縮刷版2011年7月下旬号


【7月31日】 1カ月以上も買ったまま積み上げてあったアニメーション「BLACK LAGOON」のOVA第5巻をようやく見る。いわゆるロベルタ再来編の最終巻はキレちゃったロベルタがロアナプラを脱出して後、黄金の三角地帯へと入り込んでは麻薬を作る拠点への米軍の攻撃を先回りして首領を抑え、迫る米軍すなわちロベルタの主人の仇を討つという展開なんだけれども、広江礼威さんの原作だとアクションの派手さをまず見せようとロベルタが鬼神の如くに駆け回っては、同行しているガルシアに配慮して手の出せない米兵たちを1人また1人と食らっていくシーンが描かれる。

 とはいえ仕事にシビアな米軍が少年1人への同情で、その身を守らずに食らわれていくように見えてしまっては米軍に申し訳がたたないってことなのか、アニメ版ではロベルタに対して手を出さないのはキャクストン少佐のみとして、他は自分の職務を真っ当しようと完全装備でジャングルへと分け入って、そこでロベルタの待ち伏せとたぐいまれなるゲリラ戦の腕でもって撃たれ刺されて死んでいく。とはいえ訓練されている兵士相手にロベルタも五体満足ではいられなかったようで、ほぼ完璧な姿で最後の場面に現れた漫画版のロベルタとは違って、アニメではもう満身創痍で足は上がらず手も伸びない状況。そして対峙したガルシアとの一件そ済ませて後に場面は河で待つロックたちの所へと戻る。

 漫画だとどうして部下に手を出させなかったと訝ったのか、最後まで舞台に立ってたロベルタを相手に怒りを燃やして銃を向けてはキャクストンに射殺される部下のマクドガルだったけれども、元より部下を縛っていなかったアニメーション版では、真正面から正統に戦って敗れたことへの自覚はあったかロベルタ相手に憎さを抑えてマクドガルは銃を抜かず、キャクストンに射殺もされなかった模様。なるほどそれがリアルでシリアスな展開ならば、迎える大団円は漫画のように輝かしくも苦々しいものとはならず、落ちつくところに落ちついてはロベルタは帰国し身を損ない、心も痛んだままでその後を過ごす。あの場を仕切ったように見えたロックもすぐに元の下っ端へと落ちて冴えない立場の中でロアナプラの悪徳を横目で見続けるハメとなる。

 まああそこでロックが完全無欠の悪党へとなってしまっては、話も転がらなくなってしまうんだけれど元より漫画の方が続いていないだけに、ロックがあの事件を経てどこまで変わったか、それとも変わらなかったのかは確かめる術がない。気になるのは広江さんの筆がどうして止まってしまっているかってことで、これでもし、アニメーション版の徹底したリアルとシリアスの中で物語を構築していく段取りを見てしまって、自分も軽快さと壮絶さを抑えてシリアスでリアルな展開を模索して筆が止まってしまっているんだとしたら、それは持ち味の差なんで気にせずぶっ飛ばしてやって欲しいというのが切なる願い。片渕須直監督には片渕監督ならではのリアルがあり、広江さんには広江さんなりのエンターテインメントがあるんだから。しかしもう何年だ。「ジオブリーダーズ」の再開も待ち遠しいけどこっちもなかなかかかるかなあ。「ヨルムンガンド」が巻数上回ってしまいそうだしなあ。既に追いついてしまったし。

 愛してしまったのはその顔か、それともその性格か。顔がそのまんまの時には少年は、その少女といっしょに学校から帰ったり、喋ったりしていただけだったのに、交通事故で少女がトラックにはねられ、そして直後に入院した病院で少年と再開した時には、少女はどこか性格が変わってて野卑な感じが漂っていて、それに少年は妙に弾かれてキスをして、性器も触りあってと一気に距離を縮めていく。やがてその少女に入っていた方の性格が、別の誰かに転じていたことが分かって、その容姿容貌からするにつきあっていた少女の中に入っていたのはもしかして、って少年が感じて起こる激しい忌避感。けれどもそれは瞬間で、あるいはその性格そのものに惹かれたのだったら、たとえ外見はどうでも良いって考えも浮かんで少年を惑わせる。

 小泉洋一朗さんって新人が、星海社から出した「ブレイク君コア」(星海社FICTIONS)が問うのは、人はその顔に惹かれるのか性格に惹かれるのかその総体なのかどうなのか、ってこと。少年はそんな少女の新しい性格に惹かれ迷った果て、たどりついた新たな地平でその性格と、それが入った体へと近づいていっては、元々つきあっていた外見が気に入った少女とは、普通の関係に戻っていく。そういうものなのかどうなのか。どっちにしたって顔にも性格にも惹かれ、好かれるような関係になったことののない身には分かりません。破綻気味に殺人をおかす輩が出て、その殺し方の残酷さとかミステリーでグロテスクな面もあったりする物語。福島県であることの意味ってのはまだ不明だけれど、郊外以下の場所って意味ではそこに発生する、虚飾に憧れつつ惑わされない虚無感ってのが漂っているのかもしれないなあ。新刊も続くみたいなんで注目してみたい作家かも。

 ヌルヌルとするような天候の中を千葉まで行って、アニメイトで三田誠さんの「レンタルマギカ」の最新刊を買ったら、いよいよ魔法大戦が幕開けしようとしていた、そんな所に伊庭いつきの父親が帰還。強いのか弱いのか分からないけど、名うての魔法使いですら一目置くその存在感からするにかつて相当の活躍を見せたんだろうなあ。それだけに何を考えどう動くのかが物語の行方を決めるかも。その運命から将来は身を捧げなくてはいけないはずのアディには、そうでない運命を与えて幸せにしてやって欲しいなあ。そしてやってきたフクダ電子アリーナでは、オーロイ祭に参加したけどパターでは的に当たるも入らず、輪投げも先っちょに当たって跳ね返り、20秒4代で留めれば良かったストップウォッチを20秒39で留めてしまうかすりっぷり。

 こりゃあ今日の試合もダメだろうと思ったら、ゴールにかすりっぱなしの展開。なんか悪いことしたかも。おまけにオーロイ選手も脚を痛めて退場。単なる肉離れか靱帯をやったか分からないけど、ここで退場されると後半に苦しい。いっそそれなら巻誠一郎選手を戻せばトップに収まりそうだけれども、そうもいかないからなあ、当人の感情以前に経営側がそう認めるとは思えないから。うーん。試合はそのまま1対1の引き分けでジェフは首位奪還ならず。このままズルズルといかないと良いけれど、徳島は首位を固めているし、下の北九州も調子良さそうだし。とりあえず生きている伝説こと三浦和良選手を見られたのが今日の収穫。丸山桂里奈選手にバラはあげたのかな。

 なんだかなあ。公共の電波を使って私服を肥やすなと非難するなら、その矛先はまずは公共の電波を使って自社のドラマとかイベントとかの宣伝ばかりをしているワイドショーとかに向かうべきなんじゃないのかなあ。もしもそのドラマが本当に時代を映してヒットしているものだったら、例え他社のドラマだってワイドショーが現象として報じて悪いはずがないんだけれど、そんなことはまず有り得ない訳で。あるいは レコード会社が提供している歌番組に、そこのレコード会社の所属アーティストがいっぱい登場したり、吉本が企画している番組に、吉本のタレントがいっぱい出ていることなんかにも、過去に触れた形跡もない人が、いきなり韓流ドラマとかK−POPが取り上げられすぎで、その裏には何かあるといったところで、それがテレビ一般に言えることの代表例だなんて言い訳はちょっとできない。昨今の空気を組んだ発言ととられて仕方がない。

 そうでないならこのタイミングで言うべきではなかったし、それも言いたいならそこのところを強調すべきだった。あるいは当人としてもむしろメディア全体がガタついてしまっていることへの懸念をより前面に押し出したかったのかもしれないけれど、この空気の中ではそうした意図は後ろへと追いやられ、一国に対する嫌悪感を抱く面々の欲求を満たし、彼らによって増幅されてそうしたものへの批判の急先鋒として祭りあげられかねない。何とも難しい時代だけれど、それならばそうした時代にどう立ち回るかも含めて考えないと。それが出来ていなかったって時点でちょっと安易には支持しがたい。ここで祀られずかといいって逃げないで、このワイドショーで自局のドラマが宣伝されまくりイベントが紹介されまくり映画が取り上げられまくる状況を、何とか抑える一助になれば。その意味では頑張って欲しいけれども、はてさて。


【7月30日】 新潟県あたりのとてつもない水量が信濃川のだと分かり、信濃川といったら川幅も広い日本でも超大きい川の1つが、そんなにも水で溢れかえっているってことはいったいどれだけの水量がそこに流れ込んだんだとまず驚き。そんな川が堤防すれすれまで水をたたえて流れている様も壮絶だけれど、そんな水がより下流ではどうなっていて河口ではどれくらいの多さになっているんだって方に興味が向かう。

 もっともなぜかテレビではそういうところを放送しないのは、たぶん下の方では幅もさらに広がりちょい多めになっているだけで途中の幅と水量が折り合わない部分で水かさが増えて溢れそうになっているんだろう。そういう危険でそして絵になる場所を選んでテレビというのも行くんだろう。本当のところはどうなのか。新潟は水の下なのか。日本海にあふれた水は大陸まで押し寄せるのか。関心を持って見ていきたい。

 福島あたりも大雨だそうで栃木茨城あたりもやっぱり雨なのだとしたら前に言ったそれが荒川河川敷だというふれこみのあの場所も、水量が増えて教会もニノの家も星のバラックもリクのテントもみんな流されてしまっているんだろうかと心配。しつつも国有地らしい河川敷では杭すらも打てないなかで建物を建てていた関係で仕事が終われば即撤収、そして今はただの河川敷になってしまっているだろうからそこに水が来てもとくに大きな影響は見られないというかそもそも流されるものがないというか。

 あれだけの作り混みのものをそのまま置いておけば名所にだってなっただろうに、勿体ない気もするけれどもそれがドラマの宿命って奴で。リクのテントは比較的土手の上側にあったから残っていても案外に大丈夫だったかも。心配なのは村長の家か。河川敷っていうか川っぺりっていうか、川の中だったもんなあ、第1話で登場したように。きっと浸かってるんだろうなあ。でも水陸両用だから雨でも増水でも大丈夫だよなあ村長、川流れなんてならないよなあ村長。

 秋葉原へと出て散策、ヴァンガードの大会をやっていた横でうどんを食べてから4階のアニメセンターへと上がると「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」のコーナーができてて普通っぽい若い人たちで大にぎわい。パルコの時もそうだったけれども決してアニメのコアなファンってだけではない、普通にドラマとかバラエティとか見ている人たちが青春を刺激されたかファンになっている様子で、超平和バスターズの秘密基地なんかに入り浸ったり原画を見たりガチャを回したりして作品を楽しんでいる。「魔法少女まどか☆マギカ」も確かに人気だけれどこれはコアなアニメのファンとあとは魔法少女が気になる女の子めいたところが中心。一般層となるとやっぱり壁がある。その意味で今年上半期では最も一般に認知されたアニメってことになる。

 にもかかわらずそんな超追い風を放送したフジテレビがひっつかんで大きく膨らまそうって動きが見えないところが謎っていうか。これがドラマだったらバラエティでもって特集くんだり総集編を流したりして人気を盛り上げ認知を高め、パッケージ販売なりグッズ販売なりを支援しようって動きが出るだろう。いっそのこと夏休みの午前中とかにティーン向けに再放送をしたりすればこれ面白いってなってパッケージへと手が伸びるかもしれない。もとより買う人は最初の放送を観て買っている訳で、見られず噂には聞いていたけどよく分からない人が再放送で知ってならば買おうって動きがこの作品については起こるような気がしている。

 けどそんな動きはまるでなさそうな「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」。秩父の方ではアニメツーリズムが始まりイベントなんかも開かれ話のネタには困らなさそうなのに、それをキャッチアップする動きがフジテレビには果たしてあるんだろうかどうなんだろうか。お台場のイベントで盛大に特集を組んで声優読んで歌手読んでにぎわいを作って認知度を上げるようなことをするんだろうか。しないだろうなあ。とりあえず放送の枠を確保しそこで流すコンテンツを募り流してはいそれまでよ。スポンサー料と波料で稼げばあとはちょっぴりの出資でもって売れれば少しはロイヤリティが入ってテレビ局的には収支とんとん? でもってあとはパッケージメーカーが得するか損するか。そんなスタンスがどうにも見えてしまうのがどうにも歯がゆい。現場のPが頑張っても編成は動かず営業も広報も知らん顔ってのがまだまだあの局における深夜アニメの立場なんだろうなあ。活字も大概だけれど電波も大変だなあ。

 そして購入した「ヤングキングアワーズ」2011年9月号に「エクセルサーガ」の最終回が載ってたけど、扉に「20世紀からの最長連載ついに完結!!」とあって、おいおい1993年から始まり今はお休みしているだけの「ジオブリーダーズ」はいったいどうなんだ長さだけならこっちの方が上だろう、それがさも終わってしまっているかのような書きっぷりはヤングキングアワーズ的に拙いんじゃないかってな思いが浮かんで寂しくなった。なるほどもうかれこれ2年くらいを音沙汰もなしに過ごしていて、シリアスに考えれば相当に難しいじゃないか的印象が漂ってはいるけれど、現場あくまで休載という形をとっている以上は編集側にある内情なんかとは無関係に、ファンとして抱いている再起への期待、再登場への夢を持続させて欲しいもの。21世紀になっても昭和の綾金は健在なり。

 ブックオフで石井英夫さんが書いていた時代の産経抄の本を見つけてペラペラっと読んでひとつひとつの話題を丁寧に読み解きつつ時代に少し絡めて切ったり皮肉ったり持ち上げたりしてみるその筆裁きの鮮やかさに、主義主張はともあれやっぱり凄いコラムニストだったんだあと感嘆しつつ一方で昨今のコラムの惨状を思い涙ぐむ。まずは古今の書籍の引用から始まりそれを横に滑らせ新たな話題を作ったとおもったらその先で現政権を悪し様に罵倒して冒頭に戻るかと思ったらそのままというオープンエンド。だったら最初っから罵倒で初めて罵倒でしめれば良い物を、古今の書物に頼って権威を載せないと、通用しないという算段だけは出来るみたいなところが憎らしいというか何というか。

 そうやって引き合いに出されるのが誰か知らない偉人くらいならまだ良いけれども最愛の作家の小松左京さんを引っ張り出しては牽強付会に我田引水を載せた上で政権批判をやってしまっているから腹立たしいというか鬱陶しいというか。小松左京さんの最初の長編って座を「復活の日」と争って福島正美さんを悩ませた「日本アパッチ族」が書かれた経緯はなるほど家のラジオが壊れ、新婚の奥さんに娯楽がないのを哀れんで毎日原稿を描き置いていったって話だけれど、それが例えなかったとしても元から作家志望で文学青年の小松さんは、必ずやSFマガジンの創刊を知りそこが募集していたSF新人コンテストに「地には平和」で応募し認められ、短編を書いてそしてやがて「復活の日」を書いただろう。

 そのカタストロフィな主題、そして残された日本人の運命といったモチーフは後に「日本沈没」へと繋がっていったことは確実。だから「歴史にイフはないが、もしあのとき小松家のラジオが故障しなかったら『日本沈没』は生まれたかどうか」ってのはたぶん当たらず「空前のヒットになった『日本沈没』は、繁栄に酔いしれていた日本人を痛撃したが、原点はアパッチ族と妻への愛情だった」ってのも我田引水が過ぎるような気がしてならない。そんな持って来たような“愛情”を日本へと広げてコラムの末尾で小松さんが震災から立ち直ろうとしている日本人へのメッセージを残した話へと繋げつつ、そうした意志に逆らうような菅政権はケシカランと結ぶ。その偉大な作家の死をも政権批判のダシにする。

 何という身勝手さ。何という自己中心主義。その遺言ともいえる提案にある誰もが連携して事の本質に迫ろうという提案を微塵も振り返らないで、政局にばかり目を向かわせる。嘆かわしくも鬱陶しい。「もう衆院解散・総選挙しかない。みすみすこの国を沈没させるわけにはいかないのだ」って言うけどそこで世間に耳障りの良い意見ばかりが通ってしまった時にこの国はいったいどうなってしまうのか。復興のための資金を捻出するのに必要な増税なり緊縮財政といったものが耳障りの良い赤字国債なりへと横滑りして通ってしまった時に将来へと残る禍根とか、選挙を経れば確実に浮かぶポピュリズムへの傾斜をどうせ後になって批判するに違いないのに、今はとにかく政権批判のために総選挙を持ち出してくる柳腰。それが言論の柔軟性というならなるほどというより他にないけれど、だったら信念を持ってその筆を貫いた小松さんを引き合いになんか出して欲しくなかったなあ。まったくもって泣けてくる。名文家に戻って欲しいとは言わないけれどもせめて頭がスッキリとする文章を、読ませてもらいたいものだなあ。


【7月29日】 っていうかその良さがね、ゲームに奥行きが生まれるっていった辺りでしかないところに「ニンテンドー3DS」を新たに買う意味って奴の意味性を誰もが見出しにくかったってことはありそーで、いくらAR的なゲームがくっついていたり、すれちがい通信でいっぱいいろんな人と出合えたりしたって、それはコミュニケーションの隙間を埋めるようなものであって、他人と直接つながったような気分になれるツイッターとかSNSにはやや及ばない。

 やっぱり本道のゲームでって部分で3DSならではの魅力を出し切ったものがあったかというと、そもそも3DSの魅力って何なのってところへと帰結して結果を表現しづらいという、そんなスパイラルがいつしか3DSから人の目を遠ざけてしまっていた。そんな印象がやっぱり浮かんで仕方がない「ニンテンドー3DS」の立ち上げから今へと至る状況。例え3・11がなくっても、多分どこかで当たっていた壁。それを乗り越えるのがソフトではなく価格だったってところに、ややあきらめのムードって奴が漂ってしまっている。勝てると本当に思うなら、我慢してでもソフトその物で勝負をかけて、面白さって奴で大勢を引き込んでいただろうに……。

 それとも最初っからその値段で出せるものだったのか、ってことはハードで損してソフトで得するイッツアソニーな会社とは違う体質を持った任天堂、あり得ないだけにやっぱりちょっぴりの店仕舞い感が……。うーん分からないけれど、早くに買って早くに飽きて埋もれさせてしまっている身には例え1万円下がったからといって、損したって気にはならないなあ。願うならこれから買う人が損したって気分にならないよう、ソフトで面白さを見せてやって下さいな。

   その戦いが危急存亡にある国民を救い、破綻に近づいている経済を救い、孤立しかねない日本を救い、戦乱の絶えない世界を救うくらいのものだったら応援したいんだけれど、傍目で見ているとどうも今の立場が守られる程度であって、そこでの勝利が国民全体にとっての喝采にならず、むしろ今の政権をただ悪し様に言いたいがための材料として、シンボル的御輿的に持ち上げられ喧伝されているだけに過ぎないんじゃないか感が漂ってしまって、その活動から目を遠ざけてしまう“戦う官僚”とやら。これが例えば乱暴狼藉が最近ちょっと過ぎるタリバンを撃滅して世界に平和をもたらす戦いにはせ参じるとかすれば、まさしく戦う官僚として世間も認め納得するのになあ。

 あるいは、異世界へと赴いて邪神なり魔王なりを撃滅して囚われていたお姫さまを助け出すも王から位の禅譲を約束されて「公僕ですから」と事態して去っていくとか、アンドロメダより飛来の宇宙帝王を相手に捨て身の拳1発で立ち向かっては銀河アマトリア真空投げで撃退した翌朝8時に遅刻せず通勤するとかすれば格好良すぎて鼻血も出るんだけれど、今の戦う官僚ではせいぜいが戦って民主党政権で、勝ったところで3・11後の苦境でどんどんと首切りにあっている社員派遣社員等々の地位が保全されるという訳でもなく、公務員が虐げられる訳でもなくかといっておごり高ぶる訳でもなく、適材が適所で適切な仕事をして適度の評価を得て適当な収入を得る環境が整う訳でもない。そんな戦いなんてやって楽しいのかなあ。せめて「LOWMAN」の入江省三みたく暗躍の中に治安を保つ仕事ぶりって奴を見せてくれれば応援するのに。温泉入ってピンポンしてるだけ? そう見えるだけだって入江は、たぶん、きっと。

 せっかくだからと神保町あたりを歩いては見たけれど、書泉の棚に角川春樹事務所のハルキ文庫から出ているものが何点か並んでいた程度でコーナーを作るほどの在庫はなし。それでも最新号の「小松左京マガジン第42号」を買って、業際学際なんてぶっとばして横断的な組織を作って地球物理学から科学から政治経済文学社会にメンタルケアを含めた医学まで、さらに大きく広げて地方自治といったミニマムから外交といったグローバルな観点も含めた横断的な研究組織って奴を立ち上げて、東日本大震災を経た今、総合防災の観点から何が必要かを研究し、意見をとりまとめ、実行組織を構築してはこれから起こるかもしれない厄災に対応いしていくことが必要だってな、相変わらずスケールのでっかいことを小松左京さんが喋っているのを読む。

 収録は5月11日ってあたりだから、その段階でちゃんとしたしっかり思考し提言できる頭脳を堅持していたんだと分かってなおのこと、この急逝が惜しまれて仕方がないけれど、あの「日本沈没」を書いた小松さん、そして1995年の阪神淡路大震災を身をもって体験して、記事を書き続けてきた小松さんにどうしてもっと早く話を聞きに言って、有効な手だてを提案してもらわなかったのか、なんてことも同時に思ってメディアの片隅に位置するものとして後悔も浮かぶ。大阪に在住なんだからそれこそ中央官庁には出来ないことを、関西広域連合とやらを立ち上げた大阪府あたりが率先してやれば良いのに、そーゆー前向きだけれど目立たないことを、あの府知事がやるとはなかなか思えないからなあ。誰それ小松ってなもんだ。先人の知恵に学びそして未来を拓く。そのことも忘れないようにしないといけないと猛省。改めて合掌。

 東京堂書店あたりはハルキ文庫での在庫はなく、文庫本の古本を並べたコーナーには小松さんの文庫に平井和正さんとか眉村卓さんといった古い角川あたりのSF作家の文庫もあるにはあったけれども1冊680円とか言う値段が付けられていて卒倒。いくらなんでもって思いも抱いて外に出て、SFの文庫を割と一杯並べている羊頭書房にいったらそこではメジャーどころは少ないけれど、新潮角川あたりの短編集を中心とした文庫が250円とか300円とか、妥当な値段で並んでいたんで「新潮文庫の100冊」で真っ先に手にした「地球になった男」とか、「春の軍隊」とかを買いあととり・みきさんが表紙絵を書いてた「SFセミナー」とそれから「結晶星団」なんかを買う。「果てしなき流れの果てに」はそのうち探そう。

 どれだったか巻末のあとがきが中島梓さんで巨匠たちといっしょのSF作家クラブに入れて緊張といった話が書いてあって中島さんでもやっぱりと思う一方で、その中島さんもすでにと思うと過ぎ去った年の長さを改めて思ったり。いつか星小松筒井平井豊田眉村光瀬といった面々と、SF作家クラブで名前を並べたいという夢はSFに関わる者なら誰でも思ったこと。それを成し遂げた中島さんこと栗本薫さんには羨ましいという気持ちも浮かびつつ、自分には決して遠く及ばない場所から中島さんを含めて巨星が去っていくのを眺めつつ、どうSFに対峙していくかってことを考える夜。一生ファンで良いかなあ。創作者も批評家も向いてないっていうか才能ないし。


【7月28日】 いくら巨大であっても輝く光の向こう側に隠され何も見えないのと、そして巨大さをセーターでもって包み隠したり、あるいは前を着られたブラウスを決してはだけさせることなくその谷間のみをのぞかせることによって示唆したのとでは、いったいどちらが嬉しいかと考えるなら後者であって、その意味で言うなら今季のアニメーションでは「神様ドォルズ」の方に巨大なナニという面で軍配を上げたい気分が満々だったりするけれども、それでも例えば包み隠されている間は、「魔乳秘剣帖」もそれはそれで目に麗しいところがあるので見逃せないところが悩ましい。それを持ってる女子だけでなく男子にも、魔乳の剣を使える存在がいるのが不思議だけれど、千房みたく奪って自分のものにする訳でもないから大きくふくらんでしまった自分のを見て、困るってことにはならないか。だったらいったい切った分はどこへいくおか。質量保存に等価交換。成り立たせるなら別の場所がぶっとくなるのか。うーむ。

 「日本沈没」の存在はもちろん知っていて、映画とあとはテレビドラマで本郷猛ではない藤岡弘さんの活躍ぶりを見て「仮面ライダー」でファンになった子供の心に何とはなしに親近感を抱かせてくれたってのが最初くらいの接触か。小学校に「三丁目が戦争です」が永井豪さんのイラストで置いてあった筒井康隆さんと違って、ダイレクトに子供だった僕たちに刺さってくることはなかったけれど、小学校の2年次か3年次に「27世紀のはつめいおう」だかいったヒューゴー・ガーンズバックの作品のアレンジ版なんかを読んで、SFというものの存在を知っていた身には、日本でSFを書く小松左京さんという存在は、うっすらながら僕の日々の中にとけ込んでいた。

 それが直接的な名前として響いてきたのは、もしかしたら父親か誰かが読んでいた「エスパイ」を書棚から抜いて読んだ時かもしれないけれど、その年代が記憶にない以上、確実にこれだと挙げられるのは、中学校に進んでからのこと。1978年に「新潮文庫の100冊」というものが家に突然届いて、何か面白そうな本はないかと差がした時に、よく見た筒井さんの「家族八景」と並んで小松左京さんの「地球になった男」があり、また星新一さんの「ようこそ地球さん」があってそれらを真っ先に手に取り、ほとんどそれらだけを貪るように読んだのが、ジュブナイルともアレンジ版とも違うSFの本編へと、向かうきっかけになった。以後はそんな3人の文庫を新潮角川集英社あたりで貪り読み、平井和正豊田有恒眉村卓光瀬龍らへと広がってそしでかんべむさし横田順彌田中光二といったところを過ぎて高校から以降、「SFマガジン」を読み始めて今へと至る。

 そんなSFへの歩みにおいて小松左京さんはまさしくきっかけとなった作家であり、そして最も貪り読んだ作家だった。今現在、古今東西のあらゆる作家を挙げて誰がナンバーワンかと問われれば、間髪入れずに「小松左京」という名を挙げるだろう。ほぼ同率で筒井康隆さんの名も並びそして星新一神林長平萩尾望都といった名前が横一線にズラリ。それはズルいかもしれないけれども好きなんだから仕方がないと謝りつつ、それでもやっぱり小松左京さんの名前だけは別格に輝く。それは読んだ作品がことどごくに素晴らしく壮大で、そして奥深くって社会を、経済を、科学を、宇宙を、世界を、人生を、存在を教えてくれたから、なのかもしれない。映画化されて大人気となった「復活の日」。世界が滅亡していく様を見せられた。「果てしなき流れの果てに」。輪廻転生にも見た無常観を得た。

 そして「日本アパッチ族」。長編で1番繰り返して読んだこの作品から虐げられる人々の存在を感じ、圧迫される中で生き延びる苛烈さを教えられ、そして反攻していく楽しさを知った。先の見えない今の世界で誰もが下を向いて落ち込み、その場にうずくまっているけれど、もしも「日本アパッチ族」が広まれば、苦しい中にも生き延びる可能性を探り、生き抜いてやろうちうバイタリティを育んでそして、壁と鉄条網に囲まれた荒野から出て日本に、世界に討って出てやろうという気に誰もがなるんじゃなかろうか。「地には平和を」に「戦争はなかった」に「春の軍隊」に「くだんのはは」。戦争を扱った数々の短編も印象に残る。読めば平和の中に安住して、戦いを求めたがるような風潮に冷や水をぶっっかけ、あの苦しみを、あの恐怖を甦らせる無意味さを誰もが思い出すだろう。

 「男を探せ」のようなユーモラスでエロティックな作品もあったっけ。思い出せばきりがないくらいに浮かぶ数々の作品。そして面白さをどうしてどの出版社も、全集としてまとめようとしないのかと憤ってから幾星霜、どこかの大学の出版局がオンデマンド的なもので全集を出してはいるものの、その偉業によって潤った出版社、個々として蒙を拓かれた編集者の誰もが全集の刊行を必要と感じなかったことが、どうにも心苦しくそして悲しい。あるはその死が、残念にも訪れてしまった小松左京さんの訃報が改めて、その偉大さを思い出させるきっかけとなって、必要という判断から出版社としての全集刊行へと至ってくれれば有り難いんだけれど、そうもならないのが今の出版布教という奴だからなあ。残念だけれどあきらめつつ、古書店を廻ってその筆跡を辿って歩くことにしよう。合掌。

 震災で開催が送れた「東京アートフェア」が東京国際フォーラムで始まるんで内覧会を見物に行く。甲冑の人形を作って外国人なんかに大受けしている野口哲哉さんの新作があって何でも名古屋の松坂屋が持っている甲冑と対をなすように作ったものだそうでひらがなの文字が書いてあったりしてネオな感じを出しつつ一方で、甲冑ならではの重厚感もあったりして不思議なハイブリッド感を醸し出していた。作家の人に伺ったら気分はサブカルでガンプラなんだけれどもそれをアイコンとして剽窃するんじゃなくって作るスピリッツに込めているとのこと。どこか遊びっぽいけれども出来は真面目といった雰囲気はそんなところから来ているのかも。あとはテラコッタで細身の人形を作る北川弘人さんの新作もあってジップアップのインナーを着たこれは男子か女子か。ともかく格好いい逸品があったけれどもすぐに売れてしまうんだろうなあ。

 道尾秀介さんや海堂尊さんといった作家の小説の表紙なんかに採用されて知名度をグングンと上げている高松和樹さんの作品もあってどれもこれまでに描いてお気に入りだったモチーフを改めて描いたそうで格好いいやら美しいやら。大半が売れてしまっていて人気の凄さも伺えたけれどもそんな中でも「オルタードカーボン」の表紙なんかに使われていた、ベールを被ったような少女がアサルトライフル持って並んで立っている巨大な1枚絵が、即座に売れていたのが驚き。格好いいし可愛いうってTシャツを買ったくらいに好きな絵だけれど、それが作品として作られているのを見るのは初めてだっただけに、もしもまっさきに見つけていたら買っていたか、っていうと100万円超えるのはちょっと無理。なんでTシャツで我慢して見るに止める。良い人が引き取っていってくれたんなら嬉しいかな。会期中にまた見に行くかな。

 あとヤン・ヘンって中国のアーティストらしい人の作品があって中国で作られたセンチュリーみたいに立派な車に五星旗が立っていたりして、いかにも党の重鎮か誰かが乗っていそうな車なんだけれどもその車体の下にスカート姿の女性がももの奧まで見えそうになるのも構わず潜り込んで、修理していたりする構図に何か妙なおかしさを感じてしまった。たずねるとやっぱりそうした皮肉を込める絵を描く人らしく、この場合はとてつもなく偉い人が乗る車だって、そしてそれが象徴する偉い人だって、女性のメンテナンスがなければ動かないんだぜっていう意味があるらしい。世界の半分は女性が支えているって毛沢東だか誰かが言った国だから、女性の社会進出は甚だしいんだけれどもそれでもやっぱり今の社会で、女性はなおざりにされているのかも。だからこそこういう絵が出て改めて男子の存在の偏りと、その危うさってやつが絵として突きつけられるんだろー。他にどんな絵を描くのかな。ちょっと注目していこう。


【7月27日】 セーターの上からブラウスの上から見て相当な量感を見せていた日比野のそれが遂にすべての覆いを取って衆目にさらされる瞬間が来た。なるほど後方よりやや振り向いた姿を遠目で眺めるだけだったものの、そこにはしっかりと前方へと飛び出し下方にやや下がって重力に対する重量感って奴を示してくれていた。実に眼福。そして僥倖。願うならそれが常にさらけ出されている状況の到来ではあるけれど、一方で布で抑えられつつそれでも抑えきれない弾力を、セーターなりブラウスの上から見て震えることにこそある醍醐味もまた捨てがたい。そうはないサービスシーンはそれとして、今後も飛び出しては揺れて跳ねるそれを、いやこの場合は双球ということでそれらを堪能していきたい所存であるなあ、アニメーション版「神様ドォルズ」においては。

 しかし日々のに限らず空羽子の方もあれでなかなかに立派というか素晴らしいというかとてつもないというか。戦って破れおっこちて気絶したアキをさらうのみならず部屋に閉じこめ服を剥ぎ、手足を縛って捨てられないゴミ袋の山の上に放り出してしまうんだからおよそ日比野的な美少女っぷりとは縁遠い空羽子だったけれど、反撃してきたアキによってブラウスをその下の下着共々切り裂かれた時に見えた谷間の確かさは、その後に一段落してカットソーを着た時に少しばかりのぞいた生のそれの下部の丸みとも相まって、相当の量を持っていることを確かにした。あれだけのものを何年も座敷牢に閉じこめられて外部との接触を禁じられてきたアキが見たら、鼻血を出してのたうち廻るんじゃないのかって想像すら浮かんだけれど、逃げた直後にすぐ戻ってきたのはそこが安全であるってこと以上に、見えた量感に長い禁欲の身が弾け飛んで、引き寄せられたのかもしれない。あれからいったい何が行われたのか。明らかにされる時を期待。是非に期待。

 いやあ凄い。というか凄まじかったドラマ版の「荒川アンダー ザ ブリッジ」は既に試写で見てはいてもやっぱり強烈なインパクトを持って個々のキャラクターが迫ってきて、そこはいったいどこの河川敷だって突っ込みたくなる。いや荒川だけど。でも東京の? 現実の? おそらくはそこは荒川河川敷という架空のフィールド、国の法律も及ばなければ人間としての常識も及ばない治外法権であり異世界であり妄想世界に存在しているんだろー。でなきゃ河童なんていないって。巨大なシスターなんて存在しないって。金聖人だってラストサムライだって鉄人兄弟だって。ステラはいそうかな。マリアも。でも喋ると凄まじいマリアさんは来週以降に登場はおまかせ。見た目と喋るのギャップを堪能させて頂こう。

 何があってもなくっても政権批判をしたいししてしまうメディアの前にはもはや常識も良識も通用しないってことは分かっているけど、それがこうも繰り返されるとやっぱり呆れつつ哀れみを覚えつつもう少し何とかならないものかと切ない気分になってしまってしまう昨今。オレンジ色がどうとかっていうメディアがまたぞり菅政権を批判しようと、何かレディー・ガガが福島でチャリティーライブをやりたいっていったのを、菅政権が止めていてケシカランなんて話を書いているけれど、やりたいのはガガ様であって別に日本政府が主催してやるものでもない訳で、来てライブをやって盛り上げて頂ければこれ幸い、みんな喜び褒め称えるってだけの話であってそれが出来ないのは現時点で受け入れるプロモーターもおらず開く会場もないってだけのことなんじゃなかろーか。

 というかガガ様だってやれるんだったらやるしやれないんだったらまだ先に延ばせば済む話、って考えているところに何が何でも政権批判をしたい筆が勝手にその思惑を忖度して、書いただけってことなのかも。まあありがちな話で似たような場所ではあったかどうかも不明な北朝鮮の訪問の予定をさも確定事項のように書いては話の枕に振ってまで見せていたりして、いったい何を根拠にそこまでって思わなくもないけれども根拠がまるでないとても偉い人の死去を号外まで打って喧伝しているんだから、イマジネーションの自在さはそこん家のカラー。あるいは本当にそうした動きがあってそれが悪し様に言われて潰えてしまって助けられる者も助けられなくなったかもしれない可能性なんかが、あったとしたらいったいどう言い訳するんだろうかって疑問も浮かんだり。何が何でも点数稼ぎはさせたくないって腹なんだろうなあ。それが国益にかなっていても。なんてこった。

 逆境に陥り窮状に直面して進むも苦難なら退くも煉獄といった状況におかれた少年少女たちの、それでもあきらめないで道を探って最善を選ぼうとあがく姿ばかりをそういえば、書いてきたことになるのかもしれないなあと瀬尾つかささんの最新刊にしてSFの殿堂、ハヤカワ文庫JAから出た「約束の方舟」なんかを読みながら振り返る。異世界へと飛ばされた学級の面々が一部を人質にとられ一部が巨大なロボットめいたものに載せられ戦わされるという「琥珀の心臓」にしてからが、皆をではなく誰かを救うことを選ぶその苛烈さがライトノベルという新人賞にあってパターンに填らない内容だと思わせてくれたし、続く「クジラのソラ」なんかでも設定はゲームに挑む少年少女ながらも背負わされた運命は地球の、そして国家の命運であり待っているのはバーチャルに見えてリアルな戦場。くぐり抜ければ永遠の離別といったものがあって人類がこの宇宙で生きる苛烈さを感じさせた。

 富士見から一迅社へと場所を変えて出た「円環のパラダイム」なんかも世界が網の目嬢に分離されてはそこに穴があいて異世界とつながり凶悪な異世界生物が入ってきて人類の大半が死滅しながら、共生なんかを成し遂げ生き残った者たちがいたり謎めいた力を得て生き延びつつその世界の真理を探し求める者がいたりといった具合に、明日も生きられるかどうか分からない苛烈な環境の中で必死に生きる道を探る少年少女が描かれていたけれど、あんまり過酷さばかりが目立ったのが続く作品ではどこかポップさも漂い始めていたその影で、しっかりとSFの総本山向けにチューンした作品を用意していたとは驚いたし嬉しかった。書ける人だとは思っていたけどちゃんと書かせた編集も偉い。

 そんなの作品こそが「約束の方舟」。彼方の移民星をめざして飛ぶ宇宙船の中にクラス少年少女たちの物語で、15年ほど前に事件がおこってゼリー状の生物が宇宙船に入ってきて乗員を襲い始めたけれども、どうにか若いが成立して人間はゼリー状の生き物の中に潜り込めば真空に出られると判明。破損した宇宙船をどうにかもたせ、閉鎖された区域から資源を運ぶことで生き延びることが出来たけれども、大人たちの中には仇に等しいゼリー状の生物に憎悪の感情を向ける者もいたしまた、ゼリー状の中に長くいると相手が食欲を抑え来れなくなって中の人間を食らってしまうこともあって、信頼を寄せきれない大人たちもいた。

 そんな危険と背中合わせでゼリー状生物と合体して真空を飛ぶ少年少女たちの、先にいったい何が起こるんだろうかといった不安もあってページを繰る手がはじめは滞りがちだったけれど、とある限界を突破してからは大きく動き始めたミッションの中で少年が成長し、移民船の真実が見えたあたりから一気呵成に読み進めていってそして至った結末のものすごさ。 人類vs異星人から共生、そして共謀からさらに大きなスケールへの共感へと広がる中で人類の未来を拓こうとするストーリーが繰り広げられる。いやあ凄い。そしてよく考えられている。どこか「クジラのソラ」とも繋がりそうな雰囲気があるけれど、すっかり忘れてしまっていて思い出せないんで読み返そうか。ともあれ「約束の方舟」。ひとつのアクシデントが1人の純粋な少女によってカバーされ未来へと向かっていた、その物語をつむぐ想像力が楽しい。傑作。話題作。注目作。


【7月26日】 アフガニスタンでバーミヤンの大仏がタリバンによって爆破された時にモフセン・マフマルバル監督が「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」とか言って国の有りようを嘆いたとかいった話が聞こえて来た、それに倣うのならば今のこの状況に中国を代表する張芸謀監督あたりが「中国の新幹線は埋められたのではない。恥辱のあまり自ら埋まったのだ」とか言って自国の有りように口を挟めば面白かったんだけれど北京五輪の開会式を取り仕切るような大物監督が国に異論を唱えるようなことをするはずもないく、埋められた新幹線はそれを国家の有りようの象徴とされる運命を免れ当局によって掘り起こされて何処かへ。

 1日埋めただけじゃあ浅漬けであんまり熟成もされてない気がするけれど、あんまり長く埋めておくとそこから生えた里芋の葉っぱを傘の代わりにして北京の中南海を歩いていると、当たった雨音が「新幹線の事故は鉄道省が云々」「新幹線を埋めたのは共産党あ云々」といった風に聞こえて当局にとってはいささか具合の悪いことになりそうだから、そうなる前にとっとと掘り返してしまうのが良かったのかも。それにしてもこう早く掘り返すくらいなら埋めなきゃ良かったのになあ。あるいは外側だけ真似たけれどもアニメのヒカリアンといっしょで中の変形機構まで真似られず、ぶつかった時に自ら変形してかわすはずのものがかわせなかったことを知られるのが拙いと考え埋めようとしたのかも。日本はそこんところ完璧だし。ただ今までそうなる機会がなかっただけで。いつか見たいな変形ヒカリアン。

 笹田純が途中からデコを見せて胸も膨らませて気絶した妖怪なんかを見つけては引っ張っていって解剖したりするんじゃないかと最近思うようになった「夏目友人帳」だけれど幸いにして笹田は笹田のまま一緒に出かけては帰っていって、そして夏目だけがひとり昔住んでたあたりにやって来ては、木の上から現れ脅かしたりする妖怪を相手に懐かしがってみたりしていた「夏目友人帳・参」。どうしてあの木にずっといたりするんだろうとか、猫に化けられるんなら割と高級な部類の妖怪なんだろうかと考えたけれどもそうしたような描写はなく、ニャンコ先生によって脅かされもしないで普通に再開を懐かしんでた。人なんてずっと眺めては相手にされない日々にもう、慣れきってしまっていると思ったのにそれでも寂しい心が生まれるものなのか、ってのがひとつの疑問。あとやっぱりどーして夏目に興味を持つ妖怪は美少女ばかりなんだろうかっていうのがもうひとつ。面からちらりと見えた表情も可愛かったしなあ。あれで礼子以上の妖怪誑しってことなんだな。

 「アニメ大国の悲鳴。まったくそのとおりだと思います。悲鳴を上げ始めたのは30年ほど前ではないか、30年も悲鳴をあげていると悲鳴も枯れてきた頃ですが、こうして悲鳴を外部へ届けようとする団体が出来たことは、とても喜ばしいこと。微力ならがお手伝いしたいと思います」と喋ったのは「PERFECTBLUE」や「千年女優」の今敏監督だった。2007年10月13日。日本アニメーター・演出協会(JAniCA)ってのが発足した会見に、ずらりと並んだアニメ業界の重鎮から中堅から若手の中でも、とりわけ業界の地位向上、待遇の改善に熱心だった今さんは、その後にJAniCAの活動にも積極的に関わって発言もしていたけれど、昨年8月、突然に世を去ってしまった。

 それから1年。同じJAniCAの発表会で、創設者であり初代の会長として今敏監督の前に座っていた芦田豊雄さんが7月23日に亡くなられていたとのこと。アニメーターとして数々の傑作に携わり、キャラクターデザインでも「魔法のプリンセスミンキーモモ」やら「銀河漂流バイファム」といった作品で、優しくも可愛らしいキャラクター像を見せてくれて確実にひとつの築き上げた人である、その一方でアニメーターという職種の地位向上にも深く激しく取り組もうとした。「このままだと日本のアニメはダメになる。東アジアの国はお金を出している。育てるのに大変なところを1本吊りしている。日本のアニメを守るはどうすればいいか、どしたらもっと良くなっていくかを考えていかなくては」:。JAniCA設立にあたって確か芦田さんが話した言葉。現場の人であり経営側の人でもある芦田さんが、本気を出したと感じたっけ。

 「アニメーターは芸人論、芸人と同じなんだから貧しくても仕方がない、というのは長くなるから、やめておくけれど、分かりやすく言えば、貧乏な芸人は仕事がない芸人ですね、月に1本くらい。我々は仕事がある。毎日働いていて貧乏だ。それがアニメーターの現場です」。もちろん巧い下手はあってもそれは芸人だって同様で、それでもちゃんと仕事をしているのに食べられないのはやっぱりどこかにひずみがあるからだってことを、なるほどと感じさせてくれたっけ。「世間でいわれている、アニメーションの劣化とは、作画のことですね作画を指している。絵が良くない。そうなってしまう理由は、荒れた仕事をせざるを得ないから。そういう状況の中に優秀な人材がなかなか入ってくれないし、入ってきても辞めてしまう」。だから安心してアニメーターが働ける環境を。そして技術の向上を図れるプログラムを。そう芦田さんは訴えた。

 その意志は果たして継がれたか。「若手アニメーター育成プロジェクト」ももちろん、大きな成果として若手のスキル向上に役立っただろう。ただやっぱり、全員がまんべんなく制度から何かを得られているって訳ではない。それはやっぱり難しい。最初の1歩は開かれ2歩目もどうにか踏み出されようとはいしているけれど、そこに妙な波風を立てず、脚も引っ張らず、かといって奢らず高ぶらないまま、業界が、アニメーションが前を向き上を向いて歩めるような環境が、生まれていってくれればきっと芦田さんも安心できるんじゃなかろーか。「これは、これから5年、10年、20年、30年続いて行かなくてはならない。そういうことを考えている」。63歳にしてJAniCAを立ちあげ、そう長くはないと言いながらも踏み出したその意志を、継ぐのは誰だ。それはアニメの人たち。頑張って欲しい。応援したい。

 ユーフォーテーブル、って名前を知ったのは多分だから「住めば都のコスモス荘 スットコ大戦ドッコイダー」の制作会社としてってのが最初で、そのあとに何だっけ「フタコイオルタナティブ」とか作ってそして「空の境界」でもってすっげえ会社だってことになっていったんだったなあ、覚えてないけど。とはいえそんな「ドッコイダー」がしばらく見られない環境にあったってのが由々しき事態とパッケージメーカーも思ったのか、流行のブルーレイディスクとはいかなかったけれどもDVDでもって我らが「ドッコイダー」のDVDをボックスで再販。見れば爆笑の展開と動き、そして阿智太郎さんでも屈指の面白さを誇るストーリーを楽しめそうなんで買って週末にかけて堪能したい。これの漫画が連載されてた「電撃アニメーションマガジン」、書いてたんだよあな僕。


【7月25日】 アシンメトリーは構わないけど高下駄は。そしてなぜに穴が。そこに米粒が。雀がちゅんちゅん寄ってきてはついばむその下駄のどこにいったいどんな意味が。問うたら負けだけれど問わずにいられないから問うてやっぱりそういう役だと自覚して、もう突っ込まないぞと思ったけれども我慢できずに突っ込みひとり廊下に立つゆっこの、喜びと悲しみを思いながら今日も「日常」を見るのであった。まいちゃんナイスボケ。あと眼鏡を上に載せて平気だったらひょいと残りの2枚を重ねたって平気だったんじゃないのかトランプタワー。それから中村先生。マッドっぷりサイコっぷりが良いなあ。やることなすことみみっちいのも。可愛いなあ。惚れるなあ。

 スアレスすげえフォルランすげえ。ウルグアイなんて国としてはとっても小さいのにどうしてあんなに世界のサッカー史に名を残す選手がボンボンと出るんだ。スペインのリーガ・エスパニョーラで得点王に輝いたフォルランは言うに及ばずスアレスだって、オランダへと渡りエールディビジの中堅から始まって一気にアヤックスってビッグクラブへと駆け上がり、点をとりまくってはイングランドのリバプールだなんて名門中の名門へと移籍して、そこでスティーブン・ジェラードって名人中の名人から褒め称えられる。そんな選手が日本にいるのか。あるいはいたのか。

 世代の近さなら本田啓祐選手だけれども同じオランダのエールディビジに入ったまでは良いものの、成績がふるわず2部に落ちてしまってそこで立て直して頑張って慕われたもののビッグクラブに引き抜かれることにはならず、かといってドイツやイングランドやイタリアやスペインといったリーグに移籍することもなしにロシアリーグだなんて金はあっても世間ではマイナーなリーグへと移ってそこですら王様になり切れない。ワールドカップの場で実力は見せたもののそこで引き合いがあった訳でもなく、出なかった香川慎二にドイツ行きを持って行かれマイスターシャーレまで奪われた。スアレスとはもう雲泥。なんかちょっぴり悲しくなる。

 全体を見渡すならばイタリアでスクデットを獲得した中田英寿選手がやっぱりキャリアとしてはトップかなあ、って感じでそこにインテルへと移籍した長友祐都選手がいったいどこまで追いつけるのか、コパイタリアは制覇したけどやっぱり欲しいスクデット。それがかなってようやく中田越えの選手が見つかるっていったところだけれどもそれでも果たしてスアレスくらいのキャリアに並んだと言えるのかどうなのか。並んだとしてもイングランドのプレミアリーグを制覇しチャンピオンズリーグにも勝ったパク・チソン選手には 及ばない。あれだけ海外組と騒がれたってやっぱりまだそんな程度であるにも関わらず、海外組なら何か違うと見なしがちな日本のメディアにはもっと相対的な評価を促し、どれくらいなのかを考えてもらわないと弁慶と天狗ばかりが増えていくから要注意。本田選手やっぱり動かないのかなあ、この夏も。

 そんな昔のことをほじくり返されたって知らんがな、って呟きたいだろうなあJリーグ。いくら発足時に女子も規定にいれてなかったって当時にそれを果たして誰が積極的に推進したのか。むしろ1990年の時点で日興証券が参入を決めてとてつもないチームを作り上げたように、女子はJリーグという理念とはまた別の論理で動いていて、例えるならそれはJFLに近い論理であって企業が支え社員なりがプレーヤーとして参加するって形態を、むしろチームもそしてサッカーに携わる人たちも望んでいたんじゃないのかなあ。そのあたりについて「AERA」でJリーグが女子のチームを規定に入れなかったことを雛している大住良之さんには、もうちょっと詳しく書いてもらいたいところ。決して見捨てたんじゃなく、むしろ見捨ててもらったんだとしたらそれを今になって蒸し返すのはちょっと違う。

 とはいえ1995年過ぎからこうも一気に経済が冷え込んで、女子サッカーを支援する企業が撤退するとは当のチームもサッカー関係者も思いもよらなかったんじゃなかろか。っていうかJリーグのチームですらフリューゲルスが消えてしまったという一大事に、再び女子をチームに加えるなんてことは誰も言い出せなかった。そんな状況が積み重なって2000年から2003年あたりのどん底が、あったのだとしたらこれはもうJのみならず当時サッカーの報道に関わっていた人たいも含めてサッカーファミリー全体の問題。そんな中で川淵三郎キャプテンは、アテネ五輪の出場に大喜びして報奨金を増やし、それから協会の理念に女子の育成といれたんだからよくやったと言えるんじゃないのかなあ。何やらサッカーメディアには海外移籍を促進したらしい次の会長を押す声もあるけれど、2004年に鶴の一声で女子を盛り上げ「なでしこ」の名称を無理矢理にでも付けた川淵キャプテンの功績を僕は大きく買う。毀誉褒貶はあってもこの1点において僕は川淵さんを褒め称える。

 まあ今さら昔のことを言っても詮無いことで、今必要なのはこれからどうするってことなんだけれどそのあたりは確か「サッカー批評」だかに田口禎則さんの勇ましくも前向きな見解が載っていたんじゃなかったっけか。この経済状況で果たしてプロフェッショナルな経営が可能かは悩ましいけれども、この追い風でプロフェッショナルな経営に近付ける可能性が膨らんだことも事実。1万7000人はできすぎにしてもアベレージで1500人3000人となでしこリーグの試合に客が集まるようになれば、そこにスポンサーもついて運営規模が盛りあがり、幾人かのプロも抱え育てつつ若い人材を集め育てていけるようになるんじゃなかろーか。その過程でJがチームを持つ方が良いならそうしていけば、より裾野も広がり安定感も増して次のワールドカップでの連覇も叶い、サッカー全体の盛り上がりにつながって男子にも良い影響をもたらす、と。さてどうなるか。見守ろう。それだけじゃなく足を運ぼう。

 いやあダイナミックな国だ中華人民共和国。普通だったら車体の細部まで調べて何が原因だったか、そしてぶつかった衝撃はどれくらいだったか、安全性を上げるにはどうすればいいかをきっちり調べ上げるものなのに、事故のあった翌日には現場に坑歩って埋めてしまうんだから凄すぎる。まあ昔っから鬱陶しい儒教の学者を400人とかまとめて坑に埋めてしまった国だから、面倒だったり煩わしいものはとっとと埋めてしまうに限るっていった心理が権力の側にも国民にも、広く浸透していたりするんだろう。そういえば北京五輪でいろいろと話題になった口パク少女とその歌の元、その後どうなったか知らないけれどももしかすると北京のどこかの坑の中に……。ぶるぶる。そうやってあれもこれも埋めて盛られた土で中国の海抜は4000年の間に100メートルくらい上がったとか上がってないとか。歴史って重いなあ。


【7月24日】 サイコな娘のカレー話がどうやれば「生存戦略」と結びつくのか今だ不明な「輪るピングドラム」。人格が変わったからと牛乳を瓶で6本飲んだところで大人になったら前は食べたり飲んだりできなかったものが、食べたり飲んだりできるようになるものだから、それをいきなり見せられたって兄弟が判断に迷うのもまあ仕方がない。かといって帽子を外すとすぐにコテンってのは何だろう、帽子こそが生命体ってことなのかそうでないのか。他の人に被せたらそいつがいきなり「生存戦略ーっ」って叫ぶのか。試してみたい今日この頃だけれどまだ売ってないからなあ、サンシャイン水族館には。歳オープンまで待とう。

 もしも誰かたぐいまれなる美少女が「正論戦略ーっ」と叫んで呼び集めたら、大勢の若い男女がやって来て話に聞き入っては正論路線の浸透に貢献してくれるかどーなのか。ものがアレでソレな正論路線なだけに特定の偏りを持った人にはとっても受けが良いけどそうでない大多数にはちょっぴり遠巻きにされていたりする。そこにたぐいまれなり美少女が現れ「正論戦略、しましょうか」ってささやきかければ自分の居場所に悩む孤独な青少年にはとっても利きそうなんだけど。問題はそーした「正論戦略ーっ!」って叫んで似合う美少女が正論な周辺には見あたらないことか。あんまりいないもんなあ、ライティーなアイドルって。

 汗を出すには気温がたりないけれども湿気だけはたっぷりあるモヤモヤとした天候の中を幕張メッセまで出かけていってワンダーフェスティバル2011夏を見物。東日本大震災の影響で当日版権の申請受付を企業なんかがしづらいだろうことに配慮し、事務局が一括しての申請受付を行わないことになった関係で会場のそこかしこに大きなスペースが出来る異例の開催となったけれども、それでも企業によっては煩雑なそうした申請を受け付けたみたいで主催者側の言によるなら予定より2割のダウンで済んだ模様。とりあえず良かった。次は復活の当日版権物勢ぞろいにどんな造形が爆発するか。楽しみではあるなあ。

 個人的には版権物が完全に除外された中でオリジナルの造形を競い合う人たちがいて、そこから次代のスターなんかが生まれてくる可能性も考えてみたりはしたけれど、キャラ物だから買いたい人、そしてキャラへの愛を造形にぶっこみたい人の集うワンフェス。オリジナル造形に魂をかける人たちの熱気が殺伐として爆発しているような空間も見てみたかった気もしないでもないけれど、そういうのはだからワンフェスよりはデザインフェスタのような場に、期待するしかないのかな。ワンフェスでもフライングメガロポリスって一角だけは、そーしたオリジナル派が集って造形魂を今回も見せていた。その賑わいに刺激され、オリジナルをめざす人が増えればちょっと面白いかも。

 おもちのネコだかネズミみたいなキャラクターがいたり、紙をきって浮き上がらせつつ重ねて絵を浮かび上がらせたりする人がいたり、怪獣というかゴブリンというかドワーフみたいな球体関節人形を作って並べてみたりとオリジナルの人が結構板ワンダーフェスティバル。小林真さんの創作フィギュアがシリーズでもって並んでて、過去のものも含めてまとめてみると実に良い感じでこれをオリジナルの作品として絵なり物語で展開していってくれると楽しいかもなあ、って思ったけれども普段は版権物を売ってる人だから次回はやっぱりそっちが人気になってしまうのかと思うと、個性をキャッチアップして育成してマネタイズするような仕組みってのが、もっともっと充実して欲しいと願ってみたりする、夏。ずっとワンフェスとかデザフェスとか、通っているけどそういうシンデレラストーリーをなかなか見ないんだよなあ。難しいのか。企業が怠慢なだけなのか。

 キャラ物では版権をおろしていたのか「魔法少女まどか☆マギカ」があちらこちらで大人気。とくにマミさん。マスケット銃を4挺とか並べて手に持ち狙ったりポーズをつけたその勇姿が、ほどなくしてぱっくんちょされちゃったりする様を既に見ている大勢のファンには、何とも切ない気持ちが浮かんで手に取らざるを得なかったのだろう。ほとんどのブースで完売になっていて変えた人は幸運だけれどそうでない人はまた冬に。そのころにもまだファンはいっぱいいるのかなあ。むしろ「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」系のフィギュアがいっぱい並んでいそうだなあ。あとはゲルバナとか。ああでも「STEINS:GATE」は何か得体の知れない電話機型のファンは売ってたぞ。あんなの出てたっけ。

 買い物はメガハウスのブースでワンフェス限定の声に流され「ONE PIECE」のナミを1つ。でもナミは修行を終えた2年後のグラマラスになったバージョンも参考出品されていて、はちきれんばかりに成長した肉体がジーンズからはちきれていたりする姿にむしろこっちをすぐ出してってお願いしたくなった。もちろん胸もどっかんだ。成長したナミに比べると元から生著うしていたニコ・ロビンは2年経っても凄さはそんなに増していなかったからなあ。むしろおとなしくなったっていうか。だからフィギュアにしてもそんなに迫力、出ないのかあんまりピンとくるのが出てこない。「ストロングワールド」バージョンも黒い長衣でちょっと違ったし。まあともあれ買ったまだピチピチな頃のナミさんを眺めて夏を過ごそう。部屋に置き場所あったっけ。あとは「いまいち萌えない娘さん」を1000円で。キットだけに作らないといけないんだけれどやっぱり作らないんだろうなあ。そういうものだ。

 正午になったら館内放送があってアナログなフィギュアの殿堂でもってアナログ放送の終焉に黙祷でもささげるかと思ったけれどもそういうことにはならず。東京タワーをよじのぼったアナログマを相手に地デジカがあの角からビビビビビっと怪光線を発射して攻撃してはアナログマを焼き尽くし燃やし尽くして葬り去るような場面が見られるかとも期待したけど、東京スカイツリー完成まではまだ使用する東京タワーを損傷させられないのかそういう騒動もなし。普通に静かな歴史的1日になってしまった。それでも秋葉原はアナログテレビを日本で1番売った町だってことになるのか、店頭でアナログマの追悼なんかをやってて折角だからとお焼香。明日から世界はデジタルとなって誰もが割り切った気持ちで1日を送ることになるんだろう。曖昧な人間な僕には生きづらい世界が来そうだなあ。


【7月23日】 なんか九州あたりで甲子園大会の地区予選に出場して敗れたチームが、千羽鶴を勝ったチームに託していく連鎖が禁止されたみたい。そりゃあ予選を重ねて5試合とかした果てには集まった千羽鶴も全出場校分に達してトラックいっぱいでも入りきれずとてもじゃないけど甲子園なんかには持っていけない。それどこか地域の移動だって大変だってことでそんなことを強いる風習はやっぱり即座に辞めにするのが賢明だけれど、思いを伝えたいっていうその思いはなかなか大切にしたいもの。せめて千羽ではなく1羽とかにしていけば100校が予選に傘下してたら百羽鶴くらいでそれはそれでちょっとショボいか。でもまあ見て見苦しくはないし重たくもない。

 あるいは別の何かを託していくとか。負けたチームのキャプテンがその場で汗くっさいユニフォームを脱いで託してそれを洗わず次の勝利者へと手渡していってそしてベンチの中には参加校の数だけ汗くっさいユニフォームがたまって夏場に幻惑を催そうとか。あるいは女子マネージャーがその場で履いてるそれを脱いで渡していくとか。でも途中で生だ何だと売り飛ばす輩が出てきそうなんでそれはやっぱり拙いかな。かといってキャプテンのじゃあユニフォームといっしょか。あるいはキャプテンの股間に生えてるシンボルを恭順のしるしに差し出すとか。野球といえども勝負は勝負。命がかかった試合に敗れて首をとられないだけマシってことで。問題は大会が終わったそれを誰が保管するかだなあ。女子マネージャーが気に入ったのだけ持って帰ってあとは焼却か。何かアッチッチになってきた。

 鶴といったら六塚光さんの幻狼ファンタジアノベルズで出ている「ブラッド・スパート」ってシリーズの第2巻で、主人公が何やら新しい趣味ってことで折り紙で鶴を折っては人に見せまくっているんだけれど、見る人のことごとくが東洋の鶴には脚がないのかと聞いてくる。なるほど言われてみればそれが鶴だというわりには、鶴に特徴的な脚があの折り紙には存在しない。というかそもそもどうしてそれが鶴に見えるのかが分からないけれど、それを鷲だとも白鷺だとも言う前にだれかがきっと鶴だと言いだし、そうか鶴なんだって観念が広まってしまった挙げ句に鶴ってことで定着してしまったんだろう。そしてそれが鶴なら本当の鶴に脚があるのはおかしいと、出された指令で日本に渡ってきた鶴は脚を切って返すことになってやがて日本に鶴が来なくなったという。そんな歴史が後年にささやかれないよう折り紙の鶴にも脚を戻してあげよう。そういう折り方もあるみたいだし。

 早くに目が覚めたんで池袋の西武百貨店へと出むいてい「『コクリコ坂から』原画展」を見物したら初期の広小路さんがあんまり可愛くなかった。あのもっさりとしておかっぱで細身の長身の眼鏡になったのは誰のお陰なんだろう、近藤勝也さんかそれとも宮崎吾朗監督か。ちなみに主人公の海も最初は顎が四角い豪傑な感じだったのが今の儚げだけれど目に力がある少女になった様子。これはナイスなアシスト。初期のイメージではあの雰囲気は出なかったから。展示はそんなキャラクターの原案とかイメージボードとか美術とか。キャラクターがメーンで描かれたボードはだいたい近藤勝也さんが担当していて、ジブリっぽいけれども近藤さんっぽくもあるデザインでもって生き生きとした人たちが描かれていて、映画で感じた昭和38年に明日を見て生きていた人たちの息吹が伝わってくる。

 一方の宮崎吾朗監督は建物とか背景といったもののイメージボードを描いているけれどもこれが巧い。そりゃあ監督だから巧くて当然って意見もあるけれど、例えば押井守監督なんかはそうした絵とかあんまり書かず、キャラのざっとした絵を描いてはみるものの全体はプロにおまかせって感じになっている。ましてやアニメーションに関わったのが5年前の「ゲド戦記」からって宮崎吾朗監督に、絵心なんてあるはずないって思っていたらその「ゲド戦記」で意外にかっちりとしたボードを描き、絵コンテも切ってみせてスタジオジブリの面々を驚かせた。「コクリコ坂から」ではさらにきっちりとした建物なんかのボードを描き、屋内の雰囲気も描いてはそこにちゃんと人物も乗せて、それぞれに表情や仕草を載せて描いて近藤勝也さんに負けないアニメーターっぷりを見せてくれている。

 絵コンテ修にいたってはさらに細かく人物なんかも描かれていて、1コマ1コマごとにきっちりパースもとられレイアウトもつけられそれがしっかり映画の設計図になっている。ざっと描いてか演出家任せ、原画マン任せにしないで監督としてきっちり設計してみせている。いったいどこで学んだんだろう。親の仕事を見ていれば分かるかっていうとそうでもないのは宮崎吾朗監督が、ずっと宮崎駿監督の横にいたわけではないからで、造園の仕事なんかをしてジブリ美術館の館長として立ち上げに関わりはしたものの、映画を作る、それもアニメーション映画を作る現場で父親の薫陶を受けたってことは皆無だった。漫画を描いていたって話も聞かないし。

 それなのにやれば出来てしまうし描けてしまうのは、あるいは父親以上の才能がそこにあるって現れか、って言ってしまうと大げさだけれど、少なくともジブリに働くほかの監督の人に負けない力量を持っている現れで、だからこそ親との確執めいたストーリーを上乗せはしてあっても、それだけで任せられるような仕事ではないアニメ映画の監督を、鈴木敏夫さんも宮崎駿監督も、任せてやりとげさせたんだろう。その成果は映画にもちゃんと現れているからやっぱりというか素晴らしいというか。展覧会にはあと全体のイメージ画になっている海が旗を揚げている宮崎駿監督の絵と、それから作中で広小路さんが描いた未来派野郎の絵をモチーフにした作品が展示してあるんで一見のこと。期間が短いんで東京でみたければ池袋にゴー。その後で横浜そごうにも回るみたいなんでご当地で見たい人はそちらで。

 銀座に回って博品館前でオプティマス・プライムの登場を見物。でっかいトレーラーがやってきてさあこれから変形かとも思ったけれども公道上なんで遠慮したもよう。残念。いっしょにバンブルビーも来ていたけれどもこちらも変形しないまま、映画「トランスフォーマー3」を宣伝するために銀座を出て渋谷新宿当たりを闊歩したもよう。どーせだったら新宿で変形しては無茶しか言わない都知事に目にもの見せて差し上げれば良かったのに。そこから松坂屋に寄ったら地下にあるスパゲッティ屋が大盛りも特盛りも同じ値段だったんでLLを頼んだら無茶盛りしてあってたまげた。あれはだいたい500グラムくらいはあるのかな。それでいてちゃんと茹でられていて味もちゃんとしてたんで、普通に平らげられた。時間があったらまた行こう。

 帰宅して一眠りしてからフクダ電子アリーナへと赴いてジェフユナイテッド市原・千葉対コンサドーレ札幌のKAPPA対決を見物。これに東京ヴェルディという3チームがKAPPAを採用した途端に2部に続々と落ちていったという縁起の悪さではピカイチな差プライヤーだけれど今年はそこから1チームとは言え抜けられそうなんで有り難いというか。試合は村井慎二選手がミドルを決めたりミリガン選手のロングスローを竹内彬選手が押し込んだシリして2対0で勝利。これが出来るんだったら先週の湘南戦も勝てば1位は安泰なのにそうはいかないところが情けないというか遺漏があるというか。それでも村井選手に坂本隊長、そして林丈統選手といったい今は何年だ的布陣を採用して、勝利したってところにいささかとうは立ってはいても選手層の厚さが見え隠れ。藤田選手なんか1度も出てないもんなあ。そんなやりくりで夏場を乗り切りそして2位でもいいから昇格を。上で勝てるかどうかはそれからだ。


【7月22日】 3月がライオンなら4月は花王で6月はP&G、7月は金鳥で8月はアース製薬で9月はフマキラーを虫除け系が続き12月には暖かい白元、1月はゆったりのバスクリンあたりになるんだろうなあ、なんてことは想像しなかった羽海野チカさんによる「3月のライオン」第6巻。学校でいじめられてる次女のために何ができるかと考えたけれども当人だけが何とか出来る状況にぐぬぬとしつつ、それでも心配で対局先の関西に修学旅行で来ていた次女を捜して歩き回る桐山零がいじらしい。しかし訴えても大きな声を出さないでと吾関せずな担任教師が非道すぎる。いるのかこういうの。いるんだろうなあ。だからなくならないんだ学校からいじめが。悲しいなあ。

 二階堂の体調が悪化して入院ってあたりにモデルになった村山聖九段の影がちらついてちょっと先が失敗。村山九段がどうなったかは皆が知っていることだけに、そうならないように祈りたいけど一応はA級八段まで上りつめ、タイトルにも挑戦した村山九段(死後に九段昇段)とまだぺーぺーの二階堂とでは格が違う。せめてタイトルに挑戦するまで、そして桐山零と向かい合ってタイトルを争うまでは頑張って欲しいもの。そうでなければ悲しすぎる。そして登場の山崎順慶五段の頭が森けい二九段。あれは谷川浩二九段と戦う時にやったんだっけ、頭剃り上げ登場しては相手を驚かそうとしたとかどうとか。そんな変わり種のエピソードを良く集めている「3月のライオン」。そのうちにうな重しか食べず対極中に相手の後ろから盤面をのぞきこみ「あと何分」と聞いた直後に「あと何分」と聞く伝説の加藤一二三九段のエピソードも、誰かが担って登場しそう。「突撃しまーす」は……ちょっと質が違うか。

 鬼頭莫宏さんはどっちなんだろう、自転車が最新の技術と素材でもって大金をかけてカスタムメイドされて圧倒的な記録を出すことと、従来からのパイプを組み合わせてつくったフレームをベースにして、それなりな記録を出すことと。「のりりん」(講談社)の第3巻あたりでラーメン屋のおかみさんがカーボンフレームの自転車を持ち出してきて語る言葉には、最新技術を使えるのに使わないのは妙だってなトーンで話しているけれど、だからといってそうやって作られた自転車がとてつもない値段になっていたことも確かで、作れるメーカーが限られる一方で、買えるユーザーも限られるものを果たしてレースで遣って良いのか否か。それこそF1のように特別なカテゴリーにおしこめそこでタイムトライアル的なレースをのみ、戦ってもらうことにしてロードレースや競輪といった競技については、今の規定の範囲内でメーカーには切磋琢磨してもらい、その上で競技者も頑張るのが理にかなっているような気がするなあ。

 ともあれ目つきの悪い兄ちゃんの誘いにのって自転車レースに乗りだした主人公。相手は結構な脚でもって突き放しにかかるけれども、必殺のフレームに公道という性格から信号があったりする状況が、素人に見方して結構な勝負を繰り広げさせる。信号でちゃんととまり横断歩道も通り抜けないあたりの生真面目さ。街を走るバイク便の人たちにも見習って頂ければこれ幸い。でもって追い込んだ果てに勝ったのは併走したのりりんだというこの状況を男2人はどう受け止めた。主人公に勝てるのはともかく練習だってきっちりしている兄ちゃんに勝ててしまうのはやっぱり相当のポテンシャルってことになるんだろう。けど主人公じゃないから牽引役ではあっても内面を見せない彼女のどこか置き所のない存在感。どうなっていくのかなあ。関心。

 私が私だという私こそが私であって、そうでない私は私だといっても私ではない。それは絶対の真理なはずなのに、私ではない私が私だといってのける可能性が否定できないのは、私が私であるというその私とはいったい何なのかという問題に、答えるのがなかなか難しかったりするからだ。私とはこの私が私と思考する脳である。その脳に刻まれた記憶であり経験である。と断じてしまえば優しいように思えなくもないけれど、ではその脳のどこにどうやって記憶は刻まれているのか。どんな形をしているのか。誰も答えられないし答えようがない。それゆえに唯一絶対のブラックボックスととらえることも可能だけれど、曖昧模糊とした非実在のものだともいえ、そんな曖昧なものを私と認めて良いのかといった抵抗を生みそう。

 曖昧ではなく、私はだから記憶の積層したものだいうのなら、それを完璧にコピーして移したそれは私かといった問題が一方に生まれてくる。そうやって発言したコピーされた私の自我は私を私だと認識して、そして同じように私以外は私なのか違うのかと行った思いに悩む。私とは。一条明という全く知らない名前の作家が突然現れ発表した「ルーシーにおまかせ!」(光文社)にはそんな私についての思考が近未来の社会を舞台に描かれる。主人公はジュールという少女で、父母に愛され育って向かえた7歳の誕生日に、父母から自分の本当の正体を知らされる。なおかついっしょに暮らしてきたメイドロボットのルーシーの正体も聞かされ、驚きながらもいったい何が起こったのかを知ろうと家を出て街を彷徨う。

 ジュールが抱いたのは私という存在がかげがえのないものなのか否かという疑問。その存在と同一の個体がかつて存在したという事実が、たとえ7年という時間をかけられ彼女にとっては唯一の時間を過ごして来たにもかかわらず、私は私なのかという懐疑を彼女に抱かせる。一方で彼女が追い求める存在もまた、自分探しの果てにひとつの事件を経由して、私というものを突き詰める行動に出た挙げ句に今のルーシーが生まれるきっかけを生む。自分は自分なんだからという超然も、自分が終わればすべて終わるんだという諦観ももないのはそうした超然や諦観を起こさせないくらい、あっさりともうひとつの私を作り出せる環境があるから。そんな環境下でいったい私の本質とはどこにあるのかを探ることで、私とはという問いかけへの答えに迫る。

 何か難しそうだけれどもメイドロボットの中身とかが分かってそうさせられる可能性をわが身におきかけたときに浮かぶちょっとした恐怖とそして身悶え、自分という存在が持つ美をどこまでもどこまでも保ち続けられるのだったらそうするのかという誘いへの逡巡、肉体を捨てて心すらも移し替えて永遠を生きることが可能ならそうするのかという思索、そしてその時の私はいったい本当の私なのかといった懐疑なんかがルーシーというメイドロボと、ジュールという元気な少女の冒険によって描かれてあって、その行く先々でいろいろと説明もあるから読んでいくうちに自然とそうした思索が気付かないうちに行われ、いろいろな答えが浮かんでくる。果たして最後はすべて解決したのかそれとも。引きもあって続きとかありそう。そこで再び対決するのか。楽しみにして待とう。


【7月21日】 警察犬に柴犬ではなく豆しばが採用されたら。取調室にて。「ねえしってる? なまずって全身に味覚があるんだよ」「ねえしってる? カバの汗ってピンク色をしてるんだよ」「ねえしってる」「ねえしってる」「ねえしってる」……「すいませんわたしがやりました」「わたしがやったんです!」「わたし以外に誰がやるんですか!」と誰もがプレッシャーに負けて自白してしまうでしょう。警察にはだから是非に柴犬の次は豆しばを。それにしても柴犬で警察犬って本当に大丈夫なんだろうか。ちっさいし。すぐ吠えるし。かといってちんではなあ。いやいや、そこにいるだけで気品に圧倒されて白状してしまうから割とありかも。

 取り柄があれば何でも出来る、誰からだって気にされる。そう信じて道を究めてみたけど、結局なんにも変わらない、なんて経験をしたこと、あったりする? あるんだったらきっとこの本に書かれた感じはよく分かる。まさしく自分のことだと共感する。最初のうちは。でも読んでいくと違うと思う。気が付かされる。振り向かれないって悩んであきらめてしまうことが、どれだけみっともないかが分かってくる。僕には才能があるんだと、思っているだけでは何も変わらない。その才能を誇りに思う。あるいは積極的に見せていく。内にこもって自己満足にひたっていたって何も変わらない。外に向かって自分は自分だと示すこと。それが道を開くのだ。

 この本とは秀章さん、って人の書いた「脱兎リベンジ」(ガガガ)という作品。主人公の少年、兎田晃吉は見た目が小さく戦も細く、喋っても拙く誰からも薄気味悪いと思われている。クラスにはそれでも親切にしてくれる少女がいるけれど、別に深いつき合いがあるというだけではない。ただの博愛主義? 分からないけれどもそれで救われることはなく、少年は所属している軽音楽部に向かっては、そこで練習などさせてもらえないまま倉庫へと追いやられ、電源もないままひとりさびしくギターをかきならす。どうして練習させてもらえないのか。へたくそだからか。とんでもない。とっても巧み。誰にも負けないテクニックを持っている。なのに見向きもされない。それには理由があった。やっかみという。

 もっとも少年は気付かない。誰からも認められている先輩に疎まれるのは自分に問題があるからだと思っている。だからおとなしく引っ込んで、倉庫でギターを弾いていたその時、現れた少女が彼の運命をガラリと変える。棒術部といって対峙した少女、兎毛成結奈の正体は実は漫画研究同好会のたったひとりのメンバー。上手いけれども出版社に持ち込んでは突っ返される経験に、漫画家になるという進路を迷っていたそんなある日、隣の倉庫で騒いでいた兎田と出合って彼女の人生もまた変わった。本当は上手いのに、それを見せる場所がないと悩み、理由は自分にあるとさげすんでいる少年を光り輝く舞台に引っ張り上げようと画策し、仲間を募って作戦を練る。

 その仲間がまたくせ者揃い。巨体を女子の制服に包んだ菊間吾郎に、放送部で全国大会を制覇している学園でも有名なパーソナリティーの梅園乃ノ香、そして手にグローブをはめた姿で起用にビデオカメラを操る映像の天才、金城大貴こと金シュロ。いずれおとらぬ才能と個性の持ち主だけれど、それぞれがやっぱり過去にいろいろと悩みを抱え、それを自分の力で突き破ってきた経験を持っていた。女子の格好であることで気持ち悪がられても、それが自分だと一切引かない菊間。茶道の家を継ぐ必要があるからその前に、放送の世界で自分のやりたいことをやりまくると決めた乃ノ香。そして痴漢冤罪の疑惑に超然として退かず、圧倒的な才能で映像を作り続ける金シュロ。いずれも引かずひるまないで前を向き、上を向いて生きている。
BR>  そんな姿に感化された兎田は、圧倒的にうまいと思う自分のギターに自身を持ち、またコンプレックスだった甲高い声を逆に使ってボーカルまで務めるようになって、自分を排除した先輩が晴れの舞台と思いこんでいた学園祭の後夜祭のステージに、自分も挑戦するといって突き進む。そこから先にも山があり深い谷があって逡巡し懊悩した果てにたどりついた世界の何と明るいこと。そして空の広いこと。兎田は自分を確認し、そして漫画家を志望していたように見えた兎毛成も、本当の正体を兎田に気付かせることなく、道をそれることも辞めて本来の自分を取り戻し、ひたすらその道へと突き進むことを決意する。

 ありがちといったらよくある話。虐げられ虐められていた少年が才能を発揮し少女に導かれて再起していくストーリーは、川原礫の「アクセルワールド」を最近の例に、過去現在に至る数多の作品に成長のストーリーとして描かれているけれど、だからといってそれが陳腐だということにはならない。誰だってそうありたいと願いながら、そうなれない自分に苛立っている。だからこそそうなれるためのバイブルを必要とし、必要とされたストーリーが編み出される。だからとっても心に響く。「脱兎リベンジ」もそう。それだけではなく圧倒的な個性と向上心を持ったキャラクターたちによって、自分もそうなれるんだ、そうなっていいんだといった具合に体を突き動かされる。読み終えれば地面なんて見えなくなる。前に開けた道が見える。上に高い空が見える。それは可能性の象徴。あとは進むだけ。飛ぶだけ。ぶっかますだけだ。

 毎年恒例の「ウルトラマンフェスティバル」の見物に行く。今年は初代が始まって45周年ってこともあって初代に関連した展示がいっぱい。ダダが銃を構えて入ってきた人を縮体したりアントラーが待ちかまえて青い球を浴びたりブルトンが天地をひっくり返したり。そんな状況を再現するような展示もあればバルタン星人が立体に見えたりジャミラが立体に見えたりといった映像の3D化もあちらこちらに。ジャミラがうち倒されるシーンなんて周囲に科学特捜隊の面々のジャミラへの苦悩があふれた言葉が飾られ、読みながら見ていくと心が痛む。ただし子ども向けなんで低めに作られているんで大人はしゃがむ必要がありそー。あと会場そばのナムコナンジャタウンで提供されているウルトラマン関連メニューが最高。ダダのムースとかウーのモンブランとか、そっくりな上に食べると美味い、かどうかは不明だけれどきっと美味いんじゃないのかな。遠く松戸でキュゥべえを暗い池袋でダダやガバドンやペスターを食らう夏。日本って良い国だ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る