縮刷版2011年8月下旬号


【8月31日】 さいたまスーパーアリーナに「エリオかまってちゃん」として登場した奴らは場をひっかきまわすように現れパソコンから中継をすると言いながらも電波的言辞を発してアニソン一色の空気を揺すり、そして音楽へと突入しては高らかなドラミングとピコピコなキーボードにあわせてギターをかき鳴らすロックなサウンドでもって音楽性はあるんじゃねえかと思わせつつそのパンキッシュなパフォーマンスでもって存分に、存在感を見せつけた。だから決してお騒がせな訳ではないと感じていた。

 そんな「神聖かまってちゃん」がテレビで大暴れしたって情報が流れてきたけど、ナルトをはりつけるパフォーマンスもそれをカメラが受けてナルトを張り付けたまま、それにアーティストがかぶらないよう位置を調整して映してみたりする技を見せていたあたり、暴走ってよりは破天荒さで共にコラボレーションしたんじゃないかって感じがした。司会者のスタンスもそんな態度をネガ側から補強する一環。トータルで打ち出されたその力強さはこれから大いに爆発していく可能性を感じさせる。気にせず突っ走れ。そして大晦日のNHKホールで小林幸子にナルトを張り付けろ。

 また新たなおっぱいが、と言えるかどうかパッと見ただけでは微妙だけれども少なくとも、詩緒よりは大きかったからそれはそれで立派と行ったら詩緒のかかし、玖吼理に吹っ飛ばされて粛正しゃれちゃうからここはこっそり。そんな日向まひるの登場によって新たな展開を迎えそうな「神様ドォルズ」。聞くと狂乱のお姫さまって感じだけれども見た目は普通のお嬢さま、っていうかあんな田舎のそれも外界から隔絶されたような村に住んでいて、どーしてあんなにモダンな格好をできるのか。

 阿幾なんて顔立ちはともかく服装なんていかにも普通だし、匡平だって地方から来たっぽい雰囲気を丸出しにしていて、大学では女子から注目もされやしない。靄子だって由良子だって地方在住で都会なんて右も左も分からないって雰囲気を丸出しにして、初めて都会に出てきた靄子が原宿だ渋谷だと期待してる中に、どーしてあんな渋谷だ銀座だ青山だって感じにキメた華美なファッションの嬢さまが現れるのか。謎だけれどもそこはおそらく隻として、禍津妃を操りたびたび都会へと出てはファッションのブティックに通いつめたか、大好きな匡平様のために都会で暮らす彼に小馬鹿にされないようにと、雑誌を読みネットにアクセスをしてファッションを学んだか。

 分からないけどともあれこれで大きいばかりで今ひとつが多かった「神様ドォルズ」ワールドに、少女の美も加わって一気に華やかになりそう。あと血しぶきとか。狂乱しそうだもんなあ、あの雰囲気だと。ガサツといえば空羽子はゴミだらけの部屋で阿幾にまたがりごすってみたけどピクリともされない空気ぶり。可哀想だけど仕方がない。相手の心の中はずっと大好きな先生がいるんだから。それと犬とか。何て名前を呼んでたっけ。それはそれととしてやっぱりちょっとボリュームが不足気味なんで次回はそのあたりも含めて惑乱狂乱乳乱が見られることを期待。こぼれるとかしてくれればなお結構。何のこっちゃ。

 配達小説、といったら真っ先に挙がるのは小川一水さんの「こちら郵政省特配課」のシリーズだけれどど、SF作家として知られる小川さんの作品にあって、ちらかといったら現代テクノロジーの遂を寄せ集めては、リアルの範囲内ですべて解決してみせるという、その凄まじいばかりの執念を働く人たちのプロフェッショナルな魂とともに描いた作品で、SFという範疇に混ぜるべきかどうかをちょっと迷うところ。それに比べれば美奈川護さんという電撃文庫から何作かシリーズを出している人が書いている「特急便ガール」(メディアワークス文庫)は、藤子・F・不二雄さんの言う「すこしふしぎ(SF)」が見える分、SF小説って言って言えるのかもしれない。

 日本でも有数の商社に総合職と入って将来を嘱望されながら、秘書としてついていた専務の顔をぶん殴ったと吹聴しては退社した主人公の吉原陶子。ゆく当てもなかったところに同期の男子から義兄がやっているという会社を紹介された。そこはバイク便のサービス会社でたずねていった陶子はいきなり社長の如月という男から、ハンドキャリーすなわち手と足でもってあらゆる交通機関を乗り継ぎ届ける仕事を言い渡される。反論しようにも陸上で鍛えた感性が、ストップウォッチを取り出し合図する社長の言葉に逆らえず、また根っからの負けん気の強さもあって飛び出し社長の仕掛けたトラップもかわして時間内に配達をし終える。

 もちろん採用。当人にはそれでも務める気はなかったものの、先輩ライダーの挑発めいた言動にやっぱり負けまいと働き初めてみたものの。妙な現象が起こって陶子を大いに戸惑わせる。如月の友人がルームクリーンサービスをやっていてそこで見つかった品を京都まで配達して欲しいと言われてならばと新幹線で向かおうとした時、とびらを開けた陶子の身にとんでもないことが起こった。つまりは「すこしふしぎ(SF)」・。それは配達を頼まれた荷物に残った思いなり、受け取る側が荷物に託した思いなんかをくみ取って起こる現象らしく、時には手早い対応を喜ばれ、時には思いがけない遠回りを陶子に強いて困らせる。

 けれども肝心なのはそうした現象がもたらす結果。思いを届ける配達便の仕事を通じて、荷物に込められた思い。荷物を託す者の思い。荷物を受け取る側の思いなんかを浮かび上がらせ、1つの物を介してつながり重なり会う人間の気持ちを読む人に感じさせる。配達はただ運べばいいかもしれない。いわれたことをやっていさえいれば足りる仕事かもしれないけれど、それだけでは漏れてしまう、こぼれてしまう様々な人間の思いをすくいあげ、かなえてあげる。そんな陶子たちの働きぶりを読むことによって僕たちは、合理性やら対面やらで捨ててしまいがちになる心の大切さというものを感じるのだ。

 絵画のような芸術が禁止された世界で絵画を描いて歩く少女とその相棒の活躍を描いた「ヴァンダル画廊街の奇跡」でデビューしたあたり、ファンタジックなライトノベルの描き手かと思ったら、日常の描写社会や会社の描写にも長けてそしてキャラクターもくっきりと立ってその勘定の機微の描写にも長けた美奈川護さん。続編の「超特急便ガール!」では今を楽しみながらも未練も抱えた陶子がひとつの選択に迫られる。そこで出した答えとは? そのまま単行本として出して働く女性や男性に読ませて大いに人気が出そうな筆致に将来性への期待もわいてくる。ライトノベルの描き手がその持ち味を一般小説に発揮すればこれくらいって感じ? 今の居場所に悩んでいる人、長身でガサツな女性の暴走も時に交じった疾走ぶりを楽しみたい人に、是非。


【8月30日】 妖怪を丸飲みにしてしまうような強力で凶悪な妖怪を、グーパンチの1発で退けてしまう強い力を持っているのに、ニャンコ先生の後光1発で逃げ出してしまうような妖怪を相手に戸惑い襲われひいひいいっているのはちょっと、バランスが悪いような気がするけれども「夏目友人帳・参」、人前で派手に暴れて妖怪を刺激して、普通の人を巻きこむようなことを避けたいって意識もきっと、夏目にはあったんだろう。

 その割には誰かに見られているとは知らない感じで橋の上でちょっかい出されて落っこちたりするのはやっぱり妙かも。それだけ複雑な心理状況を抱えているってことか。親切にされることすら誰か妖怪に操られて射るんじゃないかって、疑わなくちゃいけない暮らしってのも厳しいよなあ。レイコが人を避けて単独をこのみ、そしてひっそりと去った理由も分かるかも。とりあえず笹田純がいっぱい見られて良かったのが救いか。そういうものだ。

 何か住んでる地元から総理が出たみたいだけれども、毎朝の辻立ちをよくやっていたってのは駅でいうなら隣の隣の津田沼駅で、境目ではあっても津田沼市のテリトリーで辻立ちをやられたって、それより手前の駅に住んでる人間にはまったくもって気づかない。だからあんまり“オラが国の宰相”って感じがしなかったりする野田佳彦新総理。船橋高校の出身ってことだけれども日本全国的に有名な船橋高校は県立ではなく市立の方だったりして、その影に隠れて長く目立たなかった県立船橋高校が、これでちょっっぴり全国区的になるかどうなのか。

 船橋市民的には県立と市立のどっちにいかせたいんだろうか。高校受験に絡んだ人間が周辺にいないんでまったくもって分からないのだ。習志野高校ってのもあったなあ、甲子園に出て割と買ってた。東京都内の私立の付属に通わせない千葉の人はやっぱり公立を狙うんだろうか。その辺は愛知県とちょっと似てるかも。さてはて。

 カレン・ロバート選手ほか、スポーツ選手を山と出している市立の船橋高校と違ってそうしたスポーツ方面の有名人は少ないけれども一方でそれなりな知名度を持った人は出している県立船橋高校。調べると野田佳彦さんは江川紹子さんと1年違いだったりするようで、大学も同じ早稲田の政経だから案外に学生時代から知り合いだったのかそれとも違うのか。そんな雰囲気おくびにも出さないものなあ、どちらも。あるいは地味な眼鏡っ娘のエガワショウコさんが、柔道部で活躍しながらお茶目なところもあって弁舌も立つ高校で1学年上のノダヨシヒコ先輩に憧れて、体育館の戸口からそっと姿を見ている場面なんかあったりしたのかも。なんていじらしい。ちょっと萌えを感じて悶えてみたり。

 そして3年生になって生徒会長として学校に君臨しているエガワショウコさんが、屋上からスカートのすそ翻しながら、1年生として入ってきた新入生に向かってこの中に宇宙人未来人超能力者がいたら私のところに来なさいそんなことは有り得ないって諭してやるからと叫んでいる姿を、カッコイイと憧れている新入生のカタブチスナオ少年が仰ぎ見ているという。そんな年次。想像してしまうなあ。どうだったのかなあ。

 黒坂圭太監督が10数年の年月をかけて作り上げたインディペンでんとアニメーションの「緑子/MIDORI−KO」をアップリンクで見たらとてつもなく面白かったのでみんな観るように。野菜売りをしながら大学院で研究に勤しむ美少女いて、安いアパートでちょっと奇妙だけれども楽しい住人たちと暮らしていたところに、不思議な物体が飛び込んで来て美少女はビックリ。やがてその物体を巡って起こる大騒動に、美少女は戦う決意を固めるのだった……といった感じにとっても青春美少女アクションアニメ。戦闘美少女と下宿物が好きなら見てきっと萌え萌えってなることだろう。

 嘘じゃないよ。本当だって。これが高橋留美子さんの絵で描かれたら、シュールなシチュエーションで異形たちに囲まれながら時折コミカルな部分も見せつつ、美少女が自分を貫くという展開の漫画として存分に楽しめそう。とはいえ世に出回っているビジュアルから、そういうことを感じる人は少ないかも。なるほどビジュアル的には諸星大二郎さん的で福山庸治さん的。ねじまがって異形どもが闊歩する世界観も両者に通じるところがあって、なおかつそれらがオディロン・ルドン的な陰影の中に描かれる。なおかつそんなビジュアルが、アニメーションとして動いているんだから驚くばかり。どうやって描いてどうやってうごかしているんだろう、って技術的な方面が気になる上に、どこからあんな発想が出てきたんだろうって黒坂圭太監督に聞いてみたくなる。

 55分とインディペンデントアニメーションとしては長丁場なのに、ひとつひとつのシーンでキャラクターが誰も彼もしっかりと肉感を持って描かれていて、なおかつ動いている凄さが素晴らしい。山村浩二さんのような自在な変幻の快楽というよりも、異形がうごめく不可思議な世界を、設定も含めて深淵な雰囲気でもって描写するという点で、個人が個人のコントロールの元に作り上げるアニメーションという技法が輝いている、といった印象か。あと食糧危機にある未来社会での出来事という部分、ミュータントとも見て取れそうな異形の者たちの闊歩、生体的なコンピュータをはじめとしたガジェット等々、SFとしてのテーマとストーリーとモチーフにもあふれているから、SFな人も観ておくべき。これと山村浩二さんの「マイブリッジの糸」がほぼ同時期に観賞できる東京って、全国から見るとやっぱり羨ましいよなあ。

 神崎紫電さんの「恋のキューピッドはハンドガンをぶっ放す」(ガガガ文庫)を呼んだら恋のキューピッドがハンドガンをぶっ放してた。財閥の御曹司が庶民の学校に通うことになったけれどもやっぱり必要なボディーガードにやって来たのがソマリアで傭兵として働いていた15歳の少女という設定。そして戦場で鍛えられた感覚でもって少年や周囲を混乱させるという「フルメタル・パニック」的な展開も見えるけれどもメーンはそうした少女のどこかに抱えた寂しさと、金持ちの少年のやっぱりどこかに残っている虚ろな気持ちが重なり合って生まれる恋模様、といったところ。互いに突っ張り会うより認め有った方が楽だよね、ってことで。しかし15歳の傭兵かあ、「ヨルムンガンド」のヨナとどっちが強いんだろ。


【8月29日】 主催している会社の人がそのイベントの看板にもなっているシンガーを称揚したくなる気持ちは分かるけれども、引き合いに出されたT.M.Revolutionはたぶんレコード会社との関係もあって長く出られなかったところを個人の思いの強さもあって、上をねじ伏せ時間も都合してようやく出演を果たしたという、ひたすらに敬服するしかないアーティスト。そして大勢が看板アーティストの出演を知り、いっしょに盛りあがろうと準備万端で覚悟して来ているという、ある意味ではアウェーの状況に飛び込んでいってそこであれだけのパフォーマンスを行い、あれだけの一体感を作り上げたことへの賛意を示し、敬意を払うより先に、「主観」と言いながらも「事実」として看板アーティストを越せなかったと書いてしまうのは何かやっぱり違うような気がするなあ。ファンなら何を言っても良いけれど、そうでないならやっぱりいろいろ目配りを。そして全部への愛を。でないとやがて見透かされるよ、その商売っ気を。

 悪くないよなあ、アニメーション版の「日常」だけれど漫画原作をよく読んでいる人にはいろいろな評判があってこれは違う的な意見が割と多いのは、前に「あずまんが大王」がテレビアニメーション化された時に感じた、4コマで読む漫画のテンポ感が完全に自分の中に内在されているのと比較して、誰かの演出によってテンポを決められてしまうアニメーションだとどうしても違和感が出てしまうといった感覚的なものなのか、そもそもが 「日常」っていうアニメにある気分なり雰囲気がアニメだと消し飛んでいるっていった円周的なものなのか、いずれにしても原作に耽溺していない身には判断がつきそうもないんでいずれ読もう。「らき☆すた」もアニメから入ったけれどアニメの1話2話のあのまったりテンポと後半の詰め込みテンポが違いすぎてごちゃごちゃになてからしばらく間をおいて読んだんで、あんまり気にもならなかったという。「けいおん」は違いすぎだよなあ、4コマ的にしないでストーリーに仕立てたってところでアニメ独自の賞賛を得た、っていうか。

 ふと気が付くと日本SF大会の静岡大会ことドンブラコンで開幕前日に行われるオプショナルツアーが定員に達して締め切られていた。訪問先として1つに田宮模型があがってて、もう1つが交渉中になってはいたんだけれどもおそらくあの会場ならそこしかないと辺りを付けて、それならばとりあえず応募しておけ前日から泊まることだしと申し込んでからしばらく、締切もいよいよ直前となって明らかになった訪問先は日本のガンプラ工場とこバンダイの静岡ホビーセンターだったやっぱり。これがもしも早く発表されていたら申込者殺到であっという間に埋まった可能性もあったけれども相手先のあることで、なかなか準備に時間をかけて交渉も経ての決定が、間際になってしまったのも仕方がないか。ともあれこれで2度目のガンプラ工場見学が可能に。1度目は取材で見せてもらってけれども大勢で行けば反応もいろいろ見られて面白そう。やっぱり目玉は完全自動化ラインだよな。ベルトコンベアの両脇に立ってるザクがヒートホークでパーツを切り、グフがヒートロッドで溶接して、ドムが重みでプレスする横から、ズゴックが冷却用の水をかけているとう。本当だって。確かめて。

美しくもいやらしくもないけど格好良いHOMANの作品たち  初日は1時間ほどしかいられなかったけれども昨日は3時間ほどいてあれこれ見て回ったキャラホビで、日曜日だけ出ていたガレージキットのコーナーにひときわ異彩を放っていたフィギュアがあって近寄っていったらMORE THAN HOMANって岐阜市のJR岐阜駅そばにショップを構えるアーティストがやり始めたというフィギュアの作品だった。ファッション系ではそれなりに知られている人みたいで、いろいろなブランドとコラボをやったりしている模様だけれど、そんな時に見せる襤褸っぽくしてオリジナルのペイントを施し塗りたくって描きまくってみせる手法を、フィギュアにも応用してできた作品は、どこか退廃的でどこか未来的で、見ているとなぜか妙にひかれてしまう。これはあれか、「スター・ウォーズ」の最初の映画を見てタトゥーインを闊歩するタスケン・レイダーに似ているってこともあるからなのか。とにかく見れば異様さに目が引っかかる造形。フィギュア系のイベントには出始めたばかりみたいだけれどもいずれアート系にも戻ってサブカルチャーとの間で盛りあがっていくことになりそう。期待大。

 海が俺たちを呼んでいた「空をサカナが泳ぐ頃」(メディアワークス文庫)で社会にコミットしながらどこかズレてる人間たちを描いて評判になった浅葉なつさんが第2作となる「山がわたしを呼んでいる」(メディアワークス文庫)を上梓。ガサツで乱暴者の自分い嫌気を感じたあきらは、もっとみんなから愛されるキャラになりたいと、モデルでカリスマな女性の真似をして山ガールにでもなるかと山小屋に行ったらそこはガサツで乱暴者の巣窟だったという。ってかいきなりトランクかついでスニーカーにチュニックとか羽織って8時間も山道を登り続けられる体力があるって点で優しく可憐な乙女の領域を逸脱しているんだけれどそんなことは気に留めず、っていうか気づきたくないのか自分は乙女と思いこんでたどりついた山小屋で、先輩から怒鳴られ言い返したものの居づらくなって悩んでいたら山小屋のオーナーが怪我したと言って下山しあきらは嫌々ながら山小屋に残って仕事に励むことになった。

 先輩で山男の青年からは相変わらず罵倒の嵐だけれどもそれに負けずに止まり頑張り登山客の危機も救って山でいろいろ見聞し、もうそこにいるしかない、って思ったかもしれないけれども下山して普通の女の子に戻ろうとしたのにそこはなるほど“呼ばれた”人だけあってやっぱり山小屋へと舞い戻っていく。そういう妥協が果たしてすべての人にあてはまるかどうかは分からないけれど、今の自分に不安を感じ不満を覚えている人が、ほかに本当にやりたいこと、そうでなくても今よりもよりベターな場所をみつけてあがいている時に、山小屋という選択肢を少女に与えて道を示したような内容を持ったこの本は、結構心の支えになってくれそう。だから自分も山小屋に、とは流石に思わないけれど、体力ないし。でもやっぱり1度は行ってみたいな山小屋と、稜線と、そして超常に。体力作り直そうかなあ。


【8月28日】 ときわ書房船橋本店は文庫のランキングで1位こそ有川浩さんで2位は北方謙三さんと大物大御所が並んでいるけどそのすぐ下の3位になんと森晶麿さんの「奧ノ細道・オブ・ザ・デッド」(PHP研究所)が入っているという不思議な現象。店頭で2列に積み上げサイン本も置いてみせるその積極性が功を奏したんだろうけれども、実は案外に船橋の人はゾンビが大好きだったという説もあるか。いやそれなら大樹連司さんの「オブ・ザ・デッド・マニアックス」(ガガガ文庫)ももっと売れていないとおかしいか。頑張れ連司。そしてときわ書房船橋本店には「オブ・ザ・デッド・マニアックス」も是非にPRを。

 そんなときわ書房船橋本店にならやっぱり入っていると辺りをつけて言ったらあった「3・11の未来 日本・SF・創造力」笠井潔 巽孝之監修 海老原豊 藤田直哉編)は先の東日本大震災を受けてSFが、いったい何を考えるか、そして何が出来るかってことを作家評論家等々にたずねてみたという本。となるといわゆる日本SF作家クラブにズラリと並ぶ綺羅星の如くの大御所中堅第三世代あたりが何かを寄せていそうだけれど、そうした総花的な本になっていないところが一種の特色。を作家側からの寄稿者に名を連ねているのは、「円環少女」の長谷敏司さんに「よくわかる現代魔法」の桜坂洋さんに「15×24」の新城カズマさん、そして「ロケットガール」の野尻抱介さんといったライトノベル方面に出自を持つ人。いわゆるSFプロパーってことになるとそれこそ小松左京さんの冒頭の一文と、そして原発についての歴史と現在を語った豊田有恒さんといった大御所が並ぶ。

 あとは大原まり子さんと新井素子さん。それから座談会には山田正紀さんと谷甲州さん、森下一仁さんが参加しているけれども独立した論考ってことにはなっていない。笠井潔さんはSFの人でもあるけれど、やっぱり強いのはミステリの創作者であり論客。それから瀬名秀明さんもバリバリSFだけれど、SFプロパーの中心から世に出てきたって感じにはとらえられていない。これがどういう理由からななのかは分からないけれど、あるいは創作の最先端に立って状況を精査し、物語として切り取ってる人たちがライトノベルという隆盛著しいカテゴリーにあつまっている、ってことになるのかどうなのか。もはやSFはライトノベルに映像、学術、漫画へと浸透し、0年代90年代に僕がSFマガジンを読み想像して憧れてもいたSF小説の中心核めいたクラスタは、実はすでにぼんやりとしたものになていた、なんてことだったりするのかな。ちょっと興味深い話。

 個別の論考を精査するほどは読めてないけれど、原発に関する豊田有恒と押井守の所見が興味深かった。共に肯定派。日本の現在の原発開発の技術は世界でもとてつもなく進歩していて、これをここで埋もれさせてしまうのは日本どころか世界的損失につながりかねない、例えば例の新幹線でごたごたしているお国がやっぱり原発もって作り始めたらいったいどうなるか、ことは脱線転覆にすまないだろっていった指摘もあって、なるほどそうかもと終わらせる。だったら世界が一致団結してそうしたものは作らせない、って方向も考えられ破するけれど、それはそれで非現実。ならばリアリズムの範囲内で日本は出来るだけのことをすべきといった意見には、核廃棄物の貯蔵といった問題をちょい、気にしなければ大いに興味をそそられる。やっぱりそこななよなあ。福島から遠く離れた地域の松すら燃やさせない日本で廃棄物を貯蔵しておく場所なんてもう作れなさそうだもんなあ。そこをリーダーシップで押し切るってことにもいかなさそうだし。八方ふさがりをさて言葉は、SFはどう突破していくのか。あるいは完全に別の道を探ろうとするのか。この後の論議を是非に深めていって欲しいもの。

 あとは実際に仙台で被災した瀬名秀明さんの論考が、とても地に足がついたもので、そこから周辺を見渡し机上の空論でも上から目線でもない、その場書の今を思う冷静さが読んでいてグングンと響いてきた。こういう人を選び書かせたという意味でもこの本が出た意味がある。ほかには一切書かなかった瀬名さんがこれには書いた意味、ってのも考えるならやっぱりSFというカテゴリー、ジャンルに期するものがあるということか。なればこそ受けてSFの意味を問い、責任を果たさなくてはならないということだろう。 過去を知っている人、今を見ているる人、未来を描ける人が集い現した論考集。いろいろ意見も出そうだけれどもこれを1つのステップとして、この国に何か始まって欲しい期待を抱きつつ、自分なら何を想い、どうするのかを考えていこう。

 支度も整ったんで幕張メッセへと出むいて犬狩り、はしなくって普通に「キャラホビ2011」をのぞいたら富野由悠季御大が何か喋ってた。どーやら新作を作るか作りたいらしいんだけれど果たしてどーゆーのになるんだろう。前にガンダムエキスポで見たちょい映像からの進化系? まあ話半分で模様眺めしておこう。それから「境界線上のホライゾン」のイベントを見物。昨日はアニサマで歌ってた茅原実里さんが今日はこっちでトークショーと、人気なアーティストってのはやっぱり相当に忙しそう。役はホライゾン? だっけ、分厚すぎて実はあんまり詳細覚えてないのです。とりあえずわんさか出てくるキャラクターが愉快そうだし、絵もしっかり動いてそう。読むと大変な作品でもアニメで慣れてから読み直すと案外に奥深いっておkとは「とある魔術の禁書目録」で経験しているんで、こっともこれでアニメを見てからあの分厚いのを読み返そう。もしかして2クールやって最初の1冊だけってことはないよな。

 2時半くらいに海浜幕張から電車に乗ったら午後4時10分前にさいたま新都心の「さいたまスーパーアリーナ」についたという。いちおう乗換案内で調べて武蔵野線より京葉線から京浜東北線で赤羽乗換の宇都宮線が良いって出てたんでその通りにしたら早かった。IT最高。そして始まったアニメロサマーライブは冒頭から堀江由衣さん水樹奈々さんのビッグネームが並んで盛りあがった後に、ロウキューブで声をやっている人たちとか、ミルキィホームズとかアニメのキャラクターたちのユニットが登場、絵で見るキャラと中の人たちのそれはなるほどギャップだけれども気にさせないだけの空気ってのがそこにはあるのだ。っていうかミルキィホームズはもはや一体、去年はまだまだ無名の何ぞこれ的グループだったのに、アニメがあってゲームを経た今は登場に場が沸き2曲を歌っても歓迎されるグループになっていた。アニメーションのドリームってのは確かにこの国に存在するんだ。来年も是非に。そして3曲を。できればアルセーヌ様の登場も。

 あとはどうだったっけ、奥井雅美さんがこぼれおちそうだったっけ、何がってことは言わない。Kalafinaは2曲だけだったけれども2万5000人を前に大音響をバックに歌ってもちゃんとハーモニーになってて歌声が聞こえてくるところが流石。これなら武道館ライブだって代々木第一体育館ライブだってイケルんじゃないか。そしてシークレットってことで登場のT.M.Revolutionは、目的のシンガーに予想どおりの喝采を贈りたくて集まっている人が圧倒的なアニサマって場に飛び込んでいって、圧倒的な歌唱力とパフォーマンスとアジテーションの能力でもって、場を完全に自分のものにしてしまった。ただひたすらに脱帽。なれ合いになりがちなアニソンの人たちにはその登場にいろいろと、学んで欲しいものと期待。見たら自分もこうなりたいって思うだろうから。


【8月27日】 真希波のプラグスーツがピンクに限ることは言うまでもない話だけれどもそれにしても、ぷるんとさせて目立つほどにもない癖に、それを誇るのは周囲にいるのが綾波とか、アスカといった未発達さが売りの面々。それらと比べればな山の頂の高さを誇って子供は喜ぶかもしれないけれど、日本列島の富士山なんてエベレストの半分以下な現実を知った大人にとって真希波の頂きなんざあ郊外の丘陵。気にするものでもない、って言いたいわりにはしっかりそのシーンだけ録画を見直してしまっている劇場版のエヴァの破のテレビ版。あとはやっぱりピンクのプラグスーツで立て膝ついてシートから立ち上がるシーンとか。そういう“見せ場”だけはしっかりあるんだよなあ、この作品。

 ストーリーとしてはやっぱり最初のテレビ&映画のリターンでぐるぐると回った果て来る脱出エンドを探るストーリーってことになるのかどうなのか。誰もが幸せになれるエンディングが用意されていれば良いんだけれどもそうでなかった場合、来年秋と発表になった「Q」の公開のそれから10年を経て三度、映画なんてものが始まってそれから3年5年を観賞に費やすってことになるのかどうなのか。まあそれでもついていくけど。テレビで公開になったらしい次回予告の飛び回る眼帯アスカだけれどアスカの眼帯自体はすでにどっかで出てたっけ、ニュータイプの表紙ではみたけどその前の劇場での予告編にも出てたよあな、いやあんまり記憶にない。どっちにしたって明るそうだから次こそは幸せなエンディングを。目からビームでオール破壊なんてことにはせず。

 「輪るピングドラム」はなんかグルグルと同じところを廻っているって感じで先が見えないというか、見える先はどうにも痛ましそうというか。ストーカー少女が大好きな先生につきまとってるけれども先生は女優さんと婚約を発表。その女優さんにはどうにも裏とかありそうって感じがずっとほのめかされてはいるんだけれど、何か決定的な展開がなくってもやもやの中を手探りで漂っているって気分。とはいえ個々に見て楽しいビジュアルはあるしシーンはあるし謎の提示もあってそれで引きつけられてしまうところが巧みというか。漫然と見ているうちにだんだんと浮かび上がってくる全体像、そして明らかにされる状況から大きな何かが見えてくる、ってなればそれはそれで楽しいんだけれど。さてはて。

 目覚めたので幕張メッセへと向かったら乳母車に犬を4匹ばかり入れて歩いているカップルがいた。中に入ると同じように乳母車に犬を入れて歩いていく人の列。調べるとどうやらペット関連のイベントが開かれていたようすだけれど、それにしても同じように綱で引かず乳母車に入れて押して歩くのは何だろう、イベントではそういう風にするのが礼儀になっているんだろうか。まさか普段の散歩もそうやって、乳母車に入れて押してあるいている訳じゃあないだろうし、ってそれじゃあ散歩にならないし。中には1人くらい乳母車に入った自分を大きな犬に押させる人がいても良かったのになあ、それができる犬がこの世に存在すればだけれど。バスカビルあたりなら大きいし押せるかな。その前に喰われちゃうかな。

 顔にいっぱい毛が生えている犬って暑くないんだろうかと想像しながら「キャラホビ2011」の会場へと入って、タイバニのフィギュアを見たり「ガンダムAGE」の展示を見たり「魔法少女まどか☆マギカ」のフィギュアをながめたりして過ごす朝。「京騒戯画」って作品があちらこちらで喧伝されているんだけれどもこれって面白いのかな。「トワノクオン」とどっちが面白いんだろう。うーん。比べるものでもないのかな。「ベルセルク」のブースで応援フラッグをもらいバンプレストのプライズ系の展示コーナーで「もやしもん」の結城蛍のフィギュアをながめたり。蛍は可愛いけれども中身は……。そこまで造形していあるかは謎。原型師ってそういうきやっぱりついていることを前提に覆うアンダーウェアまで造形していくんだろうか。それが職人の魂って奴なんだろうか。謎。

 1時間程度で後にして自由が丘へと新聞を届けてから転戦して渋谷経由で埼京線で大宮まで行って戻ってさいたま新都心にあるさいたまスーパーアリーナへ。途中の大宮でそばでもかっこもうと思ったけれども小ぎれい化された構内に立ち食いの蕎麦やなんてものは見あたらないところに商売っ気ばかりをだして客のことなんてまるで考えないJR東日本的性根って奴が透けて見える。ホームには残っていたけどそれもいつまで保つことやら。せめて品川の山手線ホームの蕎麦屋にはいつまでも残っていて欲しいけど。そしてさいたまスーパーアリーナでは「アニメロサマーライブ」を見物。去年に続いてだけれどやっぱりあの巨大な箱いっぱいに客が詰めかけサイリウムを振って応援する姿は凄まじい。国宝級の光景。あるいは世界遺産にしたいくらい。欧米人が見たらこれいった何だって思うかも。マイケル・ジャクソンにだってマドンナにだってこれは作り出せない光景だから。

 冒頭から田村ゆかりさんが茅原実里さんとデュエットしたりしたライブはいろいろ見どころたっぷりに進行。生で見る「ゆりゆららららゆるゆりゆりゆららららゆるゆりゆりゆららららゆるゆりだいじけん」はなかなか楽しかったし生で見る「ウイッシュ」も格好良かったけれども個人的には佐咲紗花さんが5万人もの人を前に「日常」のエンディングの「Zzz」を歌いきった姿に涙が出てきた。アニソングランプリで優勝した時にはまだ秋田にいて歌手にやっとなれると決まって上京したのはだいだい2年くらい前? それから主題歌とか歌ってはいたけど、メジャーなシーンに出ることはあんまりなくって、それでも地道に活動を続けて来たことでいろいろ人気も認知も出てきた感じ。そんな流れでたどり着いた大きなステージ。もちろんアニマックスミュージックスだって横浜アリーナって大きな箱だけれど、ホームグラウンドとも言える場所に立つのは当然。そうでない場所で大勢の前で動ぜずに歌いきるその姿に、プロフェッショナルとしての凄さとそして将来性を見た。このまま突っ走っていって欲しいなあ。その才能はあるのだから。


【8月26日】 メカに美少女ったらもはやSFでもアニメーションでもゲームでも、およそポップカルチャーと呼ばれるジャンルの表現では定番中の定番で、それを使ったあらゆるストーリーが組み立てられては様々なデザインが施されていたりして、そんな姿が見せる格好良さと可愛らしさのハイブリッドに人はいつしか惹かれていったその果てに、メカと美少女だったらとりあえず何も言わずにオッケーといったダイレクトな発想が生まれ、またメカと美少女というものをひとつのアイコンとしてその提示、あるいはアレンジによってメカと美少女に代表される日本のポップカルチャーの独自性と流星を、代弁させる動きがずっとあったりする。

 村上隆さんの「SMPK2」とかはまさにそんな動きの代名詞。KO2ちゃんてフィギュアの美少女をメカにして提示して、お前らが見たいそれだって感じにつきつけてきたあの動きは、盛りあがりつつはあってもまだ一般にはそれほど広くは認知されなかったポップカルチャーとしてのメカ少女のアイコンを、アートなりメディアなりを通じて広く余韻喧伝するきっかけになった。まあそれからその後に世界にメカ少女が溢れかえって国会議員になったり、大臣になったり首相になったりするってことは流石におきてないけれど。元モデルな仕分け大臣がいきなりメカな美少女の扮装で国会に出てこられたって困るけど。いや困らないか。昔よりスリムになったその姿態ならアーマー類も似合うかも。何の話だ。

 そんな時代を経てかれこれ10年も経つとさらにメカと美少女は偶像化が進んでどこか陳腐化もしてしまうモチーフに出しかけていたけれども、そこに現れたのがJNTHEDって人。ゲーム会社にいたりして、それからイラストなんかを描き始めてネット界隈では知られ始めていたらしいけれども、そんな才能に目を付けた村上隆御大が、描かせそして個展まで開かせたという「バイバイ“GAME” JNTHED」って展覧会が、広尾にあるカイカイキキギャラリーで始まったんで言ったら1番乗りだった。見ればもう目にキュンとくるモチーフを持ったこの作品、単なる美少女絵師だったらすでにミスターもいるカイカイキキ界隈に、本気でメカも美少女も描けるクリエーターが乱入して来てミスターは苦手でもこれはイケルと思った人が、集まり購入に走るんじゃないかって心配したけど行列なんでカケラも出来ていなかった。何でだよ?

 ここで1億円とかあったら展示してあるものを全部買い占めマンションも買ってそこに並べておきたいかもって思ったくらいのスタイリッシュな可愛らしさ。単にメカ美少女なりメカをベタっとイラスト的に描くんだったらもっと巧い人、可愛く描ける人はいるけれど、そうしたモチーフの構成をばらして組み立て直して画面の上に定着させることによって、スタイリッシュさとスピード感をだしてみせる腕前はこの人のオリジナル。パースをとったような線がいくつもはしった画面にすることによって大きなカンバスに描かれる絵でも補助線めいたものによって落ちきつきが与えられ、様々な場所を見る視点が与えられて見ていて圧倒されるより、見ていて引き込まれるような雰囲気を醸し出す。なるほどそれが狙い? 知らないけど。違うだろうけど。そいういう見方もあるってことで。

 根は普通に平面に美少女とメカを描ける人みたいだけれども与えられた巨大なカンバスを御そうとモチーフを選び、構成を考えそして描いていったその結果はなるほど目新しく、イラストとは違うアートとしての雰囲気になっている。気になるのはそれをアーティストのJNTHEDさんって人がそうするのがアートなんだという意識でやったのか、そう描くのが自分にとってのスタイルだって無意識な意識に突き動かされてやったのか、その違いで前者だったらそれは計算されたイラストの範疇だけれど、後者ならもはや予測の付かない表現、個人の心からわき出るアートっていった位置づけも出来るのかもしれない。まあそういうアートの分け方って1面でしかないけれど。どういう衝動があろうと、それとも計算だけがあろうとも結果として現れたもに理屈をのっければそれが行為としてのアートなんだという言い方もできなくもないから。村上さんがそれをやりたいのか、見てそこにアートを感じたから押しているのか。そこも知りたいところ。誰か聞いてくれ。

 ドローイングにあったパンツも見せてる細いメカ少女の絵がなかなかで欲しかったけれど、価格を聞くのもはばかられたんで黙って通り過ぎる。1番巨大な絵は少女の大股開きみたいに見えなくもないんだけれど、補助線がいっぱいはいっているから体が分割されシュールレアリスム的に再構成されているのかそれともそのままなんだけど見えづらくなっているのか、ちょっと判断に迷った。遠目に見ると1枚絵に線が引っ張ってあるだけのようにも見えるんだけれど、それだと向かって右の足先がないからなあ。あと愉快だったのは「ナガレχ改」って作品で、まちなかで制服姿の少女が日本刀を肩越しに構えてふんばっている絵ななけれどもそのスカートの下に履いているのか、それとも履いてないのかが見ていてはっきりわからなかった。履いていそうな来もするけどそうでもなさそうだし。誰か作者に聞いてくれ。

 あとは漠然とした印象から、スタイリッシュな美少女にアーマー系の装備っていうと最近だと「イグナクロス零号駅」のCHOCCOさんとかがやっぱり頭に浮かぶ僕。もちろんタイプは違うけれども装備の乗せ方なんかに近い文法があるように感じる。それはコナミの玩具の「武装神姫」なんかにも通じる文法かなあ。ああいった。それが2000年代的って意味なんだろうか。もっとも遠い昔、それこそ四半世紀も昔に超スタイリッシュな絵でもって超スピード感のある画面を作ってそこに超エンターテインメントな物語を乗せ、その中で超ビューティーな美少女たちがメカをまとって激しくバトルする漫画があったから、それを思うと四半世紀を過ぎてようやく世間も追いついてきたかなっていった上から目線的印象も浮かんだりした展覧会。

 その漫画とは大野安之さんの「That’s! イズミコ」。単行本はも出てないけどJ−コミで配信中で見ればなるほど先鋭的でスピード感があってなおかつ可愛いって意味も分かってくれるんじゃないのかあ。ともあれ凄い漫画。その系譜を意図するしないは別にして、JNTHEDさんって人は受け継いだアーティストの1人って僕的には思って、大野さん好きとしては評価しまた村上さんの持つ眼力にかなったアーティストということでも評価しつつ、だからいったいどうなんだっていった現状から醸し出される世間へのアジ力の有無を考え、だからこうなんだって答えが出るかどうかを見極めたいところ。しばらく結構長期間、やっているんで気になる人は行ってその目でしかと見よ。会期中に新作は増えるのかなあ。メカ金太郎少女の絵はないもんなあ。

 死なない女が出てきたりするマジカルなミステリーを描いていたりした野崎まどさんの新作「パーフェクトフレンド」(メディアワークス文庫)ってのが出てこれがmた腰の抜けるほど面白いので読むように。小学4年生に進学した教室で、委員長タイプの理桜と明るいのが取り柄のやややちゃんと、おとなしめタイプのトム(略称)の少女3人が、ずっと不登校を続けている同級生、さなかちゃんの家に誘い行くと、出てきたのは静かに見えて早熟天才児。すでに大学まで出ている天才ではあったけれども、理桜が学校は友達作りに必要な場なんだと訴えると、それはちょっと興味があると人間観察のために小学校に行くというストーリー。けれども超天才にしてお茶目っぷりも凄いさなかだけに、クラスの子たちとの間にコミュニケーションのズレがあって、それが妙な楽しさを醸し出す。

 とにかく転がり弾ける文体と表現が素晴らしい。まださなかの家には行っていない理桜たちを読んで依頼する際の教師と小4との会話ななんかで「これが私の天職なんだって思える……一生続けていきたいわ」って先生がうと、すかさず突っ込む理桜。「『結婚はしないんですか?』千里子先生がガタリと立ち上がった。座った。『今は考えてないの』」。とまあこんな漫才かコントのようなやりとりが真顔で繰り広げられ、本当にこいつら現実世界の小学4年生かと思わされるけれどもそこに、さらに早熟なさなかが加わるとコントにボケにツッコミの連続が重なって、おかしさにお腹がよじれてくるから食べた後には読まないこと。食べてる最中も吹き出すからダメだよ。

 もちろんストーリーはそんなコントを楽しむものではなくって、ひとつには友達って何だろいうということを、それは計算できると考える天才数学者のさなかちゃんの思考を見せつつ、けれども計算不能な事態を見せていったい友達って何なんだろうと考えさせるメッセージ性がある。それから所々で小学生たちにとっての謎として語られる事態の実は合理的な説明が可能だという、ミステリー的な楽しみ方も用意されている。ちょっぴりファンタジーめいた展開もあるけれど、そこに合理性の神様を突っ込んだ時に起こる状況ってのがまた楽しい。それはどういうことなんだ。誰がそれを考えたんだ。よりマクロな視点からこのストーリーを噛みしめた時に浮かぶ世界の大きさと恐ろしさが、ちょっと怖い。それは脇においても、天才少女が自分を感じるストーリーとして楽しめるから大丈夫。ともあれ傑作。そして異色作。読み終えたら君たちも吉祥寺を走り回って不思議を探そう。クマとか会えるかな。


【8月25日】 青空の下だと土手の草原にささった色とりどりの風車がとっても綺麗に見えたんだけれど全体に、トーンを暗めにしてある関係もあって実写版の「荒川アンダーザブリッジ」は、荒川河川敷村の雰囲気がどこか爽快さとはズレた浮世離れ感が漂って見る人を幻想の空間へと誘い込む。それはそれで良いんだけれどもあの爽快さも持った河川敷のロケ現場を、みんなにももっと味わって欲しかったなあ。ドラマ版のDVDとか出た時にはオフショットの加工なしの映像も入れてあげて欲しいなあ。でもってストーリーはテンポよくさくさくと。星の演技が最高。そして村長も。この2人がいて軽妙さと痛快さがきわまるっていうか。名キャスティング。その勢いで映画まで突っ走れ。

 この面白さはいったい何だ。今現在で60歳で6年前でも54歳ととうに萌えだのキュンだのといった情動など枯れた老境へと足を踏み入れていて不思議のない人間が、まさに萌え萌えしい少女の姿を描き、胸をキュンとさせるストーリーを紡ぎ出す。この凄まじさはいったい何だ。奇跡。まさに奇跡としかいいようのない事態が今現在、漫画の世界で進行していて、それを誰も凄いとか思わないところに日本における漫画文化の広まり具合、浸透具合があって、そして何よりあだち充さんという漫画家への彼ならそうして全然不思議はないという絶大なる信頼がある。描けて当然。そんな風に認知されている漫画家が果たして日本にほかにいるか。世界のいったいどこにいるのか。やっぱり凄い。日本も。あだち充さんも。

 マウンドで投げる平山圭太は剛速球でもってばったばったとバッターたちをねじ伏せる。まさにエース。それも超高校級の逸材ながらもその正体は実は監督の娘で超人気グラビアアイドルの里美あずさで、プロ野球選手になりたいという夢を抱き、天賦の才能もあって野球の世界でその実力を試しているもののそこは女子が活躍できない世界。だから幼なじみの圭太の名前を借り、姿も借りて父親の黙認のもとで野球をしていた。もっとも普段はグラビアアイドルの仕事もあるから、練習などは本物の圭太が参加してはひょろひょろの球を投げようとして監督にとめられ、ただランニングばかりをしている。あずさが試合に出ている時は、かつらをかぶるとなぜかあずさそっくりになる特徴を行かして、あずさのふりをして球場などに佇み、サインくらいの仕事はこなす。ただしグラビアの仕事はしない。ばれるから。

 投げては大活躍で、脱いでは大人気のあずさに比べて投げられはしないし、水着になるなんてもってのほかの圭太の立場のなさに涙も出るけれど、自分の記録には絶対にならないにもかかわらず、あずさが野球の世界に一所懸命になったりするその理由、そしてアイドルとしても人気者であり続けようとしている姿にちょっとした青春の恋情なんてものも感じて胸がキュンとする。うらやましいなあ圭太くん。水着姿になったあずさはあだち充さんが描く美少女たちでも屈指の可愛さ。そしてその上に野球にユニフォームなんかを羽織った姿も小粋で小悪魔的。50歳を越えた人間が描ける絵のはずはないんだけれどもそれを易々と描いてしまうあだち充さんの才能が何も恐ろしい。

 プロへと進んで活躍しつつグラビアの仕事もしているあずさの二足のわらじっぷりのスリリングさと、そんなあずさを眺めていろいろ思う圭太の心境なんかが気になってくる展開。あんまりしょっちゅうは描かれないみたいだけれども、1巻ってついているなら2巻に向けて展開も用意してあるんだろう。そこでいったい圭太はどうなりあずさはどうなるか。気になって仕方がないだけに、描き続けていって欲しいなあ。あるいは誰かの主演でドラマ化なんてあったら最高。でもグラビアアイドルができて野球の東急フォームも完璧な女優さんなんて誰がいるだろう。可愛さだったら川口春奈さんとか良いんだけれど、投げられたっけ。その時こそ男子が女子のようなボディに仮装しユニフォームを着て投げれば良いってことで。逆だね漫画とは。

 ジョブズが辞めた。これでアップルは砂糖水売りの支配下におかれて革新的なスタイルと鈍重な中身を持ったPDAをまず作り、そしてテレビに接続してはゲームとか絵デュテインメントソフトを楽しんだり、ネットに接続してはナローなバンドでインターネットを楽しむような機械を作っては、まるでヒットしないままガラクタばかりを山積みにしていった果てに、再びジョブズを迎えることになるるだろう、って予言したいけれどもあとの時はまだ確か30歳だったジョブズも今では56歳。決して歳はとってないけれども、その壮年のピークにあって経歴的にも頂点を極めながら退任をせざるを得ない実状もあって、26年前にはあった今のような未来を期待することは不可能そう。こればっかりは人間だもの、仕方がない。

 僕がマッキントッシュを買ったたのは1994年とかそんな頃で、パソコン通信をまず遊び、それからインターネットマガジンを読んでインターネットにも接続し、さらにホームページを作って日記とか付け始めて今へといたっている訳だけれどそんな最初にジョブズはまだアップルには戻って折らず、外でネクストとかいったものを作ったり、ピクサーでアニメーションなんかを作ってた。ネクストはともかくピクサーの成功はジョブズにハリウッドでの成功なんかを約束しそうな勢いだったけれども、そこに安住しないでアップルへと戻ったジョブズはまず打ち出したiMacっていう筐体が、実に先鋭的で先進的でやっぱりジョブズはすげえって印象を、当時のパソコンキッズたちに強烈に植え付けた、って僕はその頃結構な歳ではあったんだけれど、やっぱりその斬新さにはうち震えた。

 最高のデザインで最高の性能。それなのに低価格というiMacの衝撃は男性のみならず女性陣にもパソコンを手に取らせ、ネットに接続させて今のこのネット文化の端緒を作った、確実に。そういやあ名古屋で開かれた日本SF大会の「カプリコン1」の開催中にiMacって発売になって、会場を抜け出して栄のパルコにある島村楽器のパソコン売り場に、予約でなくても抽選で買えるiMacを見に何人かで行ったんだっけ。懐かしい昔。そして矢継ぎ早に打ち出されたパソコンの革新の後、iPodなるマシンが音楽を聞くスタイルをまず変えそしてその裏で、端末へとタイトルをディストリビューションするネットワークインフラまでをも密かに築き上げては、今のこのアップル帝国再びな状況の礎を築いた。

 それもこれもジョブズのおかげ。iPhoneでスマートフォンの世界を開き、iPadでタブレットコンピューティングの世界を世に見せそしてこれからはグリッドな世界の到来を引き寄せようとしている時期の退任が、果たして将来へと向かうアップルのマップを変えるのか、それとも変えないのか。今はまだ遺産はあってもその先にいったいどんな空白を埋める作業が待っているのか。退任の報にガクンと株価が下がり相当規模の時価総額が吹っ飛んだことがそのまま、ジョブズのアップルにおける存在感の超絶的な高さを示していたりする。その影響を甘んじて認めて粛々と仕事をしてやがて訪れる衰退を舐めるのか、それともジョブズがいなくても別に才能はいることを世間に認めさせるのか。残されたものたちの才能と覚悟が試されそう。何か生まれてくるかなあ。PDAかなあ。ネットワーク端末かなあ。


【8月24日】 超早起きして電車を乗り継ぎながら銀座へと向かう途中に五代ゆうさんの「クォンタムデビルサーガ アバタールチューナー4」(ハヤカワ文庫JA)を読み終える。ジャンクヤードって荒れ地で魔物の力と知恵をさずかった奴らが喰らい会いながらも助け合い脱出を目指して突き進んでいた物語が第3巻で破滅へと向かう地上での物語へと映り、そこでジャンクヤードを救おうとしたセラって少女が実はコンピューター的を制御する超越的な存在でもあってコンピューター内に架空の世界を作ってそこでキャラクターを育成していたことが判明。すなわちジャンクヤードの世界の意味が見えた分けだけれども、そんな地上の世界が一気に崩壊へと向かい、一方でジャンクヤードの世界でも刹那までいっていた戦いが爆発し、地上の世界と重なり合ってそして迎えた台4巻。

 ジャンクヤードで暴れていたサーフたちトライヴ<エンブリオ>の面々が、姿こそそのままにさらに強力な力と、そしてとんでもない生態を持って地上に屹立しては、教会=協会にとらえられて眠ったままのセラを救いに向かおうとする。強い力を持っていながらその生態故に協会と対立して地下に暮らす生き残りの人類たちからは悪魔と誹られ、恐れられ、けれども強い力を利用したい人類から誘われその身勝手さに最初は辟易とするけれど、何の罪もない民間人や子供たちが協会側に襲われ、さらわれとんでもない目に合わされよう賭している姿に人間ではない自分たちの人間らしさを発動させ、共闘し相手を倒して人類を助け、逆に人類から助けられもして理解を深め、そして一気に協会への潜入へと向かう。

 5人いたトライブ<エンブリオ>のうちの1人、ヒートだけがなぜか協会に与しているその理由。シン・ミナセという前巻では人類の中にあって重要な役割を果たした聡明な人類の1人がサーフを襲ったその卑劣。誰よりも上でありたいと願う欲望を内に誰もが秘めながら、その衝動にのみこまれるべきか、それとも毅然として押さえ込み超然とし続けるべきなのか。人類とは、人間とはいったどういう存在なのかという哲学的な命題もはらんで問いかけつつ、物語はいよいよラストのバトルへと向かっていく。人類はキュヴィエ症候群を克服できるのか。それは人類としての意志を保ったままのものなのか。人類を貶めてでも超越的な存在へと身を転じることによによって生き延びるのが最善か。あなたならどうする。そんな問いへの答えもきっと得られるだろう最終巻を、今は待つ、ひたすらに。

 マクドナルドで休憩してから松屋銀座へと入って「ハローキティアート展覧」を見物。横を見ると藤本美貴さんが歩いてた。ゲストだったんだ。ハローキティ好きとして知られ結婚式にも確かキティが来たんだっけ。それくらいのキティラーらしいけれどもそれよりもテレビだとややふっくらとして見えた藤本さんが実際は細くて細面でおまけに顔が小さいことが判明。それだからこそあの程度で住んでいるテレビに普通の人が出たらなるほど画面から顔がはみでるはずだよデラックス。いやあの人は顔がはみ出る以前に体がはみ出るんだろうけれど。そして山口裕子さん。三代目のキティデザイナーとして1980年からもうかれこれ30年、キティを描き続けてくる中で時代のトレンドを取り入れ先取りもしつつキティの人気を子供の愛するキャラクターから、世界のセレブがカワイイと喜ぶキャラクターへと育て上げてきた。

 まさに日本の至宝。国民栄誉賞だって与えられてしかるべき人が歩いている姿を見てしばらく前からするとずいぶんとお歳を……は関係ないか、そんなに姿は変わってないし。相変わらず世界を飛び回ってサイン会をして回っているそうで、そんなコミュニケーションの多さもキティの人気を世界に広げる力になったんだろー。もちろん描く才能が1番だけれど。展覧会にそんな山口さんが最近描いたハローキティを現代アートにした絵画が出ていて、大きい中にもしっかりとデザインされ、コーディネートされたキティが描かれていてなるほどこの才能ならばキティが世界のセレブに、クリエーターに刺激を与えて当然って思い至る。だってカワイイんだもん。そしてカッコイイんだもん。イチゴの帽子を被せるだけでなく、顔をイチゴにしちゃったキティとか、発想もとんでいる上にスタイリッシュ。流石ってところを見せてくる。デザインを志す人もアートを目指す人も必見、か。

影響を与え与えられて作られた反骨の映画が娯楽と騙られている現実に釘を刺せ 一方で展覧会は博物館でもあって1975年に作られた最初のハローキティのグッズをはじめ、文具に玩具にファッションに雑貨に食器に家電にほかさまざまなジャンルに広がっていったキティのグッズが、歴史的にも範囲的にもたっぷりぎっちり治められていて、ああこんなのあったと昔を懐かしんだりおおこんなのあったのかと驚いたりできる。ギターとかは面したことがあったけれどもスクーターは知らなかったなあ。車は見たことがあるけど流石に展示はされてなかった。テレビはちょっとすごいかも。前面の覆いがキティ。これを挙げるとブラウン管だけれどキティが見たい人はテレビなんか見ないかも。その意味では本末転倒的かも。でもカワイイ。欲しいなあ。置く場所ないって。ごもっとも。

 本当の意味では訃報が伝わったのは2010年の8月25日だから、それを知ってからちょうど1年は明日なんだけれども当人が闘病の中で力つき、息を引き取ったのは201年8月24日だからそれからちょうど一回忌となった今日、やっぱり見ておきたいと新宿眼科画廊で開かれていた今敏監督の展覧会の最終日をのぞく。「妄想代理人」のポスターとあと「夢みる機械」のキャラが描かれたミニミニの色紙っぽいペーパーをもらってそれに日付が入っていたのを見てああ1年かあと嘆息する。今敏さんがいない1年だったんだなあ。そしてこれからもその不在は続くんだなあ。

 その後にも相次いだアニメに携わる重鎮たちの訃報も含め、才能がどんどんと失われていくなあと嘆きたくもなるし、そんな不在とそして経済という事情がもたらす今見るべきものたちのシュリンク、未来に見られるだろうものたちの消滅なんかを心配もしたくなるけれおd、嘆いてどうにもなるものではないし、心配して事態が改まる分けでもない今のアニメ界。大切なのは思いと情熱。自身の作品も宙に浮いているとの情報も伝わる中、それでも「次回作」と訴える今京子さんたち関係者の熱い思いを組んで、是が非でも完成へと向かって再び現場が作られて欲しいもの。それさえあれば彼らはやって来て、お金もやって来てそして完成が近づいてくる。だからお願いします偉い人たち。

 会場を出てちょっと歩くと小学校があって警備員が立っているそこがそうか東京の吉本興業の本社ってやつか。昨日の会見もその体育館で開かれたんだろうけれど、行ってる内容事態はシンプルだけれどそれだけで果たして、って思いを誰もが抱いて本当は? ってことへと興味が向かう。ただそれだけでそうなるんだったら前にそうなっていて不思議はない。分かっていたんだったらそもそもがつい最近の大きな仕事をどうにかすべきだったて思いもつらつらあって、あの業界に生きる人たちの表からは見えない裏側に戦慄が走るけれど、それがかつては裏のままだったのが、今の憶測が増幅される中で真実も漏れ出てそれに火が着く時代。開いた小さい穴から出てくる情報がやがて大きな決壊を生み、そしてテレビ界、芸能界を巻きこんで大きな爆発を生むってこともありそう。要注目。

 海回である。水着回である。お泊まり回でもある。お風呂回でもあったのにそれなおに見せたのは嵐の中で水よけに着た一瞬で、見えたのは停電の前に浸かろうとしていたお風呂での一瞬。前者はそれでも立派に発達しまくった日々乃さんだったからまあ目には潤いが与えられたけれど、後者は未発達もはなはだしさが漂う壁娘の詩緒に過ぎず見てまあそれなりではあったけれど、その程度でしかたなかったこともまた事実。戻って普段着でそれでも立派なところは見えたけれど、それなら日常の描写からだってしっかり見られる。見たかったのはそれじゃない。海。水着。お泊まり。お風呂。そこでのそれ。だったのに。それなのに。「神様ドォルズ」絶賛高評放送中。デコ眼鏡の早い再登場を願う。あれは言動だけでも見ていて愉快だから。


【8月23日】 発売になった「イブニング」でもってきくち正太さんの「おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ。」を読んだら、扉絵がとってもエロかった。おせんさんの艶姿。ちょいと浴衣を羽織ろうかってとおろを正面からとらえた絵では胸元には下着はつけているけれど、腰には別になにもつけていないところに、なるほど和服ってなぁこう着るんだって粋が見えて嬉しいやら楽しいやら。そっと重ねて見えないようになった足の付け根の奧に繁みやら何やらを、想像するだけでもいろいろ出来る素晴らしい扉絵だと讃えたい。

 浴衣姿になって歩くおせんさんをみれば、そんな配慮が体のラインにくっきりと出てとっても良い気分にさせてくれるだろうけれど、しょせんは架空の漫画の人。せめてだったら実写になって誰かが演じて欲しいって希望は過去に1度、実現してそして無惨にもうち砕かれてしまっているから、もうきっときくち正太さんも認めはしないだろうなあ、実写化。でもほんと、今なら誰だったらあの気っ風とあのスタイルを、そのまんまに表現できるんだろう? 探してもいない今の世界。女優もタレントになってしまったってことかなあ。

 でもって「もやしもん」はミス農大落としに及川葉月が堂々の参戦決意。そりゃあ目の前で結城蛍の立候補を見せつけられては、同じ樹ゼミの女性メンバー(ってまだ学年的にはゼミ生じゃないんじゃないか)として出ざるを得なかったってことだろー。でも相手はやっぱり同じ樹ゼミの武藤葵。倒してそして自分が君臨するつもりか、それとも蛍の君臨をこそ阻止するための当て馬を自認か。すべてはこれから。でも案外に勝つのは畜産の眼鏡っ娘だったりして。あれで本気出してきたらいったいどんな麗しさなのか。見てみたい。

 なんだ「ブッシメン」は載ってないのか。いよいよ対決ってところでじらしてくれるぜまったくもう。「CAPTAINアリス」はブッシュパイロットとしてスタートを切りかけた主人公、アリスの思いっきりの良さが炸裂。てっきりフロートをひっかけ落として浮上しあとは胴体着陸でも試みるかと思ったよ。でもそこに次なる事件が。果たして急流の2人を助け出せるのか。「ミスター味っ子2」は最初の味皇がいよいよ本性をむき出しに。2代目に食べてもらうものとして、初代ミスター味っ子こと味吉陽一は、やっぱりカツ丼を作ろうとしているけれど、それならきっと読んでるだろう初代味皇。でも息子の陽太の前だけを見るその目、その技量に勝てるのか。こちらも乞うご期待。二代目味皇の「う・ま・い・ぞー!」が見てみたい。出来れば全員の食事に対して。

 可愛いなあ小狐。健気だなあ小狐。けどすっかり強くなっちゃってからかいにくる妖怪に牙を立て爪を向けたりできるようにはなってた「夏目友人帳・参」だけれどもそれでも、夏目に好かれたい、かまわれたいって思いは強く残っているようで、久々にであった夏目のためにと薬草を採りにいってそこで事故に遭いそうになり、岩の神様の助けを受けて救われるけれどもイワンお神様は残念にも……。何があっても動じないだろう超越した存在の岩の神様が、どーしてあそこで動いたのか。それはやっぱり小狐が可愛かったからに他ならないんじゃなかろーか。あの子のためならえんやこら。ところで子狐って雄? 雌? あとニャンコ先生が結構痛そう。やっぱりただの呪術師じゃないのか的場静司。ヒノエは相変わらず気っ風がいいなあ。おせんさんも妖怪になるとあんな感じになるのかなあ。

 昨日当たりから界隈がザワついていた、「SPUR」って女性ファッション誌への荒木飛呂彦さんの登場が当日となって、本屋に行って眺めたらなるほどやっぱりいかにも荒木さんて人物が表紙になってて遠目にも背景に「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッツ!」って音が聞こえてきそうになった。ただ問題はその表紙に描かれているのが誰ってことで人によってはこれは女装した岸辺露伴だ、それが証拠に入っていた岸辺露伴がイタリアにあるグッチの工房をたずねる漫画の表紙に描かれた、岸辺露伴と顔の形も唇とか目の造作もそっくりだって意見もなるほど出たって不思議はなさそうなそっくりぶりだったけれども、それってつまりはキャラクターの描き分けがげふんげふん。ともあれそう感じが人も案外に多かったってことが分かって、自分の目にまだまだ痛みは出ていないと分かっただけでも収穫か。けど実はやっぱり露伴先生だったりするのかも。やりそうだし。

 グッチを訪ねてグッチの蘊蓄を聞きつつ、グッチを使ったエピソードを描いて見せるおまけの漫画の中身になるほど、不思議さを醸し出す荒木ワールドはあるんだけれど、ひねくれていて真っ直ぐには進まないところが魅力の荒木ワールドと比べると、グッチをとにかく推さなきゃいけないってことからどこか、すがるような雰囲気が漂っていてちょっと荒木さんぽくないって感じがしないでもなかったりするという。こういう漫画をあんまり荒木さんには描いて欲しくないんだけれど、荒木さんだからこそ出るイタリアの雰囲気ってのもあるだけに、仕方がないことなのかもしれない。岸辺露伴ではなくシーザーとか、ジョルノ・ジョヴァーナだったらもっとオラオラな感じが出たかもなあ。

 あと取り上げたブランドがグッチってところが何てうか。セレブを感じさせようとはしているえけれど、かつて相続をめぐって骨肉の争いをして死人まで出しているくらいのブランドだからなあ。今は別の資本にかわれて家内制手工業っぽさはなくなったけれども、その分、ブランドが持っている伝統の重みってものが薄まった感じ。それだからこそブランドネームにすがらなくっちゃいけなくって、知名度を上げるために荒木さんともコラボしてみせるそのスタンスを、軽いと見るか鮮やかと見るかで評価もいろいろ違ってきそう。ともあれ9月に控えた荒木さんをフィーチャーした展覧会は楽しみ。あのグッチを荒木さんがどう料理するか。しないのか。見守ろうっと。

 リビアでは大佐をしているパパがどこかへ行ってしまったのってうさこちゃんが言ってそうな状勢。とはいえ追いつめられたように見えてもまだまだ軍備は結構あるようで、息子も捕まったと言われながらもちゃんと登場しているあたりに、西側が喧伝するほどもはやこれまでって雰囲気にはなっていないのかもしれない。事態が起こったときだって明日にもカダフィ大佐は亡命するんじゃないかって憶測が飛んだけれど、それからもう半年以上も経ったわけだし。なかなか頑張る。それだからこそあの国で君臨し続けられたんだろう。頑張るといえば中国の前国家主席も訃報が保持されながらも、今もって正式な発表がない。頑張るなあ、って言うべきなのかそれとも報道自体がいろいろだったのか。それが明らかになるのは正式の訃報が出てから。来年か再来年か。いくらなんでも年内に発表がなかったらやっぱりちょっとあれ過ぎたって頭つるりとやってもらって良いんじゃないか。なあ。


【8月22日】 人間が人形になるっていうと大昔の「悪魔くん」のマネキン怪人がやっぱり記憶に強烈に残っているけれど、それをのぞけば1990年代に一世を風靡したテクノゴシックなSFで、リチャード・コールダーによる「デッド・ガールズ」「デッド・ボーイズ」「アルーア」といった一連の作品のどこかにあった、ナノマシンによって少女が機械になっていくって作品が、やっぱり近くでは頭に浮かぶ。スタイリッシュでゴシックな雰囲気がとっても人気だったのに、なぜかその後どこからも出ないままほとんど絶版? ちょっと勿体ない。だから瑞智士記さんのハヤカワ進出第1作「展翅少女人形館」の刊行を気に、どっかから再刊してみたらいかがかと言ってみたり。

 つまりは「展翅少女人形館」とはそんな感じに退廃と衰滅の空気が色濃く漂う設定を持ったストーリー。16世紀だかにピレネーの山中で医師として慕われ人形師としても讃えられた少女が魔女のような存在と咎められ拷問の果てに命を失う。そして現代に話を移して何十年か前から世界では、人間の代わりに球体関節人形が生まれてくる現象が発生して人間はほとんど生まれなくなっていて、滅亡に貧した人類は「機関」なる組織が中心となって人間のまんまの子供が産まれたら、引き取って隔離してピレネーの修道院で育てることになっていた。そんな修道院にいたが双子で生まれながらも姉は人形だった泣き虫少女のマリオンと、それから娼婦の母親から生まれ、なぜか人形だけを愛していた母親に捨てられるように預けられたミラーナと、あとは職人の娘として生まれ、人形作りの腕を持ったフローリカたちだった。

 ミラーナは修道院でバレエの名バレリーナから教わる形でバレエの技術を高めていたけれど、誰に見せるわけでもないその技を見たのが人形作りに勤しむフローリカ。きっと見据えたその思いはミラーナにに共感して五寸釘となって彼女を精神的に貫く現象をかつて起こしてしまったこともあった。また人フローリカはマリオンの双子の片割れの人形をこよなく慈しんで、張り付けにしたりバラバラにしようと企んでいて、マリオンから敬遠されていた。そんな関係が日常のように続いていたある日。修道院にもう1にの少女がやってくる。貴族の娘とされる彼女は人間ではあったが見た目は人形そっくりで、一部の機関だけが人間としての生身を残して思考し、会話し、栄養を摂取するものの動けない状態。おまけに極端に鋭く頭が良く、修道院にやって来ては生まれながらの尊大さで振る舞い、素手にいた少女たちの間に波風を起こす。

 それがひとつの振る舞いとなって修道院の少女たちの運命を大きく揺るがす。なおかつ人形と人間の入り混じった少女の存在にも迫って、人間であることと人形であること、そのどちらを人は、少女は選ぶべきなのかを感じさせる。なぜ人間が人形になるのかという理由をナノマシンのような科学的技術的ガジェットでは説明していない部分にサイエンスフィクションとしての悩ましさを感じる人もいそうだけれおど、そういう運命に人類が追い込まれたと仮定して、起こる環境の変化、思考の変化を浮かび上がらせ人間にとって人形とは、人にそっくりでありながら人とは決定的に違い、老いたりはせず育ちもしないで永遠の時を生きるその存在とは何かを考えさせる。いずれにしても少女たちの凄まじいばかりの執念が、漂うストーリー。読み終えて自分だったらどの道を選ぶか。考えてみるのも良いだろう。

 超早起きして電車を乗り継いで登戸まで行ってそこで見渡すとやって来たのがドラえもんのラッピングバス。これだと思って乗り込んだら降車ボタンもつり革もドラえもんがついていて、シートにもタケコプターみたいのが描かれていたりとドラえもん尽くしについつい喋る越えも大山のぶ代さんっぽくなってくる、って今は水田わさびさんか、大塚耕生さん? それは古すぎ。ともあれそうした声優さんによるサービスはなかったけれどもドラえもん尽くしのバスに揺られて10分ほどで、川崎市民も東京都民も日本人も世界人類も開館を待ち望んでいるといわれる「川崎市 藤子・F・不二雄ミュージアム」へと到着する。もっと山奥にあるかと思ったら普通に道路に面してた。向ヶ丘遊園からなら歩いてこれそうな距離なんでこんど来る時は歩いて来よう。いつ来るかも知れないけれど。

 そんでもって入ると定礎の「2011・9・3」の横にあったのがドラえもんのシルエットだったり、正面の壁からタケコプターが生えいたり暗記パンがくっついていたりと藤子・F・不二雄さんづくし。これはきっと面白いなと中に入って荷物を置いて、回った館内はやっぱりどこもかしこも藤子・F・不二雄さんのキャラクターが溢れてて、小学校の頃に始まった「ドラえもん」はもとよりそれ以前の、まだ共同ペンネームだった藤子不二雄の頃の「オバケのQ太郎」やら最近は忘れ去れれているっぽいけど一時はしっかり代表作だった「ウメ星デンカ」とか、最近の「キテレツ大百科」とかあんまり知らないロケット型のキャラクターとかがそこかしこにいたりして、懐かしさもあれば目新しさもあってとどっぷり浸って大きくなった藤子・F・不二雄さんお世界を全身で味わえる。

 これが若い盛大になると「ドラえもん」と「キテレツ大百科」は知っていても「ウメ星デンカ」や「21エモン」や「ジャングル黒べえ」は知らなさそうな感じがして、見て分かるんだろうかこの面白さ、そして味わえるんだろうかこの感動って思ったりもしたけれど、こうして一同に介して再び提案されることによってそうかこんなキャラクターもいたんだ、そしてこんなに面白い話もあったんだって取り上げられ、取りざたされて再びの脚光を浴びる可能性だって出てきそう。「ジャングル黒べえ」なんて漫画の原稿を見られるだけでも嬉しいなあ。本当はだからあの傑作だったアニメーションを是非にDVDボックスにして欲しいんだけどなあ。出崎統さんの名作なんだよ本当に。

 そうそう「黒べえ」といえば館内で上映される作品のうち、パーマンの世界にドラえもんが入り込んでしまう内容のショートアニメに一瞬だけ、動く黒べえが出てくるんでちょっと注目。もはや見ることがかなわないと思ってたベッカンコーに出合えるんだから。越えが肝付兼太さんだったらなおのことピンと来るんだけど。楽しかったなあ。ベッカンコー。庭にはどこでもドアがありドラえもんがいて恐竜もいたりして、そんな奧に黒べえもいるから注目。やっぱり空きだったんだなあ、藤子・F・不二雄さんは黒べえが。でないとわざわざ人形にして置かないって。あと人形ではないけれども巨大なドラえもんが四つん這いになっているキッズコーナーがちょっと居心地良さそうだった。ドラちゃんにまたがっていると気持ちいいんだとっても。でもきっと子供専用。偽って潜り込むか。

 そんなキャラクターたちに出合えると同時に、藤子・F・不二雄さんのパーソナリティーにも触れられるのがこのミュージアムの特徴。恐竜の化石やら人形やらが机の上とか脇におかれたデスクはなるほど、「のび太と恐竜」を書いた人に相応しい。見上げた書棚にも恐竜の本とウエスタンの本がいっぱい。そしてSFも。当人は「すこしふしぎ」としての「SF」を書いているって言っていたけどどうしてその神髄は本格SF。書棚には小松左京さんの「復活の日」が並びハインラインの「愛に時間を」が並びキイスの「アルジャーノンに花束を」が並び眉村卓さんや横田順彌さんのSFにエッセイが並び星新一さんの本もあってと日本海外問わずSFの名著が並ぶ。それらを読んでマインドをはぐくみ描いた漫画がSF好きを育ててきたこの循環を。僕たちはもっと思い起こして大切にしなくちゃいけないって改めて感じた次第。SF界は藤子・F・不二雄さんに何かした? まだならこのミュージアムに星雲賞を。


【8月21日】 「フルメタル・パニック!」2題。まずは本家の賀東招二さんが書いた短編を集めた「フルメタル・パニック! マジで危ない九死に一生?」(富士見ファンタジア文庫)では、相良宗介と千鳥かなめとの愉快な学園ドタバタミリタリーコメディが何編か入っているその上に、書き下ろしとしてテッサのその後のストーリーが1編。アーバレストを生んだ学者の故郷を訪ねてテッサがお墓参りをするって話なんだけれども、そこで衝撃の事実が明らかに! 島でテッサが出会った少年のバイクの後ろに乗せられて、町まで運んでもらった時に少年がテッサに告げる。胸を押しつけないでよと。

 なんだってー! テッサに押しつけて困られるだけの胸があったというその衝撃は、読んだ読者のほとんどの脳天を直撃し、どういうことなんだと訝らせつつ人ってそうだよね、成長するものなんだよねって現実を押しつける。流石にマオほどにはいかなくってもテッサだって妙齢の少女、というより「お・ん・な」だったんだなあ。そんなことはない、テッサたんに限って成長とか発毛なんてことはありえない、って思いたい青少年も多数いることだろうけれども、そんな人はお願いだから賀東さん、もうテッサのこれからを書かないで、どんどんと大きくなってボンキュッポンって体型になって阿婆擦れな言葉を履いて男を籠絡するようなマオさんにはならないで、ってお手紙でも書いてみたらいかが。

 いや別にマオさんだって阿婆擦れで小悪魔でクツル・ウェーバーを籠絡しているって訳じゃないんだけれど。むしろ身重で悪阻も非道いマオを放って世界中を飛び歩いている快男児、あるいは浮気男。その性格は本当に子供が産まれた後も変わらなかった模様で賀東さんが原案を担当し、大黒尚人さんって新人が執筆を担当した10年後を描くストーリー「フルメタル・パニック! アナザー1」(富士見ファンタジア文庫)でマオさんは、軍事顧問会社を作ってそこの社長として世界を相手にビジネスしているんだけれど、傍らにクルツはおらずむしろ離れてはマオさんをギリギリさせている模様。年月が経っても苦労が絶えないなあ、姉御。可哀想だかあらもらってあげたいけれども怖そうだからなあ、姿の見えない旦那の実は深い情愛も、そんあ情愛に育まれて生まれた子供も。誰? それは読んでのお楽しみ、と。

 しかし「アナザー1」は日本の土木作業を請け負う会社の一人息子が工事現場に突然現れた自衛隊のASを相手に、軍事顧問会社が持ってきたASを使って大暴れするというところから始まるストーリーで、割と普通にアムロのガンダム登場をやりつつその先に、シビアな戦いはなく相良宗介のような軍オタのドタバタもなくって普通にボーイ・ミーツ・ガールからの成長ストーリーが繰り広げられる。マオに見込まれ会社に入らないかと誘われ訓練を経て皮肉屋の同僚を倒してしまって才能を見せるという第1巻。自衛隊に何かを仕込んだ謎の存在はあるけれど、それが大きな物語へと発展していくのかそれともショボくまとまるのか。そんな辺りを気にしながら続きを読んで行こう。とりあえずアデリーナの衣装では空港に出迎えに来た時のツアコン姿が好き、かな。

 曇天の中を東京ビッグサイトへと出むいて西館(にし・やかた)から東館(ひがし・やかた)へと向かう通路の空きっぷりに先週はいったい何だったんだと振り返る。まあコミケだし。夏真っ盛りだったし。対して今日は気温も下がっている上にコミティアなんで来る人も限られるってことで。とはいえ2つのホールは卓がびっしりで人もいっぱい。蒸し暑さすら感じられる場内を歩いて「マンガ論争5」をまず買って、あわたけさんあびゅうきょさんが並んでいるのを遠目に横切り松山剛さんが出してる前を通って付近をうろうろ。ライトノベル関係の分厚い冊子があってSDの新人賞を取った人が何か書いてあるって張り紙を見た後、企業の持ち込みブースを歩いていたらそのSDの丸宝編集長が経っていた。びっくりした。

 漫画の持ち込みもやっているコミティアなんだけれどもライトノベルもやってる模様。漫画ならネームを見ればそれなりに判断できるかもしれないけれどもライトノベルはどうやっているんだろう。梗概か。5分くらい読み聴かせさせるのか。ちょっと興味。とりあえず伊藤ヒロさんの新刊「百合×薔薇2」(集英社スーパーダッシュ文庫)が素晴らしいと告げておく。発売までまだ間があるから中身は秘密だけれど、新たに始まるバトルの相手がなかなかにこわかわいい。ヤンキーなのにいい人、ってパターンはよくあるけれどもそれでもやっぱりとっても良い人。そんな人をヤってしまうとはなるほど恋は盲目ってことで。

影響を与え与えられて作られた反骨の映画が娯楽と騙られている現実に釘を刺せ  そしてラストに明らかになる衝撃の事実。誰だそいつ的言及から激しいバトルへと向かいそうな可能性。続きが楽しみになって来た。あとがきでは<<花(リリ)>>って能力の募集をするかどうか迷っているって話が出ていたけれども、名称を考えそれも映画に関連のあるネーミングにして能力も考え花言葉も付けるってやるととっても難しい。それをあんなに沢山考えてしまえるんだからやっぱり作者って凄い。それとも<<花>>が考えついてから書き始めるのか。えんま帳に考えついた時に書き溜めているのか。知りたいその創作の秘密。募種といえば「フルメタル・パニック! アナザー1」の方ではASの名称募集をやっていたなあ、日本っぽい名前だって。だったら例えばシャドウ・オブ・サムライ(影武者)とか、キング・オブ・モンスター(ゴジラ)とかって映画にちなんだ名称では、ってそれじゃあ<<花>>だ。やっぱり難しいなあ。

 「ゴジラ」といえば監督をした本多猪四郎さんの生誕100周年を記念するイベントが、新木場にある第五福竜丸展示館でもって開かれるって聞きつけて、お台場からの帰りに寄って眺めたそのトーク。最初は第五福竜丸についての話があり、それから本多監督の息子さんが登場して製作に対する本多監督の思いなんてものを聴かせてくれた。それは原爆であり第五福竜丸が被曝した水爆であり、戦争そのものであり理不尽な災厄全体であってそうしたものに直面した時に民衆が、欲しいままに蹂躙されてしまう理不尽さって奴を映画には必ず込めて、そうしたことが起こって欲しくないという願いをそこに現そうとしたらしい。

 あと科学がゴジラすら倒して世界を脅かす可能性を持つに至ったとき、それを科学者は良心でもって封印する覚悟ってものも映画には込めたとか。決して大勢を救う代わりに自分が犠牲になるといった心理ではない。無謀な特攻精神の称揚なんて戦争で悲惨な目にあったあの世代の人が、やるわけないもんなあ。それを忘れ格好付けばかりが目立つようになり、一方で理不尽な暴力は巨大な存在のバトルが持つ迫力へとすり替わって今の見ばえは派手でもドラマが置いてきぼりな特撮ってものになっている。むしろ今こそ「ゴジラ」が描いた理不尽な暴威への恐怖、そして対抗する遺志の状勢が必要であり、また「モスラ」が描いた南洋の初冬が核兵器で蹂躙された、そのいかりを世界にぶつけようとしたストーリーが必要なのに……。何かに気兼ねして何もやらなくなった映画界に誰か活を入れないものか。深作健太さんには頑張って欲しいなあ。

 そんな展示場で実は初めて見た第五福竜丸の案外な大きさに感慨。これだけの船でも海原ではちっぽけな存在。それが遠くマーシャル諸島へと出かけそこで水爆実験の死の灰を浴びていたというあの時代の、船乗りたちの頑張りを思い、そこに襲いかかった核兵器の猛威の遅ロシアを思う。放射線障害によって亡くなった久保山愛吉さんが、3月の被曝からしばらくは見た目はとても健康そうで、家族なんかと歓談している姿をまず見てから、それが8月に入ると一気に容態が悪化し、9月に亡くなられてしまう事態の急変ぶりを知って、放射能が持つ恐さって奴を改めて知る。
BR>  最近も、上を飛ぶ鴉が落ちないから、近隣を泳ぐ魚が浮かばないから福島の原発は安全だ、なんて間抜けなことをいってたおっさんがいたけれど、そいういうものじゃないんだよ、放射能って奴の恐さは。そのときは健康に見えても、次第に体を蝕む恐さ。それを知ってか知らずか、今すぐの影響がないから安全と騙る輩とそして、その騙りを持ち上げ称揚するメディアの存在。それもそんなに遠くない場所での屹立に胸が痛む。どうにかしたいけどどうにもならないこの苦衷を、ほかにも抱えてる人がいればいずれ変えられるかもしれないけれど、果たしているのか、もういないか、うーん。泣こう。

 第五福竜丸展示館では久保山愛吉さんの娘さんが入院する父親に寄せた手紙があって、元気になってといった言葉がつづられていて親を思う子の心の温かさ、そして結果として起こった事態に胸が熱くなる。理不尽なる死。それは不必要な死だった訳で他の何とも違う人間が生みだした恐怖への憤りに心が震える。あとそんな父親が入院して寂しい少女を慰めようと、学校の友達が遊びに来てくれたって話しがつづられてあったのが心に響いた。今だったらどんな感じになったのか。福島から来たというだけでいろいろいわれるご時世にきっと……。科学の暴虐への恐怖が失われる一方で身勝手な恐怖心だけは増していくこの矛盾した社会。誰がこんな世の中にした。それは僕たち。だから改めるのも僕たちなんだけれど……。道は険しい。けれどもやらねば。

 コミティアから新木場へと向かう途中ではお台場の真ん中に展示してあったバラバラ死体のガンダムを見物。あんな中途半端なものを500円で見せる心理、ってものに少し不思議な印象を抱いたけれどもそれでも見たい人がいる、って事実が「ガンダム」の持つコンテンツとしての強さを改めて思い知る。場内では一昨年とそれから去年に食べたハム焼きを今年も所望。巧いなあ。んでもってこれって他にはどこで食べられるんだろう。調べてみよう。会場を出て東京テレポート駅へと歩く途中に日の丸をいっぱい掲げた集団を遠目に眺める。

 免許を受けて電波を発信しているテレビ局に必要な公正性って奴を問いかけるデモンストレーションってことなのに、どーして日の丸が必要なのか、って所にこのデモの持つ別の側面、というか本来はそっちを言い募りたいだけの勢力の存在って奴をうっすら感じる。あれが嫌いなだけなんだなあ、っていう。日の丸ってのは日本ってものの存在をアピールするもの。それを掲げるってことは日本って存在が脅かされていることへの対抗意識。だったら日本を脅かすものとは。っていうロジックが背後にあるんだったら、それを真正面から言えば良いのに。言ってそういう人たちなんだと思われれば良いのに。

 けれどもそれを言ったらそう思われるからと、公正性を持ち出そうとして、けれどもやっぱり手放せないのか、日の丸を引っ張り出して不思議感を醸しだしてしまっている。それで得られる理解もあれば、得られない共感もある。結果は果たして。もちろん手前の電波を私的に使いすぎるテレビ局にも罪はある。それをどうにかしないといずれ本気の不満が向かうだろう。そうなった時に何が起こるか、ってそりゃあおこぼれに預かっている存在の切り捨てだ。ってことはつまり……。泣いても良いですか。


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