縮刷版2012年1月上旬号


【1月10日】 まさかなあ、日本の女子サッカーが世界で表彰される日がこんなに早くこようとは。もちろん男子の代表と違って、いずれ遠からず世界の檜舞台に立って活躍するだろうことは予想していたけれど、去年の7月のFIFA女子ワールドカップドイツ大会で優勝してしまったことが、サッカー界として日本を評価するしかないって風を起こしたもよう。どういう理由からかは分からないけれど、4年も続けて女子の最優秀選手になっていたマルタ選手を大きく話して、FIFAの女子最優秀選手に我らが沢穂希選手が輝いた。いやあ凄い。

 過去にミア・ハム選手とブリギット・プリンツ選手、そしてマルタ選手しかとっておらず、あのアビー・ワンバック選手ですらまだ得ていないタイトルを手にした訳で、これで沢選手は完全に女子サッカーの歴史にその名を刻んだ。ワールドカップ決勝でのあの同点弾、そしてそのほかの得点なり、アシストといった活躍を見れば受賞自体は瞭然かもしれないけれど、そうしたイベントがない年だって沢選手は、日本のリーグでしっかりと活躍してた。でもそれではとれなかったってことはやっぱり、投票する人の目は欧州でのリーグなり、知ってる人のそれなりの活躍に目が向かいがちなんだろう。

 その意味でいうなら、安藤梢選手や永里優希選手といった海外で活躍し、女子のチャンピオンズリーグにも出ている選手が狭間の年に取っても不思議はなさそう。新しく海外に行った鮫島彩選手や宇津木留美選手にだって可能性はある。本当は山口麻美選手にそろそろ出てきて欲しいんだけれど、どうしちゃったんだろう。心配だけれどまあいずれ。本当だったら国内で存在感抜群の宮間あや選手とかに期待がかかるけれどもとりあえず、今年は夏のロンドン五輪で誰が活躍するか、だ。優勝すれば宮間選手にも目があるかな。岩渕真菜選手に行ってしまうのかな。

 むしろ驚くのはまだまだ衰えない日本における女子サッカーへの注目ぶりか。世界で最高峰とはいったって、それはたかだか賞な訳でメダルとは違う。けど夕刊あたりで新聞各社がどこも1面でそれを報じ、テレビもバンバンと映像を流してインタビューを放送する。それを流し伝える価値があるって、新聞テレビが女子サッカーを認知している現れで、それは優勝から半年が経った今も衰えず、むしろこれからロンドン五輪に向けてまだまだ高まっていきそうな予感。

 なるほどINAC神戸の選手にだけ、妙に注目が集まってしまっているのは気になるけれどもそこを起点に広がっていけば良いんであって、代表が確定してからどこそこの誰といった感じに、スポットが当たってチームが取り上げられ、他の選手にも注目が集まって全体の底上げにつながって欲しいもの。あとU−20のワールドカップが日本で開かれれればなおのこと話題も沸騰。そこでそれなりの成績を収める必要はあるけれど、でもアテネの時みたいに半年で終了ってことはなさそう。嬉しいなあ。応援しよう。

 参ではなかった肆だったアニメーション版「夏目友人帳・肆」ではウルキアガ、ではなかった三篠がデカい体を久々に動かし空を飛んで東方の山へと向かい囚われた夏目を救い出す。ヒノエと牛につるつるの中級妖怪とかも会わせてやってきたそれはまるで百鬼夜行、その額の輝きだけで的場のお札を粉砕してしまうニャンコ先生も加わった一行は、張り切れば相当な強さを発揮しそうでそれを従え空を行く夏目って、もしかしたら一匹狼だったレイコ以上に妖怪の世界で強い存在感を放っていたりするのかも。そしてそれを自慢せずひけらかそうとしないところに的場あたりはやっぱり不審を抱くのだ、そんな公平な人間はいないって。まあ普通はそうだろうなあ。ともあれ始まった新シリーズ、次はどん苦労が夏目を襲う?

 わたしの歌を聴けー、って言って唄ったら散っちゃった。それより以前にすでにヒロインらしき少女がお墓に眠っているのを同級生らいし少女がお参りしているシーンもあって、「戦姫絶唱シンフォギア」は主役級がばたばたと倒れてしまう展開にいったい誰をメインにとらえてそして、どこに向かうと思ってみていけば良いのか迷ったけれどもとりあえず、あの水樹奈々さんが登場しているってことは青い方のプリキュア、ではない歌姫をメーンととらえ新しく加わって、そして冒頭で死んでいた少女をサブに置いて見ていくのが割と正しかったりするのかも、違うかも。

 というかあれだけ身近に危険が迫っていて、それを防ぐ手だてがほとんどないまま大勢の命が失われて言っているせっぱ詰まった状況で、どーして人間はまだ普通に社会を構築して、そこで平生とした日常を送っているのだろう。普通だったら絶対的な防衛網をまず築き、敵を倒せる力を揃えた上で隔離された場所でかろうじて日常を営んでいる、というのがSFなんかに描かれるせっぱ詰まった未来像。「マクロスF」だってヴァジュラという敵は存在を隠され、バルキリー隊が固めて撃退する状況を作った上で日常が営まれている。戦時下の日本だって日常はあったけど、それに備えた防空壕が作られ、訓練だって行われていた。大空襲や原爆はそれを上回っての攻撃で、それまではどうにか日常も保たれていた。

 「シンフォギア」の敵は接触すれば命を奪われる絶対的な敵。そして撃退するには普通の戦力ではダメとなったらもはや人間には逃げ場もなく、絶体絶命のなかでやさぐれた日常が送られることになるはずなのに、見ると割と普通の日常、でもって頻繁にノイズって敵が現れ命を落とす人がいる。台風だって地震だってあんな頻度では起こらないしやって来ない。だから日常は続けられる。それに比べてって思うとやっぱりちょっと不思議だけれどもまあそのあたりも、きっと理由付けがされているんだろう。そうした部分はさておいて、打ち抜かれた少女が血を吹き出しながら壁に叩きつけられる描写のリアルさとか激しさはなかなか。映像としての確かさと展開としてのユニークさ、出ている人のゴージャスさを頼りにこれはしばらく見ないといけなさそう。

 なんというか抜けているというか、任意同行した犯人を警察署の前で自殺させてしまった警視庁の失態はおそらく永遠に語り継がれることになるんだろうなあ。せっかく居そうな場所を割り出してそこで見事に捕まえたっていうのに。お手柄の幻想が一転して懲戒の危機。天国から地獄とはまさにこのことだ。しかし分からないのがSKE48を見に来たってことで捕まる覚悟があってなお、見たかったくらいのファンだったってことなのか。そもそもが事件を起こした理由にこうした趣味は絡んでいるのか。台湾人だってことで視線をズラされているけれど、これが日本人の中だけで行われたことだったら熱狂的なアイドルファンがそれをバカにされたとか、そのためのお金を稼ぐためにとかで殺人をおかせば、とてつもないダメージがアイドルにだって向く。そうなって不思議はないところw、台湾人だという部分が視線をとらえて一般的な反応をズラしてみせる。本当の理由は分からないから何とも言えないけれども、とにかく不思議で不気味な一件、かなう限りの解明を待ちたい。


【1月9日】 それでも「偽物語」だけはさっさと見ようと起きてすぐに録画を見たら横長で狭い画面で何をやっているのかさっぱり分からなかった。いまだにアナログのチューナーを使い、CATVから来るデジアナ変換によってアナログテレビに映している関係もあって細かいところが見えないんだけれどそれでもやっぱり細かい絵。もはやテレビはHDで30インチ以上でなければアニメを見る視覚はないということなのか。いやでもその後に見た「モーレツ宇宙海賊」はちゃんといろいろ見えたしなあ。つまりはだから「偽物語」が頑張り過ぎってことで。

 初回ってことなのかいろいろ顔見せ感もあったようでとっつかまっている阿良々木暦がわめき叫ぶところにやってきた戦場ヶ原ひたぎがつんけんとした物言いをして漫才みたな会話劇が繰り広げられた前後で、羽川翼が頭の良さを紹介され暦の2人の妹が小さい方と大きい方として紹介されてそこに千石撫子との会話があって楽しげな雰囲気でそして歩いていたらリュックを背負った八九寺真宵が現れその可愛い見かけによらない得たいの知れなさをほのめかされてとりあえずだいたい紹介。おや神原駿河が出てなかった。

 まあだいたいそんな感じの配置を見せつつ、暦をとらえて手錠でつるして水は与えずトイレにすら行かせようとしないいツンデレなひたぎの果てしなくツンな部分をまず見せつけた展開の、先に来るのはいったいどんな物語? 原作読んでないんで知らないけれどこれだけ原作を読もうとする気分がわかないしりーずも珍しい。先に何が当然だし、吃驚だし、けれどもそうかと思える作品。物語じゃあないってこと、なのかも。動くところは動かしつつあとは止めた絵の一部を動かしインパクを与えるアニメーション版の映像美は健在。音楽のセンスも抜群なだけに今回もやっぱりヒットするんだろうなあ。加えてひたぎの下着が見られれば、文房具模様がいっぱいな。

 そして「モーレツ宇宙海賊」はミニスカじゃないのが残念かもしれないけれどもとりあえず楽しそうなのでオッケー。当時はまだ自分が海賊の娘だって知らなかった加藤茉莉香だったけれども父親の後を継げといわれて何が何やら分からないまま危険が迫って一大事、そこに現れたのが栗山千明、ではなくチアキ・クリハラで楚々とした印象をの下に顰めた野生を燃やして茉莉香の危機に対処する。途中で続くとなったけれどもここから茉莉香の覚醒があって地球の海は俺の海って感じに現れる海賊船「弁天丸」に船長として乗り込み海賊帽子にミニスカ姿で威勢のいいところを見せてくれることだろう。続きに期待。

 最終日だったっけ、そんな感じの芦田豊雄回顧展を身にUDX秋葉原に寄ったらさらに何やら新しいイラストも加わって豪華絢爛花盛り。見れば視るほどすっと引かれた線が形作るキャラクターのフォルムの力強さ美しさに、その才能を改めて感じつつ失われた残念さにひたる。まあでもだからといって現役の最前線に立っていられたかというとそういう時代でもなかったことが残念。あの可愛いキャラを活かしてアニメを作って世に出せる時代ではなかったんだよなあ、マーチャンダイジングとかゲームのアニメ化とかいったものにまみれてて。アニメがアニメとして作られた時代だったからこそ生きた才能。それをがまた甦る時は来るのか。なおのこと新バイファムを見たかった。そして見せて欲しいぞ植田益朗さんには。

 ついでにとベルサールで開催中の秋葉原のお祭りをのぞいて神田明神の神馬の御幸ちゃんことあかりちゃん(なんで?)がやっぱりあんまり動いてないのを見かける。可愛いんだけれどなあ。そんなあかりちゃん、ちょい出かけてまだ戻って神田明神にお参りしていたら係りの人に引かれて戻ってきた。近いとはいえ道中どうやって歩いてきたんだろう。ちょっと興味。これからは神田明神に行けばあえるのかな。神馬として全身が葦毛になるにはあと何年くらいかかるんだろう。何年たってもあのまんまの大きさで神主さんたちがこれは騙されたと嘆いたりして。大きくならないといわれて飼ったら大きくなってしまうウサギの逆だね。

 なんか築地の偉い新聞に取り上げられては反抗の象徴みたく祭りあげられていた尾崎豊さんだけれどもまったく同じ生年の僕たちなんか見ると、20歳過ぎたあたりですでに現代の若い人たちが示す以上に何を言っているんだといった感じにうんざりされてたんじゃなかったっけ。もう高校生でもないのに学校で反抗しようぜとか唄ってる場違いっぷりがどうにも受け入れづらく、あるいは当人もそう感じながらも役割としてそれを求められて迷う姿がどこか痛々しかった。そんな尾崎豊さんも、歌手として活動していた時間の後半は外より内に向かい問う歌が多かった印象。「夜のヒットスタジオ」で唄った「太陽の破片」とか、若者のカリスマを脱して体制への反抗者というレッテルを剥がして、心情を乗せて唄い紡ぐシンガーとしての片鱗を見せてくれたんだった。

 亡くなって初期のあのイメージばかりが取りざたされて膨らまされて若者のカリスマ扱いされて反抗だ何だとレッテルを貼られているけれど、後半生では貼られた若者のカリスマというレッテルも消え、ナイーブなシンガーという印象が出てたんでそのまま行けば違う印象もついたんじゃなかろうか。でもそれを許してくれる世間でもないしマスコミでもない。亡くなってしまって貼られたレッテルは、初期の反抗的なイメージばかりが持ち上げられ、そしてそれが時間とともに一層濃くなりもはやどうやっって剥がせないまま、その印象だけでうざがられている。10代の半ばに作ったそれらしい曲ではないものをもっと広めて流して優れて純粋なシンガーであったことを感じて貰わないと、いつまでも暑苦しいカリスマ扱いされてしまうんだけれど、分かりやすさという言い訳でもってそうはさせない、というか冒険をして失敗するリスクをおかせないメディアの無能っぷりがますます1つのイメージばかりを強めていく。

 なんとう悲劇か、ってことを今なお若者のカリスマ扱いする朝日新聞の社説とか、それを補強するような説をわざわざ垂れ流して迎合を見せる学者のお姉さまとかに、尾崎豊さんなんて非じゃないくらいのうざったさ、鬱陶しさを覚えつつ、でもそれがメディアの意識なんだろうなあと諦め顔。あるいは10年断てば変わるのかもしれないけれど、そのときはまた大上段から振りかぶって若者論をぶつだけだ、エヴァに絶望しないくらい今の若者は熱量が衰えているとかいって。そういうものだ世代って。そんなメディアに棹さすには、やっぱり今の若者のカリスマを若者たちが自分たちで作らないといけないかも。というわけで平沢唯を若者のカリスマに。そのアバンギャルドで決まり事をすべてぶちこわす反体制的な言動をこそ、若者のカリスマとして相応しい。崇め奉り、このギュウギュウとした日常をぶちこわす礎にするのだ。挙げよシュプレヒコール。「ごはんは?」「おかず!」と。なんだそりゃ。


【1月8日】 始まった新番組とか消化する時間もないけどちょっとだけ見た「キルミーベイベー」は確か読んだ漫画の1巻のだらんとした雰囲気が良く出てはいるけれどもその雰囲気をだらんと読むのが適切な速度の4コマ漫画と時間に従ってエンディングまで連れて行かれるアニメとでは、やっぱり時間の感覚があんまりまだ合ってなくってちょっと戸惑う。強制的にその時間に引きずり込んだ「らき☆すた」とかまるで買えてゆるやかな時間が流れていくようにし向けた「けいおん!」、テンポを刻んでおかずをその上にぶちまけた「日常」といった作品に比べるとフツー感があって悪くはないけど凄くはない。それともここから爆発するか。「Aチャンネル」みたく「パンツじゃないから恥ずかしくない? 恥ずかしいわあ」とか的なキャッチがあればなあ。これからに期待。見続ける。

 秋葉原へと出たら牛がいた。違った馬だ。それも神馬だった。神田明神も参加して秋葉原のお店なんかがよりあったお祭りがベルサールで開かれていて除くとそれまでのゲームとか、フィギュアなんかが集まったバザールとは違って秋葉原っぽい雰囲気の、何やら意味不明な計測器とか武器とかラジコンとか中古の携帯電話なんかが売られている店がブースをだしてて秋葉原の雑多さがそこに詰まっていたって感じ。これであとは海賊版の露天もあれば、ってそれはダメです違法です。外にはケバブとかいろいろな屋台。前にケバブが並んでた場所にビルが建って会えなくなて寂しく思っていたら再開できた。でもそこで買ったことなかたけど。

 そんな一角に囲いがあって中に小さな動物が。豚かと思って近づいたら神田明神にいる神馬のみゆきちゃんだった。小さいけれどもちゃんとした馬。ポニーか? 名字は沢城か? ちゃんちゃんこみあいなのを着せられずっとビニールシートに鼻面よせていた。お腹がすいていたのかな。有り難いと拝みつつせっかくだからと松屋にいってもうすぐなくなる豚めしを注文、美味いじゃん、牛の脂身と筋がぎゅっとした味に比べて歯ごたえがあってそれでいて柔らかい。なおかつヘルシーな丼を用済みとなくしてしまうのもなあ。ちょっともったいない。

 思い返せば恐牛病騒動があって吉野屋が牛丼を止めて豚丼を最初に出したとき、臭みを無理に消そうとして薬味をぶち込んで味はともかく酷い臭いを出していたのと比べると、割にスムースにいい味のを出してた気がするんだ松屋。吉野屋もその後に改善したけどそうやった迷走が何か今の沈滞ムードに繋がっている気がする。その点でいうなら松屋はもともとが多くのメニューを持っていたから牛めしが出せないなら他を充実させる手もあったんだけれど丼メニューは必須ってことで豚めしを出してそれを今まで引っ張ってきた。すっかり定着していた感じだけれどやっぱりオペレーション的にいろいろあるのは面倒ってことなのかも。残念だけれど仕方がないのでまたいつか食べられる日を、ってそれは病気が蔓延した時? それも面倒なので今はしばらく封印ってことで。

   死んでしまった恋人の死体を、葬式の会場から盗み出す。殺人とまではいかなくても、禁忌には触れている罪を犯してしまえる心理があるとしたら、それはどうやって育まれていくものなのか。平凡に生きているように見えた少年が、そんな大それた犯罪に手を染めてしまった瞬間から始まった物語は、彼のそれまでの生い立ちと、今おかれている境遇、それから死んでしまった少女の生涯をだんだんと明らかにしていくことで、人が何かをしでかしてしまう心の作られ方をみせてくれる。それが唐辺葉介という人の書いた「死体泥棒」(星海社FICTIONS)という小説だ。

 ただ好きだから盗み出す、というと言葉では簡単だけれど、それをすることによって失う社会的なポジションとか、悲しむことがいるかもしれない親のこととか、思うとすぐには動けない。それが罪を犯すということ。けれども少年には親を気にして生きる気持ちを削り取られていくような過去があって、それでも賢明に生きようとしている気持ちを魚でされるような出会いがあって、向こう側とを仕切る壁を低くしてしまっている。だからといってそこで転ぶまでには行かないもの。けれども出会ってしまった。その少女と。

 街で出会って師匠とすがっていた道化師が、突然に死んで、現れたその娘は体の不自由な母親と二人暮らし。倒れた母親を放り出して逃げた父親を母親は毛嫌いしていたけれど、娘は時々連絡を貰ってあっていた。そして死んで悲しむ娘。けれども生きるために必死だった彼女は女性が手っ取り早く大金を稼げる仕事で生計を立てていた。だんだんとつき合うようになっていった少年は、そんな少女が捨てていた自分を取り戻していく姿に微笑み、それとともに彼自身も居場所を見つけたような気持ちになっていって、そして結んだ約束。そこからすべてが変わるかもと信じていた時間は永遠に訪れなくなってしまう。

 そして動く。大型冷蔵庫を買って、突然に死んでしまった少女を棺桶から引っ張り出してレンタカーに乗せ、アパートまで連れて帰って冷蔵庫の中にいれ、冷たさの中で少女との約束を果たそうとする。罪を犯すとはすべてを捧げるということ。そこまでして得たかったあの時間を、だからこそ得たかったあの時間だったと分かった時に少年の抑揚がなく茫洋とした日常にしっかりと蠢いていた感情を知る。とはいえ。そうすることが愛なのかという問いが別に投げかけられて少年を戸惑わせる。ちゃらんぽらんな先輩が示すのは刹那的な愛。その瞬間の愛であって死んでしまった存在への愛は認めない。

 違うと抵抗しようとする少年は、けれども少女が献体によって眼球も内臓もすべて奪い取られた抜け殻の姿だったと気づいて、それを少女だと認めるべきかを迷う。そこに彼女がいることが愛の成就なのだとしても、それは彼女なのか否か。存在をこそ尊ぶならそれはただの死体であってそこにいなくても実は良い。そこにいるならそれは完璧な、命こそなくても姿だけは完璧な彼女でなくてはならない。非実在を否定しながら実在ですらにあ曖昧なその姿を、それでも愛の対象とするべきなのか否か。罪を犯す心理の段階を探ると同時に愛を成す心理の必然を探る物語でもあった「死体泥棒」。あなたならいったいどうするか。そしてそれを選ぶのか。罪を問われよ。愛を聞かれろ。


【1月7日】 誰ひとり、知る人のいない街に来て、暮らし始めたアパートの、隣も上も誰が知らないまま、暮らして20年以上が過ぎて、それでも普通に暮らしてはいられるけれど、もうちょっと、違う何かがあったかもしれないと、思うことがときどきある。それは何か、素晴らしい出合いのようなもので、そこから広がっていった世界が、暮らしを変え、生き方も変える、そんな未来があったらいったい、どんなものになっていたのだろうか。想像してみたくなるけれど、何もなかった現実というものが、今ここにこうして厳然と横たわっているとき、すべてはもう遅するのだという後悔と、このままで良いのだという諦観が漂ってきて身を縛り、心を体も固めて動けなくさせる。

 結局のところそれは、何もしなかった自分への言い訳であり、慰めであり、慨嘆であって、他の誰が悪いわけではない。動こうとしなかった自分、そして今そう考えているのに、やっぱり動こうとしない自分だけが悪いのだけれど、それでももし、違う道があったとしたら、そこに導かれていたらと、そう思わせ感じさせてくれる場所が、村山早紀さんの「海馬亭通信」(ポプラ文庫)という物語の中に登場して、魅力的な輝きでもって誘いかける。

 それは昔はホテルだった建物で、今はアパートのような場所として使われている。山の神様の娘で、父親が山で遭難していたところを助けられた人間という少女は、10年ほど前に街に行くといっては、そのまま帰ってこず、母親を落胆させた父親が、実は何か事情があって戻ってこられないまま、街で暮らしているのかもしれないと考え、母親が寄り合いで富士山に行っている間に、ひとり山を下りて街へと向かい、父親を捜そうとする。

 とはいえ、誰ひとり知らない、知るはずのない街に来てひとり行き場もないまま、迷っていたところに、万引をして追われる少女と知り合い、その少女に連れられて行った先が、海馬亭というアパートだった。それまで誰にも頼み事をしなった、彼女をアパートまで引っ張ってきた千鶴という少女が、始めて自分から願った置いてあげてという言葉を受けて、管理人をしていた千鶴の祖母は、山から来た少女を受け入れそこで少女は、由布という名を使い、色々な人と知り合い、その生き方を見て影響を受け、また多くの人の生き方に関わって、お互いに成長していく。

 ひとりでは動かなかったことが、由布を受け入れ、由布がもつ思いを見て伝える力を借りて、前へと動き出す。千鶴は祖母へのわだかまりを解き、寂しかった心を晴らして医師になろうという決意を固める。ゲームソフトを作る女子大生は、プログラマーが逃げてしまって作っていたソフトの開発が止まり、もうすべて投げ出そうとしていたところを、踏みとどまって次へとつなげる。そして由布自身も、本当に願っていたことが叶う。それもこれも、海馬亭という場所があって、そこに集い暮らす人たちの存在があったから。落ち込んでいたら励まし、寂しがっていたら慰められる関係が、ただ埋めあうだけじゃなく、もっと大きな広がりをもって、大勢を包み込む。

 そんな都合の良い場所なんて、ないという人もいるけれど、でも、探せばどこかにあるかもしれない。最近流行の、シェアハウスのような場所も実際にあって、若い人たちが集まって、関わり合って高め有っていたりする、そんな世界から背を向けて、関わりを持たずに着た自業を自得と思い、寂しさを補うために「海馬亭通信」を読むのもたぶん、いけないことではない。でもそれは、やっぱり悲しすぎる。幽霊になってずっと海馬亭に暮らす女性は、楽しそうだけれどでもやっぱりすこし悲しい。生きているうちにそこに行き、生きているうちにそこで関わり合い、埋めあって延ばしあっていくことが、生きているならまだできると、そう信じる気持ちをここから育もう。

 朝も起きられたんで、東京ドームへと出かけていって「ふるさと祭東京」を去年に続いて見物、開場とほぼ同時刻に着いたんだけれど、グラウンドへと降りる通路が込んでいるのかどうなのか、ドームのエントランスに入るまで10分近く待たされ、そこから通路を15分ほど待たされて、ようやくスタンドからグラウンドへと降りてからがまた長かった。目当ての全日本どんぶり選手権に参加するには、専用のチケットを買う必要があって、それを買うのに行列が出来ていて待つことだいたい15分くらいで、たどりついたチケット売り場で500円のを2枚買い、まずは気になっていた大分県は豊後水道で漁師が食らっているという「がんこ漁師の熱めし丼」をいただく。

 ご飯の上に乗った切り身の刺身のブリをまずは寿司のようにかき込んで、半分ぐらいのところでカツオかなにかの熱いだし汁をかけてもらって、お茶漬けのようにかきこむと、刺身だったブリが煮た感じになって、味が変わってうま味も出て、出しの熱さで胃袋を暖めからだもあったかくしてくれる。なるほど冷たい海の上で喰うには、簡単にして最高の料理かも。でも冬場に食べているのかは不明。そして次に何を食らおうかと考え、ソースカツ丼とか親子丼とか見たけれどもでも、やっぱり普段は食べられそうにないものと、漁師の賄い飯ってこちらも言われている島根は隠岐郡海士町から参加の「寒シマメ漬け丼」というのに挑戦する。なんだシマメって?

 それはホタルイカの細切りで、本当だったら新鮮なものなんて食べられないものを特別な冷凍でもって新鮮さを保ちつつ、全国どこでも持っていけるようにしたらしい。地域振興の賜って奴か。しかしそれがまた美味くって肝醤油ってのに着けられいい味が染みたイカに卵の黄身が乗せられ、混ぜてとろりとした味が、イカのぬめっとして噛むと歯ごたえのある食感と混ざって、実にすばらしい食べ物になっていた。こりゃあ凄い、素晴らしい。まだ全国区ではないみたいだけれどもだんだんと、知られているらしく12日から始まる東急東横店での島根物産展に登場するみたいなんで、是非に食べに行こう、名古屋飯じゃないけど行こう。

 せっかく入場料も払って入ったからと、中をうろついて見つけた、会津地鶏の巨大なつくねを1本買い、あとは夕飯にでもと探して北海道あたりの弁当を買おうとしたけれど、魚系は保ちが短いからと肉に変え、仙台の牛タンにしようかと思ったけれども、ここは珍しい大阪の牛タンを試食して、なかなかの染みた味がしたんでそれの弁当を買って開場を退散、見たら入場口にそれほど人は並んでおらず、どんぶり選手権も行列はまあそれなりだったんで、目茶込みってよりはそれなりな雰囲気でもって賑わっていた。あんまり込んで食べるのに食べられないのが1番辛いんで、これぐらいがちょうど良いのかも。そうそう津山ホルモンうどんもやっぱり購入、お台場とかで出ていたのと違って本場から来てるのはやっぱり味が濃くてホルモンもしゃきしゃきだあ、って本場から来てたのかな。横手焼きそば食べ忘れた。会津カレーやきそばって何だ?


【1月6日】 薄く柔らかく線が変わっているなあと岡野玲子さんによる新シリーズ「陰陽師 玉手匣1」(白泉社、819円)なんかを開いて思う。巻末に世界観の案内めいた文章が載っててそこには前のシリーズの絵なんかも紹介されているけれど、どれもが黒い線できっちりと描かれているのに対して本編は、薄墨でさっと撫でたような線で柔らかさを淡さが漂いふわふわとした印象が漂う。一応の完結を見た後に晴明が、真葛とくっつき子供までいたりするアットホームな環境に、粗忽な源雅博も紛れ込んでおこるちょっとした騒動を、描いていくのにこんな感じのタッチの方がむしろマッチしているのかも。そうかなるほど暗闇丸はそうなってあっなってそしてそこに。そんな不思議な輪廻を感じさせてくれるのもこのシリーズの面白さ。生きてりゃいろいろあるってことで。

 気がついたら「鉄腕バーディー EVOLUTION」の第10巻ではネーチュラーがぐずぐずになってしまっていた。あれだけ強くってもやっぱり相手がバーディー・シフォン、アルタ人でイクシオラでは精鋭の神祇官であってもかなわないってことなのか。それだとカペラだってやっぱりバーディーにはこてんぱん、か。前はどーだったっけ。そして始まった地球外生命体の存在が明らかにされた世界での幾重にも入り組んでしまった状況での戦いが、どこに帰結を置いてどう向かっていこうとしているのか。クリステラ・レビを捕まえれば終わりだった単純さから世界の政府を巻きこんだ異星間バトルへと突入したストーリー。まとまるには地球の宇宙進出と、イクシオラとの関係解明なんかが必要になって来るのかな。ますます注目。

 考えてみればワールドカップの大会で何度か優勝していて日本代表としてトリノ五輪にも出場しているスノーボードの成田童夢さんの方が、オタクなアスリートの“格”としてはトップに来るような気もしないんでもないけれど、現役から離れて幾年月、その間にさまざなな言説でもって世に評判を起こしてしまった影響もあって、今はそうした経歴よりもたんなるオタクの元スノーボーダー、って雰囲気が強まってしまっている印象。五輪に出るってのはやっぱり凄いことなんだぞ、って言っても分からないよなあ、今となっては。ここはだから柏原竜二選手に是非にやっぱり五輪の舞台に立ってもらいたいけれど、ロンドン五輪は間に合いそうもないしその次では年齢が。そもそも実力としてどこまで五輪という場に参加できるタイムなり体質を獲得できるのか。まああれだ、「せんりのみちもいっぽから」ってことで頑張っていただきたいものであります。

 埼玉県にある鷲宮神社への今年の初詣客が去年と同じ47万人だったという数字が出回り始めて他がどれだけ増えたり減ったりしているかはまだ埼玉県警ベースじゃないから分からないけれど、それでも特にアニメーション作品があった訳でもなく、頑張っていた鷲宮町商工会も久喜市との合併後にそれといった派手なイベントはあんまり打ち出してはおらず、ようやく漫画は続いているってだけのコンテンツであるにも関わらず、それがあるってことで関心を抱いた層をちゃんと今も引きつけているところに何か“聖地巡礼”とか“萌え興し”といった言葉ばかりが先行する事象を、背骨の入ったものにするヒントがあるような気がする。まあここん家の場合は「関東最古」を謳った神社があるってのが大きいかな、年に1度なら行っても良い場所としてリストに入れたまんまの人、評判を聞いて今年こそはと思う人が数字となって支えてる。行けば見える楽しそうな雰囲気とそして荘厳な風景。きっかけを生かせた例って言えそうだけれど他では果たして。秩父とか鴨川とかこれまでの状況、これからの展開、気にしたい

 そりゃ誰だ、って調べたら声優さんではなくって女優でタレントだた田野アサミさんが新しく始まる「スマイルプリキュア」に出演するってニュースを真田アサミさんと空目した僕が想像したのは、宇宙からやって来たプリンセスたちが今は秋葉原のゲームショップに曲がりしながらご町内の危機に立ち上がって変身する、そのうちのキュアデジコをアサミ姉が演じ、もうひとりの妹分にあたるキュアプチコを沢城みゆきさんが演じては、現れる全ての敵を目からビームで粉砕するストーリーが、繰り返される毎週っていう奴。戦うシーンは一瞬で、あとはのんべんだらりとふて寝しているキュアデジコと、悪巧みをしているキュアプチコと、マスコットのゲマによる漫才のような日々が描かれるのであったという。見たいなあ。

 っていうか「スマイルプリキュア」って名前が何か満面の輝きで薄汚れた心にはちょっと厳しそう。むしろ心が醜い大人に向かって「アングリープリキュア」ってのを作っては、田中敦子さんがキュアフンヌを演じ、榊原良子さんがキュアゲキドを演じてはイケナイことをした大人を相手に、時に激しく叱りつけ、時に冷たくののしってくれる、というのが理想なんだけれど果たして。第2クールからはそんな2人に山口由里子さんが演じるキュアバーリが笑顔の中に突き刺さる言葉を発して背筋を凍り付かせ、三石琴乃さんが演じるキュアゾーゴンが上から目線の居丈だかな言葉でもって責め立てる「罵詈雑言姉妹」も加わってパワーアップ。そして第3クールからは見た目こそ天使のようだけれどもその口が開けば「うるさいうるさいうるさいっ!」って理不尽な碇を発するキュアクギミューも加わり全方位。声はもちろん釘宮理恵さん。そんなプリキュアが放送されるんだったら見たいなあ、見て日曜日を1日家でガタガタ震えていたいなあ。

 そしてドリパスで買ったチケットで「REDLINE」の大音量上映会を観にバルト9へ。試写から含めるとこれでいったい自分はこの映画を何回観ているんだろう渋谷で観て池袋で観て六本木で観てそのうちは同じところで何度も観ているからきっと片手では収まらないくらい観ているけれども何度観たって面白いものは面白い。おまけに今回はリミッター外した音量だからあの爆走するマシンのエグゾーストノートを本物に負けない大音量で聞ける訳だからこりゃあ行かない訳にはいかな。そして始まったイエローラインのレースでのレースは、マシンの爆音もさることながら、ゴールラインを切る瞬間に叫ばれるソノシーの「Yes!」の声がまた大きく響いて、大きな画面と相まって心をズッキュンしてくれた。可愛いよソノシー可愛いよ。

 もちろん木村拓哉さん演じるJPもJPっぷりが板についてまるでJPが実存で中の人に木村拓哉さんがいるだけってな気すらしてきた。もういっそあの風貌に整形して髪型もああすれば今までのいつものキムタクとは違った道を切り開けるのに。レッドラインでのソノシーを助け話して一緒に乗ってゴールをめざすシークエンスでの色気とやる気の入ったJPの声、最高だよ。どんな木村拓哉さんより最高だと思う人は僕だけじゃないと思うんだけれど世間は、とくにドラマ界はそうは思ってないからなあ。だから相変わらずな役をあてがい相変わらずな演技をさせてそれで受けると思ってるけど受けてないというこの矛盾。「REDLINE」がもっと流行っていればああそうかああいった感じこそた正しいんだと誰もが思ったのに。

 久々の上映ってこともあって満杯に近いところまで行ったバルト9には、渋谷新宿を闊歩してそうな兄ちゃん姉ちゃんがいっぱい。封切り時にこんな面子が持ち上げ話題にすればもっと当たりキムタクのイメージも変えられたのになあ。アニメーション映画ってホント、宣伝が難しい。頑張っても届かないというか気づかせられないのはメディアの感度が最低なせいなんだけれどそれを言ってもせんないはなし。こうやって再上映からヒットの機運を作ることによって世間の感度をアニメ映画に向けさせ、より早い段階から存在に築かせ宣伝へと向かわせられるはず、だと思って頑張ってきたけどメディアの感度はますます鈍りアニメなんて漫画なんてってな感じで報道を交代させ気味なのはもう何をか言わんや。そうやって流行に背を向け80年代的感性で新聞作って自爆したって誰も責任とらずに上は出世し下は苦闘しサヨウナラ、ってなもんだ。そんな現実を間近に感じつつそれならとこうやってひたすらに「REDLINE」の素晴らしさを、ことあるごとに語って未来を切りひらこう。またやるなら行くぞ上映。BD持ってるんだけどね。


【1月5日】 やっと見たアニメーション第3期「夏目友人帳 参」ではやたらと良い声の妖怪がいて聞き覚えがあるなあとエンディングのキャストを見たら松山鷹志さんだった。昨年末に下北沢のトリウッドで見たアニメーション「冬のレオン」とそれから「春のメリー」に登場して、語り部ボニファシオとしてあれこれ悪巧みをしては失敗する役柄を演じててその底から響くような悪役声に惚れつつも、失敗続きで退散していく哀れさをちゃんとコミカルに演じてみせた技に、感心したんだっけ。続編としてそのボニファシオがメインのエピソードも作られているか作られたかしたみたいなんだけれど日本では未放送で未公開。「夏目」での演技を聞いて是非にこいつも見てみたいと改めて思ったけれども叶うかな。

 そんな「夏目友人帳 参」は的場の暗躍でいきなり始まる重たいシリーズ。冒頭はまだ学校の仲間たちとの歓談があって明るそうに見えたけれどもそんな明るさを提示しておいて、それがどんな薄氷の上に乗っているかを見せつける展開は、常に薄氷を踏んでいる夏目の置かれた立場を見る人に改めて感じさせる。なんて厳しい生き方。それが誰にも心配かけたくないという優しさから出たものであり、また周囲から白い目で見られたことがまた起こるかもしれないという怯えから出たものってところがどうにも心苦しい。レイコのようにもっと気楽に生きれば良いのに、って思うけれども彼女は人間との関わりを断って妖怪とだけ向き合いそして逝ってしまった。そんな生き方を夏目に押しつけて良いものか? いつか来るだろう連載の終わりにたぶんそうした選択が描かれることになるんだろう。的場のように冷え込むかレイコのように漂うか。そうじゃない道、示されて欲しいもの。

 やっと見たアニメーション版「ちはやふる」は初の全国大会で近江神宮まで行ったものの夏なのに袴で着物姿にしたため緊張感も加わってバタバタ。全部大江奏が悪い、ってことにされちゃいそうだけれどもちはや以外は緊張こしてても普通だった訳でようは慣れとか気持ちの問題。入れ込んで突っ走っては爆発する性格には何かプラスするのは御法度、極力他の何かを考えさせるのを止めさせる必要がありそう、ってことで次からは素っ裸ででなさい千早。そうすれば熱いとか気にせずに済むから、って視線が集まりすぎて逆に緊張? それも当然と受け流す? 集中してれば視線だって気にならないから関係ないってことになるか。でもって次回はいよいよ個人戦。出るかクイーンのその声が。

 ブリティッシュの80年代ってロックが生まれパンクが蔓延った70年代から一変してどこかスタイリッシュでファッショナブルな音楽が生まれ流行った時代だったって印象が、強くあるのはやっぱりカルチャークラブにデュラン・デュランといったビジュアル系のニューウェーブがいっぱい現れては、広まり始めたMTVとかベストヒットUSAみたいなPVを流す番組によって目にする機会も増え、それに染まってしまったからなんだろうなあ。そうやって人は音楽と出合い植え込まれていく。逆にテレビを見ずラジオも聞かなくなった90年代からの洋楽がまるで体に染みてない。2000年代もしかり。寂しいけれどもそれでも昔を聞くとそれで良いって思えてしまうところに重ねた歳としそて仕舞いへと向かう人生を思う。なんつって。

 デュラン・デュランの派手さに対してヒューマン・リーグはもっと退廃的だったなあって印象を、NHKの音楽番組で特集されたブリティッシュの80年代音楽でのPVを見て確認。細面でふわふわっとした髪型をして渋い声で唄うフィル・オーキーのファッションに1980年代を思い出す。太めのズボンに片パッドの入ったジャケット。着てたよなあみんな。そんな美形のフィル・オーキーの今は何だスキンヘッドのおっさんか。ブライアン・フェリーは昔からおっさんだったしデビッド・ボウイは吸血鬼みたいに歳をとらないのと比べるとそうした変化も人間っぽくて良いかな。絶頂を究めスタイルを確立していたクイーンのフレディ・マーキュリーはその絶頂の下で死去。だからPVとかライブに出てくるフレディを見るとずっと変わらない。今いたらどんな風だった? ってブライアン・メイとロジャー・テイラーの老けっぷりを見たらちょっと心配も。それ故にあの時点でという思いと、それでも今でもという思いの交錯する偉大なシンガー。死して20年。

それでも「マリオカート7」の108万本が最高で、まあ発売が12月1日だったから1カ月のスコアでこれなら悪いことではないのかもしれないけれど、200万300万と売れるタイトルが一時は目白押しでもあった中で、シングルのミリオンがトップになってしまうこと、それも世界に冠たるマリオの名を持ったタイトルでその程度だってところにゲームソフト市場が置かれた状況なんてものが垣間見えたりもする、エンターブレインによる2011年ゲーム市場リポート。2位もやっぱりマリオなタイトルの「スーパーマリオ 3Dランド」でこれも104万本とようやくミリオン越え。3位に102万本でプレイステーションポータブル用の「モンスターハンターポータブル 3rd」が続くけれどもこれは2010年12月発売のタイトル。累計が450万本に達したというから凄いけれどもそれが入ってしまうこともまた、新作力作に乏しかった状況を伺わせる。

 ハードでは3DSがやっとこさ400万台を超えてまあなかなかの数字で締めたけれども売れたのが「マリオカート7」に「スーパーマリオ 3Dランド」に12月10日発売の「モンスターハーンター3(トライ)G」と何か月並み。サードパーティーに機会を、なんて発売当初は言ってていろいろなところがいろいろなものを出したみたいだけれども結局は、自分のところとそれから大人気ソフトが持っていった。選択肢がなかったのかそれとも人の気持ちが選択を避けたのか。面白ければ売れるという時代でもなくなって何か面白そうなものに集中してしまう傾向が、ここのところ強まっているけれどもそんな集中がなおいっそう、顕著になった年だったってことか。ちなみにPSヴィータは40万台。2日で32万台とか売ってその後の一週間で10万を積み上げられたかどうかってところか。うーんちょっと出足鈍い。3DSだってもっと行ったよなあ。ホリデイシーズンを抜けて果たしてどんな感じか。ネガティブな意味でドキドキするなあ。

 植田益朗さんと南雅彦さんという、それぞれにA1−Picturesとボンズというアニメーション制作会社を率いる社長が元々いたサンライズでいっしょに仕事をした芦田豊雄さんを忍ぶトークイベントに出るってんで秋葉原のUDXで開かれている芦田豊雄回顧展の会場へ。植田さんも南さんも仕事で話したことはあるけれども深い関わりじゃないからまるで覚えられていないのをこれ幸いと、席に座って眺めつつ暴露される様々な話を聞いて笑う。すげえなあ芦田さん。アニメーターでも何でも新人は芸ができないといけないってことであとカラオケでも1番に唄わされるとかで、そんな試練を乗り越えスタジオ・ライブのそうそうたる面々は育っていったらしい。プレッシャーをかけることで生まれる人間としての感情の機微、それを絵に描き生かそうとした、ってことは多分ないよな、単にお祭り好きだったんだ。

 そんな芦田さんと「銀河漂流バイファム」で汲んだ植田益朗プロデューサー。子どもでも楽しめるデザインってことで「ミンキーモモ」で評判だった芦田さんを引っ張ってきたってことらしいけれど、そんな芦田さんと21世紀に入った数年前、また「バイファム」をやりたいねって話をして、そこでキャラクターの話になって今の最先端は「交響詩編エウレカセブン」でキャラデをやった吉田健一さんで、それを超えないと意味がないってことを植田さんに言いつつ、自分なりの最先端を描いてみせたとか。結局未だ実現はしてないけれどもしっかり残っているらしいそのデザインが、動き映像になって世に出る日を今か今かと期待したい。

 南さんは「超力ロボガラット」の2話の進行あたりからがっちり芦田作品に関わっていったみたいで、放送まで1カ月半の状態で作打ちしてたりスタジオに行くと原画にいろいろなアニメーターが落書きのような書き加えを行っている様を見て、それが普通だと信じてたというか信じたいと考えているというか、とにかく大変だけれど楽しいアニメの制作現場を経験して着たことが今の真摯な制作スタンスに繋がっていたりするのかも。とはいえボンズが綿密に行う作画とスタジオ・ライブが行う動きはあっても描き易さもある作画とは、タイプが違うみたいでライブではボンズから動画は受けても第二原画は受けていないとか。そういうスタジオのカラーを見て、作品を見るといろいろ分かることがあるかもしれないなあ。参考になった。

 それは「超力ロボガラット」のどすこい姉妹ってキャラにも言えることらしく、あのアーマロイド・レディでハマーン様の榊原良子さんが声をあてている割にはどすこいな姉妹の前から見ると巨大なくちびるが、後ろから見ても見えるのかといったときにライブの面々は当然見えると考えた。ところが「太陽の牙ダグラム」なんかを担当していた大阪のアニメアールはリアルな描写を旨としていたところから、くちびるが後ろから見えるはずがないと考えたという。ホント? って思うけれども言われるとそう信じてみたくなるスタジオのカラーの差異。そんな違いのどっちに行くかでアニメーターとしての性格も人生も変わって来るんだろうなあ。破天荒なライブから出て破天荒な絵を描く人ってやっぱり多いのかな。サムシング吉松さんとかそんな口なのかな。


【1月4日】 前作がどうだったか記憶からずるりと抜け落ちているけれどもとりあえず、強いんだけれど訳あって一味を抜けて裏切り者扱いされている騎士だか何かがいて、日頃はのんべんだらりとすごしているけど実はアンナという名の少女に強い関心をしめしていたのが、そのアンナをとりまく状況が一変。いろいろあって戦って本領を見せつつ逃げだし今まさしく逃亡中、ってところだったんじゃなかったっけ八薙玉造さんの「獅子は働かず 聖女は赤く2」(集英社スーパーダッシュ)の現在地。どうやら聖女らしいアンナを誘い、竜の魔女と呼ばれ見かけは幼児だけれど正確も幼児だけれど、年だけは行っているサロメも伴いやれやれとたどり着いた地で、いきなり竜が降ってきては地面に突き刺さる。

 刺さるっていったいどういうことかと思ったら何か槍に変形できる竜らしくってそれが別の竜といっしょに大暴れしている場所に行き会わせ、やられていた傭兵たちをどうにか助けて街へと向かってから一服する間もほとんどなしに、元「獅子の牙」と呼ばれる中央教会所属の戦士にして今は一時見方していた改革派教会からも追われる身らしいユリウスは、たったひとりで禍竜と呼ばれる竜たちが守る反乱中の街へと乗り込んでいっては状況を打開しようと務めたところに馬で突っ込んできたのが街に置いてきたアンナとサロメ。その馬でもってユリウスをはねとばしたアンナをユリウスは引っ張り寄せ、馬の胴体に顔を押しつけその獣っぽさを存分に嗅がせ味わわせる。

 ってな愉快痛快な展開もありつつ状況は中央教会がでばって反乱を起こした村にはちょっと一触即発。その追っ手、美少女にして「獅子の牙」となったコルネリアを相手にユリウスも力を駆使して奮戦する。相手は幼少の頃からユリウスを剣術体術で圧倒していたコルネリア。本当だったら叶わないところをどうにか凌いだその手練手管がなるほどユリウスという戦士の持つ成長であり強さってことか。冷静でそして強靭。その意志がいったい何を目的に裏切り者呼ばわりを甘んじて受けつつ聖女を守って旅をする方へと向かわせているのか。明らかにあれていくだろう展開と、待ち受けているらしいタクラミに今は興味。次は何月頃に出るんだろう。

 せっかくだからと秋葉原あたりを散策したらまだまだいっぱいの人だかり。冬休み中の学生に限らず普通の人も歩いてたりするのは仕事始めで神田明神とか湯島天神あたりをお参りした人たちが流れて生きているからなのか。外神田のそば屋のまつやにも行列。年越しそばはあっても年明けそばもあるとは知らなかった。まあ昼真っから呑むならやっぱりそば屋もんなあ。芦田豊雄さんの展覧会には「サイボーグ009 1979 DVD−COLLECTION Vol.1」と同じく「Vol.2」のジャケットが追加になって飾ってあってそういやこれとそれから昔の奴をちゃんと買って持ってたんだと思い出した。でも見ていない。そういうものだDVDって。

 そういやあ008ことピュンマって79年版だとまだくちびるって厚いタイプだったんだっけ。芦田さんが描いたDVDコレクションのジャケットでは、石森章太郎さんが最初に描いたのと同じ、ややステレオタイプなアフリカ系の人ってイメージになっていたから、まだきっとそうなんだろう。劇場版の「超銀河伝説」あたりで変わったようすで以後はずっとそんな感じ。漫画もそれに合わせて変わったんだっけどうだったっけ。全集があるから見ようと思えば見られるんだけれどその全集がある場所が段ボールの山の下の下。掘っても掘っても出てこないからむしろ買った方が早いという。何というか末期というか。引っ越したいなあ。

 会場を出て人混みの中をとらのあなに向かったら買い逃していた「カーニバルファンタズム」のセッション2が残っていたんでそれとそれから新発売のセッション3をまとめて購入してさらに年明けに回してしまった「化物語」の音楽ばかりを集めたCDを購入。これに入っている「恋愛サーキュレーション」を聞いて魂を高めた柏原竜二選手があの箱根の坂道をぐいぐいっと上っていった姿を思い出し、なるほどまさしく「せんりのみちもいっぽから」であり「ちりもつもればやまとなでしこ」なのだと思い知る。そんな歌詞をリスペクトしているだろう柏原選手に、インタビューで誰かリポーターがそう突っ込めば面白かったのに。「走る上での心構えは?」「せんりのみちもいっぽから! です」。「ちりもつもればやまとなしこ、略して?」「ちりつもやまとなでこ!」。1発でセカイのアイドルになれるぞ柏原選手。どんなセカイかは知らないけど。

 「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「けいおん」を作っているアニメーション制作会社の京都アニメーションが募集した小説の賞から登場した、一之瀬六樹さんって人の京アニ大賞奨励賞受賞作「お屋敷とコッペリア」(KAエスマ文庫)が完璧に素晴らしかったので多くの人は読むように。成生術を研究している貴族の青年コッペリウスが病弱な妹を直す材料として妹そっくりの自動人形を作る。それがコッペリア。けど肝心の心臓は鼓動せず治療に使えず青年は諦める。コッペリアと名付けられた自動人形の少女は、仕方なく屋敷でメイドとして働くことになるけれど、掃除以外は何をやらせてもダメ。感情がなく表情もなくいわれることだけをこなしていた。

 そんなコッペリアだったけれど、何かをしたいという感情がやがて芽ばえ、同僚のメイドと交流を重ね、自分にそっくりだという理由もあって、最初はコッペリアを嫌っていた病弱な妹のスワルニダともうち解け変わっていく。意地悪からスワルニダによって行けと向けられた真冬の森で、巣から落ちて死にかけていた狐を見つけたコッペリア。誰もが諦めさせようとする中、助けてと叫んだことから、はじめは出せなかった声が出せるようになる。そしてメイドたちと旅行に行って、顔に表情が生まれてくる。スワルニダが文通していた少年の訪問で、心というものにも関心を持つようになっていく。

 やがて来る展開は、お屋敷でもちょっとだけ変わったメイドのロロアが関わって不穏な結末を見せるけど、けれども訪れる開かれたエンディングが喜びをもたらす。人間に作られた存在でしかない自動人形に、何かを言いたいという気持ちがもたらす言葉の意味、不可能を可能に変える夢を抱く意味など、人間に必要な事柄を重ねて成長させていく展開が、翻って人間という存在の豊かさを示す。一之瀬六樹さんの「お屋敷とコッペリア」は人とは何かを問うSF的であり、人間そのものについて問う哲学的な物語。なかなか売ってない本だけれども探してでも、取り寄せてでも読む価値はある。探してみてはいかが。


【1月3日】 ということで赴いたアメリカンフットボールの日本一を決めるライスボウルは、社会人から2連覇を成し遂げたオービックシーガルズと、関西学生の雄ながらもここんとこ出場から遠のいていた関西学院大学ファイターズとの試合で、そういや関学って見たことあったっけ、ってライスボウルの結果とそれから過去の日記を漁っていたら、2002年1月にアサヒ飲料チャレンジャーズとの試合を見ていたみたいだった。その時はチャレンジャーズの側に陣取って見たようで、大人なチアリーダーたちを眺めつつ、関学の若い学生のいかにもチアリーダーって感じの躍動を遠目に眺めて逡巡懊悩したようだけれど、ここのところずっと学生側に陣取るようになってその若さはそれで悪くはないものの、派手なパフォーマンスとそして見えるそこかしこのボリュームでは、社会人のチアリーダーにやっぱり軍配を上げたくなる。

 なにしろ体型がまるで違って全体にスリムな上にかかとのあるブーツも履いているから背が高い。なおかつ胸元もくっきりと開いた衣装が中心で見える谷間にのぞく山。それでいてウエストはきっちりと締まった体型の美女たちが、何人もそろって動き回る様派やっぱり見ていて心惹かれる胸躍る。対する学生のチアリーダーはアメリカの大学生やら高校生なんかが出てくるドラマに登場しそうな雰囲気で、なおかつアメリカンなボディバランスとはまた違った東洋の節制やら奥ゆかしさやら慎み深さを体現したような前後方向でのスリムさ見せていて、眺めていて部分的躍動とかいったものをほとんどといって良いほど感じない。あとタワーとか作る関係もあってブーツを履いてないから背丈も全般にニッポン民族。ただ数だけはいっぱいいいるからそれらがユニゾンして踊る迫力、って奴については学生側のチアリーダーに軍配が上がる。

 見た目重視か数重視か。あるいは年長者の色気か若さ故のみずみずしさか。選ぶに迷うところであるけれど、それでもやっぱりしばらくずっと学生側に陣取るのは、ひとつには社会人のチアリーダーはXリーグとかに行けば見る機会がある一方で、学生の方はなかなか試合を見に行けないし、行ってもチアリーダーがそろっているとは限らないから。ましてや関西の大学なんかの試合、は東京で見ることはライスボウル以外は不可能。そんな年に1回の、それも毎年同じ学校が来るとは限らない大会を、逃してしまうって手はないというのが表向きの理由。裏はやっぱり若い方が良いから、ってのはちょっと短絡的か。若いったって粒ぞろいとは限ら(略)。いやあのチアリーダーのユニフォームさえ着ていれば。いずれにして今年もオービックには同じ千葉在住ながら申し訳ないと誤りつつ、1塁側の関学スタンド、チアリーダーたちが勢ぞろいする真正面に陣取り出番を待つ。

 おお現れた。数たくさん。見た目は……。見た目は……。若いからオッケー。そいういうものだ。スカートにチューブトップの前が首にひっかかるようになった感じの衣装で、露出も割とあるんだけれどそれが気にならないくらい、前方後方への出っ張りが希薄なのは運動でもって鍛えまくっているからなのか、それとも成長戦略においていささかの齟齬が生じているからなのか。うーん最近の女子大生ってもっともっとハッタツしているかと思ったのに。そんなチアリーダーを眺めつつ、待つことしばらく。始まった試合ではなんだ関学強いじゃん。まずタッチダウンを奪い、フィールドゴールで迫られながらもタッチダウンで引き離してハーフタイムを終了。社会人だから体も大きければパワーだって勝るシーガルズのオフェンスに対して、しっかり逃さずランは止め、パスも防いでなかなか攻撃を進めさせない。

 社会人の決勝でバシバシと決まったパスも、今ひとつ届かなさそうなシーガルズがこのまま泣かず飛ばずでいくのかと思った後半から第4Qにかけて、それまであんまり見せなかったロングパスが飛び始め、なおかつそれが決まるようになってシーガルズがぐいっとリードし、そのままゲームセット。2年連続のライスボウル優勝っていう快挙を成し遂げた。最近だと2003年1月と2004年1月のライスボウルに出て、連覇を成し遂げた立命館大学パンサーズ以来の連覇ってことになるのかな。企業チームって訳ではなくってリクルートから始まってあちらこちらを流浪して来たクラブチーム。グランドはあってもそこに何時間とかかけて通ってくる選手もいたりする中で、厳しい社会人を勝ち上がってそしれライスボウルでも連覇を果たし、チームとしても最多の5度目という優勝回数を達成してみせたところがなかなかに凄い。

 これがラグビーだったら、クオーターバックとか、ワイドレシーバーとか超スターになっていて不思議じゃないのにそうはならないのは、メディアのラグビー偏重、それも関東の一部大学に偏りがちなラグビーブレインが蔓延してしまっているからか。世界に出たって1勝することすらおぼつかないラグビーの、それも関東に限ったアマチュアたちの試合を持ち上げ並べてみせたりするその非スポーツ的報道っぷりが、何を引き起こしているかといえば関東の有名校っていわれるところが、出なくなってしまった大学選手権での入場者の激減だ。これが日頃からラグビーってスポーツそのものへの関心を持たせる記事を書き、ラグビーのどこが面白いのか、そして勝っているところは何が凄いのかを伝える記事を書けばどこが出てこようとそれなら見に行こうってことになる。

 サッカーなんて2部リーグのチームがそろったってそこにサッカーがあるからと、国立競技場を満杯にする人が詰めかけた。高校サッカーだってどこが出ようと開幕戦も、決勝戦も国立がちゃんと満杯になる。Jリーグ発足前後から20年くらいかけて積み上げてきたものがそこにはあるのにラグビーは。それはだからメディアの責任だけってことでもなくって、ラグビーを仕切る側の問題でもあるのか。アメリカンフットボールについては試合数が少ないってこともあって、年に1度のお祭り化しているライスボウルに何万人って人がつめかけ、東京ドームの1階スタンドを埋め尽くす。上の層にも入れないと収まらないその人数。チームがどっちってことじゃなく、そこにアメリカンフットボールがあるから見に行く人たちがいるからこその現象を、ラグビーでも起こしていかないと日本にやってくるワールドカップで、どこかとどこかの試合に来場が数千人、なんて恥ずかしい事態も起こらないとは言えないぞ。って言われ続けてもいまだに代わらぬメディアの報道姿勢。ダメかもしれないなあ。


【1月2日】 大晦日の「キングラン アニソン紅白歌合戦2011」で惹かれたのはあと、宮内タカユキさんが体調不良ってことでおそらくは午前早くとかに出演を依頼されて登場した柿島伸次さんで、本当に急遽だったのがバックバンドも譜面の用意とか合わせとかしている時間もなかったのか、たったひとりでステージ上に出てきてはエレアコ1本を使って「トランスフォーマー ギャラクシーフォース」の主題歌「CALL YOU…君と僕の未来」を奏でそして唄ってみせた。それがまた抜群に巧くって、カッティング中心のギターの演奏でリズムもいっしょに刻みつつ、アニメだとノリの良い疾走感のあるあの楽曲を、端正さの中に力強さを持ったアレンジにして歌い上げてみせた。

 元が素晴らしい曲だってことももちろんあっただろうけれど、それにしてもリズムも歌い方もアニメ版とはまるで違った演奏を、それでもしっかり聞かせてしまうところがプロフェッショナル。ただ唄うシンガーとはまた違ったミュージシャンとしての凄さって奴を存分に感じさせてくれた。あれをいきなり演って出来たのか、ライブとかでも披露していてそれで演れたのかは分からないけれども、どっちにしたってそうしてしまえるところがやっぱり凄い。あの演奏を見てそして歌を聴くだけでも意味がありそうな感じがしたんで機会があればライブとか、行って見たい気も今はしてる。小さい箱なら機材とか使わずアコースティックだけでいろいろ演ってみせてくれるのかも。巧い演奏って見ているだけで感動するから、良いんだ。

 あとmanzoさんってパラダイス山元もかくやって衣装で現れた剽軽そうな人がいて、調べたら「日本ブレイク工業」のあのアニソンっぽさ全開な曲を作って唄った人だと聞いてなるほど「天体戦士サンレッド」の歌を歌って当然と思ったら続いて山口理恵さんと一緒に「これはゾンビですか?」のエンディングの「気づいてゾンビさま、私はクラスメイトです」を唄ってその陽気っぽさにああこれもアリだと思ってどんな人かとさらに調べたら、オープニングの疾走感があってスタイリッシュさもたっぷりな「魔・カ・セ・テ Tonight」も作ったと知って人っていろいろな引き出したがるものだと感心。映像もカッコ良かったけれどもそれもあの音楽あっての疾走感だった訳でそれを作れてあれも作れる才能が、一時とはいえ企業で働きながら仕事していたと知って日本って国の底知れなさを今さらながらに知る。あと才能はどこにいたって芽吹くという。見習いたいあやかりたい。

 天気も良いのでカメラをかついで手に荷物を持って本所吾妻橋あたりまで行って公演でキノコとか沢ガニとか雨蛙とかを撮る。なんのこっちゃ。まあいずれそのうちに。浅草は浅草寺があるってこととあと、東京スカイツリーがぶったったってことで見に来る人も結構いたみたい。とくに何もない隅田川沿いの公園とかにも人がいっぱい流れてきていて見上げるようにデカい東京スカイツリーを眺めたっり写真に撮ったりしていた。隅田川を浅草寺側に渡ると川を挟んで向こうにスカイツリーがぶっ立つなかなかの景色。たった1つの建造物がこうも景色を変えるものかと驚きつつ、そうした建造物があるなしによって人の関心も大きく違ってくるものだと知る。浅草界隈は大きな財産を手に入れた。

 もちろん浅草寺それ単体でだって相当な規模の参拝客を集めていた訳だけれども、そんな古い風景を手間に置いて仰ぎ見るとそこには近代の象徴たるスカイツリーがどんとそびえる。不思議にして不条理。なのししっくりとしてしまうそんな光景を愛でにこれから毎年、そして何十年も人が浅草へ、隅田川へとやって来ることになるんだろう。それは多分浅草に十二階こと凌雲閣がそびえ立った時にもきっと大勢が抱いた感慨だったんだろうなあ。古い街並みにそびえる近代の牙城。そのミスマッチに人は反応せざるを得ないのだ。でも凌雲閣って関東大震災で崩れ落ちているんだよなあ。それは不吉。でも建ってからそこまで32年はあった訳だし今時の30年くらいで立て直すビルに比べたらよっぽどマシかも。せめてスカイツリーもそこまでは。そんな程度なのかスカイツリー?

 せっかくだからと上野へと出て国立西洋美術館前でミロのヴィーナスを撮影。やっぱり意味不明。その脚で不忍池の弁天様へと向かい暫く並んでから参拝する。若さと収入を維持したいとお願いしたけどかなえてくれるだろうか。500円ではやっぱり無理か。待っているあいだにどんとんと日が下がって入る日射も横からになって映し出される池の光景のなんと美しいことか。ビルが建ち並ぶ都心部にあってこれだけのひくい角度での日射しを浴びられる場所ってのもそうないだけに、周辺にはこれからもあんまり高いビルとか建たないで欲しいけれどもそうもいかないんだよなあ、現在。池にはボート。いつかマックルイェーガーにオールを漕いでもらいたいものであるがそんな相手など現実には存在しないのであった。嗚呼。そういや元旦から2日間、ほとんど喋ってないなあ。明日もたぶん喋らないで三が日が過ぎる。さびしくなんかないからね。


【1月1日】 2011年の最後に聞いた曲が「甲虫王者ムシキング」のアニメーションでオープニングに歌われていた松本梨香さんによる「生きてこそ」だったことに2011年という年が持っていた重大さを感じた年の瀬を、花園神社で過ぎて買ったおみくじは吉でまずまず。早めに消えると取り分が増える仕組みって奴が少し前からあったのが、年度明けから適用される範囲に変更が行われたりしてそれにバッチリと引っかかってきたりすることもあって、身の処し方って奴を考え始めなくちゃいけなかったりするんでこうした占いの結果ってのもなかなか捨ててはおけないのだった。

 前に臨時であった時とか、赤坂の豊川稲荷で引いたら「凶」が出たもんなあ。それはさすが初めての経験で、ヤバいかもと思ったのとあと当時はまだ環境も良かったけれども、これからは小田原提灯は縦長で折り畳み式で収納や携帯に便利ですよとか、岐阜提灯は飾りも絵も美しくってお盆じゃなくても飾っておくと良いインテリアになりますよ、なんていった言葉ばかり、連ねなくっちゃいけなくなったりする可能性もあって迷いどころ。割り切ることもできない訳じゃないけれども、それで残る年月を過ごしてその後に残るものが何もない、ってのはなかなか寂しい。だったらこの時期に何かをしっかりため込み55歳過ぎからのブースターにすべきって意見もあったりする。

 あとはやっぱり状況として、周囲で著しく言葉の空洞化が進んで未来が不安ってこともあるのか。そしてそんなスカスカの言葉ばかりが持てはやされていたりするって状況に対するもやもやとした感情も。事実無根、あるいは軽微に過ぎなかった状況を畏れ戦いた結果起きた、薪とか東北のアンテナショップの品々への、放射能の付着の有無をめぐる騒動なんかがいかに無為なものかは分かっているけど、だからといってそれを引き合いに、原発も安全だから再稼働すべきだと書いてしまえるのは、人間の科学的な思考としてなかなかに困難。どうやったってそれらはイコールでは結びつかないから。なのにできてしまう。尊ばれる。まったくわけがわからないよ。

 安全対策をばっりちやれば原発は依然低コストだと書くのも、分からないではないけれど、でもそんな思考から放射性廃棄物の超長期保存のコストという計算がまるっと抜けていたりする。気づいていないのかわざとなのかは分からないけれども、薪とかアンテナショップの品々とは違って確実に放射性物質が入ったそれらを今、そして今後受け入れるところなんてあるんだろうか。あるならそれにはやっぱり膨大なコストがかかるし、なければやっぱりもはや動かし続けることはかなわないと、考えれば浮かぶ疑問を避けている。やっぱりわけがわからない。

 安全対策をしたら大丈夫だということは裏返せば、安全対策をしてなかったから大丈夫じゃなかったという現実を示すもので、つまり安全対策をしなかった企業体への責任を示唆するものであるけれど、そうした企業体への糾弾より先に、政権への非難をもってくる筆も別にあったりするから、やっぱりさっぱりわけがわからない。普通だったらそれにあちらこちらから意見がいっぱい寄せられるはずなんだけれど、まるっとスルーされている現実はすなわち、市場においてプライオリティーがもはやなくなりかけているって現れなんだけれど、そうした状況が炭鉱のカナリアとして機能しなくなっている。このまま突き進んだら待っているのはいったい何だ? って考えるとやっぱり考えてしまう1月1日元旦、あけましておめでとうございます。

 都営新宿線から総武線を乗り継いで午前2時に帰り着いて、それから午前6時に起きて向かった埼玉県は久喜市にある鷲宮神社。例の「らき☆すた」でもって有名になって以降、毎年のよーに参拝者が増え続けている神社だけれど、さすがにアニメの放送から随分と経って波も収まったかと思いきや、午前8時半の段階ですでに鳥居のあたりまで行列が伸びていたりしてなかなかの人手。去年は昼過ぎに到着して行列がさらに伸びて、交差点を曲がったあたりまで続いていて、参拝に2時間くらいかかったことを思えばまだまだ少ない方だけれども、「らき☆すた」以前はせいぜいが近所の人が来る程度だった神社が、元旦の早朝でこれって訳でやっぱり凄いその効果。そして続いているということも。

 ひとつにはちゃんと原作者とそして地元とが連携して、「らき☆すた」ってコンテンツと鷲宮神社および鷲宮あたりとの関係性を希薄にしないように努ているってことがあって、商品も新しく生まれそれを買い求めに来るにもちゃんといて、繋がりがしっかりと続いているから去年で止めたって訳にはいかない。去年行って楽しかった思い出もあって、だったら今年もって意識を生んでそこへと向かわせる。何よりそこが神社ってことも、初詣という年に1度の行事を成立させ、人を引きつけるハブとして機能している。聖地巡礼、といった言葉も随分と流行ったけれど、やっぱり神社仏閣というリアルな意味での“聖地”が核にあると、ハレの日に、あるいはふとしたきっかけに行ってみようか、って気を起こさせやすいのだ。

 ただの街ではそうはいかないし、ただの校舎では逆に迷惑がられる。人が集まってそれが歓迎される場所を中心に仰いだ聖地巡礼だからこその成功、ってのは鷲宮神社の場合、やっぱり考慮しておく必要がありそう。その意味で「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」の場合は、神社仏閣が“聖地”のハブとして機能しているのかな。地元は頑張っていても、そうした集まれる場があるとやっぱり強いからなあ。「ホッタラケの島」のあの神社はそうしたハブにならなかったよなあ。まあ中身が中身だったから仕方がないか。でもちょっと残念。鴨川あたりが次の候補に挙がっているけど、何かそういう“目玉”はあるのかな。水着の3人娘の銅像とか、あれば僕なら駆けつけるけど。けど。

 童貞が魔法を使えるってのはファンタジーだし、童貞だから何か力を秘めているってのも流言飛語の類でしかないのが現実だけれど、人間のある種の本能を抑制し快楽に背を向け貫く心身には、やっぱりなにがしかのパワーがあるかもしれないと考えて考えられないこともなさそうと思う心理が、ひとつにはそうした童貞を内なるパワーへと変えた少年の戦いを描いた「覇道鋼鉄テッカイオー」という小説を生みだし、もうひとつとしてやっぱり小説の幾谷正「神童機操DT−0」(講談社ラノベ文庫)を生みだした。なぜ同時多発的にこうした根が似た話が生まれたのかは分からないけれども、きっと世界にはそれを苦にしつつ呻吟する青少年が大勢いるって現れなんだろう。かくいうここにも……。

 さてさて向こうは一種の武侠物だったけれども、こちらは巨大人型決戦兵器物。大元に得体の知れないテクノロジーがあって、それを改造したり増やしたりして作られた巨大ロボットを運用する計画があったんだけれど、ある事故が起こって計画は中止となって、中心にいた科学者は怒りからか脱走して世界に反旗を翻す。それはいけないと受けて立ったチームが一方にあって、敵から奪った人型ロボットを動かし戦っていたけれども、生みの親がいるだけあってなかなか相手も強敵。エースが負傷しもはや敗北確実か、ってところに通りかかった少年がひとり。童貞かと呼ばれそうだと答え赴くと、パイロットからロボットを託された。

 それは動かすには童貞が求められるというマシン。晴れてか雲ってかは本人の意識次第だけれども、それに適合してしまった少年は、ロボットに乗り込み操り敵を蹴散らし、そしてそのままメンバーとして加わっていく。なぜ童貞あるいは処女であることを、耳にタグを付けるかどうかで世に示さないといけないのか? といった社会システムへの懐疑を最初に抱くけれども、それが何者かの陰謀によるものだ、といった説明があって納得。とはいえそこまでじわじわと手広く世界を支配している敵の親玉が、ロボットに乗って最前線まで出てきてしまうのか、なんて疑問も別に浮かんでしまったりもするけどまあ、それだけ世界を憎んでたってことで。

 あと主人公が世間の風潮に反してまで、童貞であり続ける理由として、「テッカイオー」の場合は最愛の(それすらも真実か怪しげだった)少女の命を延ばし続けるため、という決意があったけれど、「DT−0」では心理的なトラウマが根にありそう。だったらそんなの気にしなければ相互オッケー、晴れて結ばれ万々歳になってしまう話ではあるものの、ここまで世界に頼られてしまうと、捨てるに捨てられないよなあ処女も童貞も。さてどうする? ってうか本当にそうでないと動かないのか。意志の問題ではないのか。そもそもいったい大元は何なんだ? 等々の疑問も抱えた物語なだけに、続く展開での解決を。


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