縮刷版2011年6月上旬号


【6月20日】 山村和也選手からのダイレクトでのサイドへの送りを、間髪いれずに受け取った比嘉祐介選手が向かう選手をするりとかわして、センターへと上げたボールに飛び込んだのが清武弘嗣選手。その一連の流れるような動きに、これがジェフユナイテッド市原・千葉にあればトルホグネ・オーロイ選手も巻誠一郎選手も、どんどんばんばんと得点を取っていたんじゃないのかなあなんて考えたサイド攻撃の見事さ素晴らしさ。昔のジェフはあそこで山岸智選手がかわしたり、水野晃樹選手がスピーディーにあげたりして良いボールをセンターに供給してたんだけれど、今はそうしたサイド攻撃自体がうまくいかない。押し上げつつ抜きつつかわしつつの連動ができないから。もしも五輪代表の試合を見ていたのならあの攻撃を日本のフル代表もジェフ千葉も、学んで実践したまえ真似したまえ。流通経済大学の山村選手と比嘉選手はどこに行くのかなあ。欲しいなあ。来ないよなあ。

 神は無造作にもじょもじょと長く、目にはサングラスで鼻は太く、口はニヤけて周りにはヒゲ。そんなどこかにいそうなおっさんの顔が、新しいEXILEのメンバーだと紹介されテレビのCMに出て週刊大衆の表紙も飾って、誰だあれと評判になっていたら明かされたのがメンバーの顔からパーツをいろいろと抜き出して合成したキャラクターだとか。でも見た人の感想は見たことのない美少女ってよりは、見たことがありそうなむさいおっさんといったものばかり。そんな企画があってはたして大きな話題になったのか。そこに世界を揺るがすAKB48とEXILEとの受容のされ方の違いがある、って言っても良いのかな、でもAKB48だったら誰が誰だか分かる人も多そうだけれどEXILEの今を誰が誰だと完璧に言い当てられる人っているんだろうか。いたら凄い。讃えます。そして誰のどこを集めて合わせたら最強の美男子になるかを問います。

 ゾンビが走るのか走らないのかという問題はあんまり気にならないけれど、ゾンビが来たら自分が活躍できるのかという部分については、ゾンビ映画をあんまり見ていないから分からないといった状況。噛まれたら必ず感染してゾンビ化するから、頭を叩き潰すべきと言われていたところで、それをどう具体的な行動に移せば良いのかが分からないし、ゾンビあどういった場所から一斉に侵入してくるのかといった想像も、あんまりしようがない。それ以上にゾンビに襲われた集団が取る行動の方が不明。騒いで逃げだしやられてしまったり自分勝手に振る舞った挙げ句に、統制を乱してゾンビを呼び込んでしまったり、魅力と美貌で男を従え君臨しようとした女が、別の女の裏切りにあって、ゾンビの集団の中に放り込まれたりといった、その時に人の心に何が起こるかといった知識はやっぱりゾンビ映画のエキスパートの方がよく知っている。

 ゾンビが現れたら、ゾンビ映画にとてもなく詳しい自分はヒーローになれるから、ゾンビに現れて欲しいと願ったところで、現実のこの世の中にゾンビなんて現れない。現れるはずがない。でもそうした空想に本当に本当に浸りたくなる時もある。それはこの現実は本当に本当に苦しいと感じたとき。いじめられたり無視されたり、莫迦にされたり虐げられたりして孤独な教室で授業を受けている時、ここにゾンビがあらわれクラスメートを襲いだしたら、自分は持っているゾンビ映画の知識でゾンビたちと戦い、人間を導きつつも嫌いな相手には仕返しできると妄想してしまう。大樹連司の「オブザデッド・マニアックス」(ガガガ文庫)の主人公、丈二はそんな高校生だった。

 そして小説は現実より奇なりという当たり前のことが起こって教室にゾンビがなだれこんでくる。一緒に補修を受けていた美少女で金髪でモデルなんかをしてて、丈人をとことん莫迦にして虐げてきた彼女はパニックを起こして真っ当に振る舞えずゾンビに襲われそうになる。そこを丈二の冷静さとそれ以上にクラスでは地味な存在だった委員長の少女の沈着な行動で、ゾンビを撃退した一考は学校を出て郊外の小屋に立てこもって3日間を無事で過ごす。あとはそのままたすけを待つばかり、かと思ったけれどそこに鬱屈から臨んだ非日常が現実になったことへの歓喜を享受していた丈二の暗い気持ちが噴出する。小屋に立てこもっていては自分は活躍できない、ヒーローになれないと一行をショッピ愚モールへと引っ張っていってそこで群がるゾンビを相手に良いところを見せようとして襲われそうになってどうにかモールへと逃げ込むと、そこには先客がいてそして丈二に負けない暗い心を燃やしてすべてを取り仕切っている人物がいた。

 憧れていた非日常の到来だけれどその非日常がいつまでも続く保証はない。すべてが綺麗に片づいてしまった後にまた、虐げられ苦しむ毎日が戻ってくるかもしれない。はしゃぎすぎて目立った反動から、さらに圧迫された鬱屈の日々を送るハメになるかもしれないと思ったとき、ゾンビに詳しいから得られたヒーロー的な立場を、そのまま失って良いのかといった誘惑が浮かぶ。またあの地獄のような日々あ来るなら、この非日常がいつまでも続けばいいし、続かないならいっそ全滅してしまえば良い。そんな刹那の気持ちにまで追い込まれてしまう人間がどれだけいるかといと、実は案外にいたりするのが今のこの社会。残念にもゾンビは現れないまま自らをリビングではないデッドへと変えて虚無の世界をゾンビとして彷徨う。そのことに気付かせつつ、だったらどう動くべきなのかを示してくれるのがこの本と言えそう。「ほうかごのロケッティア」でクラスの階層について言及してみせた大樹連司ならではの作品。ゾンビにも詳しくなれるけれど、詳しくなったところで現実にゾンビはいないからなあ。現れないかなあ。ゾンビ。

 初めて見たのは2年半も前のことだから当時はテレビドラマにちょい出ていたのとあとは映画「旅立ち」で松山千春を演じていたくらい。朝の連ドラにもまだ出ていないころでも上をめざしてひたすら突っ走る楽しさを、明るい笑顔で語ってくれていたっけか。そして今や若手のイケメン系俳優でもそれなりの認知度を得るようになった大東俊介さんが、あの「テニスの王子様」の劇場版映画に出演するってことでアフレコ取材を見物。いやあ巧いは。セリフに感情がこもるのは当然として、画面に出てくるキャラクターの口の動きにぴったりをあわせてセリフを喋る。監督の多田秀介さんが巧いだけじゃなくって声優の技能を短い時間で収得していると誉めただけのことはある。そして声質がなかなか。シウってちょっぴりワイルドな役をしっかり演じてくれている。

 真面目さはかわっておらず声優って仕事が俳優とはまたちがって、キャラクターや原作があってそうしたものが持っている力があって、そこに魂を入れていく作業が必要といった理解を示してた。原作をリスペクトせずただ自分の声を出せばあとは絵があわせてくれるだろうって考え方はそこにはなし。こういう人になら大好きなテニプリのキャラをまかせても良いってファンだって思いそう。映画は9月3日からだけれどどんな演技を全編通してみせてくれているのかなあ。いっしょに出演する早乙女太一さんもどんな声を出しているのかな。いろいろ気にはなるけれど、何せテニプリなんで美少女とか出ないんで映画を見に行くことは多分なさそう。テレビでやってくれないかなあ。


【6月19日】 どうして日本人はパウル・クレーが好きなのか、ってところを分析すると多分西武百貨店の堤清二さんが、1961年に西武百貨店池袋展で当時としては珍しいデパートでの展覧会を開いたことに行き当たる、のかどうかは判然としないけれども、そういう仕掛けをしたことを、永江朗さんの本で読んだような記憶があってそれは決して小さくないきっかけとして、日本にパウル・クレーの存在を知らしめファンを増やしていった模様。後に加古隆さんがパウル・クレーを題材にしたCDなんかも作っていたりして、他の数いる西洋の画家たちの中でも、印象派やらピカソダリといった面々やらに続く認知度をパウル・クレーが得ているってことが感じられる。

 とはいえしかし東京都近代美術館で開かれている個展に、まさかあれほどまでの人が来るのはなかなかに信じがたいことかもしれないと、絵の前に連なる人の波なんかを見ながら思ったりもした日曜日。どれを見たって線とかブロックとかしか描かれていなくって、似たような絵が並んでて面白いかっていわれるとそれほど面白いものでもない。多くの中に1枚2枚あれば特徴も際だつけれど、全部クレーの中にクレーがあったところでクレーでしかない訳で、見ているうちにああこれかまたこれかて気にもなってくる。子供だったらそのあたりは覿面で、先生に連れられ来ていた幼児らしい集団も見ているよりは騒いでいる方が好きだった模様。説明されたってだからどうしたってなもんだ。

 むしろ子供にはクレーの絵を参考にクレーを描かせる方が、情操にも良いんじゃないのかなあ。魂の発露を線と色にぶつけて見せるその態度をクレーから学び、乱雑なようで整然としている構成についても比べることで意識させる。そんな教育の中から絵を描く楽しみと、絵を描く大変さを感じ取っていった果てに未来のクレーも生まれてくる、かもしれないし生まれてこないかもしれない。ともあれただ見せているよりは何かになる。見せていることで安心したのは親とか先生とか大人の方。子供は見たいんじゃない。描きたいんだよ。それをつかみ伸ばしてやるのが教育ってもんじゃないのかなあ。なんつって。まあでも見るだけでもその時間が楽しいと感じればまた見に行くもの。そうして道をつくってあげることが何かにつながれば良いとここは思うことにしよう。

 さっと眺めた後は4階に上がっていつもの休憩室で皇居を見下ろしながら休憩。相変わらず皇居ランナーがぐるぐるぐるぐると皇居の周りを飽きずに回ってる。健康にただちに害はないんだろうけれど、何とは無しに不穏さも漂う上に雨模様でホットスポットとか取りざたされているこの時節に、蓑傘もつけずに息もいっぱい吸い込むランニングを都心部で平然とやっててそれが健康志向か、って違和感もちょっぴり。走るんだったらもっと安全で安心できるところを走ればいいのに、それが半ばブランドと化しているとそこに混じらなきゃって気が起こる。ってのはオタクの世界にも言えることでスポーツを誹れはしないんだけれど、そんな自覚を憶えつつ、でもやっぱりどこか奇妙な皇居一辺倒。いっそあったら世界の元首もしくは元首に相当する人たちが住まう場所を走って回るパフォーマンスにでも昇華されれば格好いいのに。バッキンガム宮殿とかホワイトハウスとか中南海とかリビアのカダフィの家の周りとか、走るといろいろ楽しいぞう、スリリングだぞう。

 まあこういう時節でも外を走るランニング愛好家たちにとっては、そこを走ることが目的な訳であってそこがどいう状況か、それがとかどういう背景か、なんてことは二の次だったりすのかも。でなければあれだけ暴言吐きまくりな石原慎太郎都知事がぶち上げ実現した東京マラソンに何万人も参加しては、お祭り騒ぎにしてしまうなんてことにはならないから。もし今度の東京マラソンがあったとして、それを走る人はあの大震災を天罰だと行った人の号砲でもってスタートを切ることにある。それはそれこれはこれと気にせず出るのかそうではないのか。参加する人もいろいろ判断を迫られるんだろうなあ。まあほとんどは気にしないのかもしれないけれど。

 そんな石原都知事がまたぞろオリンピックを東京で開きたいといって、今言うことかを物議を醸しているけれど、そんな中で堂々と支援を表明したメディアが幾つか。かかる資金が日本経済を活性化させるとか、日本への信頼を高めるといった言い訳もあるけれど、東京が整備されゼネコンが潤って東北に見返りはあるのか。エネルギー不足が今言われていて将来にもきっと言われ続けるだろう中でばかでかいエネルギーを消費する五輪を日本でやる必要がるのかどうか。国威発揚って言うけれど国威なんざあ日本代表が世界の大会でいっぱい活躍すればそれで果たせる。そのためにかかる費用なんてスタジアム1つの建設費にすら及ばない。

 女子サッカーとかすでにメジャーな競技は言うに及ばず、様々あるマイナー競技も強化して、それこそ100人のメダリストを作るために費やせば国威なんて1発で持ち上がるんだけれどそういうことは言わないんだよなあ、やることだけが目的。そしてメディアはそれを支持しつつ、現行政府の及び腰を非難する。五輪を被災地のためとか国のためとか持ち出しつつ、やってることは自己満足と体面維持。それで支持されるかっていうと……少なくとも知事は信任されてしまった。メディアは? やっぱりキツいかな。都知事の場合は鬱陶しいながらも信念めいたものがあるけれど、メディアはそれにすがっていきたいってスタンスが見透かされてしまうから。どっちにしたって7月には立候補を表明しないと間に合わない。さてどうするか。そしてどうなるか。東京マラソンにみんな防護服着て異論を示そうぜ。あるいはバナナの変わりに福島県産の果物を囓って安全を訴えようぜ。

 東京国立近代美術館では久々に常設展をぐるり。いつの間にやら奈良原一高さんの写真「王国」のマスタープリントがニコンから寄贈されていて、その一部が飾ってあって見たらトラピスト修道院を撮った風景が花村萬月さんの小説を原作にした「ゲルマニウムの夜」に出てきた光景にちょっと似通っていた。もちろんトラピスト修道院で小説のようないろいろと不道徳な出来事が起こっている訳ではないけれど、宗教的なことだけじゃなくって北海道の厳しい自然の中で畑を耕し家畜を世話する暮らしをしている様が、映画のシーンにちょっぴり重なって見えた。大変だなあ。

 一方でそれに集中していれば良いという生き方いんもどこか魅力。考えても果たせず動いても潰される社会なら、考えず動いて日々を送れる境遇の方が良い、って思えてしまうのだ。もちろん教会で考えないで生きるってのは無理だけど。それでも憧れてしまうそんな暮らし。だから「王国」の一方で対置された女子刑務所という存在と同種の刑務所なりへの依存から、いろいろ起こったりするのかも。そんな世界のおとずれを、半世紀も前に予見していたと言えなくもない奈良原さんの炯眼。いずれ全部まとめて展示されたら見に行って、そこに浸りたい自分を感じつつ、そうならないためにどうすべきかを考えたい。と思うけれどもそれまで保たないかもなあ。自分も社会も。


【6月18日】 東京アニメセンターで行われていた東日本大震災のチャリティーのためのオークションで投じた応札が、見事に落札されていて驚くやら何やら。そのサイズでそのクオリティのものが出るのはなかなかなくって、ショップとかで売られていたらさらに高くなりそうなところを、その値段で落とせたのは実に僥倖、長く慈しんでいるタイトルのベストショットとも言えそうな、そのビジュアルを手に出来る幸せを、深く噛みしめつつ応札した金額が些細ではあっても、何かの役に立てることを喜ぼう。いやまあブルーレイボックスが出たときのおまけで、それくらいの場面を得られていれば改めて応札する必要もなかったんだけれど、そういう方面での運はあんまりないみたいなんで。

 初めて見たのはいつのころだったのかを振り返ろうと、過去の日記をひっくり返して見つけた記述が2002年9月1日。GEISAI2の会場を歩いていて、アーケードを奧に見て横断歩道を手前に渡ってきたんだろう少女が、ふっと空を見上げている「雨」というタイトルがつけられた作品が、夕方から夜にかけたあたりのどこか切なさと寂しさを滲ませる空気感を持った色調と相まって、ぐっと目を引きつけたって記憶と記述がある。描いたのは大畑伸太郎さんという声優さんと同じ名前を持ったアーティストで、当時から「笹サンド」とうサイトを開いていて、そこにもあった過去の作品を眺めて、さらに好きになって以後、GEISAIやデザインフェスタに出展する姿を見ては、作品を眺めてその叙情あふれる世界観を楽しんでいた。

 そこから実に9年。一昨年くらいのアートフェア東京の頃にYUKARI ART CONTEMPORARYという画廊が出展していたのを見てそこに、どこかで見たことのあるタッチの絵があって、これはと近寄ったら大畑伸太郎さんで、そうか画廊がついてアーティストとして本当に活動を始めたんだなあを喜びつつ、その進化する作品の面白さに強く興味を惹かれた。平面の絵の前に、平面で描くようなタッチでもって表面を塗られた人形がいるミクスチャー作品。絵からまるで飛び出してきたような雰囲気があり、かといって乖離はしないで遠目にみればそれらもふくめて1枚の絵に見えるという、不思議な味わいを持った作品は、ともすれば淡いタッチでキャラクターと風景を描くイラストレーターと見られがちな大畑さんが持っている、作品世界をどう感じて作っているのかを、感じさせてくれた。

 それはその時間、その空間の定着。雨が降り出して濡れた路面に、夜の街灯やネオンなんかが写って滲みつつ反射している風景を、頭で思い浮かべてみてそして、大畑さんの「雨」という作品を見ると、そこに単なる少女が描かれたイラストではなく、その時間のその空間にいた誰かの姿を、その思いも含めて感じ取ることができる。この感覚は立体作品でも同じで、その時間その空間に現出されたであろう状況を、独特のタッチでもって切り取っていて、見ているうちにその空間へと引き込まれ、その時間をともに味わうことができる。ある意味で写実的。けれども淡いタッチで貼り絵のように重ねられた色遣いが、写実性が持つ角をまるめて叙情性を醸しだし、見る人をじんわりとさせる。嬉しかったり、寂しかったり、楽しかったり、哀しかったりする気持ちに浸らせる。

 ギャラリーが目をかけ引っ張って、アーティストとしてマネジメントしはじめたのもそうした、作品としての意味性を感じ取り、作品として見せるに値すると感じたからなんだと想像している。アーティストとしての位置づけをまだ、大きい場所で読んだり聴いたりしたことがなくって、個人としての感想と、ギャラリーが面倒を見ているという客観的な状況から、多分そうなんだろうと思っていたりする。本当のところはどうなんだろう。とはいえ今時のメディアは、売れている人には売れているという理由で注目はしても、これからの人をこれは良いと独自の目利きで紹介する役割が期待できないからなあ。1990年代に大流行したアーティストとかトレンドを、今の20代30代の最先端トレンドだと思いこんでいたりする人が作っていたりするし。だから村上隆さんがいつまでも最先端で最高峰。それはそうだけどそうでもないんだってば。

 だからあとは個人の感性を頼りに見るしかないってことで、大畑伸太郎さんの新しい作品が展示されたYUKARI ART CONTEMPORARYに入ると、まずは懐かしいタッチの滲む街に少女だ佇む連作が4点。奈良美智さんが犬や子供を描くように、大畑さんならではの特徴がたっぷりと出た作品だけれど、そこにも出合って9年という時間がもたらした、進化と変化がある模様。筆で色を置いていく描き方は前を変わってはないんだけれど、その場所に相応しいその色が乗っていた前とは違って4枚ある絵が1枚づつ、同じ色調でもって描かれている。青っぽかったり黄色っぽかったり緑っぽかったり紫っぽかったり。そんなトーンの絵が4枚、並んでいるところに、1枚1枚が持つ時間と、空間と、そして描かれている少女の思いの差異ってものが漂って、そこに幾多の人々が生きている世界を作り出す。

 そうなったのには理由があって、いったん、立体を平面の前に置く作品を経たことで、後ろの絵と前の立体の色調を合わせようとする時に、同じような色合いにする必要を学んだという。とけ込むようにするには、前と後ろで様々な色が使われていると馴染まない。ならばと同じ色調をグラデーションのように重ね散らしていく手法を、今度は平面へと持っていった結果、生まれたのが「生活」というタイトルの4枚の連作。面白いのは色調が違う4枚を、同じ時期に平行してい描いていたっていうこと。パレットに並ぶ色も違うだろうし描いている時の気持ちだって違うんだけれど、それを理解しつつ4枚をいっしょに描くことで、文字通りの世界の多彩さってものをきっとそこに込めたかったんだろう。バラバラなんだけれどひとつの作品。だからこそ4枚並べて見る必要がある。それ故にギャラリーで見る必要がある。行くしかない。

 もうひとつ、行くしかない理由は、その空間でこそ味わえる感激をもたらしてくれる作品があるから。2つある部屋の奥にたった1点だけ置かれた作品は、平面と立体が組み合わさったものではあるんだけれど、立体を平面の前に置くのではなく、壁にかけられた平面から立体が尽きだしている。別に珍しくないという人もいるだろうけれど、その立体が人物像で、そして平面が地面だと聞くと、いったいどういうことだと思うだろう。雨上がりの路上、敷かれたブロックの上を歩いている少女が、ふっと空を見上げた一瞬。大畑伸太郎さんの得意とするシチュエーションを、何と少女が見上げた空間から切り取っては、それを床に奧のではなく壁に張っている。作品に向かうと空を、見上げた少女の目線は作品を見る者の視線とぶつかり、その奧に路上があって水たまりがあっ、て電柱なんかが写り込んでいる。

 「虹」というタイトルのこの作品。魂だけの存在になって、中空を浮かび漂っていながら空を見上げた少女を見下ろしたとしたら、そんな光景が見えるんだろうか。地面の上に立って遠くから見守っていた少女を、今度は高みから見守ることになる訳で、重なり合う視線が作品との、そして少女との関係を太く強くして、見る人を作品にくぎ付けにする。作品を床に置かなかった意味が分かる。そしてその部屋にそれが1つだけ置かれてある意味も。周囲を別の作品が囲んでいたら、見ている僕たちは空中から見守る視線に浸れない。入り口に立って、作品に近づいていくうちに浮かぶ天からの視点に歪みが出る。そうさせないよう、1点にしぼり空間まで白く統一して、その作品を置いてみせた。そんなギャラリーの姿勢からも、大畑伸太郎さんというアーティストへの理解と共感と、情愛が感じられる。良い関係。それがより広く遠くへと届く力になれば嬉しいんだけれど、それにはもうちょっとだけ世間に知られる必要がある。だから行こう。そして見よう。得た感動を語って広めよう。会期は25日まで。何かが生まれる瞬間を目撃しよう。


【6月17日】 ネットで沸き立つLISPって声優ユニットの活動停止の話題に、そもそもそんなに活動してたっけって突っ込むのは野暮も極みとなるので脇に置きつつ、3人いるメンバーでは阿澄佳奈さんだという意見には、でも「おねがいマイメロディ」で育ち「セイントオクトーバー」で成長した僕には片岡あづささんこそがトップであり、センターだという青臭いことも言いつつそれなら残るもう1人は、って言われてすぐに思い浮かばないところにも何かここに来ていろいろあったりする事情が含まれているのかなあ、なんて考えたりもした明け方。まあバオバブシンガーズだって大ヒットを飛ばしながらもいずれ活動を辞めた訳だし、スラップスティックだって滅多に活動してない訳で、声優ユニットの栄枯盛衰は今に始まったことではないと理解。また別のユニットが組まれ動きだすだろうと期待しながら見守ろう。Lip’sとか。

 いやそれは既に実在のアイドルユニット。というか1992年には回線してしまった懐かすのアイドルで、当時はUCCの缶コーヒーのCMなんかに派手に出ていてCMソングも歌っていたから、見知っている人も結構いたりするんだけれども20年を超えてしまった今、10代にはまるで無名の謎存在。そんな彼女たちが歌った名曲「Splendid Love」なんかを、ダンスも込みで今の声優ユニットが歌ってくれたら、とてつもなくヒットしそうな気がするんだけれどどうだろう。片岡あづささんと福井裕佳梨さんと小林ゆうさんの3人なんかでやれば結構良い線いきそう、ってそれは昔懐かしい「ゴスロリ少女探偵団」ではないですか。あの時代はふんわかして楽しめるアニメがいっぱいあったなあ。「おとぎ銃士赤ずきん」とか。ジューゥスィー。ともあれLIPSは去ってスフィア一人勝ちの声優ユニット業界に、殴り込んでくれる面々を希望。おさかなペンギンとか。そりゃ強力過ぎる。

 例えば、そこにニャンコ先生を連れた夏目がやって来て、まだ成仏しないめんまを拳で1発、殴り飛ばせば齢100年を超えるような妖怪でもないめんまなんて即座に塵となり、煙となって消え果ててしまうような気もしないけれど、妖怪が古来より満ちた気によって生まれた列記として“実体”を持った存在であるのに対して、後悔とか自責といった念が集団で見せる幻覚にも似た幽霊を、夏目がその気でもって吹き飛ばすのはたぶん無理。残した思いを払い誰もが納得する道筋を示してあげないことにはずっと、そこに残って引っ張り回すことになる。だからいったい秘密基地のメンバーは、何をどうしてめんまの”成仏”を成し遂げるのか。そんな辺りが残る話数でのクライマックスになるのかな。

 それにしても、恐るべし威力だ夏目のグーパンチ。名のある妖怪退治の専門家たちでも恐れおののく大首入道を拳1つで吹き飛ばした上に、初めての封印を軽々と成功させてしまうんだからもうはっきりってスーパー陰陽師、その才を眠らせるのは惜しいと全国からスカウトが来たって不思議じゃないけど、当人はそんな力を嫌がって隠そうとして、それがまた内圧を高めて更なる力につながっていたりするのかも。しかし、そんな大首入道を吹き飛ばした夏目のグーパンチでその場に倒れ伏すだけの柊もあれでなかなか強い妖怪だったりするのか。っていうかあれで壊れない柊のお面って何で出来ているんだろう。チタンか。テクタイトか。ダイヤモンドか別の何かか。本当は割れて素顔を見せて欲しいんだけどなあ。きっと頬赤らめたり泣きそうになったりして可愛いんだろうなあ。

 放射線被曝が福島第一原発を中心にした周辺地域に甚大な被害をもたらしていることに触れつつ、遥か遠方では被曝はそれほどでもないという学者の言質を添えることに異論はない。それが外部被曝という段階に置いて、線量の多寡でもって喫煙や飲酒と危険度を比べることも、感情的にはいかがなものかという意見が起こるだろうけれど、科学的な態度として決して間違っているものではない。ただし。それが内部被曝だったらどうなるのか、といったエクスキューズに言及しないで、喫煙飲酒と比べることはたぶん違う。なおかつ遠方では線量がたいしたことがないから、原発を止めると言うのは経済的に見てナンセンスと続けるコラムのロジックは、とてつもない超越と不思議さに溢れている。

 なるほど今は福島の一部地域が大変なだけかもしれないけれど、同じ事は日本の、或いは世界の原発が立地する他の地域でならどこでも起こり得る。そんな可能性をまるで無視して、今は別に気にすることはないですよと言われたって、誰も納得なんかできないはずなのに、そう言って臆さない態度の底に、いったい何があるのだろうか。あるいは他の地域は安心ですよと言ってのけることによって、今まさに苦しんでいる被災地の痛みがまるで蔑ろにされていることに、まるで頓着しない態度の底に、いったい何があるのだろうか。そこがまるで分からない。目配りが足りない。目配りしようとする意識も見えない。

 もちろん言論機関のひとつとして脱原発を称揚するのは構わないし、逆に原発推進を主張するも良いだろう。問題はそうした論が結論ありきな上に、牽強付会を重ねて論の体を成していないこと。なおかつそれが世間の目にはバレバレなのに、当人たちは気付いふりをしているか、まるで気付いていないこと。その結果起こることは明白であり、またすでに起こっていたりするんだけれど、それでも一切ひるまずに突き進み続んだ果てに来るのは奈落か、そのさらに奥底か。うーん。悩ましい。あと脱原発を主張するのは結構なことなんだけれど、1980年代から随分と言われ90年代にも言われたことであるにも関わらず、今まさに気付いたような顔で騙されたって大人が言うのも不思議というか妙というか。

 すいません気付きませんでしたと謝りつつ、これを機会にココロを入れ替えますと言うならまだしも、世間の論を煽るように声高に訴えそこに集まる賞賛をブランド価値の向上につなげるってのも、どこかやっぱりズレているような気がしてならない東小金井。もっと前から訴えてろよって。平沢進さんはそのあたり、ちゃんと意識して2000年代の初頭に太陽光エネルギーだけでCDをつくり、自然エネルギーだけでライブをやって電気の問題を世に問う活動を行っていた。その時にはまるで気付かなかった世間が、東小金井の横断幕1枚に喝采をおくりさすがという。結果として招かれる状況が好転なら結構なことではあるんだけれど、せめてメディアはそうした活動を紹介しつつ、既にあったことにも触れつつ、全体を盛り上げていって頂きたいもの。目立つ者が目立つことやったら勝ちみたいな風潮は、時に善政も呼ぶけれど、時に悪政も引き寄せるのだから。

 4回目の大学読書人大賞の受賞式へ。前回も長身のモリミー森見登美彦さんが授賞したけれども今回は超イケメンでもある冲方丁さんの登場に大学生の文学少女たちは上気して歓声をあげて登場を喜んだかというといたって普通に見守って、騒がず慌てずその話に聞き入っていた様子。努力するのは良いんだけれども努力のための努力では無意味。何か目的を持ってそれに届くように努力していくことで人は成長していけるといった話がとっても耳に残った。努力しているかなあ自分。去年に続いて角川書店の本の授賞で飯田橋から近い授賞会場ってことで社長の人とかもいてなかなかに豪華。近さだったら新潮社の方がさらに近いんだけれど今回もとらなかったなあ、1回目は光文社だったり2回目は講談社。そして角川2連覇で10連覇くらいするって社長の人もいっていたから負けじと挑戦して欲しいものだな他の会社も。来年は何が取るかなあ。


【6月16日】 武藤葵って現役ミス農大だったんだっけ、それとも元じゃなかったっけ、って迷いもふっきれとりあえず、現役のミス農大ってことになっていた「イブニング」連載の石川雅之さんによる「もやしもん」。とはいえ酒ばっかりかっくらって植え込みで寝たりする姿にゲンメツを憶えた人からの訴えで、ミスの資格を剥奪されそうになって査問にかけられそこでとりあえず、ちょっとばかりセーブすると言った口から出たことばが「かかってこんかい!」。その合図でもって始まるミス農大候補の選考と、武藤葵との対決に果たして誰が出てくるのか。前号だと及川とあと蛍も表紙になってミスコンめいた風体をしていたから、そのあたりがまずは挑戦者決定戦で戦って、そして武藤葵に挑むってことになるのかな。でもあれでちゃんとしっかり美人だから、及川ではちょっとかなわないかなあ。蛍では……ってミスじゃないミスじゃ。でもミスってことで。可愛いは正義。

 前のが3月だから3カ月で次の巻って早くないかと調べたら、11巻から12巻の間もだいたい3カ月だったからこれがベースってことになる末次由紀さん「ちはやふる」。クイーン衝撃の激ヤセから回って千早たちの団体戦が続く大会では、負けたら終わりのトーナメントに入ってまずは相手をうち破り、そして迎える眼鏡で笑顔が似合う逢坂恵夢たんんとの戦い。そのにこやかな表情をまるで変えずに繰り出す毒舌の数々が、取り巻きの男子たちを戦慄させてはさらんるファン意識を増幅させる。蹴られても殴られても、付いてきます恵夢たんに。そんな試合はまだまだ続いて果たして買ったのはどっち。個人戦に出てくるクイーンと戦うのは誰。ってあたりはまた次の巻で。そして帯には遂にアニメ化の文字が。声優は誰になるんだろうなあ。佐藤利奈さん雪野五月さん白石涼子さん田中理恵さん系ではあるんだけれど。いっそそこだけ実写で江口愛実ってことで。いや実写だけど。実物とは。

 ショートコントの羅列でもって1話をまるまる作り上げるとはなかなかやるというかやり過ぎというかやっちまったというか。「聖痕のクェイサー2」は初期の電脳世界をめぐるバトルが終わってからあとは、学園にもどってマダムリリーがぶるんぶるんと振るわせるばかりの展開が延々。そして謎めいた少年の正体は謎めいたままで脇におかれてつーるぺーたーのーと歌う娘のつーるぺーたーなー悩みが露わになってそこに共感する者もあれば、我関せずと巨大なそれらを振るわせる者たちもあって目もぐらぐら。とはいえ全体が輝き何が何やら分からない画面を見入っても見入っても何も見えず、じっと手を見て懊悩するばかり。それで良いのかといわれれば、テレビ的には良くないけれどもDVD的BD的にはきっと楽しめるものに仕上がっているんだろうなあ。そして来週は何やら不穏なタイトルが。伝説の第2章が始まる。

 超早起きして東京おもちゃショーへと向かう。例年だったら発表会とか連続なのを梯子するんだけれど会場での発表会とかあんまりなさそうなんで、とりあえず1階にあるバンダイのブースからざっと見て、「機動戦士ガンダムAGE」はまあ人気が出そうだと思いつつ「大人の超合金」で今度は0系新幹線が検討されているとの情報をキャッチ。1両目の上をカットして中のイスとか自在に動かせるようにするのはかつて夢の超特急、新幹線に憧れた大人たちの関心をくすぐりそう。そういやあ僕が新幹線に乗ったのっていつが最初だったんだろう。中学の時に東京から日光方面へ修学旅行にいった時? その前に父親と登呂遺跡とそして久能山と日本平を見に行った時に乗ったっけ。あれはやっぱり0系だったんだろうあな。

 その路線だったらブルートレインだってありかなあ、座席が寝台にがちゃがちゃっと変わるタイプ。そういうのってあった記憶があるんだけれど、昭和45年とかそんなころに乗ったはやぶさがそうだったんだけど、本当だったか記憶にない。昭和55年辺りだともう座席は座席で上の寝台は寝台のまま固定だったような。だから模型でがちゃがちゃと動かし再現して、そこに艶姿の娘さんとかフィギュアで乗せてめくって楽しみたい、って何を楽しんでいるんだろう。N700系とかだと先端が長く成りすぎて1両目にそんなに座席がなくってカットモデルにしても楽しくないのはあるかなあ。昔の車両って工夫のカタマリだったんだなあ。とか。

 そんなバンダイのブースではISS国際宇宙ステーションの船外活動用宇宙服のモデルが登場。10分の1のサイズで結構細部まで作り込まれてて中に人とか入っていそう。でもバイザーを開けるとそこから飛び出してくるのはエイリアンだったりするという。タカラトミーのブースではトミーテックから小さい模型のISSそのものが登場。いろいろと部品を組み合わせて大きくしていくのかな。それともそのまま撃ってたのかな。宇宙服と組み合わせたい、ってサイズ違いすぎ。あとタカラトミーではトイフィールドって可愛いドールの新製品としてウサギが登場。耳に飾ったりしていろいろ改造のし甲斐がありそう。エドウィンとのコラボも良いなあ。きっとすぐに売り切れてしまうんだろうなあ。

 ベタっと寄り添っていた訳ではなくって、違う会社からひとりのクリエーターとして見ていた印象を書いてあるから「今敏アニメ全仕事」って本で冒頭に、なぜか文章を寄せているプロダクションI.G.の石川光久さんの言う内容には、賛美一辺倒とは違った今敏監督の立っていた場所へのクールな視線が、現れているのかもしれない。お客のために作るといいながら、本心ではなかったかもしれないと想像しつつ、それが映像作家として世界に評価されたと続けた一文は、前に石川さんに話を聞いた時に、エンターテインメント性をバリバリと出して大勢を巻きこむクリエーターとはちょっと違った位置に今敏監督が、いるんじゃないのかなあと話してたこととも相通じる。

 泣かせ感動させて儲ける作品よりも世に残る作品。それは多分石川さんの物作りのスタンスとは違っていて、だからプロデュースを行わなかった一方で、あらゆるクリエーターの希望を満たし実現させる方向で動く、丸山正雄さんのマッドハウスが今敏監督を支えたってことになるんだろう。とかいうとIGがバリバリなエンターテインメントばかりを作っている訳じゃないって突っ込まれそうだけれど、こと押井守監督の作品を別にしたら、割に楽しめて見られる作品をIGって結構作っていたりする。1人を抱えるだけでも大変なのに、完璧主義者的でなおかつ本流から外れるクリエーターをもう1人、抱えて動くには会社として大変という経営者の意識もあったのかな。だからマッドハウスは……というのはさておいて、「今敏アニメ全仕事」には「夢みる機械」の設定なんかもしっかり掲載されていた。ちゃんと作っているって現れだと信じてその完成をひたすらに待とう。

 そんな「今敏アニメ全仕事」がセットになった「PERFECT BLUE」の上映会が開かれたんでバルト9へ。思い返せば最初にこの映画を見たのも新宿で、今はもうない紀伊國屋の裏手あたりにあった松竹だかの狭い劇場ですし詰めになりながら見たんだっけ。当時って座席指定ってあったのかなあ。思い出せないくらいに遠い昔。その後に劇場で見たのはつい先だって渋谷で開かれたオールナイトだから多分これで劇場のスクリーンでは3度目か。でもしっかり細かいところまで憶えてしまっているのはそれだけ強烈に印象を残す作品だったってことになるんだろう。

 あれだけ入れ子細工のような複雑な構成になっているのに、それをそうだと感じさせないでシームレスにつなげてく巧みさ。それでもって見る人を映画という虚構とそのさらに奧にある虚構へと引きずり込んでは浮上させ、現実へと送り出してそれでも虚構を引きずらせたりもする仕掛け。今敏ってクリエーターの真骨頂が存分にどこまでも詰まってる。あれがオスカーならこれはオスカーと金熊と金獅子とパルムドールをグランドスラムで獲得したって不思議はない。けれども……。

 いやしかしこの次期にこれだけの観客を劇場へと引きつけるって意味ではグランドスラム以上。地に足のついての評価の高さを認めるべきなんだろう。そんな「PERFECT BLUE」の上映後に岩男モーグの如き巨躯ではない岩男潤子さな登場して思い出話を幾つか。難しかったのは「レクイエム・フォー・ドリーム」でパク……ではなくオマージュられた風呂場でうずくまって叫ぶシーンで、どういった声をどう出すのか、それを悩んで悩んだ挙げ句に怒りを言葉に乗せてぶつけたとか。だからああいった悲痛さと、そして決然とした意志がそこに現れているんだろう。あそこを超えて岩男さんは今に至る。そんな転機を自分も得たいけれどもなかなかないなあ、やっぱり踏み切るしかないのかなあ、自ら、外へ、世界へと。


【6月15日】 そうかもうすぐ1年か。去年のいまごろはまさか予想もしていなかった今敏監督の突然の訃報に、ぽっかりと明いてしまった心の透き間を埋めてくれるかのように、8月12日から24日に新宿にあるギャラリーで今敏監督のイラストなんかを展示する回顧展が開かれる。前に10周年を記念する展覧会を開いた懐かしい場所。何かを買ったらもらえる「パーフェクトブルー」のセル画を目当てに何度も通っていろいろ買って、今敏監督からまた来たんですかと苦笑されたっけ。奧のカウンターめいた場所にいて、来る人にサインをしたり話し込んだりしてたなあ。そういえばその時は顔を知っている人間だってこともあったし、いずれまた会えるだろうとサインをもらわなかったんだ。

 そして開かれる今回の展覧会では、当然ながらサインはもらえない訳だけれども、残してくれた数々のイラストレーションがあれば、そしてパッケージとして販売されている数々の作品があれば今敏監督はすぐにでも甦って語りかけてくる。ダーレンってだーれん? とかどうとか。会場では「今敏 画集BOX」ってのも販売されるみたいで、どんな絵が入っているのかちょっと興味。あとお土産ももらえるってあるけれど、何だろう、お別れの回とかで配られたようなものなのかなあ、まあどっちにしたって行くし買う。どうせなら8月24日の1回忌にあわせていって祈りたいけれど、同じような思いを持った人が全世界から集まってきて賑わいそう。どうせだたらダーレンもこの日に来て跪いて祈るなり、みんなと一緒に「愛の天使」を踊りたまえ。

 可愛いじゃん。と表紙を見て思った瀬那和章さんの「可愛くなんかないからねっ!」(電撃文庫)を読んだらなるほど、可愛いんだけれど可愛いって言ってしまって良いのか迷うキャラクター設定。つまりは美少女に見えてついてたりするんだけれどそんな主人公の魂にはついてなくって、そんでもって町に起こる奇妙な出来事を解決するため奔走するという健気さ。そんなキャラクターの設定だけでご飯たっぷり食べられそうな作品だけれど、事件の方でもいろいろあって楽しそう。まあそんなことよりなにより可愛いは正義で可愛いは絶対で可愛いは神だということを、存分に味わえばそれで良し。続きもだから書いて表紙のイラストの可愛さで、悶絶させて頂ければこれ幸い。

 「季刊サッカー批評」もそうか51号か、いつから買っているか記憶にないけど随分と前であることは確か。でもどっかに埋もれて出てこないのが残念というか。引っ越したい。でもお金がない。この円高でも10万ドルに届かないメディア企業って。うーん。それはそれとしてタイムリーな企画群。冒頭で木村元彦さんがJヴィレッジが置かれた現場なんかをリポートしていて、行って分かるいろんなことが書かれてあって参考になった。驚いたのが緑の芝生にあふれていたサッカー場が駐車場とかヘリポートになっているってこと。ヘリポートなんか芝生の上にアスファルトを敷き詰めてあるからすぐにはサッカー場には戻らない。ひっぺがしてならして芝生を植えて成長して。1年2年はかかりそう。

 というより原発の処理が1年2年で終わるのか。10万年を保存しなくちゃいけない廃棄物なんかよりもっと扱いが難しい破損した原子炉の処理なんかを、やろうものなら向こう3年とか5年なんて期間が必要になってきそう。その間をずっと拠点として使うなら、Jヴィレッジにサッカーのトレーニングセンターとしての機能はとてもじゃないけれど置いておけない。堺市だかに作る構想も浮かんでいるけどそっちだってまだ先な中で、Jヴィレッジに集まっていた若い才能はいったいどこで何をするのか。あそこを拠点いんしていたTEPCOマリーゼはいったいどうなってしまうのか。不安は募る。中には移籍してしまう選手もいたりして、それはそれで仕方のないことではあるけれど、ただでさえ注目の割に見入りの少ない女子サッカーで、地元も企業もしっかりバックアップについていたチームの停滞、あるいは消滅はなでしこリーグで予定されているらしい有料化の流れに水を差す。

 といった記事も「サッカー批評」にはのっていて盛りだくさん。ついでにいうなら聾唖者のサッカー、目の見えない人のサッカー、車椅子に乗る人のサッカーでヤタガラスの代表ユニフォームが使えないのは何でなの、って海江田哲朗さんによる記事があるけれど、前編って銘打ってあるからなのか、使えないんですという事実は提示してあっても、その理由について書かれていないのがちょっと残念。3カ月も待たせた後編で種明かしじゃあ、CM開けに答えを見せてくれるバラエティよりも気が持たないよ。どうしてそんな構成ににしたのかなあ。これは知的障害者のサッカーを取り上げた映画「プライド・イン・ブルー」の試写会か何かで、当時その団体のトップにいた長沼健さんが、JAFによる支援がないのは各県に協会とかあなく、上部団体のJFAに加盟することが規約かなにかで出来ないんだってことを話してたような記憶がある。

 何か弱者の団体が眼中になような印象をJFAについて持たせてある「サッカー批評」の記事だけれど、多分そういったこととはまた別に、入れたくても入れられない理由が規約かなにかであるんだろう。だって元サッカー協会の会長でもある長沼健さんを擁していた団体だって苦労したんだから。そんなあたりについて真っ当な指摘とそして解決のための道筋が、次の号の後編で示されることを願いつつ、戻って木村さんのJヴィレッジのリポートで、誰かジャーナリストらしい人が、Jヴィレッジでは自衛隊員は部屋を汚すから使わせてもらえないって言っていたらしいけれど、行くとちゃんと使ってもらっていることが分かるという。

 来もしないのに憶測で書き伝聞で書き、そして政府なり東電の無策を批判する“ためにする”言説が横行するのは、Jヴィレッジに限った話ではないけれど、そうやって流れ出した言説が、ネットなんかを通して拡散され真実として流布され世間を動かす恐れがあるのが恐いところ。木村さんの専門でもあるバルカン情勢の混乱でも起こったメディア上での流言卑語が原因となった混乱が、ここでも静かに起こり確実に蝕んでいるという実態。そこにも木村さんには突っ込んで欲しいけれども場が「サッカー批評」なだけにサッカーという切り口を題材にして、そこに原発があり、そしてJヴィレッジがあるという状況をひもときながら、バーターにはならないような形でJヴィレッジが復活し、日本のサッカーの発展に貢献していってくれるような可能性を、示唆する記事になている。読んでその実態を知り、そして是々非々の中から最善を選ぶことに努めよう。


【6月14日】 今の気分だったらビッグなスケールの惑星探査機「はやぶさ」の模型をフューチャーするんだろうけれども、そこでナノブロックっていう微細なパーツを組み合わせてつくる玩具のシリーズから出たカワダの「東京スカイツリー」を持ってくるところに、選考する人たちの公平性が見えた日本おもちゃ大賞。ダイヤブロックもあればレゴもあり、メガブロックだってあった、かな、憶えてないけど様々あるブロックの中に微細であることを売りにして、スペースをとれない大人の創造意欲をかき立てた商品性と、それからスカイツリーっていう時事性が、ただそこに存在するだけ、だといってもすごい存在感ではあるけれども、やっぱり模型の「はやぶさ」を、上回って支持されたってことなのかも。

 スカイツリーならバンダイも大きな模型を出してたし、去年のおもちゃショーでもウィズが500分の1とかの巨大な貯金箱を出していた。ほかにもわんさか出てきた中で、模型ではなく組み立て玩具のスカイツリーが取ったというところに、おもちゃというものに人が求める本質が見えたような印象。やっぱり遊べなきゃね。キャラクター部門はバンダイ系のメガハウスが出した「ONE PIECE」のヴィネット型のインペルダウン戦フィギュアが獲得。最近はバンダイも含めていっぱい商品が出ているけれど、ポートレート・オブ・パイレーツの頃からこだわってワンピを手がけてきた会社ならではの、1歩先を行く造形力が支持されたってこと。どうしてこんなのが出るってものも最近多いし、「ONE PIECE」。求めているものはなにかを探り、そこに作品への愛情を注ぎ込んで作る。本体ではなくメガハウスだから出来る技なのかもなあ。

 ガールズトイではリカちゃんのサーティワン・アイスクリームが獲得。モスバーガーだかミスタードーナツだかも出してたシリーズだけれど、アイスクリームってアイテムと、それから制服の可愛らしさが獲得の鍵になったのかも。次はフーターズを宜しく、ってリカちゃんであのフーターズの衣装でどこまで迫れるんだろう。そこは想像力で補おう。昔だったらアンナミラーズとか出たんだろうなあ。足りない分は綿を詰めろ、ってどこにだ。ボーイズトイは仮面ライダーの変身ベルトか。昔からあるアイテムだけれど何か違うんだろうなあ。ICチップがそこにも埋め込まれているというし。あらゆるものがゲーム機とかセンサーと連動していくことになるんだろうなあ。作る方も大変。いろいろ憶えないとついていけなくなるから。

 共遊ってコンセプトでは指先で操作できるトミカのラジコン。親子で楽しめるってことか。あとはアンパンマンの声が出る文字パネル。キャラの強さと仕掛けの良さ。人が遊びを形にしようと思い始めてから幾年月、あらゆるジャンルであらゆる玩具が出ては来ていても、そうしたものを超えて目新しさと面白さをもった玩具が、どんどんと出てくるからすごいというか。単にキャラクターに頼らない、遊びの面白さがそこに付け加わったものが生まれてくるところがすごいというか。まだまだいろいろ工夫できて発展できるんだってことを見せて貰った日本おもちゃ大賞。その受賞作も含めて最新のおもちゃに出合える東京おもちゃショーは週末に東京ビッグサイトで開催です。

 平日でも午後に3時間待ちとか聞くとなるほど人気の程も分かる松戸のグッドスマイルカフェが実施中の「魔法少女まどか☆マギカ カフェ」。そんなに料理の種類がある訳でもなくキュゥべえの顔をしたハヤシライスとか、お菓子の魔女の顔がはられたロールケーキとかくらいで、あとはジンジャーエールをベースに魔法少女たちのイメージカラーを底に鎮めたソウルジェムドリンクといったところ。「マクロスF」でナンジャタウンが展開したメニューの豊富さにとても及ばないけれど、それでもやっぱり人が来るのは、それも松戸なんて東京から遠い地に人が来るのは、それぞれの品がそれなりにファンの見たいものを見せてくれていることと、あとは店内がちゃんと飾られ気分にどっぷり浸れるこがあるから、なんだろう。

 見渡せばパネルが飾られ設定資料なんかが読めるし、台本も置かれてあってどんなものを手に取り面々が収録に臨んだのかがちゃんとわかる。天井からはありものではなく手作りのポスター類なんかが飾られ、それで名場面をたっぷり堪能できる。最後にはお菓子の魔女の巨大な人形の顔に首を突っ込んで、頭を囓られるマミさんの気分を味わえる。いや味わった途端に首が取れては問題だけれど、幸いにしてそこまで噛みつく力はないからご安心。決して華美ではないけれど、丁寧に隅々まで手を加えられてて行けばたっぷり「魔法少女まどか☆マギカ」の世界に浸って作品を振り返られる。トイレに行けば魔法少女とキュゥべえがお待ちかね。男子トイレを使いたかったら僕と契約してよ、って言われてあなたは契約する?

 いくらテレビで話題になったからといって、あるいはDVDやBDが売れているからといって、世間のすべてがそれ一色に染まっている訳ではないのが深夜アニメに立ちふさがる境界線。パチンコ屋の店頭に行けばエヴァのポスターが並び、マクロスの楽曲が流れるような、そんな状況には至ってない、っていうかそっち方面に走られるのもちょっと悩ましいけれど、ともあれ今、「魔法少女まどか☆マギカ」について共に語り、あるいはひとりで味わう場所を今、求めてもどこにもないなかで、そうした気分をすくい上げる場を作って提供してみせているってところが、人気の理由にあるのかもしれない。ファンが求めながらも、まだ形になっていないところに生まれるスキマの気分を、ちゃんと拾って形にして、提供している会社だからこその企画。商売っ気だけではない、作品への気持ちを拾い集めて発信できる力が、求められているって言えそう。マスコミにそれはできているのかな。いないからこそのこの有様なんだろうな。


【6月13日】 だから囲碁サッカー部って何をどうする部なんだってばよ。そんな「日常」は坂本さんがとりもちにくるまれ息も絶え絶えとなり、はかせも捕まって動けくなって絶体絶命の時に現れたなのまでいっしょに捕まって、いったいどうやって脱出したのか想像して坂本さんがおしっこしたとか、博士が盛らしたとかいったお下劣な想像も浮かんだけれど、本当のところはこんなこともあろうかとなのに備えられていた放水機能が稼働して、とりもちを解かしたに違いない。どこから放水ってそりゃあそこから。やっぱりお下劣。すいません。

 「スペランカー」にドラマあり。いやあまあきっとあのとてつもなく難しいと言われるゲームに挑んでは散っていった人たちのそれぞれに、涙と血と汗のドラマがあったかもしれないけれど、ここでいうドラマとは「スペランカー」というゲームその物のドラマ性。いやだって行けばすぐ死ぬゲームのどこにドラマがって話になるけど、師走トオルさんが描く「僕と彼女のゲーム戦争」(電撃文庫)で主人公の少年が、あらゆる書物にのめり込んでいく性質をただのアクションゲームで発揮させるには、そこにストーリーを作り、ドラマをつくって感情を移入し感覚を没入させる必要があった。

 すぐ死ぬってのはなるほど他のゲームではありえない話だけれど、いざ現実に目を向ければちょっとした高さでも落ちれば人は死ぬし、コウモリの糞だってそれが毒性の高いものならやっぱり死ぬ。世界というのは案外にシビアなものだと思えば「スペランカー」に描かれる世界はその延長、だから驚かず怒らずむしろ受け入れそこでどう生き延びるのかを考える方が正しい取り組み方ってことになる。いやそうでもないんだけれど、そう思わせたら勝ちってことで主人公が転校した元女子校で今は男子が10人しかいない学校で、生徒会長をやってる少女は考えて、「スペランカー」にドラマを作って少年を導き、素人にしては意外すぎる結果を出させてしまった。

 本当だったらゲームは大嫌いで本を読むのが好きな少年は、誘われそのまま仮ながらもゲームを楽しむ現代遊戯部へと入部。そして連れて行かれた秋葉原で、これまた初めてというシューティングゲームで初代チャンピオンを相手に互角以上の戦いを見せてしまう。負けた理由はゲームのアイテムの出し方に気付いてなかったから。それはもう本物以上なんだけれど、そこに気付いているのかどうなのか。どうやらプロローグではゲームにも慣れて圧倒的な強さを誇っているみたいなんで、立場を受け入れなおかつ前向きに取り組んでいる様子。そんな絶妙のカルテットが果たすのはどんなドラマなのか。少年が幼い頃に本を読んであげた少女は今どこに。いろいろ残した伏線の回収に期待。10万募金するつもりで100万募金してしまって青ざめた偉大な師走トオルさんのためにもヒットして1000万だって貯金できるくらいの印税を差し上げよう。

 青物横丁へと行ってパンダのパンをガラス越しに眺めてから、ブレードランナーに出てきそうなピラミッド型の建物に入って「機動戦士ガンダムAGE」の発表会を見る。すでにしてコロコロバレしている内容もそのままに、親子孫の三世代でもって未知なる敵と戦うというストーリーは、そんなに長い年月に及ぶ戦いでどうして人類は疲弊しないのか、人の心は荒まないのかといった疑問も浮かぶ。インドシナ戦争からベトナム戦争の終結を経てカンボジア国境との紛争に至るベトナムの大地は相当に痛み、人の気持ちも揺れ動いた。建国から中東紛争を経てテロを経験し今もガザ地区あたりで喧騒が続くイスラエルの人の心には戦って勝ち抜く鉄の意志が通っている。半世紀とか超える戦いは確実に人を変え、社会を変える。そういうものだ。

 「ガンダムAGE」の世界はそうなっているのだろうか。闇の勢力と戦うために引き継がれた剣を持った子孫たちが社会の裏側でひとり戦うのとは訳が違う。ガンダムという武器を持って人類を脅かす敵と戦うだろう設定で、長い戦いの中で人類や社会に一切の変化が起こらないというのは無理だろう。でもアニメーションのキャラクターとか見ると、孫になると余計に雰囲気がふんわりとして優しそう。戦いを運命づけられ鍛え上げられ荒んだ心に血塗られた手を持つ漢が1人といった面もちではない。これはどうしてなのか。そんな辺りに納得感の出る展開を、してくれるんだろうと今は信じるしかないんだろう。でなければ子供だけでなく大人だって楽しめるガンダムになるって監督の人の言が成り立たないから。さてはて。

 しかしやっぱり本質は子供狙いなんだろうなあ。ストーリーの良さでDVDやBDを買い、キャラクターの良さでグッズを買い、モビルスーツの良さでプラモデルを買う大人たちだけではもはや市場は立ちゆかない。子供の大量の消費があってこそのアニメであるといった定義に沿うように、ガンダムに出てくる操縦のためのアイテムがターミナルとして発売され、ICチップが埋め込まれたプラモデルが業務用ゲーム機と連動して新しい遊びを作りだし、さらなる消費を観賞を誘う。「デジモン」とかで打ち出した複合的な展開を、ガンダムというビッグプロパティーで繰り広げてはギミックが好きでバトルが好きな子供を引っ張り込み、改造なりバージョンアップでさらに消費させようとする意識が、商材や展開から見て取れる。それがガンダムか、という問いはだから今までの展開とは違うとしか言いようがないけれど、ガンダムがガンダムであるのはそのアニメの出来次第、なんでここでもやっぱり信じて放送を待つしかない。待ちたいあな。さてはて。

 石田敦子さんの「球場ラヴァーズ」第3巻も出て連載も「ヤングキングアワーズ」に引っ越してきたこともあってまとめ読み。広島弁を喋る眼鏡の美人OLと、可愛いアニメーターがスタンドにいて誘ってくれれば僕だってカープファンになるぜなるぜなるぜってなもんだ。本当か。とはいえ今のカープがいったい、どれくら応援するに値するチームかっていうと、順位は……。交流戦なら……。無言が続きそう。でもそんな痛みを僕は一昨年のJ1で味わった訳だし、J2からとりあえずJ1への復帰の目はあって、そこから優勝なんてしなくてもそこにいれば良いジェフ千葉を考えるなら、そこにずっと居続けるカープは存分に応援する価値はありそう。なので7月の東京ドームには、行って眼鏡のOLとアニメーターと高校生の3人組がいないか探そう。いるわけないか。


【6月12日】 一難去ってまた一難とは巧い引きだなあ、川原礫さんの「アクセル・ワールド8」(電撃文庫)は宮城に閉じこめられたアバターを救出に行ってとりあえずたどり着きさあ逃げ出すぞという流れの途中で、必殺技をドーピング的に得られる方法が問題化してハルユキの友人のタクムが暴走しかかるけれども、それをどうにか抑えてついでにひっぺがすことにも成功。そしてみんなで宮城脱出となってやったーと喜んでいたのもつかの間、知り合いがこてんぱんにされてしまってハルユキが、怒りの余りに内在していた災厄を目覚めさせてしまってもうどうにも止まらない。

 目覚めれば誰にもかなわない悪魔の力を暴走させてしまったからには、あとは浄化されるだけって運命。だけれどそこは主役のハルユキを、退場させる訳にはいかないだろうから誰か本当に辛い経験をさせつつハルユキを延命させ、またヒロインの黒雪姫も延命させつつ哀しみの向こう側にある未来をつかみ、大人たちの陰謀を暴露して誰もが幸せになる時を取り戻すことに成功……なんて展開ではちょっと甘すぎるかなあ。でもそうなってこその「アクセル・ワールド」。楽しみつつハラハラしつつ予定調和が作り出す美しいエンディングを望んでぺーくを繰り、巻き重ね続けよう。とりあえず黒雪姫に添い寝してもらえるハルユキにはそこに直れと説教。羨ましいなあ。

 起きられたんで文学フリマに行こうとしてその旨を綴ろうとしたら文具フリマって間違えた。何だ文具フリマって。オリジナルの文具を作って売るマーケットか。今はもう売ってない懐かしの文具を引っ張り出してきて並べるマーケットか。オリジナルなら封筒に便箋に絵はがきにタンブラーあたりなら手前で印刷して作れそう。ペンとかは厳しいか。オリジナルの硯とかあったら良いかも。表面に三国志キャラが描いている。中古だったらやっぱり懐かしい品々に出てきて欲しいもの。サンスターのアーム筆入れとか。裏と表に両面入れられる筆入れとか。ペンを指す場所がぐいーんと持ち上がる自動筆入れとか。筆入ればっかか。いやだって1番いろいろいじれるし。下敷きはせいぜいが透明下敷きくらいだもんなあ。

 あとはやっぱりロケットペンシルか。ロケットペンシル。何ですかロケットペンシル。知らないのかロケットペンシル。知りませんよロケットペンシル。売ってないのかなあ。というやりとりで有名なロケットペンシル。見たい人も多いんじゃなかろーか。でも代わりにところてんとか持ってきて売っちゃ駄目です。ご意見では文具フリマならややっぱり浅草の文具会館でやるべしって声が幾つか。なるほどピッタリ。でも古くて狭いのでアーム筆入れとセットになってる象を持ち込めないのが残念か。象に踏ませてこそのアーム筆入れだからなあ。隅田川の向こうから相撲取りを何人か寄越してもらうに止めるか。個人的にはBOXYの宣伝をやってたタモリさんの登場を希望。片目にアイパッチの密室芸人だったタモリさんをよく使ったよなあ、あの当時。

 30分前に到着するとまあまあな並び具合だった大田区産業会館で待っているとどんどんと伸びる行列にこれは「BLACK PAST」狙いかと思って身構えたけれども、開場早々はそれなりに出来た行列も30分ほどではけた様子であとは割にフリーに買えていた様子。でも午後にどうなったかは不明。虚淵玄さんと宇野常寛さんが「魔法少女まどか☆マギカ」のことも含めて対談していたり、十文字青さんに森田季節さんといったライトノベル方面で活動している人の作品が載っていたりと内容も充実、値段も上々な1冊とあってやっぱり抑えておかないといけないって心理が働いた。それで朝から出むいて行列この程度じゃあ肩すかしなんで、午後にきっと売り切れていたと信じよう。同じように買いに走った「アニメルカ」は完売となった模様。強いな岡田磨里さん。インタビューの分量ちょっと少ないと思ったけれどもまあ、いっか。

 松山剛さんのところに寄ったり橘ぱんさんの1冊を買ったり兎月竜之介さんのところを眺めたりしてライトノベル方面をさっと見て、それから鈴木円香さんという気合いの入ったハードカバーの1冊を出していた人のところで意気込みごと1冊を買って鞄がだいたいいっぱいに。「おしりを掻いている、そこのあなた」というタイトルじゃあお尻を掻いていた自分が買わない訳にはいかないじゃん、って別に掻いてはいなかったけれど。短い話がたっぷりはいっているみたいなんで眠りつつ微睡みながら読み進めよう。午後には有名人もいっぱい来て、時の話題になっていたりする人もいたようだけれど別に会っても何かが通う訳でもないんで適当なところで引き上げて、紀伊國屋サザンシアターで今日が千秋楽となる北区つかこうへい劇団の「飛龍伝」連続上映を見物。

 今日は2000年以降に演じられたバージョンの再演ってことで、これはつまりは2003年くらいに青山劇場で見た広末涼子さんが演じた「飛龍伝2003」のストーリーってことになるのかな、それ以前を見ていないからどこがどう違うのかってことは分からないけれども、その時に見た革命に入れ込んでいく少女と革命を弾圧する機動隊員の間に通う恋心を至上として、その周辺で学生も機動隊員も2人の純愛を成就させようと動き回る構図がどこか、「広島に原爆を落とす日」の恋愛という目的の前に悲劇すら美談にしてしまう力業とのつながりを、今になってちょっとだけ思い出す。

 なれ合いの果てにのっぴきならない状況となって体面から突っ込んでいって全員爆死の滑稽さ。だったらその上に恋愛というパッションを加えてどうだいこっちの方が格好いいだろうと見せつける。本音で生きろと突きつける。そんな思いがあったのかなあ。つかこうへいさんって人には。このパッションと諧謔にあふれた舞台を作った人の目には、映画になった「マイ・バック・ページ」とかってどう写るんだろう? あんな舞台を見てしまった僕の目には、時代に乗れず焦ったフェイクな者たちによる道化芝居、傷の舐め合いだったような印象が先に立ってしまう「マイ・バック・ページ」の映画がどう写るんだろう? やっぱり見に行かないといけないかなあ。

 筧利夫っていう圧倒的な役者でもって演じられる山崎一平といったい誰が比べられるんだという思いも誰にだって浮かぶけれどもそこはつかこうへいさんが見込んで育て上げた北区つかこうへい劇団の面々。今回に一平を演じた逸見輝羊さんは体型こそ太めで顔なんて神林美智子を演じた船越ミユキさんの倍くらいあったけれどもそれでもしっかりと喋りしっかりと動きしっかりと滑稽さも見せそしてしっかりと泣かせてくれた。そんな相手を得て船越さんも田舎娘から革命家へと変じつつ恋人であり母親であり娘であり女である神林美智子をどこまでもしっかり演じ抜いた。

 さすがはつかこうへいの名を冠する劇団の面々。他も誰も抜かず最後まで2時間半もの長丁場を突っ走って迎えたフィナーレに、勢ぞろいした面々の目が涙でにじんでいたことが、この劇団への深い愛情を示しているって言えそう。まだ少しだけ続くその名が迎えるフィナーレに、立ち会うことはできないけれどもその瞬間、心で喝采を贈りつつ、また逢えるね神林美智子に、山崎一平にと願って筆を置く。ああいや神林美智子にはやっぱり最後に網タイツで舞台に立って欲しいなあという願いを追加。


【6月11日】 たぶん会ったことはなく、強く惹かれていたということもなく、大勢いる声優さんのひとりとして認識していた程度ではあっても、その演じた役にはどれも強い思いを抱かされたということはつまり、役になりきり役を演じきってみせるアクターとしての資質を、どの作品でも最大限に発揮していたということ。役者冥利につきると役者でもない身で言うのは不遜だけれど、当人に届けばあるいは喜んでもらえたかもしれない感想が、川上とも子さんという人の場合は強く浮かぶ。

 中にはその声質なり演技のスタイルで、どの役をやっても声優さん当人のパーソナリティというものを滲み出させてしまう人もいて、それはそれで個性として強く尊重したくはなるけれど、誰かの描いたキャラクターを演じ、誰かの描いた物語を伝える役目こそが本分とするならば、むしろ誰が演じているということよりも、どう演じられているのかといったことの方が、アニメーションの場合、重きを持って語られる。その意味で、天上ウテナを演じれば、凛々しくも繊細で、時に純情な少女のキャラクターが真っ先に浮かび、ミトを演じれば、メイルスーツを着ている時には熱血的で愛情深げな大人であり、脱ぎ捨てれば子供っぽさを残しながらも、勝ち気で強気な海賊のキャラクターがやはり浮かぶのは、正しく演じられていることの現れと言える。

 大人の女性から小さい子供まで、あらゆる役を演じてその幅を示しながらも、特定個人として大きくクローズアップされることなく、縁の下の力持ち的な強さ確かさを、早い内からずっと見せ続けて来た声優の川上とも子さん。しばらく前から体調を崩し、さまざまな役を別の人が演じていたらしいけれども、それぞれの役が、おそらくは違和感なく次の人に引き継がれているということは、個人の個性でキャラクターを上書きするのではなく、キャラクターの内面を声で支えて持ち上げる役目を、しっかりと果たしていたということだ。そのマインドを引き継ぎ、メソッドに倣えば、キャラクターは同じキャラクターとして生きていく。

 人によっては代わりが存在してしまうその立場に、虚しさを憶えるかもしれないけれども、未だ声なき段階で、最初の担当としてその内面を探り、適切な声を作りだして動きに乗せていく作業ああったからこそ、後にもしっかりと引き継がれた。パイオニアとしての実績は何らゆらぐことはない。そして、同時代に強い印象を残し、後生に語り継がれていく強烈なキャラクターたちの存在感とともに、その声は聞かれ心に刻まれて、永遠に伝えられていく。生みだしてくれてありがとう。残してくれてありがとう。そんな言葉を送りつつ、川上とも子さんという声優の業績を讃えたい。見返したいなあ「少女革命ウテナ」。でもLDしか持ってないんだよなあ。

 まずは完結を喜ぼう。高野和さんの「七姫物語」(電撃文庫)が第六章「ひとつの理想」にてひとまずの幕。身よりのない少女が、野心を持った若い将軍と軍師の2人組に担ぎ上げられ、地方都市の姫となって成り上がっていく物語という形式から、どうにもギラギラとしたものを想像してしまいがちになるけれども、誰を退け誰を除いて屹立していくといった血生臭さとはまるで無縁に話は進み、巻を重ねるごとに7つある都市のそれぞれを率いている姫たちの思いを示し、今はこうならざるを得ず、そしてずっとそうであって欲しいと思わせる穏和さを見せながら、最後まで綴ってくれていた。

 この世知辛い世にあって、甚だ微温な終わり方。怨みと憎しみの連鎖が途切れない現実を見るにつけ、それは理想に過ぎると誰もが思わずにはいられない。けれども、理想を追わずして何ぞニンゲンか。何ぞ英知か。その優しさに包まれた時に人は、明日を心地よく過ごしたいと希う。その希望を誰しもが抱き感じて生きる世界をめざそうと思うのだ。たとえ今は厳しくても、強い思いを抱き続ければ、いつか理想が訪れる。そう信じる心の必要性を、高野和の「七姫物語」を読むことで、誰もが得て欲しいと願い思う。いったんの幕ということで、この後にあるいは苛烈な戦いが待ち受けていることも想像に難くはないけれど、それを超えてもなお、同じような優しい帰結が待っていると作者は言う。ならば今、ここで得られる感動を敢えて揺さぶる必要もない。完結を喜び、穏和な未来に微笑もう。

 もはや通俗を通り過ぎて愚劣さすら漂って来ているような。いやいやとっくに愚劣すら通り過ぎて惑乱の域に達しているのかも。「CDを5枚買って某嬢に投票した同僚の中年記者に聞くと、優勝者は、舞台で一番目立つ『センター』の位置に立つ権利を獲得できるんだとか」と書き記つつ、この事例を他の選挙に敷衍して語るということはつまり、金で票を集めることを正しい行為と認めていることに他ならない。そしてそれを語っているのが、公器を自認するメディアでも主張に続いて看板になっているコラムというからまったく訳が分からないよ。

 エンターテインメントがひとつの仕組みとしてそれを行うことは、あざとくはあっても犯罪ではない。裏側でこそこそと行われていたことを白日にさらし、逆手にとってみせた芸とも言える。けれども、エンターテインメントだらか許されるそいうした行為を引き合いに出した文章の末尾が、「首相を有権者が直接選ぶ首相公選制を導入する機は熟した」と結ばれているから驚きというか。1人が応援したいもののために何十票も金で買い、投票することを認めて良いということなのか。

 公平性とは無縁に、その施策とも関係なく、メディア的に話題になっている人間が、メディア的に話題だからと人気を集め、それがメディアで話題になるというスパイラルを称揚しているということなのか。そういうことへの配慮を1文、入れつつそれでもと前なら書いていただろう。ところが、最近は幾ら難でもと突っ込まれるだろうことへの配慮をまるでしないで、ただひたすらに言いたいことのためにあらゆる事象を持ち出し、過去の文献を引っ張り出しては、それを言いたいことのために摘んでみせる。それは摘まれた側にも失礼極まりない話。読む方だっていかがなものかと思っているなろうけれど、そうした訝りももはや聞こえず届かない域へと、入ってしまっているのかなあ。ああ伏魔殿。

 チーバくんだチーバくんを見に幕張メッセへと駆けつけたらチーバくんが現れ千葉県みたいな姿を見せてくれたぜラッキー。世にチーバくん好きは多いけれどもいったいどれだけの人がそんなチーバくんらしいチーバくんを間近で見られるというのだ。千葉県に住んでて良かったよチーバくん。千葉県を盛り上げるイベントが開催されてた幕張メッセにはほかに千葉県にちなんだキャラクターが大集合。したのはいいんだけれどもやっぱりどれがどれだか分からない。集まる人たいの反応もチーバくんだけはけた外れ。それだけチーバくんが強烈だったってことか。

 最初にメディアに現れた時は、千葉県を模しているってことの妙さ、色の赤さでただただ異形で異質な感じしかなかったのに、何年か経つうちにしっかり馴染んでしまったその成り上がりっぷりは、あるいはAKB48に似通ったところがあるのかないのか。研究したい。イベントにはあと東金のアイドルとかいうYASSA COMACHI SUPER7とかいうのも登場。5人なのに7とはいかに。出来て7年だからそういうそうな。ペッパー警部とか亜麻色とか古い歌に東金っぽい歌も披露。巧いもんだ。全体につるんでぺたんだけれどもフロントで歌っていた2人おうちのリーダーらしい方はなかなかに成長途上でこれからが楽しみ。何が成長途上かは禁則事項です。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る