縮刷版2012年12月中旬号


【12月20日】 妻のもとから宝石をもって逃げ出した挙げ句にラスベガスで別の女の名前をつぶやいて死んだ夫を父親に持つナギの憤りから始まった「ハヤテのごとく!! CAN’T TAKE MY EYES OFF YOU」だったけれども終わってみれば謎の時計の秘密と絡んでぴったりとオチもついて実にまとまりのあるシリーズになっていた。早々はナギとハヤテの日常めいた話が繰り返されて第2期のまったりし過ぎた感じにまた陥るのかなあと心配したけど、ツグミの謎がだんだんと明らかになってそしてラスベガスへと飛んでから相次ぐスペクタクルに謎の解明。なるほどそういう設定だったのかと見えてくる過程で驚きを堪能できた。これなら誰も悲しまずに次へと進めるなあ。良い話。第4期とかってやっぱりあるのかな。原作はどんな感じになっているんだろう。

 コメダ珈琲店の筆頭株主であるどこかのファンドが持ち株をアジアのファンドに売るとかいったニュースにわいているコメダニアン。あのゆったりとくつろでたっぷりと食べられる、ドトールとかスタバとはまた違った喫茶の空間があるいはねじ曲げられてしまうのか、って恐れを抱いての心配なんだろうけれどもそもそも名古屋時代にもコメダ珈琲店なんて1度くらいしか寄ったことがないからそのカルチャーがどんな感じに素晴らしいのか、分からないので反対も賛成もしようがないのであった。そもそも今住んでる千葉には見あたらないので確かめようもなかったんだけど。

 ところでいったい、コメダ珈琲店の何がそんなに関東とかの人々の琴線を捉えたんだろう? 名古屋系ってCoCo壱番屋が全国区になったくらいでCoCo壱がやってたあんかけスパも、寿がきやもなかなか全国に広まらないんだよなあ。味というより量というより、モーニングサービスというものを“発明”して“発展”させた名古屋ならではのおもてなしのマインドか。それは効率化とは正反対の概念なだけにそっちを求める人がトップに入るとガラリと変わってしまいそう。逆にそれに見合った料金を支払ってでもゆとりを求めたい人たちが多くいれば、受け入れられ広められていくんだろう。アジアではむしろそういう余裕を求めたい人たちの社交場として人気が出たりするのかな。ちょっと興味。

 買収といえばショッピングセンターを展開するイオンがワーナーマイカルシネマズをいよいよ全部買収するとかで、それによってスクリーン数ではTOHOシネマズを抜いて最大規模になるという。もとよりワーナーとマイカルの合弁で立ち上がった日本で初めてのシネマコンプレックスがワーナーマイカルシネマズ。そのマイカルがイオン傘下になってもずっと名称は残し運営もワーナー的な雰囲気を残してずっとやって来たけれど、イオンもイオンシネマズってのを展開しているそうで、傘下に系列が2つあるのはやっぱりいろいろ面倒だったのかもしれない。ワーナー側にとって日本でこうしたシネコンを展開する意味が、過去に自分たちの作る映画を届けるチャネルとして存在していたとして、今は興行網が旧態依然としていた以前から随分と改善されて、ワーナー作品も普通にかかるようになって果たして、意味がどれだけ残っているのかってところも或いは判断にあったのか。その辺についてリポートがあれば読んでみたい。取材? しないよ窓際だし。

 しかし問題はワーナーマイカルだからこそのいろいろなサービスがどうなるかってところで、その最大のものが若本規夫さんによるドスの利いた声で宣伝されれた「ゥワァーナァームァイクァルの、プォップッコォオーーーン」だろうか、特別な材料と特殊なフレーバーと、そして特訓を下手調理人によって作られだされるそのポップコーンがなくなってしまったらと思うと夜も眠れなくなっちゃう、1度も食べたことはないけど。あと昔はよく回ってきたハーゲンダッツのアイスクリーム売りの行く末か。今もいるのかなどうなのかな。ルーニーチューンズたちの人形も捨てられちゃうんだろうなあ。くれないかなあ。置く場所ないけど。

 それは冗談としても、映画会社系の配給網とそれを受ける小屋の関係が旧来からずっと続いてガッチリとしていた時代に、都心部を避けるというか避けざるを得ない地方の都市に、車で行けてショッピングとともに映画を楽しめるというカルチャーを作りあげ、育て上げたワーナーマイカルシネマズの日本映画界産業における功績は決して小さくはない。綺麗で高品質な設備を提供し、席の確保のしやすさでもって映画ファンをそうしたカルチャーに染め、都心部の汚いけれども改善の余地が見えない映画館を駆逐して、綺麗な劇場を主流にした。その結果、都心部のシネコンにお客さんをもっていかれて地方が影響を受けるって状況も招いたりはしたけれど、それを乗り超えるだけの映画人口を今なお確保し続けていらえるのも、ワーナーマイカルシネマズのシネコンショックがあったから。改めて御礼、申し上げよう、プォップッコォオーーーンでも食べながら。

 メディアでありながらジャーナリズムではない、なんてことがありえるかというと例えば電話会社は電話網を提供しているけれど、そこで飛び交う情報なんかを別に制限もしなければ検閲もしたりしない訳で、メディアであってもプラットフォームに過ぎずジャーナリズムではないと言える。でもそれは遍く通信というものを提供するユニバーサルサービスだからこそできるもので、本気で商売しようとするなら頻度の高いところを安くしそうでないところを高くして損をしないようにしようとするのが企業だけれどもユニバーサルサービスを提供する企業としてはそれは許されない代わりに、経営が安定するような料金を決めて押しつけるおとができるようになっている。もちろん無駄遣いとかしちゃいけないけれど。だから誰もがどこにいたって同じサービスを同じ料金で受けられる。

 あくまでインフラとなる通信とは違い、その上に情報を載せて発信することを業とするメディアが、それで利益を得ようとした時に、するのはそうしたメディアの受け手を見ながら求められる情報を分厚くし、そうでないのは薄くするといった取捨選択をして、最大の利益を狙うといったこと。あるいは安定した利益を確保して、そうした報道が続けられるようにすること。そうするにはユーザーが欲しがる情報を恣意的に選び流していくことが求められるんだけれど、そこに恣意性が乗った段階でで、それはもはや単なるメディアとはいえずプラットフォームとも違った、一種のジャーナリズムになってしまう。というかそうならざるを得ない。党派制とかとは無縁でも流、行とか時流には乗って動かなければ商売にならない訳だし。

 そしてそうした網からこぼれおちてしまう情報がある。往々にしてそれは実は落としてはいけない、拾い上げて伝えなくてはいけなかったりする情報でもある。もしもそうしたマイナーな方向を取り上げるとするならば、それをやって体力が続くような収益を得られるような仕組みを作っておく必要がある。日常は一般的な情報を提供して稼ぎそれをマイナーな情報を吸い上げと提供に回すとか。あるいはマイナな情報を提供することに賛同する人たちを募るとか。どっちにしたって大変だけれど、そうした恣意性に一定の評価が与えられ支持が集まることでジャーナリズムはジャーナリズムとして健全さを保ったまま、業として運営されていくようになる。

 それでは情報発信を行いながらも、ジャーナリズムではない単なるプラットフォームであり続けるといったことが可能か否か。ニコニコ動画のドワンゴがニコニコニュースというひとつのニュース発信チャネルを今回、ジャーナリズムではなくあくまでプラットフォームとして位置づけていると宣言したことは、なかなかに興味深い試みでそれが適性でかつ活況を呈して運用されていくことが可能ならば、そうしたプラットフォームを利用して独自に調査報道をしていくところが生まれ、それに投げ銭とかいった形で収入をもたらすような形が生まれるかもしれない。とはいえ、そうした社会的に意義のあることにお金が向かわないのは昔も今も変わらない。そこを他の収入で補って、ジャーナリズムは取り組み伝えてきた訳で、ニコニコにはだからジャーナリズムという形を維持して、全体の活況の中から社会的に意義ある事柄に収益を振り向けるようなスタイルをとって欲しかったけれど、それを恣意的ととられ不偏にこだわる勢力の離反を招いては、それこそ商売上がったり。ならばフラットを名目として掲げることにしたものまあ、やむを得ない話なのかも。

 とはいえそうなると今度は普遍の範囲が広がって、どこまでもどこまでも情報を仕入れ伝えていかなければやっぱり恣意性が働いていると言われてしまいかねない。そうでないといいつつ実質そうなってしまう二枚腰は、ジャーナリズムとしての責任を嫌気してプラットフォームとしての法律の範囲内での無責任を選んだものとして取られかねないから。一方で遍く伝えることはとてつもなくコストがかかってしまう。CSチャンネルが記者会見を全部伝えますとかいって売りにしていた時期があったけれど、見られないんだよ普段はそういう会見って。それでも撮って伝えるのか。でもそこからは収益は上がらない。となるとやっぱり取捨選択か。それはだから恣意的だと言われかねないという堂々巡り。言うは鮮やかでも実質はなかなかに面倒なこの一件、どう転ぶ? ちょっと気にして見ていこう。


【12月19日】 せっかくだからとネットで「ブギーポップは笑わない」のアニメ版のDVDを中古も含めて差がして買い集めたり、これは新品もまだ出回っている「キノの旅」のDVDボックスなんかも買ってみたりしていろいろと思い出させてくれた電撃アニメ祭銀幕編。けどその長い歴史の中では2週間のイベント内に上映されなかった作品も多々あったりして次に21周年とかあればやっぱり「住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー」と「フタコイオルタナティブ」は上映して欲しいなあと思ったり。というかどうしてこれが企画されなかったのかが不思議。どっちも古すぎて今時のお客さんを集められないって判断されたのかな。

 けど今のufotableの基礎を作った作品だけにどちらも凄まじい作画力(さくが・ちから)でもって作られ見るたびに大発見があったりするからたまらない。それからやっぱりアニメーションとしての面白さが際立っていて、これらを見ることでいわゆる萌えとはまた違ったアニメにも、ちゃんと楽しいところがあるんだと思い出させて、そういう作品がまたいっぱい作られるきっかけを呼び込んでくれるかもしれない。別の意味では「セラフィムコール」のような奇抜な作品を上映してシュールの再来を期待したかったけれどもこれは一部を「戦国コレクション」でやってくれていたから今は満足。凄かったなあ豊臣秀吉のおにぎり回。ああいうアニメが今少ないなあ。

 底の方がズンズンと上がってきて、ぶわっと鳴り響くサウンドが全身に浴びせかけられる音楽漫画が浅田有皆さんの「ウッドストック」だとしたら、津原泰水さんの「爛漫たる爛漫 クロニクル・アラウンド・ザ・ロック ボリューム1」(新潮文庫、430円)は奏でられ漂うサウンドに身を引っ張られ連れて行かれる音楽小説っていったところか。人気絶頂にあった4人組バンドのボーカル、新渡戸利夫がオーバードーズで死去。でもそんなことはあるはずがないと疑問に思っていたのがそのボーカルの兄で、実は楽曲作りにも深く関わっていた新渡戸鋭夫。そして彼と知り合ったロックバンドは嫌いながらも母親が音楽ライターをしていて、自身も絶対音感を持つ不登校児の向田くれないだった。

 弟と同じ容姿でギターの腕前もあってときどき歌さえ歌っていたという鋭夫が兄の追悼イベントでステージに立とうとして、アンプから感電して病院に運ばれ舞台に立つことがなかったという奇妙な事態をまずは糸口に、そのステージで機材のセッティングに携わっていた女性を訪ねていったくれないだったけれど、女性はそうした事故があったことを知らないと言う。もちろん事故はあって鋭夫は実在している。どうしてと奇妙に思っていたら今度は鋭夫に嫌疑がふりかかった。困ったことになったけれども鋭夫は実家に帰ったというその女性の家を尋ねに赴き、くれないはといえば母親が昔つきあっていたかもしれない、今は主にアメリカでギタリストとして活躍する岩倉理という男を父親と思いつつその知名度を利用するために近づいて、音楽業界にいろいろとよからぬ薬が流通していることをつきとめる。

 そして始まる犯人探しは機材のセッティングによって人を感電させられる可能性が誰にあり、新渡戸兄弟とはまた違ったズレたギターのチューニングをするのは誰なのかといった、音楽に関わるさまざまな知識がベースとなった手がかりが明示され、そこから本当の犯人へと迫るストーリーが繰り広げられる。そんなミステリー展開ももちろん面白いけれど、やっぱり読んでいて楽しいのはボーカルが崩壊しながらもバンドのメンバーがそれぞれに音楽を活かそうとして、それぞれの道を進んでいく、この世界につきもののストーリーがあったりするおと。あとくれないが父かもしれないと思っている岩倉理が、行く先々で圧倒的な演奏を見せて周囲を喜ばせる描写があったりして、音楽業界への興味と、何よりも音楽への興味を満たしてくれるところか。

 誰かが誰かを妬んで追いつめるようなヒリヒリとした描写がないのも、読んでいてすっと読めて苛立ちを感じないで済む理由か。学校嫌いだったくれないが後輩に頼まれ中学生バンドの面倒を見ようとするところなんかも、人に頼られることの嬉しさってものを改めて感じさせてくれる。けどそんなへたくそな中学生バンドのところに、コピーしていある憧れのバンドのベーシストとボーカルの兄で半分メンバーがやって来たらやっぱり驚くよなあ、しゃがみこむよなあ。いちおうの解決は見ているけれどもどこかまだベールがかかったような所もある作品で、本当の黒幕は別にいるのか、そして立派だけれどダークな面もある岩倉理は本当に良い人なのか。このメンバーでシリーズが続いていくとしたらそんな辺りに迫ってくれると嬉しいかも。そうでないなら音楽の楽しさと恐さを感じさせてくれるストーリーを。どうなるんだろ。

 羨ましいなあ。そして素晴らしいなあ。PSYって韓国のミュージシャンが作った「江南スタイル」って歌とPVが全世界で大ヒットしてさまざまなパロディが作られた、ってことだけでも過去の日本のどのアーティストだってなし得なかった広がりを感じてそれをたた1本のPVでもってやってのけたPSYへの羨望と感嘆をずっと覚えていたけれど、どこかの大学のマーチングバンドがそれを演奏したとかいった凄さを超えて、あのNASAが「江南スタイル」を本気で取り入れたパロディの、それでいてしっかりNASAのジョンソン宇宙センターをPRする映像を作ってネットで公開しているのを見るにつけ、なおいっそうの羨ましさを感じてしまう。

 いくら日本で人気だからってAKB48をパロってNASAがPVを作ったりすることなんてないもんなあ。あるいは日本風のアニメが使われたPVが作られるなんてことも。こうなったのは「江南スタイル」って楽曲が、どこかスノビッシュで笑えてそれでいて楽しい歌と踊りが誰にとっても分かりやすく、そして真似したいと思わせるものだったから。パロディだからといって、もとから一種の風刺として作られた「江南スタイル」を真似てパロディにして何の問題もなく、むしろ風刺の2段重ねになってことになってやっている方も、使われる方も気持ちいい。こんな展開を日本のどの作品ができるのか、ってことを考えたとき、やっぱり凄いと脱帽するしかない。愉快なこうなったらあとは全米が注目するスーパーボウルで10万人の観客がPSYとともに「江南スタイル」を踊るようなパフォーマンスを見せて頂点の頂上を極めて欲しいもの。加て初音ミクが登場して歌うとかしたら心臓止まるかも。何が出てくるかスーパーボウル。


【12月18日】 米長邦雄永世棋聖死去の報、そういえば前立腺癌を患ったって話が前にあったけれども今も日本将棋連盟の会長として激務をこなすかたわらで、コンピューター将棋を相手に戦い引退した棋士とはいえ元名人という力量を持ちながらも敗れて話題をふりまいていただけに、ちょっぴり急な訃報だなって気もしないでもない。ツイッターも見ると12月に入って選挙の行方を心配しているようなコメントを残してた。それから急に体調を崩したんだろうか。この結果を見て何を思ったか。都の教育審議会か何かに入って石原慎太郎都知事の下で仕事もしていただけに、石原代表の下での維新の躍進とも停滞ともいえないこの状況を見て何を思ったか。聞けなかったのは少し残念。

 それ以上に26年もA級に在籍し続けその中で49歳という史上最高齢で名人位を獲得して50歳にして在位という記録を打ち立てたというのは棋士としても相当に強かったことをそのまま現す。奪ったタイトルも数知れず。棋聖ってのが永世として与えられているけれども将棋を気になってみていた頃には王将位にあったからそれってイメージも実は強くあるんだよなあ。あの世代では中原誠十六世名人が突出して強かった感もあるけれども、そこに埋もれずずっと存在感を示し続けてそして将棋連盟会長という要職を結構な間、勤めあげては瀬川晶司さんのように奨励会を退会して後にプロに入る人への道筋をつくって上げた。

 奨励会で揉まれてこそって意見もあるけれど、フリークラスからC級2組へとちゃんと上がってみせたんだから瀬川さんの強さは相当なもの。才能に道を拓いたその業績はやっぱりたたえて余りある。一方で女流棋士への妙な態度を見せてそれに反発したのか一部の女流棋士たちが独立の機運を見せていよいよって時に果たしてどう動いたのか、結構な数が日本将棋連盟の方に残って分裂気味になってしまった件には米長さんの態度に少し、疑問があった。なるほどこれを機会に女流が独立して自立する道ができたともいえるけれども一方で、タイトル戦は将棋連盟の側が握ってそこに参加させてあげるといった曖昧な状況がいまも続いて女流棋士というこれまた曖昧な立場の抜本的な改善にはつながっていない。

 もちろん女流は女流であってプロ棋士ではない、という根本を考えるならそういう状況も致し方がないことかもしれないけれど、一方で女性スポーツが興行として賑わっている状況を鑑み、将棋の女流もひとつのプロフェッショナルとして認め収入が得られるように制度を整えるのもひとつの手段。そこに向かわなかったのはやっぱり残念なことだったかもしれない。そんな感じに快活で開放的ではあったけれども一方でどこか家父長的でもあった米長会長の後を引き継ぐ日本将棋連盟の会長に誰が座ることになるのか現時点では不明。世代的には中原誠さんの再登板が相応しい気がするけれども、脳梗塞を患ったりして体調面で万全とはいえない中原さんを激務に引き戻すのはしのびない。

 順当という意味なら専務理事の谷川浩司さんかというと現役A級で会長職をこなすのは、大山康晴十五世名人の時代ないざしらず対極も多い一方で研究も必須な現代にはちょっと難しいじゃなかろーか。内藤國雄さんかというと世代が少しだけ上がってしまうし加藤一二三さんはそうした職にベストなキャラクターとはちょっと言えなさそう、ってことは米長さんから世代が少し下がって常務理事をしている田中寅彦さんが継ぎ、その活動力でもっていろいろと改革を進めてくれる、かな。ひとつの時代が終わりひとつの時代の幕開けとして、歴史に残る日かも。あと元弟子だった林葉直子さんのことを面倒、見てあげて欲しかったなあ米長さん。どうしちゃったのかなあ林葉さん。

 キャラ弁といったら海苔や玉子や蒲鉾やふりかけなんかを駆使して絵柄を作り出すのが普通だけれどもそこは究極のキャラ弁だけあってソニー・コンピュータエンタテインメントジャパンがメタルギアシリーズとファイナルファンタジーシリーズの25周年を記念して作り、それぞれの開発担当者に贈ったキャラ弁はお重からしてプレイステーション3の形をした漆塗りの高級品。その中に詰まった食材も全国から選りすぐられたものが集められていて、食べるときっと美味しいだろうなあと想像させる。それ以上に凄いのがそれぞれのディテールの再現度。まずはFFは人気のキャラたちが海老ピラフの上に薄焼き玉子ととか海苔とかで再現されていて、その作り方はよくあるキャラ弁なんだけれどもやっぱり絵がちゃんとしているところが究極っぷりを感じさせる。普通ではなかなかこれだけ細工できないもん。

 けどそれ以上に驚いたのがメタルギアの方。あけるとそこにはオールドスネークとネイキッドスネークとそして雷電が並んでこっちをにらみつけてくる。蝋細工のようだけれど実は材料はマッシュポテト。それを形作って色を塗った上にスネークなら白髪ネギを焼いたり色がつくように挙げたりして載せている。ヒゲも同様。そして雷電の髪は大蔵大根を千切りにして載せてあってそれぞれに白髪茶髪銀髪といった雰囲気を醸し出している。とてもじゃないけど食べられないこの造形度。けど食べないと痛んでしまう。はたしてメタルギアチームは食べたのか。食べかけのスネークはどんな顔になったのか。リポートがあるといいなあ。お重の下には敷き詰められたご飯の上におかかが敷かれ、その上にダンボール箱を再現した立方体のお稲荷が。考えたなあ。これもひっくり返すと中にスネークがいたりして。どんな味がしたのかなあ。

 「住めば都のコスモス荘 スットコ大戦ドッコイダー」と「フタコイオルタナティブ」というufotable作品の上映がない「電撃アニメ祭 銀幕編」で唯一にして最高に引かれたプログラムとなった「キノの旅」「ブギーポップは笑わない」「スターシップオペレーターズ」の上映という萌え要素皆無で人は殺され食われたりもする作品を見に角川シネマ新宿へ。作品が作品なんでいったりどれくらいの人が来るものかとも思ったけれどもそうした作品を好きで見ていた人たちがいたからこそこれらの作品が作られそして記憶にも残っているらしく、ちゃんとそれなりな人数がやって来ては映画館を埋め尽くしていた、というのは嘘だけれどまあそれなりな人たちがいたみたい。上映後に行われたグッズなんかの抽選会で計35人が当選した中でもらえなかった人もいたみたいだから。けどそれでもらえないってのは余程の運。そんなことをもし僕にしたら抽選した人には一生、誰かと過ごすクリスマスが来ない呪いをかけてやろうと思ったけれど、ちゃんとグッズが当たったから呪うのは止めておこう。

 さて「キノの旅」。今はもう梨園の嫁さんとなってしまった女優の前田愛さんが珍しく声優として参加している作品で、どこか中性的な声は正体はともかく見た目少年しか見えないキノにぴったり。淡々と感情を押し殺して演技していくのは大変だっただろうけれどもそれでもちゃんと虚無を感じさせつつ演じてみせてくれた。上映されたのは「人を食った話」でそのタイトルどおりに人を食った話だったけどこれ、今ならテレビで放送できたかなあ、できたかもしれないけれどもネットであれこれ騒がれる時期なだけに悶着もあっただろう。自由でそして挑戦できた時代だからこその作品。原作も凄いけどアニメもやっぱり凄かった。中村隆太郎監督、この後になにか作ったっけ。らしい演出ぶりだったなあ。

 そしてアニメーション版「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」は同じ清水香里さんが主演した「selial experiments lain」を思わせる街の描写に人のどこか虚無的な雰囲気を持ちつつ「ブギーポップは笑わない」という人気作品で描かれたエピソードのその後めいたものを示して作品が持つ世界の広がりってものを感じさせた。それが単品としての原作のストレートなアニメ化を求めていた人にはたぶん嬉しくなかったんだろうけれども、僕はもう「lain」でああいったモノローグに全体の見えない断片的な描写でもって淡々と描いていく手法に慣れ惹かれてすらいたんで毎週を緊張の中に楽しめた。

 ほとんど12年ぶりに見た第1話も能登麻美子さん演じるキャラの怯えたような声で綴られる展開は最初から最初までハイテンション、といっても賑やかって意味ではなく緊張感が連続しているって意味でそれこそ1時間の作品を見せられているような深さを覚えさせられた。これも「lain」と同じだよなあ、画面から目が離せなくなるっていうか。上映前に登壇した清水さんは丸くなっているというのはさておきすっかり女性声優さんって感じの声だしになっているけど当時はまだ高校生。慣れてないのは分かるとしても藤花ではないブギーポップとなった時の声にはどこか役を探るような感じがあって面白かった。といってもセリフは極めて少ないんだけれど。これが全体を通してどう代わったのか。DVDを見返したくなってきた。でも全部そろってたっけ。まあいい注文したから中古がおっつけ届くだろうからそれを見よう。VAPは早くブルーレイディスクを作りたまえ。

 さて「スターシップオペレーターズ」。これは水野良さんの原作が書評を書いていた「電撃アニメーションマガジン」に連載されてて面白くって読んでいたんだけれどもなぜか途中で終わって完結していない。その意味でも思い出深い作品だけれどもアニメの方はちゃんと完結しているそうで宇宙に練習公開に出た士官候補生が本国の政変で行き場を失った時に独立を宣言してテレビをスポンサーに航海を続けるって無茶だけれども興味深い設定が、アニメだからといって丸められずそれでいてキャラクター性を際だたせて描かれているから深読みしたい人にはこれほど楽しい作品はない。とはいえやっぱり難しいのかあんまり今はこういう作品が作られなくなっているなあ、雰囲気はあっても底が浅いというか。かろうじて「モーレツ宇宙海賊」は見かけの華やかさの裏にしっかりとした宇宙と社会の設定があるから説得力があって楽しめる。それに近い雰囲気。だからこそ「モーパイ」が流行っている今、再認識されて再評価されて欲しい作品かも。DVDボックスも良いけどやっぱりブルーレイを。第6話はなかなか哀しかったなあ。原作をハヤカワに移して再開とかされたら狂喜乱舞しちゃうけどなあ。


【12月17日】 おやDTが死んじゃった。まあそこは冒頭の鏡を伏線にしてそれに映した影を狙ってもらって当人たちは脇でしっかり生き残りつつ相手に死んだと思わせて、追っ手を撒こうとしたんだろうけどそれだと話が終わってしまう。だから残ったマリアンデールら2人の後を付けさせて、DTとそれからお姫さまの居所を探るような話にして続けるんだろう「イクシオンサーガ DT」。とはいえ真正面からぶつかり合って紺ことDTとエレクことEDの決着って奴をつけないことには追われない訳だしそこは最終回あたりで一気にドカンとやりつつ現代への帰還も果たすような展開が待っているのかな、そこにはエレクもまぬけな4人組みも一緒にくっついてくるという。年内あと何回なんだろ。

 明けて自由民主党が圧勝の選挙結果にどうしてこれを3年3カ月前に出来なかったのか、あそこでちゃんと有権者が判断できていたなら、真っ当な政策のもとに必要な経済対策が行われて、浮上しかかっていた景気はそのまま上向きで推移しただろうし、時折緊張関係の来る外交関係も、機微を知った人たちがしっかり裏から表から回して無用な混乱は起こらず、それがなあなあと呼ばれようとも平穏無事に日中高校回復40周年を迎えて交流は行われ、経済も良好なまま進んで日本にプライド面はともかくとして経済的なダメージは起きなかっただろう。東日本大震災という予期していない出来事もあったけど、それも即応して対策を打って今とは違った角度で復興への道を歩んでいたかもしれない。ただ福島第一原発がどうなっていたかは分からないけれど。あと浜岡原発もまだ動いていたかもしれないけれど。

 そんな可能性をいったんすべてリセットしたことで、生まれた断絶はたとえ自民党政権が復活しても決して元通りにはつながらない。今から行われる経済対策は自重や自省といったものとは無縁にひたすら、じゃぶじゃぶとお金を使うだけのものになりかねないし、その財源として消費税を引き上げることは禁じ手とされて、未来へと残る借金から回されることになるだろう。だからといって景気は上向くかというと、一方で最低賃金なんかいらないといった企業サイドの要望を真に受け、それを撤廃した結果、給与は上がらず消費は増えず景気は回復しないまま、資材が上がり燃料費も上がりインフレが起こって底知れない不況へと歩みかねない懸念が今なお漂う。企業からの税収は上がる? 内部留保に回るるだけで国庫には納まらずかといって民草には降りてこないよそんなもの。

 もしもこの3年3カ月がなかったら、そうした緊急事態の大ばくちなんてやらずに済んだ訳でやっぱり断絶は痛い。あと雌伏の時間に声をフレームアップしてもらうために寄り添い阿って媚びた勢力の声をそのまま受け入れてしまわざるを得ないことで、起こるなおいっそうの周辺との軋轢が心配。なるほど一部の人の一瞬のプライドを満足させてくれることかもしれないけれど、それは未来に大きな禍根を残すことをかつての日本が陥った情勢が如実に証明している。前とは慎重さが違うといったところで極東の島国にある資源は限られていて、永遠に闘い続けられる訳ではない。

 必要なのは押すべきところは押しつつも引くべきところは引いて保たれる平衡関係。それを戦後50年、巧みにやって来たものがこの3年3カ月で雲散霧消し、ただ声高で居丈高な態度だけが残ってしまった。もう元通りにはならない。あるいは前のような展開へと向かうだけ。いずれにしても困ったことになりそうだ。それでも例えばあの国立メディア芸術総合センター(仮)構想なんてものが、断絶を経ながらも仕分けの民主党が滅び去った今、復活してくれればあるいは嬉しいんだけれどそれを断行する余裕があるんだろうか気分的に。麻生太郎元総理が内閣に入っていろいろ言える立場になれば言ってくれるかもと期待するけど、財務相って話もあるから出すよりむしろ絞る側。そこでやっぱり必要なものだと言ってくれれば良いんだけれど。

 ただし上物を作るだけじゃなくってそれには多大なコンテンツを収容できる倉庫ってものが必要だし、そこに集める物をしっかり選んで集めてこられる目をもったキュレーターが必要だし、漫画からアニメーションから様々な媒体の進化していくクオリティなりディストリビューション形態に対応できる展示施設も必要。そうした脇の予算をしっかりと組んで優秀な人材を配置してこそ生きて世界に喧伝できて多くの人がやって来る施設になるんだけれど、そこがやっぱり難しいんだよなあ、この国は。文化庁メディア芸術祭の仕組みを強化・発展させることが出来れば良いんだけれどなあ。あともし本当に出来るんだったら倉庫番で雇ってくれないかなあ。

 なんかキンドルファイアHDのデモンストレーションを大手町でやっていたんで近寄って見物、なるほどサイズ的にはiPad miniより気持ち小さいくらいかな、重さはたぶんこっちが重たいんだろうけれども僕のiPad miniはなぜかポリカーボネートのケースを着けてあるんで妙に重たくなってたりするからあんまり変わらなさそう。決定的に違うのはサウンド面で横にしたときに左右にスピーカーがステレオで配置されるようになっていて、それがドルビーによってチューニングされていてとてつもなく良い音がなる。iPad系ってそれ単体だろろくでもない音しか出ないけれどもキンドルファイアHDはそれを置いて再生するだけでひとつのオーディオ機器。サラウンドが利いたサウンドとともに映像を見るとミニシアターにいるような気分を味わえる、ってのがあながち大げさじゃないくらい音が良い。

 インタフェースはやっぱりコンテンツの閲覧に特化しているようでダウンロードした本もアプリも音楽もゲームも横一線にならんで閲覧できるようになっているけどそれらは最近聴いたり使ったりしたもので、そうでないのはファイル的な場所に収まっているから欲しい時に明けて出せばいい。そんな辺りに慣れればiPadよりも便利かも。ただやっぱり長くitunesで音楽を管理してたりするとiPadに流れてしまうんだよなあ、それを一気に引っこ抜くような装置でもあればキンドルファイアHD上にコンテンツのアーカイブを構築したいところ。値段も安いしやっぱり音が素晴らしいし。18日発売。どうしようかなあ。

 しょこたん中川翔子さんを見に行ったらアメリカンフットボールのジャパンXボウルがやっていた、じゃないアメリカンフットボールのジャパンXボウルを見に行ったらハーフタイムにしょこたんが登場したんだった。けどやっぱり見たかったのはしょこたんとそれから160人とかのチアリーダーがいっせいに繰り広げるラインダンス。その迫力はこのXボウルとそれから社会人と学生の対決となるライスボウルくらいでしか見られないからやっぱり行くしかないのだマニア的に。何のマニアだ。あとしょこたんはやっぱりああいった場所で臆さずしっかり自分を作りあげるのが素晴らしい。グレンラガンとエヴァのアニメソング2発をやってもちゃんとファンアピールが出来ていた。そこは認知度があって存在感があるしょこたんならでは、なんだろうなあ。アニソン歌手との決定的な違い。どうやったらそこに行けるんだろう。そもそもそこから始まらないと行けないんだろうか。

 そんなジャパンXボウルはといえばオービック・シーガルズが3連覇をかけて初めて決勝の場で鹿島ディアーズと対戦。それ以前の段階だと戦ったこともあるしリーグ戦ではもちろん何度も当たっているんだけれどトータルの成績はディアーズが8勝でシーガルズが6勝とか。あんまり良くはないんだけれどもなぜか負ける気がしなかったシーガルズの側に習志野が本拠地ということも手伝って肩入れして、そちらに陣取って、何度か見慣れたチアリーダーとそして今年も現れたチーバくんを見ながら試合の行方を眺める。シーソーゲーム。でも最後には2歩リードしたシーガルズが1歩追いつかれながらも逃げ切って初の3連覇を成し遂げた。リクルート・シーガルズとか以前は行ったチームが流浪の果てにオービックの冠を得てリスタートを切ってたどり着いたこのポジション。人間あきらめたらおしまいだってことをその存在が語ってくれている。学ばねば。ともあれおめでとう。ライスボウルも行くから、でも応援は関学の側から、だってチアリーダーが若いんだもん全員。


【12月16日】 いやあ暖かい。とはいえやっぱり冬なので風が吹けばそれなりに寒い中を、女子高生が生足出して元気に歩いているのに総選挙の投票所を出たところですれ違い、この子たちが大人になることに世の中がいったいどうにかなっていたとしても、この子たちの選択ではなかったんだなあと思ったもののどういしょうもない被選挙権。溜飲を下げたい鬱憤を晴らしたいという原初的な気持ちの積み重なった果てに来る意固地で見えっぱりでその実中身はがらんどうな国が虚勢を張って太鼓叩いて突っ走った果てに食らうものは何なのか。そんな果てに来る焼け野原でも新たに生まれて来る女子高生たちは生足で立っているのかな。もんぺ姿で瓦礫を踏みしめているのかな。

 結果はすでに見えているとはいえ、夜にならないと明らかにはならない大勢を家で待つのも寂しいんで、京成電車から都営浅草線を乗り継いで浅草まで出て、松屋の上に出来たEKIMISEってところを見物。評判の離島キッチンで寒シマメ漬け丼でも食べようかと思ったけれど、午前11時の開店直後ですでに満席に近い状態だったんで遠慮して平日にまた来ようと決めて退散、忍者コーナーでくノ一のお姉さんに手裏剣の投げ形を教わる子供を横目で見つつ、屋上へと上がってスカイツリーとアサヒビールの金の泡が一望できる景色を楽しむ。そうだよなあ、ここからなら本当にスカイツリーが一望できるんだよなあ、このロケーションはひとつの財産、それが転がり込んできて衰退気味だった浅草の松屋も大喜びだろうなあ、すでに上の権利を東武に売り払ってしまっているとは言え。

 ほんと一時なんて家電量販店とユニクロに上を占拠されいずれビックロ化も避けられない状態にあったんだから松屋浅草。銀座がモダンな見せに様変わりしたのと正反対に、近隣の高齢者ですらもうあんまり手を出さないようなブランドが並んで平日なんかは閑古鳥。地下の総菜屋さんとかそれでもまだ近所にスーパーとかないだけお客さんの利用もあったけれど、それもいつまでって感じだったのが東京スカイツリーが建って一変。東武のスカイツリーへと向かう電車の起点になってビルの利用も増えて来た。これなら無理に上を東武に売り渡さなくたって良かったんじゃないかとも思うけれどもそれだとEKIMISEを誘致したり屋上をスカイツリーの観光スポット化するような改変に至らなかったかもしれないから判断は難しい。とはいえ下にはまだ残っている松屋も含めて今の時流を捕まえ変わって行ければ、新宿の一等地にあって舵取りを誤りビックロなんてものに化けてしまった三越新宿店とは違った活路を見いだせるじゃなかろーか。

 崎陽軒で250円のポケットシウマイを買って摘みつつ地下鉄で末広町まで出て今度は秋葉原を散歩、日の丸は立っていなかった。浅草でもそうだったけれどもコリンチャンスの応援に来ているようなブラジル人サポーターが昼の買い物に来ていたようであちらこしたでそんな姿。横浜にだって家電量販店はあるけれどもこれだけ店が並んでそして様々な言語で応対してくれてなおかつどの店にだって最新機種が並んでいる場所は世界のどこにだってないからなあ、あとフィギュあとかも売ってるし。とはえい今日はそうした店ではなくって秋葉原には珍しい帽子屋さんんを見物。映画「伏 鉄砲娘の捕物帳」で滝沢馬琴の孫娘が被っている冥土ちゃんの帽子を再現したKNOWREDGEって店でワッチを買いつつ聞くと宮地昌幸監督と桜庭一樹さんように作ったものが評判で作って欲しいという電話もあって受けているとか。ちょっと欲しいけれどもさすがにかぶれないからな、でも欲しいなあ、どうしうよう。

 道々を行きながら読書。形代小祈さんって初めて聞く弐の「異端児たちの放課後」(電撃文庫)を読んだらこれが凄まじく素晴らしいかったので多くの人の目に触れて欲しい。人間に擬態して学校に通うヒュドラーの少年の前に転校して来たのは、セーラー服なのに軍手をしてスカートの下にジャージを履き泥靴を履いた姿をした少女。自己紹介でいきなり自分は魔物を狩るものだといい、少年をどうやら魔物と認めて狙いを定め、そして放課後に当然のように対立が起こる。そこに割って入ったのがどこからともなく現れたエルフ。2人を保護して新宿の地下にある、さまざまな平行世界から紛れ込んで来たさまざまな異端たちが集って暮らしている場所へと連れて行く。

 居場所がなかったのはヒュドラーの少年も魔法少女も同じ。捨てられていたところを拾われ、どうにか人間の姿を擬態出来るようになったものの、孤児として育てられ、学校でも散々に虐められながら、それでもヒュドラーは人間たちの善意をかぎ取る能力を使い、どうにかこうにか生きてきたし、魔法少女はこれまでに12体もの悪魔と戦い倒すだけの日々を送って来て、祭りに行くとか誰かと遊ぶ渡河言った楽しいことは何も経験してこなかった。唯一の楽しみが魔法少女のアニメを見ること。そんな日々もこれで終わる。2人とも元いた世界に戻って幸せになれる。そう思っていた。そう喜んでいた。違った。

 純人類を名乗り、他種は殲滅しようと目論む勢力が宇宙に蔓延り始めていて、あらゆる場所でヒュドラーを狩っていた。実は魔法少女はそんあ<ラブ>という勢力が出していた指令に従い尖兵として働かされていただけだった。彼女がそんな上司から悪魔だと思いこまされ、相手がたとえ捨てられていた子供を養おうと必死で頑張っていた少年でも、学校で初めて仲良くなった少女で、最後まで自分を友達だと思ってくれていても、心を塞いでコアを集めるためだけに狩っていた、そんな悪魔とやらの正体を知って、少女は自らのアイデンティティを揺るがされる。存在すら危うくされる。一方でヒュドラーの少年も、武力を揃えて向かってくる純人類の組織に追いつめられていく。

 異形の物たちが、現実世界での虐待から逃れてたどり着いた場所で、安心と幸せを絵ながらも、ちょっぴりライバル関係にって、時々喧嘩もするようなドタバタ学園ラブコメ展開を最初のうちは予想させおいて、実は自分以外の存在を見下げて差別するような人間にありがちな差別の問題とか、良かれと思ってやって来たことが実は非道でそれに気がついて大きく心を苛まれる展開とか、重たいテーマとストーリーを突きつけられるのがこの形代小祈さんの「異端児たちの放課後」。自分でも似たようなことはなかったのかと、読みながら後悔と慚愧に苛まれる。とりわけ少女の受けた衝撃たるや相当なもの。正義のためと汚してきた手が実は悪でしかなかったら?

 普通だったら正気でいられないだろう。たとえ知らなかったとしても、許されたとしても。だからこそ問われる、今何をしているのか、それが何なのかと常に考え、ふり返ることが。でもこれがなかなか難しいんだよなあ。それでも、そこから理解し、認め、許すことの意味ってのもを教えてくれるのがこの小説。前を向く力もくれるし、少女のしでかしたことにもちょっぴりの救いがもたらされる。宇宙に存在する様々な世界の様々な生命の様々な可能性を見せつつ、それらが混在する世界を描くSF的な要素もあって楽しめる。ここからみんな、幸せになって欲しいけれども敵はまだいそうだし。そんな辺りが続きがあれば描かれるんだろう。異形学園ラブコメなんて万ある主題に行かないで、差別を乗り越え悔恨を経て掴む安寧を是非に見せて欲しい。期待しているけれど、さてはて。

 そして気がつくと女子サッカーの日本選手権大会こと皇后杯の準々決勝でジェフレディースが日テレ・ベレーザ相手に2対2の試合を演じてPK戦で勝ち抜けていた。驚いた。ベレーザに2点とられながらも2点をとって同点にしてしまったことも驚きだし、緊張感の中をしっかりPKで勝ち抜いたことも驚きだった。普通ならここで敗退するんだよなあ、でも勝った訳だし次は伊賀FCくノ一で宮本ともみさんを相手に大一番。戦力もまあ拮抗しているチームを相手に勝てばいよいよ決勝でどこだろうやっぱりINAC神戸かなあ、それとも浦和レッズレディースか、いずれにしても強いところと当たれる訳で選手たちにはおおきな励みに成りそう。オーロイ選手が退団してこれでジェフ最長身にまた1歩近づいた山根恵里奈選手も控えてベンチから頭を突きだしているから試合、見に行こうかな、NACK5に22日に。


【12月15日】 何だって無色の王じゃなくって白銀の王だって? いよいよもって学園島でのバトルが始まった「K」は赤の王の周辺でドンパチが始まる一方で青の王にも何者かがつかかっていっては傷を負わせる。いったい何が起こってる、ってあたりでどうやら人に忍び込んで操る輩の跋扈がある模様。それが無色の王なのか違うのか分からないけれども、シロについては自分から白銀の王だと名乗ったからには戦中のドイツから脈々と続く意識めいたものがあってそれが移り変わっているんだろう、飛行船の中にいた兄ちゃんを経て。話はよく分からないけど淡島世理さんの胸が相変わらず大きいので見続ける。やっぱりそこか。そこしかないのか。

 まず言っておくことがあるとしたらそれは、「ねらわれた学園」で渡辺麻友さん、「メリダとおそろしの森」で大島優子さんがそれぞれに声優に挑戦してはそれなりに、というより本職の声優さんたちからも違和感がないと言われるくらいに立派な演技を見せて、アイドルだって声優やって大丈夫なんだって世間に抱かせたことがまるで幻想のようにぶち壊されてしまったということだろうか、「ONE PIECE FILM Z」という作品に関して。

 本職のそれもベテラン勢がぎっしりと主役も脇役も固めた中に、メインキャストに近い位置で入っていくのにそれでは、やっぱり悪目立ちしてしまう。描かれているキャラクターがとてつもなく胸元を中心に素晴らしいので、なおのこと声とのギャップが目立ってしまう。何がどう妙なのか、聞けばもう瞭然のそれをどうして音響監督はどうにかしようとしなかったのか。その人が出ていればまゆゆなり、優子ちゃんみたくファンがわんさか来るという世代の人でもないのに。うーん。そこがちょっと分からない。

 それとも監督がファンだのか。原作者のとてつもない後押しがあったのか。でもなあ、こと作品に関してはいっさいの妥協も外連も譲歩も見せない原作者がそういうところでゆるりと手を抜くとも思えないしなあ、思いたくないしなあ。まあともあれそうなってしまったことは仕方がないので、映画を観る時にはその声を右から左にすり抜けさせつつ大きな大きな胸とそして細い腰、豊かなヒップを中心に激しいアクションに勤しむそのビジュアルを楽しむことにしよう。香川照之さんはさすがの巧さ。客演はやっぱりくでなくっちゃ。だからこそ。うーん。

 それはそれとして映画としての「ONE PIECE FILM Z」はまったくもって最高の映画だった、とくにナミの胸が、ってやっぱりそこか、いやそこだけじゃないけれど、そこが冒頭から大きく映し出されてもう目にも柔らかそうな上に、途中でとんでもないことになってしまって勿体なさを存分に味わったその先で、華麗なる復活を遂げては胸のみならず腹部も大写しにされてその美しさ、そのみずみずしさって奴をスクリーンから観客席に激しく放ってくれる。それこそ目が眩むくらいに。素晴らしいなあ。

 それを見るためだけにまた行きたくなる上に、ニコ・ロビンまでもがアラサーの魅力とはまた違ったみずみずしさって奴を拝ませてくれるんでなかなかの感動。そんなみずみずしさを取り戻す場面での喘ぎ声とか、逆に元に戻る時の声とか、聞いていると大人はもちろん子供だってお姉さまの魅力に取り憑かれてしまうんじゃなかろうか。あとは最後の決戦に臨んでいく時の恰好とか、女海賊のアルビダ姐さんの使用後並の露出具合。「ストロングワールド」の時はロングコートであんまりビジュアル的に嬉しくなかっただけに、今回のはそのままフィギュアになってくれたらすぐに買う。というかなってたっんだっけもう。だったら行かないと購入に。

 とまあビジュアル的な話はさておきストーリーは海軍大将だった男が海賊への憤りを爆発させつつ海軍にも愛想を尽かして飛び出し海賊退治にとてつもない方法でもって乗り出すという話。正義のカタマリのような男がどうして一般人も巻きこむカタストロフを欲するのか、そこのところの心理状態がなかなか掴めないのが悩ましいところだけれども人間、キレちゃうともう訳が分からなくなって突っ走って、そしてふと我に返って戻ろうとしても戻れなくなってしまうことって割とある。そんな心理の中で進むしかないんだと自分を鼓舞してすべて飲み込み前進しつつも誰か止めてくれ、って思っていたんだろうなあ、それをやってくれたのがルフィだったということで。

 もちろん手を抜いたりはしてないけれど、近くにいる仲間の力を借りれば高齢だって乗り切れたはず。それをせずに堂々と正面から立ち向かったのはやっぱり相手への敬意があり、そして自分自身への自省ってものもあったんだろう。でなきゃ倒されるものかよゼファー先生が。そう、ゼファー先生。海軍本部にいるあらゆる大将に中将くらすも含めて指導したという超人なだけにきっと暴走し初めてからも海軍はなかなか手を出しづらかったんだろうなあ、強いのと恩があるのと。

 そんな中でも黄猿のボルサリーノは真正面から向かっていっては相打ち以上の成果を見せていたからやっぱり相当な強さなんだろう。元帥になった赤犬は戦場に出なかった上に顔も出てなかったけれども青雉のクザン以上に肉体にいろいろ損傷を追っていたりするのかな。そのクザン、すでにルフィたちはジンベエ親分からクザンが元帥の座をかけ争って赤犬に負けたことを知っていたはずなんだけれどもそのクザンが現れやっぱり驚いた。特にニコ・ロビンの驚きはルフィとは別な意味で相当なものがあったようにも思うけれどもそのあたりはスルリ。もうちょっと会話とかあれば良かったのに。

 そんな半ば引退した感じのクザンがまた強い。もしかして出ていた面子で最強じゃないかと思わせるくらいだけれど、それでも赤犬に負けた訳か、どんな感じになっているんだ海軍は、ちらり写った本部はまるぜヤクザの組事務所、海賊よりおおっかなそうだったけれどもそこに正義はあるのかな、赤犬の言う正義しかないのかな。そんな辺りも含めた激突って奴が本編でもいずれ描かれることになるんだろう。やっぱり敵だしね、ルフィにとって赤犬は、兄エースの。

 映像としてはもう最高級。冒頭にZなる爺さんが相手を蹴散らすところとかそのZとルフィが何度も闘うところとか、激しいアクションをしっかり描いて手に汗握らせてくれるし、配下のアインって女性とゾロとの闘いはカメラワークが素晴らしくって近寄ったり遠ざかったりしながら技を繰り出し請け合うところをときに速く時にスローもいれながらリズム感を出して何が行われているのかを分からせつつそのスピード感によわせる。いたずらにスピードを追求するだけじゃあ何やってるんだろで終わってしまう。最近はそんな映像が増えている。かっこいいと思って作っているんだろうなあ、きっと。

 テレビなら、あるいはビデオなら録画していたものを見返すこともできるけれども映画館ではそれは不能。なら見てそこで何がどうなっているか分かるようにしないといけない。それがちゃんと出来ていた。子供も多く見る作品だし、そういう親切もヒットの要因になっているのかな。聞こえてくる「ONE PIECE」映画でも最高という言葉も半ば本当、チョッパーの物語に涙する人も一方にはいるだけに叙情はそっちでアクションはこっち。そんな棲み分けも出来そう。早くブルーレイディスク出ないかな、その前にまた映画館で見てこよう、ナミの胸を、谷間を、山を。

 船橋に安倍総裁が来て演説していたのを見ていた人たちに別に日の丸なんて振ってる人はいなかっただけに秋葉原に安倍総裁が来たのを囲む人たちが日の丸をいっぱい立てて応援している光景にこれはつまりそういう人たちの可視化なんだろうなあと理解。それがすべてって訳ではなくってそういう人たちが集まりやすい環境が整えられただけで大半は普通に普通の政治を期待しているんだけれどそこを考えずむしろ熱烈にアピールしてくる方角だけ向いて何かをし始める可能性が大といったところが目下の不安の大半か。政権を奪取すればさすがに縛られ身動きもとりづらくなるとは思うんだけれどそこを押し切り大目玉をくらってショボンとなるのもまた一興、お手並み拝見。その一瞬で世界情勢が決定的に悪くならなきゃ良いんだけれど。


【12月14日】 サンタクロースが赤いのはそううサンタをコカ・コーラがCMに使ったからだという説があるけれども真偽は不明。ただ歴史的地域的にはいろいろな色のサンタがいることも確かなようで、青かったり紫だったり黄色だったり白だったりするサンタがトナカイことレインディアの引くそりを駆って天を飛び地を行きながら子どもたちの幸せをかなえていたりするみたい。でも窓から入ってきたサンタがいきなり全身真っ黒だったら子供でなくても驚くだろうなあ、誰だこのドロボウは、って感じに。

 いやいやさすがに黒いサンタはいないだろうって思うけれども泉谷一樹さんの「ブラックサンタとレインディア」(電撃文庫)で主役を張るのは何と黒サンタ。どうやらその物語世界にはサンタが暮らすサンクラウスところがあってそこにはさまざまな地域にさまざまな色のサンタがいてはサンタの技術を磨き競っているらしい。ノエル・シャープという少年もそんなサンタの1人だけれども生まれ育った場所がその黒サンタの国。なおかつ赤を頂点としたサンタ界のヒエラルキーでは弱小に位置するらしく周囲を見渡しても熱心にサンタ稼業に精出している人はおらず、ましてや現実世界への道が開ける「ホーリーズ・ナイツ」って武闘会に出ようなんて者もいなかった。ノエル・シャープという少年を覗いては。

 育ててくれた恩人への思いとか、自身の意欲もあってその「ホーリーズ・ナイツ」に出ようと鍛錬に励んでいたノエル・シャープ。ただ出場にはパートナーとなるレインディアが必要で、それを召還しようと森へ入って頑張った彼の前になるほどレインディアらしきものは現れたけれどもよくいる動物のような恰好はしてなかった。むしろ人間そっくりだった。というより人間がレインディアの着ぐるみを着ているだけ? その中身も少女でいったい何がおこったのかとノエル・シャープが近づくと、なぜかレインディアの着ぐるみは少女から離れてノエル・シャープにまとわりついて脱げなくなった。これではもう「ホーリーズ・ナイツ」には出られない、なんて困っていたらその少女、カロン・グロースにサンタの力があってそして立場を逆転した形でカレン・グロースとノエル・シャープは「ホーリーズ・ナイツ」で闘うことになる。

 いきなりの立場逆転という面白さがあり、最弱のチームが意外な力を発揮して勝利を重ねていく爽快感もあって楽しめる「ブラックサンタとレインディア」。赤いサンタが圧倒的な強さを発揮しているのはやっぱりそれがスタンダードだという誇りとそれにともない集まる財力ってものがあるんだけれど、それにおんぶするような世界のあり方を認めてしまってはつまらない。とはいえ早々に離れられる訳でもない状況がある中で、もとより底辺からはい上がって気兼ねのないカレン・グロースとノエル・シャープのチームは奮起し勝利をその手に掴み、なおかつサンタの世界の意識も大きく改革する。それを望んだのは誰なんだ。ルドルフという名らしいレインディアの着ぐるみの精か。それを使っていた元祖のサンタクロースか。1巻物として片づいているけれどもそんな謎と、なにより人間世界に現れた着ぐるみレインディアと美少女黒サンタが巻き起こす騒動も読んでみたいので是非に続きを、来年のクリスマスシーズンとは言わずにすぐにでも。

 いよいよもってハードディスクレコーダーの「RD−X5」に付属していたリモコンがいかれて、時間を指定しての予約とかに使うボタンを押しても画面に何もでてこない。週間予約をしているからそうそう使わないボタンなんだけれども、深夜アニメのご多分に漏れず、時々放送開始時間が移動するのが難点で、番組表で確かめては5分ずれたり4分ずれたりするような時に正常なら、そのボタンを使って予約リストを呼びだし録画開始と終了の時間をずらして事を治める。それが出来なくなった。とても困った。30分アニメは冒頭の2分がずれただけでアバンが見えなくなったりするからなあ。だからどうにかしたいと接点復活材とか買ってきてぶっかけてみたけどやっぱり動かない。どうもそこではないらしい。

 とうかそもそもが「RD−X5」が2004年ともう8年も昔に発売された機種で、チューナーはWのどちらともアナログで、地デジ化で使えなくなるはずだったものが難視聴区域ってことで導入しているらしいケーブルテレビのアナログ変換でもって、今もなお普通に見られたりするから、地デジ対応機種に変える必要がなくって今なお引き続き使ってたりする。前のRD−X3みたいにドライブあたりがイカれるかとも思ったけれども、これも案外に頑丈で未だにHDDはクラッシュしないで普通に回るし、トレーもとくにガタつかずに飛び出してくる。HDDの容量が600GBと少な目なのは痛いけれども、これも録っては光ディスクに移すことでどうにかやりくり。それで四季の度にやってくる新作アニメのスタートラッシュを乗りきって来た。

 まだ使える。しばらくこれで戦えると思っていただけに、リモコンの不調だけでハードごと取り換えるのは釈然としない。どうにかできないものかと探ったところ、メーカーの純正リモコンを取り寄せるよりも手っ取り早く、汎用リモコンを使って操作できるかもしれないと分かって、近所の家電量販店で買ってきたのがソニーの学習機能付きリモートコマンダーという奴。何でも多彩なメーカーのAV機器をテレビからレコーダーからプレーヤーからアンプまで、操作できるという優れものでこれなら或いはと東芝のリモコンを設定して操作したら、何と動いたちゃんと動いたサクサク動いた。予約のリストもするっとでてきた。何と不思議な。いや不思議でもないんだけれど、あれだけメーカーによって違う機能を汎用だから配置も限られるボタンの上によくぞ配置した。シフトを使って表示とは違うボタンを押したりする必要があるから、どれがどれなのかを覚えるのが大変だけれどこれなら十分、あと5年は戦えそう、ってデジアナ変換終わっちゃうか、それまでには。やっぱり買い換え時期なのかなあ。

 壱巻で甦った009(違う)が001(やっぱり違う)をまず倒し、そして002(多分違う)と003(これまた違う)に再会して弐巻から進んだ九岡望さんのシリーズ最新刊となる「エスケヱプ・スピヰド参」(電撃文庫)では、009(前同)というか<蜂>の九曜って兵器<鬼虫>を操る人間と機械の組み合わせから<蜂>を<蜻蛉>との戦いで失った九曜が、叶葉って彼を甦らせてマスターになった少女と、弐で出合った皇室のお姫さまのクローンらしい少女と、その護衛のロボット兵士とともに首都までたどり着いてそこで2体の<鬼虫>が死んだ時の姿で保存されているのを知りつつ、弐で現れた<甲虫>なる敵との戦いを想定することになる。

 <鬼虫>の開発に深く携わっていた、002ならぬ<蜘蛛>の巴から<鬼虫>がそもそも強い理由として宇宙から降ってきた隕石に含まれる金属の力があることが明かされ、それから作られた刀がまずは皇居で発見され、そしてそれを含む隕石がどこかに落ちているらしいことを知って、西の方角にある地域へと拾いに向かうところに現れた<甲虫>の戦士。これがまた強いのなんのって、<鬼虫>でも屈指の強さを誇っていた<蟷螂>ですら出し抜く力を見せては鉄隕石を半分だけながらも奪って去っていく。間際に九曜の力が大爆発したものの、それでも届かなかった<甲虫>の強さは、一方で改修された<蜂>のボディと<蜻蛉>のボディとそれからその主の遺体を帝都へと移送する途中を、別の<甲虫>が現れ襲い、<蜘蛛>の攻撃を凌いで2つの<鬼虫>とそして遺体を奪い空間移動の技を見せて去っていく。

 どうして<甲虫>などという存在が生まれそしてどこで育ち何を目的に活動しているのか。それは現在の政体とは違う理屈で動いているものなのか。前に敗れた戦争を再び起こして今度は勝つぞといったリベンジの意欲も満々な<甲虫>の一派の、どこか国粋主義的な雰囲気は感じられるものの、それが仕える相手ってものが見えないのが気になる。あと<鬼虫>を生みだした謎めいた力を持つ鉄隕石の秘密とか。そんな辺りを探りつつ一方でそれぞれの<鬼虫>が持つサイボーグ戦士のような個性にあふれた力のバリエーションを楽しみつつ、今は眠っている彼らとか彼女もいたりするのかな、そんな<鬼虫>がさらに揃って戦う姿を待ちつつ、叶葉がかつて仕えていた屋敷の坊ちゃんの現状なんかがどうなっているかを想像しつつ、今後の展開を見ていきたい。<蜘蛛>と<蟷螂>は本当に味方なんだろうか。<蜘蛛>なんて何かいろいろ画策しているようだしなあ。

 66歳でA級に在位していてタイトルも保持している将棋の棋士なんて今時点、見あたらないのが現実ってものでせいぜいが谷川浩司九段がA級に在位していて来期もどうやら大丈夫そうな感じ。高橋道雄九段もA級だけれど順位の問題とそして勝ち星の具合からどうも来期は厳しそう。そして上がってくるのはもっと若手となると50歳代で谷川さんがまだ暫くA級を意地しつつその下の世代の羽生三冠や森内俊之名人や佐藤康光王将が5年7年と頑張って50歳くらいまでA級を針続けてタイトルも持ち続ければ「3月のライオン」第8巻に出てくる柳原棋匠にちょっぴり近づけるといった感じ。つまりは柳原棋匠は果てしない強さの持ち主で、そしてそれに近いことを69歳までA級在位で60歳代で挑戦者になり50歳代の終わりくらいまでタイトルを保持していた大山康晴十五世名人が、もはやバケモノといった言葉が似合うくらいの強さだったことが伺える。そこには中原誠さんも米長邦雄さんも届かなかったんだよなあ。谷川さん羽生さんなら届くかな。


【12月13日】 球磨川禊がちらりとでてきてそのシンジ君声を聞かせてくれた「めだかボックス アブノーマル」は都城王土によって洗脳されたはずのめだかちゃんがその王土から得た能力でもって自分自身を洗脳してほら元通り。早いと言えば早すぎる展開なんだけれども、間合いが良いのかテンポが絶妙なのか期待から絶望を経て逆転へと至り喝采を浴びせたくなるような密度を持ったエピソードになっていた。黒神くじらがそのデカい胸を腕で支えながらも時々はずしてずるんと揺らしたりする名場面もちゃんと折り込み済み。喜界島もがなは下に着た競泳用水着をちゃんと見せてくれてて目にも有り難い。そしていよいよ王土との決戦へ。勝てるのか。勝つのがめだかちゃんってことで問題は、この後の展開が第3部とか第4部でちゃんと描かれるか、だよなあ。球磨川禊なんかはそこからが本番になる訳だし。期待しよう第3期に。

 かるたも欲しいけれども買って置いておく場所なんてないからかるたセットの購入は迷っているけど、こっちはさっさと買ってしまった末次由紀さんによる「ちはやふる」の第19巻では、かるたの大会があっていよいよ元クイーンと千早が対決。でっかい目は眼鏡かもはみ出す猪熊遙元クイーンの研ぎ澄まされていく耳についていくのも大変かと思ったけれど、肩の力もするりと抜けつつ目の前にいる元クイーンよりも現在のクイーンを倒すことにこそ意義を見出し止まってられないと突っ走る千早に元クイーンも圧倒されてそして何故かそれにこだわっている「ちはや」の札も奪われ敗退。けどそこで諦めないのが元クイーンだけあって藤崎の顧問の桜沢翠に練習相手になってよと呼びかける。そのとことんまで自分を高めようとする猪熊遙の姿勢に涙ぐむ翠ちゃん。かわいいなあ。さてそこで自分もと奮起するのか自分はと居直り下を育てることになるのか。どっちにしても怖い相手がでてきそう。どんどん面白くなっていくなあ「ちはやふる」。

 これは嬉しい。とても嬉しい。文化庁メディア芸術祭ってお祭りがもう随分と前から開かれているんだけれどその功労賞が今年から各部門で1人に拡大されてそのエンターテインメント部門でCD−ROMタイトルを作り世に出すデジタローグって会社を前に作ったメディアクリエーターの江並直美さんが選ばれ受賞してた。五味彬さんの写真集をデジタル化した「Yellows」の頃は書店の取次が拒否したものをCD−ROMっていうメディアならならやれるといった流通面での特異性が前面にでていたけれど、その「Yellows」って写真集が持っていた日本人の体型を記録し並べていくというカタログ的な内容が、対象を前から後ろに並べていくだけじゃなくって見たい物を見たり自由に再生したりといったデジタルならではの自在性と加わって生まれたCD−ROM版ならではの面白さが、マルチメディアを使った出版という物への興味を引かせて後に様々なタイトルが後へと続くきっかけを作った。

 それこそ雨後の竹の子のようにCD−ROMってタイトルがでてきたけれどもそんな中にあって江並さんは自ら率いたデジタローグでインタフェースに特徴を持たせ作品の見せ方にも工夫をこらしそして題材にも特異性を出して他にないCD−ROMタイトルって奴を世に見せてくれた。音楽とのシンクロして浮かび上がる美女のヌードもあれば無音で爆発するキノコ雲もあったりと実に多彩。そうしたコンテンツへとアクセスするための目次というかインタフェースにも美しさがあってフォントにも凝っていたそれらは今のタブレット端末なんかを経由して見たり遊んだりできるアプリの元祖であり物によってはそれらをなおも凌駕している。つまるところ電子出版なりマルチメディアタイトルの先駆者にして開拓者。その存在があったればこそ今があると言っても過言ではない人をさすがは伊藤ガビンさん、選んで世に改めて存在を知らしめてくれた。体調を崩されたか表舞台にでなくなっても10年くらい? 結構経つけどそれだけに今、こうして功労賞が与えられてその業績がふり返られる機会が作られるのは当時、取材し薫陶を受けた者として嬉しい限り。どんな展示があるかなあ。何を見られるかなあ。

 そんな文化庁メディア芸術祭の気になるアニメーション部門の大賞は、多分これだろうと思っていた細田守監督の「おおかみこどもの雨と雪」が優秀賞になってて大賞は大友克洋さんの新作短編アニメーション「火要鎮」が受賞。まだ多くは公開されていないけれども絵巻とも錦絵とも言えそうな絵柄の中でキャラが動き火事が起こったりするのは斬新と言えば斬新なビジュアルで、ぐにゃぐにゃと動く大友さんテイストとはまるで違った印象を与えてくれる。作ったのが大友さんでなくても良いんじゃない? といった思いすら抱きそうな目新しさ。会場では小さいiPadの画面とかで見ていたけれど大きなスクリーンで見たいなあ、見られるかなあ、上映会は多分あるんだと思うけど。そして他の優秀賞には和田淳さんの「グレートラビット」と杉井ギサブロー監督の「グスコーブドリの伝記」とさとうけいいち監督の「アシュラ」が。映画ばっかり、ってのは気になるけれどもそれだけ映画の多作で豊作な年だったってことで。期待の「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」と「伏 〜鉄砲娘の捕物帳〜」は審査委員会推薦作の方に。「ねらわれた学園」も「009 RE:CYBORG」も入ってないのはやや残念。応募したのかな、しなかったのかな。

 漫画部門は初の海外からの受賞でブノワ・ペータースさんフランソワ・スクイテンさんによる緻密な絵による「闇の国々」ってのが受賞。バンドデシネじゃないけれども向こうのちょっぴり尖った漫画を日本語訳して出してくる集英社小学館プロダクションが満を持して送り出してきた必殺の書。取って当然だったとはいえしかし4000円もする本がこれで注目を集めてさらに売れると世界も日本に注目をしてもっと応募が増えるかも。これだけ漫画がでている日本が「闇の国々」に勝てない漫画を出していないって訳じゃないけれど、でも並べるとこの緻密さにはなかなか適わない。こういう絵で勝負できる土壌を含めて向こうの勝利、とでも考えるしかないんだろうなあ。優秀賞にもエマルエル・ルパージュの「ムチャチョ ある少年の革命」ってフランスのが入ってきてるし。他にはマンガ大賞受賞作の石塚真一さん「岳 みんなの山」と羅川真里茂さん「ましろのおと」と相田裕さん「GUNSLINGER GIRL」が入ってなかなかの並び具合。「GUNSLINGER……」とかハードな内容のものでも受け入れられるとなるといよいよ幅も広がりそう。来年は大賞をやっぱり日本から出したいなあ。

 まさか宮崎駿監督の作品を高畑勲監督の作品がそろって2013年の夏に来るとは思わなかったけれどもまだ先の話だしいったいどうなるか。「火垂るの墓」と「となりのトトロ」みたく一緒に公開って訳ではなくってそれぞれ別の作品として上映されるらしい宮崎監督の「風立ちぬ」と高畑監督の「かぐや姫の物語」はタイプも違いそうだしテイストも違ってそうなんでどんな客層が行くのかちょっと興味。本音をいうならどちらもテーマが古く作って子供が見て楽しめる作品になんてなってなさそうだけれどそこはそれ、ネームバリューって奴で押し切るんだろうなあ、でもそういうことでしか映画を作れないってのもちょっとスタジオジブリ、限界に着ているのかなあ、「崖の上のポニョ」もあれで子供が見て楽しめるフックはあっただけに。気になるのはあとは声が誰になるかってところか。いっそいきなり話題の剛力彩芽さんに頼んでヒロインを演じてもらって男性はAKIRAさんにすれば新春の騒然を引き継いで話題を引っ張れそうなんだけれど。それもまた嫌な話だ。さてはて。


【12月12日】 しかし本当に面白い作品になったなあ、鷹見一幸さんの「ご主人様は山猫姫」シリーズは中華風の帝国があって遊牧民の辺境があってその間にある北域があってそこに半ば放逐されるように行かされた名家の凡庸な三男坊が、帝国内部の権力争いもあって変遷する情勢の中で緊迫化を増した辺境との関係改善に大きな力を発揮しそしてその力を背景に北域だけを独立させてしまってそして、南方の反乱によって迫る帝国の危機すら救ってみせるような壮大なスケールの物語へとここに来て一気に急拡大。国家の命運が絡むような壮大な話をいったいライトノベルでどう描くんだって心配も当初はあったけれど、焦らず巻を重ねながら政情の変化を描き、それに関わる人心の変化を重ね描いてそういう展開もありだと納得させるストーリーを作り上げた。

 戦闘レベルでの丁々発止は描くのは可能だし戦術を見せあって勝つか負けるかの闘いを描くことも可能だけれどその上に、国家間の戦略レベルの設定を重ねて遊牧民が帝国と融和していったプロセスも入れてそれこそ100年のスパンを持った変化を示唆して見せるなんて、今時の歴史を扱った小説にだってなかなかない。目先のバトルに勝つか負けるか、それくらい。けれども「ご主人は山猫姫」を読めばもっと壮大なスケールで人が動き国が動き歴史が動いているんだってことが見えてくる。それを愉快なキャラクターたちでもってライトノベルとして描いたことに何より驚く。これこそ大河ドラマにして欲しいよなあ。ともあれ11巻まで来て南域を相手にした高いに終止符が打たれようとして、帝国と北域と辺境との関係が次代へと進みそうな中、最終巻でいったいどんな帰結が描かれるのか。晴凛は誰と結ばれるのか。そこを早く読みたい。いつ出るんだろう最終巻は。

 それが事実上は弾道ミサイルの開発を目的としたものであっても、現時点で開発され打ち上げられようとしてるのは衛星であって、それが証拠に発射地点から南方向へと打ち上げられては、地上を観察しやすい太陽面軌道に乗るように設計されているそうで、だから上空を通過するミサイルが落ちてくるかもしれないと騒ぎ立てるのは、事の本質を言い表しているかといった部分で多いに疑問が残りそう。むしろ騒ぐならミサイル開発の過程として打ち上げられるロケットが、予定のコースを外れ間違って日本の上空から降ってくることへの脅威であって、日本国内にミサイルが撃ち込まれるかもしれないと恐れ戦き脅すような言いっぷりはやっぱり扇情的過ぎる。

 必要なのは冷静に相手のやろうとしていることを認識し、そこから何が起こり得るかを考えておくことなんだけれど、あまりにミサイルという名称に固執して、ロケットがいつか失敗して破片が落ちてくる時のこと、あるいは大陸間弾道ミサイルとして使われどこかに打ち込まれようとしている時のことを、もしも想定されていなかったとしたら、その発射のタイミングで迎撃するとか発射以前の段階で空爆するといった対処が、まるで出来なくなってしまう。その方が実は怖くって、そしてとてつもなく問題だったりするんだけれど、テレビのワイドショーもそれから新聞も、まるで認識している節がないのが痛いというか怖いというか。

 今回だって相手の技術力を下に見て、どうせ失敗するだろうと高をくくって眺めていて、修理し始めたら途端にやれ失敗だ、やれ欠陥だと騒ぎ打ち上げは延期になったと言い立ててながら、やっぱり北朝鮮らしいねえと冷笑していた。そんな空気が漂っていた朝のワイドショーの真っ最中に行われた打ち上げ。面目を叩き潰されながらも未だどうしてそういうブラフを食らわされたのかという分析、そしてミサイルではなく人工衛星打ち上げロケットとしての成功がどういう意味を持つのかを、考え伝えようとはしてない。これではいつか来るかもしれないその時に、何もできないんじゃなかろーか。

 スタジオに呼ばれたコメンテーターも軍事評論家であったり北朝鮮ウォッチャーであって、ロケットの価値とその可能性について語れるロケット技術者の姿は見ていない。ずっとそれはミサイルだと言い立てていたから、ロケット技術者なんて呼べなかったし呼ぶ必要なんてないと考えていたのかも知れない。そのことひとつとっても、情報戦に敗れながらそれに気付かず見えない敵を勝手に作り独り相撲を演じては、知らず土俵外に押し出されていく悲劇的で退廃的な未来ってやつを想像させられる。ミサイルだミサイルなんだと言い募ることで覆い隠されてしまう本質に、思いを馳せることなく進んでいくこの国はこれからいったい、どうなってしまうのか。怖いなあやっぱり。

 それよりちょっと前に流れてきた、神戸で謎めく犯罪一家の中心にあって逮捕されていた容疑者が留置場で自殺したとの報。1時間に6回とかがっちり監視されていたりどこかにひっかけて首とか吊れないように工夫してあったりと自殺なんて余程じゃなければ不可能なはずなのに、ちょっとの時間に首にTシャツをひっかけてそれで自殺したとかどうとかいった話にはやっぱり不穏が漂う。ただ巻いただけじゃあ首は絞まらない訳でそれが閉まったってことは何だろう、同房の誰かに引いてもらったとか看守の人に引っ張らせたとか。あるいは過去に犯した事件のように心を操りそうせざるを得ないように誰かを追い込んだ? 考えればいろいろ浮かぶ怖いこと。いずれにしても過去に類例をみない犯罪の解決に、大きな支障が出そうってことは確かでさて、いったいどういう風に捜査は進み公判は進んでいくのか。興味は募る。


【12月11日】  錦糸町で見た5度目の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」はますますもってアスカの尻が丸かった。いや別に途中で何かが描き加えられているってことはないんだけれども、ストーリー展開が頭に入りセリフもだいたい覚えてしまった中で、そのシーンが登場するのを手ぐすね引いてまっている中に飛び込んでくるそのシーンへの目線が、強くなってそして描かれているアスカの尻の丸さがよりくっきりと見えるようになっているってことがあるのかも。とはえい過去のそれこそテレビシリーズから劇場版、そして新劇場版の序と破を全部見ていながら、これまでアスカの尻が丸いと感じたことはない。それがこの「Q」では何を置いても浮かんでくるのはそこに作り手の何か思惑があるのかも。アスカの尻の丸さ。それこそが「Q」の世界観でありメッセージなのかもしれない。あと3回くらい見てその理由を考えたい。単に尻が見たいだけとか言わないこと。

 せっかくだからと本屋を回って手に入れた、スタジオジブリが出している「熱風」ってPR誌の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」特集を読んだけれども基本、新劇場版がどうして立ち上がったのかといった話で特別に「Q」という作品について語られておらずこれまでの陽気で前向きな路線、つまりは前のシリーズでいったん終息して実に内向的だった話を一気に外向的なエンターテインメントにしたんだって印象をガラリを変え、ガラガラポンとひっくり返して前以上に自省と内省に溢れた作品にしてしまった理由が知りたかった身には少し物足りなかったという印象。それでも敢えて再びこれを立ち上げた意味ってものは氷川さんや轟木さん(って「REDLINE」で車運転してた人だよね)の文章から伺えて改めてこのシリーズの立ち位置ってものを感じ取ることが出来たんで良しとしよう。

 面白かったのはプロデューサーとして最初期のエヴァから関わってきたキングレコードの大月俊倫さんの話で本当だったら長い長いインタビューが載るはずだったのにそれを急に引っ込めて、自分で書くと言って寄せた文章がこれまたエヴァとは一見無関係。だって始めはビッグイシューって例の路上で売られている雑誌をついに買ってみたという話で何だっけ、「ゲゲゲの鬼太郎」が表紙になっている号を見つけてバックナンバーながらも購入した時に、売り子の人がお金を受け取る瞬間よりも雑誌を取り出す瞬間に嬉しそうな顔をしていると感じて「正直、私はかなり感動した、参った」と書いているんだもん。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」はもちろん前の2作ともエヴァともまるで関係ない。

 でもそれをとっかかりにして語る「我々は他人と喜びを共有することでしか幸福は得られない。他者の喜びを自己の喜びとできない人間には、生涯幸福は訪れない」といった言葉には、毀誉褒貶あれど作品を作り続けるクリエーターがいて、それを楽しみに待っているコンシューマーいて、それぞれに喜びを感じ合い送り合っているからこそ形成されるフィールドがあるのかもしれないって思えてくる。エヴァもだからそうした共感と共有のコングロマリットとして、双方に感じ合い認め合いながら進んでいるってことなのかもしれない。ただエンターテインメントを作る。ただそれを面白がるという一方通行ではない関係。何かこれからの展開が見えてきた。いやまだ真っ暗だけれど進む方向めいたものは感じられた。でもそれを裏切るのが庵野秀明さんという人だからなあ。楽しみ。

 「イブニング」の2013年1月1日号を読んだら「もやしもん」が載っていて、西野円がダーリンこと沢木直保に後ろからはたかれていた。女子高生の眼鏡っ娘の頭をはたくなんて何事だって憤りは覚えつつ、やっぱり子供が背伸びして怒鳴り散らせば大人にはたかれて当然というか、長谷川遥に面と向かっておばさんといえば西田から殴りつけられて当然というか。いや何で西田が。その前に長谷川さんに殴られているからおばさんと言い返したのもやむなしだったかもしれないけれど、西田のはちょとやり過ぎだし、そこに武藤葵が加わるのもやっぱりちょっと違うかな。まあそうやって悪者がいれば西野円も良い娘に見えてくるという泣いた赤鬼作戦、はたして奏功するかどうなのか。すべては直保のいたわりに掛かっている。けど横には結城蛍が。前途多難。

 ジェフユナイテッド市原・千葉の隊長こと坂本將貴選手が引退とかで長い選手生活のほとんどをジェフ千葉のために過ごしてくれてまずはお疲れさまでした。オシム監督の時代にあって決してテクニックに優れたわけではないけれども、しっかりと走りしっかりと守ってそして時々前にも出ていくそのアグレッシブなサイドっぷりでチームを躍進させた立て役者。とはえいオシム監督退任後のゴタゴタ続きの中でチームの外に活路を見出し1年間、アルビレックス新潟へと行ってそこで6位になる躍進を支えてサポーターたちから喝采を浴びながらもなぜか突如としてジェフ千葉への復帰を表明して、立て直しに間に合わなかった新潟が翌年に降格争いをする要因となって今なお新潟のサポーターから良くは思われていないことにはちょっと、引っかかっていたりする。

 ジェフのため、って言えば言えるけれどもやっぱりね、どこにいてどれだけ輝けるかってのがプロスポーツ選手の価値だとすると、結果として弱体化を止められず長いJ2暮らしへと向かっていった渦中にあって中心的な選手だった坂本將貴選手にオシム時代と同等の喝采を素直に向けることはサポーターとしても難しい。とはいえそうなってからも抜けることなく出られない試合が増えても落ち込むことなくしっかりと、チームのために走り続けたことには心よりの喝采を贈って余りある。これからどういうキャリアを歩むのかは分からないけれどもオシム監督より教わった事、その後のサッカー人生で培ったことを活かしてただ熱血なだけでなく、けれども情熱を持った指導で多くの後進たちを導いていってもらえればファンの1人として嬉しい限り。応援してます隊長。

 せっかくだからと浅草で開かれていた「オタク大賞マンスリー」の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」話を見物に。極寒の会場では東海村原八さんに宮昌太郎さんといったメンバーに加えて「クソゲーハンター」の多根清史さん箭本進一さんの4人が登壇して、とりあえずだいたいが作品に対してオッケーを出していたみたい。とはいえ宮さんは割に覚めた目線から面白さを認め、逆に多根さんはいろいろ言いたいことは山ほどあるけどそれも含めてマゾヒスティックでドメスティックバイオレンス的な作品として受け止め、愛している様子。なるほど人それぞれの反応はやっぱりエヴァらいし。ただ、それほど意味が分からないかというと、ディテールの部分でなぜそうなった的な突っ込みをいくらでも出来るのはそうとして、基本線としては帰ってきたシンジ君をめぐるいろいろってだけの話で、そんなシンジに向けるアスカだったりカヲルだったりといった人々の心情をたどりつつ見れば、そんなに難解って気はしない。むしろシンプル。愛と憎しみのドラマだと分かりやすい。

 問題はだからそこまでたどり着くのに、シンジが放つ不快なガキフィールドをくぐり抜ける必要があるってことなんだけれど、それには2度3度と見て慣れる必要があるからなあ。だからこの映画、何度も通った方が良いのは分からなさを確かめるためじゃなくって慣れるため。その果てに見えてくる心のドラマが絶対にあるとここは訴え、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」を褒め称えよう。それにしても初めてその実物を見たと多分思う多根さん箭本さんは、1990年代の終わりごろからネット界隈で名を馳せていた有名人。それが12年とか経ってこうして本を何冊も出し、サブカル界隈のメジャーなところで活躍しているのを見るにつけ、窓際でひっそりと読書している我が身の至らなさが思われギリギリと歯噛み。この年月で何かひとつくらい出来なかったかなあ、出来なかったから今なんだよなあ。まあいい諦めるにはまだ早い、年末ジャンボ宝くじで6億円を当てて一気に逆転だ、ってこういう他力本願がやっぱりイケナイんだよなあ。反省。


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