもしれない。それを癒し解放して導いてくれるブルーズに、惹かれたのも当然か。

 語られるブルーズの歴史や音楽の話からいろいろと学べるストーリー。マキミキもあれでブルーズハープをちゃんと激しく吹きこなすんだ。チョコよりやっぱり凄いかも。そしてひとりどこか空回りしているチョコもチョコで、狂言回し的に3人の女の子たちの見かけに寄らない深刻さを浮かび上がらせ晴らしていく役割を果たす。もしも4人がセッションをして何かを聞かせようとしたときに、多くが共感を抱くのかやっぱりそんなに感じていない抑圧のはけ口としてのブルーズに、背を向けてしまうのか。でもまあ満ち足りたと思っているようで案外に鬱屈しているのが今の若者、本気で叩かれる太鼓の音に鼓動を煽られ爆発し、発散してそしてその殻を突き破ってくれるかも。これからも読んでいこう。聞いてみようかな。

 せっかくだからと幕張メッセの「次世代ワールドホビーフェア」に取材に行ったらカメラが電池切れで使えなかったけれどもその一方でこれは撮っておかなくっちゃと衝動をもたらすような新しい玩具に出合えなかっのであんまり気にはならなかったというか。昔だったらこれなんだこれから来るかもって驚きと興奮で会場をめぐっていたんだけれど今回、あるのは今までにすでにあってそして流行しているもの。そこに大勢の子供が集まって熱中している姿はそれはそれでしっかりと、玩具が定番となって浸透している現れだって思うけれども一方で、いつまでも同じ市場が続かないのがその業界、常に新しさを追求していかないとどこかで息切れが出るもので、だからこそ100も200も新しいアイディアを投入して未来を探るんだけれどそういう動きがあまりなく、そういう可能性を感じさせる商材があまり見えなかった。

 だったら昔はあったのか、っていわれると悩むところではあるけれど、ミニ四駆全盛の時代にダンガンレーサーとか出して次を作ろうとしていたタミヤの姿とかあったし、ビーダマンだってベイブレードだっていきなりすっげえ人気になった訳じゃあない。出してそれから育てていった結果が今だとするならば、やっぱり出さないと育たないと考えるとその根っこに何かボトルネックがあるような気がしないでもない。余裕がないのかな、ブースも例年より小さくて通路に余裕があったからなあ、ていうかタミヤいたっけ? 昔みたいに「コロコロコミック」に情報を載せて漫画とタイアップして展開して流行らせるっていう黄金の方程式が、あんまり利かなくなっているのかなあ。それは少子化の影響なのかコロコロって媒体のパワーが下がっているのか玩具なり編集なりの提案力の停滞があるのか。ちょっと様子を見てみたい。

 アウトレットパークでバッシュを買って帰って家に荷物を置いてそれから秋葉原へと出て有隣堂で能登麻美子さんのサイン会の当否を調べたら外れてた。前後が当選しているのに外れるこの不幸。今年もやっぱりあんまりついてない、ってすでに経済環境からしてついてないからあんまり気にならないか。けどしかしいったいどんな顔をしてどんな声を聞かせてくれるのか、ちょっと近くで感じたかった。でも最近はあの怒鳴り声が耳に強く残っているんでそれこそが能登さんって思ってしまいそう。ささやいてvs怒鳴って。どっちが多いかなあ、ファンの間では。せっかくだからとマンガ大賞関連の候補作もいろいろと購入、少女漫画あるいは女性向けのレーベルがねえ、ってのが特徴か。選ぶ人に男子が多い? それとも女子もレーベルの垣根とか関係成しに漫画読む?うーん。要研究。


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