縮刷版2012年10月下旬号


【10月31日】 目覚めたら何か「スター・ウォーズ」の続編が作られるって話が出ていてその理由がディズニーによってルーカス・フィルムが買われたからでジョージ・ルーカス自身は「スター・ウォーズ」を引き継ぐときが来たってコメントしているそうだけれど、これまで頑なに自身での続編制作を拒んでいたのにどうして会社が変わるとオッケーになるのか、その辺りの感情の機微が今ひとつ分からない。やっぱりお金のためなのか。自分では無理だけれども誰かが作ったものなら見たいのか。きっとこれからいろいろな場所で釈明していくことになるんだろうなあ。

 そんな「スター・ウォーズ エピソード7」を作るとしたらいったい誰が監督を務めることになるんだろう。「トイストーリー」で世の中を驚嘆させたジョン・ラセター自身が監督を務めるか、それとも彼を総指揮にしてブラッド・バードが監督したらいったいどんなのが出来るのか。多士済々の人材からいろいろ想像してみるのも楽しいな。「ジョン・カーター」の巻き返しとばかりにアンドリュー・スタントンが監督するのも面白いかも。「メリダとおそろしの森」のマーク・アンドリュースに再起をとか。でも主役をミッキーでヒロインをミニーがするのだけは勘弁。「スター・ツアーズ」じゃあるまいし、そいういうのが見たいんじゃないから。でもそっちのが売れそうな。うーん。様子を見守ろう。

 発売された「アニメスタイル002」の表紙がサイボーグナンバー002のジェット・リンクではなく009の島村ジョーなのはタイトルにそぐわないんじゃないか、というツッコミはさておいて、表紙にするならむしろ003のフランソワーズ・アルヌールにした方がすでに映画を観た人にとってそのエロティックぶりも伝わって、より多く手にとってもらえたんじゃないかと思ったり。できれば作中で出てきたアンダーウエアな姿でもって読者に迫って欲しかったけれど、それをするのは009の前だけよな感じなんで仕方がない。でもせめてグラビアにはそういうのが欲しかった。なやましのフランソワーズ。載っていたら伝説になったかも。

 そんな「アニメスタイル002」での「009 RE:CYBORG」に関する神山健治監督へのインタビューからラストについてあれはジョーの祈りというよりみんなといたいというフランソワーズの祈りが実現したものかも、って話があった。それは神という特別な外部の概念による奇蹟というより、人間が持つ思念が拡大して起こる変化といった解釈。でもそういうのも含めて神と言うならまさしく現実にはありえない神の御業があったということで、外部的な超越者による奇蹟と何が違うのか、ってあたりにやっぱり迷いを感じる。あるいはフランソワーズの願望だったらそこに来た007や008は現実世界で消えた2人そのままか、その記憶を受け継いでいるだけの003の願望か。存在そのものへの懐疑も抱かせるんだけれど無理すると頭が融けるんでここは神様有り難うと唱えて身を退こう。

 それにしてもぶっちゃげすぎな感じの神山監督インタビュー。押井守さんとの共鳴しつつ対峙していく関係についてはクリエイターどうし、刺激し合っている感じで読んでいてむしろ楽しかったんだけれど、そういうトップクリエーターの思いの外で動く現実に対して、神山監督がいろいろ言っているのが面白かったと言うか興味深かったというか。「『イノセンス』にいっちょ噛んでおけばオイシイ思いができるぜ」とか言って、ちょっとしか原画を描いてないのに『イノセンス』のスタッフ面をしたり、こっちの仕事もろくにしないで『イノセンス』の打ち上げパーティーにいそいそと出かけていくやつがいたりね」って、誰とは言わずとも誰かに心当たりがある事象。それをぶちまけギクシャクする可能性を気にしないでいられるのも、会社を持ちサンジゲンという制作集団を得た気安さか。過去に耽溺しない意味でも新しい制作スタイルを試し使える物にしたかったのかなあ。ともあれ読みどころたっぷりのインタビュー。見終えた方も「攻殻機動隊 S.A.C」のファンもご一読を。

 そんな「アニメスタイル002」でも個人的な読みどころはやっぱり「虹色ほたる 〜永遠の夏休み〜」の特集と宇田鋼之介監督へのインタビュー。その分量は過去に出たどれよりも多くそして中身もどこのものより濃いという、「アニメスタイル」ならではのインタビューになっていて、これを読むだけであの映画の持つ価値がさらに何倍も高まっていくような感じがした。例えば気になっていたエンディングでの本編には使われていないカットとか、シナリオにはあったけれども削った部分でそれを画像とかにして差し混んだみたい。当初は120分くらいのシナリオになっていたそうだから、完全版にしたらいったいどんな話になっていたんだろう。

 でもって現代編でのユウタとケンゾーの再会ももっと会話があったそうだけれども切ったとか。でもそれが語らず感じさせる内容になってむしろ個人的には良かったんじゃないかと思ってる。虹色ほたるが発動するシーンももっとスペクタクルな感じになる予定だったものを抑えたとか。ここも説明が少なくサエコがどうして失明しているのか分からないけれど、あの大事故から命だけは助かった代償みたいなものでそれでも賢明に生きていて、ようやく出合ったからこそのあの喜びだったんだと理解しよう。

 そんな展開に関する興味を超えてやっぱり迫ってくるあのシーンの理由。つまりはユウタとサエコが参道を駆け上る大平晋也さんによる作画のシーンがどうして生まれたか、だけれど依頼して上がってきたのがあのままで、それも巻物のようなレイアウトがあって時間もなく修正する時間もなくそれ以上に背景動画の動きの素晴らしさから修正する必要はないと認めてそのまま使ったとか。間に合わず直前の参道に向かうシーンは通常のままで作画されたけど、そこで流れる「水の影」の歌が途切れ音楽だけになった切り替わりと同時に絵も切り替わり、1977年の現実が生と死の狭間に瞬間陥りそこでサエコが生きる気持ちを固めるシーンを見事に表現することになった。結果オーライではあってもその結果を推計してゴーサインを出し見事に仕上げた監督の決断力も含め、幾つもの奇蹟が重なって生まれた名作だった。3日のオールナイトがだから楽しみ。改めていろいろ知って見られる最初だから。もしかすると劇場では最後? そうならないよう頑張って上映を続けて欲しいなあ。

 最近はアイドルとか人気俳優とかのインタビューばかりになって前みたいな地下アイドルだのアニメーション監督だの声優さんだのが載らず寂しい思いをしていた読売新聞夕刊「POP−STYLE」がなぜか唐突にマヤの予言についてインスパイアされた記者たちによる予言をどう乗り越えるか対決になって吹いた。かたやマヤ料理にいそしみこなた滅亡に備えた海上シェルターの体験記を載せ辛酸なめ子さんに判定してもらったらやっぱり滅亡を想起させるものより明るい物が良いと料理が勝利。シェルターも面白かったんだけどねえ。そんな記事の中にやっぱりこれって感じで「世紀末オカルト学院」のDVDの紹介が。主役がマヤだし滅亡が2012年だしピッタリ。再放送されたのもそうした人気を当て込んでのことだったのかな。だったらBDボックスくらい出せば良いのに。出ないから海外版買っちゃった。タイムループの話でもあって傑作SFなんでずっと見てもらえると嬉しいなあ。


【10月30日】 やっぱりもう1回くらい見ておくかと、「009 RE:CYBORG」を見に行ったら、今度は3Dじゃなくってスタートも上海での自爆テロからではなくって何か、台湾みたいな場所に隣国の独裁帝国が攻めてくるってところから始まって、その現場にいて医師たちに交じって働いていた獅子丸翔って風に名前を変えている島村ジョーが、なぜか常人にはない力を発揮して、ボランティア組織のトップを務めるギルモア博士らしい人に迫る危機を予知。けれども未だ覚醒しないまま隣国の独裁帝国による謀略を許してしまってギルモア博士を殺害され、その後を引き継ぐように遺言される。

 もっとも未だ明確な力は発揮しないまま、獅子丸翔こと島村ジョーはインドから来たあれは禿げていたから007で、南アメリカからやってきたあれはインディオだから多分005の語りかけにも目覚めないまま、独裁帝国に侵略され大わらわな中でひそかに独裁帝国に侵入していた張麗華という名を名乗っていた003が心の声で語りかけ、獅子丸翔こと島村ジョーを目覚めさせては、帝国が“彼の声”によって企む世界滅亡のための最終兵器発射を阻止しようと奮闘。その果てにいったんは捕まり処刑され命を失うものの、天使の導きによって復活しては本格的な覚醒を経て神の声を世の中に伝え、奇蹟を呼んで地球を救ったという展開は、前に2回ほど見た「009 RE:CYBORG」と大きな違はないから多分やっぱり見たのは「009」だったんだろう。エンディングも宇宙を回る地球だったし。

 声が宮野真守さんではなく子安武人さんで、斎藤千和さんでもなく藤村歩さんだったのも前とは違っていたけどどちらもしっかり演じてた。001の姿が見えなかったけれども異能の力を振るうってことできっと木花開耶姫が001だったんだろう。あと頭が8匹の巨大な蛇は体に水中を自在に動けるウロコを持つ008が変じたものか。006と004と002はちょっとお休みってことで。まあでも前に見た「009 RE:CYBORG」でも008とか出番がなかったから、絵コンテの段階でいろいろいじった結果として、こっちの「009」はそういう展開になったと理解。結論からすれば神の有り難さに目覚め人類が天使の導きによって未来へと足を踏み出すという点は同じな訳で、それを神山健治監督はスタイリッシュに描き、今掛勇さんは神秘的に描いたと。そんな2つの「サイボーグ009」映画の競演が愉しめるは今だけ。さあ行こう劇場へ。違うって。

 個人的にはまるで興味が湧かない題材なのは東京都民だからじゃないからだけど、それでもやぱり世界でも屈指の都市の首長にボンクラがなられては世界的に良い迷惑、なんだけれどもすでに同種の事態は起こしていたから別にやっぱり今さらか。でもさすがに宮崎から来たあの人とか推してそれが当選するような辞退になったこの国も、というか東京都いう都市も相当にアレだたりしるよなな。副知事の猪瀬直樹さんだったら多少は世の中が見えているって思えそうだけれどあの人も得意なことは喜色満面で話す一方で無関心なことはとことん関心を見せそうもないから。あと何かぶち壊すようなこととか、アラタに生み出すようなことを言ってリーダーシップに載せて実現してしまうようなパワーも。その点で石原慎太郎さんはアニメフェアやるぞと言って実現させたし、マラソンやるぞといって瞬く間に実現させたから。三宅島でTTレースはさすがに無理だったけど。そりゃあ無理だって。でもやれることはやった。猪瀬さんは。ましてや宮崎からの禿頭は。そこが気になる。日常にも関わってくることだけに。

 「ヤングキングアワーズ」の2012年12月号が出たんぜざっと読む。「天にひびき」はやっぱり波多野深香が巨大なバストを音に共鳴させて振るわせたかしてコンテストで4位に入ったけれどもそれ以上に唐変木で優柔不断な久住秋央が曽成ひびきのコンマスになるために必要なことを思いだし1音1音を作曲家の思いを探るようにして弾いたのが奏功してか2位に入る快挙。思いっきりぶっとばしてイケメンの後を追いかけるかと思ったらそうはならないところにひびきへの情愛というか敬意が滲む。それを知ったら波多野さん、またまたジリジリするんだろうなあ。「アリョーシャ」は何か複雑な動きがあるようだけれど英国のスパイで変装の名人がクリーミィマミっぽいのに化けてすべて吹っ飛んだ。「ドリフターズ」は静かな展開。「アオバ自転車店」はパンク修理でも完璧なら女子高生に持てるというお話。そんなことあるのか?

 「クラウゼウィッチーズ」ってタイトルも凄いけれども中身も凄い巌百合彦さんって人の小説は、何か衰退していった挙げ句に自治体ごとに統治が別れてしまった日本で自治体間の紛争なりに決着を付けるのは、そこにある学校が持つ戦争部が戦ってつけることに決まってそして少女たちが作った戦争部が兵隊がわりの運動部員たちを指揮下に置いて戦争にいったり、航空戦力が欲しいと飛行機を受け取りに言っては空中戦を演じたりするといった滅茶苦茶だけれど愉快なお話。タイトルどおりにクラウゼヴィッツの「戦争論」あたりがテキストとなって読んで勝利を目指そうとする女子たちだけれど途中までしか読んでいなかったり通り一遍の理解で決してうまくは行かないところが可愛らしい。ドラッカーとか哲学書とかのライトノベル化という流れに乗って「戦争論」とクラウゼヴィッツを萌え小説の中に入れ込んだといった感じだけれど、割にキャラが立ってて展開も面白いのがかの大ベストセラーとは違うところか。つまりは読んで面白いってこと。エッチなシーンもあるけどいったい何をやっているのやら。読み切ろう今晩あたり。


【10月29日】 とりあえずマリアンデールには付いていることは分かっているんだけれどだったらあの谷間もくっきりと出来る盛り上がった胸はいったい何なんだろうと思案していると夜寝られなくなっちゃう、身もだえで。平たい胸を寄せてあげてどうにか谷間を作ることは可能ではあるけれど、それでは足りないくらいなふくらみが横から見たときとかあるからなあ、だから胸は何かで膨らませつつ下はまだいじってないというパターンか。それとも付いている上に開いてたりもするのか。

 とてもとても気になるけれども話は「金魂」ならぬ「金玉」そのものへとシフトして、デュカキスが壊れてしまった股間を癒しに別荘まで戻ってそこで許嫁から将来についてあれこれ語られ呆然とするという展開。それはリアルな社会にもある男性側に原因を持った不妊への、どこかからかいにもにた表現で、そういう立場にある人が見たら悲しみと憤りも浮かびそうだけれど、午前1時5分の深夜アニメということで、今はあんまり話題になっていないのが制作者側には幸いというか。何か救われる展開があると良いんだけれど。再生したとか。そういう身でも相手が受け入れてくれたとか。どうだろうなあ。

 まったくもって無実の人が犯人として逮捕され、起訴までされてともするれば一生を棒に振りかねない事態となった何者かによるウイルスを使ったなりすましによる脅迫メールの発信事件で、そうした境遇に疑われた人が陥る可能性について、ウイルスを作った犯人が思い至っていなかったのはまったくもって想像力に欠ける所業だと避難する新聞記事があって、まあそれはそのとおりなんだけれども一方で、事件が起こった当初からコンピュータウイルスに詳しい人からこれは誰かがなりすましによってメールを勝手に発信した可能性があるって指摘がされていたんじゃなかったか。

 にも関わらず、捕まった人をいかにもそういうことをやりそうなカテゴリーの人だといった情報を上乗せして、ガンガンと報道していたことへの自省がまったくないのは事態への想像力が欠けている上に、現時点を理解する能力も欠けているとしか言えないんだけれどそういう自覚が新聞の側にあるかというと、まるでないまま正義面ばかりをしているところをすでに世間は欺瞞と感じ取っていて、いい加減にしろと思っていたりする訳で、それが何をもたらすかというのはすでに数字が証明していたりするのであって、つまりはなかなか大変だということで。困ったなあ。またまた困ってばかりだ。

 メディアワークス文庫になって手に取りやすくなった杉井光さんの「終わる世界のアルバム」は、人が消えると記憶からも記録からも消えてしまう世界でただ1人、消えた人の記憶を持っている少年が主人公。自分だけが覚えているという葛藤は消えていく人たちへの情となって彼を責め、とある少女の登場と彼女の喪失への悲しみを誘う。両親とか消えてもさすがに誰かから生まれた事実はあるからそう推定しつつ生きている人々の親がいなくなったことへの想像力が悲しみへと繋がらないのか、といった思いを一方に抱く。おっとも、それだと世界は悲しみに溢れてしまうから、感情も忘却してしまうようになっているのかもしれない。

 そうやって人がいなくなり、道具も減って静かに滅びていく世界で自分ひとりだけ覚えているというのはやっぱり相当な苦痛なのか。それが成立し得る原因が分かりもう同じような”記録”ができなくなてもなお少年は覚えようとするのか。「終わる世界のアルバム」という作品は、記録される記憶の是非も問う。忘れられるのなら忘れてしまった方が悲しまなくって済む。そう少女も言う。なるほどと思うけれど、でもやっぱり覚えている悲しみがつながって、生きていた証も残っていく。だから少女も覚えていてと最後に願い、それがかなって覚えていた人が増えていく。忘れるより悲しみたい。それが人間という存在なんだ。これとか「さよならピアノソナタ」とか、一般小説として読ませてとっても評判になりそうな路線で、杉井さんもこれを極めれば良いのに格闘家ハイドンと書いちゃうんだよなあ、好きだけど。だからどっちの路線でも突っ走れ。

 実はまだ読んでいないんだけれどアガサ・クリスティー賞の2回目の発表会があったんで明治記念館まで出むいていって遠くから受賞者を眺める。北上次郎さんが新人賞の価値はこれに応募してくれた人で決まるって話していたのはそのとおりだけれど、そんな受賞者が過去に日本SF新人賞を受賞して、それからもう1冊講談社BOXからも出している一応のプロフェッショナルであることにはまるで言及しないところに北上さんらしさがのぞくというか。それを言うなら去年の森晶麿さんも直前に「奥の細道オブ・ザ・デッド」を出し、漫画版「1984」の原作もやっていたプロフェッショナルではあったけれどもまるでタイプの違う話を書いての受賞だったから、評価してもらえる先にうまくはまったと言えそう。今回のは「黒十字サナトリウム」とも「黒猫ギムナジウム」とも違うのかな。とりあえず読まないと。その前に「BEATLESS」を読み終えないと。1日10ページがやっとこさなんだ。

 授賞式ではその「BEATLESS」の長谷敏司さんと話して「メタルギアソリッド3」への意欲を聞く。やりこめば何十時間もかかるゲームのノベライズって大変だろうなあ。頑張って欲しいけどでもやっぱりオリジナルも読みたいな。そっちの予定もあるみたいで今はただ着々と進む執筆を待とう。「ヘンたて ヘンな建物研究会」の青柳碧人さんも歩いていてご挨拶。ピンクのシャーペンは競争率が高そうだ、って気がついたら自分、結局応募はガキを出してなかったんだった。でもいいや、さくらんぼノートは持っているから。いっそ両方ともグッズ化して講談社のサイトで売れば良いのに。アニメ化とか実写ドラマ化とかされたら絶対にグッズ化されるからそれを待つか。でもなかなか動かないなあ。手を挙げるところがないのかなあ。だったら僕がtotoBIGを当てて映像化するぞ。でもそえなら「千葉県立海中高校」を特撮映画にしたいなあ。あるいはアニメ映画に。当たらないかなあ。お願いBIGマン。買わなければ当たらない? ごもっとも。


【10月28日】 伊佐那社はだからやったのかやってないのか。それを確かめるべく夜刀神狗朗を引き連れ猫まで混ぜて学校に行っては事件の当夜にあった様々なアクシデントの最中に自分が確認されていないか記録を探ったもののどこにもおらず、かろうじてクラスメートの写真に収まっていたのをみつけて一件落着したかと思いきや、帰った部屋の押入から発見される血染めのシャツのこれは一体何段だ。フラッシュバックする記憶ともどもどうやらやっぱり関わっていそうな感じだけれど、肉体はずっと学園にあった訳で。うーん。そんなあたりに「無色の王」の謎なんかも潜んでいたりするんだろー。そして学園としにやって来たスケボー乗りとデブは早速ゲートで捕まり大変な目に。どうやら来週はあの美しい淡島世理さんがいっぱい出てきてくれそうで、その反則級の胸とか尻とかを画面いっぱいに振りまいてくれそうで今から楽しみ。さらけ出している割に「絶園のテンペスト」の鎖部葉風には同じような色気も殺気も感じないんだよなあ。どうしてだ。

 そして「絶園のテンペスト」では車で逃げたはずの先に現れた巨大な目玉で子供たちが黒い石になってしまって困ったというか、そこまでせっぱ詰まっている事態にどうして国家が非常事態を宣言して国民中が右往左往していないのか、ってあたりの微妙さを少し感じていたり。メインは主役の2人がどうやって小学校の時に仲良くなったかでいけすかない少年と主体性に乏しい少年の出合い触れあい近づいていく展開に加わったお嬢さまカットの美少女。やっぱり女性がすべての鍵か。そして彼女が早々と退場してしまった理由は。原作を読めば分かるだろうけれどもまだそこまでの意欲は感じてないんでおいおいと。しかしやぱり葉風は豪快すぎて色気が皆無。あの絶海の孤島でいったいどうやって生活しているんだろう。魔法は使えなくてもサバイバルは得意なのかそうなのか。誰も見てないんだから隠さずとも良いのに。そこだけ文明人ぶりやがってと魂からの叫び。おおう。

 もうちょっと書き込める題材だったかもしれないけれども個々のエピソードを深堀下挙げ句にくどくなって長くなって飽きられては意味がないのでここはメインに17歳の総理大臣とその彼女っぽくなり元アイドルを中心に守ってきたのが正解だったかもしれない峰月皓さんってにの「七人の王国 総理大臣は十七歳」(メディアワークス文庫)。とある孤島はリゾート開発会社の私有地になっていてそこに暮らしていた訳ありの七人が語り合って島の独立を宣言。もちろん国には認められなかったけども一種のムーブメントとして世間に評判となって大勢がやって来て国っぽくなっていくというストーリーは大げさでない井上ひさしさんの「吉里吉里人」って感じで、昔からよくある独立コミュニティーの奮闘って奴を見せてくれる。理想で立ち上がった組織が現実の前にもみくちゃにされて瓦解していくって展開も同様に。

 ただきっかけが元アイドルの外務大臣の少女に恋慕し下半身を狙って入れられず憤ったテレビ局プロデューサーの讒言というのが少し通俗的であんまり気に入らない部分。報道に熱意を持ち自分が育て上げた存在だと自負するタイプの人間だったら女絡みで嫉妬し憤って讒言するような真似はせず、まずは育てるだけ育てていって自分がその影の立て役者になるくらいの向上心って奴を見せるんじゃなかろーか。あまりにスキャンダラスな話の守って生き方は逆に反発をくらい人権無視だと騒がれ叩かれるのが現在のネットコミュニケーションが盛んな時代。それを知らずして立ち回って結果として落ちぶれていく所を見るにつけ、そのプロデューサーにすべての責任を押しつける形で展開を急ぎすぎたような気もしないでもない。

 とはいえ精神を傷めてひとり島にいった少年やライバルにけ落とされて放浪の果てに島にいった元アイドルや暴力事件を起こした青年や上司に逆らえず詐欺容疑を被った元女性警官やエッセイストの元医者や元営業マンは実質的な島のオーナーで総理になった少年の父親の知り合いといった一癖も二癖もある面々の、ドラマをジグジグと書いていったらそれこそ文庫一冊では足りないし、瓦解の展開をスペクタクルでドラマチックに見せようと思ったならプロデューサーの暴走によるメディアスクラム的な叩きとそれに呼応するネット民といったステレオタイプも仕方がない。そうやって浮かび上がるこの世界の権威と呼ばれる存在のくだらなさ、流言飛語に流される人間のだらしなさって奴を噛みしめその先に来るだろう次の展開への希望って物を、抱いてページを終えられるのがこの物語の利点か。とりあえず元女性警官で詐欺の責任を押しつけられた酒匂さんって人のビジュアルが見てみたいけどきっと真面目な美人なんだろうなあ。演じるなら誰がピッタリかなあ。

 江戸川でスキャンダルのライブを観る前に立ち寄った秋葉原のヨドバシカメラAkiba店でもってあの「マジック・ツリーハウス」のブルーレイディスクが1980円で出ていたんで思わず買ってしまう。普通に出たときに買おうと思いつつ手元不如意で遠慮してたらこうなってしまって少し哀しい気持ちもしたけれど、作品自体はとてもよくってとりわけ大河内一楼さんが書いた脚本が抜群で少年が妹といろいろな歴史の国を旅する過程で自分はお兄ちゃんで物知りだって自信をもちつつもポンペイで危機にあって右往左往して自分は頼りないと落ち込んで、それでもやっぱり妹を大切だと勇気を振り絞ってお兄ちゃんに戻るその心理の変遷と、妹の勝手に振る舞いながらもお兄ちゃんを頼りにする可愛らしさがしっかり書かれてとてもいい気分で映画を見終えられた。加えて声が誰も巧くって、映画館で見てこれがヒットしな日本はおかしいとすら思ったけれども人気漫画の映画くらいしかヒットしない国なんだよなあ、たとえベストセラーでも。キッズ向けでブルーレーがそぐわなかったってこともあるのかな。とりあえずまだ平積だったんで折角だから揃えておこう。「けいおん」の劇場版のBDも4980円で出ていることだし。

 そしてSCANDALはもう完璧なまで4人組ガールズロックバンドとなってドラムのRINAの的確で迫力のサウンドをバックにTOMOMIの太いベースが響きMAMIの鮮やかなリフが鳴り響く上にHARUNAのボーカルが重なって、迫力たっぷりの分厚いロックサウンドって奴を聞かせてくれた。武道館でも存分にその歌声は広がったけれどもキャパでちょうどいいくらいの江戸川総合文化センターはライブハウスより見やすく音も響いてなおかつこぢんまりとしてしっかりと全員が見られる最適な場所。2階席から見下ろしてとりわけRINAのドラムが存分に見えてあの可愛らしい顔立ちとあの細い腕でよくもまあ2時間、叩きっ放しに叩けるものだとドラマーとしての凄みを存分に味わう。きっとずっとすごいドラマーとして活躍していってくれるだろうなあ。セットリストは新譜が中心だったけど「スペースレンジャー」とか昔の馴染みある曲はやっぱり演ってる方も気持ちがのるのかいい感じに響いてた。11月にまた中野サンプラザに行くんでさらにどこまでの上積みがあるかを確認だ。今度こそタオル振るぞ。


【10月27日】 ようやくテレビアニメーション版の方をチラチラと見始めて案外に“中二病”という奴をギャグとして自虐的であり加虐的にとらえてあって、自分がそういう風だった時代なりそういう物に憧れた経験があった人たちの懐古的でもあり、思い出したくもない暗黒の歴史でもあったりといった心理を刺激する一方で、妙にど派手に中二病的エフェクトを実在しているかのように演出しては、そうした傾向にある人たちの突飛さを顕在化させて傍目にも笑えるような映像にしてあって、なるほどアニメーションとしてとてもとても面白く、ヒットしている理由もだいたい分かった。ネットで流しているショートフィルムもなかなかで、とりわけエンディングが最高。これ、来年の夏の盆踊りに絶対に使われるぞ。

 けれども一方で、かつて中二病であった少年と、今なお絶賛中二病な少女との出合いから同情、そして恋情へと流れる経過を描いてほんわかとした気持ちにさせてくれた、虎虎さんが書く小説版のニュアンスがちょっと塗り込められているような気がした「中二病でも恋がしたい!」(KAエスマ文庫)。小鳥遊六花という少女の眼帯をして包帯を巻いた姿に周囲はそれとなく気づいてはいても、だからといって彼女を排除したり孤立させたりする方向には流れないその健全さが読んでいてすんなりと入ってくる上に、富樫勇太が彼女をそうだと気づいて保健室へと連れて行って会話をしながらそういう時代もあったと自分を懐かしみつつ、だからといって卒業したからお前も卒業しろと全否定をしたりはしない優しさも、相手を慮る心理、誰がどうであってもそれを認める鷹揚さって奴を味わわせてくれたのが小説版だった。

 それは第2巻になっても変わらず、七宮智音って中学時代に勇太といっしょになって中二病として暴れながらも2年生の時に転校して、そこで丹生谷森夏とであっていっしょに暴れはしないまでも語り合ったという少女が、勇太と六花の学校に現れ本気の中二病っぷりを見せては六花を相手に対決するストーリーでも、そうした姿を傍目から眺めて勇太がひくということはなく、自分が好きな六花を支え自分を好いてくれる智音を受け止めながらもご免と言って逃げも隠れもしない態度は、相手が何であれ認めることの素晴らしさ、って奴を感じさせてくれる。

 映像だと実際に武器が出たり大技が炸裂したりする中二病的なバトルのシーンも、それぞれが技名を言い合い効果を叫び合いながら互いに技を受け止め、あるいはかわすふりをしてぶつかり合う様が、それっぽさを醸し出していてとても面白い。その空気を想像する楽しさってものがあるんだけれど、アニメではそれらを全部映像にしてしまうから、中二病的なバトルの傍目には妙でも、捉え方によっては面白いニュアンスが消えてしまうような気がする。実際にカードを使わずトレーディングカードゲームをするような高等テクニック。それを描いてビジュアルを想像させるところに虎虎さんの筆の力って奴がある。だからテレビアニメで面白さに触れた人も、是非に小説版を読んでもらいたいというのがひとつ。読んでアニメならではのバトルの突飛なキャラも出てこないのはつまらないと投げず、そこに書かれた現実的な中二病的な振る舞いと、そうはいっても厳しい現実とはちょっと違った優しい中二病への視線を味わって、こういう世の中にしていこうって思ってもらえたら誰もが生きやすい世の中になるんだけれど。どうだろう。

 早起きをしてやっぱりここで見ておきたいと六本木ヒルズにあるTOHOシネマズへと出むいて行って「009 RE:CYBORG」を見る。2回目。上海のビル群がまるで積み木の棒っ切れのように将棋倒し状態になっていくビジョンってそれで良いんだろうかとか思ったり、六本木ヒルズのあの住居棟に暮らしている島村ジョーは家族がいないとはいっても生活感ゼロ過ぎて何を食らって生きているのか分からないなあと思ったり、普通なら下に逃げるところをどうして屋上に逃げたんだろうとか思ったりもしたけれども、そうでなければ上から降ってくるフランソワーズを受け止められず、地面に激突して粉砕されたフランソワーズの欠片を見て泣く話になってしまうから仕方がない。

 そしてじわじわと近づいてくるベガを相手に東丈は覚醒して飛行機から落下するプリンセスルナを救出するのであったって、「幻魔大戦」がちょっと交じってしまったなあ。やっぱり意識しているのかな。あのシーン。それは冗談として、全体としてはすでに見ているからストーリー展開に驚きはなくむしろ淡々と進みすぎる展開に早朝であったこととも相まって静かな時間が流れては戻るといった雰囲気。それでもフランソワーズのダイブはひらめくスカートの奥が見えないものかと目を凝らしたり、そんなフランソワーズがスカートの中身もブラウスの下も見せては島村ジョーに迫るシーンを網膜に焼き付けたりと場面によっては意識を取り戻す。

 そしてジョーとジェットの空中バトルからイスタンブールのギルモア財団本部への襲撃を004と005、006が撃退にかかるバトルなんかを存分に楽しみ、そんな彼らでも倒し切れなかった敵をあっという間に蹴散らした009の加速装置の能力に、やっぱりリーダーは君しかいないと納得したりと楽しみどころをしっかり楽しむ。同じことならきっとジェットだって出来るんはずなんだけれど、ペンタゴンの中では別にそういう振る舞いをしてなかったよなあ、ジェット。加速装置搭載してないんだろうか。そんなビジュアルでありアクションについての文句の無さ、といってもやっぱりフル3DCGでモデリングしてある分、表情が硬かったり歩き方がずっとモデル的だったしして妙ではあるんだけれどそこはサイボーグだからという言い訳なんかをつけつつ納得することは可能かもしれない。

 一方で、ストーリーについては結局敵は神様で、それが人間を滅ぼそうとして“彼の声”なんてものを発して操り核ミサイルとか使ったんだけれど人間の中にも、といってもサイボーグだけれど反攻して人間を生き延びさせようと頑張った人がいたんで、悔い改めて救ったってことになるのかそれとも、人間の頭の中にある滅亡への願望が、それを神の声だといった理解で人を動かしやっぱり同じようなことを考えていた人たちの共鳴を誘って多発テロを生んだものの、それは拙いと神様が00ナンバーサイボーグたちを動かし救ってそして彼らも救ったのか。分からないけど解釈はいろいろ。ただそれがあまりに奇蹟なんで最後にちょっぴりポカーンとしてしまった次第。あれはどこのベネチアだ。そしてどうして水上を歩けるんだ。まあ良いそんなベネチアだからこそ、フランソワーズはカチューシャをして口に手を当て「禁則事項ですっ!」のポーズをしてくれたんだし。そこのシーンも見る価値十分。つまりはフランソワーズを見に行く映画、ってことで時間があったらまた行こう。今度は眠らずに最後まで見るぞ。

 そして夜には今度は「008 RE:SATOMIDOG」っていうアニメーション映画をテアトル新宿で観賞、かつて南総に栄えた里見家にゆかりをもって世界の敵と戦った8人の犬士たちも、今では強大な敵に追われる形で郷土を離れ転々として生きていて、そんな中にあって若いながらもリーダーと目された008こと信乃は正体を偽り役者として生計を立てていた。けれども権力者に奇妙な声を聞かせて操り、世界を滅亡へと追い込もうとする敵の追っ手が迫る中、信乃は00ナンバー犬士としての姿を取り戻し、望楼の上から身を投げ出して信乃に覚醒を促した003こと凍鶴とともに最後の戦いへと身を投じるのであったという、そんな映画はありません。でも同じ宮野真守さんだしなあ、「009 RE:CYBORG」も「伏 鉄砲娘の捕物帳」も。

 ただやっぱりそれぞれに感じが違うように演じているみたいで、上映後に脚本の大河内一楼さんと宮本昌幸監督によるトークショーでは元気で前向きな浜路と対称的になるようにどおか沈んで暗く情念を燃やしつつ最後のバトルでは心から叫ぶ信乃って役柄を捉え演じていた模様。最初は茫洋として覚醒してからもどこか淡々としている島村ジョーとはちょっと違うかな、だってあっちはずっとずっと大人なんだから、見かけに依らず。そんなトークイベントも楽しかった「伏 鉄砲娘の捕物帳」はやっぱり凍鶴のシーンがもの悲しいなあ、どうしてそもそも江戸になんか出てきたんだろう、そしてわざわざ子供を外で育てようなんて考えたんだろう、その子供は知らず狩られてさらし首、それを知らず知ってもどうしようもできない凍鶴は狩られ涙を流して首をさらす。

 華やかな場所から逃げ出すのはゾーラみたいで、お歯黒を塗るのはアイシャドウを塗ったプリスのよう。理不尽な死に怯えつつ向かい敗れる「ブレードランナー」の悲しみを内包した作品としてそっちのファンの琴線を揺らしそう。だとしたら信乃にはルトガー・ハウアーよろしく上半身素っ裸で「ほっ、はっ」とか言いながら江戸城を駆け回って欲しかったけれどそれだとイメージが。優男なんだけど悲しみを背負った姿を見せていたからこそあの田舎娘の浜路を惚れさせ彼女の純粋な心を揺らしたんじゃなかろーか。いずれにしてしっかりと作られ最後まできっちり見られていろいろと得られる良い映画。映像だけじゃなく物語にも演出にも音楽にもちゃんとまとまりがあるこの秋で最高のアニメーション。世間じゃもう1つの宮野作品が話題だけれども将来に傑作として残るのはこっちだと断じて「伏 鉄砲娘の捕物帳」を見に行けと訴えよう。「人造人間 加速男の黙示録」よりも先に。


【10月26日】 しかしやっぱり浮上する毀誉褒貶の毀とか貶。だって新銀行東京とか作って中小企業向け金融をやるとかいった割には審査が甘くて破綻をいっぱい出した挙げ句に大赤字になってそこいさらにお金をつぎ込んで1500億円とかいったばく大なお金をどこか見えない場所へと垂れ流したし、築地の市場を移設するとかいっていろいろ騒いで豊洲に決めようとした割には反対されたり豊洲の土地によくないものが現れたりして未だ話は宙ぶらりん。何より東京五輪招致という御旗を掲げていろいろお金を集めては、何百億円もやっぱりどこかに流した上にさらに同じだけのお金を使って再び五輪を呼び込もうとしている。

 開催されれば嬉しい気もするけれど、その本気度が世間にまるで伝わっていない残念さ。それを国の体たらくだと起こるけれども世間が動かないってことはそれはやっぱり世間が今は五輪を望んでいない現れなんだろう。それを汲まずに国の責任にして騒ぐだけっていうのはやっぱりどこかみっともない。官僚制度が悪いって言うけどそれだったらどうして前に国会議員だった時にそうした官僚制度と戦おうとしたんかったのか。まだ無茶苦茶強かった頃の自民党にいて官僚とだって戦おうと思えば戦えたのにそれをせず、今になって威張って出てこられたっていったい何が出来るのか。歳も歳だしバックもない。それを言って票を集めようとしているだけって思われても仕方がないだろう。何かを悪し様に言って自分を良く見せ急場をしのぐ繰り返し。その度に社会はどんどんと悪化していく繰り返しをどこかで誰かが断ち切って欲しいけれど、誰もいないから80歳の爺さんが担ぎ上げられその気になってしまう訳で。何だかなあ。

 普通に美人だと思うけれども北白川麗奈さん、176センチあったってモデルにならそれくらいの人はいっぱいいるし太ってないし眼鏡だってチャーミングだしボサボサな髪だってとかせば綺麗になるはずなのにどういう訳か自分に自身がなくっていつも猫背でうつむいて、ぼそぼそと喋るから周囲から変わり者だと見目ではなくってキャラクターをそう見られてしまって損ばかりしている。むしろそういう時こそチャンスなんだけれども人を見極める目にかけてはやっぱり映画監督の方が上みたいで、西炯子さんの「なかじまなかじま1」でもって通っている補欠で入った名門女子大のお嬢さまに引っ張り出されていった映画のロケ先で、その雰囲気にピンと来た監督に面前と「ブス」と言われながらもちょっとした役を与えられ、それで心底からの怒りを発して面白さを掴んでもらってつきまとわれる羽目になる。

 ロケ現場で川に突き落としたって懲りずにやって来る映画監督。でも麗奈自身は陸上競技の選手が好きで今は高校生でもダントツらしい成績を残している少年に関心を持って雑誌を買ってながめたりしている。そんな意識を知る由もなく映画監督は夜中の女子寮におしかけ寝間着姿の麗奈を呼び出しオープンカーに乗せて近所を疾走。学園祭でも見つけて呼びだし引っ張り回すという所業。その度にブスだ何だと言ったところでそれなら何でそんなに関心を抱く? ってところで素直になれない中年男の野生って奴がギラギラ輝く。そこに靡き欠けるかとうとやっぱり陸上競技の少年が好きな麗奈は遂にバイト先でその少年と知り合い大失敗を経て口を利く中になる。深まる愛? そうなれば嬉しいけれども実は麗奈は知らなかった。野獣のような映画監督と草原のような陸上少年が親子であるということに。

 そして始まる綱引きのような恋、ってことになるんだろうけれどどっちを立てればどっちも立たない普通の恋愛ストーリーに収まるはずがない西炯子さんの作品だけあって、どっちもどっちの関係を続けていってはどっちともいい仲になってそしてって展開も、想像できていろいろ楽しい。そこまでアバンギャルドではなくても、向こうが積極的な父親とこちらがひそかに思いを寄せる息子との間に立って振りまわされて右往左往しながら自分の本当の気持ちに気づいていき、そして盛っている本来の魅力を発揮していく年頃の女性の姿って奴を見せて大勢の女性たちの人気を獲得しそう。もう10数年は読んでいるけどここに来て本当に本当に活躍しはじめて来たなあ、西炯子さん。これだけ人気なのにどうして映像化作品とかないんだろう? 吉野朔実さんといい不思議な漫画家。縁がないのか断っているのか。うーん。誰かプロデューサー、挑まないかなあ「ひとりで生きるもん!」の映像化に。無理だよそれだけは。

 せっかくだからと「武装神姫」の録画してあった分を2話から4話までざざざっと見て結論。神姫たちは長谷敏司さんの小説「BEATLESS」に登場するアンドロイドのレイシアたちよりもしかしたら頭脳的に優れているかもしれない。だって自分で考えて自分で行動するんだから。パワーこそ人間と等身大のレイシアたちにはかなわないけれど、そんなレイシアたちだって指定された枠内でもって行動を余儀なくされている。その最大限を貫こうとして人間たちをアナログハックし自分たちにとって有利な条件を引きだそうとはするけれど、そうした段取りを踏まないとやっぱり行動できないし、命じられたことも最適解を導き出すためにいろいろと苦労している。続に言うフレーム問題って奴。けど神姫たちはマスターのためってことなら何だってする。料理だって作るしレースにも出るし用心棒もやる。凄いなあ。そんな脳髄はいったいあの小さな体のどこに入っているんだろう。クラウドって感じでもないしなあ。やっぱりジェリカンに秘密があるのかな。美味しいのかなあ、ジェリカン。

 スペインの方で皇太子が出す賞とかを受賞したらしく任天堂の宮本茂さんが出かけていっては、現地のメディアにもみくちゃにされたりファンにサインをしたりマリオとルイージに挟まれご満悦だったりする画像や映像が海外のサイトとかから流れて来ていてやっぱり凄い人気を全世界的に持っているんだなあと理解。「スーパーマリオブラザーズ」に「ドンキーコング」に「Wii Fit」にほかもろもろ。開発したゲームのそれらを楽しんだ人たちの数を合わせればきっと何億人とか軽く超えそうなインパクトを、持った人だからこそ遠く離れたスペインで王室から讃えられて表彰される。翻って日本では文化庁メディア芸術祭が時折評価はしていても、国として文化勲章を与えるとか国民栄誉賞を与えるとかいった話はまるでなし。それこそ世界文化賞だって与えてしかるべき芸術家だと思っているんだけれど、映画の監督は表彰してもアニメーションの監督は脇においやるこの国で、ゲームクリエーターなんてまだまだ彼方の存在でしかないんだろうなあ。哀しいけれどこれが現実、コ・フェスタなんて言ってたって。


【10月25日】 ビーティーもバオーも眺めてはいたけど読んではおらず、流れから第1部にはほとんど関心を向けずに通り過ぎたのがなぜか第2部に入ってふと読んだ、シーザー・ツェペリがワムウに挑んで敗れたシーンにこれは何だこの漫画はいったい何だと単行本を読み返しつつ、連載を追っていったのが「ジョジョの奇妙な冒険」にハマったきっかけで、だから数あるシリーズでもベストはやっぱり第2部で、そこからふり返って読んだ第1部とそして第1部の続きとなる第3部までがひとつのシリーズとして、強く認識されてしまっていたりする。

 だから六本木ヒルズで開催中の「ジョジョ展」でも、個人的な見どころはやっぱり第2部のあたりでとりわけジョセフ・ジョースターとシーザーと、リサリサとメッシーナが見開きで描かれ今にも掛けだそうとしているあの絵が会場の中でもっとも目に突き刺さって、ポストカードがあれば欲しかったけれど見あたらなかったんで、購入は図録だけにとどめて会場を退く。Tシャツも売り切れだったしなあ。イギーの小さいストラップはやっぱり人気らしくて売り切れ。ブリーフが売り切れになっていたのはそれだけあれを履きたい人が多いってことなんだろうか、いわゆるオタク的なアイテムとは違う傾向だけれど、それが売れるってところに「ジョジョ」シリーズが持つファン層の色ってのがちょっと見える。

 漫画は読むんだけれど漫画の全部が好きってよりは特定の作品だけ、あるいは人気になっている作品くらいを読むといった人たちで「ジョジョ」が当初から持っていて今もよりスケールアップして持ち続けている既存の漫画なんかと比較しての画的な特別さとかストーリーの凄まじさとかも、やっぱりあんまり気にせず「ジョジョ」として楽しんでいるような雰囲気。同じジャンプ漫画だからといって「BLEACH」を読んでいるかというとそういう風でもないし、キャラを弄んで妄想するようなタイプでもない。たぶんそういう普通の人たちがいつのまにかついたことが、これだけ「ジョジョ」を人気の作品に押し上げたんだろう。そして人気は人気を呼ぶというスパイラル。もはや読まずともファンは来る、っていうとちょっと失礼か。でも「STEEL BALL RUN」とあ「ジョジョリオン」が旧来のファンにどこまで入れられているかっていうとなあ。そこに断絶があるのかな。

 展示については「ドラゴンクエスト展」とか「ONE PIECE展」のようなちょっとしたアトラクションを備えることもなく、基本的に原画をじっくりと見るためだけの展覧会で、中に大勢が滞留する場所もないんであそこまで厳密に入場時間を割り振って、人間も絞らなくてもいいんじゃなとは思ったけれど、許すとやっぱり大行列ができる時間帯があって、それに引っかかって泣く人も出ると思うとああやって、指定して来場者を分散させるのもひとつの手段、なんだろー。お陰でじっくりとゆっくりと見られたよ。本当だったらそれこそ東京都現代美術館のような広々とした空間を、大袈裟に演出しながらその世界に没入できるような展示にしても嬉しかったけれど、それも費用がかかるし、ジブリと違ってそこまでの広がりはまだないし。いずれそういったジョジョパークみたいなのも出来ると嬉しいな。できればリサリサの人形とかも立っているような。彼女だってジョジョの血脈の1人なんだから。

 電子と電器の街だった秋葉原にアニメが入りゲームが入って漫画にフィギュアに冥土喫茶までやって来たことに、旧来からのラジオキッズたちは秋葉原が蹂躙されているときっと思っただろうから、時代によって街の風景が変遷していくことに対してそれを批判する立場にないことは重々承知。秋葉原の電気街口にあるゲーマーズのほぼ向かいくらいに、ここしばらくずっと工事中だったパチンコ屋がオープンしても、それもひとつの時代の流れななといった意見をまずは抱いて事態を真正面から受け入れる。ただそこで家電製品が売られようとオーディオビジュアル製品が売られようとゲームやアニメのパッケージが売られようと、作り出され生み出されたものを受け入れ消費して良しとする人がこれまでは大勢いて、だからそうした店が順繰りながらも軒を構えて来られた。パチンコ屋はちょっと違う。法律的な迂回はああってもそこでお金を得ようとする人たちの思いを集めて賑わっているのが実体だ。

 アニメや漫画や特撮やもろもろから引っ張ってこられたコンテンツを元に作られた、パチンコ自体のコンテンツをパチンコというゲームを遊ぶことで観賞して、楽しい時間を消費するといった人もいない訳ではないけれど、決して大多数ではない。大半はより多くの玉を出し、それを景品に交換した上で交換所へと持ち込んで現金化しようと考えている人たちで、つぎ込んだ分以上のお金を結果的に得たい、つまりは儲けたいと考えている人たちがそこに集まり台に向き合い玉を弾いて当たりを得ようと必死になっている。そこにコンテンツへの愛はなく、コンテンツを消費することへの対価を支払うという姿勢もない。場所があって行為があるだけ。それが消費の中心地であった秋葉原でも幅を利かせ始めたということは、消費に見合うコンテンツが足りなくなっているといった現れでもある。誰もが欲しがるものが多ければ、それを扱う店が軒を並べるのが必定。そうでないという現実を受け止める時、けがされただの蹂躙されただのといった忌避感を抱くより先に、考えなくてはいけないことがありそうな気がする。どうなるか。どうかなってしまうのか。見守りたい。

 ありゃりゃ石原慎太郎都知事が突然知事を辞めてしまったよどうするんだ東京オリンピックとそして東京マラソン。どっちも都知事が率先して推進していたものだっただけに旗振り役がいなくなると途端に宙に浮いて瓦解しかねない。まあマラソンの方はすでに新年早々のイベントとして定着しているからずっと続きそうだけれど、五輪招致の方は本気なのが知事くらいだていった空気の中でいったいどれだけ残る人たちが世間からの罵倒を浴びても推進する気構えを見せられるのか。流れに敏感な副知事あたりではとてもじゃないけどリーダーシップを発揮できないしもとよりそんなものをするタイプの人でもないからなあ。あとは東京国際アニメフェアか。アニメコンテンツエキスポだって、そんなものが分離して開催されるようになった中で存在意義を強調していた人が降りて誰が後を受け継ぐか。産業振興というお題目はあっても中身が伴わないものに肩入れする気概を持てる人も少ないからなあ。あれで罪もあったけど功もあった都知事の当人のその後に都のその後。どっちも気になる、気になります。


【10月24日】 猫とトカゲは獲って獲られて弄んだり弄ばれたりする関係にあるけれど、猫とドラゴンっていったいどういう関係にあるんだろうって考えても分からなかったんで、東京都美術館で開かれている「群雄割拠 猫とドラゴン展」ってのをのぞいたら、やっぱりあんまり分からなかった。まあ考えるならどこまでも丸っこくってモフモフとして可愛らしくってちょっぴり小憎らしい猫を一方に置いて、傲慢で強欲で強靱で尊大な存在の象徴ともいえそうなドラゴンであり竜を一方に並べることで浮かび上がるそのギャップって奴を、見せることで生物に存在するさまざまな属性を感じてもらおうとしたのかも。単純にそのギャップが面白そうだったってこともあるけれど。クリエイターってそういうギャップに萌えるんだきっと。

 んで入った展覧会場には開田あやさんらしい人が普段のようなコスプレをせずに受付をしていたりして、そんな会場のまずは向かって左側から観たら竜がもつれあってる彫刻に猫が紛れ込んでいた。でも5匹いるはずの猫の最後の1匹が見つからず、図録を読んでそこかと探してもやっぱり見つからない。目が悪くなったのかなあ。絵では近藤るるるさんが「アリョーシャ」のような可愛くってぽよぽよしている絵とはまた違った猫とか人間とかの姿を描いてあって、こういう絵も描けるんだと感嘆。それから藤ちょこさんって人の「猫姫の嫁入り」がなかなかに絢爛で楽しかった。ゲーム系の絵師の人? これも含めて会場にはデジタル出力の作品が多かったけれど、絵師100人展でも最近のイラストレーターの作品はデジタルが多くって、それを出力して飾るのが普通になっているんで、デジタルなだれはの多層的な構造と鮮やかな色彩を楽しめるって意味では、それも悪いことではないのかも。

 実画では西川伸司さんという人の絵が、絵本みたいでほのぼのとして楽しかった。最強のはずの竜たちが立ち向かう鎌首を持ち上げたもふもふとした謎の巨大生物の正体は? って機転が利いていて見て割らせるさくひんだった。韮沢靖さんは迫力だし松村しのぶさんは猫も竜もどちらもちゃんとリアルに造形されているなあ。そして目立ったのが日本画の寒河江智果さんという人の作品。床に座る現代の女性が猫に手を添えるような作品で、フォルムもしっかりしてたし色彩も日本画的でしっくりとしてた。それでいて洋画的でイラストレーション的な趣も。他にどんな作品を描いているんだろう。そして加藤直之さんがイラストを1枚。小さいのでこれも悪くはないなあと思ったら、エスカレーターを降りて向かって右手側の展示室にもう1枚、加藤さんの作品があってこっちには驚いてそして感動した。

 とにかく巨大で縦で2メートルはるだろうか、あるいは3メートル? それくらい縦長のキャンバスに階段を描き上に機械の竜がいて、それに見下ろされるように女性が階段を下ろうとしていて、その下に青年が座り猫と戯れていたりする。ギリシア風でローマ風だけれど未来的でもあるモチーフは、1970年代末から1980年代初頭にかけて、SFマガジンの表紙絵なんかで加藤さんが描いてきたイラストを思い出させて、懐かしくも素晴らしく、何度も行ったり来たりして見入ってしまった。あの大きな絵をどうしてフォルムを崩さず陰影も間違わずに描けるのかが不思議。というか上から下までどうやって描いたんだろう? 脚立にでも乗ったか床に置いて描いたか。構図の取り方なんかは図録に段階を踏んで掲載されてて、そうかこうやって当たりを獲るのかと参考になるけど、完成した絵は間に合わなかったのか載ってないんで見たい人は会場にいってしっかり見よう。素晴らしいぞ。

 会の中心になっている開田祐治さんの作品は、夜の住宅街に脚をふみおろす機械獣といった感じの絵で、それをかたわらから眺める猫の後ろ姿という構図の取り方が絶妙だった。あのサイズでよくぞ描いたものだけど、デジタル出力だからいったい原図がどれくらいのサイズで描かれているかちょっと分からない。描き方としてはスナップ写真があるんだけれどそれを置いた左右は描いているようで、よくそこまで想像できるんだと驚き。怪獣的な巨大感を出せているのは長年怪獣絵師として活動してきた賜か。猫の置く位置とか大きさとかは逡巡して決めたんだろうか。ジャストサイズを最初に置いたんだろうか。まあ実画だって描いては消していく繰り返しだからそこでは一発勝負の凄さに欠けているって思うんじゃなく、ベストをたぐり寄せて決める才覚ってものを見て讃えるべきなんだろー。同じコーナーにあった夢路キリコさんの美女の絵は可愛くってエロかった。あれだけ巨大な絵を見上げる感動を味わいたかったら、やっぱり行くのだ、東京都美術館へ。

 行ったらやっぱり見ておくと言い「メトロポリタン美術館展」は、アメリカはニューヨークにあるメトロポリタン美術館の作品をどばっと持ってきて日本人に見せてくれる展覧会で、趣味嗜好が表れがちな誰かのコレクション展とは違って、網羅的に作品が集められている関係から時代も傾向も様々な作品が来ていて、ひとつの美術史的なものをそこでふり返られる。何しろメソポタミアの彫刻から新しいところでは杉本博司さんの写真まであるんだから、貪欲というか幅が広いというか。それでも一応は自然なり生物なり風景なりといったテーマでもって作品が選ばれているから、そんなテーマにそぐう作品としてどんなものが集められているかをまず見て、時代によって変わる感性なんかを確認しつつトータルとしてのメトロポリタン美術館のポリシーと、それから選択眼なんかに触れるのが面白いかも。

 そんな中でもやっぱり目立つのがゴッホの「糸杉」で、入って混雑する入り口付近をずっと抜けた奥も奥にあっってあんまり人がおらずじっくり見られるんだけれど、その塗り方はまさしくゴッホといった感じにグリグリと塗られていて、燃え立つような緑の糸杉が情念の風景の中に屹立する様を見て取れる。決して狂喜にあふれているって感じじゃないんだけれど、どうして空をああいったグリグリとした筆で塗るのか、どこからが山で空なのか、そして糸杉は糸杉にしか見えないんだけれど決して糸杉ではないそのフォルムはどうやって生まれたのか、なんて考えているとそこにゴッホって画家が絵にこめた思いなり、彼が見ていた風景なりってのが浮かんできて、グッと作品に寄り添える。

 ゴッホはほかに「歩きはじめ、ミレーに依る」って作品があって、これもグリグリとした筆遣いでミレー的な畑の風景めいたものが描かれていてその色彩感覚がとてもクリティカル。やっぱり彼には光が見えていたんだ、光そのものとして。ゴッホといえば同時代に並び立つゴーガンもあって、こちらは南方の女性の後ろ姿でゴーガンらしい。ともに時代を作った作家がいっしょに見られるってだけでも僥倖なのに、ミレーもあればルノワールもありモネもあってアンリ・ルソーもあったりと、有名どころがずらり揃っているのはなかなか。そして混雑していないのがとっても良い。ルソーをひとりじめ。あるいはルドンをじっくり。それだけで1600円を払う価値はあるんじゃなかろーか。

 気になった絵ではヴェネチアを描いたターナーの作品で、水辺に浮かぶゴンドラに降り注ぐ陽光が本当に輝いて目が眩んだ。ただの絵で映像でないのに目を眩ませることができるなんって、それも100年以上は経ってる絵でそれができるなんてやっぱり油絵って凄いなあ。アメリカの風景画が多いのはアメリカにあるメトロポリタン美術館ならではのコレクションか。大自然を緻密に画いた絵は同時代に勃興しただろう印象派のざっくりとした絵に比べれば古くさいけれど、その丁寧さは多分今はもうないアメリカの自然って奴を今に伝える意味をもった記念すべき記録すべき作品なんだろう。だからアメリカ人はそうした絵を愛して止まない、と。

 でもエドワード・ホッパーくらいになると自然や風景も様式化して、構造的になって来るのが時代というか。灯台を描いたホッパーの絵は灯台そのものだけれどどこの何かといったローカル性を失い、ひとつのフォルムであり、ひとつの象徴として迫ってくる。ジョージア・オキーフの骨を描いた絵もそのモチーフの野性味が、シンプルな線に抑えられて畏怖が畏敬へと変わる感じ。そんな形象を浮かび上がらせる絵が、後にシンプルだけれど含蓄のあるモダンアートをアメリカの地に生んだんだろうか、どうなんだろうか。ほかにはフランソワ・ポンポンって彫刻家の「シロクマ」がシンプルで可愛らしかった。人気なのか図録の美術館限定バージョンの表紙にも使われていたけど、そんなフォルムもエジプトの猫とかカバの彫刻の時代から続く流れにあるのかなと思わせる展示がしてある当たりに、網羅的に作品を集めたメトロポリタン美術館の凄さと、そこからピックアップして主題を着けて並べたキュレーターの労力を感じたり。いろいろと見ていろいろと学べる展覧会。こちらは年明けまでやっているんでごゆっくりと行くよろし。でも終わり掛けになると混むのが常だから、ゴッホやルソーをひとりじめしたいなら早い内に。


 コ・フェスタがとっくに始まっていたらしいけれどもその中心となるイベントがなぜか今頃開かれたんで見物に。以前は東京国際フォーラムでもって大々的なステージイベントとか繰り広げられたし、その後は帝国ホテルだかでレセプションも開かれたような記憶があるけど今回は遠くお台場はダイバーシティにてオープニングという展開はつまり「機動戦士ガンダム」こそが世界に冠たる日本のコンテンツだと認められたということか、そんなことはない。たまたま近所のホテルでTIFFCOMだとかクリエイティブマーケット東京といった展示系のイベントも開かれているでこの際まとめてってことなんだろう。だったらホテルでやれば良いんじゃね? って言われてもその場所となる宴会場をブースが埋め尽くしているからなあ。あちらを立てればこちらが立たず。まあ仕方がない。

 しかし始まった当初はしきりに印象づけようとしていたコ・フェスタなんだけれど最近はアピールが停滞気味というか、一般の人にそれと分かるイベントが少なすぎ。ゲームショウがあって映画祭があってとそれぞれが独立して開かれているから繋がりを感じない。かつては「劇的3時間SHOW」というクリエイターやプロデューサーを呼んでみっちり3時間語らせ次代に繋げるイベントも開いていたのにそれもなくなった。展示会の集合体でしかなくなっていったい誰が特をする? どうやって存在感を打ち出せる? 考え直す時期だよなあ、それも後ろ向きじゃなくって当初の意気込みを甦らせる方向で。それにはやっぱり国の尽力も必要なんだけれど、推進してくれそうな政党でもないからなあ民主党、でもって次を担う自民党も。こうなったらクリエーターの発掘で頑張っているデジタルハリウッドとかニコニコ動画とかの頑張りに期待するしかないのかなあ。勿体ないなあ。佐藤可士和さんのマークだけが残るのかなあ。


【10月23日】 なにをどう言いつくろったところで言葉に「抹殺」だの「鬼畜」だのと使っていれば、そういう不穏当な言葉を日常的に使う性格だと見なされるのも仕方がないこと。ましてや首長として立場ある人間であり、また将来には国政という権力を側に侍らせた立場になろうとしている人間が、たとえ相手が似たような言動を取ってきたとしても、同じように「抹殺」とか「鬼畜」とか使っては、相手のレベルにそのまま下がってそれも公権力をバックに相対するって可能性があったりする訳で、そんな人をだから国政の場に送り込んで果たして大丈夫なのか、ってなるのも至極当たり前の世間的な反応なんじゃなかろーか。

 謝り方を知らないとも叫んでいたけど、それだったら自分は週刊朝日まで出むいてごめんなさいと謝るのが率先垂範ってもの。もっとも言ったからにはやるべきだってのは更なるブーメランも呼びそうなんで、いい加減なところで妥協するのが良いってことで、週刊朝日もアドバンテージを得たって感じで不問に付すんだろう。しかしなあ、そもそもの対応がアレ過ぎた。法律家でもあるんだから相手の不穏当な言動には言論の範囲でまずは向かい、それでも無理なら法律の範囲で立ち向かうのが真っ当な身の処し方なんだけれども、それすら見せずに殴り合いの喧嘩腰を真っ先に見せようとするのは、やっぱり資質に取りざたされているような何かがあると言わざるを得ない。という訳で勝負はまだまだつきそうもないこの問題。選挙がこれで来年までなかったら自滅も当然だよなあ、やっぱり。

 浅草六区から映画館が消えてしまったことを嘆くのに、浅草を愛した作家の池波正太郎さんを持ち出してくることは別に構わないと思うけれどもそんな池波さんが眠る浅草が、今は東京スカイツリーから流れてくる観客で賑わっていることを喜べこそすれ、そんなスカイツリーに見下ろされて不愉快だって池波さんが思っているとつなげる思考の流れがまるで分からなかったっとある新聞の歴史と伝統のある1面コラム。「浅草の街自体は、浅草寺を中心に、戦前と変わらず、いやそれ以上のにぎわいを見せている。東京スカイツリーが開業してからは、見物を終えた観光客の次の立ち寄り先として人気が高い」って書いておきながら次の段落が「江戸の風俗をこよなく愛した時代小説の名人の墓は、浅草にある。634メートルの高さから毎日見下ろされるだけでも不愉快なのに、浅草から銀幕消えるとのニュースが届いた。池波さんの嘆きの声が聞こえてくるようだ」だからひっくり返った。

 これでいったいどれだけの人が何を言いたいコラムなのか理解できるだろう。「嘆きの声が聞こえてくるようだ」って池波さんが変わる浅草を嘆いたのか、嘆いたのならそれはいつの話だ、今なら言霊が誰かに呼びだされて語ったのか、まったく意味が分からない。賑わっている浅草をむしろ喜ぶんじゃないのか、浅草十二階の再来だって大喜びしそうな気すらする。というか文章で不愉快だってのは池波さんの言葉じゃなくってコラムニストの考えで、それを池波さんも同様だねって押しつけるのがそもそも間違っているし、不愉快に思うんだったら前段のスカイツリーで賑わっているって話がまるで意味をもたなくなる。つまるところはへたくそな文章。読めば突っ込まれること確実と分かりながらもそれを平気な顔して書くコラムニストがいて、載せるメディアあるのがやっぱり意味不明。困ったなあ、って困ってばっかりだ毎日毎日。

 例えるならば高校の学園祭で部活の展示もしなくちゃいけないんだけれど、活動が滞っていて新しく見せるものがないから、昔先輩たちが撮った天体写真でも並べて活動していることにしようかっていった行為と似ていると言って良いのかどうなのか。東京国際アニメ祭ってのがお台場にあるホテルで始まったんで、のぞいたけれどもブースがあっても人がおらず、作品のパネルが張り付けてあるだけだったり、それすらないブースもあっていったいどういうイベントなんだろうと来て思った人もいたんじゃなかろーか。っていうかアニメ作品の権利売買なら隣でやってるTIFFCOMの方で、パッケージメーカーやテレビ局なんかが看板を掲げ人も置いてやっている訳で、自分でハンドリングできるコンテンツを持たないアニメ関連会社が、そこで何を見せるのか、見せるべきなのかってところで未だコンセンサスが取れていないような印象が浮かんだ。

 とはいえGONZOとか「ラストエグザイル 銀翼のファム」のパネルを並べて宣伝してたし、STUDIO 4℃もトヨタとのコラボレーションで生みだしたキャラクターなんかを並べつつAR(拡張現実)で浮かび上がるキャラクターを紹介したり、その場では床と壁につなげて描かれている絵だけれど、写真にとると不思議と立体に見えたりする絵をブースに置いて楽しんでもらったりとピーアールに余念がなかった。海外でも展開している会社だけに知っているバイヤーも来るだろうからそうした人に楽しんでもらおうとしう配慮かな。今だとむしろ「ベルセルク」とかいった最新の作品を見せて実力をアピールするのもありだけれど、それだってパッケージメーカがハンドリングしている作品で、技術力を見せて何かに繋がるイベントでもないからなあ、だからこれくらいが丁度良いといった感じか。それだけでも寄る意味があったと感じよう。

 トルコのブースにいたお姉さんが美人だったりしたTIFFCOMを横目で見ながら、上で開かれているクリエイティブマーケット東京って個人とか中小企業とかのコンテンツが並ぶイベントを見物。3年前に見たスタジオフェイクの「セバタン」が元気に商品を増やしていたのを見ると、続ける大切さって奴がひしひしと感じらるし、2年前に見てこりゃ何だと記事にした我武者羅應援團が、ぞろりと立ってて参加ブースを応援している姿に触れつつ、最近のやれ紅白歌合戦でFUNKY MONKEY BABYSのバックで演技を見せたり、やれ本を出しては三浦しをんさんから絶賛のコメントをもらったり、やれBS11のピーアール映像に出て地下鉄で放映されたりと広がる活躍ぶりに感嘆。何事も我武者羅に頑張り、そうなりきれない人を支え応援する姿勢を自ら実践してみせ、成果を上げた姿からあとに続く勇気を誘うそのスタンスが、このご時世に支持を集めているってことなんだろう。きっとまだまだ行くぞいずれ武道館でももいろクローバーZと共演したりするぞ。サインもらっておこうかな。

 クリエイティブマーケット東京ではあと「フミコの告白」の石田祐康さんが新しく作品を作っているらしいスタジオコロリドが出ていて、「フミコの告白」のメイキングブックとか置いていたけど関心はやっぱり石田さんの新作の方。サイトの方では石田さんをサポートする人材を募集しているから本気のディベロップメントが始まっているってことなんだろう。来年3月までの契約だらそれくらいで出来るって算段か。ちょっと気になる。「フミコ」みたいな軽快な作品なのか「rain town」のような叙情的な作品なのか。ともあれ石田さんは手塚プロダクションでひとつ修行をして後、自分の作品を作ることにしたってことなんだよなあ、それもひとつの道なだけに、新海誠さんのようなインディペンデントでいて商業性も持った作品を世に問える人になって欲しい。大手に入って演出とか監督を務めるような道も間に挟みつつ。

 それから隣ではライブ・ツーディーって技術を紹介している会社のブースがあって、モニターの中で平面のキャラクターの顔なはずなのにちょっとづつ顔を回したり目をつぶったりして動いているような雰囲気を出していて驚いた。3DCGでモデリングすれば不思議なんて何もない映像だけれど、2Dの絵に特殊な加工をほどこし3Dモデルっぽく見せているというところが特徴で、2Dのキャラを違和感なくそして生きているような雰囲気で見せることが出来るとか。素晴らしい。ちょっとした仕草と表情がつくだけで人はそれが生きているように感じてしまうものだから。昔の2Dの紙芝居みたいなゲームだと、目や口が動く程度だったけれど、この技術を使った最近のゲームは2Dなのに3DCGでモデリングされたかのようなキャラが登場するようになっているとか。あのゲームもあのゲームもこの技術が。キャラゲーが全盛の時代、ますます需要も増えそう。詳しく話、聞いてみたいなあ。


【10月22日】 ようやくやっと見た「K」はほのぼのとしたお食事会の裏側で青の王とか赤の王とか無色の王とかいった言葉がゾロゾロ出てきて世界が何やら異能を持った王様たちに支配され、その下で部下たちが異能をふるってあれやこれややっているとかって構造が見えてはきたものの、そんな狭間でどうして伊佐那社が殺人犯として追われ打ち首獄門の寸前にあって、そして夜刀神狗朗がどういう身分でそれを追いかけているのかといったあたりは未だにぼんやり。でも何か共存関係も出来たみたいでこれから2人の手と手を取り合った冒険とやらが始まるのかどうなのか。とりあえずセプター4から淡島世理さんがいっぱい出てくれていたのが嬉しいというか、あの胸やっぱり凄いよなあ、あと脚なんかも。

 それを演じる沢城みゆきさんは直後の「絶園のテンペスト」でも魔法使いの姫君の鎖部葉風って絶海の孤島に流されパンツ1ちょうであれやこれや支持を送る乱暴なお嬢を演じていたりして幅が広いというか何というか。とはいえ戦いの方は彼女が隠した魔具を使って不破真広がどうにかこうにか戦ってはいるけれども直情径行なために相手の力量も見極めず猪突猛進しては魔具を損耗させる一方。そこに割り込んだ実は真広の妹と良い関係にあって怨みは同様だけれどそれを表にださない滝川吉野、持ち前の冷静さと計算高さで真広を補いむしろ導くようにして敵を退け街を抜け出す。とはいえ先はまだ長く相手は強大。そして姫様はどこかの孤島でサバイバル三昧とあって果たしてどうやって敵を倒し敵を討つか、そもそも世界を攪乱しようとしている鎖部左門の野望をどうやってうち砕くのか。原作読めば分かるけれどもそれは最後の手段。そうしたくなるくらいの作品になっていることを信じつつ見ていこう。

 週刊朝日が尻をまくって大阪市の橋下徹市長に関する報道から手を引いたと思ったら、今度は朝日新聞が孫崎亨さんの本に関する書評で佐々木俊尚さんが書いた文章を10行削る訂正を公表。でもいったいどんな文章が削られたのかが明らかにされてないからいったい、何が間違いだったのかが読んだ人にはさっぱり分からない。スペースの関係だとはいえ、間違いがあったらな同じ分量で反論をというのがジャーナリズムの表向きでも真っ当な態度。だとしたら何が間違っていたかを開陳し、改めて孫崎さんの「戦後史の正体」という本はどういう位置づけなのかを論じてもらわないことには、読者にはまるで分からないまま過ぎ去ってしまうんじゃなかろーか。でもって調べると削られた10行とはこの本が「典型的な謀略史観でしかない」と断じた部分。それはすなわち結論であって結論を削っていったい何が書評なのか? ってところでその価値すらもあやふやになってくる。結論を否定された訳だから、全文削除してなかったことにした方が筆者としても妥当じゃないのとすら思えてくるんだけど、今に至るまで当人からの“弁明”はなし。メディアのあれこれを論じる人が自分については語らないのはどうしたものか。困ったなあ。

 なんとかの一つ覚えみたいに中国が何かしたとか北朝鮮が何かしでかしていたとかいった話をその軽重に関わらず1面のトップに持ってくる新聞ってのは何だろう、誰のために発行している新聞なんだろう、それが国際的にとてつもないスクープな上に日本で暮らしている日本の読者にとって大きく関わってくる話だったら分からないでもないけれど、そのスタンスをただ避難し論いたいがために記事にして、1面に掲げてみせる態度はもはや読者に役立つ情報を送りたいという意識よりも、自分たちはこいつらが大嫌いなんだとう意志の表明。それもオピニオンを世に問う新聞として必要なことではあるけれど、読む側に同様の意志がなければどこか遠い世界の出来事としか受け止められず、読んではもらえない。そして現実、そうした意志をもった人が決しておおくはなくいてももっと大所高所から世の中を見ている以上、些末な嫌悪につきあおうとは思わない、ということで隘路に陥り市場を狭くしているこの現状が、遠からず何を有無かはご明察。困ったなあ。困ってばかりだ。

 映画の「のぼうの城」は原作を読んで面白かった人にも存分に足りる映画だった。読んでこれを映像で見たいなあと思わせてくれた部分が本当に映像になっていた。演技の方法のばらつきもそれが逆に個性となって起伏をつけ、展開の妙味になっていると思った。佐藤浩市はやっぱり佐藤浩市でぐっさん山口智充はやっぱりぐっさんで野村萬斎はやっぱりどこまでも野村萬斎なんだけれどそれがそれぞれの役にハマってた。中尾明慶もやっぱり中尾明慶がやりそうな役。大谷吉継だけはちょっと意外な配役だったかも。平岳大は良い役者じゃないか。 甲斐姫はちょっと可愛らしすぎたかな。ラストシーンの櫓のバックの空と櫓のマッチングとか気になるところはあったし、のぼうが戦うんなら俺らも戦うと百姓たちが切り替えた部分の唐突さも仕様なんだけれど急転直下過ぎるし、そんな展開の溜めの無さに気になる部分もあったけれどもそれでもやっぱり面白かったので良しとしよう。でも水攻めってあんなに一気に水浸しにすることなの? 堤防つくって川から水をひきいれジワジワと水でいっぱいにしていくんじゃなかったの? スペクタクルを優先したんだろうなあ多分。

 いやあ容赦ない。とことん容赦ない。高橋慶太郎さんの「ヨルムンガンド」に続く連載「デストロ246」なんだけれども「ヨルムンガンド」ではまだココ・ヘクマティアルの私兵ってことで戦闘にも秩序があって相手もちゃんとしていたけれども「デストロ246」に出てくるのは殺し屋ばかりだから誰もが無秩序に誰か必要とあらば殺そうと虎視眈々。それの誰もが美少女たちばかりってことでビジョンは見目麗しい上から血が降り注いでもうなにが何やら分からない。というか南米からやって来た藍と翠が単に殺し屋殲滅を命じられているからといって、道を歩いていたちびっ子の的場伊万里を呼び止めその場で消しにかかろうとするとか普通だったらあり得ないけれど、そこは高橋慶太郎ワールド、何だってあるのだ。そして万両苺とその仲間たちも絡んでくんずほぐれつの大乱闘。どうやら苺が毒を扱う殺し屋として藍と翠の主人の家族の仇めいた設定が浮かんでいるけどそうだとしても両脇を固めるナイフ使いの一井蓮香と体力充実の佐久良南天はなかなかの難物。伊万里も絡んで誰が誰やらな状況で誰が残るのが正解か、それとも全員が残って誰か別の強大な敵を相手に戦うことになるのか。そんな期待も抱かせながら読んでいこう、女性不信を伸ばしつつ。


【10月21日】 箱の中に詰め込まれたような部屋でもって、風邪をひいたか体調悪そうだという割にはさくさくと話すところに、プロフェッショナリズムちうかあるいは生来のフェミニンさが滲んで感心した「ギャルと不思議ちゃん論 少女たちの30年戦争」の筆者の松谷創一郎さん。地方に暮らす女性の意識を描いた小説で人気急上昇中の「ここは退屈迎えに来て」の山内マリコさを迎え、あれやこれや聞いていた紀伊国屋書店でのトークイベントは、オタクとかSFファンとかいった割に限定された環境でもって見たり聞いたりする女性の言動くらいしか知らず、いつしかそれがノーマルと思いこんでいた目には、ごくごく普通に生きている女性が何を望み、どこに向かっているのかってのを再確認できたって意味で、結構勉強になったかも。

 表現者であれ消費者であれ、オタクなり腐女子なりSFファンなりといったクラスターの人たちは生きるに貪欲で、情報の吸収と発信に主体的。それがだから世界にとってどれだけの意味があるとか考えはあまりしないで、自分がそうしたいからそうしているんだという“熱”が見えているんだけれど、普通に暮らしている人は、止まれば溺れる鮫とかマグロのように主体的にあれやこれや食い散らかしていくような生き方をせず、日々を淡々と生きていて、それがいつしか積み重ねられていくことで、人生といったものになるような、そんな受動的な生き方をしている。最大限めざすのは安定であって、その方法として結婚のそれもお金持ちとの結婚といったケースが挙げられるのだという。

 なるほど周囲を見渡してみれば、そういう人が家族親戚にも割といたりするんだけれど、自分を主体に考えその趣味を通してみた世間を見た時に、普通さとは縁遠い人が多々いるんで、あんまりそれが普通といった思いに至っていなかった。「ここは退屈迎えに来て」にはむしろそうたい一般の思いをすくい取る何かが散りばめられていて、だから多くの心に共感を覚えさせて売れていたりするんだろう。一般性のある作品を書くんだったらやっぱりそうした一般性を得つつ少しばかりの差異を感じさせて夢を抱かせ興味を惹くような物が書けないとけないのかもしれないけれど、もはやこの歳で普通を目指すのは手遅れ。ならば狭い範囲に強烈な共感を覚えてもらえるジャンルで勝負するしかないんだけれどそれすらも細分化が激しくついていけないからなあ。どうしよう。

 家から出ないでぼんやりと過ごす日曜日。とりあえず新保静波さんのスーパーダッシュ小説新人賞大賞作品「暗号少女が解読できない」を呼んだら暗号尽くしで、暗号といったものにあんまり理解がなくってまるで解読できない僕は気にせず種明かしに向かってしまったけど、暗号が好きな人にはこれは楽しい物語。そして胸がうずうずとする物語。転校して来ていきなり挨拶で噛みまくったのが原因で、周囲から遠ざけられていると感じビクビクしていた少年に、クラスの少女がなぜか1人、気軽に話しかけてきてくれるんだけれどどこか不自然。どうやら会話が暗号になっていたみたいで、それを解いた時に現れた言葉そのそ真実に少年は愕然とするけれど、そのさらに奥にある思いってものが奥手な少女の精いっぱいの頑張りって奴を感じさせて泣かせる。朴念仁の少年に奥手の少女が心を伝えるんだったら暗号がいちばんっってことで。

 しかし登場する数ある暗号を、きっとさらさらと解読していく人もいるんだろうなあ。江戸川乱歩の「二銭銅貨」とかモーリス・ルブランの「813」とか世に暗号の登場するミステリーは多々あるけれど、これは暗号がコミュニケーションの手段となった珍しくも画期的な青春ミステリー&ラブストーリー。続編が出るとなるとさらに困難な暗号を考えなくちゃ行けないのかと作者もきっと大変だろうけれど、まあ頑張れ。個人的には少年がかつていっしょに遊んだときには少年と思っていたのに、実は女の子だった幼なじみに屋上へ連れて行かれ、一緒に弁当を食べている所に来たヒロインが、いきなりスカートをめくりまっ赤なパンツを見せつけるという暗号の意味は分かったぞ、ってそれは暗号なのか?

 「マージナル・オペレーション」のシリーズで30歳のニートを優れた戦闘指揮官にしてしまった 芝村裕吏さんの新刊「この空のまもり」(ハヤカワ文庫JA)もやっぱりニートが活躍する話。AR(強化現実)のタグがgoogleに一元化されその上に合法非合法のタグが張られまくって外国からの宣伝タグが空を埋め世間の誹謗タグが地面を埋めた日本が舞台。それらを排除できない政府の弱腰にハッカーたちが立ち上がり、そしていつしか架空防衛軍として10万人を擁して不愉快なタグを消して回るようになっていた。主人公の田中翼はハッキングの能力と行動の的確さで架空防衛大臣として軍を導き、空と陸にあった不愉快なタグを一掃して世間に存在をアピールする作戦を成功させるも、それが呼び水となったかのように、鬱屈していた気持ちが刺激されて外国人の排斥を叫ぶ暴動がリアルで起こってしまう。

 田中翼にはまるで本意ではなかった出来事。ただただ不愉快なタグを廃したいというささやかな愛国心だったものが、一気に外国人排斥へと流れるこの不穏さは、背後に意図的な蠢きあったとしても、やはり考慮したいところで何かを成せば何かが起こる可能性を、常に考え行動していく大切さって奴が浮かび上がる。そうする意図はなくてもそういう風に導く輩はいたりするから。だから必要なのは誰が悪ではなく何が悪なのかを見極めそれのみを廃し、人々はそうした悪意を乗り越え連帯できる思想を抱くおと。「この空のまもり」ではそんな可能性が探られて、ひとつの原初的な感動なり畏敬といった念が利用される。なるほどそういう手があったか。

 ニートの田中翼がネット上では聡明な架空防衛大臣というギャップは「マージナル・オペレーション」でニートから優秀な指揮官に転じたアラタを思わせる。そして「この空のまもり」にはそんなアラタの影もチラチラ。直接の続編というより未来の日本の問題と対処を描いた本ってことになるのかな。 そしてアラタと同様に田中翼がモテまくっているのが何というか不思議というか。幼なじみに女子小学生に若妻に棘棗という女性。どうしてそんなにもてまくるんだ。ああ羨ましい。でも才能があるからなあ、アラタにも田中翼にも。そんな女性陣を並べて考えてビジュアルでも性格でも棘棗が良いんじゃないのと思ったけれど、ずっといっしょにいて主人公が行動する原動力にもなっている幼なじみにはかなわず棘棗敗退。女子力とは決して見目でも頭脳でもないんだってことで。つまりは幼なじみが最強ってことで。とりあえず七海という翼の幼なじみの母親が誰か想像してみよう。どっちだろ。

 本編とはまるで関係なしに面白かったのは「ジーンズ越しにも分かる尻の曲線の曲線に惹かれて大輔は歩いた。まあ、これを見て落ち着こう」「本当に尻をみて落ち着いたのは自分でも衝撃だった」といった描写。田中翼とは違い一介の大学生ながら外国人が多く暮らすアパートにいて周辺の暴動時に外国人への襲撃に憤りを覚える三浦大輔が、学校で前をあるくジーンズ姿の先輩女子大生を見て巡らせた思考。実によく分かる。彼と同様に前を歩く丸みを追いかけて行きたくなるけれど、これから冬になってコートが羽織られると見えるものも少なくなるのが残念。残る季節にせめて最後の丸みをおいかけ少しの希望を抱いて残る今年を頑張ろう。


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