縮刷版2012年1月中旬号


【1月20日】 ふっと手にとって見た1月24日号の「週刊SPA!」のグラビアン魂で息抜きをしようと開いたら吹いた。ちょっと死んだ。誰だこれ。その豊満過ぎるバストといい、丸すぎるヒップといいサイズではどんなグラマラスなモデルだってかなわないかもしれない。ウエストだけはやや太いかもしれないけれどもそんな姿態を惜しげもなくさらしたいビジュアルを、真っ当な人が真っ当な意識で見ればそこは2月の稲沢市は国府宮。わっしょいyわっしょいと群れる肉体を思い起こして妄念の海に沈むだろう。その筋の人だったらあるいは違った感想を抱くかも。それくらいに凄いグラビアン魂はきっと永遠に記録に残り記憶に刻まれ夜に人を唸らせることだろう。見た自分にはご愁傷様。見る人には御自愛を。

 真正面を避けて脇に回って下にも潜って絡めてから、あるいは遠方からイジってみせては本質を外れて騒がれる状況の本質を引っ張り出して抉るコラムで人気だったはずの小田嶋隆さん。だから今回の芥川賞をめぐって起こった石原慎太郎さんの選考委員退任騒動にも、一般的に言われる田中慎弥さんのご意見への反感から、なんて見方を吹き飛ばしてそんなことあるわけないじゃん円城塔さんの小説が分からないから止めたんじゃん、なんて言ってくれると思ったのに、「辞意の背景には、前日の夜に発表された第146回芥川賞の受賞者である田中慎弥氏が、受賞記者会見で述べた言葉が関係している 」なんて書いてしまって世間の見方をそのままなぞったコラムを書いてる。なんでかなあ。

 もちろんそこから敷衍させて賞なんてものは、なんて権威をおちょくってくれる筆は健在で、その意味では小田嶋さんなんだけれども根本となる部分に抱えた妙さってのはやっぱり全体に響いてしまう。書きたいことのために状況をつまんででみせる、あるいは曲げてみせるといったやりかたは、小田嶋さんが日頃から目の敵にして嘲笑している普通一般のメディアと同じな訳で、それをやらないからこそのオダジマンだったのがここでちょっと足踏みしてしまった。まあそこはそれ、いずれそうした状況ですら大きくくるんで実はねっていった形で、何か書いてくれると思いたいけどそうかけば手っ取り早く一丁上がりなスタンスで、書き飛ばすようになっているんだとしたらそれは残念。果たして。

 あるいは本当に田中慎弥とのあれやこれやが、石原慎太郎さんの選考委員退任の理由に成っていたという可能性も捨て切れてはいないので、それがはっきりした差異にはごめんなさいを言って著書を買わせていただこう。非難するなら確固たる論拠を。それはとある議員がとある新聞社ととある記者を訴えたケースなんかにもいえそうで、とある記者はとある新聞にとある議員がとっても酷いことを書いたビラを配っていたとか、外国で言っていたって本に書いてあったって、そんな話を記事として書いて、とある議員を明らかに貶めていたんだけれど、その議員が言うことには、そんな酷いことを書いたビラなんて配ってないし、そんな酷いことも言ってなければ、そう言ったってことも本には書かれてないらしい。

 もしもビラに書いてあったんだったらそのビラを見れば一目瞭然だし、本にそう書いてあったんならその本を開けばやっぱり一目瞭然なんだけれども、そうじゃないって堂々と裁判所に訴え出るからには、やっぱり書いたビラなんて存在しないし、書かれた本だってないんだろうし、そもそも言ってなかったってことになる。10年以上も昔に配られたビラを探して、そう書いてあったと調べて報じるのは大変だけれど、でも相手を貶めようとするからには、その現物を確認するなり、コピーを見るなりそれを見た人の確実な証言を得るなりする必要がある。あるいは現物が配った人の処に残っているかもしれないから、誹謗したい相手であっても問い合わせるのが筋なんだけれど、それをしないで伝聞で、そう書いてしまってはやっぱり拙い。

 ましてや本にそう書いてあったというなら、その本を開けばすぐに確認できる。題名を挙げて引用すれば、相手にだって証拠として突きつけられる。論文を書くときだって引用の原点はしっかり明記するのがルールで、大学出て論文を書いたことがあるならそれくらいのことは分かって当然なのに、そうはしないでそうだったらしいと書き飛ばしては、反論を喰らっているのがちょっと分からない。相手のそれこそ政治家生命を脅かすかもしれない言説を、言葉の武器を向けているのにそこに十分な証拠を用意していない、なんてことがあり得るのか。真っ当なメディアならあり得ないと思うんだけれど、それならそもそも訴えられないからなあ。やっぱりさっぱり分からない。あとはいったいどうなるか。成り行きを見守ろう、ってそんな場合でもないんだけれど。

 宇宙での艦隊戦から居ペンして元長柾木さんによる「星海大戦」第2巻は土星圏の側にあって主役を務める九重の周辺で高貴な一族の専横を許さないといった血気盛んな将校経ちによるクーデターが勃発。渦中にあって次代のリーダーとして引っ張り出されそうだった九重だったけれども打算で動くことはなく、情に溺れることもなくただひたすらに真っ当に真っ直ぐな世界を求める気分がいよいよ発動するまでが、描かれて次への興味を誘う。たぶんしばらく木星圏の天才たちの艦隊戦はなさそうで、起こったクーデターを九重がいかに収斂させてその中で、名を挙げていくかが描かれる一方で、木星の側では天才たちが集まり丁々発止と角つき合わせながら土星の出方を待つんだろう。生態に埋め込まれた端末をネットワーク化して誰もがカメラになって世界をとらえそれを誰もが受けられるというテクノな未来のビジョンがちょっと面白かった。そんなにオープンな世界でも封建的な階級が残り反乱も起こるのは弾圧されている訳でなく、それなりに豊かな世界ってことなんだろうなあ。


【1月19日】 メディアは莫迦の巣窟阿呆の魔窟って感じで、芥川賞に絡んだ石原慎太郎さんの選考委員辞任の話を、田中慎弥さんの会見での言説なんかにに絡めて書いていたりするんだけれど、石原さんが辞めるのって本当は円城塔さんの作品への評価をめぐってって感じで、そうした文学観の違いという決定的な事項を脇に置いて、モノを言われたから云々なんて堂々と、書いてしまえるところに書く人の不勉強ぶりっていうか、本質なんて脇において表面的な騒動だけを書けば、それとなく話もまとまるって意識が見えて嫌になる。今やネットで本質は広く伝わるものなのに、メディアだけが何か突出して阿呆面をさらしてる。これじゃあ衰退もする訳だ。

 さらに同じメディアで「かつて大御所たちが受賞者に名を連ねた芥川賞作品は、読まないと世間から遅れる、といった一種の“義務感”もあって多くの人が読んだものだ」なんて言説を垂れ流している御仁が。おいおい芥川賞ってのは文学の新人に与えられる賞で、まるっきりの公募ではないけれどもデビューしてまだそれなりな人たちが書いた文学を評価して、引っ張り上げるために存在してるものなんじゃないのか。だから大御所なんてものが受賞することなんてあり得ないのに、そう書いてしまえる無知っぷりを、さらして改めない平気さも鬱陶しいなら、そうした言説をスルーして掲載して恥じないメディアも情けない。誰か言って止めれば良いのに。かくしてクオリティは下がり信頼は失われて衰退から滅亡へ。貧すれば鈍するの例えもあってさらに愚劣な策を講じてそして大事に、なんてならないうちに身を綺麗にしておかないと、なあ、おい、まったく。

 スノー丸って大阪方面でしか売ってないキャラをどーして綾瀬千早が知っていたかはともかく、それをこよなく愛する高校1年生の女子にして競技かるた界の若きクイーン、若宮詩暢を相手にした千早の試合は5枚をとった程度で完敗。でもボロボロにされた北央学園の甘糟くんに比べれば上出来だし、そもそも途中で戦意を失い試合が終わったあとには魂を口から抜け出させて固まっていた甘糟くんとは違ってまだまだ戦う、戦いたいって意欲を千早は見せていたから、次とかその次の単行本あたりで出てくるだろう2年生になったどうしのクリーンとの対戦なんかに、どんな表情を見せてくれるのかが今から楽しみ。あとはクイーンがどんなTシャツを着てくるかにも。キャミソールとかかぼちゃパンツもそれだったっけ。ならTシャツもきっと。

 後藤圭二さんが絵コンテだからといって別に、目が大きくもならず顎がまるっともなららず、ましてやパンツとかも見せてはくれなかった「ちはやふる」だけれども代わって「輪廻のラグランジェ」の方ではやっぱり前週ほどには見せてくれなかったなあ、パンツ。その代わりに能登麻美子さんがあの優しい声じゃない声でもって激しく怒鳴ってくれたりして、聞いていた耳に刺激を与えて全身を活性化してくれた。何と幸せな時間よ。そして「わん」といっつも手首をまげるかわいいランちゃんも、そのハイレグっぷりとはまた違った、おしりの女の子らしい丸みってものを見せてくれたんでここはまどかに倣って「まるっ」。でも逃げないまどかがそれでも落ち込んで叱られ発憤して動くマシンの謎だとか、ガレージに現れ去っていったムギナミの正体だとか気になる部分はまだ山ほど。そもそも敵がまるで地球人ってのはどういう訳だ。そんなあたりも含めて展開と、そして結末を見守ろう。

 テレビは薄型じゃなくて四角い箱みたいなブラウン管のがちょっとだけ見えた。あと黒いダイヤル式の電話も映ったけれども、背後にはファクシミリっぽいのがあってあと、部屋の中から親子電話の子機みたいなので電話してたりする感じから1990年代ではあってもまだ、携帯電話は大きく普及していない2000年あたりには近づいていないなあと当たりがついた「あの夏で待ってる」。さらには久川綾さんの時々走る凄みが、能登さんの怒声とはまた違った感じに背筋にピリピリっときたお姉ちゃんの出立を、あれは長野新幹線の佐久平駅で見送っているってことは新幹線が通った1997年10月以降ってことも見えてきたんで、だいたいそこから1年2年って感じの時代が舞台の物語、それならあの女子たちの短いスカートも納得できる。小諸の方でもすでにそうだったかは分からないけれど。

 そんな「あの夏で待ってる」は貴月イチカ先輩の豊満でゆっさゆっさな胸に顔を埋めて癒されたはずなのに、霧島海人の全身の細胞にやっぱり現れるさまざまな異常。首からその周辺だけじゃないってことはあるいは宇宙船が落っこちてきた時に、海人はバラバラのグチャグチャにされてしまったのをバキュームか何かで寄せ集め、足りないところを別の材料なんかで足して作り直しただけなんじゃないかって気がして来た。少なくとも手足がもげたとかって程度じゃないよなあ、「鉄腕バーディー」でつとむが喰らった全身の破損すら上回るその状態。けど記憶もそのままにイチカ先輩と合体もしないで動き回っているところに、イチカ先輩の母星の科学力なんたも想像できそう。けどどうして地球に興味を持ったんだろう。そこがまず謎。あと周辺の面々が海人とイチカ先輩の妙な関係を間近に見ながら、派手に騒ぎ立てない点も。おねえちゃんの鈍感さがそういうことなのと受け入れたって、普通はそうはいかないだろうし。うーん。とりあえず石垣哲朗あたりは何か勘付いているのかな。そんな展開も含めて興味津々のこれから。小諸はもっと出るのかな。

 白だから素晴らしいとか縞だから美しいとかいった概念もあるにはあるけれども、大人びた女性が身につけるんだったらレースの飾りが入っていたり、黒だったりするのも決して悪くないどころか、むしろ見ていて目に麗しいということを、「ハイスクールD×D」のアニメーション版でその素晴らしい姿を見せてくれたリアス・グレモリー先輩を見て思ったり。同じような格好をいっそ貴月イチカ先輩もしてくれたら嬉しいんだけれどもスレンダーで大人びているからこそ似合うリアス・グレモリー先輩と違って豊満でもどこか子供っぽいイチカ先輩ではあんまりそういう派手なアンダーウエアは似合わないかなあ、でも身につけてくれたらやっぱり印象、変わるかも。是非に。でもって下僕となって派遣された先で「ドラゴンボール」に良く似た漫画をネタに語り合ったイッセー。相手もよくまあ受け入れたけれども、語りたいものについて語れることの方が、小猫ちゃんにお姫さまだっこされることにも劣らずオタクにとっては楽しいのだ。さて次はいったいどこへ行くイッセー。文庫最近あんまり追いかけてないからなあ。読み直すか。

 これが10年経ち、30年経ってその日がひとつの象徴となった時点で福島県内において原発に反対する集会を開いて、それが始まった時を思い今なお続いているだろう戦いを鼓舞するなり、過去の過ちを思うなりするのはあるかもしれないけれどもまだ1年、そして今なお行方不明になっている人たちが大勢居るこの3月11日に、まずもって東日本大震災で亡くなった方々を悼み、行方不明になっている方々の発見を願って黙祷し、静かに被災地を偲ぶのが、人間としてやるべきことだったりするんだろう。高らかに声を挙げるなんてもってのほかだし、その対象が反原発のみというのもやっぱり違う。考えれば理解が及びそうなところに、なぜか理解が及んでいない人たちがいたりするのを見てちょっと、不思議な気分を持ってしまった今日この頃。それだけせっぱ詰まっている人たちもいるって現れなんだろうけれど、でもやっぱり省みて、見渡して節度というものを感じて欲しいものだよなあ。こと表現規制に対して強い反対の意を持ってくれている人だけに、違うところで足を引っ張られて欲しくないんだよなあ。


【1月18日】 本気なんだろう。書くことに対して本気なら、書いたものに対しても本気であって、そんな本気の文章が、世に出て読まれてそして芥川賞の候補になった時に当然、受賞すると思ったんだろうけれども過去、4度は選考委員たちの気持ちにそぐわず落選落選落選落選。自分の本気が受け入れられない苛立ちを一方に抱きながらも、自分は本気なんだからいずれ当然のようにという気持ちが、本当になった時に出てきた言葉はだから「当然」。そのほかにないっていうのも、そう考えれば理解できる田中慎弥さん。

 シャーリー・マクレーンを引き合いに突っ返してやろうか、でもそれだと都政に関わると行った言葉を発して賞を受けるといったその態度に、不遜さを見て不機嫌さを感じてキャラ立てようとする動きがわんさかあって、その結果が今朝方の一般紙の芥川賞の受賞者で、円城塔さんではなくって田中さんの方がメインに取り上げられ、コラムの「人」になるって展開につながったんだろうけれどもでも、そんな受け止め方が田中さんの「本気」を果たして真正面から受け止めたものだったのか? なんてことを考えたときに不思議が付きまとう。

 そもそも「不機嫌」といったレッテルが、その心境に達していない。傍目にはそう見えるけれども当人はどうして不機嫌だったのか、それは別にキャラを立てようとしていたんではなくって「本気」がやっと当然のように受け入れられたことに、いささかの苛立ちを感じていたから、なんじゃなかろーか。つまるところはその当然を当然と、受け入れなぜ当然なのかという部分でぶつからなければ、相手の言いなりになってしまうところをメディアはするりと抜け、ああ当然なんだよね、それで不機嫌なんだよね、といった感じに傍目から斜めからそのキャラだけを捉えて報じている。それは絶対に実態を、実際をとらえていない。

 だから審査員の意見がどうだったとか、そのキャラがどうといったところでしか、対立軸を描けず面白おかしい感じにしか賞のことを報じられない。田中さんが「とって当然」と言い放ったその作品が、本当に「当然」なのかどうかといった議論にはいかないし、それに受賞させた選考委員たちの文学観がどうだといった議論にも向かわない。石原慎太郎さんも小説家というより一言居士な爺さんといったキャラでもって語られ、取り上げられては話の中に取り出されてしまい、どうして過去に賞が与えられなかったものが今回の受賞になったのか、そこで小説家としての石原慎太郎はどう関わっているのか、といった本質へとは誰も迫ろうとしていない。それでいったいどうして「当然」の真意を探れるのか。だから書くしかない。「不機嫌」とキャラの表面だけで。

 それでなるほど社会はわいて人は田中さんなりその作品に興味を持つかもしれない。それで出版社は万々歳かもしれないけれども、そんなキャラを立て作品を蔑ろにして持ち上げる風潮だけが、ただひたすらに蔓延して広がった結果がいまのこんな真ん中が、本質がぽっかりと抜けてしまっている不思議な状況。それは文学に限らずあらゆるジャンルで行われていて、些末な言質が決定的事項のように取りざたされては大臣が辞め総理が辞め社会が停滞して誰もが本気に何もやろうとしなくなる。拙いよなあ。

 でももはや改められない。戻れない。真っ当に真っ直ぐに真剣に本気に、すべてを取り上げ議論する方法もわからないし、そうした本気を受け止め返す態度もわからない。それを面白いし大切だという感情もスポイルされてしまっている社会はだからこのまま些末な、上っ面だけのゴシップが横行して気がつくと足下になにもない、ただ大穴だけがぽっかりと開いている社会になっているんだろう。すでになっているか。嗚呼。

 そうそうそんな石原慎太郎さんがいよいよもって芥川賞の選考委員を降りるとかどうとか。訳の分からない円城塔さんに賞を出すことに反発したのか、それとも記事に出ているように自分を震撼させる作品が出てこないことに飽いたかは知らないけれども、いわゆる“老害”的にとらえてそれが排除されることを面白おかしく考えるか、というとやっぱりそれも違うような気が最近してる。こと文学に関しては石原さんも自分なりの文学観があって、それを拠り所にして芥川賞の選考に臨んでいただろうから。

 つまりは「本気」だった訳で、そんな本気が受け入れられない、あるいは状況とぶつかることに悲憤し悲嘆したという状況を、語るならばやっぱり彼の文学観と、いまの文学的状況の差異そのものを語り分析することが欠かせない。円城塔さんの作品への理解の有無を一切無視して、田中慎弥さんに挑戦的な言説をはかれたからといった、まるで見当違いの見方を報じつつ、世代論的なゴシップとして語り流すべき話でもないような気がするんだけれど、そうはならないのがやっぱりいまのメディア状況。そこに本質はあるのか。そこから本気は生まれるのか。考えないといけない時期に来ているよなあ。

 オートレーサーの坂井宏朱さんを悼んで、船橋オートレース場にいた同期の4人の残る3人が、前日からの泊まりの部屋に4人部屋をもらってそこにあつまり、誰もいない1つのベッドに枕を置いて亡き坂井さんを偲んだといった記事を読んで、妙に泣けてしまったのと同時に、そういえば「あなたが空へ帰る日−ヘリコプター事故で逝った妹へ。−」という本があったなあと思い出した。シンガーソングライターの宇井かおりさんが、愛知県の山にヘリコプターが落ちた事故で亡くなった妹への思いと綴った本なんだけれど、そこにも遺骨となって戻ってきた妹を、家族が迎えていっしょになって眠る描写がある。  「その夜、父と母と私は、昔のように布団を川の字に並べて寝た。もちろん、ちはるも一緒だ。『甘えんぼだで、淋しがるだろ』と言って、父は寝室のテーブルの上に骨壺から遺影から何までを全て持って来て並べた。『かおり、夜中に寝ぼけてひっくり返すなよ』……夜中に何回もお手洗いにいくのは、お父さんでしょうが。久し振りに、四人一緒に眠った夜だった」。逝く人の抱く刹那の痛みや悔しさも、生きている僕たちの想像を超えるけど、残された者たちの抱く寂しさや悲しさや怒りや苦しみは、その人たちが生きている限り続く。むしろ喪った悲しみは、残る者たちのためにあるとも言え、同じようにいまを生きていろいろな喪失を経験したり、想像してる自分たちの悲しみを誘う。

 そんな諸々の思いへの共感が、世界から悲しみを減らしなくす方向へと働けば、世界から悲しいことは消えるだろうにと思うけれども、ままならないのがこの世界。悲しみを忘れてしまったり、憎しみが上回ったりしてなかなか連鎖が止まらない。そこでも「あたなが空へ帰る日」を読んで思ったことが頭をよぎる。宇井かおりさんの家族は、妹のちはるさんを奪った空への憎しみを見せていない。本当にやりたいと思って進んだ道にあった危険、それに遭遇して喪った彼女を悲しいとは思いながら、それで空を憎むのはちはるさんの思いにそぐわないと考えたのではないか。坂井宏朱さんの家族が何をどう思っているのかは分からないけれど、娘が情熱をかたむけ進み愛したその場所を、嫌いにならないで欲しいとは願う。悲しみを抱き憎しみを埋め喜びを与えて生きる。その道を探り続けることでしか、僕たちは喪った人たちの思いに報えないし、これから生まれてくる人たちの願いをかなえられない。

 まさかそこまで真剣だったとは西川貴教さん。去年から始まった若手アニメーター育成プロジェクトの第2回目に応援団長として就任が決まって登場した発表会で、語るのはいまのアニメーションを取り巻く状況の至らなさ。クリエーターが喰うに困るような状況があり、だからといって国内ではまかなえず海外のクリエーターを使わなくてはいけない状況を認識した上で、その重大さにどうしてもっと気づかないのかってことを等々と語る。司会はもっと楽しくアニメのネタに絡ませトークを流したかったのかもしれないし、その方が見ている方も嬉しがったかも知れないけれど、当人の問題意識がそうした線でのトークをさせなかった。

 誰かを楽しませたい、喜ばせたいという大前提を置きながらも、人気のひこにゃんが彦根市のイベントだけにしか出せないというのはどいういう訳だと、滋賀県の観光大使か何かをしている経験から語る西川さん。縦割りで縄張り意識の強い社会の仕組みが、誰もが喜び嬉しがるだろうエンターテインメントを疎外している。それはだからアニメの海外展開なんかにもあることといった見方を、傍目には一介のミュージシャンにしか見えない西川さんが立て板に水と語った姿を見て官僚は、役人は何を思ったか。思ったのなら何課すべきだし、思わなかったら思って欲しい。熱い男だ西川貴教さん。


【1月17日】 気づいたのは「千葉県立海中高校」だったからデビュー作の「浜村渚の計算ノート」の頃から10カ月ほど遅れるけれどもそれでも当時はまだそれほどの知名度って訳ではなくって、ほどなくして出た第2弾の「浜村渚の計算ノート 2さつめ」を手にとって面白がって第1弾も探してなくって取り寄せて読んで、これは良いとミステリマガジンなんかで紹介してからかれこれ1年くらい経ったのか。文庫版で出た「浜村渚の計算ノート」の第1巻があちらこちらの書店で評判になって増刷を重ねる中でじょじょに知名度をアップして、第2巻の文庫版の登場では遂に「IN・POCKET」に写真付きのインタビュー間で乗ってしまった青柳碧人さん。そうかそういうお顔の人だったのか。

 意外だったのは社会の塾講師であって数学ではなかったってことだけれどもそれでもあれだけ書けてしまうのは塾が数学に力を入れていたこと以上にやっぱり、数学には興味をそそる何かがあってそれにクイズな人として、のめり込んでいったってことなのか。ともあれこうして世に出て広まり第3巻の文庫化も、第4巻の文庫書き下ろしも決まってシリーズ化が果たされたのは嬉しい限り。講談社バースってそれこそ1冊出てはあとは何処へって作家の人が多くって、若い作家を発掘して育てる場所としてあんまり機能しなかった。そんな中から1人でもスターが出れば世間の注目も集まって、知られざる傑作が掘り起こされる可能性もあるからなあ、そんな作品がどれだけあるか、ってのは流石に読み切れてないけれど。蟻沢ナツさんの「草 愛づる」は良かったぞ。

 いっそそんな流れで「浜村渚の計算ノート」のドラマ化なんて行ってほしいんだけれどもまだ具体的な動きが見えないのが残念というか、最初に候補に勝手に挙げてた松井珠理奈さんも、今なお中学生ではあるけれど、そのうち渚ちゃんの年を追い越してしまうからなあ。仙台出身で新しいドキュメンタリー映画では研究生から登場している岩田華怜さんならまだ大丈夫か、ちょっと明るそうな彼女とどこかおどおどしている渚とはタイプが違うかもしれないけれど。一方で角川書店から新刊がまた出て、それから講談社ラノベ文庫からも出てさらに講談社から書き下ろしも1冊といったいどれだけ新刊が出るんだ青柳碧人さん。それらが割に早くに評判になっているところを見るとこれは遠からず流行作家の仲間入りをしていってくれるかも。その勢いで「千葉県立海中高校」の実写映画化を。あるいはアニメーション化を。あのラストシーンに僕は泣きたい。

 全然知らないけれども高橋拡那さんって人の「銀河六巡り」(エンターブレイン、620円)って漫画を読んだら面白かった。熱血系っぽい絵柄の妙な懐かしさもさることながら、冒頭の短編では老舗のロウソク職人の家に生まれた娘が取引先の息子と見合いしに行ったらこれがとてつもない強面で、臆していたらなぜか相手は純情一途な高校生、昔っから親に連れられロウソク屋に行き娘を見初めていたそうで、そんな思いが発露し純情さも伝わってそれなりな仲になていく。ちょっとオールディーズな展開が、昔っぽい絵柄によって綴られ妙な懐かしさを感じさせる。あとちょっぴりの圧栗示唆も。

 ゲームをやりに行った家で改造魔が繰り出すゲームをそれでも頑張ってクリアしていく少年の側と、そんな少年によって操作されるゲームの中が順繰りに描かれ、勇者とお姫さまとがいい仲になりそうなところで改造が祟ってフリーズしてしまう展開の話も愉快だし、乱暴な兄貴を縛って制裁をしようかと悩んでた子どもたちの家に本物の強盗がやってきて大変になってしまう話も面白い。でもやっぱり1番は学校中の女子に告白してはふられた少年が、最後にのこっていた1人でその振る舞いから裏の番長じゃないかと噂されている女性に告白しようとして、そのおしりを触ってしまったらなぜか女性がテレポートしてしまうという不思議な展開が待ち受けていたエピソードかな。どうしてお尻を触るとかって思い試してみたくなる心理も分かるけれど、それ以上にあの柔らかいお尻に触ってみたいという心理も分かる。少年の場合はどっちなんだろうなあ。

 台湾からの留学生がアパートで暮らしていたらなぜかアパートが巨大なロボットになって、おなじアパートの中にの美女といっしょに操縦する羽目になる、というエピソードは展開もぶったまげているけれど、そんなバトルの目的ってものが別にあったりして大家さんの乱暴だけれど住民思いなところにちょっとほだされる。そんな人がいるアパートに暮らしたいなあ、もちろん美女が暮らしているってことが最大に最重要なんだけれど。そんなこんなで不思議なエピソードを6作品集めた短編集。タイトルの「銀河」の何が銀河なんだろうかと考えたけれども漫画の世界はギャラクシー、深淵にして広大な思考を与えてくれるフィールドって意味でそれらをめぐる物語ってことで「銀河六巡り」なんてタイトルになったのか違うのか。どっちでもいいや面白いから。龍山さんのお尻ってどんな触り心地なんだろうなあ。なあ。

 SFが芥川賞を受賞する瞬間を見ようと向かう途中の三菱一号館美術館でオディロン・ルドンの展覧会。12月の終わり頃に名古屋に帰ったついでに岐阜に行ったんでせっかくだからと岐阜県美術館に行ってルドンを見ようとしたら常設展示室が閉館中。何があったんだと思いつつ仕方がないと諦め帰ったら難だ東京に来ていたよ。改修中の岐阜県美術館に代わってルドンを全国に回しているそうでそれがまさに東京にやってきていた。何度も通って見たスフィンクスだとか眼球の気球だとか笑う蜘蛛だとかのエッチング作品に、パステルか何かで鮮やかに描かれた花の作品なんかがわんさかあって嬉しい限り。なおかつ岐阜県美術案とは違ったふるい雰囲気のある建物なだけに、描かれた時代を思い出させてくれてついつい長居をしたくなったけれども次があるんでそそくさと退散。また行こう。

 でっかいグラン・ブーケはまるでマンモスフラワー。ルドンの花って何か種類を緻密に再現するってよりは花そのものの形色彩をそこに現出されたって感じで、それの巨大な絵はだから迫ってくるような花のパワー。下に立って見上げていると本当に自分が小さくなってアリエッティになって花の下を歩いているような気にさせられた。ずっと眺めていたいなあ。今度行ったらそうしよう。せっかくだからとミュージアムショップでルドンバッチを購入、眼球気球と笑う蜘蛛。岐阜県美術館で売ってる品か何かかな、でも20数年前はなかった記憶。だから今回は初見。なかなかルドンっぽい。鮮やかな花はバッヂにはしづらのかな。グラン・ブーケの実寸大のタペストリーとか作れば人気出そうだな。

 そしてニコニコ生放送がでっかいブースを隅っこに構えた直木賞と芥川賞の会場に入って待つことしばらく、まずは葉室麟さんが「蜩ノ記」で直木賞を獲得してわいたら間もなく芥川賞で遂に円城塔さんが「道化師の蝶」でもって受賞を成し遂げた。加えて田中慎弥さんも「共喰い」でもって同時受賞。話題の2人がしっかりとってこれで賞レースを抜けたんで、残る席には果たして誰が座るのか。もしかしたら取りやすくなった? そうでもないのが文学だからなあ。自分には縁遠いので遠目にみつつむしろ直木賞でSFが取ることはあるのかを見守ろう。恩田陸さんは残念だったけれどもきっとまたある。あとは森見登美彦さんか。山本周五郎賞を取ってしまっているから無理か。誰か居るかな。居るけど気にされないことが問題なんだよなあ。


【1月16日】 船橋オートレース場がある船橋市に20年以上も住みながら、むしろ目を向けていたのは川口オートレース場に所属の佐藤摩弥選手の方で、やっぱり川口で活躍する森且行選手の動向を追いながら、いったいどれだけの成績を残しているんだろうと個人プロフィールのページをながめ、割と1着をとっているその実力に感心しつつ、最近はそうか怪我で少し鮮烈から離れているのか大変だなあ、でも森選手だってデビュー前の走行練習で大けがを負って養成所を出るのが少し遅れたんだっけ、それでも勝ち抜いてクラスではトップのS級まで来たんだ凄いなあ、佐藤選手も怪我が治ったらまた走ってそして1着をいっぱいとって、A級からS級まで来てほしいなあ、なんてことを思っていたところに飛び込んできたのが、佐藤選手と同期でオートレーサーになった、坂井宏朱選手の訃報だった。

 JTBで働いていたのをオートレースに興味を惹かれ、選手に憧れてオートレース入りを決断。高い倍率をくぐり抜けて養成所に入り、そこでの訓練にも音を上げないで卒業を果たしてプロのオートレーサーになったからには、それ相応に優れた技術と、何より度胸を持った人だといった羨望を抱いてた。だって150キロとかの速度でオーバルコースをぐるぐると周り、抜いた抜かれたを繰り返すスポーツ。運動神経の良い森選手だって怪我をするし、過去に何人もの死者も出している過酷な世界に、飛び込み選手として活動するのはもうそれだけで普通の人とは違ったものがある。だから凄いと思ったし、その後にちゃんと1着も1回だけながら得ている活躍ぶりに、これからちゃんと伸びていくんじゃないかって、そんな期待も持っていた。それが。

 レース中ではなくって練習中の事故死とは。その日のレースでは多くのハンディを貰っていたとはいえ、しっかり6着に入りタイムもベストを叩き出していた訳で、年が明けて少しづつだけど進歩が見え始めた矢先、練習中にすべり当たったフェンスに跳ね返されたところに自分のバイクが突っ込んできて、激しく体を傷つけられたという。転んだのは仕方がないとして、そこにバイクが突っ込んでこなかったら、果たして命に別状はなかったのかそれとも最初の一撃が、大きなダメージを与えていたのか。分からないけれども、もしかしたら大丈夫だったものが、ちょっとの加減で不幸の側へと落ちてしまったかもしれず、そんなところに運命ってものの残酷さを感じて歯噛みする。やってしまった瞬間、そしてぶつかるまでの刹那、よぎった様々な思いは何だったんだろう。“その瞬間”の心を引っ張り出して噛みしめることは他人には出来ないけれど、想像するだけで自分も悔しくなってくる。

 本人も悔しかっただろうし、師匠となった永井大介選手も残念だろうし、娘を送り出した両親に悲しみと悔しさが浮かんで当然。誰にだって起こり得る可能性もあった事故だという意見もあるにはあるけれど、それでも亡くなるのは何年かに1度であって、それが今、ここで訪れてしまうということへの不幸を嘆いて何の不自然もない。プロとして至らなかったとは思わない。だってことまでちゃんと走ってきたんだから。これからを感じさせてくれたんだから。でももうかなわないことがやっぱり悲しい。出来ることはだからやっぱり選手の安全対策ってことになるんだろう。ロードレースとはまた違った、より強靭なヘルメットの規格なり、全身を保護するプロテクターの向上なり、フェンス等ぶつかりそうな場所への手当なり。そうやってリスクを極力まで軽減して、こうした事故が起こるのをもう二度とないように、誰もが進んでいってほしい。それがせめてもの手向けになるのだから。合掌。

 こっちではチアキ・クリハラがややドスの利いた感じで新しく海賊にさせられそうになった途端に襲われ逃げ出した加藤茉莉香を相手にいろいろと言い聞かせていたりした、そんな一方では千石撫子が気弱でおとなしめな癖にところどころ大胆な性格を魅せていたりしていったいどっちが本当の花澤香菜さんなんだと悩むけれどもそれは神原駿河として美少女なのにあけっぴろげでおおざっぱなところを魅せながら、笹田純として委員長然としてちょっぴり抜けたところもあったりする眼鏡っ娘を演じている沢城みゆきさんにも言えること。同じシーズンに声優として登場してはさまざまな声を演じ分けてみせるそのプロフェッショナルな仕事っぷりを、楽しめるのも日本って国の抱負にふんだんにアニメが作られていることの楽しみな部分か。

 そんなひとつの「モーレツ宇宙海賊」は、無重力の船内を女子高生たちが上に下に右に左にスカート姿で移動しながらもまるでチラリとも見えない徹底ぶりに、お嬢さま学校に通う生徒たちの身持ちの硬さを感じたり、いや違うか。前回が海賊の後継ぎだと突然に利かされながら、アルバイトに行った先で何者かに襲われ、逃げ出したところでひとまずの終幕、後は続きでってことになって今回は、襲われて家に帰って母親から銃器の扱いを教えられ、そしてヨットで航海に出ようかってところで仕掛けられた電子戦にさあ挑む、ってところで引き。ケリをつけて次はまた、っていった作劇ではなく引きで引きでと興味をつなげて全体として1本のストーリーに連なるような、そんな話にしようとしているんだろうか、まあでもそれだとやっぱり見ないといけないって思うから。でも電子戦なら凄腕がひとりいたんじゃなかったっけ。いずれ乱入してくるのかな。それよりミニスカ宇宙海賊な姿はまだ見せないのか。待とう期して。

 第3巻で完結した六塚光さんの「ブラッド・スパート」(幻狼ファンタジアノベルズ)は特別な煙草を吸って吐き出した煙を何にでも好きな形に変えて物理的な存在にして相手を攻撃する力を持ったトロイが、事件に巻きこまれ疑われ逃亡した先で、新たに世界に脅威を持ち込もうとする勢力と対峙し戦うって展開に、戦友だったけれども死んでしまった男の子どもたちから、親を殺した犯人と疑わるエピソードが絡んでくんずほぐれつとなった果て、かつて敵対していた都市のリーダーとも仲間になり、向かった先で驚きの存在を見えそして、それとないハッピーエンドを迎える。なかなか読後感の良い物語だった。悪は悪として倒されるし。そして眠り姫然とした女性の、力をふるって世に出て暴れ回りそうな予感に夫の苦労も偲ばれたり。面白いシリーズだったなあ。幻狼ファンタジアノベルズのって来てるなあ。

 AKB48のドキュメンタリー映画「DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見るを試写で見て泣かされた。冒頭からぐっときた。どうにも乗せられ作られたアイドルって印象があったAKB48だけれど、その真剣さ真面目さ愚直さ真っ直ぐさがくっくりと描かれずっしりと響いて来た。御輿に担がれ大人に動かされているアイドルじゃないと分かった。西武ドームでのライブの裏舞台でまるで戦場のような中を初日の至らなさをカバーして2日目3日目に来た人に満足を与えようと頑張っている姿に打ちのめされた。総選挙という傍目にはただの人気投票でもそれに全霊をかたむけ己のすべてをそこに賭け、挑む面々の真っ直ぐさに笑ってられないと思った。

 いっぱい評が集まって世間的にも話題になるAKB48の総選挙の人気ぶりを、無関心さに埋もれてしまっている今の政治に生かせとか、じゃんけん選抜のイベント性を社会の活性化に用いたら良いんじゃないかとか、そんな言説もあって真剣味を持って語られたりするし、語りたくもなっていたけど、ドキュメンタリーを見れば何を上っ面だけ見て浮薄なことを言っていたんだと反省した。そんな風に応用されるいい加減なものではなく、それそのものに真剣に挑んでいる姿を彼女たちから感じて、政治も選挙もAKB48の仕組みを借りるんじゃなく、その真剣に真っ直ぐに前向きに挑み生きる、その生き方を、生き様を見て学びなぞるべきだと思った。真面目さを取り戻し愚直さを励行することで、社会は、世界は前へと進むのだ。動き出すのだと知った。

 目の前のことにひたすらに真っ直ぐに取り組み、ひたすらに真剣に挑み、ぶつかって跳ね返されても諦めず、ただただ愚直に生きていく。そんな姿勢があったからこその成功で、成功を背景にした様々なイベントも成り立つ。それを忘れてお遊び感覚、バラエティ感覚で世の中のすべてを捉え伝えようとする風潮が、蔓延してしまっているところにこの妙な閉塞感、倦怠感があるような気がちょっとしてきた。思うに今のテレビもあるいはスポーツ新聞も、真剣を真正面から真剣として報じ伝えることが苦手というかやれなくなっている。バラエティなりお笑いの斜めから後ろから笑いに紛れさせ伝えることで受けを取りそれに偏ってしまった結果、真剣さ愚直さを伝える術を失っている。そんな印象が色濃い.

 ニュースだって民放の夕方のニュースも結局はワイドショー的だし、何だって伝えられるネットメディアも、見出しの受け狙いにヒット率を見出しそっちに走って戻って来られなくなっている。NHKにはまだ真剣さがあるから、最近は何をやってもNHKが一人勝ちってことになる。映画はだから愚直さ真剣さで客を呼べるメディアで、だからこそこいうしたAKB48の真剣さのみを伝えるドキュメンタリーが成立する。これを民放でやったらきっとコメンテーターの雛壇を入れて感動と笑いに埋もれさせただろう。それでしか数字をとれないと思っているんだ民放は。違うのに。そんなの誰も見たくないのに。

 だひたすらに真剣さだけがぶつけられるライブにだから、人が集まるようになっている。いい加減さではダメ出しされる場所。そこに多くの人が集まり真剣さに触れたいと思うようになって、ライブエンタテインメントが賑わっているというのも何となく分かる気が。お笑いだってライブの真剣さに触れる方が多分楽しい。AKB48場合はそんな真剣さの裏に、なおいっそうの愚直さがあるってことがドキュメンタリー映画から分かって、もう浮ついた気持ちで向き合えなくさせる。人気者だねえなんて斜めに構えた気持ちで対峙できなくなる。今はそういう気分でいるマスメディアの人間たちも、ドキュメンタリーを見れば背筋を糺して向かい合い、受け止め報じたくなるだろう。そういう意味でもこのあたりで次のステージにAKB48を上げる映画になっているって言えるかも。すべてのクリエーターは見て真っ直ぐな物作りの必然を知ろう。あらゆる人間は見て愚直な生き方が道を開き前へと向かわせると感じよう。


【1月15日】 なんかコンピュータに将棋のプロ棋士が負けたとかって騒いでいるけど誰かと思ったら米長邦雄永世棋聖でそれってつまりは現役棋士が負けたってことじゃないじゃん。2003年に引退した当時だって全盛期とはいえなかった人がその後のひりひりする勝負から遠のいていて、最新の手を研究しきったコンピュータに勝つというのがそもそも無理。あとコンピュータ将棋の勝負のルーティンといったものを研究して、そういうときはそうなるってことを読んだ上で差してこそ成り立つ勝負でもあったのに、そうしたAIのプロを招いての研究とかはしてなかったんじゃなのかなあ。本当の意味での現役棋士ならそのあたりもしっかりやっていていたはず。そうじゃない老棋士が破れてそれで将棋界が云々と問われることを、現役のプロ棋士たちは何と思っているかなあ。羽生さんあたりがズバッと言ってくれないかなあ。

   でもって録画してあった「妖狐×僕SS」のアニメーションを観たらヒロインが小さくて小さくて小さい割にちゃんと開けたシャツの胸元にほっこりと見えた。女の子ってやっぱり女の子で出来ているんだなあ。そんな話は妙なマンションにやってきた少女が妙な青年に傅かれ妙な住人たちがいてそこに紛れ込んだ強盗が、妙すぎる奴らにこてんぱんにされるという話。前提もなく説明もたいしてないまま進んでいるけどまあ、そういうところから状況をつかむ術に深夜アニメファンは長けているんでそういうものだと思って見ることにしよう。でも「境界線上のホライゾン」だけは一見さんではそこで何が起こっているかは理解不能だっただろうなあ。見終わってもやっぱり不能だけれどそれを勢いで通し、文庫本を買わせるパワーにつなげたアニメの制作スタッフはすごかった。「妖狐×僕SS」はそんな感じに単行本を動かすか。

 寒さの中を出かける用事もあったんで、せっかくだからと柴又に寄って帝釈天を見物。ひところは寅さん一色だったけれども最近は、高砂から金町の間を結ぶ電車に両さんたちが描かれているほど「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の色も出てきた様子。亀有がメーンではあっても寅さんが柴又に縁のある人ってことでこうしてもり立てられているんだろう。電車の横には両さん中川が描かれていてその中には麗子もあって、各車両ごとに違うビジュアルでファンとしては嬉しい限り。初登場時からだいたい35年くらい経っても当時と変わらないあのボディスタイルは男子すべてにとっての理想。ボンと出てキュッと締まった姿を見るほどに近寄りたい抱きしめたいと子供心に思っていたらそんな出会いも皆無のまま、両さんの年すら上回ってしまったよ。泣きたいけれどもそれが現実。仕方がない。ああ仕方がない。

 しかしこうして今なお元気に健在な「こち亀」人気を見るほどに、フジテレビはどうしてアニメーションの放送を止めてしまったのかなあという思いも募る。そりゃあ「サザエさん」「ちびまるこちゃん」ほどの数字はとれなかったのかもしれないけれど、他のどうでも良いバラエティを放送するよりは確実に数字を刻んでいけたはずだし、どんな世代にもアピールできるってことで「水戸黄門」のような時代劇よりも効果的なコンテンツなはず。テレビ局がお金を出して番組として制作して、その良さでもって視聴率を稼ぎ広告枠の価値を上げ、スポンサーを募って収益を稼ぐモデルが成り立つような気もするんだけれど、今時のテレビ局はそうやってアニメを番組として作って流すものじゃなく、ソフト会社の商品として作ってもらったものをお金をもらって流すものだって考えている感じ。

 深夜枠ならなおさらでそうして作ったものを自分たちで激しく宣伝して広めようってスタンスが見えない。そんな雰囲気に染まってしまった今になって改めて、数字がとれるコンテンツとしてアニメをもう1度育てていこうって考えは生まれないんだろうなあ、でも日本テレビ放送網は関連会社のバップと組んで「ちはやふる」をやっているしなあ、だから視聴率で3冠がとれるのか、誰かのために作るんじゃなくって皆のために作るんだっていうテレビ屋の意識がちゃんと残っていたりするから。ともあれそうやって失った「こち亀」はTBSでドラマ化された挙げ句に引っかき回され何か終わってしまった感じ。ちょっとやそっとじゃ立ち直れそうもないだけに、再びのアニメ化ってのも苦しそうだけれどもこのテレビ停滞の時代に何か、って考えた時に浮かんで来る作品でもありそう。だからちょっとだけ期待。

 お参りをしておみくじを引いたら凶だったんですぐさま縛って帝釈天を後にして、それから夕方まで時間を潰してニコファーレにてニコニコ動画の発表会を見物したら長すぎた。1時間半くらいで終わる予定が2時間越えても終わらずそのままさらに時間を越える盛りだくさん。それだけのことをやってやりきれるだけのサービスを、持っている企業ってことになるんだろうけれどもそれが世の中的にどれだけ影響を与えているかっていうとそんなんでもないところに、狭い範囲あるいはマスとは隔絶された場所での圧倒的な支持って奴を、集める世界があるってことが見えてくる。あとそれでちゃんと儲けられるってことも。

 とりわけ凄かったのが4月のゴールデンウイークに幕張メッセを借り切って繰り広げる「ニコニコ超会議」。ネット上で繰り広げられている歌やら踊りやら工作やら何やらがどわっとリアルに集まって、そこで見せたり見せられたりするっていうもの。ネット上で繋がっている人たちが、リアルにいったいどれだけの興味を示すのか、ってところが見えないんだけれどもネットであっても繋がりたい人たちだからこそ、リアルにそんな場があれば生きたいって思うのもあるいはあったりするのかも。2時間半とかに及んだ発表会を狭いニコファーレでぎゅうぎゅう詰めになりながら、聞き入っていたりするくらいにリアルの場に群れたい気持ちはあるってことで、そんな人たちがもっと大勢、お祭り気分で集まり見せる饗宴が、どんな姿になるのかを行って見てみたいもの。とはいえ4月の末だからなあ、消息どうなっているのやら。まあ家だけは近くなんで生きてても死んでてものぞきに行こう。


【1月14日】 そうだった「コードギアス 反逆のルルーシュ」がパチスロになるとかで、個人的にはあの界隈が持っている、法律の適用内を組み合わせることによって遊んだ結果をお金に返られるようにしてある仕組みの微妙さが、激しく苦手でそういった分野に大好きなコンテンツがそういったものに使われることに気持ちの落ち着かなさを感じているけれどもそういった展開が、生み出すマネーがあるいは新作なり新プロジェクトなりに回っているといった見方もできるとするならば、名を売って実を取ることもやむなしといったところなのかもしれない。単純無比に利益が欲しいってんじゃあそれはね、ちょっとね、やっぱりね、いやだよね。

 Twitterとかネット周りで現れる広告にあのフランソワーズ・アルヌールちゃんことサイボーグ003が描かれていていよいよ新作も世に出回り始めているのかと喜ばしく感じる一方で、せっかくのキャラクターをあちらこちらの企業にバラ売りして出稼ぎさせている印象が、ついてしまってそんな出稼ぎアルバイト戦士たちが、いざという時に集まって戦う姿にヒーローでありヒロインっといった憧れを前みたく投影できるのか、それとも所帯じみた兄さん姉さんが頑張っているなあと妙に同情めいた思いを抱くのか。あちらこちらに登場させるのも宣伝としてはありでも価値の保持って意味ではちょっと毀誉褒貶。

 そんなスタッフサービスのウエブアニメで003が頑張りすぎたところを見せては妙な笑いをとっている。一斉に鳴り出す電話を得意の聴覚でもって聞き取り聞き分けては的確な指示を出す。その完璧さには頭がさがるけれどもやっぱりもっとちゃんとした場所で使わせた上げた方が良いんじゃなかろーか。廊下で向こうから歩いてくる偉い人の靴音を聞き分けついている上司と出会い頭にごっつんことならないようにあらかじめ上司を眠らせるとか、ってそれもやっぱり方向性が間違っているなあ。そういう意味合いでは面白いアニメで続きが見たいけれどもでも、あれだけ膨らんだ胸が手を挙げたり、振り向いたりした時にみじんも揺れないのは何でだろう。首からかけているIDカードは動きにともない触れてそして跳ねるのに。跳ねる。つまりは胸板が固いってことか、揺れないほどに鉄板ってことか、サイボーグ、やっぱり体は鋼鉄か、なあ、おい。

 せっかくだから東京国立博物館で中国の国宝でみ見ようかと上野に行ったら会場に入るのはすぐだけれどもそれを見るのに210分、すなわち3時間半とかって表示があって諦める。さすがにそのためだけに時間は使えないので平日の朝早くに頑張って行って見てこようかどうしようか。中国に行って直接見るのがあるいは早いのかな、北京まで4時間くらいだったっけ。仕方がないので上野を出てアメ横あたりを散策、いつもながらに大勢の人で今が不景気だといった雰囲気はまるで感じないけれども細かく見るとやっぱり違うのかな、前に比べて同じ値段で海産物とか小さくなったっていうし。3袋4袋と重ねてまとめてもってけの珍味も袋が1つ2つ減っているのかな。この30年の上野アメ横珍味の袋数の推移とかどっかにデータ、ないのかな。

 ドトールとかタリーズとかが一時はメインだった原稿打ち場が最近はミスタードーナッツに。新橋の高速高架下にあるミスドは銀座から近い割に休日の午後でも比較的すいていて、行けばいつも満杯なスターバックスとかに比べて座りやすいのが放浪オフィスな人間には嬉しい。秋葉原とか外神田とかのVELOCHEなだだいたいすいているけど今日はそこを通るルートで動いていなかったんで仕方がない。んでミスドではやっぱりオールドファッション。あの四角くってかりっとした歯ごたえが昔食べた自家製ドーナツっとかに近くって懐かしくって好きなのだ。昔風だからオールドファッションっていうんだけど。あとはフレンチクルーラーが好きなんだけれど○が連なったポン・デ・リングも目に入ると気になる。中にライオンとか描かれてそうで。西原理恵子さんが人生画力対決でもネタにしてたしなあ。あのヌけた可愛さが受けているんだろうか。とかどうとか。

 周囲に人がいっぱいいて喧騒の中で原稿がよく打てるとかって言われそうだけれどもこちとらかれこれ24年とか周囲に人がいっぱいいるなかで記事を隠し事を続けているんであんまり気にならない。頭の中で文章を考えたらそれをダイレクトに指へとつたえてキーボードを押し文章にする。それだけのことに静音であるとかいったことはあんまり関係ない。試験でだって周囲に雑音があってもやっぱり平気にこなしてしまいそうだけれどもセンター試験の子供たちのために静かな環境を、ってな声がちょぴりわき上がっていて、そういうものなのかなあと思ったりもした次第。

 なるほど反原発でもデモの連続する騒音は割に気になるけれど、そういったデモが近くを通るって宣言した訳でもないのに先んじての嘆願は、やっぱりどこか繊細に過ぎるマインドを感じさせる。それはそれで抑えるならまだしも犬の鳴き声は気になるから試験中は近くを散歩させるなとか、電車はうるさいから試験中は路線を止めろ、なんて声を呼び込んでは無茶すぎるだろうって反発も生んで、面倒な論議ってやつを引き起こしたらちょっと逆効果、どっちにとってもあんまり良い心理を呼ばないんで冷静に、是々非々で論じ遭って欲しいもの。んで結局デモ隊はセンター試験の会場のそばを通ったの? カラスの声よりもかすかに、遠くを通った声が風に乗って聞こえてくるのもよろしくないの? むう。

 誘っていただき渋谷wwwって元々はシネマライズって映画館があった場所を使ったライブハウスに黒崎真音さんのライブを見に行く。座席はとっぱらわれているけれども段差は残っていて後ろの方に入っても前に背の高い人とか立たなければステージが下にあってちゃんと見えるのが嬉しい、かな。でもそんな後ろを気にせず両手に3本づつのライトを持って振り回す人とかいたからなあ、せめて片手で2本まで。そしてライブはなかなかの良い乗りでもって繰り広げられて見ていて歌の巧さにまず感心、そして曲の良さにも耳が誘われる。アニソン系の歌手ってやっぱり知ってるアニメの曲なら耳が向かいそうでないとそれてしまいがちになるけれど、黒崎真音さんのはオリジナルでも良い曲が多くってそれがバンドサウンドになって巧いギタリストとキーボードの人によって旋律が奏でられ、巧いベーシストとドラマーによってリズムが作られライブって雰囲気でもって聞く人をその世界に引きずり込む。

 もともとがライブ会場で歌っていてその実力を認められたって人らしいから人前でアクトしてこそ見えるエネルギーもあるんだろう。そしてついているプロデューサー陣も素材を活かそうとしているのか、良い曲を与えて歌わせているから遠からずそのサウンドを耳にした偉い人によって待望というアニメのオープニングに曲が使われ、そしてテレビにも出て一気にブレイク、ってことにもなっていくのかな、なって欲しいな。静かな曲でもよく伸びる声を聞かせてくれたけれど、やっぱり見ていて楽しいのはハードロックなサウンドをバックに歌う激しい曲で、アクションなんかもつけつつダンスも見せつつ会場を乗せて自分も乗って良い空気を作り上げる。見て楽しく感動させられるライブ。この規模の小屋だからってことじゃなく、アニサマみたいなフェスでも大観衆を前にしっかり歌って聞かせていたから大丈夫、いずれ見たいな横浜アリーナ若しくは武道館。


【1月13日】 繰り出される意外性たっぷりな展開に目を見張りこれはと思いファンになり、そしてどうなるんだと期待を持ちながらも迎えた第1期の終了に、これは絶対に死ねない、続きを見て最終回を見るまでは死ねないと心に決め、「1日1ルルーシュ」と誓いを立ててブラックリベリオンの勃発から1年、途中に未放送だった最終2話の放送も入れつつ長い時間をひたすら日記に話題にし続けた「コードギアス 反逆のルルーシュ」。その願いが叶って、1年後に放送にこぎつけた「コードギアス 反逆のルルーシュR2」でもやっぱり繰り出される意外な展開。そして驚きの結末に、見ていて良かったと思い喜びつつその世界が、まだまだ広がってくれたらなあと淡い期待も心に浮かべてからさて何年が経ったのか。

 いよいよもって動き始めた新しい「コードギアス」のプロジェクト、その中心に新作アニメ「亡国のアキト」があってまたあの世界観を見られるんだと浮かれつつもちょっと不思議な気分も抱いていたりする。それはああして終わった「反逆のルルーシュ」のワールド、すなわちブリタニアと日本をメーンに描いた世界があの後どうなって、ブリタニアに支配されていた世界がどう変わっていくなかでルルーシュは、そしてC.Cはどういった生涯を送るのか、ほかの面々はいったい何をしているのか、なんてことを見たかったんだけれど「亡国のアギト」はそうではなく、むしろ第1期の中盤あたりの時間でもって日本ではなくブリタニアでもない欧州を、舞台にアキトという少年の出会った人とできごとを描く。

 それはワールドを広げ年表を埋める意味で大きな進歩ではあるけれど、例えば「機動戦士ガンダム」においてその世界を未来に延ばした「機動戦士Zガンダム」の位置づけとはやっぱり違って、むしろ「0083」とか「F91」といったサイドストーリーに近い。それらはそれらとして傑作であり時間軸を埋める役割を果たしたけれども、でも「Z」から「UC」へと流れるような歴史を延ばして未来を開くような役割のものではやっぱりない。それが見たいという希望はだから「亡国のアキト」ではかなえられてはおらず、その意味では寂しいけれども今はただ、こうしてアニメが生まれ、舞台も開かれ、ミュージカルまで行われてカレンやコーネリアを男子がどうやって演じるかという興味もかき立ててくれるという点に、喜びを表明しておこう。個人的には本当にミュージカルが楽しみ。劇団スタジオライフみたいな感じになるのかな。

 新作アニメーションを観たら「R.O.D」が「すくらっぷ・ブック」の世界で「おねがい☆ティーチャー」していた。っていうかやっぱり絵のイメージってのは大きくって、大きい胸元としっかりした眼鏡のキャラクターは羽音たらくさんならではのビジュアルで、それが出ているアニメってことでまずは前後の2つに引っ張られつつ、長野県の小諸が舞台ってことで、同じ場所をかつて描いて1000万人の目を小諸へと向けさせた偉大な漫画家、小山田いくさんによる中学生たちのコミカルで真剣な日常ってものを、重ねて見てしまってついついそうした選考作品が、合わさって浮かんできてしまった「あの夏で待ってる」。まあ仕方がない。

 ストーリー的には倉田英之さんの「R.O.D」ってよりは、「あの夏で待ってる」で久々にコンビを組んだ羽音たらくさんと黒田洋介さんの先行作品「おねティ」に近くって、川っぺりで8ミリを回していた眼鏡少年、霧島海人が、何か落ちてきたものによって吹き飛ばされて血まみれになって川に沈みかかったところを引っ張り上げられ、気を失って気がつくと普通に家にいて布団に埋もれていて、ああ夢かと感じて学校に行こうとしたら目の端に赤い髪をした少女が入ってくる。果ては学校にその少女が現れて、1つ上の3年生として編入。その真っ赤な髪をしたビジュアルに、海人の同級生が引かれ少年が撮ろうとしている映画への出演を依頼して、接触が生まれる。

 もっともそこでは海人は赤い髪の少女、名を貴月イチカとはまだただ知り合ったってだけだったけれども日常の暮らしにどこか妙なところがあって、人間としては不思議はなくてもその年頃の少女として、妙な釣りなんかを川でしているところを海人が発見。会話しつつ別れ引き上げながら何で釣りなんかしてたんだろうどこにも行き場がないのかな誘って家に上げちゃおうかなんて妄想していたらそれが現実と解けあって隣をイチカが歩いてて、ありがとうございますと家に上がる気満々。さすがに追い返せず家にあげて姉がいるから1晩だけだと言ってお風呂を差し上げ外で待っていた時、海人の体に異変が起こってイチカが慌てて飛び出してくる。そして。

 見えた巨乳、揺れた巨乳、押しつけられた巨乳、ってそこが見どころではないにしてもいろいろ見て楽しいビジュアルを含みつつ、一方でやっぱりあったあのアクシデント、その結果として海人の体に何かが起こっていてそれをどうにかするためイチカが地球に降りてきたんだってことが見てくる。得たいの知れない行動も知識として理解していてもシチュエーションとして理解していないことからくるギャップ。それを埋めつつ取り繕いながら果たしてイチカは海人を支えることができるのか。そして海人の運命は。エンディングを快復にとるか消滅に置くかで変わっていきそうな展開だけれど、優しく暖かいストーリーを描くものだと信じてそこに向かって進む淡くてコミカルなラブストーリーを楽しもう、巨乳も含めて。しかし得体の知れない山乃檸檬。何者だ?

 分からないのは時代背景も、か。誰かが携帯電話を使っている風もないし家にパソコンがある感じでもない。女子のスカートが短いのは今風をそこはさすがに意識せざるを得なかったとしても、雰囲気として今風のアクセサリとか特に見えない。何しろ海人が使っているのがビデオカメラではなくそれもテープ式とかですらなくフジカシングル8のP300。手に持ってトリガーを引きレバーであれはピントを合わせるのか、今時のオートフォーカスとは隔絶した過去的な遺物が普通にレトロでもなく使われていたりするところに物語の時代をとらえるヒントがあるのだろう。1980年代半ばにはもうビデオが現れていたところを見ると1980年代初頭? ってことは1980年ごろが舞台の「すくらっぷ・ブック」と良い勝負か。画面の横を晴ボンとマッキーが駈けていったら嬉しいな。あり得ないか。

 乳が見たい尻が見たいパンツが見たいと誰だって死ぬ間際に考えるかとうと人それぞれだけれど、年頃の男の子だったらやっぱりそう考えても当然ってことで兵藤一誠、声を掛けてきてくれた可愛い美少女が変じて悪魔レイナーレによって刺され血まみれになって死のうかという時に考えたそんな妄想が、現実化して現れた赤い髪の美女によって助けられ、さらにもう1度危機に陥った時にやっぱり助けられて今度はいっしょにベッドに入って裸で寄り添う関係に。もう羨ましいとしか言い様がないけれどもでも命があってのものだからなあ、どうも普通じゃない体になってしまってそれでも幸せか、幸せだよなああのリアス・グレモリーが相手なんだから。もげろイッセー。もげ落ちろ。

 東京ドームの横を通りかかったら野球博物館で殿堂入野会見があって、見学できるってんで500円払って後ろの方で見物。そして発表リリースが配られて名前を見てこれは全広島東洋カープファンが泣いたと思う。だって北別府学さんと津田恒実の同時住所うだよ、黄金期のカープを支えた2人が同時受賞。とりわけ津田さんは活躍して落ち込みカムバックしてまた活躍しながら脳腫瘍で早世してしまい誰もが残念に思ったプレーヤー。その記憶すら薄れがちな引退21年目という、プレーヤー表彰の資格が最終となった年に236票が必要だった得票数で、1票だけ上回る237票をとっての受賞となった。同じカープの北別府さんを選んでなお、津田さんを選ぶことに逡巡しそうな気持ちもあって当然だけれど、そこを押し切りプレーヤーとしての表彰を達成させた投票者の“粋”にここは賛辞を贈りたい。

 そんな津田さんの受賞がやっぱり嬉しかったんだろう、最後の年を監督として見た山本浩二さんがゲストスピーカーとして登壇して、21年前を振り返って「津田が入院した年。ホップしていた球が最後の方では沈んでいた。頭が痛いと言って2軍に落としてもらい病院に行って脳腫瘍と判明。あの年、なんとか良くなって欲しいと、皆がお守りをポケットに入れて戦った」と話した。明るく饒舌な山本さんがところどころと詰まったように話をおさめ、繋げる感じはやっぱり心にいろいろ浮かぶものがあったからなんだろう。「ゲームが終わるとお見舞いに行くのを繰り返した。明るくて剽軽で誰からも愛された性格。そんな恒のために頑張ろうと選手たちもひとつになった。その年に優勝できたのも津田恒実のおかげ」と山本さん。「あれから21年、カープは優勝していない」。今年は奮起するしかないよ、広島東洋カープ。

 そして北別府学氏について山本さん。「2年目くらいから頭角を現した。後楽園でカープがリードした試合、相手は世界の王、カウントは3ボール1ストライクで、打たれればサヨナラの場面で北別府は王、さんにゆるいカーブを投げて打ち取った。若いのに度胸がある、変化球を強気で投げる、大した者だと思った」。そこは剛球で押して打ち取ってこそ凄いというのかと思ったけれど、打たれる覚悟も秘めつつ打たれない自信を示すのも度胸ってことなんだろう。「針を通すようなコントロール」だったと北別府さんを評する山本さん。「コントロールが良いと守りやすい。リズムがついて打撃にも良い。彼が投げると私は本当によく打った」と自分の打撃への好影響も話して讃える。良い仲。そんな赤ヘル魂って今もあるのかな、あるんだろうな、だから「球場ラヴァーズ」のような漫画も出て読まれている。だからこそやっぱり優勝を、狙って欲しいけれども果たしていかに。シーズンへの興味が膨らんできた。


【1月12日】 なんか昨日の芦田豊雄さんに関するイベントでもってしばらく、ロフトプラスワンでのアニメスタイルによるイベントがお休みに入ってしまうとかで、最近はこれくらいしか足を運んでなかったから、歌舞伎町に行くことも、もうこれでしばらくなくなってしまうのかもしれない。昔はそれっぽいイベントがあったら密に通って、それこそ週に2度とか行っていた時期もあったけれども、いい加減に歳で夜に遠くから家に帰るのも疲れてしまった。人間、好奇心より先に体力が衰えるものなのだ。それとも好奇心があれば体力も付いてくるものなのか。それだけの興味をそそられるイベントがあれば良いけど。小松左京さん追悼イベント? 偲ぶより当人が見たかったなあ。

 目先ではそれでも「東京マグニチュード8.0」の橘正紀監督が、日本ファルコムのゲームを題材に作った「空の軌跡」ってアニメーションの第2弾の発表会が、22日とかにあるみたいなんで行ってのぞいてみても良いかも、って第1弾まだ見てないんだけれど。「これはゾンビですか?」で取材した上江洲誠さんが、確か脚本をやっていたんだっけ、そんなこともあるしどんな作品かを確かめた上で、第1弾も含めて購入してみるってのも悪くない。テレビシリーズならいつか見られるけれども、OVAってそういう機会に買っておかないと、見ないで通り過ぎてしまうからなあ、とかいって「ヘルシング」のOVAをずっと買っている割に、まだ1本しか見てないんだ自分。リップヴァーンとの戦いってもう終わった?

 飯田橋の東京大神宮とか、お茶の水の神田明神あたりならイメージ出来たけれども、神楽坂にある赤城神社っていったいどんなんだったっけ、そもそも神楽坂にそんな境内があって人が集まって、祈願とかできる神社があったっけ、って行ったらなるほど階段の上に作られた、新しい社殿が輝く近代的な都市型神社だった。すぐ脇にマンションがあってその1階が社務所になっててカフェまであって、都心部にあってそれなりに用地を活かしつつ本業もしっかりやるという、経営面に努力をしている神社ってことになるんだろー。拝殿も綺麗で、風も来ないその中で桜庭ななみさんと松山洋監督による「ドットハック セカイの向こうに」のヒット祈願を見物。祝詞の仰々しい文章のなかに「どっとはっく」という言葉が出てくるとやっぱりちょっと不思議な気がする。さても祈祷の恩恵は?

 っていうか「ドットハック」シリーズって、これまで普通に真下耕一さん率いるビートレインが作ったテレビシリーズなんかで目にしていたし、最近だとさっきの橘正紀さんがキネマシトラスで作った「Quantum」シリーズなんかが、連続上映されたばかりでやっぱり2Dのアニメーションってイメージが強いんだけれど、元が九州にあるサイバーコネクトツーってゲーム会社と組んで、ゲームも連動して始まった企画。そのゲームで培われた3DCGの技術なんかを使って作られたのが、今回の劇場用アニメーションで、松山洋さんはそのサイバーコネクトツーの代表。これが映画デビューってことなのか。好きだなあ、ゲームの人が映像の世界に出てくるの、日野晃博さんもそうだ、同じ九州か、頑張っているなあ九州ゲーム業界は。

 とはいえゲーム屋が作った3DCGアニメーションの映画、っていうと浮かぶのが「ファイナルファンタジー」だったりして、個人的には割に究極のリアル系フル3DCGによる映像が、展開されていたようには思うけれども、どうしてもパワーがかけらない部分に粗が見て、実写との差を逆に見せつけてしまった。そんな、リアルさの追求を突き詰め恐怖の谷間に挑んだそっちとは路線をやや替え、リアルワールドの芝居だけでなくゲーム世界って舞台をそこに入れることで、ゲーム画面を旅している気分、って奴を感じさせて乗り切ろうとしているのかも。まだ見てないから何とも言えないけれど。21日公開、ってことで桜庭ななみさんがどんな声を出しているか、どんな映像になっているか。見に行こう。「サマーウォーズ」の夏希とはまた違った声になっているかな。

 「電光オズマ」、ではないみたいな松本零士さんによる脚本をアニメーション化する「オズマ」。日刊スポーツあたりが新時代の松本アニメみたいなことを書いているけど、総監督が超ベテランの高橋良輔さんで、脚本も80年代から筆を振るう武上純希さん。今の世代のクリエーターではなく、安心のベテラン勢をそろえてキャラクターも結城信輝さん系を持ってきているあたり、に新しさより安心感をもって40代50代が喜べる松本アニメを、って意図がどっかにほの見える。それは僕の世代にとっては正解で、松本さんの漫画に近い雰囲気を持った美女キャラクターたちが、いっぱい出てきて動いてくれるのをまた見られるのは嬉しい限り。ちょっと前に「ヤマト」のアニメがあったけれども、湖川友謙さんのキャラではやっぱり違うのだ。

 もっとも松本漫画や松本アニメに慣れてない世代、「宇宙戦艦ヤマト」から「宇宙海賊キャプテンハーロック」「銀河鉄道999」「千年女王」といった作品で、漫画を読んでアニメを読んで、そのビジュアルを浴びて育った訳では決してない世代に、ノスタルジーから入りそうな作品が、果たして受け入れられるのか。喜んでいるのは上の世代ばかりなり。けどそんな世代が企画できる側にまわって、俺の青春を今! とやってしまって生まれるギャップがここにも、ってことになるのかな、一時期の手塚アニメと同様に。そんな意味でも成果が気になるこの作品。一方でまるで違った雰囲気でもって作られる「宇宙戦艦ヤマト」の新作もある。「ヤマト」は西崎さん作品として松本作品から離れているってことになるけれど、でも強く印象づけられているそれがズレて提供されたときに見られる反応と、「オズマ」への反応、重ねて見る必要がありそうだなあ。


【1月11日】 そうかそこで中道美穂子さんを持って来たのかアニメーション版「ちはやふる」は、近江神宮での高校選手権か何かで始まった個人戦に、いよいよクイーンこと若宮詩暢が登場、「ちはやふる」でも綾瀬千早と並んでヒロインの座にあるキャラクターの声を誰が演じるか、演じるんだったらやっぱり世間をその名前だけで引っ張り込むスターでアイドルな声優さんが良いよねってメーカーあたりは考えそうなところを監督、あるいは音響監督が選んだのは決して多くのアニメーションでメーンとなる仕事をして来たわけではない中道さん。高校1年生とう年齢からもわりと離れて現役感からは遠いプロフィールの持ち主だけれど、これが実に若宮詩暢になっていた。

 みてくれはなるほど若いけれどもそのファッションセンスの至らなさはどちらかといえば年輩系、そして妙に達観してそしてグサリと相手をついて苛立たせる京おんなのいけずっぷりを声に乗せて出すにはやっぱり、きのう今日でた若い声優さんではちょっと無理だったのかもしれない。なるほど若くても巧い声優さんもたくさんいて沢城みゆきさんに悠木碧さんといったいけず声を出せそうな人もいるにはいるけど、決定的だったのはやっぱり京都弁という言葉。見ると中道さんは京都の出身で、そして声には落ち着きがあってそれでいて、相手の心を突き刺す辛辣さも表現できる。

 それは京都の女性がすべて持っていたりする資質なのかは分からないけれどもベストのセレクト、時折みせる可愛らしさとも相まってこれはなかなかのものだと感じた次第。とにかく丁寧に絵を作り、声を作り音をつくっていこうとする姿勢が、この起用からもぐっと感じられてきた「ちはやふる」をやっぱり買っていくのが正しいスタンスなのかなあ、アニメ好きとして、そして何よりクイーン若宮詩暢のファンとして。あのシャツのすそをいれたジャージ姿、実際にみたら卒倒するかも、そして前のめりになって札をとる姿勢、後ろから見たら鼻血を吹き出すかも。誰か引きずり下ろさないかなあ。千早がそこだけフィン・エ・ルド・スイ・ラフィンティことらんになってぐわっと引きずり下ろせばいいんだぐわっと。きっとスノー丸のワンポイントが見られるから。

 それは「輪廻のラグランジェ」の方、ってことで舞台の安房鴨川を地元に有する千葉県でも放送がスタートした「輪廻のラグランジェ」は冒頭からスカート脱ぎーのスクール水着になりーのとやりたい放題ぼビジュアルで目を引きつけ、そしてジャージ姿で構内を徘徊する胡散臭い美少女のスポーツ万能っぷりがひけらかされた先、現れた謎の美少女がやっぱりスカートをストンと落としてハイレグっぷりを見せつける。実に見事なV字だったけれどもそのどこにもお手入れをし残した跡がない。よっぽど綺麗にしているのかそれともする必要がまだないのか。聞いてみたいけれども聞けないので作った人たちにはそのあたり、きっちり説明していただければ重畳。

 同じ事はジャージ大好きヒロインの京乃まどかにも言えそうで、自宅に戻っていとこの能登かわいいよ能登さん演じるようこによって今度はジャージを引きずり下ろされ見えたのはダディベアのワンポイント、ではなくって普通のアンダーウエア。ちょいひっかかって片方がずり下がっていたりするあたりの演出のニクさに感嘆しつつそれでも見るほどにあそおまでずり下がっていながらやっぱりちょろりとした1本も、削った後の黒いつぶつぶも見えやしない。あの程度で見えるものでは植生的にないというのかそれともあの年齢いんしては未だなクリアさを保っているのか。実在の存在の変化していく過程も現在の到達点も知らないだけに判断しようがないだけに、これもやっぱり制作側の説明を求めたく候。しかしずり下げられているのに振り向くとうしろは割と上まで覆われていたような。見間違いか。作り間違いか。

 そんなキャッチーなビジュアルを鏤め「ワレワレハウチュウジンダ」的なお遊びも入れて楽しませてはくれるけれども全体としては人間にめっちゃちかいビジュアル系の宇宙人たちが攻めてきて、それをビジュアル系の宇宙人を仰ぐ地球の勢力が迎え撃つっていう構図。そんな宇宙人像ってイマドキって思わないでもないけれどもまあ何か理由があって同じ生物、あるいは同じ見た目をしているって設定があるんだろう、なくっちゃね、木星とかげの本体が人間な理由をちゃんと付けて描いた佐藤竜雄監督なんだから。戦いがあとお気楽地域限定なのか世界を巻きこむ消耗戦なのか、ってあたりのシリアスの分量も気になるところ。楽しんで見ていたら人類全滅、だなんて鬱に向かうのは何か違う。けどそうはならないとギャグ一辺倒でリアルが削れる。その塩梅をどうとるか、どう世界をあの状況に押し込めておくか。そんな手腕にも興味。見続けよう。週末に言ってみるかなあ安房鴨川に。

 人間なんだし間違いもするさ、それより意図的な誘導の方がよっぽど罪深いって言ってるけれどもそう言う当人が極力間違えないよう細心の注意と逡巡をはらい臆しつつこれだという確信を持って世に問うならそれはそれで価値がある。けれどもそうではなくって他とは明らかに違う論調を、他にはない論拠をもとにするでもなくって推測を重ねて導き出して語ろうとするから問題なんだし、そうやって語ろうとすることがまずもって語りたいこと、言いたいことの上に論拠を引っ張ってきて作り上げられているからいろいろ言われるんだと、どーして分からないんだろうなあ、それとも分かって敢えてやっているのか、それが社会ではなくその界隈で認められ引っ張り上げられる手段だと知っているから。そうやって内を向き上を向いた論調ばかりが幅を利かせた組織が外に向かって何を出してもそうだよねだからだよねと言われるのは当たり前。けどその当たり前を認めたくないからいろいろと悩んだふりをする。冗談じゃないよと思いながらもそうやって上に上にと迎える信念は羨ましいかもと思う冬、1月、まだ松の内?

 せっかくだからとロフトプラスワンで開かれたアニメスタイルによる芦田豊雄さん関連トークイベントをのぞいたら美女がたくさんいた。芦田さん効果という奴か。そしてサムシング吉松さんと神志奈さんわたなべひろしさんといったスタジオライブ関係の面々が登場し、それからアウトを編集していた大徳哲雄さんも入って第1部は「月刊OUT」での滅茶苦茶っぷりを紹介、アウトは実はあんまりよんでなくってそれからきっとバカ騒ぎをやってた時代はアニメからも遠ざかっていたんで、その楽しそうな雰囲気をリアルタイムでは感じてないけど今の妙にガチガチでハリネズミみたいなところがある一方でお堅く商売っ気も満々な産業とは違う工房的な雰囲気が、当時はあったんだなあと思えて面白かった。

 2部では各作品についていろいろと発言、演出がどうとか作画がどうとか誰がやっているかといった話に、知識としてどうにかついていけるけれどもそれを映像として浮かべられる人たちはやっぱり凄いなあ。そこまではいけないけれども脇から応援はしていこう。買い逃していた「月刊アニメスタイル」の第4号を購入できたのが僥倖、っていうかほとんどそれが目的でもあったんだけれど。これで既刊はコンプリート、でも次で終わりなの? どーして? 分からないなあ、今もっとも必要とされているのに、そこから例えば「月刊OUT」の莫迦を通していろいろなクリエーターがはっちゃけたような進化と浸透、拡散と染色が行われるのになあ。目先のことばっかりで未来を思わず今すら楽しまない分野に未来はない。何がネックとなっているのか分からないけれどもそれを除いて乗り越えて、続いて欲しいなあ、綾瀬千早と若宮詩暢の2人しての水着グラビアが載るくらいまでは。「アニメディア」じゃやってくれそうもないからなあ。


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