縮刷版2011年6月下旬号


【6月30日】 っていうか今やライトノベルの代表格めいて取り上げられることの少なくない谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」だって、SFとかライトノベルでよく現れては同居したり戦ったりする宇宙人と未来人と異世界人と超能力者の存在を、待ち望んで止まない少女を主人公に据えつついくら望んでも彼女の前には現れないという状況をまず出して、その上で実は現れているんだけれど彼女だけが気付いてないといった感じに、いくつかのひねりと上乗せを加えた作風でもって、すれはじめたライトノベル読みとかSF読みを驚かせた、アンチというよりかはリスペクト&オーバーライトノベルといった面もちだったって感じ。

 それがライトノベルの王道めかして語られるこの状況は、つまりライトノベルなんて何でもありなんだよっってことを示している、って言って良いんじゃないのかなあ。うん。そんなことを考えた熱帯夜。まあもっともここまでムーブメントが高まってくると、一種定型めいたものがラノベとカテゴライズされて自動化された感情を引き寄せては盛りあがっているというのもひとつの状況。白い表紙のその前に少女たちが描かれ、そんな少女が神様だったり吸血鬼だったりサキュバスだったり男の娘だったり妹だったり這い寄る混沌だったりアンドロイドだったりして、そして少年と出合いさまざまなドタバタを繰り広げるといった基本線を貫きつつ、ちょっとしたバリエーションをつけてみせるものを好んで読みつつ、そういうものだと認識していった思考の、凝縮され濃縮された果てに生まれるダイレクトでメタ的な反応を、ラノベブームと呼んで現象として把握していたりするからちょっとややこしい。

 作品としてのカテゴリーと現象としてのシチュエーション。それをいっしょくたに語るのは無理だし、そもそもがライトノベルだからどうだSFだからどうだって分け隔てして語る気分でもないんで、個人としてはレーベルを基本にライトノベルっぽいものがあるなあということをまず認識しつつ、そこの中でも、あるいは外でも面白いものは面白いんだという認識でもって、あらゆる物語を楽しんでいくことにしたい。JAだって電撃だってBOXだって何だって面白ければ良いんだよ。それでもライトノベルだSFだってカテゴッライズが気になるなら、とりあえず秋山瑞人さんが「E.G.コンバット」の完結編を書けば、ライトノベルはSFでラノベだって認識を世界中が持つから、すべてが解決する。この混沌とした論争に決着を付ける意味からも、秋山さんには是非に早い刊行をお願いしたいところ。「ミナミノミナミノ」の続きって手もあるなあ。

 「オトナアニメ」って本があって大人の読者にアニメの魅力を語っていたと思ったら、今度は「オトナアニメディア」って雑誌も刊行されるみたいでいったいアニメの何を大人に向けて伝えるのか、ちょっと気になるというか「アニメディア」って雑誌がどちらかといえば子供に向けたアニメの楽しさを伝えるポジションにいたりしたから、それを卒業しかかった読者を他のアニメ誌に向かわせないで維持させるための雑誌、ってことになるのかとも想像。「POPEYE」に対する「BLUTAS」みたいな感じ。でもコードが「BOMB増刊」みたいだから「BOMB」が得意なアイドルグラビアのフォーマットをアニメに持ち込んで、アニメキャラのグラビアめいたイラストをいっぱい掲載してくれるのかな。買うか。どうするか。

 子供の雑誌が大人向けに出るなら大人向けの雑誌が子ども向けに出たって良いじゃないか。例えば「コドモアサヒ芸能」とか。ヤクザの抗争を綿密に追った実録で人気の雑誌なだけにやっぱり子ども向けでも欠かせないのが子供世界の抗争記事。「××小学校5年2組剛田組長宣言『頂上取ったる!』6年1組に宣戦布告!」なんて記事が載ったら番長たちの覇権争いに巻きこまれたくなかったり、今後を見越してどっちに媚びるかを考えたい読者の関心を誘って学校内で人気になりそう。もちろんお色気記事も。「ドキッ! 都内小学校の透けブラ女教師No.1は誰だ?」とかって記事が載るって写真が満載されたら子供たちも自分の先生が大人気だってことが分かって大喜びするかも。先生だって子供に人気とわかったら、先を争ってブラを透けさせ脇が開いたシャツでスキマから直接のぞかせそして胸元のボタンを開いて谷間を観察させるようになるから。読みたいなあ「コドモアサヒ芸能」。

 そりゃあサバ缶にビールが晩酌だもの、普通にお嬢さまな訳がないと思っていたけどそこはやっぱりマジスティア帝国の1番姫、軍令本部長のシャルロッテ皇女だけあって迎え入れたマヒロを笑顔で抱擁しては膝を鳩尾に叩き込み、拳を顔面に突き入れては再会の喜びにむせび泣かせる豪快さ。武力で鳴る3番姫も知性でとどろく2番姫も、どれだけ誇ってもまるでかなわないその強靱さ聡明さがある限り、マジスティア帝国が即座に中原に斟酌しかえされ、崩壊へと辿ることもないんじゃないのかなあ。顔色を変えずにすべてをこなすエーデルワイスも恐いけれどもシャルロッテ姫の方が全開バリバリに恐ろしい。どうやったらあんな娘が生まれるんだ。マヒロ相手に親ばかぶりを発揮しぶち切れては反撃のドロップキックを食らう親だもんなあ、仕方がないか。ってことで林トモアキさんの待望の新刊「ミスマルカ興国物語」第9巻は絶賛発売中。可憐で繊細なシャルロッテ姫にメロメロになれえ。


【6月29日】 卯之花隊長が刀を振り回すことなんてありえないと思ったけれどもそこはニセモノだからあったりするっぽいアニメーション版「BLEACH」は、隊長格が次々とソウルソサエティへと戻ってきては反乱を起こした三下に迫るもなかなかの使い手で決定打を喰らわせられない。夜一さんと砕蜂が並び夜一さんは前へとおおきいのをせり出させて風を切り分ける、その傍らで砕蜂は真っ平らに近い全面でもって風を受けまくっていたビジュアルに、同じ人間だからといって、同じ女性だかろいってすべてが同じとは限らないという現実を見せつけられた。哀しいなあ。それをいうならオーロイ選手と深井選手だって同じ人類とは思えないけど、でも点は深井選手の方がとっている。サイズじゃないんだ人間は。

 もとい、そんな隊長格の連携攻撃すらしのいで再び集めた隊長格のニセモノたちを、ホンモノに向かわせたところであの人が登場。なるほど、らしいイケズっぷり。こうなったらもう終わりじゃんって思うだろうけどそこはまだ、明らかになってない謎もいっぱいで、現世の少女もほとんど空気。そこいらあたりが絡んでおおきく動く事件が、あと半年くらいは描かれてくれるだろうと信じて見続けよう。剣八そーいややちるをぶらさげていなかったけれど、どこかで落として来たのかな。

 暑いじゃないか。どれくらい暑かったかというと涙が出るくらい暑かった。いや涙は出ないけれども汗がいっぱい出るくらいの暑さはそれはそれで汗が出た後の爽快感があるからまだ良いのか。やがて汗も出きって体温もひたすらに上昇し始めたあたりがちょっとヤバい。しっかりと水分を摂っておかないと熱中症とかになってしまうから早めはやめの水分補給を心がけよう。それが夏を乗り切る唯一の方法。でも6月の終わりでこの暑さじゃあ7月には50度を超えて8月には100度に達し200度500度1000度となって来年には太陽を越えてしまいそう。生きてられるかな。られません。

 そんな暑さの中を六本木まで行ってイアン・アンソニー・デイルという人に対面。誰それって今はまだ無名だけれども5年後の今頃はスターとなってあちらこちらの映画に引っ張りだこになっているから要チェックだ。もう1度名前を書いておこう。イアン・アンソニー・デイル。アメリカ人。だけれど半分は日本の血。母親が神戸出身でアメリカに渡って出来た子どもたちの1人。だから顔立ちはちょっと和風。でも身長は6フィートと長身。なおかつスリム。モデルとしても通用しそうなスタイルを黒いスーツに包み本心を隠してCIAのエージェントとして活動するその凛々しさが、テレビで見られるようになったらきっと日本にも一大ブームが起きる、かな。

 それは「THE EVENT」というアメリカのテレビドラマ。第二次世界大戦終結前のアラスカに突如あらわれた謎の一段。人間みたいだけれど人間とはちょっとだけ違う。何者か。分からないままアラスカの施設に収容して半世紀。ほとんど歳をとらないまま収容され続けてきた彼らを解放したいと思う大統領が現れ、実行に移そうとしたその時、空からジェット機が落ちてきて大統領も、謎の一段のリーダーもまとめて暗殺しようとする。いったい何をそこまでして隠そうとするのか。集団の正体は。ジェット機に乗って大統領爆殺を阻止しようとしていたパソコンおたくの青年は、さらわれたフィアンセを取り戻そうとして事件に関わり、真相へと迫っていく。

 いったい何がどうなって、次に何が起こるのか、ってハラハラの脚本と映画みたいな映像、そして俳優たちの真剣な演技とか見ているとついつい引き込まれて1話、また1話と見たくなる。これだけの面白さを持っていてもアメリカでは、1シーズンで終わってしまって22話くらいで終了とか。もったいないけどでもそんな作品の中で、どこか謎を秘めた青年を演じたイアン・アンソニー・デイルの存在感は、主役やヒロインに迫りむしろその風貌、そのスタイルでもって目立っていそう。「THE EVENT」との契約もおわりいろいろとオファーが来るだろうなかでいったいどんな役を射止めて世に出ていくのか。「HEROES」のマシ・オカとはまた違った方向へと進んでいきそう。むしろ風貌的にはザッカリー・クイントか。だとしたら相当に期待できそうだけれど、はたして。

 いやあ美しい。そして素晴らしいハーモニーを聞かせてもらった梶浦由記さんのNHKホールでのライブ。前に横浜ブリッツと、あとJCBホールでも見たことがあるけれど、音楽に配慮して作られたNHKホールは音にうるさい山下達郎さんもしょっちゅう必ず使うだけあって、上の方まで細かく音が届いて声の1音、そして重なるハーモニーまでもがしっかり耳に届いてくる。ハーモニーを大切にしている梶浦さんのライブにはまさしく最適の会場。ここに匹敵する場所っていうと都内だとあとはどこだろう、サントリーホール? はさすがに無理か、クラシックがメーンだし。キャパと音質に見合ったベストともいえそうなNHKホール。ここが2DYASともいっぱになるくらいに知名度を得るまで、突っ走り続けて欲しいなあ。知らない人には見向きもしない世間はなかなか気が付かないんだ、この時代。

 「空の境界」の旋律とかやっぱり良いし、「魔法少女まどか☆マギカ」のサウンドもテレビで一喜一憂していた人にはそのドラマとともに音楽が甦って滂沱を誘いそう。マミさん……とか。サントラってそういやあ出てたっけ。あと新番組の主題歌に使われるとかいう「stone cold」って曲も披露されたけれどもアンコール待ちの間だに流れたPVが、ビートの聞いたサウンドに載せて歌う女性ボーカルたちのバックでキーボードを叩く梶浦さんの姿がちょっとだけ見えることろがどこか小室哲哉風。ああいったPVっていっぱいあったよなあ、華原朋美さんのデビューシングルとか、オルモックってところから出た、ちょっと懐かしすぎ。

 でもサウンドコンポーザーとしての立ち位置を考えると、一時代を築いた小室さんに並び越えるポテンシャルを、梶浦さんも持っているって事。今はアニメやゲームの世界に限定されているけれど、世間が気付いて広める方向へと向かえばやがて、東京ドームだって満杯にするアーティストになっていくかも。それだとでも音がとれないか。やっぱり梶浦由記さんとFICTION JUNCTIONはNHKホールを常打ちに。是非に。


【6月28日】 ながさとー、ながさとー、ながさとーゆうきげっとごー、って歌だったっけか日テレ・ベレーザ時代の永里優季選手へのチャントは確か。日本にいた最後の方はちょっと見に行けなかったし、先だって見に行ったINACレオネッサと日テレ・ベレーザとの試合では、応援そのものが消えてしまっていたから確かめようがないけれど。ベレーザの選手には1人1人にソングがあってそれを聞きながら選手の名前を覚えていったっけ。きんがゆかーりー、きんがゆかーりー、げーっとげーっとげっとごーる。とか。大野忍選手はどんなんだっけ。澤穂希選手はいろいろあったなあ、おれたーちーのー、ほまれさーわー、とか。

 ふと見渡せばそんな選手たちがまとめていなくなってた日テレ・ベレーザ。そしてそんな選手たちがなでしこジャパンではレギュラー張っていたりする状況。ベレーザ弱くなるはずだよ。でもってFIFA女子ワールドカップ2011ドイツ大会でのグループリーグ初戦ニュージーランド戦ではそんな大野忍選手から前線へと浮き球でのパスが通ってそれを永里選手がループ気味に決めてまず1点。離れていてもホットラインは機能する、ってところを佐々木監督も評価して大野選手を先発で使ったのかな。それとあと大野選手はちゃんと走って守備もするんだ。だからああいった場面で奪取からフィードが出来た。そんな所も見てたりするから得点の場面が少なくても、先発で使われ続けるんだろう。

 そんな大野選手と入れ替わって入った岩渕真奈選手が、日本のメッシだマラドーナだって騒がれスポーツ新聞ふぇフィーチャーされているけれど、しばらく前まではなでしこジャパンに定着できず、日テレ・ベレーザでだってレギュラーでなかった選手。そして今も突出して活躍しているって訳ではない。なるほど相手が後半に疲れてきたところで、スピーディーなドリブルでもって攪乱する役割を果たすには素晴らしい選手かもしれないけれど、負けたくない試合で相手の出足を潰し危険なところで守備をした上で、攻めるところで攻めきるだけの体力って奴を、持っているかどうかが問われてもいたりするんだろう。大野選手はそれがあるし、澤穂希選手なんか中盤の底でもって八面六臂の大活躍。走り回っては奪い潰すという、前なら酒井與恵選手がやってた仕事を背負っているから、攻撃って部分で前ほど絡んでは来られないんだろう。

 その分は坂口夢穂選手が頑張ってるし、宮間あや選手もすごい活躍ぶり。あの場所からのフリーキックだって、簡単といえば簡単だけれど高さもある相手を超えて近くのゴールに入れるのってなかなか大変。なのにあっさりと決めてしまう、それもゴールの済みへときっちり叩き込んでしまうテクニックって奴はもう、男子だって上回っているかもしれない。そんな活躍もあって我らがなでしこジャパンが初戦を勝ち、一方のイングランドとメキシコは引き分けて次、日本が勝てばグループリーグを1位通過で次にアメリカだとかドイツといった強豪と当たるのを避けられそう。わざと負けて与しやすい日本と当たろうって考えなければ。

 まあドイツは勝ってたしアメリカも勝つだろう。そしてすり抜けてアメリカドイツを倒して晴れ舞台で堂々の優勝、って奴を果たしてくれたらワールドカップで盛りあがった人気を再びリーグの方へと迎え入れ、有料ゲームだって可能なくらいの来場者を集められるようになるかもしれない。スターシステムで岩渕選手ばかりが持ち上げられる可能性だってまだあるから痛し痒しではあるけれど、澤選手がスターになって10年以上。次を生み出せなかった女子サッカーにこうやって新しいスターが出てくれれば次の10年を期待できるってことでもあるから、決してプレッシャーに負けずその持てるポテンシャルを、存分に発揮して世になでしこジャパンありってところを、見せてやって頂ければこれ幸い。そして来年のロンドン五輪でも活躍して欲しいなあ。その前に出場権の確保だけど。中国で試合は大変だけれど、なあに勝つさ、彼女たちはタフだから。

 パッツと見た時の印象はスタイリッシュ過ぎて構築的過ぎて、オシャレ過ぎてキャラクターのフォルムも動きもちょっと目に飛び込んできづらかったけれど、読むうちにどういうキャラクターでどういう表情をしているのかが、シルエットの多い画面で構築的に描かれたキャラクターや背景の中から見えて来て、その上で魔物妖怪の類が溜まったアメリカ51番目の州、エリア51って場所をめぐって起こるエキサイティングな出来事を描いた久正人さんの漫画「エリア51」(新潮社)の面白さが分かってきた。っていうかもう無茶苦茶に面白かった。世の中にはいろいろな漫画家がまだまだいるんだなあ。「ジャバウォッキー」も読んでみようかなあ。

 マッコイって綽名される少女探偵が手にしたコルトガバメントがまた格好いい。シンプルで豪快な自動式拳銃、って雰囲気があるけれど、それの歴史的なモデルを手にした少女が逃げる壺を追いかけつかまえ脅し、吸血鬼に奪われた妹を決死の覚悟で助けに行く少年を助け、マンドラゴラを使った暗殺を未然に防ぎ、そして蕎麦屋を襲う怪物と退治していよいよもってその本領を発揮してみせる、っていうか銃が勝手に発揮しただけか、でもそうなった後がまた格好いい。ガバメントの改造バージョンとして売ったら売れるかな。それはちょっとさすがに無理か。ともかくそんな漫画の我らがヒロインにはちょっと秘密がありそう。それも命に関わる。そこまでしてやりたいことって何だろう。そして何が出来るんだろう。興味を抱えて続きを待とう。しかし美人だなあアマテラス。

 タイトルに姫君なんてある割には、口絵のキャラクターは若い軍人の少年とそれから王子様とその従者といった男子ばかり。こりゃいったいどういうことだと読んだ小掠春歌さんの「恋する王子と受難の姫君」(ビーズログ文庫)になるほどと納得。まあそういうことだったんだけれど、本来は大大大大大嫌いだった相手だったはずなのに、記憶を失って再開していろいろ面倒を見て貰ったらちょっと好きになってしまった、ってことは起こり得るのかな。たとえ記憶はなくっても、体質が相手を拒絶する、ってことにはならないのかな。だとしたら恋は魂ではなくって記憶と経験に左右されるものってことになる。うーん。恋したことないから分からない。恋されたことも当然。ともあれ3人の男子のドタバタから転じて恋のドラマが始まってもなおある葛藤と試練。途中に姉御肌のお后様の降臨とかってキャラクターの誰もが特徴的で、読んでとっても楽しめる。新人らしいけれどもこの筆力でもって書いてくれる作品に期待。


【6月27日】 なのなのなのなのはかせはかせはかせはかせなのなのなのなのはかせはかせはかせはかせなのなのはかせはかせ。と来たら最後にさかもとさーんと呼んであげれば良かったのに当の坂本さんは日向から取り込まれた洗濯物が温かくってお気に入り。黙って寝ころんでいる脇で博士となのの感動のコミュニケーションが進められていた「日常」はこのあとなのが学園に通い始めるとそこには頭を金髪に染めて名前をベッキーと変えた博士が教壇に立っていたという、そんなオチはいらない。祖父の家に来て実印を探す孫というのもなかなかにホラーだよなあ。ヤギで通う先輩は今回も出ず。先週ちらりと出たくらいで最近ちょっぴり出番が少ない。良い声なのに。来週もやるってことはこれ2クールだったのか。なのの背中のゼンマイのハンドルみたいなものが何の役に立っているのかを聞くのは野暮か。今日も楽しかったよ。

 最初にまとめて見たのは東北新社でネ申テレビってのが始まる時で秋葉原にあるAKB48劇場に行ってズラリと並んだ面々を真正面から間近で眺めたっけ。その時に来ていたメディアはせいぜいが20人とかそんなもの。テレビ局なんていたっけかなあって記憶がある。それと前後していたかどうか定かでないけれど、セガがお台場に持ってるアミューズメント施設に、チュンソフトのゲームソフトを題材にしたアトラクションが出来た時に3人ばかりメンバーがやって来て、何か挨拶をしたって記憶も持っている。そのときに来たメンバーが今も残っているかは不明。そしてその時に来たメディアはせいぜいがゲーム系だけで、そしてやぱpり10人とかそんなものだった。テレビ? ないない有り得ない。

 それが今だとテレビカメラは全局がずらりと並んでネット系までやって来るし、スチールは午後の会見に午前中からやって来て順番をとっていい場所を陣取ろうと頑張る。なぜって良い写真じゃないと売れないから。そしてAKB48が今1番売れる被写体だから。社員と違って週刊紙とかと契約でカメラマンとかしている人にとって、いくら撮ろうとそれが売れなければお金にならない。枚数撮ったって良い写真じゃなければやっぱり売れないならそこに集まりそこを確保しようとするのは道理、ってことでAKB48が開いた会見に来たカメラマンの数はきっと50人は上回っていたんじゃなかろーか。メンバーも大島優子さんがいたり指原さんがいたりとそれなりに知られている面々が。って指原さんなんて冬の頃だとほとんど知られていなくって、ワーナービデオが何かの会見で秋元康さんともども登壇させた時なんてそんなに人もいなかったのに、この半年で名を挙げ順位もあげてスター街道まっしぐら。こーゆー“下克上”があるのもAKB48の面白さ、ってことになるんだろー。

 そんな面々が集まり発表したのは去年にバンダイナムコゲームスが発売した「1/48」ってメンバーを次々に振っていくゲームの第2弾。場所がグアムと来たらもちろん水着で、メンバーがそれこそ動画ならではの量感質感躍動感って奴を存分に見せてくれる映像が、いっぱいいっぱい入って楽しめそう。10月だなんて秋も深まる季節の発売だけれど、暑い夏がそれまで続いているって気分を味わえる。ってそんなに夏が続いてもらっては困るといえば困るけど。あとはドラマの出来かなあ。やっぱり誰もが専門に訓練を受けている訳じゃないから、喋るにおぼつかないところがあるんだけれど、そういうのを気にしないからこそのファンって奴。映って喋り欠けてくれればそれでOK、ってことで今はいったい篠田麻里子がどんな言葉を語りかけてくれるかを楽しみにして待とう。そういやあ篠田さん、アニマックスの会見で真正面で見た時はまだ世間も今ほど注目していなかったんだよなあ。あの頃だったら……ないなそれは。

 この未曾有の事態から抜け出すにはお金が必要。だったらそれをどこから持ってくるかというと増税くらいしかないんだけれどそれを言ったら嫌われるという、真っ当さが通用しない政治であり社会でったりする現場に、だったらどうすりゃ良いんだってことでひとつの答えを示唆してくれるのが、蒲原二郎さんって人の「ゴールデン・ボーイ」(角川書店)。韓流スターにそっくりなため仕事先で女性からアプローチされストーカーまでされ果ては自殺騒ぎまで起こって居づらくなり、外資系コンサルタントの仕事を辞めて、故郷に帰り親の県会議員の後を継ごうと考えていた主人公。とはいえ選挙までまだ先があるとなて、しばらく政治の修行でもと、金議院の議員の下で秘書を始める。何だ金議院って? それは体面と欲望が先走る衆参議員に対して、金も権力もすでに持っている成功者たちが、名誉のために議員になって国のために働く制度。主人公はそんな金議院議員の下で、国を案じて職務に挑む姿を目の当たりにする。

 そこに何代。ボスの金議院議員を目の敵にする政治家がいて、失脚させようとする陰謀を巡らして来た。一度は敗れそうになるものの、主人公の誠実さと韓流スターにそっくりという面立ちが助けとなって難局を乗り切り、務めている政治家の念願だった法案の成立に大きく足を踏み出す。クライマックスに描かれる、気骨のある政治家の姿にはひたすら落涙、ただただ滂沱。国のために殉じるったあこのこと。大きなことを言ってもそんな気骨を見せた政治家が現実にどれだけいる? 読むほどにジンとさせられる。見ばえの良い政策ばかりを出して、国家百年の計を軽んじ国を迷走させる政治家と、その尻馬にのって騒ぐメディア、さらには上っ面に振り回される大衆をも俯瞰して批判しつつ、金と権力を持った者だけが清廉たりえるとう皮相さを示し、この先にだったらどうすべきかを示す「」ゴールデン・ボーイ」(角川書店)。ここから探ろう、明日の政治を、未来の世界を。


【6月26日】 そういやプロダクションI.G.もスクウェア・エニックスといっしょになって、原作募集のコンテストとか前にやってたよなあ、と遠い眼をしつつ今でもやっていたか想像しつつ、京都アニメーションがどういう経緯からか始めたライトノベルのレーベル創刊で、真っ先に登場した2冊を京アニオンラインショップから取り寄せる。普通に本屋では売ってないみたいで、首都圏だと神奈川にある横浜駅西口地下の有隣堂のコミック専門店で売ってる程度。コンビニから取り寄せも可能だけれど手っ取り早いのは直接注文とネットから申し込んだら2日で届いた。仕事早っ。でも配送料がそれなりに。やっぱりもっと都心部でも取り扱いを増やして欲しいよなあ。

 だって面白いんだから。1冊は脚本家の志茂文彦さんによる「夕焼け灯台の秘密」という作品で、親とのちょっとしたいさかいから家を飛び出した主人公の少女が、他の親族とは音信不通ながら彼女には住所が書かれた手紙をくれていた叔母の暮らす灯台の脇にある家へと向かうと、見ず知らずの女の子がいて主人公を幽霊かと聞いてきた。そして到着した叔母の家にはさっきの女の子とあと2人、女の子たちがいてどうやら叔母といっしょに暮らしているようだけれど、叔母は出かけているとかで、主人公の少女をあんまり家に入れたがらない。それでもと居座ると頼んできたことが1つ。途中の道で出合った女の子には外の世界のことは話すなと言う。

 どこか訳ありな3人だけれど、主人公の少女も空気を読んでおとなしく振る舞えるほど大人ではなく、我を通そうとしては3人の女の子たちを戸惑わせる。それでも彼女を幽霊と信じる末の妹が噴水を尚して、ぬいぐるみを探してと頼むと断れず直したり探してあげたりし、また真ん中の女の子といっしょにサッカーをして遊んであげて、だんだんと仲良くなっていったある夜、主人公の少女が見た夢の話を1番上の女の子にしたところ、何か思い当たることがあるのか震えだし、はやく出ていくようにと告げる。

 一体何があるのか。3人の女の子たちは何なのか。そこから世界に大変な事態が起こる可能性が示唆され、3人の女の子たちの境遇も明かされるSFチックなドラマが浮かび、その一方で家族に対してわだかまりを持っていた主人公の少女が、自分の意識を見つめ直してそして3人の少女たちといっしょに明日を探り始める。恩田陸の「光の帝国」とかその元ネタのゼナ・ヘンダースンの作品、あるいは筒井康隆の七瀬シリーズなんかにも重なる問題をはらみつつ、追う者終われる者といったサスペンスにはまだいかず、優しい視線の中で生きる場所を探る女の子たちを見つめ、描いていったジュブナイル風味のストーリー。懐かしさを感じつつ味わおう。

 それからもう1冊が新人賞かコンテストかで通って刊行された虎虎さんって人の「中二秒でも恋がしたい!。中学時代に邪気眼がと言って暴れていながら中三で悟り、一所懸命に勉強して進学した少年が、入ったクラスには未だ前に眼帯をして寡黙な少女が中二病設定丸出しで進んで来ていて、なぜか少年に感心を持って契約を結びたいと言い出した。放っておけないといった感情があり、また学校で密かに中二病的過去をちょろりと出してしまったところを見つかっていた少年は、小遊鳥六花という名の少女に数学を教える役目を買って出る。

 眼帯の下の眼が金色だったりするほか、言葉の端々に中二病的設定を口走る六花を相手に辟易としながら、それでも面倒を見ていたうちに芽ばえる恋。けれども彼女の中二病をクラスに知られたらいったいどうなるか、なんて葛藤もありつつ進む恋路のその奧に、六花が今も中二病に頼っているのはどうしてなんだろうか、といった理由がほのめかされ、多感な年頃の少女を苛む孤独感が示され、行きづらい世界を生きる大変さ、その逃げ道としての空想世界といったシチュエーションが見えてくる。もっとも、普通のライトノベルだったらそこで学校における階層物へと滑りいじめの問題に行きがちな中二病話を、年頃ならではの自分の心情、家族との関係をほのめかす物語にし、そんな世代に普遍の物語にクラスの皆も決して誹らず少しばかりの共感も示していたりする。

 過去につづった中二病設定満載のノートを披露されるシーンとか、読んで身悶えもするけど、微笑ましさも感じてしまうストーリー。キョンの妹並に兄貴を慕う主人公の妹は健気で素直で可愛いし、主人公と六花の間にちょっかいをだしてくる学級王の少女も、ドSだけれど陰湿ではなく高飛車でもなく、むしろ少しばかりの元中二病で気っ風も良い。不安を虚飾に変えて行きにくい世を生きようとあがく六花も含め、キャラクターに恵まれ展開も楽しくメッセージ性もあって、何より面白い小説って言える虎虎「中二病だって恋がしたい!」は、取り寄せてでも神奈川とか特約店に足を運んで買ってでも、読んで悪くはない作品かも。でもあれだけ数学が出来ないで、よくこの高校に進学できたよなあ、六花。それとも試験に数学はなかったんだろーか。ちょっと謎。

 横浜に行ったらたそがれていなかった。元町中華街あたりは観光に来る人たちでいっぱい。山下公園あたりに行けばもっと多くのカップルとかが歩いているだそう。街並みはモダンな中に開発も入っていっそうスタイリッシュ。何より歩いている人たちがみんなイケてる。同じように江戸から湾内を挟んで距離的にそれほど違わない船橋検見川浜千葉あたりとは、まるで違った光景が生まれてしまった境目はおそらくペリーがやって来て浦賀あたりに陣取ったことで、これがさらに奧へと入って江戸をかすめて船橋あたりに陣取っていたら、そこにも幕府の直轄地があった関係でさあさあこちらに居留地をとなって、外国人がいっぱいやって来て港も築かれモダンな建物もいっぱいできて、現代に観光の名所として繋がっていったんじゃなかろーか。

 なんて妄想もしながら歩いて神奈川県芸術ホールとかいったモダンな建物でなぜかひらかれたアニメのイベントを見学。「いつか天魔の黒ウサギ」って鏡貴也さんのライトノベル作品がアニメーションになるってことで出演者のトークがあり、第1話の上映があってなるほどこんな話だったのかと思い出した。かつて誰かと契約しながら失念していた少年が車に跳ねられゾンビになってメガロと戦う……ってそれは違う話だった。ともあれ因業を背負った少年と、彼を使役する少女と、敵対するイケメンたちの勢力との戦いって構図。絵はぐりぐりと動き声優さんたちは目一杯に演技していてなかなかの完成度。あとはストーリーがどうなっていくか、ってところだけれどしばらく読んでなかったからなあ。この際だからまとめて読むか。年末には新刊とともに放送されない13話のアニメも付くそうだし、オリジナルのシナリオで、「伝説の勇者の伝説」とのコラボなんかもあったりする。わお。

 もう絶望するより他にないのかもしれない。1度なら相手の言い分にまるめこまれてしまったとかいった可能性もあるし、ちょっとしたベタ記事が訳の分からない編集サイドの思いこみでデカくなってしまったって可能性もあったけれど、2度目の記事をそれも内容まで増やして堂々の署名で載せてしまっているということは、つまり書いた人間が本気でそれを信じているということ。なるほど永久機関ではないけれど、それが究極のエコではないことは明白で、原発の代わりになんてとうてい成り得ないことも、考えずとも分かる。落とす物体を大きくして重くしたら果たして中でぶちあたるプロペラはどんな材質のものを使えば良いのか。底でぶちあたる扉はどれだけ丈夫なものにしておかないといけないのか。真っ当なら分かるこうした疑義をすべてねぐって、ただすごいと書き、相手の言い分を否定もせず検証もしないで載せているの、やはり問題と言うよりほかにない。

 上に貯まった水がなければ動かないなら、それは上に水を置いておく必要があるということ。そのために必要な労力はどうするのか。雨なら勝手に上から降ってくるというけれど、それなら溜めた雨水を流して発電機を回せばそれで済む。間に余計な動きなど必要ない。わき水だって同様。間に何かが介在すればするほど、そこにロスは生まれるし、故障の原因にだってなる。だいたいそうした機構の分だけ材料が勿体ない。にも関わらずそうした話にいっさいふれずに、動きだけをすごいすごいといっている。それこそ水を飲み続ける平和鳥の方が、よほど不思議に凄く見えるけれどもこだれって原理は分かっていて、発電になんか使えない。

 物理に詳しい学生を連れて行ったというけれど、その学生はどこの誰で何を専攻しているのか。もしもこの機構を凄い素晴らしいと言ったのなら、早くに学校から教授に叱ってもらわなければ、いずれ落第点を取って卒業すらおぼつかないのかもしれない。発電量ならキロワット時とか、そういうった単位で話すのが普通だろうに、ワットとしか言ってないあたりにも引っかかる。瞬間にそれだけ光ったって、どれだけ継続的に発電できるのか。その量は。それがなければ何の意味もない、って考えれば分かることをまるで無視して、ただひたすらに喧伝し、それがエコに最適であるかのごとくに垂れ流す。まあ良い。書くのは自由だけれど、それが科学のニュースとして載ってしまう媒体は、いったいどういうスタンスだ。正しいと認めたということか。そういうことなんだろうなあ。そして世間はそうは思っていない、この乖離が招くものは? 考えなくたって分かるし、だからこそご覧の有様なんだけれども、そこで踏みとどまれないところがなおいっそう狂おしい。未来は?


【6月25日】 これだけの人気コンテンツになってしまうと「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」にも様々なコラボレーションが持ち込まれそう。筆頭はやっぱりめんまで名前から桃屋あたりが「めんまのメンマ」とかいった商品を作って売り出しそうだし、じんたんも森下仁丹が出てきて「じんたんの仁丹」を出して食べると迷いが吹っ切れシャキッとすると効能を謳って販売しそう。逆に食べると10年落ち込み受験に失敗した挙げ句に引きこもるとか謳った方がじんたんらしいか。それじゃあ売れないか、やっぱり。

 ゆきあつは当然コスパ。めんまコスの男子用のイメージキャラクターになってもらう。彼あれで美形だから見ばえも良いから普通の小太りなめんまファンでは買っても使えなかったりしそうだけれど。そこは根性で突破だ。つるこは笑福亭鶴光さんとデュエットしてもらいましょう。ちくびのいろは。くろでんがな。そんな会話が消えるか。聞けません。そしてあなる。もう名前からしていっぱいいっぱいコラボレーションの依頼が競う。天藤製薬。そしてイチジク製薬。ヒサヤ大黒堂。その部位にまつわる薬剤のメーカーが名を挙げ女性にだってあるいろいろな悩みを解決する手段を、美しくって可愛らしくって執念深いキャラクター性と結びつけて提案すれば売れ行きぐんぐん急上昇だ。TOTOってのもあるなあ。そんな商品がちまたにあふれ出す未来はきっと明るいだろう。

 歌は友達。って翼くんの文化系バージョンみたいな雰囲気もあるけど歌うことが誰よりも好きで音がすべて体にいろいろな影響となって帰ってくるくらいに鋭敏な感性を持った少年が、中学校で合唱部に入っていろいろと活躍する漫画が鎌谷悠希さんの「少年ノート1」(講談社)。春休みのうちから学校で合唱部が練習しているのをフェンスによじ登って聞いては、そのハーモニーに涙を流して感激するという音楽ファン。もっとも合唱が素晴らしいかというとコンクールで入賞したことなんて過去に1度あるかないかで決して熱心でもなければうまくない。そんな場所に圧倒的な声量と完璧なボーイソプラノを持った天才の少年が入っていったいどうなるか。起こるのはやっぱり混乱。1人が突出したって合唱なんかはできはしない。

 熱意がないわけじゃないから少年の、前向きな姿勢に導かれて頑張ろうって雰囲気は出てくる。1人くらいシニカルなことをいう少女もいたけれど、それでもやっぱり一緒になって頑張ろうとしてきたところに、吹奏楽部の顧問の先生があまりに巧みな少年の歌に、自分が関わっている街のオペラに参加しないかという誘いがはいって少年を迷わせる。やってみたい。けれども合唱部の日程とも重なる。そっちはおろそかにできない。でもオペラという舞台でも歌いたい。天才の少年を晴れの舞台に立たせてあげたいという思いも浮かぶ一方で、それでは合唱部の存在意義を自ら貶めていることにもなって全面的に賛成できず、シニカルなことも言ってしまう合唱部の声に少年は混乱の果てにうるさいと叫び嘔吐までしてしまう。

 やりたいことへの情熱と、やれることへの段取りがかみあわない若さ。そして純粋さ。そんな葛藤を乗り越えてうまく立ち回ることを誰も求めていないとしたら、少年はいったいどこでどうするのか。合唱部に全霊を傾けつつオペラにも全力で取り組む無茶の果て、何かが起こらないかとふとした心配も浮かんでしまう。さらに外国からすでに名を知られたボーイソプラノのシンガーが来日しては少年たちと何か絡んで来そう。磨かれざる原石が出会いをきっかけに花開くのか、それ以上にさらに高みをめざすのか、世界という檜舞台に向かうのか、等々の不安も浮かぶけれども合唱部のみんなと歌いたい、という信念も多分持っている少年がいったい、何を求め何を成し遂げるのかをこれからの展開から呼んでいこう。全部良い方向に出ると良いけど。甘いかなあ。

 政権維持を目論む権力者に対し、靖国神社に参拝したら政権が延命できるのは過去の歴代総理の政権担当期間が証明しているから、それほどまでに延命にこだわっている権力者として、参拝してはいかがかと提案したコラムを読んだけれど、でも、靖国神社を政権の護持に霊験あらたかな神社と持ち上げているようなこのコラム、実は靖国は人気取りに最適なアイテムだよって言って、その持てる崇高さを貶めているだけじゃないかって気がしてならない。真面目な政治家であろうと下心を持った政治家であろうと、誰でも参拝すれば効能を授けるって言は、そんな下心を御霊は認めてしまうんだってことを暗に示唆して、御霊を冒涜していることを意味する。

 靖国神社を支持する人たちも、神社の神性ってそんな打算的なものなんだって言われているようで、腹立たしく思うんじゃなかろうか。だから普通だったら決して書かないだろうロジックを、1面の伝統的なコラムでもって堂々と披露してしまう。政権批判という錦の御旗を持ち上げるためなら、それが我田引水的でも牽強付会的でも、そのために古今のあらゆる事例を持ち出して、その真意は問わず表層的な指摘を引っ張る。そしてそれを現政権の批判に結びつけてしまう。読めばあまりにずさんで愚弄的なのに、気付いてないのか目的のためにはなりふり構っていられないのか、過去にも何度かやり今回もやってしまって臆するスタンスが見えないのは、やっぱりそれを臆することとは意識していないからなんだろうなあ。困ったものだ。まったくもう。

 最終日なんで学芸大学前のユカリアートコンテンポラリーへと出むいて声優ではない画家の大畑伸太郎さんの展覧会「生活」を再度見学。奧にある真っ白い部屋の奥の壁にかけられた、地面を描いたその上で、立体で造形された少女が雨上がりの空をふっと見てそこに何かを発見する「虹」という作品を、真正面からながめ横から首をかしげてながめ下からながめ奧からスカートの下がどうなっているかを眺めたりしたけれども、やっぱり真正面から見て路上の少女を上から俯瞰する構図そのものの面白さと、そしてそこに描かれた少女が立体としてこちら側に迫ってくるという面白さが、やっぱりこの作品にとっては重要なんだろうかと考える。平面にしか映らない写真とかでは味わえないもの。人間がその場で見て始めて分かること。だからやっぱり行く価値があった。

 もしも巧みな筆致で人間までをも迫ってくるような感じに平面で描いたとしても、それだとあの色を重ねて光を現す感じは出ない。立体にしてあるからこそのテイスト。それを真上から見下ろすように眺める神の視座。あるいは虹からの視座。その位置が街を歩き空を見上げそして前を向き明日を生きる大勢の人々の「生活」を感じさせる。その感覚を持って外に出て、見下ろされ見守られている感覚を得ながら毎日気を生きていける。それが意図だったかどうかは分からないけれど、そういう感覚を味わえたことは確か。この忙しくも世知辛い世界で、ひとりぼっちではないんだと思いながら生きていける力をもたらしてくれる作品だった。

 ベランダに少女と猫が止まっている作品も猫の立体感があってこその雰囲気。大畑さんはそこに触感といったものを醸し出したかったと話していたけれど、なるほど絵ではどこまでも絵でしかないものが造形を前におくことで、広がる世界の中にいる自分たちの、生きている息づきを触感を通して体感できるような気がしてくる。高台から見下ろした街並みの団地に1つだけ灯りがついている絵も、そこにある営みが見える。まさしく「生活」。なるほどそう思うと展覧会にトータルのタイトルとしても相応しいものだったんだなあ。調べると大勢が通っていたみたいで、アニメーターの平松禎史さんもツイッターで感想をつぶやいていた。大畑さんのブログあと声優の方の大畑伸太郎さんと対面したって書いてあったけれども来場されたのかな。その光景もちょっと見てみたかったかも。ともあれ終幕にて次に見られる機会はいつ? まだ先かもしれないけれど次に見せてくれるアイデアなり、次に見せてくれる世界を期してその時を待つ。


【6月24日】 保育園に通っていた時に、同じ保育園にいた同じ歳の男の子が、妹といっしょに家の前の道路で跳ねられ死亡した、という記憶を持っている。それが本当にあったことなのか、今となっては調べる術もあまりなく、それこそ中日新聞の縮刷版で、昭和45年か46年の記事を、ひっくり返す必要もあるけれども、それを唯一として知人関係で早くに命を失って、仲間だった僕たちを慟哭させたという事例はなく、子を早くに失った親というのを間近に見たことも、やっぱりない。だからとてつもなく身に迫る問題として、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の秘密基地の面々の、幼い頃に仲間が1人消えてその思い出を、さまざまな形で引きずって、高校生の頃に至っていったいどういう心境でいるのかを、推し量ることは良くはできない。

 それでも、観念として近しい存在が消えてしまって、その責任の一端をそれぞれが引きずってしまって起こる心のもやもやと、それが生みだした人間関係のごたごたは想像できて、そんな苦々しいシチュエーションの中に、当の逝ってしまった存在が、ひょっこりと舞い戻ってきた時に起こる残されていた者たちの心の激動が、とてつもないものだということも想像はできる。ある者は過去の疚しさを笑顔に隠して朗らかに振る舞い、ある者は嫉妬に燃えていた心を甦らせては尖った振る舞いで周囲を傷つける。戻って来なければ良かった。そう思い思わされるだろうけれど、でも、戻ってこなければずっと、そんな心を闇の奧へと押し込めたまま、外に出すことなしに一生を分厚い仮面の下で行き続けなくてはならなかった。死んで棺を覆ってもなお、本心は肉体とともに灰と消え、幸せと果たして言って言えるかどうかが疑わしい生を、終えることになった。

 けれども帰ってきた。帰ってきて自在に振る舞うことによって、皆の疚しさや憎しみや迷いや気後れをすべて露わにし、ぶつけ合わせてそして互いの関係を元通り、とはいかないまでも刻まれた溝を埋め、築かれていた壁を壊して心が行き来するようにした。なるほど、死んでしまった者が未練をはらって再び旅立つ話だったかもしれない。テレビアニメーション「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」は。それ以上に、生きている者たちが過去を埋めて本当の今を甦らせて、これからの長い長い生を歩んでいけるようにする話でもあった。生きている者だけが生きていけるのだという当然。だからこそ、生きていることを精一杯に生きるべきなのだと思わせてくれた物語。それが、ひとりの少女の死を必然として語られなくてはならなかったことは、少しばかり哀しいけれども、身近にそうした事例はなくとも、今、世界で大勢が理不尽な死を余儀なくされている状況を思い、この生をどう活かすか、そして繋ぐかを考えることはできる。生きよう。今を。明日に。

 死を認識させることで、周囲が生を自覚する話を通して見る人に生きている今を感じさせた「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」に対すると、泉和良さんの「私のおわり」(星海社FICTION)は、死を自覚した少女の姿から見る人たちが、生きている今を強く感じ取る物語ってことになるのだろうか。気が付くとそこは船の上。あなたは交通事故で死んだんだと、死神の船長がおネエ言葉で教え脅して身の回りの物をすべて奪う。憤り哀しくなった少女は船から海へ飛び込む。気が付くとそこは、よく通っていた天霧君という男子の部屋。ネットゲームを作って公開している彼が暮らしていて、その周辺に彼からは見えない幽霊となって少女は、大好きだった天霧君の日常を見守る。

 そこに現れた少女は彼女ではない別の子で、やっぱり天霧君が好きらしく、いろいろと抜け駆けをしていたことが判明した。やがて少女自身もまだ生前の姿で現れたものの、もう1人の少女が隠れて天霧君にあって料理をしたりしていることは知らずにいた。知ったのは、何日か後に死んで幽霊となった方。そして彼女は幽霊ながらも少しだけ現世のものに触れる力を使ってメッセージを書き、過去の生前の自分自身を動かして言えなかった思いを言わせようとして、そして考える。それで彼女は幸せなのか。そして天霧君は嬉しいのか。言えなかったことを言えたことは良い。でも、それによって天霧君に負担がのしかかる。遠からず死ぬ女性から好きだと言われた負担はいったい、天霧君にとってどれくらいのものなのか。自分の我が儘に他人を巻きこむ振る舞いの是非が問われる。

 言わないよりは言った方が良いこともある。それですっきりとまとまったとも言える。けれども言わずなかった場合でも結果はたいして変わらない。ならば言うべきか。言わざるべきか。ずっと生きていられるのなら迷わず進めと言えるけれども、死ぬと分かってから遡れって見た場合、やっぱり迷いが生まれる。だからやるしかない。生きているうちに突っ走ることだけが死んで後悔とならないための最大の方策。そう教えられる物語だって言えそう。少女の死をここでも必然としなくてはいけないことに、忸怩たる思いはある。優しくって彼女にゴムボートを買ってあげた父親が、早くに娘を失った哀しみを思うと少しばかり胸が苦しくなる。とはいえこれはフィクション。そこに感情を入れ込むより、そこからメッセージをくみ取って、今、こうして生きている生をどう生きていくのかを、考える方が適切だ。生きよう。精いっぱいに。

 神の見えざる手が、何らかのより分けを行って人類が生まれたとかいった説を堂々と流してみたり、歴史的に実証されていない神武天皇以下数代の天皇を、実在するかのように認めた上で、歴代の名を憶えることが指導者の必須条件といったような説をぶってみたりと、科学とは対極にある文学なり哲学なり思想といったものを、さも科学のように流していろいろ言われていただけに、今さら感はあるけれど、このあたりは大きく繰って思想信条という文学の範疇だと、言って言い抜けられないことはないからまだ良かった。明らかに構造的に不思議な部分がある装置を、永久ではないにしてもエコロジカルにエネルギーを取り出せる夢の機関であると書くのは、やはり科学的に間違っているし、文学的な範疇にも入れられない。

 物理化学の類に詳しくなくても、考えればどこか妙だと気づき、それで良いのかと考え、文学的な方句へと引っ張り込みつつ、そいういうものもありかもね、的雰囲気の中で紹介するなら100歩譲って分からないこともない。それが、前はあくまでも地方初のニュースだったのが、今や科学ニュースのカテゴリーでもって、堂々と掲載されてしまっている。そこに科学があると断じてしまっている。つまるところはメディアにおける科学の知性がその程度だということを、自ら示してしまった訳で、それはやっぱり拙いと思うんだけれどそう思っている人、それが問題となっていることに気付いている人が、ほとんどいなさそうなところにこの、歪んで間違った情報が満載となって世に提示され、結果世の中から不思議がられているという状況を、招いてしまっている感じ。拙いなあ。拙いけれどもそれがスタンスだから、如何ともし難いのがどうにもこうにも。哀しいなあ。


【6月23日】 インテルミラノに所属しているサッカーの長友佑都選手がかつて明治大学でサッカー部に所属しながらも、怪我でベンチ入りすらままならないまま応援団席に陣取って、太鼓をドンドンと叩いてその音が評判になって、そのままサポーターとして応援団に来ないかと誘われた話はつとに有名で、発売された「日本男児」(ポプラ社)とう本にもその辺りのエピソードが書かれてあっていっそう世に広まっている模様。それを枕に1文をしたためようとするコラムも出てきた様子。

 ふむふむなるほどこれはそんな苦境にあった長友選手が、それでも選手をあきらめないで得意の走力を徹底的に鍛え上げ、誰にも負けないサイドバックとして評判になってFC東京から日本代表、そしてチェゼーナからインテルへと一気に駆け上がるストーリーを添え、あきらめない大切さを説くものかとおもったらさにあらず。なんとコラムは太鼓といえば祭であってそれは地の神山の神を鎮めるために叩くものだという説を振り、そうした太鼓が叩かれていた祭がいっぱいあったらしい東北で、津波によって太鼓が流され大変だけれど現地の人は太鼓を探して集めてそして、祭が来たら叩いてみんなで元気になろうという風に持っていく。

 それもまた太鼓という1つのキーワードを軸にしてつながったストーリーだから敷衍としてありかもしれないけれどもコラムニストの果てしない想像力はそこでは収まらない。そんな苦境に喘ぐ東北をほったらかしにして今の政権はいったい何をやっているんだとう方向へと一気に引っ張っていくから何というかアクロバティックというか。長友関係ないじゃん。太鼓どうでもいいじゃん。常人だったらまるで思い浮かばないストーリーなんだけど、それをただひとつ、現政権妥当、菅憎しという信念のもとにひねり出したかあるいは管政権への非難を浴びせるためにはあらゆる材料を駆使してでも1文をつづり世に問う覚悟を示してせたか。

 ともあれ素晴らしく凄まじい飛躍はもはや3段飛びの領域すら超えボソンジャンプとワープとオメガドライブを重ねた彼方へと向かっていく。いつかここまでの信念を持って文章を書きたいものだと思うけれど、常人なんで長友選手で振るならやっぱ枕にした長友選手を慮って政権よりも彼の素晴らしさを伝える文章に収めてしまいがち。太鼓だったらやっぱり太鼓と祭の関係を高らかに歌ってその鳴り響く音が世を平らかにして明日への快復を祈る文章にまとめてしまいがち。月並みなこの感性では堂々とコラムを張るなんて出来そうもないから八艘な上に桂馬が乗ってそこにリバースまで加わる飛びっぷりを、これからも見せてその信念の強さを世に電波、じゃない伝播していって下さいな。嗚呼。

 連載なんて1年も前に終わって完全版こそ出始めたけれども作品としてはすでに完璧に完結してしまているストーリーであるにも関わらず、それを用いてどうしてここまで圧倒的に素晴らしく、そしてスペクタクルな物語を作りだしてしまえるのかと、7月2日に公開される劇場作品「鋼の錬金術師 嘆きの丘(みろす)の聖なる星」を見る人は思うだろう。なるほどボンズが手がけただけあってビジュアルは凄い。戦闘シーンの迫力たるや近年のあらゆるアニメを集めても飛び抜けてトップクラスのさらに上へと抜きんでそう。分析したくなるし真似もしたくなる。そうした影響が世に広まってさらにアニメの世界を豊かにしていく可能性にも満ちた作品だって言える。

 けど物語の方もそれに負けるどころか、この物語があったからこそ存在する意味もあるアクションといった感じすら浮かぶ。アメストリスとクレタという国の間にある街に乗り込んだエドとアルのエルリック兄弟が見たもの。そこで行われていたこと。現代社会にも起こっていそうな悲惨で非道な出来事がそこにあって、そしてそれらに関わる人々の心の闇へとぐっと迫りつつ、だからといって闇が暗黒へと向かうことを認めて良いのかというテーマも投げかけられる。生きてこそ。生き抜いてこそ得られる明日があるのだからと教えてもらえるストーリーに感動を味わい、そして再び「鋼の錬金術師」という物語世界全体へと目を向けて、エドとアルが最後になにを成し遂げたのかを思い返すのだ。犠牲にする戦いなんてまっぴらだ。そう思い至るのだ。公開が楽しみ。そしたらデカい画面で見る。揺れるミランダのナイスなバディを。そこかおい。

 ブライスって可愛いか、っていわれるとデカい顔に揺れる眼差しがいわゆるお人形的な可愛らしさとは対極にありそうな気がするけれど、パルコのCMの登場して、きょろきょろと目を動かす顔立ちの不思議さにひとめで惹かれた人たちが、そのどこか懐かしさを感じさせ、それでいて新しさも思わせる不思議なフォルムと、どんな衣装でも着こなしてしまう存在感に、いつしかお人形というカテゴリーの枠をこえ、1つの存在として認知していった模様。

 今ではすっかり多くの人たちの気持ちにするりと入り込んでいったブライスの誕生から10年。ファンは増えてアニバーサリーが出れば即完売というとてつもないレアアイテムとなってしまった感があり、一方でオリジナルのファッションを着せて楽しむ人もいたりと広がるブライス人気の、この10年の足跡を振り返る展覧会が、渋谷のパルコファクトリーで25日からスタート。内覧会にはそうしたブライスに魅入られた人たちが大勢集まりとっても華やか。大昔の人形が今に必要と認め商品化を働きかけ、そして実現した人の炯眼にも感嘆。見て振り返ってその変遷を辿り賜え。そしてブライスが何でこんなにも魅力的なのかを感じ賜え。


【6月22日】 テレビ番組「あるある大事典」のやらせ問題が発覚した時、やり玉に挙げられたテレビ番組制作会社の名前を聞いて、この会社がそんなことをするはずがないと思った人はたぶん、1970年代から80年代にかけてSFに親しみ、SFマガジンを読み、大元帥こと野田昌宏さんのコラムや著作に親しんでいたに違いない。そこに描かれる日本テレワークという会社、あるいは日本テレワークをモデルにしただろうと思われる、小説「銀河乞食軍団」シリーズに登場する星海企業で働く面々の、職務にかける情熱に接すれば、金のために帳尻を合わせるような仕事をするはずがないと感じて当然だ。

 何よりその日本テレワークには、あるいは星海企業にはお富さんがいた。一方では海音寺潮五郎の娘として日本語に厳しく、野田昌宏さんの書くものにいろいろ注文をつけては、仕事を正しい方へと導いてきたと、野田さんのエッセイに書かれていた記憶がある。また一方では金平糖錨地の姐御として君臨しては、若いおねじっ娘たちを束ね、星海企業の社員たちを束ねて頭目とともに会社を引っ張っていた。その気骨の下では、誰も曲がったことなんで出来るはずがなかった。だから現実の日本テレワークでも、お富さんこと末冨明子さんがいる以上、どうして理に反することが起こるものかと感じたものだった。

 けれども時が流れ、世代が代われば人の心も変わってしまう。創業期の気骨を持った人が偉くなり、あるいは歳をとって一線から退いてしまった会社が、利益に走ってしまうことはよくあること。今だとソニーがまさしにそんな感じに、屋台骨だったエレクトロニクス開発の精神を置き去りにした挙げ句、狙った市場をとれず奪われ失敗までしてなお省みないまま、泥沼の底へと沈みつつある。日本テレワークも、そしてフジテレビジョンも気骨を持った人が引っ込み、あるいは気骨を失って君臨した挙げ句に、問題を起こして道を問われ、よっこらしょとお富さんが復帰したものの、やっぱりそこはご高齢。野田昌宏さんを亡くして3年。お富さん逝く。

 その訃報がニュースになって、やらせ問題をおこした日本テレワークの社長と書かれることが多くって、そこに憶える野田昌宏ファンでSFファンの忸怩たる思いもあるけれど、世間がたとえ問題会社に復帰した敗軍の将ととらえても、野田昌宏ファンでSFファンはお富さんの最後の叱咤がそこにあったと思いつつ、日本テレワークなりその血を受け継ぐテレビ制作会社なり、果てはあらゆるテレビ屋たちが矜持と誇りを持って日々の仕事に邁進し、それを誰もが尊び認める空気が甦ってくれることを信じたいもの。とはいいつつもはやテレビなんて見ないんだよなあ、とくにバラエティー。ドキュメンタリーとアニメとスポーツがあれば良いからなあ。そんな時代にかつての日本テレワークだったら何を作ってどう楽しませる? 想像しつつお富さんを悼もう。

 「アイアンマン」は見てスタークの藤原啓治さんっぷりにむふふと笑い、「ウルヴァリン」も見てローガンの小山力也さんぷりにニヒヒと笑ったけれども「X−MEN」は見ていないから誰がぴったりはまっているのかちょっと不明。でもマーベルとマッドハウスのこらボレーション第4弾として登場した「ブレイド」はブレイド役の大塚明夫さんがスタークやローガンに負けないはまりっぷりで見ているだけで、っていうか喋っている声を聞いているだけで心地よくなれそう。良い声の役者ってやっぱり好きだなあ。なおかつ大塚さんの演じるブレイドの敵役を演じるのが磯部勉さん。最近だと「BLACK LAGOON」のダッチなんかを演じている人で、やっぱり良い声を聞かせてくれる。

 ダッチを演じているんだったらその流れで、同じ黒人で巨躯で坊主頭のブレイドも磯部さんで構わないんじゃないかって気もしたけれど、そういう荒くれもやればニヒルな二枚目もやれる磯部さんだからフロスト役でもピッタリ。そんな2人の対決に絡む日本のアニメオリジナルのキャラクター、マコトは坂本真綾さん。ってことは目を閉じればそこに繰り広げられているのはバトーとダッチと両儀式という拳銃使いにナイフ使いの死闘といった光景がまぶたの裏に浮かびそうだけれど、日本版の「ブレイド」は監督のたっての希望で拳銃とかはあまり使わず、剣やナイフといったもので戦うのをメーンとした模様。アニメでもだから「ブレイド」の名に相応しい剣やらナイフやら手裏剣やらを使った戦いが繰り広げられる。

 そりゃあ「吸血鬼ハンターD」とか「ブラッド・ザ・ラストバンパイア」といった映画でも超絶ハイクオリティな作品と比べれば随分とテレビサイズになってしまっているアニメ版「ブレイド」だったけれど、テンポは悪くないし展開も面白く、キャラクターもブレイドにフロストといったおっさんたちに混じってマコトってショートパンツ姿の美少女がバトルしてくれて目にもなかなか。脚本を担当した深作健太さんによれば意識したのはマッドハウスでりんたろうさんが作った「カムイの剣」で、だから剣が縦横無尽に飛び回り、技の後に文字が出て名前が示され、爺さんがペットの犬を連れているとのこと。りんたろうさんも協力者としてクレジットされているから、その影響の下で作られた「ブレイド」が面白くならないはずはない、と思いたい。7月から放送スタートなで見られる人は見よう。すごいゲストが出てくるって言ってたけれど誰なんだろう? 真田広之演じる忍者とか?

 同志社クラスターではないので新島八重なんて女性はまるで知らないんだけれども、再来年の大河ドラマでもって取り上げられるとあってはこれからそれなりに評判も増していくんだろう。もっともそのドラマで八重を演じる綾瀬はるかさんが、綾瀬はるかさんらしく綾瀬はるかさんならではの綾瀬はるかさん的ムーブメントを見せてくれなければまったくもって無意味。NHKという場がどういう配慮をするのか、幕末という時代背景がどういう衣装を着せるのかといった問題なんかをクリアした果てに、綾瀬はるかさんらしさを存分に発揮して空気を揺さぶり世間を揺さぶり心を揺さぶってやって頂きたい。もう全編走りっぱなしでも構わないから本当に。ゆさゆさゆさゆさ。ゆさゆさゆさゆさ。


【6月21日】 ふうん、今川ヨシモトの持月玲依さんてまだ新人なのかあ、出てきて喋るとその声がほんわかとしてとっても耳に届いて癒されるんで、できればもっといろいろな役を演じてその声を聞かせて欲しいところ。そんな「戦国乙女 桃色パラドックス」は安土城の天守閣に登って雷を落とす徳川イエヤスに向かって全国から集まった武将たちが躍りかかるものの退けられる体たらく。そこでと一計を案じた明智ミツヒデの戦略によってまとまって飛びかかって徐々にライフゲージを削ってそこに真打ち織田ノブナガが登場。ソードカトラス、ではなかった巨大な剣をぶつけてイエヤスの魔を調伏し、ついでにすっぽんぽんにして取り戻す。めでたしめでたし、かな?

 かなってのは瓦礫に埋もれた赤い甲冑が何やら良からぬ光を発していたこと。これを機会と見た伊達政マサムネあたりあ飛びつき来ては世界を変え、そして現世に戻ったヒデヨシが見た世界は車の変わりに馬に乗って走りながら英語で叫ぶ世界が到来、していたらそれはちょっと他が混じってる。ともあれ1クールだとしたら残りも少ない「戦国乙女」。なぜか毎週ほとんど見てしまっていたけれど、お色気いっぱいな上に分かりやすいストーリーとそして迫力のバトル、その裏にある割にシリアスな設定なんかがダークホースながらもメインストリームに躍り出た理由かな。「聖痕のクェイサー2」は導入はすごかったけれども途中からやや単調さが見えてしまったからなあ。まあこちらは最終回で一気に巻き返すだろうけれど。

 ほのぼの版権でもぽかぽか熊でもないけれど、それなりに知られたプロパティがやっぱり向かうのはロワイヤル。もはやすべてがロワイヤルになると言っても過言ではないソーシャルゲームの世界ではきっと、年末にはガンダムがロワイヤルとなり無双もロワイヤルとなり逆転裁判もロワイヤルとなってドラクエまでもがロワイヤル化する、かもしれなかったりするかもしれないなあ、なんて妄想すら浮かんでしまったレベルファイブとDeNAのソーシャルゲームを巡る業務提携の発表。プラットフォームを持ってそれなりにユーザーを集める実績を持った「mobage」に、コンシューマーゲームとして名前の通った「レイトン教授」シリーズを持ってくるってのは方法論としてはアリで、それでレイトンのような謎解きゲームが出来れば言うこと無し、だったんだけれど両者がいっしょにやるのはその名も「レイトン教授ロワイヤル」。タイトルだけ聞いてもまるで内容が分からないけれど、発表を聞いてもやっぱり分からなかった。

 「ロワイヤル」といえば言わずと知れた「怪盗ロワイヤル」で、って言ったその口がだったらどんなゲームか説明してみろと言われて、できなかったりするから少々役者不足。とはいえぽかぽか熊がロワイヤル化すると対戦があって迫力が出てユーザーが喜ぶというからには、対戦要素があっていろいろバトルもある内容のゲームだってことは想像がつく。違うかな。一方で「レイトン教授」シリーズといえば「頭の体操」から流れる謎解きパズルをひたすらに解いていくというゲーム。そこにはバトルの要素もないしアイテムを集めていくといった要素もない。というかそんな要素があったら本来の謎解きが意味が無くなる。誰の手も借りず、知恵と少しのヒントで解き明かすからの謎解き。そこにどんな謎だって解けるアイテムを売って売れるはずがない。戦い? どーやるんだ。

 だから考えられたのはビッグプロパティをくっつけ知名度でもってお客さんをかっぱごうって意図だったんだけれど、そこはチャレンジを惜しまないレベルファイブの日野晃博社長、「レイトン教授ロワイヤル」は過去のロワイヤルシリーズとは違った要素を盛り込んだ、まったく新しいものにしてみせるとゆーからこいつは楽しみ。探偵と怪盗と市民のどれかに使命されたプレーヤーが、その役割に応じて参加しゲームに挑んでいくという内容は、多分「怪盗ロワイヤル」とも違い「レイトン教授」とも違った、新しい発見を与えてくれる、かもしれない。実際にプレーしてみるまではやっぱり何とも言えないか。ただなあ、そーしたゲームを遊ぶためのデバイスをがないんだよなあ、我が家には。携帯電話? ノーノー、PHS、それも随分と前の。iPadで出来るんなら良いけれどそういうものなんだろうか。だからしばらく様子見。せめて「ぽかぽか熊vsプレデター」よりは売れて欲しいねえ。

 もうずいぶんと開いてすらないかもしれない「週刊少年サンデー」なだけにいったいどんな漫画が載っているのか、コナンと高橋留美子さん以外にどれくらい人気になっているのって思ってしまうところもあるけれど、個別に見れば椎名高志さんがいたり藤田和日郎さんがいたりケンイチが史上最大の弟子だったり國崎出雲が可愛かったりはしている模様で、そんな漫画に混じって知らないうちに江戸時代を舞台にした剣豪ものも始まっていた模様。福田宏さんって人の「常住戦陣!!ムシブギョー」は江戸時代ではっても現実とは違って蟲どもがわんさかと沸いて人を襲っている江戸の街に、虫退治を専門として作られた蟲奉行ってのがあってそこに田舎から、すごい剣豪の父親を持ちながらも父親にはまだ及ばない少年が、出てきては蟲を退治する仕事に就くことになるというストーリー。

 とはいえやっぱり弱かった少年は、現れる蟲に苦戦する、その一方で前からいる蟲奉行たちは剣のひとふりで蟲を両断したり、切ったり焼いたり止めたりしてみせる。まるで力量が違う場で、早死にすら想像されたけれども主人公の少年は、誰よりも早く動いて危機になった子供を守ろうとしたり、刀が使えなくなっても柄で相手を粉砕しようとしたりと逃げないで命がけで戦ってみせる、そんな姿に周囲もしだいに納得していくというストーリー。まだまだ弱いけれどもそんな少年の奧に秘められた何かがきっと、爆発するよーな展開が待っているんだろうなあ。格好良くて面白い少年漫画の王道。でもそれよりみ見どころはお春やんのFカップ。誰が何といおうとお春ちゃんのFカップ。異論は絶対に認めない。異論なんて出るはずもないだろうけれど。火鉢のぺったんの方が好き? それも趣味として悪くないけど、そう言おうものなら火鉢にドッカンされるから覚悟しよう。


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